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発達障がいの人が知っておきたい「多様性」とは何か「本当の公平」とは何か

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 の世の中には個性的な人がとても大勢います。個性的な人の中には、いわゆる「発達障害」という診断を受けている人もいます。

そうした人たちが、自分の特性を「障害」ではなく「個性」として生かしていくために必要なのはなんでしょうか。

わたしはそのポイントの一つは、本当の意味での多様性や公平さについて理解を深めることだと考えるようになりました。

最近、自身もLDまたADHDであるLDの専門家、上野一彦先生の本、LD教授(パパ)の贈り物――ふつうであるよりも個性的に生きたいあなたへLDを活かして生きよう―LD教授(パパ)のチャレンジを読んでいて、いろいろ考えるところがありました。

本当の多様性や公平さとは何なのか、それについて知ることが、なぜLD(学習障がい/限局性学習症)、ADHD(注意欠如多動症)、ASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)などの発達障がいと呼ばれる人たちにとって役立つのか説明したいと思います。

これはどんな本?

一冊目: LD教授(パパ)の贈り物――ふつうであるよりも個性的に生きたいあなたへ
二冊目: LDを活かして生きよう―LD教授(パパ)のチャレンジ

この二冊は、どちらも、LDの専門家 上野一彦先生が、自分のLD体験を通して、発達障がいなどの強い個性を持つ人たちに役立つ、さまざまなアドバイスや考え方をまとめている本です。

自分がLDでないとしても、考え方や視野の幅を広げる助けになり、心を豊かにしてくれる本だと思います。

魚に木登りができるのか

「多様性」や「個性」が大切だ、という人は、世の中にとても多くいます。もしアンケートを取ったら、半数以上の人がきっと、個性的であることは大切だと答えるでしょう。

しかし、世の中を見てみれば、大半の人は、口では「多様性」の大切さを説いても、行動では、「多様性」を望んでいないことがわかります。

セブン-イレブンの創業者は、著書鈴木敏文「逆転発想」の言葉95 なぜセブン-イレブンだけが強いのか (PHPビジネス新書)の中でこう述べました。

今は『多様化の時代』と、誰もがしたり顔で話します。しかし、今の日本のどこが多様化なのでしょう。

誰かが『多様化』という耳に心地よい言葉を使うので、みんな、多様化、多様化といっているのであって、私が商売を通じて見る日本人の姿は、明らかに『画一化の時代』です。(p57)

たとえば以下のような例を考えてみてください。

■手作りのものより、工場で統一規格のもとに大量生産した既成品が市場を独占する
■どこに行ってもチェーン店ばかり
■流行のしかけ人たちは、みんなが同じ流行に乗り、同じブランドを愛するよう仕向ける
■すべての子どもが、同じ制服を着せられ、同じ教育を施される
■ロボットのように口答えせず機械的に作業できる人材になることが求められる

もちろんさまざまな例外はありますが、こうした画一性の推進によって、衰退してしまった文化や、事業、不適応を起こした個人がたくさん存在するはずです。そして、それが推進されたのは、人口に膾炙したからでもあります。

この世の中では、画一性が好まれがちです。特に日本の社会では、「みんな同じ」であることが求められていると言われています。  

このような風潮は、以前に、以下のエントリで、とてもわかりやすい風刺画で説明されていました。(画像があるので、リンク先をご覧ください)

「今の教育って、つまりこういうことだよね」1枚のイラストで説明:らばQ

簡単にいうと、次のような場面です。学校の場面ですが、生徒は動物たちです。生徒は鳥、チンパンジー、ペンギン、ゾウ、魚、オットセイ、犬が並んでいます。先生は彼らにこう言います。

「公平に選ぶために、全員に同じ試験をします。
:そこにある木に登ってください」

この風刺画は、前にも紹介した、アルベルト・アインシュタインの次の言葉を思い起こさせます。

'Everybody is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid.'

みんなすごい才能を持っている。でも、魚を木登りの才能で判断していたら、魚はバカだと思い込むような一生を送るだろう。

興味深いことに、アインシュタインも、LDなどの学習障がいやアスペルガー症候群などの傾向を持っていたと言われています。数学以外ができなかったので、大学入試に失敗したことはよく知られています。

人間には、それぞれ、とても多様な個性があります。その才能も、持って生まれた思考の傾向もさまざまです。

それなのに、多くの子どもは、生まれたときから、同じ方法で育てられ、まったく特性の違う子どもと一緒のカリキュラム、つまり「木登り」のような同じものさしで評価される教育を受けます。

日本では、しばしば独創的な人や個性的な人が登場しないことが嘆かれていますが、それは当然の帰結ではないでしょうか。

つまり、同じ工場の生産ラインで育てられた結果、みんな同じ型にはめ込まれ、同じ考え方をするように教えこまれ、どうしても型にはまらなかった人は不良品として捨てられてしまっているのです。

タイプライターを大量生産している工場から、ときどきiPadができることを期待するのは、まったく道理に合わない愚かなことだと思います。

あなたの「公平」は本当の「公平」ですか?

先ほどの風刺画の中で、先生は「公平に選ぶために」異なる動物たちに同じテストを課しました。このことからわかるのは、多くの人が「公平」とは何かを勘違いしているということです。

世の中の「公平」とは、多くの場合、すべての人に同じサービスを提供することだと考えられています。

すべての子どもに同じカリキュラムを、という考え方もその一つですし、さまざまな福祉や公共のサービスも、おおむねその考え方に添っています。

しかし、次の二つの例のどちらが公平なのかを考えてみてください。

■まったく違う体格を持つさまざまな人に、同じサイズの服を着せる。
■あらゆる人の体格に合わせた服を一人ひとりオーダーメイドする。

ひとつ目が世の中で広く受け入れられている「公平さ」です。うまく立ち行かないのも当然です。

当然、2つ目のほうが公平なはずです。本当の意味での公平とは、画一化された規準に人々をあわせることではなく、人々に必要に合わせて、柔軟にやり方を変えることなのです。

LDとディスレクシアをテーマにした映画に2005年の「イン・ハー・シューズ」(In her shoes)というものがあります。

そのタイトルが意味するところは「自分に合った靴探し」です。LDやディスレクシアの人には、みんなと同じサイズの靴ではなく、オーダーメイドの靴が必要なのです。

- イン・ハー・シューズ - IN HER SHOES -

上野一彦先生も、LD教授(パパ)の贈り物――ふつうであるよりも個性的に生きたいあなたへでこう述べています。

公平というのは機械的な平等ではない。

…かつて、みんなが同じであれば平等だという風潮が強い時代があった。平等という考えが成熟していない、まさに機械的な平等主義に、先生もそして子どもも支配されていた。

その時代に、みんなと少しでも違うところがあると、いじめられるという現象も見られるようになったという。子どもたちは、個性的であろうとするよりも、「ふつう」の背景のなかに溶け込もうとするのである。(p110)

ここでは「かつて」と言われていますが、わたしにはそれが過去のものだとは思えません。今でさえ、機械的な平等主義は幅を利かせているのではないでしょうか。

もちろん、だからといって、統一された規準が必要ない、と言っているわけではありません。たとえば、交通法規が存在せず、それぞれのドライバーに合わせて交通ルールがカスタマイズされていたら、大混乱です。

必ず画一化された規準が必要だ、と考えるのが極端なら、何の規準も必要ない、と考えるのももう一方の極端です。人間は往々にして、どちらか一方の極端に走りやすいものです。

もし駅で電車に乗るとき、どちらのホームにも、正反対の終着駅まで停車しない特急列車しか来ないとすればどうでしょう。極端に走るとはそういうことです。

公平さというのは、極端なやり方で自動的に達成できるものではなく、もっと頭を使った柔軟な対応が求められるものだといえるでしょう。決して楽ではないのです。

「白か黒か」の世界

多様性を考慮せず、極端に走る、という意味で、世の中には、「白か黒か」を選ぶように求める圧力があります。

たとえばアイルランドでのカトリックとプロテスタントの対立、ルワンダのツチ族とフツ族の内戦、キリスト教国とイスラム教国の確執、白人と黒人を隔てていたアパルトヘイトなど、「白か黒か」によって、さまざまな争いが生じてきました。

でも考えてみてください。、白一色、黒一色で塗り固められた世界は、果たして魅力的でしょうか。すべてがモノクロだったら?  それは病院や刑務所のような、息がつまりそうなところではないでしょうか。

ただひとつの物差しで人を評価し、良いか悪いかを決める世界というのは、すべてが白黒で塗られた味気ない世界に似ています。

同じ人種かどうか、同じ宗教かどうか、学校の成績がいいかどうか、有名大学を出ているかどうか、同じスポーツチームのファンかどうか、同じ意見かどうか…そんな物差しで、他の人を「好き」か「嫌い」かの二択で判断しているなら、争いが起こるのも当然です。

学校や社会に適応できないからといって、個人に「発達障害」というレッテルを貼るのも、これと同じです。

そうした人たちは、今の世の中で周りの大多数の人と足並みを揃えるのが難しいため、「障害」というレッテルを貼られているわけですが、近年、それは本当に、当人の側の「障害」なのか、という点に疑問が差し挟まれるようになっています。

熊谷晋一郎先生による自閉スペクトラム症(ASD)の論考―社会的な少数派が「障害」と見なされている | いつも空が見えるから

色とりどりの世界

それに対し、人々の多様性を受け入れて、自分にはない良い部分から学ぼうとするなら、世界はもっと色鮮やかでカラフルな場所となるのではないでしょうか。

本来、わたしたちは、多様性をベースとした世界に生きています。たとえば、自然界には一つとして同じものはありません。雪の結晶は一つ一つ形が違いますし、シマウマの縞模様もそれぞれ違います。

多様性がベースとなって成り立っている世界なのに、すべてを同じように扱い、「白か黒か」で判断しようとするから、ひずみが生じているように思います。

それは六角形の杭を四角い穴に打ち込もうとしているようなものです。本来そのようにデザインされていないものを、間違った枠組みに無理やり押し込んでいるのです。

興味深いことに、自然界では、単純に「白」か「黒」で判断できないものが少なくありません。

絵を描く人の間では、絵を描くときに、「白」や「黒」を使わないよう教えられます。なぜなら、たいていのものは、完全な白、完全な黒ではないからです。

デザインで絶対に「黒」を使ってはいけない理由とは? - GIGAZINE

たとえば、夜景やカラスのような黒い生き物を描くとき、つい黒い絵の具を使いたくなってしまいますが、よく観察すると、それらは純粋な黒ではなく、深い群青色や、濃い緑色だったりします。

同じ「黒」に見えても、よく観察すれば、それぞれ違う「黒」なのです。こうした色みのある黒をchromatic black(クロマティックブラック)といいます。

それで、絵を教える人の中には、パレットに黒色の絵の具を用意せず、黒を作りたいときには、ほかのさまざまな色を混ぜて作るように指導する人もいます。

白もやはり同じで、ホッキョクグマや雪景色を描くとしても、色みのある白を使うことで、自然な色合いになります。

そのようなわけで、自然界のつくりを考えてみても、わたしたち人間は、多様性の中に存在していることは明らかです。本来のわたしたちは、「白か黒か」ではなく、多様な色とりどりの世界に生きているはずなのです。

多様性を考えるなら船の舵取りができる

わたしが今回このような記事を書こうと思ったのは、LDについてのさまざまな本を読んだからでした。

このブログの過去記事を見ていただけたら、似たような話題は何度も書いているので、前々から思っていたことではあります。しかし、LDの本を読んで、さらに考えが深まったように感じています。

LDは、正式にはSLD(specific learning disorder:限局性学習症)ですが、上野先生が提案しているLD(learning differences:学び方の違い)のほうが、よりしっくりくるように思います。

結局のところ、現在の学校や社会に適合しない人を学習障害、発達障害と呼ぶのは、「白か黒か」の見方と同じだと思うのです。つまり、「健常」か「障害」かで白黒つけようとしているからです。

けれども、もっと人間の脳や個性は多様なのだ、という見方ができれば、LDを活かして生きよう―LD教授(パパ)のチャレンジで作家の市川拓司さんが述べていた通り、

[ADHDやLDを持った]われわれみたいな人間が一番多様性とか、独善的でない相対的なものの見方ができるんじゃないか (p125)

という強みを感じることができると思います。

もちろんそうした人たちが偏見や独善から完全に解放されているかというと決してそんなことはなく、ヒューリスティックやバイアスの影響を受けない人はいません

そして多様性を意識できたからといって、生きづらさや息苦しさから解放されるかというと、やはりそうではなく、それぞれが色々と試行錯誤しながら活路を見出していかなければなりません。

しかし多様性という観点に気づいているかどうかは、荒れ狂う海で、自分の位置が分かっているかどうか、ということに似ています。

悪天候という問題そのものは変化しませんし、不安定な船の上にいるという事実も変わりません。しかし、多様性の中に占める自分の位置を知っているので、どちらに進めばいいのか、方針を立てることができます。

まったく自分の位置がわからず、ただただ困惑しているのと、自分の居場所がわかり、どちらへ進めばいいのかわかっているのとでは、態度が違ってくると思うのです。

つまり、以前の記事で取り上げたように、自分にはどうしようもないという「無力感」から、自分の意志で舵取りできるという「統御感」へと態度が一変します。そうすると、いつか嵐を抜け、ブルーオーシャンにたどりつくことができます。

それこそが、ADHDやLDやASDの子どもが最も必要とする、自尊心や成功体験を生み出すきっかけになります。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」 | いつも空が見えるから

そう考えると、LD、ADHD、アスペルガーなど、発達障がいと言われる人たちにとって、多様性という概念について、じっくり考えて理解を深めることは、とても大切ではないかと思いました。

もちろん、わたしもまだこの点については考え始めたばかりなので、まだまだ練り不足なところは多いと思います。これからもっと理解を深められるよう努力したいです。

自分や子どもがとても個性的で、既存の枠にはまらないと感じているすべての人たちに、今回取り上げた上野一彦先生の本をお勧めしたいと思います。


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