これまでわたしは、睡眠の本をたくさん読んできました。まがりなりにも、このブログのテーマのひとつは睡眠であり、わたしは概日リズム睡眠障害の当事者です。わたしの主治医は睡眠専門医です。
さまざまな睡眠の医学に触れてきて、愚かにも、眠りとは何か、睡眠とは何なのか、「だいたいわかっている」気になってしまっていました。
ところが、失われた夜の歴史という本に触れたことで、これまでの睡眠の常識をいちから構築し直さなければならない、と感じるほどの衝撃を受けました。中でもわたしの曇った常識のメガネを叩き割ってくれたのは、この部分でした。
さてそうなると、根本的な疑問が残る。この興味をそそる変則的な睡眠の取り方をどう説明すればよいのか。
というよりもむしろほんとうの謎と言うべきは、現在の私たちが中断のない睡眠を取っていることであり、それはどうすれば説明がつくのだろうか。
分割型の睡眠パターンは多くの野生動物にも見られ、近代になるまではそれが自然な、人類誕生以来の睡眠の取り方だったと考えるほうが筋が通っている。(p436)
この説明がいったい何を言わんとしているのか、ここだけを抜き出して説明するのは、わたしには不可能です。
しかしひとことで言うとしたら、わたしたちが健康な睡眠だと思っているものは、実は「人類誕生以来の睡眠の取り方」とまったく異なっているものだった、ということに集約されます。歴史的にも、生物学的にも異質な睡眠だったのです。
わたしたちが普通だと思っている睡眠が実は異質だった、などと言われてもまったくピンとこないと思いますから、ぜひとも、これから一緒に、失われた夜の歴史をめぐる旅にしばしお付き合いください。
概日リズム睡眠障害や不眠症、ロングスリーパーとショートスリーパー、さらには解離や夢といった、このブログで取り上げてきた睡眠にまつわる様々な話題の常識が覆り、パラダイムシフトに至るのを経験できるでしょう。
これはどんな本?
今回おもに参考にした本は二冊あります。
まずは冒頭で触れた、ヴァージニア工科大学の歴史学教授ロジャー・イーカーチの失われた夜の歴史です。
この本は数々の賞や年間ベストブックに輝き、世界中50を超えるメディアで紹介されたそうで、作家ジョージ・スタイナーはこう評しています。
イーカーチ教授は他に類のない領域と、独創性を持つ本を生み出した。彼の近代以前の文明における「夜景」の研究は、文学から社会史、心理学、そして思想史にまでわたっている。
これは第一級の先駆的な功績である。それはまさに、暗闇のきわめて重大な領域に光を投じるものだ。
この惜しみない賛辞が示すとおり、この本は、「他に類のない領域」を開拓した本です。
著者によれば、この本のテーマは、「産業革命到来以前の西洋社会における夜の歴史」です。産業革命前の人々の暮らしを研究した歴史書は数あれど、そうした従来の歴史研究が見落としていた盲点を突いたのがこの本です。(p10)
その盲点とは、今の世界を満たしている人工照明は、産業革命以前の社会には存在しなかった、ということです。
わたしたちがよく知っているように、トーマス・エジソン以前は電球はありませんでした。産業革命以前はガス灯もありませんでした。しかし、だれも、それをさほど重要だとは考えてはいません。
しかしそれは、とんでもない思い違いです。この本を読むにつれ、現代社会と産業革命以前の時代は、現実とファンタジー異世界ほどに異なることがわかってきます。
この記事で参考にしたもう一冊の本は、ジェームズ・マディソン大学で環境文学を教えるポール・ボガードによる本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかです。
似たようなタイトルの二冊ですが、わたしが先に読んだのは後者でした。幻想的でロマンチックな星空の表紙に惹かれて読みましたが、内容も感性豊かで引き込まれました。
この本の中で、前者の失われた夜の歴史が紹介されていたことが、続けてそちらも読んでみるきっかけになりました。
この二冊は、著者は違えど、互いに補い合うような面白い関係にあります。例えるなら、「失われた夜」という異世界を舞台にした、「失楽園」と「復楽園」のようなものです。
ロジャー・イーカーチの失われた夜の歴史では、膨大な歴史的文献をもとに、産業革命以前の世界にのみ存在し、現代のわたしたちは体験したこともない「失われた夜」における暮らしが描かれています。
ポール・ボガードの本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかは、現代のわたしたちの視点から、いかにすれば、その「失われた夜」を蘇らせることができるか、という活動が描かれています。
わたしはこの二冊の本を読んではじめて、自分の抱える概日リズム睡眠障害の意味をよりよく理解できたと感じています。どんな医療関係の本よりも、広範で意義深い気づきを与えてくれました。
わたしたちが知らない「失われた夜」
本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかの冒頭に引用されているところによれば、作家のアイザック・アシモフは、短編小説「夜来たる」の中で、このように尋ねました。
ところで、きみは「暗黒」ってものを経験したことがあるかね?
アシモフの小説の舞台となっていたのは、一度も夜が来たことのない、6つの太陽をもつSF世界でした。
しかし、意外にも、わたしたちは今、それと似たような世界で暮らしています。
もしも、だれかから、
あなたは、「本当の夜」を経験したことがありますか?
そう問われたら、現代社会の多くの人は、どうしてそんなことを尋ねるのか、怪訝に思うでしょう。「本当の夜」とは、字句通りの夜のことではなく、何かのいかがわしいキャッチコピーだろうか、と深読みするかもしれません。
ところが、ポール・ボガードは、この本の序章で、次のような驚くべき点を指摘します。
光の氾濫する現代に生きていると、夜が本当の暗闇に包まれていた時代を思い描くのは難しい。(p14)
北アメリカやヨーロッパほど明るく輝く大陸はない。欧米人のおよそ3分の2は、もはや本当の夜―つまり本当の暗闇を経験したことがなく、そのほぼ全員が光害にさらされた地域に住んでいると考えられている。(p15)
とりわけ若い世代はめったにそれを体験したことがなく、おそらく想像すらできないはずだ。(p16)
なんと、わたしたちが毎日経験している「夜」、いえ、「夜」だと思っている何かは、実は「本当の夜」ではないのです。
ここでは欧米人について書かれていますが、同じように近代化された国に住む、わたしたち日本人にも当てはまります。
現代のわたしたちのほとんどは「もはや本当の夜―つまり本当の暗闇を経験したことが」ありません。若い世代の人は「おそらく想像すら」できません。もはやだれも「夜が本当の暗闇に包まれていた時代」を知りません。
わたしたちは、だれでも、都会では明るさのせいで星が見えにくく、暗い田舎のほうがよく見えることは知っています。
プラネタリウムに行けば、まず「都会の明かりを消してみましょう」といったお決まりのセリフが語られます。天体観測の愛好家は、望遠鏡を持って、人里離れた野山に出向きます。
では、田舎の夜空が「本当の夜」なのでしょうか。「本当の夜」を想像すらできない若者たち、というのは、田舎に行ったこともない都会育ちの子どもたちのことを言っているのでしょうか。
いいえ。ここで言う「本当の夜」とは、そんなスケールの小さいものではありません。自動車に乗って一時間ドライブしてたどり着く山奥で見える星空のことではありません。
「本当の夜」とは何なのか、わかりやすく説明しているのは、アマチュア天文家のジョン・ボートルが考案した、ボートル・スケールという区分です。
ボートル・スケールは、夜の暗さを9段階にクラス分けした指標で、最も暗い夜空はクラス1、最も明るい都会の空はクラス9です。
では、わたしたちが経験したことがある、一番暗い空はどのあたりなのか―。
この本によれば、わたしたちが暗い空、星がよく見えると思っている郊外の空は、クラス5くらいだと言います。
それよりもさらに暗い空、クラス1からクラス4までの空は、ほとんどの人が生まれてこのかた体験したことがなく、想像さえできません。
しかし夜空の話になると、ほとんどの人が失ったものに気づかない。
「誰もが街なかで育っているから、ほかに考えようがないんだ。
本来ならば無数の星が見えるはずだとか、天頂から地平線まで星で埋め尽くされるべきだなんて、もはや誰の頭にも浮かばない。
人々は地元で見慣れたオレンジ色の光を見て、空ってこんなもんだろうと思うのさ」(p336)
クラス1の「本当の夜」となると、たとえば、あの広いアメリカ合衆国の本土でさえ、片手で数えられるほど限られた場所でしか体験できないそうです。
わたしたちの世界は、四方八方から侵入する大量の光にさらされていて、地球上のどこであれ、もはや人のいる場所には「本当の夜」がほぼ存在しなくなっています。
光は波の性質を持つので、障害物をまわりこんで侵入し、増幅し合います。ひとつひとつの家庭の光の規模は小さくとも、これほど多くの照明が使用されれば、想像を絶するほどの明るさが生まれます。
光の速度は秒速30万キロなので、遠い都市で生まれた光が、遠くの郊外の夜空の明るさにまで影響しています。
近年では、温暖化の気候変動の影響で、北極圏の大気層が地平線のずっと向こうの日光を反射し、最も純粋な闇である極夜が徐々に明るくなっている、とする研究もあるそうです。(p350)
もはや、明るいのは都会の空だけではないのです。
それに対し、産業革命以前の世界、まだ電球が発明される前の時代には、それらすべての明かりが存在しませんでした。その時代の夜空がどう見えたか想像してみてください。もっとも、経験したことのないものを想像することは困難ですが。
けれども、たとえ電球がない時代でも、人類は火を照明として使っていたはずではないか、そう主張する人もいます。しかしそれは、火の明るさを過大評価しすぎていると、失われた夜の歴史の著者は指摘しています。
産業革命前の家庭における照明を過大に評価すべきではない。
現代の電灯と、それに先行する照明器具との間には、驚くほど大きな隔たりがあるのだ。
一個の電球から発する光は、蝋燭や灯油ランプが発する光の百倍も強い。
…今日の電灯のように部屋の隅々まで照らし出すのではなく、光は暗黒の中でかすかにその存在を示していたにすぎなかった。(p171)
産業革命以前のロウソクやランタンの灯火を100本集めても、75ワットの白熱電球一個分の明るさにしかなりません。
しかも、当時の世界では、ロウソクと燃料は貴重品でした。毎晩ロウソクを灯せるのは、裕福な家庭の主人だけでした。火は貴重かつ危険だったので、おいそれと使うことはできず、風によって容易にかき消されました。
わたしたちのいる時代は、ほとんどどこに行ってもボートル・スケールのクラス5からクラス9の夜しか見られませんが、産業革命以前の時代は、その逆でした。
産業革命以前は、どこにいってもボートルスケールのクラス1の「本当の夜」が存在していて、人の多い街を訪れてようやく、クラス3か4くらいの明かりを目にできたのです。
すなわち、夜の暗さという観点からすれば、わたしたちの時代と、産業革命前の時代とは、完全に質が異なる別世界のようなものです。
そして、その産業革命前の時代をとりまいていた夜こそが、今回読んだ本のタイトルとなっている「失われた夜」、つまり現人類が見たことのない失楽園なのです。
そこは魔術が実在する異世界だった
わたしたちのよく知る「夜」と、産業革命前に存在した「失われた夜」の明るさが質的に異なるのはわかった。でも、だからといって、その時代が異世界のようだ、とまで言うのは誇張ではないか、そう感じる人もいるでしょう。
わたしもそう思っていました。たとえ夜が多少明るかろうが暗かろうが、人間の暮らしぶりや考え方がそうそう大きく変わったりはしない。この本を読まなければ、今でもそう思っていたはずです。
しかし、失われた夜の歴史の著者のイーカーチは、歴史学者として、当時の人々の日記や自伝、裁判所の記録などの文献を入念に調べ上げ、その時代の人々の暮らしぶりや習慣、はては思想に至るまでが、現代とはあまりに異なっていることを明らかにしました。
わたしたちが最もよく知っている、現代人と中世以前の人たちの違いと言えば、宗教に対する信心深さかもしれません。今日でも信仰心の篤い人はいますが、伝統的な宗教の影響は目に見えて衰退しています。
一般的には、科学が発展するにつれて、宗教の居場所がなくなってきたからだと説明されがちですが、人工照明の果たした役割に気づいている人はごくわずかでしょう。
中世以前の人たちが、あれほど信心深く神を崇拝し、悪魔を恐れていたのはなぜか、中世の暗黒時代に、異端審問や魔女狩りといった狂乱が巻き起こったのはなぜか。
それは、当時の人たちが「本当の夜」のある世界に住んでいたことと無縁ではありません。
中世に書かれた私的な日記を調べると、当時の人々は真剣に魔術を信じ、幽霊を恐れ、悪魔におびえていたことがわかります。
狼男や妖精、オーク、百鬼夜行のような各地に伝わる怪物は、伝説上の神話とされていたわけではなく、現実に存在する脅威として扱われていました。当時の人たちの多くは、ファンタジー世界の住人のように、魔物を真剣に恐れていました。
多くの町や村が幽霊に悩まされており、シュロンプシャー(イギリス西部の州)のバグベリーの幽霊や、ウィルトシャー(イギリス南部の州)のウィルトンの犬のように、何度も繰り返し出現するものも多かった。
1564年にダラムのジェイムズ・ピルキントン主教は、ブラックバーンの村では亡霊がたいそうありふれたものになり、当局者の誰一人としてそれが本物かどうか議論しようとしないとこぼしている。(p42)
どうして、当時の人たちは、それほどまでに幽霊や怪物を現実のものとして信じていたのでしょうか。科学が発展していない社会だったので、人々は無知で騙されやすかったのでしょうか。
そう考えるのは、あまりに過去の人々を見下しすぎています。科学や学校教育のなかった時代の人々が迷信深く、騙されやすかった、と考えるのは、現代人の思い上がりです。
おそらく、当時は今よりもずっと、用心深くなければ生き抜くことのできない社会でした。通りを歩くにも、夜寝るにも危険がつきまといましたから、騙されやすい人は生きていけませんでした。
当時の人たちは、現代社会の人間よりも、自分で考えて行動しなければならない場面がはるかに多かったはずです。電気や水道のような便利なインフラも家電もなく、日々のあらゆるものを自分で調達していたからです。
わたしからすれば、現代人のほうが騙されやすいようにも見えます。学校で習うこと、教科書に書いてあること、テレビで言われること、「科学的」だとお墨付きのついたことを鵜呑みにし、疑おうとしないからです。
しかしながら、産業革命以前の時代の人々が、それほど思考力を駆使して生きていたのだとすれば、存在しないはずの幽霊や怪物を現実のものとして恐れていたのは、なぜでしょうか。
「私たちは人生の半分は目が見えない」
その答えを知るために、産業革命以前の時代にタイムスリップして、当時の人たちの生活を追体験してみましょう。
この本の中では、「失われた夜」、あるいは「本当の夜」が存在する時代に生きていた人々の暮らしぶりが生き生きと描かれています。
まず、日が暮れるとあたり一面が真っ暗になり、ボードルスケールのクラス1のような「本当の夜」に包まれました。
「本当の夜」に包まれる、ということは、特に屋内では、ほんの数メートル先さえも見えない、ということです。屋外に出ても、道を照らす街灯さえもないなら、どう感じるか想像してみてください。
この本では、あのジャン=ジャック・ルソーが、1762年に「エミール」の中に書いた次の言葉が引用されていますが、まさに当時の人々の実感を物語っています。
「私たちは人生の半分は目が見えない」(p10)
日が暮れて、「本当の夜」に包まれてしまうと、人々は盲人になったも同然でした。前述のとおり、ロウソクをほいほいと使うことはできませんでしたから、人々は、目の見えない人のように触覚と聴覚をたよりにするしかありませんでした。
多くの家庭では、夜のどの時間帯であれ、暗闇の中を注意深く手探りしながら、歩きなれた部屋や廊下を移動していた。
ウェールズのあることわざは、「分別こそ最良の蝋燭である」と断言している。
触覚はきわめて重要だった。誰もが自分の住まいの構造を、家中の階段の正確な段数も含めて、長く記憶に留めていた。
だが、よく知らない場所にいる場合には、できるだけうまく対処するしかなかった。
ルソーは『エミール』の中で、馴染みのない部屋にいる時は、手を叩いてみるよう助言している。
「その反響によって、その場所が広いか狭いか、また自分がその中央にいるのか隅にいるのかがわかるだろう」。(p170)
夜になると、部屋の中が真っ暗で何も見えない、というだけでこれほど違うのです。
家の外に出れば、月明かりと星空があたりを照らしていました。わたしたちが見る現代社会の夜空とは違い、ボートル・スケールのクラス1の本当の夜空だったので、天の川のミルキーウェイが、「その領域全体が燃え上がっている」かのような、えもいわれぬ美しさで天空を流れていました。(p199)
古代の学問のうち、もっとも早く発展したのが、現代の天文学の母体となる占星術だったのも不思議ではありません。星と月は、神が与えてくれた道しるべであり、それらが見えない日は命に関わりました。
人々は、夜間の外出はできるだけ控えましたが、どうしても出歩かなければならないなら、貴重なランタンを持参しました。旅の途中でランタンがなければ、屈強な男たちの一団でさえ、ランタン譲ってほしいと頭を下げてまわりました。(p201)
しかしランタンの火は、アクシデントで簡単に消えてしまうほどか弱い「風前の灯火」でした。明かりが消え、しかも曇り空だったなら、足を踏み外して大怪我しないよう、大の大人が道を這って進まねばならないほどでした。(p204)
夜間の外出で、だれかが不意の事故で死んだり、野生動物に襲われたりすることは珍しくなかったようです。夜に外出するのは時として命がけで、特に女性や子どもは夜間に遠出するなどありえないとみなされていました。
昼間と違って、夜間に道でだれかに出くわすのは一触即発の瞬間でした。顔がわからないので、相手に「何者だ」と呼びかけるのが慣例で、「黙っていると、お前を刺すぞ」と宣告する人もいたほどでした。(p219)
昼間に人を殺すのはもちろん重罪でしたが、夜であれば視界が利かないので、不意に家の敷地に迷い込んできた人を殺すとしても、正当防衛とみなされました。昼と夜は別の世界であり、異なる法が適用されました。
昼間なら、たとえ被害者が押し込み強盗だったとしても殺人とされたものが、夜には自己防衛のための正当な行為となった。(p138)
夜の闇はそれほど危険に満ちていましたが、人々はあまりろうそくを使いませんでした。それには、経済的な事情もありましたが、何より、火事の危険が大きかったからです。
剥き出しの炎を持ち運べば燃料が速く消費され、出費がさらに増した。
それに、寝室に行く途中や寝室内でも、常に火事の危険があった。(p170)
当時、最も凶悪な犯罪とされていたのは、殺人ではなく放火だったようです。
産業革命前の人々が犯罪や暴力にも増して恐れていたのが、いつの世も変わらない日没後の脅威、火事だった。
…『警察論』の著者ニコラ・ド・ラマールは、火事はほかの略奪者と違って、「あらゆるものを滅ぼし、教会も王宮も顧慮しない」と書いている。
ほんの数分で、自分の家や財産、一生分の労力が、そして将来の生活を維持する見込みが失われてしまうかもしれなかった。(p85)
かつて、皇帝ネロが、ローマの大火を引き起こしたという偽りの告発で、クリスチャンに残酷な極刑を課したのも、こうした背景を思えば理解できます。
照明がなかった時代は、火の不始末で財産を炎上させるだけでも相当な罪であり、ましてや故意に火を放ったとなれば、どんな凶悪犯罪にも勝る憎しみを買うことになりました。
夜間に道行く人を襲う山賊や強盗もまた、夜闇を利用した卑劣な重罪とみなされました。犯罪者の遺体はさらし首にされて、犯行現場に立てた柱にかけられ、放置されたそうです。(p215)
道を行き交う人々は、死んでから何ヶ月も経ったグロテスクな遺体を見て、その場所が危険であることを教えられ、また犯罪に手を染めたらこうなるのだという強烈な警告を噛み締めました。
不幸にも日が沈むまでに町に到着できなかった旅行者は、暗闇の中を恐る恐る進む途中で、そんなさらし柱にかけられた遺体と不意に出くわして衝突しそうになることがありました。
それがどれほど恐ろしい体験か、遊園地のお化け屋敷やホラー映画にさえ背筋を凍らせる現代のわたしたちには想像もつきません。
人は闇の中に何を見たか―幻視の脳科学
こうして「本当の夜」の時代に生きた人々の暮らしぶりを概観してみると、当時の人たちが、なぜ魔術や幽霊や怪物を現実のものとして信じていたのかがわかってきます。
わたしたちは、街灯のある夜道でも、一人で歩いていて、後ろからだれかの足音がすると恐怖に駆られることがあります。家のドアの鍵を開けるとき、周囲の暗闇に誰かいないか見回したりするものです。
ボートル・スケールのクラス5から9の世界でそれなら、まったく異質な「本当の夜」に住んでいた人たちが、どれほど疑心暗鬼になり、恐怖に駆られたか、少なくとも理屈の範囲では想像がつくでしょう。
しかし、当時の人たちが幽霊や怪物を信じていたのは、感情的な恐怖以上のものが関係していたはずです。
おそらく、当時の人たちは、はっきりと自分の目で、幽霊や狼男や悪霊を目にしたので、その存在を信じたのでしょう。
以前にこのブログで扱ったように、幻覚、とくに幻視は、統合失調症のような精神病ではまれだと言われています。その代わり、ごく健康な人でも、特定の条件のもとでは、幻視が見えると書きました。
たとえば、シャルル・ボネ症候群として知られる、高齢者に多い幻視です。これは、視力が衰えて、視界の一部が欠けたりすることで生じます。
視界の一部が欠けると、脳は、断片的な視覚情報から全体像を連想します。欠けている空白を補うために、そこにありそうなものが本物とまったく同じリアルな映像として再生されます。
これには、パレイドリアという連想が働いています。ちょうど、インクの染みや空の雲が、何か意味ある形に見えるように、ぼんやりした像が、似ている別の何かへと姿を変えます。
わたしたちが夜道を歩くときは、街灯が隅々まで照らしていますから、視界がはっきりしていて、このパレイドリアが働く余地はほとんどありません。しかし、「本当の夜」の世界では、道行く人の顔さえ判然としません。
当時の人たちの感覚を体験してみたければ、濃いサングラスをかけて夜道を歩いてみるといいでしょう。もちろん、安全を確保しながら、ですが、そのまま歩いていると、きっとドキッとする瞬間があります。
闇の中から何かがぬっと現れて一瞬身体がすくみます。よくよく近づいてみると、ただの看板や植木だったとわかりますが、異形の怪物に見えなくもありません。
すれ違う自転車に乗った人の顔など、一瞬しか見えないものは、再確認できず、振り返ってみて恐ろしい何かだったとしか思えないこともあります。
もしこのような経験を毎晩繰り返しているなら、闇の中に、たびたび幽霊や怪物のようなものが見えたとしても不思議ではないでしょう。目の錯覚とはいえ、あまりにリアルなので本物としか思えません。
産業革命以前の人たちは、確かに悪霊や妖怪を信じていましたが、それらが現れるのは主に夜だとされていました。昼間に幽霊を見たという話はあまり聞きません。
トマス・ナッシュや17世紀の英国国教会主教ジェレミー・テイラーなどは、サタンが日中に現れるのを神に禁じられていると考えていた。
一方、夜間についてナッシュは、「我らが創造主は我らを罰するために、夜をサタンの固有の領地、王国とした」と書いている。
ドイツのある夕べの祈りは、「夜、地獄への道、サタンが支配する時間」と警告している。(p37)
超自然の存在が、夜だけに限定して現れた、というのは、つまり、産業革命以前の人たちが目撃した悪霊や妖怪は、その当時しか存在しなかった「本当の夜」によって作り出された幻視であった、と考えるのが理にかなっています。
また、別の記事で書いたとおり、見てしまう人びと:幻覚の脳科学に載せられているアルバロ・パスカル=レオーネの研究によれば、健康な人はだれでも、長時間目隠しされると、幻視が見えるようになります。
ルソーが、「私たちは人生の半分は目が見えない」と述べていたことからすれば、当時の人たちが、長時間目隠しされた健康な人たちが見るのと似た幻視を経験していたとしても意外ではありません。
日本における妖怪や、西洋の妖精といった架空の生き物は、そうしたリアルな幻視によって見えた空想の存在が伝承化されたのではないか、とも言われています。
いずれにしても、視野が制限されていて はっきり見えない、というのは、ただそれだけで否が応でも想像力を刺激し、本物と見分けのつかないリアルな幻視を生み出すのです。
明るい電灯が導入された時代をリアルタイムで経験しているオリヴァー・サックスが、タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)で述べているように、明るい照明は、闇が生み出す神秘を消し去ります。
だが、明かりは押入のすみずみまで照らし、暗闇ばかりか神秘までも追い払ってしまった。だから思った。
明かりはありすぎてもいけない―秘密をそのままにしておくべき場所もあるのだ、と。(p81)
明かりは想像力を失わせ、暗がりは想像力を刺激する、ということからすれば、中世以前の人たちが信心深く、魔術や幽霊を真剣に信じていたのは、決して騙されやすかったせいでも非科学的だったからでもないのです。
かえって、「人生の半分は目が見えない」状態にあった当時の人たちは、現代人よりはるかに思慮深かったかもしれません。ちょうどジョン・ミルトンやジョン・ハルのような視力を失った人たちが、優れた聴覚的思考力を発達させるのと似ています。
産業革命以前の人たちが、超自然の存在を信じていたのは、非科学的だったからでも浅はかだったからでもなく、ただ単に、明るい電球が「暗闇ばかりか神秘までも追い払ってしま」う前の、本当の闇が存在するただ中で生きていたからではないでしょうか。
本当の夜の漆黒が作り出す、パレイドリアの幻視をはじめとするリアルな幻覚を日常的に経験していたので、自分が見聞きしたものを信じていたにすぎないのです。
中世以前の人たちが、現代人は経験しない幻聴や幻視といった幻覚を、もっと日常的に体験していたのではないか、という研究については以前に触れました。
考えてみれば、優れた科学者は、紀元前のアリストテレス以来ずっと存在していました。ところが、科学が宗教に対して優勢になったのは、わずか1、2世紀ほど前にすぎません。それはガス灯や電灯が開発された時期と一致しています。
失われた夜の歴史の中で引用されている、未来派の学者フィリッポ・トンマーゾ・マリエッティが1912年に語った言葉が示しているように、魔術や宗教の影響力を弱めたのは、科学そのものというよりは、闇を隅々まで照らして想像の余地をなくしてしまった明かりだったといえます。
今、我々が望む電灯は、その無数の光の切っ先で、あなた方の謎めいた、不快感を催させる、魅力的な影を容赦なく切り刻み、はぎ取るものだ! (p480)
そして人類は「分割睡眠」を失った
ここまで、「本当の夜」のある時代に生きた人々の暮らしが、今のわたしたちの日常とどれほど違うのかを考えてきました。わたしが、当時の暮らしを異世界に例えた理由がわかっていただけたと思います。
産業革命前の電球の明かりのない時代の暮らしについて知ったところで、ようやく、この記事の本題に入ることができます。長い前置きでしたが、順を追って説明しないと、これから書く話はピンとこないだろうと思いました。
この失われた夜の歴史は主に歴史学的な内容を扱った本ですが、最後の12章で、突如として睡眠医学の領域に踏み込みます。
そこまでの章を読むだけでも、産業革命前の暮らしの異世界っぷりに驚いていたわたしですが、この最後の章で語られる睡眠の研究には、とんでもない衝撃を受けました。
著者は、これまでの章と同じく、淡々とした中立的な文体で歴史を紐解いていきますが、冒頭から耳慣れない奇妙な史実が明かされます。
産業革命前の社会には、睡眠中断の元としてもう一つ、当時の人々にはなじみ深い習慣があった。
当時はそんなものに光を当てようとする人などほとんどいなかった。
あまりにも当たり前のことだったので、夜の睡眠の中断についてわざわざ意見を述べようとする者はなかったのだ。(p431)
近世の終わりまでは、西ヨーロッパ人はたいてい毎晩、一時間あまり覚醒したまま静かに過ごす合間をはさんで、まとまった時間の睡眠を二回取っていたのだ。(p432)
著者はまず、おびただしい文献を調査した結果、当時のヨーロッパ人が、「まとまった時間の睡眠を二回取っていた」という奇妙な習慣について書き始めます。
当時の人たちの手記によれば、「第一の眠り」と「第二の眠り」という概念が存在していましたが、わざわざ取り立てて説明するまでもない、ごくごく当たり前のものだったといいます。
「第一の眠り」と「第二の眠り」は、どちらも持続時間はほぼ同じでした。当時の人たちは、床についてまず「第一の眠り」をとり、真夜中ごろに1時間ほど起きてから、再度「第二の眠り」をとって、朝目覚めました。
あたかも、学校の午前の授業と午後の授業のように、あいだを中休みではさまれた二相構造の睡眠をとっていたということです。
男も女も、起きようと思わなくても夜中に目覚めることが、誰でもしている当たり前のこととして二回の睡眠に言及していた。(p433)
この段階ではまだ、西ヨーロッパには奇妙な習慣があるものだ、と思って読み進めていましたが、風向きが変わってきます。
著者は続いて、「一見したところでは、このような中断を含む睡眠パターンは初期キリスト教に発する文化的影響の名残ではないかと考えたくなる」と述べ、特定の文化の影響で生じた地域限定的な習慣ではないか、と考察します。(p434)
ところが、文献をたどれば、『「第一の眠り」への言及はキリスト教の創成以前からあった』ことがわかってきます。まったく異なるギリシャやメソポタミアの文化にも、この二分割された眠りが出てきます。(p435)
それどころか、現代にも、西洋文化とまったく関わりのないアフリカ文化に、「第一の眠り」と「第二の眠り」が存在していることが判明します。
反対に、キリスト教以外の宗教を信仰する非西洋社会の文化の中に、20世紀になっても産業革命前のヨーロッパに見られた形態に驚くほどよく似た分割型の睡眠パターンを示すものがあった。
たとえばアフリカでは人類学者が、ティヴ族やチャガ族、ダウィ族の村へ行き、村が真夜中を過ぎてから目を覚ました大人や子どもで驚くほど活気づくことを見いだした。
…ティヴ族はこの伝統的な二相の睡眠を表すのに、それぞれ「第一の眠り」「第二の眠り」という言葉まで使っていた。(p436)
何やら不可解な流れになってきました。はじめは中世ヨーロッパの一部の地域限定の奇妙な習慣かと思っていた分割型の睡眠が、古代の人たちのみならず、現代のまったく無関係の文化でも見られるというのです。
極めつけは、動物行動学の研究です。この本に引用されているところによれば、ジョン・ロックはあの有名な「人間知性論」にてこう述べていました。
ジョン・ロックの見解によると、「誰にとっても中休みを置いて眠ること」は生活する上でごく普通の振る舞いであり、それは他の多くの動物にもあてはまる。(p433)
この奇妙な分割型の睡眠は、さまざまな文化に共通して見られるどころか、自然界の動物たちにもあてはまるというのです。
そうなると、にわかには信じがたく、受け入れがたくもある、突拍子もない結論が浮かび上がってきます。
ここに来てついに冒頭で引用したあの言葉、わたしがこの本を読んでいて最も衝撃的だったと書いた、あの文章につながります。
さてそうなると、根本的な疑問が残る。この興味をそそる変則的な睡眠の取り方をどう説明すればよいのか。
というよりもむしろほんとうの謎と言うべきは、現在の私たちが中断のない睡眠を取っていることであり、それはどうすれば説明がつくのだろうか。
分割型の睡眠パターンは多くの野生動物にも見られ、近代になるまではそれが自然な、人類誕生以来の睡眠の取り方だったと考えるほうが筋が通っている。(p436)
もはや、そう考えるしかありません。
奇妙なのは中世の西ヨーロッパ人の風習ではなかったのです。ギリシャやメソポタミアやアフリカの文化、さらには動物たちもがこの二相型睡眠をとっているのだとすれば、答えはひとつです。
異質で奇妙極まりないのは、わたしたちの睡眠のほうなのです。
わたしたちが当たり前だと思ってきた睡眠、つまり夜中に目覚めず「朝までぐっすり」という睡眠こそが人類史的にも生物学的にも異常であり、産業革命以前の人類や生き物たちにみられる二相型の睡眠のほうが普通なのです。
人々は「朝までぐっすり」寝なかった
「朝までぐっすり」の睡眠こそが奇妙で異質だ、などと言われても、そうそうすぐに納得する人はいないでしょう。
しかし、科学的な研究もまたそれを裏づけているといいます。
米国メリーランド州ベセスダにあるアメリカ国立精神衛生研究所で近年行われた実験が示唆しているように、謎を解くカギは近代以前の人々を包んでいた暗闇にありそうだ。
トマス・ベーア博士は同僚と共に「先史時代の」睡眠を再現することを試み、被験者を数週間、夜間人工光を利用できない状態に置いた。
すると被験者は、最終的に、産業革命前の家庭で見られたのと同じ分割型の睡眠パターンを示したのだ。
毎晩最長で14時間人工光のない状態に置かれたベーアの被験者は、まず、ベッドに横たわって2時間覚醒した状態にあり、4時間眠り、再度目覚めて2時間から3時間静かな休息と内省の時間を過ごし、また4時間眠った後、完全に目を覚ます。(p436)
この米国国立衛生研究所の研究によれば、産業革命以前の人たちが二相型の分割型の睡眠をとっていたのは、奇妙な文化的な習慣ではありませんでした。
それはまぎれもなく、生物として本来あるべき睡眠、「先史時代の」睡眠であり、人工光という人為的な明かりの氾濫がない世界においては、ごくごく当たり前のものだった、ということが明らかになったのです。
要点は明白です。歴史上長きにわたって、当たり前だったのは、分割型の睡眠のほうでした。わざわざ言及するまでもないほど、それが当たり前でした。
ところが、このわずか2世紀ほどの間に、産業革命によって人工光が爆発的に広まり、わたしたちホモ・サピエンスという種がいまだかつて経験したことのない過剰な光害にさらされ始めたことで、この生物学的な仕組みが変化しました。
何千年以上も続くあらゆる文化で営まれてきた二相型の睡眠が、奇妙極まりない「朝までぐっすり」目覚めない新しい形態の睡眠へと変化してしまったのです。
そして、あろうことか、ほとんどの人がそうした睡眠をとるようになってしまったので、その異質な睡眠のほうが健康的で普通の眠りだとみなされるようにさえなってしまったということです。
これは、例えるなら、現代人が、真っ白な白米こそがおいしくて栄養あるごはんだと誤解しているのと似ているかもしれません。
本当は精製された白米は栄養がスカスカで、色の付いた胚芽米や玄米のほうがバランスのいい自然な食事であるにもかかわらず。
いわば「朝までぐっすり」の睡眠は精製された白米であり、おそらくは何か重要なものが人為的に削ぎ落とされてしまった、スカスカなものなのです、そして二相型の睡眠こそが栄養豊かな胚芽米や玄米のようなものなのでしょう。
ならば、その、真に健康的な睡眠から削ぎ落とされてしまった「何か重要なもの」とはいったい何なのか。
「先史時代の」二相型の睡眠にあって、現代人の「朝までぐっすり」の睡眠にはないもの。
それは、もちろん、2つの睡眠のあいだに存在していたはずの中休みの時間に違いありません。
「眠りと覚醒のはざま」がもたらしていた恩恵
かつて産業革命以前の人々にとって当たり前だった、二相型の分割睡眠には、「第一の眠り」と「第二の眠り」の間に存在する、1時間から数時間ほどの中途覚醒の中休みがありました。
しかし、この中途覚醒の時間が、目がぱっちり冴えて目覚める、ごく普通の意味での覚醒時間だったのかというと、そうではなかったようです。前述の研究によると、その覚醒時間には、独特な性質がありました。
大きな意味を持つと思われるのは、睡眠を中断する「不安のない覚醒状態」の時間帯にはプロラクチンの濃度がはっきりわかるほど高まるという「内分泌学上の特徴」があったことだ。
プロラクチンは授乳中の母親の乳汁分泌を刺激したり、鶏に長時間卵を抱かせたりすることでよく知られている下垂体ホルモンである。
ベーアはこの覚醒の時間を、瞑想状態に似た、変性意識状態に近いものとしている。(p436-437)
プロラクチンは、母性行動に関わっていることからわかるように、穏やかな安心感をもたらします。もともと寝ている間に最も分泌量が多くなるホルモンなので、安らかな眠りに伴うまどろみとも関係しています。
ということは、この第一の眠りと第二の眠りのあいだに訪れる中途覚醒の時間は、「眠りと覚醒のはざま」にあるような、心地よい変性意識状態だということになります。
この「眠りと覚醒のはざま」の状態で、脳はどう働いているのかというと、意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)という本で詳しく解説されています。
簡単にいえば、半分目覚め、半分夢を見ているかのような、心が解放され、自由にさまよっている「マインドワンダリング」状態にあります。これは創造性とインスピレーションに満ちた状態でもあります、
このようなまどろみの時期に独創的なアイデアを思いついたという逸話は、古くからたくさん存在しています。失われた夜の歴史によれば、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも、この睡眠の中休みにアイデアをまとめたと思しき言葉を残しているそうです。
暗闇の中でベッドに入ったまま、すでに検討しているもの、あるいは創意に富む思索で得た注目すべきものについて、主な輪郭を頭の中で想像して再度、熟慮すると、少なからぬ利益が得られる。(p438)
この中休みの時間は、先の研究によれば「瞑想状態に似た、変性意識状態に近いもの」とされていました。
この時間帯には気分調節機能もあったのでしょう。良い夢を見た後に余韻に浸る夢心地のような状態です。
またスピリチュアルな思索を思い巡らす時間にもなりました。例えば旧約聖書には、当時の人たちがこの夜の中休みに神について思い巡らしたと思われる描写が記録されてるようです。
18世紀のラビ、ヨナタン・アイベシュッツは、「神は世界を暗くし、人間が瞑想し」、また「神について考えることに集中できるようにした」と述べていたともされています。(p306)
興味深いことに、先の米国国立衛生研究所の実験では、この分割型睡眠をとった人は、「第一の眠り」から覚める直前、レム睡眠の状態にあったことが確認されています。(p46)
レム睡眠は言わずと知れた多種多様な夢を見る睡眠であり、レム睡眠から目覚めた直後に「眠りと覚醒のはざま」に入れば、当然、どんな夢を見たか生々しく鮮明に記憶していることになります。
そうすると、中世以前の人たちが、あれほど夢を重視し、神からのお告げや予知夢だとみなしたのは至極もっともです。フロイトが夢分析を熱心に研究したのもまたしかりです。
レム睡眠からいったん目覚めて「眠りと覚醒のはざま」の中休みに入る分割睡眠では夢の内容を覚えていることが多いのに対し、現代型の「朝までぐっすり」の睡眠は夢を覚えていないことが多いようです。(p463)
わたしたちの中には夢をよく見る人と、夢を全然見ない人がいます。夢を見ない人はぐっすり深い眠りをとったかのように思われがちですが、実際には、夢を見ない睡眠のほうが人類史的に新しい異質で奇妙なものではないか、ということになります。
事実、古代の人々はみな夢の内容に非常に深い関心を寄せていたようであり、1712年の記述によれば、「起きている時に考えることが眠っている時のことで占められている人がたくさんいる」とされるほど夢は強い影響力を持っていました。(p460)
では、夢をたくさん記憶したり、変性意識状態で夢について思い出したりすることには、何かメリットがあったのでしょうか。大いにありました。
産業革命前の人々が夜明けまで目を覚まさず、眠ったままでいたとしたら、自己発見につながるヴィジョンも癒しや精神性につながるヴィジョンも枕元で潰えていたであろう。
…しかし実際にはそうならずに、第一の眠りの後、夜中に目を覚ます習慣のおかげで、見たばかりの夢のヴィジョンが無意識に戻る前に記憶に留められた。(p462)
夢は、無意識や潜在意識の中の記憶の断片から生じていきすが、ときに自己発見やインスピレーションをもたらすことがあります。毎晩、変性意識状態で夢について思索できるというのは、一種の人格陶冶の時間を持てた、ということです。
現代人がわざわざお金を出してスピリチュアルヒーリングに足繁く通うようなことが、生物の基本的なつくりとして睡眠の構造の中に組み込まれていたのです。
当時の人たちは分割睡眠とその瞑想的な中休みのおかげで、「この包み込むような一人だけの時間を瞑想に浸って過ごす―前日の出来事をゆっくり思い出し、夜明けの訪れに備える」ことができました。(p443)
それに対し、現代の「朝までぐっすり」型睡眠の人たちはどうでしょうか。一見、健康的で質の良い眠りをとったかのうように考えていますが、実際には自分についてじっくり熟考する機会を失ってしまいました。
現代人は、仕事に疲れて帰宅して、床について眠れば、気づけばもう朝になっていて、また仕事に出かけなければなりません。
次から次へと押し寄せる予定に忙殺されて、自己のあり方についてじっくり考える時間などありません。気づいたらもう人生の半ばを過ぎています。
産業革命以降、光害が蔓延し、本物の夜が失われると同時に分割型睡眠が失われ、あたかも「朝までぐっすり」型睡眠が健康であるかのように誤解されるまでになったことによる最大の弊害はここにあるのでしょう。
我々の夢が生み出す想像力に富む世界は、分割睡眠が失われたことでいっそう遠ざかり、それと共に、我々の内面的自己を理解する力も衰えてしまった。(p485)
現代人は、二相型睡眠を失うとともに、想像力を失い、「内面的自己を理解する力」も衰えてしまいました。
現代人、特に先進国に住む人たちは、精神疾患を抱える割合が急増しています。それは、分割型の睡眠の中休みが失われ、生物学的に組み込まれた心のメンテナンス機能が働いていないからなのかもしれません。
以前考察したように、レム睡眠は手続き記憶の処理を担っています。トラウマとはすなわち手続き記憶の障害なので、「眠りと覚醒のはざま」を失った現代人の睡眠は、トラウマに対して脆弱になっているはずです。
もうひとつ付け加えるとすれば、どうやら、分割型睡眠が無くなったことで失われたのは、心を整理するための機会だけではないようです。
記録によれば、産業革命以前の夫婦は、この「第一の眠り」と「第二の眠り」のあいだの、プロラクチン濃度が高まる時刻に子どもを作っていたそうです。(p443)
この中休みの覚醒は、男性にも女性にも普通に生じたので、同じ時間に寝た夫婦が、同じ時間に中途覚醒してまどろむことになりました。お互いにリラックスしているその時刻は、夫婦が愛情を表現しあうのに最適でした。
とすると、分割型睡眠が失われたことは、特に先進国で子どもの数が減っていること、また離婚が急激に増加していることともつながっている可能性があります。
現代人は、仕事から帰ってきたら疲れ果てていて「朝までぐっすり」寝るせいで、夫婦の時間を持つ余裕がほとんどなくなっています。
昔から、夫婦の絆は、リラックスして過ごせる夜のひと時に強化されてきたはずですが、産業革命以降、夜中まで明るい照明が増加したことによって、愛情を深める貴重な機会が失われてしまったのではないでしょうか。
なぜ分割型睡眠は失われたか
こうして考えると、わたしたち現代人は、胚芽を削ぎ落とされた白米のごとく、心身の栄養となるべき「眠りと覚醒のはざま」の時間を削ぎ落とされてしまった睡眠を、誤って健康的だと思いこんでいるように思えます。
奇妙なのは、なぜ、産業革命以降の明るさが蔓延してしまった社会で、このような睡眠構造の劇的すぎる変化が起こってしまったのか、ということです。
自然界の生き物は悠久の太古から、二相型睡眠を発達させ、睡眠の中休みを活用してきました、それなのに、なぜ、たかだかこの数世代のうちに、「朝までぐっすり」型の異質な睡眠が立ちどころに現れ、だれも変だと思わないほど一般的になってしまったのでしょうか。
今回主に参考にしている もう一冊の本、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかのほうを読むと、その理由のからくりが薄っすらと見えてきます。
この本によれば、ウェイクフォレスト大学バプティスト・メディカルセンターの睡眠障害センター長、ヴォーン・マッコール博士は、不眠症患者の研究を通して、分割型睡眠の歴史学的研究と同じ結論にたどり着いていました。
マッコールは大勢の不眠症患者を見てきたが、そのほとんどが「なぜ真夜中なのに目が冴えるんだ?」と思い悩み、ストレスを感じているという。
夜中に目が覚めるのは人間としておそらく普通の経験なのだが、そうした認識は電灯の出現とともに失われつつあるとマッコールは主張する。
「19世紀に書かれた日記を見れば、150年前の人々が暗くなると床に入り、明るくなると床を出たという感覚がわかるでしょう。彼らは自然の明るさの周期におおよそ歩調を合わせていたのです。
夜の長い季節などには、9時間か10時間ずっとベッドの中にいたかもしれませんが、必ずしもそのあいだずっと眠っていようとは考えていませんでした」(p156)
彼もまた、分割型睡眠が失われた背景には「電灯の出現」が関係していると見ていますが、もう少し踏み込んだ見解を持っています。
行動という点だけを見れば、電灯は私たちを誘惑の道に誘い込む『エデンの園のりんご』です。
おかげで私たちは、テレビを見たりインターネットをしたり、眠りを妨げるあらゆる行動に引き寄せられてしまうのです。
電灯を手に入れたことで、人間には、夜遅くまで起きて、睡眠時間を短くするという選択肢が与えられました。
そしてそのうちに突如として、夜中に目覚めるのは異常だと言われるようになってしまったのです」(p158)
マッコールが言うには、電灯による光害が出現したことが、分割型睡眠が失われた直接原因ではないようです。
たとえば概日リズム睡眠障害の場合は、光害が蔓延して、過剰な光が体内時計を乱すことで起こっていると考えられますが、分割型睡眠の喪失については、もうひとステップを間にはさんで考える必要があります。
照明器具が普及すると、人々は、そのおかげで夜遅くまで起きて仕事をしたり遊んだりしていられるようになりました。「電灯を手に入れたことで、人間には、夜遅くまで起きて、睡眠時間を短くするという選択肢が与えられ」たのです。
この、電灯のおかげで睡眠時間が短くなった、というのがどうもキーポイントではないかと思われます。
光害の満ちる世界で、分割睡眠を失ったのは人間だけでした。電灯が明るくなることで、「エデンの園のりんご」のような行動への誘惑に駆られるのは、人間だけだからでしょう。
動物たちはたとえ光が明るくなっても睡眠時間を削ったりしません。人間だけが、自らの意思によって睡眠時間を削ることを選べます。
最近の国内の睡眠研究によれば、現代人のほとんどが、気づかないうちに、潜在的睡眠不足(potential sleep debt : PSD)と呼ばれる状態に陥っているとのことでした。
潜在的睡眠不足の状態にある人は、自分が睡眠不足に気づいておらず、無自覚のままさまざまな体調不良や行動障害、注意力の減退といった症状を抱えています。
しかしながら、潜在的睡眠不足の最も恐るべき影響は、身体が睡眠不足に適応するため、無自覚のうちに、睡眠の構造を変化させるというところにあります。
国立精神・神経医療研究センター・三島和夫部長らの研究グループが、 睡眠不足で不安・抑うつが強まる神経基盤を解明 | 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター
これは睡眠不足時には深い睡眠が最優先で保たれ、浅い睡眠やレム睡眠から削ぎ落とされることを示しています。
しかし本研究から、浅い睡眠やレム睡眠もまた代謝やストレス応答機能の維持にとって重要であることが明らかになりました。
巷で広まっている「短時間睡眠法」の問題点を浮き彫りにした結果と言えるでしょう。
潜在的睡眠不足に陥っている人は、いつのまにか、浅い睡眠や、夢を見るレム睡眠が削ぎ落とされ、最低限確保しなければならない深い睡眠だけが優先して保たれていたのです。
これはこの記事で考えてきた話と、妙に似通っていないでしょうか。ちょうど玄米を白米に精製するかのように、胚乳にあたる深い睡眠だけが最低限保持され、胚芽にあたる浅い睡眠やレム睡眠は削ぎ落とされてしまう…。
これは単に似通った事象なのではなく、おそらくは同じもののことを言っているのです。
つまり、現代人は、マッコールが言うように、電灯の普及とともに「睡眠時間を短くするという選択肢」を手に入れました。
そして、本人も自覚しないままに、生物として必要最低限の睡眠時間を取らなくなり、「潜在的睡眠不足」に陥りました。
そのとき、身体はその慢性的な睡眠不足環境に適応するために、睡眠の構造を変化させました。「浅い眠り」や「レム睡眠」を削ぎ落としてしまうことによってです。
産業革命以前の人たちがごく当たり前にとっていた二相型の分割型睡眠の特徴は、第一の眠りの際に鮮明な夢を見るレム睡眠を経験すること、そして中休みのときに覚醒と眠りのはざまのような浅い眠りに入って、いったん目覚めて変性意識状態になることでした。
つまり、二相型の正常な睡眠から「浅い眠り」や「レム睡眠」を削ぎ落としたのが、現代人が普通だと思っている「朝までぐっすり」型の夜中に目覚めない睡眠なのです。
本来の正常な二相型睡眠は、ベーアの実験が示していたように、第一の眠りに4時間、中休みに1--2時間、そして第二の眠りに4時間という、計9時間から10時間を要します。
しかし、現代人のほとんど全員が、アインシュタインのように意識して眠っているロングスリーパーを除いて、この二相型睡眠に必要なだけの時間的余裕を確保できていません。
その結果、短い限られた睡眠時間の中で、なんとか必要最低限の眠りを確保するために、生体維持にどうしても必要な深い眠りだけを保持し、他の要素を泣く泣く削ぎ落として適応したのが、「朝までぐっすり」の睡眠なのです。
であるなら、「俺は朝までぐっすり夢も見ないほど深く眠るんだ」と自慢しているような人は、気づかないうちに潜在的睡眠不足に陥り、大事な要素が削ぎ落とされた眠りで満足していることになります。
失われた夜の歴史の中で、イーカーチは、わたしたちが健康な眠りだと思っている「朝までぐっすり」型の睡眠は、「圧縮された新しい形態」の眠りだと述べています。
もはやほとんどの人は、真夜中に目覚めて、夢に出てきた幻影についてじっくり考えることをしなくなった。
睡眠が統合され、かつ圧縮された新しい形態に変化すると、多くの人々が夢との接触を失い、その結果、心の最深部の感情に至る伝統的な道をも失ったのである。
夜を昼間に変えることによって、近代技術が、人間の心理へ到達する最古の通路を遮る助けとなったことは、少なからぬ皮肉である。
それは最大の喪失であるかもしれない。
昔の詩人の言葉を借りれば、「第一の眠りを完全になくし、我々から夢や幻想をだまし取ったのだ」(p480)
朝までぐっすり眠って夢も見ない、というのは、眠るための時間がなくなって、本来10時間ほどかけて心を整えるよう構成されていた分割睡眠を圧縮せざるを得なくなり、「夢や幻想をだまし取」られた人類の成れの果てなのです。
パラダイム・シフト―圧縮睡眠か分割睡眠か
この記事で考えてきた、分割睡眠と圧縮睡眠についての歴史学的また生物学的考察が正しいとすれば、わたしたちはとんでもない思い違いをしていることになります。
それはある意味、地動説と天動説のようなパラダイム・シフトです。
わたしたちの社会の人々は、ほとんどが「朝までぐっすり」の圧縮睡眠をとっています。圧縮睡眠は圧倒的に多数派なので、健全で正しいものだとみなされています。
これは、中世以前に圧倒的多数から支持されていた天動説が正しいとみなされていたのと似ています。
それに対して、分割型睡眠は、現代医学の常識では異常なものとみなされがちです。夜中に目が覚めるというのは「中途覚醒」という不眠症のいち症状だと定義されているからです。
これは、かつて地動説が異端とみなされていたのと似ています。
しかし、この記事の考察が正しいとすれば、これらはすべてひっくり返ります。
圧倒的多数が示す圧縮睡眠こそが、産業革命以降に光害によって出現した異質な新しい形態の睡眠なのであれば、中途覚醒を経験し、分割型睡眠の名残りを残している人たちのほうが本来あるべき姿に近い、ということになります。
本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかの中でマッコールが述べていたように、「突如として、夜中に目覚めるのは異常だと言われるようになってしまった」のであり、もともとそうだったわけではありません。
こうした例は医学の世界では全然珍しくありません。
最近書いたとおり、ADHDは、本来障害でもなんでもない気質の子どもたちが、社会において少数派であるがゆえに病気と見なされた一例です。
医学は、往々にして、多数派を正常、少数派を病気また障害とみなします。たとえ大半の人が毒に侵されていて、ほんの一部の人だけが無事だったとしても、医学は多数派のほうを正常とみなし、少数派は異常や例外とみなすでしょう。
マッコールは、中途覚醒に悩む不眠症患者を大勢診てきた結果、不眠症の多くは、多数派を正常とする社会的な基準によって生み出されたのではないか、と考えています。
「セックスを例に挙げてみましょう。テレビや映画の性描写を見ると、『俺の性生活はこんなんじゃない。俺は大丈夫だろうか?』と自分が不適格な人間のように感じてしまうことがあるかもしれません。
眠りも同じです。睡眠を理想化しすぎて『これとまったく同じように寝ていなければ、あなたはどこかおかしいに違いない』と指摘すれば、誤った基準を広めることになるでしょう。
私たちはそうやって見込み違いをしてしまうのです。」(o158)
本当は中途覚醒を経験するほうが生物としてあるべき姿に近いのだとしても、社会において、夜目覚めない人が多数派になってしまうと、中途覚醒を経験する人は異常だとみなされるようになります。
その結果、本当は悩まなくてもいい人たちが、自分は病気なのではないか、と悩んでいるというわけです。
もう少し踏み込んで考えると、これはロングスリーパーとショートスリーパーの問題にも関係しているかもしれません。
現代社会では短時間睡眠で元気に働けるショートスリーパーがもてはやされ、長い時間寝るロングスリーパーは怠惰とみなされがちです。
しかし、もしも分割型の睡眠が生物的にまっとうなのだとすると、どんな人も10時間近い睡眠をとってしかるべき、ということになります。
睡眠医学の一般的な理解では、ロングスリーパーとショートスリーパーは遺伝的に決まっていて、それぞれ必要な睡眠時間が違うとなっていますが、本当にそうなのでしょうか。
もし本来人間は分割型睡眠をとるのが当たり前だとすれば、ショートスリーパーとは、分割型睡眠から、レム睡眠や浅い眠りといった、内面的自己を見つめ直す時間が失われても気づかず、苦にしない人たちである、ということになります。
言い換えれば、ショートスリーパーの遺伝子とは、自己の内面を見つめる能力の弱さ、鈍感さと関係しているのではないか、ともみなせるでしょう。
一般に、ロングスリーパーは、繊細で内向的で、よく考える人に多いとされますが、それは正常な分割型睡眠の名残を残していることから生じる恩恵なのかもしれません。分割された長時間睡眠を取っているから深く考えるようになるのです。
ショートスリーパーの人たちも、もし産業革命前に生まれていたら、分割型睡眠を通して、もっと自己の内面を熟慮できたのかもしれません。しかし、比較的鈍感なので、それが失われても気にしない、ということなのでしょうか。
もっとも、裏を返せば、ショートスリーパーの遺伝子を持つ人たちは、鈍感であるがゆえに、光害が氾濫して24時間働き続けることを求めるような社会にも、すんなり適応していける、ということにもなるでしょう。
さらに、これはまた、概日リズム睡眠障害を抱える人たちを定義しなおすヒントにもなります。
概日リズム睡眠障害の人たちも、宵っ張りの朝寝坊なおかげで、ロングスリーパーと同様、愚かな怠け者だとみなされがちです。
しかし、そもそも、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかにあるとおり、現代は人類史上最悪の光害が世界規模で生じている危機的な時代です。
僕たちが支払う代償はささやかではすまない。
]以前からわかっていたことでもあるし、最近新たに判明した問題もあるが、ともかく自然の夜の暗さは、人間の健康や自然界の安定のために、いつだってかけがえのないものだった。
それを失ったことで、あらゆる生物が苦しんでいる。(p14)
とすると、その光害のあおりを受けて、概日リズム睡眠障害を発症してしまうような人は、脆弱性を持っているどころか、至極まっとうな感性を持っている人だ、ということにならないでしょうか。
事実、最も重い非24時間型睡眠覚醒症候群の人でも、完全に自然界の中で寝起きするキャンプ生活をすれば、睡眠が正常化することを思えば、おかしいのは本人ではなく、社会を満たしている光害のほうなのです。
よく睡眠にはメリハリが必要だと強調されますが、もしかすると必要なのは、個人の睡眠のメリハリではなく、環境側の昼夜のメリハリなのではないでしょうか。
個人の睡眠においては無理やり意志の力で朝シャッキリ目覚めなくてもよく、環境側の昼夜のメリハリさえあれば、「春眠暁を覚えず」のように、自然な目覚めが促され、適度なメリハリが保たれるのではないでしょうか。
概日リズム睡眠障害を発症しない人が多数派なせいで、概日リズム睡眠障害を発症する人が病的な遺伝子を持っているとみなされていますが、実際には概日リズム睡眠障害を発症しない大多数の人のほうが、古くから受け継がれてきた大切な何かが麻痺しているのかもしれません。
最後にもうひとつ、このパラダイムシフトが影響してきそうなのは、このブログのもうひとつのテーマである解離です。
以前に考えたように、解離の当事者は奇妙な夢をたくさん見て、現実と夢の境目がわからなくなることがよくあります。
上記記事で書いたような独特な夢や、金縛り、体外離脱などを頻繁に体験することは、現代社会では何かしら異常だとみなされやすいですが、今回の記事で考えてきたように、産業革命以前はもっと一般的でした。
失われた夜の歴史の中には、解離の体験世界との親和性を感じるような言葉や体験が多数引用されています。
たとえば、紀元前500年頃のギリシャの哲学者ヘラクレイトスはこう言いました。
目覚めている者には、万人に共通のただ一つの世界しかない。
しかし、眠っている時には、それぞれが自分だけの世界に向かっている。(p431)
人々は、自分が現実の世界にいるのか、それとも夢の世界にいるのか、あいまいに感じることがよくありました。
夢のヴィジョンは人々に大きな影響力を持ち、「眠りの特権」はあまりに大きかったので、目覚めているのか目には見えない非現実の世界にいるのか境目がわからなくなってしまうこともあった。
時にはヴィジョンの中の出来事だと思っていたのに、数日後のほんとうにあったことだとわかることもあった。
アバディーンの牧師はある時、窓の外に尋常ならざる光景を見たが、後になって、それが「夢だったのかほんとうに見たのか」思い出せなくなった。
『サセックス・ウィークリー・アドヴァタイザー』紙の記者はこう述べている。
「我々は毎日どれほど多くの夢の話を聞くだろう。内容がもたらす影響が大きく、もっともらしいと、話し手自身も目を覚ましている時に経験したことだと信じ込んでしまうことがある」。(p461-462)
また、人々が悪霊の存在を信じていた背景には、ひとつには頻繁に経験する金縛り(睡眠麻痺)のような、レム睡眠のさなかに起こる奇妙な症状の存在がありました。
一般に信じられているところによれば、悪霊もこの時間帯にうろつくことが多かった。
マサチューセッツ湾植民地のジョン・ラウダー(訳注:セイラム魔女裁判の証人の一人)がベッドで眠っている時、腹の上にまたがっている悪魔の「ものすごい重さ」を感じたのは、「深夜に近い頃」だった。(p213)
どれも、解離傾向の強い人にはよくあることです。
この記事で見たとおり、中世以前の人たちが暮らしていた世界観そのものが、解離傾向の強い人の感覚と親和性があります。
中世の人たちは、妖精や幽霊が現実に存在すると感じていましたが、解離傾向の強い人もやはり、霊的存在を感じたり、空想の友だちの存在をありありと感じたりします。
全身の光過敏症のために、産業革命以前のような真っ暗闇の中で過ごさなければならなくなったアンナ・リンジーが、解離性障害でもないのにひどくリアルな夢を見るようになり、想像力豊かな闘病記を書いているのも、暗闇の重要性を示唆しています。
ということは、現代社会で解離性障害になる人たちは、何か異常な体質を持っているのではなく、ただ単に、中世以前の人たちの体質を色濃く受け継いでいるということにならないでしょうか。
本来、「本物の夜」が満ちていてる時代に生まれてくるべきだったような人が、たまたまこの時代に産み落とされ、心の安定に必要な分割睡眠をとる余裕を与えられず、一種の睡眠異常を抱えるまでに追い詰められた結果発症するのが、解離性障害ではないか、ということも考えられます。
わたしが調べてきた限り、解離という機能は非常に古くから人類に備わってます。統合失調症の医学的記述が、ほんのここ200年ほどしか遡れないのに対し、解離(ヒステリー)は紀元前から記録されていることからもそういえます。
解離は病的なものではなく人類に古くから備わる、脳を保護するための機構です。個人的な意見としては、むしろ解離という防衛機制があまり働かない人のほうが何かしら問題を抱えているのではないか、とさえ思えます。
というのも、健全な解離現象は、逆PTSD効果を持っていると言われていて、人類が歴史を通じてトラウマ的な苦痛を生き延びてこられたのは、解離という機能が備わっていたからではないか、と思えるからです。
すでに見たとおり、浅い眠りやレム睡眠が削ぎ落とされた現代人の圧縮睡眠は、「眠りと覚醒のはざま」で起こる健全な解離現象を経験しにくくしていると同時に、手続き記憶の処理を滞らせ、現代人をトラウマに対して脆弱にしている可能性があります。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれていた、畏敬の念という健全な解離現象に、逆PTSD効果があるという研究からすれば、本物の夜が失われたことは、それ自体が人類をトラウマに対して脆弱にしているはずです。(p263)
本物の夜がすぐそこにある時代に生きた人々は、トラウマに直面したとき、一人戸外に出て、圧倒的かつ壮大で、あらゆるものを引き込むかのような漆黒の夜空を見上げることで、PTSDを乗り越えるために必要な畏敬の念を抱けたでしょうから。
こうして考えると、中途覚醒、ロングスリーパー、概日リズム睡眠障害、解離の当事者は、いずれも「先史時代」の分割睡眠の名残を残している人たちであり、本来、障害でも何でもないものが、時代を取り巻く環境のせいで病的だとみなされてきたのかもしれません。
▼多数派が正常とはいえない先例
医学において、多数派が正常とは限らないことを示す大規模な先例は、現在急速に進展しつつあるマイクロバイオーム(体内微生物群)の研究に見ることができます。
失われてゆく、我々の内なる細菌などで専門家が述べるように、現代の文明人は一人残らず抗生物質などの影響で腸内細菌バランスが崩れているので、正常なドナーを探そうとすれば、未開の先住民のもとへサンプル採取に行かねばなりません。
たとえば、157人の北米人と、12人のアマゾン先住民の調査では、アメリカ人はみな特有の細菌を数種類しか持っていませんでしたが、先住民たちはみな特有の細菌を数百種類も保持していました。(p241)
マイクロバイオームが失われつつある現代社会では、ほぼすべての人から正常な腸内細菌が失われているので、多数派を正常とみなすことはできません、本当の夜が失われた時代における睡眠の研究にも同じことがいえます。
本当の夜を探して―失楽園から復楽園へ
この記事では、失われた夜の歴史に書かれている産業革命以前の人々の暮らしや世界観をひもとき、わたしたち人類が古くから備わっていたと思われる分割睡眠の機能について考えてきました。
分割睡眠の研究からすれば、現代の圧縮睡眠を示す人たちのほうが異質だと書きましたが、実際のところ、どちらが病気でどちらが健康か、という問いには、答えが出せないかもしれません。
ここ150年ほどに生じた大規模な光害をはじめとする環境の激変によって、人類の大部分が分割睡眠を失い、圧縮睡眠を発達させたのは、生物学的に言えば、適応の一例です。
生物は、歴史上あらゆる時代を通じて、その時々の環境に適応するために、不要な機能は退化させ、役立つ能力は発達させてきました。
生物は「進化」すると言われますが、オリヴァー・サックスが色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫 NF 426)で述べるように、生物はより優れたものへと「進化」してきたのではありません。
自然は、ダーウィン自身が強調したように、周囲の条件に対して適応するだけなのである。(p348)
進化あるいは發展についての結論を導くために、それがウマであろうがヒトであろうが、たった一本の系統を研究しても無意味であるということをグールドは示している。
地上のあらゆる生命、あらゆる種を視野に入れて初めて、自然を特徴づけるのは進化ではなく、むしろ環境への無限の適応や多様な形態などであり、そのいずれが「高等」あるいは「下等」と分類することはできないことが分かるのだ。(p349)
生物の「進化」とみなされているものは、実際には、「進化ではなく、むしろ環境への無限の適応や多様な形態」です。人間は、万物の霊長類や進化の頂点ではなく、単に、ある特定の環境に適応した一個の生物にすぎません。
人類という種の中で生じているさまざまな多様性もまた、どれが優れている、劣っていると比較できるようなものではなく、すべて、それぞれが置かれた特殊な環境に適応した結果にすぎません。
この記事で考えてきた分割睡眠と圧縮睡眠はまさにその好例です。この記事の冒頭で使った失楽園と復楽園という表現にかけてみると、こうなります。
古くから備わってきた分割睡眠を示す人たちは、「本当の夜」が存在する世界、すなわち宵闇の中に神や霊的存在がかいま見える、エデンの園のような産業革命前の世界に適応した人類のひとつの姿です。
他方、圧縮睡眠を示す人たちは、もはや本当の夜が存在せず、どこまでも隅々まで照らし出す明かりによって、神や悪魔さえも存在しなくなった、エデンの外の世界、産業革命後の世界に適応した人類のありようです。
それぞれ、まったく異なる2つの世界に適応した存在であり、どちらが生物学的に正常か異常か、という単純な話ではありません。それぞれが相異なる環境で生きていくために、一部の機能を特化させ、別の機能を削ぎ落としているだけなのですから。
しかしながら、生物はどんな環境にも無限に適応するとはいっても、適応した世界に持続可能な未来があるかどうかはまた別の話です。
現代社会の多くの人たちは、本当の夜が失われた、光害だらけの世界に適応して圧縮睡眠という新しい形態の睡眠を発達させましたが、この世界の行きつく先に持続可能な未来が待っているかどうかは別問題です。
すでにわかっている証拠からすれば、光害だらけの世界は、人間のみならずあらゆる生態系に影響を及ぼしていて、地球環境そのものが成り立たなくなる危険をはらんでいます。
そうなれば、いくら圧縮睡眠に適応した人類といえど生き残ることはできず、滅びゆく生態系と運命を共にするだけでしょう。
では、かつての失われた夜の世界、ロウソクで照らされた産業革命前の失楽園に逆戻りすべきなのかというと、それもまた極端すぎるでしょう。当時の生活には、その時代ならではの苦労が、それこそ山のごとくあり、決して理想的な暮らしとはいえませんでした。
望むべくは、圧縮睡眠に適応した新時代の人類と、分割睡眠の名残りを持つ失われた夜の人類とが、共に共存していけるような、明かりと暗がりとが世界各地にバランスよく共存共栄しているような世界かもしれません。
そのためには、少なくとも、急速に失われつつある「本物の夜」、絶滅危惧種にも等しい漆黒の闇を保護することが不可欠です。
本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかにはそんな取り組みの数々が載せられていますが、もう残された時間は多くないようです。
タイラー・ノードグレンは言う。
「僕たちは微妙な時期を迎えている。いまはまだ失ったものを知る人がいる。
でもぐずぐずしていたら手遅れだ。誰一人気づけなくなるし、誰一人それを守ろうとは思わなくなる。
あと一世代か二世代放っておけば、『昔は天の川が見られたのに』と懐かしむ世代の大半は姿を消す。
そうしたら最後、それを保護しようとする動きはほとんどなくなってしまうだろう。
だって、昔のよさを取り戻したいと願う人がいなくなってしまうんだから。
だから、いましかないんだよ」(p337)
これほど多くの人が、圧縮された睡眠を当たり前で健康なものと思い込み、光害に満ち満ちた世界に何の疑問も抱いていないのは、もはや「本当の夜」を保護するには残された時間が少ないことの歴然たる証拠なのかもしれません。
光害に敏感に反応して概日リズム睡眠障害を発症したり、産業革命前の時代のような分割睡眠を必要としたり、まどろみの中で夢と触れ合う感覚を残している人たちは、「本物の夜」の必要性を遺伝子レベルで覚えている、わずかな生き残りなのかもしれません。
今回読んだ二冊の本は、睡眠に関する医学的な専門書ではありませんが、わたしがこれまでに読んだどの本より、睡眠について教えてくれました。
アリゾナ大学のルビン・ナイマンが言うように、睡眠の医療は、個人的な主観や体験を排除した学問です。
しかし、眠りとはロボットや人形に起こる現象ではなく、わたしたち生きた人間が経験する、人間的なものなのです。
彼は、伝統的な睡眠医療の現場に苛立ちをおぼえることがあると言う。
そこに見るきっちりと枠にはめられた夜や眠りや夢は、あくまでも客観的な科学的現象であり、個人的または主観的な経験は排除されている。神聖で霊的な経験については言うまでもない。(p160-161)
医学的な睡眠研究が陥っている最大の落とし穴は、睡眠を、時代や文化という背景から切り離された、単独の事象として研究していることでしょう。
本来、睡眠とは、その時代ごとの文化に適応した人間たちの営みであり、それぞれの時代の暮らし、価値観、人々の関心事、自然環境から切り離せないものなので、歴史的背景を考慮せずして睡眠の全貌を知ることなど不可能です。
真っ暗な部屋のただ中に置かれた睡眠という不可思議な現象を研究するには、睡眠そのものに懐中電灯の光を当てるだけでは不十分なのです。いわば、カーテンを開けるかのように、部屋全体を明るくしなければ、正確な形は識別できません。
概日リズム睡眠障害や不眠症といった、多様な睡眠障害に悩んでいる人がいれば、睡眠専門医の本だけでなく、ぜひ今回紹介した二冊の本も読んでみてほしいと思います。
それぞれ似たような領域を研究した本ですが、語り口はかなり異なっていて、失われた夜の歴史のほうは濃密な歴史書、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかは、詩的な感性でつむがれた科学的エッセイの色彩を帯びています。
語り口は異なるとはいえ、どちらも、わたしたちが失い、生まれてこのかた目にしたことのない「失われた夜」「本当の夜」の世界について、多くを教えてくれます。
わたしたちは、今こそ自分たちが追放されたエデンともいうべき「本当の夜」の価値を知らねばなりません。
この混乱した世界では、かつては僕たちが経験できる最もありふれた出来事だったものが、最も得がたいものになりつつある。
子供たちは、天の川を見ることなく、また地球から星々へ放り出される感覚を味わうことなく、大人になっていく。
いま僕たちの多くは、「光を手に」ではなく、あふれるほどの光に身を包んで暗闇を訪れる。
だから、僕たちは知ることがない―暗闇もまた花を咲かせ、歌を奏でることを。(p351)
わたしたちは、今こそ「本当の夜」とは何かを身をもって体験し、人類史を通じて、わたしたちの活力を潤し、魂を癒してくれていた、本物の眠りを思い出すべきなのです。