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不登校はみな同じ対策か

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不登校はみな同じ対策かっと読んでいたブログがありました。

あさりさんが、15歳の息子さんの体調を治すため、奮闘する日々について書いておられた「母から見た不登校日記」です。

家から出られず、病院に行けないお子さんをなんとかして助けようと、さまざまな角度から研究を重ね、サプリメントを取り寄せておられ、お母さんの愛情がひしひしと伝わってくるブログでした。

CCFSの研究データや低血糖症の栄養療法、化学物質の問題、漢方薬なども参考にしておられて、不登校の医学的な側面について、ネット上で最も詳しいブログだったと思います。

しかし先日の「不登校は皆、同じ対策か」という記事を最後に、ブログを閉じられた(?)ようです。いつも励みにしていただけに残念です。これからも回復へと一歩一歩近づいて行かれるよう、心から願っています。

最後の記事では、不登校というだけで、親の対処が悪いからと言われたり、すべて否定されたりすることの辛さについて書いておられました。それについて、わたしには、かつて「不登校」と呼ばれた者の一人として書きたいことがあります。

不登校はみな同じ対策か

わたしは不登校がみな同じ対策で良くなるとは到底思えません。

学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)では、不登校が生じるのは、現代の教育制度が、子どもたちをすべて同じ鋳型にはめ込もうとしているためである、ということが指摘されています。

それなのに、再び子どもの個性を無視して、同じ治療の型にはめ込もうとするのは、過ちを繰り返しているだけに思えます。

不登校はそんな簡単な問題でも、軽いものでもありません。思春期特有の心の問題、子どもゆえの怠け、などという詭弁で片づくようなものではありません。時間の経過やカウンセリングですべて解決するはずはありません。

不登校は人生最大の危機です。それは、ただ精神的な葛藤があるから、というだけではありません。大規模な検査によって、不登校児の多くは、多大なストレスや不規則な生活のため、医学的・生理学的な、全身さまざまの異常に悩まされていることが明らかになっているからです。

だからこそ、三池輝久先生は不登校状態はほぼ全員が「小児慢性疲労症候群」状態だと述べました。慢性疲労症候群という病気について少しでも知っている人であれば、それがどれほど深刻な状態かすぐにわかるはずです。

慢性疲労症候群は万人に効果的な治療法がない病気です。ある人には効果がある治療でも、ほかの人には効果がないというのが当たり前です。回復した人は、運良く回復したにすぎません。回復しないのは対処の仕方が悪いからだなどと言う権利はだれにもありません。

症状の程度もさまざまで、中には、何年も家から出られなくなるほど悪化し、ベッドから身動きがとれない寝たきりの人もいます。たとえ死に至る病気でないとしても、アメリカの患者会のキム・マクリアリーが述べたように、重症化した慢性疲労症候群は「終身刑」です。

小児慢性疲労症候群とは

小児慢性疲労症候群という病気の「疾病概念」については、粂和彦先生(@morino_kumasan)のブログにはっきり書かれています。

怒りの病名としての「小児慢性疲労症候群」: 粂 和彦のメモログ怒りの病名としての「小児慢性疲労症候群」: 粂 和彦のメモログはてなブックマーク - 怒りの病名としての「小児慢性疲労症候群」: 粂 和彦のメモログ

三池先生が、不登校を慢性疲労症候群とみなしたのは、みな同じ治療で治るという意味ではなく、とても深刻な状態である、ということをはっきりさせるためでした。単なる思春期特有の心の問題ではなく、医学的な重症状態であることが分かる名前をつけるためでした。

そして、今の医学では十分に治すことができないとしても、医学界から見過ごされてきた不登校の子どもたちの体調に関する研究を進め、有効な治療手段をさまざまな方面から見いだすためでした。

学校に行けなくなった子どもたちを「不登校」というあいまいな名前で呼んで無残にも見捨てるのではなく、「小児慢性疲労症候群」という病気と定義して、医学的に治療しよう、と提案したのです。

慢性疲労症候群というのは、単一の病気を指す表現ではありません。これまでヒステリーや身体表現性障害というあやふやな括りでまとめられていた人たちの病的な疲労に注目し、積極的に研究していくために用いられている病名です。

今の医学では異常が見られず、「心の問題」として見放されている人たちを、はっきりした病気として捉えるために用いられている概念であり、研究が進めば、将来的にはさまざまな具体的な病名に分けられることになるでしょう。

同様に、小児慢性疲労症候群も単一の病態ではなく、多因子疾患として知られています。これまで「不登校」というあやふやな括りでまとめられていた子どもたちが抱える病的な疲労に注目し、医学的な課題として積極的に研究していく必要があることを示す概念です。

「不登校」というのは、かつて、子どもはどれだけ遊んでも疲れないと思われていたような時代につくられた古い考え方であり、医学による研究が進めば、さまざまな病態として、タイプごとに有効な治療法が見つかる可能性があるのです。

小児慢性疲労症候群という病名は、行き過ぎた社会の被害者である子どもたちを守るため、そして医者として正当に助けを差し伸べるため、「不登校」というレッテルの代わりに与えることを意図された名札です。

小児慢性疲労症候群と診断されたら、とりもなおさず、適応障害や起立性調節障害、概日リズム睡眠障害などではない、ということではありません。それらは診断基準上、除外する疾患には含まれていません。

つまり、小児慢性疲労症候群という病名そのものが、不登校は深刻な医学的問題であり、同時にみな同じ対策で解決されるはずがない、ということを表しているといえます。

「慢性疲労症候群」という名札が与えてくれたもの

以前にも書いたことですが、もし「慢性疲労症候群」という病名がなかったら、わたしは今ごろどうなっていたかわかりません。

当時わたしは生きていはいても死んでいるような状態で、ほとんど痛みや疲労にのたうっている毎日でした。テレビゲームばかりやっていましたが、そのゲームでさえ、少し遊ぶと頭も体も疲れ果てました。それでも、周囲からは単なる「不登校」とみなされていました。

学校の先生が学校を休み始めれば、周囲は何か病気かもしれない、と心配します。しかし生徒が休み始めれば、「不登校」であり、「心の問題だろう」とみなされます。どれほどまじめで、どれほどいい学校に通っていた子どもでもそうです。

それが、「不登校」という古い概念の恐ろしいところです。そのようにして、多くの子どもたちを仮病呼ばわりし、悲痛な訴えを葬り去り、生き埋めにしてきたのです。子どもたちがどんなことを訴えようが、「不登校」のひと言で片づけることができてしまうのですから。

最初にCFSの専門病院を受診したとき、わたしは死力をつくして、なんとか家から這い出て…いえ、むしろなんとか連れだされて、やっとのことで診察を受けることができただけでした。

そのときの記憶は何も残っていません。診断結果を聞く日には、自分で病院に行くことができず、家族が代わりに聞きに行きました。それほど弱り果てていました。

しかし、わたしにとって、「不登校」というレッテルの代わりに、「慢性疲労症候群」という名札を与えてもらったことが確かに転機となったのです。

慢性疲労症候群という医学的な名前で呼ばれたことにより、さまざまな治療法の手がかりが得られました。

不思議なことです。「不登校」だと、精神科によるカウンセリングしか手がないようにみなされるのに、「慢性疲労症候群」と呼ばれた途端、睡眠治療や栄養療法、漢方薬などの治療がはじまるのです。わたしはほどなくして日常生活をいくらか楽しめるくらいまで回復しました。

そして何より嬉しかったのが、この病名を通して、多くの人と知り合えたことです。病名がつけば、同じ境遇の人とつながれます。同じ病名だからいって打ち解けることができるとは限りませんが、ここでもわたしは恵まれていました。

最初に出会ったのは、30歳以上も年上の「お父さん」のような人です。とても親身に気遣ってくれて、病気に対処する心構えをたくさん学びました。わたしは精神的な平衡を取り戻すことができました。

その後も、気さくな「お姉さん」や頼りになる「お兄さん」、ほとんど同じ年の双子のような友だちと出会いました。今では「弟」や「妹」もいます。

不登校になって、人間関係も、学歴も、人生もすべてを失ったわたしにとって、「慢性疲労症候群」という名札が与えてくれた家族だけが心の支えでした。

「不登校」「CFS患者」

わたしが病院を受診でき、CFSと診断され、専門医とめぐりあえたのは、そして、今、体調がある程度回復できているのは、あのとき運が良かっただけなのです。もしかすると病院まで行く元気もなく、診察すら受けられない、ということもありえたのです。

そうしたら、今ごろわたしはどうなっていたでしょう。きっとただの「引きこもり」と呼ばれていました。「引きこもり」と呼ばれていたら、どうして良い治療が受けられたでしょうか。どうして、理解してくれる医師や、家族のような友人と巡り会えたでしょうか。

小児慢性疲労症候群(CCFS)のパフォーマンス・ステータス(PS)では、PS0-2が登校群、3-8が不登校、そのうち、特に6-8が引きこもりに相当するとされています。わたしが一番重いときは7でした。

パフォーマンスステータス

わたしは今、「CFS患者」と呼ばれています。しかし、あの日病院を受診できていなければ、「引きこもり」と呼ばれていたかもしれません。何の回復の手がかりも得られていなかったかもしれません。その差は紙一重なのです。

引きこもりと慢性疲労症候群の差が紙一重なら、つまり、どちらの名前で呼ばれるかが、ちょっとした時の運で左右されるのなら、どうしてすべての不登校が、時間とともに、あるいはカウンセリングといったみな同じ対策で治るといえるでしょうか。

病院に行くだけの気力や体力がないまま思春期を過ごし、「慢性疲労症候群」という病名すら得られぬまま、「不登校」や「引きこもり」、「こころの問題」という汚名をかぶせられて、周囲から冷たい目で見られている親子は大勢いるのです。

今、成人型のCFSの患者の方たちの間で、「慢性疲労症候群」という病名に不満を感じ、病名変更運動が行われているのは知っています。

しかし、過去のわたしを含む、不登校の子どもの場合は、それ以前の問題なのです。慢性疲労症候群という病名が無ければ、わたしたちは「不登校」、「引きこもり」、「仮病」とみなされる以外にないのです。それはとても差別的なレッテルです。

特に、粂先生も上記のブログ記事の補足3で指摘しておられることですが、一部のパターンの不登校は、社会からの「虐待」としか思えない状況で発症します。それを心の弱さゆえの「不登校」と呼ぶことは、子どもに責任を押しつける言い逃れです。

社会的虐待として考える小児慢性疲労症候群(4)社会的虐待として考える小児慢性疲労症候群はてなブックマーク - 社会的虐待として考える小児慢性疲労症候群(4)

もちろん、すべての「慢性疲労症候群」を「筋痛性脳脊髄炎」と呼ぶことに難色が示されているように、すべての「不登校」を「小児慢性疲労症候群(CCFS)」と呼ぶことは不可能でしょう。しかし、「不登校」という概念がもたらした考え方を変えることはどうしても必要です。

大人は疲れることがあっても、子どもは疲れることなどない。教職員が学校を休み始めたら病気ではないかと心配するけれど、子どもが学校を休み始めたら、怠けに違いないと決め込む。大人は過労死することがあるが、子どもは過労死することはない…。

そんな不自然な考え方を改めるべきときが来ているのだと思います。

疲れ果てた子どもを「不登校」「引きこもり」とみなすなら、希望がなく、ただ見守るしかありません。しかし、「小児慢性疲労症候群」と捉えて医学的な研究が進めば、治療できるかもしれません。

起立性頻脈であれ、脳脊髄液減少症であれ、シックスクール症候群であれ、疲労を伴う子どもの見過ごされやすい病気はいろいろあります。それらが「不登校」というたったひと言で片付けられ、時間が経てば治る心の問題のみなされてしまうとしたらとても悲しいことです。

不登校がみな同じ対策で良くなるはずがない以上、小児慢性疲労症候群(CCFS)という医学的な問題として研究が継続され、さまざまな対策が見つけられなければならないのです。

医学的な治療を受けられるかどうかが、そして将来を取り戻せるかどうかが、ちょっとした運によって左右されるような時代は、もはや終わらなければならないと思います。


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