ブレーズ・パスカルは、恐ろしい幻想を周期的に見た。ときどき、自分の左側に穴か峡谷がぱっくりと口を開けているように思った。自分を安心させるために、そちら側に家具を置くこともよくあった。
……この周期的な幻想については、同時代の人たちが「パスカルの深淵」として触れている。(p 199)
人間は「考える葦」であるというパンセの記述で有名な物理学者ブレーズ・パスカル。
神経科学者オリヴァー・サックスのサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)によれば、パスカルは恐ろしい幻想を周期的に見ました。
それは、自分の左側に無存在の空虚な穴が広がっているような、いわば「空っぽ」の感覚の恐怖であり、「パスカルの深淵」と呼ばれたそうです。
この「パスカルの深淵」については、これまで心理学的、また哲学的な理由づけがされてきました。しかしサックスは、これが「視野暗点」という生物学的に起こりうる実在の症状であると説明しています。
視野暗点という症状は奇妙すぎて(実際にそれを経験した人でなければ)想像もできない。
そして「幻想」や「狂気」などとみなされ、すでに苦しんでいる患者をさらに苦しめることになるのである。
だが、最近になってようやく、ジェラルド・エーデルマンによって紹介された意識についての新たな生物学的あるいは神経精神学的な概念によって、このような症状が実際に起こり得るものだということが理解されるようになった。(p200)
サックスがこう言い切れるのは、自分もこのような「空っぽ」の感覚に向き合ったことがあるからです。サックスの患者の中にも、そうした経験をした人たちがいました。
パスカル、サックス、そして彼の患者たちは、身体のさまざまな場所にうつろな「穴」が空いたような、無存在の感覚が現れました。
場所は違えど、それらの共通点は、本来あるべきものがそこになく、空っぽで真空が広がっているような恐怖です。
この「空っぽ」の感覚は、さまざまな原因で起こりうるものですが、たとえば、幼少期に愛着障害を抱えたり、重大なトラウマを経験したりした人たちは、ときに自分の内側が空っぽだと感じる、と述べます。
わたしが知っているある人は、子ども時代を機能不全家庭で育ちましたが、自分の内側には、まるでブラックホールのような空虚さが広がっていて、それに向き合おうとしても恐怖に襲われてしまってできない、と述べていました。
「パスカルの深淵」と同じく、このような自己の核の不在という実存の空虚さもまた、従来は心理学的な心の問題とみなされてきました。
しかし、ジェラルド・エーデルマンや、アントニオ・ダマシオの神経生物学的な研究によって、「アイデンティティ」(自己という感覚)がいかにして作り出されるかが明らかになったので、もはや自己の核の不在を単なるこころの病理とみなすのは不適切です。
この記事では、脳や身体の神経生物学的な異常によって、いかにして「自己」を構成するプロセスが阻害され、結果として内面の空虚さのような「空っぽ」の感覚が生じるかを、心理学的にではなく科学的に考えたいと思います。
これはどんな本?
この記事は、脳神経科学者オリヴァー・サックスの幾つかの著書、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)、妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源による、サックス自身が経験した「アイデンティティの障害」の説明に基づいています。
また、神経学者アントニオ・ダマシオの意識と自己 (講談社学術文庫)から、わたしたちの自己というアイデンティティの感覚は、身体の内部で生み出される体性感覚からつくられているという研究を参考にしています。
この記事に書く内容は新しいテーマではなく、このブログの過去記事でも似たような話題をすでにまとめたことがあります。
それでも、もう一度、少し観点を変えて書いてみようと思ったのは、このような実存の空虚さ、自己のうつろさが、あまりにも安易に、精神医学的、また心理学的な「こころの問題」とみなされることが多すぎるからです。
サックスが書いていたように、「奇妙すぎて(実際にそれを経験した人でなければ)想像もできない」うえに、『「幻想」や「狂気」などとみなされ、すでに苦しんでいる患者をさらに苦しめることになる」』のです。
残念なことに、当事者たちでさえ、知識の不足のせいで、このような状態を、こころの問題や狂気と誤認してしまいやすく、自分は“精神障害者”なのだ、いう思いにさいなまれがちです。
世の中のメンタルヘルスの専門家を名乗る人たちがメディアで発信している、浅い表面的な情報だけに触れていると、こうした病態のメカニズムについては決してわからないものです。
ですが、現代の神経科学は、「自己」とは何か、「意識」とは何か、という難問にかなりの程度、光を当ててきたので、もはやあいまいな、こころの問題、などという方便を持ち出す必要はありません。
内側が空っぽなトラウマ・サバイバーが抱えているのは、つかみどころのない心の傷つきのようなものではなく、実体のある身体の神経学的な問題であり、サックスの言うとおり「新たな生物学的あるいは神経精神学的な概念によって、このような症状が実際に起こり得るものだ」と説明しうるのです。
視野暗点―あるはずのものが存在しなくなる
トラウマ・サバイバーが感じる実存の空虚さについて考える前に、まず足がかりとして、冒頭でみた「パスカルの深淵」について考えてみましょう。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)によると、パスカルは時おり「自分の左側に穴か峡谷がぱっくりと口を開けているように」感じ、「空間そのものが消えてしまうことへの深い、ほとんど形而上学的な恐怖を感じ」ました。
オリヴァー・サックスによれば、神経学者マクドナルド・クリッチレーは、早くも1966年の著書で、「パスカルの深淵」は、片頭痛発作の前兆として周期的に起こっていた「一時的な左側の半盲だったと考えられる興味深い証拠」があると洞察していました。(p199)
今日の調査によると、片頭痛を抱える人たちの10パーセントに、発作の前兆として、神経伝達の乱れによる視覚異常や幻覚が生じることがわかっているそうです。(p483)
片頭痛発作の視覚異常にはさまざまなタイプがあります。閃輝暗点(すばやく動く閃光)、要塞型スペクトル(ジグザグ状の模様)などですが、中でもひときわ奇妙なのが虚性暗点(視野が消える)というタイプです。
奇妙な恐怖―おそらくそれはリヴィングが記した恐怖の一部であろう―は虚性暗点に関係していると考えられる。
虚性暗点を起こした患者は、単に視界が失われるだけでなく、現実そのものが失われるように感じられるのである。(p192)
虚性暗点は、視野の感覚入力そのものが消える(切り離される)症状です。見えなくなるのではなく、存在しなくなります。ふだんならどんなときでも入力されているはずの信号がとだえ、視野が「空っぽ」になるのです。
この虚性暗点による視野の喪失は、パスカルと同じように、視野の片方だけが空白になる、というかたちで現れることもあれば、両側とも消えたり、視界の中央がくり抜かれたように消えたりすることもあるようです。(p197)
たとえばサックスは、次のような例を紹介しています。
精神分析医という職業のため、この患者は毎日のように人間の精神およびその原初的な恐怖と向き合っている。
無意識の怪物と勇敢に立ち向かってはいるものの、彼は自分自身の虚性暗点の苦痛に慣れることはできない。
というのは、それは精神医学の世界で出合うどんなものよりも耐え難く、異常なものだからだ。(p193)
この人は精神医学者ですが、虚性暗点による「空っぽ」の視覚体験が、こころの問題ではありえないことを承知しています。その「空っぽ」の感覚は恐怖を呼び覚ましますが、精神分析的な方法では太刀打ちできません。
この精神分析医は、自分が直面している「空っぽ」の感覚を、次のように説明します。
突然私は「気がつき」ます。患者の顔の一部がなくなっていることに。鼻か頬、あるいは左耳の一部がないのです。
患者の話を聞き、自分でも話しつづけはしますが、私の視線は釘づけになったようで―頭を動かすことができないのです―恐怖感、そして信じられないという思いで頭がいっぱいになってしまいます。
患者の顔はなくなりつづけ、たいていは顔の半分が消え、それと一緒に部屋の同じ側も消えてしまいます。
私はある意味で麻痺し、硬直してしまいます。自分の視覚になにかが起こっているのだという考えはまったく浮かびません。この世界になにか信じられないことが起こっているのだと思えるだけです。
頭や目を動かして、消えているものが本当に存在しないのか「確かめる」という考えは浮かびません。自分に片頭痛が起きているのではないかということも思いつきません。それまでに何度も同じ経験をしているのですが。(p193-194)
片頭痛の前兆としての虚性暗点が生じると、視野の片方が消えていきます。しかしそれは、手で片方の目を隠したときのように視野が見えなくなるものではありません。
感覚そのものがなくなって、あたかもはじめから存在しなかったかのように空虚になるので、何度経験しても、恐怖のために麻痺し、硬直してしまうほどです。
この人は精神分析医でありながら、この恐怖に慣れることがありません。空っぽの感覚という症状は、精神医学的なものではなく、もっと根本の神経学的な症状です。単なる表層の解釈や認知の問題ではないということです。
さらに彼は、続けて説明します。
顔という概念そのものがなくなってしまったように感じるのです。つまり、顔がいったいどう見えるのか「忘れて」しまうのです。私の想像力、記憶力、そして思考力になにかが起こっているのです。
……つまり世界の半分が奇妙にも「消滅した」と思うのではなく、果たして世界の半分が存在していたのかわからなくなってしまうのです。
私の記憶と知性に穴のようなものが開いている。いわば世界に穴が開いているのです。それでも、その穴の中になにがあるのか想像もできません。
穴はあり、穴はない―頭がすっかり混乱してしまい、体に不思議なことが起きている気がします。体がいくつもの部分に分かれ、目や手、脚が切り離されているのです。
なにか絶対に必要なものが消えている。しかも跡形もなく消えている。それが一度あった「場所」ごと消えてしまっているのです。それは、どこにもなにもないという恐怖なのです。(p194)
視野が「空っぽ」になると、そこに何かがあるという「概念そのものがなくなってしまったように感じ」ます。
なかなか理解しにくいことですが、わたしたちが持っている「概念」はすべて、それを認知できる感覚神経あってのものです。
たとえば、生まれつき全色盲の人は、「色」を認識する神経回路が働いていないだけでなく、「色」という概念がありません。それをイメージすることができないからです。
虚性暗点のときは、見ることをイメージするための感覚そのものが遮断されてしまうので、ただ単に「見える」状態から「見えない」状態になるのではなく、そもそも「見る」とは何なのかすらわからない状態、概念さえない状態に放り込まれてしまいます。
「見える」状態が「見えない」状態になったくらいでは、「空っぽ」だとは言いません。自分が何を失ったかを自覚しているので、単に「見えなくなってしまった」と表現すればいいだけだからです。
しかし感覚そのものが切り離されてなくなってしまい、ただ「空白である」という感じだけが存在していて、そこに何があったのかも、何を失ったのかさえわからないなら、もはやそれは言葉で説明できません。
そのような場合に感じるのは、『なにか絶対に必要なものが消えている。しかも跡形もなく消えている。それが一度あった「場所」ごと消えてしまっている…それは、どこにもなにもないという恐怖』のみです。
実存の空虚―空っぽな自分という感覚
この精神分析医は、片頭痛発作の前兆として、視覚に関連してこの恐怖を感じていました。しかし冒頭で書いたようなわたしの友人は、それを自分のアイデンティティの部分で感じています。
ふつう、健全な家庭で育った人は、アイデンティティという感覚がしっかり構築されるので、自分の内部をのぞき込んだとき、そこには「自己」が存在しているという当たり前の感覚があります。
ふつうの人が、何の疑問もなく「視野」が存在しているのを当たり前だと思っているのと同じです。
しかし、そのわたしの知り合いは、自己の内部をのぞきこんだとき、「空虚」しかなく、あたかもブラックホールのようで、耐えがたい恐怖にとらわれると表現しました。
さきほどの精神分析医が述べていた「私の記憶と知性に穴のようなものが開いている。いわば世界に穴が開いているのです。それでも、その穴の中になにがあるのか想像もできません」という感覚が、自己の外部ではなく、内部に生じているのです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、子ども時代から逆境のもとで育った人や、深刻なトラウマのサバイバーは、やはりこのような内部が「空っぽ」であるという感覚に直面します。
このような人々は、その実存の中心は空虚である。ある集団レイプの被害者が、最初のセッションで私にこう語った。
「私は散歩に出かけることができます。でもそれはもう私ではないのです……私は空っぽで冷たくて……死んだも同然です」
…マレーはこの状態について次のように鋭く記述している。
「それは、まるで人間の活力の厳選が干上がってしまったかのようであり、まるで実存の中心が空虚であるかのようである」(p83)
このような「実存の空虚」は単に心理学的な感覚なのでしょうか。
いいえ。虚性暗点のメカニズムと同じことが、自己を感じる感覚神経に起こっているものである、と解釈できます。
虚性暗点とは、単に目が見えなくなるのではなく、視覚に関わる神経伝達そのものが切り離されて、もとから存在しないかのように視野が空っぽになってしまった状態でした。
同じように、実存の空虚さとは、単に心が満たされないというレベルではなく、自己(アイデンティティ)に関わる神経伝達そのものが切り離されて、もとから存在しないかのように空白になってしまっている状態なのです。
五感のひとつである視覚と、自己という感覚を同列に並べるのは、奇妙に感じる人もいるかもしれません。後者はこれまで、心理学や哲学の領域の問題だと考えられてきたからです。
五感は「からだ」の能力、アイデンティティは「こころ」の機能、いまだにこのような非科学的な分類が、わたしたちの社会では常識とされています。
しかし、オリヴァー・サックスは、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、このような古い非科学的な考え方を一蹴しています。
目をとじていれば、ごくわずかに動かされただけでも容易にわかる。指一本を、ほんのすこし動かされたとしても、それを感じとることができるのだ。
これが、シェリントンが「プロプリオセプション(固有感覚)」と名づけた感覚である。…からだはこの六番目の感覚によってそれ自体を認識し確認している。
そのおかげで人は「自己を所有して」いられる。つまり自分自身でありつづけられるのだ。
デカルト以来の哲学のばかげた二元論も「固有感覚」についての正しい理解さえあれば、避けることができただろうに。(p79-80)
「見る」という感覚は古典的な意味での五感の一部ですが、現代の科学は、感覚とはたった5つではないことをすでに明らかにしています。第六の感覚、それはシェリントンが発見し「固有感覚」と名づけた感覚です。
遺伝学者ダニエル・チャモヴィッツも植物はそこまで知っている (河出文庫)の中でこの感覚について記述していました。
いわゆる「五感」以外の六番目の感覚が、世間で話題になっているような超感覚的知覚(テレパシーや透視など)ではないことを、私たちはそれこそ第六感で知っている。
六番目の感覚、それは「固有感覚」と呼ばれるものだ。固有感覚とは、私たちが体を動かしたときに体の各部位が互いにどんな位置関係にあるのかをいちいち見て確かめなくてもわかるという感覚だ。(p110)
「わたしは自分自身である」という感覚、つまり自己の存在を感じ、アイデンティティを実感することができるのは、わたしたちの脳や身体から生み出されている第六の感覚によるのです。
自分の存在を知るという「六番目の感覚」
わたしたちの多くは、目や耳が聞こえることを当たり前に受け入れていて、それがなかったらどう感じるかを想像することもできません。
同じように、「自己」つまり「自分が今ここに存在する」という感覚も、あまりに当たり前に受け入れているので、「自己」を感じるために特別な感覚基盤が必要であることなど、大半の人は考えてみたこともありません。
オリヴァー・サックスは、別の本、妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、哲学者ウィトゲンシュタインの言葉に照らして、そのことを的確にこう述べています。
ある物を前にしたとき、その最も重要なところは、それが単純で身近なものであるがゆえに目につかない(いつも目の前にあるから、それに気づかないのである)。いちばん探求しなければならないところは、まったく見過ごされている。 ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタインが認識論について書いたこのことばは、生理学および心理学についてもあてはまる。とりわけ、シェリントンが「人間にそなわるかくれた感覚」と呼んだ六番目の感覚にかんしては、ぴったりの表現である。
六番目の感覚とは、からだの可動部(筋肉、腱、関節)から伝えられる、連続的ではあるが意識されない感覚の流れのことである。
からだの位置、緊張、動きが、この六番目の感覚によってたえず感知され修正されるのである。しかし、それは無意識のうちに自動的におこなわれるので、われわれは気づかないでいる。
…この命名にはもうひとつ理由がある。自分が自分であるという感覚(自己のアイデンティティ)に欠かせないものだからである。
「固有感覚」があるからこそ、からだが自分固有のもの、自分のものであると感じられるのだ(シェリントン、1906、1940)。
固有感覚は、ほとんどの人にとって、視覚や聴覚以上に当たり前すぎる感覚です。
視覚や聴覚には、少なくとも、自分は今それを感じているという意識的な実感があります。目を閉じたり、耳を塞いだりして調節することもできます。
しかし、存在の感覚、「固有感覚」はというと、無意識のうちに調節されています。固有感覚はいついかなるときも身体から発せられ、わたしたちが今ここに存在することを教えてくれていますが、あまりにそれが当たり前すぎるからこそ、その背後にある仕組みに気づけません。
しかし、生理学的に考えてみれば、わたしたちのあらゆる感覚は、脳と身体から生み出されています。これまで、とらえどころのない「心」とみなされていたものでさえ、つきつめれば身体の有機体から生み出されている感覚です。例外はありません。
オリヴァー・サックスは、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の中で、虚性暗点という「空っぽ」の感覚について考察したときに、次のように書いています。
視野暗点を起こした患者はまさに恐怖につき落とされる。なぜならその人の高度な意識、高度な自己はなにが起きているのか理解していても、なにもできないからである。
…人間がもつ最高の機能―意識と自己―は、独立した自己充足的な存在として肉体よりも「上位」にあるのではなく、神経精神学的な存在―プロセス―であり、継続する肉体的な経験と統合の上に成り立っていることを思い知らされるのである。(p201)
難しい説明ですが、ポイントは、『意識と自己―は…肉体よりも「上位」にあるのではなく』という部分です。
わたしたちは、アニメや映画のフィクション的な描写や、宗教や哲学などの非科学的な教えのせいで、自己の意識というものは、肉体を超越した何かだと思いこんでしまいがちです。
あたかも肉体とは別に魂のような思念体が存在していて、わたしたちの身体は、魂(心)が宿る入れ物にすぎないのだと。肉体が滅んでも、精神体が生き続けるのだと。
ところが、サックスが言っているのは、視野暗点のような特異な経験をじかに味わったなら、そんなファンタジーな幻想は打ち砕かれてしまう、ということです。
そうした特異な体験は、「自己」の意識でさえ、片頭痛発作や脳損傷などによって肉体の神経伝達が乱されると、たやすく消失して消え去ってしまうということを示唆しているからです。
もし肉体が死んでも魂が残るのであれば、肉体が損傷しても自己の意識は完全なままであるはずです。
しかし、事実はそうではなく、虚性暗点などの神経学的な症例は、肉体の一部が損傷すれば、自己の意識の一部が跡形もなく消えて、「空っぽ」になってしまうことを教えています。
もしも肉体が一部だけでなく“すべて”滅びれば、わたしたちの自己意識も一部だけでなく“すべて”「空っぽ」、無存在になってしまうということです。
だからサックスは、『人間がもつ最高の機能―意識と自己―は…肉体よりも「上位」にあるのではなく…継続する肉体的な経験と統合の上に成り立っていることを思い知らされる』と書きました。
言い換えれば、わたしたちの自己や意識というものは、有機体である身体から生み出されている数多くの感覚のひとつにすぎない、ということです。
自己や意識といった「心」はすべて「身体」から生み出されているので、身体を別にして死後も残る精神はありません。死んでも何かかが残ると思いたいのは、わたしたち人間のさがですが、神経科学の研究はそれを否定しています。
病気や障害で目が見えなくなるように、また耳が聞こえなくなるように、ときには虚性暗点として感覚そのものが切り離されて空っぽになるように、「自分が今ここに存在している」というアイデンティティの感覚も、切り離されて空っぽになることがありうるのです。
それこそが、機能不全家庭で育った人や重大なトラウマのサバイバーが慢性的に抱える、自分の内側が空っぽでブラックホールのようだという「実存の空虚」の感覚の正体です。
事故や病気で聴覚や視覚が神経的に損なわる場合があります。それとまったく同じように子ども時代のトラウマは、脳や身体に生物学的な変化を及ぼし、「自分が今ここに存在している」という感覚の信号伝達を損なってしまうことがあります。
自分のアイデンティティを感じ取れないというのは、色覚がわからなかったり、特定の音域を聞き取れなかったりするのと同じ、感覚神経的な問題なのです。
「自己」の意識はさまざまな体性感覚から作られている
では、わたしたちの身体はいかにして「自己」という複雑な感覚を生み出しているのでしょうか。
先ほど引用したところでは、自己を生み出しているのは「固有知覚」という第六の感覚であるとざっくり説明されていましたが、これは少し古い説明であり、今ではもっと複雑な要素が明らかになっています。
神経学者アントニオ・ダマシオの意識と自己 (講談社学術文庫)によると、自己の存在を形作る感覚は、より広い「体性感覚」という概念でくくられています。固有感覚は「体性感覚」の中の一種にすぎません。
体性感覚(somatosensory)とは「somaの感覚」ということであり、somaはギリシア語で「身体」を意味している。
…残念なことに「身体的」とか「体性感覚的」という言葉を耳にしたときわれわれの頭に浮かぶのは、触覚であったり、筋肉と関節の感覚作用であったりする。
しかし体性感覚システムはそれよりはるかに多くのものと関係しているし、実際それは単一のシステムではない。それはいくつかのサブ・システムの組み合わせであり、その一つひとつが、多様な身体的側面の状態について、脳に信号を伝達している。(p201)
わたしたちの第六の感覚ともいえる体性感覚は「単一のシステムではない」「いくつかのサブ・システムの組み合わせ」です。ダマシオは、体性感覚をおもに3種類の部署に組み分けしています。それぞれを簡単に見てみましょう。
(1)内受容(interoceptive)
まずダマシオが体性感覚の第一の部署として説明するのは、「内受容」(interoceptive)と呼ばれる感覚で、内部環境と内臓の情報を伝えています。
内部環境と内臓の部署は、体じゅうの細胞の化学的環境の変化を感じ取る仕事にあたっている。「内受容的」[interoceptive]という言葉は、そうした感覚作用を包括的に表している。
この信号の特徴の一つは、神経線維や神経経路をまったく使わないことだ。血流中の化学的な流れは、脳幹や視床下部や終脳の核によって感知される。(p202)
体性感覚システムのこの第一部署への付加的情報は内臓からきて、それらは脊髄へ向かう求心神経と、迷走神経(脊髄を完全にバイパスし、直接脳幹に向かう)とにより伝達される。(p205)
内受容は、おもに内臓や身体の内部の化学的な状態についての情報を、血液と迷走神経によって脳に伝える感覚です。(p375)
わたしたちの脳は、身体の内部がいまどんな状態にあるかを、内受容を通して刻々とモニタリングしています。この感覚伝達は、まったくの無意識下で行われているためわたしたちはまったく気に留めていません。
しかし、裏を返せば、ふだん何も意識せず、何も努力しなくても、わたしたちの身体が、環境の変化に対応したり、食物を消化したり、傷を修復したりというオートメーション的な膨大な作業をしてくれるのは、この内受容感覚が絶え間なく情報を脳に伝えて生理状態を調節してくれているおかげです。
後で考えますがダマシオは、「自己」という感覚が作られる過程においては、この内臓や内部環境から発せられる内受容の役割が「根本的に重要」だと述べています。(p281)
(2)自己受容(proprioceptive)
ダマシオが体性感覚の第二の部署として組分けしているのは、「自己受容」(proprioceptive)と呼ばれるもので、筋骨格からの情報を伝えるものです。
さっき出てきた「固有感覚」はこれに当たります。
第二の部署、つまり筋骨格の部署は、骨をつないでいる筋肉の状態を中枢神経系に伝達している。
…体性感覚システムのこの部署の機能は、一般的に「自己受容」[proprioceptive]または「筋感覚」[kinesthetic]という言葉で知られている。(p205)
自己受容(固有感覚)も無意識下で自動的に処理されている感覚であるため、わたしたちはふだん気に留めていません。
しかし、この固有感覚は、さっき説明されていたように、わたしたちの身体が「今ここにある」という情報を伝達してくれています。
(3)精密な皮膚感覚
最後に、ダマシオが体性感覚の第三の部署として分類しているのは、精密な触覚です。
体性感覚システムの第三の部署は、精密な触覚を伝達している。
その信号は、われわれが物体に触れ、その表面の感じ、形、重さなどを調べるときに皮膚の中の特別なセンサーに起こる変化を表わしている。(p206)
ものに触れたときに、触覚として感じる深い内的な感覚もまた体性感覚の一部です。このセンサーによって、わたしたちは、ものの微妙なかたちや温度や重さなどを精細に感じ取ることができます。
この精密な触覚は、他の2つの部署よりはずっと意識に上りやすい体性感覚だといえます。精密な作業で機械よりも優れた工作をするプロの職人などは、この感覚をつねに意識して利用しています。
ダマシオによると、この3種類の部署の体性感覚は、「内受容」が最も身体の内側を扱っていて、「自己受容」(固有感覚)は中間的なところに位置し、「精密な触覚」は身体の外側の感覚に近いところにあります。
内部環境と内臓の部署がおもに内部状態の記述に関心をもっているのに対して、この精密な感覚の部署は、主として、身体の表面に生み出される信号によって外部の対象を表現することに関心をもっている。
いくぶん中間的な筋骨格の部署は、内部状態を表現するためだけでなく、外界の記述を手助けするためにも使われる。(p206)
これから見ていくように、これら三つの体性感覚のうちでも、自分の内側により近づくにつれ、より気づくのが難しくなり、同時に「自己」の意識を作り出す際に重要な役割を帯びるようになります。
体性感覚が切り離されることで生じる「アイデンティティの障害」
ダマシオは、「自己」という感覚の土台部分(原自己と名づけられている)は体性感覚から作られるものの、今見た3種類の体性感覚のうち、内臓や内部環境から発せられる「内受容」が最も重要な役割を果たしていると説明しています。
すでに見たように、原自己は、内部環境、内臓、前庭感覚、筋骨格に関する有機体状態のさまざまな表象に依存している。
私は、これらの表象が原自己の創出においてすべて同じ価値を有しているのではなく、内部環境と内臓の表象が根本的に重要ではないかと思っている。(p281)
ダマシオがそのように述べるのは、それを示唆する症例があるからです。ここからは、体性感覚が欠けると、わたしたちの「自己」という感覚はどうなってしまうのか、具体的な例を幾つか取り上げてみましょう。
からだがなくなる―存在の感覚はあるけれども
ダマシオは、「自己」という感覚には、筋骨格からの自己受容(固有感覚)より、内臓からの内受容のほうが重要だという見方を裏づける例として、「身体失認」という状態に陥ったL・Bという女性を挙げています。
数年間、同僚のスティーヴン・アンタースンと共同で研究した患者L・Bは、こうした考え方を裏づけている。
この患者には「身体失認(Asomatognosia)」として知られる症状があった。身体失認は、文字どおり、「身体の認識の欠如」である。(p281)
L・Bは軽い脳卒中によって、脳の一部、右半球のS₂と呼ばれる皮質にダメージを負いました。このS₂は、体性感覚を処理する「身体の存在を感じる」体性感覚皮質の一部でした。
その後、後遺症として発作を起こしたとき、L・Bは身体の存在を感じられなくなってしまうという奇妙な状態に陥りました。
症状が起きている間、彼女は人や場所をよくわかっていたと看護師は判断した。L・Bは…驚くべき正確さで状況を説明した。
「存在の感覚は少しもなくなっていなかったが、ただ体だけなかった」(p281-283)
彼女が経験したのは、「体がない」という感覚でした。しかし「存在の感覚」は少しもなくなっていませんでした。
「自己」を構成する感覚のうち、今ここにいるという感覚は損なわれていませんでしたが、今ここに自分の身体があるという感覚だけ消えていました。
ダマシオはその理由を次のように説明します。
この症状は発作によって右半球の体性感覚皮質のかなりの部分が一時的に不活発になった結果だと私は解釈した。
発作の中心はおそらくS₂の損傷の境界にあって、発作はすぐS₁へと広がった。…にもかかわらず脳幹と視床下部、右半球の島の一部、そして左の体性感覚皮質には、彼女の身体に関する信号が継続的に存在した。
…統合的な形でしかるべく表象することができなかったのはほとんどが身体の筋骨格に関する信号で、内部環境、内臓、前庭の信号は残っていた。
そしてこの内部環境、内臓、前庭の信号こそ、彼女自身が言った「存在の感覚」に対する基盤を授けていたものだと思う。(p283)
彼女の発作では、体性感覚を処理する脳の部分のうち、S₁やS₂は影響を受けましたが、脳幹、視床下部、島皮質、帯状回皮質などは無事だったようです。
その結果、「身体の筋骨格に関する信号」、つまり「自己受容」の体性感覚が一時的に消えました。これによって、身体がどこにも存在しないという空白の感覚が生まれました。
しかし、「内部環境、内臓、前庭の信号」、つまり「内受容」の体性感覚は残っていました。そのため、彼女は、「存在の感覚」のほうは失っていませんでした。
オリヴァー・サックスは、妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中の「からだのないクリスチーナ」という章で、この女性と非常によく似た例を紹介しています。
クリスチーナは子どもが2人いる27歳の女性で、心身ともに健康でしたが、突然の胆石手術のため入院し、感染予防のための抗生物質を投与されるなどした後に、深刻な身体失認に陥ってしまいました。
彼女は、ベッドの上で起きあがることさえほとんどできなくなった。ガタンとくずれてしまうのだ。
顔は奇妙に無表情になり、だらりとたるんだ感じである。顎が垂れさがり、口があいてしまっている。音声を発する構えもとれなくなっている。
「なにか恐ろしいことがおこったんです」彼女はおよそ無表情な声で言った。
「からだの感覚がないんです。ふしぎなへんな気分です。からだがなくなったみたいです」(p100)
クリスチーナもまた、L・Bと同じように「からだの感覚」をなくしてしまいました。自分の身体が今そこに存在しているという筋骨格からの自己受容感覚、つまり固有感覚が消失してしまったのです。
いそいで全般的に診察してから、神経機能と筋機能について電気的なテストをおこなった。
「非常にめずらしい」彼は言った。「こんな症例ははじめてです。本で読んだこともありません。おっしゃるとおり、すべての固有感覚を失っています。頭からつま先までね。筋肉や腱の感覚、関節の感覚がないんです」
…腰椎穿刺をしたところ、急性多発性神経炎の一種であることがわかった。しかも、きわめてまれな型である。
…脳脊髄の全体にわたって、脊髄神経と脳神経の感覚性の神経根がおかされていた。(p102-103)
L・Bの場合は、固有感覚の消失は発作時だけでしたが、クリスチーナの場合は はるかに深刻な多発性神経炎が起きていて、一度失った固有感覚はその後二度と回復しませんでした。
あたかも事故や病気で突然目が見えなくなって、視覚のない人生に適応していかなければならない人のように、クリスチーナは固有感覚のない人生を送らねばならなくなりました。
その状態は、「からだのなかの目」が盲目になったようなものだ、とクリスチーナは表現しました。
彼女は思いにふけるような様子で言った。「腕がもしかしてなくなるんじゃないかって。腕はここにあるはずなのに、気がつくと別の場所にあるんです。
固有感覚というのはからだのなかの目みたいなもので、からだが自分を見つめる道具なんですね。
私の場合のように、それがなくなってしまうのは、からだが盲目になってしまったようなものなんですね。からだのなかの目が見えなければ、からだは自分を見ることができないわけですから、そうでしょう?
だから私の場合は、顔についている目で見なくてはならないのですね。からだのなかの目のかわりに。そうなんですね」
「その通りです。まったくその通り。あなたは生理学者になれそうだ」私は言った。(p104)
クリスチーナは、聡明で前向きな女性でした。恐ろしい変化に戸惑いましたが、からだの“内部”を見る目が見えなくなった人生に適応していくために、からだの“外部”を見る目、つまり視覚を最大限に活用するようになりました。
からだの“内部”を見る目である固有感覚がないということは、自分の身体が今どこに存在しているかまったくわからないということです。クリスチーナが言うように、「腕はここにあるはずなのに、気がつくと別の場所にある」ことが起こります。
それを防ぐために、クリスチーナは、常に視覚で身体を位置を確認するようになりました。そのためには、たいへんな注意と労力を払う必要がありますが、彼女はそれをやってのけました。
それはちょうど、身体の“外部”を見る目である視覚を失った人と逆のことをしていたともいえます。視覚を失った人は身体感覚や聴覚を研ぎ澄ますことで自分の位置を知る能力を発達させますが、クリスチーナの場合は身体感覚を失ったので、逆に視覚をフル活用したのです。
「その技術たるや、感覚がないためすべて視覚に頼ってやらねばならない人にしては驚異的なもの」でしたが、残念なことに、彼女は失ったものを取り戻したわけではありませんでした。
固有感覚を失ったままなので、相変らず、からだは「死んでしまった」ように思えた。現実のものではない、自分のものではない感じがつづいていた。
この状態をうまく表現することばが見つからないので、ほかの感覚をたとえに借りざるをえず、彼女はこんな言い方をした。
「私のからだときたら、目や耳がだめになったようなものよ。自分のからだに気づくことができないんですもの」(p109)
彼女は相変わらず、「からだは死んでしまった」と感じていました。普通の人がごく当たり前に無意識のうちに感じている、「身体が今ここにある」という感覚が消え去っているからです。
一般に、「身体がどこにもないと感じる」と訴えるような人は、医療現場では、精神疾患を抱えているのではないか、とまず疑われます。最初にクリスチーナを診た精神科医や研修医も、軽率にそう判断しました。(p101)
しかし、サックスはそうではないと正しく見抜きました。心は身体から作られている以上、精神的な問題のように思われるものは、実際には身体の問題なのです。
クリスチーナが抱えていた、「身体が自分のものではない」という感覚は、感覚を五感だけに限定する一般的な語彙ではうまく表現できません。
しかし、クリスチーナが言うように、「目や耳がだめになったようなもの」、すなわち視覚や聴覚の障害と同列に扱ってしかるべきものなのです。
さらにサックスは、彼女の固有知覚の障害は、よりつきつめて言えば、自己(アイデンティティ)の障害であると指摘しています。
ある意味では、彼女は「脊髄をぬかれた」状態であり、からだをなくした魂、生き霊のようなものである。
固有感覚とともに、根本的なものも失っているのだ。アイデンティティを器質的につなぎとめておくものを失ってしまったのである。
少なくとも、物質的で有形のからだによるアイデンティティ、「肉体的自我」を失ってしまったのだ。
それはフロイトが自我の基盤と考えたものである。「自我とは、何よりもまず肉体的なものである」(p112)
はじめのほうで触れたように、わたしたちの社会では、アイデンティティという概念は、心理的なもの、精神的なものとみなされがちです。アイデンティティの障害は「こころの病気」だと早計に判断されます。
しかし、フロイトがかつて指摘していたように、「自我とは、何よりもまず肉体的なもの」であり、ダマシオが解明したように、肉体の体性感覚から自己のアイデンティティの感覚は作られているのです。
体性感覚の一部が失われるということは、自己(アイデンティティ)の一部が失われるということであり、それはつかみどころのない「こころの問題」などではなく、れっきとした「からだの問題」なのです。
存在がなくなる―わたしはすでに死んでいる
L・Bやクリスチーナの場合、体性感覚のうち、からだの所有感を生み出している「自己受容」の固有感覚だけがなくなっていました。内臓などから発せられる「内受容」は無事でした。
そのため、「存在の感覚は少しもなくなっていなかったが、ただ体だけなかった」状態になっていました。
では、体性感覚のうち「存在の感覚」に関わる内受容がなくなってしまった場合はどうなってしまうのか。
おそらくそれは、「コタール症候群」と呼ばれる病態で起こっていることでしょう。
以前の記事でも取り上げましたが、コタール症候群では、自分の身体がすでに死んでしまって存在しなくなったように感じる、という特徴があります。
脳のなかの天使の中で脳神経科学者V・S・ラマチャンドランは、コタール症候群を抱えるユーソフ・アリという30歳の男性と話したときのことを次のようにつづっています。
「どうされましたか?」と私はたずねた。
アリは一分ほど黙ったまま私をじっと見た。それからゆっくりと、ささやくように言った。「どうしようもないと思います。私は死骸なんです」
「いまどこにいますか?」
「たぶんマドラス医科大学だと思います。以前はキルボークの患者でした」(キルボークはチェンナイで唯一の精神科病院だった)
「自分が死んでいるということですか?」
「はい。私は存在しません。抜けがらと言ってもいいですが。ときどき、どこか別の世界にいる幽霊のように感じます」
「アリ、あなたはあきらかに知性のある人です。精神的におかしいわけではありません。
脳の一定の部分に異常放電があるので、それが影響しているのでしょう。だから精神病院からここに移されたのです。発作を抑えるのに有効な薬もあります」(p391)
神経学者であるラマチャンドランは、「自分は存在していない」と主張するアリを精神疾患だとは思いませんでした。「アリの妄想は極度の抑うつのせいであるという結論に飛びつくのは安易すぎる」と彼は書きます。(p392)
アリは、自分が今ここに存在しているという「存在の感覚」が失われていました。これは、内臓から発せられる内受容を含む、かなり広範囲な体性感覚が損なわれていて、肉体的自我としてのアイデンティティが希薄になっているとみなせます。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、近年、コタール症候群と認知症を合併した患者に対する研究で、そのことがある程度、裏づけられています。
ミトラたちがMRIで女性の脳をスキャンしてみると、前頭側頭部の萎縮が見られた。なかでも、島皮質という奥まった領域は、左右どちらも損傷が激しかった。
身体状態を主観的に知覚できるかどうかは意識的な自己性の体験に欠かせない要素だが、最近の研究で、そこに島皮質が関わっていることがわかってきたところだ。
島皮質の損傷のせいで正しい身体感覚が持てないうえに、修正しようにも認知症がじゃまをする。それが自分は死んでいるという思い込みにつながったようだ。(p31)
ダマシオが述べていたように、島皮質は体性感覚皮質のひとつです。前述のL・Bの場合は影響を受けていなかった領域です。
コタール症候群の場合、L・Bとはまた違った仕方で、体性感覚が失われており、それが自己の感覚を損なっていることがわかります。
L・Bやクリスチーナは、ほぼ自己受容(固有知覚)に限定された喪失によって自分の身体が消え去ってしまいましたが、コタール症候群の人たちは、内臓や内部環境からの内受容を処理できなくなり「存在の感覚」が消えてしまっているのです。
内臓や内部環境から発せられる内受容感覚が、「存在の感覚」を生み出しているというのは、意識と自己 (講談社学術文庫)に書かれているダマシオの次のような説明からも直感的に理解できます。
あなたに向かってくる車は、あなたが望もうと望むまいと、恐れと呼ばれる情動を引き起こし、あなたの有機体の状態の中の多くのものを変化させる―とりわけ、腸、心臓、皮膚が即座に反応する。
…車が接近するときに起こる変化の多くは、…あなたの有機体の中の原自己[prot-self.本書における重要な概念の一つ。第一章参照]に起きる。(p197)
車が迫ってきて、あわや轢かれそうになったとき、身体にはどんな変化が起こるでしょうか。恐怖を感じるより前に、まず「とりわけ、腸、心臓、皮膚が即座に反応」します。
とっさに内臓が激しく収縮し、心臓の鼓動が高鳴り、皮膚に鳥肌が立ちます。恐怖のような感情が沸き起こってくるのは、危機をきりぬけた後でしょう。
車に轢かれそうになるという体験は、いわば「存在が脅かされる」体験と言い換えることができます。
「存在が脅かされた」という感覚がまず内臓と内部環境から生まれるのであれば、日常生活を送っているときの「存在している」というごく当たり前の感覚、だれも気に留めていない感覚もまた、内臓と内部環境から生み出されていると考えることができます。
わたしたちの身体のうち、生命維持に最も重要な役割を果たしているのは、間違いなく内臓や内部環境です。もちろん脳も重要ですが、臓器類をすべて失って、身体なしで生きられる人はいません。
わたしたちの「存在」は、脳でも、手足でもなく、内臓と内部環境にかかっています。存在するとはすなわち、自分の内臓や内部環境があるということです。
SFに出てくるような、身体を失って脳だけで生き続ける「水槽の脳」のようなシチュエーションは、神経科学からすれば不可能です。身体を失えば、その人の自己も存在しなくなるからです。
興味深いことに、コタール症候群を最初に記述した医師ジュール・コタールは、1880年に「自分には脳も神経も、上半身も内臓もなく、あるのは皮膚と骨だけだと思っていた」女性について報告しています。(p16)
この女性はもちろん内臓も内部環境も持っていました。しかし、そこから送られる内受容信号が、なぜか脳の体性感覚皮質で処理されない状態になっていたと思われます。
内受容が切り離されてしまうと、内臓がなくなってしまったと感じます。内臓が存在しないということは、「存在の感覚」もまた消えてしまうということなので、「私はここに存在していない」という認識になります。
ちょうど虚性暗点になったパスカルが、空間がごっそりなくなって空白になってしまったと感じたように、また固有感覚が切り離されたクリスチーナが身体がなくなって消えてしまったと感じたように。
コタール症候群の人たちの場合は、自分の内部に感覚の空白があり、自分が存在しているという実感そのものがごっそりと抜け落ちているのです。
解離―感覚を切り離すことで痛みを麻痺させる防衛反応
ここまで見てきたような症例はかなり特殊な脳損傷や発作によるものでした。
L・Bやクリスチーナのように、身体全体の固有知覚を失ってしまうような例はまれですし、コタール症候群のように、自分の存在をまったく感じられないという人もそう多くありません。
しかし、こうした「アイデンティティの障害」をスペクトラム的なもの(連続性のあるもの)として見た場合、もう少し軽いレベルで体性感覚が損なわれる状態は、もっと頻繁に起こっていると思われます。
たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に出てくるトラウマサバイバーが感じる身体感覚の欠如は、身体を感じることができなくなってしまう一例です。
おそらくもっと重要なのは、感情のない場所にも気づくよう促すことである。
よく見られる例(特に性的トラウマを持つクライアントの場合)は、自分の骨盤を全く感じられないという感覚や、骨盤が胴体や脚とつながっていないという感覚である。
頭からつま先まで自己のからだを細かく探ってみるよう促すと、骨盤の感覚が欠如して不気味だというクライアントがいるかもしれない。
当然ながらセラピストは、このような欠如から、クライアントが何を回避しているのかについての手がかりを得られる。(p178)
重篤なトラウマを経験した人は、その部分の固有知覚を失ってしまうことがあります。性的虐待によって脅かされた人は、骨盤のあたりの固有知覚をなくしてしまうかもしれません。
これは、心理的また精神的な問題ではありません。「解離」と呼ばれる生物学的な防衛反応によるものです。
小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に書かれているように、わたしたちは重大なトラウマを経験したときには、脅かされている身体の部分を「所有している」という自己受容感覚を切り離すこと(解離させること)によって、自分を保護しようとするからです。
たとえば、身体的虐待を受けた場合は前頭前皮質および島皮質に萎縮が見られた。「島皮質は身体帰属感や個人の主体性と関わりがあります」とブラムバーグ。
「この発見は、身体的虐待を受けた子どもがしばしば訴える解離症状がこの部位の萎縮に関連している可能性を示しています」。
子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。
そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)
虐待された子どもたちで萎縮してしまっている島皮質は体性感覚皮質の一部でした。
虐待されている子どもは、痛めつけられている手足や身体を「自分の一部ではない」と処理することで、苦痛を感じなくします。生物学的な防衛として、自分の身体の体性感覚を切り離すことで、自分を保護しようとするのです。
しかし、切り離された体性感覚は、トラウマ経験が終われば戻ってくるとは限りません。慢性的な苦痛を味わわされていた人は、体性感覚を切り離したまま生きるようになっていきます。
その表れが、たとえば先ほどの「自分の骨盤を全く感じられないという感覚や、骨盤が胴体や脚とつながっていないという感覚」なのです。
興味深いことに、オリヴァー・サックス自身も、同じような経験をしています。サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)で、サックスはこう書いていました。
その様子、そして「深淵」や「穴」といった言葉から、パスカルは空間そのものが消えてしまうことへの深い、ほとんど形而上学的な恐怖を感じていたことがわかる。
そしてこの感覚は、症例91の患者が説明した宇宙の「穴」―意識に開いた穴―そして『左足をとりもどすまで』で記した私自身の経験ともよく似ている。(p199)
以前の記事でも取り上げましたが、サックスは、ノルウェーの山中で左足に大怪我を負い、その後しばらく、身体失認の後遺症を抱えました。左足の感覚をまったく感じられなくなってしまったのです。
そのときの動揺について、サックスは左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)に次のように記しています。
私がなにかを失ってしまったことはたしかだ。「左足」をなくしたらしい。
そんなばかな。足はそこにあるではないか。ギブスに保護されて、ちゃんと「存在」している。それは「事実」だ。疑問の余地などないはずだ。
いや、そうとばかりは言えまい。足を「所有する」という問題にかんしては、どうにも不安で自信をもつことができなかった。
目をとじると、最初は足が存在するという感覚がまったくなかった。「そこ」ではなく「ここ」にあるという感覚、どこかに「存在」するという感じがまったくしなかった。
「そこにない」ものについて、なにを感じなにを断言できるというのか。きわめて深刻な固有感覚障害があるらしい。(p83)
原因は違えど、サックスの足の固有感覚は、虐待された子どもと同じように解離されてしまっていました。どちらの場合も、身体の一部が激しく脅かされ、生命の危機に直面したことには違いありません。
さらに別の例として、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、外科手術中に麻酔から目覚めてしまった人の経験が載せられています。
ある経験者(手術室担当の看護師でもある)の言葉によれば、
「私は広大な空虚感を感じました。魂がからだから抜け出て二度と戻ってこれないかのような……恐ろしい悪夢を毎晩見ます……それでびっくりして飛び起きるのです。
目を開けてもこころは休まりません。なぜなら壁や天井が血のような赤色に染まるからです」(p79)
この人の場合もやはり、原因は異なれど、重大な生命の危機にさらされたことは間違いありません。手術中に目覚め自分の身体が内側から切り刻まれているのを経験するというのは相当な恐怖です。
そのような想像を絶する苦痛に対して、わたしたちの身体が唯一できること、それは身体の体性感覚を切り離して、所有権を手放し、麻痺させてしまうことです。
虐待されて手足の感覚を切り離す子ども、大怪我を負って左足の感覚を切り離してしたサックス、外科手術中に目覚めて身体を切り離してしまった人。すべて同じ生物学的な防衛反応である解離の作用です。
解離によって、わたしたちは生命の危機の場で直面する途方もない苦痛からは切り離され、保護されます。
ところが、体性感覚が切り離された後には、何もない感覚の空白が残ります。身体が「そこにない」といううつろさ、「広大な空虚感」と表現されるような空っぽの感覚です。
離人症―自己のアイデンティティを切り離す
慢性的に脅かされた人たちは、自己受容感覚に基づく「からだの感覚」だけでなく、内受容感覚に基づく「存在の感覚」を切り離してしまうこともあります。
そのような症状が「離人症」と呼ばれるものです。離人症は、強い解離によって引き起こされる病態であり、自分の身体の存在感や、生きていると実感が希薄になってしまいます。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれているように、離人症は、生命の危機を感じるようなトラウマ経験に脅かされたことで、体性感覚が切り離され、自己を形成する基盤が揺らいでいる状態です。
離人症性障害になると、自分のことが知らない他人に思えてくるし、情動を感じる能力も低下する。
このことは、「私は誰?」という謎にどんな手がかりを与えてくれるのか。
それは自己をつくりあげるうえで「いちばん重要なのは物理的な感覚と内部感覚」だということ。メドフォードはそう話す。
「感情は体性感覚情報で構築されるというダマシオ的観念ですよ」(p183)
離人症では、程度の差こそあれ、すでに見たような三種類の体性感覚がすべて切り離されてしまい、生きていると実感が薄れ、アイデンティティが希薄になります。
離人症で「自分のことが知らない他人に思えてくる」のは、『自己をつくりあげるうえで「いちばん重要な…物理的な感覚と内部感覚」』が切り離されてしまうせいです。
離人症で起こる体性感覚の切り離しは、たとえば芸術の中動態―受容/制作の基層に出てくる当事者たちの語りからまざまざと読み取れます。
例えば、離人症の患者は、自分の身体について次のように語っている。
私のからだもまるで自分のものでないみたい。だれか別の人のからだをつけて歩いているみたい。[木村、1981、61頁]
昨晩はまだ、手を腕の方へ押しつけてやらないと手が固定しないような感じでした。
この前先生に、自分があると感じるためには自分を自分の中に、自分のからだの中に押し込んでやらなくてはならないんだとお話しした通りだったのです。
手も同じことで、腕はこれまで切り株みたいだったのが今では手が元通り腕から生えています。(回復途上の患者のことば)[GEBSATTEL,S.26.訳52頁]
歩いても、歩いているのではなくローラースケートに乗っているような、車輪にのっかって動いているような感じだったのは、足の中に自分がいなかったからなのでしょうか?[同]
「別のひとのからだ」「切り株」「ローラースケート」「車輪」―患者は自分の身体をこれらのものにたとえる。ここで訴えられるのは、自己の身体が、自分の体としてではなく、ただの事物としてしか感じられないということである。
本来、自己の身体は自分にとって、他のものとは違ったものとして感じられる―あまりにも当たり前で、普段はほとんど意識されることのない私と私の身体の関係を、離人症患者のことばは逆投射する。(p47-48)
普通の人にとっては「あまりにも当たり前で、普段はほとんど意識されることのない」自己認識の感覚が、離人症の人たち場合、ひどく切り離されていることがわかります。
これらはすべて心理的な思い込みでも精神医学的な狂気でもなく、この記事で見てきたように、自分の存在を自覚するための感覚(内受容)、自己の身体を所有しているという感覚(自己受容)、および物体の繊細な触り心地などをイメージするための感覚(精密な触覚)などの体性感覚が十分に利用できなくなっていることで生じています。
興味深いことに、ラマチャンドランは、脳のなかの天使の中で、離人症は、程度の軽いコタール症候群であると述べています。
ここで注目してほしいのは、この枠組みでは、本格的なうつ病において頻繁に見られる現実感喪失(「世界が夢のように非現実的に見える」)、離人症(「私が現実のように感じられない」)という奇妙な状態の根底に、それほど極端ではないタイプのコタール症候群が存在する可能性が容易に見て取れるという点である。
もしうつ病の患者が、共感や外部の対象物の突出性を成立させる回路に選択的な損傷をもち、自己表象の回路は健在だとしたら、現実感喪失や、世界から疎外されているという感じが生じる可能性がある。
逆に、自己表象がおもにそこなわれ、外部の世界や人に対する反応は正常だとしたら、離人症を特徴づける内的な空洞感や空虚感が生じるだろう。(p394)
ここがこの記事のポイントとなる部分です。
ラマチャンドランは、トラウマの後に起こるような離人症に伴う「内的な空洞感や空虚感」は、コタール症候群と同様の自己表象の障害だと述べています。
冒頭で触れたわたしの友人のように、自分の内部と向き合おうとすると恐怖を感じ、内部が空洞で、空虚で、ブラックホールのように感じる、という現象はまさしくこれなのです。
それはカウンセラーが指摘するような心の満たされなさでもなければ、愛情の欠如でもありません。
その本質にあるのは、単なる心理的な問題ではなく、自己表象、すなわちアイデンティティを形づくる体性感覚が切り離されていることで起こる感覚の空白なのです。
そのように考えれば、精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークが、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で「内面の空しさ」の感覚について、こう書いているのも至極もっともなことです。
トラウマの記憶を処理するのと、内面の空しさと向き合うのとは、まったく別の問題だ。
内面の空しさとはつまり、望まれたり、関心を向けてもらったり、真実を語らせてもらったりしたことがなかったために生じる魂の穴だ。
…ジュディス・ハーマンとクリストファー・ペリーと私で行った研究(第9章参照)から、子供のころに望まれていないと感じた人や、成長過程で誰にも安心感を抱いた記憶がない人には、従来の精神療法があまり役立たないとわかった。(p492-493)
ここでは、「内面の空しさ」の感覚は、「従来の精神療法があまり役立たない」と書かれています。
このような「魂の穴」は、単なる心の満たされなさではなく、もっと根深いアイデンティティの穴です。
それは幼少期から「望まれたり、関心を向けてもらったり、真実を語らせてもらったりしたことがなかったために」、今ここに自分が存在していること自体が苦痛になり、生物学的な防衛として、「存在の感覚」を切り離し、解離させてしまった結果だからです。
確かに、トラウマ的な体験は、心理学者や精神科医が言うように、「心」を脅かすものです。しかしダマシオら神経科学者が明らかにしているように、「心」とは「身体」から生み出されるものなので、心理学的な説明では不十分です。
トラウマのような生命の危機は、心だけでなく、心を生みだす基盤となっている身体に影響を及ぼし、単なる心理学的な後遺症ではなく、生物学的な後遺症を残します。
存在さえも認められない環境で育つということは、存在の感覚を生み出している内臓感覚にひどい苦痛がもたらされるということです。
前述のように、「存在が脅かされる体験」にすぐに反応するのは、内臓や内部環境です。それは自動車に轢かれそうになるときでも、家庭や学校で傷つけられるときでも、事故や病気に脅かされるときでも変わりません。
常に内臓が恐怖を感じていると、子どもは内臓感覚の苦痛に耐えられないために、それを切り離し(解離し)てしまいます。「存在の感覚」を麻痺させ、犠牲にすることで、せめて日常生活を生き延びようとします。
それは、内臓からの体性感覚を受け取るための経路である迷走神経系や脳の体性感覚皮質をシャットダウンしてしまう、というかたちで行われます。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているとおり、慢性的なトラウマによる離人症などを訴える人たちでは、脳の体性感覚皮質の活動が低下していることが確認されています。
上記の研究では、少なくとも30%の被験者に島および帯状回皮質の活動低下が認められた。この被験者のPTSDの特徴は、解離および(迷走神経性の)不動状態であった。
…島および帯状回は、体内の受容体からの感覚情報(内受容)を受け取る脳領域であり、ヒトが自らの「固有性」そのものとして感じ理解しているものの基礎を形成する。(p124-125)
この自己の「固有性」(アイデンティティ)の基礎を形成する内受容感覚が切り離され、体性感覚皮質の活動が低下した結果が、最初のほうで見たような、トラウマサバイバーたちを悩ましていた「実存の空虚」の感覚なのです。
マレーはこの状態について次のように鋭く記述している。「それは、まるで人間の活力の厳選が干上がってしまったかのようであり、まるで実存の中心が空虚であるかのようである」(p83)
このようなサバイバーたちは、過酷すぎる逆境を生き延びるために内臓からの体性感覚をシャットアウトし、切り離しました。
それはつまり、「ここに存在しなくなる」ことで苦痛を麻痺させるということでした。その後に残るのは、「存在の感覚」を感じられない状態、「実存の空虚」だけなのです。
内面の空洞を治療する
内面の空洞が、単なる心理学的な満たされなさではなく、生物学的な体性感覚の切り離しであるのだとしたら、それを治療する方法は、体性感覚皮質を活性化させ、身体的なアイデンティティを回復させるものでなければなりません。
この繊細なプロセスで重要なのは、強烈だったりわずかだったりする、身体感覚と感情を安全に感じ取ることである。
まさに、この働きをしていると思われる一対の脳の構造の存在が明らかになっている。
大脳辺縁系と前頭葉皮質の間に位置する島(insula)(より辺縁系に近いところにある)と帯状回(cingulate)(より大脳皮質に近いところにある)である。
簡単に言うと、島は筋肉や関節、内臓を含むからだの内部からの情報を受け取る。島と帯状回はともにこれらの原始的感覚を、微妙な感覚や知覚、認知に生成して私たちにわかるように伝えているのである。
この機能にアクセスすることが、次章以降で述べる、トラウマと難しい情動を変容させるアプローチの鍵である。(p89)
神経自体がだめになっていたクリスチーナと違い、幸いなことに、トラウマ性の解離症状は、時間はかかるものの回復させていくことができます。解離はあくまでも自分の身を守るための防衛反応だからです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、内面の空白を抱えている人には「従来の精神療法があまり役立たない」とはいえ、感覚に注意を向けるセラピーによって回復していける証拠があります。
第6章で見たとおり、そしてまた、ダマシオが実証したように、心の中で抱くこの「現実」の感覚は、少なくとも部分的には、島に根差している。島というのは体と心の意思疎通において中心的役割を果たす脳組織で、慢性的なトラウマの病歴を持つ人ではしばしば損なわれている。(p662)
たった三回のEMDRセッションを受けたのちに、12人のうちの8人は、PTSD評価得点が有意に下がっていた。
スキャン画像を見ると、治療後に前頭前皮質の活動が急激に増加しており、さらに前帯状皮質と大脳基底核の活動が前よりもはるかに盛んになっていた。
トラウマ記憶の経験の仕方が変わったのは、この変化で説明できるかもしれなかった。(p418)
幼少期に深刻なトラウマ体験をした6人の女性を対象とする、私たちの最新のヨーガ研究でも、ヨーガを20週間実習すると、基本的な自己システムである島と内側前頭前皮質の活動が増すことを、初めて示す結果が出た。(p452)
ヴァン・デア・コークは、この本の中で、従来の精神療法が役に立たないこうした内面の空洞を癒す手法として、EMDRやヨーガのほかに、身体感覚に意識を向けるソマティック・エクスペリエンスや、演劇を組み込んだペッソ・ボイデン・システム精神運動療法などを挙げています。
どのような治療法に効果があるかは人それぞれですが、従来の精神療法と違うのは、こうした治療法がいずれも、身体感覚に訴えるものであるという点です。
最初のほうで、パスカルと似た視野の暗点を抱えていた精神分析医は自分の抱える症状は精神分析的に太刀打ちできるものではないと述べていました。
身体のある部分の感覚が切り離されてしまえば、もはやそれについて考えることはできなくなり、概念そのものが失われます。後に残るのは、その空白に何かがあったはずなのにそれが何なのかわからないという恐怖や戸惑いだけです。
会話によるセラピーを通して、理性的な認知を修正しようとしてもまったく役に立ちません。認知よりもはるかに深いところ、「存在の感覚」を作り出す自己認識のレベルで起こっている問題だからです。
内面の空洞は、神経学的には、内部の体性感覚が切り離されている空白状態なのですから、それを治療する方法はトークセラピーではなく、切り離された体性感覚を再び感じられるよう訓練することである、ということになります。
オリヴァー・サックスは、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、身体的なリハビリを通して、左足の自己受容感覚を復旧させ、その結果として、左足のアイデンティティを取り戻すことができたことを記しています。
リハビリテーションをするということは、行動すること、行為をすることである。だから、行為の特徴に焦点をあてておこなわれなくてはならない。
ばらばらになって統一を欠いている、いわば「うしなわれている」「忘れられている」行為をいかによびさますか。それに集中しなくてはならないのである。(p221)
障害があらわれた領域について、その部分がなくなったように感じる「存在の消滅」、あるいは「非現実化」…には不安と恐怖がともなうが、幸運にも回復すれば、当然のことながら、「再現実化」の喜びがおとずれる。
それは、中世のことばで言えば、「自己の存在にかかわる実験」なのである。たとえ不本意におこなわれたとしても、それはアイデンティティについての重要な実験だったといえよう。(p252)
内面が空っぽになってしまった人たちに必要なのは、これと同じものです。EMDR、ヨーガ、ソマティック・エクスペリエンスなどさまざまな身体感覚を用いるセラピーの目指すところは、これと同じです。
何らかの体性感覚が失われている場合、まず失われているものに気づき、具体的な「行為」「行動」によって、その感覚を再び用いることができるようにしていく必要があります。
感覚が消滅すれば、存在も消滅します。存在を回復するために必要なのは、感覚の回復です。
「アイデンティティの障害」それは単なる心の病理ではなく、アイデンティティを形作るための生物学的仕組みの障害なのです。
当事者からも医者からも「暗点化」されてきた病
この記事で考えたことを最後にまとめてみましょう。
パスカルは、自分の左側に何もない空間が広がっているような恐怖に襲われた。この症状は、現在では片頭痛発作の前兆として起こる感覚の空白「虚性暗点」であると考えられている。
■トラウマ・サバイバーの「実存の空虚」
生命の危機や慢性的なトラウマを経験した人に見られる内面が「空っぽ」であるという感覚、「実存の空虚」もまた、本来わたしたちみなに備わる「存在の感覚」が空白になったことによって起こる症状とみなすことができる。
■自分を知るための第六の感覚
わたしたちが自己の存在を認識できるのは、第六の感覚である「体性感覚」があるから。体性感覚には、内臓や内部環境から発せられる内受容、筋骨格から発せられる自己受容(固有感覚)、精密な触覚などがある。
■自己受容感覚は「身体の自己所有感覚」を生みだす
自己受容(固有感覚)を失ってしまうと、身体だけなくなってしまったかのように感じる「身体失認」が引き起こされる。いわば身体の中の目がなくなってしまったようなもので、自分の身体がどこにあるのかを認識できなくなる。
■内受容感覚は「存在の感覚」を生みだす
内臓からの内受容が失われてしまうと、自分が存在しているという感覚も失われる。コタール症候群では、自分は存在していない、すでに死んでいる、自分には脳や内臓がなく骨と皮しかない、などと感じる。
■解離によって体性感覚が切り離される
わたしたちは生命の危機に直面すると、生物学的な防衛反応として解離が起こり、体性感覚を切り離すことで苦痛を麻痺させようとする。そのため虐待、事故などのトラウマ経験の結果、身体を感じられなくなってしまうことがある。
■離人症と内面の空虚さ
アイデンティティを形作る体性感覚が切り離されると、生きる実感や自己の意識が希薄になる離人症が起こる。自己の意識に生じた感覚の空白は、内面の空虚さや空洞として認識される。
■体性感覚を回復させることで空白を治療する
内面の空虚さに対しては、従来の精神療法があまり役立たないことが報告されているが、身体感覚を意識して、つながりを取り戻すタイプの治療法によって、体性感覚皮質が活性化し、自己認識を回復させられることがわかってきている。
最初に書いたように、わたしが改めてこの記事をまとめようと思ったのは、このような感覚の空白による存在の消滅という症状が、あまりにも心理学的、精神医学的な「こころの問題」とみなされやすいからです。
この記事で引用したさまざまな人たちの場合も、はじめは精神的な狂気であるとみなされていました。
精神科医からヒステリーだと断言されたクリスチーナはもちろん、脳神経科学者また医師でもあるオリヴァー・サックスでさえ、自分の経験を外科医に伝えたときにはまったく相手にしてもらえませんでした。
左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中でサックスは、そのときの屈辱的な体験をこうつづっています。
私はことばにつまりながらこう切り出した。「あのう、大腿四頭筋を収縮させることができないようなのです。ええと、筋肉に緊張がみられないようで、それに、その、左足がどこにあるのかわからないんです」
スワン医師は一瞬おびえたような表情をみせた。しかし一瞬のことで、はっきりとはわからなかった。
「ナンセンスだよ、サックス」彼はぴしゃりと言った。「なにも問題はない。心配することはなにもない。まったく問題なしだ」
「でも……」
彼は、交通整理の警官のように手をあげた。「君はまるで誤解している」彼はきっぱりと言った。「足はどこにも不都合はない。それはわかっているだろう」
彼は、いらいらと無愛想な様子でドアのほうへ歩いていった。配下の医師たちは慇懃に道をあけた。(p120-121)
同じ医師に対してさえこの態度なのです。そうであれば、なんの肩書きも持たないおびただしい数の患者たちの訴えはなおさら、頭ごなしに退けられてきたことでしょう。
自分の身体が感じられない、内面に空洞が開いている、などと訴える患者たちは、精神異常者、ヒステリー、気のせい、思い込み、妄想、などと診断されてきました。
たいていの医者にとっては、自分が知らない現象があることを認めるよりは、そんなものは存在せず、おかしいのは患者の頭のほうだ、と断罪するほうがたやすいのです。
「サックス。君は変わっている、特別だ。こんなことを言う患者ははじめてだ」外科医長は言った。
「特別の変わり者なんかじゃない」私は怒って言った。腹が立ってしかたなかった。
「みんなとおなじさ、絶対に(もう怒りは頂点に達していた)。君は患者の言うことに耳をかさないんだろう。それに患者の経験にも興味がないらしい」
「ああ、そのとおり。そんな経験とやらで時間をむだにすることはできない。私は現実的な人間だからね。やらなくてはならない仕事で手いっぱいだ」(p123)
やがて、晩年になったサックスは、死後に出版された意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源の中で、このときの体験を改めて冷静に振り返っています。
当時は無神経な医者に対して怒りを爆発させていましたが、よくよく考えれば、医者の態度も無理はないとも思えました。
私はこの異常な、とっぴでさえある物語をつなぎ合わせるうちに、担当医が私の症状のようなものは聞いたことがないと言ったのも無理はないと思えてきた。
この症候群はさほど珍しくはない。不動状態や神経損傷によって、自己受容感覚やほかの感覚フィードバックが失われるときは必ず起こる。(p199)
サックスが経験したような感覚の喪失は珍しいものではなく、「不動状態や神経損傷によって、自己受容感覚やほかの感覚フィードバックが失われるときは必ず起こ」ります。
ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で神経学者スティーヴン・ポージェスが述べているように、「解離は生命の危機に対して不動状態、あるいは擬死に陥る防衛反応と同等の反応」です。(p(5))
ですからサックスの説明は、感覚の空白という暗点は、解離が起こると同時に必ず起こる、それほど珍しくない現象だ、という意味です。
けれども、珍しくないからといって、容易に理解してもらえるとは限りません。
しかし、これを記録するのは、この症候群を神経学的知識として十分に認識するのは、なぜそれほど難しいのだろう?
神経学者に使われている「暗点」(スコトーマ)という(ギリシャ語の「暗い」に由来する)用語は、知覚の断絶または欠落部分を指し、それは基本的に、神経病変によって生まれた意識のすき間である(そのような病変は、私自身のような末梢神経から、脳の感覚野にいたるまで、どんなレベルでもありえる)。
そのような暗点を抱える患者にとって、何が起きているかを伝えることはなかなかできない。本人がその経験を暗点化してしまう。(p199)
自己のアイデンティティの感覚はさまざまな体性感覚の集合として生み出されますが、それらが何か欠けてしまうと、「知覚の断絶または欠落部分」「意識のすき間」としての空白ができてしまいます。
そうした感覚の空白が、主観的には、身体の喪失や、内面の空虚感として感じられるということなのです。
この暗点化は「末梢神経から、脳の感覚野にいたるまで、どんなレベルでもありえる」ものです。
この記事で見たように、脳卒中や発作などの理由で体性感覚の空白ができてしまうこともあれば、生命の危機に直面して脅かされたがゆえに、手足や身体の体性感覚を切り離してしまうこともあります。
いずれの場合も、切り離された感覚は空白になり、暗点化され、主観的には存在しなくなります。
感覚が切り離されるということは、その感覚を使ってイメージすることさえできなくなるということです。概念すらなくなってしまうと、いったい何がなくなってしまったのか説明することができません。
サックスがサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)で書いているように、内面に穴が空いている、空虚であるという奇怪さ以外には何も残りません。確かに何かがなくなっているのですが、何をなくしたのかがわからないのです。
このような患者たちは、あるとき突然宇宙の半分がなくなった、それも信じられないような方法でなくなってしまったことに気づく。
ただし高次の認知機能はある程度残るので、なにが起きているかを(少なくとも断片的に)説明することができる。
だが、この感覚の混乱がより慢性的あるいは広いものであれば、なにかが起こったという感覚は失われ、なにかが違ってしまったという記憶さえもなくなってしまう。
患者はいまや空間の半分、宇宙の半分に生きているにすぎないが、彼らの現在の意識はその後に再編されたものであり、そのことを知らないのだ。(p200)
こうして暗点を抱えた患者たちは、自分の手足がなくなった、身体がなくなった、内面が空虚でうつろである、というような、「なにが起きているかを(少なくとも断片的に)説明する」こと以外には何もできなくなります。
まったく要領を得ないので、内科医や外科医からは相手にされず、精神科にまわされます。精神科医からはヒステリーだとみなされ、カウンセラーからは愛情不足ゆえの満たされなさである、といった勝手な解釈や理由付けをされます。
結果として、このような症状は、本人にとってなんだかわけのわからない暗点であるばかりか、医学の世界においても暗点化されてしまい、だれからもまともに取り合われないまま放置されてきたのです。
しかし、ジェラルド・エーデルマンやアントニオ・ダマシオのように、自己や意識について研究しようという科学者が現れたことにより、事態は変化しました。
自己と意識を構成するための感覚が明らかにされたことにより、これまで暗点化されてきた症状を説明できるようになりました。
もはや、自己のアイデンティティの基盤が明らかになったいま、「アイデンティティの障害」を説明するために、古い心理学や哲学のあいまいな説明を持ち出す必要はないのです。
「自分の左側に穴か峡谷がぱっくりと口を開けているように思った」科学者ブレーズ・パスカルの「パスカルの深淵」が、心の問題ではないと解明されたのと同じように、トラウマサバイバーが抱える「実存の空虚」もまた、神経科学的に説明され、治療へと結び付けられる時代が今ようやく来ようとしています。