トラウマ研究の第一人者であるベッセル・ヴァン・デア・コークは、このブログで頻繁に引用している身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ある本のことを「私にとって最も重要な本」と呼んで紹介しています。
ダマシオは一連の見事な科学論文や書物の中で、体の状態と情動と生存との間の関係を明らかにした。
神経科医として、さまざまな種類の脳の損傷を負った患者を何百人と治療してきたダマシオは、意識や、自分が何を感じているかを知るのに必要な脳領域の確認に強い関心を抱くようになった。
彼は、私たちの「自己」の経験を司るものを精密に記すことに自分の職業人生を捧げた。
彼の著書のうち、『無意識の脳 自己意識の脳ー身体と情動と感情の神秘』は私にとって最も重要な本で、それを読んだときには目を開かれる思いだった。(p155)
アイオワ大学メディカル・センター神経学部のアントニオ・R・ダマシオ博士の数ある著書のうち、ヴァン・デア・コークにとって「最も重要な本」に思えたのは、無意識の脳 自己意識の脳でした。
ダマシオは、意識や自己、人格、アイデンティティといった、これまで神秘に包まれていたテーマを、膨大な神経科学の証拠に基づいて考察したことで知られています。
そのおかげで、従来、心理学や精神医学の領域で扱われていたトラウマのような「こころの問題」を、実体のある神経科学的な「からだの問題」として研究することが可能になりました。
この本が、ヴァン・デア・コークにとって重要な本であるとすれば、このブログで取り上げているトラウマや解離の研究においても、極めて重要な一冊だといえるでしょう
ソマティック心理学のような、身体感覚から心にアプローチするセラピーに携わる人にとっても、このダマシオの研究について知っておくことは大いに役立つはずです。
また、わたしのように、専門家ではなくても、心、意識、人格といった つかみどころのない概念を、スピリチュアルな観点ではなく、現実的な観点から考察したい人にとっても、ダマシオの研究について知っておくのはとても大切です。
前知識がないとかなり難解な本ですが、この記事では、わたしのつたない読解力ながら、できるだけ易しい言葉を用いて、ダマシオの研究を解説してみようと思います。
これはどんな本?
ヴァン・デア・コークが言及していた無意識の脳 自己意識の脳(原著は1999年)は、国内でも2003年に翻訳されていますが、先日、この本の文庫版である意識と自己 (講談社学術文庫)が出版されたので、この記事ではそちらを参考にしています。
もともとダマシオは、前著デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)で「情動」とは何か、という理論を展開していたのですが、考察に行き詰まりを感じたことから、この本で「意識」というテーマを掘り下げたそうです。
ものすごく情報量の多い本なので、どれだけ平易に解説しようとしても分量が多くなってしまうのですが、この記事では三つのセクションに分けています。
(1)ダマシオの研究が意義深いのはなぜか、(2)意識とは何か、(3)情動とは何か、の三つです。
ダマシオの本だけでなく、ダマシオの研究を取り上げている幾つかの書籍も参考にしつつ、これらの研究がなぜ有意義なのか、考えていきます。
できる限り正確を期して書いているつもりですが、とても専門性の高い研究なので、わたしの理解力が追いついていない部分も多々あります。興味のある人は、ぜひ原著を読んで、より正確な理解を深めてほしいと思います。
セクション1 : ダマシオの研究が意義深いのはなぜか
ダマシオの研究の細部を調べる前に、まずダマシオの研究が意義深いのはなぜか、という要点を考えてみましょう。
冒頭で書いたように、これまで、意識や自己といったテーマは、スピリチュアルな「こころ」の領域で扱われていました。
ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で述べるように、「こころ」は科学が解明できない神秘として、いわば聖域に取り分けられてきました。
また意識の研究者ではない一般の人たちの間にも、意識の生物学的本質を明らかにすることの人間的意義に関して、これまでずっとある種の困惑や、場合によっては不安すらあった。
専門家でない人たちにとって、意識と心は実質的に区別できないこともあるだろうし、意識[consciousness]と良心[conscience]、意識と魂[soul]、意識と精神[spirit]もそうだろう。
読者もその一人かもしれないが、そういう人たちにとって、心、意識、良心、魂、精神は一つの大きな未知の領域を形成し、それが神秘なるものと説明可能なもの、聖なるものと俗なるものを分けている。
だから、人間の属性のこの崇高な領域にどう取り組むかはすべての良識的人間にとって大きな問題であり、その本性に対する一見尊大な説明には立腹する者がいるからといって、驚くにあたらない。(p42)
神秘的な「こころ」、また魂や精神のようなものを、科学的に解き明かそうする試みは、聖なる領域に土足で踏み込むかのような不敬なこと、あるいは科学者の無謀な試みだとみなされてきました。
確かに、わたしたちの精神世界については、まだうまく科学的に説明できないことはたくさんあります。ダマシオも、すべてが科学的に解き明かされたわけではないことを認めています。
認知科学と神経科学の歴史の現段階において意識の問題を「解く」という考えに、私は疑いをもっている。
私が望んでいるのは、本書で述べるアイディアが自己という問題を生物学的視点から明らかにする上で役に立てば、ということだけだ。(p22)
しかし、心の世界にはまだ解明できない領域がある、からといって、心という現象のすべてが未知に包まれたままだ、というわけではありません。一般の人々の考えとは裏腹に、すでに膨大な証拠が、心の構造に科学的なメスを入れています。
すでにわかっている科学的な事実、つまり単なる仮説ではなく事実として観察されている証拠を簡単に要約すると、こうです。
脳や身体の一部が損なわれると、部分的に意識が欠けて損なわれるという膨大な症例がある。ゆえに、人の心、また意識は、目に見えない何かではなく、わたしたちの肉体から生まれている。
意識は肉体から生まれている、というのは、多くの人の直感に反する説明かもしれません。
たとえば、多くの宗教では、心ないしは魂という目に見えない何かが、肉体が死んだ後も残り続けると教えています。
アニメや映画などのフィクション作品では、登場人物は最後は心の力で劣勢を跳ね返します。すでに死んでしまった仲間が、精神体、思念体となって現れ、生きている者に力を貸す、というのはお決まりのパターンです。
こうした宗教上の教えや、創作作品の描写すべては、心の世界は、肉体の限界に縛られない、という認識の上に成り立っています。物質としての肉体には不可能なことでも、心や意思の力があれば奇跡を起こせる、というわけです。
このような考え方には夢がありますが、神経科学の膨大な症例とは相容れません。心が肉体を超えるのは、あくまでフィクションの中だけの話であり、現実世界ではそんなことはありえません。
死んだ人には何の力もなく、残された遺族を助けたりできません。どれだけ強靭な意思を持つ人でも病気になって死にます。意思の力で肉体の限界を超えるような奇跡は、現実世界では起こりません。
意識や自己、人格、アイデンティティといった「心」の中のものすべては、どれほど無限の可能性を持っているように見えるとしても、すべて肉体という有限のものから生じています。ですから、身体が滅びれば意識はなくなります。
ダマシオはこの本の中で、ノーベル賞を受賞した生物学者、ジェラルド・エーデルマンの理論に繰り返し言及していますが、エーデルマンは脳は空より広いか―「私」という現象を考えるの中でこう説明していました。
麻酔、脳外傷や脳卒中、あるいは睡眠中のある段階で脳の活動が低下すると、意識はなくなる。
死んだ後に身体や脳の働きが戻ってくることはないし、死後の体験などというものもありえない。
たとえ死んでいなくても、魂や意識が体外で自由に浮遊するといった話が科学的に証明されたことはない。
意識は身体化されている。意識が身体や環境を離れて存在することはないのである。(p17)
スピリチュアルな世界を誠実に信じている人は、このような考え方は受け入れにくく感じるかもしれません。ダマシオが述べていたように、尊大な説明だと感じて「立腹する」人もいるでしょう。
わたし自身、空想したり、創作活動をしたりするときは、心や精神の無限の可能性を思い描きます。厳密な科学的根拠など無視した、夢のあるファンタジーが好きです。
哲学や宗教、さらには創作の世界は、人間の無限の創造性が紡ぎ出す豊かな文化です。それらは時として、人生に生きる意味や活力を与えてくれます。わたしは、必ずしも科学的な事実を信じるべきだとは思っていません。
とはいえ、このブログでずっと考えてきたような、人格とは何か、自己とは何か、解離やトラウマとは何か、といったテーマを、まじめに突き詰めたい場合には、科学的根拠を無視することはできません。
たとえば、体外離脱や金縛り、多重人格のような解離現象は、スピリチュアルなものとみなされがちですが、それらが肉体に根ざした生物学的な現象であることは、すでに証明された事実です。
解離やトラウマについて研究するということは、世の中でオカルトとみなされているような不可思議な現象を真剣に研究するということなので、たとえ夢がなく思えたとしても、哲学や宗教ではなく、科学的証拠に立脚して思考することは必要不可欠です。
古今東西のあまたの文学作品や、無数の宗教の教えは、人間の創作能力のたまものであり、豊かな多様性について教えてくれます。ときに鋭く真実を突いてもいます。でも、それらは証拠に根ざした事実ではありません。
ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で触れているように、分離脳の研究がもたらした重要な知見のひとつは、わたしたち人間は、事実とは相容れないストーリーを無限に創作しやすいということです。
「言語的」創造心はフィクションに耽りやすい。たぶん、人間の分離脳研究におけるもっとも重要な知見はまさにつぎの点にある。
人間の左大脳半球は、かならずしも事実と一致しない言語的な話をつくりやすい。(p249)
心というものについて、自由にあれこれ想像・創作したいか、それとも科学的な事実を突き詰めたいかは人それぞれですが、後者の場合には、この記事で解説するダマシオの研究について知っておくことが役立つでしょう。
「身体なき脳科学」を後にする
自己や意識について研究した科学者は、これまでも大勢いましたが、アントニオ・ダマシオの研究がとりわけ注目を集めたのは、「ソマティック・マーカー仮説」という理論を提唱したからでした。
「ソマティック」とは「身体の」という意味です。近年しばしば名前を聞くようになったソマティック心理学という分野や、トラウマ治療法のひとつであるソマティック・エクスペリエンスの研究は、このダマシオの理論に少なからず影響を受けています。
意識と自己 (講談社学術文庫)の翻訳を担当した田中三彦さんが巻末の訳者解説で書いているように、ダマシオの理論の特徴は、それまで脳を中心に考えられていた意識や自己の理論に、身体という概念を導入したことでした。
アントニオ・R・ダマシオ博士の魅力は、何といっても「身体」を重視する脳科学者であることだ。
実際、彼の名を有名にしたソマティック・マーカー仮説も、そしてそれを生み出したユニークな「情動と感情」の理論も、身体と脳のダイナミックな相互作用をもとにしている。
「首から上だけ」を論じる、いわば「身体なき脳科学」が幅をきかせている今日、彼の脳研究のアプローチはとても新鮮に映る。(p436)
ここで言われている「首から上だけ」を論じる、「身体なき脳科学」は、わたしたちの誰もがよく知っているものだと思います。
TV番組に出ているような影響力の強い脳科学者たちも、ほとんどすべてが「身体なき脳科学」に従事しているといっていいでしょう。
精神医学の医師や、心理学の専門家の大半もそうです。彼らが書いた本や論文を見ると、うつ病や統合失調症、発達障害などには、脳のこれこれの部分の異常が関係している、と説明されているものです。
こうした専門家たちが心の起源は脳にあると声高に説明しているため、当事者の中には、誤解や偏見を招く「心の病気」という呼び方を「脳の病気」だと言い換えるべきだと主張する人もいます。わたしもかつてはそうでした。
しかし、ダマシオの理論、そして最近の数多くの研究によると、精神疾患は「心の病気」だという表現はもちろんのこと、「脳の病気」だという表現もまた正しくありません。
以前のニュースでも言われていたように、こうした疾患は、脳どころか全身の疾患であるという証拠があるからです。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の精神医学教授、オーウェン・ウォルコウィッツ氏は「知識を深めるにつれて、私たちはうつ病を『精神疾患』や、まして『脳の病気』と考えることは少なくなり、むしろ全身的な病気と考えるようなった」と言う。
現代の神経科学が明らかにしたのは、心に不具合があるように思われるとき、それは心などという得体の知れない精神体の異常ではなく、さらには脳というひとつの臓器だけの異常でもないということです。
そうではなく、「心の病」とは、意識を作り出している肉体全体が関わる問題だということがわかってきました。
とりわけ、近年は体内のミクロの生態系の研究が進み、腸内の細菌群集(マイクロバイオーム)を入れ替えると、不安などの感情まで入れ替わることさえわかっています。明らかに心は脳だけが生み出しているものではありません。
心が身体全体から生み出されている、という考え方は、にわかに理解しにくく思えるかもしれませんが、科学の研究が、直感に反する答えを指し示すことは昔からよくあることです。
ダマシオは、この本の中で、心の仕組みについて説明するとき、よく精神科医が用いる「脳は~」という主語ではなく、「有機体は~」という主語を頻繁に用いています。
三つ目の類似は、認知科学と神経科学において「有機体」という概念が著しく欠如してることだ。
心はいくぶん不確かな関係で脳と結びついたままだったし、また脳は複雑な生物の一部として見られるのではなく、一貫して身体から切り離されていた。(p57)
「有機体」という言い方は、非常に耳慣れない表現ですが、ダマシオは「身体と脳からなるある有機体」という意味で、つまり一人の人間全体、または一つの生物全体を指す言葉として、この語を用いています。(p368)
意識に関わる活動は『身体と脳の「双方」をターゲットにして』生じていて、もはや心の仕組みを論じるにあたって、脳と身体を切り離して考えることはできません。
現代の科学者たちは、なぜか人間の肉体のうち、脳という臓器だけを身体から切り離して、理性や思考の源として特別視してきました。
でも、先入観なく考えてみれば、脳は人体の皮膚で包まれた臓器のひとつにすぎないことがわかるのではないでしょうか。人体はすべてがひとつのパッケージです。
神経科学の証拠とダマシオの研究が明らかにしたのは、人間とはどこか一部の臓器だけで成り立っているものではなく、たとえ心といえども、脳と身体すべてを含む「有機体」というパッケージの上に成り立っているという、至極まっとうな結論でした。
「これで説明がつく」
意識を作り出すには、脳だけでなく身体が不可欠だ、という証拠は、以前に取り上げたような幻肢の研究からもわかります。幻肢とは、手足を失ってなお、手足の感覚を感じるという現象です。
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちという本には、南北戦争時代に手足を切断された兵士たちと真摯に向き合い、幻肢という現象を初めて医学的に報告した医師サイラス・ウェイア・ミッチェルの1866年の言葉が引用されています。
ウェイア・ミッチェルによれば、脳はその感情とアイデンティティを身体に依存している。
手足を失ったデッドローは、「時どき、自分を、自分の存在を、以前ほど意識していない」ことに気づき、「そら恐ろしくなる。[……]
かくして私はこういう結論に達した……人間は脳ではなく、まして脳の一部ではなく、有機的組織のすべてであり、身体のどこか一部を失うと、自分が存在しているというこの感覚が弱まってしまう」。(p32)
ミッチェルは、手足を失った傷病兵は、肉体の一部を失うだけでなく、自己のアイデンティティという意識の一部を失ってしまうことに気がつきました。
のちに幻肢を研究した神経科医のオリヴァー・サックスもまた、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)での中でミッチェルの観察に同意し、手足や内臓など身体の一部を失った人は、部分的ながらアイデンティティの障害、つまり自己に関わる問題を抱えることを認めています。
私はウィアー・ミッチェルのことを考えた。彼は重々しく「アメリカ神経学の父」などとよばれているが、実際は、健康と病気について研究した、愉快な博物学者だったのである。
ウィアー・ミッチェルは「ファントム(幻影肢)」(もともとは「感覚のゴースト」とよばれていた)と、その正反対のもの、「反射マヒ」「ネガティブ・ファントム」「疎外感」あるいは「無の感覚」を最初に確認した人物である。
それについては私も自ら経験し、のちにきわめて詳しい研究をおこなっている。
おおいに想像力をはたらかせ、共感をもって患者を診たミッチェルは、深刻な「自我にかかわる溶解」がおこりうることに、いち早く気づいた。(p258)
なぜ手足のような「肉体」を失うと、「心」の一部まで欠けてしまうのか。
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちでは、その理由を説明するために、ダマシオの研究が引き合いに出されています。
ダマシオはその輝かしい業績を上げる過程で、脳を損傷したためにこの身体と脳の複雑な結びつきを失っている患者の生活を記録した。
…ダマシオは書いている。「身体は単なる生命維持装置ではない。それは正常な心の働きに欠くことのできない内容を提供している」。(p40)
ダマシオの詳細な研究が明らかにしたのは、身体は単なる生命維持装置ではなく、心の基盤を提供しているということでした。
手足を失った人が自我に関わる障害をも抱えるのは、心を生み出すための基盤である肉体が、一部欠けてしまうせいなのです。
意識には脳だけでなく身体もまた必要だ、とするこの考え方は、ときおりSF作品で見かける、脳だけになった人間が水溶液の中で生かされて意識を保っているような状態、哲学者がいわゆる「水槽の脳」と呼ぶようなシチュエーションはありえないことを意味しています。
身体から脳を切り離した時点で、正常な意識を保つことはどうやってもできなくなります。「水槽の脳」は、身体が滅んでも精神は生き残る、という無数のファンタジーのひとつにすぎません。
また、心が肉体から生まれているというこの事実は、先ほどうつ病の研究者が述べていたように、これまで「精神疾患」とみなされていたものは、実際には「全身の病気」だということを示唆しています。
この重要性にいち早く気づいたのが、冒頭でダマシオの本を紹介していた、トラウマの専門家ベッセル・ヴァン・デア・コークでした。
彼は、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でダマシオの本を紹介したあと、続く文脈でその研究の意義について、こう書いています。
私たちが意識と言語を獲得したあとでさえ、体の感知系は、そのときどきの私たちの状態について、きわめて重要なフィードバックを提供する。
この系の絶え間ないつぶやきは、内臓の変化や、顔、胴、四肢の筋肉の変化を伝達する。
…それらの評価は、血液中の化学的メッセージや、神経中の電気的メッセージによって伝えられ、体と脳のいたるところで、微妙な変化や劇的な変化を引き起こす。
これらの変化は、たいてい意識に昇らず、自覚がまったくないまま起こる。
…トラウマを負った人々に起こることを研究者が記録してきた多種多様な身体的問題も、これで説明がつく。(p157)
別の箇所でも、同じことをこう表現しています。
トラウマを負ったあとは、周りの世界は異なる神経系で経験される。今やサバイバーのエネルギーは、人生における自発的なかかわりを犠牲にして、内部の混乱を鎮めることに注がれるようになる。
耐え難い生理的反応に対する主導権を維持しようとすると、線維筋痛症や慢性疲労、その他の自己免疫疾患など、多種多様な身体的症状を引き起こしうる。
トラウマの治療では、体、心、脳という生体全体を対象とするのが重要である理由も、これで説明できる。(p91)
どちらの文脈でも言わんとしていることは同じです。これまで、トラウマの研究者たちは、当事者たちが多種多様な身体症状に悩まされることを観察してきました。
トラウマが「心の問題」あるいは「脳の問題」だとする従来の見方では、その理由は十分説明できず、身体症状は精神症状に付随する二次症状のようにみなされてきました。これはトラウマだけでなく、どの精神疾患についても同じです。
しかし、心を生み出しているのは、脳だけでなく身体を含めた有機体全体だとするダマシオの理論によれば、これまで精神疾患とみなされてきたものは、当然、身体全体の疾患でもあるということになります。
精神疾患にみられる身体症状は、二次症状などではなく、脳と身体双方を含めた有機体の異常から起こる、紛れもない主症状なのです。
まさに、ヴァン・デア・コークが述べていたように、「これで説明がつく」といえます。
セクション2 : 意識とは何か
ダマシオの研究の意義を確認したところで、ここからは、ダマシオの意識と自己 (講談社学術文庫)の内容を、より具体的に説明していきましょう。
前述のように、この本のテーマは大きく分けると「意識」についての研究と、「情動」についての研究に整理できます。
この二つのテーマは、別々のものではなく、自己に関わる同じ現象を別の角度から説明したものです。
最終的には互いに補い合うテーマですが、この記事では理解しやすくするために、まず「意識」について、次に「情動」について、段階的にまとめたいと思います。
意識とは身体のホメオスタシスのための装置
ダマシオの意識の研究において、もっとも重要なポイント、それは「意識とは身体のホメオスタシスのため装置である」ということにでしょう。
この「ホメオスタシス」という単語については、なんとなく聞いたことにある人も多いと思います。これは、20世紀の有名な生理学者ウォルター・キャノンが提唱した概念で、次のように説明されています。
「ホメオスタシス」とは、生物(有機体)の安定した内部状態を維持するための、調整のとれた、そしてほとんど自動化された生理的反応である。
つまり、ホメオスタシスとは、体温、体内の酸素濃度、身体のペーハー(pH)などを自動的に調節することである。(p56)
ホメオスタシスとは、身体の安定性を維持するシステムのことです。
わたしたち生物は、日々変化する過酷な環境のなかで生きています。たとえばこの夏、北半球では類例のない猛暑に見舞われました。日本でも、日中の最高気温が40℃近くなることがありました。
もし気温の変化に影響されて体温が40℃まで上がってしまったら、わたしたちはまともに起きていられなくなるでしょう。でも、たとえ外の気温が40℃であっても、わたしたちの身体は平熱を保ちます。
気温のみならず、わたしたちの身体は、つねに外部の刻々と移り変わる環境にさらされています。しかしわたしたちの身体は、無意識に「安定した内部状態を維持」してくれています。これがホメオスタシスです。
さて、重要なポイントはここです。ダマシオによれば、わたしたちの意識とは、突き詰めれば、このホメオスタシスのための装置だ、ということです。
人間は昔から、どうして自分には意識があるのだろう、という疑問に悩んできました。哲学者や宗教家たちは、さまざまな理由を想像してきました。人生を楽しむため、真理を追究するため、言語的にコミュニケーションするため…などなど。
でも、かつてダーウィンが気づいたように、生物のあらゆる機能は、贅沢なオプションとしてではなく、生きるために必要だからこそ備わっています。
確かに人間の高度な意識は、人生の意味を追究したり、創造的な活動に携わったりするのに役立っています。しかし、もとをたどれば、意識はもっと基本的な役割のために備わっているのだろう、とダマシオは考えました。
たとえばここに、意識のある健康な人と、意識のない寝たきりの人がいるとしましょう。意識のある人にはできて、意識のない人にはできないことは何でしょうか。
色々ありますが、最も基本的なことはといえば、意識がなければ、何よりもまず自分自身の身の周りの基本的な世話ができないのではないでしょうか。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ダマシオの研究を解説し、意識のもっとも基本的な役割は、自分の身の回りの世話をすることにあると書いています。
私たちの意識ある自己もまた、内部の平衡の維持に重要な役割を果たしている。
体を安全に保つには、身体的感覚を認識し、それに従って行動する必要がある。寒いことに気づけばセーターを着る。空腹を感じたり、頭がぼうっとしたりしたら、血糖値が下がったのがわかるので、何か口にする。膀胱がいっぱいになったらトイレに行く。
背景にある感じを認識するこれらの脳組織はみな、呼吸や食欲、排泄、眠り/目覚めの繰り返しなどの基本的な維持管理機能を制御する脳領域の近くにあることをダマシオは指摘している。(p157-158)
意識がある人にはできて、意識のない人にはできないこと、それは、気温の変化に対応したり、食事をとったり、トイレに行ったりするという、ごくごく基本的な生命維持のための活動です。
わたしたち人間の意識は、確かにさまざまな高度な活動にも役立ちますが、根源的には、こうした生き物に必要な本能的な行為によって自分の体を維持するために備わっている装置なのです。
「一つの心と一つの身体」
わたしたちは「自己」や「人格」といった高度な精神活動を備えていますが、ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で説明するように、「自己」とは何か、「人格」とは何かを突き詰めていくと、やはり身体の安定性を保つためのシステムである、ということに行き着きます、
私は、…「自己」の生物学的ルーツを考えるに際し、それらに共通するいくつかの特質を検討することからはじめた。そして私はそのリストの最上欄に「安定性」を置いた。
われわれが考えうるどんな種類の自己であれ、つねに一つの考え方がその中心にある。
それは、時間的にひじょうに穏やかに変化するが、なぜか同じままとどまっているように見える、境界で仕切られた一つの個体、という考え方である。
…自己という概念の背後には単一個体という概念がある。またこの単一個体という概念の背後には安定性がある。(p181-183)
ダマシオは、「自己」という概念は、もとをたどれば「単一個体」という概念に行き着く、といいます。わたしたちはそれぞれ自己があり個性がありますが、それは他のだれとも異なる単一個体だということです。
人間だけではありません。ペットの犬や猫も、飼い主にとってかけがえのない存在です。一つ一つが、他と異なる個体なので代わりはいません。
これは、もっと単純な生物にもいえます。脳を持っていないアメーバでさえ、ひとつひとつ別々の個体です。(p184)
人間であれ、犬であれ、さらにはアメーバであれ、他と異なる自己、他と異なる単一個体であり続けることができるのは、それぞれが移り変わる環境の中で「自分」を維持できるホメオスタシスを備えているからです。
たとえ外部の環境がさまざまに変わっても、自分の内部環境を、外側とは異なる独自のものとして維持し続けることができるからこそ、単一個体、そして自己を維持できるのです。
そのような内部環境の安定性を保つためのホメオスタシスが、より高度で複雑になったものが意識、さらには自己である、とダマシオはみなしています。
その証拠として、ダマシオが挙げるのは、ひとつの身体につき、ひとつの意識だけが存在している、という事実です。
さて、ここで一つの興味深い証拠を考えてみよう。人間一人ひとりに一つずつの身体がある。
この単純な関係をこれまで考えたことがない人もいるかもしれないが、あるのは、一人の人間と一つの身体、そして、一つの心と一つの身体。これは第一原理である。
身体をもたない人間に出会った者はいない。二つ以上の身体をもつ一人の人間に出会った者もいない。シャム双生児もそうではない。そういうことは起こらない。
二人以上の人間が宿る身体に出会ったとか、そういう話を耳にしたとかは、あるかもしれない。多重人格障害(最近では「解離性同一性障害」と呼ばれている)として知られる病状がそれだ。
しかし、それでさえ、この第一原理に少しも反していない。なぜなら、それぞれの一瞬を考えれば、複数のアイデンティティのうちのたった一つが、一つの身体を使って思考し、行動しているからだ。
…なぜ、一つの身体に二人とか三人の人間がいないのか。いれば生物組織が節約できるのに。
なぜ、偉大な知的能力と想像力をもつ人間が、二つまたは三つの身体に宿らないのか。宿ればおもしろいのに。
なぜ、身体のない人間や、幽霊や精霊のように重さもない色もない創造物がいないのか。いれば空間の節約になるのに。
単純な事実は、こういった創造物はいまのところ存在しないし、過去に存在したことを示すものもない、ということであり、またその合理的な理由は、一人の人間を定義する一つの心は一つの身体を必要とし、一つの人間の身体は必然的に一つの心を生み出す、ということ。(p191-193)
長く引用しましたが、ダマシオが言っていることはとてもシンプルです。生物には「一つの心と一つの身体」という絶対的な法則がある、と彼は言います。
一人の人間が同時に複数の意識を持つことはありません。身体がないのに意識を持っているような幽霊や精霊も現実にはいません。物語の中にしか存在していません。
この世界には何十億もの人間がいますが、必ず一つの身体につき、ひとつの意識状態しか宿りません。
解離性同一性障害のような複雑なアイデンティティを持つ人でさえそうです。瞬間瞬間で見れば、一つの身体が、複数の意識を同時に持つことはありません。
前に書いたように解離性同一性障害は、バスの運転手が次々に交代することに例えられますが、たとえ運転できる人が複数いても、二人以上が同時に運転席に座ることはできません。
この単純明快な事実は、意識という現象が、身体に宿る謎めいた精神体ではなく、ひとつの身体によって生み出された、身体の恒常性を維持するための機能であることを示唆しています。
統一的コントロールに向かおうとする傾向がわれわれの発達の歴史において支配的であるのは、たぶん、もし命の維持という仕事をうまく成し遂げようというなら自己は一つであるべきだ、つまり、一つの有機体につき複数の自己は生存にとって好ましい方法ではない、というのが、一個の有機体が要求するところだからだろう。(p297)
ひとつの会社を維持管理する社長が二人いると不都合極まりないように、また一台の車を同時に複数の人が運転することができないように、ひとつの身体の安定性を維持するための意識という装置は、常にひとつでなければなりません。
意識は気まぐれに肉体に宿っている精神体ではなく、身体のホメオスタシスを維持するための装置である以上、複数の意識が同時に身体を維持管理することは不可能なのです。
意識がホメオスタシスを維持する装置であるというこの説は、意識をつかさどる脳の部位と、ホメオスタシスをつかさどる脳の部位が同じ(おもに脳幹や視床下部)であることによって裏づけられています。
▼ダマシオの理論と多重人格
解離性同一性障害、つまり多重人格の成り立ちは、ダマシオの理論から考察すると非常に理解しやすくなります。
トラウマを負った人は、耐え難い身体感覚(この記事の後半で考える「情動」)を、切り離すことで、圧倒される刺激から脳を守ろうとします。これが「解離」と呼ばれる働きです。
ダマシオは、身体感覚から心や意識が作られると述べているので、解離によって身体感覚を自己から切り離せば、必然的に切り離された感覚から別の自己の意識が生まれ、人格が複数に分裂する、といえます。
「原自己」―自己の核は内臓から生まれる
意識のおおもとは、人間も動物、さらにはアメーバにさえも備わっている、単一個体を維持するためのホメオスタシスにあるとはいっても、それだけでは意識とはなにか、うまく説明することはできません。
人間と動物とでは自己認識の程度はまったく違っています。わたしたち人間は自分が何者かわかりますが、ペットの犬や猫はそうではありません。アメーバには感情すらありません。
明らかに、ホメオスタシスを維持するにしても、さまざまなレベルがあります。
ダマシオによると、わたしたちの意識は三層構造になっていて、一番下にあるのが「原自己」、その上にあるのが「中核意識」、最上部にあるのが「拡張意識」です。
専門用語のせいで難しく感じられるかもしれませんが、わたしたちの日常からそれほどかけ離れた話ではないので、身近な実例を織り込みながら、ひとつずつ考えていきましょう。
まず、わたしたちが持つ意識の構造のうち、三層構造の最下層にあるのは、「原自己」(プロトセルフ)です。ヴァン・デア・コークは、先ほどの身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の続きで、こう説明しています。
背景にある感じを認識するこれらの脳組織はみな、呼吸や食欲、排泄、眠り/目覚めの繰り返しなどの基本的な維持管理機能を制御する脳領域の近くにあることをダマシオは指摘している。
「それは、情動を抱き、注意を払うことの結果がすべて、生体内で生命を維持する基本的業務と結びついているからだ。自らの体の現状についてのデータなしに、生命を管理し、ホメオスタシスの均衡を維持することは不可能である」。
ダマシオは、維持管理にあたる脳領域を「原自己」(プロトセルフ)と呼ぶ。(p158)
ダマシオは、わたしたちの無意識の生命維持をつかさどっている最も基本的な脳の機能を「原自己」(プロトセルフ)と呼んでいます。意識と自己 (講談社学術文庫)では次のように説明されています。
自己の感覚にはまず「原自己」(プロトセルフ)という前意識的な生物学的先駆けがあり、もっとも初期の、もっとも単純な形の自己は、中核意識を生み出す機構がそうした非意識的な前駆体の上で作用するときに現れる、というのが私の考えだ。(p206)
わかりにくい説明ですが、「原自己」とは、わたしたちの意識のベース、土台になっている脳の働きだと考えてください。
ショートケーキの土台のスポンジ部分のようなものです。それだけではショートケーキとして成立しませんが、スポンジ部分は上にクリームやいちごを盛り付けるときの土台になります。
土台である原自己は、意識の三層構造の一番下にありますが、わたしたちはだれも原自己を意識していません。つまり原自己は、意識にとって不可欠ではあるものの、無意識下の働きです。
単細胞生物のアメーバと違って、複雑な無数の細胞や臓器からなる生物がホメオスタシスを維持するには、全身の状況を刻一刻とモニタリングしなければなりません。
そのために用意されたシステムが脳です。脳は全身に張り巡らされた感覚器官というセンサーの情報を休みなくモニタリングしていて、まわりの環境が身体に及ぼす影響を読み取り、安定性を保つために指示を出し続けています。
そのような信号には直接神経経路によって運ばれ、内臓(心臓、血管、皮膚など)の状態を伝えるものもあるし、血流によって運ばれ、ホルモン、グルコース、酸素や二酸化炭素などの濃度により、あるいは血漿のペーハー(pH)により、伝達されるものもある。これらの信号は、いくつかの神経感知機構によって「読み取られる」(p189)
身体の状態をモニタリングするための感覚センサーというと、わたしたちは、光や音、匂い、手触りなど五感を想像するかもしれません。
しかしここでいうセンサーのほとんどは、身体の内部に張り巡らされたセンサー、身体の内部環境を監視している第六の感覚「体性感覚」です。
体性感覚は、わたしたちがまったく意識しないところで、身体の内部の膨大な情報を脳に伝えています。
体性感覚には、たとえば、内臓や血液の状態を伝える内受容感覚 (interoceptive)、筋骨格の空間的な位置情報を伝える自己受容感覚 (proprioceptive)、さらには皮膚の表面の感覚などが含まれます。(p201-206)
脳はそうした身体の内側からの膨大な情報をリアルタイムでモニタリングしています。ちょうど気象庁のアメダスが日本全国の気候をリアルタイムでマッピングしているようなものです。
こうして全身の状態をリアルタイムでマッピングしてできた、身体の現状を示すデータが「原自己」です。
原自己は無意識下の働きではあるものの、わたしたちが抱いている、自分が生きて存在している、自分の身体を所有している、という実感に一役買っているようです。
原自己は、以前の記事で扱った脳が作り出す身体マップ「バーチャルボディ」とほぼ同じ概念といっていいと思います。
たとえしっかり意識を持っていても、もし無意識の原自己が作り出す身体のデータが一部欠けていたら、あたかも自分の身体が存在していないかのように感じてしまうことになります。
原自己が欠けている、というのは、ちょうどリンク先をクリックしてみたら、該当するページがないことを示す404エラーが出るときのように、身体を意識しようとしたら“no data”と返されるようなものでしょうか。
たとえば、以前書いたように、たとえば手足がしっかり存在しているのに、手足の感覚を感じられなくなる人たちがいます。これは、自分の身体の一部を認識できなくなる「身体失認」(ネガティブ・ファントム、陰性の幻肢)と呼ばれる症状です。
「身体失認」は、手足の内部の筋骨格から発せられる体性感覚(自己受容感覚)が失われ、原自己の一部が欠けてしまった状態です。自分の手足が自己の一部とは感じられなくなり、他人の手足や異物のように奇怪に感じられます。
この患者には「身体失認(Asomatognosia)」として知られる症状があった。身体失認は、文字どおり「身体の認識の欠如」である。
…その症状を説明するために彼女が使った正確な表現は、「おかしな感じ」、「自分の体を感じられないような」だった。…「存在の感覚は少しもなくなっていなかったが、ただ体だけなかった」
…統合的な形でしかるべく表象することができなかったのはほとんどが身体の筋骨格に関する信号で、内部環境、内臓、前庭の信号は残っていた。
そしてこの内部環境、内臓、前庭の信号こそ、彼女が言った「存在の感覚」に対する基盤を授けていたものだと思われる。それらの信号が原自己の一部をもたらし、その上に中核意識が継続的に生み出されたのだろう。(p283)
彼女の場合、原自己を生み出す身体の内部からの体性感覚のうち、おもに「自分の身体を所有している」という自己所有感をもたらす、筋骨格からの自己受容感覚(proprioceptive)が欠けていました。
そのため、身体の居場所を感じられなくなりましたが、「存在そのもの」の感覚をもたらす内臓の内受容感覚(interoceptive)のほうは無事でした。
ではこの、「存在そのもの」の感覚をもたらす内受容感覚が損なわれた場合はどうなるのでしょうか?
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳で説明されているように、解離性障害にともないやすい離人症がそれです。
離人症性障害になると、自分のことが知らない他人に思えてくるし、情動を感じる能力も低下する。
このことは、「私は誰?」という謎にどんな手がかりを与えてくれるのか。
それは自己をつくりあげるうえで「いちばん重要なのは物理的な感覚と内部感覚」だということ。メドフォードはそう話す。
「感情は体性感覚情報で構築されるというダマシオ的観念ですよ」(p183)
離人症とは、内臓からの内受容感覚が乏しくなることで、原自己がもたらすはずの自己の存在意識そのものが薄れてしまう現象なのです。
実際に、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で指摘しているように、重大なトラウマに伴う離人症では、原自己や中核意識の生成に関わっているとされる自己感知領域の活動が低下していることがわかっています。
幼少期(本書ではおおむね「0~六歳」の時期を指す)の深刻なトラウマを抱える慢性的なPTSD患者18人のスキャン画像との著しい違いには驚かされる。
脳のこれらの自己感知領域のどれにも、ほとんど活性化が見られなかったのだ。
内側前頭皮質、前帯状皮質、頭頂皮質、島は、まったく活性化しなかった。唯一、後帯状皮質がかすかな活性化を見せた。これは、基本的な空間定位を司る部位だ。(p152)
このように、原自己は、無意識下の身体の認識や、安定性の維持をつかさどっています。
しかし原自己は、あくまで意識の土台にすぎません。スポンジだけではショートケーキとは呼べないように、原自己の土台だけでは、人間らしさは生まれません。
いま見たのは、意識があっても原自己が欠けているときに起こる症状ですが、逆に原自己がしっかりしていても、意識がなければまったく人間らしさは生まれません。
ダマシオは意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、ほぼ無意識の原自己だけで、意識は有していない状態の人間がどんなものか、実例を挙げています。
欠神発作は癲癇[てんかん]の主要な形態の一つで、これが起きると、情動、注意、適切な行動とともに、意識も一時的停止する。
…完全に理解可能な話をしているとき、突然、患者は途中で話をやめ、他のいっさいの動きもそのまま止まる。ぽかんと見ているが、目は何にも焦点が合っていない。顔にはいっさい表情がない。
しかし、患者は覚醒している。筋肉の緊張も維持されている。患者は倒れたりしないし、痙攣を起こしたり握っていたものを落としたりもしない。(p130)
これが、原自己という土台のスポンジだけで、その上に盛り付けられるべき意識というクリームやいちごが存在していない状態です。基本的な身体活動は維持されていますが、自己はどこにもありません。
人間らしい自己が生じるには、三層構造の一番下の原自己だけでなく、その上の意識がどうしても必要です。
「中核意識」―今ここを認識する
脳が体性感覚から作り出した原自己は、自己の意識の核であるとはいえ、まだ無意識下で処理されているプロセスでした。
わたしたちが意識と呼ぶクリームは、原自己というスポンジの土台の、もう一層上に構成されます。
原自己は、わたしたちが何もしていないときにも維持されているホメオスタシスのための機能でしたが、意識はわたしたちが何かの対象と接したときに、相互作用として生まれるとダマシオはいいます。(p33,180,225)
ただ自分だけが存在しているときに生じるのが無意識の原自己であるのに対し、何かが見える、何かが聞こえる、何かが触れる、そうした相互関係が生じたとき、はじめてわたしたちは対象を「意識」するのです。
原自己の土台の上に乗る意識は二層あります。ここではショートケーキにたとえて、クリームといちごになぞらえましょう。スポンジの上にかぶせるクリームの層、ダマシオはそれを「中核意識」と呼んでいます。
少なくとも人間において意識は一枚岩ではないということ。意識は単純なものと複雑なものに分けることが可能であり、神経学的証拠からその分離は明白だ。
私が「中核意識」(core consciousness)と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己の感覚を授けている。
中核意識の作用範囲は、「いま・ここ」である。中核意識が未来を照らすことはない。また、この意識によってわれわれがおぼろげに感知する唯一の過去は、一瞬前に起きた過去である。「ここ」以外に場所はなく、「いま」の前も後もない。(p28)
定義だけ読むとピンとこないかもしれませんが、この中核意識という「もっとも単純な種類の意識」は、わたしたちが日常的に経験し、よく知っているものです。
たとえば、好きなことに没頭しているとき、集中しているとき、わたしたちは我を忘れます。
この状態は、心理学ではフローと呼ばれていますが、まさしく中核意識の「今ここ」に集中している意識状態にほかなりません。
幼い子どもの意識も、中核意識の「今ここ」だけの状態です。原自己のスポンジの上に、中核意識のクリームは乗っていますが、まだ一番上のいちごはありません。
中核意識「だけ」の人間がたぶん経験しているであろうことを想像するのはむずかしくない。生後一年の幼児の心の中でそれがどういうものかを考えてみよう。
対象が心の舞台に入ってくる。中核自己に認識される。そして入っていくのと同じ速さで出ていく。(p266-267)
幼い子どもは、自分を認識しています。名前を呼ばれたらそちらを向くこともできます。しかし、過去の自分や未来の自分を認識することはできません。それゆえ自分とは何なのか悩むことはありません。
大人の場合も、脳の障害によって「中核意識だけ」の状態になってしまう人たちがいます。そのような例として、ダマシオはデイヴィッドという男性の例を挙げています。
デイヴィッドは46歳のとき重い脳炎になって、深刻な記憶障害を抱えるようになりました。「彼の記憶は一分以内の時間に限られていた」といいます。(p155)
先ほどのほぼ「原自己だけ」の欠神発作の患者と違って、「中核意識だけ」のデイヴィッドは瞬間瞬間だけ見れば正常でした。
うまく言葉も話せ、考えることもでき、ごく当たり前の感情もありました。しかし一瞬前のことさえ忘れ、前後のことがまったくわかりませんでした。
デイヴィッドは先のことを計画できたことがない。先のことを計画するには過去の具体的なイメージを知的に操作することが求められるが、デイヴィッドはいかなる具体的なイメージも呼び起こすことができないからである。
あらゆる点から見て、彼が「いま・ここ」[hear and now―その意味については第一章参照]において、正常な自己の感覚をもっていることは確かだが、彼の自伝的記憶はやせて骨と皮だけになっており、いかなる瞬間にも構築されうる自伝的自己がひどく衰えている。(p163)
デイヴィッドは、今ここの自分は認識できるものの、過去や未来の自分を想像できないため、自分について客観的に考えることはできませんでした。「中核意識だけ」の幼児と同じ状態にあったのです。
人間だけでなく、ほとんどの動物たちもまた中核意識を持っています。
ペットを飼っている人は、犬や猫がどれくらい自分のことをわかっているのだろう、と考えるかもしれませんが、そうした動物たちは、「今ここ」の中核意識だけの状態にあるというのが答えです。
幼い子どもや、記憶障害のデイヴィッドと同じように、瞬間瞬間の自分は認識していますが、過去や未来の自分については考えることができません。
しかしながら、幼い子どもの場合も、犬や猫の場合も、前にあったことを覚えていて、ちゃんと学習しているので、「今ここ」の意識だけではないのではないか? と考える人もいるでしょう。
それは、記憶の種類の違いによります。ダマシオは、記憶障害のデイヴィッドが、言葉で思い出せるような記憶はまったく学習も想起もできないのに、非言語的な記憶は蓄積できることに気づきました。
何年も前に私は、デイヴィッドが毎日の生活の中で、何人かの人間に対して一貫性のある好き嫌いを示しているらしいという話を耳にした。
たとえば、彼が過去20年のうちのほとんどを暮らしてきた施設には、タバコやコーヒーが欲しくなったとき、彼がしばしば選んで会いにいく特定の人間がいた。また彼が絶対に足を向けない何人かの人間もいた。
こうした一貫性のある行動はひじょうに興味深かった。というのは、デイヴィッドは彼らをまったく認識できなかったし、彼らに会ったかどうかもわからなかったからだ。(p62)
そこでダマシオは、「グッド・ガイ/バッド・ガイ実験」として知られるようになる有名な実験を行いました。
デイヴィッドに一週間3つのタイプの人、「いつも親切な人(グッド・ガイ)」「いつもいやな人(バッド・ガイ)」「中立的な人」と何度も会ってもらい、それを記憶できるか試してみたのです。結果はどうだったのか。
デイヴィッドの反応は驚くべきものだった。彼に好意的に振る舞った人間の顔が四枚の写真の中にあるとき、彼は80パーセント以上の確率でグッド・ガイを選んだ。
これは明らかに彼の選択がランダムではなかったことを意味している(偶然でなら、デイヴィッドは四枚の写真をそれぞれ25パーセントの確率で選択していただろう)。
一方、ニュートラル・ガイはほぼ偶然の確率で無視された。また、バッド・ガイはほとんど選択されることはなかった。これもまた偶然では説明できないことだった。
…デイヴィッドの意識をもった心には、正しくグッド・ガイを選択し正しくバッド・ガイを拒絶する明白な理由は何もなかった。なぜ前者を選んだのか、なぜ後者を拒絶したのか、彼はわかっていなかった。彼はただそうしたのだ。(p64)
この結果は、デイヴィッドが言語的な記憶、つまりわたしたちが思い出すようなタイプの記憶はまったく学べないのに、非言語的な記憶は学習できていたことを示しています。
この非言語的な記憶は「手続き記憶」と呼ばれています。ダマシオはこれは感覚運動的な記憶であり「たとえば、泳ぎ、自転車乗り、ダンス、楽器の演奏などを学習するとき獲得するもの」だと説明しています。(p386)
デイヴィッドは、言葉で説明できる知識としての記憶は1分で忘れましたが、こうした感覚運動的な手続き記憶は「技術習得の二年後」もしっかり覚えていました。(p388)
トラウマ研究者のピーター・ラヴィーンは、このデイヴィッドのグッド・ガイ/バッド・ガイ実験を、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復のp51-56で詳しく解説し、トラウマ反応もまた、意識的な記憶ではなく、デイヴィッドと同じ無意識の手続き記憶のレベルで起こるという考察の手がかりにしています。
デイビッドは、ほんの少し前に誰と交流をもったかも覚えていないし、その人たちの顔を意識的に識別することもできなかった。しかし、明らかに彼の身体は憶えていたようだ。(p52)
このように脳幹レベルで意思決定がなされているという明らかな事実は、人間の記憶と意識についての一般常識とはかけ離れているだろう。
本書のテーマの核は、臨床的にトラウマの記憶に対処するには、通常働いている意識の下に存在する手続き記憶がカギになるということである。(p56)
トラウマとは、言葉で説明できるような高度な理性や感情よりも下の、もっと基本的の自己の機能、つまり「今ここ」だけを認識している中核意識のレベルで起こる、非言語的な身体的記憶の問題なのです。
デイヴィッドと同じく、幼い子どもや犬や猫の場合も、中核意識だけしかないので、言葉で説明できるような記憶は覚えられません。でも、身体で覚えるタイプの手続き記憶はどんどん習得していきます。
わたしたちは誰でも、乳幼児のころの記憶がほぼありません。これは乳幼児期健忘として知られる現象ですが、たとえその時期の言語的な記憶はなくても、身体的な記憶は覚えています。
たとえばその代表例が「愛着」です。よく誤解されますが、愛着とは親についての意識的な記憶(たとえば「あのとき親のひどい言葉に傷つけられた」など)ではなく、生後2,3歳ごろまでに受けた世話についての非言語的な身体的記憶(たとえば「理由はわからないけれど、親といるだけで安心してリラックスできる」など)です。
ダマシオの意識の研究からいうと、乳幼児のころのわたしたちは、ほぼ中核意識をつかさどる脳機能しか働いていません。そのため、デイヴィッドや、ペットの犬や猫と同じく、「今ここ」の非言語的な手続き記憶だけを学習します。
意識と自己 (講談社学術文庫)によると、この頃の赤ちゃんの脳では、原自己に必要な脳幹や視床下部、右脳の体性感覚皮質などのほか、帯状回と呼ばれる複雑な運動や注意、情動などに関係する脳の部位が活性化していることがわかっています。
話の中で、その講師は一組のPETスキャン画像を見せた。それは、誕生後すぐのものと、生まれて数ヶ月以内に撮られたものだった。
早くも、そういった新生児の脳にはひときわ活発な構造がある。脳幹と視床下部、体性感覚皮質、そして帯状回である。
おわかりのように、活発な構造は原自己と二次のマップに必要なそれと一致している。(p347)
神経科学的に言って、中核意識だけの状態にある幼児は、「今ここ」だけを認識し、ほぼ感覚運動的な手続き記憶だけを学習します。この段階で習得される無意識の身体的な手続き記憶が愛着です。
しかし2,3歳ごろになれば、左脳の言語中枢や、記憶をつかさどる海馬などが発達してくるので、ようやく過去の自分を記憶して思い出したり、未来について考えたりできるようになります。
意識の最上層、ショートケーキの最も目立ついちごのような、「拡張意識」が芽生えるのです。
「拡張意識」―過去と未来の自分を認識する
意識というショートケーキの三層構造のうち、原自己というスポンジ、そして中核意識というクリームの上に乗る、もっとも目立ついちごのような部分は「拡張意識」と呼ばれています。
他方、私が「拡張された意識」[extended consciousness。以下「拡張意識」と表記]と呼んでいる多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は、有機体に精巧な自己の感覚―まさに「あなた」、「私」というアイデンティティと人格―を授け、また、生きてきた過去と予期される未来を十分に自覚し、また外界を強く意識しながに、その人格を個人史的な時間の一点に捉えている。(p28)
簡単にいえば、拡張意識とは、「今ここ」だけでなく、過去や未来についても認識できるようになった意識のことです。
これが「拡張」意識と呼ばれているのは、中核意識を「拡張」する能力だからです。
中核意識の段階では人間も動物も「今ここ」だけしか認識できませんでした。数えきれないほど無数の「今ここ」のスナップショットがあるだけで、前後を結びつけて記憶することはできませんでした。
中核意識は、瞬間瞬間だけを写真のように切り撮るカメラに似ています。それに対し、拡張意識はひとつながりの動画を撮影して、自分という物語を作ることができるビデオのようなものです。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳では、ちょうどこの作用が説明されています。
前部島皮質は、内受容と外受容の感覚、それに身体の活動状況を統合して、1秒間に8回の割合で「包括的情動瞬間」をつくりだしている。
ひとつひとつの瞬間は独立しているが、それがつながると、連続性のある自己意識になるとクレイグは考える。
たとえるなら映画だ。スクリーンに映写されるのは毎秒24コマのフィルムなのに、私たちの目にはなめらかに見える。(p291)
中核意識は、体性感覚皮質の島皮質を通して、瞬間瞬間の写真のような自己(ここでは「包括的情動瞬間」と呼ばれているもの)を作ります。拡張意識は、それら一枚一枚の写真のような自己をとりまとめて、映画のフィルムのような連続性のある自己を作り出します。
断片でしかない無数の「今ここ」をひとつにつなげることができるのは、ひとえにワーキングメモリをはじめとする記憶機能のおかげです。
中核意識しか持っていない幼児、動物、記憶障害の人は、今この瞬間に目の前にある対象しか認知できませんでした。前後の文脈を記憶できないからです。
しかし、記憶システムが発達すれば、過去の瞬間の自分を保存できるようになります。そして、別の瞬間の自分を対象として処理できるようになります。
言い換えれば、これまでは、目の前にあるモノにしか注意を向けられなかったのが、記憶システムのおかげで、過去の異なる時間軸の自分にも注意を向けられるようになるのです。
これがどれほど並外れたことか考えてみてください。過去を保存できるというのは、積み重ねができるということです。
たとえば初期のテレビゲームは、セーブできないので、電源を入れるたびに、最初からはじめなければなりませんでした。しかしセーブできるようになることで、冒険を積み重ね、物語のあるゲームを楽しめるようになりました。
同じように、中核意識だけの状態では、人生の物語をセーブできません。しかし拡張意識が備わると、過去の自分をセーブできるので、自分という物語が生まれます。これがアイデンティティです。
幼児と違って、わたしたち大人が自分とは何かじっくり考え、将来について悩むことができるのも、過去の別の瞬間の自分を大量にセーブデータとして記憶し、それらをひとつながりの物語として構成できるからです。
記憶に関して言えば、中核意識が必要としているのは、ひじょうに短い短期記憶だけだ[第三章参照]。
われわれは中核意識をもつために、広大に過去の個人的な記憶の蓄積にアクセスする必要はない。
ただし、そうした広大な自伝的記憶は、私が拡張意識と称している高度なレベルの意識には貢献している。(p152)
この拡張意識は、チンパンジーのような一部の動物にも備わっているようです。(p226)
しかし、人間ほど自由自在に拡張意識を使いこなし、その恩恵をことごとく受けている生物はいません。
われわれが意識のすばらしさを思うとき、われわれの頭にあるのはこの拡張意識である。
われわれが、意識はひときわ人間的な特質、などと言うとき、われわれが考えているのは意識の最上層にある拡張意識であって中核意識などではないが、その傲慢さもいたしかたあるまい。
拡張意識の働きはじつに並外れており、その頂きにおいて比類なく人間的である。(p258)
人間の拡張意識のすばらしさは群を抜いていて、人間らしさや創造性の源となっています。
意識は「下から上へ」
人間の拡張意識はすばらしい能力ですが、そのすばらしさゆえに、この記事の最初に考えたような大きな誤解が生まれています。
身体の死後も精神体が生き続けるという思想や、心の力でどんな劣勢も逆転できるというお決まりのストーリー、昔ながらの根性論といったものはすべて、拡張意識がすばらしすぎるがゆえに生み出された思い違いです。
こうした考え方はどれも、拡張意識の能力は無限で、肉体の限界をも超えうる、という考え方に基づいていますが、神経科学の研究は、それとはまったく正反対のことを実証しています。
たとえ拡張意識が失われても、中核意識は残ります。でもその逆はありません。中核意識がなくなれば、拡張意識もろとも崩壊してしまうのです。
拡張意識のよりどころは、長期的にも瞬間的にも、中核意識にある。神経疾患の患者の研究から、中核意識が失われると拡張意識がなくなることもわかっている。
すでに見てきたように、欠神発作、癲癇性自動症、無動無言症、持続性植物状態の患者には、中核意識も拡張意識もない。
その逆は真ではない。このあと見るように、拡張意識障害は、中核意識が保持されてる状態だ。(p265)
証拠が示しているのは、意識の三層構造は、一番下に原自己という土台のスポンジ、その上に中核意識のクリーム、そして一番上にトッピングとして、拡張意識のいちごが乗っている、ということです。
一番上のいちごだけで、ショートケーキを作ることはできません。確かに拡張意識は見た目にもすばらしい人間らしい能力ですが、意識という機能からすればトッピングにすぎず、土台部分がなければ、決してなりたたないのです。
下の階層が失われると上の階層は崩壊する
拡張意識…過去や未来の自分を対象として認識できる高度な意識。ストーリーとして語れる自伝的自己というアイデンティティが生まれる。
↑
中核意識…「今この瞬間」の対象だけを認識する単純な意識。非言語的な中核自己が生まれる。
↑
原自己…身体をモニタリングしている生命維持のための無意識下の脳活動
このことは脳の構造からも裏づけられています。
一番下の原自己という土台を作り出しているのは、おもに脳幹や視床下部と呼ばれる、脳の最も下層にある部分であることがわかっています。この部位は、睡眠覚醒、注意、意識といった基本的なホメオスタシスをつかさどっています。
中核意識を作り出している領域は、脳の「正中線の近くに位置している」「中央の」領域です。そこには原自己にも寄与している存在の感覚を生み出す体性感覚皮質や、情動に関わる帯状回などがあります。(p144)
脳科学者がよく言及する右脳や左脳の広範囲な部分が関係しているのは、一番高度な拡張意識だけです。
言語や記憶や理性といった、脳科学者がこぞって注目している領域のほとんどは、原自己や中核意識には必要ないことがわかっています。
意識は言語、記憶、理性、注意、ワーキング・メモリといった他の認知機能で単純に説明されることがよくある。そうした機能は拡張意識の最上層が正常に機能するには必要だが、中核意識にそれらが必要でないことが神経疾患の患者の研究からわかっている。
したがって意識の理論は、単に、言語、記憶、理性を使えば脳と心の中で進行していることをトップダウン的に解釈、構築することが可能になるというような理論であっては「ならない」。(p30)
わたしたちの意識に必須なのは、脳の下層であって上層部分ではない、というこの事実は、ダマシオが言うように、意識をトップダウン的に考えるのは誤りだ、ということをはっきり示しています。
意識も脳もトップダウン、つまり「上から下に」作られるのではなく、ボトムアップ「下から上に」形成されています。
言い換えると、高度な思考をつかさどる脳の上のほうの領域(大脳新皮質など)が意識を生み出しているのではなく、生物の基本的なホメオスタシスをつかさどる脳の中心や下のほうの領域(脳幹など)が意識を生み出しているのです。
意識は、進化的に新しい領域よりも古い領域に、表面にある領域よりも脳の深部にある領域に、強く依存している。
興味深いことに、本書で提唱した「二次の」プロセスは、精緻な知覚、言語、高い理性を可能にしている新皮質という現代的な神経構築物にではなく、命の調節に密接に関わる古い神経構造に根をおろしている。意識という明らかに「優れたもの」が「劣るもの」に依存している。
注意すべきは、これは事実であって仮説ではないということ。つまり、私の仮説が結局正しかろうと正しくなかろうと、他の部位の損傷は意識障害をもたらさないのに、これらの部位の損傷は意識障害をもたらすという事実は変わらない。
この事実に関して言えることがあるとすれば、たぶん、それが直感に反するように思えるということだろう。(p359)
「劣るもの」とされがちな動物的本能に関わるな領域が、「優れたもの」とみなされる理性や創造的な思考すべてを生み出している、というのは、確かに「直感に反するように思える」かもしれません。
あの天才数学者ルネ・デカルトも、この直感にだまされ、有名な「我思う故に我あり」という言葉を語りましたが、まったく見当はずれでした。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、わたしたちの自己という感覚に必要なのは、思考などの高度な能力ではなく、身体の内部で無意識のうちに処理されている膨大な体性感覚のほうなのです。
この有機的な見方は、「高次」の脳が消化系など「下位」の機能をコントロールするというデカルト的なトップダウンのモデルを覆すものだ。
この見方の違いは、単なる言葉遊びではない。むしろ、完全な世界観の違いであるり、生命体がどのように機能するかについてのまったく異なる見解である。
…思考と感情は、内臓の活動から分離した新しい独立したプロセスではない。私たちは、内臓で感じ、考えている。
例えば消化のプロセスは、まず身体的な感覚(純粋な空腹)として、次に感情(攻撃としての空腹)として経験され、最後に大脳で洗練され新しい知覚と概念(新しい知識への飢えやその消化として)が取り込まれる。
…私たちがこれほど夢中になっている、いわゆる高次の思考プロセスは、主人というよりはむしろ従者なのだ。(p302)
デカルトが意識の源として注目した「思考」のような高次のプロセスは、ショートケーキの最上位のいちごのようなものです。確かに目を引く部分ですが、土台のスポンジやクリーム部分がなければまったくケーキになりません。
人間は、心の無限の力を信じ、精神は肉体を超越すると信じたがりますが、神経科学が明らかにしたのは、心は身体の主人ではなく従者にすぎない、それゆえ心は身体の限界を超えることなどできない、という現実的な答えでした。
脳神経科医オリヴァー・サックスも、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の中で、肉体に異常が起こると自己の感覚が損なわれてしまう数々の症例を分析し、同じ感想をしみじみと語っていました。
人間がもつ最高の機能―意識と自己―は、独立した自己充足的な存在として肉体よりも「上位」にあるのではなく、神経精神学的な存在―プロセス―であり、継続する肉体的な経験と統合の上に成り立っていることを思い知らされるのである。(p201)
結論として言えるのは、心とは何か、自己とは何か、人格とは何か、ということを考えるとき、わたしたちは哲学や宗教、さらには精神医学や心理学について考える以前に、まず「肉体」(有機体)について考えねばならないということです。
心について考えるときは、生物としての「肉体」に根ざして考えなければならない。
たとえ夢がないと感じられるとしても、これが心という摩訶不思議な現象の真実を知るための地道な経路なのです。
セクション3 : 情動とは何か
ここまでのところで、「意識」という観点から、自己のなりたちについて考えることができました。
しかし、ダマシオはもう一つのテーマである「情動」という観点からも、自己のなりたちを考察しています。
ヴァン・デア・コークは、トラウマを研究するにあたり、ダマシオの研究が大いに役立ったと述べていましたが、情動の研究はトラウマ研究と深い関わりがあります。
情動についての研究を調べるにあたり、さしあたってまず、「情動」とは何なのか知っておく必要があります。
おそらくほとんどの人は、「情動」と「感情」は、ほぼ同じような意味の言葉だと思っているのではないでしょうか。日本語の場合、情動は感情のより固い表現、といいうくらいにしか見なされていないかもしれません。
残念ながら、日本語の辞書で「情動」の意味を調べても仕方ありません。神経科学の研究における「情動」の定義は、辞書の定義とかなり異なっているからです。
ダマシオは、意識と自己 (講談社学術文庫)で次のように感情と情動を比較しています。
私は「感情」という言葉は情動の私的な心的経験に対して使われるべきであり、他方「情動」という言葉は、多くが公に観察できる一連の反応を意味するために使われるべきであると提唱してきた。(p60)
ダマシオは、「感情」は観察できない心の中の現象であるのに対し、「情動」は第三者から観察できる動きである、としています。
これだけだとわかりにくいですが、この本の翻訳者の田中三彦さんが、巻末の訳者解説で、ダマシオの言う「情動」とは何か、具体的に説明してくださっているので、引用してみます。
著者ダマシオ博士の言う情動と感情は、われわれがふつうに考えている前述のような情動と感情とはかなり違う。…著者の言う「情動」をごく手短にまとめればつぎのようになる。
動物や人間のような「有機体」が何かを見る、触る、聞く、想像する、などをすると、なにがしかの心の評価的プロセスによって「身体的変化」が生じる。
…心臓が高なったり、顔が紅潮したり蒼白になったり、腸管の一部が収縮したり、口や目のまわりの筋肉が緩んだり緊張したり、と、身体のさまざまな部位にさまざまな変化が起こる。(p439)
情動とは、わたしたちが何かを感じたときに起こる、さまざまな身体の変化や動きです。
ダマシオは、『情動とは、その言葉が示しているように、ある特定の環境での、ある特定の状況に対する「動き」に関すること』だと説明しています。(p97)
たとえば、大型トラックが迫ってきて、事故巻き込まれそうになった瞬間のことを考えてみてください。
あなたに向かってくる車は、あなたが望もうと望むまいと、恐れと呼ばれる情動を引き起こし、あなたの有機体の中の多くのものを変化させる―とりわけ、腸、心臓、皮膚が即座に反応する。(p197)
あなたが恐怖を感じたことは、あなたの緊張した仕草や、目を見開いた表情にはっきり見て取れます。この外面的な身体の動き、これが情動です。
これに対して、「感情」は身体には現れません。もう一度、訳者解説から引用すると、「感情」とは身体の「情動」が二次的に引き起こす心的パターンだと書かれています。
一方、こうした情動的身体状態は神経信号や化学信号によって有機体の脳に即座に、しかも連続的に報告され、それに対応する心的パターン(イメージ)が脳内に生成される。
この状態が、著者ダマシオ博士の言う「感情」(の状態)である。(p439-440)
要するに、わたしたちが感情表現だとみなしているものうち、身体の動きに現れるのが「情動」、それに続いて、心の中でだけ体験されるものが「感情」です。
ダマシオはわたしたちが何かを経験すると、「ひそかに誘発される外向きの情動、そして最終的には認識される内向きの感情」の二つが起こると述べています。(p53)
大型トラックが迫ってきて避けたとき、とっさに身体に現れる緊張や心臓の高鳴り、内臓の収縮などが「情動」で、それに引き続いて起こる恐れや安堵などの心の中の状態が「感情」です。
「情動」と「感情」を区別することに何の意味があるのだろう、と思うかもしれませんが、この二つを区別することで、わたしたちの心の構造を考察しやすくなります。
情動について最初に広範な研究をしたのは、あのチャールズ・ダーウィンです。ダーウィンは、動物や人間の情動反応について、幅広く考察し、心の生物学的起源を探りました。(p54,370)
また、19世紀の実験心理学者ウィリアム・ジェームズは、精神的な感情に先立って身体的な情動が起こっていることに気づきました。(p55,170,373)
たとえば、熊に襲われて逃げるとき、わたしたちは恐怖を感じてから逃げるのではなく、まずとっさにわけもわからず逃げ出して、それから恐怖を感じるのです。
この考え方は、当初は激しい反対にさられましたが、のちに様々な実験を通して裏づけられ、現代の情動の研究の基礎となっています。
身体的な「情動」と心的な「感情」を区別することで、わたしたちの心の働きのうち、動物とも共通しているより普遍的な部分と、人間特有のより高度な部分に分割して考えられるようになります。
たとえば、ダマシオが書いているように、カタツムリの一種のアメフラシは、身体的な情動は持っていますが、おそらく感情は持っていません。
たぶんアメフラシにはわれわれのような感情はないだろうが、情動のようなものはある。アメフラシの鰓に触ると、鰓は素早く完全に引っ込んでしまう。
そのときアメフラシの心拍数は上昇し、敵を欺かんとまわりに墨を放つ。どことなく、ドクター・ノオに激しく追われたジェームズ・ボンドのようである。
アメフラシは、似たような状況でわれわれ人間が示す一連の反応と、ただ単純なだけで形式的には少しも変わらない反応を示す。(p97)
また、わたしたちがペットの犬や猫の気持ちがわかるのは、情動のおかげです。犬や猫が心の中でどんな感情を抱いているかは知るよしもありませんが、犬や猫の仕草、しっぽの動きなど、身体に現れる情動を見れば、いまどんな気持ちなのかが、なんとなくわかります。
わたしたちの心の体験を、いくつかの階層に分割して考えるなら、意識をショートケーキの三層構造に分割したときと同じように、より仕組みが理解しやすくなります。
ではわたしたちはどのようにして情動や感情を抱くのか、順番に考えてみましょう。
「感覚」―原自己の無意識の反応
まず、わたしたちが情動や感情を感じる前に、最初に起こるのは、わたしたちの神経系が、何らかの変化を感覚というセンサーで察知することです。
わたしたちは身体のさまざまな感覚を意識して感じているつもりですが、原自己のところで考えたように、わたしたちの脳は膨大な感覚情報を無意識下で処理しています。
そのため、たとえ意識がない人でも、無意識の原自己が感覚を感じ取って、脳活動が変化します。
持続性植物状態―昏睡の軽いもので覚醒の兆候はあるものの意識は重度に損なわれている―にある一人の患者が、機能的画像化スキャンを使って研究された。
スキャニングの際、彼女の網膜には、彼女のよく知る人物の顔写真が投影された。その結果、後側頭葉皮質の一部位が活性化されることがわかった。
そこは、覚醒し意識もある正常な状態の人間が、顔の知覚によって活性化されることが知られている部位である。
つまり、たとえ意識がなくても、脳はさまざまな部位で感覚信号を処理することができ、知覚のプロセスに通常関わっている領野のうち少なくともいくつかを活性化できるということだ。(p134,102,222)
たとえ意識がなくとも、脳は感覚の信号を処理することができます。
これはつまり、感覚の信号そのものと、感覚の信号がもたらす情動は別物だ、ということを意味しています。
たとえば、痛みの感覚そのものと、それが引き起こす苦しみは、神経科学的には別物です。
ダマシオは、風がに吹かれただけで激痛が生じるような重度の三叉神経痛を抱えていた患者の例から、その違いを説明しています。
その患者の場合、「痛み自体」と「痛みがもたらす情動」の分離が非常に明白だった。
…最後の手段として、私の最初の指導者の一人、神経外科医のアルメイダ・リマは、その男性に手術を施すことにした。
…手術の二日後…リマが痛みについて尋ねると、彼はリマを見上げて、「痛みは同じ」だがいまは気分がいいと、ひどく陽気に答えた。
…手術では、局部的な組織の機能障害に応じて三叉神経系から出されている感覚パターンには、ほとんど何も手をつけなかった。つまり、組織の機能障害の心的イメージは変わっていなかった。だから患者は「痛みは同じ」と言ったのだ。
にもかかわらず手術は成功していた。まちがいなくその手術によって、組織の機能障害の感覚パターンが生み出していた情動反応はなくなっていた。苦しみは消えていた。(p103-104)
この患者は、手術をしても、「痛みの感覚は同じ」でした。しかし、「痛みの苦しみ」はなくなっていました。
わたしたちが何かの感覚について苦しいと感じている場合、その原因は感覚そのものではなく、感覚によって引き起こされる身体の反応、すなわち「情動」にあるということがわかります。
たとえば、ひといちばい感受性が強いHSPの人の場合、人より痛みや辛さを感じやすいかもしれません。
ということは、感覚そのものの信号が強いのかと思ってしまいますが、HSPを提唱したエレイン・アーロンはひといちばい敏感な子のなかでこう説明していました。
中には感覚器が特に発達している人もいますが、大半は、感覚器の反応が大きいのではなく、思考や感情のレベルが高いためにささいなことに気づくのです。(p432)
ここで言われているのが、まさに、感覚と情動の違いです。
HSPの人は、他の人に比べて、感覚そのものが大きいわけではありません。化学的な信号としての、感覚の大きさは、他の人たちの場合と同じなのです。
言い換えると、無意識の原自己のレベルで行われる感覚処理は、他の人と大差ありません。
しかし、感覚から情動を生み出す領域が、他の人たちよりも活発です。たとえばそれは、右脳の島皮質などの体性感覚皮質です。
他の人とまったく同じ状況、同じ環境でも、HSPの人が強い刺激を感じすぎてしまい、圧倒されやすいのは、感覚は同じでも、感覚から生み出される情動が強すぎるからなのです。
次の項目で説明しますが、これと同じことは、ちょっとした刺激に敏感になったり、フラッシュバックを起こしたりするトラウマ当事者にも起こっています。
では、こうした過敏さを持つ人たちの場合、先ほどの三叉神経痛の患者のように、感覚そのものは変えられなくても、感覚が引き起こす情動を軽減することができれば、苦痛を減らせるということでしょうか。
ダマシオは、意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、感覚はそのままで、情動だけを減らす方法として、βブロッカーなどの薬物を挙げています。
もし読者が不整脈治療のためにβ-ブロッカーを飲んだり、ベイリウムのような精神安定剤を飲んだりしたことがあれば、たぶん私がここで言っていることを直接経験しているのではないかと思う。
そういった薬剤療法は情動作用を減じるから、たとえそのとき痛みはあっても、痛みによって引き起こされる情動は減じられる。
…たとえば、組織損傷によって引き起こされるはずの情動を、ベイリウムやβ-ブロッカーなどの特定の薬剤により、あるいは選択的な手術により、減じることができる。
組織損傷の感覚は残るものの、情動の鈍化によって、それに伴う苦しみは除去される。(p105)
インデラル(プロプラノロール)などのβブロッカーは、もともと血圧を下げる薬ですが、感覚そのものは変えられなくても、感覚によって引き起こされる情動を減らすことによって、苦しみを和らげることができます。
過去の幾つかの記事で書いたように、βブロッカーはADHDの過敏性を和らげたり、トラウマの過覚醒を和らげたり、舞台恐怖やスポーツ選手のイップス(大舞台の緊張が引き起こすトラウマの一種)を予防したりする目的で、さまざまな用途に幅広く使われています。
この後説明する身体感覚のセラピーがトラウマの過敏性に対して有効なのも、感覚そのものではなく、感覚によって引き起こされる情動を変えるからです。
たとえば、日経サイエンス2015年01月号 では、マインドフルネスが痛みに有効な理由についてこう書かれていました。
身体のうち痛みが生じている特定部位に注意を意図的に振り向けると、それらの部位の感覚がかすかに揺らぐのに気づいて、常に変わらない“一枚岩”だと思われていた慢性の痛みが絶えず変動する感覚に瓦解するかもしれない。(p49)
マインドフルネスによる注意深く身体を観察すると、ずっと変わらないと感じていた痛みが、「一枚岩」ではないことに気づきます。
つまり、痛みの感覚そのものと、それが引き起こす苦しみの情動は別だということに気づきます。痛みは変わらなくても、それに対する反応である情動は常に変動し、揺れ動いています。
感覚器の反応そのものを変えるのは困難ですが、感覚に対するわたしたちの反応である情動に気づき、それを変えることができれば、苦しみを軽減することができます。
「情動」―中核意識なしでは起こらない
感覚過敏の苦しみは、感覚そのものではなく、感覚に対する身体的反応である「情動」から来ています。
さまざまな感覚は、原自己によって無意識下で認知されると、すぐさま、わたしたち身体に、さまざまな情動反応を引き起こします。
感覚の認識が無意識の植物状態の人でも起こったのに対し、情動は意識のない人には生じません。
情動と中核意識は文字どおり連携しており、ともに存在するかともに存在しないかのいずれかなのだ。(p135,27,166)
意識があることと、情動反応があることは、脳科学的に見て、ほとんどイコールの関係にあるとみてよいようです。
言い換えると、意識のある人は、何かしら感覚刺激を受けたとき、必ず何らかの情動が誘発されます。情動なしの「純粋な」感覚そのものだけを感じる、ということはできません。(p198)
エレイン・アーロンはひといちばい敏感な子の中で、HSPの人たちが敏感なのは、「意識の座」たる脳領域が活発だからだ、と説明していました。
HSPは非HSPよりも精巧な認知処理をしているだけでなく、脳内の「島」と呼ばれる部位が活発に働いていることがわかりました
(この部位は、その時々の内面状態や感情、体の位置、外部の出来事といった情報を統合して現状を認識するので「意識の座(seat of consciousness)」と呼ばれることもあります)。
HSCが自分の内や外で起こっていることを、人よりよくわかっているとしたら、その時は、脳のこの部分が特に活発に働いているのでしょう。(p427)
この説明は、ダマシオの意識と情動の理論と一致しています。HSPの人たちは、たいていは無意識下で感じる感覚そのものが大きいのではなく、意識のレベルが高いため、意識と同時に生じる情動も強くなり、より強い刺激を感じ取りやすいのです。
ダマシオによると、情動は身体の内部で生じる体性感覚から生み出されていますが、体性感覚皮質(島皮質など)は特に右脳側に優位性があるとされていて、HSPの人は生まれつき右脳が活発だという報告と一致してます。(p209,283)
感覚そのものと、感覚に対する情動反応は別物だ、ということは、同じ感覚にさらされても、どんな情動反応を示すかは人それぞれだ、ということです。
同じ音を聞いているのに、心地よく感じる人と苦痛に感じる人がいます。同じ場所に行っても、緊張する人としない人がいます。感覚の信号は同じでも、引き起こされる情動が違うからです。
わたしたちは、日々の生活の中で、特定の感覚と特定の情動反応を紐付け、一人ひとり異なるかたちで学習していきます。
そのため、ダマシオは意識と自己 (講談社学術文庫)で、たとえ同じ感覚刺激を感じても、どんな情動反応が引き起こされるかは、千差万別になっていくと説明しています。
また、もう一つ述べておきたい重要なことは、情動の生物学的機構はほとんどプリセットされているけれども、誘発因はその機構の一部ではない、その外にある、ということ。
脳が発達し環境と相互作用するにつれ、有機体は、環境中のさまざまな対象や状況に対する事実と情動経験を獲得していく。
そして、もとは情動的にニュートラルだった多くの対象や状況を、情動を引き起こすように生得的に定められている対象や状況と関連づけるようになる。
いわゆる条件付けという学習形態は、この関連づけを実現する一つの方法である。
幸せな幼年時代を過ごした家とよく似た形の新しい家は、たとえそこで何か特別よいことが起きていないとしても、住む者の気分をよくしてくれる。
同様に、はじめて見るすばらしい人物の顔が、ある恐ろしい出来事と関係する別の人物の顔とひじょうに似ていると、不快になったりいらいらしたりする。
…このように、生物学的には情動を帯びるように定められていない対象にまで情動的価値が拡大されることで、潜在的に情動を誘発しうる刺激の範囲は事実上、無限になる。(p80-81)
はじめはニュートラル(中立的)で、何の情動反応も起こらない対象が、日々の経験によって、望ましい情動反応を引き起こすようにもなれば、不快な情動反応を引き起こすようにもなっていきます。
このような紐付けは、パブロフの犬で有名な「条件付け」という学習によって起こります。
ある感覚と、ある情動の結びつきの組み合わせは、ダマシオが言うように「事実上、無限」の可能性があります。
トラウマを負った人が、変幻自在で奇妙極まりない、医学では説明しきれないような症状を抱えるのはこのせいです。
トラウマというのは、恐怖体験によって、それまで無関係だった特定の対象が、何らかの激烈な情動反応と紐付けられてしまう現象です。
感覚は無意識のうちに条件反射として特定の情動を引き起こすので、トラウマを負った人は、何の感覚がきっかけなのかわからないまま、情動の渦に呑み込まれてしまいます。
われわれは情動の誘発因を意識する必要はないし、しばしば意識していない。また、われわれは情動を意図的にコントロールすることもできない。
いま自分が悲しい状態や楽しい状態にあることはわかっても、なぜそういう特別な状態にあるのかということになると、わからなかったりする。(p67)
なお悪いことに、情動反応は自動的に生じる生理的な現象ので、意思の力で抑制することができません。
われわれにとって情動を止めるのは、くしゃみを止めるようなものだ。
われわれは情動の表出を妨げようとすることはできるし、部分的にうまくいくこともあるが、全面的にではない。
たとえば演劇のような文化的作用のもとでそれがうまくできるようになる者もいるが、基本的にわれわれが手にしうるものは情動の表出の一部を隠す能力であって、内臓的、内部的環境で起こる自動的な変化をブロックする能力ではない。(p69)
くしゃみという生理的な反応をなんとか我慢しようとしても、あくまで表面上しか止められないように、身体の反応そのものをブロックすることはできません。
トラウマの情動反応に振り回される人も、自分ではどうしようもない身体や内臓の苦痛に振り回されることになります。
このような情動の条件付け学習は、中核意識のところで考えた、非言語的な手続き記憶の学習と同じものです。記憶障害のデイヴィッドは、非言語的な身体の記憶は覚えていましたが、それが情動です。
条件付けによって、特定の刺激が特定の情動(手続き記憶)と結びつくことによって、いかに原因不明の多彩な症状が引き起こされるかについては、別の記事で詳しく説明しています。
「感情」―情動がなければ生じない
何かの感覚が、それと紐付けられた情動反応を引き起こすと、次は連鎖的に感情が引き起こされます。情動は「感情の素材」だからです。(p98)
ダマシオが説明していたように、情動は外から観察できる身体の動きであるのに対し、感情は心の中の自分だけの内なる働きです。身体なくして意識が生まれないのと同じく、情動なくして感情は生まれません。
この三つの現象―情動、感情、意識―についての逃れえない明白な事実は、それらが身体と関係をもっていることだ。
…こうした全プロセス―情動、感情、意識―の実行は、有機体の表象に依存している。それらの共通の本質は身体である。(p368-369)
ウィリアム・ジェームズが、熊に襲われたとき、まず身体が逃げ出し、次に心が恐怖を感じることに気づいたように、ダマシオは「情動の表出は感情に先行する」と述べます。まず身体の反応が先で、心は身体の後に続く、ということです。(p368)
そのため、ダマシオの研究を注意深く検討したヴァン・デア・コークは、以前の記事で詳しくまとめたように、心だけを扱おうとする会話主体のセラピーは、トラウマを十分に解決できない、と考えるようになりました。
心の感情は、もともと身体の情動から生み出されたものです。
ダマシオは感情とは「情動が及ぶ範囲を拡張する」ための能力だと述べています。感情は、情動にさらに動機づけを与え、次なる行動を促します。(p369)
しかしあくまで感情は情動の機能を拡張しているだけなので、感情だけを扱っていてもトラウマの根本原因は治療できません。心だけでなく、心を生み出している身体の情動に焦点を当てた治療が必要なのです。
従来の精神療法は、たとえば認知行動療法のように、拡張意識に由来する高度な理性的思考によって、トップダウンで問題を解決しようとしていました。
しかし、人間の意識はボトムアップで作られていて、拡張意識の理性的思考は、より下層にある身体の働きから生み出されていました。
ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで書いているように、意識も心も、「下から上へ」ボトムアップで構成されている以上、最上部の理性に頼るトップダウンのやり方だけではうまくいきません。
心理的な変化が起こるのは主に洞察力や理解、あるいは行動修正によると、これまで推測されてきた。
しかし、精神機能の研究はトラウマ後の患者の変容を助けるうえで限られた効果しか持っていないことを明らかにした。患者たちは、長年にわたって苦しい症状に悩まされることが多かった。
永続的な変化は、主に心理的なトップダウンの処理(合理的な思考や認知や規律ある行動の選択から始める)のではなく、主にボトムアップの処理(身体的・生理学的な感覚にフォーカスすることを学び、持続的に知覚、認識、判断に発展させていく)ことによって起こる。
変容は、トップダウンとボトムアップの相互関係の中で起こるのだ。(p334)
トップダウンの手法がまったく役立たないというわけではありませんが、それだけでは十分とはいえません。
今日では、認知行動療法のような手法が効果がない場合に、マインドフルネスのような「今ここ」に意識を向けるセラピーが有効だとされています。
意識の三層構造のより下層に働きかけることで、感情の背後にある情動に注意を向け、問題の根本に迫るのです。
「認識」―フェルトセンスに気づく
トラウマの治療のために情動のような身体感覚を利用するには、高度な思考力によって、無意識の情動や感情に気づくことが必要です。
ダマシオが言うには、情動や感情をただ「抱く」ことと、その情動や感情を「認識」したり「内省」したりすることはまったく別です。
感情をもつことは、感情を認識することと同じではない。感情についての内省はまた別の段階である (p368)
わたしたちは、たとえ情動や感情を抱いても、それに気づいているとは限りません。体の中で起こる情動や感情の変化は、意識して注意を向けないかぎり、わたしたちの意識から隠されている、とダマシオはいいます。
以下の文章は、トラウマ研究者のヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するのp156で、ピーター・ラヴィーンも身体に閉じ込められたトラウマのp183で引用している重要な説明です。
われわれはときおり、事実を見いだすためにではなく事実を隠すために心を使う。
われわれは心の一部を衝立(ついたて)として使い、心の別の一部がよそで進行していることを感知しないようにしている。この隠蔽はかならずしも意図的ではないが、意図的であろうとなかろうと、衝立が事実を隠していることは確かである。
この衝立がもっとも効果的に隠しているものの一つがわれわれ自身の身体、身体の中身である。この衝立は、命の流れである身体の内部状態を、部分的に心から排除している。
情動と感情のあいまいさ、捉えどころのなさ、実体のなさは、たぶんこの事実の現れであり、われわれが身体の表象をどのように遮っているかを、あるいは非身体的な対象や事象にもとづく心的イメージがどれほど現実の身体を遮断しているかを、示唆している。(p44)
ダマシオが述べているのは、わたしたちは時として、自分の体の情動や感情を無意識下に隠してしまう、ということです。体の状態を伝える大切なシグナルである情動や感情を「心から排除」して気づかなくなってしまいます。
たとえば自分の身体がどれだけ疲れているか気づかないまま頑張ってしまうことがあるかもしれません。本当は悲しかったり辛かったりする感情を無意識下に抑圧して無理をしてしまうことがあるかもしれません。
わたしたちは、なまじすばらしい拡張意識の理性の力を持っているがために、自分の身体が伝えようとしているメッセージを無視して、身体の負担に気づかなくなってしまうことがよくあります。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、とりわけトラウマを抱えた人は、そうなりやすいと言います。
だが、トラウマを負った人々は、自分の体の内部で絶えず危険に感じている。過去が、心を苦しめる内部の不快感として生き続けているからだ。
彼らの体は、内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ、それを制御しようとするうちに、腹の底で感じるものを無視し、内部で起こっていることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう場合が多い。
彼らは自己から隠れることを学ぶのだ。(p162)
トラウマを抱えた人は、恐ろしい苦痛から目を背けるあまり、自分の体の中で起こっている情動や感情に対して麻痺してしまい、失感情症や失体感症に陥って、「自己から隠れることを学」んでしまいます。
その結果、自分の身体の情動や感情を認識できなくなり、体が必要としているものが何なのかわからなくなります。自分の体と疎遠になって、回復するための必要な体の訴えに気づかなくなってしまうのです。
それで、ヴァン・デア・コークは、トラウマから回復するために、まず何を置いても重要なのは、体の内部の変化を感じ取れるように訓練すること、体の声を聞けるようになることだ、といいます。
人はどうすれば心を開いて感覚と情動の内部世界を探ることができるのか。
私の治療の場合には、患者を手助けし、彼らが体の中の感じにまず気づき、次にそれを説明できるようにするところから始める。(p169)
自分の内部世界を探り、身体の奥深くの動きに気づけるようになることが、治療の第一歩です。
やはりダマシオの言葉を引用していた神経生理学者ピーター・ラヴィーンも、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、トラウマから回復するためには、まずフェルトセンスと呼ばれる内なる身体感覚に気づけるようになる必要がある、と述べています。
この癒しのプロセスを始める際に、私たちは「フェルトセンス」として知られる、内なる身体感覚を使います。
この身体感覚は、私たちが症状、つまりトラウマの影を見つけるための入り口としての役目を果たします。(p80)
身体的(外的)な視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚は、フェルトセンスの基盤となる情報の一部分にすぎません。
他の重要なデータは、身体の内なる気づき(姿勢、緊張、動作、体温など)に由来します。
…感情はフェルトセンスの一部ですが、ほとんどの人が信じているよりもその役割は小さいのです。(p84)
フェルトセンス、つまり、無意識のうちに身体に現れている情動や、そこから生成される感情に気づけるようになれば、身体が何を求めているのかがわかるようになってきます。
今まで、支離滅裂で意味不明な症状だと思っていた身体のあちこちの内なる感覚が、どれもすべて理由があって生じていた、情動のメッセージだということに気づきます。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、こうした情動や感情こそが、ダマシオのいう「ソマティック・マーカー」、つまり身体がわたしたちにメッセージを伝えるために用いる言語なのです。
これは過去の経験や感情に基づく状況を知らせてくれる感情や身体感覚である。…それは意識的なこころからは得られない情報を与えてくれる。
「感情の知性」と「感情のリテラシー」は、フェルトセンスやソマティック・マーカーを通じてコミュニケーションをとる。(p365)
こうした身体からのメッセージであるフェルトセンス、またソマティック・マーカーを感じ取るには、どうすればよいのでしょうか。
ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、自分がフェルトセンスに意識を向けるときの体験を一例として記しています。
私は今では自分の身体感覚にずっとよく気づくようになりましたが、フェルトセンスに入り込むにはそれなりの手順を必要とします。
以下に紹介する、私の典型的な一日の暮らしの説明でそれがお分かりになることでしょう。
忙しい町での一日から帰宅して、私はすぐにテレビのリモコンに手を伸ばしました。ボタンを押す前に、私はこの習慣的な気晴らしをやめて自分の内面を見つめることを思い出します。
自分の内面に注意を向けてみると、まず忙しい思考に気づきました。それはまるでぶんぶんいう蝿の大群のようです。私はその不快な感覚を自分の意識に浸透させます。
…しばらくして、私は不快感と痛みがある箇所に気づき始めました―その箇所はあちこち移動するように思えました。より深く楽に呼吸すると、思考が少しスローダウンすることが分かります。
…手がじんじんと暖かくなり、それまでいかに手が冷たかったかに気づきました。(p86)
この話はまだまだ続きますが、引用はこのくらいにしておきます。
いわゆるマインドフルネスの状態を作り出して、意識して身体の内面に集中し、情動や感情に注意を向けることで、それまで気づいていなかった体のメッセージや、体が必要としていることに気づける、ということがわかるでしょう。
これがつまり、ダマシオの言っていた、心の衝立(ついたて)の後ろに隠してしまっていた情動や感情に気づく、ということです。単に感情や情動を抱くことと、それに気づき、内省することは別なのです。
心も「下から上へ」
このように情動についてのダマシオの研究は、意識が「下から上へ」ボトムアップで構成されていたのと同じく、心もまた、まず身体から始まって、「下から上へ」構築されることを示しています。
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感情…心の中のイメージ。情動を拡張し動機づけを与える
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情動…身体に現れる動きや身体感覚。中核意識が不可欠。
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感覚…基本的な有機体の反応。意識がなくても処理される。
※理性はある程度感情をコントロールでき、たとえばイメージを思い浮かべることで情動を呼び起こせたりする(「あたかも身体ループ as if body loop」と呼ばれる経路)。しかし、文字通りの身体的な経験(「身体ループ body loop」と呼ばれる経路)のほうがより強い情動や感情を引き起こす。つまり、「上から下へ」の経路もあるにはあるが、「下から上へ」のほうがより強力だといえる。(p382)
この概念の中で、最もわたしたちの一般的な考え方と反しているところは、理性が生まれるには、まずその下にある感情が必要だ、という点でしょう。
ほとんどの人は、理性と感情は、対立するもの、正反対のものととらえています。「感情的」か「理性的」かという言葉は、対義語のようにして使われます。
しかし、ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)に書いているように、神経科学の症例に基づく重要な発見のひとつは、情動、そして感情に関わる脳の部位が損なわれた患者は、理性的な合理的判断がうまくできなくなる、ということでした。
これらの発見が示唆しているのは、情動の選択的衰退は少なくとも過剰な情動と同じくらい合理性を害するということ。
情動という「てこ」なしに理性が機能しつづけると考えるのは、どう見ても正しくない。逆に、おそらく情動は推論を助けている。それもとくにリスクや葛藤を伴う個人的・社会的問題のときに。
…適切に方向づけされ適切に用いられる情動は一つの支援システムになっていて、それなくして理性の砦はうまく機能しない。(p59)
情動は身体にとって必要なことを伝える手段であり、感情はその動機づけを強化する役割をもっていました。
つまり、情動と感情なくしては、わたしたちは自分が何を必要としているかがわかりません。適切な方向付けが得られないので、たとえ理性的に考えようとしても、方向付けが得られず、見当はずれになってしまいます。
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちでも、このダマシオの同じ実験が取り上げられていて、理性的な思考における身体の重要性が強調されています。
ダマシオの驚くべき発見の一つは、身体から発生する感情は、理性的な思考の最も重要な要素であるということである。
ふつう、感情は理性の邪魔をすると考えられているが、ダマシオが研究した感情をもてない患者たちは理性的な決断ができなかった。
脳に損傷を受けてから、全員が行動に不穏な変化を見せるようになった。ある患者は無謀な投資をして、結局破産した。不正直になり、反社会的になった患者もいた。
多くの患者は何時間も、的外れの些細な事柄をあれこれ考えていた。
ダマシオによると、彼らの欲求不満の多い生活は、理性は感情を必要とし、感情は身体を必要とすることを鮮やかに証明している
(ニーチェが言ったように、「君の身体には、君の最善の知恵のなかにあるよりも多くの理性がある」のだ)。(p41)
世の中の一般常識とは異なり、理性と感情は対立関係にあるものではありません。ちょうど一続きの川の流れのように、身体から発せられる情動、心の中の感情、そして高度な理性はつながっているのです。
そのため、川の流れのより上流にある情動や感情の流れがせき止められると、川の下流にある理性もまた、損なわれてしまいます。
このことは、身体感覚や感情を軽視し、理性だけに重きを置く“頭でっかち”の学者たちが、なぜしばしば見当はずれなのかを説明しているかもしれません。情動を軽視した理性は、「何時間も、的外れの些細な事柄をあれこれ考えて」しまうからです。
対照的に、ダマシオは、意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、あのアルベルト・アインシュタインが知的な問題の解決のために「体性感覚的イメージ」を使い、それを「力強い」イメージと呼んでいたことに触れています。(p414)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でも、神経生理学者ピーター・ラヴィーンが、そのことをより詳しく解説しています。
アインシュタインが思考に自分のからだも使っていたことは、それほど知られていない。
自伝の中で彼は、偉大な発見のいくつかが、まずはからだのチリチリ感や震えやその他の生き生きした身体感覚として現れたことを明かしている。
彼自身にさえ神秘的だったそのプロセスにおいて、身体感覚がイメージと洞察を伝え、偉大な発見へとアインシュタインを導いたのだ。
数十年後、アインシュタインの脳が医学調査のために解剖され、研究されたとき、際立った特徴は、頭頂葉の大きさと構造だけだった。
頭頂葉は、空間と時間における定位のためにからだからの情報が統合される領域である。(p331)
むろん、アインシュタインの脳の構造が、彼の天才的な思考にどれほど関係していたかは知るよしもありません。
しかし、学問の世界でしばしば軽視されがちな身体感覚、そしてそこから生み出される情動や感情が、理性的な思考の方向付けのために不可欠だ、というのは、現代の神経科学の研究から実証されています。
意識と自己 (講談社学術文庫)に書かれているダマシオの別の実験によれば、人間がカードゲームの法則を学習するとき、意識的な気づきに先立って、身体の情動反応が起こることがわかっています。逆に情動を伝える迷走神経を切断したマウスでは、うまく学習ができませんでした。
最近の一連の学習実験からも、情動における身体の役割に対する証拠が得られている。
学習中にある程度情動が存在していると、新しい事実の想起が強化されることが、ネズミと人間の双方で実験的に証明されている。(p383,390-392)
プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちでも、このダマシオのカードを用いた学習実験について、こう説明されています。
脳はゲームをまだ完全には理解していない(あと40枚引くまでは理解しない)のに、被験者の手は、どの組から引くべきかをすでに「知っていた」。
さらに、手が電気を帯びてくるにつれて、ますます被験者は得する山から引くようになった。身体に発生した無意識の感情が、意識的な決断に先行していた。手が心を誘導したのである。(p41)
神経科学的にいえば、身体の情動があるおかげで、理知的な発見が生まれます。目ざとく真実に気づくには、アインシュタインのように身体からのメッセージに敏感でなければならない、ということになるでしょう。
以前に書いたように、偉大な科学者の多くは、科学者であると同時に芸術家でもありました。見当はずれで凝り固まった医師と、多面的で深みのある思考のできる医師をわけるのも、芸術的感性でした。
心理学者ミハイ・チクセントミハイの研究でも、真に創造的な人は、単に理性的であるだけでなく、子どもっぽさや無邪気さも持ち合わせていました。感情的であると同時に理性的であることもできる人が、創造性を発揮してきました。
「歴史を変えることができた数少ない本の一冊」と称される「沈黙の春」を書いた海洋生物学者レイチェル・カーソンが、センス・オブ・ワンダーで綴っているような深い身体的な感性を生涯保っていたのは偶然ではないのでしょう。
残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
…わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。(p23-24)
レイチェル・カーソンが、「知る」という理性的な過程よりも、「感じる」という身体的な過程を重視しているのは注目に値します。川の流れに例えると、「感じる」ことは「知る」ことよりさらに上流にあるからです。
ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で述べていたように、情動は理性の「てこ」であり、「理性のエンジンも情動を必要とする」ので、身体的で繊細な知覚なくしては、真に理性的な思考力を発揮することはできないのです。(p82)
まとめ : 心は身体から切り離せない
このように、ダマシオの提唱した情動の理論、「ソマティック・マーカー仮説」は、わたしたちの「心」は、どれほど神秘的に見えても、「身体」に源を発する川の流れの下流である、ということを物語っています。
確かに心が持つ創造性は大海原のような広がりと深みを持っていますが、その源をさかのぼっていけば、感情や情動からなる川のようなひとつながりの流れ、そしてその源たる身体に行き着きます。
この記事で考えてきたダマシオの研究を整理すれば、以下のようになります。長々と説明してきましたが、整理してみれば、わりとシンプルなことを言っているのがわかると思います。
意識は身体のホメオスタシスを維持するために備わる機能である。
わたしたちの、もっとも基本的な存在の感覚や身体所有感は、脳の最下層の脳幹部や体性感覚皮質が生み出す、無意識の「原自己」によって生じている。
その次に、今ここを認識する「中核意識」が作られ、幼児や動物は今この瞬間だけの自分をスナップショットのようにして認識できるようになる。中核意識があれば、非言語的な身体の記憶、つまり手続き記憶を学習できる。
さらに、成長した人間は「拡張意識」を身につけ、今この瞬間だけでなく、過去や未来を認識できるようになる。前後の文脈を言語的に記憶するこの能力によって、わたしたちは、過去の自分を認識したり、未来の自分を想像したりできるようになり、ビデオのようにつながった自己のアイデンティティを形成できる。
わたしたちは、拡張意識のすばらしい創造力を人間性の源だと思っているが、神経科学の症例からすれば、原自己や中核意識がなくなれば、それは崩壊する。よってどれほど素晴らしい精神活動も、身体なしには成り立たない。
■情動について
わたしたちはまず無意識のうちに「感覚」を脳で処理する。これは意識のない原自己のレベルでも生じる。
次いで、その感覚は、条件付け学習によって、「情動」という身体的な反応(手続き記憶)を引き起こす。トラウマ反応もこれにあたる。情動は少なくとも中核意識がなければ起こらない。
身体的な情動は、心の中に「感情」を生み出し動機づけを与える。
そして最後に、情動や感情を認識し、内省することではじめて「理性」が生まれる。
感覚→情動→感情→理性はひとつながりの川の流れのようになっていて、情動や感情がなければ、うまく理性は働かない。
トラウマは情動のレベルで起こっている身体的反応なので、感情や理性のレベルに注目した治療ではなく、より川の上流に近い感覚や情動のレベルに介入する治療が必要になる。
結局のところ、意識の研究も情動の研究も、わたしたちの心や精神の働きは身体に依存していて、身体がなくなれば心は機能しなくなる、というシンプルな結論に至ります。
それゆえ、トラウマのような「こころの問題」の治療においても、科学のような「理性の学問」においても、それらの源たる身体を無視していては、見当はずれの答えしか見つからない、ということをダマシオは示しました。
今回まとめたダマシオの研究は、こうした近年のトラウマ医学の進展や、ソマティック心理学と呼ばれる身体感覚に着目したセラピー理論のベースになっています。
ダマシオの本は、かなり難解なため、手放しでお勧めできるわけではありませんが、もしこの記事をここまで読んでくださった方がいれば、スムーズに理解できると思うので、ぜひこの意識と自己 (講談社学術文庫)を手にとって読んでみてください。
この記事では言及できなかった数多くの症例や、詳細な神経科学的な考察がふんだんに盛り込まれているので、よりいっそうの気づきがあると思います。
確かにレイチェル・カーソンが言っていたように、知ることは感じることの半分も重要ではありません。ダマシオもまたこの本で、たとえ脳科学的な知識を蓄えたとしても、経験の代わりにはならないと断言しています。
脳の仕組みを知るのは結構なことだが、何かを経験する上でそれが必要であるわけではない。
脳についてさらに詳しく知ることはたぶんさらに結構なことだが、と言っても、それは世界を経験する上で有用だからではない。
要点は明らかだ。この先われわれは心的イメージ処理の生理学についてますます知識を増やし、それによりわれわれは心と意識の背後にある機構をますます深く理解するようになるだろう。
そしてそれは、いかなるイメージの経験にとってもそのような知識は必要ではないという事実と完全に合致する。
…ただし、知識が増えれば増えただけ、われわれがそうしたイメージをどのようにして経験するようになるのかを、詳しく説明できるようになるはずだ。(p397-398)
知識は経験の代わりにはなりません。難しい知識ばかり蓄えても、経験の代わりにはなりません。でも、知識があれば、自分が経験してきたことを、詳しく整理して説明できるようになります。
だからこそ、すでにソマティック心理学やセラピーの分野で経験を積んできた人にこそ、ダマシオの研究を知識として知ってほしいと思います。知識があれば、豊富な経験がより有用なものになるからです。
ヴァン・デア・コークがダマシオの意識についての研究を「私にとって最も重要な本」と述べたのも、それまでの彼の精神科医としての経験が、ダマシオの理論によって整理され、ぴったり腑に落ちるのを実感したからでしょう。
知識は地図であり、実際に見知らぬ土地を自分の足で歩いている人が手にした場合にこそ力を発揮します。
ダマシオの意識と自己に関する研究は、自己とは何か、人格とは何か、解離やトラウマとは何か、という不可思議なテーマを、自らの経験により深く思考してきた人にこそ、自分が歩いてきた世界の全体像を指し示すたぐいまれな地図となるのです。
補足 : 脳科学が陥りやすい因果関係の落とし穴
この記事で書いたように、脳科学の専門家や医師たちは、わたしたちのあらゆる精神活動の源として、脳の活動を過大評価しやすい傾向があります。
たしかに脳が重要な役割を果たしていることは間違いありませんが、脳こそが精神活動の源だと決めてかかっていると、脳科学の測定データの意味を取り違えてしまう危険があります。
たとえば、ダマシオの理論と離人症の関係を説明している私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳では、現代の脳科学が陥りやすい落とし穴について、こう忠告されていました。
この注意書きは、この本全体を通じて胸に留めておいてほしい。
神経科学、とくに障害の研究は神経生物学の方向に単純化させ、脳と精神の関係を一方通行でとらえようとする傾向がある。脳は精神活動を左右するが、その逆はないというわけだ。
障害を抱えた患者の脳をfMRIやPETスキャンで観察し、健康な人の脳と比較すれば、特定の領域の活動が異なっていることがわかる。
だが明らかに神経学的な損傷があるならともかく、スキャン画像は脳の活動と障害に相関関係があることを示しているに過ぎない。
スキャン画像から読み取れる器質的、機能的な異常が障害を引き起こしたのか、あるいは、たえまない精神活動(「この足は自分のものではない」という妄想など)が積みかさなって脳を変化させたのか。それは判定できないのだ。(p101)
ここで忠告されているのは、よく言われる、因果関係と相関関係の取り違えです。
特定の疾患の患者の脳を調べ、ある部分に萎縮や血流低下が見つかった場合、科学者は、これこれの脳の箇所の問題が、特定の症状を引き起こしているという、因果関係を想像しがちです。
しかし、実際には検査データは相関関係を示唆しているだけで、因果関係については何も明らかにしていません。なかでも、脳の変質のせいで異常な思考が生じているのか、異常な思考のせいで脳が変質したのか、という方向性は謎めいています。
たとえば、ダマシオの理論によれば、わたしたちの感情は体の内部の体性感覚(内臓や血液、筋骨格からの信号)によって作られています。
とすると、まず身体の内部環境に異常が生じて、それが変質した思考として現れ、脳は異常をモニタリングしているだけだ、という可能性はないでしょうか。
実際には問題の根は脳にあるわけではなく、脳活動を変化させるほどの身体の異常にあるかもしれないのです。
わたしのブログでも、こうした因果関係と相関関係の短絡的な解釈をしてきたことは多々あるので耳が痛い話ですが、脳と身体の関係は一般に思われているほど単純ではない、ということは肝に銘じておくべきでしょう。
ダマシオも、意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、脳科学の画像データを解釈するときに陥りやすい間違いをひとつ挙げています。
たとえば、顔が見分けられない人(相貌失認)の当事者の脳機能を画像検査したところ、紡錘状回と呼ばれる特定の領域が顔認識を処理していることがわかりました。それ以来、ここは顔認識領域と呼ばれています。
しかしダマシオは、この部分は顔の視覚的信号を処理している領域にすぎないといいます。わたしたちが誰かの顔を意識できるのは、別の領域の仕事です。
重要なので記しておけば、機能的ニューロイメージング実験におけるこの領域の活性化を、「顔に対する意識」はいわゆる「フェース・エリア」(顔認識領域)で起きる、という意味に解釈してはならない。
被験者が意識している顔のイメージは、顔認識領域にニューラル・パターンが形成されずには生じないが、その顔を認識しているという感覚を生み、注意をそのパターンに向けさせるプロセスは、同じシステムの別の領域で起きている。(p222)
難しい説明ですが、これは本文中で説明した、痛みの感覚と、痛みが引き起こす苦しみは違う、という区別と同じものです。
痛みの感覚そのものは意識がなくても処理されます。しかし意識がある人は、痛みの感覚によって情動が引き起こされるので、痛さという苦しみを意識します。
同じように、顔の感覚の処理も無意識下で起こっています。たとえば、植物状態で意識のない状態の人でも、見慣れた顔を見せると、この脳の顔認識領域が活性化することがわかっています。
このことは、つぎのような事実を考えればもっともはっきりする。
植物状態で意識のない患者に見慣れた顔を見せると、「顔認識領域」(紡錘状回内の頭頂-側頭接合部にある)が、正常な感覚をもつ人間の場合と同じように、機能的画像化スキャンにおいて明るくなる。
この話の教訓は単純だ。認識されるべきものに対するニューラル・パターン生成能力は、もはや意識がつくられていないときでさえ保持されているということである。(p222)
だれかの顔を見たときに脳の顔認識領域が活性化するのは確かです。しかしだからといって、わたしたちが誰かの顔を認識できるのは、顔認識領域の活動の結果だ、という単純な因果関係にはならない、ということです。
その部分は確かに顔の感覚を処理していますが、わたしたちが見慣れた顔に気づいて意識するのは、また別のプロセスだからです。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、リエージュ大学の神経学者スティーヴン・ローレイズは、このように脳の機能を単純化してしまう取り違えについて、かの悪名高い骨相学と同じ轍を踏んでいると警告していました。
ローレイズが繰りかえし強調していたのは、「自分たちはネオ骨相学者になってはいけない」ということだった。
骨相学とは、ドイツの医師フランツ・ヨーゼフ・ガル(1758~1828)が創始した研究分野だが、今日の科学では否定されている。
人間のあらゆる精神活動は、脳のどこかの領域(器官)が生みだしたものであり、器官の発達の差が頭蓋の形状に反映される。そのため頭蓋を外からさわるだけで、どの器官が優れているかわかるとガルは考えた。
自己は脳の特定の領域で生まれるものではないのです。ローレイズはそう断言した。(p28-29)
かつて骨相学が、わたしたちの精神活動を単純化しすぎたように、脳科学も、MRIなどの検査機器でいわば脳を「外からさわるだけで」何もかもわかると思い込んでしまう危険をはらんでいます。
興味深いことにダマシオは、意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、画像検査などで外側から脳を調べているだけでは、意識の謎は解けないと主張していました。
とれわけ、内なる視座には絶望的な欠陥があることを恐れ、意識をもっぱら外なる視座から研究しようとする罠に陥ってはならない。
人間の意識の研究は、内的な視点、外的な視点、その双方を必要としている。(p113)
ダマシオの理論が示唆していたのは、人の精神活動は、脳というひとつの臓器から生み出されるほど単純なものではなく、全身さまざまな場所から発信される体勢感覚や、外部の対象との複雑な関係性によって生み出されている、ということでした。
その複雑な因果関係を読み解くには、たとえば身体からの繊細なフェルトセンスを感じ取るような、わたしたちの内なる視点も必要でしょう。
脳が心を生み出しているという単純な因果関係でないのであれば、外側から脳だけを調べたところで、人の精神活動が何もかもわかるはずはないのです。