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ヨーガで身体の声を聞く―トラウマや慢性疼痛に身体セラピーが役立つ理由

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ヨーガは東洋において数千年前から実践され、その達人たちは多くの身体的、情緒的精神的恩恵を手にしてきた。

しかしながら、つい最近まで、それらの効果が科学的に定量化されることはなかった。

だが、トラウマ治癒におけるヨーガの有効性と明確な生理学的効果に対するベッセル・A・ヴァン・デア・コークの説得力ある研究によって、この永遠の健康増進術のきわめて新しい適用法が示されたのである。

これは、すべてのトラウマに共通する名称が「体からの疎外と断絶」であり、「〈今ここに在る〉ことのできる能力の低下」であることを知るなら、何ら驚くには当たらない。(p10)

経生理学者ピーター・A・リヴァイン(ラヴィーン)は、トラウマをヨーガで克服するに寄せたまえがきでそう書いています。

トラウマ専門医ベッセル・ヴァン・デア・コークは、これまでトラウマ治療の主流とされていたカウンセリング形式のセラピーが、幼少期から慢性的なトラウマを抱える人たち(複雑性PTSD、ないしは発達性トラウマ障害)には効果が薄いことに気づき、有効な治療法を探し求めていました。

そのような人たちが抱える「耐え難い身体感覚によって“たたきつぶされた”という、この永遠に続く感覚」や「煙でいぶしたガラスで隔てられて生きているような感じ」を癒やす方法として、彼がたどり着いたのはヨーガをもとにした治療プログラムでした。(p23,83)

この本で解説されるヨーガは、「トラウマ・センシティブ・ヨーガ」(トラウマに対する感受性を備えたヨーガ)と名づけられたもので、一般的なエクササイズ教室で実践されているヨーガとは、方法も目的も異なっています。

どちらかというと、以前に紹介した、身体感覚への気づきを重視するトラウマ治療法である「ソマティック・エクスペリエンス」にヨーガのポーズを取り入れたものといえます。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

この記事では、トラウマをヨーガで克服するをもとにして、なぜ身体感覚に注意を向けるセラピーが、慢性的なトラウマの苦痛に役立つのか考えたいと思います。

また、このセラピーは“トラウマ”の治療法とされてはいますが、慢性疲労症候群線維筋痛症などの慢性疼痛、オーバートレーニング症候群などの治療に通じる重要なポイントがたくさん含まれています。

慢性疲労症候群や線維筋痛症には、しばしば運動療法が効果があると言われますが、必要なのは「運動」を強いることではなく、身体感覚に対する「気づき」を養うことである、といえる理由についても考えてみます。

これはどんな本?

トラウマをヨーガで克服するは、米国のトラウマ専門医ベッセル・A・ヴァン・デア・コークが設立した米国マサチューセッツ州ブルックラインのトラウマ・センターで実践されているヨーガ・プログラムについての本です。

Trauma Center Trauma Sensitive Yoga

トラウマ・センターで実際に指導にあたっているデイヴィッド・エマーソン(David Emerson)とエリザベス・ホッパー(Elisabeth Hopper)によって、トラウマや解離の医学的研究から、具体的なエクササイズ方法に至るまで、とてもわかりやすく解説されています。

ヨーガの本ではあるものの、伝統的また宗教的なヨーガではなく、ソマティック・エクスペリエンスなど他の身体指向のセラピー(「ボディワーク」と呼ばれる)に近い内容です。

今までいろいろと身体指向のトラウマセラピーの本を紹介したり要約したりしてきましたが、専門的すぎるものが多く、手放しでおすすめできるような本がありませんでした。

そうした中で、この本は、ほどよい分量、一般向けの内容であるにもかかわらず、ベッセル・ヴァン・デア・コークやピーター・リヴァインといったトラウマ研究の第一人者が序文を寄せていることもあって、内容は非常にしっかりしています。

もちろん、身体指向のセラピーは、文面を読むだけでは意味がありません。

だが結局、語るだけではただの理屈だ。トラウマ・サバイバーに関しては、理論に焦点を合わせて話すだけでは不十分だとわれわれは思うのである。

だから、“今この瞬間に在ること”を、まさに今ここで、実践しようではないか。(p141)

このブログの記事では、本で書かれている考え方の紹介くらいしかできないので、もしこの記事を読んで興味を惹かれたら、ぜひ本書を手にとって、具体的なエクササイズを自分の身体で実践して、気づきを深めてほしいと思います。

トラウマ当事者の心拍変動(HRV)に注目する

冒頭で書いたように、ヴァン・デア・コークが、トラウマ治療法としてヨーガに注目したのは、従来のカウンセリング形式のトークセラピーでは限界があるからでした。

彼はこの本の冒頭に寄せた序文の中で、感情や思考ばかりに焦点を当てた従来の心理セラピーの限界について語っています。

これまでのほとんどの精神療法は、感情と思考の間を行き来する作業に焦点を当てる形をとってきた。

たとえば、その人がある出来事について話すと、それに対して、「それで、あなたはそれをどのように思うのですか?」とか、何かがあって取り乱していると、「それについてよく考えて、どのように理解すればよいのか考えていきましょう」といった返答をするのである。

…ほとんどの療法が、生体の反応の本質を伝える、人間の内部感覚の世界における変化―すなわち体の化学的側面という場、内臓という場、そして顔面・喉・胴体・手足の横紋筋の収縮(という場)に刻み込まれる感情の様相―を過小評価するか、無視している。

だが、“トラウマが肉体という舞台の上で、へとへとになるまで演じるのをやめない”のは、そのレベルで起こることなのだ。(p32)

要するに、これまでのトラウマ治療法のほとんど(認知行動療法や長時間曝露療法など)は、トラウマの本質として「心」ばかりに目を向け、内臓や顔面、喉、胴体、手足といった「体」に起こる苦痛を二次的なものとみなしてきました。

しかし、現代の神経科学が示すところによれば、実際には、トラウマとは精神的・心理的な問題ではなく、症状はまず身体から生まれて、心が後から続くことがわかっています。

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ヴァン・デア・コークは、トラウマの最も耐えがたい症状は、コントロールできない身体感覚だとみなしています。

トラウマが残すもっとも深い爪あとは、耐え難い身体感覚によって“たたきつぶされた”という、この永遠に続く感覚かもしれない。

胸が押しつぶされるような感覚、肩が苦痛でひきつり、腹部が焼けるように痛むけれども、自分ではそれをどうすることもできない、という動かしがたい無力感。そこでは体は盟友ではなく、敵になる。(p23)

トラウマを負った人は、自分では制御できない荒馬のような身体感覚に振り回され、嵐のさなかの船のように揺り動かされ、身体が「敵に」なります。

ジェットコースターのように移り変わる自律神経症状や覚醒レベルの変化の結果、まず身体がボロボロになり、その結果として、心が不安定になります。トラウマは身体から始まり、心は後から続きます。

そのことを示す指標のひとつとして、ヴァン・デア・コークが注目したのは「心拍変動」(HRV)という生物学的な指標でした。

1999年ごろ、「心拍変動」(HRV)と呼ばれる生物学の新しい指標がよく知られるようになった。

HRVが脳の覚醒系のうちのひとつ―脳のもっとも古い部分である脳幹部に位置するもの―の健全性を測定するための良い方法だということは、少し前に発見されたばかりであった。

調和のとれた人びとは強健なHRVを持つ傾向にあり、それは衝動や感情を適切にコントロールすることのできる彼らの能力に反映されている。これが呼気・吸気の能力に反映されて、心拍のリズミカルな変動を生む。

簡単にバランスを崩してしまう人びとは、このHRVが低く、うつ病や心臓病、癌などを含むさまざまな病気を発生させるリスクも持っている。

トラウマ患者の、十分な数の追跡評価を行なった数カ月後に、彼らのHRVが並外れて低いという結果が出た。

これによって、彼らがなぜちょっとしたストレスにこれほど反応し、さまざまな病気にかかりやすいかの説明がついたのである。(p20-21)

トラウマを抱える人たちがストレスに弱いのは、精神的な弱さやもろさからではなく、身体的また生物学的な理由によることがわかります。

ヴァン・デア・コークは、著書身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、自分もまた子ども時代にトラウマを負った当事者であることに触れていますが、検査の結果、自分の心拍変動もやはり「強健とはとても言い難く、長期的な身体的健康が保証される状態ではないこと」がわかりました。(p442)

それで彼は、患者たちのため、また自分自身のために心拍変動を改善するための方法を探し求め、その結果たどりついたのがヨーガでした。

やがて私たちは、PTSDに対するヨーガの効果を研究するための最初の助成金を、国立保健研究所から得た。

エマーソンのヨーガ指導は、私自身が定期的なヨーガをするようになるうえでも、…たびたび教師役を務める上でも役立った (そうこうするうちに、私の心搏変動パターンも改善した)。(p443)

ヴァン・デア・コークは、ヨーガの実践を通して自分の心拍変動の問題を改善できただけでなく、それがトラウマ治療に効果があることを、科学的に実証することにも成功しました。

なぜ「トラウマ・センシティブ・ヨーガ」が必要だったか

しかしながら、ヴァン・デア・コークらは、一般向けに行なわれている通常のヨーガのプログラムでは、トラウマ当事者たちのニーズに合わせられないことにも気づきました。

トラウマをヨーガで克服するにまえがきを寄せている神経生理学者ピーター・リヴァインは、そうした一般向けのヨーガのプログラムは、トラウマ当事者にとっては負担が多すぎると指摘しています。

なるほど、トラウマ・サバイバー〔トラウマを抱え、その克服をめざす人〕はヨーガに惹かれる。

しかしその多くが、部屋にあふれる人びとの息、汗、唱和、そして一見しただけで不可能と思われるその姿勢に圧倒されてしまうのだ。(p10)

これまでもヨーガのような身体的なセラピーに興味をもったトラウマサバイバーは数多くいました。

しかし、リヴァインが述べるように、衰弱しきっている人たちが、活力ある一般人たちに混じって、身体を使うエクササイズに取り組むのは無理がありました。この本の著者らはこう述べます。

トラウマ・センターのヨーガ・プログラムでは、この問題の追究に非常に長い時間をかけてきた。

われわれが教えるどのクラスにも、治りたいと切実に望む、多くの勇気ある男女がいる。しかし彼らは明らかに、座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しいのだ。

ぎこちない動き、こわばった動作の一つひとつが、この深い苦闘を物語る。「私の体は私の敵だ。しかし、私が今この人生を生きるためには、私の体を友とする道を探らなければならない」と。(p56)

トラウマ当事者のほとんどは、耐え難い多種多様な身体的苦痛に悩まされています。

「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」人たちばかりです。

絶え間ない筋肉の凍りつきのせいで、「痙攣、偏頭痛、線維筋痛症、慢性疼痛」などを併発していることも少なくありません。(p29)

常に警戒し、感覚過敏に圧倒され、生きることそのものが苦痛であるサバイバーたちにとって、一般人の感覚でエクササイズに取り組むなど不可能ですし、たとえ努力して取り組んだところで疲れ果てるだけです。

ヨーガが“体と心の平安を約束している”にもかかわらず、平均的なヨーガ教室では、トラウマを持つ人にとって話にならないようなことが行なわれているケースがきわめて多い。(p60)

トラウマ治療にヨーガを導入するとしても、明らかに一般向けのヨーガとは違った工夫が必要でした。

まえがきの中で、一般向けのヨーガの問題点を指摘していたピーター・リヴァインは、こう続けています。

筆者たちは、ランドマークとなる本書によってこのギャップを埋め、サバイバー一人ひとりの必要性に合わせて、ゆっくりと一歩ずつ進むマインドフルな〔〈今この瞬間〉に気づきを向ける〕ヨーガを提唱する。

彼らは、サバイバーが自宅で安心して行なうことのできるトラウマ・センシティブ・ヨーガ(トラウマに対する感受性を備えたヨーガ)の訓練法を開発したのである。(p9-10)

ヴァン・デア・コークらは、「トラウマ・センシティブ・ヨーガ」を開発するにあたり、従来の伝統的なヨーガから、トラウマ治療に必要のない要素を取り除き、必要なエッセンスだけを抽出しました。

どのような変更が加えられたのか、いくつかの点を見てみましょう。

宗教とは関係ない「ボディワーク」としてのヨーガ

まず、ヨーガというと宗教的な側面が気になる人がいるかもしれません。スピリチュアルな技法としてヨーガを大切にしている人たちがいるのは確かですが、トラウマ医療において、それは必要な要素ではない、とみなされました。

たとえば、伝統的なヨーガでは、グルと呼ばれる霊的指導者に服従することが求められますが、そうした要素は、トラウマセラピーとしてのヨーガには必要ないばかりか、有害であると見られたため排除されました。

ヨーガを行なう者は、自らの意志をすべて〈グル〉にゆだねて服従するよう命じられることになる。

そして、完全に教師を信じてすべてを任せ、その指示に従い、自分自身の主体的経験を否定するのである。

トラウマ・センシティブ・ヨーガに関心を持つわれわれにとって、これはわれわれがヨーガに期待するものの対極に位置し、…むしろ〈トラウマ〉の定義に近いようにすら思われる。(p41)

トラウマを抱える人の多くは、過去に誰かから、有無を言わさず力づくで服従させられ、自分の意思を押し殺すことを強要された経験をしています。

子ども時代に慢性的なトラウマを体験した人たちほど、自分の感情を殺して、親や目上の人の意向に従い、周囲に同調するよう強いられてきたはずです。

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この本で紹介されているヨーガは、指導者に従って修練を積むような伝統的なヨーガとは一線を画しています。教義や主従関係のような概念は一切ありません。

何をするにも、まず生徒たちの意向を尋ね、生徒たちが何一つ強制されることなく、自分で主体性をもって判断し選べる環境づくりが徹底されています。こうした環境こそ、治療に最も必要とされるものだからです。

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トラウマ・センシティブ・ヨーガは、もはや伝統的・宗教的なヨーガではなく、ボディワーク(身体から心に働きかけるセラピー)に近いものです。

他の様々な種類のボディワーク、たとえばアレクサンダーテクニーク、フェルデンクライスメソッド、ソマティック・エクスペリエンスなどと大差ないので、もしヨーガに抵抗があるなら、これら他のボディワークを選んでも問題ありません。

トラウマ・センシティブ・ヨーガの開発に関わったヴァン・デア・コーク自身、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、特にこの技法にこだわることなく、自分に合ったボディワークを実践するよう勧めています。(p352)

この記事ではトラウマ・センシティブ・ヨーガの取り組み方を紹介していきますが、ここで書く内容は、ヨーガに限定されるものではなく、他のトラウマ治療のためのボディワークにも当てはまる考え方として読んでいただければと思います。

「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」

トラウマ・センシティブ・ヨーガが一般的なヨーガと異なる別の点は、その目的にあります。

近年、一般向けに広まったヨーガは、身体を動かしたり鍛えたりするエクササイズとして活用されています。高温下で汗を流しながら身体を動かしたり、器具を使って身体を鍛えたりする教室もあるようです。

しかし、トラウマセラピーとしてのヨーガは、身体を鍛える「運動」が目的ではありません。

すでに見たとおり、トラウマのサバイバーは、「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」人たちばかりです。

トラウマをヨーガで克服するでも説明されているように、トラウマを抱えた人たちは、肉体が慢性的に過緊張状態にあり、ひどく疲弊しています。その結果、慢性疲労や慢性疼痛といった身体的苦痛を合併しています。

彼らは受け入れがたい身体感覚に対抗して自分自身を〈固めて〉いく。

…そのやり方は多種多様であり…筋肉が硬くなり、リラックスしたり自然な流れに乗ったりすることができなくなる。

そうした緊張は最終的に、痙攣、偏頭痛、線維筋痛症、慢性疼痛に至ることもある。(p28-29)

われわれのヨーガ研究の中では、この点について、慢性的なトラウマ患者の女性たちに関する熟考が重ねられた。

われわれは、シャヴァ・アーサナ(一連のヨーガのポーズの最後に行なう、完全にリラックスした状態)の間に、彼女らの筋肉が、まるで見えない敵と今も戦い続けているかのように引きつり続けているのを認めたのである。

こうしたことは、免疫学的研究の中でも見ることができた。近親相姦の犠牲者の免疫系は過剰に活性化されており、まるで環境汚染物質にさらされてでもいるかのような、切迫した危険の中にいる状態を呈していた。

危険に対するこうした過度の警戒感が、彼女たちの自己免疫病を進行させる素因となりうることを、われわれの研究は示唆していた。(p30-31)

トラウマ当事者が抱える、原因不明の身体症状、慢性疲労や慢性疼痛などは、慢性的な身体の過緊張の結果です。これは生物学的に言えば、「凍りつき」と呼ばれる状態です。

以前の記事で詳しく書きましたが、生物は逃げられる状況でストレスにさらされた場合は闘争/逃走反応によって応じます。逃げたり闘ったりすることで窮地を脱します。

しかし「逃げ場がない」「選択肢がない」状況に追い込まれたとき、凍りつきや擬態死といった反応を見せます。あたかも死んだように凍りつくことで、窮地をやり過ごそうとします。

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サックス博士の片頭痛大全の中で神経科医オリヴァー・サックスは、動物界に見られる凍りつきや擬態死の例をたくさん挙げています。

動物の世界においては、威嚇に対する反応としては急激なものよりも受け身反応のほうが重要であり、そのレパートリーは著しく多彩である。

その特徴は、一般的に分泌が増え内臓が活発になるのとあいまって、無動を保つ(ただし姿勢の制御や意識の覚醒はやや失われる)ことだ。

いくつか例示すれば、恐怖におののく犬(パブロフの「わずかに抑制的なタイプ」の犬ではとくに)は身体をすくませ、嘔吐し、便を失禁する。ハリネズミは、身体を丸めて脅威に対抗する。

スナネズミは筋肉の緊張を突然失ってカタトニーのように硬くなり、オポッサムは失神様無動すなわち「偽死」を装う。馬は驚愕して「凍りつき」、冷や汗を流す。

スカンクは恐怖を感じると凍りついて汗腺に変化が生じ、汗がほとばしる(分泌反応は攻撃的機能と考えられる)。また危険にあったカメレオンは凍りつき、体色を環境に似たものに変えるという独特の反応をみせる。(p381-382)

こうした動物たちの反応はふつうは一過性のものです。基本的にいって、動物界では、逃げられない状況で襲われたとしても、危機は一時的なので、なんとか危機を切り抜けられたら、凍りつき/麻痺は解除されます。

しかし、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、動物実験において、ストレスが長引いたり繰り返されたりした場合、凍りつきや擬態死といった不動状態が解除されなくなることがわかっています。

不動状態の自然終息は、捕まえられる前(もしくは不動状態から出てくるとき)に意図的に脅かされたときや、繰り返し仰向けに置かれたときには決して生じない。

後者の場合では、モルモット(もしくは他の動物)は数分よりもはるかに長い時間、麻痺状態を継続する。この恐怖に誘発されたプロセスが何度も繰り返された場合、かなり長い間、不動状態のままにとどまる(p69)

人間の場合、これと似た状況が頻繁に起こります。複雑な家庭環境、学校での緊張感、職場での嫌がらせや重圧、そうした逃げ場がない状況で緊張を強いるストレスは、一時的どころか、数年単位で続きます。

そうすると、身体にとっては、凍りつき/擬態死状態が当たり前の、デフォルト状態になります。あまりに慢性的にストレスにさらされたせいで、凍りつき/擬態死から復帰でなくなってしまうのです。

その結果おこるのが、原因不明にも思える多種多様な身体症状です。

こういった人々は、もうろう感、非現実感、離人症などの解離症状や、さまざまな身体的および健康上の問題に悩むことが多い。

身体症状には、胃腸症状、偏頭痛、ある種の喘息、慢性疼痛、慢性疲労、人生生活への一般的な関心の低下などがある。(p124)

動物における「凍りつき」や「死んだふり」のような受動的な危機反応がずっと続いている状態、それがトラウマ当事者たちの「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」状態の正体なのです。

興味深いことに、チャールズ・ダーウィンは慢性疲労症候群を抱えていたとされますが、動物の凍りつきや擬態死反応について描写し、それを人間にも当てはめています。おそらく自分の症状のことも念頭に置いていたでしょう。

慢性疲労症候群を生き抜いたチャールズ・ダーウィンが遺してくれた研究と足跡に思うこと
慢性疲労症候群の当事者だったと言われるチャールズ・ダーウィンの自伝から、彼の生き方や考え方に寄せるわたしの思いについて書きました。

このような生物学的な極限状態に陥っている人たちに、さらに運動を勧めれば気分がよくなる、などというアプローチが正しくないことは明らかです。

もうすでに、慢性的なストレスのもと身体を酷使し尽くし、四六時中、筋肉が緊張状態にあるわけですから、さらに負荷をかけたところで、症状は悪化こそすれ、よくなるはずがありません。

この記事の補足部分で書きますが、これは慢性疲労症候群の患者に対して、しばしば段階的運動療法が勧められることの問題点でもあります。

確かに段階的運動療法は治療効果を発揮する場合もありますが、それはおそらく「運動」のおかげではなく、これから書く身体的な「気づき」によるものと思われます。

自分が凍りついていることに「気づけなく」なる

慢性的な身体の凍りつき/擬態死状態に陥っている人たちは、多種多様な身体症状以上に、もっと深刻な問題を抱えています。

トラウマをヨーガで克服するによると、より深刻な問題、それは、あまりに慢性的なストレスにさらされ続けたために、身体が凍りついた状態が当たり前になってしまい、自分の身体の状態を正しく認識できなくなってしまっていることです。

センターに来る多くのクライエントは、無意識のうちに呼吸をこらえ、絶えず筋肉を緊張させている。

ところが、その緊張感や不快感に全く気づいていない。そのために、彼らの体の生理機能とフェルト・エモーション(身体感覚レベルの情動)が同調しなくなっている。

…なかには食べることを忘れる人もいる。食べ物を求め続けなければならないという、体の自然で律動的にメッセージが遮断されているからである。

どれだけ睡眠をとっても疲労感が抜けない人、夜中に何度も目が覚める人、眠ることのできない人もいる。(p83-84)

慢性的なストレスで過緊張状態になっている人は、凍りついた状態が当たり前になってしまい、体の基本的な必要に気づくことができなくなります。

とりわけ、子ども時代から慢性的なストレス下にあった場合、まともな状態をほとんど経験していないので、自分が凍りついている、ということに気づけなくなります。凍りついていない身体とはどんなものかを知らないからです。

たとえば、慢性疲労症候群や線維筋痛症の患者はしばしば、ただ原因不明の身体症状だけを訴え、ドクターショッピングを繰り返します。薬で治療する以外に、身体症状を和らげる方法はないと思い込みます。

しかし本当に「原因不明」なのでしょうか。

ほとんどの場合、おそらくはそうではありません。

ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で書いているように、「根底にある問題」が別にあります。

長期にわたって怒ったりおびえたりしていると、筋肉が常に緊張状態になるために、いずれ痙攣や背中の痛み、偏頭痛、線維筋痛症といった何らかの慢性疼痛の症状が出る。

そうした人々は、さまざまな専門家に診てもらい、多様な診断検査を受け、多くの薬を処方されるかもしれない。

それによって一時的に苦しみから解放されることもあるのだろうが、どれも根底にある問題は正してくれない。

診断によって患者の問題が規定されてしまい、それがトラウマに対処しようとする彼らの試みの表れなのだと認識されることはない。(p439)

原因不明の身体症状を抱える人たちの生活を客観的に調べてみると、しばしば非常に長い期間、慢性的なストレスにさらされていたことが浮かび上がります。

「長期にわたって怒ったりおびえたりして」いたことで、「筋肉が常に緊張状態に」なっています。

ところが、あまりに長いことそうだったがために、本人は主観的にはその慢性的ストレスを自覚していないか、たとえ気づいていても、それほど大それたことではない、とみなしています。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価の中で、カナダの医師ガボール・マテは、そうした状態に陥った女性の例を挙げています。

過去の出来事を覚えているが、それにまつわる心の傷は思い出さないというときには、この種の“解離”が働いている。多くの人が「幸せな子供時代」を回想するのはそれが理由なのである。

たとえば、全身性エリテマトーデスにかかったアイリス(第四章)が、父親は暴君のようで母親は精神的にはまったく頼りにならなかったというのに、「幸せな子供時代」だったと言っているように。

「父はとても短気で、腹を立てたら何をするかわかりませんでした。お皿が飛んできたり、誰かが蹴られたり」

「あなたも蹴られたことがあるんですか?」
「いいえ、一度も。私は父のお気に入りだったから」

「どうやってその地位を手に入れたんですか?」
「相手の目に入らないようにするんです。そのテクニックは、うんと小さいころに身につけました」

「子供のころ不幸せだったと感じたことはありますか?」
「不幸せ? いいえ」

「あなたが言われたような家庭環境の子供が、悲しみや不幸せとまったく無縁でいられるものでしょうか?」
「たいていは麻痺してしまうものです」(p363)

この例に出てくるアイリスは、家庭環境から来る慢性的なストレスにさらさられていましたが、ストレスをストレスと感じなくなるほどに麻痺していました。

尋常ならざる重圧と緊張が、何年も何十年も身体にずっとのしかかっていたのに、ことの重大さにまったく気づいていませんでした。

もし、これを読んで、自分の場合はそうではない、自分の身体にかかっているストレスや緊張くらい十分にわかっている、と感じる人がいたら、おそらく表面的な症状を自覚しているにすぎないと思います。

わたし自身の経験からしても、本当に極度に緊張している部分は、ずっとそれがデフォルトになっているので、感覚が麻痺してわからなくなっています。完全に麻痺しているものは、自分にとって存在しないも同じなので、そもそも麻痺していることすら自覚できないのです。

これは精神的な弱さや現実逃避ではなく、純粋に生物学的反応であり、慢性的なストレス下にあった人や動物には必ず生じるごく普通のことです。(ずっとメガネをかけていると、かけているという違和感がなくなる馴化現象の、さらに強力なものです)

長年、凍りつき/擬態死状態に陥っている人が、自分がさらされてきた慢性的なストレスや、身体のデフォルトの過緊張状態に気づかなくなって麻痺してしまうのは、ガボール・マテが指摘していたように「解離」という作用が起こるためです。

解離とは、あまりにも耐えがたい苦痛から意識を切り離してしまうことです。慢性的なストレスにさらされてきた人も、解離によって、身体にかかるとてつもない負荷に気づかなくなるおかげで、かろうじて日々を生き抜けるようになります。

しかし、トラウマをヨーガで克服するで説明されているように、たとえ圧倒されるような身体的ストレスに気づかなくなったとしても、身体に出ている症状はそのまま経験されるので、原因がわからないのに、ただ症状だけが出ているという奇怪な状態に陥ります。

解離は、情動、意識、あるいは身体症状から距離を置くために使われる対応メカニズムである。危険や破壊が進行している最中は、肉体的・感情的な苦痛に耐えるために、われわれは自分を切り離す。

…解離が起こると、外傷経験またはその記憶に結びついた感情的苦痛に、意識的に、しかも完璧に、気づかないことがある。

しかし、痛みはそのまま肉体に保存されている。

ある人は、自分自身を厳格にコントロールしていることから来る、首や背中の慢性的な痛みを抱えているかもしれない。また、葛藤に直面したとき、喉に息苦しさを覚える人もいるかもしれない。(p33-34)

あたかも、自分の肩の上に巨大なゾウが乗っているのに、ゾウの姿はまったく見えず、ただその異常な重みだけを感じている状態、といえばわかりやすいでしょうか。

その結果として、先ほど書かれていたように、こうした病気の当事者は、自分が過去からずっと抱えているゾウのような重荷に気づかないまま、原因不明の症状の治療法だけを求めて、ドクターショッピングや検査を繰り返し、やがて大量の薬を服用するようになっていきます。

そうした緊張は最終的に、痙攣、偏頭痛、線維筋痛症、慢性疼痛に至ることもある。

このような症状に対していったん薬物療法が施されると、彼らの生活そのものが変化し、定期的な医者通い、診断のための検査、薬の投与、リハビリ・プログラムへと進むのであるが、残念ながらそれらのうちのどれひとつをとっても、根底に横たわる問題に向き合おうとするものではない。(p29)

けれども、何の原因もなく、それだけの身体症状が起こるはずもありません。原因不明なのではなく、あまりにも慢性的にストレスが続いたことで解離が起こって、原因があるのに、原因に気づけなくなっているだけなのです。

この問題については、以前の記事でも詳しく書きました。

慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象
慢性疲労と解離についての記事の補足1

身体感覚に「気づく」体性感覚皮質を活性化させる

解離は以前は精神的な反応だとみなされていましたが、近年では、凍りつき/擬態死にともなって起こる身体的な現象であることがわかっています。

そのことを示唆する証拠が、fMRIによって見つかっています。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、凍りつき/擬態死を起こして、解離状態になった人は、脳の島(とう)帯状回といった場所の活動低下が生じていました。

ラニウスとホッパーのfMRI研究を思い出してみよう。解離状態の患者には、身体感覚を制御する脳領域(島および帯状回)の大幅な活動低下が認められた。(p139)

島および帯状回は、体内の受容体からの感覚情報(内受容)を受け取る脳領域であり、ヒトが自らの「固有性」そのものとして感じ理解しているものの基礎を形成する。

活動低下は解離を表すのに対し、過活動は自律神経系の覚醒と関係がある。(p124-125)

以前の記事で書いたように、島皮質は無意識下で身体をモニタリングをしていて、身体の状態のリアルタイムのマップを作っている、体性感覚皮質と呼ばれる場所です。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

島、そして帯状回は、わたしたちの基本的な「今この瞬間」の身体の認識をつかさどっています。一瞬一瞬において、身体の筋肉や内臓の正確な状態を把握し、感じ取る役割を担っている領域です。

つまり、ここが働いていないということは、身体がいまどうなっているか把握できなくなっているということです。身体の声を聞けなくなって、基本的な必要に気づけなくなっている、ということを意味しています。

結果として、身体の必要を察して柔軟に対処する方法がまったくわからなくなり、自分の身体症状は原因不明で、薬で無理やり症状を押さえつける以外に解決策はないと感じるようになります。

それはあたかも、子どもの必要を察することができない親のような状態です。子ども、すなわち身体が泣きわめいていても、どうすればいいかわからず、鎮静剤で眠らせるかのような対処しかできなくなる、ということです。

トラウマをヨーガで克服するの言葉を借りれば、「いろいろなレベルで、自分の面倒を見ることをやめてしまう」、すなわち、子どもをネグレクトする親のように、自分の身体を世話できなくなってしまうのです。(p8)

本当に必要なのは、無理やり薬で症状を止めることではなく、なぜ子どもが泣きわめいているのか知ること、すなわち、なぜ身体がさまざまな身体症状というかたちで泣きわめいているのかを察することです。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴァン・デア・コークは、そのために役立つのが、ヨーガなどのボディワークを通して、身体感覚を意識することだといいます。

失感情症の人は、身体的な不快感を抱きがちだが、何が問題なのかをはっきりと説明できない。その結果、曖昧な身体的苦痛をあれこれ訴えるのだが、医師は診断名をつけられない。

さらに彼らは、どのような状況に置かれても、自分が本当はどう感じているのかや、なぜ気分が良くなったり悪くなったりするのかがわからない。これは、体の通常の要求を、穏やかに、注意深く予期したり、それに応えたりできなくさせる、麻痺の結果だ。

同時にこの麻痺のせいで、日々の感覚的な喜びが鈍る。人生に価値を与えてくれる音楽や触感や明るさなどを経験しても、前ほど喜びが得られないのだ。

内部の世界との関係を(再度)築き、それとともに、自己との思いやりにあふれた、身体的感覚を伴う関係を復活させるには、ヨーガは素晴らしい方法であることがわかった。(p449-450)

ヨーガのようなボディワークを通して身体感覚を注意深く観察するなら、麻痺して気づけなくなっていた身体の微細な変化に気づき、身体が必要としていることをくみ取れるようになっていきます。

実際に、このヨーガのプログラムによって、身体の声を聞くための島などの脳の領域が活性化するという客観的な証拠が得られています。

幼少期に深刻なトラウマ体験をした6人の女性を対象とする、私たちの最新のヨーガ研究でも、ヨーガを20週間実習すると、基本的な自己システムである島と内側前頭前皮質の活動が増すことを、初めて示す結果が出た(第6章参照)。

多くの課題がまだ残されているものの、この研究は、体の感覚に意識を向けて、その感覚と仲良くなることを含む行為が、心と脳に大きな変化をもたらし、それがトラウマからの回復につながるという新たな視点をもたらしてくれる。(p452)

トラウマをヨーガで克服するに書かれているように、ヨーガのセラピーでは、さまざまな姿勢を試すなかで、何度も「“気づく”、“知ろうとする”、“興味を持ってアプローチする”、“許容する”、“試す”、“感じる”」といった言葉が投げかけられます。(p183)

今この瞬間、そのときそのときの身体の姿勢において、どんな身体感覚を感じているか、繊細に感じ取るよう促されます。

このセラピーの開発者であるヴァン・デア・コークが、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復で書いているように、その瞬間その瞬間の、身体の声に「気づく」よう訓練することが、このセラピーの肝です。

よいセラピーとは、内面に潜んで咆哮を放っているものに圧倒されることなく、フェルトセンス[繊細な身体感覚という身体の声のこと]を感じることを学ぶということだ。

あらゆるセラピーで一番重要な表現は「気づいてください」および「次に起こることに気づいてください」という言葉である。

内側のプロセスを観察できるようになると、脳の論理的な部分と情緒的な部分をつなげる回路が活性化する。これは、人が意識的に脳の知覚システムを再構成することができる、現在知られている唯一の回路である。

「自己」とコンタクトするには、自分の身体と自己を感じることをつかさどる重要な脳の領域である前島を活性化しなければならない。(p xi)

セラピーでは、さまざまな姿勢をとるあいだ、何度も「気づいてください」「次に起こることに気づいてください」といった言葉に促されて、身体感覚に注意を向けるという経験を繰り返します。

それによって身体の内部に対する注意力が強化されていき、「今この瞬間」の自己感覚をつかさどる脳の島皮質や内側前頭前皮質、帯状回といった自己感知領域の活動が刺激されます。

そうすると、自分が今までまったく意識していなかった身体の状態、つまり単なる慢性疼痛や慢性疲労のような表面的な症状ではなく、その背後にある筋肉の緊張や凍りつきなどに気づけるようになっていきます。

トラウマをヨーガで克服するでは、そのような例が数多く紹介されています。

キャシーは、「ヨーガのクラスを二回体験して、初めて呼吸に気がついた」とセラピストに話した。

彼女は、息をこらえているときには不安感があり、十分に呼吸してやると体がリラックスし始めるということに気づいたのだ。(p64)

二、三分間かけてやった後に、教師が生徒たちに質問した。「どんなことに気づきましたか?」

フランクは、「足を見ていないと、足を上げているのかどうか分からない」と答えた。これはまさに、教師にとっても、フランクにとっても、新たな発見の瞬間だった。

フランクはPTSD症状のために、それまでの20年間、セラピーを受けてきたが、肉体感覚について質問されたことは一度もなかった。

「あなたは自分の体を意識していますか?」「自分が動いていると感じますか?」「あなたは自分の身体的自己と切り離されていると思いますか?」。

フランクには、自分自身の体とのこの基本的な関係を探ることが大切なのだということが思い浮かばなかった。彼自身にも、彼のセラピストにも、である。(p66-67)

前の二つのクラスでは、“今この瞬間にいる”ことを難しく感じた……というより、“私はたいてい今この瞬間にはいない”ということに今は気づいている、ということなのかもしれない。―トラウマ・センターのヨーガの生徒(p141)

トラウマセラピーとしてのヨーガは、繊細な動きを通して身体の状態に気づき、どうすればより身体が安心感を感じられるか探ることによって、慢性的な身体的・精神的苦痛を治療していくのです。

身体の声を聞いて別の選択肢を選ぶ

このように、ボディワークの目的は、身体感覚に「気づく」ことであり、体を鍛えて「運動する」ことではありません。

しかし、ここは極めて重要な点なのですが、トラウマの当事者や、慢性疲労症候群、線維筋痛症などの当事者の多くは、こうした考え方に慣れていません。

これらの人たちは、(わたしも含めて)、無理をして頑張るという生き方が染み付いています。「良くなるためには、我慢して頑張らなければならない」と無意識レベルで思い込んでいることが少なくありません。

いつも頑張っていないと自分には価値がないと感じてしまう人へ―原因は「完璧主義」「まじめさ」ではない
全力を尽くしていないと自分には価値が無いと思ってしまう。休んだり、遊んだりすることに罪悪感を抱いてしまう。そのように感じてしまう人は、自分の限界を超えてやりすぎてしまいます。その原

それで、セラピーに取り組むときも、気づかないうちに、自分の身体に無理をさせてしまうかもしれません。

トラウマ・サバイバーの中には、インストラクターの指導に付いていかなければならないと思い、体の限度を超えてしまう人がいる。

彼らは非常に難しいポーズを「その場でやってみなければならない」とか、それらのポーズを「〈正しく〉やらなければ駄目なのだ」と思うのだろう。

そういうことをすると体をひどく痛めてしまうので、危険である。(p205, p74-78のアビーの経験談も参照)

これがまさに、先ほど書いた、体の声に気づけなくなっている、体の基本的に必要をくみ取れなくなっていることの結果です。

慢性的なトラウマを抱え凍りついた人、慢性疲労症候群や線維筋痛症の人たちは、おしなべてこの傾向を持っています。自分の体の声が聞けないがために、まったく無意識のうちに、知らず知らずのうちに体に相当な負担をかけてしまいます。

身体が凍りつき/擬態死反応を起こし、さまざまな身体症状や慢性疼痛、慢性疲労を起こすまで身体を酷使してきた人たちは、たいてい、相当に強い意志力や自己抑制力、また責任感の持ち主です。

しばしば、まわりの誰かの期待に応えるため、自分の意思を押し殺して頑張ってきました。とはいえ、ずっと子ども時代からその生き方が当たり前なので、その認識すらないかもしれません。

サバイバーの中には、長い年月、他者の要求を受け入れるために自分自身の願望や必要性に目を瞑り、服従的なサバイバル反応をしてきた人もいる。

彼らは自分が本当はどのように感じているのか、あるいは何を必要としているのか、混乱して分からなくなっていることがある。(P166)

しかし、たとえ自覚していないとしても「知らぬ間に頑張りすぎてしまう傾向」によって、他の人たちなら早々と投げ出してしまうような日常生活の無理難題に頑張って取り組み続け、我慢や辛抱を繰り返してきた結果が、いまの身体なのです。(p78)

ガボール・マテは、先ほども引用した身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価の文脈の続きで、こうした人たちが、自分の身体の痛みや感情に気づかず、無意識のうちに笑顔で頑張り続けている、と述べています。

もうひとつ私が気づいたのは、苦痛や痛みについて話すときにあなたが微笑んでおられるということです。

…肉体的な痛みについて、あるいはつらい出来事やつらい思いをしたことについて話すとき、無意識に微笑んでいる人を私はたくさん見てきました。

でも生まれたばかりの子供は、どんな感情を隠す能力も持ってはいません。赤ん坊は不快だったり不安だったりすれば、泣いたり、悲しそうなそぶりをしたり、怒りを示したりするものです。

痛みや悲しみを隠すためにすることは、みんな後天的に身につけた反応なのです。

場合によってはネガティブな感情を隠したほうがいいこともあるでしょう。でも、あまりに多くの人が、あまりにも頻繁に、しかも無意識に感情を隠してしまっているのです。

どういうわけか人は―個人差はあるとしても―知らないうちに他の人の情緒的欲求を満たそうとし、自分の欲求をないがしろにするようになる。自分の痛みや悲しみを、自分自身の目から隠してしまうのです」(p367)

このような人たちは、まったく無意識のうちに「自分の痛みや悲しみを、自分自身の目から隠して」しまい、辛いことに笑顔で耐え、無理難題をけなげに頑張りつづけようとします。

その持ち前の精神力と自己抑制力で、治療法に取り組むときも無理を重ねてしまう人たちがいます。(わたし自身、何年か前まで、極端な食事療法や運動療法によって、身体に負担をさらにかけることで病気を治療しようとしていました)

しかし、身体が悲鳴を上げているにもかかわらず、意志の力で無理強いさせるというのは、実際には美徳でもなんでもなく、かつて自分が扱われた仕方を再演しているトラウマ反応の一部です。

トラウマ、特に解離はどうやっても逃げられない環境で、自分の意思に反して無理やり嫌なことをさせられることによって生じるものでした。

これは動物行動学の実験では「逃避不能ショック」と呼ばれているものです。この実験では、檻に入れられたまま電気ショックを与えられ続けた動物は、固まって身動きできなくなってしまいました。

ヒトを含め動物は、逃げられる環境で苦痛を与えられた場合は、逃げたり闘ったりする闘争/逃走反応で応じます。しかしそうした選択肢が与えられない場合は、凍りつき/擬態死状態を起こします。

慢性的なトラウマを負った人は、家庭での虐待であれ、学校でのいじめであれ、他のどんな形のトラウマであれ、どうやっても逃げ場のない状況で、慢性的に苦痛を味わわされる「逃避不能ショック」を経験しています。

子どものころ、「ノー」と言わせてもらえなかったこと、親や教師などから、弱音を認められず無理をさせられたこと、あるいは力づくで身体を扱われたことなどを、成長した今になっても自分の身体に対して繰り返してしまっているということです。

トラウマをヨーガで克服するにも書かれているように、「自分の体との関係において、主観的にも客観的にもトラウマを繰り返すこと」によって、「自分自身の体との荒んだ関係を作り上げて」しまうのです。(p148)

口で「ノー」と言えなければ身体が「ノー」と言うようになる― 抑圧された感情が招く難病と慢性疾患
ガンや自己免疫疾患、慢性疲労症候群(CFS)を含む多くの難病は、突然発症するのではなく、子どものころから抑圧してきた感情が関係している。患者の気持ちに配慮しつつ、ガボール・マテ博士

自分の体に無理強いさせ続けてきた人にとって、本当に必要なのは、さらなる訓練でも鍛錬でも我慢でも忍耐でもなく、体の悲鳴をちゃんと聞いてあげること、体にとって何が必要なのか、穏やかに耳を傾けてあげることです。

さっき考えたたとえ話を思い出してください。あなたの身体はあなた子どものようなものだ、というたとえ話です。

今までのあなたは、子どもに有無を言わさず頑張らせる親のような存在でした。子ども(身体)の声を聞けないために、良かれと思って、まったく悪気もないままに、有無を言わさず子ども(身体)に無理を強いてきました。

あなたが体を扱ってきたこの方法は、おそらくは、かつて自分がそう育てられたことの再現です。子どものころ、親や先生から弱音をはかずに頑張るよう育てられたその同じ方法で、いま自分の体を扱っています。自分が教えられてきた以外のやり方を知らないからです。

あなたを育てた人は、きっと自分は無思慮な親だなどとは微塵も思っていなかったでしょう。同じようにあなたもまた、自分が体を無思慮に扱っているなどとはこれまで微塵も思っていなかったはずです。

でも、身体指向のセラピーではまったく異なる親になることを学びます。とことんまであなたの子ども、つまり身体の意見に耳を傾け、お互いが納得できる落とし所を一緒に探す親になるのです。

ヴァン・デア・コークの患者のアンナは、それまで自分の体にずっと無理をさせてきましたが、ヨーガのプログラムに参加しはじめて、体の声を聞く必要がある、ということに気づきました。

ヨーガというのは、“自分の外側ではなく内側を見て、自分の体に耳を傾ける”ということのようですが、これまでの私は「すべてそういったことを全くしない」というやり方で切り抜けて来ました。

…今週、家でヨーガをしているとき、こんな言葉が心に浮かんできました。“あなたの体には言いたい事があるんだわ”。私はこう答えました。“私、しっかり聴くわ”。(p25)

アンナは、これまでの人生で体にずっと無理をさせていました。身体の声を聞いて顧みるなどということは、全くしてしませんでした。

しかし、家でゆったりとヨーガに取り組んでみて、自分が今まで体の声を無視して無理強いさせていたことに気づきました。彼女に必要なのは、体を打ち叩いてでも頑張ることではなく、じっくり体の声に耳を傾けることだったのです。

ボディワークを通して、一瞬一瞬ごとの身体感覚につぶさに耳を傾けるようになってくると、今まで気づいていなかった、さまざまな微細な感覚に気づくはずです。漠然とした痛みや疲労ではなく、もっと細かなニュアンスの刻一刻と変化する感覚です。

そうした微細な感覚(ボディワークにおいて「フェルトセンス」と呼ばれるもの)は、体の声であり、体が必要としていることをあなたに伝えるメッセージです。(これは比喩ではなく、神経科学のソマティック・マーカー仮説に基づく考え方です)

この努力を続けていると、やがて彼らは不快だったり苦痛だったりする感情や身体感覚を、その場ですぐに遮断したり、何か他のことに自分を向かわせることで食い止めようとするのではなく、柔軟に受けとめることができるようになる。

不快な感情や身体感覚は、われわれが何を必要としており、何がわれわれにとって好ましくないのかを知るための情報源であることが多い。(p205)

そうした微細な感覚は、あなたの体が必要としていることを教えてくれる「情報源」なので、そうした感覚に気づけるようになって初めて、体を思いやる選択ができるようになります。

今まで、まったく気づかないうちに素通りしていた身体の声に気づけるようになり、無意識のうちに「体の限度を超えてしま」い、「知らぬ間に頑張りすぎてしまう傾向」に陥っていたことがわかるようになります。

そして、別の選択肢を選べるようになります。

「体の限度を超えない」「頑張らない」「ノーという」「ここでやめておく」、さらには「体に無理をさせるのではなく逆に緊張をほどく」「身体が求めているものを与える」「身体の必要に応える」といった選択肢です。

オーダーメイドで身体の必要を満たす

ここが転換点です。

慢性的なトラウマを抱えてきた人たちは、これまでずっと、ほんの幼いころから、「選択肢を選べない」状況で育ってきました。逃げ場がないために、凍りついて対処するしかありませんでした。

しかし、ボディワークによって体の声に耳を傾けるようになれば、人生で初めて、立ち止まって「選択肢を選べる」ようになります。

それで、トラウマをヨーガで克服するでは、次の重要な点が、何度も何度も繰り返し強調されています。

トラウマとは、“選択肢がない”状況の経験である。

あなたが戦場で攻撃を受けた兵士なのか、虐待のある家庭で育った子どもなのか、あるいはひとりで道を歩いていて暴行を受けた女性なのか、そしてそこで起こったことが何なのか云々、ということは関係ない。

この〈選択肢の深刻な欠如〉が、トラウマを受けた人たちの共通項である。

それが、激流に呑み込まれた人、パートナーから虐待を受けた人、敵の攻撃を受けた海兵隊員、いじめを受け続けた子どもたちをつなぐものである。

…自分自身に対して優しく、寛大で、思いやり深くあるためには、誰にとっても〈選択の練習〉が必要であるが、特にトラウマを持つ人にとってはそれが大切である。

…もしプラクティス中にほんのわずかでも苦痛や不快があれば、やっていることをいつでもあきらめることができる。(p69-71,および93,149,188,204も参照)

刻一刻と移り変わる身体感覚を認識できるようになると、今まで気づかないうちに無理を重ねていたあらゆる場面で、立ち止まって選択肢を選べるようになります。もし苦痛や不快を感じたら、すぐにでもそれをやめていい、という選択肢です。

トラウマの当事者や、慢性疲労症候群、線維筋痛症などの当事者は、もう少し我慢すること、もう少し頑張ること、もう少し無理をしてみることを、人生を通して延々と繰り返してきました。

いやなこと、不快なこと、辛いことに対して、「ノー」と言うより、無言で我慢したり耐え忍んだりするほうが、よっぽど得意なのです。

これまで身体にひたすら無理をさせてきて、その結果が、いまの体です。それなのになぜ、病気の治療においてさえ、無理を重ねることを繰り返すべきでしょうか。

必要なのはもっと無理をすることではなく、いかに自分の身体に無理をさせてきたか、はっきり感じ取り、気づくことです。そして、体が本当に必要としている別の選択肢を選べるようになることです。

それこそが、自分にとって得意ではないこと、今まで取り組んだことのないこと、ボディワークを通して学ぶべきことです。

これは、エクササイズの中のどの時点でも、ぜひやってほしい〈選択のプラクティス〉である。

もし今やっていることに何らかの苦痛があったり、自分を傷つけているような感じがあれば、それをやめるという選択をする。

やっていることを、それ以上自分を苦しめないように変化させるのである。

たとえば、〈首回し〉をやっていて首が痛いと思ったら、動きを小さくするなり完全にやめるなりして、「自分を苦しめることをやめる」という選択をする。

このプラクティスで、あなたは〈自分自身を傷つけることをやめる選択をしている〉ということが分かる。

これは非常に力のあるプラクティスで、いつでも行なうことができるものだ。

あなたがこの時〈苦痛から自分自身を守る〉確約をしたことを、あなたの体はこれからも忘れないだろう。(p164)

ボディワークのセラピーの最中、身体感覚をじっくり観察して、体が何を望み、何を嫌がっているかを注意深く感じ取ります。そして、体がより安心して、リラックスできる方法を探っていきます。

内的な情報源を導きにする

ここで言っている「体に無理をさせるのをやめる」というのは、たとえば慢性疲労症候群や線維筋痛症の人がやっている、無理をせず横になって安静にするという、積極的安静やペーシングのような療法とは違います

そうした治療法は、体の微細な感覚(フェルトセンス)のメッセージに耳を傾けていないので、体をいたわっているように見えて、体の必要を何ら察していないという点で、有無を言わさず身体を扱っているのとあまり変わりません。

「体の声を聞く」とは、しんどいなら休む、といった表面的な対処のことではありません。それさえもできない人がいるのは事実ですが、その程度ならボディワークのセラピーを受けるまでもなく誰でもやれるようになります。

ボディワークのセラピーが目指すのは、繊細なフェルトセンスという体のメッセージを感じ取り、もっと細かく体の必要を顧みられるよう成長することです。

慢性的な凍りつきを抱える人たちは、自分の身体をリラックスさせるためにできることなど何もない、今まで何を試しても効かなかった、と感じていることがしばしばです。

ぐったり横になるか、薬で症状を抑えるかくらいしか方法がないと感じるのは、自分の体が心地よく感じるためにできることはもはや何もないと考えているからです。

われわれが取り組んでいるクライアントたちには、その体の中で起こっていることと、彼らが行なっている〈選択〉との間に、しばしば途方もないズレがある。

彼らは選択肢の全くない、さまざまな不快状態に閉じ込められていると感じているために、体との回線が切れているのである。

彼らはしばしば「自分たちの体がこの先どうなっていくのか」について、恒常的な無関心を決め込んでいる。「気分を良くするために私にできることなど何もないのに、なんでわざわざ?」というわけである。(p163)

しかし、一瞬一瞬の体の微細な反応を感じ取れるようになれば、いま何を食べるべきか、どんな姿勢で座るといいか、この人間関係にどう対処すべきか、リラックスするにはどんな環境を整えたらよいか、心がかき乱されたときどうやったら落ち着けるか、といった日常生活のあらゆる面で、体の声を参考にできるようになります。

それによってわれわれは、その〔選択肢が全くない、できることは何もないという〕仮説に異議申し立てをすることができるのである。

われわれは体からフィードバックを得ながらプラクティスをし、「自分が行なう選択によって、今ある苦痛から解放されることを知る」という成功体験を得ることができるのだ。(p162)

これまでは、病気の治療法を探すために、テレビや本で権威ある医者や専門家が述べている情報に頼ったり、インターネットで薬やサプリメントについて調べたり、患者会で口コミを聞いたりしていたかもしれません。

そうした情報源は確かにどれもある程度有益ですが、すべて外部からの情報です。あなたの身体のための情報ではありません。一人として同じ人間はいないのですから、他の人の身体に役立った情報が、自分の身体に当てはまるとは限りません。

しかし、体のフェルトセンスを観察できるようになれば、それとはまったく違う情報源が得られます。自分の体の内部の情報源を導きにして、今この瞬間の日常生活の中で、体が望んでいるものとそうでないものを選り分けられるようになっていきます。

それは何ら特別なことではありません。外的な情報源ではなく、内的な感覚という情報源を導きにすることは、自然界の生物が、日々あたりまえにやっていることです。言うまでもなく、動物界には医者はおらず、インターネットもありません。

それはまた、神経学者アントニオ・ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で書いているように、自然の中で生きていたわたしたちの祖先もやっていたことです。

われわれは心の一部を衝立(ついたて)として使い、心の別の一部がよそで進行していることを感知しないようにしている。この隠蔽はかならずしも意図的ではないが、意図的であろうとなかろうと、衝立が事実を隠していることは確かである。

この衝立がもっとも効果的に隠しているものの一つがわれわれ自身の身体、身体の中身である。この衝立は、命の流れである身体の内部状態を、部分的に心から排除している。

…この衝立がなかった昔、すなわち電子メディアやジェット機や活字が登場するはるか以前、まだ帝国や都市国家も登場していない、環境がかなり単純だったころには、もっと容易にバランスの取れた視点を手にできたと思う。

…彼らは、今日われわれが感じ取っている以上に、自分自身について感じ取ることができたと思う。

今日われわれが心と呼んでいるものを、息と血を意味するためにも使われた「プシュケ」という言葉で言い表した古代人の知恵に、私は驚嘆する。(p44-46)

ダマシオは、まだ文明が登場する以前、人間は、自分の体の内部状態について、もっと繊細に知覚できていただろう、と考えました。

現代人の多くは、理性に重きを置く教育や、インターネットやメディアなど便利すぎる外部の情報源が発達した代償として、この能力をほとんど失ってしまっていますが、身体感覚を導きとして選択することは、本来、生物として当たり前のことです。

ボディワークによって、体の内部の微細な感覚に気づけるようになれば、外部のメディアや専門家の情報に頼らずとも、あるいはわざわざウェアラブルデバイスで一日中活動量を測定していなくても、内部の感覚を手がかりにして、何が体にとって有益で、何がストレスをもたらすかを判断し、選択できるようになっていきます。

ときには、あなたの身体に必要なのは、他の人がまったく試したこともないような特別な対処かもしれません。その場合、専門家や他の患者からの外的情報を導きにしていたら、いつまでたっても絶対に答えにはたどり着きません。

他のだれの身体とも異なる、あなたの身体だけに必要なものは、あなたが自分の内的な情報源を参照できるようにならなければ決して気づけません。

外部の情報源にしたがって身体を扱うのは、自分の子どもにプレゼントするとき、インターネットで他の親の意見を調べて、何をプレゼントするか選ぶようなものです。そのプレゼントを受け取って、果たしてあなたの子供が喜ぶでしょうか。

子どもが本当に喜ぶプレゼントをあげるには、子ども自身に何がほしいか尋ねることが不可欠です。内部の繊細な感覚という情報源にしたがって身体を扱うとは、つまりそういうことです。

外的な情報源だけではなく、内的な情報源を参照できるようになって初めて、自分の身体が本当に求めていることを察し、完全にオーダーメイドの治療の選択ができるようになります。

内的感覚を導きにできるようになれば、医者や専門家、他の患者など外部の情報源からもたらされるアドバイスも、よりいっそう的確に活用し、自分に合ったものを選べるようになるでしょう。

はじめはセラピーの中で、ゆくゆくは生活の中で、身体感覚に導かれて、自分の身体が本当に必要としているものを選ぶという無数の小さな選択をを積み重ねられるようになれば、それにともなって、体の凍りつきが徐々に変化していきます。

思い出してください。そもそも凍りつきとは、何年も続く慢性的なストレス環境下で、逃げたり闘ったりできる選択肢がまったくない状況で引き起こされた、生物学的な防衛反応でした。

選択肢がない状況が凍りつきを引き起こすのであれば、選択肢がある環境は凍りつきを溶かすはずです。

何年も続く選択肢のない環境が今の慢性的な症状を作り上げたのなら、何年も続く選択肢がある環境に身を置き続ければ、体は新しい環境に再適応していきます。

体の声を聞き、今までやってみたこともなかった選択をする経験を繰り返すことによって、凍りつきが少しずつ溶けはじめ、今まで気づかなかったより多くのことに気づけるようになり、世界が広がっていくのです。

時間をかけてじっくり体と向き合う

大切なのは、どこかの有名なヨーガ教室に通ったり、機械的なエクササイズで体を鍛えたりすることではなく、自分の体と時間をかけてじっくりと向き合うことです。

子どものたとえに置き換えれば、それは、今までまともに口を利いたこともなかったような親子関係を修復するのと同じです。

この記事で見てきたような症状を抱える人たちは、自分の子どもをネグレクトしてきた親とよく似ています。今までの人生で一度も、自分の身体と真剣に対話し、コミュニケーションする時間を取り分けてこなかったからです。

人生で初めて、時間をかけてじっくり、自分の身体と向き合い、関係を修復していかねばなりません。

そのためには、十分な時間を取り分けて、じっくりと腰を据えて取り組むことが何より大切です。

そもそも身体の内的感覚を感じ取れない解離が起こっているのは、あまりに度を越えた負荷を経験してきたことに対する生理的な適応でした。

感じることがあまりに辛いから、それを無意識のうちに切り離して麻痺させることを覚えたのです。

麻痺させていたものを再び感じ取れるようにする、ということは、今まで目を背けてきた身体的現実と向き合う、ということです。トラウマをヨーガで克服するの中でヴァン・デア・コークはこう書いています。

私の友人のダイアナ・フォーシャは、「心をえぐるような経験に耐えられることが、その人の人生に対する基本的アプローチに変える可能性にとって、不可欠である」と指摘している。

つまり、変わることができるかどうかは、「感情を、真正面から、そして深く経験することを受け容れられるかどうか」にかかっているのである。(p32)

当然ながら、いきなり「感情を、真正面から、そして深く経験することを受け容れ」「心をえぐるような経験に耐えられる」ようになることなど不可能です。ゆっくり進めていなければ圧倒されてしまいます。

興味深いことに、もともとこのヨーガ・プログラムは2003年に始まったそうですが、はじめから意識的にゆっくりとしたペースで行なうよう調整されていたそうです。

ところが、クラスが終わってみると、生徒たちから「とんでもなく速かった」という感想が帰ってきました。

子どものころからの慢性的なストレスによって、永久凍土のごとく凍りづけになっている人たちにとっては、普通の人が考えるようなスローダウンでは十分ではなく、「もっとスローダウンしなければならないことを学んだ」のです。(p201)

ヴァン・デア・コークは、自著、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法 の中でも、この出来事について回想し、次のように書いています。

それでもやはり、内受容感覚を取り戻すと気が動転しないとも限らない。

…私たちが最初に行なったヨーガの研究では、半数の人が脱落した。これまでの研究のなかでも、最も高い割合だった。

脱落した患者に尋ねたところ、彼らにとってプログラムがつら過ぎたことがわかった。

…感覚を麻痺させて注意を向けないようにし、苦心して抑え込んでいた過去の悪魔たちを、強烈な身体感覚が解き放ってしまったのだ。

私たちはここから、ゆっくりと、多くの場合カタツムリのようなペースで進むことを学んだ。(p451-452)

自分の身体との対話は、「カタツムリのようなペースで進む」かのように、じっくり、腰を据えて取り組むべきテーマなのです。

「死んでいる」状態から「生きている」実感へ

この記事で概観したように、トラウマ・センシティブ・ヨーガのプログラムは、実践的な身体の動きを通して、体が求めていることを知り、必要をくみ取ることを目指すセラピーです。

最初の部分でも書きましたが、このようなタイプのセラピーでは、文章でまとめられた理論を読むだけでは意味がありません。自分の身体の経験を通して味わい知る以外に、効果を実感する方法はありません。

この本では、一般的なヨーガ教室に行くことを勧める代わりに、自宅でじっくり取り組めるワークが多数紹介されています。それらはもちろん、「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」人でも取り組めるような内容です。

この記事では具体的な方法まで踏み込んで紹介することはできませんので、興味を惹かれた人は、ぜひトラウマをヨーガで克服するを買うなり図書館で借りるなりして、本の内容をじっくり実践してほしいと思います。

トラウマ・センシティブ・ヨーガは、ヨーガというより、ほぼボディワークですから、トラウマやその他のさまざまな症状のための身体感覚を使ったセラピーについて学びたい人にも、入門書としておすすめです。

この本を読むことによって、以前紹介したソマティック・エクスペリエンスなど、他のボディワークに対する理解もぐっと深まるはずです。この本を足がかりにして、いずれ他のボディワークを受けることもできるでしょう。

この記事で考えた内容をまとめると、以下のようになります。

■従来のトラウマ治療の限界
これまでの心理療法は、トラウマ・サバイバーたちが抱える「耐え難い身体感覚によって“たたきつぶされた”という、この永遠に続く感覚」に対処できない。

トラウマは、心拍変動(HRV)の低下などを伴う生物学的現象であり、身体に働きかけるためのアプローチとしてヨーガが注目された。

■トラウマ・センシティブ・ヨーガの開発
一般的なエクササイズとしてのヨーガは「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」人たちには難しい。

治療にとって必要なのは、ヨーガの宗教性や、身体的な鍛錬といった側面ではなく、自分の身体の微細な感覚に「気づく」という要素だったので、それだけを抽出したボディワークとして、トラウマ・センシティブ・ヨーガが開発された。

■凍りつき/擬態死反応
生物は逃げ場のない状況に追いつめられると、凍りつき/擬態死という生物学的な反応によって対処する。

人間の場合、子どものころからあまりに長いこと逃げ場のないストレスにさらされることで、凍りつき/擬態死が慢性化してしまい、トラウマのさまざまな身体症状や、慢性疼痛、慢性疲労、胃腸障害、偏頭痛などが生じる

■身体感覚に気づけなくなる解離
あまりに長いこと凍りついてきた人たちは、自分たちが経験してきた慢性的なストレスに対して麻痺してしまい、心身にかかっている尋常でない負担に気づけなくなってしまう「解離」が起こる。

そのため、いわば肩の上に乗っているゾウが乗っているのに、その姿は見えず重みだけを感じているかのような状態に陥り、身体に耐えがたい症状が出ているのは原因不明だと思い込んで、ドクターショッピングを繰り返す。

■ヨーガは身体感覚を認識する脳領域を活性化する
慢性的な解離状態に陥っている人は、脳の島や帯状回の活動が低下して、自分の身体の状態を認知できなくなっていることが確かめられている。

ヨーガはそうした脳領域を活性化させ、自分の身体の声を聞き、身体が必要としているものを認識できるようにする。

■無意識のうちに身体に無理を強いるのをやめる
慢性的なストレスにさらされてきた人たちは、解離のせいで自分の身体の限界を認識できなくなり、無意識のうちに多大な負荷をかけて頑張りつづけてしまう。

ボディワークを通して、今この瞬間の身体の声を聞けるようになると、外部の情報源によらず、内部の繊細な感覚という情報源を導きにして、自分の身体の必要を顧みるというオーダーメイドの選択ができるようになる。

■選択肢のない人生から、選択肢のある人生へ
慢性的なストレスにさらされてきた人たちは、逃げたり弱音を吐いたりするという選択肢をまったく与えられない「逃避不能ショック」の人生を送ってきたため、身体が凍りついてしまった。

ヨーガを通して身体の声を聞けるようになれば、日々身体の必要を満たす選択肢を選べるようになるので、凍りつきは徐々に溶けていく。

■カタツムリのようなペースで
感覚を感じ取れなくなる解離が生じているのは、感覚を麻痺させなければやっていけないほど辛かった過去の長い歴史があるから。いきなり感覚を感じようとすると圧倒されてしまう。

ずっとコミュニケーションしていなかった子どもとの関係を修復するかのように、じっくり腰を据えて、時間をかけて取り組む必要がある。

ずっと慢性的なストレスにさらされてきた人が感覚の麻痺に陥るのは、圧倒されるような苦痛を意識から遠ざけるためでした。

そのおかげで、過去の長期間にわたる耐えがたい苦痛と真っ向から向き合わずに済みましたが、同時に身体の声を聞き取れなくなってしまい、あたかも「死んでいる」かのような凍りつき/擬態死に陥ってしまいました。

「死んでいる」かのような人が「生きている」人に戻るには、ゆっくりなペースでも、自分の身体感覚を感じ取る訓練を続けることが不可欠です。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、ヨーガによって活性化されることがわかっている脳の島皮質は、身体感覚をまとめ上げて、今この瞬間に自分が生きている、という実感を生み出す働きをしています。

クレイグは電話インタビューでこう話した。「いまこの瞬間に存在している自己は、前部島皮質に根ざしているのです」(p286)

前部島皮質は、内受容と外受容の感覚、それに身体の活動状況を統合して、1秒間に8回の割合で「包括的情動瞬間」をつくりだしている。

ひとつひとつの瞬間は独立しているが、それがつながると、連続性のある自己意識になるとクレイグは考える。(p291)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、「生きている」という実感は、一瞬一瞬の身体感覚を自覚することによってのみ実感できます。

「自分が生きているってどうやってわかる?」と尋ねられると、ほとんどの人は、「ええと、それは……」と考えはじめる。だが、それでは答えることはできない。

自分が生きていることを知るには、私たちの深いところにある、身体感覚に埋め込まれた生き生きとした身体的な現実を、直接的な経験を通じて感じる能力を使わなければならない。(p340)

今この瞬間に、身体の深いところで生じている身体感覚とつながれるようになって初めて「死んでいる」かのような人が、「生きている」人になれるのです。

最後に、トラウマをヨーガで克服するから、あるトラウマ・サバイバーの経験談を引用したいと思います。

ヨーガを試みているもう一人のサバイバーが、ヨーガのプラクティスによって生き返ったという自分の経験を語っている。

彼女は自分がどれほど“死んで”いたか、体がいつも冷たく麻痺していたかを述懐している。彼女は自分自身を切り離し、他の人びとから孤立していたのである。

彼女はトラウマ・センシティブ・ヨーガのクラスに通うようになって、セッションのときマインドフルでいられるよう、彼女の個人的なセラピストに手助けしてもらいながら、感情調整に取り組み、ヨーガ・ベースの方略を実践していた。

ある特別なセッションにセラピストと共に参加して、座位の“山のポーズ”をし、呼吸のエクササイズをした後のことである。

彼女は顔を上げ、セラピストの目を見つめた。

彼女はそこに“いた” ―“今この瞬間”を経験しながら、自分が感じているものを恐れることなしに。

目には涙があふれ、その顔が、大きく、暖かく、微笑んだ。彼女は「私は“ひとつ”という感じがする」と言った。(p217)

補足 : 慢性疲労症候群には段階的運動療法が必要?

この記事で書いた話は、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)の治療法としてしばしば話題に上がる、「段階的運動療法」が抱える問題と、共通性があるのではないかと思います。

「段階的運動療法」をめぐっては、医師と患者に意見の対立が根強く見られます。医師の側は科学的なエビデンスに基づいて段階的運動の効果を主張するのに対し、患者の側は、弱り果てている人たちに運動をさせるなんて狂気の沙汰だと主張しています。

以前、このブログでは、慢性疲労症候群に対する認知行動療法と段階的運動療法について書かれた書籍を参考に、おもに医師側の立場に基づく情報をまとめましたが、今ではその書籍の視点は間違っていたと考えています。

認知行動療法・段階的運動療法とは何か?―慢性疲労症候群(CFS)や線維筋痛症(FM)に役立つ方法
認知行動療法を用いて、さまざまな疾患を治療する手法を紹介した本、「臨床が変わる! PT・OTのための認知行動療法入門」を読みました。CFSと認知行動療法について簡単にまとめたいと思

かといって、患者側の意見が全面的に正しいとも思っていません。医師側が主張するように、段階的運動によって効果がみられた例があるのは事実だからです。

この記事で書いた内容は、この矛盾を解くカギになるかもしれません。

ヴァン・デア・コークらはトラウマにヨーガが効くことを発見しましたが、効果があるのはヨーガの身体的な「運動」ではなく、体を動かすことに伴う「気づき」であることを見抜き、体力のない人でも実践できるよう最適化しました。

おそらく、慢性疲労症候群に対する段階的運動療法の効果も、これと同じではないかと思われます。

本文中で書いたように、慢性疲労症候群や線維筋痛症の患者は、自分の身体の生理的状態を知覚できないために、どれだけ負荷がかかっているかがわからず、自分の身体の必要を自覚できない傾向があります。

同じ傾向は、臨床的に慢性疲労症候群と同一の症状を示すとされる、スポーツによるオーバートレーニング症候群においてもみられます。

オーバートレーニング症候群は、身体が悲鳴を上げていても、まったくそれに気づくことなく無理なトレーニングを続けてしまい、結果として慢性疲労状態に陥ってしまう病態です。

オーバートレーニング症候群は慢性疲労症候群(CFS)とほぼ同義ー大久保嘉人選手や権田修一選手が発症
サッカーの大久保嘉人選手がオーバートレーニング症候群を克服したことが書かれています。

両者に欠けているのは、脳の島や帯状回による、自分の身体の現状をリアルタイムで正確に把握する能力です。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、スポーツに取り組む人の中にも、身体の繊細な感覚を感じ取ることが難しい人は非常に多くいます。

からだの部位がどこにあるかは「知っている」かもしれないが、実際にそれらの部位を感じるのは時間がかかる。

多くのダンサーや運動選手にとってさえ、これは厄介だ。脚やからだの他の部分が自由で無理なく自然に機能するようにするためには、その部分の張りやからだのほかの部分に対する位置を直に感じる経験が必要だ。

私はたくさんのプロのダンサーとワークをしてきたが、彼らにとっても最初はこれが非常に難しい。

なので、くじけないでほしい。このエクササイズを毎日、適量行うことで、やがて感覚的な気づきの能力が手に入る。(p349)

スポーツ選手がときにオーバートレーニング症候群に陥るのは、こうした繊細な感覚を自覚できず、身体が求めていることを知るという、身体との意思疎通ができていないためです。

身体の声を知覚できないスポーツ選手は、機械的な訓練によって身体を鍛え、ある程度まで成績を残すかもしれませんが、どこかで致命的な怪我をしたり、オーバートレーニング症候群に陥ったりします。身体の限度が把握できていないからです。

それに対し、一流のスポーツ選手は、身体のリアルタイムの感覚を意識することに長けています。

最近、横綱貴乃花が、自身の身体感覚の認知と、それを活かした現役時代のトレーニング方法について説明している記事を読みましたが、その繊細な感じ方に驚かされました。

貴乃花親方と村田諒太の対談全文。強さ、身体感覚を極限まで求めて。 - ボクシング - Number Web - ナンバー

スポーツのトレーニングについての説明というより、ほとんどボディワークの指導者による説明に思えます。それほど繊細な感覚認知ができていたからこそ、貴乃花は強豪力士が群雄割拠する中でも、結果を残すことができました。

(しかし、その貴乃花も、身体の限界を無視して無理をして出場したことがきっかけで引退に追い込まれました。自分のやりたいことや周囲の期待よりも、身体の繊細な声を優先するというのはかくも難しいことです)

このような繊細な身体感覚の認知は、一瞬一瞬の自分の身体の動きに注意を向け、リアルタイムで観察することによってのみ育まれていきます。機械的なトレーニングによっては、決して育まれません。

スポーツ・ジム通いもそれに似ている。たくさんの人々が筋肉隆々としたからだになろうとロボットのように並んでウェイト・トレーニングをしているが、その動作への内的な感覚や気づきはほとんどない。(p338)

オーバートレーニング症候群の人にとっても、あるいは慢性疲労症候群や線維筋痛症の人にとっても、必要なのは、このような機械的な運動ではなく、「その動作への内的な感覚や気づき」です。

慢性疲労症候群や線維筋痛症に何らかの運動療法が効果があったとする研究の多くは、この視点が欠けています。

機械的な運動をいくら繰り返したところで、こうした病気は回復しないでしょう。機械的に頑張って無理を重ねるというのは、それらの人たちがこれまでの人生でずっと続けてきたことであり、むしろ病気の原因そのものだからです。

医学的に管理された運動プログラムでは、トラウマをヨーガで克服するに書かれているような一般的なヨーガと同じ問題に陥る可能性があります。

権威ある立場の人が「もう少しの間、それ〔姿勢や呼吸〕を保持しなさい」と言っても、自分としてはそうすることが不快もしくは苦痛ですらあるなら、その時、その人には何が起こるだろう。

われわれがトラウマ・センターで一緒に取り組んできた多くの人びとが、「これは実に深いジレンマだった」と語っている。

彼らは自分自身の体に耳を傾けられる状態にはなく、結局はインストラクターの指示に従うばかりで、しばしば何らかの形で自分を傷つけることになったと言う。

まさしくこれが、トラウマ・センシティブ・ヨーガにおいて、またセラピーにヨーガ・ベースの戦略を統合していく中で、われわれが避けようと努力してきたことなのである。

優先すべきなのは明らかに、生徒が自分の体に耳を傾けて、自己ケアに関して自分で選択できるようにシフトさせることである。(P47)

段階的運動療法が、当事者たちの強い反発を招いてきた理由はまさにここにあります。「自分としてはそうすることが不快もしくは苦痛ですらある」のに運動を強要するからです。

段階的運動療法と認知行動療法の理論では、慢性疲労症候群の患者は、心理学的な「恐怖運動回避」のため動けなくなると解釈されていて、段階的に運動すればその恐怖を払拭できると考えられています。

しかし、わたしはこの心理学的な見方は間違っていると考えます。

以前の記事で書いたように、不登校の子どもを含め、慢性疲労症候群に見られる引きこもり状態は、「逃避不能ショック」に陥った動物と同様、凍りつき/擬態死に伴って起こる、動作に関わる神経伝達物質ドーパミンやノルアドレナリン系の抑制によって起こっているように思われます。

単に心理学的な理由から動けないのではなく、動きを開始させるドーパミン系が凍りつきによってロックされているために自分の意志で動き出すことができません。これは生物学的な反応です。

身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、「逃避不能ショック」に陥った動物は、檻から出られることを繰り返し身体で教えてやると動けるようになっていくことがわかっています。

たとえば扉が開いているときに電気ショックを与える檻から逃れることを、トラウマを受けた犬たちに教えるには、どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう、檻から繰り返し引きずり出すしかないことを彼とセリグマンは発見した。

私も患者を手助けし、自らを守る手立てはまったくないという、彼らの基本姿勢を変えてあげられないだろうか。

私の患者たちも、自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻すには、身体的な経験が必要なのではないか。(p59)

このとき効果があるのは、機械的な運動をさせることではなく、「自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻す」ための「身体的な経験」(すなわちソマティック・エクスペリエンス)だとされています。

医学的に管理された段階的運動療法などのプログラムに効果がある場合、それは運動そのものの効果ではなく、少しずつ運動負荷を段階的に増やしていくことで、自分の身体の限度に対する「気づき」を養うことによる効果ではないでしょうか。

また、まず身体的な経験を通して、身体の気づきを養っていけば、自分の身体の扱い方が分かるので、医師からに強いられるでもなく、しぜんに、自分の意思で運動するようになっていくはずです。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復に書かれているように、ボディワークのセラピーによって活性化する「帯状回」は、動きに関わるモチベーションをつかさどっています。(慢性疲労症候群では帯状回の機能が低下していることが確認されています)

この脳の領域は、前中帯状皮質(aMCC)として知られている。

…研究者たちは、電気刺激を加えていると患者の心拍数が増加していることに気づいた。

さらに患者は、胸の上部と首の部分に「震え」や「ホットフラッシュ」などの自律神経の動きがあったことを報告している。

私は色めき立った。私のクライアントのほとんどが、トラウマの手続き記憶に取り組み、恐れから覚醒へ、さらに勝利へと移行するときに、これと酷似した自律神経の覚醒を報告しているのだ。

同時にクライアントたちは、背骨が伸びたり、胸が広がる感じがするなど、微細な姿勢の変化も示していた。

生理学的な視点から見ると、aMCCにはドーパミンを媒介した「やる気」を起こさせるシステムと、ノルアドレナリン作動性の行動システムの機能が集約されている。(p103)

まずはボディワークを通して、身体感覚への気づきを深めて、島や帯状回を活性化させることが先です。

身体感覚を取り戻してそれらの領域が活性化すれば、動けない原因となっていたドーパミンやノルアドレナリンのシステムが活性化し始めます。

そうすれば、おのずと自然に、自分から動きたくなり、無理のない範囲で運動にも取り組めるようになっていくはずです。わざわざ医者から段階的運動を強いられずとも、です。

トラウマをヨーガで克服するに載せられているトラウマ・センシティブ・ヨーガの場合も、「身体の鍛錬」ができるようになるのは、まず「穏やかに育む」仕方で身体的な気づきを養った後の「回復が比較的進んだ段階の場合」だと書かれています。(p70)

そうした身体的な気づきを養うには、必ずしも段階的運動療法で求められるような運動負荷は必要ありませんし、もっと負担のない良い方法があるはずです。

ヴァン・デア・コークらがヨーガの効果を正しく見極め、「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」人たちにとって不要な要素を排除したように、段階的運動療法の場合も不要な要素を排除できるのではないでしょうか。

そして、ヨーガから不要な要素を除いたら繊細なボディワークになったように、段階的運動療法から不要な要素を除いた場合も、やはり繊細なボディワークに行き着くのではないかと考えます。

要するに、段階的運動療法の治療効果は、繊細な形のボディワークに取り組むことで、より安全に代用でき、しかも「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」人たちでも実践できるようになるのではないか、ということです。

もしそうであれば、段階的運動療法を取り巻く、医師側と患者側の意見の対立は解消されます。

医師側は、段階的運動療法がもたらしていた治療効果だけをより安全に実現できますし、患者側は「座るのも、立つのも、いや、そこにいるだけでも苦しい」のに運動を強いられるという狂気の沙汰に付き合わなくてよくなるからです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアが説明しているとおり、現代の医学は、心と身体を別物として扱い、身体は心に付属する機械のようにみなしています。

私たちは内的経験から引きはがされ、からだを物体として、客観的で生物学的な集合体として見るようになった。

しかし、高名な物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、秀逸なエッセイ『生命とは何か』の中で、化学的な要素に還元することによって生命を説明することはできないと結論づけだ。

有機体としての人体は、部品やばねや歯車や軸を組み合わせれば機能する時計などとは違う。(p339)

医者たちの多くは、身体を動かすことに、機械的な運動以上の価値がある、ということを理解していませんが、もっと重要なのは動きの中で感じ取る微細な感覚が、わたしたちの内的経験を書き換えるということです。

心臓血管系の健康を保ったり筋力を鍛えたりすることについての利点については、多くのことが言われている。

しかし、持久力や身体力学を超えるものがあるのだ。

それは、私たちがするあらゆる動きの中で、そしてあらゆる動きを前もって表す感覚の中で、認識し、培われる運動感覚である。(p338)

現代の神経科学が明らかにしたのは、わたしたちの身体の動きにおける、内的な感覚(体性感覚)の重要性でした。

トラウマや、それに伴う慢性疲労、慢性疼痛といった終わりなき身体的苦痛は、「部品やばねや歯車や軸を組み合わせれば機能する時計」のような機械的なレベルではなく、自己認識に関わる、内的な感覚のレベルで生じている障害です。

それゆえに、ヴァン・デア・コークがトラウマをヨーガで克服するで述べているとおり、身体を機械のように扱う治療ではなく、内部の繊細な感覚に直接訴えかけるアプローチがどうしても必要なのです。

神経科学者のアントニオ・ダマシオは、「ライル島」と呼ばれる脳の領域が、体感を意識的な認知に伝達する場所であることを示した。

すなわちこれは、意識とは基本的に「われわれが経験する身体感覚をどのように解釈したかの結果である」ということを意味する。

トラウマを持つ人びとの脳画像を研究すると、「ライル島」と、その他の自己認識にかかわる領域の活動が低下していることが繰り返し示される。

…ほとんどの療法が、生体の反応の本質を伝える、人間の内部感覚の世界における変化―すなわち体の科学的側面という場、内臓という場、そして顔面・喉・胴体・手足の横紋筋の収縮(という場)に刻み込まれる感情の様相―を過小評価するか、無視している。

だが、“トラウマが肉体という舞台の上で、へとへとになるまで演じるのをやめない”のは、そのレベルで起こることなのだ。

それが事実なのだから、トラウマを追う人びとは、体にかかった鍵を開け、有効な〈ファイト・フライト反応〉[※闘争/逃走反応]を取り戻し、いろいろな感覚を受けいれ、自分の内部感覚を味方に付けて、新たな行動様式を築くための、身体的および感覚的経験を持たなければならないのである。(p32)

慢性疲労症候群のような、これまでの医療で取り残されてきた人たちが必要としているのは、単純な運動療法や薬物療法ではありません。それらでは治療できないからこそ医学から取り残されてきたのです。

本当に必要なのは、古い医学ではなく新しい神経科学に支えられたアプローチ、すなわち繊細な内的感覚の認知を通して、それらの人が自分の感覚世界を変えていけるよう助けるアプローチではないでしょうか。


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