18~25歳までの男女355名を対象に2003年に試みたアンケート結果では、「絵を描くことが好きですか」の質問に、「嫌い」と「今は好きだけど嫌いになったことがある」と答えた人を合わせると47%という結果が出ています。
これはまだ少ないほうで、ほかの調査では70%以上が「嫌いである」という結果が出ています。将来、保育者や教員となる養成大学の学生を対象にした調査においても、同様の数字がでています。(p91)
この調査結果を見て、驚く人もいれば、納得する人もいるでしょう。絵を描くのが嫌いな人にとっては、さもありなんといった数字です。
しかし絵を描くことが好きな人、あるいは、のびのびと絵を描く子どもたちを知っている人は不思議に思うでしょう。なぜ子どものころはだれでも絵を楽しく描いているのに、学校を卒業するころには嫌いになっているのでしょうか。
これは単なる年齢による好みの変化とは考えられません。これから見ていきますが、学生時代に経験した、大人との関わりによって、ある子どもたちはトラウマを抱えるようになるのです。
子どもたちから絵を描く想像力を奪ってしまう原因は何なのでしょうか。再び絵を好きになるにはどうすればいいのでしょうか。 子どもが絵を描くときという本を紹介したいと思います。
これはどんな本?
この子どもが絵を描くときという本は、美術教育研究者、作家の磯部錦司(いそべきんじ)さんによる、絵を描くことに関する総合的な本です。
磯部さんは、世界各地の子どもたちとの絵を描くワークショップを通して、なぜ人間は絵を描くのか、といった疑問に迫っています。
この本の中には、フルカラーでさまざまな子どもたちの絵が引用されています。中にはチェコの子ども、デンマークの子ども、9.11同時多発テロを経験した子ども、テレジーン強制収容所の子どもの絵も出てきます。
子どもたちの絵を通して、わたしたちが絵を描く理由を再確認させてくれる、絵描きにとって役立つ良書です。
絵を描くことが嫌いになった子どもたち
絵を描くのが嫌いになる理由はいろいろありますが、幼児期からすでに嫌いな人は、たった1割弱にすぎないそうです。ほぼすべての子どもは、もともと絵を描くことが好きなのです。
では、何がきっかけで、絵を描くことが嫌いになってしまうのでしょうか。さきほど挙げたアンケートでは、その調査もされています。学生時代に絵を描くことが嫌いになった人たちは、その理由を次のような言葉で表現しました。
■私の隣で描いている友達に「上手に描けているね」と誉めているのに、先生は、私に対しては「もっとここをこうしたほうがいいよ」と注文をつけてくるだけだった。
■比べられて自分の絵が劣っていたら、自分も否定されているみたいで悲しくなった。比べられることがなければ好き。
■強制的に描かされて余計嫌いになった。
■思い描いた絵と、実際に描いた絵のギャップが激しくて自分は下手だと思った。
■それまでは、上手や下手に関わらず好きだったが、自分が上手じゃないと自覚し始め嫌いになった。
■絵というものが評価される対象であると感じてしまった。
■楽しんで描くことよりも、技術を要求されるようになった。
■まわりの人の絵を見ていろいろと考えちゃってから苦手になってしまった。形のあるものを描くのが苦手になってしまったから。
■「こういうふうに描きなさい」とか先生にいわれて、自分の描きたいような絵が描けなかった。自分の絵より先生の絵みたいに思った。
■自分が気に入っていても通知表の点数が悪かったり、成績がよくなかったから。
人によって、さまざまな理由があることがわかります。これを読んでくださっている方々も、きっと、自分の場合はこうだった、と思い当たることがあるでしょう。
絵を描くことが嫌いになる5つの理由
上に引用したさまざまな意見から、絵を描くことが嫌いになる理由を5つの項目にまとめてみました。それぞれ、自分や自分の子どもはどうだろうか、と考えながら読んでみてください。
1.上手、下手という言葉で評価される
大人が子どもの絵を褒めるときによく使う、「上手に描けたね」という言葉にある、感性の乏しさを感じざるにはいられません。
…つまり、絵というものが「上手、下手という見方や価値観」に支配されてしまっているということです。
上手、下手という評価は、「正しいか間違いか」「◯か×か」という、二つの対比することを比較して判断しようとする見方で、それは、答えをさまざまに求めようとする考え方(多答主義)ではなく、一つの答えを求めようとする見方(一答主義)につながります。
絵というものまでが、これまでの教育の中や子どもたちのまわりで、そのように取り扱われてきたことがうかがえます。(p100-101)
わたしたちはだれでも、絵を見るのは好きです。いろいろなジャンルの絵を見ますが、どんな場合でも、まず出てくる言葉として多いのは「上手いね」「下手だね」という感想でしょう。
自分の子どもや友だちの絵を見るときでも、ついつい「上手いね」という感想が口をついて出てくる場合があります。「下手だね」ということを口にするのはめったにないでしょうが、「上手いね」という褒め言葉は頻繁に使います。
これが一種の落とし穴となっています。
はじめに取り上げた、絵が嫌いになった人たちの声を読むと、隣の子が「上手」と言われたときに、直接「下手だね」とは言われていないのに、自分は下手なんだ、と認識してしまった人がいました。
「上手」という言葉は、そう言ってもらえない人にとって、無言の「下手」という評価を連想させるのです。
「上手」「下手」という二極の評価しかないことを感じ取ると、自分が「下手」な部類に属すると感じた人たちは、傷ついて描くのをやめてしまうでしょう。
以前取り上げた本芸術がなぜ認知症を改善するのか。 (コミュニティ・ブックス)の中で、彫刻家の金子健二さんは、『自分は「上手」という言葉を使わないようにしている』と述べておられました。
その代わりに「柔らかい」という言葉で褒めることが多いそうです。「上手」という言葉は、その反対にある「下手」を想起させてしまうからです。
2.他の人と比較される
ある新聞のコラムで、「走ること」を例に、次のような投書がありました。
「私は幼いころから走ることが嫌いで、だから運動会が嫌いでした。でも、本当に走ることが嫌いだったのかよくよく考えてみると、本当は、走ることが嫌いなのではなく、人前で遅いことを比較されたり、さらされたりすることが嫌いで、走ることそのものは好きであったと思うのです」(p108)
この経験談は、絵を描くことにも応用できます。最初に挙げた絵を描くことが嫌いになった理由の中には、「比べられることがなければ好き」という意見がありました。
絵は本来ひとりひとりがのびのびと描くものですが、何でも序列をつけようとする今の社会では、個人の成績を評価する道具に使われてしまっています。
たとえば、学校で描いた絵は「◯◯賞」に応募され、「優秀な」受賞作品が選定されますし、そうでなくても、授業の一環として、AやBといった評価付けがされたり、美術の成績表として五段階通知で評価されたりします。
自分ではよく描けたと思っていても、別の子の作品が賞に選ばれたり、先生から厳しい評価を受けたりすると、がっかりしてしまうでしょう。
また、今の時代は、pixivをはじめ、絵を評価されるSNSという場があります。SNSに参加する前は、楽しく描いていたのに、試しにSNSに投稿してみたところ、まったく評価してもらえず、絵を描くのが嫌いになってしまう人もいます。
あるいは、絵を評価してもらえても、いつの間にか絵を描く目的が、高い評価を得ることにすり替わってしまい、次第に描くことに疲れてしまう人もいます。
絵を点数付けするという文化は、「上手」「下手」という言葉と同様、数字やランクの優劣という二極によってのみ絵を評価するので、多くの人の心に傷をもたらすことになるのです。
3.親や先生に指図される
子どもが緑色で顔を塗ろうとしていると、先生がその子の持っている緑色のクレヨンを「お母さんの顔は肌色よ」と、肌色に持ち替えさせるということも現実にあるということです。
なぜ、すべてのお母さんの顔が、化粧品のファンデーションのような同じ肌色で塗られなければならないのでしょうか。
緑で塗りたい子にはその子なりの理由があるはずですし、輪郭線の中を無理に塗りこむことなくそのままにしておきたい子もいるはずです。これは勝手な先生の思い込みを、子どもに押しつけているにすぎません。(p96)
三番目のタイプは、親や先生が、絵の描き方を押しつけてしまうというものです。子どもの持つ独自の世界を否定し、大人の価値観を押し付けるのです。
本来、絵の世界は、いろいろな表現があってよいものだと思います。印象派のように、目に見える景色そのままではない、個人の印象としての色や形を用いてもよいのです。
ところが、ほとんどの大人たちはそのことを理解していません。多くの人にとっては、目に見えるものがすべてであり、真実です。
ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)によると、目に見えるものがすべてという思い込みは、心理学で“what you see is all there is”の頭文字を取って、WYSIATIと呼ばれます。
赤いリンゴを青く描くようなことは「間違い」であり、人の顔は肌色に塗ってはじめて「正解」なのです。
そうすると、自分独自の感性を持って絵を描いている子どもの芽が摘み取られてしまいます。子どもの豊かな表現が、大人の価値観によって狭められてしまうのです。
そうして指図されると、最初の絵が嫌いになった理由の一覧にあったように、「強制的に描かされた」「先生の絵みたいに思った」と感じる子どもが出てくるでしょう。
このとき、特にとばっちりを受けるタイプの子どもに、色覚異常を持つ子どもがいます。独特な色使いをするので、先生から注意を受けますが、その背後にある色覚異常には気づかれません。
すると子ども心に大きな傷を負い、その後の社会生活においても支障をきたすことがあります。
有名な例では、ゴッホも色覚異常があったのではないか、という説があります。もし、彼が、子どものころに先生から独特な色使いについて怒られてしまっていたら、彼の芸術は生まれなかったかもしれません。
また世の中には4色型色覚を持つために、常人と異なる色使いを含める人も、ごく少数ながらいるそうです。
4.大人社会が写実画を要求する
ハーバード・リードの考えを引用すれば、子どもはそもそも成長するに従って写実的になるというのではなくて、社会や文化的背景が写実を志向し必要とするから写実的になるのであって、子どもの絵は本来、「視覚的写実主義の法則によって決定されるのでなくして内部の主観的感情あるいは感覚の圧力によって決定される」ものであるのではないかとしています。(p101)
大人が、子どもに絵の価値観を押し付けるのは、何も色や形においてだけではありません。写実主義を美化する風潮というものがあります。
不思議なことに、多くの人は、写実的な絵というものを好みます。実物にそっくりな写真のような絵を見ると「上手い」と感嘆します。
それに対してアニメ調の絵や、独特の感性が現れたスタイルの絵は、なかなか理解してもらえません。そうした絵を、そもそも芸術としてみなさない人たちさえいます。
しかし、写実主義というのは、人間が本来描く絵画ではありません。
人間の子どもは、だれでも、最初に絵を描くとき、写実主義から入るわけではありません。たいてい意味のない塗りたくり(スクリブル)から入り、次にシンボル画に移ります。たとえば棒人間、顔人間といった絵で家族や自分を描きます。
それらは、自分の感情や感覚を表現する絵であって、人間として自然なものなのです。
写実主義の絵画が出てくるのはもっと後です。写実的な絵画を描くにはデッサンの練習など、多くの訓練を要します。それは人間の基本的な機能に沿った絵ではないからです。
ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待 (岩波科学ライブラリー)という本にはその理由が書かれています。
人間は、言語を獲得したことにより、目に見える情報を取捨選択して、解釈し、シンボル化するようになりました。そのため子どもはまずシンボル画から入ります。
しかし写実画は、目に見える情報をそのまま紙に写しとることが必要です。そのためには、見た情報を解釈し、言語化する能力は余計なので、制限しなければなりません。そのような認知力の訓練が、デッサンなのです。
デッサンは、手技的な訓練なのだと思われがちだが、むしろ記号的な見方を抑制して、直感的なモノの見方を身につける認知的な訓練でもありそうだ。(p57)
これを証拠付けるものとして、ときおり言葉を話せない自閉症の患者の中に、超細密な写実画を描ける人たちが存在します。たとえば、スティーブン・ウィルシャー(Stephen Wiltshire)などのサヴァン症候群の人です。(p54)
大人たちが持つ、写実画へのあこがれというのは、こうした、サヴァンに見られるような特異な能力へのあこがれということができます。写実画を描くには高度な訓練や生来の特殊能力が必要なので、自分にはないものにあこがれるのです。
しかしそのようなあこがれを子どもに押し付けて、自由なのびのびした絵を捨て、写実主義を目指すように圧力をかけてしまうのは、果たして有益なことでしょうか。
そうした子どもたちは、単に期待される写実的な絵が描けないというだけで、「技術を要求されるようになってしまった」と感じ、絵を描くことが嫌いになるかもしれないのです。
5.自分の理想と違う
最後に取り上げる5番目のパターンは、少々特殊です。最初に挙げたいろいろな理由のうち、「思い描いた絵と、実際に描いた絵のギャップが激しくて自分は下手だと思った」という意見が該当します。
だれか大人に下手だと言われたわけでもなく、写実主義を志したわけでもなく、自分の中にもともとあるイメージを表現したいのに、その技術がないことにがっかりしてしまうというタイプです。
こうした子どもは、すでに描きたいイメージが心の中に明確に存在しています。しかしそれを納得のいくように表現することが難しいのです。志が高いともいえるかもしれません。
これは、絵を描くことが嫌いになる理由の一つとして挙げられていますから、一見マイナスポイントのように思えます。しかし必ずしもそう言い切れる要素ではありません。
自分の中に、描きたいと思い描いているイメージがある子どもは、時折うまく表現できず挫折しますが、描きたいという情熱は、繰り返し挑戦する原動力にもなります。
はじめのうちはギャップがありすぎて残念に思いますが、あきらめず描き続けていくと、思い描いたイメージと、紙に描けた絵との溝が少しずつ埋まってきます。そうすると、上達する楽しさに目覚め、より納得のいく表現を目指して努力することもしばしばです。
この5番目の理由に限っては、一時的に絵を嫌いになる理由にはなっても、決定的に絵を嫌いになる理由にならない場合があると思います。
子どもが絵を否定されて感じること
子どもにとって、絵を否定されることは、それが直接的な「下手」という否定であるにしても、ここで見てきたような間接的な否定であるにしても、どちらも単なる絵の否定以上の意味をもって、心に突き刺さります。
この本にはこう表現されています。
それは技術的な問題よりも、「自分を受容してくれていない」とか「認めてくれていない」というように、絵が否定されることによって「自分の存在までが否定されている」ように受け取ってしまっているからではないでしょうか。(p93)
子どもにとっては、「絵の否定」=「自分の否定」なのです。そのような強いトラウマになるからこそ、70%の人は絵が嫌いになってしまうのです。
絵を描くことで、単に作品が否定されたにとどまらず、「自分」を否定されたというトラウマが心の奥底にあるとしたら、その後の人生で絵を描く気持ちが湧かないとしても当然ではないでしょうか。
残念なことに、最初に引用した調査によると、将来、先生や親になる人たちまでが、そのような気持ちを抱いていることがわかります。それでは、次代の子どもたちにも、同じ傷をもたらしてしまう負の連鎖が生まれるでしょう。
それを避けるために、つまり、もう一度 絵を描くことを好きになって、子どもたちといっしょに楽しく絵を描くにはどうしたらよいのでしょうか。
ここまで考えてきた、絵を描くのが嫌いになる理由の裏返しになる認識を育てましょう。
他の人や子どもの絵を見たとき、「上手」という感想を言うのをやめましょう。もっと感性豊かに、ほかの言葉を探して褒めてあげましょう。また、自分は「下手」だと思わず、気軽に何かの絵をのびのび描いてみましょう。
■絵を比較しない
絵を鑑賞するとき、隣にある絵や、自分の絵と比較する癖をなくしましょう。その絵だけに集中して、何を感じるか黙想します。
■なぜそう描かれたのか考える
他人の絵を見たとき、ここはおかしい、と思うのではなく、なぜこのように描いたのだろうか、と考えるようにしましょう。たとえば普段と違う色使いがされているとしたら、作者は「間違い」でそうしたのではなく、理由があってそうしたはずです。その理由を考えてみましょう。
■写実画以外にも興味を持つ
写実主義の絵は確かにすばらしく見えますが、絵の表現には、もっといろいろなスタイルがあります。偏見を捨てて、いろいろな絵の良さを感じてみましょぅ。自分には理解しにくいスタイルの絵でも、じっくり向き合う感性を育てましょう。
■描きたい絵をのびのび描く
描きたい絵があるのに、技術の不足で描けないと感じているなら、それは今の時点では仕方ないことを認めましょう。「上手く描こう」という観念を捨てて、楽しく描いているうちに、徐々に自分の納得のいく絵が描けるようになるでしょう。
そのほか、絵を描く情熱が衰えてしまっているというときには、以下の記事の末尾にあるエピソード集にも目を通してみてください。きっと、励みが得られることと思います。
この子どもが絵を描くときという本は、絵を描く理由を見失ってしまったときに読むと、原点に帰らせてくれる力があります。子どものときに、心底楽しく絵を描いていたあの頃の気持ちを思い起こさせてくれます。
趣味や仕事で絵を描いている人はもちろん、絵を描く情熱をどこかに置き忘れた人、絵を描く子どもたちに寄り添う仕事をしている人には、ぜひ読んでほしい一冊です。きっと、内に秘めた絵心を新たにしてくれるに違いありません!