■前兆として「何か変な感じ」を感じる人もいる
■一度症状が出ればしばらくは起こらない
■風邪やインフルエンザではない
こんな症状に心当たりはありますか?
わたしは子どものころからずっと、この不可思議な症状がありました。
数ヶ月に一度のペースで40℃前後の熱を出し、猛烈な腹痛や頭痛も伴って死にそうになるのですが、一晩でましになり、その後かえって調子がよくなります。
主治医に相談しても、インターネットで調べても原因不明でした。慢性的な感染症、内臓の病気、自己免疫疾患、膠原病などを疑いましたが、そのいずれでもありませんでした。
わたしの推測では、これは解離と関係のある症状に思えましたが、裏付けはありませんでした。
しかし、オリヴァー・サックスの最初の著書サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)を読んだとき、この記述に出会ってびっくりしました。
私が診ている五、六人の患者は、現在は通常型あるいは典型的片頭痛を患っているが、過去には周期的な神経性の発熱を経験している。(p94)
患者は43歳の技師で、1928年以降断続的に発熱の発作を繰り返し、熱が40度まで上がることもあった。
…発熱に先だって前駆症状があり、落ち着きがなくなり、なにかに集中することもできない。
体温は急激に上昇するが、12時間以内に平常の温度に戻る。
白血球が1万5000個近くにまで増加する。熱が収まると「浄化された」気分になり、とくに調子が良く頭もすっきりした感じがする。(p93-94)
この明確な症例について、発熱型の準偏頭痛には通常型片頭痛に似た秩序があることがわかる。
つまり前駆的な「覚醒」と発作後の回復、そして気力の再充実である。(p95)
どれだけインターネットを調べても説明が見当たらなかったのに、サックスは50年も前に、わたしの身体について解説してくれていたのです。
わたしの場合は高熱でしたが、サックスは、このような周期的なパターンで、片頭痛、腹痛、喘息など他のさまざまな症状が起こる人たちがいる、と述べています。数週間から数ヶ月に一度、周期的な発作を繰り返すのです。
そして、この症状は、生物学的に言えば「凍りつき」(精神医学では解離に相当する)によるもので、「一ヶ月の間に蓄積したストレスを数日間の発作症状にそっくり凝縮しているかのよう」であり、「患者のさまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割」を担っているとも書いていました。(p391)
この記事では、生物学者チャールズ・ダーウィン、脳神経学者オリヴァー・サックス、そしてトラウマ専門家の神経生理学者ピーター・ラヴィーンらが追い続けた、周期的に繰り返すエネルギーの発散という生物学的現象について考えたいと思います。
このような観点から考えるとき、「解離」とは何か、「凍りつき」とは何か、その役割と本質を、よりリアルに理解できるようになるはずです。
これはどんな本?
このサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)(※原題は単に“Migraine”[偏頭痛]であり、邦題のような自己主張の強いタイトルではない )は、1970年、30代後半になった脳神経科学者オリヴァー・サックスが書いた最初の著書です。
サックスは脳神経科学にもとづく素晴らしいエッセイをたくさん残したことで知られていますが、その作家生活のはじめに、片頭痛(偏頭痛とも表記される)についての考察をまとめたことはあまり知られていません。
なぜ片頭痛だったのか。
それは、幻覚の脳科学──見てしまう人びと (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)でサックスが書いているように、彼自身が子どものころから片頭痛に悩まされていた当事者だったからです。
私は人生の大半を片頭痛とともに過ごしてきた。
記憶にある最初の発作が起きたのは三歳か四歳のときだ。
庭で遊んでいると、目もくらむほど明るい閃光が左側に現われ、広がって、地面から空へと大きく弧を描いた。
…起こったことを母に話すと、母はそれが片頭痛の前兆、つまり片頭痛の前に起こる感覚や知覚なのだと説明してくれた。母は医者でもあり、自分も「片頭痛持ち」だった。(p153)
サックスの最初の本は、医師視点の医学書であると同時に、30年にわたり苦しめられてきた悩みについての当事者研究でした。
片頭痛くらいよく知っている、インターネットを調べればどんなものかわかる、と思っている人も多いかもしれません。
わたしもこの本を読むまでそう思っていたので、自分の奇妙な症状を片頭痛と結びつけることはありませんでした。
でも片頭痛はそんな浅い現象ではありませんでした。
考えてみてください。サックスのこの当事者研究は、改定や追記を繰り返して、なんと550ページもの大作になりました。片頭痛という話題について、それほどの分量を書ける人がいるでしょうか。並外れた執念の当事者研究です。
彼の当事者研究が今なおユニークで実際的だといえるのは、医学の一般的アプローチと方向性が異なるからです。
サックスは医師になってから片頭痛診療所で働き始めましたが、片頭痛の当事者としての体験と、医学の認識とがかけ離れていることに気づきました。
片頭痛とその考えられる基盤について何十もの論文を読んでいたが、そのどれも、片頭痛の現象学的な豊かさや患者が経験する苦痛の幅と深さを表現しているとは思えなかった。(p146)
頭痛に悩んだ人なら、病院のパンレットなどで、頭痛には「片頭痛」「緊張型頭痛」「群発頭痛」の3つのタイプがあるといった説明を見たことがあるかもしれません。
しかしサックスは、頭痛という症状だけを取り出して細かくカテゴリ分けしたところで、片頭痛の真実は解き明かせないと考えました。
大量の文献を調べたサックスの心に響いたのは、19世紀の医師エドワード・リヴィングが書いた「片頭痛と関連の障害について―神経急発の病理への寄与」という大著でした。
片頭痛に対するもっと充実した、もっと深い、もっと人間的なアプローチを見つけたいと願って、私はその週末、リヴィングの本を図書館から借りだした。
…私は数ヶ月にわたって片頭痛の患者を診察し、いちおう片頭痛に関する現代の「文献」を構成している、薄っぺらでお粗末な論文に不満を抱いていたが、そんな私が渇望していたものをこの本は与えてくれた。(p147)
このリヴィングの本に触発されて、サックスは自分も片頭痛に関する、「もっと深い、もっと人間的なアプローチ」の本を書くことに決めます。
そうして書かれたサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の中で、彼は、自分のアプローチは、専門家によくある「木を見て森を見ず」のアプローチではなく、森全体を見渡すアプローチだと語っています。
今世紀に入ってからの片頭痛へのアプローチは、進歩するとともに後退したといえよう。
技術や量的な評価方法が進歩した一方、知識の専門家によって、本来は区別することのできないものをむりやり区別して考えてしまうという点での後退である。
知識と技術の真の進歩が、全体的な理解の喪失という真の後退を伴うとは歴史の皮肉であろう。(p44)
サックスは、森の中の“木”だけを見る医学の狭いアプローチでは、片頭痛という現象を解き明かすのに十分でないと考えました。
事実、わたしの症状は、今日の一般的な医学で言われる「片頭痛」の定義にはまったく当てはまりませんでした。しかし、“森”全体を見るサックスの説明のほうは、たしかに自分の症状そのものだと感じました。
興味深いことに、トラウマを専門とする神経心理学者ピーター・ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中でこの本に言及して、次のように書いていました。
『レナードの朝』『妻を帽子と間違えた男』『サックス博士の偏頭痛大全』の著者オリバー・サックスは、これらの著作の3分の1を患者たちの切実な発作の描写に費やしています。
偏頭痛は神経系のストレス反応で、トラウマ後の(凍りつき)反応に極めて似ており、しばしばトラウマ反応と関連していますが、サックスが報告するある数学者の毎週の偏頭痛サイクルは非常に興味深いものです。(p46)
「偏頭痛は神経系のストレス反応で、トラウマ後の(凍りつき)反応に極めて似ており、しばしばトラウマ反応と関連してい」る。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
当初わたしは、自分が片頭痛ではないと考えていたこともあって、この意味がよくわからなかったのですが、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)を読んでみたところ、確かに片頭痛と「凍りつき」(精神医学では解離)は基本的に同じものなのだ、と納得できました。
この記事では一般的な「片頭痛」いうことばの定義を超えて、人体の不可思議な機能に迫る、サックスの研究を調べてみたいと思います。
頭痛がないのに片頭痛?
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)を読むにあたって、またこの記事を読むにあたって まず必要なのは、片頭痛の一般的な理解は脇においてしまうことです。
サックスは、教科書に書かれているような片頭痛の概念ではなく、片頭痛を抱えている一人ひとりの症状のパターンに目を向けることで、頭痛以外の周辺症状もまた、この不可思議な現象に欠かせないことに気づきました。
「診断」という狭くて人工的な範囲を超えて、言葉がさまざまな意味をもつ世界に入ることにしよう。
…そのいわば中心に、明らかな通常型片頭痛を据えることができる。
その周囲に置くのは準片頭痛の一群で、それらは症状として多種多様な形をとり、片頭痛に含まれるさまざまな要素の詳細、変質、塊などを表す。
さらにその外側には、片頭痛に関連し、類似している反応を配置する必要がある。
なぜなら、それらは片頭痛の代わりとなる症状だからである。(p118)
わたしたちがよく知っている片頭痛の知識は、おそらく頭の片方がガンガン痛む症状が起こるとか、早めにトリプタン製剤を飲めばよく効く、といったものだと思います。
しかし、サックスは、それは片頭痛という現象全体の中心部にある、とりわけ目立ちやすい症状にすぎず、周囲を取り巻くもっと多彩な症状があるといいます。
それらは一見、片頭痛とは異なっているように思えますが、まったくの別物ではなく、「片頭痛の代わりとなる症状」です。
そのためサックスは、大胆にも、まず「頭痛」を片頭痛の必須条件から除いてしまうべきだという主張を展開します。
まず最初に、「片頭痛」という言葉について考えてみよう。その特徴として定義されているのは、頭の片側に生じる痛みである。
最初に述べておくべきことは、頭痛が片頭痛の唯一の症状ではなく、片頭痛発作に必発の症状でもないことだ。
この先、ありとあらゆる特徴を示す―臨床的、生理学的、薬理学的に―さまざまな種類の片頭痛発作について考えていくが、そこには頭痛が欠けている。(p49)
片頭痛というと当然のごとく「頭痛」が主症状だと考えるわけですが、なんと、頭痛は片頭痛発作にとって必須の症状ではないといいます。「そこには頭痛が欠けている」場合さえあるのです。
そうした非典型的でありながら、片頭痛特有のパターンを示す発作は、「準片頭痛」と呼ばれています。以下にさまざまな例を挙げてみましょう。
腹部型片頭痛
準片頭痛の代表的なものは、片頭痛と同じような発作なのに、おもに頭ではなく腹部が痛むという、「腹部型片頭痛」です。
準片頭痛という概念は、あまり好意的に受けいれられてこなかった。
たとえばある医師が「腹部型片頭痛」という診断を下そうとすると、同僚たちはそれをいいかげんな診断としてしかみなさない傾向がある。
もし医師が片頭痛患者に焦点をあてて彼らとともに考察を重ねれば、当初の考えがどのようなものだったにせよ、実際に多くの患者が軽度の腹痛、胸痛、発熱などのけいれん性の発作を繰り返すことを認識することになる。
それらは、頭痛がないことを別にすればあらゆる片頭痛の条件を満たしているのだ。(p88)
サックスは、患者とともに症状を入念に調べれば、腹部型片頭痛の患者は、「頭痛がないことを別にすればあらゆる片頭痛の条件を満たしている」ことがわかる、と述べます。
たとえば、医師エドワード・リヴィングが19世紀に記述した、ある腹部型片頭痛の患者は、次のように症状を説明しました。
私は16歳の頃、普段はきわめて健康だったにもかかわらず、周期的な腹部の激痛に苦しめられるようになりました。
……発作は時を選ばず突然始まりますが、その原因をつきとめることは結局できませんでした。
というのは、消化不良や胃腸の具合が悪いといった前触れがいっさいなかったからです。
……痛みは、上腹部に病的なまでの不快感を覚えることで始まります。そして二、三時間の間にどんどん激しくなり、その後収まっていきます。(p91)
この人は、周期的な腹部の激痛に悩まされていました。それは突然はじまり、突然消えます。片頭痛の定義の「頭痛」を「腹痛」に置き換えたような症状です。
このような片頭痛には、腹痛や嘔吐のほか、下痢が伴うこともあります。
下痢は通常型片頭痛の病状として頻繁に起こり、とくに発作の最終段階で現れることはこれまでみてきたとおりである。下痢自体は重い便秘に続くことが多い。
一般には独立した症状としてとらえられ、通常型片頭痛の発作と同時に、あるいは同じ周期で起こるものだと考えられがちで、ふつうには「週末の下痢」と呼ばれている。
このような神経性の下痢の原因は、不摂生な食事か食あたり、あるいは「胃腸にきたインフルエンザ」などとみなされてしまうことが多い。
こうした説明で納得できなくなってようやく、患者も医師もともに、発作の周期や状況が片頭痛に似ていることに気づくのである。(p93)
このような周期性の下痢は、場合によっては、過敏性腸症候群と診断されることもあるでしょう。しかし、めったに片頭痛との関連は疑われません。
そもそも現代の細分化された病院のシステムでは、扱う科が違うので、下痢の専門家は片頭痛について詳しくなく、その逆もそうです。
しかし、サックスが述べているように、もっと広い範囲の専門知識をもつ医師が患者の話をよく聞いてみると、このような周期的な下痢は、「発作の周期や状況が片頭痛に似て」いることに気づきます。
これら腹部型片頭痛が、一般的な意味での片頭痛と地続きの症状であることは、ある時から腹痛が頭痛に移行してしまう場合があることからわかります。たとえば先ほどの16歳の患者のその後についてこう書かれています。
その数年後、この患者の腹痛の発作はなくなったが、その代わりに、三、四週間の周期で同じような典型的片頭痛が起こるようになった。(p92)
周期的に腹痛を起こしていたこの患者は、数年後にはなんと、まったく同じ周期で腹痛が頭痛と入れ替わり、一般的な意味での片頭痛を起こすようになったのです。
たいていの場合、子どものころは周期的な腹痛や嘔吐などを起こすのに対し、成人するとともに、それらの症状が頭痛にとって代わられるケースが多いようです。
多くの患者、とくに若い患者の場合は悪心と嘔吐が症状の大半を占め、通常型片頭痛の苦しみとなっている。(p58)
一般的に、乗り物酔い、周期的な嘔吐、腹部の発作の病歴については、幼少期にある片頭痛患者に特に多いと考えられている。
ただし、この傾向や発作は大人の片頭痛に「とって代わられ」、幼少期の症状の重さが生涯にわたって続くことはめったにない。(p245)
子ども時代から片頭痛もちの人でも、子どものころは腹痛や嘔吐が主症状で、大人になってから頭痛に移行する場合がある、ということです。
発熱型片頭痛
「腹部型」の片頭痛と同じようなパターンは、「発熱型」の準片頭痛でもみられます。冒頭で引用した症例を改めて振り返ってみましょう。
私が診ている五、六人の患者は、現在は通常型あるいは典型的片頭痛を患っているが、過去には周期的な神経性の発熱を経験している。
…患者は43歳の技師で、1928年以降断続的に発熱の発作を繰り返し、熱が40度まで上がることもあった。
…発熱に先だって前駆症状があり、落ち着きがなくなり、なにかに集中することもできない。
体温は急激に上昇するが、12時間以内に平常の温度に戻る。白血球が1万5000個近くにまで増加する。
熱が収まると「浄化された」気分になり、とくに調子が良く頭もすっきりした感じがする。
この明確な症例について、発熱型の準偏頭痛には通常型片頭痛に似た秩序があることがわかる。
つまり前駆的な「覚醒」と発作後の回復、そして気力の再充実である。(p95)
この繰り返す発熱の発作のパターンは、片頭痛のパターンとよく似ているとともに、わたしが長年抱えてきたパターンともそっくりです。
わたしの場合は、40℃の「発熱」と、腹部を刺されるような「腹痛」と、割れるような「頭痛」がすべて同時に襲ってくることがほとんどでしたが、パターンとしてはやはり同じです。
この「発熱型」の場合も、やはり「腹部型」と同じく、子どものころに多く、大人になると、一般的な頭痛型に移行することがあるようです。
重い通常型片頭痛は高熱を伴うことがあり、とくに子供でみられる。
発熱はまた、周期的な独立症状として生じるとされ、ときには通常型片頭痛の代わりに起こることもある。(p94)
子どもは、ストレスを抱えたときに精神的な落ち込みではなく、原因不明の腹痛など身体症状を訴えることが多いと言われています。
以前のソマティック・エクスペリエンシングの記事で触れたように、同じうつ病でも、子どもの場合は、全身のさまざまな違和感として症状が現れるのに対し、大人の場合は、思考や感情の違和感として症状が現れます。
片頭痛の場合も、子どものころは発熱や腹痛のような身体の症状が多いのに対し、大人になると頭痛がおもな症状になる傾向があるようです。
なぜ大人になると頭痛の発作に収束していくのかはわかりませんが、現代文化における子どもの大人の感覚認知の違いに由来しているのかもしれません。
わたしたちの社会では一般に、子どものころは身体の感覚(内臓感覚)が優位です。しかし、大人になるにつれ、おもに学校教育を通して、認知的な能力を伸ばすように訓練されます。
言い換えれば、子どものころは、直感的に身体(内臓)で思考するのに対し、大人になると理性的に頭で思考するように教育されます。
別の記事で書きましたが、前者の直感的な思考経路は、内臓と脳をつなぐ脳の領域である、島皮質や前帯状皮質を用いています。
それに対して、後者の認知的な思考は、前頭前皮質のような、脳の別の領域の活動です。
このような変化が、子どもと大人の症状の違いにつながるのかもしれません。もちろん、大人になっても感覚が鋭く、子どもと似た症状を呈する人もいるでしょう。
とはいえ、発作の症状が、頭痛か、腹痛か、あるいは発熱か線引きはかなりあいまいなものであるようです。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)が述べているとおり、たとえ頭痛が主訴の患者でも、よくよく話を聞いてみると、他のさまざまな身体症状を経験していることが多いからです。
通常型片頭痛を患う成人の10分の1が、発作中に胃腸が痛んだり活発に動くと訴える。その割合は、若い患者ほど多い。
ここで述べる胃腸の症状は、通常型片頭痛では少数ではあるが、いわゆる「胃腸型片頭痛」においては際立った症状であり、あるいは唯一の症状なのである。(p63)
もし医師が片頭痛患者に焦点をあてて彼らとともに考察を重ねれば、当初の考えがどのようなものだったにせよ、実際に多くの患者が軽度の腹痛、胸痛、発熱などのけいれん性の発作を繰り返すことを認識することになる。(p88)
確かに胃腸症状などの割合は、「若い患者ほど多い」とはいえ、成人した患者にそうした症状がないわけではありません。逆にいえば、若い患者が、まったく頭痛を経験しないわけでもありません。
現実の症状は、人間が学問的に作り出した定義の枠内にすっきり収まるはずもなく、「軽度の腹痛、胸痛、発熱などのけいれん性の発作」が入り混じっていることも多いのです。
片頭痛のように、より長く続く痙攣性の反応については―臨床的に、生理学的に、そして意味論上も―片頭痛という用語を、頭痛のみ、あるいは他の症状のみに当てはめることは無意味なのだ。(p83)
胸痛、喘息、痙攣、迷走神経発作など
いま引用したとおり、片頭痛において、頭痛の代わりとなる症状は多岐にわたり、発熱や腹痛、嘔吐のほかにも、さまざまな症状が起こりえます。
まず挙げられているのは、胸の痛みの発作です。
「前胸部型片頭痛」(胸痛型あるいは偽アンギナ(アンギナは扁桃腺炎や狭心症など、絞厄感を伴う疾患)型片頭痛)という言葉は、中心的な病状としての胸の痛みを伴う通常型または典型的片頭痛を指す。(p95)
このような胸痛の発作は、ふつうは重大な心疾患などを疑われますが、胸痛型の片頭痛の場合は、重大な病気は見当たりません。ただ周期的に激痛や胸が締め付けられる感覚や痛みが生じるだけです。
ほかにも、周期的な喘息や痙攣(けいれん)などのパターンを示す人たちもいます。
こうした準片頭痛と認めやすい症状の他にも、人間の一生の間には、本人が気づかないうちに、あるいは突然頭痛にとって代わる片頭痛とは別の発作的な病気や疾患が数多くみられる。
それらはだいたいにおいて片頭痛と同じような性質の周期性をもつか、または同様の状況に反応して起こる。
発作的な喘息、狭心症、喉頭痙攣などが片頭痛に準ずる症状とは見当違いとも思えるが、臨床観察からは、ときにはそれらが片頭痛の発作に類似していると考えざるを得ないのである。(p102)
周期的な腹痛や発熱のみならず、胸痛、喘息、痙攣、さらには迷走神経が関わる失神、嘔吐、めまい…など。
こうした症状の場合もやはり、腹部型や発熱型の片頭痛と同じく、人生のある時点で頭痛に取って代わられることがあります。
すでに引用した、16歳のとき周期的に腹痛を起こしていた患者は、のちに周期的な頭痛に悩まされるようになりましたが、さらに年齢を重ねてからは、周期的な痙攣に変化したそうです。
すでに述べたように、彼の患者であるA氏は腹部型片頭痛(16歳から19歳にかけての周期的な発作)を、続いて(19歳から37歳にかけて)典型的片頭痛発作を経験した。
その後、この患者は典型的片頭痛を「失った」代わりに、周期的な痙攣の発作に見舞われるようになったのである。(p104)
別の箇所でもサックスは、喘息発作から片頭痛に移行した症例に言及し、自分もそのような例を多数経験したと述べています。
ハーバーデン(1802)は当時すでに広く認められた観察について次のように記録している。
「片頭痛は……喘息の発作が始まることで収まる」。
そして患者の一生の間に、ある種の発作から他の発作への突然の変化があることは疑いようがない。
私自身、担当していた約20人の患者の症状が突然交代するところをこの目で見た。(p102)
サックスの患者のひとりは、もともと喘息があったのが、のちに片頭痛発作に取って代わり、さらにまた喘息発作に戻りました。
この24歳の男性は、八歳までは頻繁に悪夢を見たり夢遊病を繰り返したりしていた。
13歳までは、周期的で通常は夜間に起こる喘息の発作があった。
その後は典型的、通常型片頭痛を患っている。典型的片頭痛は、比較的定期的に、毎週日曜日の午後に起こる。
…治療を三ヶ月間続けると、片頭痛に先行する前兆もなくなった。
その数週間後、彼は憤慨して私の所へやって来て、長いこと収まっていた喘息の発作が再発し、特に日曜日の午後に起こるようになったのだと訴えた。
彼がこの変化を悔やんだのは、彼にとっては片頭痛の痛みの方が喘息よりもましで、恐ろしくもなかったからである。(p103)
これらの例からわかるのは、今日「片頭痛」と呼ばれている症候群の特徴は、頭痛そのものではなさそうだ、ということです。
「片頭痛」という病名は、「レストレスレッグス症候群」(むずむず脚症候群)という病名と似たような問題点を抱えているように感じます。
以前に書いたように、「レストレスレッグス症候群」(むずむず脚症候群)は、その病名と製薬会社のキャンペーンのせいで、「足」が「むずむず」する病気だと知られるようになりました。
しかしこの病気を専門とする医師たちは、症状は「むずむず」といった感覚とは限らず、チリチリだったりズキズキだったり、多彩な不快感として認知されること、そして症状が足ではなく、手や顔などに起こる人もいると述べています。
つまり、むずむず脚症候群の場合、足がむずむずする、というのは代表的であるとはいえ、一部の人だけの実感にすぎません。
異なるタイプの不快感を感じている人たちもいるはずなのに、この病名のせいで、自分たちがこの疾患だと気づくことができません。
片頭痛の場合も同じです。製薬会社が宣伝してきた、頭の片方がズキズキする頭痛というのは、あくまでこの病気の比較的多い症状にすぎず、必須の症状ではありません。頭痛以外のかたちで同じ症状を抱えている人も大勢いるはずなのです。
むずむず脚症候群のほうは、近年、不適切な病名だとして、発見者の名前をとって「ウィリス・エクボム病」と改称されましたが、片頭痛のほうも、もっと実態に即した病名がつけられるべきかもしれません。
たとえ頭痛という症状が目立たない場合でも、腹痛、胸痛、発熱、痙攣、喘息などの発作が周期的に繰り返すとしたら、一般的な片頭痛と同じメカニズムが、その根底にあるのです。
周期性の謎
サックスが気づいたように、片頭痛を抱える当事者に話をよく聞いてみると、そこには謎の周期性が見られることがよくあります。
人によって周期はさまざまですが、一例として次のような調査が載せられています。
この数値に対してクリー(1968)は、150人の患者について詳細に記録し、33パーセントは1か月以内の間隔、20パーセントは4週間から8週間、26パーセントは8週間から12週間、そして残りの21パーセントは3ヶ月以上の間隔があくと報告した。
私自身が診察した典型的片頭痛患者のパターンは、これらの数値と一致する。ただし、この種の数値そのものがあいまいであり、無意味な場合もあることを強調しておきたい。(p258)
人によって周期の長さは異なりますし、厳密に周期を守るケースもあれば、そうでないケースもあります。
それでも、短期的にしろ長期的にしろ、ある程度の間隔を置いて、発作が繰り返し起こることが特徴的です。
わたしの場合は頭痛ではなく発熱が主体の発作でしたが、やはり一ヶ月半から二ヶ月くらいの間隔で定期的に生じるからこそ、自分が何か得体の知れぬ周期性に付きまとわれていることを自覚しました。
この周期的な発作と非常によく似ているのは、女性の月経周期です。ほぼ一ヶ月周期で、定期的に体調が悪くなる月経前症候群(PMS)は、周期的な片頭痛(もちろん頭痛以外も含む)と見分けづらいことがあります。
女性の半数近くが、月経期間中に情緒的で自律的なはっきりした不快感を覚える。
グリーンの試算では「100人中約20人の女性が月経前に片頭痛を患っている」という。
また、頭痛を伴わない情緒的で自律的な不快感を加えれば、この頻度はさらに上がることだろう。(p100)
定期的に月経周期に合わせて不快感を感じる女性は、当然その原因がPMSにあるとみなしがちです。ところが、必ずしもそうとは限らないようです。
症例74 68歳の女性。
21歳のときから月経性片頭痛を患っていたが、それ以外の症状はなかった。
51歳のときに閉経しても片頭痛のパターンには変化がなく、あいかわらず28日から30日周期で発作が起こる。(p64)
この例から明らかなように、月経周期に合わせて起こる不快感であったとしても、その原因が必ずしもPMSにあるとは言えません。
興味深いことに、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこの逆の例も載せられています。
ナンシーという大学院生は、「頻繁な片頭痛、甲状腺機能亢進症、疲労、さらに慢性疼痛やひどい月経前症候群に悩まされて」いました。(p24)
しかし、この記事で後述するような、凍りつきの治療の取り組みの後、「それから2年間、大学院を卒業するまでに、慢性疲労、片頭痛、そして月経前症候群も劇的に改善した」そうです。(p26)
月経はもちろんなくなりませんでした。でも「月経前症候群」はなくなりました。月経そのものが原因ではなく、片頭痛と同じ凍りつきにが原因で起こっている反応だったのです。
心理学者ロビン・スタイン・デルーカが述べているように、本来は無関係なものが誤ってPMSとみなされ、「PMSによって莫大な利益を得ている医療業界のカラクリや、女性は男性よりも感情的だという誤解など、PMS神話」につながっていることもあるでしょう。
PMS 月経前症候群に関する間違った情報にさようなら - ログミーBiz
もし原因が月経そのものでないのだとしたら、同じような周期性のある不快感が、男性に生じるとしても不思議ではありません。(最近ネット上で、排卵日予測アプリを男性が使ってみたところ、周期的な気分の変化が生じていることに気づいたという話を見かけました)
わたしたち生き物には、一日周期の概日リズムだけでなく、概潮汐リズム、概月リズム、概年リズムをはじめ、さまざまなリズムが存在していて、自然界の変化と同調していることが近年わかってきています。
サックスは、このような未解明のリズムが片頭痛の周期にも関与しているのではないかと推測しています。
私たちは周期性片頭痛を、神経システムの先天的な周期的プロセスの表現であるとみなしてきた。
ところが実際には、先天的な神経的周期性を他の(身体的あるいは情緒的な)内的サイクル、あるいはまだ発見されていない外的サイクルと区別することは非常に難しいのである。(p262-263)
現にわたしの場合は、ほぼ一ヶ月周期で睡眠時間が一周する非24時間型睡眠・覚醒症候群(non-24)もあったので、さまざまな周期性が絡み合っていました。
誘因となる刺激
このような周期性をもつ発作は、何の前触れもなく生じるわけではなく、発作に先立って、何らかのトリガー(誘因)や前兆がみられることが多いようです。
まず、発作の引き金となるトリガーについて、サックスはこの本の中で、多種多様な例を挙げています。
最も多いのは、まぶしい光や大きな音でしょう。
数多くの患者が、まぶしい光や耳を聾するような音によって片頭痛が始まると主張する。
…このような患者たちの多くは濃い色のサングラスをかけて診察室にやって来るし、「まぶしがり症」についての知識がある人も少なくない。
混雑した夏の浜辺や海に降り注ぐ太陽のぎらぎらした光、まぶしい照明がなされた電化製品売り場などは、患者がよく発作を起こす場所である。
他には、とくに映画やテレビが耐えがたいという患者がいる。(p270-271)
これはまさにわたしのことで、いわゆる「まぶしがり症」についてもブログにまとめたことがあります。
ほかにも、匂い、低気圧、寒暖差、興奮、疲労、運動など、さまざまな刺激がトリガーとなって発作を起こす人たちの例を、サックスは詳しくまとめています。
ひとつひとつ取り上げているときりがないので割愛しますが、何であれ自分にとって強いと感じられる刺激にさらされたとき、それが発作の誘因となることがあります。
では、それらの強い刺激は、発作の原因そのものなのでしょうか。
強い光や音や、何らかの耐えがたい刺激が直接の原因となって、片頭痛や腹痛、発熱、喘息、痙攣などの発作が引き起こされているのでしょうか。
サックスは、確かにそのようなタイプの片頭痛もあると述べ、それを「状況性片頭痛」と呼んで、周期的な片頭痛とは区別しています。(p307)
状況性片頭痛とは、(たとえばポケモンショックような)点滅する光や音に共鳴して誘発される片頭痛や、特定の食物や薬などのアレルギーが引き金となる片頭痛のことです。
しかし、この記事でおもに考えている周期的な片頭痛発作はそれとは別物です。
周期的な片頭痛を起こす患者たちに記録をつけてもらったところ、引き金となる刺激は、あくまで発作のトリガーとなっているだけにすぎず、原因を特定できるほどの関連性はありませんでした。
患者たちに片頭痛発作を起こした日付や発作の記録をつけるように頼んだ私は、その結果からマックスウェルと同じような考えを抱くようになった。
こうした記録は、たしかに片頭痛に特有の(そしてしばしば想像もできなかった)原因を明らかにしてくれる(8章で見るように)。
しかし、同じように頻繁に、この意味においては失敗であるが、発作が起こる状況は原因と結果といったものではなく、刺激のひとつであることがわかる。
つまり、他の状況ではごくわずかで効果もないはずの刺激によって、ある一点において発作が点火されるのだ。(p267)
何かの刺激、たとえば強い光がトリガーとなって片頭痛を起こしたことが何度もある患者は、強い光こそが片頭痛の直接の原因だと考えるようになるかもしれません。
しかし記録をとってみると、必ずしもそうでないことがわかります。確かに強い光で片頭痛が誘発される場合があっても、別の時には、強い光にさらされても気に留めていないかもしれません。
サックスは、このような刺激はあくまで発作の引き金になっているにすぎないとして、刺激と発作との関係を、次のように説明しています。
周期的で痙攣性の片頭痛は、神経システムの内部で力を蓄え、起こるべき発作に備える。
そしてその「時期が来る」と、わずかで無害な刺激によって引き起こされるが、刺激そのものは単に発作に引き金となるために存在してるにすぎない。(p307)
周期的な頭痛や腹痛などの発作は、確かに特定の刺激がトリガーとなって引き起こされるかもしれません。
しかし重要なのは、一度発作が起こってしまうと、しばらくの間、「免疫がきく期間がある」ということです。
特徴的なのは、周期性片頭痛のきわめて重い発作の後では、それ以降の発作に対する免疫がきく期間があることだ。
デュ・ボア・レイモンは次のように記している。
発作が収まってから一定の期間は、それ以外のときなら確実に発作の原因になるようなことに対して免疫ができたようになる。
だが、このような免疫は、次第に減ってしまい、それに比例して次の大きな発作が起こる可能性が大きくなるのである。
…免疫の効果が減るにつれて、ほんのわずかな刺激でも充分に発作の起爆剤になり得るのである。
やがて、発作の「時期」がくる(あるいはそれに少し送れる)と、刺激のあるなしとは無関係に、爆発的な発作が起こる。
基本的に、同様の敏感さと発作への免疫のサイクルは、突発性癲癇や喘息でも多々見られる。(p260-261)
わたしたち日本人は、地震と関連して、この説明を直感的に理解しやすいと思います。(サックスも、別の箇所で、周期的な片頭痛に関連して地震のたとえを使っています。p262)
大地震の場合、時間とともに徐々にひずみが蓄積されていき、地震が起こりやすい状態になっていきます。
ひずみがたまっていればいるほど、ささいな刺激でもたまっていたエネルギーが解放され、地震が誘発されやすくなります。
しかし、一度地震が起きてしまえば、ひずみはリセットされるので、しばらくのあいだ、ささいな刺激で地震が引き起こされることはないという「免疫」が生まれます。
自然界の仕組みと人体内部の仕組みは、フラクタル的(自己相似的)なところがあるので、おそらく片頭痛の発作と地震は似たものとみなすことができます。
どちらの場合も、直接の原因はトリガーとなった刺激そのものではなく、年余の期間にわたり、「神経システムの内部で力を蓄え」てきたひずみのエネルギーなのです。
ひずみが溜まった状態は、まさに一触即発です。そのときに何らかの刺激を受けると、発作が誘発されるかもしれません。
しかし、ひとたびエネルギーを発散する発作を起こしてしまえば、再びひずみが溜まるまでの間、発作に対する「免疫」が生まれ、同じ刺激を受けても発作は誘発されなくなります。
わたしの場合で言えば、発熱発作を起こすのは、俗に言う子どもの知恵熱のような、ストレス性の発熱ではないか、と言われることがありました。
ストレス性発熱は、慢性疲労症候群(CFS)と関連して、九州大学で研究されています。
しかし、わたしの場合、単純なストレス性発熱の定義には当てはまりませんでした。
わたしの周期的な発熱は、ストレスがかかると、即座に症状が現れるわけではなく、ある程度ストレスが溜め込まれてひずみが蓄積されてから、発作的に起こっているようでした。
つまり、必ずしもストレスとなる出来事がある時期に、すぐ発熱するわけではありませんでした。ストレスが積み重なる時期が終わってしばらく経ち、何もないような時期に発熱することもありました。
それとともに、一度発熱した後は、しばらくの期間、非常にストレスとなる出来事があっても発熱しなくなりました。
サックスが言うように、再びひずみがたまるまでのあいだ、トリガー刺激に対して「免疫」ができていたわけです。
前兆として起こる解離症状―「何かが変だ」
こうして何らかのトリガーが誘因となって片頭痛やそれに類する発作が起こるわけですが、その際には、発作に先立って前兆症状が感じられることが多いとサックスは述べます。
トリガーとなる刺激が人によってさまざまであったように、発作の前兆も人によって多種多様な形を取ります。
サックスは晩年に書いた意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源の中で、多種多様な前兆に共通しているのは「何かが変だ」という違和感だと書いています。
普通型片頭痛の表れ方は(無数と言いたくなるほど)たくさんある―私は著書で100近くを記述した―が、よくある前兆は、言い表せないが否定できない何かが変だという感覚だろう。
これこそまさに、エミール・デュ・ボア=レーモンが1860年に自分自身の片頭痛発作を説明したとき、強調したことである。
「なんとなく不調な感じがして目覚めた」(p156)
片頭痛やそれに類する腹痛や発熱などの周期的な発作では、まず「言い表せないが否定できない何かが変だという感覚」や「なんとなく不調な感じ」が起こり、それから本格的な発作が起こることが多いようです。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)によれば、片頭痛の前兆症状は、片頭痛そのものよりはるかに頻繁に起こっていると考えられています。
アルヴァレスのように深い洞察力と広い心をもった研究者は、医師としての70年間におよぶ経験から、前兆は一般に考えられている以上に多くみられる症状であり、実際には片頭痛のどんな症状よりもずっと頻繁に起こっていると考えた。
この点で、私はアルヴァレスとまったく同じ意見である。(p120)
発作の前兆症状は、ありふれた症状なのに、言葉で表現するのが難しい奇妙なものが多いため、文献にもほとんど記されていません。
前兆そのものはきわめてありふれた症状だが、それを的確に描写した例はとても少ない。
…優れた描写がほとんど存在しないのは、多くの前兆現象が奇妙なあまり、適切に描写することができないからである。(p121)
しかも、サックスが書いているように、当事者や医師がそうした奇妙な症状を片頭痛の前兆だと正しく認識できていないことが多々あります。
典型的片頭痛の発生率は人口全体の約1パーセントと推測されているが、前兆だけの発生率についてはまったく情報がない。
その理由は、単独の前兆を自ら訴える人の数が少ないこと、あるいは患者また医師がその症状を単独の前兆だと認識しないことである。
…一時的ではっきりしない性質のために診断を免れている―の発生を考慮すると、前兆の発生率はここで引き合いに出されている通常型片頭痛の発生率よりもはるかに高いのではないかと考えられる。(p182)
では、この「何かが変だ」という前兆には、具体的にはどんなものがあるのでしょうか。
片頭痛に先立って起こる、奇妙な前兆のうち、比較的よく知られているものに、「不思議の国のアリス症候群」と呼ばれる幻覚症状があります。
「不思議の国のアリス症候群」は、ちょうどアリスが経験したかのように身の回りのものの大きさが突然大きくなったり小さくなったりするように感じられる奇妙な幻視ですが、それはもともと作者ルイス・キャロル自身の実体験から来ていると言われています。
サックスが書いているように、ルイス・キャロルは劇的な片頭痛の持ち主であり、片頭痛の現象として、この奇妙な幻視を頻繁に経験していたようです。
リリパット(スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する小人間)・ヴィジョン(小視症)は対象が明らかに小さく見えることで、プロプディンナグ(同上の巨人国)・ヴィジョン(大視症)は大きく見えることである。
またこれらの言葉は対象が明らかに近づいたり遠ざかって見える症状、つまり距離は一定であるのに対象、幻覚、あるいは混乱した対象の大きさが交互に現れる症状の説明ともなっている。
このような変化が急激にではなくゆっくりと起これば、患者はズーム・ヴィジョンを経験することになる。その場合には、あたかもズームレンズの距離を変えるように、対象の大きさが拡大したり縮小したりするのである。
こうした知覚変化を描写した最も有名な人物は当然ながらルイス・キャロルで、彼自身がこの種の劇的な片頭痛を患っていた。(p157)
またサックスは、12世紀のビンゲンの修道女ヒルデガルドが残した宗教的ヴィジョンを研究し、そこに見られるジグザグの形(要塞型スペクトル)や光り輝く閃光(眼内閃光)などの特徴が、片頭痛の前兆として起こる幻覚と一致することを見出しています。
その中の描写や挿絵をくわしく調べた結果、ヒルデガルトの「ヴィジョン」の本質が片頭痛症状であること、本書で述べたさまざまな視覚的前兆に相当することは疑いないことがわかった。(p532)
片頭痛に先立って起きる幻視の中には、もっと奇妙なタイプのものもあります。それは、以前の記事で詳しく取り上げた、「虚性暗点」と呼ばれるものです。
「虚性暗点」とは、なにか異質なものが見えてしまう幻覚ではなく、逆に何かが見えなくなってしまう、いえ、もっと正確には、見えていたはずの視野が存在からして消えてしまうという、経験した人以外には想像しにくい症状です。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)には、ある片頭痛もちの精神分析医が、片頭痛の前兆として虚性暗点をはじめとする典型的な解離症状を経験したことが記録されています。
突然私は「気がつき」ます。患者の顔の一部がなくなっていることに。鼻か頬、あるいは左耳の一部がないのです。
…患者の顔はなくなりつづけ、たいていは顔の半分が消え、それと一緒に部屋の同じ側も消えてしまいます。
…自分に片頭痛が起きているのではないかということも思いつきません。それまでに何度も同じ経験をしているのですが。(p193-194)
この精神科医が述べているのは虚性暗点の症状です。虚性暗点が起こると、感覚そのものがなくなって、あたかもはじめから存在しなかったかのように空虚になってしまいます。
この本を記したサックス自身もまた、片頭痛の前兆として、視覚的幻覚が見えるタイプの人でした。
サックスは別の本、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、片頭痛の前兆として、左側の視野がなくなってしまった(半側空間無視と呼ばれる)ときのことを書いています。
そのとき、はっと気がついた。これは持病の偏頭痛だ。私は完全に左側の視野を失っていた。
同時に、これもときどきおきることだが、左側に世界が存在する(存在した、あるいは存在しうる)という感覚もなくなっていた。
眠っているあいだに偏頭痛性暗点がおこり、そのため、生理学的にうみだされた「もう一つの現実」が現れたのだ。(p111)
前に書いたように、このような虚性暗点の前兆症状は、かの有名な数学者ブレーズ・パスカルも、持病の片頭痛の前に経験していたようです。
もちろん、片頭痛やそれに類する発作を経験する人がみな、このような劇的な前兆症状を経験するとは限りません。みながみな視覚的な前兆症状を経験するわけでもありません。
オリヴァー・サックスは、自分の片頭痛の前兆症状が、たまたま視覚性幻覚だったために、幻視の研究と描写に多くのページを割いていますが、「片頭痛における視覚異常は、患者の10パーセント」ほどに認められるのみであることを記しています。(p483)
わたしはというと、単なる頭痛発作ではなかったせいで、この本を読むまで自分が片頭痛もちだとは微塵も思っていませんでしたが、前兆のほうもまったく意識していませんでした。
わたしの場合の前兆症状は、なんと「幻臭」つまり、嗅覚性の幻覚だったからです。
しかし、サックスは、わたしが悩まされていた発熱発作という特殊なタイプの片頭痛発作について明快な説明を残してくれていたように、わたしの嗅覚性の幻覚についても、これぞという明快な記述を含めてくれていました。
嗅覚の幻覚については、何人かの患者が症状を説明してくれた。
そのにおいはいつも強くて不快であり、よく嗅ぐはずのにおいなのに特定することができない。
そして強迫的な既視感をしばしば伴うところは、海馬発作で起こる症状に似ている。(p141-142)
前兆の最中に、時折嗅覚性幻覚が発生することは、すでに述べたとおりである。
そして、片頭痛の発作中には、においが強まり、変質し、耐え難いと感じることもよくある。
前兆も片頭痛も、それ以外のときにはにおいが原因と考えられる数多くの症状の、偽あるいは誤った原因となっていることは明らかである。(p271)
サックスの説明は、わたしが経験していた症状そのものであり、わたしが説明するよりも的確です。
確かにわたしは、頻繁に、「強くて不快」な「よく嗅ぐはずのにおいなのに特定することができない」、つまり既視感を伴うものの現実のものではない匂いを子どものころから繰り返し経験していました。それは悪臭や腐敗臭ではなく、奇妙としか言いようのない匂いでした。
一時期は、なにかの化学物質の匂いに過敏に反応しているのではないかと思いました。しかし、場所を変えても同じ匂いがし、どれだけ調べても匂いの元を特定できないことから、現実の匂いではないことに気づきました。
これもまたサックスが書いてくれていたことですが、リアルな幻覚は、視覚性にせよ、聴覚性にせよ、嗅覚性にせよ、あまりに本物に思えるので、当初は、それが幻覚であることに気づくことができないものです。
前兆期の異常な感覚は、夢の感覚とは反対に、患者が完全に目覚めた状態で起こる(夢うつつ、あるいは睡眠中に起こることもあるが)。
そして患者の大半は、それが現実ではないと認識するようになる。
それにもかかわらず、非常に教養のある患者であっても、前兆の感覚が客観的なものだととらえがちだ。(p144)
自分の感覚が、本物ではなく幻覚ではないか、と疑うことのは非常に困難です。それでも、わたしはサックスが的確な説明を残してくれていたおかげで、真実にたどりつくことができました。
わたしの発作は、メインの症状(発熱)も、前兆症状(嗅覚性幻覚)も、どう考えても、一般的な医学の片頭痛の定義に当てはまるものではありませんでした。
このような特殊な事例まで網羅してくれていたサックスの類まれなる当事者研究には並々ならぬ執念を感じます。
もっとも、わたしの場合、発作の前兆症状は、嗅覚性幻覚だけでないことも気づきました。サックスはほかにも、「何かが変だ」という、さまざまなタイプの前駆症状について記しています。
たとえば…
■触覚性幻覚
「ぞくぞくしたり震えたりする感覚」「感覚異常あるいは感覚消失」(p140)
■聴覚性幻覚
「シュッという音、ウーっという音、ごろごろという音」「その前後には気分が重苦しくなったり、耳が聞こえなくなったりする」こと。(p141)
■胃腸に起こる不快感
胃の中に「震えるワイヤー」があるような感じ。(p142)
■感覚閾値の変化
ふだんなら明るいと思わない部屋が「1000ワットの電球がつけられたみたい」に感じるなど。聴覚や触覚でも「軽い接触に対しても過敏になり、耐えがたくなる」。あるいは逆に「感覚が完全に麻痺する」(p145)
■奇妙な感情の変化
「ぼんやりとした警戒心あるいは恐怖」。ときには「自分の死が切迫しているように感じる」。あるいは逆に「愉快さや有頂天になった気分」(p152-153)
■高次脳機能の変化
「視野がぼんやりして文字をきちんと読めない」。集中できないなど。(p155)
要するに、あらゆる感覚において幻覚症状は起こりうるし、どのレベルの脳機能や身体機能でも、「何かが変だ」という状態になりうる、ということです。
デュ・ボア・レイモンは発作が始まるときの「なにかおかしいという気持ち」について語り、その他の患者たちは単純に「定まっていない」感じを口にしている。
この定まっていない状態で、患者は暑さ、寒さ、あるいはその両方を感じたり、体のむくみや服のきつさ、あるいは下痢や吐き気、奇妙な緊張感やけだるさ、あるいはその両方を感じる。また頭痛やその他の痛み、感じたり感じなかったりするいくつもの緊張感や不快感がある。(p84)
わたしは、自分が経験してきた匂いが嗅覚性幻覚だったことに驚いたので印象に残っていますが、改めて考えてみると、多かれ少なかれ、上記のいずれの症状も経験しています。
これらのさまざまな症状を、一言で表現するとすれば、それは「解離症状」という言葉にまとめられるでしょう。
解離という現象は、このブログで過去に何度も詳しく扱ってきました。
解離とは、いわば神経系に備わるブレーカー機能です。わたしたちは、自分の神経系が耐えられる以上の刺激にさらされたとき、脳を保護するために神経系のブレーカーが落ち、さまざまな感覚が遮断されます。
そのとき、感覚の一部が遮断されることによって、感覚の統合が乱されるので、ふだんは経験しないような奇妙な症状をいろいろと経験します。
たとえば、生命の危機のような圧倒的な刺激にさらされると、臨死体験や走馬灯のような形で、幻覚が見えたり、現実感が薄れたりします。
こうした解離現象はオカルトだと思われがちですが、実際には、感覚遮断タンクに入れば、危機的状況でなくとも似たような現象を誘発できますし、脳の電気的刺激によっても再現できます。
子ども時代から逆境的な家庭で育ったり、自閉症の感覚過敏などを抱えて育ったりした人は、慢性的に過剰な刺激にさらされるため、常に現実感が薄れる離人症に陥っていることがあります。
サックスによると、片頭痛発作の前兆として経験される「何かが変だ」という感覚には、このような離人症も含まれます。
前兆でもっとよくみられるのは、一時的な離人症の状態である。
…「自己」という感覚は、安定した身体的イメージ、安定して外へ向かう感覚、安定した時間の感覚が継続することで保たれているように思える。
したがって、身体的イメージ、外部への感覚、時間の感覚に深刻な混乱あるいは不安定さが生じるやいなや、自己が崩壊するような感覚が起こる。
そしてこうした混乱はみな、片頭痛の前兆の最中にみられるものである。(p168)
以前に、離人症の記事で書いたとおり、離人症が起こると、日常の体験世界がとても奇妙なものになります。
時間感覚や空間感覚が歪み、世界から質感が抜け落ちて薄っぺらくなったように感じたり、ものが大きく見えたり小さく見えたりすることがあります。前述の「不思議の国のアリス症候群」も離人症の症状の一部です。
ときには、いつも見ている見慣れた景色が、今まで一度も見たことがないもののように思えたり(未視感)、いま体験していることが過去にもあったようなデジャヴュ(既視感)を感じたりします。
前兆で見られる最も奇妙かつ強烈な症状であり描写や分析がとても難しいものに、あるとき突然、現在と同じ状況が以前にもあったと思ったり確信する(既視感)、あるいは反対に、突然その状況が奇妙で見知らぬもののように感じる(未視感)症状がある。(p162)
こうした感覚と同時に、他のさまざまな感覚が現れることもある。
たとえば、時間が止まってしまったという感覚、あるいは同じ瞬間がどういうわけか何度も繰り返すという感覚。
そして自分が夢を見ているか、一瞬の間だけ別世界に連れ去られたという感覚などである。
既視感の強い郷愁とともに、長い間忘れていた記憶がよみがえることもある。既視感の中で自分には千里眼があると感じたり、未視感の中で世界そのものが新しく生まれ変わったように感じたりする。
そして、患者は常に、自分の意識が二重になったように感じるのである。(p162)
こうした離人症の状態こそ、まさしく「何かが変だ」という感覚そのものでしょう。
片頭痛発作の前兆として、さまざまな解離症状が起こるのは、もう神経系が限界で、今にも崩壊しそうになっているからです。
耐えられないほどの刺激にさられたとき、脳を守るための神経系のブレーカーが落ち、感覚が切り離される。それが「解離」でした。
片頭痛発作はひずみが蓄積されて起こる地震に似ているという話を思い出してください。
前兆としての「何かが変だ」という感覚、そして奇妙な解離症状は、溜まったひずみがもう限界で、今にも神経系の統合が破綻しそうになっているために起こるのです。
片頭痛の生物学的メカニズムとしての「凍りつき」
ここまでのところで、片頭痛やそれに類する発熱や腹痛などの発作に伴う、誘因や前兆について考えました。
周期的に繰り返す発作とはいったい何なのか、おぼろげながら見えてきたかと思います。
それはちょうど、地球内部に溜まったひずみが、ある程度まで蓄積されるとちょっとした刺激が引き金になって、地震を起こすようなものでした。
人体の場合も、ストレスが内部に蓄積され、限界に達すると、ちょっとした刺激がきっかけで発作を起こすようです。
このような仕組みが存在することは、一般的な医学の範疇ではあまり知られていませんが、これまでまったく研究されてこなかったわけではありません。
このストレスを一時的に隔離しておくメカニズムは、トラウマ医学では「解離」、生物学では「凍りつき」として研究されてきた歴史があります。
そして現在では、「解離」と「凍りつき」は、同じ現象の別の側面であることが認められています。
冒頭のほうで引用したとおり、トラウマと解離を専門とする神経心理学者ピーター・ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、次のように書いていました。
『レナードの朝』『妻を帽子と間違えた男』『サックス博士の偏頭痛大全』の著者オリバー・サックスは、これらの著作の3分の1を患者たちの切実な発作の描写に費やしています。
偏頭痛は神経系のストレス反応で、トラウマ後の(凍りつき)反応に極めて似ており、しばしばトラウマ反応と関連しています(p46)
ラヴィーンによれば、片頭痛は「トラウマ後の(凍りつき)反応に極めて似ており、しばしばトラウマ反応と関連して」います。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でもやはり、次のように偏頭痛とストレス(トラウマ)の関係が示唆されています。
また未解決のストレスによる身体的表現としてよく見られるものに偏頭痛がある。(p219)
片頭痛やそれに類する発作を抱える人の中には、それがストレスやトラウマと関係していると言われると、気分を害する人がいるかもしれません。心が弱いとか、気の持ちようだとか言われているように感じるからです。
サックスは、片頭痛患者の中には、心理的なアプローチを拒否し、身体疾患である、という解釈に固執する人たちがいることに触れています。
患者の一部(習慣性片頭痛ではおそらくきわめて割合が高い)と医師の多くは、片頭痛が心身症であることを否定し、身体的な病因と薬物治療法を探し求めつづける。(p312)
このような患者は、最も重症のことが多いが、自分自身の内面を探ったり治療を受けることに強く抵抗する。(p392)
しかし、ストレスやトラウマと関連づけられることに拒否感を覚える人たちは、サックスが述べている次のことをよく考えてみるべきです。
18世紀における最も優れた臨床観察者―ティソー(片頭痛に関して多くの文章を書き、1790年の論文はウィリスの『頭痛について』を正当に引き継ぐもの)、ワイト、チェーン、カレン、シドナムなど―が身体的な症状と精神的な症状の間にまったく区別をつけなかったことは特筆に値する。
それらはまとめて「神経障害」として考慮されるべきだと考えたのである。(p41)
19世紀初めに、「器質的障害」(はっきりした身体的異常を伴う病気)と「機能的障害」(はっきりした身体的異常が見つからず、暗に心理的原因によると思われる病気)に分類され、身体の問題と心の問題とが分割されてしまった。(p41)
19世紀ごろ、デカルトの心身二元論に代表される、心と身体を分けてとらえる非科学的な考え方が登場しました。
その哲学的な概念は医学の世界にも入り込み、今日ある、内科と精神科の区別を作り出しました。
しかし、本来、わたしたち人間の「心」と「身体」は分けて考えることができない不可分のものです。
神経科学者アントニオ・ダマシオが意識と自己 (講談社学術文庫)で書いているように、古代において人は、心と身体を別物だとみなしていませんでした。
今日われわれが心と呼んでいるものを、息と血を意味するためにも使われた「プシュケ」という言葉で言い表した古代人の知恵に、私は驚嘆する。(p44-46)
そして今日、科学が明らかにしたように、わたしたちは有機体の集まりであり、わたしたちが「心」と呼ぶものは「身体」から生じています。
心身二元論以前の18世紀の医師たちが考えていたとおり、「身体的な症状と精神的な症状の間にまったく区別をつけ」ず『それらはまとめて「神経障害」として考慮されるべき』なのです。
確かに片頭痛には、ストレスやトラウマといった環境要因だけでなく、生まれ持った遺伝的な体質も関係しているでしょう。
しかし、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)によると、サックスは、それだけで片頭痛症状が現れるという考えには否定的です。
実際の片頭痛患者と接すれば、患者たちは極めて不均一な集団であることに誰もがたちまち気づくはずである。(p251)
したがって、通常型片頭痛を起こす特定の体質があることについては、そして普遍的な「片頭痛体質」についてはなおさら、強い疑いの目を向けるべきなのだ。(p253)
片頭痛患者について理解したり治療を試みるうちに、症状を決定し形づくっているのは患者自身の人生だということに気づくことになる。
こうした環境要因について研究し分析すると、体質や遺伝的要因の存在について当然疑いの目を向けるようになる。
病歴を丹念に調べることは必要不可欠であり、それなしでは純粋に理論的な概念―片頭痛「体質」、片頭痛の「貯蓄要因」、一つの遺伝子による遺伝など―の誘惑に負けてしまう。
だが、こうした理論はフィクションでしかないのである。(p255)
サックスは、豊富な臨床経験に基づき、片頭痛に特定の遺伝子や体質が関与しているという理論は、フィクションにすぎないと述べます。
それよりも「症状を決定し形づくっているのは患者自身の人生だ」と述べ、生育環境や経験が果たす役割を重視しています。
そのような環境要因のなかでも、幼少期からのストレスやトラウマは、大きな要因を占めていると思われます。
前述のとおり、片頭痛は十人十色のパターンを示しますが、それは一人ひとりが経験するストレスが十人十色だからです。
片頭痛が驚くほどの多様性をもつのは、患者のさまざまな情緒を取り込むためではないか。
もし片頭痛がもっとも頻度の高い心身症の症状なら、それらが最も激しく移り変わるからである。(p314)
一人ひとりの経験するストレスが多種多様であるので、それに対応して生じる症状もまた多種多様になります。
これは、わたしがしばしば書いてきたトラウマの「解離」についての説明と一致しています。
解離症状は一人として同じものはありませんが、それは一人ひとり経験するトラウマが異なっているからであり、トラウマが異なれば、それ対応するフタの役割を果たす解離のかたちも変化するのです。
片頭痛が、トラウマと関連した解離(生物学的には凍りつき)の一種なのだとすれば、一人ひとりの症状がこれほど異なることにも納得がいきます。
トラウマ医学の権威ベッセル・ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べるように、片頭痛のみならず、この記事で考えてきた腹痛や喘息などの発作は、幼少期にトラウマを経験した人に非常に多いことが統計からもわかっています。
明確な原因が見当たらない身体的症状は、トラウマを負った子供にも大人にも広く見られる。
腰や首筋の慢性的な痛み、線維筋痛症、偏頭痛、消化不良、痙攣性結腸/過敏性腸症候群、慢性疲労、喘息などが起こりうる。
トラウマを負った子供は、そうでない子供よりも、喘息を起こす率が50倍も高い。(p164)
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)でも、片頭痛の原因は複雑で多岐にわたるとはいえ、トラウマが関与する場合があることがあるとされています。
個人的な記念日、結婚記念日、悲惨な出来事のトラウマなどが、きわめて周期性の高い片頭痛発作、あるいは他の機能的疾患の誘引となることもよくあることだ。(p263)
そもそも、片頭痛の当事者であったオリヴァー・サックス自身、子ども時代にトラウマを経験したことを書いています。
なぜ、片頭痛に代表されるような周期的に繰り返す発作と、トラウマ性の凍りつきや解離といった症状が密接につながっているのか。
それを知るために、ここからは三人の科学者の脈々と続く考察を順番に見ていくことにしましょう。
その三人とは、これまで登場した脳神経科学者オリヴァー・サックス、神経心理学者ピーター・ラヴィーン、そして、残りの一人は、かの有名な生物学者チャールズ・ダーウィンです。
ダーウィンの洞察―生物学的な凍りつきと擬態死
この三人のうち、最初に謎の周期性発作について考察したのは、チャールズ・ダーウィンです。
以前にもまとめましたが、ダーウィン自身が、この謎の周期性発作(おそらくは腹部型片頭痛)の当事者であり、やはり小児期トラウマの当事者でもあったことが、ダーウィン自伝 (ちくま学芸文庫)からわかっています。
しかし、私の健康は、ほとんどいつも興奮、ひどい震え、それで起こる嘔吐の発作で悩まされた。(p143)
サックスは、チャールズ・ダーウィンを大いに尊敬していましたが、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の中で、片頭痛の生物学的メカニズムを解き明かすにあたり、ダーウィンの文献から引用しています。
サックスによれば、ダーウィンは、生物がストレスに直面したときの反応には大きく分けて二種類あることを突き止めていました。
動物の世界では、脅威に対する反応として、二種類の異なる型のどちらか、あるいは両方がみられる。
最もよく知られていて、だれでも直ちに思いつくのが、身体面では闘争-逃走反応であり、感情面では激怒や恐怖といった激しい反応であろう。
…闘争-逃走反応は、それが極端な場合には重要なものだが、現実の動物の世界でみられる現象の半分を示しているに過ぎない。
他の半分はそれほど劇的ではないが、正反対の反応という点でやはり劇的なのである。
その特徴は、威嚇に対して無動を保つことである。(p380-381)
驚くべきことに、ダーウィンは早くも19世紀の時点で、動物のストレスに対する反応には二種類の正反対のものがあることに気がついていました。
このことが医学の世界で注目されるようになったのは、ごく最近であるにもかかわらず。
ダーウィンは、動物は、危機的状況におかれると、有名な闘争/逃走反応のような能動的な反応だけでなく、ときには「受け身と屈服」という、もっと受動的なやり方で対応することを見て取りました。
これら対照的な二つの反応について、ダーウィンは積極的な恐れ(恐怖)と消極的な恐れ(畏怖)とを比較検討して古典的な記述を残した。
それによれば、積極的な恐怖とは「突然起こって制御の効かない闇雲な逃走」である。
また、受動的な畏怖の特徴は受け身と屈服であり、内臓機能と内分泌腺が活性化した状態(「……大きなあくびを頻発して……死人のように蒼白の顔面……皮膚には汗のしずくが際立つ……体中の筋肉はすべてが弛緩している……やがてすっかり憔悴する……胃腸が機能しなくなり、肛門括約筋が動かなくなって、もはや腸の中身を体に留めておけない……」)で、一般的には、ひれ伏し、すくみ、くじけた状態である。(p381)
この反応は「内臓機能と内分泌腺が活性化した状態」であり、「もはや腸の中身を体に留めておけない」と書いていることから、もしかすると、自分の謎の繰り返す発作とも関係していることに気づいていたかもしれません。
サックスは、このダーウィンの説明に解説を加え、動物界で見られる「受け身と屈服」型の防衛反応の例をたくさん挙げています。
いくつか例示すれば、恐怖におののく犬(パブロフの「わずかに抑制的なタイプ」の犬ではとくに)は身体をすくませ、嘔吐し、便を失禁する。ハリネズミは、身体を丸めて脅威に対抗する。
スナネズミは筋肉の緊張を突然失ってカタトニーのように硬くなり、オポッサムは失神様無動すなわち「偽死」を装う。馬は驚愕して「凍りつき」、冷や汗を流す。
スカンクは恐怖を感じると凍りついて汗腺に変化が生じ、汗がほとばしる(分泌反応は攻撃的機能と考えられる)。
また危険にあったカメレオンは凍りつき、体色を環境に似たものに変えるという独特の反応をみせる。(p381-382)
ここで何度か出てくるように、ダーウィンが述べた「受け身と屈服」型の反応の代表的な例は「凍りつき」や「擬死」(死んだふり)です。それゆえ、この受け身の反応は、今日では、凍りつき/擬死反応と呼ばれることがあります。
トラウマ専門医ベッセル・ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、ダーウィンは、この凍りつき/擬死反応をつかさどる神経を肺-胃神経と名づけていました。
ダーウィンは、私たちが今なお探究している体と脳のつながりについても書いている。強烈な情動には、心ばかりでなく消化管と心臓もかかわっている。
「心臓と消化管と脳は、人間と動物の両方で情動の表現と管理に関与する重要な神経である『肺胃』神経(今でいう「迷走神経」)を通じて、緊密に連絡を取り合っている。
心が激しく興奮すると、内臓の状態にたちまちその影響が出る。
したがって、興奮しているときには、体のうちで最重要のこれら二つの器官の間には、相互の作用と反作用が多く起こる」
私は初めてこの一節に出合ったとき、しだいに興奮を深めながら読み返した。(p126)
このダーウィンが記述した肺-胃神経は、今日では副交感神経の一種である「迷走神経」として知られており、全身の内臓を行き巡っていることがわかっています。
意外に思えるかもしれませんが、片頭痛発作を引き起こしているのは、一般に興奮や覚醒に関わるとされている交感神経ではありません。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)に書かれているように、片頭痛発作は、副交感神経の過活動の結果として起こる凍りつき/擬死反応の一種です。
片頭痛の主要症状は、前駆期やリバウンド期を別にすると、副交感神経系の緊張増加または交感神経系の緊張低下、あるいはその両者を表わしていることは明らかである。
発作症状は生理的あるいは心理的なさまざまな刺激によって自然に寛解したり、副交感神経遮断剤や交感神経刺激剤による治療によって終息するが、そのことは副交感神経の過剰な活動が発作をとおしての特徴であるとみなす見解を補強するものだ。(p347)
サックスは、ダーウィンの洞察に沿って、人間の片頭痛の原型は、動物の副交感神経の過活動、凍りつき/擬死反応に見られるとしています。
人間にみられる副交感神経優位の抑制状態をアレグザンダーは「自律神経機能の衰退」と見事に表現したが、後ろむきの引きこもりは精神心理学的な拘禁状態を招くことになるのである。
究極の矛盾は、オポッサムの「偽死」にみられるように、死を避けるために死を模倣することである。
…私たちが思い描くのは「原片頭痛」あるいは片頭痛のいわば原型であり、一般に見られる凍りつきや気絶といった反応よりも持続時間の長い、おおまかな受動的-防衛的-副交感神経優位の反応である。(p383)
副交感神経は、現代医学では一般的に、身体をリラックスさせる良いものとみなされがちなので、それが過剰に活動すると片頭痛のような苦痛を引き起こすというのは意外かもしれません。
この点については、トラウマにも造詣の深い神経科学者スティーヴン・ポージェスが、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で明快に説明してくれています。
要約すると、解剖学的には副交感神経の迷走神経には二種類あり、リラックスに寄与する腹側の迷走神経とは別の、もっと原始的な背側の迷走神経が、危機的状況下において神経系の機能をシャットダウンし、停止させる役割を担っているとのことでした。
このように、時代を1世紀以上先取りしたダーウィンの先駆的な洞察のおかげで、片頭痛をはじめとする謎の周期的発作について、次のことがわかります。
この発作は、生物学的には、能動的な闘争/逃走反応ではなく、その正反対の受動的な凍りつき/擬死反応によって引き起こされている。
それをつかさどっているのは自律神経系のうち、交感神経ではなく、副交感神経(迷走神経)の原始的な部分である。
サックスの洞察―ストレスを閉じ込めておくコンテナ
ダーウィンが記した動物のストレスに対する反応のうち、能動的な闘争/逃走反応ではなく、受動的な凍りつき/擬死反応のほうが片頭痛に当てはまる、というのは、サックスの医師としての臨床経験からも裏付けられているようです。
ここからは、凍りつきについて研究した二人目の人物としてオリヴァー・サックスの研究に改めて注目してみましょう。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)には、片頭痛の当事者たちの多くは、ストレスに対して能動的な闘争/逃走反応ではなく、その逆の、もっと受け身な反応を示す傾向があると書かれています。
過度に活発であったり、過度に不安がったりするどころか、多くの片頭痛患者はひどく従順で受け身にみえる(強く抑制された激怒や敵意とともに)。
また、さまざまな問題やストレスに無関心だったり、それの存在を否定する態度が際立つ患者(ヒステリー症状に類似した「解離性片頭痛」を患う患者)もいる。
別のグループの重症の片頭痛患者の中には、明らかに感情が抑圧され、自虐的で、頻繁に起こる片頭痛と事故叱責的な情動とを交互に起こす患者もいる。(p425)
すべての例がそうであるわけではないとはいえ、習慣的な片頭痛を起こす患者には、「ひどく従順で受け身」「ストレスに無関心だったり、それらの存在を否定する」「明らかに感情が抑圧され」ている人たちがいる、と書かれています。
先ほどサックスは、危機に対する動物の受動的な反応の例として、「危険にあったカメレオンは凍りつき、体色を環境に似たものに変えるという独特の反応をみせ」ると書いていました。
人間の場合も、非常に受け身で、周囲に過剰に合わせてしまう傾向(過剰同調性)は、受動的な凍りつき/擬死反応の一種です。
また、ストレスそのものを否定すること(否認)や、感情が抑圧されていること(失感情症)は、サックスも指摘しているように、いずれも解離と関連性があります。
このような傾向は、以前の記事で書いたように、慢性疲労症候群の当事者にもみられます。
解離によって内的な感受性が切り離されてしまうと、自分の身体がストレスを感じていることにさえ気づけなくなるのです。
このような受動的な傾向を持つ人たちは、ストレスに直面したとき、それを外側に発散する代わりに、内側に貯め込む傾向があると言われています。
たとえば、イライラしたとき誰かを殴ったりけなしたりするような衝動的な行動に出るのではなく、ぐっと我慢して自己抑制し、自制心を働かせる人たちです。
怒りや悲しみの強いエネルギーを行動によって発散せず、自分の内側に抱え込んでしまう傾向があります。
そうした強い感情やストレスを発散し、自由に表現する方法を持っていないせいで、代わりに周期的な発作によってエネルギーを発散しなければならないのが片頭痛ではないかとされています。
片頭痛の最も重要な付随的原因…それは強い感情的な欲求やストレスであるが、直接の表現手段や解決策がないことから、片頭痛の発作を繰り返し起こさせるのである。(p232)
言葉や行動で「ノー」と言えないような受動的な人は、代わりに身体が悲鳴を上げるようになってしまう、というのは、カナダの精神科医ガボール・マテも身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価で書いていたことでした。
サックスは、患者たちの周期的な発作を観察するうちに、ストレスをうまく発散することができず、内側に溜め込み続けた結果、数週間分、数ヶ月分をまとめて放出しているのではないかという印象を持ったそうです。
周期的あるいは散発的な発作を経験する多くの患者では、こうした発作がまるで内在しているかのようであったり、(生理学的ドラマという皮肉な言葉を借りれば)積もりつもった内面的なストレスや葛藤を行動に移しているかのようである。
私の印象では月経性片頭痛(そして類似の月経性症候群)がまさにこれで、あたかも一ヶ月の間に蓄積したストレスを数日間の発作症状にそっくり凝縮しているかのようである。
そして私の観察では、そうした月経性片頭痛を治療した(奪いとった)場合には、数多くの患者が次の月経までの間に散発的に不安を覚えたり神経に障害を起こすのである。
つまり、こうした片頭痛は患者のさまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割を担っているのであり、そのことは診療する側が片頭痛をむやみに駆逐してしまう前に心にとどめておく必要がある。(p391)
「あたかも一ヶ月の間に蓄積したストレスを数日間の発作症状にそっくり凝縮しているかのよう」
「片頭痛は患者のさまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割を担っている」
この説明は、何度か考えている地震のたとえと一致しています。
ちょうど地面の内部にひずみが溜まっていって、あるとき一気にエネルギーが放出されて地震が起こるように、数週間ないしは数ヶ月ぶんのストレスのエネルギーを溜め込み、一気に発散するのが周期的な発作なのです。
興味深いことに、トラウマの専門家たちは、サックスより前から同じことに気づいていました。
たとえば、ヴァン・デア・コークの著書トラウマティック・ストレス―PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべてによると、早くも1941年には精神科医アブラム・カーディナー(Abram Kardiner)が次のように考えていました。
カーディナー(Kardiner,1941)は、彼の患者の何人は、ヒステリー性の下肢麻痺などの症状にトラウマの後遺症的な影響を「閉じ込めてしまう」ことができているように思われると述べている。
彼の患者のなかには、その不安と興奮性が、転換症状あるいは解離性の傾向と反比例的な関係にあるように思われた者がいたのである。
抑うつ症状が最もひどい患者がトラウマとなった出来事に関して非常に詳細な記憶を持っており、さほど症状がひどくない患者の多くはその出来事についてあまりおぼえておらず、「知らぬが幸い」の生活を送る傾向があるということを、カーディナーは指摘した。
彼は大いなる率直さをもって、解離性症状あるいは身体化症状を呈する患者にとって最善であるとされている治療に対するきわめて重大な疑問を提起した。
その疑問とは、とてつもなく恐ろしい記憶に気づくことのみが、どのような場合においても、背中の痛みや意識喪失よりも好ましいと言い得るのか、ということである。(p28)
カーディナーは、ヒステリー(解離の古い呼び名)の患者たちは、重大なトラウマの記憶を、身体症状に「閉じ込めてしまう」ことに気づきました。
重大なトラウマを経験した人は、二通りの反応を見せます。
一方は、「トラウマとなった出来事に関して非常に詳細な記憶を持って」いて「抑うつ症状が最もひどい患者」たち。
こちらはダーウィンの言うところの、能動的なほうのストレス反応である闘争/逃走反応に支配され、激烈な感情に翻弄される人たちで、一般的にはPTSDと呼ばれます。
他方、それとは別に、「その出来事についてあまりおぼえておらず」「解離性症状あるいは身体化症状を呈する患者」たちがいます。
こちらは、受動的なストレス反応である凍りつき/擬死反応を示す人たちで、トラウマの記憶がほとんどなく、ときにはストレスを否認する代わりに、さまざまな身体症状が現れる人たちで、解離の症状を呈します。
前者のPTSDの人たちは、重大なトラウマやストレスのエネルギーを隔離することはできていません。それらはすぐさま激しい感情や行動として経験されます。
対照的に、後者の解離の人たちは、重大なトラウマやストレスのエネルギーを隔離して身体に閉じ込めてしまい、『「知らぬが幸い」の生活を送』ります。
しかし、身体に閉じ込められた行き場のないエネルギーは、さまざまな身体症状をもたらし、ときには周期的な発作を引き起こします。
この人たちは、解離があるおかげで、過去の恐ろしいトラウマ記憶と向き合わずに済んでいます。
確かに内側に閉じ込められ、隔離されたエネルギーのせいで、厄介な身体症状を抱えてはいます。
しかしそれでも、カーディナーは「とてつもない恐ろしい記憶に気づく」よりは、「解離性症状あるいは身体化症状」を抱えているほうがまだましではないのか、と述べています。
言い換えれば、この人たちにとって、解離という能力が、過去のトラウマを隔離してくれていることは、一種の保護になっているということです。
同様に、サックスも、周期性の片頭痛発作を起こす患者について、「月経性片頭痛を治療した(奪いとった)場合には、数多くの患者が次の月経までの間に散発的に不安を覚えたり神経に障害を起こす」と述べていました。
この場合も、片頭痛の凍りつきは、「さまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割を担っている」のであり、見方によっては保護として働いている、ということがいえます。
それで、カーディナーとサックスも、同様の疑問を提起しています。もしこの隔離能力が患者を別の重大な症状から保護しているのであれば、果たして治療によってそれを取り除くことは最善なのだろうか、という疑問です。
ラヴィーンの洞察―身体に閉じ込められたトラウマ
では、このような人たちは、もう内部にエネルギーを溜め込んでしまう凍りつき傾向と一生付き合っていくしかないのでしょうか。
ストレスやトラウマに遭うたびに、それを身体の内側に「閉じ込めて」しまい、自分の意思で発散することはもはや不可能なのでしょうか。
そこに注目し、ダーウィンやサックスの洞察を、治療法へと結びつけたのが、三人目に挙げる、神経心理学者ピーター・ラヴィーンです。
ラヴィーンは野生動物を観察し、ダーウィンやサックスが指摘していた「凍りつき」が持つ生物学的な機能について、より深く研究しました。
心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で彼は、野生のインパラが、捕食者であるチーターに襲われたとき、どのように「凍りつき」状態に陥るか、次のように描写しています。
追っ手のチーターから逃れようとしているときにインパラの神経系内部を流れるエネルギーは、時速110キロもの速さで蓄積されています。
チーターが襲いかかった瞬間、インパラは倒れます。外見上インパラは身動きせず死んだように見えますが、内部ではインパラの神経系は今なお時速110キロのスピードで猛回転しています。(p29)
チーターから逃げるインパラは、まず危機的状況に対する反応のうち、能動的な「闘争/逃走反応」によって逃げようとします。
そのとき、「インパラの神経系内部を流れるエネルギーは、時速110キロもの速さで蓄積されています」。
しかし、いよいよチーターが迫り、もう逃げられないとなると、受け身の反応である「凍りつき/擬死」の状態に陥り、「身動きせず死んだように」なります。
ではそのとき、あの時速110キロもの猛烈なエネルギーはどこに行ってしまったのか?
それは、身動きしない凍りついたインパラの身体の内部に閉じ込められています。「内部ではインパラの神経系は今なお時速110キロのスピードで猛回転して」いるのです。
この状態がどんなものかイメージするために、次のようなたとえで説明されています。
このエネルギーがどれほど強力かを実感するために、パートナーと性交しているところを思い浮かべてください。
あなたがもう少しで絶頂に達しようとするとき、突然何か外部の力が働いて強制的にそれを止めてしまいました。
その押しとどめられた感覚を百倍すれば、生死にかかわる体験によって喚起されたエネルギーの量に近いものになるでしょう。(p29)
膨大なエネルギーが渦巻いているのに、凍りつきによって停止してしまうというのは、あたかもセックスで絶頂に達しそうなときに中断してしまうかのようなものです。
もっと身近な例を挙げれば、くしゃみが出そうだったのに出なかったときのあの感覚や、怒り心頭に発して相手に今にも殴りかかりたいほどなのに、ぐっとこらえてこぶしを収めるときの感覚と似ているでしょう。
いずれの場合も、本能的な衝動の、爆発するようなエネルギーが渦巻いているのに、それをぐっと押さえ込み、中断します。身体は、行き場のないエネルギーを抱え込まされます。
危機的状況下の「闘争/逃走」モードになっているとき、「凍りつき」が起こってそれを中断してしまうというのは、こうした例の「その押しとどめられた感覚を百倍」にしたようなものです。
どれほど“すっきりしない”体験かがわかると思います。
さて、人間の場合もやはり、チーターから逃げて全速力で走るインパラのように、生命の危機を感じて闘争/逃走状態になることがあります。
もう逃げられないと感じたインパラのように、凍りついて、膨大なエネルギーを身体の中に閉じ込めてしまうこともありえます。
以前の記事で詳しく説明したとおり、子どものころに慢性的な逆境を経験した人たちは、そのような凍りつき状態、すなわち膨大なエネルギーを体内に閉じ込めた状態に陥っています。
子どもというのは、大人と違って、虐待されたり、逆境に直面したりして、たとえ逃げたい、闘いたいと思ってとしても、そうできないものです。
危害を加える大人に対して戦っても勝ち目はありませんし、生まれ育つ逆境的環境から自由に逃れることもできません。
そうすると、チーターに襲われて逃げ場がなくなったインパラと同じく、もはや闘争/逃走ではなく、凍りついて死んだかのようになることでしか、危機を乗り越えられなくなります。
すぐにでもその場から逃げ出したい、相手を打ちのめしたい、抵抗したい、といった強いエネルギーをぐったこらえて、自分の内側に閉じ込めるしかなくなります。
そして、子どものころからずっとそうした慢性的な逆境で育ったとしたらその生き方が染み付いて当たり前になります。ストレスにさらされたとき、闘ったり逃げたりして発散する代わりに、ぐっと我慢してやり過ごすようになります。
こうして、サックスが述べていたような「ひどく従順で受け身」「ストレスに無関心だったり、それらの存在を否定する」「明らかに感情が抑圧され」ているような傾向が生み出されます。
嫌なことに対して抵抗せず、「ノー」と言わず、周囲の期待に合わせ、ストレスを背負い込んでしまう人たちは、一見すると、おとなしく従順で平静に思えるかもしれません。
しかしそれは、凍りついたインパラと同じ状態なのです。「外見上インパラは身動きせず死んだように見えますが、内部ではインパラの神経系は今なお時速110キロのスピードで猛回転して」いると書かれていた状態と同じものです。
「凍りつき」とは、闘争/逃走のための動員した激しいエネルギーを中断して、内側に閉じ込めている状態でした。
身体の内部では、絶頂の寸前でセックスが中断されたり、くしゃみが出そうで出なかったり、殴りたくても殴れなかったりするときの、百倍をも越えるような、行き場のないエネルギーが渦巻いています。
それだけのエネルギーを常に抱え込んでいる状態は、今にも大地震を起こしそうなほどのひずみを抱えている地面と似ています。
一言でいえば、ずっとギリギリの過緊張状態にあります。身体にどれほど負担がかかるかは言うまでもないでしょう。
ラヴィーンは、この溜め込まれた行き場のないエネルギーは、身体の過緊張や消耗として現れ、慢性疲労や慢性疼痛など、さまざまな体調不良として自覚されると述べます。かのダーウィンも慢性疲労症候群でした。
この残余エネルギーはただ消えていくものではありません。
それは身体に残り、しばしば不安、うつ、心身症、問題行動など広範囲にわたる症状を作り出します。
これらの諸症状は、行き場のない未放出のエネルギーを何とか閉じ込める(あるいは囲い込み)ための有機体の対処法なのです。(p28)
危機的状況を脱することができず、中断された行き場のないエネルギーが身体の中に渦巻いたままになること、これこそが、「トラウマ」と呼ばれる現象の本質であるとラヴィーンは説明しています。
トラウマ症状は、その「引き金となる」事件そのものが引き起こすのではありません。
それは、未解決で未放出の凍りついた残余エネルギーから生じるのです。
この残余エネルギーは神経系統の中に閉じ込められており、私たちの心身を破壊することがあります。(p28)
それゆえに、ラヴィーンは自分の著書のタイトルに、身体に閉じ込められたトラウマという名前をつけました。
このような理由を考慮すれば、先だって身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法から引用した、次の説明にも納得がいくというものです。
明確な原因が見当たらない身体的症状は、トラウマを負った子供にも大人にも広く見られる。
腰や首筋の慢性的な痛み、線維筋痛症、偏頭痛、消化不良、痙攣性結腸/過敏性腸症候群、慢性疲労、喘息などが起こりうる。
トラウマを負った子供は、そうでない子供よりも、喘息を起こす率が50倍も高い。(p164)
これらトラウマ後の身体症状は、一見すると「明確な原因が見当たらない」ように思えるかもしれません。
しかし、それは「外見上インパラは身動きせず死んだように見え」たのと同じであり、凍りついた身体の内部に抱え込まれた、荒れ狂うエネルギーによるものです。
一般的に、世の中では「トラウマ」とは心の中の問題であるかのように見なされがちです。
しかしその実態は、闘争/逃走反応が中断されて凍りつき、膨大なエネルギーが体内で閉じ込められたままになる生物学的な現象なのです。
閉じ込められたエネルギーを放出する
では、身体に閉じ込められたまま、放出されないままになっている闘争/逃走反応の残余エネルギーがさまざまな身体症状の原因となっているのであれば、いかにしてそれを解消すればよいのか。
まず、もうお気づきと思いますが、ここまで考えてきた、さまざまなタイプの片頭痛やそれに類する発作の当事者は、定期的にこの残余エネルギーを放出しています。
何度も考えたように、周期的に起きる発作は、溜まったひずみのエネルギーが一挙に発散されて起こる地震のようなものです。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)に書かれていたように「片頭痛は患者のさまざまな心理的苦痛をまとめて患者の内部に閉じ込めておく役割を担っている」のであり、「あたかも一ヶ月の間に蓄積したストレスを数日間の発作症状にそっくり凝縮しているかのよう」なものです。
その周期は人によってまちまちですが、ストレスを受けてすぐさま発散するのではなく、しばらく一定量、内部に閉じ込めて凝縮し、一気に発作のかたちで放出しているというのは共通しています。
このような人たちは、子どものころから、ストレスを内部に閉じ込める凍りつき反応を無意識の習慣としてしまっているため、ひとたびエネルギーを発散しても、また徐々に貯め込むサイクルを繰り返します。
日常生活のなかで徐々ひずみを溜め込んでは、限界に達したときに(ときには何らかのトリガーに誘発されるかたちで)放出する、というサイクルを繰り返すために、周期的な頭痛や腹痛、発熱、喘息などの発作を繰り返すように見えるのです。
ですから、もしこの原因不明の身体症状を治療したいと思うなら、子どものときから染み付いてしまった、凍りつき反応の癖そのものを変えていかねばならないことがわかります。
では、身体の中に閉じ込められたエネルギーを、片頭痛などの発作の形ではなく、自分の意志で、好きなときに発散することは可能なのでしょうか。
もしも、何かしらの仕方で内部に溜め込まれたエネルギーを発散し、いわば空気抜きすることができれば、周期的な発作を食い止めることができるのでしょうか。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)には、とても興味深い事例が載せられています。
激しい肉体的な活動には、これから起こる発作を抑えるか、既に現れている発作を短くする働きがある。
日曜日に遅くまで眠っている多くの患者では、目覚めたときに片頭痛が現れるが、早起きして激しい肉体的な活動をすると発作が起こらないことがある。
私が担当していたある患者は筋骨たくましいイタリア人でたいへん気が短かったが、片頭痛発作が始まったときに家にいればセックスで、仕事中なら腕相撲で、あるいは仲間と酒を飲むことで終わらせることができることを知ったのである。
…ある患者にどうやって発作を終わらせるのか尋ねると、彼はこう言った。
「アドレナリンのせいで体が走り回るんです。走ったり、大声を出したり、喧嘩を始めたりすると、頭痛はなくなってしまいますよ」
さまざまな発作的な内臓活動によっても同じ結果になる。激しい嘔吐は古典的な例だが、他の方法も同じくらい効果的である。(p82)
こうした事例にあるように、理性のタガを外して本能的に生理的衝動を発散することで、片頭痛を起こしかねないエネルギーを発散して、発作をキャンセルすることができるようです。
激しく身体を動かす、セックスをする、酒を飲んで馬鹿騒ぎをする、大声を出したり、喧嘩を始めたりする、激しく嘔吐する、異常なほど激しくくしゃみをする。
方法はさまざまですが、いずれも神経系に閉じ込め、抑圧していたエネルギーを解き放つ行為でしょう。
サックスは、片頭痛は、これらエネルギーを発散する本能的行為に類似した現象である、というリヴィングの見解を参照しています。
リヴィングは、片頭痛は神経系における緊張の蓄積が突然終わったことによる神経の消費運動のようなものであり、くしゃみ、大量の摂食、オーガズムに比肩すると考えた。(p339)
「くしゃみ、大量の摂食、オーガズム」と片頭痛は似た役割を持っており、どちらも内部に溜め込まれたエネルギーを放出します。
ということは、もしこうした生理的衝動に身を委ねることができれば、片頭痛に頼らなくてもよくなる、ということです。(ということは、大量に食べて吐くことを繰り返すような摂食障害のメカニズムもここと関係していそうです)
しかしながら、わたしもそうですが、周期的な片頭痛などを抱えている人にとって、こうした本能的また衝動的な行為は、どれをとっても、とても苦手なものではないでしょうか。
真に自己抑制が強く、周囲に過剰同調してしまうような人は、理性のタガを外して、ただ本能的に振る舞おうとしても、どうやってもうまくできないものです。
サックスは、習慣的な片頭痛について、『患者の大多数では、間断なく続く片頭痛発作の要因は、…さまざまな暗い情動的な「金縛り」にある』と述べます。(p312)
サックスの話に出てきた筋骨たくましいイタリア人のように振る舞ってエネルギーを発散しようとしても、金縛りに遭ったかのように「凍りついて」しまうでしょう。
常に自己を監視し続けていて、おそらく今までの人生で一度も奔放に振る舞ったことがないからです。
たとえばくしゃみやあくびや食欲のような生理的衝動でさえ、人目を気にして意識的にも無意識的にも抑制してきたかもしれません。
以前にまとめたように、凍りつき(解離)や、それに伴う原因不明の体調不良は、傾向としては男性より女性に多いことがわかっています。(ただし群発頭痛は男性のほうが多い)
考えてみれば、女性は男性に比べて、生理的衝動を抑制し、
人前であくびをしたりお腹が鳴ったりすると恥ずかしいとか、
さらに、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、とりわけトラウマ当事者の場合、自分の内側に閉じ込められた膨大なエネルギーへの恐怖にがんじがらめにされ、凍りつき状態から抜け出せなくなると書かれています。
トラウマを受けた人は、不動状態から抜け出ようとするたびに繰り返し自分自身に怯えることになる。「恐怖で増強された不動状態」は自己の内側で維持されるのである。(p82)
自己監視と自己抑制をすることが骨の髄にまで身に染み付いてしまい、どうやってもストレスをうまく発散することができないループにはまり込んでしまっている人の場合、行き場のないエネルギーはどうなるか。
当然、限界を迎えるたびに暴発するしかありません。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)で書かれていたように、そのような場合に、当人に代わって溜め込まれたエネルギーを定期的に発散する生物学的システムが、片頭痛などの周期性発作なのではないか、ということです。
片頭痛の最も重要な付随的原因…は強い感情的な欲求やストレスであるが、直接の表現手段や解決策がないことから、片頭痛の発作を繰り返し起こさせるのである。(p232)
このような人の場合、内部に溜め込まれたエネルギーを自分で発散しようとしても、その方法がわからないので、誰かから、そのやり方を手引きして教えてもらわねばなりません。
たとえば、フロイト以来、トラウマの治療者の中には、トラウマとなった状況を再体験させ、闘争/逃走のエネルギーを急激に発散させる「カタルシス」と呼ばれる療法を用いて、凍りつきを治療しようとする人たちがいます。
しかし、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで書いているように、近年のトラウマ研究では、このような興奮を伴う急激なエネルギーの発散は、再トラウマ被害を生み、逆効果をもたらすことがわかってきています。
このようなトラウマ・セラピーはレイプや、自然災害、およびシャロンが経験した9.11世界貿易センタービル事件のような恐ろしい「危機的事象」の後に、現在でも用いられている。
最近の研究では、このようなトラウマ・セラピーは多くの場合ほとんど有効ではないだけでなく、再トラウマ被害を引き起こすと言われている。
さまざまなトラウマ・セラピーの落とし穴の1つは、情動の強烈な除反応をともなうトラウマ的記憶の再体験を重視してきたことだ。
曝露を基本としたこれらのセラピーでは、痛ましいトラウマ的記憶を掘り返し、記憶に結びついた情動、特に不安や恐怖、怒りや悲嘆といった情動の除反応ができるようにクライアントは促される。
このようなカタルシス的アプローチは、虚脱や無力感の感覚を強化することが多く、十分なものとはいえない。(p220)
国内でもいまだに、このようなカタルシス的アプローチとして、曝露療法(エクスポージャー療法)が用いられているため、治療を受けるときは注意が必要です。
危険なカタルシス的アプローチに代わる、もっと安全な手法として近年研究されているのは、ラヴィーンが開発したソマティック・エクスペリエンシング(SE)や、パット・オグデンが開発したセンサリーモーター・サイコセラピー(SP)などの、神経生理学的な手法です。
こちらは、曝露療法とは違って、少しずつ自分の身体の感覚に注意を向け、身体に閉じ込められたエネルギーに気づき、自分が何を中断し、抑圧していたかを発見し、未完了の闘争/逃走反応を完了させていく、というアプローチをとります。
ずっと凍りつき状態に陥っている人は、途中でセックスやくしゃみや怒りを中断してしまったときと同じように、闘争/逃走のための強い生理的衝動を無意識のうちに中断し、膨大なエネルギーを身体に閉じ込めたままになっています。
サックスの話に出てきた筋骨たくましいイタリア人は、まさにそうした行為を自ら完了させることによって、内部に閉じ込められたエネルギーを発散し、片頭痛の発作を防いでいたのではないでしょうか。
共通しているのは、生理的衝動を抑圧せず、身体がそうしたいと感じるままに行動させることで、内側に溜め込まれたエネルギーを発散しているということです。
片頭痛の当事者のほとんど、あるいは幼少期のトラウマ的経験のために日常的に凍りついてしまっている人たちは、身体が何をしたいと感じているかを認識できず、身体の声を聞けません。
身体が本能的にそうしたいと願っていることを適切にくみ取ることができず、ただひたすら生理的な衝動を抑圧したり、身体がそうしたいとは思っていないことを無理やりさせている状態にあります。
ソマティック・エクスペリエンシングのようなセラピーでは、身体が今この瞬間に、いったい何をしたがっているのか、じっくり観察し、その生理的衝動を、穏やかなかたちで実践するよう、繰り返し訓練されます。
これまでずっと、子どものころから生理的衝動を無意識のうちに抑制し、中断して内側に溜め込んでしまっていたのを、自己観察のトレーニングを通して、自然なかたちで完了させられるように身体に覚えさせていくのです。
それはつまり、幼少期から染みついた凍りつきの癖を修正する、ということです。
以前の記事で書きましたが、自然界の動物の場合は、捕食動物に襲われるなどして凍りつき状態になっても、ぶるぶると身震いするような反応によってエネルギーを放出し、凍りつきから復帰することが観察されています。
そして、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、効果的なトラウマセラピーでは、そのような反応とともに、トラウマから回復していくこともわかっています。
中央アフリカのマラウィにあるムズズ環境センター所属の生物学者アンドリュー・ブァナリに、私自身のことや何千人ものクライアントがセラピーのセッション中トラウマから回復するときに自発的にブルブル震え、おののき、呼吸をするのだとかつて話したことがある。
アンドリューは興奮気味に頷き、そして急に大声で「そう……そう……そうです! まさしくその通りです。
捕獲した動物たちを野生環境に戻す前に、私たちは動物たちが今あなたがまさに言った通りのことをやり終えたかどうか確認するようにしているのです」と言った。
彼は地面を見つめ、そしておだやかな口調でこう付け加えた。
「もし解放される前に震えたりそんなふうに(深い自発的な)呼吸をしなかったら、その動物はおそらく野生環境で生き延びることはできないでしょう……死んでしまうでしょうね」(p19)
動物にはもともと、身体に閉じ込められたエネルギーを発散するための生理的カタルシスの機能が備わっていて、それはわたしたちヒトも例外ではないのです。セラピーの目的は、この自然な能力を活性化させることです。
ストレスを感じたときに無意識のうちに凍りついて、エネルギーを内側に閉じ込めてしまうという癖が修正され、適切にエネルギーを発散できるようになれば、ひずみがたまらないので、身体の過緊張が和らぎ、大地震のような発作も起こらなくなっていくでしょう。
ソマティック・エクスペリエンシングの具体的内容については、以前の記事で書いたので詳しくはそちらに譲ります。
薬物療法はどうか
では、一般的に片頭痛発作などの治療法として、もっと広く用いられている薬物療法はどうでしょうか。
いま考えたセラピー的なトレーニングに比べると、薬物療法は、手っ取り早く、とても楽に感じられます。
オリヴァー・サックスも、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の中で、さまざまな薬物療法の効果について詳しく考察しています。薬物療法に一定の効果があるのは疑いようのない事実です。
しかし、ここまで考えてきたように、身体に染みついた凍りつきの習慣が問題の根であるなら、薬物療法が本質的な解決をもたらさない対処療法にすぎないこともまた明らかです。
現に薬物療法では、周期的に起こる重い発作の苦痛を軽減することはできますが、そのような発作を起こす原因そのものを根治させることはできません。
何より、サックスは、知の逆転 (NHK出版新書)のインタビューで片頭痛の薬物療法がもたらす、とても考えさせられる「副作用」について書いています。
私の患者に若い数学者がいまして、彼には一週間に一度偏頭痛が起きたのです。
月曜日と火曜日はたいへん創造的な仕事ができるのですが、水曜日になると少し頭痛が始まる。それからどんどん悪くなっていって、週末には吐き気や頭痛の発作におそわれ、わずかの光さえ耐えがたくなる。
でも発作がおさまると、心気一新、一種の蘇生が起こって、また新たな創造力が湧いてくるのです。(p138)
この数学者は、週に一回の頻度で、片頭痛発作を繰り返していました。では彼を薬で治療するとどうなったのか。
ところが偏頭痛薬を服用したら、創造力のほうが枯れてしまった。
ですから、明らかに、その個人の全体としての損得を計算する必要があります。
彼にとっての偏頭痛の役割は何かというのを考えなければならない。
全ての偏頭痛患者がそうだというわけではありませんが、彼の場合はそうだったのです。(p138)
なんと、薬で偏頭痛を「治療」すると、「副作用」として数学者としての創造力までもが枯れてしまったのです。(この数学者についてはサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)のp81でも記されている)
ピーター・ラヴィーンもまたこのエピソードに注目し、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、次のように書いています。
サックスは、この患者の偏頭痛症状を軽減させるために薬を使うと、彼の創造性の元も遮断されてしまうことに気づきました。
サックス博士はこう嘆いています。
「私が彼の偏頭痛を「治す」とき、私は彼の数学も一緒に「治して」しまうのである…。彼の病気と一緒に、創造性も消えてしまうのだ」。(p46-47)
どうしてこんなことが起こるのか。それは、ここまで考えてきた周期的な発作の役割からわかります。
片頭痛をはじめとする周期的な発作とは、身体の内部に閉じ込められたひずみのエネルギーを自然発散する、いわば自浄作用のようなものでした。
先ほど曝露的なカタルシス療法の問題点について書きましたが、ラヴィーンが続けて説明するように、片頭痛などの発作は、もっと自然で害のない「生理的カタルシス」です。
サックスは、この患者が偏頭痛発作の後、軽い発汗や大量の排尿を起こすと述べ、これを「生理的カタルシス」と呼んでいます。
こうした反応は、彼が薬物療法を受けているときには起こりませんでした。
同じようにトラウマが解決し癒やされるときにはしばしば玉のような温かい汗がともないます。
恐怖の悪寒を通り抜け、高まる興奮と湿っぽいちくちくした温かさへとたどり着くとき、身体はその先天的な癒しの力で、深く凍りついたトラウマという氷山を溶かすのです。(p47)
発作は「生理的カタルシス」あるいは身体に備わる「先天的な癒しの力」の表れであるがゆえ、発作のあとは、かえって気分がよくなる人もいます。
たとえば発熱型の片頭痛についても、先ほど引用した文章にこのような説明がありました。
熱が収まると「浄化された」気分になり、とくに調子が良く頭もすっきりした感じがする。(p95)
これは、わたしの体験と実によく似ていて、わたしも周期的な発熱に悩まされていたころ、40℃の発熱や全身の激痛という苦しい発作が起こったあと、一週間くらいはかえって調子がよくなり、「浄化された」気分になりました。
周期的な発作は、頭痛であれ、腹痛であれ、発熱であれ、どれも確かに苦しいものです。
しかし、それは数週間ないしは数ヶ月にわたり溜め込まれたエネルギーが発散されるということなので、身体は過緊張の凍りつき状態から解放され、少なくとも一時的にはリラックスと平穏を感じられるでしょう。
サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)に書かれている次の観察は、片頭痛やそれに類する発作が、決して病的で悪いものではなく、生理的な自浄作用である、というこの考え方を裏付けています。
この例として、片頭痛はひどく不快だが一過性で自己限定的であることが多く、病気のプロトタイプのようなものだ。
死や重い損傷を引き起こすことがなく、組織損傷や外傷や感染と関係がないという意味で良性である。(p155)
私は1200人以上の片頭痛患者を問診し、検査してきたが、片頭痛が残した慢性的な障害を患う人はひとりとしていなかった。
患者をさまざまな形で苦しめはするが、片頭痛は基本的に良性で可塑的な疾患であり、すべての患者にそのことを知ってもらうことがたいへん重要なのであった。(p219)
周期性な発作は、「患者をさまざまな形で苦しめは」しますが、それそのものは良性なのです。
サックスは、片頭痛を都市の城壁に例え、次のように書いています。
片頭痛は患者の個性に対抗して、ある程度の便宜と安全を提供する一方で、患者がのびのびと自由に行動することを妨害するのである。
それは都市を囲む城壁がもつ二面性と同じだ。
片頭痛患者にみられるこうした病状は、グロデックの言葉によれば、患者にとっては友でもあり敵でもあるわけで、まったく新しい選択肢が提供されることによってのみ消し去ることができるのである。(p429)
片頭痛は確かに不自由であり、苦しみも伴いますが、当人を保護する役割を担っているという点で、都市の城壁のようなものであり、敵であると同時に友でもあります。
これは解離についてアブラム・カーディナーが述べていたこととも一致しています。解離は保護なので、それを取り除くことが本当に治療と言えるのか、という観点です。
精神医学でも、解離は病気ではなく、脳を保護するための防衛機制である、とみなされてきました。
確かに、重大なトラウマを経験した人たちは、さまざまな解離症状を抱えるようになります。解離を抱える人は、確かにさまざまな苦しい症状に悩まされます。
しかし、もしも解離という保護を取り去ってしまったら、さらに悪い状態に陥ります。精神が破綻し、もはや自我を保つことさえできなくなってしまうかもしれません。
解離は船を浸水から守る水密区画化にも例えられます。恐ろしいトラウマの記憶を隔離して、思い出せないようにすることで、少しでも平穏な日常生活を続けられるように保護しているのです。
たとえ解離性同一症(いわゆる多重人格)ほど厄介な症状であっても、それは破壊的な病気ではなく、圧倒的なトラウマから脳を保護するために生じている防衛機制です。
解離、あるいは凍りつきという生物学的現象は、たとえ苦しい症状をもたらすとしても、本質的には保護として働いています。
どちらも、当人にとっては楽なものではありませんが、実のところ強烈なエネルギーを隔離して心身を保護する防御機構として機能しているものであり、安易に取り去ってよいわけではありません。
人体には、発熱や出産時の痛みなど、たとえ強烈な苦痛を伴うとしても、病的なものではない生理的な作用がいくつかありますが、解離や片頭痛の苦しみもそれに近いものなのでしょう。
そうした人体の自然な作用を、やむなき場合はともかくとして、ただ単に苦しいから、痛いから、という理由で、薬によって取り除いてしまうのは、本当に望ましいことなのか疑問です。
(以前の記事で書きましたが、たとえば無痛分娩や帝王切開には母子双方にリスクがあるらしいことが近年明らかになってきています)
周期的な片頭痛やそれに類する発作は、たとえ痛みや苦痛を伴うとしても、人体に害をなすものではなく、むしろ人体を害から守っているのではないか、と思えます。
サックスは、この本の中で、神経学者マクドナルド・クリッチレーの次のような観察を引用しています。
はたして片頭痛患者は多かれ少なかれ、消化性潰瘍、心臓疾患、慢性関節リウマチ、あるいは大腸炎を起こしやすいのだろうか?
わたしが臨床で得た印象では、ある種の消極的なつながりがあるようだ。
つまり、一生続く片頭痛は、その他のストレス性の障害が結果として進展するのを防いでいるように思えるのだ。(p244)
片頭痛はかえって、「その他のストレス性の障害が結果として進展するのを防いでいる」。そんなことがありうるのでしょうか。
サックス自身はこの見方に慎重ですが、わたしは十分ありうるのではないかと思います。
小児期トラウマの後遺症としては、片頭痛や喘息などの発作のほか、心疾患や自己免疫疾患などの、より重篤なものもあります。クリッチレーが述べていた「消化性潰瘍、心臓疾患、慢性関節リウマチ、あるいは大腸炎」も含まれます。
しかし、同じように小児期トラウマを抱えていても、深刻な病気で夭逝する人もいれば、長生きする人もいます。
たとえば、オリヴァー・サックスは、前述のように、小児期トラウマの当事者であり、子ども時代に戦争の疎開体験などから、かなり深刻なトラウマを負っていたように思えます。
彼の自伝を読めば、少年時代にさまざまな解離症状を経験していたことがわかります。明らかに、彼はトラウマによる「凍りつき」を抱えていました。
しかしサックスは、80歳を越えるまでに長生きし、生涯の大半を、比較的健康に過ごすことができました。
その理由は、もしかすると、彼が片頭痛もちであり、周期的に身体に閉じ込められたエネルギーを発散できていたからなのでしょうか。
クリッチレーが言うように、「一生続く片頭痛は、その他のストレス性の障害が結果として進展するのを防いで」くれるので、片頭痛のおかげで、トラウマ当事者に多い自己免疫疾患のような深刻な大病にならずに済んだのでしょうか。
本当のところどうだったのかは知るよしもありませんが、確かなのは、凍りつきの一種である片頭痛は、内側に溜め込まれたエネルギーを適度に放出する「生理的カタルシス」の役割を担っている、良性の作用である、ということです。
そうだとしたら、それを無理に抑制するような薬物療法は、あくまで補助的な使用にとどめるのがよさそうです。
「自然に対して差し出がましいことをしない医療」
片頭痛の患者を1200人以上も診た医師であり、自らも小児期トラウマと片頭痛を抱える当事者であったサックスは、多種多様な治療法を調べたあと、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)の最後のほうで、次のように書きました。
時代、そして土地が変わると、異なる空気が流れるのが医学界である。
私たちは現在、片頭痛患者についてやれ注射だやれ手術だと大騒ぎしているが、もしリヴィングやヴィクトリア朝時代の医師たちがそれを聞いたら驚愕するに違いない。
逆説的なことに、現在のこの種の騒ぎこそ片頭痛を悪化させるのであり、非常に強力で休むことのない「治療」そのものが、助けを求める患者を改善させるどころか悪化させてしまうのである。(p456)
サックスは、さまざまな治療法を検討した末に、かえって治療そのものが、片頭痛を悪化させてしまう場合があることに気づきました。
そして、本来あるべき医療について、次のように続けます。
私が見学した最良の片頭痛の専門外来では、患者は不要な動作や言葉なしに、暗くした治療室に連れていかれ、横になって休みながらポット入りの紅茶とアスピリンを何錠か与えられていた。
このような簡単でしかも自然な治療の効果は、症状がきわめて重い典型的な発作を患う患者の場合でも、他の診療所で見たものよりもはるかに印象的であった。
そして、患者や発作の大多数にとっての解答は、威力のある薬剤や攻撃的な医療の中にあるのではなく、苦痛と自然に対する鋭敏な感性の中にあるということを確信して、私は帰路についたのであった。
それは、自然自体の治癒力(vis medivantrix naturae)についての深い感性であり、自然を愛して、自然に対して差し出がましいことをしない医療である。(p456)
サックスが、片頭痛について飽くなき執念をもって調べた末にたどりついた結論、それは「自然を愛して、自然に対して差し出がましいことをしない医療」でした。
近年考案されたソマティック・エクスペリエンシングなどのトラウマ療法も、「自然自体の治癒力(vis medivantrix naturae)についての深い感性」を養うという点で、本質的にはよく似ていると思います。
サックスは、この本の中で、片頭痛の治療法のひとつとして、機械を用いて気づきを深め、自己コントロール能力を育む生体バイオフィードバック療法に期待を寄せています。(p472)
精神科医ノーマン・ドイジは、脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫るで、こうしたフィードバック療法を機械によらず行なっているのが、ボディワーク形式のセラピー(ソマティック・エクスペリエンシングなども含まれる)だと述べていました。(p543)
心と身体をつなぐトラウマ・セラピーに書かれているように、このような治療法は、薬や手術などの差し出がましいことをするのではなく、ただ身体の自然な治癒力を引き出すことを目的としています。
トラウマを病(disease)とみなすとき、サックス博士の偏頭痛患者のケースのように、薬は頻繁にこの自然で創造的なプロセスを抑え込むために使われてきました。
回復反応が薬で抑え込まれていても、恐怖の中に閉じ込められていても、あるいは純粋に意志の力でコントロールされていても、そのとき生来の自己調整能力は横道にそれています。(p49)
症状を抑えるために薬を使ったり、適応やコントロールを強調しすぎたり、感情や感覚を否定したりなかったりしたことにすると、創造的な癒やしのプロセスが遮断されてしまいかねないのです。(p47)
わたしの場合、長年、自分の症状をコントロールしようと薬物療法などを模索していましたが、限界を感じました。
結局のところ、ストレスの少ない環境づくりと、自分の生理的な感覚に対する気づきを深め、自然な流れに逆らわない生き方を身につけることが一番効果があるように思いました。サックスの結論と同じといっていいと思います。
一番体調が悪いときは、1ヶ月半に一度くらいの頻度で高熱の発作を起こし、そのたびに意識を失ったり激痛にさいなまれたりしていましたが、この方針に切り替えてからは、発熱の頻度は減り、前兆としての幻覚も出にくくなりました。
サックスの指摘どおり、「あたかも一ヶ月の間に蓄積したストレスを数日間の発作症状にそっくり凝縮しているかのよう」だったのでしょう。
症状を軽減するには、発作そのものを抑えようとするのではなく、日々蓄積されるストレス減らす環境調整と、蓄積されたひずみを少しずつ放出できるように訓練する治療の二通りの方針が有効だということに行き着きました。
わたしは、子どものときから長年、この周期的な発熱発作や幻覚などに悩まされていたので、その理由をずっと探っていましたが、医師やネット上の情報はまったく頼りになりませんでした。
ブログを書き始め、自分で調べるようになってから、自分の症状のパターンが解離と関係していそうだ、というところまでは早い時点でたどり着いていました。
後にヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンによるトラウマの凍りつきの研究を学んだことで、少しずつ理解が深まり、手がかりが増えてきました。
そして、去年、今まで自分には無関係だと思って後回しにしていたサックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)を読んだことで、散らばっていた手がかりがようやくひとつにまとまり、自分が長年何に苦しんでいたのかを、やっと把握することができました。
今の時代は、一見すると、科学や医学は急激に進歩しているかに思えます。知りたい情報は、インターネットを調べたり、専門家に聞いたりすれば、なんでもわかりそうに思えます。しかし、そんなことはありませんでした。
サックスは、この本の中で、科学や医学における「知識と技術の真の進歩が、全体的な理解の喪失」を生んでいることを嘆いています。(p44)
2015年に亡くなる直前に書いた最後の著書意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源の中でも、学問領域が「いつの間にか寸断されて、もはや全体としては見られ」なくなり、「知識が見失われ、いちどはっきり認められたように思われた見識が忘れられ、あまり鋭くない説明に退歩することもある」と述べていました。(p196,206)
今や本屋にずらりと並ぶ片頭痛の最新書籍や製薬会社のパンフレットより、1970年に書かれたサックスの最初の著書サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)のほうが、(のちに増補改訂されているとはいえ)、これほど示唆に富む内容だとは、どうして想像できたでしょうか。
この本のあとがきでは、共訳者の医師が、日本の患者はこの本の症例より軽く、文化の違いが見られる、というようなことを述べていましたが、わたしはそれに異議を唱えたいと感じます。(p556)
わたしも含め、この本の事例に当てはまる人はもっといるのに、医者が患者との十分な信頼関係を築けず、まともに意思疎通できていないせいで、いまだ実態がわかっていないだけではないでしょうか。
サックスはこの本で何度も患者との深いやり取りの重要性を説いています。
医師は患者に対して支配的であっても独善的であってもならない。
また、「私が一番よく知っている」と専門家気取りであってもいけないのだ。
患者の訴えに耳を傾け、言外のことを聞き取らなければならないし、患者が口には出さない望みが何なのかを把握しなければならない。
患者の基質や生活のパターンを直視して対話し、患者がかかえる病気、片頭痛が何を「言っているのか」に耳を傾けなければならない。
そのようにして初めて、治療への道筋が見えてくるのである。(p457、そのほかp21,453-454も参照)
文化の違いなどいう方便で片づける前に、まず医者自身のコミュニケーション能力を磨くべきではないかと思います。そうでないと、片頭痛や凍りつきのような現象の本質はいつまで経っても解明されないままでしょう。
この記事では、この本の内容をかなり参考にしましたが、興味深いところをすべて網羅できたわけではありません。わたしの今の読解力では理解しきれていないところも多々あります。
視覚性幻覚をカオス理論から説明していく部分など、ほかにも興味深いところはたくさんありますし、この記事では割愛した薬物療法や前兆などの解説も非常に詳しいです。興味をもった方にはぜひ読んでみてほしい本です。
オリヴァー・サックスと、彼が尊敬したチャールズ・ダーウィン、そして、サックスの片頭痛の考察を参考に、凍りつき反応について研究したピーター・ラヴィーン。
今日の医学でもほとんど顧みられることがないわたしの症状について、先駆的な洞察を積み重ねてくれた、これらの研究者たちには感謝の思いが絶えません。
補足 : 「記念日片頭痛」と周期性のトラウマ発作
謎の周期性をもってくり返す発作は、何らかのトラウマと関係している場合があります。
本文中で引用したとおり、サックス博士の片頭痛大全 (ハヤカワ文庫NF)には、そのような「記念日片頭痛」があることが書かれていました。
超自然的な周期性はまた、記念日神経症に似た「記念日片頭痛」の特徴でもある。
このような片頭痛を例示するものに、ある修道女が私に、毎年聖金曜日にきまって典型的片頭痛を起こすのだと打ち明けたことがある。
…個人的な記念日、結婚記念日、悲惨な出来事のトラウマなどが、きわめて周期性の高い片頭痛発作、あるいは他の機能的疾患の誘引となることもよくあることだ。(p263)
また、群発頭痛においても、1年周期で繰り返されていた症状の事例が記されています。
群発頭痛を周期性片頭痛のひとつのタイプと考えるたびに、群発頭痛全体(片頭痛性神経痛の百もの発作)を恐ろしいくらい巨大なひとつの片頭痛発作と考えることにしよう。
群発頭痛の間隔は通常型あるいは典型的片頭痛の間隔よりもはるかに長い。平均的な間隔は一年だが、三ヶ月から五年までの幅がある。
付け加えれば、群発頭痛の中には、日付までぴったりの一年間隔で起こることもある。
ときには馬鹿げたほどの間隔パターンもある。次の症例は、私がたった一度目にした通常型片頭痛の周期的な群発頭痛である。
症例52 55歳の穏やかな性格の男性。19年にわたって、一年に一度通常型片頭痛に「包囲」される。四週間から六週間の間、きわめて重い上にかなり長く続く(12時間から20時間)発作がほぼ毎日起こるために、ほとんどなにも手につかなくなる。(p260)
このような、1年間隔の周期で発作を繰り返す例は、トラウマの凍りつき反応でもしばしば見られます。
たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際には、次のような例がありました。
20代前半の頃、家への侵入者によって性的暴行を受けたジェニーは、その後25年間、トラウマを受けたのと同じ日は、一晩中眠ることができませんでした。(p349)
この女性は、毎年同じ日にトラウマ症状がフラッシュバックするのを経験しました。
そこで、セラピーを通して、この記事で考えたように、未完了のまま中断されていた行動を完了させることで、症状を治療することができました。
ジェニーとセラピストは、トラウマを受けたのと同じ日にセラピーの予約をするようにして、活性化した行動傾向を探索することにしました。
…セラピストはジェニーの身体が実行したかったあらゆる行動に気づくようにと伝えました。
彼女は、自分が加害者をどれほど押しのけたかったかを、感じることができたと報告しました。
そして、彼女は立ち上がり、残りのセッションの間中、壁に向かって押していました。
…ジェニーは「私は脅威に取り組みました。そしてそれは終わったの」という言葉を残してセラピールームを去りました。
そしてその夜、暴行がおきた時間帯がきても、彼女は平和に眠ることができました。(p350)
彼女の周期的なトラウマ症状は、「今年もまたあの日がやってくる」という意識的な自覚がトリガーとなって引き起こされていたのでしょうか? それとも、身体が無意識のうちに、周期を記憶していたのでしょうか?
このエピソードだけでは どちらであるかは言えませんが、確かなのは、身体の中に閉じ込められたままになっていた未完了の凍りついたエネルギーが、毎年同じ日に彼女を苦しめていたことであり、それを発散することができれば、もう症状は出なくなったのです。
次に、考えるのは、探検家デイヴィッド・リヴィングストンの例です。リビングストンは、アフリカの平原でライオンに出くわしたとき、すんでのところで殺されそうになりました。
別の記事で書いたように、そのときリヴィングストンは、「猫に襲われたハツカネズミさながらの無感覚状態に陥った」、つまり、受動的な凍りつき反応を起こし、死んだような麻痺状態になることで、命からがら生き延びたようです。
しかし、リヴィングストンは窮地を生き延びたとはいえ、のちのち記念日トラウマの症状を抱えるようになりました。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこうあります。
リビングストンとレッドサイドは、捕食者である大型ネコ科動物との不快な出会いに驚くほど影響を受けずに済んだように見えた。
しかしリビングストンは以降亡くなるまで、毎年その事件の記念日になると肩に炎症性反応を発症していた。
残念なことに、多くのトラウマ被害者にとっては、このような解離反応もしくは「からだの記憶」はささいなものでも一過性のものでもない。(p65)
リヴィングストンは、生命の危機を経験したあと、死ぬまで毎年その同じ日に、肩の痛みが再現されることに気づきました。これは、いわゆる「身体性フラッシュバック」であったと考えられます。
ライオンに襲われた肉体の傷そのものは治っていたはずです。後遺症はありませんでした。しかしトラウマの「からだの記憶」は残っていました。
毎年同じ日になると、脅威に関する身体的な記憶がにわかに活性化され、当時と同じ痛みを幻覚的に再現していたのでしょう。
ラヴィーンは『多くのトラウマ被害者にとっては、このような解離反応もしくは「からだの記憶」はささいなものでも一過性のものでもない』と述べていますが、これはトラウマ当事者にはありふれたものです。
続いて考えたいのは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーに出てくる、毎年7月5日の午前6時半に強盗を繰り返していた男性の特異な例です。
外傷後ストレス研究に大きく貢献した医学博士、ベッセル・ヴァンデアコルクは、一人の帰還兵について述べていますが、それは、トラウマ解決の中で起こる危険で反復的な再現の一部を鮮やかに示すものです。
1980年代後半の7月5日、ある男が朝の6時半にコンビニエンスストアに入りました。ポケットの中で指を握り、銃を持っているふりをして、彼はレジの金を寄こすようレジ係に要求しました。
小銭を約5ドル分受け取ったところで男は車に戻り、警察が来るまでそこにとどまっていました。
警察が到着すると、その若者は車を降り、手をポケットに突っ込んだまま、自分は銃を持っているので誰も近づくなと告げました。さいわいにも彼は撃たれることなく逮捕されました。
警察署で男の記録を調べた警官は、彼が過去15年間に他にも6回のいわゆる「武装強盗」を働いていることを発見しました―それはすべて7月5日の午後6時半に起きていたのです。(p206)
過去15年間に6回も、すべて7月5日の午後6時半に強盗を働く。
明らかに普通ではありません。事態の深刻さに気づいた警官は、彼をトラウマ専門医ベッセル・ヴァン・デア・コークに紹介します。
ヴァンデアコルクは男に率直に尋ねました。「7月5日の朝6時半に何が起こったのですか?」
彼も率直に答えました。ベトナムにいたとき、男の小隊はベトコンの奇襲攻撃を受け、彼と彼の友人ジムを除く全員が殺されました。その日は7月4日でした。
日が暮れたため、友軍のヘリコプターは彼らを救出することができませんでした。
…午前3時半頃、ジムはベトコンの銃弾を胸に受けました。彼は友の腕の中で7月5日の午前6時半に息を引き取りました。(p206)
毎年7月5日の午前6時半に繰り返される強盗事件は、過去の恐ろしいトラウマの記憶に誘発された、周期的なフラッシュバックだったのです。
驚くべきことに、この男性は、ヴァン・デア・コークとのセラピーを受けるまで、そのことに気づいていませんでした。
しかし、「自分を強迫に駆り立てる上でベトナムの事件が果たしていた役割に気づくやいなや、男はこの悲劇的な事件を繰り返すのをやめました」。(p206)
この男性は、自ら意識的に記念日を選んで強盗を繰り返していたわけではありませんでした。毎年その日が来るたびに、謎の衝動と行き場のないエネルギーに駆り立てられ、狂気の行動を繰り返さざるを得なかったのです。
続く文脈で書かれているように、記念日に繰り返されるトラウマ症状や神経の異常な高ぶりは、決して珍しいものではありません。
しかし、第三者から見ればそれはトラウマの再現だとはっきりわかるとしても、当の本人は、理由がわからないまま、フラッシュバックや発作を起こしていることが多いのです。
さらに注目に値するのは、第三者にはこうした事件とそれに続く再現が明らかに元のトラウマと関係しているのが分かっても、トラウマを受けた当の本人はふつうその結びつきにまったく気づかないことです。
多くの場合、再現は偶然に起こる無意識的な合図に符号して起こるのではなく、トラウマ的事件の記念日に起こります。
本人がたとえその事件を意識的には覚えていないときでさえ、驚くことに一致する場合があるのです。(p210)
もちろん、トラウマとなった日付を数日前から意識してしまい、そのせいで症状が引き起こされている場合もあるでしょう。
けれども、それだけで、毎年同じ日に周期的に起こるフラッシュバックを説明することはできません。
たとえ本人の意識的な記憶が記念日を覚えていないとしても、無意識の身体はその日を記憶していて、タイマーをセットしたかのように症状を噴出させるのです。
これとよく似ているのが、睡眠医学で知られている「自己覚醒 」(self-awakening)、または「予定された睡眠終結」(anticipated sleep termination)と知られている現象です。
経験したことのある人もいるかもしれませんが、「◯時に起きたい」、と強く意識して眠りにつくと、目覚まし時計をセットしていなくても、その時間きっかりに起きることができるという現象、これが自己覚醒です。
これはたまたま起きられたにすぎないのか。いいえ、近年の研究によると、無意識下で働くタイマーのような機能が人体に存在していることがわかってきたそうです。
起きたい時間に目が覚める不思議なチカラ|ナショジオ|NIKKEI STYLE
仮にこの研究結果が正しいとすれば、体内時計(24時間時計)とは異なる別の強力な時計(タイマー型もしくは砂時計型とも言う)が我々の体内に存在していることを意味している。
この研究の場合は、概日リズムと関連しているような短い周期のタイマーだと思われます。
しかし、ヒトに概月時計、概潮汐時計、概年時計など、いまだ未解明の機能も備わっていることはほぼ確実なので、もっと長期的なタイマーもありそうです。
ちょうど、寝る前に時間を意識すれば、その後は眠っていても無意識下のタイマーが勝手に時を刻み、特定の時間に起きられるようホルモン分泌パターンを整えてくれるのと同じことが、記念日の片頭痛やトラウマ症状では起こっている可能性があります。
つまり、トラウマという衝撃的体験を経験すると、その後はたとえ意識していなくても、無意識下のタイマーがセットされ、毎年(あるいは毎週、毎月など)その時期が来るたびに、勝手にホルモン分泌パターンや自律神経系の反応が変化し、決まった日付に合わせて活性化してしまうのです。
このようなタイマーが存在するとすれば、この記事で考えたような周期的な発作は、単なる思い込みでも気のせいでもないことがわかります。
先に引用したように、サックスは周期的な片頭痛発作には、さまざまな外的リズムと内的リズムが関与していると考えていました。
私たちは周期性片頭痛を、神経システムの先天的な周期的プロセスの表現であるとみなしてきた。
ところが実際には、先天的な神経的周期性を他の(身体的あるいは情緒的な)内的サイクル、あるいはまだ発見されていない外的サイクルと区別することは非常に難しいのである。(p262-263)
記念日片頭痛や特定の周期で起こるトラウマ反応の背後にあるのは、単に特定の日付や周期を意識してしまうせいで、定期的に症状が誘発されてしまうという理由だけではないはずです。
個人の意識の外で機能する外的リズムや、無意識下で内在するタイマー、ときには「まだ発見されていない」メカニズムによって、周期的な発作が予定調和のごとく引き起こされている可能性を考慮する必要があるでしょう。