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なぜ「脳は空より広い」のか―実はコンピュータとは全然違うダイナミックな脳の魅力に迫る

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静かな畑と生垣を楽しんでいたとき、目に入った―牛だ!

しかし、動物の生態に対する新たなエーデルマン的視点で見ると輝いている。

脳がたえずあらゆる知覚と動きをマッピングしている牛、カテゴリー化とマッピング、一次意識という奇跡の過程ではち切れそうな、エーデルマンの牛だ。

「なんてすばらしい動物なんだ!」と、私は心のなかで思った。「これまでこんな目で牛を見たことはなかった」(p441)

れは、脳神経科医オリヴァー・サックスによる、道程:オリヴァー・サックス自伝の中で、ひときわ感動的に綴られている体験の一つです。

オリヴァー・サックスは、ある日、田舎をドライブしていて、一頭の牛を見かけました。それはただの牛です。ほとんどの人が何の気にも留めないごく普通の牛です。

ところがサックスはちょうど、二、三週間前に、ノーベル賞生物学者、ジェラルド・エーデルマンから、刺激に満ちた脳のメカニズムの仮説「神経細胞群選択説」(TNGS)について聞かされ、いたく感動したところでした。

TNGSの視点から、そのごくありふれた一頭の牛を見たとき、サックスは、その牛の脳で生じている驚くべき世界に思いを馳せ、畏怖の念を禁じ得なかったのです。

エーデルマンが提唱した画期的な脳の仕組み「神経細胞群選択説」(TNGS)とは何でしょうか。人間の脳がコンピュータよりも、もっと柔軟ですばらしいと言えるのはなぜでしょうか。

わたしたちが「私」を意識できるのはどうしてでしょうか。「私」が二つ以上ある、解離性同一症(DID)の人の脳では何が起こっているのでしょうか。

ジェラルド・エーデルマンの著書脳は空より広いか―「私」という現象を考えるから考えてみたいと思います。

これはどんな本?

今回紹介する脳は空より広いか―「私」という現象を考えるは、ジェラルド・エーデルマンが、脳や意識に関する自説「神経細胞群選択説」(TMGS)をできる限り噛み砕いて説明した本です。

この本を読むことにしたのは、冒頭でも引用したオリヴァー・サックスの自伝で、サックスがエーデルマンの説に熱く傾倒して、べた褒めしていたためでした。

できる限りわかりやすく…とは言いつつ、かなり難解なので、わたしも十分理解できていませんが、比較的薄い本なので、頑張れば読み通すことができます。

この本のタイトルの「脳は空より広いか」は、詩人エミリー・ディキンソンの印象的な詩から取られています。

脳は空よりも広い
ほら、二つを並べてごらん
脳は空をやすやすと容れてしまう
そして あなたまでをも (p6-7)

この本は、意識や自己といった、従来、科学の域を超えているとみなされてきた現象を脳科学の観点から説明し、脳がいかにすばらしい仕組みで働いているかを明らかにしています。

このブログでは、解離性同一症(DID)、いわゆる多重人格などを扱う関係で、「私」「自己」「人格」といった脳の特異な働きに注目してきましたが、それをより深く理解するためにエーデルマンの説を知っておくことは非常に助けになります。

脳はコンピュータではない

わたしたちはしばしば、脳の複雑性がコンピュータに例えられるのを聞きます。この世で最も複雑なスーパーコンピュータ、それこそが脳だと説明する人もいます。

たしかに脳は、一見すると、コンピュータに似た情報処理能力を備えているようにも思えます。いつの日か、コンピュータによる人工知能が人間と同じように思考するようになると考える科学者もいます。

しかし、エーデルマンは、この本の中で、コンピュータと人間の脳は、その本質からして全く異なっていて、似ても似つかないものだ、ということを何度も強調しています。

動物の発生過程で、神経回路がどんな経過をたどってできあがるかを詳しく見てみれば、「どうやらコンピュータとはずいぶん違うな」と感じるに違いない。

…どの細胞が、どこに移動し、ニューロンになるか死ぬかは、あらかじめ決まっているわけではない。その時の状況による確率的なものだ。(p44)

つまり、あらかじめこと細かに配線が決まっているのではなく、ニューロンの活動パターンに応じて配線が導かれる。(p45)

ご存じのように、コンピュータは非常に多くの部品から成り立っています。少し詳しい人であれば、CPU、メモリ、グラフィックカードなど、部品それぞれの名称も聞いたことがあるでしょう。

コンピュータは、こうした様々な役割を持つ部品が、寸分の狂いもなく配置され、適切に配線されることで、正常に稼働するようになります。

脳は「こと細かに配線が決まっている」のではない

ところが、人間の脳はまったく違います。エーデルマンが述べるように、「あらかじめこと細かに配線が決まっているのでは」ないのです。

やはり、少し脳に詳しい人であれば、パソコンの部品と同じように、脳にはさまざまな機能を担う部分があることを知っているかもしれません。目からの情報は視覚野、音は聴覚野、記憶は海馬、といったぐあいです。

しかし脳のそれらの部分は、最初から特定の役割に特化して配置されているわけではないのです。サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でこう説明しています。

しかし皮質のほとんどは可塑性で、必要とされるどんな機能も(限界はあるが)果たすことができる、多様性の「地所」である。

だからこそ、耳の聞こえる人では聴覚野となるものが、生まれつき耳の聞こえない人では視覚の目的に再配置される可能性があり、同様に、通常は視覚野であるものが、生まれつき目の見えない人ではほかの感覚のために使われることもある。(p437)

脳には、可塑性(かそせい)という極めて柔軟な特性があります。可塑とは、粘土のように形を柔軟に変える特性のことです。

脳のさまざまな部分、視覚野や聴覚野と呼ばれるものは、パソコンのグラフィックカードやサウンドカードのように、はじめから映像や音に割り当てられているわけではありません。

むしろ、その人の体験によって、何に割り当てられるかが柔軟に変化していきます。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)には目の見えない人の脳機能について、こう書かれていました。

生理学研究所の定藤規弘教授らによれば、見えない人が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分、すなわち視覚皮質野が発火しているのだそうです。

つまり脳は「見るための場所」で点字の視覚処理を行っているわけです。(p100)

こうした柔軟性は、脳が持つ可塑性を示すほんの一例に過ぎません。

脳には“ノイズ”が不可欠

脳がこうした可塑性によって、コンピュータと大きく異なる柔軟性を示すのはどうしてでしょうか。再びエーデルマンの本から引用してみましょう。

脳のふるまいはデジタルな計算処理とは考えられない。その明白な理由は他にもある。

コンピュータにとっては致命的だとされている“ノイズ”が脳の高次機能を働かせるためには不可欠なのだ。(p45)

エーデルマンによれば、脳をコンピューターと大きく異ならせているのは、“ノイズ”の処理です。

“ノイズ”とは何でしょうか。それは、わたしたちの周囲の環境で生じる、さまざまな偶発的な要素、予測できないカオスな影響です。

厳密に数学的に計算して処理していくコンピュータはノイズを嫌います。コンピュータにとってノイズの存在は、たとえわずかな量であっても致命的です。ほんの少しでもノイズが交じると、計算結果が大きく変わってしまいます。

たとえば、惑星探査に用いられる宇宙ロケットの打ち上げについて考えてみると、ノイズがいかに致命的であるかがわかります。少しでも想定外の影響が生じ、ロケットの進む方向がわずかな角度ずれてしまうなら、やがて目的地から大きくそれてしまいます。

そのため、コンピュータは、ノイズを徹底的に排除し、外部からの影響を補正して打ち消すよう作られています。

コンピュータ・モデルでは、環境から入ってくる情報に少しでもノイズが混じっていれば、平均化するなどの処理を施して、曖昧さを消してしまう。(p52)

しかし人間の脳はそれとは正反対です。エーデルマンは、脳にとって“ノイズ”は「不可欠」とまで述べています。それはどうしてでしょうか。

脳の多様性と個別性はノイズではない。

それらは、いろいろなニューロン群がレパートリーを組むための大切な要因なのである。(p138)

コンピュータはノイズを打ち消し、正常さを保とうとします。コンピュータにとっては環境から影響を受けず、本来の状態を保つことこそが重要です。

それに対し、人間の脳は、ノイズを探し求め、ノイズに合わせて柔軟に変化します。コンピューターがノイズを打ち消すのに対し、脳はノイズを取り入れて、自分の一部にするのです。

コンピュータは、ノイズを排除するので、どんな環境に置かれていようが同じです。あなたが今使っているコンピュータを北極に持って行こうが宇宙空間で使おうが、地球の裏側で用いようが、コンピュータは何ひとつ変化しないか壊れてしまうかのどちらかです。

しかし人間の脳は、置かれた場所や環境によってさまざまに変化します。環境は一人ひとりまったく異なるので、地球人口70億人のうち、ひとりとして、だれかと同じ脳を持っている人はいません。

神経ダーウィニズム

脳がノイズを排除するのではなく、ノイズに合わせて柔軟に変化するのは、環境に適応し、生き残るためです。目が見えなくても耳が聞こえなくても、あるいは慢性的なストレス環境に置かれたとしても、脳は生き残るために自らを環境に適応させるのです。

この能力は、わたしたちのよく知る何かに似ているのではないでしょうか。

そう、チャールズ・ダーウィンの提唱した「自然選択説」です。

生物は、環境の変化に合わせて適応し、生き残りを図ります。同じ種であっても、住む環境によって、外見や能力がさまざまな変化し、無限の多様性が生じます。

それと同じことが、わたしたちの脳の中でも神経細胞レベルで生じている、そう主張するのが、ジェラルド・エーデルマンの説です。

だからこそ彼の説は「神経細胞群選択説」、あるいは「神経ダーウィニズム」と呼ばれているのです。

ちょうど、生物が地球という環境の一部として生態系を営んでいるように、脳も、それ単独ではなく周囲の環境があって初めて機能します。

コンピューターは、まわりの環境から独立して動きますが、脳は、まわりの環境からの手がかりなくしては正常に機能しません。

生まれたばかりの子どもの脳は、まわりの環境、たとえば見るものや聞くものに合わせて脳を形作っていきます。両親とのスキンシップによって愛着システムが作られ、オキシトシンなどホルモンが放出され、環境に合わせて脳が発達していきます。

周囲からのこうした感覚入力がなければどうなるのでしょうか。

悲しいことに母親から愛情を示されず、だれからも触れてもらえなかった孤児院の赤ちゃんは、たとえ十分な栄養を得ていても死んでしまうことが知られています。

愛情の大切さを訴え、愛着障害の悲惨さを物語る7つの実験とエピソード | いつも空が見えるから

 

また外部からの感覚を遮断されてしまうと、脳は、幻覚という形で、記憶の中から感覚を再現し、再生することがわかっています。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム | いつも空が見えるから

 

エーデルマンは脳にはノイズが「不可欠」だと述べていましたが、まさに脳はノイズなくしては成長することも生きることもできません。

動物が自然環境なくしては決して生きられないように、人間の脳も、周囲の環境や人とのふれあいなくしては決して機能できないようにできています。

だからこそ生物も脳も、「自然選択」という形で、周囲の環境に進んで適応することによって生き残りを図るのです。

無限の多様性はどこから生じるのか

このような、周囲への適応による「自然選択」の結果、脳に生じるのは、目もくらむほどの多様性です。

わたしたちの脳が置かれた環境には、一つとして同じものはなく、それゆえにわたしたちは誰一人同じ個性のない唯一無二の人間になります。

このような無限の多様性は、脳のどのような仕組みによって形作られるのでしょうか。

エーデルマンの神経細胞群選択説(TNGS)では、脳の多様性には、次のような特別な仕組みが関係しています。

再入力―自分だけの地図を作る

わたしたちの脳の柔軟な可塑性を支えているしくみの一つは「再入力」システムです。

わたしたちの脳では、常にまわりの環境や経験に合わせて、よく使われるシナプスが生き残り、あまり使われないシナプスが消滅する自然選択が起こっています。

リアルタイムで周囲の環境に適応し、脳の働きを調節できるのは、「再入力」という双方向のフィードバックが存在しているからです。

オリヴァー・サックスは、道程:オリヴァー・サックス自伝で、神経細胞群選択説の再入力をこう説明しています。

再入力性の信号伝達は、たとえれば神経の国連のようなものかもしれない。

そこでは大勢の代表者が話しあっているが、その会話には外部からたえず入ってくるさまざまな報告が盛り込まれていき、それらがまとめられることでいっそう大局的な見地に立つことが可能になり、新しい情報が相関して新しい見識が生まれる。(p439)

わたしたちは、新しい知識を得るとき、これまで得た記憶と、今見ている情報とを瞬時に照合します。

たとえば新しい果物を見たら、これまでの果物の知識と、今見ている視覚情報と、手触りや味などの感覚情報と、そのほかのありとあらゆる情報とか一瞬のうちに照合され、同期されます。

その結果、新しい知識と今までの経験とが、互いに修正され、アップデートされ、統合され、独自の印象を生み出します。これが再入力による同期です。

エーデルマンは、この過程を、脳の各部で生じる神経細胞の発火の地図「マップ」が同期されると表現しています。

わたしたちのさまざまな記憶や感覚は、それぞれ独自の神経細胞群の発火によって生じています。それぞれ特有の地図「マップ」があるのです。

それぞれのマップは互いに双方向のフィードバックによって、絶えずリアルタイムに比較され、修正され、最適化されています。

新しい刺激や記憶は、常に一般化、カテゴリー化されて脳のマップが書き換えられます。

その結果、わたしたちは新しいことを学習したり、考えたりして、環境に即時に適応し、成長していくことができます。

縮退―違う組み合わせで同じ結果

脳に備わる、2つ目の独特な能力は「縮退」です。脳は空より広いか―「私」という現象を考えるにはこうあります。

一つには、脳には「縮退」というしくみが備わっていることである。これによって脳は、きわめて柔軟性に富んだ融通の利く反応を見せる。

縮退とは、ある系において、構造の異なる複数の要素が同じ働きをする、あるいは同じ出力を生み出す能力である。(p61)

少し難しい説明に思えますが、簡単にいえば、違う材料で同じものができるということです。

たとえばエーデルマンは次のような例を挙げています。

生物のタンパク質は、材料レベルでは違う組み合わせで作られていても、完成したタンパク質としては同じ働きを持つ場合があります。

一卵性双生児の双子は、病原体に対してよく似た免疫反応を見せますが、まったく同じ組み合わせの抗体を用いていることはなく、違う組み合わせの抗体で同じ反応を示します。

自然界を例にすれば、毎年氷河が溶けてふもとに池ができる場所では、水がどの場所を流れるか、細かいルートは毎年異なりますが、ふもとの池はほぼ同じ形で出現します。

このように自然界や生物には、違うルートや組み合わせなのに、同じ結果が生じるという「縮退」がいたるところに見られます。

脳も同様であって、常に「縮退」が生じています。

わたしたちの脳の神経細胞は、刻一刻と入れ替わっていますが、わたしたちは、昨日も今日も明日も、同じことを考えたり、同じ記憶を思い出したりできます。

それは、たとえ神経細胞が入れ替わって、違う組み合わせになっても、ほとんど同じ結果を再現できる「縮退」が脳の中で起こっているからなのです。

自己組織化―指揮者のいないジャズバンド

このような再入力と縮退の結果、脳ではどんなことが生じるのでしょうか。

それは「自己組織化」、つまりリーダーが存在しないにもかかわらず、どんどん最適化され成長していく驚くべき現象です。

脳の働きは、あたかも熟練のジャズ・ミュージシャンたちが集まって演奏しているかのようです。

一人が新しいメロディを奏でると、他のミュージシャンたちは次々にそれに合わせます。

指揮者はおらず、楽譜もありませんが、常にそれぞれの奏者が阿吽の呼吸で他の奏者たちと合わせ、ある奏者がリードすればそれに合わせてメロディを盛り上げ、次の瞬間には別の奏者が全体をリードすることもあります。

ときには楽器が変わったり、構成するメンバーが変わったりすることもありますが、同じような盛り上がりを伴うメロディを一丸となって奏でることができます。

わたしたちの脳も指揮者のような領域は存在していません。コンピューターのプログラミング言語のような決まった楽譜もありません。

しかし脳の各部分が、それぞれ働き、他の部分がそれに合わせて対話するという再入力によって絶えず構造が変化しています。

そして脳を構成する神経細胞は刻一刻と入れ替わっていますが、組み合わせが変化しても「縮退」によって、ほとんど同じ結果が生じます。

その結果、昨日も今日も明日も、統一されたメロディ、すなわち「あなた」という同じ人格が生み出されているのです。

「私」とは何か

脳に備わる「再入力」、「縮退」、そしてその結果生じる「自己組織化」について考えると、わたしたちの脳がいかに柔軟に成長していくかがよくわかります。

そのような多様な成長の集大成として現れるのが「私」という意識また自己です。この驚くべき現象は、どのようにして生じるのでしょうか。

ダイナミック・コアが意識を生み出す

エーデルマンは、わたしたちの脳において「私」という自己や意識の源となる構造を、「ダイナミック・コア」と呼んでいます。

ダイナミック・コアは、主に脳の視床-皮質系と呼ばれる場所に存在すると思われます。ここは先ほどから考えている再入力や統合を担っている部分です。

この部分はオリヴァー・サックスがたとえで説明していた脳の「国連」に相当します。脳の他の部分で生じた感覚や記憶、感情をひとまとめにし、統合しているのです。

わたしたちの持つ「私」という意識はしばしば科学では説明できない、とらえどころのないもの、ある場合には霊魂などの、スピリチュアルな霊的な力ととらえられることがあります。

しかしエーデルマンは、生物学者としてそのような立場は認めていません。

麻酔、脳外傷や脳卒中、あるいは睡眠中のある段階で脳の活動が低下すると、意識はなくなる。

死んだ後に身体や脳の働きが戻ってくることはないし、死後の体験などというものもありえない。

たとう死んでいなくても、魂や意識が体外で自由に浮遊するといった話が科学的に証明されたことはない。

意識は身体化されている。意識が身体や環境を離れて存在することはないのである。(p17)

エーデルマンに言わせれば、あくまで人間は物質的な存在であり、物質的な体からできている以上、わたしたちの意識もまた、物質である脳の神経活動の結果生じているはずです。

エーデルマンはどんな信念を抱くかは自由で、それこそが人間らしい豊かな経験ともいえると理解を示してもいますが、意識は物質から生じるというこの意見は至極まっとうなものに思えます。

つまり、わたしたちの「私」という意識は、何か謎めいたパワーや霊魂が宿っているわけではなく、脳のダイナミック・コアの活動の結果生じているものだということです。

「私という現象」への変換

では、なぜダイナミック・コアが活動すると、この不思議な「私」という意識が生じるのでしょうか。

エーデルマンは、このダイナミック・コアの神経プロセスをC’、そしてそこから生じるわたしたちの意識をCと呼んで、C’とCは切り離せない関係にあると述べています。

このようなC’の活動に必然的に伴ったのが意識Cであった。

実際、個々の動物がコア・プロセスC’の効果を体験するのにこれ以外にどんな形があるだろう。(p102)

脳が活動し、C’という活動が生じると、そこには必ず意識Cも伴います。

それは、先ほどのジャズバンドのたとえでいえば、それぞれの奏者が互いに合わせて演奏すれば、必ず一つの音楽が生じるのと同じでしょう。

極めて高度な意識を体験するのは人間だけですが、どんな動物も、それぞれの脳の程度に応じた意識は体験します。

昆虫程度の脳であれば、周囲の現象を認識する原意識が必ず伴い、自分を認識することのできる脳を備えたチンパンジーやイルカにはそれに応じた高度な意識が伴います。

そして過去や未来を認識できる脳を備えた人間には、時の流れの中で自らを認識し、しかも過去から学び未来を想像できる特別な意識が必ず伴うのです。

これはC’という脳の活動の副産物として意識Cが現れているという意味ではありません。

むしろ意識Cとは、脳の活動を取りまとめたC’という神経活動の結果そのものなのです。

エーデルマンはこう述べます。

「私という現象」への変換は、統合されたC’の状態を一人称的に伝えるなんとエレガントな方法だろう。

神経系のこのような“ふるまい”を直接体験するのに、ほかに方法はない。

この現象変換は、「私」に感知できるだけでなく、ヒトとヒトとが交流する上でも、脳の中でくり広げられる因果関係を示す指標として多いに役立ってくれる。(p110)

わたしたちの脳は、それぞれが非常に複雑な歴史を持ち、唯一無二の記憶を有しています。

それらがダイナミック・コアの再入力によって取りまとめられ、統合された結果、その人の脳の全歴史を反映した総まとめとして、一人ひとりの「私」が現れます。

さまざまな糸を、織り機が織り合わせると、一つの絵が描かれた織物になります。

同じように、さまざまな感覚や記憶の糸をダイナミック・コアが織り合わせると、そこにはその人のすべてを反映した「私」が現れるのです。

「意識の疾患」としての解離性障害

このような「私」を生み出す脳の生物学的構造を知ると、ある種の病気や障害についての理解が深まります。

たとえばオリヴァー・サックスは、道程:オリヴァー・サックス自伝でエーデルマンが「意識の疾患」とみなしている病気の一つとして病態失認を挙げています。

脳の右半球が感覚野(すなわち頭頂葉)にひどい損傷を受けた場合、患者はたとえ左半身が無感覚になっても、あるいは麻痺しても問題を認識しない、「病態失認」になる場合がある。

…病態失認は古典的神経学の考え方では理解できないために、長年、神経症がひき起こすわけのわからない一症状と誤解されてきた。

しかしエーデルマンはこうした症状を「意識の疾患」と考えている。片方の脳半球で高次の再入力性信号伝達とマッピングが完全に停止し、その結果、意識が根本的に再構成されているのだ。(p443)

病態失認では、体の半身が麻痺していても自分の体がおかしいと気づきません。その原因は、ダイナミック・コアが損傷して、意識が欠けてしまったことにあるとみなせます。

また、実際には目が見えているにもかかわらず、見えていることを意識できない盲視という病気もまた「意識の疾患」だといいます。(p444)

この場合は、ダイナミック・コアと視覚の間の再入力のつながりが断たれてしまったのでしょう。いわばダイナミック・コアという国連から、視覚という国が脱退してしまったので、視覚は存在しているのに情報が入ってこないのです。

多重人格はダイナミック・コアが複数存在している

そして、さらに「意識の疾患」の最たるものが存在します。エーデルマンは脳は空より広いか―「私」という現象を考えるでこう述べています。

だがすでに述べたように、ダイナミック・コアが変質したり、コアと意識下構造の相互作用がうまくいかなかったりすると、異常な意識状態を示す症候群を引き起こすことがある。

そのような病的な意識状態(誘導された催眠状態も含め)においては、コアが二つまたはそれ以上の別々のコアに分離する。あるいは変型コアが構築される、といったことが考えられる。

脳梁や前交連が離断された結果出現する離断脳症候群では、このようなコアの分離が起きているに違いない。またヒステリーのような解離性症候群でもその可能性が高い。(p172)

エーデルマンは、ここで、「意識の疾患」として、左右の脳をつなぐ脳梁を切断したときに人格が2つになる離断脳、そして、このブログでも馴染み深い解離性障害を挙げています。

このような疾患では、情報をとりまとめて意識を生み出すダイナミック・コアが分離し、2つ以上存在しているのではないか、と書かれています。

これはとても興味深い意見です。

以前このブログで、離断脳の患者や、解離性同一症(DID)の患者の複数の人格ひとつひとつの尊厳について考慮しました。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか | いつも空が見えるから

 

そのときの結論としては、おそらくそれらの別人格は、単なる空想ではなく、それぞれが本物の自己を備えていて、一人の人間として扱われるに値するのではないか、と述べました。

今回の本のエーデルマンの神経細胞群選択説が正しいとするなら、「私」という意識が複数ある状態では、それを生み出す脳のダイナミック・コアも複数存在していることになります。

ダイナミック・コアは、その人が経験し、蓄えてきた知識や経験という歴史すべてを取りまとめている、「私」そのものとも言える脳の機能です。

それが複数あるとしたら、やはりそれらから生じる一つ一つの人格も、別々の異なる歴史を持つ、唯一無二の人間だということになるでしょう。

ダイナミック・コアは一人ひとり異なる

解離性同一症(DID)において、ダイナミック・コアが複数存在しているのではないか、という可能性は、DIDの人格の特徴からもうかがえます。

解離性同一症(DID)の各人格は、性別、年齢、好みや性格、そして歩き方や筆跡までもが違います。

それもそのはず、ダイナミック・コアには、一つとして同じものはないのです。

エーデルマンは、特殊な視覚刺激に対する脳の反応を調べた実験に言及しています。

結論から言うと、被験者が対象に気づくと、各人の脳には広範囲に及ぶ再入力性の相互作用が現れた。

また、別々の被験者が同じような意識反応を報告しても、その脳ではそれぞれ独特の活動パターンを示すデータが得られた―要するに、被験者ごとに活動パターンは異なるのである。(p131)

繰り返し述べているように、脳は同じような結果を生み出す場合でも、「縮退」による違う組み合わせを用いています。

その結果、一人ひとりのダイナミック・コアには驚くべき多様性が生じ、一つとして同じ反応をみせるダイナミック・コアは存在しません。

そうすると、脳の中にダイナミック・コアが複数存在するとしたら、それぞれに伴う意識は、間違いなく別人であり、それぞれが異なる特徴や反応を示す一人の人間だとみなせるでしょう。

「脳は空より広い」

ジェラルド・エーデルマンの提唱する意識のメカニズムが意味するのは、わたしたちは本質的に多様で唯一無二の存在である、ということです。

エーデルマンははっきりこう述べています。

集団および淘汰選択という考え方を基礎においたTNGS(神経細胞群選択説)は、「われわれが機械である」、もっと正確に言えば「われわれはチューリングマシンである」という考え方をきっぱり否定する。

実際、ダイナミック・コアの性質ゆえに生まれる意識の多様性は欠陥ではない。(p108)

冒頭で、一頭の牛に感動していたオリヴァー・サックスも道程:オリヴァー・サックス自伝でこう綴っています。

浅はかで見当ちがいのコンピューターのたとえを聞かされる世界から抜け出し、生物学的にとても意義深い世界、脳と心の現実にふさわしい世界に到達できたように思う。

エーデルマンの説は、初の真に包括的な心と意識の理論、初めて個別性と自律性を生物学的に説明する理論だった。(p440)

このような認識を得たからこそ、サックスは一頭の牛をTNGSの観点から眺め、それが唯一無二の存在であることに気づいて感動したのでした。

エーデルマンが脳は空より広いか―「私」という現象を考えるで説明している神経細胞群選択説は、今後さらなる裏付けや実証が求められると思いますが、すでに脳に関するさまざまな疑問の答えに迫りつつあります。

たとえば、哲学の世界では、もしこの世界に意識がないのに人間のように振る舞う人間「哲学的ゾンビ」がいるとしたら誰も気づけないというパラドックスがしばしば語られます。

しかしエーデルマンはそんなものはありえないと断言します。脳の神経活動C’は意識Cを必ず伴うので、意識がないのに人間のように振る舞える人などいないのです。(p102,175)

またわたしたちが動作を意識する0.5秒前にすでに神経活動が生じているというベンジャミン・リベットの実験は、わたしたちには自由意志がないのではないか、という議論にたびたび引用されます。

しかしエーデルマンに言わせれば、自動的な運動には意識は関与しませんが、その自動的な運動を学習する過程には意識によるマッピングが必要とされているのです。(p173)

こうした考え方が意味するのは、わたしたちの脳には本質的な多様性があり、わたしたちは自分の意志によって、他のだれとも異なる唯一無二の自分へ成長していけるということです。

わたしたちは外部の環境と、自分の考えや記憶を反映した、双方向の再入力によって、自分独自の地図を作り、「与えられた情報を超え」て、無限の多様性を楽しむことができます。(p124)

正直なところ、わたしはこの本、脳は空より広いか―「私」という現象を考えるに収められたエーデルマンの理論をしっかり理解できたとは思えません。わたしの理解力では十分に説明できなかったと思うので、気になる人はぜひ本書をじかにお読みください。

そうはいっても、この本を通して、脳のすばらしさへの理解が深まったのは確かです。

わたしたちの脳に秘められた驚くべき仕組みと、それがもたらす可能性を考えるとき、確かにエミリー・ディキンソンの言葉は真実だといえるでしょう。

「脳は空より広い」のです。


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