多重人格ないしはDIDの状態にある患者との日常的な臨床で、私は日々認識を新たにしていることがある。
それは彼女たちの持っている交代人格たちは別人どうしであり、それぞれが一人の人間として認めてほしいと切実に願っているということだ。
このことに関しては、私はあまり例外を経験していないし、それを彼女たちにとって正当な要求であると感じる。(p3)
歴史上、女性の人権や子どもの人権、難病患者の尊厳など、さまざまなケースにおいて、人が人として扱われる当たり前の権利が主張されてきました。
しかしその中でもとりわけ異質に思える、そして大半の人が考えたこともないような権利があります。
それは多重人格(解離性同一性障害:DID)の人が持つ別人格は、一人の人間として扱われるに値するのかどうか、という問題です。
解離性同一性障害は、一般に、「一人の人が複数の人格を持っている」と思われがちですが、当人たちの認識では「複数の別人が一つの体を共有している」というほうが近いでしょう。
本質的に「一人の人」なのか「複数の別人」なのか。もし後者であれば、一つ一つの人格それぞれが、ひとりの人間として尊厳を持って扱われるべきではないでしょうか。
この非常に難解な問題について、続解離性障害などの本から考えてみたいと思います。解離性同一性障害(DID)に加え、やはり複数の別人が一つの体を共有するイマジナリーフレンド(IF)保持者のことも少し扱います。
これはどんな本?
今回おもに参考にした本は、解離性障害の専門家、岡野憲一郎先生の続解離性障害です。解離性同一性障害(DID)を取り巻くプライバシーの権利など、微妙な問題にも踏み込んだ論議が展開されています。
そのほか柴山雅俊先生の解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論や、杉山登志郎先生の講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)なども参考にしていますが、いずれも、解離の別人格に対して真摯に対応しておられる先生方です。
解離性同一性障害とは何か、という点については以前のエントリをご覧ください。
ひとつの体にひとつの尊厳なのか
そもそも、多くの人にとって、一人の人間に複数の尊厳がある、ということ自体がナンセンスに思えるかもしれません。
多くの医師をはじめ、家族や友人などの中にも、解離性同一性障害の別人格には取り合わないことにしている人は少なくありません。たとえ別人格が出てきても、いつもの名前を呼び、いつものように接しようとします。
体が一つである以上、心も一つであり、たとえ解離性同一性障害などと診断されようが、単に時々「別人のように」なるだけだろうと考えます。見かけ上、複数の人間に見えても、おおもとは一人にすぎないという意見は至極まっとうに思えます。
しかし本当にそうでしょうか。
一つの体に複数の心
わたしたちは、体が一つでも、心は複数である、という実例をよく知っています。
続解離性障害の説明を見てみましょう。
両者の間に健忘障壁が明確な形では存在しないことも多い。
しかしそれでもA、Bは別人である。それはたとえばシャム双生児が持つ体験に類似している。
体を共有する2つの人格は、明らかに別々の体験を持ち、他人同士である。
しかしただひとつの身体を共有するという運命を逃れることができない。
だからこそ、意見の対立やさまざまな葛藤が生じることになる。(p165)
シャム双生児(結合双生児)は、二人の人が、一つの体を共有して生まれてしまった奇形です。 日本では、ベトナム生まれのベトちゃんドクちゃんで有名になりました。
どの部分が結合しているかはケース・バイ・ケースですが、共通しているのは一つの体を二人の人が共有しているという点です。
結合双生児が一つの体を共有しているからといって、本質的に一人の人間などという人はまずいないでしょう。二人は別個の人格であり、それぞれが尊厳をもって扱われるべきだと考えるはずです。
解離性同一性障害(DID)の複数の人格も、まさにこれと似たような状況にあります。
でも、ある人たちはこう言うでしょう。確かにシャム双生児の場合は、二人の人だ。心の源である脳が二つあるのだから。しかし多重人格の場合は脳は一つだけだ。脳が一つなのだから、本質的に一人だ。
本当にそうでしょうか。
一つの脳に複数の心
一つの脳でありながら、複数の人格が存在しうる、という点は、脳の右半球と左半球をつなぐ脳梁を切断した、両断脳患者において実証されています。このような手術は難治性てんかん患者に施されることがあります。
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。
脳梁のおかげで私たちは自分が単一の存在だと信じているが、じつはすべての私は複数である。
両断脳の患者は、私たちの内部にはさまざまな精神があることの生きた証拠である。脳梁が切断されると、たちまち複数の自己が解放される。
…別の患者は、左手で服を着たのに、右手がさっさと服を脱がせた。
さらに別の患者の左手は妻に対して粗暴だった。妻を愛していたのは彼の右手(および左脳)だけだったのだ。(p264)
脳の左脳と右脳をつなぐ脳梁を切断すると、それぞれの脳は同じ体を通してつながっているにもかかわらず、別々の人格を呈します。
分離能患者の特異な経験が明らかにするのは、脳が一つであっても、人格は一つとは限らないということです。
わたしたちが一つの脳にひとつの人格が宿ると考えているのは、脳の全体の活動がひとつにまとめ上げられているからです。しかし、何らかの事情で脳内が区切られ、統合されなくなれば、複数の人格が同時に現われることもあるのです。
結合双生児や両断脳の人たちの経験は、ひとつの体、ひとつの脳だからといって人格はひとつであるとは限らず、それぞれに尊厳が認められるべきではないか、という問題提起を強く擁護しています。
「メインの人格」にだけ尊厳があるのか
けれども、ある人たちは、こう考えるかもしれません。
解離性同一性障害(DID)の多重人格者であっても、もともとは一つの人格だったはずだろう。
ふだん表にいるメインの人格(主人格)こそが本体であり、そのほかの人格は、メインの人格が作り出した妄想のようなものではないだろうか。
しかし、物事はやはり、そう単純ではないのです。
ふだん表にいる人格が本人とは限らない
わかりやすい「解離性障害」入門という本には、精神科を受診したサキさんという方のエピソードが書かれています。
サキさんは、ひどい抑うつ気分や慢性疲労に悩んでいる20代前半の女性で、家族の話によると、ときどき別人のようになるとのことで、解離性同一性障害が疑われました。
しかし心理面接では、ほとんど問いかけに答えず、体調不良を理由に予約をキャンセルすることも多く、治療は遅々として進まなかったそうです。
ところがあるとき、別人のような態度で面接に現れ、不思議に思った心理士が名前を尋ねてみると、その人は「ミキ」と名乗りました。道中でサキさんの具合があまりに悪くなったので交代したとのことでした。
そのミキさんは、ほかにも交代人格がいることを教えてくれて、中でもそれらを統率しているのは「ユキ」という女性だと告げたそうです。
その後のセッションでサキさんにユキさんのことを尋ねても、わからないような様子で謎が深まりましたが、しばらくして…
その次のセッションでは、全体を統率しているというユキさんが現れました。ユキさんはそれまでの主人格のサキさんより年上で、しっかりとした頭の回転の速い女性でした。(p260)
ずっと表に現れなかった別人格のユキさんがようやく姿を見せました。主人格のサキさんとはまったく違う雰囲気の女性でした。
そして治療を進めるうちに衝撃的なことが明らかになります。
ユキさんと話し合ううちに、ユキさんは、実は最初から基本人格として存在しており、つらい記憶を引き受けるために生まれた交代人格に新たに「サキ」という名前を譲り、自分は新しい「ユキ」という名前を持つようになったという経緯もわかってきました。(p263)
なんと、ユキさんこそが、最初に存在した基本人格だったのです。ふだん表にいたサキさんは、戸籍名を名乗っていましたが、実際には別人格だったということになります。
「奥の方でずっと眠っている」
この例のような、ふだん表にいるメインの主人格が、もともとの基本人格ではない、というケースは、重度の解離性同一性障害では決して珍しくないそうです。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこう書かれています。
もっとも重度になると、複数の交代人格がほとんど途切れることなく現れて日常生活を送っており、本来の人格はほとんど現れなくなってしまう。
…あらためて本来の人格はどこにいるのかと訊くと、患者は「数年前から奥の方でずっと眠っている」と答える。(p137)
そのようになる理由は、交代人格が形成されるプロセスと密接に関係しています。
他者から虐待を受けた犠牲者(victim)人格は現実世界に安心できる居場所を持つことができず、断片化しつつ前面から背後へと移行する。これが交代人格の系譜の始まりである。(p141)
犠牲者人格はそもそも外傷を身に受けた人格である。普段は背後にいるが、前面の人格が危機に瀕した時に交代して現れることが多い。(p142)
解離性同一性障害の交代人格が生まれるとき、もともといた基本人格は内側に引きこもってしまい、別人格が表に出てくる場合が少なくないのです。
続解離性障害には、もっとわかりやすい表現で、こう書かれていました。
ある患者は親からの虐待を受けた際に、その苦痛と恐怖のために「内側に急いで入り、ふたを閉めて閉じこもった」と表現した。
そしてその際に「ほかの誰か」が外の状況を処理する必要が生じ、新たな人格が形成されたという。(p90)
こうした事例からすると、ふだん表に出ているメイン人格、すなわち主人格が、もともとの当人とは限りません。
そうすると、もし、医師や家族が、別人格は主人格の生み出した空想だと考えて、まともにとりあわないとしたらどうなるでしょうか。
皮肉なことに、空想だと思っている交代人格に対しては人間らしく扱っているのに、その人本来の基本人格、つまり生まれたときからの人格に対しては尊厳を認めず、まるで作りごとのように扱ってしまうことになります。
それはまさに、解離性同一性障害の患者が経験してきた、存在を否定されるという辛いトラウマ体験の再現となってしまいます。
家族であれ、治療者であれ、解離性同一性障害の患者の別人格の尊厳を認めないなら、彼ら/彼女らが過去に受けた仕打ち、すなわち存在を認められず、無視され、虐待され、ネグレクトされた記憶を、再び繰り返すも同然になってしまうのです。
「生まれたときからいる」
さらに、もう一つ考えなければならないのは、そもそも、生まれた時から存在する基本人格と、外傷体験をきっかけに作られた交代人格、という分類が正しくないことさえあるかもしれない、という点です。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論には、解離性同一性障害のKさんの症例についてこう書かれていました。
七月のある日の外来面接で「名前がわからない人格」が出現した。
「小さい頃はKも色々できたし、助ける必要もなかった。最近Kは力が出ない。私はたぶん生まれたときからいる。
…私には主人のことが好きとか嫌いとかの感情はない。主人のことが好きなのは私ではなくKなんです」(p77)
この場合 、主人格とおぼしきKさんとは別に、いつも「名前がわからない人格」が存在していました。この人格は「たぶん生まれたときからいる」と述べています。
さらに、二人の考えや好みは一致しているわけではなく、あくまで、体のコントロールを有しているKさんの人格が夫のことを好きなだけであって、もう一人のほうは特にそう思っていないことがわかります。
先ほど考えた結合双生児の二人は、どちらがメインの基本人格だとかいうことはありえません。二人は生まれたときから一緒にいました。そして好みや考えもそれぞれ異なりました。
あたかもそれと同じように、生まれたときから複数の人格が一緒に存在している場合があるとしても不思議ではありません。
解離性同一性障害をはじめ、解離性障害は、トラウマ経験などによってのみ発症するものありません。患者は、幼少時から強い解離傾向を持っていたことがしばしばです。
すると、外傷が先にあって人格の解離が起こったわけではなく、もともと複数の人格を抱え持つ強い解離傾向があって、それが外傷体験をきっかけに表面化しただけかもしれません。
そういえる一つの理由は、解離性障害の患者の多くが、幼少時から大人になるまで、ずっとイマジナリーコンパニオン(イマジナリーフレンド/空想の友だち)という形態の別人格を有していることです。
物心ついたときから、つまり外傷体験に至る前から、日常的に幻聴を聞いている人もいます。それらは、統合失調症の幻聴とは異なり、別人格の声だと思われます。
生まれたときから、複数の人格が存在しているのだとしたら、だれがメインの人格で、だれが作り物で、といったことは議論する意味がありません。
たまたま、複数の人格が、一つの体に宿って生まれてきた、という可能性も考えなければなりません。
人格とは何か
ここまでくると、そもそも「人格」とは何なのか、という根本的な話とも向き合わざるを得ないでしょう。
わたしたちの多くは、人格とは一つであり、自己は一人である、と考えていますが、人格や自己を何が生み出しているのか、ということはわかっていません。
脳を調べても、ある神経細胞の塊が人格の源である、というような場所は見つかっていないのです。原子や分子からなる脳の電気的活動が、なぜ自分という意識を生むのか、というのは科学における難問です。
しかし、おそらくは意識とは夢や幻想のようなものではないか、と考えられていて、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。
精神は分断されており、私たちはその分断を本能的に言い逃れる、というスペリーとガザニガの発見は、神経科学に大きな衝撃を与えた。
意識は脳全体の雑音から生まれるのであって、脳の無数の部分の一つから生まれるのではないという考え方に、科学は初めて直面させられた。
スペリーによれば、私たちの統一感は「心がつくった作り話」である。(p265)
自己という統一感は「心がつくった作り話」とはどういうことでしょうか。
たとえば絵本「スイミー」では、小さな魚たちが集まって、ひとつの大きな魚のように見せかけます。
同様に、脳全体の無数の神経細胞の発火が一つの絵を描き出し、それが見かけ上、「自己」という大きな不変のものに見えます。
続解離性障害には、「受動意識仮説」というものが紹介されています。それは、わたしたちの意識は、トップダウンではなく、ボトムアップのシステムではないか、とみなす考えです。(p134)
この仮説によれば、わたしたちの意識には、全体を統率する、トップダウンの司令官のようなものはありません。実際、そのような場所は脳に存在しません。
そうではなく、小さな無数の神経活動がより集まって、ボトムアップの仕方で、あたかも一つの人格、一つの自己のようなものを作り出しているのです。
これは、自然界にもしばしばみられる群知能システムと似ています。単純な個体が集まると、全体として高度な知能を持つかのように振る舞うのです。
人間の自己、人格といったものも、無数の神経細胞が寄り集まって見ている夢や蜃気楼のようなものなのかもしれません。
「一つの不変の自己」などない
それでも、わたしたちのうちの多くは、自分の自己は確固たるものだと考えています。それぞれが自分のアイデンティティを持っています。それはなぜでしょうか。
もし人格や自己が無数のニューロンによって生み出される夢であるなら、神経細胞は、日に日に入れ替わっていますから、「夢」である自己の内容もどんどん変わるはずです。
しかしわたしたちがそれに気づかず、自分の人格は一つだと考えているのは、大人になってからの脳の可塑性は緩やかであり、徐々に連続的に変化しているからです。
以前テレビ番組で、画像を見続けて途中でどこが変わったかを問われても分からない実験が流行りましたが、そうした「チェンジ・ブラインドネス」現象と同様です。
しかしもし10年前の自分の人格と、今の自分の人格を即座に比べることができれば、きっと別人みたいだと感じるはずです。
そうした10年前の自分のような人格が、突然時間を超えて出てくるのが解離性同一性障害と考えられます。
本来なら、何十年もかけてゆっくり変化するために気づかれない人格の変化が、わずか一種で切り替わるために、異様に思えるのです。
結局のところ、だれも一つの不変の自己を持っている人はいません。人間の脳には死ぬまで可塑性が備わっていて、流れる川のように、人格は絶えず変化しつづけています。
どんな人でも、もし10年前の自分に時間を超えて会うことができたら、一人の人間として、敬意を込めて接してあげたいと思うことでしょう。
そうであれば、一瞬のうちに時間を超えているかのように切り替わる解離性同一性障害の人格交代にも、同じように尊厳を認めて接するべきではないでしょうか。
すべての人格の尊厳を認める自我状態療法
解離性同一性障害の治療では、まさにそのような、すべての人格の尊厳を認め、一人の人間として扱う治療が功を奏するといいます。
その治療とは、このブログでも何度か取り上げてきた「自我状態療法」です。
「自我状態療法」は、セラピストのもとで、すべての人格に集まってもらい、互いのわだかまりを解消していく、一種のグループセッションです。
普通のグループセッションと異なるのは、参加する複数の人たちが、数奇な運命のもと、一つの体を共有しているという点です。
どの個人も、目に見える外見という点では同じ一人の人間ですが、セラピストは、それぞれの人格に対し、別々の個人として尊厳を認めて接します。
自我状態療法について説明した、図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法という本にはあるケースについてこう書かれています。
マリアンヌの答えは「6歳の私がいます、とても悲しそう」というものだった。
そこで私は言った。「来てくれてありがとう、お嬢ちゃん。あなたがマリアンヌに知らせたいことはなに? いまならみんながあなたの話を聞きますよ」(p85)
セラピストは、6歳のマリアンヌに対して、初めて会うかのように丁寧に挨拶しています。
自我状態療法について説明した別の本、講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)にも実際の症例が載せられていますが、その際にこう書かれています。
なお症例は、主人格を含む全パーツに公表の許可を得ているが、深刻な虐待の事例なので匿名性を守るために大幅な変更を行っている。(p119)
症例を載せるにあたって、主人格だけでなく、全パーツ、つまり他の別人格にも許可を得たとされています。これは、別人格が有するプライバシーの権利も しっかり尊重しているからこそでしょう。
また 続解離性障害には、解離性同一性障害の治療について医師が注意すべきことがこう書かれています。
しかし情報交換を治療者という第三者(?)が人為的に行うということには倫理上の問題が伴いかねない。
それぞれの人格には、プライバシーがあるからだ。
自分の不注意で秘密が他人に知られることには我慢ができても、それを打ち明けた治療者が別人格に伝えたとなると、治療者との信頼関係に大きな影響を与えてしまうだろう。(p165)
ある人格から打ち明けられた話を、別の人格にそのまま伝えるなら、プライバシーの権利を害してしまい、倫理上に問題に発展するとされています。
これもまた、各人格それぞれに、人間としての権利と尊厳があるという考えにほかなりません。
そうした扱い方が奇妙に思える場合は、こう視覚化して考えることができます。
ある若手の心理士は、初めてDIDの症例を任されると聞き、「でも急に子どもの人格が出てきたらどうするんですか?」と不安そうに尋ねてきた。
…そこで私はその心理士にあらためて聞いてみた。
「たとえば患者が子どもを一緒に連れてきていたとしますよ。そして面接中にいきなりトイレに立ってしまい、あなたはその子どもと残されてしまい、一対一で対面しなくてはならないとします。
それでも別に困らないでしょう? その子どもに自然に話しかけるだけです。それとどこが違うんでしょう?」(p164)
先ほどの6歳のマリアンヌに呼びかけたセラピストは、まさにこうした対応をしていました。別人格は、見た目は一人でも、あくまでも、複数の別人なのです。
このように各人格の尊厳を認める治療をしてはじめて、解離性同一性障害は回復に向かいます。
回復といっても、別人格を消滅させることが目的ではありません。講座 子ども虐待への新たなケア (学研のヒューマンケアブックス)にはこうあります。
そのうえで、個々のパーツに対応する個々のトラウマをそれぞれに処理することになる。
そうして、パーツ間に自然なコミュニケーションが可能になれば自我状態療法による治療は終了可能で、人格の統合は不要である。(p119)
問題となっているのは、人格(パーツ)が複数あることではなく、各人格の記憶を隔てている健忘障壁や、予測できない人格交代、転換性障害の身体症状などです。
不思議なことに、グループセッションのようにして、各人格ごとのトラウマや、人格同士のいざこざ、わだかまりなどを解決していくと、記憶の分断はなくなっていくそうです。
記憶の分断とは、それぞれの人格が、遠慮したり敵対したり、一人でトラウマを抱え込んで身代わりになったりして情報を共有していない、きわめて人間的な問題なのです。普通の人同士のコミュニケーションの行き違いから生じる緊張と同じです。
そして最終的に、すべての人格がお互いの存在を認め合い、協力し合えるようになれば、複数の人格が存在していても、混乱なく一つの体を運用していけるようになるのだそうです。
解離性同一性障害の尊厳と人権
こうして考えてみると、解離性同一性障害のそれぞれの人格すべてを一人の人間として、尊厳を持って扱う、という考えは、何も突拍子もないものではない、ということがわかります。
むしろ、尊厳とは、一つの体につき一つきりのものではなく、一つの人格につき一つずつ付与されるべきものだとみなすほうが自然です。
続解離性障害では、それぞれの人格を独立した別個の人間として認めることについて、当事者側の認識に基づいてこう書かれています。
くりかえすが、別人格が出現している時、その主観的な体験は、別人としてのそれである。
あたかも私たちが居間で眠りこんでしまい、目を覚ました時に、いつの間にか訪れて目の前に座っていた客と話し出さなければならない場合と体験的には同じなのである。
そして患者の体験がそうである以上、患者が自分を独立した別個の人格であると認めない治療者を信用することができないとしても無理はないであろう。(p165)
ある人を独立した別個の人間として認める、つまり尊厳を付す、ということは、だれもが受ける権利のある「無条件の愛」と同様です。
「無条件の愛」とは、「一人の人間として、この世界に存在しても構わないのだ」と保証することであり、人格あるいは自己が生じるところには、必ず「無条件の愛」に対する欲求があります。
わたしたちは、生まれる前の自己がまだ明瞭でない赤ちゃんや、何十年も意識不明の患者に対してでさえ、尊厳を付するべきだと考えます。それらの人が「無条件の愛」を感じ取れない状態にあるとしてもです。
そうであればなおさら、一人の人間としての意識があり、しかも切実に「無条件の愛」を求め、一人の人間として扱ってほしいと望んでいる解離性同一性障害の各人格に対しては、そのように接するべきではないでしょうか。
解離性同一性障害の尊厳は、多くの人にとって想像もできないような話かもしれませんが、当事者たちにとっては現実の問題です。
前に読んだ本、ここにいないと言わないで ―イマジナリーフレンドと生きるための存在証明―は、多重人格ではなくイマジナリーコンパニオンの場合でしたが、やはり、自分の体を共有する複数の人格それぞれに関して、一人の人として認識してほしいということが書かれていました。
この記事でここまで少し触れたように、解離性同一性障害の尊厳とイマジナリーコンパニオンの尊厳は、ある程度似通ったところがあります。
解離性同一性障害の人が幼少時あるいは生まれたときから持っている人格はイマジナリーコンパニオン的ですし、自我状態療法などによって健忘障壁が取り除かれ、協力関係を取り戻した場合も、イマジナリーコンパニオンのようなものになります。
もしかすると、一人の人間に複数の人格が平和的に宿っている状態がイマジナリーコンパニオンであり、トラウマ経験による緊急事態に対処するため、人格同士に緊張とコミュニケーションの行き違いが生じている状態が解離性同一性障害なのかもしれません。
解離性同一性障害にしても、イマジナリーコンパニオンにしても、根本となるのは、ひとつの体に複数の人格が宿っているということであり、その特殊な事例における尊厳と権利の問題は当事者たちにとっては非常に大事なものなのです。