「あのね、こういうわけ。すっごく想像力が豊かな子どもたちが、頭のなかであたしたちを夢見るの。
そして、あんたやあたしが生まれ、その子と大の仲良しになり、なにもかもとってもすてきで、うまくいく。
でも、子どもたちは大きくなるにつれて、そんなことには興味がなくなり、やがてあたしたちは忘れられてしまう。
そしたら、あたしたちはどんどん薄くなって、消えてしまうの」(p137)
頭の中で創りだした世界って、どこまでが本物で、どこまでが空想なんだろう?
想像力豊かな人は、みんな、何度もそんなふうに思ったことがあると思います。
現実の世界と同じほど、空想の世界も生き生きしている。現実に暮らす立体的な人たちと同じほど、空想の世界に暮らす人たちも生気にあふれている。
こんなに本物らしいなら、実体があってもなくても、大して変わりないんじゃないだろうか。はるか昔に死んで忘れ去られた人と、今、自分の想像力を通して生きている人だったら、どちらがより現実的な存在なのだろう。そんなことを考えるかもしれません。
今回読んだ本、ぼくが消えないうちに (ポプラせかいの文学)(原題 The Imaginary)は、そんな想像力豊かな子どもが創り出す、空想の友だちが主人公の児童文学です。
世にも珍しい、子どもの空想の友だち、イマジナリーフレンド目線で語られる、イマジナリーフレンドたちの世界を描いた、とても不思議で、どこか切ない名作でした。
これはどんな本?
この本の作者のA・F・ハロルド(@afharrold)は、英国の詩人で、これまで数々の詩集や物語を手がけてきたそうです。
さすが詩人だけあって、どこか幻想的で、現実と空想が溶け合った見事な世界を描き出しています。現実の世界を舞台にしているのに、まるで夢を見ているかのような不思議な浮遊感に満たされます。
訳者あとがきによると、作者自身は、空想の友だちの記憶がないそうです。でも、お兄さんから、確かに空想の友だちがいたと教えてもらったとのこと。
空想の友だちがいたはずなのに忘れてしまっていて記憶にない、という実体験は、この本の随所に織り込まれていますし、この物語のテーマそのものとも深いつながりがありそうです。
この本を知ったのはこちらで紹介されていたからでした。ありがとうございます。
「本当に冒険がいっしょにできるのは、ラジャーだけ」
主人公のラジャーは、ちょっと怖がりでおとなしい普通の男の子。いつも、同じくらいの年の、それはそれは想像力にあふれた活発な女の子アマンダに振り回されてばかりです。
アマンダは、まるで魔法のような想像力にあふれています。アマンダの手にかかれば、木の下に掘った穴は、宇宙船になって飛び立ったり、イヌイットのイグルーになったり、未開のジャングルにまで早変わり。
どんな場所でも、どんなものでも、あっという間に楽しく面白い冒険に変えてしまうアマンダのことが、ラジャーは大好きでした。
アマンダはラジャーにとって、はじめての、そして唯一の友だちでした。
なぜなら、ラジャーは、アマンダのほかには誰にも見えない、アマンダが創造した空想の友だちなのですから。
子どもたちの中には、幼稚園から小学生くらいのころに、空想の友だち(イマジナリーフレンド)を創り出す子が時々います。奇妙に感じて心配する親もいますが、実際のところは、子どもの奔放な想像力と、他の人への深い関心が生み出す健康的なものです。
この本でも、アマンダのお母さんは、アマンダが見えない友だちがいる、と言い出しても、じゃけんに扱ったりせず、自分には見えないラジャーにあいさつしたり、席を用意してあげたりして、アマンダの空想におおらかに付き合ってあげていました。
学校に行き始めたアマンダは、ある日、衣装ダンスの中にいるラジャーを見つけて友だちになりました。アマンダにとってはラジャーの姿ははっきりと見えますし、ラジャーの声も聞こえます。本当の友だちと変わりません。
ときには現実の友だちと同じように、ケンカすることもありましたが、そのときにはラジャーのことがどれほど大切か思い直しました。
アマンダは、ため息をついた。それから深く息を吸いこむ。
ラジャーを失いたくない。ヴィンセントとジュリアも仲良しだけど、親友と呼べるのはラジャーだけだ。
わくわくするような大冒険は、ラジャーとしかできない。頭のなかでこしらえた、ほかの人には見えないお友だちだけとしか。
ほかの子もいっしょにやろうねといってくれるけど、そんなのはただの「ごっこ」にすぎない。
本当に冒険がいっしょにできるのは、ラジャーだけなのだ。(p92-93)
冒頭で、自分が創った世界は、どこまでが現実で、どこまでが空想なのだろう、といった疑問を投げかけました。アマンダにとっては、学校の友だち以上に、ラジャーは現実の存在で、かけがえない冒険のパートナーなのです。
ラジャーが洋服ダンスの中から出てきた、という話は、赤毛のアンを思い出します。アン・シャーリーもまた、アマンダと同じく、あふれる想像力を持った女の子でしたが、ガラス戸棚にうつった自分の姿にケティ・モーリスという名前をつけて、一緒に空想の世界に旅していました。
でも、もう一枚の戸は何ともなかったので、あたしよく、ガラスにうつるあたしの姿は、そこに住んでる別の女の子だと想像したものよ。
あたし、その子にケティ・モーリスという名をつけたの。あたし達、とても仲がよかったのよ。特に日曜日なんか、何時間も続けてケティに話しかけたものよ。
…そうすると、ケティ・モーリスがあたしの手を取って、年中日が照って、花が咲いてる、ふしぎな妖精の国に連れて行くの。そしてあたし達そこでいつまでも幸福に暮らすのよ。
アマンダとラジャーの物語では、空想の友だちと出会う場所は洋服ダンスだったリベッドの下だったりします。ふとしたことで空想の友だちを見つけるのは鏡の中です。
哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)の著者アリソン・ゴプニックも、子どものころにベビーベッドの中にいるダンザーという小人に出会ったと書いていました。
幼い頃、わたしの家にヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』のような怪奇現象が起きたことがあります。
家の中にダンザーという小人が現れたのです。
母によると、二歳のわたしは、ベビーベッドの中にダンザーという変な小人が住んでいると言ってきかなかったそうです。(p73)
空想の友だちとの最初の出会いは、洋服ダンスやベッド、鏡の中と相場が決まっているのでしょうか。それらの場所はもしかすると、空想の世界と現実をつなぐ扉なのかもしれません。
ちなみにわたしの記憶にある最初の空想の友だちとの出会いは、たぶんアマンダと同じくらいの年のころ、ベッドで夜、布団に潜っていたときでした。
そのとき出会った少女は、今はもう空想の友だちではありませんが、すっかりわたしと同じように成長して、ときどき書く小説の登場人物として生き続けています。
小説家のお気に入りの登場人物の中には、じつは子どものころひょっこりと洋服ダンスやベッドの下から飛び出してきて、そのまま作品世界に定住した空想の友だちが意外といるのかもしれません。
「わたしには、あんたのお友だちが見えるんだよ」
おおらかなお母さんに見守られて、毎日、アマンダと一緒に冒険を楽しむラジャー。アマンダ以外には誰にも見えませんが、ラジャーはアマンダがいてくれたらそれで幸せでした。
それまで自分がどこにいたのか、ラジャーはおぼえていない。もしもどこかにいたのだとしたら、目が覚めたときにその記憶がすっぽりぬけ落ちてしまったにちがいない。
けれどもアマンダを目の前にすると、心の底から「これでいいんだ」という思いがわいてきた。ラジャー自身が、アマンダのためにつくられたとでもいうように。
ラジャーが知るかぎり、アマンダは最初の友だちだ。そしてまた、たったひとりの友だちで、だからいちばん大事な友だちだった。(p25)
ところが、ある日、奇妙な訪問客が現れます。玄関ベルが鳴らされ、お母さんがドアを開けると、そこにいたのは、アロハシャツにサングラスという怪しい男。男は「バンティング」という名だと名乗ります。
そしてもう一人、学校の制服のようなものを着た、青白い奇妙な少女。
お母さんは、その怪しげな男を追い返しますが、男と一緒にいた女の子の姿は見えていませんでした。アマンダとラジャーは気づきます。あの少女は怪しい男の空想の友だちなのではないだろうか。
それからというもの、アマンダとラジャーの前に男と少女は幾度となく現れます。それも、二人の行くところを先回りし、二人を追い詰めようとしてきます。
そして男はアマンダとラジャーにこう言いました。
男は、うなずいた。
「けっこう。なんともなくて、ほっとしたよ、お嬢ちゃんをけがさせようなんて、思ってないからね。
じつをいうと、あいにく、お嬢ちゃんにはまったく興味がないんだ。
だけど、わたしには、あんたのお友だちが見えるんだよ」(p95)
アマンダに少女が見えていたように、男には、ラジャーの姿が見えていたのです! 狙いは、ラジャーだったのです!
その日を境に、アマンダとラジャーは、恐ろしい計略に巻き込まれ、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれ、離れ離れに引き裂かれてしまうのでした…。
「あふれるばかりの想像力に恵まれた、アマンダの友だちでいたい」
奇妙な男バンティング氏と、彼に付きそう見えない少女。
正体不明で、目的もわからない二人に、じりじりとアマンダとラジャーが追い詰められていく様子は、読んでいてハラハラします。
サスペンスのドラマのような緊迫感のある語り口、エミリー・グラヴゥットによるゾクッとする挿絵、そしてラジャーの存在が ただアマンダの想像力にだけ支えられているという儚さが、息をつかせぬ目まぐるしい物語を織り合わせます。
ラジャーがアマンダと離れ離れになり、よりどころを失って消えてしまいそうになりながらも、なんとかしてもう一度、もう一度、アマンダに会うべく、傷だらけになって糸口を探し続けるところは、この物語ならではの独特な部分でしょう。
ラジャーは、たしかに消えかけていた。
アマンダが考えたり、思い出したり、夢見たりしてくれるから、ラジャーはこの世界に存在しているのに。
アマンダがいなくなってしまったら、するするとこの世界からすべりおちていくしかない。(p110)
これまでも、現実の子ども目線で空想の友だちを描いた作品は多々ありました。たとえば ジェシカがいちばんやふしぎなともだちといった作品では、空想の友だちは、現実の友だちができるまでの通過点のように扱われています。
ところが、この作品ではそうではありません。空想の友だちは、いつしか忘れ去られて消えていくとはいえ、ただの空想の産物ではなく、現実の創り出された、ひとつの命として描かれています。
だからこそ、空想の友だちであるラジャーは、アマンダと離れ離れになっても、アマンダのことを忘れません。アマンダに創られた、アマンダの空想の友だちだからこそ、もう一度アマンダに会うために命をかけるのです。
ラジャーは、アマンダを探し求めるうちに、不思議な存在たちと出会います。それは、自分と同じように、創ってくれた人と離れ離れになってしまったイマジナリーフレンドたち。
空想の友だちとは何かをよく知っている女の子から、想像力のことを教えてもらったり…、
「この子どもたちってね」エミリーは写真を指さした。
「見えないお友だちが必要だったり、ほしいと思ったりしているのに、つくりだすだけの想像力がないの。
それができる子は、めったにいないからね。ほんとに輝くほどの、すっごい想像力を持ってる子だけだから」(p141)
なんと、アマンダのお母さんが昔に創り出した空想の友だちと出会ったり。
「そうさね、おまえのアマンダは、わたしのリジーの娘なんだ」
ラジャーは、犬の耳の後ろをかいてやっているうちに、やっと話が飲みこめた。
「わたしは、これだけ知りたいんだよ」犬は、いった。「ええ……なんていうか、あの子は幸せかね? 大人になって、幸せになったかね?」(p194)
自分を創ってくれた子どもが成長し、空想の友だちが見えなくなり、存在を忘れられてしまった後も、空想の友だちの人生は続いているのです。
こうして自分と同じ空想の友だちと出会ったラジャーは、彼らと協力して、自分たちの身に起こったことは何だったのか、バンティング氏とは何者なのか、アマンダはどうなってしまったのか、という謎に立ち向かっていきます。
消えそうになりながら、風に飛ばされそうになりながら、それでもラジャーを突き動かしていたのは、ただひとつの思いでした。
ラジャーは、ほこらしい気持ちでいっぱいになった。だからこそラジャーは、ジョン・ジェンキンスでもジュリアでもなく、アマンダがいい。
あふれるばかりの想像力に恵まれた、アマンダの友だちでいたい。(p252)
「あたし、ぜったいにあんたのことを忘れないからね」
せっかくのすばらしい物語、詳しいストーリーや結末まで語ってしまうと、あまりにももったいないので、ダイジェストはこのへんにしておきましょう。
離れ離れになったアマンダとラジャー、過去の冒険の日々を忘れてしまったアマンダのお母さんと忘れられた空想の友だち、そして謎めいたバンティング氏と彼に付き添う少女。
これら三組の登場人物による、空想の友だちとの三者三様のストーリーが絡み合って物語は進んでいきます。
空想の友だちは、現実の子どもがたった一瞬考え出すだけの存在ではなく、離れ離れになったあとも互いに思い続ける、強い絆で結ばれたパートナーなのだ、ということを、時には温かく、時には恐ろしく描き出します。
この本は、300ページを超える力作ですが、次から次に場面が移り変わり、登場人物の気持ちの描写が生き生きしていて、続きが気になる山あり谷ありの展開なので、わたしも一気に最後まで読んでしまいました。
このブログでは、これまで空想の友だち(イマジナリーフレンド)という子ども特有の現象を、科学的な観点から詳しく分析してきました。
これまでの記事で触れたのは、発達心理学や精神医学、当事者の体験談ばかりです。空想の友だちを扱ったフィクションの感想を詳しく書いたのは、これが初めてです。
空想の友だちを扱ったフィクションをあまり取り上げないのは、途中で挙げた本のように、空想の友だちはあくまで現実の人間関係に至るまでのステップでしかない、という扱いが多いためです。
あるいは、孤独な子が現実逃避のために創り出す、精神異常的なものとしてネガティブな扱いがされることも少なくありません。この本でも、アマンダの同級生、ジュリアの母親はそうやって騒ぎ立てます。
でも、そんなジュリアの母親に、アマンダのお母さんははっきりと、「うちのアマンダは、どこも悪くありませんから」と言い切ります。そしてアマンダを温かく見守り、空想の世界を一緒に楽しみます。
アマンダも、決してコミュニケーションが下手で孤独な子ではありません。最近の研究では、空想の友だちを持つのは、根が暗いどころか社交的で他の人に強い関心を持っている子だといわれていますが、アマンダはまさにそのような才気あふれる子どもです。
ただ、学校の友だちから見たら、「ちょっとばかり変わり者」、いえ、「すっごく変な子」なのですけれど。(p203)
こうしたアマンダの性格は、以前に紹介した ナラティヴ・セラピーの冒険という本の「変にできる子」エミリーを思わせます。エミリーは現実の女の子です。
現実の子どものうち、半数近くが、幼少期に空想の友だちを持つという研究もありますが、その中でも とりわけ空想の世界が豊かで、空想の友だちと強い絆を持つのは、HSPと呼ばれるひときわ感受性豊かな子たちでしょう。
エミリーや、アン・シャーリーとその作者のモンゴメリ、そしてこの本のアマンダとそのお母さんは、とびきり感受性と想像力が豊かなHSPの特徴をよく満たしていると思います。
またエミリーは空想の世界のエージェント、ハリット氏の紹介で空想の友だちと出会いましたが、この本の中でラジャーが出会う空想の世界の住人たちもそれとよく似た活動をしています。
現実の少女であるエミリーの空想世界と、この本のアマンダやラジャーを取り巻く空想世界とが似通っているのは大変おもしろいところです。本当に、どこまでが空想で、どこまでが現実なのでしょう。
こうしたところから、この本は、作者のA・Fハロルドが、しっかり調査をして物語を練り上げ、子どものころのような詩的な感性でそれを彩ったことが読み取れます。
空想の友だちについての正しい理解に根ざし、感受性豊かな子どもや、そうした子どもが創り出した空想の世界を魅力的に描いたこの作品は、とても貴重な一冊です。
もし作者のA・F・ハロルドが自分の空想の友だちのことを覚えていたらバンティング氏の描写などはもう少し変わっていたのかもしれませんが、忘れてしまったからこそ紡ぎ出された儚さやうすら怖さを味わうのもまた、この本の醍醐味でしょう。
この本のカバーの絵も、想像力をかきたてる力作で、表側のアマンダとラジャー、そして裏側のパンティング氏と少女、どちらも物語を読んだ後に細かい部分までじっくり眺めてみると、こみ上げてくるものがあります。
子どものころに空想の友だちがいたような気がする感受性豊かな人や、今まさにそんな想像力豊かな子どもを育てていて、空想の友だちのことを毎日聞かされている親の皆さんには、ぜひ読んでいただきたい物語です。
ときどき大人たちは、いろんなことを、いともかんたんに忘れてしまう。
アマンダはラジャーの顔を見た。
「あたし、ぜったいにあんたのことを忘れないからね」(p320)
きっと、子どものころの不思議で奇妙な扉の奥を、もう一度のぞき込んで、どこか懐かしい気持ちに満たされるに違いありません。