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子どもの慢性疲労症候群の15~30%は難治性―「教育と医学」CCFS特集の感想

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日発売された 教育と医学 2016年 6月号 [雑誌]の中の特集2「疲れやすい子:小児慢性疲労症候群」を読んでみました。

特集はp58-83にわたって組まれており、CFS研究者の三池先生、倉恒先生、水野先生が執筆されています。

長年CFS研究に携わってこられた専門家たちによる異なる角度からの解説や、CCFSの治療やに関するデータなど、CCFSの深刻さを理解するのに役立つ内容でした。

詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいと思いますが、全体の概要および、個人的に印象に残った部分を少しメモしておきます。

 

 

全体の概要

最初に、それぞれの先生の執筆部分について、ごくおおまかに概観しておきます。

三池先生による「小児慢性疲労症候群とは」

まず三池輝久先生の執筆部分では、約30年にわたり、日本のCCFS研究の第一人者として活動してこられたご経験に基づく、CCFSのついてのわかりやすい説明がまとめられています。

CCFSの主な原因とみられる概日リズムの異常や、それを引き起こす原因、なぜそこから慢性的で重い疲労感が生じるのか、というこメカニズムが丁寧な説明でまとめられています。

後ほど改めて触れますが、CCFS患者の予後に関する深刻な現状も綴られていて、いかに重大な疾患であるか理解する助けになります。

そして、そのような重大な疾患を招かないための取り組みとして、各地の学校と協力して進めている「眠育」すなわち睡眠教育・指導のプログラムが紹介されています。

子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とは (1)どんな病気か? | いつも空が見えるから

 

三池先生の取り組みはちょうどニュースになっていました。

くらしナビ・子育て・親子:睡眠不足 脳の発達に影響 - 毎日新聞

 

倉恒弘彦先生による「疲れやすさと慢性疲労症候群(CFS)」

続く倉恒先生の執筆部分では、主にアメリカを中心として進展し、日本でもさまざまな取り組みがなされてきた慢性疲労症候群(CFS)のこれまでの研究が概説されています。

最近の話題として、イギリスを中心に用いられてきた「筋痛性脳脊髄炎」(ME)という名称の是非や、2015年2月、米国医学研究所が提唱した「全身性労作不耐疾患」(SEID)という新たな疾患概念に対する意見も語られています。

そして近年の研究として、詳しい検査によって、CFS患者の脳のミクログリアに活性化が発見され、その原因として脳に神経炎症が発見されたという国内の研究が詳しく取り上げられています。

【4/4】慢性疲労症候群(CFS/ME)と脳内炎症の関連が解明される | いつも空が見えるから

 

CFSの疲れやすさの原因は諸説あるものの、エネルギーの生産が追いついていない可能性、および簡単な作業でも脳の神経細胞の働きの効率化が妨げられ疲弊しやすくなっている可能性、という二つの説が挙げられています。

そのほか、客観的なバイオマーカーとしてミトコンドリアDNAや炎症に関わる成分Xに関して特許を申請中であることや、一般のPET検査施設で脳の炎症の有無を診断できる方法を開発中であるといった興味深い話も触れられていました。

水野敬先生の「疫学や脳科学からみる小児慢性疲労症候群」

最後の水野先生の執筆部分では、疲れやすさを訴える子どもたちに関する追跡研究(コホート研究)など、様々な医学的データがひもとかれています。

まず小児慢性疲労症候群の原因を調べたところ、遺伝的要因より環境的要因のほうが強いという報告から、だれでも小児慢性疲労症候群になりうるという危険が警告されています。

その環境要因として三池先生は臨床の観点から慢性的な睡眠不足との関連を見出したわけですが、医学的データからもそれは裏づけられたようです。

不登校の子どもは、やる気がない怠け者とみなされやすいですが、実際には背後に慢性疲労があって、その結果やる気が低下している可能性も指摘されています。

また近年の研究から、小児慢性疲労症候群の子どもは注意をコントロールする能力が低下していたり、脳の非効率的な過活動がみられたりすることも触れられています。

小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもは脳の情報処理で過活動が生じていることが判明 | いつも空が見えるから

 

子どもの慢性疲労症候群の15~30%は難治性

三池先生の執筆部分で特に印象に残ったのが、CCFS患者の予後について記された部分です。

三池先生は、これまで様々な手を尽くしてCCFSの子どもを治療してきましたが、100%満足したといえる治療法はないといいます。

そして一部の患者は、引きこもり状態のままか、日常生活に大きな制限を残したまま生活しているということに触れて、こう述べています。

後者ではちょっとした頑張りの後で疲労による日常生活への支障が起こるので、自らの行動を最小限に抑えてエネルギー消費を抑えるなど、極めてストイックな生活を余儀なくされている場合もあります。

周囲からの理解を得にくい状態で、健気に生きている方たちがほとんどです。

「難治性」とは、医療に抗して五~十年以上も改善しないことですが、CCFS(不登校)の15~30%程度を見込んでおくべきでしょう。

中には、大人になっても回復せず、周囲からの理解も得にくい中で、苦労を重ねながら健気に生活している人もいると書かれています。

もちろんこれは、今まさにCCFSと闘病している患者や家族の不安を煽るためのものではありません。

CCFSの子どものうち、大多数は回復し、無事に社会に出て行くことができる、という励みになる事実を思いに留めておくのは大切です。

しかしCCFS患者の15-30%くらい、つまり、10人中2,3人ほどは、十分回復しなかったり、重い体調不良が大人になっても続いたりすることもまた確かであり、CCFSは決して甘く見てよい疾患ではない、という認識もまた重要です。

CCFSの患者は、あたかも概日リズムが赤ちゃんのころに戻ったかのような不規則さを見せるので、概日リズムの中枢が崩壊してしまっていて、完全な修復は望めない場合もあるかもしれないと書かれています。

そうでなくても、いったんCCFSが完成すると、回復までに数年から十数年を必要とするほど治療は困難を極めるので、何よりも予防の取り組みが大切だとして、「眠育」を広める重要性が説かれています。

こうした難治性の患者についてのデータは、すでにCCFSを発症してしまい、長年闘病を余儀なくされている人たちにとっては辛く感じられると思います。

医療の専門家による支援や、こうしたCCFSを解説した書籍はもちろん、様々な方法を活用することによって、少しずつであっても必要な情報を集め、体調を管理し、社会に適応していく助けを得ていくことが大切でしょう。

 近年では、以前にブログで紹介したように、小児慢性疲労症候群の元患者たちによる当事者団体も設立されています。

「おひさまの家」のサイト開設―小児睡眠障害・小児慢性疲労症候群の当事者団体 | いつも空が見えるから

 

決して怠けではない深刻な病気

このブログでもずっと扱ってきたように、子どもの慢性疲労症候群は、学校嫌いの不登校や、単なる怠けや落ちこぼれとみなされてしまうことが少なくありません。

実際には医学的な問題なのに、本人のやる気のなさや努力不足のように非難されてしまい、自分のせいだという思いに苦しみながら、引きこもりになって何十年も苦闘している人も大勢いるのではないかと思います。

この教育と医学 2016年 6月号 [雑誌]の特集記事は、ほんの25ページほどですが、小児慢性疲労症候群が現実の病気であることを認識する助けになる資料であり、要点が凝縮されていると思います。

決して本人のやる気のなさのような「こころの問題」ではなく、ときには延々とその後の人生に影響を及ぼすことさえある深刻な病気であることを理解するのに役立つでしょう。

価格も740円と比較的安価なので、気になる人はぜひ買って読んでみるようお勧めします。


人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち

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愛着回避と愛着不安がいずれも強い愛着スタイルは、恐れ・回避型(fearful-avoidant)と呼ばれる。

対人関係を避けて、ひきこもろうとする人間嫌いの面と、人の反応に敏感で、見捨てられ不安が強い面の両方を抱えているため、対人関係はより錯綜し、不安定なものになりやすい。(p236)

れは、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)という本で説明されている、ある特殊なタイプの愛着スタイルを持つ人たちの感じ方です。

わたしたちは一般に、世の中には、内向的な人と外向的な人がいることを知っています。内向的な人は人づきあいが苦手で引きこもりがちな人たち、外向的に人は逆に一人でいるのが寂しく、どんどん交友を広げていきます。

ところが、中には外向的とも内向的とも言いがたい、矛盾した振る舞いをみせる人たちがいます。人づきあいがうまく、気を回すのが得意で、初対面の人とも親しく振る舞える。それなのに、人への恐怖や根深い不信感を秘めている人たちです。

こうした人たちは、表面的にはよく配慮の利く「良い人」とみなされていますが、心の中では他人への恐怖がうずまいいて、決して他人に心から親しみを感じることがありません。

人間嫌いなのに配慮が得意、というのはどう考えても矛盾しているように思えます。それもそのはず、このような人たちは「無秩序型」また「混乱型」と名づけられた歪んだ愛着を抱えているのです。

当の本人も、このような矛盾した感情に苦しめられていますが、まるで呪縛をかけられたかのように抜け出すことができません。その結果生じる強烈なストレスは、その後の人生全体に破壊的な影響を及ぼすこともあります。

いったいなぜ、このような相反する混乱した愛着が生まれるのでしょうか。

この記事では、人への恐怖と気遣いに絡め取られた「無秩序型愛着」という呪いの原因、そしてそれがもたらすありとあらゆる災厄というパンドラの箱の蓋を開けて調べてみたいと思います。

これはどんな本?

今回主に参考にした本のうち、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)は、岡田尊司先生による、愛着理論、そして愛着障害について解説された本です。

前者は一般向けにさまざまな有名人の例を挙げたわかりやす内容で、後者は多くの研究に言及して、医学的に考察した内容となっています。

また友田明美先生によるいやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳は、愛着障害の重症例ともいえる子ども虐待の被害者について、脳画像研究から実態を解明した本であり、単なる心の問題ではなく脳の発達に影響を及ぼす深刻なものであることが示されています。

いずれの本も、これまで何度も取り上げてきた本ですが、今回は特に「無秩序型愛着」というテーマにそって、他のさまざまな資料ともからめながら、問題を浮き彫りにしたいと思います。

無秩序型愛着パターンとは?

まず、「無秩序型愛着」とはなんでしょうか。これは愛着理論と関係する概念の一つです。

愛着(アタッチメント)理論とは、イギリスの精神科医ジョン・ボウルビィによって提唱された概念です。

ボウルビィは1969年、第二次世界大戦後の臨床経験から、子どもが幼いころに親と引き離され、愛着の絆が育まれないと、さまざまな心身の問題に発展することを突き止めました。

ボウルビィは、子どもの愛着パターンをA,B,Cの3つに分類しましたが、後に1986年になってメインとソロモンが4つ目のタイプDを発見しました。

この4つのタイプは、アメリカの発達心理学者メアリー・エインスワースが、開発した新奇場面法によって調べることができます。

新奇場面法は、子どもと母親を引き離し、しばらくしてから再会させ、その間の子どもの様子を観察するというものです。

すると子どもは以下のA,B,C,Dのいずれかの反応をみせます。

■A型/回避型(Avoidant)
全体の15%。親にほとんど頼らず、一人になっても寂しさを感じず、親と再会しても無視したりする

■B型/安定型(Secure)
全体の60%。親に素直に頼り、一人になると寂しさを感じるが、親と再会すると積極的に迎える

■C型/抵抗型/抵抗両価型/不安型/(Resistant Ambivalent)
全体の10%。親から離れられず、親がいなくなると激しく動揺し、再会するとしがみついて怒りを示すこともある

■D型/無秩序型/無方向型/混乱型(Disorganized)
全体の15%。A型、B型、C型の入り混じった無秩序な反応を示す。

資料によって表記ゆれがあるので、それぞれ名称を幾つか並べていますが、次のように考えると理解しやすいでしょう。

愛情に富む家庭で育てられた普通のバランスのとれた人づきあいができる子どもはB型(安定型)です。

冒頭に挙げたような内向的で人づきあいが苦手な子どもはA型(回避型)で、一人でいるのが苦手で外向的な子どもはC型(抵抗型)になります。

そして、今回のテーマである、矛盾した振る舞いをみせる子どもはD型(無秩序型)です。D型の子どもは、どれか一つのタイプではなく、その時々でA型になったり、B型になったりC型になったりと混乱した振る舞いをみせます。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)では、その特徴が、こう説明されています。

混乱型は、回避型と抵抗型が入り混じった、一貫性のない無秩序な行動パターンを示すのが特徴である。

まったく無反応かと思うと、激しく泣いたり怒りを表したりする。また、肩を丸めるなど親からの攻撃を恐れているような反応をみせたり、逆に親を突然叩いたりすることもある。(p39)

特に顕著なのが、A型(回避型)の特徴である対人関係の回避を示しながら、同時に正反対のC型(抵抗型)の特徴である人への執着を見せることです。

こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害にはこう書かれています。

D型のアタッチメントパターンとは近接と回避という本来ならば両立しない行動が同時的に、また継時的にみられたり、また、フリーズしたり、初めて出会う人にむしろ親しげな態度をとることなどが特徴である。(p98)

人づきあいを回避したいのに、人に接近するという意味不明で矛盾した振る舞いを見せるのです。

ここで説明しているD型、つまり「無秩序型」とは、あくまで幼い子どもに見られる愛着パターンです。

幼い子どもですから、A型(回避型)は照れ屋さんともいえますし、C型(抵抗型)は甘えん坊とみなされることもあるでしょう。そうした子どもはそれほど珍しくありません。

でもD型(無秩序型)はまったく違います。当初D型の存在をボウルビィが見逃していたのも無理はありません。それはまったく子どもらしくない異様な行動パターンです。

いったい何が生じているのでしょうか。

幼いころの生育環境という呪い

ここまで考えた子どもに見られる4つの愛着スタイルは、おおよそ生後半年から1歳半くらい、長く見て3歳くらいまでの生育環境によって決まります。

一般に、B型(安定型)がバランスのとれた家庭の子どもに見られるのに対し、A型(回避型)は感情表現が乏しい放任型の親、C型(抵抗型)は子どもをかまいすぎる溺愛型の親の子どもに見られるそうです。

しかしD型(無秩序型)は、そうした普通の家庭、ないしは多少偏っているとしても人間味のある親の家庭で育った子どもには見られません。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)にはこう書かれています。

混乱型は、虐待を受けている子や精神状態がひどく不安定な親の子どもにみられやすい。

安全基地が逆に危険な場所になることで、混乱を来していると考えられる。

親の行動が予測不能であることが、子どもの行動を無秩序なものにしているのである。(p39)

D型(無秩序型)の愛着を示す子どもは、異常な家庭環境で育ったために、混乱し、矛盾した 反応を示すようになるのです。

異常な家庭の例として、ここでは虐待や、親の精神疾患が挙げられています。

虐待の中には、身体的・性的虐待のみならず、言葉による虐待や、育児放棄(ネグレクト)も含まれます。

たとえ虐待のような極端な環境でないとしても、親が精神疾患を抱えていたり、アルコール依存症だったりして、気まぐれて不安定な養育態度を示すなら、やはりD型の愛着になるリスクが生じます。

特にアルコール依存症の家庭で育った子どもの悩ましい振る舞いは、アダルトチルドレン(AC)としても研究されてきた歴史があります。

愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)では、このD型(無秩序型)の愛着とはつまり、予測できない無秩序な親の反応に対する適応である、ということが説明されています。

ひとつの戦略を保持することができず、親の見せる些細な兆候に対して敏感に揺れ動くのである。

無秩序な混乱は、見通しや予測が立たないことの表れであり、養育者の気まぐれな態度におびえ、どうしたらいいかわからない状態だとも言える。(p75)

虐待する親、精神疾患を持つ親、アルコール依存症の親etc…。

こうした親はいずれも、親として子どもを育てているにもかかわらず、時に態度を豹変させ子どもを傷つけます。幼い子どもは、安心できる対象と思っていた親が、突然、迫害者に変化する恐怖を何度も味わいます。

そうすると、保護者として親に頼りたいのに、迫害者としての親から逃れ身を守らなければならないという矛盾した状況に置かれます。

その混乱と葛藤が反映されたのが、D型(無秩序型)の異常な愛着パターンなのです。

家族の中の両極端の関係

D型(無秩序型)は「混乱型」とも言われますが、そうした子どもは、幼いころから、とても子どもの心には理解できないような家庭環境に直面して、心理的に混乱していることが少なくありません。

アメリカの解離性同一性障害(DID)の専門家ラルフ・アリソンは、著書「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からの中で、そうした異常な家庭環境をこう説明しています。

患者はたいてい子どもの時に、家族の中で両極端の関係を経験している。

片方の親は「良い親」で、もう片方は「悪い親」と見られている。しかしその役割がときどき変わり、「良い親」が「悪い」ことをして子どもを混乱させる。

これには「良い親」が子どもを「捨てる」といったことも多い。

実際には、親が死亡したり、軍務についたり、あるいは他の理由によるいたしかたない別離なのだが、子どもにとってはそれが理解できない。(p45)

たいていの場合、虐待やネグレクトする親のもとで育ったり、親に精神疾患や依存症があったりする場合でも、両親が二人とも迫害者であることは少ないでしょう。

どちらかというと、異常で攻撃的だったり、精神疾患を抱えたりしている「悪い親」のもとで、もう一人の「良い親」が苦しめられたり、怯えたりしている様子を子どもは感じ取ります。

そこで子どもは「良い親」のほうに頼るようになりますが、しばしば安全だと思っていた「良い親」から見捨てられたり、傷つけられたりするのを経験します。

たとえばそれは、「良い親」が死んだり離婚していなくなったり、何かの事情で子育てができなくなったりすることかもしれません。たとえ十分な事情があるのだとしても、子どもはそれを理解できず、信頼していた「良い親」に見捨てられたと感じます。

または安心できると思っていた「良い親」自身も、精神に異常を来たしていて、子どもの信頼に答えられず、虐待に加担するようになったのかもしれません。

特にありがちなのは、「良い親」が「悪い親」を恐れるあまり、助けを求める子どもを「悪い親」の暴力から守らない場合です。

子どもはそのとき、たとえ「良い親」といえども、身を挺して自分を守ってくれることはなく、この世界には誰一人として信頼できる人はいないのだ、ということを学ぶのです。

虐待された子ども中には、実際に虐待した親に対するのと同じくらいの、あるいはそれよりもさらに強い怒りや恨みを、虐待から守ってくれなかったもう片方の親に対して抱いている場合があるそうです。

その点は、毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)という本に詳しく書かれていました。

10種類の「毒になる親」から人生を取り戻すためにできること | いつも空が見えるから

 

 サバイバル脳

この異常な家庭環境が、子どもにD型(無秩序型)という愛着パターンを埋め込んでしまうのは、それがごく幼いときに経験される出来事だからです。

もし、愛着が形成される感受性期である生後数年ごろまで、安定した親に愛されて育ったなら、その後、小学生以降に親から引き離されるようなことがあっても、これほどまでに深い傷は抱えないかもしれません。

しかし、まだ幼い時期、見るもの聞くものすべてが新しく、世の中について、人間について何も知らない人生最初の時期に異常な環境で育つと、その子にとっての「あたりまえ」の常識が変わってしまいます。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳にはこう書かれています。

被虐待児は「日常的で普通の生活」を経験したことのない者がほとんどであるから、たとえそれがストレスフルな状況であっても、その環境を疑うことができない。

ゆえに、耐え難い苦痛や恐怖の中で、何とかして生きていく術を身につけていく。

その表れとして起こるのが、愛着形成の問題である。(p108)

たとえば日本に生まれ育った人にとって、日本の文化こそあたりまえで、成長してからアメリカに移住したとしても、なかなか文化に馴染むのが難しいかもしれません。

その逆ももちろんしかりです。わたしたちは、生まれ育ち、慣れ親しんだものを「当たり前」「普通」「日常」とみなします。

では、生まれたときから異常な家庭環境に置かれ、生まれてはじめて見る人間である親や家族が異常だったらどうなるか。

その子どもは、それが「異常」だとは思いません。そうした家庭環境こそが「当たり前」であり、虐待やネグレクトや緊迫感こそが「日常」であると判断するでしょう。そしてそれ以降に学ぶ知識や出会う人間すべてをその尺度にそって解釈するようになるでしょう。

同じ本は続けてこう述べています。

虐待の場合では、この愛着が正しく形成されない。少なくとも、一般的な形では形成されない。自分を保護するべきはずの存在である親は、恐怖と不安に満ちた存在である。

…そのような親でも、子どもにとってはすべての存在である。子どもは、苦痛を与える人間のもとでもできる限りの安心感と信頼を得ようとして、親に対して愛着をもとうとする。(p112-113)

たとえ異常な親であっても、「子どもにとってはすべての存在」なのです。

わたしたち大人は、虐待やネグレクトをするような親は「異常」だとわかります。そのほかの家庭と比較できるからです。

しかし子どもは、そして生まれて間もない赤ちゃんは、目の前にいる親以外の親を知りません。どんなに異常な親であって、その親こそが「すべての存在」なのです。

幼い子どもは、たとえ身の危険を感じても、そこから逃げることはできません。その親が「当たり前」なのであれば、その状況に適応するしかありません。

それで、その異常な親のもとで生き延びようとする過程こそが、歪んだ愛着、D型「無秩序型」の愛着パターンとして、子どもの生き方に刻み込まれます。それはその後の人生を生き抜く基礎になります。

この“歪んだ形”での愛着形成により、子どもは加害者を絶対的なものと思い込んだり、逆に自分こそが悪いのだと考えたりするようになる。

…このような歪んだ形の愛着は、それを基礎として親以外との人間関係にも適用される。

無条件に相手の言うことに従ったり、自分の意見を押し殺して相手に言わなかったりして、できるだけ他者との間に問題を起こそうとしない。

それはしかし、相手に対する不信や、相手との関係を絶って孤立することにもつながりやすい。(p113)

歪んだ愛着はあたかも傾いた土台の上に家を建てていくかのようなものです。

子どもは土台が傾いていることなどまったく気付かずに、その後の人生をその上に建てていきます。その後の知識も人間関係も、すべてその土台の上に築きます。

子どもは異常な親との関わりを通して、他の人と関わるときには、傷つけられないようにするために、自分を相手に合わせ、自己主張せず、顔色を伺わなくてはいけない、ということを知ります。

その後の人生で出会うどんな人に対しても顔色をうかがい、相手によって自分の行動をカメレオンのように変えます。

周りの人の行動から危険を察知して、あるときはA型(回避型)、あるときはC型(抵抗型)といった愛着パターンを使い分け、衝突を回避します。

ときにはB型(安定型)のような愛着パターンさえみせて、相手に合わせるかもしれません。しかしいずれの場合にも、決して相手を信頼しているわけではなく、生き延びるために合わせているだけなのです。

こうした過酷な子ども時代を生き延びた人たちの脳の特徴は、ボストン大学医学ヴァン・デ・コークによって適切にも「サバイバル脳」と表現されているそうです。

この世の中は、いつなんどきだれかに傷つけられるかもしれない危険な「戦場」であり、D型愛着パターンの子どもは、生まれた時から終わることのない戦時下を、死と隣りあわせでサバイバルしているのです。

このとき、子どもの脳にどんな変化が生じているのか、という点については、以下の記事をご覧ください。

だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版) | いつも空が見えるから

 

 パンドラの箱を開ける

子どものころの異常な親への適応は、単に子ども時代のものだけではありません。そのときに学んだ愛着タイプは、その後の人間関係にも適用され、発展していきます。

子どものころの4つの愛着パターンは、必ずしも大人になってもそのままであるというわけではありませんが、それぞれ対応する4つの愛着スタイルに発展しやすいと言われています。

4つの愛着スタイルとは、これまで考えてきた4つの愛着パターンの大人バージョンです。

■愛着軽視型(Dismissing)
子どものA型(回避型)に相当。人との関わりを避け、ひきこもりがちで感情表現に乏しい。

■自律型(Autonomuos)
子どものB型(安定型)に相当。適度に他人に頼りつつ、自分の責任も果たせる安定した大人。

■とらわれ型(Preoccupied)
子どものC型(抵抗型)に相当。人の顔色に敏感で依存しやすく、見捨てられ不安が強く、感情の起伏が激しい。

■未解決型(Unresolved)
子どものD型(無秩序型)に相当。人への恐怖と見捨てられ不安が混在する混乱した振る舞い。

これら4つの愛着スタイルは、子どもの場合の新奇場面法と同様、成人愛着面接という方法でうかがい知ることができます。

この成人愛着面接は、子どものころの親との体験や思い出についてさまざまな角度から質問し、傾向を分析する手法です。

その場合、愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、大人の場合のD型に相当する未解決型では、やはり混乱した感情が読み取れるそうです。

これは、混乱型に対応するカテゴリーで、未解決-混乱型とも呼ばれる。

外傷体験について尋ねられると、言葉やまとまりが論理性を欠き、奇妙で不可解な考えを示したりする。(p105)

子ども時代のD型(無秩序型)が大人になって未解決型に発展するとは限りませんが、深い傷を抱えていて、いまだに土台が斜めになっていることに気づいておらず、無秩序さを「当たり前」「日常」と感じている場合は、その未解決の混乱が言動にも現れてくるのです。

すでに考えたとおり、D型(無秩序型)の愛着を抱えた人の人生は、斜めの土台の上に建材を積み上げていくようなものです。

たとえ土台が斜めであっても、最初のうちは建物の材料を積み上げることは可能でしょう。しかし材料をどんどん積み上げていき、建物の高さが高くなっていくとどうなるでしょうか。

斜めの土台のような歪んだ愛着を抱える人の人生も、最初のうちはかろうじて積み上がるように感じられるかもしれません。

しかし歪んだ愛着の上に人生経験を積み重ね、年齢を減るにつれて、人生の建物の高さはどんどん高くなり、その重みで傾きもひずみもどんどんひどくなります。

その結果何が生じるのでしょうか。

境界性パーソナリティ障害

D型アタッチメントいう歪んだ土台がもたらす悲惨な問題の一つとしてよく知られているのは、境界性パーソナリティ障害(BPD)です。

ササッとわかる「境界性パーソナリティ障害」 (図解 大安心シリーズ)にはこう書かれていました。

境界性パーソナリティ障害の人の愛着スタイルを調べた研究によると、75%がネガティブな感情に支配されやすい「とらわれ型」、89%が心の傷を引きずる「未解決型」の愛着スタイルを示したということです。(p38)

境界性パーソナリティ障害になる若者や成人の多くは、子どものころのC型と関係する「とらわれ型」、そして何より、D型と関係する「未解決型」を非常に高い割合で抱えていたのです。

解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、境界性パーソナリティ障害の人には、次のような親に対するイメージが認められるそうです。

自己中心的であれ権力的であれ、親がいた。それが失われたか、失われるという強い不安やおびえが根底にある。

見捨てられ不安が強い攻撃性を生み、親や周囲の人に向けられる。(p79)

すでに考えたとおり、子どもにおけるC型(抵抗型)や大人のとらわれ型は、過剰にかまう親の家庭で見られやすいタイプです。その特徴は親への執着と見捨てられ不安です。

より家庭環境が悪く、D型(無秩序型)、あるいは未解決型に発展した場合でも、境界性パーソナリティ障害になるような場合には、背後には愛してもらいたいのに愛してもらえないという苦悩があります。

もしかすると、さきほどの両極端の家庭環境の例でいうと、「良い親」のほうが突然いなくなったか、必要に答えてくれなかったかしたために、見捨てられ不安を抱えるようになったのかもしれません。

愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、D型アタッチメントの子どもは、攻撃的になったり脅したりすることで親をコントロールして生き延びようとする戦略を示すことがあります。(p76)

境界性パーソナリティ障害の人は、他の人を理想化したかと思えば突然激しくこき下ろしたり、「死ぬ」と表明して周囲を脅したりします。

そのような両極端で激しく不安定な人間関係は、子どものころに身につけた生き延びるためのサバイバル戦略を引きずっているのです。

解離性障害

境界性パーソナリティ障害(BPD)と同様、D型アタッチメントとの関連がよく知られているもう一つの病気として解離性障害があります。

こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害にはこう書かれていました。

1991年には、Barach,P.M.M.がはじめて解離性同一性障害とD-アタッチメントの関連を示唆し、2003年にLyons-Ruth,K.によって、D-アタッチメント・タイプの幼児は解離性障害になるリスクが高いと指摘された。(p78)

しかし、同じD型の愛着を土台にしているとはいえ、境界性パーソナリティ障害と解離性障害は成り立ちが大きく異なっています。

愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)には、要点がこう説明されています。

一般に、不安の強さは両価型と有意に関連し、意識や記憶が飛ぶといった解離症状は回避型や混乱型だった人にみられやすい。(p102)

つまり、同じD型(混乱型)であっても、境界性パーソナリティ障害ではC型(両価型)の傾向が強い人に生じるのに対し、解離性障害はA型(回避型)の傾向が強い人に生じやすいのです。

すでに考えたとおり、C型(抵抗型)とA型(回避型)は、正反対の行動パターンを見せます。

C型(抵抗型)は一人でいるのが不安で親に執着するのに対し、A型(回避型)は寂しさを感じず、親がいるかどうかは気にしません。

D型の人たちは、A型(回避型)とC型(抵抗型)両方の傾向を見せるため混乱し矛盾しているように見える、というのはすでに考えたとおりですが、やはりA型(回避型)とC型(抵抗型)は相反するものなので、人によってどちらの傾向が強く出るかは異なるのです。

解離性障害になるD型の人はA型(回避型)の傾向がより強く現れているようで、解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)には解離性障害の人の親のイメージについてこう説明されています。

現実において安心できる居場所がない。自分を守ってくれる親のイメージも希薄で、現実の世界で他者との関係にしがみつくことはなく、孤独のなかをさまよっている。(p79)

先ほどの境界性パーソナリティ障害になるD型の人たちの場合、親のイメージは歪んでいるとはいえ、少なくとも存在はしていました。だからこそ、愛されたいという強い思い、見捨てられることへの強い不安がうずまいていました。

ところが解離性障害の人たちの場合は、親に愛されたい、見捨てられたくない、という思いは希薄です。まるで親などいなかったかのようです。

愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、D型アタッチメントの子どもの中には、子どもの方が親の相談相手になったり、親の顔色から「調子」を察し、機嫌を取ったりして生き延びる生存戦略を用いるようになる場合があるそうです。(p76)

先ほど見た、攻撃的な態度で親をコントロールしようとする生存戦略とは対照的です。

攻撃的な態度で親をコントロールする場合は、ヒステリックに泣き叫べば親は動いてくれるというかすかな期待が感じられます。

しかし自分を犠牲にして親に合わせ、機嫌をとる戦略にはあきらめが感じられます。もはや親に期待することは不可能なので、自分を押し殺して合わせるしかないという絶望感です。

そうしたあきらめは、成長したとき、人間全般に対する絶対的な不信として表れます。

身体の時間―“今”を生きるための精神病理学 (筑摩選書)には解離性障害の人の特徴について、こう書かれていました。

そこにあるのは、非常に根深い周囲への警戒である。それは「不信」と言い換えてもいいだろう。

目の前の他者に対しても、自分の所属する集団や社会に対しても、安心して向かい合い、身を委ねることができず、けっして本音は見せずに表面的な関わりに留める。(p96)

解離性障害に発展したD型の人は、それまで親や周囲の日との顔色をうかがって気を回してきたので、優しく気配りのできる「良い人」とみなされていることも少なくありません。気立ての良い明るい人と思われていることさえあります。

境界性パーソナリティ障害の人のように怒りにまかせて攻撃したり、激しい感情をぶつけたりすることもありません。

しかしそれは裏を返せば、もう他人という存在に何かを期待することは諦めていて、いくら感情を表しても無駄だと達観していることの現れなのです。

解離性障害とは、現実の他者に全く期待しなくなった結果、現実を見限り、空想と夢の世界に逃避してしまう病であるともいえます。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の違いについて詳しくはこちらをご覧ください。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない | いつも空が見えるから

 

 発達性トラウマ障害

D型アタッチメントのような歪んだ愛着と関連している病気は、決してこの2つだけではありません。

むしろ、もっとさまざまな病気、ありとあらゆる不定愁訴が歪んだ愛着と関連していると考えられています。

愛着がどのくらい歪んでいるかは、その人が育った環境がどれほど歪んでいたかによりますが、土台が傾いていてればいるほどその上の建物が倒壊するのも早くなります。

虐待など異常な家庭環境で育った子どもたちが、人生の初期から、ありとあらゆる心身の不調に見舞われる現象は、「サバイバル脳」のところでも出てきたボストンの大学医学部のヴァン・ダ・コークによって、「発達性トラウマ障害」と名づけられています。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、こう説明されています。

被虐待児たちは、PTSD、反応性愛着障害、不安障害、素行障害、反抗挑戦性障害、解離性障害、うつ病を主とする気分障害などのさまざまな疾患を呈することがわかってきた。

…van der Kolk(ヴァン・ダー・コーク)は、被虐待児の臨床像の推移を「発達性トラウマ障害」という呼称で表現している。(p138)

幼いころの愛着の傷や慢性的なトラウマ体験は、単に精神的な悪影響を及ぼすのみならず、子どもの脳の発達そのものに影響を及ぼすという考え方です。

そのため、愛着障害をはじめ、発達性トラウマ障害の子どもたちは、従来の先天性の発達障害(自閉症やADHD)に似た症状を示すだけでなく、むしろそれよりさらに悪い発達の問題を招きます。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか | いつも空が見えるから

 

 その結果として、脳が正常に機能せず、人生の早い段階から、不安障害や非行、うつ病のような様々な心身の不調を抱えるようになります。

生態的表現型

子どものPTSD 診断と治療によると、これら様々な病気や脳の発達異常の下地に子ども時代の不安定な愛着やトラウマがあるという考えは、「生態的表現型」という呼び名で区分されているそうです。

最近では、被虐待経験者にみられる疾患は、「生態的表現型(ecophenotype)」と呼ばれている。

発症年齢の低さ、経過の悪さ、多重診断数の多さ、そして初期治療への反応の鈍さがみられる。(p100)

この考えは、虐待の脳科学の専門家、ハーバード大学医学部のマーチン・H・タイチャーによるものです。

タイチャーは、幼少期の逆境体験や不適切な養育経験を診断時にグループ化し、そのグループを「生態的表現型」と呼んで治療にあたることを提案しています

Childhood maltreatment and psychopathology: A case for ecophenotypic variants as clinically and neurobiologically distinct subtypes. - PubMed - NCBI

 

 「生態的表現型」のグループに属する患者たちは、同じ精神科にかかる患者の中でも、発症年齢が若く、初期治療への堪能が鈍く、しかもありとあらゆる症状が出るため、さまざまな病名で多重診断されがちです

実際に、子ども時代の慢性的なトラウマ経験による症状は、うつ病、統合失調症、双極性障害II型などと見分けにくいため誤って多重診断されていて、治療の効果が出ずに長引いている例が少なくないそうです。

表面的な症状がたとえ双極II型や統合失調症のように見えても、その人が「生態的表現型」であるなら、単純な薬物療法による治療では改善できません。

あらかじめ「生態的表現型」かどうか特定することで、トラウマ処理や解離の治療など、適切な治療を施せるようになり、治療の経過がよくなるかもしれません。

「 無秩序型愛着」に呪われた人たち

最後に、このようなD型(無秩序型)アタッチメント、そしてそれに起因するさまざまな問題に苦しめられたと思われる人たちの例をみていきましょう。

D型アタッチメントが引き起こすさまざまな心身の問題は、すでにみたとおり、子ども時代の悲惨な環境と関連しています。

悲惨な環境の度合いは、複雑で混乱した親子関係といったレベルから、命に関わる虐待までさまざまですが、いずれの場合も程度の差こそあれ愛着の歪みにつながります。

大人になってからは、非常に悩ましい性格気質を示すとともに、「生態的表現型」として、多種多様な症状を示すため、いったい何の病気だったのか疑問に思われているケースがしばしばです。

そのような人たちの例として、ここでは、夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、ヴァージニア・ウルフの4人を取り上げたいと思います。

夏目漱石

夏目漱石は、さまざまな精神疾患に似た症状や体の慢性的な不調を抱えていたことがわかっていて、神経衰弱、統合失調症、うつ病、双極性障害など、後世の研究者たちから様々な多重診断がくだされています。

しかし、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)では、その原因としてD型アタッチメントによる愛着障害が関わっていたと推測されています。

漱石の精神疾患をめぐっては、これまでも諸説あったが、愛着障害と考えると、漱石を苦しめた症状を過不足なく説明できるだろう。

ベースは回避型であろうが、愛着不安も強いところがあり、恐れ・回避型と言うこともできるだろう。(p258)

夏目漱石の生い立ちを見ると、望まれない子どもとして生まれ、いきなり里子に出されて、養子として偏愛され、しかも養父母がいがみあい、実家に送り返されるという、明らかに異常で悲惨な子ども時代を過ごしたようです。

このような環境で愛着が正常に発達することは考えられないので、典型的なD型(無秩序型)の愛着を抱えた人物だといえるでしょう。

その後の人生を見ても、「坊っちゃん」の形をとって告白されている子どものころのADHD傾向は愛着障害によるものだったと考えられますし、双極性障害や統合失調症とみなされてきた気分の浮き沈みや幻聴は解離性障害だったのでしょう。

漱石はD型と言っても、A型(回避型)の傾向が強く出るタイプだったので、幻聴、幻覚、リアルな夢など解離的な症状を色々と経験したようです。

太宰治 

太宰治は、ADHDだったと言われることもありますが、典型的な境界性パーソナリティ障害で間違いないだろうとみなされています。

そもそも、愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)の中で、ADHDの遺伝的傾向を持つ人はD型アタッチメントになりやすく、境界性パーソナリティ障害にも発展しやすいと言われています。(p130)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)にはこう書かれています。

太宰治もまた、愛着障害を抱えた人ゆえの苦しみを嘗め、それを創作にぶつけたが、ついに克服しきれなかったと言えるだろう。

愛着障害から境界性パーソナリティ障害へと移行していく場合、その人が何を体験するのか、太宰のケースは、その精神内部のドラマを、鮮やかに明らかにしてくれる稀有の一例である。(p75)

太宰治は生まれてすぐに乳母に預けられましたが、幸いにも愛情をかけて育てられました。しかしある朝突然、乳母が他国に嫁いでしまい、いなくなってしまいました。

境界性パーソナリティ障害になるタイプは、親は存在していたものの、何らかの事情で見捨てられたと感じ、愛してもらいたい思いと、見捨てられたくない不安が刻まれていることはすでに見たとおりです。太宰治の生い立ちはその典型でした。

太宰治は、D型アタッチメントの中でもC型(抵抗型)の傾向が強く、見捨てられ不安にさいなまれていたので、不安定で激しい人間関係を送りました。

次々と愛人を作り、何度も自殺未遂を繰り返し、最後には「人間失格」を著して、本当に死んでしまった太宰治の人生は、愛されたいのに愛してもらえないという愛着障害の呪いを物語っています。

芥川龍之介

芥川龍之介も、さまざまな体調不良に悩まされましたが、一般に統合失調症とみなされています。

芸術療法 (補完・代替医療)という本では、芥川龍之介は「統合失調症に罹患した代表的な芸術家」であると説明されていますが、同時にこうも書かれています。

芥川の母親は彼を出産した後、間もなく統合失調症を発病した。このため芥川は母親の姉妹などに養育され、このことがエリクソンのいう基本的信頼感の獲得を困難にしたと考えられている。(p11)

統合失調症かどうかはさておき、注目に値するのは、彼が生後1年も経たないころに母親から引き離され、基本的信頼感を獲得せずに育ったと見られていることです。これは愛着の問題が生じたことを物語っています。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち | いつも空が見えるから

 

 また、彼の症状については、やはり夏目漱石と同様の「神経衰弱」が学生のころからみられたとされています。そして比較的健康そうな時期の小説「老婆」「影」「奇妙な再会」には幻視や幻聴などを思わせる文章が多くみられるともあります。

最終的に彼は35歳の若さで自殺をとげますが、その背景についてはこう書かれています。

芥川はその遺書に「将来への漠然たる不安」と書き、35歳で服薬自殺を遂げた。

福島は芥川龍之介は統合失調症を発症しても健康な自我機能が残存しており、来るべき人格の解体を予見したと考察している。

…若い時期から神経衰弱の症状や不眠に悩み続け、作品に統合失調症の病的体験が描かれていることから、内因性の病的過程が不完全な形で活動していたと推定している。(p12)

このように芥川龍之介の疾患は統合失調症の前駆期、あるいは初期統合失調症とみなされています。

しかし、解離性障害の専門家の柴山雅俊先生が解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論で書いているとおり、従来、初期統合失調症とみなされていた病態は解離性障害であることが多く、幻視が多い、妄想を妄想だと自覚しているなどの違いが見られます。

統合失調症の数学者ジョン・ナッシュに関する伝記ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)などからもわかるとおり、統合失調症はひとたび発症すれば、回復しないかぎり論理的な構成が求められる学問は不可能な状態になります。

死ぬ間際に見事な完成度と客観的視野を示した作品「河童」を書いた芥川龍之介は統合失調症とみなすにはあまりにも例外的です。

幼い時期の母との離別、若いころから症状が出たこと、統合失調症のような症状を含みながら、神経衰弱や睡眠障害など多彩な症状に苦しめられたことからすると、芥川龍之介は、「生態的表現型」だった可能性が大いにあります。

ヴァージニア・ウルフ

イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフは、原因不明の病に悩まされ、最終的には入水自殺を遂げ、双極性障害などの可能性がしばしば指摘されています。

ある作家の日記 [新装版]によると、確かにヴァージニア・ウルフは独特な性格をしていたようで、単なるうつ病でなかったことは確かです。

たとえば本書を読むと、ヴァージニアという人は、憂うつな気分と闘いながら創作をしていた人、という印象をうける。

それもたしかに彼女の大きな一面なのだが、生前の彼女を知っていた親類や知己の人びとは、たいてい彼女のことを陽気な、機知に富んだ、社交的な人であったと証言している。

…彼女が人に対する好き嫌いが烈しかったこと、心を許す人びととの間にあるときだけ、きらめくような才智あふれる会話をし、聞く者を別世界へ連れて行くような空想力を発揮し、自らも天真爛漫な笑いに身を委ねることが多かったことは人びとの認めるところである。(p522)

確かにヴァージニア・ウルフの病気には、躁うつ病と思われる一面があり、社交的で想像力豊かだったことがわかります。

しかし同時に気にかかるのは、人に対する好き嫌いが激しい、言い換えれば人をなかなか信頼できず、一部の人々にのみ心開いて自分を出していたことです。

またヴァージニア・ウルフの症状には、拒食症、幻覚、妄想といった双極性障害らしからぬものもふくまれていたようです。(p522)

そして自殺の原因も「また声がきこえ気が狂って行くのがわかる。集中できない」ことだと遺書に書いていて、幻聴の存在が示唆されています。(p528)

これらは双極性障害より統合失調症を思わせる症状ですが、ヴァージニア・ウルフは死ぬまで正常な思考力を保っていましたし、遺書でも残された人に配慮を示しています。

ヴァージニア・ウルフの生い立ちをみると、彼女は父と母の連れ子が同居しているステップファミリーの結婚後第三子として生まれました。

子どものころから過敏で激しくとっぴなことをする性格で、兄弟たちから「ゴート(やぎ)」とやゆされたようです。これは、ADHD気質ともみなせますが、この混乱した家庭環境からくるD型アタッチメントの愛着障害だった可能性があります。

そして6歳から23までの期間、母の連れ子の義兄にひそかに性的虐待を受けていました。ごく幼い時期から慢性的なトラウマにさらされ、しかも親に打ち明けられないでいたのです。

しかも悩みを相談できないまま母が13歳のときに死んでしまい、その数カ月後から、生涯悩まされるさまざまな精神症状が現れたそうです。(p526)

こうしたさまざまな情報を照らし合わせるに、ヴァージニア・ウルフを苦しめた病気は、幼いころの歪んだ愛着から続く「生態的表現型」だったのかもしれません。

箱の底に希望は残されているか

幼いころの歪んだ愛着やトラウマという呪いが、その後の人生に絡みつき、様々な災厄をもたらしたと思われるこれら4人の例は、いかに問題が深刻かを指し示しています。

ここで挙げた4人がすべて、本当にD型アタッチメントの結果としてこのような人生を歩み、多種多様な症状に苦しめられたのかは定かではありません。

しかし4人が共通して示している人間関係の不安定さ、双極II型のような浮き沈み、若いころからの神経衰弱とも言われるさまざまな心身症状、そして解離症状と思われる幻覚などは、「生態的表現型」らしき特徴を兼ね備えています。

今回挙げた4人のうち3人は自殺してしまいました。それはあたかも斜めに傾いた土台の上に建てた人生という建物が、高く人生を積み重ねるにつれ、重みとひずみに耐え切れなくなり、倒壊してしまったかのようでした。

もし幼いころのD型アタッチメントというカギがパンドラの箱のフタを開け、ありとあらゆる災いを解き放つものだとしたら、箱の底に希望は残されているのでしょうか。

修復的愛着療法

先日のNHKおはよう日本では、子どもの愛着障害の治療が取り上げられていました。

家族の苦悩にどう向き合う|特集ダイジェスト|NHKニュース

 

この特集では、生まれて1週間で実の母親によって乳児院にあずけられ、1歳半で養子となった男の子の愛着障害が取材されていました。

そして愛着障害と修復的愛着療法―児童虐待への対応 の著者テリー・M・リヴィ―博士が考案した修復的愛着療法による治療の取り組みが紹介されていました。

近年、愛着障害の存在は世の中にも知られるようになってきており、治療プログラムの開発も進んでいます。

幼いころに愛着の歪みに気づき、斜めに傾いている土台を正常に修復することができれば、上に積み上げる人生が崩れ落ちるのを未然に防げるでしょう。

さまざまな心理療法・薬物療法

成長してから問題に気づいた場合はどうでしょうか。その場合は、単な愛着のゆがみにとどまらず、「発達性トラウマ障害」などのさまざまな症状に発展しているかもしれません。

解離性障害や境界性パーソナリティ障害に進んだ場合、より修復が難しくなりますが、近年ではトラウマ治療に役立つトラウマフォーカスト認知行動療法(TF-CBT)や、マインドフルネスを取り入れた弁証法的行動療法(DBT)、そのほか各種アダルトチルドレンのセラピーなども行われていますから、真剣に取り組むことで、少しずつでも傾きを修正していくことは可能かもしれません。

発達トラウマ障害など多様な心身症状に対する薬物療法も、徐々に研究が進み、効果的な処方が発見されているようです。

子ども時代の慢性的なトラウマ経験がもたらす5つの後遺症と4つの治療法 | いつも空が見えるから

 

 感受性を活かす

注目に値するのは、今回紹介した4人の例がいずれも感性豊かで独創的な創作に長けた作家であったことです。

今回紹介した4人の作家がたまたまD型アタッチメントらしき特徴を示していて、同時に芸術的感性を備えていたのかというとそうではないようです。

むしろ、小説家、詩人、画家など、芸術の分野には、幼少期の心の傷や不安定な愛着を抱えていると思われる人が不思議なほど多いのです。

創造力の不思議―アイデアは脳のどこからやってくるのかという本には、こう書かれていました。

科学的な分野ではさほどでもないが、とりわけ芸術の分野では、幼くして親を亡くすといった幼児期の心の傷が創造力の発達に有利に働くことがある。

このような現象のうち最も説得力があるのは、トラウマを受けた幼児の中で内省的な側面が大きく成長し、例えば芸術的な言葉に信頼を寄せることで、それが過去の悲しい感情を美化する経路になるという考え方である。(p38)

そのあたりのことは、このブログの過去の記事でも紹介しました。

文学や芸術を創造する「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

 

 異常な家庭で育つなど、幼少期にトラウマを受けた人は、他の子どもが天真爛漫に過ごしている時期から、さまざまな思考を巡らすようになる場合があります。

それは普通ではありえないような悩みを何とか解釈し、生き抜こうとする努力です。それはある種の「心的外傷後成長」(PTG)をもたらすこともあるでしょう。苦しみながら得た内的世界の深みや、敏感な感受性は、芸術の世界では有利に働くことさえあります。

複雑な内面の苦悩を、芸術や表現という形で昇華することは、D型アタッチメントの人が抱える、さまざまな苦痛を和らげるものにもなります。

創作を通して愛着の傷を克服しようと苦闘しつつ人生の半ばで命を絶ってしまった芸術家がいる一方で、創作を生涯の友として、苦悩の中でも人生をまっとうできた芸術家もまた少なくありません。

夏目漱石は、人への恐れを抱えていましたが、創作を通して大切な友人を作ることができ、まめに手紙をやりとりしていたそうです。

先日ブログの記事で取り上げたオリヴァー・サックスも、自身に愛着の問題があり、人を信頼するのが難しいということを吐露していましたが、それを「独創的な孤独癖」として活かし、本当に心を許せる人を見つけたら、筆まめに手紙を書いていました。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語 | いつも空が見えるから

 

 異常な家庭環境で育ったことによるD型アタッチメント、無秩序型愛着パターンは、多くの場合、その後の人生にも暗い影を落とし、さまざまな問題を生じさせます。

成人になってから問題に気づいた場合、おそらくはすでに様々な症状に波及していて、その呪いを完全に解くには手遅れであり、複雑な葛藤や悩みを抱える人生は避けられないでしょう。

それでも、呪われた人生を受け入れ、それゆえに他の人にはない感性や強さが自分には備わっていることに気づくとき、あらゆる災いが飛び出した後で、最後にパンドラの箱の底に残った、かすかに輝く希望のかけらを見つけることができるのかもしれません。

 

 

多重人格治療のパイオニア ラルフ・アリソンの素顔―患者のために涙を流した医師

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「ラルフ、あなたが診てくれって言った患者のことだけど、あなた、何を相手にしてるかわかってる?」

「いや、キャサリン。わからないからテストをしてくれって頼んだんじゃないか」

「あなたが相手にしているのはね、もう一人の『私という他人』なのよ」(p33-34)

れは1972年3月のことでした。サンタクルスで病院を構えていた医師ラルフ・アリソン(Ralph B. Allison)のところへ、一人の女性が診察にやってきました。

その女性、ジャネットは29歳でしたが、高校生のころから長い期間、精神的な苦痛を抱えていました。以前の病院では統合失調症(当時は精神分裂病)と診断されていましたが、薬にまったく反応しませんでした。

アリソンは、ジャネットが「自分の中から声が聞こえる」と怯えていることを不可解に思いました。普通、統合失調症の患者は自分に問題があるとは感じず、幻聴に違和感を覚えたりしないからです。

さらに、ジャネットは治療の中で安定しているように思えた時期に突然、不自然な自殺未遂をしてアリソンを驚かせました。アリソンは頭を抱えて、信頼できるプロの精神科医キャサリンに意見を求めました。

そのときに交わされたのが、冒頭に引用した、「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からに載せられている会話です。

ラルフ・アリソンはキャサリンの言葉にショックを受けました。このとき彼はまだ知りませんでしたが、この日を境に、彼は『私という他人』すなわち「多重人格障害」と深く関わることになり、やがてこの分野におけるパイオニアまた権威の一人となるのです。

この記事では、多重人格障害(MPD)また解離性同一性障害(DID)の権威として、医療から見放された患者たちのために命をかけて闘い、ISH(内的自己救済者)などのユニークな概念を打ち立てた医師ラルフ・アリソンの素顔に迫ります。

 

これはどんな本?

この本は、精神科医ラルフ・アリソンの多数の著書のうち、日本語に翻訳されている貴重な一冊です。

内容は極めて壮絶で、悲惨な経験をした患者たちの生々しい物語と、命を削って彼らの治療に当たったアリソンの苦闘が綴られています。

決して華々しい成功例の自慢ではなく、むしろ患者の自殺に終わり涙を流した話や、まったく経験のない未知の症状に直面して無力感と挫折を味わった話など、失敗と試行錯誤の苦しみに満ちた臨床経験が包み隠さず明かされています。

そして、現代医学の知識では理解しがたいISH(内的自己救済者)との出会いや、悪霊の憑依のように思える奇妙なケースまで、批判を覚悟の上で明かす、ありのままの出来事が生き生きと語られています。

多重人格障害(MPD)との出会い

ラルフ・アリソンと多重人格障害(MPD)との出会いは、冒頭のエピソードのとおり、1972年に遡ります。

当時、アメリカでは「イブの三つの顔」(私という他人―多重人格の精神病理 (講談社プラスアルファ文庫))、「シビル」(失われた私 (ハヤカワ文庫 NF (35)))という二冊の多重人格障害の記録が出版されていて、一世を風靡し、映画化もされていました。

しかし医学界からは懐疑的な目を向けられ。たとえ存在するとしても極めてまれで、およそ日常では出会うこともない病気であるとみなされていました。

ラルフ・アリソンも、精神科医ではありながら、多重人格障害については特に関心を持つこともなく、ただ名前を知っているのみで、自分には縁のない世界の話だと考えていたようです。

そこへ、奇妙な病状を呈する女性ジャネットが登場し、彼女を治療するための助言を求めて経験ある精神科医キャサリンに相談したところ、冒頭の言葉のとおり、ジャネットは「私という他人」、すなわち多重人格障害であると告げられたのでした。

アリソンは、信じられないと感じつつも、絶大な信頼を寄せていたキャサリンの言葉を頭ごなしに否定するわけにはいきませんでした。

それで、診察室にやってきたジャネットに、恐る恐る尋ねてみました。

「ジャネット、きのう、君に会いにきた医者が、君の中には誰か他の人がいると言うんだ」、わたしは話し始めた。

多重人格かもしれない人間に近づくときのエチケットというのを誰かおしえてくれないものか。

わたしはどうやったらいいか、まったくわからなかったし、結果がどうなるかも想像できなかった。(p36)

ジャネットは、アリソンの突拍子もない話の意図をまったく理解できず、黙って聞いていましたが、内心アリソンが酔っているいるのではないか、といぶかるような表情だったたといいます。

それでもアリソンは「他の人」に会いたいと説得し、当惑するジャネットの目を閉じさせ、知りうる限りの方法で数分間かけてリラックスさせました。

そして…

「きのう、精神科医と話をした“誰か”あるいは“何か”と話をしたい。三つ数えたら出てきなさい。
一…、二…、三!」

“三”という声とともにジャネットの身体がこわばり、先ほどまで表情のなかった顔に、厳しく用心深そうな表情が浮かんだ。彼女は目を開けてわたしを疑り深そうに見つめた。

「オーケー、先生、なにが望み?」(p37)

これがアリソンと、最初の交代人格の出会い、すなわちジャネットに潜む暴力的人格“リディア”との出会いでした。

多重人格の専門家へ 

アリソンはひどく動揺しつつも、医療のスペシャリストらしく冷静さを装い、“リディア”に色々な質問をしました。

“リディア”は普段の大人しく優しいジャネットとはまったく違う雰囲気で、同じ身体でありながら、まったく違う表情、まったく違う振る舞いであり、とても同一人物とは思えないほどでした。

ある程度やりとりした後、アリソンは恐る恐る他にも誰かいるのか尋ねました。

“リディア”は否定しましたが、アリソンが語気を強めて、「ほかの誰か」に呼びかけると、“リディア”の声がかき消され、再び彼女の表情が変化しました。

アリソンは、ジャネットに戻ったのだとホッとして呼びかけましたが、その女性は「私は、ジャネットじゃありません」と言います。そして自分の名は“マリー”であると述べました。

そして驚くべきことに、自分は“リディア”からジャネットを守るのに疲れ果ててしまって、そのせいで、自殺を試みたのだと告白しました。そのときアリソンは、ジャネットが前兆もなく自殺未遂をした不可解な出来事の真相を知りました。

やがて“マリー”と話し終えたアリソンは、再びジャネットに代わってくれるように頼み、しばらくするとジャネットが戻ってきました。目覚めたジャネットは、起きた出来事を何ひとつ覚えていませんでした。

アリソンはその後、ジャネットに多重人格障害について知りうる限りのことを説明し、自分でも詳しくこの病気について調べ始めます。そして愕然とします。

多重人格障害という病気の報告はちらほらと存在するものの、詳しいことは何ひとつわかっていないに等しく、治療に成功した医者もほとんどいなかったのです。

アリソンは手探りでジャネットやその交代人格たちとコミュニケーションをとりつつ、暗中模索で治療をはじめました。しかし「医師」というより「観察者」にすぎなかったと回想しています。

そんなとき、またも衝撃的な出来事がアリソンの身に降りかかります。

同時期にアリソンのところを訪れた別の患者、キャリーという美しい女性が、「彼女は、わたしを殺そうとしているわ」とアリソンに訴えました。

アリソンは、だれかといざこざを起こしたのかと不安になり、キャリーの命を狙っているのは誰なのか問い尋ねました。すると、キャリーは、自分を殺そうとしているのは「ワンダ」という女性だと述べました。

アリソンは「ワンダ」というのは誰なのか、と尋ねました。

その瞬間、突然、キャリーの表情がいつもとまったく違うものに変化しました。そして、アリソンを口汚く罵ったのです。

この瞬間に理解した。わたしは〈MPD〉(多重人格障害)の患者を、同時に二人も抱えることになってしまったのだ。

これが仮に記録に残るようなことだとしても、わたしは少しも嬉しくなかった。

その時のわたしの正直な感想は、逃げ出して別の仕事につきたいということだった。(p88)

アリソンはジャネットこそ自分の生涯でただ一人の多重人格患者であり、極めてまれな例だと信じていました。

しかしただ一人の患者どころか、アリソンはこの後、何十人もの多重人格障害の患者と出会うことになっていくのです。

アリソンはそのころの思いをこう振り返っています。

わたしは、キャリーやジャネットのような患者に、二度と出くわしたくはないと願っていたが、わたしが二度も続けて経験したからには、世界にはこのような障害が思っている以上に存在しているような気がした。

この病気が珍しいのは、精神科医がその可能性に心を閉ざしているだけなのではないかと思った。(p117)

これと同様の点は、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群/ウィリス・エクボム病)を発見した医師カール・エクボムも指摘していました。

むずむず脚症候群はありふれた病気であり、多くの患者が悩まされていましたが、医師たちがまともにとりあわず、精神的なものとみなしていたために、医学界からは存在を認められていなかったのです。

理解できない症状をすぐ精神ストレスと決めつけてはならないーむずむず脚の発見者エクボム博士の警告 | いつも空が見えるから

 

 カール・エクボムもラルフ・アリソンも、患者の訴えに真剣に耳を傾け、苦しみの意味を理解しようと努める誠実で献身的な医者でした。

患者のために涙を流した

その後の精神科医ラルフ・アリソンの人生は、決して平坦なものではありませんでした。むしろ、アリソンは多重人格障害と出会ったがために、激しい感情的苦痛を何度も味わいました。

最初にアリソンを襲ったのは、患者の死という悲劇でした。

アリソンは、多重人格障害の患者であるジャネットと出会って以降、手本となる前例も、効果的な治療法も何も存在しない中で、患者を何としてでも救おうとして、全力を傾けていました。

「観察者」のような役割しか果たせていない自分の情けなさを嘆きつつも、効果があると思える治療はなんでも試し、患者にはオープンに気持ちを打ち明け、少しずつ少しずつ治療を進めていきました。

アリソンは、こと多重人格障害の治療においては、権威ある「医者」というより、患者と肩を並べて、共に解決策を探し、励まし合う友のような立場でした。

そのため、アリソンの二番目の多重人格患者であるキャリーが自殺したとき、それもキャリー自身が自殺を選んだというより、正体不明の超暴力的人格によって死に追いやられたのを目の当たりにしたとき、アリソンは耐え切れず涙を流しました。

精神科医は泣かないものとされている。

無表情な仮面をつけ、肩も動かさずに、ひどい児童虐待や性的逸脱、信じられないほどの苦しみなどの話を聞かなければならない。

誰かを裁いてはいけないし、自分の価値観を患者に押しつけてもいけない。

…その夜のわたしの反応を非難する医師もいることだろう。…キャリーのことを考えると、塩辛い涙がわたしの目を焼いた。(p78-79)

アリソンを襲った苦悩はこれだけではありませんでした。

アリソンは、自分の扱った多重人格障害という特異な病気や、治療のために試した方法などを、ぜひとも報告しなければならないと感じて、医学界に発表するようになりました。

しかしアリソンを待っていたのは、医学界の権威に逆らう者に対する冷たい視線と、弾圧、迫害でした。

わたしの方法に批判的な医師たちの妻や、病院職員からときわり不快な嫌味を言われて傷ついた。

一時は真剣に〈MPD〉の治療をやめようかと考えた。同僚の医師たちがやっているように〈MPD〉の可能性を無視するだけでいいのだ。(p125)

アリソンは、同僚たちからの冷たい視線や心理的な攻撃にひどい苦痛を覚え、一時期は真剣に多重人格障害の治療から手を引こうかと考えたほどでした。

しかしアリソンはそうすることはできませんでした。

アリソンは、自分の多重人格の研究は、キャリーという一人の女性の犠牲の上になり立っていることを知っていて、ここで引き下がることはもうできないという使命感を感じていました。

そしてさらにこうも述べています。

少なくともカリフォルニア州においては、この病気を扱っているのはわたししかいない。ここの患者たちは他に助けを求める場所がないのだ。

わたしが患者たちの“最後の頼みの綱”なのだという責任感にとらわれてしまった。心やすらかに「止めた」と言うわけにはいかなかったのだ。(p125)

アリソンは、ジャネットやキャリーを通して、この病気が本物であり、患者たちは実際に恐ろしい苦悩を抱えて生活していることを知っていました。

だからこそ、いくら同僚がこの病気の存在を否定しようと、患者の最後の頼みの綱である自分がやめるわけにはいかないと感じていました。

もちろん、そのような決意を抱いたからといって、医学の常識が通用しない患者たちの苦痛に親身に寄り添うことからくる消耗、そして同僚からの絶え間ない攻撃にさらされるストレスが軽くなるわけではありません。

アリソンは心身ともに限界まで追い詰められ、文字どおり倒れることさえありました。

わたしは精神的にも肉体的にも極限まで消耗していた。病院で、涙が止まらなくなったことがあった。

誰かに何か話しかけようとすると涙が込み上げ流れてくる。これは消耗状態のかなり典型的な症状だった。(p214-215)

しかしそれでもアリソンは、多重人格障害の治療を諦めませんでした。

こうしたアリソンの経験を読んで思い出されたのは、脳脊髄液減少症の疾病概念を確立した日本の篠永正道先生の苦労でした。

篠永先生もまた、脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)という医学的にそれまで非常にまれだと言われていた疾患概念を見直し、大勢のむち打ち患者を治療し、学会で発表しました。

しかし同僚の医師や権威者からの反対にさらされ、アリソン同様、苦悩の日々を送りました。

しかし決して患者を見捨てることなく辛抱強く研究を続けるうちに、協力者が集まり、国の研究班も発足し、ついに今年、脳脊髄液減少症の治療が保険適用されるに至りました。

「脳脊髄液減少症を知っていますか: Dr.篠永の診断・治療・アドバイス」を読んで | いつも空が見えるから

 

 現在でも、慢性疲労症候群や線維筋痛症、化学物質過敏症といった新しい疾患概念に取り組む医師たちが、ラルフ・アリソンやカール・エクボム、篠永正道といった医師たちと同様に、ときには批判や偏見にさらされつつも、患者を支え、日夜治療に励んでいます。

未知の世界に踏み込む

多重人格障害の治療を忍耐強く続けたアリソンの名声は、やがて広く知られることとなり、大勢の患者がアリソンを頼って彼の病院にやってくるようになりました。

何十人もの患者を診察するうちに、アリソンは、多重人格障害の患者たちには、さまざまな共通点がみられることに気づくようになりました。

多重人格の患者の共通点に気づく

まず、アリソンが気づいたのは、多重人格障害の患者が、幼いころに、多くは家庭において、非常に辛い体験をしていることでした。

〈多重人格障害〉を理解するにつれて、患者はほとんど、片親あるいは両親かに望まれないか、またはそんなふうに感じてしまう状況に置かれていた経験があるということがわかった。(p81)

多重人格障害の患者は、家庭環境に恵まれず、親に望まれずに生まれたり、虐待を受けたり、あるいはやむを得ない事情であるにしても子ども心には理解しがたい親との離別を経験したりしていました。

またアリソンは、多重人格の患者たちには、極端な感受性の強さがあることにも気付きました。

バブスの場合、極端な感受性の強さに加えて現実対処のメカニズムとして精神的逃避傾向を持っているために、容易に分裂が起こったのだろう。

感情的に傷ついたり大きな重圧を生み出す出来事に直面するたびに、それに対処するために交代人格を作る方法を選ぶようになってしまった。(p138)

患者は、人並み外れた感受性の強さを持っていて、そのせいで非常に敏感で傷つきやすく、ストレスが生じたときに苦痛に対処する手段として交代人格を作り出していることがわかってきました。

交代人格とは、とても難しい状況に直面したとき、自分でそれに対処する代わりに、身代わりとなって対応してくれるよう、現実に対処するメカニズムとして生み出されたものだったのです。

中には、その対処方法があまりに日常になっているため、アリソンの診察に対処するための新しい交代人格を作り出した患者さえいました。

また、アリソン独自の理論として、交代人格を発展させた年齢によって症状が異なるのではないか、という洞察もありました。

おおよそ7歳以前で発症した場合はオリジナルの人格がまだ確立していないので、発症と同時にオリジナル人格は内側に引きこもって存在しないかのようになり、次々と生み出される交代人格のみが身体をコントロールするようになります。アリソンはこれを多重人格障害(MPD)と呼んでいます。

それに対し、自我がしっかり発達した後でトラウマを経験し、交代人格が生じた場合は、普段はオリジナル人格がコントロールしているのに、時々交代人格によってコントロールを奪われます。するとオリジナル人格は自己同一性の悩みを抱えるので解離性同一性障害(DID)になるとしています。(p259)

また交代人格とは似て非なる想像人格(イマジナリープレイメイト)の存在に注目した点でも、アリソンの観察眼は鋭く、先進的な研究だったといえます。(p71,137,254)

内的自己救済者(ISH)とは何か

アリソンは、大勢の多重人格患者の治療経験を通して、交代人格とは、現実対処のために目的をもって作り出されたものだと学びました。

ところが、多重人格の患者たちには、交代人格とは異なるように思える特殊な人格が二種類いることに気づきました。

そのうちのまず一つは内的自己救済者(ISH)です。

アリソンが出会った最初のISHは、ジャネットに存在する“リディア”、“マリー”に次ぐ第四の人格“カレン”でした。

はじめのうち“カレン”の存在は気づかれませんでしたが、交代人格同士の会話をテープレコーダーで録音したとき、初めて第四の人物がいることが明らかになりました。

カレンは、ジャネットの味方であり、ジャネットを力強く励まし、ジャネットの身に起こっていることを何もかも把握しているようでした。

後にアリソンがジャネットの4つの人格すべてに心理テストを別々に行わせてみたところ、カレンただ一人が精神的に何の問題もない正常な人間、というより完璧な人間であることがわかりました。

それ以降、アリソンは、他の多重人格者の治療の際にも、カレンのような正常で例外的な交代人格が存在することに気づくようになりました。

それらの人格は次のような共通した特徴を備えていました。

■男女の性別のようなジェンダーがない
■宗教的な話し方をする
■患者の過去について正確と思える情報を知っている
■患者の誕生の瞬間から存在する
■人を憎む能力がなく、愛だけを感じる
■純粋に理性的な存在である
(p134-136,156-157などに基づく)

アリソンは、このような不思議な性質を持つ特殊な人格をISH(イッシュ)と名づけました。

ISHとはInner Self Helperの略であり、訳せば「内的自己救済者」となります。

アリソンは、内的自己救済者の正体は誰にでも生まれつき備わっている理性的自己(エッセンス)、すなわち「良心」であると考えています。

交代人格と〈ISH〉ははっきりと別の存在である。また、多重人格だけではなく、誰にでも〈ISH〉はある。

何か困難な選択を強いられた時に突然選ぶべき道が閃くことがある。その“本能”あるいは“知識の源”は、〈ISH〉なのだ。それを“良心”と呼ぶ人もいるかもしれない。(p153)

本来、良心は、わたしたちの一部として機能していて、別の人格として独立しているなどど思う人はいません。

しかしそれでも、悪いことをしたときに「良心の声」にとがめられるとか、「良心の声」に聞き従うといった表現が存在しています。

つまり、普通の人であっても、自分の考えとはまったく別の方向を指し示し、正しい方向へと導く「良心」の存在を感じとることがあるのです。

多重人格患者の場合、幼いころのトラウマ経験の結果、この「良心」をなす理性的自己が感情的自己から分裂し、あたかも一人の人格のようにして振る舞うのではないか、と考えられています。

アリソンは、冷静かつ理性的、しかも医師以上に患者のことをよく知っていて、最善の治療の方針さえ提供してくれるISHの存在に戸惑いつつも、ISHを治療の助けとみなすようになりました。

悪霊の憑依との邂逅

アリソンが出くわしたもう一つの例外的な人格、それは極めて異様な存在です。

アリソンがその存在と初めて出会ったのは、二番目の患者、死から救えなかったキャリーの治療においてでした。

アリソンはその存在について戸惑いつつもこう記しています。

わたしは患者たちの体験から目を背けることができなかっただけだ。

多くの場合、発見された“存在”は〈MPD〉の既知のパターンに合致していなかった。

わたしの他にも同じような経験をした精神科医がいる。

わたしは、交代人格の起源や目的について似たような結論に達した大勢の医師たちと情報を交換しているが、彼らも交代人格のパターンに合わない「何者か」に支配されている患者を治療したことがあるという。

多くの場合、彼らはそれに対する対処方法がわからないでいる。(p239)

その存在の共通点は、交代人格とは違い目的を持たないこと、そして自らを「霊」と名乗ること、また外傷体験ではなく、オカルトと関わったことをきっかけに滑りこんできたと表現されることなどでした。

これはいわゆる「霊の憑依」なのでしょうか。アリソンはそうした考えをにわかには信じがたいと感じました。

わたしは、この「霊の憑依」という話を、多くの精神科医以上に懐疑的な気持ちで受け止めた。

それは父からの影響も大きい。わたしの父は牧師だったが、この「霊の憑依」というような宗教の持つ感情的な側面を軽蔑していた。父ならこんなことに一切関わりを持たなかっただろう。(p95)

アリソンは他の多くの医師と同様、医学の世界に「霊の憑依」という概念を持ち込むことにためらいを感じました。

しかし「霊の憑依」という現象は古くから記録が存在し、西洋では主に、キリスト教の聖書の記述を通してよく知られています。

「霊の憑依」に関する昔の記述と、現代の多重人格障害および解離性同一性障害の患者の症状はよく似ている部分があるので、解離を扱う専門家たちは、必ずどこかで、「霊の憑依」について解釈する必要に迫られます。

日本の解離性障害の本でも、たとえば解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害では、従来「霊の憑依」とみなされてきた症状は、あくまで特殊な状況下での医学的な解離現象の一種だろうとみなされています。

しかしアリソンが注目したように、「霊の憑依」と思える交代人格が、宗教的悪意に満ちているなど、他の多くの交代人格とは性質が異なり、専門家たちの間に困惑と論争を引き起こしてきたのは事実です。

アメリカでは、一時期、多重人格の原因は「悪魔教儀式的虐待」(SRA)にあるというセンセーショナルな論争が勃発しましたが、そのような極端な主張は否定されました。(p257)

それでも、多重人格のすべてではないにせよ一部にオカルトとのつながりによる奇妙な人格が見られることは間違いなく、ISHの存在も含めて、アリソンや一部の専門家たちは、まだ解離には未知の部分があるのかもしれないという思いを抱き続けています。

アリソンは、自分自身の限界を認めつつ、こう述べます。

これはすべて正しいのだろうか? わたしにはわからない。標準的な既成の科学知識からはみ出ている。だが、それを言うなら〈MPD〉という病気自体がも同じことではないか。

わたしにできるのは、手探りし、質問し、返ってきた答えを記録するだけだ。何人もの患者の答えに食い違いがなければ、その情報はおそらく正しいのだろうと仮定できる。

しかし、人間の心の想像を絶する複雑さを、ほんとうに理解するには長い時間が必要だ。(p174)

解離の底なし沼に引きずり込まれる

ラルフ・アリソンは、医学から見放され、否定されてきた多重人格の患者に寄り添い、彼らの苦悩を認め、親身になって治療にあたる稀有な医師でした。

その真摯な態度によって、これまで詐病であると無視され、顧みられることさえなかった多重人格障害また解離性同一性障害という特異な病気を抱えた患者たちの体験が明らかになり、活発な研究がなされるようになりました。

その一方で、解離性同一性障害の奇妙な世界は、すでに述べた霊の憑依のようなオカルトとの接点を含め、科学では説明がつかず、どこまでが真実でどこまでが空想なのかもわかないような未知の領域へ地続きになっています。

多重人格などを含む解離の世界はある意味で底なし沼のようなものです。沼の底には何が存在するのかまったくわからず、あまりに不安定かつ危険な世界が広がっています。

ラルフ・アリソンは、言うなれば、底なし沼のようなその奇妙な世界に呑み込まれた患者を救い出そうとして、人一倍身を乗り出して何としてでも患者を引っばりあげようと腐心してきた医師でした。

しかし同時に気づかないうちに、あまりに近づきすぎたせいで自らも底なし沼に足をとられて沈みかけていたのかもしれません。

ラルフ・アリソンは、医師として科学的な目で多重人格を分析する一方で、ISHや霊の憑依との出会いを通して、さまざまな奇妙な現象には霊的な意味合いがあると考えるようになっていったようです。

たとえばISHについては、その源は、「創造者」や「普遍的知性」にあり、生まれ変わりを通して受け継がれると解釈するようになりました。ISHは霊的存在の断片であり、神との仲介をする存在だとみなすようになったのです。

そして多重人格患者のエリーズの導きによって、自分自身のうちにも、“マイケル”という名の理性的自己(エッセンス)が存在していることに気づいたと述べています。(p254)

アリソンが“マイケル”の声に耳を傾けて書いたとされる著書マイケル 私のエッセンスが邦訳されていますが、こちらは今回読んだ 「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からとは違って極めて宗教色の強い内容であり、アリソンはついに底なし沼に呑み込まれてしまったのではないかと思わずにはいられませんでした。

解離の世界に入り込みすぎて、逆に取り込まれたり、影響されたりする危険性については、多くの治療者が認めていて、日本の専門家の柴山先生の本解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)などでも警告されています。

無限の世界に魅入られたラルフ・アリソン

ラルフ・アリソンは、多重人格治療のパイオニアまた権威でありながら、その独自の見解のせいで他の専門家たちとは意見を違え、次第に取り残されていきました。

それでも、誰よりも解離の底なし沼の近くまで身を乗り出し、命を賭して多重人格の治療に当たったラルフ・アリソンの研究と洞察は、抜きん出た偉業であるに違いありません。

たとえラルフ・アリソンが宗教的な解釈を強くしたとしても、それはラルフ・アリソンの生涯全体を貫く、人間の心に対する強い関心と愛情の現れだったといえます。

アリソンの独自の洞察は、ことによると、今なお真実のもっとも近い場所に迫っている可能性さえあるかもしれません。

ラルフ・アリソンが多重人格障害という、忘れられ、見捨てられ、見放されていた患者たちを治療してきた日々を振り返って述べる、以下の謙虚な感想は、わたしたちの心を強く揺さぶるものではないでしょうか。

有名になり成功はしたが、わたしはまだまだこの分野において学生だと自負している。

扱ってきた症例や体験によってはっきりしたのは、わたしたちが心について持っている知識は、どれほど大きいように見えても、心の可能性のちっぽけな破片(かけら)にしかすぎないということだ。

人間の頭の中には無限の世界があり、わたしたちはそれを探りはじめたばかりなのである。(p10)

国立精神神経センターによる認知症予防・早期発見に役立つサービス「IROOP(アイループ)」が本日7/5から登録受けつけ

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知症を予防する研究を目的とした登録システムIROOP(アイループ)が本日7/5から運用開始され、登録が受け付けられています。

アイループは、国立精神・神経医療研究センター(NCNP)や国立長寿医療研究センターによる、「あたまの健康応援プロジェクト」で、数万人規模の健康な40歳以上の日本人の登録と利用を見込んでいるようです。

トップページ | IROOP

公式ウェブサイトによると、アイループに登録するメリットや、具体的な登録方法が次のように説明されていました。

登録するメリット

(1)健康コラムとして様々なジャンルからの最新情報が届けられる

(2) 簡易認知機能検査 IROOPあたまの健康チェックが定期的に受けられる

(3) 認知症の予防や薬に関する臨床研究の情報の案内

検査によって、定期的に自分の記憶力の状態を観察でき、認知症関連の最新情報も受け取れるため、認知症の予防や早期発見に役立てられるサービスのようです。

利用の流れ

登録できるのは、(1)日本国内在住の、(2)認知症の診断を受けていない、(3)40歳以上の人。

登録から利用の流れは、

・メールアドレスと利用者情報を登録
・初回アンケート(160項目、約25分)
・あたまの健康チェック(発行された受験番号を使用してフリーダイヤルで利用)
・半年ごとに定期アンケートとあたまの健康チェック

となっているようです。提供されるサービスや情報はすべて無料とのこと。

すでに認知症と診断されている人は利用できませんが、その他の病気の場合は問題ないようなので、パーキンソン病や糖尿病、睡眠障害など、将来認知症の発症リスクが高い病気を持っている人の健康管理にもいいかもしれないと思いました。

以前のニュースによると、国立精神・神経医療研究センターの松田博史先生は、このサービスについて次のように述べていました。

認知症解明へ数万人追跡、記憶力の変化をデータに…健康な40歳以上対象 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

健康な人の中から認知症発症前の『超早期』の人を見つけ、予防に有効な治療薬の開発に役立てたい

わたしは残念ながら年齢の関係で利用できませんが、とても興味深いサービスだと思うので、関心のある方は、公式サイトをご覧になってみるようお勧めします。親や家族に勧めてみるのもよいかもしれません。

パーキンソン病の新しい治療法「デュオドーパ」承認―携帯ポンプで腸へ薬を持続供給してウェアリング・オフ改善

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外ではすでに広く導入されていて、日本でも期待されていた、パーキンソン病の新しい治療法、腸に直接レボドパ含有製剤を持続的に供給する「デュオドーパ」(DUODOPA)が、2016年7月に承認されました。

昨年1月に承認された米国をはじめ、今回日本で承認されたことで、デュオドーパは世界50ヵ国で承認されたことになるそうです。

アッヴィ、進行期パーキンソン病治療薬として「デュオドーパ®

 

 アッヴィ、進行期パーキンソン病治療薬として「デュオドーパ(R) 配合経腸用液」の製造販売承認を取得:時事ドットコム

進行期パーキンソン病治療薬「デュオドーパ」の承認取得-アッヴィ - QLifePro 医療ニュース

ウェアリング・オフを改善する「デュオドーパ」とは?

デュオドーパは、既存の薬物療法で十分な効果が得られないパーキンソン病症状の日内変動に対する治療薬として承認されました。

従来のパーキンソン病の薬物療法では、使い続けるうちに症状の進行とともに薬の効果の「オン」「オフ」の差が激しくなるウェアリング・オフ(wearing-off現象)に悩まされるようになる人が少なくありませんでした。

デュオドーパは薬剤を持続投与することで「オフ」状態を改善する効果があるそうです。

臨床試験では、1日あたりの「オフ」の平均時間が、これまでの抗パーキンソン病治療薬に比べ、デュオドーパ使用開始から12週間後では4.64時間、52週間後には4.28時間少なくなったとのことです。

アッヴィの公式サイトも、デュオドーパのページで製造販売承認の取得を伝えるとともに、概要を説明しています。

デュオドーパ

「デュオドーパ®配合経腸用液」は、レボドパ含有製剤を含む既存の薬物療法で十分な効果が得られないパーキンソン病の症状の日内変動(ウェアリングオフ)に対する治療薬として、2016年7月に製造販売承認を取得しました。

デュオドーパは、小型の携帯注入ポンプと専用のチューブを用いて、空腸に直接、レボドパ製剤(レボドパ・カルビドパ水和物配合剤)を16時間にわたり持続投与する治療法とのこと。

胃ろうを作る前に、経鼻的に空腸に投与することで、あらかじめ効果を確認することもできるそうです。

デュオドーパについては、昨年、著書熱狂宣言の中で若年性パーキンソン病をカミング・アウトした、ダイヤモンドダイニングの松村厚久社長もインタビューの中で期待を寄せていました。

若年性パーキンソン病と闘う飲食業社長「超えられない試練ない」(3/4ページ) - 産経ニュース

薬が効いているときとそうでないときの差が激しく調整に苦労する松村社長だが、腸管から薬を持続的に供給できるカートリッジ交換式ポンプが日本でも使用可能となることに期待を寄せる。

闘病生活が長くなる若年性パーキンソン病の患者ではウェアリング・オフ現象に悩まされることが多く、マイケル・J・フォックスもいつも上を向いての中でオンオフ症状について詳しく書いていましたし、日本の若年性患者の方たちもオン・オフのある暮らし―パーキンソン病をしなやかに生きるというタイトルの本を出していました。

今回の新しい治療法デュオドーパや、今後開発されるであろう様々な治療法が、多くのパーキンソン病患者が抱える日常生活の困難な問題を軽減する手段になればと思います。

雑誌「アレルギーの臨床」2016年6月号で化学物質過敏症の特集

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隆館による雑誌「アレルギーの臨床」2016年6月号で、化学物質過敏症(CS)が特集されていました。

化学物質過敏症・ゆるゆる仲間 書籍紹介の記事で知りました。ありがとうございます。

東海大学医学部教授の坂部 貢先生をはじめ、国立病院機構盛岡病院の水城まさみ先生など、多数の化学物質過敏症の専門医の方々の論文がまとめられています。

以下に、出版社の公式サイトから、目次の一部を引用しておきます。

北隆館/ニュー・サイエンス社

―特集に寄せて―
環境化学物質と化学物質過敏症/坂部 貢

1. アレルギーに対する微量化学物質の影響/本田 晶子・高野 裕久
2. 脳科学的見地からみた化学物質過敏症/東 賢一
3. 心身医学的見地からみた化学物質過敏症/辻内 優子・辻内 琢也
4. 公衆衛生学的見地から見た化学物質過敏症/西條 泰明
5. 化学物質過敏症の実地診療/水城 まさみ

価格は2300円(税込み)で、雑誌や医学書専門のオンラインストアなどで購入できます。

 アレルギーの臨床 2016年6月号 | Fujisan.co.jpの雑誌・定期購読 はてなブックマーク - アレルギーの臨床 2016年6月号 | Fujisan.co.jpの雑誌・定期購読

アレルギーの臨床 36/6 2016年6月号|【送料無料】医学書専門書店メテオMBC

Amazonでは在庫切れでしたが、マーケットプレイスで入荷するかもしれません。

慢性疲労症候群では腸内細菌の多様性が低下(コーネル大学の研究)―自己免疫性の脳の慢性炎症の原因?

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性疲労症候群(ME/CFS)の患者の腸内細菌を調査し、患者を約83%の確率で見分けられる異常が発見されたという米国コーネル大学の研究結果が、6月23日に雑誌「Microbiome」に発表されたそうです。

研究を統括したのは、微生物学者のモリーン・ハンソン教授(Maureen Hanson | Department of Molecular Biology and Genetics)だそうです。

Indicator of chronic fatigue syndrome found in gut bacteria | Cornell Chronicle

 

 Reduced diversity and altered composition of the gut microbiome in individuals with myalgic encephalomyelitis/chronic fatigue syndrome | Microbiome | Full Text

慢性疲労症候群は脳でなく腸と関係か :世界の最新健康・栄養ニュース

慢性疲労症候群の診断は腸で | 美容経済新聞

慢性疲労症候群は健常人と比較すると腸内細菌叢が変化している : 腰痛、肩こりから慢性広範痛症、線維筋痛症へ           ー中枢性過敏症候群ー  戸田克広

その疲労、本当に肉体的な疲れが原因ですか?腸内細菌叢の乱れが慢性疲労を引き起こしているかも?

ME/CFS患者の腸内細菌に明らかな異常

研究では、ニューヨーク市のME/CFSの専門家スーザン・レヴァイン医師(Susan M. Levine, M.D. - Chronic Fatigue Initiative)と協力して、慢性疲労症候群の患者48人と、健常者39人の便と血液が解析され、比較されました。

その結果、以下のような点が明らかになったそうです。

■血液中の炎症バイオマーカーC-reactiveprotein (CRP), intestinal fatty acid-binding protein (I-FABP),lipopolysaccharide (LPS), LPS-binding protein (LBP), and soluble CD14 (sCD14)を調べたところ、幾つかが増加

■健常者に比べて腸内の微生物(マイクロバイオーム)の多様性が少なく、炎症を誘発させる特定の細菌の増加と、抗炎症性の細菌種の減少が見られた。これはクローン病や潰瘍性大腸炎の患者の腸内細菌と似ている

■これらに基づいて便検体と血液検査からME/CFS患者を82.93 %の精度で診断できた

この研究について、モリーン・ハンソン教授は次のようにコメントしていました。

“Our work demonstrates that the gut bacterial microbiome in ME/CFS patients isn’t normal, perhaps leading to gastrointestinal and inflammatory symptoms in victims of the disease,”

訳「私たちの研究は、ME / CFS患者の腸内細菌(マイクロバイオーム)は正常ではないことを示している。おそらくこの病気の犠牲者の胃腸と炎症性の症状につながるのだろう」

“Furthermore, our detection of a biological abnormality provides further evidence against the ridiculous concept that the disease is psychological in origin.”

訳「さらに、生物学的な異常に関するわたしたちの発見は、この病気の原因が心理的なものだとするばかげた概念に対するさらなる証拠を提供します」

(※英語は苦手なので、訳の正確さについてはご容赦ください)

腸内細菌の異常は単なる食生活の問題ではない

近年、腸内の微生物叢(マイクロバイオーム)に関する研究はめざましく進展しています。

このブログで以前に取り上げたように、マーティン・J・ブレイザー教授の失われてゆく、我々の内なる細菌によると、マイクロバイオームの異常は、さまざまなアレルギーや自己免疫性疾患の原因と考えられるようになってきています。

腸内細菌の乱れというと、単なる食習慣の不摂生が原因だと考えられがちですが、そう単純な話ではありません。

人類ははるか昔から、体内のさまざまな微生物と共存してきました。そのため、わたしたちの免疫システムも微生物の存在ありきで正しく機能するように成り立っています。

健康な腸内細菌は出産時に親から子へと受け継がれ、幼少期の生育環境によって、体内に取り入れられていき、免疫の獲得や脳の発達などにも影響を及ぼすと言われています。

幼いころに多様な細菌にさらされると、さまざまな微生物に寛容で、敵味方を賢く見分ける免疫系が育まれます。

しかし、子どものころに清潔すぎる環境で育つと、異物に対して極端な反応を示し、敵と味方の区別があいまいな免疫系になってしまいます。

その結果として、本来敵ではないものに過剰に反応するのがアレルギーであり、味方を敵と誤認してしまうのが自己免疫性疾患です。

自己免疫性疾患には、たとえば先ほど慢性疲労症候群の腸内細菌の状態と似ているとされていたクローン病や潰瘍性大腸炎のほか、多発性硬化症やエリテマトーデスなど多種多様な病気が含まれています。

たとえば2016年6月のNatureでは、多発性硬化症の患者で、やはりマイクロバイオームが変化しているという研究が報道されていました。

【微生物学】多発性硬化症患者の腸内微生物叢の変化 | Nature Communications | Nature Research

腸内細菌は、免疫系の機能に影響を及ぼすことが知られており、腸内微生物の数の変化が自己免疫疾患の発生と相関している。

日本の国立精神・神経医療研究センターの山村先生らによる同じ6月の研究では、腸内細菌の多様性の減少とともに特定の免疫細胞が大幅に減少することで、炎症が抑えられなくなり、多発性硬化症の発症につながるのではないか、と推測されています。

多発性硬化症:抑える細胞、マウスの腸内に確認 精神・神経センター - 毎日新聞

抗生物質を投与すると、腸内細菌が死ぬとともにCD4陽性IELも大幅に減った。チームは、この免疫細胞を活性化する腸内細菌があり、その減少が病気の発症の一因になっていると推測している。

近年増加している帝王切開や抗生物質の乱用は、脈々と受け継がれてきた微生物の多様性を損なうもので、マイクロバイオームの多様性の減少を招き、現代人のさまざまな病気を発症しやすい体質を生み出しているとして、専門家たちは警鐘を鳴らしています。

マイクロバイオームの異常によって引き起こされるさまざまな病気の治療法として、健康なマイクロバイオームを持つ人の糞便を患者の腸に移植する方法や、それをカプセルにしたもの、寄生虫療法などが注目を集めています。

糞便移植は、すでに潰瘍性大腸炎やクローン病をはじめ、さまざまな病気の治療にも成果を上げていることが報道されていて、2014年の朝日新聞には、慢性疲労症候群に対する臨床試験も進められているという一文がありました。

「便移植」で肥満を抑えることも可能に - 関口一喜 イチ押し週刊誌 - 朝日新聞デジタル&M

この便の移植治療は、腸疾患に限らず、糖尿病、慢性疲労症候群、不眠症などでも臨床試験が始まっている

一方、寄生虫療法と聞くと、得体のしれないものに思えるかもしれませんが、寄生虫の中には、人間の体内で長い歴史にわたり共存してきたものも存在していて、最近も寄生虫を用いた自己免疫疾患の治療についての研究がやはり今年6月のNatureに載せられていました。

【免疫】寄生虫による免疫応答の活性化で関節炎の進行を抑える | Nature Communications | Nature Research

寄生線虫に感染したことで起こる特定の免疫応答の活性化が関節リウマチの治療に役立つことがマウスの研究で明らかになった。

このような、腸内細菌の多様性の減少の原因や、それが引き起こす自己免疫疾患、脳の慢性炎症などについて詳しくは、失われてゆく、我々の内なる細菌に基づいてまとめた以下の記事をご覧ください。

腸内細菌の絶滅が現代の慢性病をもたらした―「沈黙の春」から「抗生物質の冬」へ | いつも空が見えるから

 

「自己免疫性脳疾患」としての慢性疲労症候群

このブログで取り上げている発達障害や、今回の記事の研究の慢性疲労症候群も、脳の疾患でありながら、腸内のマイクロバイオームの異常との関係が注目されている問題に含まれています。

単に、胃腸の問題か脳の問題か、という二択ではなく、「腸脳相関」という概念が示すように、腸と脳は密接に連動して働いている器官だと言われています。腸はセロトニンなど感情に関係する神経伝達物質の生成とも深く関わっています。

腸内環境は「腸脳相関」によって脳の病気に関連している | いつも空が見えるから

 

 すでに述べたように、腸内のマイクロバイオームの多様性は、免疫システムの成長に大きな影響を及ぼしますが、免疫システムは全身の炎症を制御するものです。

自閉症や慢性疲労症候群は、脳の慢性炎症との関係が示唆されていますが、腸内細菌の多様性の低下のため、正常に機能する免疫システムが発達しなかったことが、これらの慢性炎症の原因となっている可能性があります。

自閉症や慢性疲労症候群の脳の炎症は細菌などの不在がもたらした?―寄生虫療法・糞便移植で治療 | いつも空が見えるから

 

興味深いことに、近年慢性疲労症候群は「自己免疫性脳疾患」という概念と結び付けられているそうです。

鹿児島大学大学院の髙嶋 博教授は、雑誌「神経治療学」2016年No1「特集 自己免疫性脳症の診断・病態・治療」でこう述べていました

それでは自己免疫性脳症・脳炎の頻度はどのくらいなのかということを考えてみると、日本人は気管支喘息 、アトピー性皮膚炎 、鼻アレルギーのようなアレルギー性の疾患に十万、百万の単位の患者が罹患 している。

では脳には 、高頻度のアレルギー性の疾患はないのであろうか 。その 答 えが、橋本脳症であり、慢性疲労症候群であり、さらには線維筋痛症ではと私は思っている。

…慢性疲労症候群の患者が疲労のみならず記憶障害や筋力低下を起こすのは脳疾患であるからであろう。(p8)

この特集では、慢性疲労症候群や線維筋痛症をはじめ、従来身体表現性障害とみなされてきた患者の多くが免疫治療に反応することから、こうした身体症状は「自己免疫性肝脳炎」であるとみなされています。(p10)

こうした自己免疫性の免疫応答による脳の慢性炎症の原因が何であるかは、今後解明されていく必要があるでしょうが、一つの要因として、社会の衛生革命や抗生物質乱用に伴う、現代人のマイクロバイオームの多様性の低下が関係している可能性がありそうです。

自己免疫疾患やアレルギーは、抗生物質や清潔志向に伴って減少した感染症とは反比例して増加していることが知られており、慢性疲労症候群や自閉症も似たような増加傾向を見せています。

心因性ではないが心理面のケアも大切

これらの研究は、これまで心因性とされてきた慢性疲労症候群や線維筋痛症が、生物学的な問題であることをはっきり示すものです。

さきほど引用したとおり、モリーン・ハンソン教授は、慢性疲労症候群患者のマイクロバイオームの異常は、慢性疲労症候群は心因性だというナンセンスな考えに対する反証するものだと述べています。

また雑誌「神経治療学」2016年No1「特集 自己免疫性脳症の診断・病態・治療」でも髙嶋 博教授らが次のように書いていました。

心因性とされる症候を多数もつ症例そのものが自己免疫性脳症そのものではないかといえなくないところが驚くべきことである.

心因のみで多くの患者で同じようなパターンの神経症候が起こると考えること自体に無理があるし,身体表現性障害の多数にたいした心因が見つからないということが常識になっていることも恐ろしいことである.(p10)

トラウマなどの心因が明らかな場合はともかく、心因が見つからないような慢性疲労や慢性疼痛の場合は、ありもしないストレスを探すより、自己免疫性の脳の炎症とみなして治療するほうが効果的かもしれません。

一方で、病気を完全に「心の問題」か「体の問題」かでわけることはできない、という点も覚えておく必要があります。

そもそも人間の心は、体とは別の実態のないものから成り立っているわけではなく、心は体の一部である脳の活動と関連しています。

体の状態が思わしくなければ心にも影響がおよびますし、逆に心の状態がよくなければ身体的な病気を発症しやすくなることもあります。

これは「心身相関」と呼ばれていますが、近年、心と体の関係性も徐々に明らかにされつつあります。

たとえば以下のような研究では、これまで気の持ちようで病気が改善する「プラセボ効果」とされてきた現象は、実際には前向きな感情や期待が脳の報酬経路を活性化し、免疫系の機能を高め、脳の可塑性を引き出しているものではないかとされています。

『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』 - HONZ

 

「プラシーボ効果による治癒は、投薬による治癒より<非現実的>というわけではない。それは、心が脳の構造を変えるという、神経可塑性の作用の一例なのである(58頁)」

報酬中枢の活性化がマウスの免疫機能を高める | Nature Medicine | Nature Research

脳の報酬中枢の1つ(天然の報酬刺激や肯定的予測に関わる神経回路で構成される)を活性化すると、特定の病原性細菌(大腸菌Escherichia coli)に対する体の免疫防御に影響が生じるとの報告が寄せられている。

快楽中枢への刺激、免疫力高める可能性 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

過去にも、自己免疫疾患の一つである多発性硬化症に関連して、精神状態が免疫システムに及ぼす影響を明らかにした研究がありました。

【11/25】「病は気から」炎症性疾患においてストレスと免疫の関係が解明される | いつも空が見えるから

 

こうした研究から、腸内細菌のマイクロバイオームの多様性が免疫系の発達に影響を及ぼすだけでなく、常日頃抱く感情もまた脳の活動として反映され、免疫系の働きに影響することがわかります。

慢性疲労症候群の多くが心因性ではなく、脳の炎症などの生物学的原因があり、それを治療する必要があるのは確かです。

しかし、同時に思い込みや認知の修正を目的とした心理面に寄与する治療法や、ストレスコーピングの訓練も、自分の病気は心の問題ではないから必要ないと安易に決めつけるのではなく、賢く活用していくと良いのではないかと思います。

マイクロバイオームと自己免疫疾患、脳の慢性炎症との関係や、免疫系の心身相関などの研究がさらに進展して、慢性疲労症候群や線維筋痛症の治療法が確立されることを期待したいものです。

脳脊髄液減少症を80%の精度で判別できる「脳型トランスフェリン」というバイオマーカーを発見

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島県立医科大学の橋本康弘副学長らの研究グループによって、髄液にのみ検出される特殊なタンパク質「脳型トランスフェリン」(脳型Tf)が、脳脊髄液減少症を高い精度で診断できるバイオマーカーになることが発見されたそうです。

福島医大、難病の「目印」発見 脳脊髄液減少症の診断に希望:福島民友ニュース:福島民友新聞社 みんゆうNet

 

【広報】 脳脊髄液減少症の診断マーカー開発に関する研究費を獲得│ 福島県立医科大学トピックス / 公立大学法人 福島県立医科大学

医療分野研究成果展開事業・先端計測分析技術・機器開発プログラム「脳脊髄液産生マーカーによる脳脊髄液漏出症の診断法の開発」(PDF)

 

画像検査以外の客観的診断法が必要

脳脊髄液減少症は、10万人に5人程度にみられる病気で、脳脊髄液が何らかの原因で漏れだしたり減少したりすることで、激しい起立性頭痛やめまい、疲労感や痛みなどの重い症状が現れて日常生活、社会生活が困難になる病気です。

事故などの外傷体験をきっかけに漏れ出す場合もあり、従来、むち打ち後の後遺症とされていたものの多くは脳脊髄液減少症だと考えられています。

30歳代から50歳代の患者が多く、原因不明の体調不調のため、心身症や単なる怠けとみなされている人も少なくないようです。

【7/5 FNNニュース】「あなたの頭痛 大丈夫?原因不明は“髄液漏れ”か」まとめ | いつも空が見えるから

 

「脳脊髄液減少症を知っていますか: Dr.篠永の診断・治療・アドバイス」を読んで | いつも空が見えるから

 

 先日、治療法であるブラッドパッチが保険適用されたとのニュースがありましたが、画像検査で髄液の漏れを確認できる、いわゆる「脳脊髄液漏出症」のみに限られていて、それ以外の患者は、いまだ大きな負担を強いられているのが現状です。

この病気の治療にあたっている山王病院によると「脳脊髄液漏出症は、脳脊髄液減少症症例全体の約30%」にすぎず、他の客観的な検査方法が緊急に必要とされていることがわかります。

MRIやCTを用いた画像検査だけでなく、放射性同位体元素を使って、髄液の漏れを調べるRI脳槽シンチグラフィーも行われていますが、診断精度面での問題が指摘されていました。

脳脊髄液の中のタンパク質「脳型Tf」で診断

今回の研究では、脳脊髄液を採取し、脳のみで作られる特殊な型を持ったタンパク質に「脳型Tf」 (トランスフェリン)に注目することで、脳脊髄液減少症を高い精度で判別できることがわかったといいます。

トランスフェリン(Tf)とは、血液中の鉄を運搬するタンパク質のことで、肝臓で作られる「血清型トランスフェリン」と、脳で作られる「脳型トランスフェリン」の二種類が存在しています。

このうち脳型トランスフェリンのほうは、中枢神経における髄液を作っている脈絡嚢という場所で作られていて、髄液にのみ検出されることから、「髄液産生マーカー」として活用できることがわかりました。

福島県立医科大学の生化学講座は、脳型トランスフェリンについて長年研究しているらしく、サイトに説明が載せられていましたので、詳しく知りたい方はご覧ください。

疾患におけるバイオマーカーの探索 | 福島県立医科大学・医学部・生化学講座

 

 説明によると、髄液は「中枢神経系マーカーの宝庫」と考えられており、「アルツハイマー病」(AD)と区別しにくい髄液の代謝異常による認知症「特発性正常圧水頭症」(iNPH)の鑑別診断においても脳型Tfが役立つことが書かれています。

もしかすると、慢性疲労症候群のような、検査に異常が出にくい中枢神経系の病気のバイオマーカーも、髄液中から見つかる日がくるかもしれませんね。類似した症状がある場合、案外、髄液産生の異常も関係している可能性もありそうです。

研究発表には、脳脊髄液減少症は「頭痛、耳鳴り、悪心、倦怠感などの症状を呈する。これらの症状は、いわゆる“不定愁訴”であり、客観的に評価することが難しい」と書かれていますが、こうした研究が進めば、これまで“不定愁訴”と言われていたものが、れっきとした脳のトラブルだと客観的に診断できるようになるのかもしれません。

診断精度は感度・特異度ともに約80%

このような「髄液産生マーカー」マーカーである脳型Tfに着目して、脳脊髄液減少症の患者と、健常者の髄液中の脳型Tfを調べたところ、患者では、脳型Tf値が2.5倍に増加していたそうです。

診断精度は、感度・特異度ともにおよそ80%で、RI脳槽シンチグラフィーよりも高い精度が見られました。

特にRIシンチグラフィーは特異度(病気のない人を正常と判別できる割合)が54%と低く、脳脊髄液減少症でない人まで脳脊髄液減少症だと過剰診断してしまう傾向がありましたが、脳型Tfの検査では特異度は79%で、より正確だったそうです。

現状、脳型Tfの測定には2日かかるそうですが、今後は測定機器の開発に取り組み、早期診断や診断精度の向上を目指すとのことです。

なお、この研究は、、国立研究開発法人・日本医療研究開発機構(AMED)の補助事業である、医療分野研究成果展開事業・先端計測分析技術・機器開発プログラムにも採択されたとのこと。

客観的で簡便な診断方法の確立は、病気の治療においても、福祉支援においてもとても大事ですから、ぜひ実用化してほしい研究ですね。


イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察

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たしの中にいる他人。心の中に別の人がいる。存在を感じるだけでなく、完全に第三者的な思考を持っていて、友人のように会話することもできる。

そのような感覚を感じることがありますか?

ある人たちは、そのような話を聞くと、何か病的な印象を受けるかもしれません。おそらく、頭の中に声が聞こえるという統合失調症や、心が多くの別人に分かれる多重人格、すなわち解離性同一性障害(DID)を思い浮かべるのでしょう。

しかし、「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からという本で、そうした病気を専門とする大饗(おおあえ)広之先生ははっきりと、次のように述べています。

たとえば「頭のなかにもう一人の自分がいる」と訴える人がいても、もはやわれわれは彼をすぐさま病的と決めつけるわけにはいかない。

彼らに統合失調症や多重人格などという診断は当てはまらないし、それどころか、その訴えをすぐに「症状」とみなすことさえできない。

信じられないかもしれないが、そういった軽微な人格の複数化が潜在的にはかなりの勢いで拡がっているのである。(p3)

ここでは、そうした現象は、必ずしも「病的」ではなく統合失調症や多重人格の診断は当てはまらず、むしろ意外なほど多くの人が経験しているかもしれない、と書かれています。

この現象は医学的にはイマジナリーコンパニオン(IC:想像上の仲間)、より日常的にはイマジナリーフレンド(IF:空想の友だち)と呼ばれる現象で、いまだ多くの謎に包まれています。

このブログでは、1年半前に、IFについての詳しい考察を書きました。当時は、わたしの知識の及ぶ範囲としては、書けることはすべて網羅したと考えていました。

しかしそれ以降読んだ多くの本、たとえば先ほど挙げた大饗広之先生の「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からや、岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合、アリソン・ゴプニック先生の哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)などを通して、より理解が深まったので、改めて考察をまとめることにしました。

こうした軽微な人格の多重化の原因は何なのでしょぅか。本当に病的でないとみなしても大丈夫なのでしょうか。解離性障害や発達障害との関わりはあるのでしょうか。4つの観点から考えてみたいと思います。

さまざまな「わたしの中の他人」を結び合わせる

「心の中に別の人間がいる」。

そんなことを言おうものなら、冗談とみなされたり、心の健康を疑われたりするかもしれません。見えない友達がいる、というのは、世の中の大半の人にとって、お世辞にも良い印象を与えるものではありません。

しかし、これまでこのブログで何度も扱ってきたとおり、「心の中に別の人間がいる」というのは、意外にも、さほど珍しい現象ではありません。

たとえば以下のような例を考えてみてください。

■子どもの空想の友だち イマジナリーコンパニオン(IC)
幼い子どもの半数近くが空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)を持つことが知られています。子どもの空想の友だちは、健全な成長の過程で、見えない遊び友だちとして一時的に現れ、いつの間にか消えてしまいます。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究 | いつも空が見えるから

 

 ■サードマン現象
特殊な条件下でみられる「サードマン現象」は、雪山などで遭難したとき、そばに「もう一人のだれか」がいる気配を感じ、励ます声を聞きながら、生還した人たちのエピソードによって一躍有名になりました。

サードマン・イマジナリーフレンドが現れる5つの条件―「いつもきみのそばを歩くもう一人がいる」 | いつも空が見えるから

 

 ■解離性同一性障害(DID)
重い病気とみなされている、解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格もまた、心の中に大勢の他人が現れます。子どもの空想の友だちと違って、人格交代して意識をのっとり、ときに攻撃的だったり、トラウマチックだったりすることが特徴です。

多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か | いつも空が見えるから

 

そのほか、トランス性の憑依現象や、睡眠中に別人のように行動するノンレムパラソムニアなども周辺の現象と思われますが、ここでは複雑になるので割愛します。

これらの現象は、見ての通り、まったくの健康とみなされているものから、病的とされているものまで様々であり、それぞれ別々の分野の専門家によって研究されてきた歴史があります。

子どものICは発達心理学者たちにより、DIDは精神科医たちによって、そして、サードマン現象は、ときに宗教家や神学者たち、そして近年では神経科学者たちによってメカニズムが究明されています。

ところが、不思議なことに、これら複数の「わたしの中の他人」現象につながりがあるのか、ということに関しては、それぞれの専門分野を超える具体的な研究は、ほとんどなされてきませんでした。

青年期のイマジナリーフレンドの不可思議さ

さらに、「わたしの中の他人」には、もう一つ、忘れてはならない、規模の大きな集団があります。

それはすなわち、この記事でおもに扱う、青年期のイマジナリーフレンドのことです。

ファンタジーと現実 (認識と文化)によると、1991年の日本の調査では、約2.8%の人が大学生になってもイマジナリーフレンドを持っていることがわかりました。(p125)

代表的な精神疾患である統合失調症でも、有病率は人口の約1%ほどと言われていますから、その3倍近くを数える青年期のイマジナリーフレンドが、その規模の大きさに反して、いかに見過ごされてきたかがわかります。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中で、解離性障害に詳しい精神科医の大饗広之先生は、そのことを率直にこう認めています。

精神科臨床の現場でICが認識されるようになったのは、まだここ最近のことである。

しかし、注意を向ければ向けるほど、こうした現象が青年のあいだに(病的か健全かを問わず)広く蔓延していることに気づかざるを得ない。(p183)

青年期のIC、つまりイマジナリーフレンドは、子どもの空想の友だち研究や、病的なDIDの研究から長く取り残されてきました。

時折、それぞれの分野の専門家が、関連性に言及していますが、その意見はまとまりを欠いているように思えます。たとえば次のような意見が聞かれるかもしれません。

■子どものイマジナリーコンパニオンはまったく健康なもので、解離性障害や発達障害と無関係

■青年期のイマジナリーコンパニオンは解離性障害やアスペルガー症候群との関連が示唆され、病的なものとなる場合もある。

■イマジナリーコンパニオンが記憶の消失を伴わないのに対し、解離性同一性障害(多重人格)の交代人格は、人格同士の間で記憶のやりとりができないので、両者は別物

こうした意見からすると、あたかも、青年期のイマジナリーフレンドは、子どもの健康なイマジナリーフレンドとも、病気としての解離性同一性障害(DID)の交代人格とも性質をたがえる謎めいた現象であるかのように思えます。

これらは互いにつながりのない、別のメカニズムによって生じる、異なる現象なのでしょうか。

青年期のイマジナリーフレンドは、「わたしの中に他人がいる」という明確な共通点があるにもかかわらず、健康な子どもの空想の友だちとも、病的な多重人格とも成り立ちを異にする独特な現象なのでしょうか。

すべては根底でつながっている

わたしは、このブログで、1年半ほど前、イマジナリーフレンドとは何か、という4つの考察をまとめた以下の記事を書きました。

イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察 | いつも空が見えるから

 

そのころ様々な分野に点在する「私の中の他人」の現象すべては、おそらくつながりがあるのだろうとは思っていたものの、うまく関係を整理しきれなかったため、あくまで4つの観点から掘り下げるにとどめました。

しかし、それから1年半が経ち、様々な書籍を読んできた結果、4つの観点から掘り下げた先は、確かに奥の方で一つに つながっていることに気づきました。

それぞれの現象の根底にあるメカニズムは、ちょうど虹色のグラデーションのように連続性を持つものであり、その場その場によって、さまざまな形をとって表に現れているにすぎないのです。

これは、多くの子どもが持つ空想の友だちが、解離性同一性障害につながりかねない病的なものだとか、危険な要素を持っている、という意味ではありません。 おいおい説明しますが、どちらかというとその逆です。

1年半前の考察の4つの観点とは、以下のようなものでした。

1.発達心理学
2.解離
3.愛着理論
4.アスペルガー症候群

これらの方向性は、幸いにもすべて正しかったようです。

それで、今回のさらなる4つの考察では、前回の4つの観点をさらに掘り下げ、根底のところでそれらが一つにつながっていることを説明したいと思います。

この解説は、前回の記事を土台としているので、イマジナリーフレンドについての基本的な説明をお知りになりたい場合は、イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察 も合わせてご覧になるようお勧めします。

このたびも、様々な書籍から引用した長文で、おそらくこれまでのわたしの記事の中で最長なので、気楽に読んでいただくのは難しいと思います。しかし、この分野に関心のある方は、辛抱強く最後までお付き合いいただければ幸いです。

もちろん、前回同様、専門家ではない一個人の考察にすぎないこともお含み置きいただければ嬉しく思います。 

第一章 「心の理論」が生み出すIF

まず、最初のセクションでは、発達心理学の研究に軸足を置きつつ、多くの子どもたちに見られるIFと、青年期のIFとの関連性を考えます。

幼年期の子どもに見られる無邪気なIFと、青年期に見られるIFとの間につながりはあるのでしょうか。 

子どものIFは、各統計で割合に差がありますが、かなりの数の子どもが、2-3歳から7-8歳ごろまでの期間に、想像上友だちを一時的に創りだすと言われています。

たとえば解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこうあります。

一般人の20-30%にみられ、一人っ子か第一子の女性に多いとされる。8-12歳の間にはかなり少なくなってしまう。(p128)

一方で、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には、もっと割合の高い統計が紹介されています。

テイラーは、三、四歳児とその親を無作為に選び、空想の友だちについて具体的に質問していきました。

すると、子どもたちの大多数、実に63パーセントもが、生き生きとした、ときに不気味な空想の友だちをもっていることがわかりました。(p74) 

こうした調査からすると、おそらくは半数近い子ども、つまり3人に1人から、2人に1人ほどの割合の人が、子ども時代には空想の友だちとの交流を楽しんでいるのでしょう。

多くの人はそのことを覚えていませんが、統計は、IFが子どもたちの間にごく普通に生じる普遍的な現象であることを物語っています。

当然ながら、それほどありふれた現象が、心の病気と関係しているとは思えません。現に、上記のテイラー博士の別の研究結果について、おさなごころを科学する: 進化する幼児観にはこう書かれています。

この研究領域の第一人者であるテイラー博士の研究からも、児童期における空想の友達の有無は、青年期における精神疾患とは関連がないことが示されています。(p141)

それで、まずはっきりと断言しておきますが、これまで何度も書いてきたとおり、子どものIFは基本的に言って精神疾患との関係は何らありません。

ですから、親は我が子がIFを持っていることに気づいた場合、心配したりするのではなく、むしろ子どもと一緒に空想の世界の冒険を楽しむことができます。

キーワードは「心の理論」

しかし、子どものIFが精神疾患とは関係がないからといって、子どものIFと大人のIF、はたまたDIDとの間にまったくつながりがない、というわけではありません。

わかりやすくするために別の例で考えてみましょう。

たとえば、真面目であることは、それそのものが、将来の病気と関係することはないでしょう。むしろ真面目であることは良い結果をもたらします。

しかしあまりに真面目さの度が過ぎて、完璧主義的になってしまうなら、それは様々なストレスを抱え、心身の病気を呼びこむ可能性をはらんでいるかもしれません。

同様に、IFを持つ子どもは、研究によるとある性格特性を持っていることがわかっています。それそのものは決して悪いものではなく、むしろ優れた能力といえます。

しかし、その性格特性が強すぎる場合、子どもは単にIFを持ちやすいだけでなく、あたかも真面目さが行き過ぎた完璧主義の場合のように、心身に大きなストレスを抱え込むことになってしまいます。

その行き過ぎたある性格特性の結果が、青年期のIFであり、さらにはDIDであると考えられます。

ではその性格特性とはなんでしょうか。おさなごころを科学する: 進化する幼児観には、IFを持つ子どもが次のような特徴を示すと書かれています。

空想の友達を持つ幼児は、他者の視点を考慮する能力に長けていること、より複雑な構造を持った発話ができること、知識状態の理解に優れていること、などが示されています。(p253)

ここでは、IFを持つ子どもは、「他者の視点を考慮する能力」や複雑な会話の能力に秀でていると書かれています。

これを、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)によると、次のような一つの言葉で言い換えることができます。

空想の友だちのいる子はそうでない子より心の理論が発達している傾向はあります。空想の友だちのいる子はいない子よりも他人の思考、感情、行動の予測が上手です。(p88)

そうです、IFを持つ子どもは、他の子どもよりも、他人の思考や感情、行動を汲み取る力、すなわち「心の理論」が優れているのです。

「いない人」のことまで考える

「心の理論」が優れている、というのは、一見して、とても良いことのように思えます。実際にところ、それはすばらしい才能です。

現代社会では、しばしば、空気の読めない人がKYと揶揄されます。空気を読む力は、有能な社会人になる上で、とても大切だと考えられています。

「心の理論」が優れている人は、他の人の気持ちがよくわかるので、適切なときに空気を読むことができますし、優しい気遣いや気配りが得意です。

他の人の心に深い興味と関心を持っているので、周りの人に深く感情移入することができ、とても温かみのある人に成長することもあります。

それで、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には、「心の理論」が優れ、IFを持つ子どもについてこう書かれています。

また、これは通説とあべこべなのですが、人なつっこい子のほうが、内気で孤独な子より空想の友だちをもちやすいそうです。

…空想の友だちのいる子は周囲の人たちのことを人一倍気にするので、「いない人」のことまで考えてしまうのかもしれません。(p88)

内気な子どもではなく、他の人に積極的な関心を向ける気配りのできる子どもだからこそ、「いない人」のことまで考えてしまい、イマジナリーフレンドを創造することができます。

単に他の人に興味があるだけでなく、「心の理論」が優れているため、自分以外の人の気持ちに敏感で、相手の立場に立って、どんな気持ちなのか具体的に想像することができます。

その結果、現実に存在する他人だけでなく、現実に「いない人」の気持ちまで手に取るよう想像できてしまいます。そうして創られるのが、架空の目に見えない友だち、イマジナリーフレンドなのです。

子どものイマジナリーフレンドは、このような社交的で、他の人の気持ちを考える能力の高い子どもが、親が下の子の世話などで忙しくなったりして、寂しく感じたときに創りだすことが多いと言われています。

おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、ほかの研究でも、IFを持つ子どもは、無生物やランダムな図形の動きに生き物らしさを感じることができたり、他の子どものIFにも感情移入できたりすることがわかっています。

いずれの研究結果も、IFを持つ子どもが、まわりの人の気持ちをよく汲み取り、時には物や「いない人」にまで感情移入してしまうことを示しています。

小説家としての才能

このような幼いころの優れた「心の理論」は、何も子どものころだけの才能ではありません。

学生のころも、また大人になってからも、優れた才能として開花する可能性があります。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)によると、先ほどのテイラー博士は、IFを持つ子どもたちの中には、後に創造的な才能を開花させる人が含まれている、ということに気づきました。

マージョリー・テイラーは、子どもが空想の人物を生み出す能力と、大人が反事実からできている架空の世界を創作する能力、つまり小説家や劇作家、シナリオライター、役者、映画監督がもつような能力には関連性があることに気づきました。(p92)

テイラーが注目したのは、作家や役者の能力と、子どもの創りだすIFの類似性です。

IFを持つ子どもは、「いない人」の気持ちまで想像してしまいますが、それは小説家や俳優には必須の能力です。

小説家やシナリオライターは、現実には存在しない登場人物の心の動きを理解して、リアルな文章を書かなければなりませんし、俳優は存在しない人物の気持ちを理解して役になりきらなれければなりません。

このような想像力は、普通の人にはなかなか備わっていないものですが、子どものときにIFを創造していた人の場合は、そのときの能力が、そのまま活かされる場合があります。

続く部分では、テイラー博士の具体的な調査が紹介されています。

テイラーは文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。するとほぼ全員が、作品の登場人物の自律性を認めていました。

…興味深いのは、約半数は幼児期の空想の友だちを覚えていて、その特徴もいくらか答えられたことです。

対照的なのは一般の高校生で、幼い頃は多くが空想の友だちをもっていたのでしょうが、今もそれを覚えていると答えた生徒はわずかでした。(p93) 

テイラー博士は、小説家たちを集めて、空想の友だちと、小説のキャラクターについて、アンケートをとりました。

すると、IFと小説のキャラクターには、どちらも自分の意志をもって動くという類似点があり、しかも小説家の半数が子どものころのIFを覚えていたのです。

これは、子ども時代のIFと、小説の創作の両方に、「いない人」の気持ちまでありありと想像する類まれな「心の理論」が関わっていることを示しています。

もちろん、IFを持つ子どもが人口の1/3から1/2ほどいるとはいえ、そのすべてが後に作家や俳優になるわけではありません。

IFを持つ子どもたちは、全体として平均すれば、IFを持たない子どもたちより「心の理論」が優れているのは確かです。

しかしIFを持つ子どもたちの中だけを比べてみると、ほんの少し「心の理論」が優れているだけの子どももいれば、「心の理論」が飛び抜けて優れている子どもも、わずかながらいることでしょう。

そうした飛び抜けて優れた「心の理論」と、そのほかの様々な環境要素や才能とが運良くマッチした場合に、将来、小説家や俳優になる子どもが現れるかもしれません。

このように書くと、「心の理論」は優れていれば優れているほど良いかのように思えます。しかし、必ずしもそうではありません。

行き過ぎた真面目さが身を蝕むように、行き過ぎた「心の理論」もまた、両刃の剣となりかねません

小説家や詩人はなぜ気分障害を抱えやすいのか

天才の脳科学―創造性はいかに創られるかという本では、優れた芸術的才能を持つ作家たちについて、統計的な調査が行われています。

すると、彼らは優れた才能だけでなく、精神的な脆弱性も持ち合わせていることが明らかになりました。

これらの英国の優れた文系の人々は、非常に高い頻度で気分障害に陥っている。

全例の38パーセント以上が感情障害で治療を受けたことがあり、なかでも劇作家がもっとも頻度が高く、その次が詩人だった。(p143)

この研究では、英国の優れた詩人、劇作家、小説家などが調査されましたが、彼らはかなりの割合で気分障害を抱えていました。

有名なところでは、ハリー・ポッターの作家J・K・ローリングが、有名になる前、うつ病で生活保護を受けながら小説を書いていたエピソードが知られています。

興味深いことに、これら小説家や詩人に多かった病気は、一般に天才的な才能との関係が取り沙汰される統合失調症ではありませんでした

作家の面接を始めて一連の精神測定検査を行っていくと、私の仮説の誤りがすぐに明らかになってきた。

意外なことに作家の多くが、双極性障害か単極性鬱病に合った気分障害の個人歴があり、治療を受けたことがあった。(p139)

これに対し、芸術的な分野ではなく、科学的な分野の天才たちに目を向けると、統合失調症の不全型や、家族に統合失調症の患者がいる例がしばしば見られるそうです。(p144)

ではなぜ、科学の分野には統合失調症の天才が多い一方で、芸術の分野には気分障害の天才が多いのでしょうか。

日本の有名作家を見ても、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、川端康成など、気分障害に悩まされた有名作家には事欠きませんが、そこには何が関係しているのでしょうか。

端的に言えば、科学の分野で成功するのと、芸術の分野で成功するのとでは、求められる能力が異なっているのです。

科学の分野では、鋭いひらめきと洞察、論理的で精密な思考が求められます。

これはアスペルガー症候群の人などが得意とする分野であり、近年の研究によると、アスペルガー症候群と統合失調症の脳の活動は類似していて、何らかの共通要因があるとみなされています。

脳MRI画像で自閉スペクトラム症を85%判別―ADHDやうつ病ではなく統合失調症と脳活動が類似 | いつも空が見えるから

 

それに対して、小説家や詩人に必要なのは、データを読み取るロジカルな思考でも、統合失調症の妄想じみた独創的なひらめきでもありません。

芸術に必要なのは感性、特に人の心を読み解く力「心の理論」なのです。

先ほど、行き過ぎた「心の理論」は両刃の剣になると書きました。容易に想像がつくことですが、他の人の気持ちがわかるだけでなく、わかりすぎてしまうことは、大きなストレスになるでしょう。

優れた「心の理論」はこまやかな作品を生み出しますが、同時に人の表情の裏にある感情が読みすぎてしまったり、周囲の人たちの評価に敏感になりすぎてしまったりして、疲れてしまう原因にもなるでしょう。

しかしながら、根底にある問題は、そう単純ではありません。「心の理論」が優れているから、気分障害になりやすい、というのは、問題の本質を見落としている因果関係の錯誤です。

「心の理論」が優れていること自体は何も問題はないのです。「心の理論」が優れ、IFを生み出した子どもたちの多くが心の問題を抱えなかったことがそれを示しています。

要点はここです。 

もし、その優れた「心の理論」が、人への純粋な興味から育まれたものなのであれば、そこには何の問題もありません。

しかしもし、その優れた「心の理論」が、生きるために強いられて発達させた適応だとしたら?

セクション2では、いよいよ発達心理学が描き出す子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンドとがリンクすることになります。

第二章 「愛着トラウマ」を癒やすIF

セクション1で考えたのは、子どものイマジナリーフレンドを生み出す要因の一つが、優れた「心の理論」、つまり他の人の気持ちを汲み取る能力である、ということでした。

そして、そのような優れた「心の理論」は、小説家や詩人などの芸術的才能とも関係していますが、不穏なことに彼らは気分障害を高い確率でもちあわせている、ということを考えました。

しかしながら、それら小説家や詩人が持つ気分障害を、うつ病や双極性障害などと結びつけるのは、いささか的外れかもしれません。

なぜなら、それらの芸術的な作家たちが持つ気分障害の原因は、一般的な意味でのうつ病や双極性障害ではなかったと考えられるからです。

彼らが優れた「心の理論」を育て、芸術的才能に秀で、しかも気分障害を抱えていた。そのすべてを説明できるのは、うつ病でも双極性障害でもなく、「愛着トラウマ」です。

「愛着トラウマ」とは何か

「愛着トラウマ」とは何でしょうか。

ここは誤解を招きやすい点なので、しっかりと理解していただきたい部分ですが、「愛着トラウマ」は、その語感から連想されるような、激しい児童虐待ではありません

ややこしく感じるかもしれませんが、「愛着トラウマ」とは、「トラウマ」という名前がついていながら、衝撃的な体験どころか、本人も家族もまったく気づいていないような経験を指しています。

以前の記事で説明したとおり、ここでいう「愛着」とは、英国の精神科医、ジョン・ボウルビィが提唱した愛着理論に関するものです。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

 

愛着理論は、ごく幼いころ、生後半年から1歳半くらいまでの養育者の関わり方が、その後の人生における対人関係や思考パターンの型となる、という考え方です。

後ほど説明しますが、現在では、これは単なる理論ではなく、生物学的な現象であることが、脳科学の研究などで裏づけられています。

「愛着トラウマ」というと、さぞかしひどい親のもとで悲惨な育てられ方をした子どもに当てはまるのだろうと思いがちですが、それは全くの誤解です。

むしろ非常に優しい親の元で育ったとしても「愛着トラウマ」を抱える場合があります。

そのことをわかりやすく説明している、母という病 (ポプラ新書)の説明を見てみましょう。

基本的安心感は、ゼロ歳から、1,2歳までの間の、まったく記憶にも残らない体験によって形づくられる。

…この時期に、母親からの全面的な関心と愛情を受けて育った人は幸運だと言える。

しかし、不幸にもそうでなかった場合、子どもは、基本的安心感を育むことができず、いつも居心地の悪さを感じ、自分に対しても違和感を覚えることになる。

自分が自分であって自分でないような不全感をもって育つことになりやすい。(p74-75)

ここにある「基本的安心感」とは、自分以外の他人は、基本的にいって信頼に価するものなのだ、という無意識の感覚のことです。「基本的信頼感」が、つまり「愛着」というものの一面なのだ、と言い換えることができます。

「基本的信頼感」がちゃんと備わっている人は、他の人を道理にかなった仕方で信頼することができますが、もしこれが欠けていたら、その後の人生で、心の底から他人を信頼して自分を委ねることを、たとえ頭では安全だとわかっている相手に対してでさえ難しく感じます。

さらにいえば、人を信じるというのがどういうことなのか、本当の意味で理解することができません。

これはちょうど、子どものときに言語を学ぶかどうか、というシチュエーションに置き換えてみればわかりやすいでしょう。

言語も愛着も学習の臨界期、また感受性と呼ばれる期間があります。子どものときに慣れ親しんでいれば、ネイテイブとして自由に言語を操れますが、その時期を逃すと、後から学んでも、本当の意味で母語のように自由に扱うことはできないのです。

「基本的信頼感」つまり、愛着もそれと同じです。

母親との絆は、いつでも育まれるわけではない。生まれてから一歳半までの限られた時間しか、安定した絆は形成されないのだ。それは、子どもの脳でオキシトシンなどの受容体が、もっとも増える時期でもある。

その限られた時間は、母子双方にとって、かけがえのない特別な時間だ。そのときを過ぎてしまってから、いくら可愛がったところで、もう間に合わない。不可能ではないが、その時間を取り戻すことは容易ではない。(p76)

ここに書かれている、母親との絆を限られた期間に育めなかった状態、それこそが「基本的信頼感」の欠如であり、「愛着トラウマ」です。

「愛着トラウマ」を抱える子どもの中には、虐待やネグレクトに遭った子どもも当然含まれますが、それ以外にも、やむを得ない事情で、この時期の絆の形成に失敗してしまうケースはいくらでも考えられます。

たとえば、親との死別、たまたま親が産後うつなどで子どもをじっくり育てられなかった、仕事が忙しくて母親以外が交代で面倒を見ていたなど、親が悪いとは到底言えないケースも多々あるでしょう。

しかし先ほど書かれていたとおり、いかなる事情があるとしても、その時期を逃せば、後でいくら愛情を注いでも手遅れで、子どもは「愛着トラウマ」を抱えたまま成長することになります。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち | いつも空が見えるから

 

幼いころに学ぶ感情のパターン

それにしても、「愛着トラウマ」を抱えると、いったい子どもの身に何が生じるのでしょうか。

少し難しいですが、その時期に、幼い赤ちゃんの頭のなかで、何が起こっているのかをかいま見ることにしましょう。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、「愛着トラウマ」の形成がどのように起こるのかが、次のように書かれています。

幼児は幼いころに母親を通して、その情緒反応を自分の中に取り込んでいく。

それはより具体的には、母親の特に右脳の皮質辺縁系のニューロンの発火パターンが取り入れられる、ということである。

…そしてこれは、ストレスへの反応が世代間伝達を受けるということなのだ。そこに解離様の反応の世代間伝達も含まれる、(p17-18)

少しわかりにくいかもしれませんが、簡単に言えば、生後まもないその時期に、赤ちゃんは養育者の情緒反応のパターンを、自分の脳に取り込む、ということです。

もっとわかりやすくいうと、感情のパターンが親に似る、と言い換えることができるでしょう。

赤ちゃんは、生後半年から1年半ほどのその時期に、生涯にわたる、感情反応の土台となるパターンを、親から読みとることで脳に刻み込みます。以降の人生の感情や思考は、そのパターンに基づいて積み上げていくことになります。

では、たまたまその時期、母親が精神的に不安定で混乱していたならどうなるでしょうか? 母親にとってはその混乱は一時的なものかもしれませんが、子どもはその混乱を土台として取り込んで脳を成長させていきます。

もし虐待されたり、養育者がコロコロ変わったりすればどうでしょうか。やはり普通とは違った異常なパターンが組み込まれることでしょう。

もちろん、ちょっとした育て方のミスが命取りになるというほど、赤ちゃんの脳は柔軟性に欠けるわけではありません。幼いころに言語を学習する機会を逃しても、まだ10代のころまでに学習し始めるなら、ある程度は取り戻せるかもしれません。愛着も、ある程度はフォローアップできます。

しかしそれでも、幼いころに混乱した養育環境にさらされると、その影響は、脳の発火パターンとして、その後の人生に根深い影響を与えます。

空気を読み過ぎる「過剰同調性」

そのような幼いころに学んだ混乱した感情のパターンが現れる結果の一つが、「過剰同調性」と知られている性格特性です。

ようやくここで、1つ目のセクションで考えた話と結びつきます。

「過剰同調性」とは、言い換えると、空気を読みすぎ、相手に合わせすぎる傾向、すなわち、異常発達した「心の理論」なのです。

「過剰同調性」は以前の記事で取り上げたとおり、解離性障害の患者の素因として知られています。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

 

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論で解離性障害の専門家の柴山雅俊先生は、「過剰同調性」についてこう述べていました。

嫌われないように相手に合わせる。相手が喋っている内容から、その人の考え方を読み取って、それをもとにしてその人が好むようなことをいう。嫌われるのも、怒らせるのも、議論になるのも怖い。(p139)

つまり家族の雰囲気や学校という場での緊張感、雰囲気、空気などを読んで、トラブルにならないように自己犠牲的に周囲に合わせようとする。

以上のような特徴を「過剰同調性」と名づける。(p83)

相手の考え方を過剰に読み取って、それに合わせていく、空気が読めないKYとはまさに対極にある特性であることがわかります。

しかしながら、どうして「愛着トラウマ」は「過剰同調性」につながるのでしょうか。

先ほど、行き過ぎた「心の理論」の危険性をめぐる要点として、その「心の理論」が、純粋な他人への興味から育まれたのか、それとも強いられて発達させざるを得なかったのかが問題だ、と書きました。

「愛着トラウマ」の結果、異常発達する「心の理論」は、まさしく後者の強いられて発達させざるを得なかったものです。

「愛着トラウマ」の原因は何だったか、思い出してみてください。幼いころに、養育環境が混乱していて、他の人を信頼することを学べなかったことが、事の発端でした。

だれも心から信頼できず、養育者にさえ警戒してしまうとき、子どもはどんな戦略をとるでしょうか。敵か味方かもわからない見知らぬ人たちに囲まれているとき、あなたはどうやって生き延びますか。

きっと、顔色をうかがい、はたして相手が敵か味方かを知るために、過剰に空気を読んで先を予測しようとするでしょう。

「愛着トラウマ」を抱え持つ人は、本人は自分では気づいていないかもしれませんが、無意識のうちにそのような生き方をするようになります。

基本的信頼感が欠如しているために、常に周りの顔色や感情の変化にアンテナを張り巡らす生き方を、幼児のころからずっと続けてきたので、それが当たり前だと思っているのです。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中でも、大饗広之先生が、そのような強いられた空気を読みすぎる生き方について説明しています。

「小さな集団」にはそれぞれ、それなりの準拠枠というのがあって、いつも彼らはアンテナを立てて空気を読んでいなければならない。

みせかけの優しさを維持するにも緊張を緩めることができない。(p159)

常に相手の顔色をうかがっていて、その場その場で最善の身の処し方を無意識のうちに決定します。

そのため、普通の人以上に、場面ごとに空気を読んで別の自分を演じることが多くなります。

さきほど、心の理論の優れた人たちが活躍する職業の中に、小説家やシナリオライターのほかに、俳優が含まれていたのを覚えているでしょうか。

そのことが書かれていた哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)の文脈には、次のような記述がありました。

キラキラのマントを羽織り、髪を振り乱した妖精の正体は、空想の世界に浸っている三歳の女の子であってもいいし、『真夏の夜の夢』のタイターニアを演じる俳優であってもいいわけです。(p92)

「心の理論」の優れた、空想の友だちを持つ子どもが、IFの妖精になりきるように、「心の理論」の優れた俳優は、タイターニアになりきります。

そして、生存戦略として「心の理論」を異常発達させてきた愛着トラウマを抱える人たちは、ファンタジーの中でも、劇場の舞台の上でもなく、この日常世界のただなかで、空気を読んで、様々な自分を演じ分けることで、身を守るようになるのです。

それはまた、解離性障害の患者の特徴でもあります。

解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこう書かれています。

彼らはこのようなありありとした表象の中へと容易に没入する傾向がある。

読書でも映画でもテレビでも、その物語の中へ容易に入り込んで、その中の自分に成りきってしまう。(p203)

以前の記事で取り上げたとおり、解離性障害の人が、小説や詩、絵画、そして演劇などの芸術的な才能に秀でていることはよく知られています。それらは人並み優れた「心の理論」と感受性によって成り立っています。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの | いつも空が見えるから

 

さらに、この「心の理論」、つまり空気を読む、という能力は、あたかも鎖輪のようにして、子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンド、そしてさらには解離性同一性障害(DID)を結び合わせています。

イマジナリーフレンドを持つ子どもは、空気を読む感受性が強いので、「いない人」のことまで考えてしまいます。

「心の理論」がもっと強くなると、それは過剰同調性へと発展します。その人たちは、空気を読み過ぎるあまり、場面ごとに違う自分、学校や家庭、友だちの前など、それぞれの場に最適な自分を無意識のうちに演じ分けるようになります。それこそが記憶はつながっていても、性格は異なるイマジナリーフレンドの源です。

さらに過剰同調性が強くなると、場面ごとに出ていた自分が独立し、自律性を持つ他人として分裂します。その場その場で最適な交代人格が日常をこなすようになり、記憶のつながりが失われます。

解離性同一性障害の人格交代とは、すなわち、究極の空気を読み過ぎる傾向なのです。

その証拠に、解離性同一性障害の専門家たちは、DIDの交代人格が無秩序に現れるのではなく、空気を読んで現れることを述べています。

たとえば続解離性障害の中で岡野憲一郎先生はこう述べています。

私がかつて担当したある患者は、診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から主人格に戻ったことがあった。

…一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人にはさまざまな人格を見せる一方で、それ以外の場面では瞬時にそれらの人格を消してしまうという様子はしばしば観察され、それが上記のような誤解を生むものと考えられる。(p151)

これはもちろん、DIDの人が演技をしているというわけではありません。むしろその逆で、無意識のうちに場の空気を読む傾向があまりに強くなってしまったために、自分で自分をコントロールできなくなってしまっているのです。

健康な人が、意識的に空気を読んで場に自分をあわせるよう苦労するのに対し、青年期のイマジナリーフレンドを持つ人は、過剰同調性のせいで無意識のうちに空気を読んで態度が変わってしまいます。それでもギリギリコントロールは保ってはいますが、もし、そのコントロールが失われたなら、そのときにはDIDに発展すると考えられます。

このように、愛着トラウマによって生じる過剰同調性は、イマジナリーフレンドと解離性同一性障害をつなぐミッシングリンク的な役割を果たしているので、岡野憲一郎先生が解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、解離性障害の人の診察で次のような点を重視していると述べているのも不思議ではありません。

成育歴の聴取の際には、その他のトラウマやストレスに関係した事柄、たとえば家庭内の葛藤や別離、厳しいしつけ、転居、学校でのいじめ、疾病や外傷の体験等も重要となる。

またその当時からICが存在した可能性についても聞いておきたい。また患者が幼少時より他人の感情を読み取り、ないしは顔色をうかがう傾向が強かったか、柴山(2010)の言う「過剰同調性」の有無がなかったかには注意を払う。(p100)

記憶にあるかどうかにかかわらず、幼いころのストレスフルな経験によって、「愛着トラウマ」を抱え持っているかどうか、そして、イマジナリーフレンドや、顔色を読み取る過剰同調性があったかどうかが、解離性障害の可能性を疑うリスク因子となる、ということなのです。

普通のIFと愛着障害のIFの違い

こうして、子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害との関連性が見えてきたところで、それぞれの性質の違いがなぜ生じるか、という点をもう少し考えてみましょう。

まず、おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、健康な子どものイマジナリーフレンドと、解離性障害の子どものイマジナリーフレンドを比較したテイラー博士の研究では、次のようなことがわかったといいます。

空想の友達を持つことはこれらの精神疾患と関係しているのでしょうか。この点については、答えは否と言えそうです。

定型発達の子どもと解離性障害を持った子どもの空想の友達を比較した研究によると、前者は、空想の友達が実在しているとは思っていないのに対し、後者は空想の友達が実在していると信じているということです。(p241)

この場合、健康な子どもも、解離性障害の子どもも、イマジナリーフレンドを持っていましたが、その性質が少し異なっていました。

健康な子どもはイマジナリーフレンドが実在しないことを知っていたのに対し、解離性障害の子どもは実在を信じていたといいます。

これは、解離性障害の子どもが、現実と空想を混同してしまうことを示しているのでしょうか。

そうではないと思います。

基本的に解離性障害の人は統合失調症と違って、現実と空想の区別はついています

空想の友だちが実在していると信じていた、というのは、統合失調症のように、妄想的な意味で信じている、という意味ではない可能性があります。

それを示唆しているのが、解離性障害の子どもが持つイマジナリーフレンドについて書かれた別の文献、こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の子ども虐待の研究者、白川美也子先生の説明です。

想像上の友人現象(imaginary companionship)は、正常児の20%から60%にみられるが、解離性障害の子どもには42-84%と多い。

正常児のもつ想像上の友人は、2歳から4歳までに現れ、通常8歳くらいまでに消失する。

養護施設の子どもたちの想像上の友人は(1)支援者、(2)パワフルな保護者、(3)家族成因などの役割をもっていることがあり、さらに被虐待の子どものそれは、「神」、「悪魔」などの名前をもっていることがある。(p97) 

ここでは、まずイマジナリーフレンドは、健康な子どもよりも解離性障害の子どものほうに頻繁に見られることがわかります。やはり、「心の理論」が強まるにつれて、IFの頻度も上がるのでしょう。

そして、重要な点として、施設の子ども、つまり、強い愛着トラウマを抱えているような子どもたちのIFは、健康な子どものIFとは異なる特徴を持っているということがわかります。

健康な子どものIFは、「想像上の遊び友達」の名のとおり、気軽な遊び相手にすぎませんが、施設の子どものIFは、支援者、保護者、家族などの役割をもっていて、さらにトラウマが強いと、神や悪魔という名前さえ持っていると言われています。

イマジナリーフレンドの役割が異なると、当然、子どもにとっての重要性も変わるでしょう。単なる遊び相手であれば空想の産物で構いませんが、保護者や家族、神にまでなると、強い心の拠り所となっているはずです。

実のところ、健康な人でさえ、信仰心のある人は、神や仏の実在を信じているのではないでしょうか。しかしだからといってその人が妄想的なわけではありません。

つまり、解離性障害の子どもたちが、イマジナリーフレンドの実在性を信じていたという研究結果は、その子たちにとって、IFが、保護者や家族のような大切な存在だった、という意味ではないでしょうか。

なぜ「安全基地」としてのIFが必要なのか

このような、単なる遊び相手の域を越えた、保護者や家族のような役割を持つイマジナリーフレンドについては、前回の4つの考察の際にも詳しく扱ったのを覚えておられる方もいるかもしれません。

そこでは、愛着障害と関わる青年期のイマジナリーフレンドは、助け手や伴侶、さらには友人や恋人のような存在になる場合があることを説明しました。

そして、それら特別なIFは、愛着理論における、「安全基地」という役割を果たしているのではないか、という考察を含めました。

「安全基地」は、本来ならば母親などの養育者がその役割を果たします。「安全基地」という名のとおり、いつも無条件の愛で包み込んでくれる温かな存在がいるおかげで、さまざまな困難に立ち向かう勇気を持つことができ、疲れたときには帰ってきて身を休めることもできるのです。

しかし、さきほど取り上げた「基本的信頼感」が育っていない場合、すなわち「愛着トラウマ」を抱えてしまっている場合は、養育者は安全基地になりそこねてしまったので、だれかがその役割を肩代わりする必要があります。

「基本的信頼感」がないため、現実の人間にその役割を託すことができない場合、イマジナリーフレンドが保護者や、家族、神としてその役目を果たすのでしょう。

しかし、IFが安全基地としての役割を果たさなければならないのは、単に心理的な問題ではなく、実はもっと生物学的な意味があると思われます。

そのことを知るために、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合から、愛着が果たす、生物学的な役割について調べてみましょう。

この愛着トラウマは、具体的な生理学的機序を有している。

母親に感情の調節をしてもらえないことで交感神経系が興奮した状態が引き起こされる。

…しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。(p16)

まずここでは、愛着トラウマは、母親による感情の調節や、交感神経・副交感神経の働きと関係する、とされています。

そもそも愛着とは、生物学的に言えば、安心できる居場所を見分けるためのシステムです。

赤ちゃんは無力で無防備ですから、何よりもまず、どこにいれば、安心して眠っても構わないのか、ということを、 生まれてすぐに学習する必要があります。

生後半年から1年半ごろの早い期間に、自分のために特別な配慮を払ってくれた人、多くの場合、それは母親ですが、その母親の腕の中であれば、交感神経の警戒を解いて、副交感神経を働かせ、安心して眠ってよいのだ、ということを学びます。

そのように、交感神経を働かせ目覚めているべき場所と、副交感神経を働かせ、眠っても構わない安全な場所を見分けるシステムが、愛着と呼ばれる絆の正体なのです。

しかし、その絆が育まれず、愛着トラウマが生じると、何が起こるのでしょうか。

まず安心できる居場所がないため、警戒反応が強くなり、交感神経が過剰に興奮します。そして助けを求めて泣き叫ぶこともあります。

それでも保護が得られないと、何とか体を休めるために、母親に抱かれているわけでもないのに、副交感神経も強く働き始めます。

すると、本来はっきりとメリハリがついて、活動時と休息時に別々に働くはずの交感神経と副交感神経が、同時に興奮するという奇妙な状態になります。続く説明を見ると、その状態の異常さがわかります。

ちょうど「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」と考えると分かりやすいかもしれない。

そしてそれは、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。これが解離状態であるというのだ。(p17)

それは、「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」なのです。

この異常な状態は、混乱した無秩序な愛着パターン、通称「D型アタッチメント」と呼ばれて、以前の記事で詳しく取り上げました。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち | いつも空が見えるから

 

基本的信頼感が育まれていないため、親や他の人と接する際、頼って心を休めたいと感じる反応と、傷つけられることを警戒して身構える反応とが同時に起こります。

もう少し成長すると、それは、他の人に一見親しげに振るまって接近しつつも、同時に警戒を緩めることができないという苦痛に満ちた人間関係に発展しがちです。

それこそが、かの「過剰同調性」です。他の人の顔色を読む強い「心の理論」を発達させ、優しく気配りしますが、心の底では、相手を信頼することができず、常に緊張しています。

本来なら同居するはずのない、人に対して親しげに振る舞う自分と、人に対して警戒する自分が同時に現れることが日常的に続くなら、行き着く先は一つ、自分が分裂した状態、すなわち「解離」なのです。

もちろん、解離の程度は人それぞれですが、解離は愛着トラウマによる「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」の結果と解釈すると、さらにわかることがあります。

たとえば、愛着トラウマを抱える人や、解離性障害の人は、感情の不安定さを抱えることが多いと言われています。

子を愛せない母 母を拒否する子によると、子どもの愛着障害は、ADHDや双極性障害とよく似ていて、区別するのが難しいようです。子どもの愛着障害は、一般的に午前中うつっぽく、夜にハイテンションになりやすいそうです。

愛着障害に詳しい杉山登志郎先生は、子どものPTSD 診断と治療の中でこう書いています。

この親の側に認められる気分障害を診断カテゴリーに当てはめれば、双極II型がほとんどである。

ところが、うつ状態と診断され、抗うつ薬のみが処方されていて逆に悪化したという例が多い。(p200)

その背後には愛着形成の障害があり、それゆえに情緒調整の障害が生じるのである。

…愛着障害を基盤にした気分調整不全が、成人に至ったときに双極II型類似の気分変動を生じるのである。(p201)

ここでは、子どものころに愛着トラウマを抱えた成人(親)は、双極性障害II型に似た気分変動を示しやすく、うつ病と誤診されていることも多いと言われています。

ここから思い出されるのは、先ほど引用した天才の脳科学―創造性はいかに創られるかの、作家たちの健康状態について調査したデータです。作家たちが抱えていた病の多くは、うつ病または双極性障害でした。

優れた「心の理論」の感受性を活かして、小説家として活躍する人たちと、愛着トラウマのために気分変動を生じた人たちが、同じ症状を示すのは決して偶然ではありません。

以下の記事で取り上げたとおり、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)という本によると、小説家として成功する人の中には、愛着トラウマを基盤とした空気を読み過ぎる能力を、創作という形で昇華している人が多いのです。

文学や芸術を創造する「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

 

解離性障害の専門家の柴山雅俊先生も、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)の中で、解離性障害はうつ状態や強い疲労感を伴い、双極性障害II型によく似ていると述べています。(p147)

さらに、もう少し掘り下げてみると、先ほどの杉山登志郎先生は愛着トラウマが気分障害を生じさせる理由を次のように説明しています。

愛着行動とは幼児が不安に駆られたときに養育者の存在によってその不安をなだめる行動である。

やかて養育者の存在は幼児の中に内在化され、養育者が目の前にいなくとも、不安をなだめることが可能になる。

これこそが愛着形成の過程であり、その未形成とは、自ら不安をなだめることを不可能にする。(p201)

愛着トラウマとはすなわち、心の中に存在するはずの安全で包み込んでくれる親のイメージが存在していない状態、言い換えると、正常な安全基地の不在です。

安全基地が心の中に存在しなければ、不安が生じたとき、それを抑えこむことが難しいので、慢性的なうつ状態になりやすくなり、感情のコントロールも難しくなります。

そうした状況に置かれたとき、一部の子どもたちは、だれに頼るでもなく、自分自身でその問題を解決する適応反応を見せます。

自分の気分を調節してくれる養育者を現実に見いだせなかったのであれば、どうやって感情を調節すればよいのか。

答えは簡単です。現実にいないのであれば、自分で創り出せばよいのです。

それこそが、解離性障害の子どもや、施設で過ごす愛着障害の子どもに高率に認められる、保護者、家族などの役割を持ったイマジナリーフレンドの正体なのです。

IFはトラウマ記憶を再固定化する

こうして、自分で自分を守るための適応反応として生み出された「安全基地」としてのイマジナリーフレンドは、愛着トラウマを癒やす働きさえ持っています。

そもそも、トラウマが癒されるというのはどういうことなのでしょうか。

近年では、トラウマが癒される過程は「記憶の再固定化」、専門的には、治療的再固定化のプロセス(TRP)と呼ばれています。

TRPとは、簡単に言えば、エラーを起こしているファイルを開いて、中身を書き換えて、再保存するようなものです。

苦しいトラウマ記憶を思い出し、その記憶に別の解釈が加えることで、トラウマ記憶の修正を図ります。多くのトラウマ治療法は、たいていこのプロセスを含んでいます。

しかし、記憶の再固定化は、医師やカウンセラーでないとできない特殊なものではなく、日常的に生じています。

岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でこう説明しています。

まず記憶の再固定化ということについて強調しておきたいことがある。それは記憶が改編されるプロセスは、前章で紹介したTRPのようなある特殊な治療状況以外でも、常に起きている可能性があるということだ。

記憶の改編自体は日常生活でも起きていて、私たちはその原理を知らないうちに応用しながら、辛い体験を乗り切っている可能性があるのである。(p50)

記憶の再固定化によるトラウマ治療は、わたしたちの日常生活の中でも常に起きているとされています。たとえばどんな場合でしょうか。

ある苦痛な体験を持った後、私たちの多くはそれを誰かに話したくなるものだ。

胸の内を誰かに聞いてもらい、すっきりしたいと思うのは、おそにく過去にも似た体験があり、人に話すことで苦しみがある程度は楽になるということが学習されているからであろう。

もちろんだからといってその体験の後すぐに適切な話し相手が見つかるわけではない。

時にはその話し相手は、唯一の信頼できる友人でなくてはならないであろうし、別の場合には、客観的な立場にあり秘密を守ってくれるようなカウンセラーでなくてはならない。(p50-51)

岡野憲一郎先生が注目したのは、「会話」による記憶の再固定化です。

そもそもカウンセラーとの心理療法自体が会話ですが、ときに家族や親友が、有能なカウンセラー以上に助けになることは、多くの人が身を持って体験しています。

なぜそうした信頼できる人との会話が、記憶の再固定化を促し、トラウマを癒やすのか、ということについては、さらにこう説明されています。

トラウマ的な体験を持った後、私たちはしばしば奇妙な心の状態を体験する。それはそれを恐怖とともに体験した自分の方が異常であり、自分がされたことは必然であったという心境である。

あるいはこれを恐ろしいと感じているのは自分ひとりであり、その意味で自分は孤独である、という心境になることもある。

そんなときに一人で壁に向かってその体験を語ったところで、そこに記憶の改編が起きるはずがない。

ところが目の前に、自分を理解してくれる人が存在し、自分の感情に保証を与えてくれたり、それに共感してくれたりするという体験が生じると、たとえその人が気休めの言葉しかかけてくれないとしても、それもまた記憶の改編を生むのだ。(p52)

トラウマ的な経験をすると、さまざまな困惑や葛藤が沸き起こります。

そんなときに、一人で壁に向かってしゃべるのではなく、信頼できる人が話し相手になってくれるなら、新鮮な体験が生まれます。

自分が思い悩んでいることについて、まったく別の解釈を示してもらってハッとするかもしれません。あるいは、ただ聞いて共感してくれるだけでも、 自分は一人ではなく、ここにいても構わないのだ、という気づきにつながるかもしれません。

そうすると、トラウマ記憶は改編され、徐々にトラウマでない記憶へと修正されていくのです。

そして、もうお気づきと思いますが、このような信頼できる友人との対話は、愛着トラウマを持つ人がイマジナリーフレンドとの対話において経験していることそのものです。

傍から見ると、それは壁に向かってひとりごとを言っているように思えるかもしれません。もしイマジナリーフレンドが自分自身の空想の延長にすぎないとしたら、確かにそのとおりでしょう。

しかしイマジナリーフレンドは、ほとんどの場合、本人とは区別できる別人格として存在していて、会話によって違う観点から意見をやりとりしたり、本物の他人のように気遣いあったりすることができます。

逆説的に言えば、愛着トラウマを抱える人は、自分の空想の中だけで問題を解決することはできないのです。だからこそ、自分の一部を解離させ、自分とは別の人格としてのイマジナリーフレンドを生み出すのです。

前回の4つの考察で取り上げたとおり、 稀で特異な精神症候群ないし状態像の中でこう書かれていたのは、何の不思議もありません。

I.C.はその扱い方によってはこれを治療の協力者となすことも可能だと考えられるのである。(p49)

愛着トラウマにおけるIFは、治療の協力者となすことができるどころか、ある意味で治療者そのもの、専属のカウンセラーなのです。

もちろんそれは、自分自身で意図的に創りだしたものではなく、人の心にはるか昔から組み込まれている無意識の防衛規制という救済システムが、そうさせるのです。

人間にこのような防衛システムが組み込まれていることは、冒頭で触れた別の例「サードマン現象」にも如実に示されています。

以前の記事で取り上げたとおり、イマジナリーフレンドもサードマンも、人が危機に直面したときに、空想の他者を創りだすことで、脳を保護する働きであると考えられています。

脳は絶望的状況で空想の他者を創り出す―サードマン,イマジナリーフレンド,愛する故人との対話 | いつも空が見えるから

 

この点については、日本における子どものイマジナリーフレンドの研究者である森口先生も、おさなごころを科学する: 進化する幼児観の中でこう同意しています。

各発達時期で支配的な行動が見られるものの、空想の友達がたとえば大人でサードマン現象として見られるように、時として他の発達時期で顔を出すことがあるのです。

つまり、加齢によってこれらの行動は消えるわけではなく、出てくる確率が相対的に低減するだけなのです。(p170)

社交的な幼い子どもが孤独を感じたときに子どもを支え守るために現れるのがイマジナリーフレンドであれば、大人が遭難などの極限状況で孤独に押しつぶされそうになったときに現れるのがサードマンです。

そして、青年期に、愛着トラウマによる「基本的信頼感」の欠如によって、この大勢の人がひしめきあう社会で遭難し、だれをも心から信頼できず、だれをも頼ることができないときに現れるのが、「安全基地」としてのイマジナリーフレンドだといえるでしょう。

脳の左半球と右半球の二つの自己のせめぎあい

IFがいかにして、愛着トラウマを抑えこむのか、という点をさらに調べてみると、興味深い事実が浮かび上がります。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、愛着トラウマで生じる心身の問題をさらに生物学的に読み解くと、それは右脳の機能不全であると考えられています。

逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。

つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。

ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。

というのも人間の発達段階において、特に生後の最初の1年でまず機能を発揮し始めるのは右脳だからだ。(p19)

この点は別の記事でも詳しく取り上げましたが、愛着トラウマを抱える人は、左右の脳の連携が弱く、右半球の優位性が見られると言われています。

本来ならば論理的な思考をつかさどる左半球が、感情的な反応をつかさどる右半球を制御するはずですが、連携が弱いため、それがうまくいきません。

左半球によって右半球の感情的な反応が抑え込めないと、感情や記憶が、PTSDのフラッシュバックの形をとって暴走します。

しかし、ある人たちの場合は、左半球と右半球の連携が弱いとしても、別の方法で右半球の興奮を鎮める術を身につけます。

先ほどの説明の続きを見ると、次のような興味深いことが解説されています。

最後にショアが呈示する自己selfの理論が興味深いので、付け加えておきたい。

彼の説は、脳の発達とは自己の発達であり、それはもうひとつの自己(典型的な場合は母親のそれ)との交流により成立する、というものである。

そしてそこでも最初に発達を開始する右脳の機能が大きく関与している。

ショアは、自己の表象は左脳と右脳の両方に別々に存在するという考えが、専門家の間でコンセンサスを得つつあるという。

前者には言語的な自己表象が、後者には情緒的な自己表象が関係しているというわけだ。(p23)

人間の脳の左半球と右半球には、それぞれ別の自己が存在していると言われています。 

これは荒唐無稽な話ではなく、以前の記事で紹介したとおり、てんかんの手術などでやむをえず脳の左右をつなぐ脳梁を切断した、分離能(両断脳)の患者の研究によって確証されています。

脳の左右のつながりを失った患者は、あたかも二人の別々の自己が存在するかのように、右手と左手が、別々の意志をもって行動しました。

通常は、この二つの自己は統合されていて、多くの人は二人の自分がいるなどと思いません。しかし、愛着トラウマによって、左右の脳の連携が弱く発達してしまった人の場合、それぞれがある程度独立した人格を帯びています。

もちろん、愛着トラウマを抱える人の場合、脳の左右をつなぐ脳梁が切断されたわけではありませんから、完全に二つの自己にわかたれるわけではありません。

しかし脳梁の機能が弱く、普通の人よりも結びつきが弱いので、左半球を中心とした神経ネットワークの理性的な自己と、右半球を中心とした神経ネットワークの感情的な自己とを別々のものと感じやすいのかもしれません。

連携の弱い左半球は、その連携の弱さのために、あたかも別の人格であるかのように振る舞うことができ、「安全基地」としてのIFや内的自己救済者(ISH)として、母親の代わりに支えを与える場合があるのです。 このISHについてはもう少し先で改めて考えます。

内省的で柔軟な思考

おそらく、「安全基地」としてのIFを持つ人は、DIDの人よりも、比較的左右の脳の連携がまだ保たれているのでしょう。

自分とIFを別人格として認識しつつも、同時に両方を認識し、会話などのやりとりをすることができます。

その結果、おそらくは、暴走する右半球の感情を抑えこむために、左半球の理知的な働きがIFによって強化され、普通以上に内省的で柔軟な思考が形成されるのではないかと思います。

私見ではありますが、青年期を過ぎてもIFを持つ人は、実際の年齢以上に思考力が成長していることが多いように思えます。

その点は、「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中で、大饗広之先生も書いていました。

たとえば、社会的に成功していた43歳の男性S氏は、大饗先生に、若いころからイマジナリーフレンドを持っていたことを告白しました。

それは若い頃から少しはあったんですけど、最近になってそれが以前よりはっきりしてきた。「おいおい」と自分に誰かが呼びかけてくる感じです。

…頭の中でものを考えるとき、討論会やっている感じになるんです。それで自分は二重人格じゃないかと疑ったこともあった。

…論理的で慎重なことを言ってくるのは今の私に近い人……そいつはいたって平和主義で少し道を外れそうな自分を抑えてくれる。声も私と同じで「他の人」という感じはしないけど、思考は完全に第三者ですね。(p76)

S氏は、完全に第三者的な思考を持つイマジナリーフレンドと頭の中で会話を交わすことができました。イマジナリーフレンドの中には、論理的で慎重な、いわゆる脳の左半球の機能に特化した人格も含まれていました。

大饗先生は、そのようなS氏や、別のイマジナリーフレンドを持つ他の大人たちについて、こう評しています。

彼は内省力豊かでしかも柔軟な思考の持ち主であり、かなり苦痛と思われる体験も含めて冷静に回想することができた。(p77)

彼らはふつう以上に思考の柔軟性や内省能力を持っている人たちであった。(p86)

青年期以降もIFを持っていた人たちは、内省力豊で、ふつう以上に思考の柔軟性を持っていことが多かったのです。

おそらくは、一種の反転現象が生じているのでしょう。つまり、「愛着トラウマ」のせいで右半球の感情が暴走しやすく、それを抑えこむために左半球による理知的なIFを生み出し、常にせめぎあいを続けてきた結果、普通の人以上に思考力が発達していくのだと思われます。

優れた心の理論によって別人格を創造できるので、自分の気持ちだけでなく人の気持ちもわかるようになり、多角的・多面的な考え方ができるという事情も関係しているのでしょう。

こうした代償的な反転現象は、様々なケースで見られます。たとえば、先日亡くなった横綱千代の富士は、肩に慢性的な脱臼癖を抱えていましたが、それを克服するために人並み外れた筋力トレーニングをするようになり、横綱にまで上り詰めました。

明らかな弱点があると、それを克服するために正反対の域にまで成長していく、ということが、一部の人の場合に生じるようです。

解離性障害の人の場合もある程度同じことが言えそうです。解離性障害の人は、人が怖いという気持ちを抱えながら、繊細で優しい気配りが得意です。内省的で柔軟な思考の持ち主も少なくありません。

このような気配りは、すでに考えた過剰同調性の一面ですが、過剰同調性を示すには並外れた感情のコントロール脳力が必要なのも確かです。人前では、自分の感情や意欲を抑え、相手に合わせることになるからです。

そのようなコントロール能力は、ある程度、慢性的な感情の不安定さを抑えこむために発達したものなのでしょう。

そのようなせめぎあいが、限界を超えると、交代人格の解離にまで至ってしまいますが、ギリギリのところでバランスが取れていれば、IFとして認識されるのではないかと思います。

なんとかバランスがとれていれば、IFは絶望をわかちあう「安全基地」として、あたかも見守る親のように機能します。しかし、耐えられないほどのストレスがかかると、主人格が意識を失い、別人格が身代わりになって表に出てきて、あたかも子どもの代わりにやってあげる親のように、人格交代を伴うDIDに発展してくとみなせるかもしれません。

もちろん、青年期以降もIFを持っている人が、すべて内省力豊かで柔軟な思考を持っているとは限りません。

大饗先生も、反証となる一例を挙げていてイマジナリーフレンドを持ちながら、「内省的とはいえない」K氏の例を紹介しています。(p125)

しかし、K氏は、さきほどのS氏とは異なり、物心ついたときから周囲との疎外感を自覚していて、周囲に過剰に気を使うどころか、友人もおらず、ゲームに没頭して妻のことさえ気にかけない男性だったといいます。

大饗先生は、こうした点から、「彼が自閉的な傾向をもっていたという可能性が排除できない」と述べていて、別の要素の関与を指摘しています。この点については、後ほどセクション4で扱います。

過去の自分がIFになることもある

さて、ここまでのところ、脳の左半球を源として生じると思われる「安全基地」としてのIFについて考えてきました。

しかし、IFを持つ人たちは、右半球と左半球それぞれの1つずつのたった2つの人格しか認識していないとは限りません。DIDにしても、ISHのような理性的自己のほかに、たくさんの人格が出現するのです。

これらの多くの断片的な人格は、いったいどこからやってくるのでしょうか。

大饗先生は、過去の別モードの自分がIFとなるケースがあるという、興味深い説明を展開しています。

ある時期に急激なモード変換(物語の屈曲)が生じると、屈曲前のモードは単に忘却(抑圧)されるのではなく、まったく別の系列(アイデンティティー)として併存することになる。(p104)

人生の屈曲、すなわちクサビが打ち込まれる五歳までの天真爛漫だったナオミの記憶体系は、無意識へ垂直に抑え込まれずに、主体に並列する形で浮かび上がってきたのである。

五歳のときに断裂した部分が、彼女の歴史の全体性を外れて、別の人格体系(アキナ)として蘇ってきたのはなぜだろうか。(p104)

ここでは、IFの別人格アキナを持っていた、主人格のナオミという人について書かれています。

このケースでは5歳ごろに家庭内でショックとなる出来事があり、そのとき以降、周りの空気を読んで、性格や振る舞いを変えて生きていかなければならなくなりました。

すると、5歳まで育ってきた本来の天真爛漫な人格は封印され、5歳以降、必要に迫られて作った人格が、ナオミのアイデンティティになりました。

しかし5歳ごろまでの本来の人格は、消えてなくなったわけではなく、IF的な別人格、アキナとして、心の中に残り続けていたのです。

これは本来の人格がIFとなり、創られた人格が主人格となって生活してきた例といえるでしょう。

このような例は、珍しいものではないようで、大饗先生はこう説明しています。

解離された過去は「私」以外にだれか(多くはイマジナリーコンパニオンの形態をとる)に託されるようになる。「中心」そのものが多重化していくわけである(物語の多重化)。(p209)

IFを生み出すような人たちは、「過剰同調性」によって、その場その場に合わせてモード切り換えを続けながら生きてきているわけですが、過去のモードの名残が消えずに、IFとして独立することがあるのです。

これは、IFというよりは、幼いころにトラウマ経験を持つ解離性同一性障害(DID)の戦略として知られていて、「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からの著者ラルフ・アリソンはこうしたタイプをDIDではなく多重人格障害(MPD)として分けて考えています。

MPDの人は、新しい状況に対応するとき、その状況に即した新しい人格を創ることで対処していて、無制限に人格が増殖していきます。このMPDの軽いものが、モード切替ごとに生じて残っていくIFなのかもしれません。

このようにして、幼いころのモード切替の名残としてみられる別人格は、愛着障害とも関係しているのではないか、と岡野憲一郎先生は解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で述べています。

ただし子どもの人格部分には、とても無邪気で創造的な振る舞いを示すものもある。一見明白なトラウマを抱えているわけではなく、ただ遊ぶことを目的に出てくるように見える子どもたちであるが、臨床上はこちらに出会うことのほうがむしろ多い。彼らの目的は何であろうか?

おそらくこちらはトラウマを背負った子どもの人格部分とは、多少なりとも異なる来歴を持つ可能性がある。

どちらかというと愛着障害に由来するのではないか。のびのびと甘え、遊ぶ体験を実際には持てず、ファンタジーの中でのみそれが実現していた場合、それもまた子どもの人格部分として隔離されている可能性があるのだ。

ただし最近用いられる「愛着トラウマ」の表現を用いるならば、こちらもまたある意味でトラウマ由来ということができるかもしれない。(p146)

ここで説明されているケースによると、愛着トラウマを抱える人の場合、ここまで考えてきた「安全基地」のような支え手となる別人格だけでなく、ただ無邪気に遊ぶことを目的とする子ども人格が存在する場合があるようです。

その子ども人格は、幼いころの天真爛漫で無邪気な自分、周りの空気を読んで、欲求や感情を抑制する前の本来の自分が、解離されて残っているものであるようです。

衝撃的なトラウマではなく、愛着トラウマから生じた過剰同調性のために空気を読んで、本来の子どもらしい自分を抑えた結果、そのときの満たされなかった自分が別人格となったりIFとなったりして、存在し続けることがあるのでしょう。

内的自己救済者(ISH)とは何か

このような考え方は、MPDを提唱しているラルフ・アリソンのもう一つの概念である内的自己救済者(ISH)とは何者か、ということに関して、いくらか洞察を与えてくれます。

アリソンは、多重人格の患者に見られる人格のうち、個々の役割に特化した交代人格が多くいる一方で、当人の過去すべてを知り、生まれたときから存在し、冷静で理知的かつ愛に満ち、他の人格を超越した特殊な人格がいることに気づき、内的自己救済者(ISH)と名づけました。

多重人格治療のパイオニア ラルフ・アリソンの素顔―患者のために涙を流した医師 | いつも空が見えるから

 

アリソンは、だれでも理性的自己と感情的自己を持っており、DIDの場合は、理性的自己が独立しているように振る舞いはじめ、ISHとして認識されると述べています。

この理性的自己、またISHの特徴は、脳の左半球の特徴と非常に似通っています。感情的自己は右半球とみなせます。ISHがすべての人に最初から存在しているということからしても、おそらくは、脳の左半球にもともと存在する自己のことを指しているのでしょう。

おそらくは、DIDでは愛着トラウマのせいで脳の左右の結びつきが弱くなるために、左半球の自己が独立してISHとなるのでしょう。

そして、そのほかの多彩な人格は、その後の空気を読みすぎる生き方のモード切替の名残りとして創られていくものだと考えることができます。

アリソンの慧眼どおり、確かにISHと他の人格は別物であり、役割も異なるのだと思われます。

青年期のイマジナリーフレンドの場合も、やはりISHに近い「安全基地」としてのIFと、モード切替の名残としての多様なIFという二種類のタイプが存在している可能性があります。

しかしIFを持つ人は、DIDの人ほど左右の脳の結びつきが弱いわけではないでしょうから、「安全基地」としてのIFは、完全に左脳的で冷静沈着かつ論理的なISHと比べると、もう少し右脳的な感情要素も伴う、人間味のある人格として意識されるかもしれません。

子どものころの脳の名残

愛着トラウマから生じる一連のIFの考察の最後に、どうして愛着トラウマを抱える人は、本来子ども時代だけに生じるはずのIFを、青年期以降も持ち続けるのか、という点を考えておきたいと思います。

ここまで考えてきたことから明らかなとおり、幼い子どもの半数近くが経験するIFと、青年期以降に存在するIFは、別のものではありません。

どちらも、同様の脳の防衛機制によって創りだされる別人格であり、子どもの場合は孤独や退屈、青年期以降は愛着トラウマによる苦しさなどを和らげるために無意識的に生み出されます。

しかし、普通の人は、たとえ子ども時代にIFを持つとしても、その後の人生でトラウマなどの強いストレス経験をしたときに、IFが現れるということはまずありません。

ごくまれにサードマン現象のようにして、極限状況でIFが現れますが、一時的なものに過ぎませんし、何よりすべての遭難者がサードマン現象を経験するわけでもありません。

そもそも、IFを持つ子どもが20%-60%ほどの高率であるのに対し、IFを持つ大人は、冒頭で挙げた調査でも2.8%と、だいたい10分の1以下になります。

なぜ、たいていの人は大人になるとIFを持たなくなるのに、愛着トラウマを抱える人はIFを持ち続けることができるのでしょうか。

これはおそらく、愛着トラウマが脳の発達に影響を及ぼし、子ども時代の名残を残した脳のまま、大人になるという仕組みが絡んでいるようです。

たとえば、おさなごころを科学する: 進化する幼児観の中にはこんな説明があります。 

子どもの頃、世界はもっと私たちに身近で、鮮明だったように思えます。太陽はまぶしく、草木の緑は濃く、水は本当に青い空をしていました。虫と会話をし、小人の足跡を見つけ、神様の存在を感じることができました。

…詩人などの一部の人間だけが、その感覚を大人になっても保持し、表現できるのかもしれません。(ii)

この場合、詩人になるような人は、おそらく子ども時代の感覚、つまり脳の性質を溜まったまま成長していったのでしょう。

子どものころは脳がまだ十分発達しておらず、抑制機能の基盤である前頭葉も未熟なので、感覚の統合が十分ではなく、空想の友だちや、共感覚、絶対音感などの不思議な現象が当たり前のように存在します。

しかし、赤ちゃんはすべて共感覚や絶対音感を持ち、幼児の半数近くがIFを持つのに、大人になると、それらはいずれもまれになります。脳が発達すると、各部分の結びつきが安定し、解離しにくくなるからです。

ところが、ADHDやアスペルガー症候群などの発達障害の人は、大人になっても共感覚を持っている場合があります。これは脳の発達の未熟さから、子ども時代の名残が残っているためです。

同様のことが、愛着トラウマの場合も生じます。近年の研究によると、愛着トラウマは、脳の発達を妨げ、生来の発達障害と似たような成長の遅れをもたらすことがわかっています。

それどころか、生来の発達障害よりも、子ども時代の過酷な環境のほうが脳の発達を妨げる度合が強いとも言われていて、「発達性トラウマ障害」(DTD)という概念が提唱されています。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体 | いつも空が見えるから

 

 それで、愛着トラウマを抱えた人や、後ほど取り上げるアスペルガー症候群などの発達障害の人がIFを持ちやすいのは、脳の発達が定型的でなく、大人になっても解離しやすさが残っているからなのかもしれません。

子ども時代の脳の名残を抱えたまま大人になってしまうので、イマジナリーフレンドのような、本来は子ども限定の不思議な現象を感じ続けることができるのでしょう。

ここまで、愛着トラウマや心の理論というキーワードを通して、子どものイマジナリーフレンドと、青年期のイマジナリーフレンドの関わりについて考察してきました。

続くセクション3では、解離に焦点を当てて、青年期のイマジナリーフレンドと、解離性同一性障害(DID)の交代人格のつながりについて考えてみたいと思います。

第三章 解離的な「夢」として考えるIF

ここまで考えてきた子どものイマジナリーフレンドも、愛着トラウマに由来する青年期のイマジナリーフレンドも、 いずれも根底にあるのは防衛機制の解離というメカニズムの働きです。

解離には、わたしたちが日常的に経験している没頭体験や白昼夢などの程度の弱い解離から、空想の友だちを創り上げ、人格が別れてしまう程度の強い解離まで、様々なものが含まれます。

このセクション3では、そもそも「解離」とはいったい何なのか、という点を睡眠中の夢との関係で掘り下げ、イマジナリーフレンドとDIDの交代人格のつながりについて考察します。

IFとDIDは連続するもの

これまで、IFとDIDは関連性のある現象なのかどうか、という点について、多くの専門家が議論してきました。

おもな争点となっているのは、記憶の断絶があるかどうかです。

DIDでは、一般に、人格交代している間の記憶は失われることが多く、それぞれの人格の間で記憶が隔てられる健忘障壁が見られるとされています。

それに対して、IFはそれぞれの人格間の記憶は筒抜けであり、健忘障壁はありません。

では、IFとDIDはまったく別物なのかというと、そうではないようです。

問題なのは、専門家たちが理論先行で議論を戦わせてきた結果、現実に即していない机上の空論が組み立てられてしまったことです。

これまで、人格交代がありながら健忘障壁はほとんどない解離性障害は、DIDとみなすことはできず、DDNOS(特定不能の解離性障害)と診断されてきました。

ところが、岡野憲一郎先生が、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で述べているところによると、典型的なDIDなどというのは非常にまれで、ほとんどの症例がDDNOSになってしまう「ゴミ箱満杯問題」が生じていたそうです。(p116)

そこで近年、新しい診断基準であるDSM-5が作られた際、次のような変更が加えられたそうです。

ここではDDNOSに列挙されていたものを思い出そう。そこには「例」として、1.DIDの不全型(明確に区別されるパーソナリティ状態が存在しない。重要な個人的情報に関する健忘が生じていない)…などが挙げられていた。

このうち1.DIDの不全型については、上記のように診断基準が緩められたことで、以前はここに入り込んでいたケースの多くがDIDとして診断を下される可能性があろう。(p116-117)

つまり、DIDには健忘障壁が必須、という考え方は緩められ、これまでイマジナリーコンパニオンとみなされていたケースがDIDとみなされる可能性が出てきたということです。

この変更によって、診断名が変わるかもしれない有名な、ただし架空の人物に、ジキル博士とハイド氏がいます。

意外に思えるかもしれませんが、しばしば多重人格の代名詞とされているジキル博士とハイド氏と、これまでの診断基準だと、厳密にはDIDではなく、イマジナリーコンパニオンとみなされていました。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中で、大饗広之先生はこう述べています。

主人格が別人格を認識している場合には、それは主人格による空想の産物として扱われ、DIDの交代人格とは似て非なるものとみなされ、イマジナリーコンパニオンという名称があてられる(ジキル博士にとってのハイド氏もそれにあたる)。

また解離した人格ーが人格としての深みを欠き、要素的感情(たとえば怒り、喜びなど)しか持たない場合などには人格断片という呼称があてられる。

しかし交代人格がICから発展する可能性も以前から指摘されており、両者の関係には依然として曖昧な点が多い。(p178)

なぜジキル博士とハイド氏が多重人格でないのか、というと、ジキル博士とハイド氏の間に。健忘障壁はなく、二つの人格はそれぞれの存在をよく知っていたからです。

しかし大饗先生が述べているとおり、たとえその時点では健忘障壁が存在しないとしても、やがてICからDIDに発展する可能性が、かねてより指摘されていました。

大饗広之先生は、臨床で出会うICの場合も、ハイド氏のように人格としての一貫性が認められ、単なる空想の産物とは言いがたいという点を述べてています。

実際に人格の多重化を訴えるケースを覗いてみると、主人格と交代人格をそれほど簡単には区別できないケースが圧倒的に多い。

そして交代人格(IC)にも人格としての一貫性が備わっていることが少なくないのである。(p179)

そして実際の臨床では、DIDとICの境界線を引くのが難しいケースも少なくないことを述べています。

ヨウコのような症例においてはICとDIDを質的にわけることができないのである。

両者には断片的な性格のものから人格として高度に統合されたものまでさまざまな段階のものがあり、少なくとも健忘の程度によって質的に区別することは難しい。(p181)

結局のところ、健忘障壁があれば病的なDID、互いに会話できればイマジナリーコンパニオンという分け方は、学者が作り出した机上の空論に過ぎず、臨床の場では、両者は複雑に絡み合っているのです。

もちろん、これは、IFを持つ人がみな、DIDのような状態に発展していくという意味では決してありません。

次のセクションでも改めて取り上げる点ですが、これは自閉スペクトラム症の連続性と似ています。

自閉スペクトラム症では、明確な境界線は存在しておらず、少し自閉的なもののほとんど気づかれない自閉症表現型(BAP)と呼ばれる人たち、ある程度自閉的なもののコミュニケーション能力を備えたアスペルガー症候群(AS)の人たち、そして、重いコミュニケーション障害を抱えるカナー型自閉症の人たちなどが連続的に分布しています。

しかし、だからといって自閉症表現型の人がアスペルガー症候群に発展したりするわけではありません。

同様に、人格の多重化も、一瞬だけ人格交代が生じる人、会話できるイマジナリーフレンドを持つ愛着トラウマを抱えた人、人格交代して健忘障壁を伴うDIDの人などが、連続性をもって分布しているようです。

しかしこの場合も、連続性があるとはいえ、イマジナリーフレンドがDIDに発展するかというと、必ずしもそうなるわけではありません。

そのようなわけで、人格の多重化スペクトラムという観点から見ると、DIDのような典型例は少なく、むしろ中間的な位置にあるイマジナリーフレンドが思いのほか広く存在している可能性があります。

また、これまで、DIDのような人格の多重化は、性的虐待などの衝撃的なトラウマをきっかけに発症するものと考えられていましたが、近年は見方が変わってきています。

岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、次のように述べています。

すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを常に念頭に置くべきなのである。(p15)

解離性障害、または解離性同一性障害(DID)は、ここまで考えてきたような愛着トラウマを発端とする症状のうち、極端なケースであると考えることができます。

実際に、解離性障害の臨床では、PTSDのような明確なトラウマ因が見つからないことも多いと言われています。

それに解離性障害には、PTSDなどについて考えるようなトラウマやストレスが必要条件として存在するべきなのかについての識者の見解は統一されているとは言えない。

私の臨床場面でも、過去の明確なトラウマ因を見いだせないケースは実際に体験されるのである。(p106)
 

もし原因がショッキングなトラウマではなく、乳幼児期の愛着形成の失敗にあるのだとしたら、トラウマ因が見当たらないケースがあるのも当然ですし、普通の家庭の子どもがたまたまやむを得ない事情で愛着形成に失敗したせいで、のちのち解離性障害になりやすくなるケースもあるでしょう。

人格の多重化の根底にあるのは、結局のところ、セクション2で見たような、乳幼児期の愛着トラウマによる左右脳半球のつながりの弱さなのです。その中でも特殊で程度の重い事例が、DIDと呼ばれる多重人格だと理解することができます。

解離は感覚遮断から始まる

それにしても、このような人格の多重化を引き起こす要因である、解離とは何なのでしょうか。なぜ多重化してしまうのでしょうか。

解離にはさまざまなメカニズムが関与していると思われますが、解離を引き起こす大きなきっかけは感覚遮断だと思われます。

感覚遮断とは、防衛反応として、外部からの刺激をシャットアウトする脳の働きのことです。

感覚遮断は、ごく普通の人にも生じることがあり、そのような場面ではだれもが解離性障害のような症状を一時的に経験します。

たとえば、臨死体験はその一つで、死の危機に瀕した際に、脳が危機を感じて感覚遮断することで、解離性障害に見られるような幻覚や体外離脱が生じます。

幻覚とはすなわち、外からの視覚や聴覚の入力がなくなったときに、脳が記憶の中から感覚を再生するものであり、体外離脱とは解離性障害の離人症のような体の感覚統合が失われている状態です。

そのあたりの詳しい内容については、以下の記事で詳しく説明しています。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム | いつも空が見えるから

 

さらに、感覚遮断は、危機的な状況に直面しなくても、実はわたしたちが毎日のように経験している日常的な現象です。

「夢」の認知心理学という本には、レム睡眠の際に起こる生理的な現象について、次のように書かれています。

内的に活性化した脳波、睡眠を維持し、夢を持続させるために外界からの刺激を遮断する。(p14)

レム睡眠とは、わたしたちが毎晩経験している浅い眠りのことですが、そのとき、脳は外部からの感覚を遮断しているのです。

覚醒とレム睡眠は電気的には似た状態であるが、前者が外部からの感覚と同期しているが、レム睡眠時には同期しない点で決定的に異なるのである。(p37)

この説明が示す通り、レム睡眠の最中には、覚醒時と同じように脳が活発に働いています。

覚醒時と異なっているのは、感覚が遮断されていることだけです。そうすると何が起こるのでしょうか。

実はレム睡眠とは、わたしたちが様々な夢を見ている状態です。夢はノンレム睡眠のときにも見ますが、一般によく言われる不思議な内容の夢は、レム睡眠の最中に見ているとされています。

そして、感覚遮断されているときに見る夢の内容は、解離性障害で生じるような幻覚や意識の変容と非常に類似しています。

また、感覚遮断されているレム睡眠の最中にたまたま目が覚めると、意識は目覚めているのに、体からの信号はプロックされているため、体が動かせない金縛りや幽体離脱を経験する場合があります。これらも解離性障害ではよく見られるものです。

それで、「解離」とは「感覚遮断」であり、解離性障害の人は、目が覚めているときに感覚遮断のメカニズムが部分的に働いているせいで、離人感や幻覚、浮遊感など、あたかも夢のなかのような現象が生じるのだ、と解釈することができます。

HSPー敏感すぎる人たち

しかし、いったいなぜ、解離性障害の人たちは、目覚めていながら、レム睡眠のときのような感覚遮断のメカニズムが働いてしまうのでしょうか。

その理由は、これまで考えてきた「愛着トラウマ」や強すぎる「心の理論」と結びついています。

愛着トラウマとはすなわち、「基本的信頼感」が欠如していて、安心できる居場所がなく、他の人を心の底から信頼できない状態でした。常に人の顔色をうかがって警戒している過敏状態にあるということです。

また、心の理論が強すぎるというのは、他の人に気持ちに敏感すぎて、感情移入しすぎる傾向のことでした。同時にちょっとした感情の行き違いや批判に過敏になっているともいえます。

このような心の敏感さを抱えていると、当然ながら、身の回りのものからくる感覚刺激は強すぎて、圧倒され、パニックになってしまうでしょう。

人混みに行くだけでも疲れ果てたり、ニュースを見るだけでもいちいち無意識のうちに感情移入してしまってくたくたになるかもしれません。

そうすると、自己防衛のために、解離、つまり感覚遮断のメカニズムが働き出すのは、ごく自然なことです。

また、感覚遮断が働くのは、愛着トラウマのような後天的な経験のせいだけではないかもしれません。

たとえばセクション4で取り上げる自閉スペクトラム症のアスペルガー症候群では、生まれつき五感のさまざまな感覚過敏を抱えていることが多く、トラウマ経験のあるなしに関わらず、外部からの刺激が強すぎて解離しやすいと言われています。

さらに、ひといちばい敏感な子によると、近年では、遺伝的な傾向として、高度に過敏で感受性が強い人が5人に1人程度の割合で存在するとされていて、HSP( Highly Sensitive Person)と呼ばれています。

また、母という病 (ポプラ新書)によると、愛着の安定性は完全に後天的なものではなく、遺伝要因が25%程度関係しているようです。

これは、おそらくADHDの関わるドーパミン関連の特定の遺伝子タイプなどを持っていることによる感受性の強さのため、他の子どもでは問題とはならない程度の養育環境でも不安定な愛着を生じやすいのではないかだと言われています。(p94)

このような生まれつきの遺伝的な過敏性が、HSPのような感受性の強さを生み、人よりも傷つきやすかったり、、愛着トラウマや感覚遮断を引き起こしやすい体質として関与している可能性があります。

ちなみに、感覚過敏への対処法が感覚遮断による解離である、というのは医療現場でも難病の治療に応用されています。

たとえば、全身に激痛が走る痛覚過敏の病気である線維筋痛症の治療として、アイソレーションタンク(感覚遮断タンク)を用いて痛みを軽減する治療法が試されています。

また「病は気から」を科学するによると、過敏性腸症候群(その名の通り腸の感覚過敏)の治療法として、催眠療法によって人為的に解離状態を作り出し、感覚遮断する方法が成果を挙げているそうです。

これらの例からわかるとおり、感覚遮断による解離というのは、病的なメカニズムどころか、健全な体の反応であり、世の中には解離がうまく働かないせいで痛みなどの過敏に悩んでいる人も少なくないのです。

統合失調症のような「疾患」ではない

ここで、少し話を戻しましょう。

先ほど、解離性障害とは、目覚めていながらにして、感覚遮断が生じ、あたかも夢の中のような不思議な感覚が生じている状態だと説明しました。

しかし、このような説明は、これまでしばしば統合失調症に適用されてきました。

統合失調症は奇妙な幻覚を伴い、判断能力も失われているので、あたかも起きながらにして夢を見ているような状態だと言うわけです。

しかしこれもまた、現場のデータを無視した研究者による机上の空論である可能性があります。

「夢」の認知心理学では、レム睡眠の間に見る夢の内容を分析したところ、次のような意外な結果が得られたそうです。

大人と子どもの両者からレム期からの報告についての実験室研究の結果は、夢見は一般に考えられているほど奇怪なものとは程遠いことを示すものであった。(p73)

全体としてみると、実験室での研究と自宅での研究は、夢の内容の特徴が高度に感情的で奇怪で妄想あるいは統合失調症のような内容を持つという証拠はない事を示している。(p83-84)

なんと、レム睡眠の間に見ている夢は、多くの場合、統合失調症の世界のような奇怪なものではなかったのです。

夢はもっと日常的な内容が多いのに、わずかな奇怪な例が印象に残ることが多いために、誤った印象を抱かれていたのでした。

さらに、夢は奇怪なものであるという誤解だけでなく、統合失調症の性質のほうにも、とても大きな誤解が生じています。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれていました。

他方の幻視はどうか。統合失調症においては少ないとされる幻視は解離性障害では比較的多く聞かれる。

また統合失調症の幻視が奇怪な内容であるのに対し、解離性障害の幻視の内容はおおむね現実的で、過去のトラウマのフラッシュバックという色彩を持つ。(Bremner,2009)。(p125)

統合失調症では、幻視は少ないのです。

そして統合失調症では幻視が奇怪な内容であるのに対し、解離性障害では幻視が頻繁にみられ、内容はもっと日常的だとされています。

この説明から明らかなとおり、夢の内容とよく似ているのは、統合失調症ではなく、解離性障害です。

夢の主な要素は視覚イメージですが、統合失調症では視覚的な幻覚は少ないこともそれを裏づけています。

「夢」の認知心理学には、夢の視覚的要素について、こう書かれていました。

夢の内容を作り出す能力は覚醒時のイメージ能力を反映している、すなわち夢≒覚醒時のイメージと言えそうです。

夢は覚醒時のイメージと似たようなことが感覚遮断状態で起こる現象であるということです。(p86)

解離性障害の人は、絵などの芸術的才能に優れた人が多いですが、視覚的イメージ力が通常よりも高いようです。

おさなごころを科学する: 進化する幼児観によると、イマジナリーフレンドを持つ大学院生を対象とした研究では、視覚イメージ力が高い傾向が得られたとも言われています。

麻生博士らの大学生を対象にした研究では、大学生でも、空想の友達の強い視覚的イメージを持つことが報告されていますし、筆者らの研究でも、空想の友達を持つ大学院生は、空想の友達を持たない大学院生よりも、視覚イメージを生成する能力が高いことが示されました。(p251)

感覚遮断による解離傾向が生じている人たちは、幻視を見るほどではなくても、空想癖や白昼夢の傾向があるために視覚イメージが発達しやすいのでしょう。

さらに感覚遮断と解離傾向が強くなると、起きながらにして少し夢を見ているような感じになり、本来は夢の中で生じるはずの視覚イメージが現実に重なって見える場合があるようです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこうあります。

また幻視は統合失調症ではあまり見られないものであるが、解離性の幻覚としてはしばしば報告される。

それがIC(空想上の友達)のものである場合、その姿は視覚像として体験される場合もそうでない場合もある。

またそれが実在するぬいぐるみや人形などの姿を借りるということもしばしば報告される。(p100)

おそらく本物の夢を見ているときほどに感覚入力が遮断されているわけではないものの、感覚入力がいくらか減っていて、そのぶんを幻視で補っているのかもしれません。

これと同様の状況には、視力が衰えた老人に生じるシャルル・ボネ症候群があります。こちらも、視覚からの入力が少なくなることで、現実に重なる幻が見えるようになります。

ただし、解離性障害では目の機能そのものが衰えたわけではなく、脳が外部からの入力を抑制するために、内部から幻が再生されるのです。

このように考えてくると、解離性障害とは何なのか、ということについて、極めて重要な洞察が得られます。

解離性障害で生じる状態は、夢のメカニズムと非常によく似ていますが、夢は、健康な人がだれでも毎晩のように見ているありふれた現象です。

解離性障害では昼間に感覚遮断が生じるために、起きながらにして夢を見ているような状態に近づきますが、そもそも感覚遮断は異常なことではなく、毎晩普通に生じるものです。

そうすると、解離性障害の人の脳では、何か異常な事態が生じているわけではなく、だれにでも備わっている防衛反応が、普通より強く働いているだけだ、ということになります。

解離性障害は、脳の「障害」あるいは「病気」ではなく、強いストレス環境に対して、脳が自分を守ろうと働いている状態ではないか、という見方ができます。

それはちょうどインフルエンザになったときと同じです。インフルエンザでは、ひどい不調が生じますが、それは体が壊れたせいではなく、ウイルスという外敵に対して免疫系が闘っているためです。機能は正常なので、危機が去れば元に戻ります。

解離性障害の場合も、どうやらそれと同じようなことが、脳の中で起こっているようです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、岡野先生は、統合失調症と解離性障害の最も大きな違いについて、こう説明しています。

端的に言えば、精神病の代表格ともいえる統合失調症は、一般的に時と共に人格の崩壊に向かい、予後も決してよくない。

他方、解離性障害は社会適応の余地を十分に残し、また年を重ねるにつれて症状が軽減する傾向にある。

両者が全く別物であるというのは、この予後の観点から特に言えることなのだ。(p123)

統合失調症は予後が悪く、どんどん悪化していくのに対し、解離性障害は年と共に回復していくのです。

このことからすると、統合失調症が明らかな脳のトラブルであるのに対し、解離性障害はウイルスに対して免疫系が戦うように、愛着トラウマに対して脳の正常な防衛機制が戦っている状態だとみなせます。

冒頭で、多くの子どもが持つ空想の友だちが、解離性同一性障害と地続きだと言っても、病的なものだとか、危険な要素を持っている、という意味ではなく、どちらかというとその逆だ、と書いたのを覚えておられるでしょうか。

それはつまり、イマジナリーフレンドやDIDのような人格の多重化現象は、本質的に言って害を及ぼす病気なのではなく、危機に面した心を守るために脳が働かせる正常な防衛反応なのだ、という意味なのです。

適応的な「夢」としてのIF

解離による人格の多重化が正常な防衛反応であることを示すさらなる根拠は、解離によって生じる別人格と、夜に見る夢とが、どちらも同じような役割を持っているようだ、ということです。

夢は何のために見るのか、という点は未だ多くの論争がありますが、「夢」の認知心理学によると、以下のような適応的な役割があるという研究結果があります。

両方とも夢は適応的な機能に役立つということを主張できるものであった。

一つは、我々はストレスフルな出来事を統御できるようになるために夢見るということ。

もう一つは、心理学的にそれを補償するために現実のストレスとは反対方向の性質をもつ出来事を夢見るということである。(p102)

かねてから夢は記憶の定着の役割を持っているとされることがありましたが、近年ではレム睡眠を削っても記憶の定着が妨げられることはなく、エピソード記憶の定着はノンレム睡眠中に行われているのではないか、と言われているそうです。

その代わりにレム睡眠は手続き記憶の定着や感情の整理を担っており、その現れが夢なのかもしれないという意見があるそうです。

実際に夢の内容を調べると、ストレスに関わる感情の整理に役立っているらしきことがわかりました。

ただし、一般に考えられているような、ホラー映画を見れば怖い夢を見るといって関連の仕方ではなく、その反対、つまりストレスとなった出来事と正反対の性質の夢を見やすいことがわかったのです。

眠る前に受けた刺激に関しては夢に現れるのではないかと一般的に思われているかもしれないが実験の結果はむしろ逆になる傾向が多く確認されている。

フロイトは夢の内容は昼間の経験で抑圧した「日常の残渣」が現れるとしたが、どうやらこの説はあまり説得力を持たないようである。

しかし、強いストレスの場合には当てはまるケースもあるようであるが、あまりに強すぎると「抑圧」されてしまうらしい。(p109)

この説明が示す通り、基本的に、夢は受けたストレスと正反対の内容になることで、感情を調節する「補償」の役割を果たします。

しかし、ストレスが強すぎると、内容もストレスフルなものになる場合があります。

そして、ストレスがあまりに強すぎると、今度はそれが抑圧されて、そもそもその夢を見ないようです。

これはイマジナリーフレンドなどの人格の多重化における反応と極めてよく似ています。

人格の多重化は、ある程度の慢性的なストレスのもとでは、イマジナリーフレンドという形で現れ、ストレスとは正反対の励まし手として、愛着トラウマに対する安全基地として、補償的な役割を果たします。

しかしよりストレスが強くなると、バランスが崩壊して、悪意を持つ人格が現れる場合があります。

ストレスがあまりに強すぎると、DIDとなって記憶が分断され、トラウマ記憶を隔離する健忘障壁が生じます。

どうやら、夢と人格の多重化は、感覚遮断による解離という同じメカニズムによって支えられているため、果たす機能もよく似ているようです。

言ってみれば、イマジナリーフレンドとは、起きながらにして不思議な夢の世界の住人と出会っているようなものであり、DIDとは、起きながらにして悪夢に悩まされているようなものなのです。

IFを持たない「心が空っぽ」な人たちとの違い

イマジナリーフレンドや解離性障害は、心を守る適応的な働きだとすると、次のような疑問が生じます。

本当に問題なのは、防衛機制である解離が生じない場合ではないでしょうか。

セクション2では愛着トラウマについて考えましたが、愛着トラウマを抱える子どもすべてが保護者のようなIFに出会うわけではありません。

ある意味で、愛着トラウマを癒やすためにIFが現れるのは幸運なケースであり、「安全基地」をどこにも得られないまま、ひたすらさまよう、心が空っぽな人は決して少なくないのです。

「安全基地」としてのIFが創られるのは、解離という防衛機制の働きですが、解離が弱い人たちは、心を守るためにIFが作られることはありません。

重い愛着トラウマがあるのに、心を守る解離が十分に働かない場合に生じるもの、それは何でしょうか。

それは、トラウマ経験と最もよく結び付けられる病気、すなわち心的外傷後ストレス障害(PTSD)です。

PTSDは、脳科学的には解離と正反対の現象だと言われています。解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合ではこう説明されていました。

ところで解離において右脳で起きていることを知るためには、心的外傷後ストレス障害(以下PTSDと記載する)の右脳で起きていることを理解する必要がある。

解離とPTSDは、ともに心的なトラウマに対する心ないしは脳の反応といえるが、そこではおおむね逆のことが起きているものとして説明し、理解するのが最近の傾向である。(p19)

PTSDと解離は、正反対の現象ではあるものの、連続性を持つ、人間の危機対処システムの一部です。

人間の危機対処システムは二段構えで構成されています。

獰猛なライオンに出くわしたときのことを考えてみてください。

まず、頭がパニックになって何も考えられなくなり、なんとかして闘うか、あるいはその場から逃れようとします。

これはストレス反応として有名な「闘争か逃走か」の反応です。

しかしそれがうまく行かず、ついにライオンに組み伏せられてしまったら、第二段階のシステムに移行します。

それは「固まり・麻痺」反応で、仮死状態になったり、気絶したりする状態です。

この二段構え危機対処システムは、突然の危機のときだけでなく、日常のストレスに対しても生じます。

一段階目の「闘争・逃走」反応がPTSD、ニ段階目の「固まり・麻痺」が解離に相当します。固まり・麻痺は、もはや逃げられない状況で、感覚遮断をして苦痛をやり過ごそうとする反応です。

すると、危機の際の反応は、

 積極的なもの……闘争、逃避
 消去的なもの……固まり、麻痺

の2種類に分かれることになる。そして後者の消極的なものは解離に関係づけられるというわけである。(p22)

セクション2で、愛着トラウマから解離に至る人たちは、まず交感神経(アクセル)が過剰興奮し、次いで副交感神経(ブレーキ)も過剰反応するという説明を引用しましたが、それらがすなわちPTSDと解離なのです。

問題は、解離という防衛機制が弱いせいで、第一段階の「闘争・逃走」のままで、第二段階の「固まり・麻痺」が起動しない人たちです。

交感神経が過剰反応してパニックになるだけで、それを抑えこもうとして副交感神経が働くことがありません。

すると、愛着トラウマのときに説明したような、脳の右半球の感情的混乱を抑えこむために、左半球から理性的なIFが生み出されるということもありません

ただ、ひたすらパニックになり、PTSDのフラッシュバックを起こしながら、「安全基地」のない世界をひたすらさまよい歩くことになります。

このような状態に陥っているのが、境界性パーソナリティ障害(BPD)の人たちです。

境界性パーソナリティ障害(BPD)は、突然激しく怒りだしたり、見捨てられ不安がフラッシュバックしたりする一種のPTSDです。

BPDの人のキレる現象やフラッシュバックは、軽度の人格交代ですが、解離傾向が弱いため、別人格を形成するほどには至りません。

解離性障害の人が気配りに富み、心の中に大きな内的世界を抱え、多くの仲間を有しているのに対し、境界性パーソナリティ障害の人はカッとなりやすく、心の中は空虚で、一人ぼっちです。

解離傾向の強い人たちは、「逃走・闘争」反応に次いで、「固まり・麻痺」反応に至るので、感覚遮断することで、危機的状況から逃れて、冷静さを取り戻すことができます。

ところが、解離の弱い人たちは、ずっと「逃走・闘争」反応のままなので、常に危機的状況のまっただ中にいて、絶え間ない不安に苛まれて、冷静に考えることも、心が満たされることもありません。

解離による感覚遮断がうまくできず、敏感な心が常にむき出しの状態なので、傷つけ傷つけられながら、一人ぼっちで生きていくという苦しみに直面します。

解離が弱いBPDと、解離が強いIFやDIDの違いについては、詳しくは以下の記事をご覧ください。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない | いつも空が見えるから

 

青年期のイマジナリーフレンドや、解離性同一性障害としての交代人格を持つ人たちも、それぞれストレスや苦悩を抱えているのは確かです。

しかし、助け手としてのイマジナリーフレンドにしても、身代わりとしての交代人格にしても、それらは耐え切れないストレスから身を守るための防衛反応、愛着トラウマというウイルスと戦う心の免疫系です。

もしも、心の免疫系が働かず、愛着トラウマに面しても、それらの別人格が生まれなかったなら、自分はどうなっていただろう、と考えたことがありますか。

世の中には、同じほどのストレスに直面しても、解離という防衛機制がうまく働かないせいで、苦しみを分け合う別人格を生み出せず、たった一人で立ち向かっていかなければならない人たちがいるのです。

IFがDIDになるとき

このセクションで考えてきたように、人格の多重化は、一種のスペクトラムのように連続した現象です。

単一人格 → PTSDやBPD(弱い解離) → IF(中程度の解離) → DID(強い解離)

解離の観点からIFを考察したこのセクション3の最後に、次の点を考えておくのは適切なことでしょう。

IFはいつかDIDに発展するのでしょうか。

一般的に言って、大半のIFはDIDに発展しないでしょう。

IFを持っている人は、むしろIFが存在することによって、解離性障害が発症するのを阻止し、心のバランスを保っているはずです。

そしておそらくは、人格の多重化と、人格交代は、別のメカニズムに基づいているのではないかと思われます。

先ほど解離とPTSDは正反対のものだと説明しましたが、人格の多重化は解離傾向によるものに、人格交代はPTSDのフラッシュバックの延長線上にあるように思われます。

したがって、解離傾向の強い人は人格が多重化し、PTSD傾向の強い人は感情がフラッシュバックし、解離傾向とPTSD傾向の両方が強い人が、多重化した人格のフラッシュバック、すなわち人格交代に至るのではないかと思います。

PTSDと解離の10の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった | いつも空が見えるから

 

しかし、解離傾向のみ、PTSD傾向のみを持っているという人はまれで、たいていの人は程度の差こそあれ、どちらか一方が強いものの、もう一つの傾向も持ち合わせているでしょう。

かろうじてIFの存在によって心のバランスをとっている人が、より強いストレスに直面したとき、バランスが崩壊してDIDに発展する例は存在しているようです。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からによると、このセクションの最初で紹介したジキル博士とハイド氏は、当初はIFのような関係だったハイド氏が次第にコントロールできなくなり、DIDのような状態に発展していく物語でした。

ハイドは次第に彼のコントロールを離れて行動するようになってしまうのである。そしてジキルはハイドを「彼」と呼ぶようになり、もはや彼を「私」の一部とは感じなくなった。

ハイドはジキルとはまったくの別人格としてふるまうようになったのである。ハイドの出現によって保たれていた彼の心のバランスは、再び破壊に向かって突き進むことになってしまった。(p92)

ジキル博士とハイド氏は、単なる物語でありながら、もしかすると、作者のロバート・ルイス・スティーブンソンが経験していたことなのではないかと思わせるほど、 真に迫った描写がなされています。

スティーブンソンも作家たちの例に漏れず、愛着トラウマによる心の理論の強さを有していたのかもしれません。

大饗先生は、ジキル博士とハイド氏の崩壊の原因をこう指摘します。

つまり「解離」はある時期まではジキルにとって適応的に働いていたのである。

問題が生じたのは、そのような「解離」に頼っていた微妙なバランスが破綻した後であった。(p94)

そしてそれと同様の現象が、現実の臨床でも時おり見られると述べています。

アキナという人格は快活で奔放な性格であり、当初抑うつ的になりがちなナオミを「姉のように」励まし、ときには無気力に陥った彼女に成り代って(人格変換)、仕事を行ってくれることもあったという。

しかし、そのうちにアキナは夫に隠れて同僚のK氏との交際を始めるようになってしまった。(p97)

基本的にIFは、主人格を支える副次的な位置に存在しています。

IFがDIDに発展するような事態がそう簡単に起こるとは思えませんが、何かしらのストレスが異常に大きくなりすぎて、IFが自律性を持ち始めると、問題が複雑になってきます。

別人格が、主人格と苦しみをわかちあう仲間であるうちはいいのですが、主人格が危機に瀕して、別人格が身代わりや犠牲、盾となってかばうようになると、DIDへと発展していく可能性は否定できないでしょう。

先ほどの防衛反応でいうと、最初は「闘争・逃走」というPTSD的なシステムが働きますが、より大きな問題のもとでは、解離傾向の強い人の場合は「固まり・麻痺」に移行します。

これを日常生活に当てはめると、「固まり」、つまり感覚遮断して危機から逃れている段階では、IFは助け手として主人格を励ますことができます。

しかしさらにストレスが大きくなり、「麻痺」、つまり気絶して意識を失うという究極の手段を用いなければならなくなったら、日常生活においては、だれかが代わりに体をコントロールしなければならなくなります。

そのときこそ、耐え切れず意識の奥へと退いた主人格に代わって、IFが身代わりの交代人格となり、DIDへと発展してしまう瞬間なのかもしれません。

このセクションでは、夢や感覚遮断という解離の機能を通して、人格の多重化は防衛機制の強さによるスペクトラムであり、統合失調症のような病的なものではない、ということを見てきました。

最後の4つ目のセクションでは、ここまで取り上げたIFとは少し異なる特殊な例として、アスペルガー症候群のIFについて考えます。

第四章 「アスペルガー症候群」のもう一つのIF

これまで、IFが生まれる原因として、強い心の理論や、愛着トラウマ、解離という要因を考えてきました。

しかし、 ここまでの説明は、主に定型発達の人に当てはまるものです。

わたしたちの身近な別の民族とも称される、アスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)の人たちの場合、考え方そのものを見直さなくてはなりません。

IFに限らず、あらゆる物事において、違う尺度をもって考えなければ、彼らの独特な文化を理解することはできません。

興味深いことに、以前に記事で取り上げたとおり、アスペルガー症候群の人には、しばしばIFが見られることが報告されています。

アスペルガーは想像上の友だちイマジナリーフレンド(IF)を持ちやすい? | いつも空が見えるから

 

ASDは解離症状を伴いやすい

アスペルガー症候群の人がIFを持ちやすい理由を簡潔に一言で言い表わせば、それはアスペルガー症候群の人は解離しやすいからだと思います。

「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からには、アスペルガー症候群の人がIFを持っているケースも紹介されていますが、アスペルガーは解離しやすいということがはっきりと書かれています。

アスペルガーには解離様の現象が伴われることがまれではなく、それがチグハグな印象によりいっそう拍車をかけることがしばしばである。(p28)

セクション2で少し触れましたが、ある自閉圏の男性は、友だちとほとんど遊んだことがなく、周囲の家族の気持ちを読み取るどころかゲームに没頭して、青年期のIFを持つ人特有の内省的で柔軟な性格でもありませんでしたが、それでもIFを有していたと書かれています。

彼のIFはいったいどこから出てきたのでしょうか。IFは「心の理論」すなわち他の人への優れた感受性の結果、生み出されるものであるなら、共感性に乏しいと言われるアスペルガー症候群に見られるのはどうしてでしょうか。

哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)では、そのような論理に基づいて、アスペルガー症候群を含め、自閉圏の子どもはIFを持たないと書かれています。

自閉症の子には空想の友だちがいないし、そもそもごっこ遊びをしません。ごっこ遊びとは何かということからして、わからないようです。

…自閉症の子どもは、他人の心の因果関係についての理論を組み立てるのに大変な苦労をしますし、いろいろな空想をして遊ぶこともありません。(p91)

しかし本当にそうでしょうか。

このような疑問について考えるに際し、導きとしたい言葉があります。

柴山雅俊先生は、解離の病理―自己・世界・時代の中でこう述べています。

ASD者が解離症状を呈する割合は定型発達者に比べて若干多いという印象はある。

もちろん自己のあり方が異なるため、ASD者の示す解離が発症要因、症候、治療などさまざまな点で通常の定型発達者の解離とは違ってくるのは当然であろう。

定型発達者の解離のみが解離ではない。ASDにはASDの解離がある。(p181-182)

定型発達者の解離のみが解離ではなく、ASDにはASDの解離がある。言い換えれば、定型発達者のIFのみがIFではなく、アスペルガーにはアスペルガーのIFがあるのです。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる | いつも空が見えるから

 

ASDは「心の理論」が弱い?

まず最初のステップは、自閉症についてのさまざまな誤解を解くことです。

先ほどの説明において、アスペルガー症候群をはじめ、自閉症の人がイマジナリーフレンドを持たない根拠とされていたのは、心の理論が弱く、空想的な遊びもしない、ということでした。

これは、ローナ・ウィングが提唱した自閉症の三つ組の障害、すなわち、社会性の障害、コミュニケーションの障害、想像力の障害に基づいているのでしょう。

しかし、近年、自閉症の当事者研究や、注意深い調査において、三つ組の障害は必ずしも正しくないことがわかってきました。最新の診断基準のDSM-5でも、想像力の障害のような項目はなくなっています。

自閉症というと、他人に共感できず、気持ちがわからず、心の理論が弱い、空気の読めない人々だという未だ根強い偏見がありますが、成長し衰退する脳 (社会脳シリーズ)では次のような研究が報告されています。

過去の研究において、ASD児は他者の心情が理解できない、というように、二値論的に可-不可で考えられてきた。しかしながら、近年では、そのような二値論的な見方では理解できない実験結果もある。

…定型発達児では、最初から人物の感情に言及できていたものの、ASD圏内の子どもでは、当初人物の感情に言及せずに、情景や描かれている他の物などについて言及してしまった。

ASD圏内の子どもに対して、人物に注目するように追加の教示を行っていくと、彼らでも描かれた人物の感情を正答することができた。(p129)

この研究では、 ASDの子どもたちが、他人の心を理解できない、とされてきたのは誤りであり、単に注意が向かないだけなのだ、という見方が示されています。

すなわち、ASD児は自発的に他者そのものや、他者の顔、声といったものに注意が向きにくいということである。

…何よりも特筆すべきことは、他者に注意を向けられれば、感情や言外の意味といった従来難しいと言われてきた部分への理解も問題なく、かつ脳機能というレベルでも障害が認められなかったのである。(p130)

ASDの子どもたちは、他の人の感情を読めないのではなく、注意が向かないだけであって、適切な注意の喚起がなされると、感情や比喩も理解できたのです。

そのため、空気が読めなくなってしまうのは、ASDの生来の症状ではなく、自分から他人に関心を持ちにくく、コミュニケーションの機会が少なくなるので、結果的にコミュニケーションスキルが育ちにくいだけなのではないか、とされています。

そして、根本となっている他者に注意が向きにくいという特徴は、自他の区別があいまいなことによると推察されています。

また、発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)という本では、ASDの子どもは心の理論が弱い、と言われていることに関して、別の意見が提唱されています。

誤信念課題に関するもうひとつの批判は、そもそも一定の割合で自閉症児が「心の理論」の課題をパスしてしまうという事実にある。バロン=コーエンらの研究にしても、約2割の自閉症は課題をクリアしていた。

…誤信念課題の成績がよい(他者の心がよめる)自閉症児はほど理解できた物語の数は多く、社会性に問題のない、知的障害児や健常児とほとんど差がなかった。(p26-27)

この誤信念課題というのは、サリーとアンのテストのような、他人の立場に立って考える能力を測る、心の理論の発達を調べるものです。

一般にASDの子どもたちは、サリーアン課題がうまくできないので、心の理論が発達しておらず、他者の気持ちも読めない、と言われがちなのですが、そもそもASDの子どもの2割はこのテストを通過し、他の人の気持ちを適切に理解することができます。

さらに、誤答してしまう残りの8割のASDの子どもたちの場合も、性急に心の理論が育っていないと結論するのは間違っている可能性が示唆されています。

誤った解答をした場合でも、その理由を問われると、きちんと心にかかわる用語を駆使して説明をする。

…つまり「誤信念課題」にパスできなかったとしても、自閉症児は相手の心を推測することはできるのである。

パスできない問題の原因は、その推測が普通とは異なる独自の視点に基づくということだ。(p27)

ポイントは、心の理論がないことではなく、心の理論が定型発達者とは異なる、という部分にあります。

定型発達の心の理論のみが心の理論ではなく、ASDにはASDの心の理論があるのです。

そのことをまざまざと示しているのが、ASDの人はASDの人同士であれば、強く共感し、互いの気持ちを深く理解し合えるということです。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった | いつも空が見えるから

 

 わかってみれば簡単な話で、定型発達の人たちには定型発達の心の理論があり、ASDの人にはASDなりの心の理論があるので、どちらも自分と同じ集団の人の気持ちはわかるのに、自分とは違う集団の人の気持ちは理解できないのです。

もしASDの人が多数派で、ASDの人の心の理論が一般的だったとしたら、今ごろ定型発達の人たちは、心の理論が欠如していると言われているかもしれません。

そうすると、ASDの人たちは他者の気持ちを考えることができないから、イマジナリーフレンドも持たない、とする論理は成り立たなくなります。

確かに、定型発達者のIFとは性質は異なるはずですが、ASDの人はASDなりのIFを持っているとしても何ら不思議ではありません。

また、ASDの子どもは空想的な遊びをしない、とも言われていましたが、それはあくまでも定型発達の子どもがするようなごっこ遊びなどをしないというだけで、実際にはASDの子どもも様々に想像力を働かせている、ということは、当事者のニキ・リンコさんの自閉っ子におけるモンダイな想像力を読めばわかります。

アスペルガー症候群だったとされる、ルイス・キャロルやハンス・クリスチャン・アンデルセンの作品を読むと、ASDの人でも豊かな空想世界や、登場人物を思い描ける場合があることは明らかです。

自閉症・アスペルガー症候群の作家・小説家・詩人の9つの特徴 | いつも空が見えるから

 

 定型発達者の人が読むと、キャロルやアンデルセンの童話の登場人物は、どことなく異質で奇妙な人たちに思えるでしょう。

それは、彼らが創りだした登場人物たちが、定型発達者の心の理論ではなく、ASDの心の理論に沿って行動する人たちだからです。

それで、アスペルガー症候群などASDの人たちが、IFを持ちやすいかというと、特に定型発達に比べて多いわけではないかもしれませんが、IFを持たないというわけでもないのでしょう。

アスペルガーは中心不在

ASDにはASDの心の理論があるのであれば、ASDが持つIFの特徴は、定型発達の人たちのIFと異なるのでしょうか。

その可能性は十分にあります。

ASDの人たちは、先ほど少し触れたように、自他の区別に困難を抱えやすいようで、まとまったアイデンティティを持たないことが少なくありません。

大饗先生は、「豹変する心」の現象学―精神科臨床の現場からの中でその理由をこう説明しています。

イマジナリーコンパニオンとは中心を失った人格モードの乱立を意味していた。

あるいはアスペルガー症候群においては、そもそも主体の一貫性、すなわち過去-現在-未来という階層が成立せず、エピソードがランダムに乱立してしまうことが問題になっていた。(p210)

ASDの人たちは、時間の連続性の感覚があいまいであり、過去から未来へと脈々と続く一つの自分というのをイメージしにくいようです。

これは、ASDの人が感覚統合の問題を抱えていて、運動時に手足などを協調して動かすことが苦手だったり、複数の五感からの入力を統合するのが難しかったり、時には空気に溶け込むような拡散体験を訴えたりすることと共通しています。

一つのまとまった自己を持ちにくいASDの人たちは、しばしば、生きるためにIFやDIDのようなしくみを活用することがあります。

解離の病理―自己・世界・時代の中で、広沢正孝先生はこう述べています。 

彼らは一般者のように、固有の自己像を持ち、「自生的に人格の中心から出発し、種々の外的な状況にふさわしい反応を」取ることは困難である。

これに対処するために彼らは、しばしば内界にモデルとなる人物像を取り入れて、それにピッタリ合わせる形で生きようとすることもある。(p71)

この説明によると、ASDの人たちは、新しいことに対処する際、柔軟に適応する代わりに、それにふさわしい人格を取り入れて、あたかも服を着替えるように、それぞれの人格になりきることで対応する場合があります。

さらに彼らの中にはこのような、外部の人物像ではなく、自らのうちに具体的な人物像を創造し、それにピッタリ合わせる形で生きようとする者もある。それはとりわけ年少者の女性に多いように思われる。(p71)

そのような衣服を着替えるかのような人格の多重化は、外部の人物像を取り込むだけでなく、自分で創造することによって生まれる場合もあります。

自分で人格を創れるということは、当然IFを創ることもできる、ということにほかなりません。

ここでは特に年少者の女性のASDにそのようなケースが多いとされています。女性のASDは男性のASDに比べて空気が読めない傾向は弱いので、IFを生み出しやすいのかもしれません。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など | いつも空が見えるから

 

この後の文脈では、その一例として、自閉症だったわたしへ (新潮文庫)の著者ドナ・ウィリアムズが挙げられています。

ドナは、ウィリーとキャロルという別人格を創造することで、学校や人間関係の問題に対処していました。

ドナはウィリーとキャロルという別人格の存在を認識していましたし、記憶もつながっていましたから、古い診断基準に当てはめると、ドナはジキル博士と同じく、DIDではなくIC、つまりイマジナリーフレンドを持っていたとみなされるはずです。

広沢先生は、ASDの人たちにとって、このような多重人格的な生き方はごく自然なものだとさえ述べています。

PDD型自己の場合、そもそもの構造が区画化されており、「個」の感覚が希薄である。

したがって高機能PDD者においては、むしろいくつかの人物像が併存することは自然なことといえよう。 (p72)

PDDというのは広汎性発達障害のことで、現在はASDの一部としてまとめらたものです。そのようなPDD、つまりASDの人たちは中心となる自己のアイデンティティが希薄なために、その場その場で様々な人格になりきることは、トラウマへの反応ではなく、むしろ日常の一部なのです。

とはいえ、ASDの人たちは、愛着形成に遅れが生じやすいと言われていますし、孤立しがちでトラウマ経験にさらされることもあります。

ですから、単にASDだから人格の多重化が生じるというわけではなく、愛着トラウマなどの様々な要因が重なり合っているケースも少なくないでしょう。 

定型発達のIFとASDのIFの違い

では、定型発達の人たちが持つIFと、ASDの人たちが持つIFに、質的な違いはあるのでしょうか。

まず、脱ぎ着する衣服のようなIFは、どちらかというとASDに特有のものであり、定型発達の人のIFは人格交代のために創られることは少ないのではないかと思います。

しかしダニエル・タメットのIFのアンのように、ASDの人がただ会話するためのIFを生み出すことももちろんありますし、定型発達のIFがときに人格交代して主人格を手助けすることもあるでしょう。

また、IFを持つ年齢でいえば、ASDの子どもは発達が遅れるため、幼児期ではなく、学童期などの遅い時期にIFを持ちやすい可能性があります。

しかし、ドナ・ウィリアムズのウィリーは2歳のころ、キャロルはその1年半後に現れたので、定型発達の子どもと変わらない可能性もあります。

興味深いことに、広沢先生は、先ほどの引用文の続きで、次のように述べています。

また彼らの場合、このような複数の人物像の存在を、ごく自然に認識しており、むしろうまくそれらを使いわけることが、社会適応の手段となっている。

一方一般型自己をもつ解離性同一性障害の患者にとっては、…最終的には「個」の統一が課題となってくる。複数の人格の存在自体が苦痛となり得る。(p72)

ASDの人は中心不在のため人格の多重化を自然なものと感じるのに対し、定型発達のDIDの人は、なまじ中心となる自己が存在するせいで、人格の多重化を苦痛に感じる、と書かれています。

この違いは興味深いものですが、必ずしもASDと定型発達の感じ方の違いとはいえないようです。

というのは、以前も登場した、アリソンの提唱する多重人格障害(MPD)、つまり7歳以前に発症した多重人格の人の感じ方は、ASDの人の感じ方とよく似ているからです。

アリソンは「私」が、私でない人たち―「多重人格」専門医の診察室からの中で、7歳以前に多重人格となった人は、自己が確立する前に人格が多重化し、本来の自己は内側に隠れてしまったために、自己同一性の葛藤を感じないので「解離性同一性障害」ではなく「多重人格障害」の名称のほうが適切だと述べています。(p259)

アリソンの主張するMPDの人たちは、自己同一性の違和感を感じないだけでなく、場面ごとにふさわしい人格を創りだして対処することが当たり前になっていて、ASDの人が複数の人格を脱ぎ着して現実に対処する姿とよく似ています。

MPDの人たちの大半は、もともと自閉的なわけではないでしょうが、自己が確立する前に人格の多重化が生じてしまい、中心となる自己の不在という点でASDに似るため、同じような生き方に至りやすいのかもしれません。

しかし、ASDか定型発達かを問わず、IFやDIDなどの人格の多重化を抱える人の中には、自己同一性の葛藤を抱える人たちと、まったく自然なこととみなして違和感を感じない人たちとがいる、という点は注目に値します。

IFにも当事者研究が必要

このセクションを締めくくるにあたり、自閉スペクトラム症(ASD)の人たちと、青年期のIFを抱え持つ人たちとが、文化的な意味において、同じような局面に立たされているという共通性を考えたいと思います。

自閉スペクトラム症は、その名の通り、程度の軽いものから重いものまで、スペクトラムとしての連続性をもっている、ということを先に述べました。

単純に白か黒かで二分できれば楽なのですが、定型発達とカナー型の自閉症という両極端の人たちが比較される一方で、その中間に位置するアスペルガー症候群の人たちは、社会からも医学者からも長年誤解されてきました。

近年、ようやくアスペルガー症候群の当事者自身が、自伝や当事者研究を通して、自分たちは何者なのかを自ら語るようになり、心の理論がないとか共感性に乏しいといった偏見が正されてきたように思います。その中には、先ほどから名前が出ている、ドナ・ウィリアムズやダニエル・タメットも含まれています。

イマジナリーフレンドのような人格の多重化も自閉症と類似したスペクトラム性を持っている、ということを説明してきましたが、こちらもやはり、極端な例のDIDは研究されてきたものの、DIDと単一人格者の中間に位置する、青年期のイマジナリーフレンドの事例は、ほとんど手がつけられてきませんでした。

そのせいで、イマジナリーフレンドを持つ青年は、精神的に病んでいるとか、妄想の世界に引きこもっているといった誤ったイメージが流布しているように思えます。

こうした誤解が解かれるためにはアスペルガー症候群の人たちが、自分たちの口でそのユニークな文化を語り始めたように、青年期のIFを持つ人たち自身が、当事者研究を通して、その独特な文化や世界観を発信しなければならないのではないでしょうか。

子どものイマジナリーフレンドを研究してきた麻生武先生は、想像の遊び友達一その多様性と現実性の最後にこんな付記を添えていました。

日本では,「想像の遊び友達」について語られることがほとんどなく,研究されることもほとんどなかった。

よって,日本において「想像の遊び友達」を持っていた人々・子どもたちは,そっと人知れず自分だけの王国を持っていたと言える。

私は,その王国に足を踏みいれ,その高原に咲く草花を分類しこのような形で発表してしまった。

本論を読んでくださった方が,子どもたちの内なる王国を,好奇心という土足で踏みにじらないことを願いたい。

とは言え,このように発表しつつそのような願いを人にすること自体あまりにも自己中心的かとも思っている。

アメリカが発見されなければ,1千万のインディアンが殺されずにすんだのにという思いがある。私の発見したと思っている王国がアメリカではないことを祈りたい。

何度読んでも、非常にすばらしい心遣いが感じられる文章だと思います。

イマジナリーフレンドという概念についての記事がネット上に増えるにつれ、はじめは、良い意図で書かれていたとしても、分母の拡大ととも底質な意見を述べる非当事者が増えることは避けられないでしょう。

非当事者は、決して当事者の感覚を十分正しく把握することはできませんから、誤った見解が流布すことになります。

しかし、今はアメリカ・インディアンが虐殺された時代とは違うのです。アメリカ・インディアンは、自ら声を上げる場を持っていませんでしたが、現代社会は、インターネット上を含め、当事者たちが自分の言葉を発信する機会が多くあります。

確かに、IFを持つのが子どもだけであれば、当事者研究の余地はなかったかもしれません。しかし実際には、青年期以降もIFは存在するのであり、子どものIFとはある程度地続きになっているため、当事者研究の余地は大いにあると思います。

もちろん、IFを持つ人の中にはIFの存在を発信することに違和感を持たない人がいる一方で、IFの存在を秘しておきたいと感じる人もいるでしょう。

IFが一人の人間としての人格を持っている存在であることを考えると、いち早く当事者研究を世に送り出したここにいないと言わないで ―イマジナリーフレンドと生きるための存在証明―の著者のように、友だちの存在を積極的に語りたい人がいる一方で、私秘性を保ち、プライバシーを守りたいと考える人がいるのも当然です。

走馬灯などの解離体験の不思議について記しているなぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学の中に、「意識は座席が一つしかない劇場」であると書かれているとおり、どれほどの言葉を持ってしても、IFを持つ人の実感を持たざる人に伝えるのは難しいことです。(p335)

自分だけが感じているIFという不思議な現象のクオリアを言葉にしてしまうと、多くの重要な要素が削ぎ落とされてしまい、感動が失われるように感じる人もいるかもしれません。

IFはいわば、起きながらにして夢を見ているような現象だとセクション3で説明しましたが、夢は夢のままでそっとしておきたい、まだ現実に目覚めることなく、自分だけの劇場で夢の続きを見ていたいと感じる人もいることでしょう。

様々な感じ方があるでしょうから、他の人の気持ちを尊重するのは大切なことです。

しかし、もしも、アスペルガー症候群の当事者研究のように、当事者として、自らの手でIFの体験談としての半生記や、系統立った文化論をまとめたい、と感じる人がいるとすれば、それはきっと意義のある仕事になると思うのです。

終章 あなたのIFは、あなただけのIF

以上が今回のさらなる4つの考察のすべてです。

この記事で考えたことを最後にまとめましょう。

まず、一つ目のセクションでは、IFは「心の理論」を基盤として、他の人の気持ちを想像する能力から生じることを説明しました。

「心の理論」が発達した子どもが「いない人」のことまで考えてしまうように、小説家もまた強い感受性によって、架空の登場人物を創作することができました。

二つ目のセクションでは、「心の理論」が強く発達しすぎる背景として、「愛着トラウマ」の存在を考えました。

生後わずかな期間の経験が、脳の左右の結びつきを弱め、「安全基地」としてのIFを生み出すことがあります。

三つ目のセクションでは、「解離」という脳の機能の正体に迫りました。

それは感覚遮断によって、起きながらにして夢を見ているような不思議な状態を創りだすものであり、解離による人格の多重化は病気ではなく愛着トラウマに対する防衛反応である、という点を明らかにしました。

最後の四つ目のセクションでは、「自閉スペクトラム症」のIFの特殊性について考えました。

一般的な意見とは異なり、自閉スペクトラム症の人たちも彼らなりのIFを持つことがあり、複数の人格を抱え持つ生き方を自然なものと感じているのです。

これら今回の4つの考察が目的としていたのは、子どものIF、青年期以降のIF、そしてDIDの交代人格、さらにはアスペルガー症候群のIFという、それぞれ一見隔たっているように感じる現象を結び合わせることでした。

様々な違いはあるにせよ、根底のところでスペクトラム性を有している、ということをある程度、論理的に説明できたのではないかと思います。

しかし、このようなスペクトラム性を有しているとはいえ、最後に、強調しておきたいのは、あなたのIFは、あなただけのIFである、ということです。

IFは現実の人間と同じように、一人ひとり性質が異なります。この記事に書いたような一般化された内容がぴったり当てはまるというのはむしろ稀で、実情はもっと多様性に富んでいるはずです。

わたしの見解としては、IFというのは、意識して創り出せるものではなく、ある意味で生まれつきの才能に近いものなのではないかと考えています。

正確には生まれつきではなく、生まれて間もない愛着形成の時期に、その人の脳の解離傾向が決定されます。その時期を過ぎると愛着形成が難しくなるように、後になって解離傾向を強めたり弱めたりすることはおそらく不可能です。

それは、解離傾向が比較的弱いため、ストレスに直面しても、IFを創りだすことができず、心の中が空っぽのまま、さまようことになる境界性パーソナリティ障害の人たちの場合によく表れています。

岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でこんなことを綴っていました。

私自身は会ったことがないが、解離に興味を持ち、「そのような症状を持ってみたい」という願望や空想を持つ人は少なからずいるということを、患者さんたちから聞くことがある。

私は「解離になりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ。(p5)

なぜなのかよくわかりませんが、世の中には「解離になりたい」と考える人たちが存在するようです。

アインシュタインのようなアスペルガー症候群の天才の論理的な思考に憧れて「アスペルガー症候群になりたい」と考える人たちと似ているかもしれません。

実際に、以前の記事で取り上げたように、IFの作り方を知りたい、と思って調べる人たちはけっこういるようです。

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか | いつも空が見えるから

 

しかし、岡野先生は『「解離になりたい」人は「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ』と述べています。

わたしもまったくの同意見で、上記の記事で説明したとおり、たとえIFを作りたいと思って作った人がいるとしても、生来の解離傾向によって創りだされたIFと、見よう見まねで創ったIFとでは、母語と第二言語ほどの違いがあるはずです。ネイティブになりたいと思っても簡単にはなれないのです。

2015年の第14回日本トラウマティック・ストレス学会で発表された、大饗広之先生らの近年の研究、大学生年代におけるイマジナリー・コンパニオン体験の諸相 - を見ても、解離群と非解離群のIF周辺体験を比較したところ、性質が大きく異なることがわかっています。

実際に、この記事をここまで読んでくださった方であれば、IFが単なる空想によって生まれるわけではないことを承知しておられると思います。

それは幼少期からの愛着トラウマや過剰同調性、あるいはアスペルガー症候群などからくる苦悩と絶えず向き合わなければならなかった結果、防衛機制が創りだした助け手であり、闇夜にきらめく星のように、まず深い漆黒があって始めて輝き出すものなのです。

上記の記事で取り上げたタメットらのように、IFを自分で創った、と感じている人もいるかもしれませんが、厳密な意味でIFらしいIFを創れるのは、おそらくはある程度の潜在的な解離傾向を持っている人たちに限られるのでしょう。

幼いころに決まる解離傾向を、後々手に入れることができない、解離になりたくてもなれない、というのは、裏を返せば、解離をやめたくてもやめることはできない、という意味でもあります。

解離性障害の人は、加齢と共に症状が軽くなりますし、人格の多重化が消えていくこともありますが、それは生来の解離傾向が弱まったという意味ではなく、解離を用いなくてもストレスに対処できるようになっていくということでしょう。

DIDの予後についての次の記述は、生来の解離傾向が、おそらく生涯にわたりそれほど変化しないことを裏づけているように思えます。

DIDを持つ患者のかなりの部分は、大きなストレスがない保護的な環境に置かれれば、次第に人格部分の出現がみられなくなり、「自然治癒」に近い経路をたどることが観察される。

…ただしそのような例でも多くが長年にわたし心の中に人格部分の存在を内側で感じ続けたり、時折幻聴を体験したりすることが報告されている。(p139)

たとえ別人格が役目を眠りにつこうとも、それらは「眠る」のであって「消える」わけではないようです。それらが本当の意味で「消える」のは、主人格が死ぬときでしょう。

IFにしても、DIDの交代人格にしても、ひとたび精緻な人格としてのアイデンティティを形成したなら、生涯にわたって主人格と人生を共にするのでしょう。

解離傾向は、コントロールを失うと、ときに苦痛を伴うものとなるかもしれませんが、基本的には、苦痛の原因は愛着トラウマなどの別の部分にあり、解離傾向は、それらから心を守るために働いています。

あなたの解離傾向は、優れた感受性や内省的な思考力、芸術的才能などをもたらしているかもしれませんが、それらすべてはあなただけのものです。それを後から獲得することはできません。

それはすなわち、あなたが出会ったIFは、だれか他の人が創り出したいと思っても、決して創り出すことがてきず、あなたのために、ただあなただけのために、オーダーメイドの存在として、生み出されたものだということです。

最後に、もう一度言います。

あなたのIFは、あなただけのIFなのです。

PTSDと解離の10の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった

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21世紀に入って大規模なテロ行為や、自然災害が増えるにつれ、ニュースなどでよく見聞きするようになった言葉のひとつに、PTSD、すなわち心的外傷後ストレス障害という病名があります。

PTSDは、突然恐ろしい出来事や犯罪行為に巻き込まれた後、神経が高ぶって敏感になり、繰り返すトラウマ記憶のフラッシュバックに悩まされる脳の機能障害です。

一方で、近年、PTSDほどではないものの、比較的よく知られるようになった病気として、解離性障害というものがあります。解離性障害は、現実感がなくなったり、記憶が失われたり、ときには別の人格が現れたりする病気です。

解離性障害は、PTSDをもたらす災害などのトラウマとは別に、子ども虐待に伴いやすいものとして、知られるようになりました。しかし近年では、一見それほどトラウマ経験がないような環境で育った人にも発症することもわかってきました。

PTSDと解離性障害は、どちらも、トラウマの後遺症として生じやすい病気ですが、なぜ、ある人はPTSDとしてフラッシュバックに苦しめられ、別の人は解離性障害として現実感の薄れる感覚に苦しめられるのでしょうか

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、そのヒントとなる次のような説明があります。

ところで解離において右脳で起きていることを知るためには、心的外傷後ストレス障害(以下PTSDと記載する)の右脳で起きていることを理解する必要がある。

解離とPTSDは、ともに心的なトラウマに対する心ないしは脳の反応といえるが、そこではおおむね逆のことが起きているものとして説明し、理解するのが最近の傾向である。(p19)

PTSDと解離は、ストレスに対する、脳の反応としては「おおむね逆のこと」だったのです。

この記事では、幾つかの本に基づいて、PTSDと解離が、どんな正反対の特徴を持っているか考えます。

そして、それぞれが、これまで別の分野の問題と思われていたADHDや愛着障害と、どのように密接に結びついているかを考察して、近年増えてきたとされるこれらの問題の全体像を明らかにしたいと思います。

これはどんな本?

今回おもに参考にした本の一つは、解離性障害の専門家、岡野憲一郎先生による解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合です。

この本は、岡野先生の多数の本の中では、解離性障害―多重人格の理解と治療続解離性障害に続く、三冊目の解離の解説書という位置づけだそうです。

前二冊も、解離性障害、特に解離性同一性障害(DID)について、とても深い洞察が秘められていましたが、解離とはいったい何なのか、という本質については、謎に包まれたままでした。

この三冊目の本では、そこに「愛着」というキーワードを追加することで、ついに解離の正体が明らかになり、人間にとってどんな役割を果たしているのか、現代社会のどんな病気と関連しているのか、ということが明確になったように感じます。

PTSDと解離は連続していて、同時に正反対

まず最初に、PTSDと解離の関係について、もう少し整理しておきましょう。

冒頭に引用した文のとおり、PTSDと解離は、脳科学的には、ストレスに対するおおむね正反対の反応とみなせます。逆の仕方で、ストレスやトラウマに対処している、脳のメカニズムだということです。

しかし、正反対だからといって、水と油、炎と氷、天と地のような、互いに相容れない関係にあるもの、という意味ではありません。

水と油は、決して交じり合うことがなく、境目もはっきりしていますが、そのようなばっさりと二分できる、対極にあるもの、というわけではないのです。

どちらかというと、色のグラデーションにおける、黒と白を思い浮かべてもらえるとわかりやすいかもしれません。黒と白は正反対ですが、グラデーションにすると、さまざまな明るさの灰色を通して、ゆるやかにつながっています。

また東と西のようなものと考えてもよいかもしれません。東と西は正反対の方向ですが、一直線の道で互いにつながっています。

同じように、PTSDと解離も、正反対の性質を持ちながら、連続してつながっている現象です。

つまり、ある人はPTSD、ある人は解離、とばっさり白黒つけられるようなものではなく、どちらかというと黒っぽいグレー、どちらかというと白っぽいグレー、というように、両方の間に位置している人がほとんどだ、ということです。

互いの専門家から見たPTSDと解離

このことを物語っているのが、PTSDの専門家と、解離の専門家が、互いに相手の分野を、自分の分野の延長線上にあるものだ、とみなしていることです。

以下、さまざまな見解が出てきてややこしく思うかもしれませんが、ポイントはただ一つ、PTSDと解離がつながっている、ということだと思っていただければ間違いありません。難しければ、次の見出しまで読み飛ばしていただいても大丈夫です。

まず、この解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、PTSDの研究では、PTSDには二種類あるとされていて、よく知られている激しいフラッシュバックを伴うPTSDのほかに、「解離サブタイプ」という、逆に現実感が薄れている人たちがいるとされています。(p117)

またこの「解離サブタイプ」とは日本でも杉山登志郎先生らがよく用いている、子ども虐待などで見られるPTSDのさらに重い病態である「複雑性PTSD」とも同じものであろう、とされています(p119)

杉山先生は、PTSDは「心の骨折」、複雑性PTSDは「心の複雑骨折」としていますが、前者が通常のPTSD、後者が解離に当てはまるとすると、やはり連続した一直線上にあるものだ、ということになります。

同時に、解離の研究のほうでは、近年注目されている構造的解離論という理論において、PTSDは「第一次解離」、これまでの解離性障害は「第二次解離」や「第三次解離」とみなされています。(p119)

また、以前の記事で紹介したように、専門家の中には、PTSDを「不完全な解離」、解離性障害を「完全な解離」によるものだと考える人もいます。

こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の中で、国立精神・神経センター精神保健研究所の金吉晴先生はこう述べています。

もし解離が完成していれば、診断は解離性健忘などの解離性障害であり、PTSDとは診断されない。

…PTSDは恐怖条件付けと解離の複合的な病態であるというのが筆者の考えである。(p119)

そのほか、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、ドンネル・スターンという精神分析家が考えた、「弱い解離」「強い解離」という分類もあります。(p11,90)

もともと精神分析家は解離という概念に否定的でしたが、近年、精神科で増えている新型うつなどの病気の多くは、「弱い解離」とみなし、その延長線上に「強い解離」としての解離性障害がある、と考えれば、すっきりするようです。

さまざまな理論が混交していますが、結局のところ、すべて表現が異なるだけで、同じことを言っています。

つまり、PTSDと解離は正反対の特徴を示すものの、互いにつながりがあり、「不完全」で「弱い」「心の骨折」がPTSD、それが発展した「完全」で「強い」「心の複雑骨折」が解離だということです。

しかし、これから考えていきますが、PTSDのほうが解離よりも症状が軽い、という意味ではありません。

PTSDと解離は、連続するだけでなく、正反対なので、どちらが強いにしても苦しいことには変わりないのです。

PTSDと解離の10の違い

ではこれから、PTSDと解離の10の違いについて考えます。

すでに考えたとおり、たいていの人はPTSDか解離か、白か黒か、というどちらかにはっきり分類されるのではなく、どちらかというとPTSD寄り、または解離寄りというグレーゾーンに位置していることを思いに留めておいてください。

1.「闘争・逃走」か、「固まり・麻痺」か

まず、PTSDも解離も、どちらもストレスやトラウマに対する脳の防衛反応の一部です。

それなのに、なぜ性質が反対になるのか、ということは、難しく考えなくても、じつはわたしたちがよく知っている現象を考えればわかりやすくなります。

PTSDと解離は、わたしたちが、とても大きな恐怖に直面したときに、とっさに生じる反応と同じです。

奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころという本には、獰猛なピューマに出くわした若い女性のエピソードが書かれています。彼女は、そのとき4つの恐怖反応を経験しました。

かねてから、人間のストレスに対する反応には、2つある、と言われていました。それはハーバード大学の心理学者、ウォルター・キャノンが提唱したもので「闘争か逃走か」というわかりやすい名前で知られています。

わたしたちは獰猛なピューマや、危険な犯罪者に襲われたとき、パニックに陥って、戦うか逃げるかをとっさに選ぶことになります。

しかし反応はそれだけでしょうか。

わたしたちの多くは死ぬほど恐ろしい目に遭ったことはないかもしれませんが、それでも、映画やドラマを通して得た知識、そして自分の体験からも、恐怖反応はほかにもある、ということをよく知っています。

奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころにはこう書かれています。

身を守るための反応は二種類ではなく、最低でも四種類あったのだ。

それぞれ、ちがったタイプの危機的状況に合わせた生理的反応のパッケージである。

まず、危機が遠くにある、少なくとも目の前には迫っていない状況では、身をすくませるというのが本能だ。危険がこちらへ近づいてくるなら、逃げようという衝動が起きる。

逃走が不可能なときの反応は、反撃。そして、戦っても勝ち目のないときは、動物は恐怖のあまり動けなくなる。

実際にはそんなスムーズに移行が進むわけではないが、「戦うか逃げるか」よりも正確な言い方を試みるなら、「戦うか、すくむか、逃げるか、死んだふりをするか」(fight,freeze,flight,or fright)、つまり「4F」ということになるだろう。(p85)

先ほどのピューマに出くわした女性は、短時間の間に、この4つの反応すべてを経験しました。

まずピューマを目撃した瞬間、恐れに身がすくみ、冷静に状況を把握しました。

次にピューマが迫ってきたのを見て、パニックになって逃げ出しました

そして、ピューマに襲いかかられたときに、牙が頭に食い込んだ瞬間、痛みの感覚がなくなり、力が抜け、死んだように動けなくなり、記憶も途切れました。

しかし、幸運にも、意識を取り戻し、反撃に出て、持っていた武器で、無我夢中でピューマを攻撃し、命からがら撃退に成功しました。

この一連の出来事で彼女が経験した4つの恐怖反応は、その特徴が、2つのタイプにわけることができます。

一つ目は、パニックになって、我を忘れて、無我夢中で反応するもの。つまり、もともと知られていた「逃走」と「闘争」です。

二つ目は、凍りつき、固まり、体が動けなくなってしまうもの。つまり、「固まり」(すくみ)と、「麻痺」(死んだふり)です。

そして、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、このうちの前者のパニック的なものがPTSD、後者の凍りつくものが解離に相当します。

すると、危機の際の反応は、

 積極的なもの……闘争、逃避
 消去的なもの……固まり、麻痺

の2種類に分かれることになる。そして後者の消極的なものは解離に関係づけられるというわけである。(p22)

ピューマに襲われた若い女性は、これら両方を経験しましたが、危機が去ると、これらの恐怖反応はなくなりました。

ところが、危機が去ってもこれらの恐怖反応のどちらかが、ずっと続いてしまっているのが、PTSDと解離なのです。

2.アクセルか、ブレーキか

では、このような、恐怖反応のただ中で、脳の中ではどんなことが生じているのでしょうか。

まず、PTSDと関係する、頭がパニックになるような、「闘争」と「逃走」については、奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころにこう書かれています。

1915年、キャノンはこう指摘した。交感神経の興奮がもたらす反応にはいろいろあるが、―心拍数が上がって血流が増す、汗が出る、震えるなどなど―いずれもゴールは共通だ。

激しい運動で身を守ることに役立つことばかりではないか。(p85)

この説明のとおり、「闘争」や「逃走」は交感神経の興奮なのです。

交感神経というのは、ストレスを感じたときに高ぶるもので、体をリラックスさせるのとは正反対の、いわば臨戦態勢に持っていくものです。

激しいスポーツや、緊張する場面など、全力で対応する必要がある場面では、交感神経が興奮します。これはいわば、体の「アクセル」が強く踏み込まれた状態です。

適度に「アクセル」を踏むなら必要なスピードが得られますが、あまりに恐怖が強いと、「アクセル」を踏み込みすぎて、コントロールできなくなって暴走します。緊張しすぎて何も考えられなくなり、パニックになった経験を持つ人も多いのではないでしょうか。

では、もう一方の、解離と関係する恐怖反応である「固まり」や「麻痺」のときには何が起こっているのでしょうか。

先ほどの女性がピューマを前に「固まり」反応で立ちすくんでいたときに起こっていたことについて、こう書かれています。

ピューマがある程度遠くにいるうちは、彼女も冷静さを保ち、恐怖中枢のパニック反応を抑えこむことができていた。

高まってくる恐怖心の突き上げに耐えつつも状況をチェックし、手持ちの選択肢を比較し、計画を立て、実行することができていた。(p92)

そして、ピューマに襲われて「麻痺」反応に至ったときについてはこうあります。

交感神経は目いっぱい作用している上に、今度は副交感神経までもが一気に暴走状態になる。

痛みの感覚はなくなり、身体からはぐんにゃりと力が抜け、たいていはそのまま大の字に倒れてしまう。(p95)

こうした説明から分かるとおり、「固まり」や「麻痺」反応は、副交感神経が興奮している状態です。

しかし、体を臨戦態勢にする交感神経とは反対に、副交感神経は本来、体をリラックスさせる働きを持っています。いわば、脳の「ブレーキ」です。

ということは、副交感神経が興奮したら、むしろ落ち着いて安らいだ気持ちになるのではないでしょうか。

副交感神経だけが活発になるなら、確かにそのとおりです。

しかし「固まり」「麻痺」反応では、迫り来る恐怖のために、もともと交感神経が活発になっていて、それを抑えこもうとして副交感神経も活発になり、両方が激しくせめぎあっている状態になります。

それで、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、この状態が次のように簡潔明瞭に説明されています。

ちょうどアクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態と考えると分かりやすいかもしれない。

そしてそれは、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。これが解離状態であるというのだ。(p17)

「固まり」や「麻痺」、そして解離状態とは、「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」だったのです。

要点を整理してみましょう。

まず、PTSDの人は、「闘争」「逃走」反応のように、交感神経の高ぶりによって臨戦態勢になっています。危機が去っても、ずっと危機的状況のただ中にいて、頭がパニックになっているようなものです。

つまり「アクセル」を踏み込みすぎた過覚醒状態にあります。

それに対して、解離性障害の人は、恐怖のために生じた交感神経の高ぶりを鎮めるために、今度は副交感神経までもが活発に働いてきて、恐怖をなんとか抑えこもうと、せめぎあってフリーズしている状態です。

「アクセル」を踏み込みすぎて過覚醒になったまま、それを何とかしようとして「ブレーキ」まで同時に踏み込みすぎている状態であり、こう要約されています。

それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることができるだろう。(p20)

ここまでの説明で、きっと、PTSDと解離は、正反対でありながら、連続しているもの、という最初の謎めいた説明の意味がわかっていただけけたと思います。

交感神経が暴走するPTSDに対して、それを抑えこもうとして、逆の役割を持つ副交感神経までもが暴走すると解離になるのです。

3.扁桃体か、前頭前野か

交感神経が暴走しているPTSDと、それを抑えこむために副交感神経が暴走し始める解離、という状態を、さらにもう少し踏み込んで考えてみましょう。

交感神経が暴走したとき、あるいはそれを鎮めるために副交感神経が暴走するとき、わたしたちの頭のなか、つまり脳ではどんなことが起こっているのでしょうか。

奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころの中で、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校のリリアン・R・ムジカ・パローディ博士は、人間の恐怖に対する反応を、こう説明しています。

「扁桃核は、目新しいものには何でも反応します。特に表情のない顔を見ても、扁桃核は『おっと、あれは何だ。危険かな?』と言うわけです。

そのあとから抑制系、つまり前頭皮質が割り込んできて、『教えてやろうか。あれは危なくないぞ。もういい』って言うんですね」(P26)

ここで、脳の二つの部分が出てきたことにお気づきでしょうか。

ひとつは「扁桃核」。これは、一般に脳の原始的とされる部分である大脳辺縁系の一部で、いわば、危機に対して敏感に反応する脳のアラームです。

「扁桃核」は、危機を瞬時に察知して、警戒警報を鳴らします。すると、先ほどの交感神経が高ぶって、臨戦態勢になる「闘争」「逃走」反応が起こります。

もうひとつは「前頭皮質」。特に人間の脳に特徴的な部分で、人間は前頭皮質が大きいので、他の動物と違って、理性的な思考ができると言われています。

いわば、「扁桃核」は本能のままに衝動的に反応する部分、「前頭皮質」は理性によって、本能を抑える部分だといえます。

そして、わたしたちの恐怖に対する反応は、単純化すれば、この「扁桃核」と「前頭皮質」のバランスによって生じているといいます。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれています。

この前頭前野と扁桃核の活動はシーソーのような関係があると見ていいであろう。

前頭前野は扁桃核を抑える働きがあり、前頭前野の活動が低下する場合には、扁桃核の抑制が効かず、いわば野放し状態になるのである(p118)

ここで「前頭前野」と書かれているのは、「前頭皮質」と同じものです。

この説明によると、「前頭前野」と「扁桃核」はシーソーのような関係にあります。扁桃核が出す警戒アラームを前頭前野が理性的に判断して抑えるからです。

もし扁桃核のアラームのほうが強くなりすぎると、前頭前野の理性的な判断ができなくなってパニックになります。これが「闘争」「逃走」です。

逆に扁桃核のアラームを前頭前野の活動が抑えこむことができると、恐怖の中でも、人は驚くほど冷静になり、感情がシャットアウトされます。これが「固まり」「麻痺」です。

そして、PTSDでは、この「扁桃核」の警戒アラームが危機を過ぎても鳴り続けています。危険はもう去ったのに、あたかも今そのまっただ中にいるかのように、「扁桃核」が危険を知らせて鳴り響いているのです。

逆に、解離性障害では、やはり危険を感じ取る「扁桃核」のアラームは鳴り響いていますが、それを抑えこむ「前頭前野」の働きが勝っているので、感情がすべてシャットアウトされ、現実感が消失してると考えられます。

実際に、解離性障害の症状のひとつである、現実感が失われる離人症では、以下のような特徴的な脳の活動が見られるそうです。

この離人症・現実感消失に関しては、その生物学的特徴が得られていることも、この障害の独自性を支持していることになる。

それはa.後頭葉皮質感覚連合野の反応性の低下、b.前頭前野の活動亢進、c.大脳辺縁系の抑制、である(Si,,eon,et al.,2003)(p108)

このうち特に「前頭前野の活動亢進」と、「大脳辺縁系の抑制」が、ここで説明している部分です。

大脳辺縁系というのは、先ほどから言及しているアラームを鳴らす「扁桃核」がある場所であり、さまざまな感情をつかさどります。

つまり、解離性障害では、「前頭前野」の抑制機能をフル回転させることで、「扁桃核」の恐怖などの感情を押さえ込んでいる、ということが脳科学からも裏付けられているのです。

PTSDと解離では、このように、「扁桃核」と「前頭前野」のシーソーのようなバランスが正反対になっていますが、これは、おもに用いている思考の経路が異なる、ということのようです。

その視床から扁桃核に至る経路には2つあることが知られている。

1つは「速い経路 low road」と呼ばれるもので、大脳皮質を介さずに扁桃核に直接連結している。

もう1つの「遅い経路 high road」は前頭葉を経由した後に扁桃核に行きつく。(p167)

扁桃核に至る脳の思考の経路は2種類あり、かたや扁桃核への直通ホットラインである「速い経路」、かたや前頭前野の前頭葉を迂回してから扁桃核へと向かう「遅い経路」と呼ばれています。

このような速い経路と遅い経路があることは、心理学の分野でもよく知られていて、たとえば行動経済学の権威、ダニエル・カーネマンの著書、ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)のタイトルともなっています。

わたしたちは、直感的、衝動的、しかし瞬時におおまかな状況を把握して対応できる速い思考(ファストな思考)と、立ち止まってじっくり理性的に考え分析する遅い思考(スローな思考)とによって、日々さまざまな決定を下し、判断しているのです。

速い思考と遅い思考には、どちらも大切な役割がありますが、PTSDの人では「速い経路」が非常に強くて冷静に考えるのが難しいのに対し、解離性障害の人では「遅い経路」が非常に強くて、感情が抑制されているといえるでしょう。

4.つながりか、断絶か

このように、かたや扁桃核が常にアラームを鳴り響かせていて、かたや冷静にそれを抑制しすぎている、という状態は、どうして生じるのでしょうか。

PTSDにしても解離にしても、元はといえば 、何かしらのトラウマやストレスに対する一時的な防衛反応がずっと続いている、ということにほかなりません。

すると、きっかけとなったトラウマ体験、ストレス体験は過ぎ去ったはずなのに、いまだにそのときに記憶がまざまざと焼き付いているので、記憶の中の恐怖と闘っている状態なのだ、と考えることができます。

現実の恐怖そのものは過ぎ去ったのに、記憶の中にある恐怖は、いまだ、そのときのままだからこそ、戦いが終わらないのです。

そして、ここでもまた、PTSDと解離とでは、記憶に対する処理が、正反対の状態になっています。そのために、正反対の反応が生じて、苦しみ続けることになります。

PTSDの人の脳の中で、記憶がどのような状態にあるかは、つい先日、富山大学の研究で明らかにされていました。

強い記憶、連動の仕組み解明

つらい記憶が突然よみがえる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状は、ささいな記憶が引き金になることもある。

…異なる2つの出来事は、マウスの脳内で別々に記憶されることが多いが、強いストレスを経験したマウスの脳の海馬で神経細胞を調べると、2つの出来事を記憶した細胞の領域の大部分が重なっていたという。

これはマウスを用いた実験ですが、マウスに対して、「おもちゃを与える」というささいな体験と、「狭い箱に入れる」というトラウマ的な体験とを、ほんの1時間ほどの間に同時期に経験させたそうです。

すると、本来は全然関わりないはずのそれら二つの出来事の記憶が結び合わされてしまいました。

これが、ちょっとした日常の体験がきっかけとなって、トラウマ記憶が同時に呼び起こされ、フラッシュバックしてしまうPTSDのメカニズムだとされています。

つまり、過ぎ去ったはずの危機的状況の記憶が、ささいな日常的な刺激、たとえば音や匂いや食事や表情といったありふれたものと結びついてしまっているために、危機が去って日常生活に戻っても、ちょっとしたことでトラウマ記憶が呼び覚まされてしまうのです。

それに対し、解離性障害のほうでは、記憶の処理の仕方がまったく異なっているといいます。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれていました。

ちなみに最近の日本の研究で、解離性の健忘の際、実際に海馬の抑制が生じているという報告がある(Kikuchi,et al.,2010)。

私たちが解離状態で、ある事柄を思い出せない場合、…脳のある部分(この研究によれば前頭葉の特定の部分ということである)が、その記憶をつかさどる部位を抑えている、という事態が生じているとのことだ。(p145)

こちらの場合は、つながっているどころか、関係が絶たれて抑制されているのです。

つまり、トラウマ記憶はそのまま残っているものの、未処理のまま、日常の記憶とは遮断されていて、容易に思い出すことができなくなっています。

思い出せないのであれば、それは良いことだ、と感じられるかもしれませんが、本来、トラウマ記憶は、適切に処理されて、自分の経験 の一部になって初めて安全になります。

トラウマ記憶が処理されないまま、脳の中のどこかに隔離されているというのは、あたかも危険物を家の押入れの中に閉じ込めているようなものです。

いつなんどき、それが漏れだしたり、爆発したりするかもしれない、という恐怖と隣り合わせなのです。

つまり、PTSDは、爆弾のような危険な記憶をむきだしのまま抱えてパニックになっている状態、解離は爆弾を押し入れに封じ込めて表面的には冷静になっているものの、常に恐怖と隣り合わせになりつつ生きている状態だといえます。

どちらにしても、爆発物のような記憶を適切に処理できる、危険物処理班のような専門家の助けを借りなければならない状況だといえます。

6.不安型愛着か、回避型愛着か

ここまでのところで、PTSDと解離それぞれにおいて、頭の中で何が起こっているか、ということは、おおまかに理解することができました。

PTSDは危険のまっただ中にいてアラームが鳴り響いている興奮状態であり、解離は危険を隔離して封じ込めたものの、常にその脅威を抑制するために闘っている状態でした。

いわばPTSDが戦時中まっただ中なら、解離は東西冷戦や核の脅威のような、潜在的な危機に対して緊張が走っている状態です。

しかし、まだ答えの出ていない疑問があります。

なぜ、ある人の場合は、トラウマ経験に対してPTSDの反応で対応し、別の人の場合は解離の反応で対応するのでしょうか。いったいなにが両者を分けるのでしょうか。

それを知るには、表面的なトラウマ体験よりもずっと過去、生まれたばかりのころの経験にまで遡らなければなりません。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、このように書かれています。

ショアの主張をひとことで言えば、解離という心の働きを脳科学との関連で探っていくと、愛着の問題にまでさかのぼらなくてはならないということである。

すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを念頭に置くべきなのである。(p15)

PTSDと解離を分ける、生まれたころの経験、それは「愛着」です。

「愛着」とは何でしょうか。それは、精神科医ジョン・ボウルビィが提唱した概念で、ごく幼いころの赤ちゃんが、特別な存在との間に育む絆のことです。

もう少し噛み砕いて言うと、この世に生まれたときに最初に学ぶ、「愛の定義」です。

「愛の定義」だなんて言うと、いきなりロマンチックな話になってしまったように聞こえますが、これは詩的なものでも哲学的なものでもなく、れっきとした生物学的な現象です。

わたしたちが、子どものころ親を愛したり、大人になってから恋人を愛したりするのも、すべて脳の働きによるものです。いつまでも親にべったりしてしまう人もいれば、恋人にもそっけない人もいますが、それらは単なる性格ではなく、脳の働きのパターンです。

では、いつ、そうした愛したり愛されたりすることに関係する、脳の働きのそれぞれ異なるパターンが作られるのでしょうか。

それこそが、生まれて間もない時期に育まれる愛着(アタッチメント)という生物学的な機能でであり、それ以降の人間関係のパターンや、愛し愛されるときの性格は、その愛着の上に築かれていくのです。

そして、その土台となる愛着がどのように据えられているかによって、その後の人生でストレスやトラウマに直面したときの反応が、PTSD的になるか、解離的になるかが変わってきます。

これまでの記述から、解離と愛着の問題の概要がご理解いただけたと思う。

解離において生じていることは、愛着の障害の一環として理解できるというのだ。

それは生理学的に言えば、交感神経の過剰な活動の次の相として起きてくる状態、すなわち副交感神経の過覚醒状態ということである。(p18)

最初のほうで、PTSD は「弱い解離」であり、解離性障害は「強い解離」とみなされる場合があることを説明しました。

言ってみれば、どちらも「解離」ではあるのですが、その解離という現象は「愛着の障害の一環」として生じるものです。

愛着は、すでに述べたように、ごく幼いころの親との結びつきによって生じます。この期間は、およそ生後半年から1年半、長く見て3歳くらいまでだと言われています。

もちろんその後の子ども時代の経験も愛着に影響を及ぼしますが、最も強い影響を持っているのは、この生後わずか数年の期間の経験です。

この時期に特別な存在、多くの場合は母親から愛情のこもった世話を受けることができれば、安定した愛着が育まれ、ストレスに対して適切に対処する力が育まれます。これは「安定型」と呼ばれます。(B型とも呼ばれる)。

しかし、その時期に歪んだ愛情の注がれ方をすると、不安定な愛着が培われます。

歪んだ愛情とは、虐待やネグレクトはもちろん、親が精神疾患を抱えていたり、仕事が忙しくて自分の手で世話できなかったり、子育ての方法がよくわからなかったり、というやむを得ない事情の場合も含まれます。

この時期に適切な愛情を経験できなかった子どもの愛着は、おもに二つの不安定な方面に発展します。

一つは「不安型」。(抵抗・両価型、アンビバレント型、C型などとも呼ばれる)。

過剰にかまわれたり、必要以上に溺愛されたりすると、こちらの傾向が強くなります。こうした子どもは、親から過剰に構われることが普通になってしまうので、親が少しでもいなくなるとパニックになり、泣き叫びます。

大人になってからも、べったりした関係を好むことが多く、愛情に飢えていて、周りの人のちょっとした態度に過敏に反応し、動揺します。

つまり、「不安型」の名の通り、強い「見捨てられ不安」が特徴です。

もう一つは「回避型」。(A型などとも呼ばれる)

感情に乏しい親のもとに育ったり、ほったらかしにされたりすると、こちらの傾向が強くなります。こうした子どもは、呼んでも親が答えてくれないことが当たり前なので、親がいてもいなくても気にしません。

大人になってからは、引きこもりがちで、よそよそしく、愛情に対して積極的になれず、むしろ一人でいることを好みます。

つまり、「回避型」の名のとおり、強い「人への恐れからくる対人回避」が特徴です。

このような「不安型」と「回避型」の傾向どちらか一方だけなら、わたしたちの身の回りの多くの人が、多かれ少なかれ抱えているものです。べたべたしてくる人や、よそよそしい人は、どこにでもいるものてず。

しかし、生後幼い時期に、故意であれ、やむを得ない事情であれ、極端な養育環境におかれると、「不安型」と「回避型」の重ねあわせである、矛盾した状態、「混乱型」として知られる4つ目の不安定な愛着に発展します。(無秩序型、D型などとも呼ばれる)。

たとえば、過剰に構われる状態の最たるものである虐待に直面したり、もともと溺愛されていたのに、ある時点で親が死んだりいなくなったりした場合、子どもは親がいるのかいないのか混乱します。

逆に、ネグレクトされたり、そもそも特定の親が世話してくれず、次々に養育者が代わったりすると、子どもは親とはどんなものかわからなくなり、混乱型の中でも、親のイメージが希薄な状態になります。

いずれの場合も「見捨てられ不安」と「人への恐れによる対人回避」とが同居していますが、どちらが強いかは人によって異なるでしょう。

ただひとつ言えるのは、見捨てられたくないのに、人との関わりも回避したいという矛盾した傾向を持つということです。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち | いつも空が見えるから

 

これは何かに似ていないでしょうか。

そう、「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」そのものです。

幼いころに造られる愛着という土台は、その後の人生における対人関係やストレスへの反応に影響すると先ほど説明しました。

そうすると、愛着が極めて歪んだ形で形成され、見捨てられたくない、けれども人と親しくなるのも怖い、という矛盾した状態が生じることは、そのまま、ストレスやトラウマに反応するときの「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」の型になるのです。

通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫soothingが得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。

しかしタイプDの愛着が形成されるような母子関係においては、その慰撫が得られず、その結果、生じると考えられるのがこの解離なのだ。

それはいわば過覚醒が反跳するような形で逆の弛緩へと向かった状態だと捉えることができるだろう。(p20)

この説明が示すとおり、幼いころに、泣きわめいて親を求め続けるような体験がずっと続くと、それは、扁桃核のアラームが鳴り続けている交感神経の興奮状態につながり、後のPTSD傾向につながります。

逆に、泣きわめいてもだれも助けてくれないような場合には、鳴り響くアラームに対して、自分の前頭前野と副交感神経を用いて無理やりブレーキをかけることを学び、後の解離傾向につながるのです。

6.多動なADHDか、不注意なADDか

愛着が正しく育まれるかどうか、というのは、主に幼い乳幼児期のころの話でした。

しかし、そのときに学んだパターンというのは、その後の幼年期や学童期から、表面化していきます。

まだ子どもであるにも関わらず、PTSDや解離に似た防衛反応を多用するようになります。いったいどんな反応を見せるのでしょうか。

まず、「不安型」の傾向が強く、人への恐れからくる対人回避よりも、見捨てられ不安のほうが勝る場合は、ちょうど赤ちゃんのころ、少しでも親がいなくなると、泣きわめいて親の助けを求め、パニックに陥ったのと同じような反応を見せます。

つまり、すぐにかんしゃくを起こし、ただをこね、落ち着きがなく、走ったりわめいたりするようになります。これは、ちょっとしたことに過敏に反応する「闘争」や「逃走」といったPTSD傾向の表れです。

逆に、「回避型」の傾向が強く、見捨てられ不安よりも、人への恐れからくる対人回避のほうが強いと、おとなしく、自己主張をあまりせず、表面的には平静な反応を見せます。

しかし心の中では不安を必死に押さえ込んでいるので、時おりフリーズしたり、ぼーっとして現実逃避したりするようになります。これは、危機に面して感覚をシャットアウトする、「固まり」や「麻痺」といった解離傾向の表れです。

それにしても、こうした子ども、というのは、近年よく知られるようになってきた別のものと極めて類似していないでしょうか。

つまり、いつも走ったりわめいたりして手のつけられないような子どもや、ぼーっとしていておとなしく、話を聞いているのかどうかもわからないような子どもは、身近にいるのではないでしょうか。

そう、注意欠如多動症(ADHD)と診断されているのではないでしょうか。

そのとおりです。愛着の問題のせいでPTSD傾向の強い子どもは、多動・衝動性優勢型(ADHD)にそっくりですし、逆に解離傾向の強い子どもは、不注意優勢型(ADD)にそっくりです。

そして、PTSD傾向と解離傾向両方を持っている中間にいる子どもは、どちらの特徴も示す混合型のADHDとみなされやすいでしょう。

実際に専門家も、ADHDと愛着障害の区別には、非常に苦慮するとのことで、子どものPTSD 診断と治療にはこう書かれています。

ADHDとトラウマ障害は、行動面や認知も近似しているため、しばしば誤診されかねない。しかし、根底にあるものは異なるため、異なった対処法が必要とされる。

落ち着きがない、着席できないなどの多動症状をや反抗性を示し、一見するとADHDと思われる子どもの中には、過覚醒や回避などのPTSD症状が潜んでいる可能性もある。

心ここにあらずで注意が散漫な不注意優勢型のADDと思われていた症状は、トラウマ障害の解離であるかもしれない。(p117)

ADHDと愛着障害が極めて類似しているのは、決して偶然ではありません。ADHDも愛着障害も、同じドーパミンのアンバランスと考えられています。

ADHDの場合は、もともとの先天的な原因でドーパミンのバランスが不安定になりますが、そもそもドーパミンのバランスは、愛着によってコントロールされているからです。

成長し衰退する脳 (社会脳シリーズ)にはこう書かれていました。

さらにショアは、母親が乳児の覚醒水準を上げることにより、乳児の脳の覚醒をもたらすドーパミンの分泌が促され、前頭前野領域の代謝が促進されると述べている。(p195)

さらに、以前の記事で詳しく取り上げたように、ADHDと愛着障害は、類似しているだけでなくて、遺伝的なADHD要素と、後天的な愛着の障害とか重なって、より症状が増幅されている人も少なくないようです。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか | いつも空が見えるから

 

ですから、わたしたちのまわりにしばしば見られ、近年増加しているとも言われるADHDやADDの子どもの中には、実際には愛着障害なのに発達障害と誤診されている子どもが多数含まれているはずです。

もちろん、たとえそうだからといって、必ずしもその子どもの親に責任があるというわけではありません

すでに説明したとおり、やむを得ない事情によってそうなってしまうこともありますし、遺伝的な要素のせいで愛着が不安定になりやすいこともあるからです。

7.境界性か、解離性か

学童期には、こうして、ADHDのような傾向として表面化しやすい愛着の問題は、年齢とともに違った傾向を見せます。

これは発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方の中で、杉山登志郎先生によって、「異型連続性」とか「出世魚現象」と呼ばれているものです。(p27)

文字通りの出世魚のように、成長とともに見た目が変わり、名前、つまり診断名が変わるのです。

まず、「不安型」の傾向が強く、衝動的でかんしゃくを起こしやすく、一見したところ多動性・衝動性優位型のADHDに似ていた子どもは、その衝動性が、人間関係にも反映されるようになります。

衝動的で、「見捨てられ不安」が強く、ときにわめきちらしたりすることもある人間関係を特徴とする病気、それは何でしょうか。

境界性パーソナリティ障害(BPD)です。

境界性パーソナリティ障害は、不安定で揺れ動く対人関係を特徴とし、知り合って間もない人を理想化したかと思えば、ささいなことで、突然、態度を豹変させてののしったりします。

これは、強い「見捨てられ不安」を抱えていて、過去の体験が無意識のうちにフラッシュバックするため、ささいな言葉や態度がきっかけでパニックになってしまい、「闘争」「逃走」の反応のままに行動してしまう状態です。

境界性パーソナリティ障害の人は、従来、ADHDの人がなりやすい、と言われていましたが、実際には本来の意味でのADHDではなく、ADHDと間違われていた愛着障害の人が思春期以降そうなりやすい、ということだったのでしょう。

ササッとわかる「境界性パーソナリティ障害」 (図解 大安心シリーズ)によると、BPDの人のこう書かれていました。75%が「不安型」で、89%が「混乱型」の傾向を示していたというデータがあるそうです。

白と黒の世界を揺れ動く「境界性パーソナリティ障害の人の気持ちがわかる本」 | いつも空が見えるから

 

一方で、「回避型」の傾向が強く、おとなしく、自己主張せず、ぼーっとして現実逃避することもあった、不注意優勢型のADDに似ていた子どもはどのような傾向を示すのでしょうか。

自分の意見をひたすら押しとどめ、まわりの空気を読んで「いい子」として優しく振る舞い、本当の自分を出せるのは空想の世界だけ。そうした特徴を持つ病気はなんでしょうか。

それは解離性障害です。

解離性障害は、文字通り解離傾向が強く表れすぎた病気であり、空気を読み過ぎる過剰同調性や、現実感が薄れる離人症、記憶が失われる解離性健忘、そして悪化すると別人格が表れる幻聴や人格交代などが生じます。

これは、本来は危機的状況下でのみ生じるはずの「固まり」「麻痺」反応が、日常的に生じるようになった状態です。

犯罪被害者などの中には、「固まり」反応が起こって動けなくなり、あたかも体外離脱したかのように、自分が傷つけられるのを他人事のように遠くから傍観していた、と述べる人がいます。

それが日常のさなかで生じて、現実の自分を遠くから眺めているのが離人症です。また、そうした自分り体から分離しているような感覚は、解離性障害に多い、体外離脱体験や人格の分裂とも関係しています。

少し前に出てきたピューマに襲われた女性は、「麻痺」反応によって少しの間気絶し、記憶を失いましたが、同じように解離性障害ではしばしば記憶が失われ、意識が消失している間は別人格が体をコントロールするようになります。

愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)には、こう書かれています。

意識や記憶が飛ぶといった解離症状は回避型や混乱型だった人にみられやすい。(p102)

このように、ADHDやADDとみなされていた愛着障害の子どもは、思春期以降、境界性パーソナリティ障害(BPD)や、解離性障害という形に進展し、PTSDと解離、というそれぞれの傾向が日常生活や対人関係にまで色濃く反映し始めます。

かつて、境界性パーソナリティ障害や、解離性障害は、虐待や性的トラウマとの関係が注目されがちでしたが、近年では、そうした明確なトラウマ原因がない、ごく普通の家庭とも思える環境で育った人にもこれらの疾患が見られると言われています。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはにはこう書かれていました。

それに解離性障害には、PTSDなどについて考えるようなトラウマやストレスが必要条件として存在するべきなのかについての識者の見解は統一されているとは言えない。

私の臨床場面でも、過去の明確なトラウマ因を見いだせないケースは実際に体験されるのである。(p106)

確かに、PTSDや解離性同一性障害(DID)には、犯罪被害や子ども時代の虐待などの明確なトラウマ因が存在することが多いのは事実です。

しかし境界性パーソナリティ障害や、解離性障害の場合は、むしろ、もっと日常的なトラウマ、つまり、家庭や学校での慢性的な居場所のなさなどが関係していることが多いのでしょう。

また、ここでは境界性か解離性か、という二つの極端にわけて話を組み立ててきましたが、必ずどちらか一方にだけ当てはまるというわけではありません。

さきほど、子ども時代に、PTSD傾向と解離傾向の両方が存在している場合には、どちらの症状も出る混合型のADHDとみなされうる、ということに触れました。

それが発展した思春期以降の場合も同じで、どちらか一方の傾向がより強く出るとしても、両方の傾向を併せ持っていて、どちらかといえば境界性パーソナリティ障害、どちらかといえば解離性障害、という判断になることもあるでしょう。

岡野先生も、境界性パーソナリティ障害と解離性障害はおおむね正反対の傾向を持つとしながらも、はっきりどちらかを区別しようとすることへの懸念を言い表していました。

私は便宜的にBPDの病理を一つのスペクトラムとして理解し、解離性障害の患者が特にどの程度のBPD性を発揮しうるか、という視点を持つ。

このような見方は、患者の病理がBPDか解離性か、といった二者択一な診断を患者にあてはめる必要から治療者を開放してくれるであろう。(p127)

このように、重なる部分もありうる、とみなすのは、PTSDと解離の関係からすると、ごくごく自然なことです。

PTSDと解離は、正反対だとはいっても、白か黒かで二分できるようなものではなく、互いにつながっている「弱い解離」と「強い解離」だからです。

当然ながら、その隙間には、「中程度の解離」の人がさまざまな程度で存在していて、その人たちは、ある程度「弱い解離」としての境界性パーソナリティ障害に似た特徴を示しつつ、同時に「強い解離」としての解離性障害の特徴も示すでしょう。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない | いつも空が見えるから

 

8.フラッシュバックか、人格交代か

一見、まったく違う症状のように見えて、境界性パーソナリティ障害(BPD)やPTSDが「弱い解離」であり、解離性障害や解離性同一性障害(DID)が「強い解離」である、というのは、意外なところからわかります。

それぞれに特徴的な症状を挙げて並べてみると、こんなリストになります。

■境界性パーソナリティ障害(BPD)…キレる・態度が豹変
■心的外傷後ストレス障害(PTSD)…フラッシュバック
■解離性障害…幻聴・健忘・離人症
■解離性同一性障害(DID)…人格交代

一見なんのつながりもないように思える、これらの現象ですが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはに書かれている次の説明を読むと印象が一変することでしょう。

PTSDにおけるフラッシュバックがある種のトラウマのシーンを二次元レベルで静止画的に再現しているとすると、子どもの人格部分の出現は継時的な動画のようであり、その時の自分が舞い戻っているという、より複合的な現象だからである。

またこのことは、PTSDのフラッシュバックも一種の人格交代現象に類似する、という見方を促すことにもなるであろう。(p146)

フラッシュバックとは、じつは一種の人格交代だったのです

思い出してください。国立・精神神経センターの金先生は、PTSDは「不完全な解離」だと述べていました。

これを人格交代に当てはめると、DIDが「完全な人格交代」であるのに対し、PTSDは「不完全な人格交代」であるとみなせます。

DIDの人格交代は、明らかに別の人格が出てくるのでわかりやすいものですが、PTSDの症状が、不完全ながら、一種の人格交代 とみなせるのはどうしてでしょうか。

そもそも、DIDで、多数の人格が作られる理由の一つには、過去のトラウマ記憶を管理してもらうための「身代わり」や「犠牲」といった役割があります。自分では担えない辛い記憶を、特定の人格に担当して、門番のように隔離しておいてもらうのです。

多重人格の原因がよくわかる7つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か | いつも空が見えるから

 

そうすると、DIDで人格交代して、別の人格が出てきてしまう、というのは、その人格とともに、過去のトラウマ記憶が表に出てくる、ということになります。

そのように考えると、PTSDのフラッシュバックも、DIDの人格交代も、過去のトラウマ記憶が突然表に出てくる反応、ということで共通しています。

しかし、PTSDのフラッシュバックは、過去の感情やイメージが断片的に再生されるのに対し、DIDの人格交代の場合は、そのときの出来事に関係する記憶がひとつの人格という形にまとまって再生されるのです。

PTSDのほうは、「不完全な解離」のため人格という形にまで記憶がまとまっていませんが、DIDのほうは、「完全な解離」のため、単なる記憶ではなく人格の形をとっているというわけです。

そうであればPTSDのフラッシュバックが人格交代の一種であると説明するよりかは、DIDの人格交代が、フラッシュバックの一種である、と逆に考えたほうがわかりやすいかもしれません。

岡野先生も、視点を逆に変えて、こう説明しています。

フラッシュバックとは、PTSDの症状に特徴的とされ、ある種のトラウマをその時の知覚や感情とともにまざまざと再体験することである。

つまり、この子どもの人格部分の出現は、そのフラッシュバックが「人格部分ごと生じる」現象として理解することができるだろう。(p154)

このようにPTSDのフラッシュバックは一種の人格交代である、DIDの人格交代は一種のフラッシュバックである、という視点から見ると、残りの二つの疾患の特徴について何がわかるでしょうか。

まず境界性パーソナリティ障害は、PTSD寄りの病気ですが、突然態度を豹変させ、我を忘れてキレて怒りだし、しかも後になると忘れている、といった特徴があります。

これは、一種の人格交代であり、基本となるアイデンティティそのものは変わらないものの、感情の部分だけが別の人格に切り替わっている状態です。

PTSDのフラッシュバックと同じく、まとまった人格を構成するほど解離傾向は強くありませんが、断片的な感情という形で軽度の人格交代が生じているのです。

逆に、これはフラッシュバックの一種ともみなすことができます。周りの人の反応に敏感で、ささいな言動がきっかけで、過去の見捨てられ体験というトラウマ記憶が呼び覚まされて、パニックになって我を忘れてしまうのです。

では、解離性障害のほうはどうでしょうか。こちらは、離人症や幻聴、だれかの気配などを感じるという特徴があります。

離人症というのは、体外離脱と同じく、もう一人の別の自分の視点から、現実の自分を見ているときに生じますし、幻聴もまた、別の自分の声です。だれかの気配も、別人格の気配です。

解離傾向の強い人は、これまで考えたとおり、強い前頭前野の抑制機能を働かせて、扁桃体のパニックを押さえ込んでいるのが特徴です。

解離傾向が強いため、過去のトラウマ記憶は、すで別の人格という形でまとまっていますが、強い抑制能力で、その人格がまるごとフラッシュバックするのを抑えているのです。

しかし交代人格の幻聴や幻視それ自体もフラッシュバックの一種である、というのは杉山登志郎先生が発達障害のいま (講談社現代新書)の中で述べています。(p108)

これら4つの病気の特徴をこうして改めてフラッシュバックと人格交代、という観点から見ると、次のようにまとめることができます。

■境界性パーソナリティ障害(BPD)…キレる・態度が豹変
→人格はまとまっていないが、軽くフラッシュバックしている

■心的外傷後ストレス障害(PTSD)…フラッシュバック
→人格はまとまっていないが、強くフラッシュバックしている

■解離性障害…幻聴・健忘・離人症
→人格はまとまっているが、フラッシュバックはある程度抑えている

■解離性同一性障害(DID)…人格交代
→人格はまとまっていて、フラッシュバック(人格交代)も生じている

こうして見ると、フラッシュバックか人格交代か、という分け方は実は正しくないことがわかります。

PTSD傾向のほうの特徴がフラッシュバックである、というのは確かです。

しかし解離傾向のほうの特徴は、人格交代ではなく、単に人格がつくられることだけなのです

解離傾向によって人格がつくられ、同時にPTSD傾向も強くてそれがフラッシュバックするとき、初めて人格交代という複合現象が生じて、解離性同一性障害(DID)となるのです。

それで、これら4つの病気の関係性をまとめると、次のように整理できます。

愛着障害のために「見捨てられ不安」が強く、PTSD傾向が優位な人は、思春期の慢性的なストレス環境のもとでは境界性パーソナリティ障害になりやすい。

さらに、災害や犯罪などの外傷体験に直面すると、不完全な解離を引き起こして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えやすい。

逆に、愛着障害のために「対人関係の回避」が強く、解離傾向が優位な人は、思春期の慢性的なストレス環境のもとでは解離性障害になりやすい。

さらに、災害や犯罪などの外傷体験に直面すると、解離傾向によってすでに作られていた人格が、PTSD傾向も加わることでフラッシュバックして、解離性同一性障害(DID)になりやすい。

もちろん、何度も言うように、これらは白黒つけられるものではなく、中間的な状態がほとんどなので、いずれかの傾向がある、というにすぎない場合が多いでしょう。

しかしこれら4つの近年注目されている問題が、愛着障害からくる傾向と、ストレスやトラウマ経験の種類の重ねあわせによって生じているとみなすと、問題がわかりやすくなります。

9.感情豊かで主観的か、冷静で客観的か

このような、幼いころの養育環境に由来するPTSD傾向と解離傾向の違いは、その後の人生における性格や思考パターンの違いにも如実に反映されています。

もともと「不安型」の愛着が強く、子どものころは多動性・衝動性優位型のADHDのように振るまい、思春期以降、境界性パーソナリティ障害(BPD)に発展する人は、どちらかという感情豊かな反面、衝動的に行動しやすく、深く考えるのが苦手です。

一方で、もともと「回避型」の愛着が強く、子どものころは不注意優勢型のADDとみなされがちで、思春期以降、解離性障害に発展する人は、どちらかというと、理性的で感情に乏しいものの、じっくり考えることは得意です。

このような性格の違いも、単に病気の特性などというものではなく、もともとの愛着のタイプが影響している、PTSD傾向と解離傾向の表れ、とみることができます。

子どものころの不安定な愛着の「不安型」と「回避型」は、大人になってもそのまま続くことが多く、それそれ「とらわれ型」「愛着軽視型」という別の名前で呼ばれます。

本質的には子どものころの二つのタイプと同じですが、それぞれ大人になって初めて分かる興味深い特徴を持っています。愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)にはその違いがこう書かれています。

まず「不安型」に相当する「とらわれ型」について見てみましょう。

とらわれ型は、子どもの抵抗/両価型に対応するものである。子ども時代や親(養育主)との関係について客観的に振り返ることが困難なタイプで、曖昧な答えしか返さなかったり、そうした質問をされることに怒りの感情を示したりする。

過去のことを振り返っていることを思わず忘れて、あたかも目の前で起きているかのように、生々しい感情に呑みこまれやすい。

語る言葉も一文一文が長く、切れ目がなく、ゴチャゴチャに混乱していて描写が細かく詳しい一方で、自己省察に欠けた面がある。(p104)

ここでは「不安型」の傾向が強いまま大人になった人に、過去のことを尋ねると、嫌だったこと、辛かったことなどを、まざまざと細かく思い出す様子が書かれています。

いわば、親に対する恨みつらみなど、過去の嫌な体験にとらわれているからこそ、大人になると「とらわれ型」という名前に変わるのです。

こうした、ネガティブな過去の体験にこだわり、我を忘れて執着し、没頭してしまうのは、やはり「不安型」特有のPTSD傾向があるからです。

過去のネガティブな体験にとらわれて頭から離れないこと自体が軽いフラッシュバックであり、長い年月が経過していたとしても、いまだにその苦しみのただ中にいるかのように記憶がよみがえるのです。

客観的に振り返るのが困難なのは、今の自分の日常生活のささいな出来事と、過去の嫌な記憶しとが結びついていて、軽いフラッシュバックによって、その中に没頭してしまうからです。

これは、先ほど紹介したマウスの実験で示されていたPTSDのメカニズムと同じ現象です。

では、「回避型」に相当する「愛着軽視型」のほうはどうでしょうか。

愛着軽視型は、回避型に対応し、自分の子ども時代についてポジティブな見方を示すものの、話はあっさりしていて、簡略で、あまり詳しいことを覚えていない。

親(養育者)との関係については、あまり生き生きと思い出すことができない。

親(養育者)との関係は大して重要なことではないという態度を示すのも特徴である。

しかし、話を掘り下げていくにつれて、実はあまり構われずに育った状況が浮かび上がってくる(p104)

こちらのほうは、うって変わってポジティブに過去のことを振り返ります

しかし根っからポジティブなのではなく、過去の嫌な体験の記憶がほとんどないのです。詳しいことも細かい点も覚えておらず、記憶があいまいです。

親に対する恨みつらみにとらわれるどころか、親との関係などどうでもいいといったそぶりです。だからこそ、「回避型」は大人になると、「愛着軽視型」という名前に変わります。

こうして「回避型」の人が、過去の嫌なことを忘れてしまうのは、先ほどのPTSD傾向とは逆の解離傾向が働いているからです。

マウスの実験と同じように、前頭前野の働きによって、いやな記憶は隔離してしまって、あたかも何もなかったかのように、臭いものに蓋をしているということです。

PTSD傾向の強い「不安型」と違って、フラッシュバックに飲み込まれることがないので、たいていは冷静かつ客観的で、他人事のように過去や親との関係を振り返ります。

PTSD傾向の強い「不安型」と、解離傾向の強い「回避型」で、こうした違いが現れるのは、ここまで考えてきたとおりの脳のメカニズムの違いによるものです。

「不安型」の人は、扁桃体のアラームが鳴りっぱなしで、嫌なことに過敏に反応するため、いまだに子どものころの辛かった出来事のただ中にいて、「闘争」か「逃走」かのまま、さまざまな感情がうずまいています。

「回避型」の人は、扁桃体のアラームを前頭前野で支配して押さえ込んでいるので、過去の嫌なことはすべて封じ込めてしまい、過去の記憶をはるか遠くから眺め、感情を「固まり」「麻痺」させているのです。

こうした人間の感情的な思考と、理性的な思考との関係は、従来から、解離性同一性障害(DID)との関係でよく知られていました。

DIDでは、非常に理性的な人格である「ANP」(apparent normal personality:表面上平静さを保つ人格)と、感情的で手がつけられない人格「EP」(emotional personality:感情的な側面をつかさどる人格)とがみられるからです。

これら二タイプの人格は、それぞれが複数存在することもありますが、それぞれの役割について、こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害にはこう書かれています。

ANPの機能は日常生活をこなしていくこと(日常生活の行為維持システム)であり、外傷関連の記憶、感情などを避けることにより平常を装って現在を生きようとする人格部分である。

それに対し、EPは過去の外傷から抜け出せず、現在も危機状態にいるかのように感じている人格部分であり、自己防衛の機能を担う(防衛の行為システム)。(p134)

ANPは、嫌な記憶を封印し、冷静で淡々と現在を生きる人格です。

EPは、過去の嫌な記憶にとらわれ、現在も危機のまっただ中にいて感情に呑まれている人格です。

もうおわかりと思いますが、ANPとは「回避型」の人の性格そのもの、そしてEPとは「不安型」の人の性格そのものです。

実際に、脳科学的な研究からは、ANPが解離傾向と、EPがPTSD傾向と結びついていることがわかっています

この構造的解離論による理解は、最近のPETなどによる画像研究が報告している内容ともほぼ一致している。

それらは主としてANP型の脳所見を解離に特徴的なものとし、EP型をPTSDに特徴的なものとしている。

つまり解離かPTSDか、といった分類に基づく現象として捉える傾向が主流を占めているのだ。(p123)

そして、さらに、ANPでは理性と自己抑制を担う「前頭前野」などが、EPでは感情や自己防衛などに関わる、「扁桃核」や「島皮質」が強く活動していることがわかっているそうです。(p123)

そうすると、「不安型」の人では、EP、つまり感情的人格が中心になっていて、「回避型」の人では、ANP、つまり表面的に平静さを保つ人格が中心になっているということがわかります。

このようなわけで、「不安型」でPTSD傾向の強い人は、感情豊かな反面、その感情にとらわれやすく、客観的に、理性的に考えるのがとても苦手な人に成長してしまいがちです。境界性パーソナリティ障害はまさにそうした特徴をもっています。

他方、「回避型」で解離傾向の強い人は、冷静で理性的、物事を客観的に見るのが得意な反面、感情を表すのが苦手で、自分の気持ちを押し殺してしまいやすい人に成長してしまいがちです。解離性障害の人はまさにそうした特徴を示します。

10.右半球の異常な活性化か、脳梁の弱さか

そのような性格特性が、単に一時的なものではなく、赤ちゃんのころに愛着のタイプが決定されたときから、その後の人生にずっと影響を及ぼすことを考えると、大人になるころは大きな違いが生じることになるでしょう。

PTSDと解離の10の違いの最後に考えたいのは、これら2つの人生の傾向を決めるおおもとの脳の構造の違いは何なのか、ということです。

さきほどから話題に出ている、感情的な人格であるEP、そして理性的な人格であるANPとはそもそもどこから出てくるのでしょうか。

人間の脳において、感情的かつ直感的な反応は右半球と、理性的でじっくり思考する反応は左半球と結び付けられることがあります。

実際には、脳はほとんどあらゆることを左右協力して行っているので、完全に感情は右脳、理性は左脳、とみなすのは正しくありません。

しかしある程度は役割分担をしているのは確かで、おおまかに言えば、まず右半球が直感的に情報を判断して、その後、言語中枢がある左半球が思考して解釈するとみなせるようです。

そうすると、あくまで単純化した見方ではあるものの、感情的人格であるEPは脳の右半球寄りの、理性的な人格であるANPは左半球寄りの性質を持っている、ということになります。

そして、トラウマ的などの辛い体験は、脳のどちらに影響するのかというと、右半球であることが知られています。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳には、次のような研究結果が記されています。

一連の結果は、“虐待と左右半球の発達の間に関係がある”というTeicherの仮説を裏づけていた。

大脳の左半球は言語を理解したり表現したりするのに使われる。

一方、右半球は空間情報の処理や情動、とくに否定的な情報の処理を主にしている。

虐待を受けた子どもたちは、そのつらい思い出を右半球に記憶しており、それを思い出すことで右半球を活性化しているのではないかとTeicherは考えた。

このことはカナダのブリティシュコロンビア大学のCynader(ジネーダー)による仔猫を使った検討でも証明されている。(p64)

虐待を受けた子どもの場合、感情をやネガティブ記憶を担当する右半球の活動が異常に活性化していたのです。

少し前で説明したとおり、愛着の「不安型」の傾向は、乳幼児期の親の過干渉と関係していて、特にそれがひどく出る場合は虐待などが関係しています。

ですから、強い「不安型」の傾向を持ち、大人になるとネガティブな過去にとらわれる人たちは、この実験が示すとおり、脳の右半球が異常に活性化していると考えられます。

では、「回避型」の人は、逆に脳の左半球が活性化しているのでしょうか。

それを考える前に、さきほど引用した文脈の続きを見ておく必要があります。

興味深いことに、小児期に虐待を受けた経験のある人たちは、中立記憶を考えているときには圧倒的に左半球を使っており、つらくていやな記憶を思い出すときには、右半球を使っていた。

一方、対照群では中立記憶もつらい記憶も同じ程度、左右両方の半球を使っていた。

つまり、対照群では反応が両半球間でうまく統合されていると説明できる。Schifferの研究は、小児期のトラウマが左右両半球の統合不全に関係することを示している。

そこで注目されたのが脳梁である。(p64)

少し難しい説明ですが、簡単に要約すると、健康な人たちは、脳の左半球と右半球をうまく両方同時に使っていたのに、虐待を受けた子どもたちは、いやな記憶のときはほぼ右半球だけ、そうでない場合はほぼ左半球だけを使って、使い分けていたということです。

脳の左右の連携がとれていないのです。これは、脳の左右をつなぐ脳梁に問題があるのではないか、ということを示唆しています。

それで、脳梁の機能について調べたところ、次のようなことがわかったといいます。

虐待されたりネグレクトされた経験のある男児では、脳梁の中央部が対照群に比べて明らかに小さいことを発見した。

また男児では、ネグレクトが他のどの虐待よりも各脳梁部位のサイズ減少に影響が大きいことがわかった。

一方、女児では、脳梁中央部のサイズと最も強い関連があつたのは性的虐待だった。(p65-66)

特に、ネグレクトされたり、性的虐待を受けたりした場合に、左右の脳をつなぐ脳梁が小さくなっていました。

ここで先ほどの推測が必ずしも正しくなかったことがわかります。

先ほどは「不安型」の人は脳の右半球の働きが強いのだから、「回避型」の人は脳の左半球の働きが強いのではないか、と推測しました。

ところが、「回避型」と関連のあるのは幼少期の親の関心の低さであり、特にその傾向の強い人たちは、ネグレクトの被害と関係していました。また性的虐待は、解離性障害の強いリスクとして知られています。

そのような子どもの場合、左半球が優位であることが目立つわけではなく、異常が出ていたのは左右をつなぐ脳梁だったのです。

「不安型」の人は、右脳が異常活性化していて、「回避型」の人は左右をつなぐ脳梁が弱い。

これは何を意味しているのでしょうか。

以上、PTSD傾向と解離傾向の10の違いを考えてきました。

最後のまとめの部分は、これらすべての違いから導き出されるPTSD傾向とは何か、解離傾向とは何か、という正体を明らかにしたいと思います。

「不安型」のPTSD傾向の正体

10番目の違いのところの最後に現れた問いは次のようなものでした。

なぜ、「不安型」の人の場合は脳の右半球の異常な活性化が、そして「回避型」の人の場合は、脳の左右をつなぐ脳梁の小ささという異常が見られるのでしょうか。

ここまで、おおむねPTSD傾向と解離傾向は正反対のものだ、と考えてきたのに、ここに来て様相が変わってきました。

しかし、この違いこそが、PTSDと解離とはいったい何なのか、というそもそもの正体を明らかにする最後のカギなのです。

ここから書く内容には、いくぶん推測が含まれますが、一つの可能性として考えていただければと思います。

大きなヒントとなるのが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合に載せられた次の説明です。

最後にショアが呈示する自己selfの理論が興味深いので、付け加えておきたい。

彼の説は、脳の発達とは自己の発達であり、それはもうひとつの自己(典型的な場合は母親のそれ)との交流により成立する、というものである。

そしてそこでも最初に発達を開始する右脳の機能が大きく関与している。

ショアは、自己の表象は左脳と右脳の両方に別々に存在するという考えが、専門家の間でコンセンサスを得つつあるという。

前者には言語的な自己表象が、後者には情緒的な自己表象が関係しているというわけだ。(p23)

なんと、脳の右半球と左半球には別々の自己が存在しているのが普通である、と書かれています。

しかしそれはこれまで見たことと一致しており、脳の右半球には感情的自己であるEPが、左半球には理性的自己であるANPが宿っています。

そして、ここでちらっと書かれている点ですが、片方の自己は、「もうひとつの自己(典型的な場合は母親のそれ)との交流により成立」します。

このうち、最初からある自己というのは、右半球の感情的人格、つまりEPのことです。

赤ちゃんに理性的な自己があるとは誰も思わないでしょう。当然始めにあるのは感情的自己で、次いで理性的自己が発達するはずです。

実際に、次のようなことがわかっています。

特に生後の最初の1年でまず機能を始めるのは右脳だからだ。

そのとき左脳はまだ成熟を始めていない。

…子どもが成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が生成され始めるのは右脳だからだ。(p19)

子どもの脳で、生後間もない幼いときに働いているのは、やはり感情的自己であるEPが宿る右半球のほうなのです。

すると、虐待された子どもで、右半球が異常に活性化していたのも納得がいきます。

幼いころに、危険な扱いを受けたことで、右半球の感情の警戒アラームが刺激され、感情が暴走するようになったのです。

では、そうすると、なぜ、ネグレクトされると、左右の脳をつなぐ脳梁に影響がでるのでしょうか。

幼いころ、脳の左半球はまだ機能していません。より早く感情的自己が存在しはじめる右半球と違って、脳の左半球は、これから、もう1つの自己を創らなければなりません。

どうやってもう1つの自己を創るのか。答えは一つです。

「愛着」です。

愛着とは、特別な存在、多くは母親との絆のことですが、特に、母親のイメージを取り込んで内在化する働きのことです。

先ほど、片方の自己は、「もうひとつの自己(典型的な場合は母親のそれ)との交流により成立」すると書かれていたことを思い出してください。

赤ちゃんは、最初は右半球の感情的自己EPだけの存在ですが、母親との交流により、母親のイメージを取り込んでいって、それをANP、理性的自己として創りあげるのです。

こうして内在化された母親のイメージは、愛着の研究において、「安全基地」と呼ばれています。

いつも温かい親のイメージが心の中に存在するからこそ、幼児期、そして学童期になるにつれ、たとえ母親が近くにいなくても、感情的自己を安定させることができます。

つまり、赤ちゃんは、右半球に存在する感情的自己のほかに、幼いころの親との絆、つまり愛着によって左半球に養育者の理性的自己を写し取ることで、次第に親を離れて自立していくことができるのです。

しかし、もしその愛着が育まれる時期に、親が過度に干渉してきたとしたらどうなるでしょうか。過保護に溺愛して、すべてやってあげるとしたら? あるいは子どものやることを全部指図したり、虐待したりするとしたら?

そうすると、子どもは自立する必要を感じられず、自立することをむしろ阻まれるので、脳の左半球に、母親のイメージを写しとる必要がなくなります。

泣き叫べばすぐに親が飛んでくるので、親がいない場合、というのを想定して心の中に「安全基地」を創ることができません。

すると、左半球に育つはずの親の内的イメージである理性的自己が弱く、右半球の感情的自己だけが強いまま大きくなります

そうすると、自分の感情を調節するために、いつも外部のだれかを必要とします。だれかが感情的自己をなだめてくれなけば行きられません。

心の中に親の内在化した「安全基地」がないため、心は空っぽです。いつも、周りの人に見捨てられないかとビクビクしています。

それこそが「不安型」の人が抱えるPTSD傾向の正体、そして境界性パーソナリティ障害の人が直面している状況そのものなのです。

このあたりのことは、以下の記事でも詳しく説明しました。

いつも頑張っていないと自分には価値がないと感じてしまう人へ―原因は「完璧主義」「まじめさ」ではない | いつも空が見えるから

 

「回避型」の解離傾向の正体

では、他方の「回避型」のほうで、親の関心の低さや、それの最たるものであるネグレクトや性的虐待の結果として、脳の左右をつなぐ脳梁が弱くなるのはどうしてでしょうか。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、愛着の生理的機能についてこう書かれていました。

この愛着トラウマは具体的な生物学的機序を有している。

母親に感情の調節をしてもらえないことで交感神経系が興奮した状態が引き起こされる。そして心臓の鼓動や血圧が亢進し、発汗が生じる。

しかしそれに対する二次的な反応として、今度は副交感神経の興奮が起きる。すると今度は逆に心拍数は低下し、血圧も低下し、ちょうど擬死のような状態になる。(p16)

すでに見たとおり、愛着の主な役割は、感情の調節です。

最初の段階では、脳の右半球の感情的自己しか機能していないので、赤ちゃんは、外部の母やという他人を頼りに感情を調節してもらいます。

それから、そのときに母親が示してくれた愛情をまず右半球で感じ取り、その右半球と、まだ発達していない左半球をつなぐことで、脳の中でやりとりをしながら、左半球に母親のイメージを内在化していきます。

つまり、脳の左半球に母親のイメージを写しとり、それを「安全基地」とするには、その前に左右の脳をつなぐ脳梁を発達させる必要があるはずです。

ところが、母親が感情的な調節をしてくれないとしたらとどうなるでしょうか。関心に乏しかったり、ネグレクトしたり、親が次々と変わるような場合です。

そのような場合、脳の右半球と左半球とが双方向のやりとりをして、親のイメージを「安全基地」として内在化するのは難しいでしょう。つまり、脳の左右をつなぐ脳梁が発達しません。

「不安型」の人は、泣き叫べばすぐに親が来てくれたり、あらゆることで手出しされたりするため、そもそも「安全基地」が育ちませんでした。育つ必要がなかったからです。

しかし「回避型」の人が置かれる状況は違います。上の引用文のとおり、泣き叫んでも親は来てくれなかったのです。そのために親とのコミュニケーションもなく、脳梁が発達しませんでしたが、だからといってそのままでは、いつまでも感情を安定させることができません。

泣き叫んでも親が世話をしてくれない場合、赤ちゃんがとれる選択肢は一つだけです。

左半球の「安全基地」としての親のイメージを写しとるのではなく、自分でそれを創りあげていって、もう一人の自分によって、感情的自己をコントロールするのです。

それがPTSDと解離の最大の違いです。

PTSDでは、感情が暴走し、「闘争」か「逃走」かのパニックがずっと続いていました。

子どものころからずっと、泣き叫ぶことで、まわりの人に感情を調節してもらっていたので、自分で自分の警戒アラーム、つまり、交感神経の過剰興奮を解除する方法を学べなかったのです。

それはいわば、自分では「アクセル」しか踏めない車のようです。助手席に「ブレーキ」がついていて、いつも隣に座るだれかが「ブレーキ」を踏んでくれていたので、自分ひとりだけでは「ブレーキ」を踏めないのです。

だからこそ、助手席にいる人、つまり脳の左半球の役割を代わりに担ってくれる誰かに見捨てられることへの不安と恐怖を常に抱いています。

しかし解離では、だれに言われるでもなく、感情を前頭前野の活動によって押さえ込み「固まり」「麻痺」によって封じ込めます。

それは、親を含め、だれも十分に感情の調節をしてくれなかったので、交感神経の興奮に対して、副交感神経も興奮させるという荒技で対処することを学習しました。

これはいわば、運転席に「アクセル」、助手席に「ブレーキ」という意味では同じであるものの、自分一人で、両方を同時に踏むという離れ業を身につけたようなものです。

そのために取った方法、それは、「アクセル」を踏む感情的自己(ANP)と、ブレーキを踏む豹変に平静な自己(EP)の二人の自分へと、自分を分けることです。

「回避型」の人は、左右の両半球をつなぐ脳梁が弱いために、普通の人よりも、左右にある別々の自己を感じやすいはずです。本来は統合されていく二つの自己の連携が弱く、自分が複数いるという感覚を伴います。

そうすることは、母親のイメージを「安全基地」として内在化できず、もう一人の自分を創り出すことによって自分の感情をコントロールしなければならない、という適応でもありました。

こうして生まれた左半球の理性的自己によって、右半球の感情的自己をコントロールする術を身につけていきますが、それは本来の「安全基地」とは似て非なるものです。感情を力技で押さえつけ、記憶を封じ込めて対処するのです。

感情を無理やり封じ込めるので現実感が薄れしますし、もともとも脳梁のつながりが弱く、複数の自分を感じやすいので、封じ込めて解離させた部分が、次々に別の人格としてわかれていきます。

これが、脳梁の弱さからくる、解離傾向の正体であり、解離性障害の人が直面してる現実なのです。

自分は空っぽか、自分はたくさんか

このようなPTSD傾向と解離傾向の正体を解き明かした今、心によみがえるのは、境界性パーソナリティ障害と解離性障害の違いについての次の説明です。

続解離性障害によると、「不安型」のPTSD傾向が強い、境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)の人はこう感じています。

ボーダーラインの人の場合には関係を切るわけにはいかないのです。切ると精神的に死んでしまうようなところがあります。

内部は空虚ですから。絶対だれかとつながっているわけです。死んでやると言いながらやはりくっついていく。(p211)

境界性パーソナリティ障害の人は、心は空っぽです。常にだれか満たしてくれる人を探して、孤独にさすらい続けています。

幼いころ、心のなかに、「安全基地」を創る機会を持てず、右半球の感情的自己や、鳴り響く扁桃体のアラームを止めるのは、いつもそばにいるだれかでした。泣き叫べば、だれかが必ず答えてくれました。

しかし、それは同時に、自分一人では感情をコントロールできないという恐怖につながります。だれかがそばにいなくなったら、という見捨てられ不安に常に脅かされています。

いつも不安のアラームが鳴り響いていて、警戒態勢が続き、「闘争か」「逃走か」のただ中にいますから、じっくり腰を落ち着けて考えることができません。

常に戦時下を生きていますから、自分を客観的に、別の人の目を通して、見る余裕などありません。むしろ自分はたった一人の感情的自己であり、ほかにはだれもいないのです。

「他者の目を通して自分を見る力の欠損」

そうすると、強い感受性をもちながら、他の人の気持ちになって考えることができません

しばしば「共感性」という概念はひとくくりにされますが、自分の立場で他の人の痛みに共感する感じる力と、他の人の立場に立ってその人の痛みを理解する力とは別のものです。

発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)にはこう書かれています。

身体を基準としてミラーニューロンシステムは、目の前の人の痛みや苦しみに反応するとしても、相手の世界はあくまでも自分の世界の延長でしかない。

相手の文脈で反応するためには、相手の気持ちを推論のように知的に理性的に頭の中で理解する、メンタライジングネットワークが必要とされる。(p151)

共感というのは、ミラーニューロンシステムのような、相手の動きや感情をまねる働き、つまり「自分の心で相手の痛みを感じる」、ことだけが重要なのではありません。

自分の心で相手の痛みを感じても、相手が同じように感じているとは限らないので、おせっかいやすれ違いの原因となりかねません。

そうではなく、メンタライジングネットワークのような、相手の立場に立って、「相手の心で相手の痛みを感じ取る」理性的な働きが不可欠です。

こちらは、相手の事情や背景をよく考えた上で気持ちを想像しますから、論理的で客観的な洞察力が求められます。

しかし、常に感情的自己だけで、一人ぼっちで生きてきた境界性パーソナリティ障害の人は、他人の立場に立って考えることが苦手です。他人から見た自分がどう見えるかを考えることも困難です。

「自分の心で相手の痛みを感じる」感受性は強いので、良かれと思って様々なことを衝動的に行いますが、それがかえって、相手の気持ちとかけ離れているので、次々に人間関係のトラブルを身に招いて傷ついてしまうのです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合に書かれているとおり、「弱い解離」の傾向を持つ人たちの特徴の一つは、

「他者の目を通して自分を見る力の欠損」(p84)

なのです。

「人に対して絶望している」

他方、続解離性障害によると、「回避型」として、解離傾向が強い、解離性障害の人はこう感じています。

典型的な解離の人は、ひとりでいることは寂しくなく、なぜなら自分たちは複数だからと言います。

「何々ちゃんがいるから全然寂しくないもの」。(p207)

境界性パーソナリティ障害の人の心が空っぽで空虚であったのに対し、解離性障害の人の心は充実しています。

しかし普通の充実の仕方ではなく、あたかも、あらゆる機能が揃って自給自足できる隔離シェルターのような場所です。

強い「回避型」傾向を持つ人は、幼いころ、世の中のだれも信頼するに価しない、ということを学びました。

実の親でさえ、泣き叫んでもほとんど助けに来てくれなかったのです。もう、現実世界にいる誰かに頼ることは、それが親であっても絶対的な信頼を寄せることは難しいと悟りました。

鳴り響く扁桃体のアラームをとめるには、自分でスイッチを押すしかなかったのです。

それで、左右の脳をつなぐ脳梁を適応という形で弱くして、自分の中にもう一人の自分をもつようになりました。

本当の親とはどんなものかを知りませんが、少なくとも、強い前頭前野の力をもって、警戒アラームを止めてくれる存在です。

そして、感情をただひたすら抑えこみ、まわりに合わせ、「良い子」として振る舞うことで、誰も信じられない世の中でかろうじて自分の居場所を見出してきました。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

 

 同じ本にこう書かれていたとおりです。

ボーダーラインの人は相手のことをむちゃくちゃ言うしむちゃなことをやりますが、それは人間に対する信頼感を根本的なところで持っているからだと思います。

解離の人はそこが切れていて、人に対して絶望しているようなところがあるように思えるのですが。(p211)

もはや、この世界を生きていくには、自分の中にいる複数の自分に頼るしかなく、「人に対して絶望している」のです。

先ほど、境界性パーソナリティ障害の人が他の人の心とすれ違う理由を説明しました。

「自分の心で相手の痛みを感じる」ことはできても、、「相手の心で相手の痛みを感じ取る」のが難しいため、主観的になりすぎて、相手の気持ちと自分の気持ちギャップから相手を傷つけ、自分も傷つけられてしまうのでした。

解離性障害の人は反対です。

理性的になって、「相手の心で相手の痛みを感じ取る」ことは得意です。気遣いや気配り、配慮がとてもうまく、「いい人」「優しい人」として知られます。空気を読み、気持ちを読み、相手を喜ばせる才能があります。

なんといっても、これまでずっと、「自分は複数」で生きてきたので、別の人の視点に立ったり、客観的に物事を見たり、多角的に分析するのはお手の物なのです。

しかし「自分の心で相手の痛みを感じる」ことができません。そもそも自分の心や感情というものがよくわかりません。現実のだれかから愛されているという気持ちも感じられません。生まれてこのかた、ずっとそれを押しとどめてきたのですから。

この広い世界を行けども行けども、自分の心の中に広がるもうひとつの世界のほかに、安心できる居場所をどこにも見いだせないでいるのです。

幼いころからの生き方すべてを見つめ直す

こうして、解離とPTSDの違いを分析してきた旅路の終わりに、結局のところ、次のような結論に至ります。

PTSDとは、脳の右半球の異常活動であり、自分で自分の感情を調節することが難しいために、過去の苦しみや辛い経験がフラッシュバックするのを抑えられない状態です。

解離とは、脳の左右をつなぐ脳梁が弱く、自分で自分の感情を抑えこむことを目的として、自分が複数にわかれていく状態です。

そして、両者に共通するのは、幼いころの愛着トラウマ、愛着障害によって、他人に依存しすぎるか、他人をまったく信頼できないかの両極端に陥り、その生き方に沿って、独特な脳のシステムが作られてしまったということです。

その結果、ストレスやトラウマに直面したときに、終わらない苦しみのループにはまり込んでしまうのです。

この記事では、PTSDと解離が連続しながらも、正反対であることを示し、その特徴を説明してきました。

まわりくどい部分もあったかと思いますが、根本原因である愛着を含め、その人のこれまでの人生全体が関係している問題であることを知っていただけたと思います。

それはつまり、PTSDや解離から抜け出すには、一般的によく行われている心理療法はもちろん、根底にある愛着の問題に向き合うことも、いつかは必ず必要とされるということにほかなりません。

このブログでは、これまで、愛着の問題の解決に役立つ書籍や情報をいろいろ取り上げてきました。

今回紹介した本も含め、そうした情報に触れて、改めて自分の半生を振り返り、自分を見つめなおしてみることが、苦しみのループから抜け出す気づきを与えてくれるかもしれません。

原因不明で診断がつかない難病を特定できる遺伝子解析プロジェクト「未診断疾患イニシアチブ」(IRUD)とは?

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ても辛い多彩な症状に苦しめられるのに、従来の医学的検査で診断がつかず、「気のせい」「心の問題」「原因不明」などと言われてしまう。

このブログで扱っている慢性疲労症候群(CFS)などの病気の患者は、そうした理不尽な経験をしやすいものです。

しかし、そうした従来の医学検査では異常が見つからず、診断がつかない患者の病気を、網羅的な遺伝子解析によって特定しようとする試みが、慶応義塾大学医学部 臨床遺伝学センターによって、昨年開始されたそうです。

そのプロジェクトの名前は「未診断疾患イニシアチブ」IRUD(Initiative on Rare and Undiagnosed Diseases)と呼ばれています。 IRUDは「アイラッド」と読むようです。

わたしも、これまでこの取り組みの存在を知らなかったのですが、今日の毎日新聞のニュースで、驚くべき成果が報道されていたので関心を持ちました。

それによると、幼いころから発達の遅れや低血糖、便秘など多くの症状に苦しめられてきた男性が、IRUDにより、デサント−シナウイ症候群という、世界で8人しか見つかっていない希少疾患だと特定できたとのことでした。

クローズアップ2016:原因不明の病、特定に道筋 - 毎日新聞 はてなブックマーク - クローズアップ2016:原因不明の病、特定に道筋 - 毎日新聞 

診断つかない疾患 原因遺伝子特定へ16機関タッグ  :日本経済新聞

診断つかない病気の専門外来を新設 慶應大病院│NHKニュース (インターネット・アーカイブによる履歴)

病名判明、「安心」の声、拠点の慶応大病院 子どもの原因不明の病気で遺伝子解析│朝日新聞 (インターネット・・アーカイブによる履歴)

IRUDとは具体的にいって、どのような取り組みで、どのような成果を挙げているのでしょうか。過去の関連ニュースの内容をまとめてみました。

また、このブログの視点として、しばしば原因不明の症状を持つ患者が行きつく、慢性疲労症候群(CFS)という診断名の役割と問題点を指摘したいと思います。

「未診断疾患イニシアチブ」(IRUD)とは

IRUDは、国立研究開発法人 日本医療研究開発機構 (AMED) により主導され、全国25病院が参加している大規模なプロジェクトです。

昨2015年7月に、特に子どものころに発症した未診断疾患を対象とした遺伝子解析プロジェクトとして始まりました。

2016年現在、子ども・大人それぞれの未診断患者に対して遺伝子解析による診断を提供できることを目標に、プロジェクトが継続されています。

未診断疾患イニシアチブ | 慶應義塾大学医学部 臨床遺伝学センター

いわゆる人体の設計図ともいわれるDNAの配列(遺伝子とも呼びます)を、最先端の分析機器を使って幅広く調べることで、従来の医学的検査で診断のついていない患者さんの診断の手がかりにが得られることがあります。

…日本全国の診断がつかずに悩んでいる患者さん(未診断疾患患者)に対して、遺伝子を幅広く調べ、その結果を症状と照らし合わせることで、患者さんの少ない難病や、これまでに知られていない新しい疾患を診断しようとしています。

難病の原因究明に役立つ遺伝子診断 -臨床遺伝学センター-|慶應義塾大学病院 KOMPAS

現在のところ、診断不明の小児期発症の重い障害を持つ患者がいた場合、全国の医療機関から、IRUDへ情報提供がなされ、必要に応じて助言や紹介依頼を通じて、慶応義塾大学病院を受診するという流れのようです。

既知の疾患なのか、それとも新規疾患なのか、臨床遺伝専門医のチームによって調査され、原因遺伝子検査や、場合によっては全ゲノム解析なども用いて診断が下されます。

その結果、正確な診断による適切な治療や予防につなげられるとされています。

昨年7月に始まって以来、今年3月末までに子どもの時に発症した782人分の遺伝子を解読し、そのうち30%で病名を突き止め、新しい病気も7つ発見できました。

30%というと少なく感じるかもしれませんが、どれほど医療機関をまわっても原因不明だった患者の3割と考えると、相当優秀ではないかと思います。

同様の取り組みは、海外でも、米国立保健研究所(NIH)が2008年から、英国が2011年からプロジェクトを開始していますが、やはり約3割の患者で原因がわかっているそうです。

極めてまれな希少疾患も特定

今回の毎日新聞のニュースでは、冒頭で紹介したように、原因もわからずに苦しんでいた男性が、極めてまれな遺伝子疾患であることが特定されました。

現在22歳のその男性は、子どものころから多彩な症状に悩まされていて、幾度も検査を受けましたが原因はわからず、両親の心労も相当のものでした。

しかし昨年IRUDのプロジェクトを知って、男性本人と、両親の遺伝子を解析したところ、遺伝子の一部が欠損していることが判明したといいます。

文献と照合することで、「デサント−シナウイ症候群」という、日本人としては初めて、世界では8人しか見つかっていない希少疾患だと判明したのでした。

それまで母親は、自分のせいではないかと悩んでいましたが、遺伝子の変異であることがわかり、苦悩から解放されたそうです。

そのほか、約30年間、原因不明だった福岡の40代の患者が、アジアでは報告がない極めてまれな希少疾患と判明したケースもあるそうです。

またIRUPによって、極めてまれな「ロイス・ディーツ症候群」だとわかり、突然死する危険を未然に予防できた女の子もいるといいます。

東京の19歳の男性は長年けいれん発作などで苦しんできましたが、7年前に報告された100万人に1人ほどの神経の病気「クリスチャンソン症候群」であると判明しました。

ある2人の診断不明の子どもの場合は、ともに遺伝子CDC42に変異があるとわかり、「武内・小崎症候群」という新たな病気として報告されたそうです。

その名前の由来となった、IRUDの小崎健次郎教授は、こう語っています。

病気が分かれば、経過を予想して起こりうる合併症にも対処する道が開ける。長年、何の病気なのか悩み苦しんできた患者と家族の精神的な負担軽減にもつながるはず

 そのほか、臨床遺伝学センターでは、iPS細胞を使った医療について情報提供する「iPSコンサルテーション外来」も開設し、パーキンソン病や筋萎縮性側索硬化症など、いくつかの病気の患者を対象に、国内外の研究の進展を説明する取り組みも行っているようです。

iPSコンサルテーション外来 | 慶應義塾大学医学部 臨床遺伝学センター

 

あなたの病名は本当に正しい病名ですか?

ところで、希少疾患は8000以上存在すると言われています。

希少疾患は特定が難しいので、診断がつかないか、誤って他の病気とみなされて不適切な治療を受けている人が少なくないと思われます。

このブログでは、慢性疲労症候群(CFS)などの病気を扱っていますが、わたしが常々感じていることとして、同じ診断名でも、おそらくかなり多数の別の原因からくる違う病気の人が含まれているように思えます。

ここでは一例として慢性疲労症候群について考えますが、この病気は、近年、客観的な診断補助検査が導入されつつあるものの、基本的には、専門医が症状をチェックし、他の病気を除外して診断する病気です。これは「操作的診断」と呼ばれます。

つまり、たとえ「慢性疲労症候群」と医師から確定診断されたとしても、それは、現在の診断基準に基づき、似ている主な病気を除外しただけであり、除外対象に含まれてはいない疾患はもちろん、8000もの希少疾患の可能性はまったく考慮されていない、ということです。

そもそも医師は、そのような可能性すべてを考慮できる知識も手段ももっていませんし、学会や論文などでよく比較される病気はともかく、それ以外の似た症状を示す病気については、ほとんど知らないこともあります。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、以前の解離性障害の診断基準において、明確な特徴がない場合に診断される「特定不能の解離性障害」というカテゴリに多くの患者が集まってしまい、「ゴミ箱満杯問題」が生じていた、と書かれていました。(p116)

言葉は悪いですが、症状としてはある程度ありふれてはいるものの、最終的に他の病気と特定できないことによる除外診断によって病名がつけられた場合、本来は違う疾患であるのに、一箇所にまとめてしまうような「ゴミ箱」現象が生じかねません。

慢性疲労症候群(CFS)の研究があまり進展しない理由の一つとして、単一の病気ではなく、複数の異なる病気の患者が含まれている可能性もかねてから指摘されています。

もちろん、他の場所で診断名がつかない患者が、確かに病気であると認められ、受け入れられる場所は必要です。

以前に慢性疲労症候群の専門医である、倉恒弘彦先生がメディカル朝日 2012年11月の中でこう述べていたとおりです。

さらに、長らく原因不明の疲労で苦しんでいた患者がようやくCFSという病名にたどり着いた場合も多い。

そのような患者がME診断基準を満たさない場合は再び病名を失うことになり、診療現場での混乱が予想される。(p43)

ここでは、より広い緩やかな診断基準を持つCFSと、より厳密な脳の炎症を重視するME(筋痛性脳脊髄炎)とが比較されています。

この場合、より多くの患者が病名を得られる慢性疲労症候群(CFS)という診断名は、悪く言えばゴミ箱的ですが、良く言えば受け皿としての救済を担っています。

しかし倉恒先生が続けて述べるとおり、CFSという診断名を終着点として考えるのは、望ましくないかもしれません。

なお、抑うつ症状などがなく、MEとしての客観的な診断根拠がみつかった患者についてはCFSという病名から卒業してもらうことは問題ない。

今後、少しでも早く保険診療の中で病因に基づいた診断根拠を明らかにして、病名を変更していくことが望まれる。(p43)

ここで倉恒先生が述べるとおり、慢性疲労症候群という病名は、客観的な診断根拠が見つかれば、「卒業」すべきものなのです。

それがMEであれ、他の病名であれ、「病因に基づいた」正確な診断へと、「病名を変更」していくことが望ましいとされています。

ある意味で、慢性疲労症候群という病名は「確定診断」ではなく、本当の病因が見つかるまでの「暫定診断」としての病名だと考える視点が必要かもしれません。

自分の病名以外にも目を向ける必要があるのはなぜか?

慢性疲労症候群という病名は、確かにこれまで診断が得られなかった患者を救済する重要な役割を果たしています。

しかし、あくまで一時的な受け皿なので、その先にある病因に基づいた病名を意識して初めて有効に機能します。

わたしがしばしば危惧しているのは、原因不明の症状で医療機関を転々としてきた患者が、「慢性疲労症候群」(CFS)と確定診断されたことで、自分は「慢性疲労症候群」という単一の病気なのだ、と思い込み、他の可能性を探さなくなってしまうことです。

実際には、「慢性疲労症候群」と診断されたとしても、先ほどの8000の希少疾患のように、すでに知られている別の病気である可能性は大いに存在しているわけですが、なまじ「慢性疲労症候群」という名前がついたことにより、「慢性疲労症候群」の情報だけに目を向けるようになり、別の病気の情報には疎くなってしまうことがあるかもしれません。

実際、わたしはこのブログで、慢性疲労症候群だけでなく、似た病気や、関連するさまざまな概念を扱っています。しかし、友人も含め、すでに「慢性疲労症候群」と診断されている人の中には、他の病気の情報に興味を持たない人が少なくないように感じています。(そのような人は今書いている この記事も読もうと思わないかもしれませんが…)

そうすると、本当は違う病気であり、治療法が適切でないために治っていないだけなのに、自分は「慢性疲労症候群」という医学的に未解明の難病だから治らないのだと思い込み、いつまでも病気から抜け出せなくなってしまう危険があります。

そうでなくても、たとえば慢性疲労症候群の患者が、線維筋痛症や脳脊髄液減少症、発達障害といった関連する病気の対処法から学べることは多いものです。それなのに自分の病名の情報だけにしか関心を持たないとしたら、新鮮な視点を失ってしまいます。

病名とはいわば住所のようなものです。本来はひとつながりの広い土地を、人間が勝手に、ここは何々市、ここからは何々町と区切ったのが住所です。

当然、住所が違っていても隣町では同じような植物や生き物が見られるでしょうし、遠く離れた無関係に思える町で同じ動植物が見つかり、実は環境が似ているのだとわかることもあります。

同じように、病名というのは研究者が勝手に決めたものであり、もともと人間の示す症状は、そうそう明確に区分できるものではありません。すべて本来はひとつながりの人体の中の出来事です。

病名が違っても、隣り合う関連疾患はもちろん、あるいはまったく無関係に思える病気でさえ、症状の一部、さらにはメカニズムの一部が共通していることは決してまれではありません。

さらに言うと、ある病気であれば、他の病気ではない、というわけではなく、たとえ「慢性疲労症候群」と診断されていても、実際にはいくつかの病気の複合として症状が現れている場合もあります。

すべての症状が一つの診断名のもとに生じている、と考えてしまうと、本当は他の病気として治療できる症状が含まれていても見逃してしまい、少しでも生活の質を改善する機会があるのに、それをむさむざ見逃してしまうことになりかねません。

当事者ができるのは広い視野を持つこと

専門医はたいてい、自分の専門分野の病気を「狭く深く」調査し、海外の最新の論文なども読み込んでいるものです。そうすることで、深い専門知識を得られます。それはわたしたち患者にとって大いに役立ちます。

それに対して、患者ができることがあるとすれば、自分の病気以外の分野にも「浅く広く」目を向けることです。そうすれば、「狭く深く」に特化している専門医が気づかない視点を補うことができます。

実のところ、専門医は意外なほど自分の専門分野の外のことを知らないので、その部分に盲点が存在することがあります。

しかし自分の病名にこだわるあまり、他の病気には関心を持たない「狭い」視点になってしまうと、「狭い」という点では専門医と同じですが、専門医ほど「深く」調べることは絶対にできないので、「狭く浅い」視点になってしまいます。

それでは、専門医が示す病名や治療法以外の別の可能性を探るのは不可能でしょう。

患者に必要なのは、自分の病気の最新の研究を調べて、専門医の後追いをすることではありません。それは専門医から教えてもらえばいいだけです。そのために専門医がいるのです。

それよりも必要なのは、専門医が見逃している、別の分野の過去の研究に目を向けることです。求めている答えは、まだ見ぬ未来の「未解明の研究」ではなく、過去の「無関係の研究」に埋もれている可能性が十分にあります。

それは研究者ではなく、当事者にしかできないことです。

研究者は、ある病気を専門としているので、同じ病名のサンプルを集めて研究しますが、自分がその病気になったわけではないので、客観的に調査していくことしかできません。

しかし患者は自分の体の専門家であり、症状を身を持って体感することができます。そうすると、病名に頼らずとも、現実の症状を手がかりにして、過去の研究を結び合わせることができます。

実際に、医師が長年調査しても決してわからなかったことが、近年の「当事者研究」によって明らかになっています。それが可能なのは、病名を手がかりに「狭く深く」調べる専門家と、個人的経験を手がかりに「広く浅く」調べる当事者との間に、視点の違いが生じているからです。

現代社会では、さまざまな分野の研究が玉石混交しているため、まだまったく明らかになっていない未知の情報よりも、すでに明らかになっているのに関係性に気づかれていない既知の情報のほうがはるかに多いでしょう。

本当の病名を知るメリットとは?

ここでは、慢性疲労症候群(CFS)を例として挙げましたが、他の病気、たとえばうつ病であれ、双極性障害、統合失調症、起立性調節障害、化学物質過敏症、発達障害、その他の多くの病名でも同様です。

これらの病気は、おもに症状と診断基準を突き合わせ、医師の主観的判断によって診断される病気、つまり「操作的診断基準」に基づく病名なので、一見それらしく思えても、別の病気である、という可能性は除ききれないのです。

一方で、操作的診断でない、具体的な検査によって見つかる特徴(「バイオマーカー」と呼ばれる)に基づいて診断される病気だとしても、その特徴が他の病気でも絶対に見られないと、厳密に確かめられたわけではありません。

つまり、何らかの病名で確定診断されたとしても、治療によって全然良くならないとしたら、難治性だから治療に反応しない、という可能性だけでなく、そもそも実は別の病気だから治療が効かない、という可能性も考えてみる必要があるということです。

実際には、遺伝子検査でしかわからないような極めてまれな希少疾患の可能性もあれば、わりと広く知られているのに見逃されている他の病気である可能性もあるでしょう。

もちろん、今回紹介しているIRUDのような取り組みによって、本当の病名がわかったとしても、治療法が見つかるとは限りません。希少疾患は、治療法が見つかっていないことも多いからです。

しかし、本当の病名がわかれば、自分の症状についてより正確に理解できるので、対策を取りやすくなりますし、本当の意味で、同じ病気を持つ人たちと出会うこともできます。

同じ病名でありながら実は毛色の異なる、種類も異なる人が大勢集まっている場所ではなく、少数ではあっても、自分とまったく同じ症状を抱え、悩んできた人たちと手を取り合うことができるかもしれません。

そして、そのようにして、本当の病名でつながった人が増えていけば、本当に効果のある治療法の開発にもつながるでしょう。

今回の毎日新聞の記事でも、国立成育医療研究センター研究所の松原洋一所長(こどもの病気 遺伝について聞かれたらの著者)が次のように述べていました。

「希少疾患の研究は『福祉事業』で、糖尿病など発生頻度が高い病気には役に立たないというとらえ方はすでに時代遅れだ」。

「希少疾患の研究が進めば、これまで発想できなかった新しい治療薬の開発につながる可能性が大きい。日本はその流れに乗り遅れており、国は企業の育成や体制作りを急ぐべきだ」

例として、ごくまれな先天性の代謝異常で起こる「ゴーシェ病」の研究が、他の病気に応用できたケースが挙げられています。

多種多様な病気の人が一つの診断名のもとに集まってしまっていると、慢性疲労症候群のように研究が進みにくくなりますが、少数でも、希少疾患が特定された患者だけが集まっていれば、原因遺伝子の特定や、治療法の開発がスムーズになるはずです。

従来、患者数の少ない希少疾患は、利益にならないために研究も進みにくい事情がありましたが、現在では、希少疾患の研究から他の病気に応用できる薬が開発できることがわかり、徐々に大手製薬会社も力を入れているとのことです。

今回取り上げたIRUPのような取り組みは、日本ではまだ始まったばかりですが、こうした網羅的な解析を通して、本当の病名が特定され、おのおのの治療法の研究が進んでほしいと思います。

現在のところ、小児期発症の症状が特に重い未診断疾患の患者を対象にしているようなので、子どものころから原因不明の重い体調不良が存在している人は、かかりつけ医にIRUPのことを相談してみると良いかもしれません。

プロジェクトの拠点は東京ですが、医療関係の方へ | 慶應義塾大学医学部 臨床遺伝学センター を見ると、東京まで行くのが難しい場合、以下の連携施設を通じて参加できる可能性があるようです。(この記事執筆時点での情報です)

東京都立小児総合医療センター 臨床遺伝科
神奈川県立こども医療センター 遺伝科
筑波大学附属病院 小児科
富山大学附属病院 小児総合内科
川崎市立川崎病院 小児科
済生会宇都宮病院 小児科
足利赤十字病院 小児科
愛知県心身障害者コロニー中央病院 小児内科
大阪府立母子保健総合医療センター 遺伝診療科

今後は、成人の未診断疾患への対応も念頭に置いているということですから、成人の原因不明の重い疾患を抱えている人たちは、引き続きIRUPの情報に注目しておくと、いずれ機会が生じるかもしれません。

取り組みとしてはまだ始まったばかりであり、今のところは研究費の範囲内で、重篤の患者のみを対象に検査がなされているようなので、今後、もっと多くの人を対象にした取り組みへと発展していくことを期待したいと思います。

どうすれば わかりやすい文章を書けるのか? 意味不明になる5つの原因とその解決策

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かりやすく読みやすい文章を書く。

それは、もの書きにとって永遠の課題です。わたし自身、そのことでいつも悩んでいますし、まだまだ努力不足だと感じています。

特に、わたしたちは誰でも、扱う話題が専門的になるにつれ、意味がわからない文章を書いてしまいがちな傾向を持っています。

行動経済学者ダン・アリエリーの本、アリエリー教授の人生相談室──行動経済学で解決する100の不合理の中には、読者から寄せられたこんな質問が紹介されています。

親愛なるダンへ

この間ある有名な学者の講義を聞いたんですが、彼が専門分野のごく基本的な概念さえうまく伝えられないことに驚き、不思議に思いました。

あんなに高名な専門家が、あそこまで下手な説明しかできなくていいんですか?

それが学者の条件とでもいうんでしょうか?

レイチェルより

きっとだれでも、この女性と同じような経験をしたことがあるでしょう。

わたしはよく、心理学や精神医学関係のウェブサイトや本を読みますが、とても深い知識があることはわかるのに、正直いって意味が全然頭に入ってこない文章をしばしば見かけます。

そのたびに感じるのは、わたしが書いている文章も、読者にそのように思われているのだろうか、という危機感です。実際、読んだ人から、「わかりにくい」という感想を、じかに聞くことも時々あります。

わたしの場合もそうですが、できるかぎり わかりやすく書きたいと思っているものの、自分では わかりにくさに気づかない。それが、もの書きにとって最大の問題なのです。

この記事では、そうした自分への自戒の気持ちも込めて、わかりやすい文章を書くにはどうすればいいかを考えてみたいと思います。

わかりにくい文章になってしまう5つの原因

まず知る必要があるのは、わかりにくい文章を書いてしまう「原因」です。

原因をはっきり知らなければ、対策することはできません。

そもそも世の中に、わかりにくい文章を書く人が多いのは、冒頭で書いたとおり、わかりにくい文章を書いていることに、「自分では気づかない」からです。

自分に問題があることにさえ気づいていないなら、どうして問題に対処できるでしょうか。自分が健康だと思っている人が医師のアドバイスを求めることがあるでしょうか。

それで、わかりやすい文章を書く方法について考える前に、どんな原因のせいで、気づかないうちに文章がわかりにくくなってしまうのか、という点を考えてみるのは賢明です。

ここでは、文章が知らず知らずのうちに、わかりにくくなってしまう多種多様な原因のうち、5つをピックアップしてみましょう。

1.知識の呪縛―知っているからわからない

冒頭で引用したレイチェルという女性の質問は、「専門家のくせに説明が意味不明」なのはなぜか、というものでした。

この女性は、専門家の講義を聞いたときにそう思ったわけですが、同じことが専門家の書く文章にも言えるでしょう。

わたしたちは普通、よく知っている物事のほうが、うまく説明できるものです。だからこそ、自分がよく知らない分野については、よく知っている人に尋ねるのが手っ取り早いと判断します。

たとえば、福祉制度が複雑すぎてよくわからないときは、役所の福祉担当の窓口に行きますし、法律については弁護士に相談します。あまりに難しいことは、知識がある専門家に説明してもらわないと理解しにくい、と思っているからです。

この女性もそのように思っていたはずです。だからこそ、専門家が「専門分野のごく基本的な概念さえうまく伝えられないことに驚き、不思議に」思ったのです。

しかし、このような例は、それほど珍しくありません。専門的すぎて、何を言っているかわからない専門家は大勢います。普通の人が、科学者の研究論文を読んで、わかりやすい、と思うことなどそうそうないでしょう。

実を言えば、専門的になればなるほど、わかりにくい文章は増える傾向があって、先ほどの女性の質問に答えたアリエリーは、これを「知識の呪縛」と呼んでいます。

私たちは何か(選んだ曲など)をよく知っていると、その知識をもたない状態を想定しにくくなるんだ。これを「知識の呪縛」という。(p49)

アリエリーはこんな例を挙げています。

数人の学生に好きな曲を選んでもらい、メロディは声に出さず、そのリズムだけを、机を叩いて伝えてほしいと言います。たとえばタータラタ、タータラタ、タータタタラタータタラ、という具合にです。

これで相手になんの曲か当ててもらいます。さて、さっきのタータラタ…は何のメロディでしょう?

きっと、何のメロディか、わかった人なんてまずいないでしょう。当然そんなことは無理です。

ところがリズムを叩いた学生たちのほうは、聞いた人の半数くらいは当ててくれる、と予想していたのです。

アリエリーが述べるとおり、自分が知っていることを説明するとき、それを知らない人の心の状態は思い浮かべにくくなるのです。

ちなみにさっきのメロディは、有名なぞうさんの歌のつもりでした。誰もわかりません。

これは専門家になると特に顕著です。なまじ専門分野をよく知りすぎているからこそ、知らない人の感じ方を想像できません。

これはしばしば、スポーツの世界で、優れた能力で活躍したトップアスリートが、引退後に良い指導者になりにくいのと似ています。

あまりに熟達してしまうと、初心者の悩みや感じ方が想像できなくなってしまうのです。

2.方言―日常の言葉がそもそも違う

こうして「知識の呪縛」にからめとられた人は、別の問題にも直面します。

それは、専門用語を使いすぎることです。

科学者にせよ、哲学者にせよ、あるいは何かのマニアにしても、普通の人には理解できない専門用語、あるいは業界用語を並べ立てる人は大勢います。

なぜ、あえて難しい言葉、わかりにくい言葉をそんなに多用するのでしょうか。

ひとつには、最初の項目で考えたように、専門用語を知らない人の気持ちを想像しにくいという理由があるのでしょう。

さらに突き詰めれば、住んでいる世界が違うせいでもあります。

彼らが用いる専門用語は、一般人にとってはなじみのない言葉かもしれませんが、学者やマニアにとっては日常用語です。

ふだん同じような知識をもった人たちと付き合っていて、そうした言葉が日常的に飛び交うコミュニティに属しているせいで、専門用語が当たり前になってしまい、外の世界にいる人たちが、普段どんな言葉を使っているのかがわからないのです。

それはいわば、孤立した狭い集落で暮らしている人たちのようなものです。独特の方言が発達してしまい、外から来た人たちには理解しにくい言葉がたくさん生まれるでしょう。

まわりの世界から隔絶されてしまった特定の業界や、宗教グループ、マニアックなオタク世界、さらにはネット社会などの狭いコミュニティにどっぷり浸かれば浸かるほど、世の中の大多数の人たちが普段使わない専門用語を、当たり前のものとみなしてしまうようになります。

そうした狭い地域でのみ使われる言葉は、文字通りの方言のように、仲間意識を強め、団結を強めるには役立つことでしょう。しかし外部の人にとっては、外国語や暗号のようにしか聞こえません。

3.知性化―賢い人と見られたい

やたらと専門用語や業界用語を用いることは、単にそれを知らない人の気持ちを想像できないとか、仲間内でのやりとりが日常になっていることだけによるものではありません。

たとえ、専門用語が日常的になっている場合でも、初心者に説明する際には、わかりやすい言葉を用いて丁寧に説明してくれる専門家も大勢います。

そうした思いやりのある人は、あたかも孤立した村に、外から観光にやってきた人をもてなして、地元のなじみのない習慣について優しく説明してくれる親切な村人のようなものです。

ところが、そうした村には、外からやってきた人を「よそ者」とみなして、頭ごなしに拒絶する村人もいるかもしれません。

この場合、問題となっているのは、外部の世界の人を見下して、自分たちのほうが上だ、と考える誇り高ぶった気持ちでしょう。

実のところ、専門用語や業界用語を並べ立てる人の中には、自分を相手より賢く見せたいがために、好んで難しい言葉を使う人も少なくないのです。相手が知らない難しい事柄を知っている、という優越感に浸れるからです。

最近知ったのですが、そのような傾向は、心理学では「知性化」と呼ばれているそうです。

防衛機制-知性化

 

「知性化」とは、自分の心を守る働き、つまり防衛機制のひとつだとされています。人から見下されたくない、むしろ賢くみられたい、という気持ちから、相手より上の立場にあることを示そうとして、相手が知らない言葉をあえて使うのです。

先ほどの孤立した村のたとえに当てはめると、外から来た人に おびやかされるという恐れのあまり、自分の身を守ろうとして高圧的な態度に出るのでしょう。一種の自己防衛なのです。

ところが、皮肉にも、心理学の研究によると、難しい言葉を多用すると、賢くみられるどころか、正反対の結果になってしまうことがわかっています。

行動経済学者ダニエル・カーネマンによるファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)には、こんな興味深い研究が載せられています。

自分を信頼できる知的な人物だと考えてもらいたいなら、簡単な言葉で間に合うときに難解な言葉を使ってはいけない。

学生の間には、教授に印象づけるには難解な語彙を使ったほうがいいという通説が流布しているが、プリンストンの同僚ダニエル・オッペンハイマーはこれに異議を唱え、「必要性とは無関係に衒学的な専門用語を使用することの影響すなわち無用に長い単語を使うことの弊害」と題する論文を書いた。

この論文でオッペンハイマーは、ありふれた考えをもったいぶった言葉で表現すると、知性が乏しく信憑性が低いとみなされることを示した。(p95)

お気づきのとおり、ここで紹介されている長ったらしく意味不明な論文のタイトルは、皮肉の意味をこめたものです。

必要もないのに難しい言葉を多用するなら、結局、知性が乏しく信ぴょう性もない、つまりハッタリだとみなされやすいのです。

ある意味で、「弱い犬ほどよく吠える」ということわざがこの場合にも当てはまります。自分を守ろうとして難しい言葉を振りかざす人は、心にひそむ劣等感のせいで高圧的になっていることを、鋭い相手には見透かされてしまいます。

「知性化」に頼る人は、知性的だとみなされたいと思って難解な言葉を使うわけですが、本当に知性的だとみなされるのは、難しい内容を、だれでもわかる簡単な言葉で説明できる人のほうなのです。

4.認知容易性―ただ単に読みにくい

「知性化」に頼って、難解な言葉を多用する人が、かえって頭が悪いとみなされやすい理由は他にもあります。

簡単にいえば、そうした人の書いた文章を読んでいると頭が痛くなってきて、ばかばかしくなるからです。当然、ばかにされるのは、その文章を書いた人です。

心理学では、このような特徴が「認知容易性」と呼ばれています。もったいぶった言葉ですが、単に認知しやすいかどうか、つまり「わかりやすさ」のことを難しく表現した専門用語です。

認知容易性は、感情とも直結していて、わたしたちは認知しやすいもの、つまりわかりやすいものに良い印象を持ちやすく、認知しにくいもの、つまりわかりにくいものには悪い印象を持ちやすいことがわかっています。

認知しにくいと、内容に関わらず、バカバカしく感じたり、嫌になったり、嫌いになったりします。

ダニエル・カーネマンは、「認知容易性」についてこう書いています。

機嫌のいいときな話を聞いたり、鉛筆を横向きにくわえて「笑顔」をつくって聞いたりするだけでも、認知は容易になる。

逆に、見にくい活字やかすれた印刷の説明書あるいは難解な用語を使った文章を読んだり、機嫌が悪いとき、しかめ面をつくったときに読んだりすれば、認知負担を感じる。(p89-90)

あなたの文章を読む人は、努力を要するものはできるだけ避けたいと考えているのだ―引用されたややこしい名前も含めて。(p96)

正直なところ、この「認知容易性」について考えると、わたしは自分の文章のことを考えて耳が痛くなります。

ここに書かれているとおり、わたしたちは、だれでも、楽なほうを好みます。わかりにくくて面倒くさいものが好きな人などいません。

シンプルでわかりやすいものは好印象をもたれやすく、複雑でわかりにくいものは悪感情を抱かれやすいものです。

わかりにくいものとは、言い換えれば、認知に負担がかかるもの、つまり脳を酷使して疲れさせ、眠くさせ、飽きさせるものすべてです。

最新の疲労の研究について書かれたすべての疲労は脳が原因 (集英社新書 829I)によると、この「飽きる・疲れる・眠くなる」は脳の疲れの三大サインだそうです。(p30)

脳の疲れの正体は、脳の神経が錆びついて損傷している状態のことなので、「飽きる・疲れる・眠くなる」は、いわば体にダメージが迫っていることを示す危険信号です。

すると、生き物としては当たり前のことですが、体に危機をもたらすものを嫌い、避けようとします。だからこそ、わかりにくい文章は、否定的な感情を抱かれやすいといえます。

こうした認知的にわかりにくい文章には、二つの要素が関係しています。一つは内容のわかりにくさ、もう一つは見た目のわかりにくさです。

一つ目の内容のわかりにくさとは、ここまで考えたような専門用語を多用した難しい文章はもちろん、説明的でイメージしにくい抽象的な文章も当てはまります。

ダニエル・カーネマンが述べていたとおり、出典元の名前が難しい場合でさえ、読む人は面倒くさくなって認知の負担を感じてしまうのです。

やたらと長ったらしく、まとまりに欠けた文章もそうです。長すぎて読む前に面倒くさくなります。

わたしは、どんどん文章が長くなる傾向があるので、この点を考えるとため息が出るばかりです。

できればシンプルにまとめたいのですが、科学者ブレーズ・パスカルが書いたとされる次の言い訳を引用させてください。

この手紙がいつもより長くなってしま ったのはもっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。

本当のことを言えば、わたしが長い文章を書くのは盗作対策なのですが、それはひとまず置いておいて。

他方、二つ目の見た目のわかりにくさとは何でしょうか。

たとえば、行間が空いていない、ぎっしりつまった文字や、見慣れない漢字をわざわざ用いた文章は、見た目そのもので嫌気が差します。

さらに、やたらと紙面と文字の明るさのコントラストが強くギラギラしていたり、あるいはその逆で、読み取りが難しいほどコントラストに乏しい紙面なども、どんなに文章がわかりやすくても、見た目のせいで読みにくくなって感じてしまうでしょう。

「わかりにくい」には、単に意味がわかりにくいことだけでなく、そもそも視覚的に「見にくい」ことも含まれているのです。

なぜなら、「見にくい」は「醜い」につながり、不快感を引き起こすからです。

5.支離滅裂―読むまでもない

最後に、わざわざ原因として挙げるまでもないようなことですが、専門用語を使いすぎているとか、認知容易性が低いとかいったこと以前に、根本的な問題として、文章そのものが支離滅裂だったら、どうしようもありません。

カーネマンもこう書いています。

以上は文章を書くうえでのよいアドバイスと信じているが、ここで浮かれてはいけない。

高級紙に明るい色で印刷し、韻を踏んだり簡単な言葉を選んだりしても、あなたの文章がまったく支離滅裂だったり、誰もが知っている事実に反していたりしたら、どうにもならない。(p96)

文章の基本的な文法そのものが支離滅裂だったり、そこで書かれている内容があまりに妄想的だったりしたら、いくら簡単な言葉や、見やすい文体で書かれていたとしても、どうにもなりません。

そして、最悪なのは、専門用語を多用し、知性をひけらかそうという思いが透けて見え、文字がぎっしりつまって見にくく、なおかつ文法がおかしく主張も意味不明な文章です。

それこそ、わたしが冒頭で述べたような、意味がまったく頭に入ってこない文章の最たるものです。

個人的な実感として、そのような文章は、特に哲学やスピリチュアルの分野で見られやすいように思います。

哲学的な文章は、だれにでも理解しやすい形に噛み砕いてはじめて、妄想ではなく、啓発になると思います。読んだ人がほとんど理解できないなら、それは壁や空気に向かって話しているようなものだからです。

こままで、文章が知らず知らずのうちに難しくなってしまう5つの理由を考えました。

1.知識の呪縛―知っているからこそわからない

2.方言―日常の言葉がそもそも違う

3.知性化―賢い人と見られたい

4.認知容易性―ただ単に読みにくい

5.支離滅裂―読むまでもない

では、これらの問題を克服して、読みやすい文章を書くにはどうすればいいのでしょうか。

わかりやすい文章を書く5つの秘訣

ここまでの、長くて少々認知に負担がかかる文章についてきてくださった方であれば、読みやすい文章を書くにはどうすればいいか、だいたいの見当はついていると思います。

読みやすい文章を書く秘訣とは、ここまで挙げた、 文章が読みにくくなる原因を裏返したものです。

こちらも5つのポイントに分けて、それぞれに役立つ方法を考えてみたいと思います。

1.読み手の気持ちを考える

わかりにくい文章を書いてしまう原因の一つは、自分が知っていることは相手も知っていると思い込んでしまうことでした。

ですから、まず最初は、「知識の呪縛」を解く、つまり、自分がすでに知っていることを、まだ知らない人の気持ちを考えながら書くことが大切です。

■初心者の読み手を想定して書く
読み手の気持ちを考える方法の一つは、過去の自分を思い出すことです。

元をたどれば、あなたも昔は知識がなかったはずです。今は詳しい物事でも、かつては、まったくの初心者でした。

そのころの記憶はすっかり薄れているかもしれませんが、記憶の糸をたぐり寄せ、これから書こうとしていることをまったく知らない過去の状態に身を置いてみてください。

今用いたその単語は、10年前のあなたが知っていたものですか。あなたが理解するのに数年かかった過程を省略して書いていませんか。

あらゆることに逐一詳しい説明をつけてしまうと、それはそれで回りくどくなってしまいます。難しい言葉を辞典のように定義して説明する必要はありませんし、自分が理解に至った過程をすべてそのままたどる必要はありません。

そうではなく、今のあなただからできる、わかりやすい言い換えやシンプルな説明があるはずです。

知らないところに行くとき、最初はものすごく道に迷って時間がかかるかもしれません、でも、慣れてくると、ショートカットのルートや、わかりやすい目印に気づくものでしょう。

では、そこへ行ったことのないだれかに、道を説明するとき、あなたは目的地だけを伝えますか。それとも迷った道のりを全部を伝えますか。

いいえ、今の自分だからこそわかる、わかりやすい目印やシンプルなルートを、簡潔な説明で教えてあげるでしょう。

わたしはよく「脳の可塑性」という言葉を使います。しかしこれは多くの人にとって耳慣れない言葉ですし、そもそも読み方すらわからない人もいるでしょう。

それで、わたしは「可塑性」について扱うたびに、可塑(かそ)とは粘土のように柔らかいことを表す言葉で、脳には大人になっても柔軟性がある、という意味だと説明を付け加えます。

長々と定義を説明する必要はなく、たった一文、二文シンプルな説明を加えるだけで、ぐっとわかりやすくなります。

初心者の気持ちを想定して書くとはそういうことです。

■時間を置いて読み返す
初心者の気持ちになって考えるには、いったん視点を変える必要があります。

しかし、書いた直後は、気持ちが入り込んでしまい、自分の書いた文章を別の角度から見ることができず、わかりにくいところがあっても、違和感を感じにくいかもしれません。

それは、心理学でいうところの「順応」という現象が起こっているからです。

順応を解除するには、ひと休みしてから読み返すか、できれば数日くらい寝かせて読み返してみるのがよいでしょう。時間を置いてクールダウンすることで、わかりにくい部分に気づきやすくなります。

興味深いことに「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86という本によると、モネのような印象派の画家たちは、一心不乱に描き続けるのではなく、ときどき休憩してクールダウンするようにしていたそうです。

彼らは5分間休憩の間、彼らが黒い鏡と呼んだ黒曜石製の鏡を見つめる習慣を身に着けた。

…黒曜石を見つめて休んだ後は、やる気を取り戻し、新鮮な気分で制作に励んだ。目は休憩前より冴え、指の感触はより繊細に感じられた。(p165)

印象派の絵は、光り輝く明るい表現が特徴でしたから、ときどき黒い鏡を見つめることで目を安め、神経を休ませる必要がありました。

そうすることで、没頭しすぎていた気持ちが切り替わり、新鮮な視点で自分の作品を評価できるようになりました。

文章の場合も、書くのに没頭しすぎたら、ときどきクールダウンの時間をとって思いを切り替え、新鮮な視点を取り戻す必要があります。

■読んでくれた人の反応を観察する
初心者の気持ちを想定して書くのは大切なことですが、問題となるのは、初心者の気持ちがわからなくなってしまうことです。だからこそ、わかりやすく書いているつもりがわかりにくい、という落とし穴が生じます。

そんなとき、自分の文章を読む相手がどう感じるかを知るにはどうすればいいのでしょうか。

だれか他の人に文章を読んでもらって感想を聞けばよい、と思う人がいるかもしれませんが、それには落とし穴もあります。

いつも家族や友人など、身近にいる人に意見を聞いていると、その人たちもあなたの文章や、あなたが書く分野の知識に次第に慣れてくるでしょう。すると、結局、知らない人の気持ちがわからなくなってしまうのです。

それで、他の人の意見を聞くとしたら、あなたが書く分野の知識に疎い人たちの反応に注目しましょう。その人たちが、あなたの文章を読むときの様子をよく観察します。

じつは、これと同じことを、ゲーム会社の任天堂のトップクリエイター、マリオの生みの親である宮本茂さんが行なっている、ということを知りました。

こちらの記事では、それが、「肩越しの視線」と表現されています。

HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN - 1101.com

岩田 その時代から、宮本さんは
なんにも知らない人をつかまえてきて、
ポンとコントローラー渡すんですよ。
で、「さあ、やってみ」って言ってね、
なんにも言わないで後ろから見てるんですよ。
わたしは、それを
「宮本さんの肩越しの視線」と呼んでたんですけど。

普段からゲームをやっている人ではなく、ゲームをやらない人に試作品を遊んでもらって、その反応を肩越しに見て、初心者はこんなところに引っかかってしまうのか、ということを観察するそうです。

そうやって、自分がすでに知っていることをまだ知らない人の反応を観察しているからこそ、マリオシリーズは、世界中で子どもから大人まで楽しるゲームとして知られているのでしょう。

文章を書く人も、読んでくれる人の反応を肩越しに観察したり、SNSでの反応にときどき目を通してみたりすれば、自分では見逃していた盲点に気づけるかもしれません。

2.狭い世界に入り浸らない

文章がわかりにくくなってしまう別の原因は、狭いコミュニティに入り浸ってしまうことでした。

限られた交友関係の中だけで活動していると、自分と同じ興味、同じ知識を持つ人たちとだけ親しくなってしまうので、ちょうど孤立した集落に住む人たちのように、世間と認識がずれてしまいます。

世の中では馴染みのない言葉を、自分たちだけの日常用語として当たり前のように使うようになり、それを知らない外部の人に対しても、当たり前のように多用してしまうでしょう。

たとえば医学の検査の「感度」「特異度」といった言葉は、医学関係者のコミュニティでは日常用語かもしれません。しかし一般の人には意味がわかりません。

「感度」とは病気でない人を除外できる確率で、「特異度」とは病気の人を正しく診断できる確率ですが、そう説明されてもなお、わかりにくく感じるかもしれません。専門用語とはそれほどまで敷居が高いのです。

これはもちろん、どこかの集団に属すべきではない、という意味ではありません。そうではなく、たとえ狭いコミュニティに所属するとしても、外とのつながりを持って、間口を開いておくべきである、ということです。

集落のたとえ話に出てきた、外から来た人を親切にもてなして、なじみのないことを説明してあげた村人を思い出してください。

自分と違う背景、年齢、人種を持つ人たちに対して、普段から偏見なく接して、多様な価値観に触れておくなら、さまざまな人の考え方を想像しやすくなるでしょう。

試しにあなたのかかりつけのお医者さんに、「感度」「特異度」とは何か尋ねてみるのはどうでしょうか。もし、本当にわかりやすく噛み砕いて説明してくれるとしたら、そのお医者さんは、さまざまな立場の人に対して、心の窓を普段から開放している人です。

意識的に心の窓を開けて空気を入れ替えなければ、新鮮な考えは入ってこないのです。

3.簡単な言葉で説明する

専門用語や業界用語を使ってしまうほかの理由は、自分を賢く見せたいという「知性化」にありました。

しかし、ここまで説明したとおり、難しい言葉を用いるなら、思惑とは裏腹に、かえって頭の悪い人とみなされがちです。

難しい言葉を羅列するなら、冒頭で引用したレイチェルが感じたように、「専門分野のごく基本的な概念さえうまく伝えられない」という印象を相手に伝えてしまうからです。

では、専門用語は使わないほうがよいのでしょうか。

そうではありません。専門用語は、必要があって創りだされたものであり、新しい言葉を作らないと表現しにくい物事を伝えるために考案されたものです。

専門用語はあたかも未踏の地を進むために設けられた道しるべのようなものです。熟練した登山家が、険しい山道において、進むルートを見分けるために立てる旗のような役割を果たしています。

もし専門的な用語をすべて用いないとすれば、はっきりと目立つポイントがなくなってしまうので、あたかも霧がかかった山道のような、掴みどころのない文章になってしまうでしょう。

それに、専門用語を多用すると頭が悪く見られるとはいえ、逆に専門用語をまったく使わないとすれば、あなたが何かについて詳しく知っているということが伝わらず、自分の空想で話しているかのような印象を与えるかもしれません。

専門用語は、専門家が考えだしたものですから、しっかりした権威に根ざしており、研究に基づいているということを証拠づけるものとなります。チェックポイントの道しるべを知っていることは、あなたが実際に険しい山道を登ってきた証拠になります。

それで、一番大切なことは、専門用語を使わないことではなく、専門用語ばかり並べ立てて羅列しないことです。

適度な数の専門用語を用いて、ポイントををしぼり、ひとつひとつを丁寧に説明するなら権威が感じられると同時にわかりやすい、メリハリの利いた文章になるでしょう。

そうすれば、先ほどのレイチェルの感想とは反対に、「専門的で、なおかつその内容を一般の人にもわかりやすく説明できる」人とみなされるるはずです。

この記事でも、「知性化」や「認知容易性」などの、いくつか専門用語を用いましたが、たくさん用いすぎることなく数をしぼり、じっくり説明してきました。

4.内容を具体的にする

わかりにくい文章になってしまう他の原因は、「認知容易性」が低い、つまり、文字どおりわかりにくいことでした。

わかりにくさには内容のわかりにくさと、見た目のわかりにくさ(見にくさ)がありました。

そのうちまず、内容のわかりにくさを改善するにはどうすればいいのでしょうか。たとえば、以下のような提案が役立つでしょう。

■具体的な例を用いる
たとえばこの記事では、幾つかの本から具体例を挙げています。

冒頭ではアリエリー先生の本から、専門家の講演がわかりにくいと感じた人の例を引き合いに出ました。先ほどゲームクリエイターの宮本茂さんのテクニックも紹介しました。

単につかみどころのない抽象的な説明をするのではなく、現実の具体例をいろいろと引っ張ってくるなら、内容が一気にわかりやすくなります。

本当はわたしが嫌気がさした、わかりにくい文章の具体例も直接引用したかったのですが、さすがにそれは著者からクレームをつけられそうなのでやめておきます。

■たとえ話を使う
この記事では、孤立した集落の人の話や、道しるべの話など、いくつかの身近なたとえ話を織り交ぜています。こうしたたとえ話もまた、説明を生き生きとしたイメージに置き換え、わかりやすくするのに役立ちます。

ただし、たとえ話はあくまでメインディッシュに対する副菜、カレーの福神漬のようなものなので、たとえ話そのものに説明が必要だったり、内容が身近なものでなかったりすると、むしろ話をややこしくしてしまう危険があります。

たとえば、ウェルウィッチア・ミラビリスという植物は、逆境にある人や少数派の人の苦労やしたたかさを説明するのに役立ちそうな性質を持っています。

しかしこれをたとえ話にしてしまうと、まずウェルウィッチア・ミラビリスというわかりにくい名前の植物とは何か、というところから説明しなければならないので、論点がぼやけてしまいます。

また、たとえ話というのは、文字でイメージをふくらませる手段ですが、もしの写真や図、挿絵などのイメージそのものを使えるなら、それらを文章に添えることで一気にわかりやすくなります。

ただし、イメージ画像は、著作権がありますから、フリーの写真素材や、自分で撮った写真などを用いる必要があります。くれぐれもネットで拾った画像を使ってはいけません。

■会話的な表現を使う
わたしたちが読みにくく感じる文章の代表例として、学者の書いた論文を抜きにして語ることはできません。論文が読みにくいのはなぜでしょうか。

専門用語が多いことはもちろんその原因のひとつですが、それだけではありません。

きっと論文と聞いて思い浮かべるのは、感情がこもらない、冷たく淡々とした文章でしょう。説明的で感情に乏しい文章は、読み手にとって自然でなく、違和感を感じやすいものです。

わたしたちは普段だれかと会話するとき、一方的に知っていることをまくしたてたりはしません。もしだれかがつらつらと自分のことばかり話し続けるなら、嫌気がさして、もうその人とは会いたくなくなるでしょう。

会話とは自分の意見を伝えつつも、相手の気持ちにも耳を傾けるキャッチボールです。それは文章でも同じです。

文章では、相手の意見を直接聞くことはできませんが、「~でしょうか?」「~と思いますか?」といった疑問文を投げかけるなら、読み手はボールを受け取って、自分の気持ちを投げ返す機会を持つことができます。

また、「わたし」や「あなた」といった言葉を使うことで、普段の会話のようなコミュニケーションが生まれます。

この記事でも、たびたび質問形式の文章や、読者への呼びかけが挟まれていたことに、きっとあなたもお気づきでしょう。

5.見やすくする

「認知容易性」、つまり、文章のわかりすさのもう一つの側面は、視覚的な見やすさでした。

どんなに良い内容が書いてあっても、見やすくない本は本棚にそっともどされ、読みにくいウェブページは「戻る」をクリックされてしまいます。

見やすさを改善するには、たとえば、以下のような点を試してみるとよいかもしれません。

■文字と背景の色のコントラストを適度に整える
見やすい文章に、まず大切なのは、文字や背景の「色」です。

多くの人は、「文字の色は黒、背景の色は白」だと当たり前のように思っているかもしれませんが、実際にはそうではありません。

わたしたちが普段読んでいる紙の書籍では、文字は完全な黒ほど濃くはありませんし、紙の色も真っ白ではありません。

もし、文字が完全な黒、紙面が完全な白だと、コントラストがきつくてギラギラして読みにくく、読んでいるうちに目が疲れてしまうでしょう。

あまりに真っ白な高級紙に文章を書くとかえって読みにくくなりますし、ブログなどのウェブ上の文章の場合も、背景色と文字色を調節するのが最善です。

このブログの文字は、実は黒ではなく濃い目のグレーで、背景の色はわずかにクリーム色がかかった白です。

■文字色を多くしすぎない
読みにくい文章にしばしば見られるのが、強調するために、さまざまな文字色を用いている点です。

色分けすると一見わかりやすいように思えますが、色の種類が多すぎるとかえって混乱を招きます。色の統一感がないと安っぽい印象を与えるかもしれません。

強調のために文字色を変える場合でも、用いる色は多くとも2色くらいがいいでしょう。

あるいは、文字色によって強調する変わりに、太字を用いて強調する方法もあります。

■文字の圧迫感を軽減する
この段落のように、文字がぎっしりつまっていて、改行されていないと、ぱっと見ただけで文字に圧倒され、こんな文字だらけのものは読みたくない、という不快感を生じさせてしまいます。紙媒体の文章の場合は、改行や見出しを適度にはさんで区切ることで、読みやすくなりますし、デジタルデバイス上で読む文章の場合は、行間も数行ごとに開けると、文字だらけ、という圧迫感が軽減されるでしょう。

ひとつの文を長くしすぎず、適度なところで区切るのも大切です。

「~ですが、~です」といった文章は、長くなりすぎるようなら、「~です。しかし~です」といった二つの文にわけたほうが読みやすくなります。

また、読者になじみのない漢字は、できるかぎり使用せず、可能な場合はひらがなを用いることによって、難解で難しい、という印象を減らせます。

たとえば「顰蹙を買う」などの言葉は、つい漢字で書きたくなりますが、「ひんしゅくを買う」でも十分わかります。

「躊躇する」のような「ちゅうちょする」とひらがなで書くと少し間抜けに見えてしまうような単語は、「ためらう」といったもっと簡単な表現に置き換えるといいでしょう。

■要点を見やすくまとめる
文章の見やすさというのは、要点を見つけやすい、ということでもあります。

たとえば、要点ごとに見出しをつくり、「5つのポイント」「7つの違い」といった仕方で整理するなら、何が要点なのか把握しやすくなります。

また、一つの見出しの終わりや、文章全体の結びで、改めて要点を簡潔に振り返ってみるのも、ポイントを目立たせる大切なテクニックです。

■記事は短くまとめるべき?
最後に、ひとつ言い訳を。ここまで何度か、「記事が長すぎる」ということを、わたしの至らない点として挙げてきました。しかし、それにはやむを得ない事情があります。

わたしはもともと記事が長かったわけではなく、ある時点から、盗作対策として長い記事を書く方針に切り替えました。シンプルな記事は読みやすいのですが、ネット上では簡単に盗用されて埋もれてしまう危険があるからです。

確かに、日常生活の中で書く文章、たとえば手紙やメール、報告書、スピーチなどは短くまとめるべきだと思います。しかし、ネット上では、ひとつのアクセス対策として、長く詳しく書かざるを得ない場合があります。

ただし、記事を長くするなら、せめて「わかりやすさ」「見やすさ」には注意を払うべきだと思っています。

わかりやすい文章を書くには努力が必要

ここまで考えてきた、わかりやすい文章を書く方法をまとめてみましょう。

1.「知識の呪縛」を解くには…
■初心者の読み手を想定して書く
■時間を置いて読み返す
■読んでくれた人の反応を観察する

2.狭い世界に入り浸らないためには…
■普段から多様な価値観の人と接する

3.「知性化」に陥らないためには…
■用いる専門用語を少なくし、簡単な言葉で説明する

4.内容をわかりやすくするには…
■具体例な例を使う
■たとえ話を使う
■会話的な表現を使う

5.見た目をわかりやすくするには…
■文字と背景のコントラストを適度にする
■文字色を多くし過ぎない
■文字の圧迫感を軽減する
■要点を見やすくまとめる

こうしたテクニックを活用すれば、たとえ専門的な内容を扱う場合でも、文章のわかりやすさは改善されるでしょう。

もちろん、わかりやすい文章を書く力は、そう簡単に身につくものではありません。冒頭で述べたとおり、それは、もの書きにとって永遠の課題です。

この記事を書いているわたし自身、率直にいって、努力が至らない点は数えきれません。過去の文章を読むにつけ、何か手直ししたくなるところが必ず見つかるものです。

もしかすると、あなたも、この記事を読みながら、読みにくさやわかりにくさ、そしてなんといっても冗長さを感じたかもしれません。それは書き手であるわたしが、わかりやすい文章を書く力を十分に身に着けていないからにほかなりません。

それでも、わたしは書くことを愛しています。

だからこそ、たとえ、わかりやすく書くことの難しさに頭を悩ませ、ときに自分の至らなさを痛感するとしても、文章を書き続けます。

わたしは、生涯書くことを愛しつづけた作家オリヴァー・サックスが、道程:オリヴァー・サックス自伝の中でつづっている次の言葉を読むとき、旧友と再会したときのような心地よい親しみを覚えます。

書くという行為は―筆が進んでいるときにはだが―ほかで得られない満足と喜びを与えてくれる。テーマにかかわらず、書いていると別世界に引き込まれる。

文字通り無我夢中になり、気が散る考え、心配、関心事、さらには時間の経過さえも忘れる。

そんなめったにないすばらしい心理状態にあるとき、私は紙が見えなくなるまで、とめどなく書くこともある。紙が見えなくなってようやく、もう暗くなっていて、自分が一日中書いていたのだと気づく。

私は生涯にわたって無数の言葉を紡いできたが、書くという行為は、70年近く前に始めたときと同じくらい新鮮で、そして楽しい。(p463)

書くことは、いつだって、新鮮で楽しいことです。わかりやすく書くのが難しくとも、専門的になればなるほど、落とし穴にはまる危険が増えるとしても。

険しい山道を登り、崖から落ちそうになってもしがみつき、ついに頂上にたどりついたときのあの達成感、一点の曇りもない視界が開け、はるか遠くまで見晴らせるときの、あのえも言われぬ喜びは、他の何物にも変えがたいすばらしいものです。

絶え間ない不安にとらわれた「絆の病」を抱える人たち―完璧主義,強迫行為,パニックなどの背後にあるもの

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境界性パーソナリティ障害の場合、うつや不安障害、睡眠障害といった問題だけでなく、ADHD(注意欠如・多動性障害)や依存症、摂食障害、解離性障害といった診断がつくことも珍しくありません。

診断名ばかりが、ずらっと並ぶわけです。その治療を別々の医者から受けているというケースもあります。

…結局、大本で何が起きているのかということをトータルでみる視点が必要なのです。そして、それを可能にしたのが、先に述べた愛着障害という視点です。(p89)

しい気分の波があり、ささいな言動に傷つきパニックになり、いつも頑張りすぎてしまう。激しい嵐のさなかで荒れ狂う波に揺られる船のような日常生活を送っている人たち。

そのような人たちは、これまで、病院ごとにさまざまな診断名を下されることがありました。たとえば、ADHD、全般性不安障害、強迫性障害、パニック障害、うつ病、双極性障害などです。

しかし決してそれらの症状は別々のものではなく、複数の病気が一人の人に相次いで噴出しているわけでもありません。

冒頭で引用したのは、精神科医の岡田尊司先生の、絆の病: 境界性パーソナリティ障害の克服 (ポプラ新書) という本の説明です。

これまでの医療では「木を見て森を見ず」「症状を見て人を見ず」といった傾向のため、表面に表れるさまざまな症状に一つずつ名前をつけて、結局何なのかわからない、ということが少なくありませんでした。

しかし愛着障害という概念の登場によって、枝葉のような症状ではなく、おおもとの幹そのものという、たった一つの原因を理解し、本当に必要な治療を施すことが可能になってきたといいます。

完璧主義や、強迫行為、絶え間ない不安やパニック症状に悩まされている人に必要なのは、愛着障害、つまり「絆の病」というただ一つのキーワードから、表面的な症状ではなく、自分という一人の人間全体を見つめなおすことです。

「絆の病」とは何でしょうか。なぜ「絆の病」について知ると、さまざまな症状の原因が理解できるのでしょうか。治療に役立つ、どのようなアプローチがあるのでしょうか。

これはどんな本?

絆の病: 境界性パーソナリティ障害の克服 (ポプラ新書)は、精神科医の岡田尊司先生と作家・ウェブデザイナーの咲セリさんによる対談形式の本です。

岡田先生は、思春期の心の病を専門としていて、特に愛着障害についての数多くの著書で知られています。

そして咲さんは、愛着障害の中でも、ひときわ治療が難しいとされる境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)を克服してこられた方です。

この二人がそれぞれの観点から、愛着障害の人が抱える気持ちや葛藤、役立つアドバイスなどを語り合った本書は、岡田先生の数ある愛着障害の本の中でも、ひときわ内容がわかりやすく、心にすっと入ってくる一冊でした。

特に、愛着障害の中でも、見捨てられ不安が強く、他の人の愛情に敏感な「不安型」(とらわれ型)と呼ばれる傾向が強い人にとっては、自分自身の取扱説明書になる最高の一冊ではないかと思います。

「絆の病」とは

この本のタイトルになっている「絆の病」とは、岡田先生が愛着障害という言葉をわかりやすくするために用いている表現です。

もともと愛着障害(アタッチメント障害)とは、虐待やネグレクトを受けた子どもに見られる症状で、ADHDなどの発達障害と極めて似た特徴を示すことから、「第四の発達障害」などと呼ばれてきました。

しかし、一見それほど問題がなさそうに思える家庭で育った子どもにも、程度の差こそあれ不安定な愛着が見られることがあり、それが、境界性パーソナリティ障害をはじめ、思春期以降のさまざまな心の問題の原因となっていることがわかってきました。

その点は、岡田先生による、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)に詳しく書かれてあり、このブログではこちらの記事にまとめてあります。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」 | いつも空が見えるから

 

 今回の本で、岡田先生は、愛着障害を「絆の病」という表現を用いて言い換え、こう説明しています。

愛着障害だということは、言い換えれば「絆の病」だということです。

それは、本人だけの「病気」というよりも、多くの場合は、本人と親との関係に遡る問題だということです。

…境界性パーソナリティ障害は、不安定な絆しかもてなかった人が、確かな絆を手に入れようとして必死にもがいている姿そのものなのです。(p90)

「絆の病」のおおもとにある、愛着という生物学的な現象には、言語学習と同じような、感受性期や臨界期があります。つまり、幼いころのある時期までの経験が重要な意味を持つということです。

愛着の感受性期は生後半年から一歳半ごろとされていて、おもにその幼い頃のわずかな期間に、どのような養育環境で育ったかが、それ以降の人生や人間関係のパターンに大きな影響を与えます。

そして、その後の子ども時代の家庭環境もまた、幼い時期の経験ほど大きな影響は持たないとはいえ、ある程度は愛着のパターンの形成に影響すると言われています。

「不安型」(とらわれ型)の愛着障害とは

愛着には4つのパターンがあり、それぞれ「安定型」「不安型」「回避型」「混乱型」と呼ばれています。

この本で扱われているのは、特に幼い時期に過干渉する親のもとで育った子どもがなりやすい「不安型」(とらわれ型)と呼ばれる愛着を抱える人たちの苦悩です。

簡単に言えば、いつも親から過剰に手出し口出しされて育った結果、良い子でいないといけない、頑張らないと見捨てられてしまう、という「不安」に「とらわれ」てしまうのが、このタイプの人たちの特徴です。

「とらわれ型」は、不安が強く、人に頼らないと自分を支えられないのに、頼っている人に対して、手厳しく、粗探しばかりしてしまうといった点が特徴で、素直に甘えられない傾向が、一歳半の時点でみられていることが少なくありません。

愛情不足と過干渉が混在しているような場合に起こりやすいものです。(p56)

常に見捨てられ不安を抱えていて、他の人のちょっとした言葉や行動に敏感に反応し、パニックになったり怒ったり落ち込んだりしてしまうのは、単なる性格ではなく、ごく幼いころの親との絆によるものです。

もちろん、「不安型」の人たちの多くは、自分の行動に、幼いころの経験が関係しているとは夢にも思わないでしょう。愛着のパターンは、その人の生き方に染み付いているので、多くの人は疑問さえ抱かないのです。

子どもを思い通りにコントロールしようとする親

子どもが「不安型」の愛着を身につけてしまう養育環境には、いくつかの傾向がみられます。

すでに触れたとおり、特に顕著なのは、親の過干渉です。あらゆることに手出し口出しして、溺愛したり、逆に何から何までけなしたりして、子どもの自主性を重んじません。

「不安型」の愛着と関係する境界性パーソナリティ障害になる人に典型的に見られるのは、「不認証環境」と呼ばれる家庭環境だそうです。これは、親が何から何まで口出しして、子どもを承認してあげない、つまりいつも粗探しをする環境です。(p54)

この本の咲さんの父親も、とても厳しい人で、どんなに頑張っても、決して褒めてくれず、けなされてばかりだったそうです。(p14)

逆に、母親は甘やかしすぎだった、ということですから、 過干渉の二つのタイプ、溺愛する親とけなす親の両方によって育てられた、「不安型」の傾向が特に強い子どもだったのでしょう。(p16)

また、過干渉する親は、「良い子」だけを認め、受け入れる、という養育態度を示すこともあります。

過干渉する親というのは、言い換えれば、子どもを思い通りにコントロールしようとする親です。

咲さんの父親はこんな傾向を持っていたといいます。

咲 そうですね。けっこう支配的というか。母から聞いた話なんですが、つきあっている頃から、父は自分の言うことを聞かないとだめだし、連絡をしたときに、すぐに連絡がとれない状態だと怒ってしまう、とか。(p19)

おそらくは、お父さん自身が、不安型の愛着スタイルを抱えていたのでしょう。

子どもを思い通りにコントロールしようとする親は、子どもが親の指示に従ったときだけ「良い子」で、指示に従わないなら「悪い子」だとみなします。(p139)

バランスの取れた親であれば、子どもが言うことを聞かない場合でも、優しく教え、愛を育み、子どもが自主的に親の言葉を聞くよう助けていくものですが、過干渉する親は、強制的に言うことを聞かせる独裁者のようなものです。

そうした親のもとで育った子どもは、親の期待に答えるべく、ある時期までは無理をして親が求める「良い子」として振舞っていますが、思春期以降、限界が来て、反抗したり、心身のバランスを崩してしまったりしがちです。

そんな子どもを見て、親は「うちの子は昔は優等生だったのにダメになっちゃった」と言うこともしばしばです。「良い子」の場合だけしか、自分の子と認めていないからです。 (p108)

幸い、咲さんのお父さんは、年月とともにご自身の愛着障害も克服されたのか、咲さんの自伝死にたいままで生きています を読んで認めてくれるようになったそうです。(p107)

かつて愛情を注がれたが、失われた

「不安型」(とらわれ型)の愛着スタイルを抱える人の養育環境に特徴的な別の点は、ある時期までは愛された経験があるのに、それが失われてしまった、という体験です。

それまでの人生で、まったく愛されてこなかったわけではなく、愛された経験があるからこそ、見捨てられるかもしれないという「不安」に「とらわれ」るのです。

境界性のかたの場合は、愛着のタイプでいうと、不安型愛着といって、いったん手に入れた関係が失われてしまうんじゃないか、見捨てられいしまうんじゃないか、そういう不安をもつタイプのかたが多いですよね。

それはおそらく、まったく愛されなかったわけではないけれども、愛されたり、愛されなかったり、けっこう差があったりして、ある時期までは愛されたんだけど、ある時期からすごく愛情不足を味わっているとか、そういうギャップを味わったかたなんじゃないかと思うんですね。

もともと愛されていない場合には、逆に愛されないことに慣れてしまって求めようともしない。

境界性のかたは求めるでしょう? それはかつて、そういうものを与えられたことがあった、ということだと思います。(p154)

「不安型」の愛着スタイルの人たちは、他の人の愛を求める気持ちが非常に強く、見捨てられるかもしれないという不安にとても敏感です。

そもそも親から愛された経験が希薄な場合は、正反対の「回避型」という傾向を示し、親にも他人の愛にも執着しなくなります。

しかし境界性パーソナリティ障害の人を含め、「不安型」の愛着を持つ人は、他の人の愛を強く求め、だれがとつながりたい、心を満たされたい、自分を認められたいという飽くなき願いを抱いています。

そうなってしまうのは、「良い子」であるときだけ認められ、一時は愛を注がれたこと、しかしそうでなければ、けなされ、なじられ、人格さえ否定されてきたような幼少期の体験が関係しているのでしょう。

「絆の病」で説明できる6つの特徴

「不安型」の愛着を抱える人の場合でも、ベースにある元々の性格はさまざまだといいます。 (p150)

しかし、「不安型」の愛着の影響が強いと、もともとの性格が覆い隠されてしまい、ひどく不安で、パニックになりやすく、強迫的な考えや行動のパターンが目立ってきます。

そのため、表に出ている症状だけに注目し、その人自身をしっかり診てくれないような医者にかかると、次々に不穏な病名ばかりが増えていき、その人自身が何者かがすっかり覆い隠されてしまいます。

咲さんはこう振り返っています。

その後も病院を転々としたんですけど、行く病院ごとにいわれることがバラバラなんです。

「うちじゃ手に負えません」っていわれたかと思えば、別の病院では「あなたは病気じゃないので、病気になったら来てください」っていわれたり。

他にも薬をすごく処方されてしまうとか、もう完全にクリニック難民になってしまって。(p59)

冒頭で引用した岡田先生の言葉のように、「木を見て森を見ず」の医療がなされた結果、より問題が複雑になっていきます。

あたかも病気のデパートのような状態で、それぞれの病名に対して、異常な数の薬が処方されてしまい、自分はとても社会適応できない重病人なのだと思えてくるかもしれません。

咲 私のまわりの心の病の病気を抱えていらっしゃるかたって、みなさんほとんどすごい量の薬をのんでいらっしゃいます。

で、それでよくなったかっていえば、治らないし、また何かのストレスがたまってしまったりすると、悪化するんですよね。(p67)

しかし、さまざまな病名がつけられ、多くの薬を処方されるような場合、本当に多種多様な病気を併発している場合はまれです。

本来は、一つか二つの少数の原因があるだけなのに、木の幹そのものではなく、無数にある枝葉に注目しているがために、一見、多くの別々の病気を併発しているように見えるだけです。

以前の記事で、杉山登志郎先生の意見を紹介しましたが、多くの診断名がつき、薬が大量処方、多剤処方されているというのは、診断名と治療法が間違っている、ということの証拠なのです。

精神科の薬の大量処方・薬漬けで悪化しないために知っておきたい誤診例&少量処方の大切さ | いつも空が見えるから

 

 これから、冒頭で挙げたような、ADHD、全般性不安障害、強迫性障害、パニック障害、うつ病、双極性障害など、ありとあらゆる診断名がつきやすい多様な症状が、いかにして「絆の病」というたった一つのキーワードと関係しているのか、という点を見ていきましょう。

1.完璧主義―100点満点を求める

咲 完璧主義という自覚もないんですね。せめて最低ラインはできなきゃと、追いつめられてつくってましたね。(p46)

うつ病や不安障害の人は、まじめで完璧主義であることが多いとよく言われます。完璧主義だとストレスを溜めやすく、心身に負担がかかるからうつになる、とはよく言われたものですが、本当にそうなのでしょうか。

先ほど考えた「不安型」の愛着障害というキーワードを通して見ると、完璧主義という性格は、まったく違う意味を帯びてきます。

「不安型」の愛着スタイルを子どもに生じさせる親は、「良い子」のときだけ子どもを認め、子どもをコントロールしようとする特徴がありました。

つまり、「不安型」の人たちは、子どものときから常にまじめな「良い子」として、テストで100点を取ったり、親の言いつけに100%従ったり、完璧であることが求められる環境で育ったのです。

もしそうではないなら、できそこないとみなされ、愛される資格がないと、言葉や態度を通して教えこまれてきました。

そうすると、子どもは、完璧を目指すのがあたりまえで、完璧にできたときにだけ、自分には価値がある、そうではなければ愛してもらえない、周りの人たちから見放される、という思い込みにとらわれるようになっていきます。

自分にも他人にも完璧を求め、自分が完璧にできないときは自分は無価値だとうつになり、他人が完璧に愛してくれないときには裏切られたかのように感じます。

咲さんはこう振り返ります。

いままでは、とにかく触れあった人に百点満点の愛を求めていたんです。恋人でも友だちでも、私だけを見てほしい、と。

だから、友だちと連絡がとれないと、とたんに「もう私のことなんかいらなくなったんだ」とか追い詰められていたんですけど、最近は、ひとりが10点ずつくらいもっていて、それが10人くらいいてくれたらそれでいいやって思えるようになって。(p129)

完璧でないと不安になり、周りの人に完璧な愛を求めてしまう、というのは、明らかに普通の意味での完璧主義ではありません。

たとえばプロの職人が、より美しい作品を作ろうと完璧を目指したり、アスリートが完璧な演技で高得点を目指したりするのとはわけが違います。

「不安型」の人が抱える100%を求める気持ちは、ちょうど、赤ちゃんが、母親に100%の愛を求める気持ちそのものです。

岡田 本人の求める気持ちは、赤ちゃんの頃のような、ほんとうにすべてを欲しいくらいの切実なものですから。(p124-125)   

本来であれば、成長とともに道理にかなった範囲で満足することをわきまえ知るものですが、「不安型」の人はそうする機会を与えられませんでした。

赤ちゃんのときだけでなく、大きくなってからもあらゆることに口出し手出しされて育ってきたため、よくも悪くも、100%の関心を自分に向けられていない状態に耐えられないのです。

「不安型」の人の完璧主義は、実際には完璧主義ではなく、100点満点を目指さないと、自分は愛されなくなってしまうという不安からくる強迫観念なのです。

境界性パーソナリティ障害の人の思考パターンが赤ちゃんと似ているというのは、前に読んだ本でも説明されていました。

白と黒の世界を揺れ動く「境界性パーソナリティ障害の人の気持ちがわかる本」 | いつも空が見えるから

 

2.頑張りすぎ―何もできない自分には価値がない

完璧主義と間違われやすい、「不安型」の愛着障害の人の気質が理解できると、なぜそのような人が身を粉にして、過労死するまで頑張り続けることがあるのかもわかってきます。

先ほどの完璧主義と同様、うつ病になるような人は、度を超えて頑張りすぎる真面目な人だ、と言われることがありますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

咲さんは自分の気持ちをこうつづっています。

いままでたとえば、成績良くしたらほめられるんじゃないかとか、体を売ったら耳心地のいい言葉をもらえたとか、「何か」と引き換えにしか愛情ってもらえないものだと思っていたので、彼のいうことの意味がわからなくて。

何もできなくても愛されるはずがないって。(p49)

「不安型」の愛着スタイルの人たちは、子どものころから、愛とは何かと引き換えに得るものだ、ということを教えられてきました。

ただ生きているだけでは愛される資格はなく、自分の好きなことをやるだけでは「悪い子」であり、ただ親の期待にそった成果を頑張って成し遂げたときだけ、愛されるに値する「良い子」だとみなされてきたのです。

そのような人たちは、めったに認めてもらえなかったので、他の人から必要とされていると感じたい、という愛や承認を求める気持ちに急き立てられています。(p35、p144)

死に物狂いで頑張ってはじめて、自分には価値がある、と思えるので、手を抜くことも、他人に頼ることもできません。

心の病気とか生きづらさを抱えている人って、どこか「ひとりでちゃんとしなきゃ」とか、「強くならなきゃ」って思いがちですよね。(p106)

一人で頑張らなければいけない、強くならなければいけない、そうしないと、自分は誰からも愛されないし、生きている価値さえない。

ひたすら頑張り続け、体調を崩してもまだ頑張りすぎる生き方の正体は、決して単なるまじめさではなく、そうしなければ自分の存在価値がなくなってしまう、という不安感に追い立てられた強迫行為なのです。

この点については、このブログでも以前に詳しく取り上げました。

いつも頑張っていないと自分には価値がないと感じてしまう人へ―原因は「完璧主義」「まじめさ」ではない | いつも空が見えるから

 

3.ADHD―衝動的に刺激を求める

「不安型」の愛着スタイルを持つ人が誤って診断されやすい別の診断名は、ADHDです。

近年、「大人のADHD」が増えてきていると言われていますが、こちらの記事で紹介した国内外の数々の追跡研究が明らかにするとおり、ほとんどのADHDは大人になるにつれ、症状が消えていくものです。

「私って大人のADHD?」と思ったら注意したいことリスト―成人ADHDの約7割は違う原因かも | いつも空が見えるから

 

大人になってなお、強いADHD症状があるとしたら、生来のADHD傾向があるかないかに関わらず、別の要因の関与を疑うべきです。

そして、その別の要因のうち、もっとも大きなものこそが、愛着障害です。愛着障害は、ADHDと非常に見分けにくく、脳の活動レベルで類似していることがわかっているからです。

この本でも、愛着障害の一種である境界性パーソナリティ障害の人たちが、ADHDと同じような傾向を示すことが書かれています。

岡田 境界性パーソナリティ障害のかたは、調子が悪いときほど、その瞬間瞬間に生きているんですよね。

だから、振り返るとか、思い出すというのが苦手で、そのときワーッとなっちゃうんだけど、あとで考えたら、なんでそうなったか、よくおぼえていないとかね。(p101)

ADHDの人は、不注意かつ衝動的に行動して、結果を予測することや、過去の失敗を冷静に振り返ることが苦手ですが、愛着障害でも同じような傾向が現れます。

また、ADHDの人は刺激やスリルを求めがちで、 非日常的な体験を求めて危険なことに首を突っ込む傾向がありますが、それは愛着障害でも同じです。

やっぱりまだ不安定な間はね、買い物に行くとか、どこかへ遊びに行くとか、パーッとするような非日常的なことをやらないと、やったような気がしないものなんですね。

でも、だんだん回復するにつれて、そういう小さなことでも満たされるようになっていくんですね。

家事とか、ちょっと何かをつくったりとか、ちょっときれいにするとか、そういうことでもね。(p132)

「不安型」の愛着を抱える人たちは、特別なことをしないと愛してもらえない、頑張らないと自分には価値がないと感じがちですが、レクリエーションもまた同じように、ごく普通の日常では楽しんだ気になれないのでしょう。

また、ADHDというと、自分のことばかりひたすら話し続ける、おしゃべりな人たちという印象があるかもしれませんが、愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)には「不安型」(とらわれ型)の人の特徴について、こんな興味深いことが書かれています。

とらわれ型は、子どもの抵抗/両価型に対応するものである。子ども時代や親(養育主)との関係について客観的に振り返ることが困難なタイプで、曖昧な答えしか返さなかったり、そうした質問をされることに怒りの感情を示したりする。

過去のことを振り返っていることを思わず忘れて、あたかも目の前で起きているかのように、生々しい感情に呑みこまれやすい。

語る言葉も一文一文が長く、切れ目がなく、ゴチャゴチャに混乱していて描写が細かく詳しい一方で、自己省察に欠けた面がある。(p104)

自分の感情や、過去の見捨てられた体験、傷つき体験にとらわれるあまり、おしゃべりなADHDと同じように、感情のおもむくままにしゃべり続けてしまうことがあるのです。

感情を溜め込みすぎると、友だちとの電話で相手のことを考えず長電話しすぎたり、仕事から疲れて帰ってきたパートナーに見境なくまくし立てたりして、迷惑がられることもあります。

このように、ADHDと愛着障害が極めて類似した傾向を示してしまうのは、そもそも脳の中で生じているメカニズムはほとんど同じだからです。

ただ、ADHDは、おもに遺伝などの先天的な影響によって脳の異常が生じているのに対し、愛着障害は、後天的なトラウマ体験によって、同じような異常が生じているという違いがあります。このトラウマにはもちろん、養育環境における見捨てられ体験なども含まれます。

さらに、もともとADHDの傾向があり、しかも子どものころの不適切な養育環境によって愛着障害が重ねあわせになっているケースも少なくないようです。

愛着障害とADHDでなぜ類似した症状が表れるのか、詳しいメカニズムについてはこちらの記事をご覧ください。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか | いつも空が見えるから

 

4.不安障害―絶え間ない不安でパニックになる

「不安型」の人たちが抱えやすい別の問題は、「不安型」の名前が示すとおり、不安障害と呼ばれる一連の幾つかの病気です。

不安障害には、全般性不安障害(GAD)や社交不安障害(SAD)、パニック障害、さらには心的外傷後ストレス障害(PTSD)などが含まれます。

これらの病気は、複数の別々のものではなく、すべて「不安型」の愛着スタイルを中心につながっています。

以前の記事で取り上げたように、「不安型」の愛着障害とは、厳密に言えば、一種のPTSDであり、子どものころの見捨てられ体験のフラッシュバックです。

幼いころに見捨てられ体験の感情が些細な事柄でフラッシュバックするために、ADHDのように衝動的になったり、他の人のちょっとした言動に敏感に反応してパニックになったりしてしまうのです。

PTSDと解離の10の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった | いつも空が見えるから

 

この本の中でも、メールの返事がすぐ来ないと見捨てられたように感じてしまったり、期待通りにしてもらえないと、すぐ裏切られた、と感じてしまうことが書かれています。(p162)

自分のなかの期待と、そのとおりじゃないときにとてもストレスを感じやすい。

期待通りのことが起きないことが、あたかも自分に対して思いがないとか、そういうふうに受け止めやすいですよね。(p161)

また、不安障害の人は、不安が昂じパニックになりやすいですが、咲さんも、人が多い場所でパニックになりやすいと述べています。(p193)         

岡田先生の別の本愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)にも、「不安型」の愛着と不安障害との関わりについて、こう書かれていました。

不安障害との関連は、アメリカのミネソタ州で行われた長期間にわたる研究により、早くから明らかにされている。

グリーバーグによれば、1歳の時点で不安定型愛着を示した人では、17歳の時点で不安障害を認めるリスクが、安定型の3.7倍であった。

特に愛着不安の強い抵抗/両価型と呼ばれるタイプの人が不安障害になりやすかった。(p31)

この「抵抗/両価型」というのは「不安型」の別名です。

この研究から明らかなのは、不安障害の原因を遡れば、わずか一歳のころの愛着パターン、すなわち幼いころの養育環境に遡れるケースが少なくないということです。

5.強迫性障害―ひたすらしないと気が済まない

不安障害と合併しやすい症状の中に、強迫性障害(OCD)があります。

強迫行為は、さまざまな病気に見られるので、不安障害や他の病気をひっくるめて、強迫性スペクトラム障害(OCSD)と呼ぶこともあるようです。

この本の中でも、咲さんがさまざまな強迫症状に苦しめられたことを語っています。

咲 はい。そのへんから、掃除の強迫観念みたいなものが出てしまって。家がちょっとでも汚れると捨てられると思って、壁とか天井とかまで拭くんですよ。一日中、掃除をしていて。(p43)

この場合、表に出ていた症状は潔癖による強迫行為でしたが、その背後にあったのは、完璧にきれいにしないと見捨てられるかもしれないという制御できない不安感でした。

また、ストレスがたまると確認強迫が出るとも述べておられますが、これも、確認せずにはいられない、制御できない不安感によるものでしょう。(p193)

そもそも、咲さんが、はじめて自分は病気かもしれないと思い、病院に行くことにしたきっかけは、ネットで調べて「強迫性障害」について知ったことでした。(p58)

いかに「不安型」の愛着の人にとって、強迫行為が日常的に大きな苦痛をもたらしているかがわかります。

ここまで考えてきた完璧主義や頑張りすぎることも、一種の強迫行為です。

今回は詳しく取り上げませんが、摂食障害、特に拒食症の傾向もまた、強迫観念が大きく関係しています。

こうした強迫行為のすべてが愛着障害に由来するものではありませんが、強迫行為には、一般に、同じことを繰り返して安心を得るという意味合いがあります。

なぜ度を越してまで同じことを繰り返して安心を得なければならないのか、なぜ完璧を期さなければ安心できないのか考えてみると、その一因として愛着障害による絶え間ない見捨てられ不安が存在しているケースがあるのです。

強迫性障害には、ここで登場した清潔にこだわりすぎる洗浄強迫や、家の戸締まりや火の元などを何度も確かめてしまう確認強迫のほか、様々なタイプがあります。

その中には、頭の中で不安が渦巻きすぎて、何も行動できなくなり、動いていないのにへとへとに疲れ果ててしまう強迫性緩慢のような、一見わかりにくいものも含まれます。詳しくはこちらをご覧ください。

わかっているのにやめられない強迫性障害―不安や心配で疲れ果てる病気の原因と治療法 | いつも空が見えるから

 

6 .失体感症―体の声がわからない

そのほかに、「不安型」の愛着を抱える人が、心身症を含む、さまざまな病名で診断される大きな理由として、体の感覚と、感情とが混線していることが挙げられます。

私、疲れてると、すぐ「死にたい」ってなるんです。かつては、「死にたい」って思ったことを「あ、死にたいんだ」「死のう」ってそのまま(笑)。

でも、実はたいてい、ただ疲れていただけなんですよね。最近、それに気づいて、あ、この「死にたい」って、また「死にたい病」が出てるだけだ。きっと疲れてるんだなって、休んだりとか。(p114)

この場合、本当は「体」が疲れているだけなのに、なぜか「心」が死にたいという感情に満たさされます。

同じように本当はお腹が空いているだけなのに、自分には価値がない、という気持ちになったり、逆に精神的にストレスを抱えているときに、体に心身症が現れたりすることもあります。

これらは、失感情症(アレキシサイミア)失体感症(アレキシソミア)と呼ばれる現象です。

子どものころから、自分の感情や体の声を押し殺して、親や周囲の期待に添おうと努力してきた人たちの場合、本当の自分の気持ちや、体のありのままの感覚を知るのが難しくなってしまいます。

咲さんはこう述べています。

咲 むかしは自分の感情すらコントロールしないといけないと思っていて、怒ったり、悲しんだりっていうのも、「いけないこと」だって思っていたんです。

だから、怒りや悲しみの感情がわきあがると、それを抑え込もうとして、でも抑え込めなくて、かえってパニック状態になってしまったり。(p117)

失感情症や失体感症もまた、見捨てられ不安による強迫観念にとらわれ、自分を押し殺して「良い子」であり続けようとした結果なのです。

そのため、抑えきれなくなった精神的ストレスが、慢性的な疲労感や、全身の痛みとなって現れたり、逆に身体的な過労や睡眠不足がうつ症状となって表面化したりするのかもしれません。

いずれにしても、人間の心身は決して切り離せるものではなく、複雑に絡み合っています。

体が悲鳴を上げるのを押さえ込んでいると、心が悲鳴を上げますし、心が「ノー」と言うのをねじ伏せていると、体が「ノー」といいます。

単に表面に出ている症状だけに注目して診断を仰ぐのではなく、体の症状であっても心の状態を調べ、心の症状であっても体の負担を意識することはとても大切です。

本当は疲れているのに、体の声に気づくことができず、見捨てられ不安と強迫観念に駆り立てられて、ひたすらやり続けた人が行き着く先は様々な病気、そして過労死です。

「絆の病」を克服するには

このように、一見まったく関係なさそうに思える多くの病気は、じつは「不安型」の愛着による絶え間ない見捨てられ不安と、「良い子」でなければ愛してもらえないという強迫観念から生じている場合があります。

多くの表面的な症状という枝葉に注目しているだけでは、診断名ばかりが増えて薬漬けになってしまいますが、それらの根元を見つけることができれば、すべてを同時に治療していくことさえできるのです。

では、具体的にどのような方法で、治療していくことができるのでしょうか。

岡田先生はまず、「病名」ではなく、「その人自身」を診てくれる医師を見つけるよう勧めています。(p80)

その人の内面を見ようとせず、ただ延々と薬だけを処方するような医師は、 薬でごまかして回復から遠ざけている、そして依存症を作り出しているとさえ述べています。(p90)

また、本当に良い医師であるかを見分ける人の方法は、患者当人が受診したときではなく、家族が受診したときの反応でわかるともいいます。

病気を抱える人は、ときどき体調を崩して、家族に代わりに受診してもらわざるを得ないことがありますが、そんなときに丁寧に家族と接し、理解を示してくれる医者であれば、信頼して助けを求めることができます。

そういえるのは、愛着障害は「絆の病」だからです。

岡田 いままで心の病気というと、何かその人の問題ってとらえられていたんですけど、「絆の病」ということでいうとね、それはその人個人の問題というよりも、つながり方の問題なんですね。

つながりですから、その人だけを切り離して、いくら治療しても、薬を飲んでもらっても、何も変わらないということになりかねない。

それこそ病人の役割をひとりに背負わせることになってしまう。

…ようやくアメリカ精神医学界の新しい診断基準にも、「関係性の障害」というのが、まだ正式のものではありませんが、暫定的な病気のカテゴリーとしてとりあげられるようになりました。(p85)

愛着障害は、その人個人の問題ではなく、親と子、家族の結びつきの問題が表に現れたものなので、当人だけでなく、家族を治療することも大事なのです。

興味深いことに、家族だけを診るほうが治療がはかどる場合もあるそうです。

岡田 実はね、本人を直接診るのと、家族だけを診るのとで、治療成績を比べると、ほとんど変わらない。むしろ家族だけを診たほうが、うまくいく場合すらあるんですね。(p84)

もちろん、すでに成人して親元を離れた人の場合や、親があまりにかたくなすぎて、自分は悪くないと言い張るような場合、家族を治療するという選択肢はないでしょう。

しかし、この本には、咲さんが実践した、「不安型」の愛着を克服していくためのバリエーション豊かな方法が、惜しみなく紹介されています。

たとえば、簡単にリストアップしてみると、以下のようなものがありました。

■ 認知のノートをつける (p100,183)
■症状に、「◯◯病」と名前をつける (p101,187-190)
■ 誰にも見せないノートを作る (p174)
■自分の半生を書いてみる (p191)
■自分の取り扱い説明書を作って他の人に見せる (p192)
■眠りと気分の記録表を作ってモニタリングする (p176)
■ どんなマイナスなことでも全部褒める (p178-179)
■生まれ直しの儀式 (p104)
■ 「いけない」をなくす (p118)
■マインドフルネス (p112)
■ グラウンディング (p112,133)
■ペットを育てる (p126)  
■夫婦でふたりのためのルールを作る (p164)
■愚痴は小出しにして溜めない (p180)
■病名がアイデンティティにならないように気をつける (p142)

ただ箇条書きにしてしまうと味気ないですが、この本では、咲さんと岡田先生が、互いの経験や実例を通して、ひとつひとつ生き生きと説明しておられるので、実際に読んでみると、ガラッと印象が変わると思います。

医療関係の本で、よく医者の立場から理想論のような治療法を淡々とアドバイスしているものがありますが、この本ではそうではなく、今すぐにでも取り組みたい、と思わせるほど具体的に感情豊かに語られているので、とても共感できます。

愛着障害についての本は色々と読んできたつもりですが、ここまでわかりやすく、しかも実践的な本は今までなかったと思います。だからこそ、心当たりのある人は、ぜひ直接この本を読んでほしいと思います。

冒頭で紹介したように、この本は、「不安型」の愛着による境界性パーソナリティ障害を克服された咲さんの本であり、タイトルも境界性パーソナリティ障害の「克服」です。

壮絶な経験であることは確かなのですが、今まさに闘病中の本というよりは、苦しい時期を乗り越えた後で、岡田先生と一緒に和やかに落ち着いて振り返っている座談会のようなテイストです。

岡田先生の優しい口調と、咲さんの感情豊かな明るいやりとりとが、どこか微笑ましく、読んでいて気持ちが楽になる本だと感じました。

境界性パーソナリティ障害の人が抱える過敏さは、コントロールできないでいると様々な苦痛を生み出しますが、適切な対処法を身につけていけば、芸術的な感性や才能にもなる、という希望も抱かせてくれます。 (p147)

その点は、このブログで過去に紹介した、境界性パーソナリティ障害と自己コントロールの関係についての記事とも相通じる内容だと思いました。

ささいなことにも傷つく「拒絶感受性(RS)」の強い人たち―傷つきやすさを魅力に変えるには? | いつも空が見えるから

 

一方で、この本の主眼は愛着障害の中でも「不安型」、あるいは「不安型」の要素が強い「混乱型」なので、同じ愛着障害でも、「回避型」寄りの人には、少し共感しにくく思えるかもしれません。

つまり、不安障害や境界性パーソナリティ障害の傾向を持つ人にはうってつけの一冊ですが、それとは反対の解離性障害の傾向を持つ人の気持ちとは、ちょっとずれていると思います。

それでも、咲さん自身、「不安型」が強いとはいえ、「回避型」の解離的な症状も少し経験されていて、両方合わせ持っておられるようなので、「回避型」寄りの人にとっても、ところどころヒントとなる情報が散りばめられていると思います。

愛着障害とはどんなものなのか、もっと噛み砕いて理解したい、あるいは様々な病名で診断されているけれど、本当の自分を見つめ直したい、そう考えている人にとって、この本は大いに役立つに違いありません。

様々な病名という枝葉を取り除け、おおもとにある愛着の問題と向き合うとき、ずっと隠れて見えなくなっていた、本当のあなたの素顔が、きっと笑顔を浮かべて輝き出すことでしょう。

アンプリジェンが世界初のCFSの治療薬としてアルゼンチンで販売承認

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ねてから何度も話題になっていた、RNA製剤アンプリジェン(Ampligen)が、アルゼンチンで筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)の治療薬として承認されたというニュースがありました。

ヘミスフェリックス・バイオファーマが大きな進展を発表:重度の筋痛性脳脊髄炎(ME)および慢性疲労症候群(CFS)の治療薬Rintatolimod(米国商品名:Ampligen®)のアルゼンチンにおける販売承認を取得 NYSE:HEB

ヘミスフェリックス・バイオファーマ株式会社…は 重度の筋痛性脳脊髄炎(ME)および慢性疲労症候群(CFS)の治療薬として、Rintatolimod(米国商品名:Ampligen®)のアルゼンチン国内での販売承認を取得したと発表した。

販売承認にあたり、800例を超える慢性疲労症候群の患者を対象に、1年以上アンプリジェンを使用して臨床試験が行われたそうです。そのうち100例以上が重度のCFSだと説明されています。

時事通信や日経バイオテクによれば、この薬はME/CFSに正式に適応が承認された世界初の薬だそうです。

米ヘミスフェリックス、脳脊髄炎治療薬のアルゼンチン販売認可〔GNW〕:時事ドットコム

MEおよびCFSを適応として販売が承認された世界初の医薬品と考えられる。

米Hemispherx社、RNA医薬がアルゼンチンで承認取得:日経バイオテクONLINE

筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)を適応とする治療薬では世界初であり、唯一である。

アンプリジェンの長い道のり

今回の販売承認にあたり、アンプリジェンの製造元のヘミスフェリックス社のCEOであるTom Equels氏はこう述べています。

アルゼンチンでは、Rintatolimod(Ampligen®)は、ME/CFSの重度障害型の患者の治療薬として販売承認されたばかりです。

ME/CFS患者は、世界中で300万人を超えるとされていて、その内、この薬で治療対象となる本疾患の重度障害型の患者はほんの一握りです。

…これまで市場には有効な治療法は存在しませんでしたし、私たちが知る限り、Rintatolimod以外に高度な臨床候補薬もありません。

今回のアルゼンチンでの販売承認によって、中南米で重度のME/CFSに苦しむ患者さんへの治療は劇的に改善するでしょう。

このように華々しく紹介されると、治療への期待に胸が高鳴りますが、実をいえばアンプリジェンは、ここ最近、突然開発されたような薬ではありません。

1988年に米国疾病対策センター(CDC)がCFSの診断基準を打ち立てたころから、長年ずっと治療薬として話題に出ては、今日まで正式に承認されないままだった薬です。

2013年にもアメリカで承認されるかどうかが再度話題に上り、このブログの記事で、アンプリジェンとはどんな薬なのかをまとめました。

CFS治療薬として期待されるアンプリジェンとは? 最近のアメリカでの動向 | いつも空が見えるから

 

アンプリジェンは、もう20年近く前の1998年に書かれたニュージャージー州医科大学神経科学部門のベンジャミン・H・ネーテルソン教授(Benjamin H. Natelson)によるCFS研究の本Facing and Fighting Fatigue: A Practical Approach (Boswell's Correspondence;7;yale Ed.of)の中でも言及されています。

この本は、日本では2000年に、専門医の倉恒弘彦先生ら多数の翻訳者の協力によって疲れる理由というタイトルで邦訳が出版されていて、慢性疲労症候群の米国での研究の進展を知る貴重な資料となっています。

この本でアンプリジェンが登場するのは、慢性疲労症候群の様々な治療法が提案されている第十二章の最後です。

そこでは、まず初期のころのウイルス原因説を受けて、NIH感染症研究員のスティーブン・ストラウスが、抗ウイルス薬であるアシクロビルを使って臨床研究をしたものの、CFSの症状は改善されなかったという経緯が触れられています。

その上で、やはり抗ウイルス作用を持つ、不適合2本鎖ポリマーRNA製剤であるアンプリジェン(アンプリゲン)がCFS患者に本当に効果があるのか、医者も患者も興味をもって見守っていると書かれています。

こうした考え方に沿うと、抗ウイルス作用と体外物質への体の免疫学的反応を減弱する能力をもった薬であるアンプリゲン(訳者注:アンプリゲンは商品名、日本での市販なし)に、CFSを取り巻く患者や医師たちは皆、興味を惹き付けられるのである。

アンプリゲンはCFS患者でプラセボ対照研究が行われ、その活性薬物を投与された患者の機能に、僅かだが明らかな改善が認められた。(p253)

アシクロビルと違って、アンプリジェンの場合は、一部の患者において、わずかながら確かな効果が認められたそうです。

しかしその一方で、憂慮すべき結果も出ていました。

この薬は静脈内投与に限り、それ自身がサイトカインに類似しているためにCFS様の症状を引き起こしうる。そして大変高価である。

これらの要素を総合し、FDAはアンプリゲンの本国での使用を肯定する研究に、あまり関心を持っていない。(p253)

改善がみられる患者がいる一方で、望ましくない副作用が現れた人もいたこと、また大変高価であったことから、FDAはアンプリジェンの実用化にあまり積極的ではないと説明されています。

アンプリジェンの価値を高める試み

それに対して、アンプリジェンの製造元のヘミスフェリックス社は、アメリカ以外の地域での適応承認を求めてトライアルを始める方針を定めました。

アンプリゲンの製造元は現在FDAを無視しつつ、FDAが米国内でのアンプリゲンの使用が容認されるような十分な臨床改善効果を示すことを期待して、他のトライアルを開始している。

もしこの提案されたトライアルがアンプリゲンの価値を高めるものであれば、CFSは少なくともある患者については、ウイルス性または免疫学的原因があるということになる。(p253)

このような経緯があって、今回アンプリジェンがアメリカではなく、アルゼンチンで承認されるという不可思議な結果に至ったのでしょう。

今回のニュースの中で、販売元のヘミスフェリックスのCEOTom Equels氏はこう述べていました。

私たちは、アメリカ国内の重度ME/CFS患者を対象とする本製品の承認に向けた道筋を切り開くため、積極的に取り組み続けてまいります。

疲れる理由に書かれていたとおり、他の地域でのトライアルを通して、アンプリジェンの価値を高め、FDAがアンプリジェンを考慮するよう働きかけるつもりなのではないかと思います。

CDCによって診断基準が作られてから、この約30年の間に、慢性疲労症候群の研究が大きく進んだかというと、残念ながら、今でも20年前の疲れる理由の内容が十分役立つほどです。

とはいえ、脳に炎症が確認されたり、自己免疫性脳炎として理解する動きがあったりと、免疫システムの問題が関わっていることを示唆する証拠は発見されています。

慢性疲労症候群では腸内細菌の多様性が低下(コーネル大学の研究)―自己免疫性の脳の慢性炎症の原因? | いつも空が見えるから

 

ウイルス性かどうかはともかく、CFSに免疫学的原因があるのだとすれば、アンプリジェンは今なお、治療薬として有用な可能性を持っていて、さらに効果的な治療法を探る糸口にもなり得るのかもしれません。

答えを知るには、今後報告されていくであろう、アルゼンチンでのアンプリジェンを用いた治療の成果や、他の国での臨床研究を見守る必要がありそうです。

脳卒中から生還した科学者が語る「奇跡の脳」―右脳と左脳が織りなす不思議な世界

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鏡の中に見える反転した自分の姿に向かって、わたしは嘆願しました。

(おぼえていてね、あなたが体験していることをぜんぶ、どうか、おぼえていてね!

こののうそっちゅうで、認知力がこわれていくことで、まったくあたらしい発見ができるように―) (p48)

しも、刻一刻と壊れていく自分をリアルタイムで体験することになったら、あなたはどう感じるでしょうか。

一分一秒と時経つうちに、ひとつ、またひとつと能力が失われていき、体を動かす力も、言葉を話す能力も、見たものを把握する理解力も、次々に削がれ失われていくのを、ただ見ているしかない状況に置かれたとしたら。

科学者のジル・ボルト・テイラー博士が置かれたのはまさにそのような状況でした。37歳のある朝、彼女は朝起きると脳卒中になっていて、わずか数時間のうちに自分の能力が失われていくのを見つめることになったのです。

普通の人ならば、わけもわからずただパニックになるような異常な事態ですが、冷静な科学者たる彼女は違いました。

これまでの知識を総動員して、自分に何が起きているのか把握しました。そして働かない体と思考を駆使してなんとか助けを求め、壊れゆく思考の中で、冒頭の言葉を思いに刻みました。

「こののうそっちゅうで、認知力がこわれていくことで、まったくあたらしい発見ができるように―」。

この記事では、博士の劇的な体験記奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)をもとに興味深く思った点をまとめ、右脳と左脳の機能の違いや、自閉スペクトラム症(ASD)における右脳の役割などを考察してみました。

これはどんな本?

今回紹介する奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)は、脳卒中によって左脳の機能がほぼすべて失われるという極めて過酷な逆境に陥りながら、科学者の目を失わずに自らの身に起きたことを分析し、たゆまぬリハビリによって後遺症を克服してきたテイラー博士の体験記です。

この本は大きく分けて3つの部分からなり、前半は脳卒中とリハビリの体験談、後半は脳卒中の経験から学んだ新しい生き方の勧め、そして付録として脳についての科学的な説明が収録されています。

特に前半部分の、脳卒中を身をもってリアルタイムで経験し、科学的な分析と当事者としての感情を織り交ぜて書かれた体験記は、極めて特異な感覚世界へ旅をして生還したテイラー博士にしか書けないすばらしい見聞録になっています。

後半部分は、読む人を選ぶ内容で、飛躍した意見も見られますが、奇跡の脳の織りなす不思議な世界を垣間見て、新たな人生観を持つに至ったテイラー博士の覚めやらぬ興奮が熱く伝わってきます。

37歳で脳動静脈奇形(AVM)から脳卒中へ

この本の著者のテイラー博士は、とても有能かつ前途有望な神経解剖学者でした。

統合失調症を発症して社会生活を送れなくなってしまった兄を見て育った彼女は、この破壊的な精神疾患の正体を探るべく医学の道に進み、35歳の若さで全米精神疾患同盟(NAMI)の理事に抜擢されます。

史上最年少の理事として若さとエネルギーに満ち溢れ、それまで否定的に見られがちだった脳バンクへの献体を、歌によって身近に感じさせる「歌う科学者」として活動するなど、前途洋々の人生を送っていました。

しかし1996年12月10日の朝、目が醒めた時に、彼女の人生は一変してしまいます。

最初に感じたのは、ひどい頭痛と、体の動きのぎこちなさでした。自分を外から見ているような解離状態が生じ、体のバランスが崩れ、何気ない物音が耳をつんざくような轟音になりました。

次々に思考と体に生じる不思議な症状を目の当たりにし、科学者としての知識を総動員した彼女は、ついにその正体に気づきます。

なんと37歳の若さで、脳卒中になってしまったのです。

それでも、絶望してショックを受けるどころか、冒頭に引用した言葉のように、自分の経験から新たな発見しようと決意したのは、知の探究に人生を捧げる科学者らしいところです。

これまで外から研究するしかなかった脳の機能を、自分の体験をもって、内側から調べるチャンスが訪れた、と感じたのです。

わたしのこれまでの人生は、人間の脳が現実に対する知覚をつくり出す仕組みを理解することに費やされてきました。

でも今、目を瞠(みは)るような新しい発見につながる一撃(脳卒中)を体験してる!(p44)

しかし、科学者として新たな発見を前に高揚する気持ちとは裏腹に、次々と脳の機能が失われていくのは、とても苦しく不自由極まりない経験でした。

ひとたび脳卒中が生じ、当たり前の脳の機能が失われていくと、ほんのささいなこと、たとえば助けを求めて電話をするといったことでさえ、不可能な難題に様変わりする、ということに彼女は気づきました。(p49)

一瞬前に何を考えていたかさえ忘れてしまう、電話番号をほんの数秒ワーキングメモリにとどめておくことさえできない、ごく普通の手の動きがままならない、文字が理解できない、そしてあまりに長い時間悪戦苦闘して、なんとか電話をかけることに成功しても、言葉がでてこない…。

わたしたちが常日頃、ごく当たり前とみなして気にも留めない諸々の認知機能が失われるだけで、助けを求めるという小さなステップが、どれほど高い、乗り越えられない壁になるかを経験したのです。

幸い、彼女は周期的に訪れる思考の「明晰な波」をとらえて、助けを求める電話番号を奇跡的に思い出しました。電話ではうめき声しか出せませんでしたが、これまた奇跡的に電話に友人の医師が出て、彼女の異常事態を察知してくれました。

そうして病院に入院した彼女は、先天性の脳動静脈奇形(AVM)による脳卒中と診断されます。彼女はかねてから偏頭痛のような痛みを感じていましたが、それは実は、AVMによる脳卒中の前兆だったことも知りました。

そのときから彼女の脳は新しく配線され、右脳だけで生きるとはどういうことか、そして左脳の機能を取り戻す中で、自分にどのような変化が起きていくのか、という摩訶不思議な過程を身をもって体験することになります。

脳卒中から回復するために必要なこと

続く部分では、入院中の苦労や心細さ、リハビリの過程などが綴られていきます。

体験者にしか書けない生き生きとした真に迫る描写の数々は、あらゆる人が読む価値のある貴重な現地リポートだと思います。

たとえば、脳卒中の患者という視点から見た病院の制度の問題や、助けになるスタッフと、苦痛を増し加えるスタッフについての違いは、医療関係者やヘルパーなどにとって必読ともいえる部分です。(p82 86 106 124)

「病院の一番の責務は患者のエネルギーを吸い取らないこと」というテイラー博士の実感のこもった言葉に思わず共感する人は少なくないでしょう。 (p118)

患者が今どんな状態にあるかを顧みようとしない機械的な対応や、ただ情報を聞き出そうとするぞんざいな扱い、体調を推し量ることなく全員を一律に扱って重病人を待たせて放置することなどが、いかに患者のエネルギーを奪うかが切々と語られています。

一方で、 親切なスタッフがどのように共感的に、尊厳を重んじて扱ってくれたか、ということも具体的に記されているのでとても参考になります。彼らは、テイラー博士が言葉を話せなくても、決して知的に劣る者のように扱ったりしませんでした。

さらに、テイラー博士のリハビリにおいて大いに助けになった、母GGによる世話の記述を読むと、回復に必要な支えとはどんなものかがよくわかります。

テイラー博士は、そうしたこまやかな支えが得られないために、本当は回復できるのにその可能性を閉ざされてしまっている脳卒中患者が少なくないと述べています。

脳卒中で一命をとりとめた方の多くが、自分はもう回復できないと嘆いています。

でも本当は、彼らが成し遂げている小さな成功に、誰も注意を払わないから回復できないのだと、わたしは常日頃考えています。

だって、できることとできないことの境目がはっきりしなければ、次に何に挑戦していいのか、わからないはず。

そんなことでは、回復なんて気の遠くなるような話ではありませんか。(p144)

同時に、そうした共感的、献身的な支えのもとで、できなくなったことではなく、できることに注意を向けて、達成可能なハードルを少しずつ設定し、たゆまずリハビリに努めたテイラー博士の姿勢からも大いに学べるものがあります。

外界のいかなるものも、わたしの心の安らぎを取り去ることはできません。それは自分次第なのです。

自分の人生に起きることを完全にコントロールすることはできないでしょう。でも、自分の体験をどうとらえるかは、自分で決めるべきことなのです。(p195-196)

テイラー博士は、多くの能力が失われても、決して無力感に打ちのめされたりせず、いつも自分の人生は自分でコントロールしている、という認識を抱いていました。

冒頭で引用したとおり、たとえ自分が壊れていく中にあっても、そこから何か新しい発見を得ようと未来を見据えていたほどでした。

これは、以前の記事で紹介した、自己統御感そのものでしょう。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」 | いつも空が見えるから

 

まさにその自己統御感ゆえに、テイラー博士は脳卒中の後遺症から回復し、科学者として、再び一線に復帰することができたのです。

この本のp291-297には、付録として、テイラー博士の経験に基づく「病状評価のための10の質問」「最も必要だった40のこと」が載せられています。

それらは、この本の体験談と合わせて、さまざまな病気の人と接する家族や医療・福祉関係者にぜひ読んでもらいたい内容だと感じました。特に「最も必要だった40のこと」は、印刷してデスクに貼っておくべきリストかもしれません。

アスペルガー症候群とよく似ている?

ところで、わたしは本書を読んでいるうちに気になったことが幾つかありました。

まず気になったのは、脳卒中後、言語中枢をはじめ、左脳の機能の大部分が低下しているときに著者が経験した様々な症状についてです。

読んでいるうちに、それらの症状が、どうも自閉スペクトラム症(ASD)、つまりアスペルガー症候群の人たちが経験するとされる症状に、極めて似通っているように思えてきました。

著者が体験した特異な症状は、リストアップしてみると、例えば、以下のようなものがありました。

■時間感覚:
「今ここ」に心を奪われる 115
過去や未来がわからない 137

■空間感覚
三次元がわからない 98 114
どこに手足があるかわからない 115

■感覚過敏・鈍麻
光過敏、蛍光灯の明かりが強すぎる 116 163
声を背景から区別できない 102 114
感覚の洪水、情報の集中砲火 136
洗濯機でパニックに 165
感情を過敏に読み取ってしまう 106 121

■ひどく疲れる
テレビにエネルギーを吸い取られる 148 182
頭と体の活動に区別なく疲れる 149
エネルギーを節約する必要がある 126
負のエネルギーを出している人の影響を受ける 192 193

■視覚的思考
絵で考えることはできた 108
全体思考 112

■失読症   
読むことが一番難しい 157
文字が染みにしか見えない 158
書けるのにそれを読めない 168
音読しながら意味を理解することが理解できない 187 

■自己同一性についての感覚
残された自分の人格はだれなのかわからない 93 101
左脳と右脳で異なる人格を感じる 223

こうした症状はいずれも、自閉スペクトラム症の人の本を読むと、たびたび目にするものばかりです。

たとえば、時間の流れの連続性がなくなり、常に「今ここ」にとらわれている特殊な時間感覚については、過去の記事で扱いました。

アスペルガーとADHDの時間感覚の違い―過去と現在と未来 | いつも空が見えるから

 

また、特に自閉スペクトラム症との類似性を思わせるのは、過剰な感覚の洪水に圧倒されてしまう症状です。テイラー博士はこう述べています。

脳が、最低限の刺激しか望んでいなかったからです。意気消沈していたわけではなく、脳が感覚の洪水でアップアップの状態にあり、情報の集中砲火を処理できなかったから。(p136)

この情報過多のせいで、テイラー博士はまぶしい光やつんざくような音に悩まされ、まわりの雑音に圧倒され、洗濯機を使っていてパニックになりそうになりました。

これと似たようなことは、自閉スペクトラム症の人たちがよく述べていて、たとえば綾屋紗月さんの発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)では「感覚飽和」と呼ばれていました。

本来は、外部から五感が受け取る情報はフィルターにかけられて必要なものだけが意識に上るのですが、自閉症の人たちはそれがうまく働かないようです。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など | いつも空が見えるから

 

また、テイラー博士は物事を文字で考えるのが不可能になり、絵で考えることしかできなかったと述べています。

外部の世界とのコミュニケーションは途切れていました。言語の順序立った処理もダメ。

でも絵で考えることはできました。瞬間、瞬間に垣間見た情報を集め、その体験について時間をかけて考えることもできました。(p108)

このような強い視覚的思考はしばしば自閉スペクトラム症の人たちにみられます。

最近、金沢大学の研究によって、「三次元の物体イメージを,心の中でうまく回転させることができる」ような視覚的思考の能力が高い自閉スペクトラム症の子どもでは、脳に特殊な結合が見られることがわかりました。

世界初! 自閉スペクトラム症児の視覚類推能力に関わる脳の特徴を捉える | 金沢大学

自閉スペクトラム症児においては,視覚野に相当する後頭部と前頭部の間で,ガンマ帯域を介した脳機能結合(図2)が強いと,視覚性課題の遂行力が高いことを発見しました。

自閉症とサヴァンな人たち -自閉症にみられるさまざまな現象に関する考察‐では、こうした独特な視覚的思考は、高名なアスペルガーの数学者が幾何学を通してひらめきを得るときに役立ったのではないかと考えられていました。

有名なアスペルガーの動物学者テンプル・グランディンは、まさに「わたしは絵で考える」と述べています。

自閉症の動物学者テンプル・グランディンのTED「世の中には いろいろなタイプの脳が必要だ」まとめ | いつも空が見えるから

どうして、右脳の機能に頼るようになったテイラー博士の感覚と、自閉スペクトラム症(ASD)の人たちの感覚とがこうも似通っているのでしょうか。

まず思い出したのは、以前に読んだ芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察の中で、自閉症の人たちの特徴から推測するに、それらの人たちは脳機能のバランスが悪く、特に左脳の機能低下が生じているのではないか、と書かれていたことです。

自閉症者は、言語とコミュニケーションの面で重篤な障害があるので、左半球の機能不全がこの障害の主要な原因であると考えられているが、自閉症の視覚芸術家の脳についてこの点を確認できる資料はほとんど存在していない(p256-257)

自閉スペクトラム症の中でも、アスペルガー症候群など高機能とされる人たちの場合は、言語能力が高く、コミュニケーションもできますが、それでも、比喩表現や言外の意味を理解し、いわゆる空気を読むことが苦手だと言われています。

脳の左半球は、単に言語を扱うだけでなく、「既存の概念を再構成する能力」があり、想像力を働かせて意味を解釈することにも関わっているので、言葉を額面どおりに真に受けてしまうアスペルガー症候群の人はやはり左半球が弱いのかもしれません。(p257)

一方で、アスペルガー症候群の人は、視覚的な思考に長けていて、言葉より映像で考えるのが得意な場合があります。

同じ本によると、そうした視覚的思考の能力は言語能力とは逆に右半球の機能と大きく関係しているようです。

空間知覚や全体のなかの位置の判断、物理的空間のイメージ化、同じ対象や地形を心のイメージを通じてさまざまな視点から捉えることなどの機能に関しては、ほとんどの人で右半球が特殊化されている(De Renzi,1982:MeCarthy & Warrington,1990)。(p172)

テイラー博士の場合、脳卒中後、三次元を認識するのに苦労していましたが、それでも絵で考える視覚的思考が強くでていました。

空間認識能力は、完全に右脳だけで成り立っているわけではないのかもしれませんが、一般的に右脳が視覚情報の処理に特化していることはよく知られています。

また、テイラー博士の感覚過敏や、自閉スペクトラム症の人たちの感覚飽和についても、やはり右脳の優位性という観点から説明がつくように思います。

先程の右脳と左脳研究の第一人者、マイケル・S・ガザニガによる右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -には、脳の左半球と右半球の役割の違いについて、次のような説明があります。

左半球には、状況の要点を把握し、できごとの概要にうまく当てはまるような推論を行い、そうでないものはみな捨て去る傾向がある。

こうした手の込んだ作業をすることで正確性には悪影響が生じるが、一般的には新しい情報の処理が容易になる。

右半球はこういうことはしない。まったく正確に、最初に見た写真だけを見分けるのだ。(p179)

このことから右脳は見たままの、感じたままの正確な情報を保存し、左脳はそれを加工し解釈する、という役割を担っているというものがあります。

先程の芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察の中では、左脳の加工し解釈する役割は「意味システム」と呼ばれていました。

マイケル・S・ガザニガはそれをインタープリター(解釈者)とも呼んでいます。

自閉症の一種とみなされるサヴァン症候群の人の中に、極めて正確な記憶力で知られるキム・ピークや、精密な写実画で知られるスティーブン・ウィルシャーがいますが、彼らの正確な記憶力は、「意味システム」や「インタープリター」(解釈者)が働いていない、つまり受け取った情報が加工されていないことを示しています。

これはアスペルガー症候群の人が冗談を字句通りに受け取ってしまうことともよく似ています。 彼らは正確な情報を扱うことには長けていますが、飛躍させたり、混ぜ合わせたり、行間を読んだりするのは苦手なのです。

なぜ自閉症・サヴァン症候群の人は精密な写実絵を描けるのか | いつも空が見えるから

 

また、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳の研究を見ると、虐待児の研究では、脳の右半球にはトラウマ記憶など、加工されていないありのままの生々しい記憶が保存されていると言われています。

一方、右半球は空間情報の処理や情動、とくに否定的な情動の処理や表現を主にしている。

虐待を受けた子どもたちは、そのつらい思い出を右半球に記憶しており、それを思い出すことで右半球を活性化しているのではないかとTeicherは考えた。(p64)

この場合、左半球の機能が弱いことで、過去のトラウマ記憶を適切に処理し、忘れたり受け入れたりするのが難しくなっているとみなせます。

脳卒中後のテイラー博士や自閉スペクトラム症の人の場合も、受け取った感覚を未加工のまま認識してしまうので、音や光や、さまざまな感覚が情報過多になって圧倒されてしまうのでしょう。

その反面、見たままの映像を処理する能力に長けていて、視覚的思考によって言葉を読み取る力の弱さを補い、他の人とは異なる仕方で考えることができるのではないでしょうか。

ただし、ここで注意しておかなければならないのは、どうやらテイラー博士は、もともと自閉スペクトラム症の傾向を持っていたように思えることです。

テイラー博士自身が、自分はずっと右脳優位で、 視覚的なパターンで考えることが得意だったと回想しています。 また極端に他人に依存しない生き方をしてきたことも述べています。(p60、191)

テイラー博士が、もともと能力の高いアスペルガー症候群であったとしたら、脳卒中によって左半球の能力が失われたことで、本来の自閉症に似た右半球の特徴が表面化したとしても不思議ではないように思えます。

もしも生来の脳の傾向が関わっていたのだとしたら、テイラー博士の個人的経験だけに基づいて、右脳と左脳の機能についてあれこれと推測しても、必ずしも万人に当てはまるものにはならないかもしれません。

だれもが左半球の能力を失ったときに自閉スペクトラム症のような感覚世界を体験する、というわけではなく、単にテイラー博士が生まれつきそうした脳の傾向を持っていたにすぎないかもしれないのです。 

「後半の調子についていかれない」?

脳卒中の体験隊を客観的に振り返っていた前半部分と打って変わって、この本の後半部分は、突如、論調が大きく変わり、まったく別の本のような様相を呈します。

その変貌ぶりは、訳者がわざわざあとがきでこうフォローしているくらいです。

もしかしたら、後半の調子についていかれない、と感じた読者もいるかもしれません。

でも、本書は宗教書でもなければ神秘主義の本でもありません。れっきとした科学書であり、科学者の自伝なのです。(p338)

この本の後半は、テイラー博士が、脳卒中後、ほとんど右脳だけで思考する状態になったとき、不思議な幸福感や世界との一体感を感じ、涅槃(ニルヴァーナ)は誰にとっても身近にあるものだと気づいた、というような内容になっています。

つまり、宗教における深い安らぎと共感は、右脳の働きによるものであって、だれでも左脳の批判的な精神を黙らせればその境地に至れるという、「右脳マインドのススメ」が熱弁されています。

わたしは、特に宗教的・スピリチュアル的内容だからという点では「後半の調子についていかれない」と思うことはありませんでした。

巻末の解説で養老孟司先生が書いておられるのと同じようにわたしは考えています。

いわゆる宗教体験、あるいは臨死体験が脳の機能であることは、いうまでもない。

しかしそれが世間の常識になるまでには、ずいぶん時間がかかっている。

神秘体験としての臨死体験が世間の話題になった時期に、私は大学に勤めていたから、取材の電話に何度お答えしたか、わからない。

あれは特殊な状態に置かれた脳の働きなんですよ。(p341)

宗教における神秘体験や臨死体験は、このブログでよく扱う「解離」という脳の機能と関わりの深い現象なので、過去にも正面切って考察したことがあります。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム | いつも空が見えるから

 

そうした現象は、解離性障害や側頭葉てんかんといった特殊な脳の状態では頻繁に生じるものであり、たまたま普通の人がそれと同じような状態になったときに神秘体験として認識されるのです。

それで、わたしは後半の著者の話題にも抵抗がなく、むしろ興味深く感じていたのですが、一方でいくらか「後半の調子についていかれない」と言わざるを得ない部分もありました。

それは、本来、冷静な科学者であるはずの著者が、「右脳マインド」と「左脳マインド」を極端に誇張しているように感じられたことです。

「右脳マインド」「左脳マインド」の落とし穴

かつて左脳は男性的で科学的、右脳は女性的で芸術的といった極端なラベル付けがはやり、特に右脳の創造性を鍛える脳科学グッズなどが人気を博したりしました。

しかし脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼 (B&Tブックス)などの専門家の本が警鐘を鳴らすとおり、それは誇張であり、どんな人でも、左脳と右脳を協調させて創造性を生み出しています。

盲信しないために知っておきたい「脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼」 | いつも空が見えるから

 

この本の中でテイラー博士も、科学者として、左脳と右脳については、「左右が互いに補い合ってひとつになるというほうがより適切だ」と認めています。(p322)

ところがテイラー博士の後半の説明では、自身の劇的な経験から、「右脳マインド」は安らかで共感的で幸福、「左脳マインド」は批判的な物語作家、という誇張したキャラクター付けがなされてしまっています。

そして、不安や恐れは批判的な左脳が引き起こすので、「右脳マインド」をもっと育むべきだ、そうすれば安らぎや宇宙との一体感を得られる、という自己啓発に終始しています。

わたしは専門家でもなんでもないので、本職の科学者の本に疑問をさしはさむのは出過ぎたことだと承知していますが、それでもこの本の、「右脳マインド」は幸福で安らか、「左脳マインド」はマイナスの思考パターンをもたらすという説明には疑問を感じざるを得ません。(p246)

高名な科学者の実体験に基づく すばらしい本だからこそ、誇張されている結論を、読者がすんなり事実として受け入れてしまいやすいのではないか、というおそれも感じました。

この点について、たとえば脳科学者エレーヌ・フォックスによる脳科学は人格を変えられるか?によると、楽観的な人の場合、脳の左半球への活動の偏りが大きいとする実験が紹介されていました。

また、脳の左側への偏りが大きい人は、右側への偏りが大きい人に比べ、おしなべて幸福度や楽観性が高いこともあきらかになっている。(p78)

先程引用したいやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳の虐待児の脳の研究では、逆に脳の右半球は否定的な情動と関係しているとされていました。

どちらの説明も、右脳の働きが強いことを否定的な情動と結びつけていて、テイラー博士の「右脳マインド」を鍛えれば幸福になる! という自己啓発とは正反対です。

いったいどういうことなのか。

あくまで推測にすぎませんが、一見真っ向から矛盾しているように見えるこれらの相対する意見には共通点が見いだせるように思います。

テイラー博士が左脳は「マイナス思考」の源だと意識するようになったのは、脳卒中からある程度回復し、失われていた左脳の機能をいくぶん取り戻してからでした。

そのときのテイラー博士は、健全のままだった右脳が優位で、ようやく回復しはじめた左脳の働きは弱い状態にあったことになります。

すると、お気づきの通り、これは先程の実験で、悲観主義だった人たちの脳の状態、つまり脳の左半球の活動が弱かった人たちの状態と似ています。

つまり、テイラー博士が回復のさなかに感じた「マイナス思考」は、単に左脳マインドのせいで引き起こされたのではなく、左脳の働きが右脳の働きに比べて相対的に弱かったせいで生じたのではないかと思います。

テイラー博士は、恐怖とは「誤った予測なのに本当に見えること」だと説明していますが、左脳の働きが弱いために認知の歪みが生じ、それによって右脳の感情が刺激され、不安のループにとらわれるようになったのかもしれません。 (p284)

一つ前の副見出しで考えた左脳と右脳の役割によると、右脳はありのままの感覚をそのまま感じ、左脳がそれを解釈したり加工したりしているのではないか、ということでした。

すなわち、「右脳マインド」はいつも幸せと安らぎに満たされているわけではなく、ただありのままの感情、未加工の感情を感じるだけなのです。

「右脳マインド」は強い幸せに満たされることもあれば、強い不安や悲しみに圧倒されることもあり、それを調整する役割を「左脳マインド」が担っているのではないか、ということになります。

テイラー博士が圧倒するような幸福感に満たされたのも、逆に不安のループにはまりこんだのも、どちらも右脳が優位になって歯止めが効いていなかったためでしょう。

テイラー博士自身は、そのようなマイナス思考になって不安にとらわれた時は、「言葉に適切な感情をこめて、情感たっぷりに[左脳の]物語作家に語りかけ」ることが効果的だと述べています。(p248)

テイラー博士はこれを、左脳の物語作家、つまり「解釈者」をなだめる方法としていますが、どちらかというと、情感たっぷりに語りかけて反応するのは右脳のほうでしょう。

テイラー博士は右脳によって暴走する左脳をなだめていたのではなく、左脳の言語能力を用いて暴走する右脳をなだめていたのではないかと思います。

つまり、不安を和らげるには、よりいっそうの「右脳マインド」を培うのではなく、認知の歪みを正す左脳の機能を強め、右脳と左脳の連携を深めることのほうが適切ではないでしょうか。

もっとも、テイラー博士が脳卒中後、ほぼ右脳の機能だけのときに、さまざまな入り混じった感情ではなく、ただ強い幸福感を感じていた理由は定かではありません。

臨死体験やそれと似たてんかん発作のときなども深い幸福感を感じると言われますから、右脳が完全に切り離された解離状態では確かにテイラー博士の言うように深い安らぎを感じるのでしょう。

しかし、だからといって、ストレスを感じるときに、いつも解離状態を生じさせて対処するわけにもいきません。結局のところ、深い安らぎに包まれることは時には有益ですが、それと同じほど、思考力を用いて現実に対処することもまた大切なのです。

また、テイラー博士が右脳だけで思考してるときに安心感を感じられた理由として、テイラー博士の生まれ育った環境による影響も考える必要があるように思います。

右脳は生後間もない時期に左脳に先立って機能し始めますが、テイラー博士はGGというとても愛情深い母親のもとで育ったので、安定した愛着が右脳に刻み込まれ、基本的な安心感が備わっていたのかもしれません。

逆に、もしも温かい家庭に恵まれず、安定した愛着を得られず育った人の場合は、右脳のデフォルトの感情は悲しみや孤独であるはずです。

先程引用したいやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、虐待を経験した人は「中立記憶を考えているときには圧倒的に左半球を使っており、つらくていやな記憶を思い出すときには、右半球を使っていた」そうです。(p64)

幼い時期に劣悪な環境で育った人の場合、右脳にはテイラー博士が感じたような安心感は備わっていないのかもしれません。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち | いつも空が見えるから

 

このように考えると、テイラー博士が経験した右脳の安らぎもまた、だれもが経験できるものではない可能性があります。

テイラー博士の独特な経験は、生まれつきの自閉スペクトラム症の傾向と、幼年期に育まれた安定型愛着に基づく、テイラー博士の脳だからこそ経験できたものであり、人はそれぞれ違った脳を持っている、という可能性を見過ごしているのではないでしょうか。

一人ひとりの「奇跡の脳」

以前の記事で書いたとおり、わたしたちは一人ひとり違う脳の傾向を持っているので、万人に当てはまる「右脳マインドのススメ」などは存在せず、それぞれが自分に合ったやり方を見つける必要があるのではないか、とわたしは思います。

万人に役立つライフハックや勉強法などない!―ADHDやアスペルガーに必要なのはオーダーメイド | いつも空が見えるから

 

先程も引用した右脳と左脳の研究の第一人者マイケル・ガザニガの右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -にはこんな一文がありました。

科学ではよくあることだが、最初に得られた観察結果が正しくとも、最初に行った解釈がまったく間違っている場合もある。(p334)

テイラー博士の体験記も、前半の観察結果は正しくとも、後半の解釈は飛躍しすぎていたように思います。

ガザニガは右脳思考や左脳思考がメディアを席巻するよりも前から、「脳の機能を単純に説明づけることが魅力的に思えなくなってきた」と振り返っています。(p136)

確かに、右脳と左脳にはそれぞれ得意なことがありますが、たいていはどんな作業でも左右で連携していますし、人によって脳の用い方やそれぞれの経路の反応速度は異なりますし、あまつさえ左脳の専売特許とみなされている言語機能を右脳に持っている人さえいるのです。

ですから、この記事でわたしが書いたこともまた憶測にすぎません。現時点でのほんのわずかな知識を用いて左脳のインタープリター(解釈者)が創り出した、もっともらしい話でしかありません。

未だ謎の多い脳の機能について、手持ちの知識だけで早計に結論を出すのは、つくづくふさわしくないと感じます。ところが人間は、やっかいなことに手持ちの知識以外の可能性を考えられないのです。

結局のところ、右脳と左脳は密接に協力しあってひとつの脳、「奇跡の脳」を織りなしているということに尽きるのできないでしょうか。

「右脳マインド」と「左脳マインド」のどちらが勝っているとか、どちらが創造的だとかいう議論に意味はなく、一人ひとりが自分だけの奇跡の脳を持っているのです。

いみじくもテイラー博士は、この奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)の冒頭で、そのことを、はっきりと読者に告げていました。

テイラー博士は終盤脱線したように見えて、そんなことは始めからしっかりわかっていたのです。

ただ自分の経験した、あまりに不思議な脳の世界のすばらしさと感動ゆえに、熱っぽく語り出したらちょっと飛躍して止まらなくなってしまっただけなのです。

そう、すべてテイラー博士がはじめにこう語ったとおりです。

どんな脳にもそれぞれの物語があります。

そして、これはわたしの脳の物語。(p3)

 


感受性が強すぎて一歩踏み出せない人たち「回避性パーソナリティ」を克服するには?

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■人からの評価に敏感
■失敗するのが怖くて挑戦できない
■プライドは高いが自信がない
■人との関わりを求めつつも傷つくのを恐れる
■何事も面倒くさくて無気力
■起立性調節障害や慢性疲労症候群で不登校になることも

当は生き方を変えたいのに、あまりにハードルが高く感じてやる気が出ず、結局、問題と向き合うのを後回しにしてしまう。

あなたはそうした悩ましい葛藤を抱えていますか。

なかなか一歩を踏み出せないそのような人は、「回避性パーソナリティ」と呼ばれていて、近年、増加傾向にあるそうです。

不登校や引きこもりとされる人たちの中にも、本当はなんとかしたいのに、自分の無力さに打ちひしがれ、出るのはため息ばかり、その状況から抜け出せないまま年月が過ぎていくという辛い葛藤を抱えている人は少なくないでしょう。

「回避性パーソナリティ」を抱える人たちは、周囲の冷たい視線にさらされて、自分は何もできない無力で不甲斐ない人間なのだと思い込み、自尊心を失ってしまいがちです。

しかし、そのような葛藤があること自体、あなたが弱い人間ではないことを物語っています。原因は、意欲のなさや、心の弱さではなく、まったく別のところにあり、それを知ることで意外な未来が開ける可能性があるのです。

この記事では、生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)という本を参考に、回避性パーソナリティとは何か、どんな原因があり、いかにして克服していけるのかを考えます。

これはどんな本?

この本は、このブログでよく取り上げている、愛着障害などを専門とする精神科医の岡田尊司先生による回避性パーソナリティをテーマとした一冊です。

これまでのようなパーソナリティ障害、すなわち「人格障害」といった人間性の欠陥、という観点ではなく、ひとつの生き方、個性を持つ才能ある人として回避性パーソナリティを抱える人の素顔を明るみに出しています。

この本では、回避性パーソナリティを抱えつつも、自分のペースでそれを乗り越えていった過去の有名な作家たちの例を豊富に取り上げつつ、なんとご自身の経験談も包み隠さずに吐露しておられます。

まさに、回避性パーソナリティを抱えて生きてきた、回避性パーソナリティの第一人者による回避性パーソナリティの人のための本ということになります。

回避性パーソナリティとは?

まず最初に知っておきたいのは、回避性パーソナリティとはどんな人のことを指しているのか、ということです。

冒頭で幾つかの主要な特徴をリストアップしましたが、より詳しい特徴がアメリカ精神医学会のDSM-5による診断基準で説明されています。

(1)批判、非難、または拒絶に対する恐怖のために、重要な対人接触のある職業的活動を避ける。

(2)好かれていると確信できなければ、人と関係を持ちたがらない。

(3)恥をかかされる、または嘲笑されることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す。

(4)社会的な状況では、批判される、または拒絶されることに心がとらわれている。

(5)不全感のために、新しい対人関係状況で抑制が起こる。

(6)自分は社会的に不適切である、人間として長所がない、または他の人より劣っていると思っている。

(7)恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動にとりかかることに、異常なほど引っ込み思案である。(p49-50)

7つも項目がありますが、言わんとしていることは至極シンプルです。

すなわち、失敗したり、恥をかいたりすることへの恐れが強すぎて、人との関わりや新しい活動を避けてしまう、という一文に集約されるでしょう。

ここに表れているのは、非常に強い葛藤、つまりジレンマです。

回避性パーソナリティの人たちは、何も好き好んで挑戦を避けたり、社会から逃げたり、引きこもったりするわけではないのです。

本当はもっと自分の能力を活かしたい、人と親密になりたい、と思っていますが、失敗したり、恥をかいたりすることへの恐れが強すぎて、足を踏み出せず、やむを得ず回避してしまう、そのジレンマこそが回避性パーソナリティの正体です。

このようなジレンマがあると、生きることのあらゆる面のハードルが、軒並み高くなってしまいます。人生というものは、人との関わりと、新しいことへの挑戦の連続だからです。

面倒くさいことは数あれど、中でも面倒くさいのは、人に会うことだと感じている人はかなり多いだろう。

対人緊張が強く、人の顔色に敏感で、人に気をつかい過ぎる人ほど、他人は心地よい面よりも、面倒くさく厄介な面が強くなる。(p18)

そうして、あらゆることのハードルが上がると、すべてのことが面倒くさくなります。

無気力や慢性的な疲労感にさいなまれ、何もかもダルくなるのです。

こうしたジレンマにとらわれる人の中には、不登校になって、起立性調節障害慢性疲労症候群と診断されている子どもたちもいます。

これらの子どもたちは、自律神経失調や疲れやすさ、睡眠障害などさまざまな身体的な症状を抱えています。もちろん、そうした身体面の症状へのケアは大切ですが、中にはそれだけでは治らず、長引いてしまうケースもあります。

そのようなケースでは、単なる症状ではなく、原因を探らねばならないと岡田先生は述べます。

しかし、これは、単なる随伴症状であって、問題の本体ではないので、起立性調節障害をいくら治療しても、問題は改善しないことになる。(p26)

また、そのような症状はうつ病とみなされて薬物治療の対象になるかもしれませんが、子どものうつ症状には薬物治療の効果がほとんどないことも知られています。

子どものうつ病-薬物による治療に限界- 【あなたの健康百科】 | 医療介護CBnews

さらに、小学校の高学年から中学生の思春期になると、それまでの児童期までとは少し違う症状が見られ、元気がない、疲れやすい、集中力がなくなるといった症状が多く、動くのが億劫になって引きこもりのような状態になることもある。

こうした児童、思春期のうつ病に薬物療法の効果がほとんどないことを英国オックスフォード大学の国際研究グループが医学誌「Lancet」(2016;388:881-890)に発表した。

彼らは、学校に行きたくないわけではありません。むしろ行きたいのに、行くと普通以上に疲れすぎるせいでどうしても行けないという葛藤を抱えています。それは回避性パーソナリティのジレンマとよく似ています。

では、何もかも面倒くさくてやる気を失ってしまうこうした人たちは、大人たちが言うように、サボり癖がついた怠け者なのでしょうか。

あるいは、モノが豊かになって甘やかされすぎた、ゆとり世代なのでしょうか。

決してそうではありません。

この本の中で、それはちょうど「アレルギー体質」のようなものだと書かれています。

回避性パーソナリティは、「対人アレルギー」なのです。

努力では克服できない「対人アレルギー」

人への恐れや、失敗したり恥をかいたりすることへの恐怖からくるジレンマが、「対人アレルギー」である、とはいったいどういうことでしょうか。

岡田先生はこう説明しています。

ところが社会はこのタイプの人の特性をあまり理解しないまま、「人と交流するのは良いことだ」という一般的な基準で、同じことを期待しがちだ。

そして期待通りでないと、「努力が足りない」と言ったり、「人並みのこともできない」と責めたりする。

だが、このタイプの人からすれば、牛乳アレルギーがあるのに、牛乳は体にいいから飲みなさいと強要されるようなもので、有り難迷惑でしかない。(p19)

ポイントははっきりしています。

回避性パーソナリティの人は、不登校になったり引きこもりになにったり、責任や重圧から逃げたりすることが多いので、周りからは、「努力が足りない」「人並みのこともできない」となじられがちです。

怠けているとか、甘やかされすぎとか、しつけがなっていないと怒られることもあるでしょう。

しかしそれは「対人アレルギー」のせいであり、アレルギー体質というものは、努力や意志でなんとかなるものではありません。

牛乳アレルギーの人は、どれだけ頑張っても、どれほど決意しても、牛乳を飲めばアレルギー症状が体に出ます。だれもそのことで、「人並みのこともできない」と責めたりはしません。

同じように、回避性パーソナリティに見られる失敗や恥をかくことへの恐れも、努力で克服できるものではなく、そうした体質なのです。

しかし、そのように説明すると、当然、異議をさしはさむ人がいるでしょう。

それはていの良い言い訳にすぎない、内気や引っ込み思案は、場馴れしていないせいなのだ。もっと積極的に人と関わり、社会に出ていけば克服できる。要するに逃げないで頑張れと。

しかし、それは、対人アレルギーを知らない人による、何の根拠もない身勝手な発言にすぎません。

文字通りの食物アレルギーの場合も、いまだに単なる食べ物の好き嫌いだと決めつけて、無理やり食べさせようとする厚顔無恥な大人がいます。

その結果、ときおりアレルギー体質の子どもがアナフィラキシーショックを起こして病院に搬送されるというニュースが報じられることもあります。

対人アレルギーもそれと同様であり、単なる好き嫌い、つまり内気や引っ込み思案のレベルの問題ではないのです。

ある意味で、対人アレルギーの子どもを、学校という閉鎖的な場に縛りつけて無理な対人関係を強要した結果として、その一部に不登校や引きこもりというアナフィラキシーショックがを引き起こされていると言えるかもしれません。

それは、子どもの慢性疲労症候群を長年診てきた三池輝久先生が、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で指摘していたことでもあります。

不登校状態とは、生命の脳の疲労困憊を伴う、中枢神経の機能低下であることを述べた。これは持続時間はさまざまであるが、生命の危機を経験したことに等しい。

…肉体的な疲労は回復し、精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。

これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。(p66)

では、このような生命の危機を引き起こす食物アレルギーと同様の性質を持ち、ある種のショック反応さえ引き起こす「対人アレルギー」とはいったい何なのでしょうか。

免疫寛容としての「愛着システム」

「アレルギー」というと、わたしたちは身体的な反応のことを想像しがちです。心のアレルギーというと、つかみどころのないポエムのように聞こえます。

しかし、よくよく考えてみればわかるとおり、わたしたちの心と体は同じ素材からできています。心というのは、有機物の集まりによって構成される脳が生み出している現象なのです。

そうであれば、わたしたちの体に備わっている仕組みが、同じように構成されている心の働きにも見られるとしても、何ら不思議なことはありません。

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)によると、この場合、心と体に共通しているメカニズムは「免疫寛容」と呼ばれるものです。

幼い頃に触れることによって免疫反応を抑える仕組みは、免疫寛容とも言われるが、人間に対する免疫寛容ができあがらないままの人が増えているとも言えるのだ。

そして、この免疫寛容に相当する仕組みこそ、愛着ではないかと思われる。愛着が十分育たないまま、社会に出ることを余儀なくされる人々は、人間アレルギーに苦しめられやすいように思える。(p182)

ここで説明されているとおり、免疫寛容とは、幼い頃にさまざまな物質に触れることによって異常な免疫反応を抑える仕組みです。

近年増加する食品アレルギーや花粉症といったアレルギー疾患は、先進国の都市部に多く見られる病気として知られています。

以前の記事で取り上げたように、これらは、都市の衛生化や、抗生物質の乱用によって清潔過ぎる環境が作られ、幼い頃にアレルゲンと接することが少なくなり、免疫寛容が学習できなくなった結果生じる疾患とされています。

腸内細菌の絶滅が現代の慢性病をもたらした―「沈黙の春」から「抗生物質の冬」へ | いつも空が見えるから

 

脳が免疫寛容を学習できる時期は、ほぼ幼い頃に限られていて、そのころにアレルゲンに接すると、免疫系は本来は危険でないものと本当に危険なものとを見分ける賢さを身につけます。大人になってからそれにさらされても、過剰反応することはなく、アレルギーも生じません。

しかし幼い頃に免疫寛容を学習する機会がなく、大人になってから、はじめてアレルゲンにさらされると、本来は安全なものであっても、過敏に反応してしまいます。これがアレルギーの正体です。

これと同様のことが、対人関係にも生じます。

幼い時期に、周囲の物質が危険なものかどうかを学習するシステムがあるのと同様に、幼い時期に、周囲の人間が危険かどうかを学習するシステムもまた存在しているのです。

それが、先程の引用文に出てきた「愛着」と呼ばれるシステムです。

愛着システムについて、詳しくは以前の記事で取り上げたとおりですが、これはごく幼い時期の養育者との関わりによって、その後の対人関係のパターンの基礎が形作られるというものです。

この幼い時期に、愛情深い世話をされることで、基本的にいって隣人とは信頼に値するものなのだ、という認識が育まれ、その後の安定した人間関係の型が作られます。この認識は「基本的安心感」として知られています。

しかし、不幸にもそのような世話を受ける機会を逸してしまうと、愛着システムが発達せず、まわりの人間を安心して受け入れてよいのだ、というごく当たり前の「基本的安心感」が学習されません。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち | いつも空が見えるから

 

「基本的安心感」は、対人関係における免疫寛容ともいえるもので、その幼い時期に学習できなければ、後から身につけることは困難です。

「基本的安心感」が十分身につかないまま成長すると、ちょうど大人になってからアレルゲンに出くわした人がアレルギーを発症するように、対人アレルギーに苦しめられることになってしまいます。

文字通りのアレルギーは、大人になってから免疫寛容を身につけるのは生易しいことではありません。近年は減感作療法が開発されていますが、非常に手間がかかるものですし、体質が根本から変わるわけではありません。

対人アレルギーもそれと同様で、大人になってから基本的信頼感を育むことはとても難しいとされています。減感作療法のように慎重に長期間かけて場馴れするよう図っても、おおもとの繊細さがやすやすと変化するわけではないのです。

原因は「恐れ・回避型」の不安定型愛着

愛着システムのアレルギーには、さまざまなタイプがありますが、回避性パーソナリティは、その中でもひときわやっかいなタイプが関係しているようです。

実は、回避型に加えて、人に受け入れられるかどうか不安が強い不安型が同居したタイプで、恐れ・回避型と呼ばれるものがある。

この恐れ・回避型が、回避型パーソナリティにもっとも典型的な愛着スタイルなのである。(p100)

愛着システムのアレルギーには、人から遠ざかって人間嫌いになる「回避型」と、人に執着しすぎて見捨てられ不安にとらわれる「不安型」とがありますが、回避性パーソナリティの場合は両方が同時に存在しています。

これは「恐れ・回避型」とよばれ、人間嫌いで人が怖い傾向と、それとはまったく逆の、人に認められ愛されたいという欲求とがせめぎ合っている状態です。

単に、人を恐れて「回避」するだけでなく、人から愛されているか気にする「不安」にもとらわれるという、相反する傾向のせめぎあいこそが、すでに考えた回避性パーソナリティの人の「葛藤」また「ジレンマ」の源なのです。

それに対して、本来の回避性パーソナリティは、求めているが、恐れのためにそれができないというジレンマを抱えている。(p94)

心の免疫系ともいえる、愛着システムがうまく発達せず、人が怖い、でも求めたいという悩ましいアレルギーを抱えてしまう背景には、幾つかの原因があるようです。

まず一つは、遺伝的な性質です。心の免疫系、対人アレルギーなどというと、感情的な問題と思いがちですが、意外にも、遺伝的な影響がかなり強いことがわかっているそうです。

回避性パーソナリティ障害は、遺伝的要因も比較的大きいことが知られていて、遺伝要因が関与する割合は、六割台半ばに達する。(p130)

回避性パーソナリティの原因の60%以上が遺伝的な要因に基づいているという、このショッキングな事実からすると、これが単なる「心の弱さ」や「努力不足」ではないことは明白です。

文字通りのアレルギーや、他のさまざまな身体疾患と同じく、遺伝子という生物学的要因が大きく関わる問題なのです。

では、この遺伝要因とは具体的にいってどんな内容なのでしょうか。

続く部分では、回避性パーソナリティと関わる遺伝子として特に有名なのは、セロトニントランスポーター遺伝子の働きに関するものだと書かれています。

脳科学は人格を変えられるか?によると、この遺伝子は感受性に関する遺伝子であり、良くも悪くも環境に影響されやすく、過敏に反応する性質と関係しているとされています。

ベルスキーが主張するように、この遺伝子の発現量が低い人はたしかに逆境にいちばん弱くはあるが、そのいっぽうで、幸福につながるようなポジティブな環境に置かれれば、そこからいちばん大きな利益を受けることが多いのだ。(p182)

このような「感受性の遺伝子」はセロトニントランスポーター遺伝子のほかにも幾つか発見されているようで、そうした様々な過敏傾向を遺伝によって受け継いだ繊細な子どもが、回避性パーソナリティになるリスクを抱えるのだと考えられます。

重要なのは、このような生まれつきの感受性の強さは、精神的な弱さや脆さではなく、あくまで「感受性」の遺伝子だということです。つまり、環境によって悪い影響を被ることもあれば、人一倍良い影響を得ることもあるのです。

近年では、このような生まれつきの感受性の強さや繊細さは、アメリカの心理学者エレイン・N・アーロンの提唱したHSP(Highly Sensitive Person)、訳せば「ひといちばい敏感な人」という概念しても知られています。

「敏感すぎる自分」を好きになれる本には、生まれつきの敏感さであるHSPについて、先ほどの感受性の遺伝子に関する説明と同様の点がこう書かれていました。

生まれ持ったHSPという気質自体は同じであっても、育った環境や人間関係などの後天的な要素によって、敏感さはプラスのほうにも、マイナスのほうにも作用し、性格も変化します。(p73)

だからこそ、先程、生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)から引用した、遺伝要因が6割強関わっているという解説の続きでは、こう補足されているのです。

環境要因の関与は、およそ三分の一と一見小さく思えるが、この三分の一が発症するかしないかを左右する。

残りの1/3を占める環境要因によって、2/3を占める「感受性」の遺伝要因が、良いほうに開花するか、悪いほうに転ぶかが大きく左右される、ということです。

感受性の強さはプラスにもマイナスにもなる

では、回避性パーソナリティを発症してしまった人の場合、その1/3を占める環境要因が悪いほうに作用したために、感受性の遺伝子がマイナスの影響を被って人生が台無しになってしまった、ということなのでしょうか。

決してそうではありません。

そういえる一つの理由は、回避性パーソナリティは、どちらかというと、確かに良い環境に育ったとはいえないものの、最悪の事態は避けることのできた人に生じる症状である、ということです。

さきほど出てきた、回避性パーソナリティのジレンマの原因である、愛着システムの「恐れ・回避型」というタイプは、以前にもこのブログで具体的に扱ったことがあります。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち | いつも空が見えるから

 

この記事では、「恐れ・回避型」、またの名を「無秩序型」や「混乱型」と呼ばれるこのタイプの愛着がいかに悲惨で破壊的な結果をもたらすかを説明しました。

この「恐れ・回避型」の愛着タイプは、もともとは、虐待された子どもに特徴的に見られるタイプとして発見された歴史があります。

そして、そうした子どもは、解離性同一性障害、いわゆる多重人格や、拒食症のような摂食障害、境界性パーソナリティ障害のような、ひどく不安定で危険な疾患になりやすいことがわかっています。

本来、「恐れ・回避型」というのは、それだけ危険な疾患群のリスク要因なのです。

しかし回避性パーソナリティのジレンマの源となっている場合の「恐れ・回避型」は、それほどまでに混乱した状態ではありません。

その違いは、一つには、生まれ育った家庭環境の混乱の程度の強さと関係があるのでしょう。

主体性を奪われる家庭環境

「恐れ・回避型」は、虐待やネグレクトなどの扱いの元で特徴的に生じやすいとはいえ、回避性パーソナリティになる人の場合は、そこまで悲惨な環境で育ったわけではないケースが多いのではないかと思います。

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)によると、回避性パーソナリティを生みやすい家庭環境は、主体性を奪われる環境と関係しているようです。

主体性を奪われるという状況は、少子化が進み、親がともすると過保護・過干渉に子どもにかかわりがちな今日では、非常に身近なものだと言えるだろう。

…親が働いていて、温もりのある世話やかかわりは不足気味なのに、期待や口出しだけは、人一倍多いという最悪の状況も起きがちだ。

ことに、親が期待をかけ、口出しすることが、子どもに愛情をかけることだと勘違いしている場合には、親の期待は害しか産まなくなる。(p156)

虐待やネグレクトは、存在そのものを否定され、主体性を徹底的に剥奪される経験ですが、そこまでひどくはなくても、主体性を損なう家庭で育つ人は、今の時代に大勢います。

それはたとえば、親が子どもの将来を案ずるあまり、良かれと思って自分の敷いたレールに子どもを載せようとしたり、過保護になって親の考えを押し付けすぎたりする家庭かもしれません。

普通より敏感な子が そうした家庭で育つと、幼い頃から、自分では望まない重い期待を背負わされ、自分の意志ではなく親の意思によって生きるという居心地の悪さを抱えることになるでしょう。

虐待やネグレクトとまではいかなくても、そうした主体性を奪いかねない愛情が、感受性の強い子どもに、ある程度「恐れ・回避型」のジレンマを抱えさせてしまうことがあります。

その結果、回避性パーソナリティに陥ってしまい、何をするのも怖くなり、あらゆることが面倒くさくなってしまうこともあるでしょう。

若者たちが、責任や負担を避けようとしたり、チャレンジを避けようとしたりするのは、幼い頃から、あまりにも多くの責任や負担を、しかも本人の遺志とは無関係に、背負わされてきたためではないのか。

あまりにも多くの望まないチャレンジに早くから駆り立てられたためではないのか。(p153)

親の期待に添えないと認めてもらえない経験を繰り返せば、失敗を恐れるようになるのは当たり前ですし、自分ではなく親という他人の人生を歩んでいるわけですから、面倒くさくなってすべてを放り出したくなるのも当然です。

また、先ほど三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の記述を引用しましたが、起立性調節障害や慢性疲労症候群などで不登校になってしまう子どもの場合、家庭というよりは、主体性を奪う学校の環境に対して、強い感受性や対人アレルギーが過敏に反応していることもあるでしょう。

虐待やネグレクトのもとで、人間に対するアレルギー、つまり対人関係のトラウマが生じるように、主体性を損なわれる環境で育ったひといちばい敏感な人も、人から否定されることへのトラウマを抱えてしまい、失敗することや恥をかく状況を避け、「回避」するようになってしまうのです。

逃げ場があるからこそ「回避性」

とはいえ、このような人たちが「回避」することができる、というのは、ある意味で幸運なことです。

極めて悲惨な家庭で育った「恐れ・回避型」の人が、解離性障害など、より重篤な疾患を発症してしまうのは、「回避」できる居場所がないためだからです。

そのことは、以前の記事でも少し取り上げました。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

 

 この記事の中ほどでは、過剰同調性という、あらゆる場面で安心できる居場所がない苦悩を抱える人たちと、過剰適応のせいで不登校になってしまう人とを比較しました。

あらゆる場面で安心できる居場所のない人たちは、現実世界に逃げることのできる場所がどこにもありません。それで、意識を解離させ、空想の中に避難所を作るという究極の方法で対処します。

一方で、不登校や引きこもりになる人は、それぞれの家庭の居心地はさまざまでしょうが、せめてもの救いとして、家の中に逃れて引きこもる場所、つまり「回避」して逃げこめる場所があるといえます。

逃げ場があるからこそ「回避性」なのであって、逃げ場がなければ「解離性」になるのです。

もちろん、だからといって逃げ場がある人たちの苦しみが軽いということにはなりません。どちらの人たちもそれぞれの苦悩の中を生きています。

この本によると、「回避」できる逃げ場所があり、働かなくても生活していけるがゆえに、かえって慢性化、長期化してしまう例もあるとされています。それはそれで、当人にとっては負い目にさいなまれる辛い日々でしょう。 (p268)

それでも、一時的にせよ、逃れて回避できる場所や、養ってくれる家族に恵まれている人は、時間はかかろうとも、いずれはそこから抜け出して、一歩踏み出せるチャンスを得ているということにほかなりません。

逃げ場所の確保は、回避性パーソナリティの人が精神的に追い詰められないための大切なリソースであり、そこ得た猶予を活用して、自分の歩む道を見つけることに成功した人たちも少なくないのです。

たとえ絶望の淵に立たされても

では、逆に、「回避」できる場所がなく、回避性パーソナリティどころか、もっと厳しい病状を抱えてしまった人の場合はどうでしょうか。

生まれ持った強い感受性と、劣悪な環境とが重なり合って、壊滅的なダメージを受けてしまった人には希望はないのでしょうか。

決してそうではありません。

その根拠は、そもそもの感受性の遺伝子の正体にあります。

先ほど引用した脳科学は人格を変えられるか?の続きにはこうあります。

それが「何か」の遺伝子であるとすれば、「可塑的な」遺伝子だと考えるのが妥当だろう。

セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人はまわりの環境に影響されたり反応したりしやすく、そのため、すばらしい環境や支援に恵まれればそこから大きな利益を引き出せる。

だが、虐待を受けたりまわりから支援を得られなかったりしたときは、深刻な負の影響を受けることになるのだ。(p182)

ここで書かれているとおり、生まれつき強い感受性を持つ人たちは、虐待などの極めて劣悪な環境に置かれた場合、深刻な負の影響を受けることになります。

しかしそれでも、その生まれつきの感受性をもたらしている遺伝子は、「可塑的な」遺伝子である、ということを忘れるべきではありません。

「可塑」(かそ)とは粘土のような柔らかく形を変える性質のことです。環境に合わせて柔軟に適応していける力のことでもあります。

以前の記事で取り上げたとおり、虐待の結果、さまざまな脳の異常が生じるのは、ダメージというより、一種の適応です。

だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版) | いつも空が見えるから

 

生まれ持った感受性の強さ、すなわち可塑性の強さは、悪い環境への適応を助けて、深刻な負の影響を生じさせる方向に働いてしまうこともあります。

しかしその可塑性の強さは、すばらしい環境や支援のもとでも働き、普通以上に好ましい適応ができるよう助けてくれます。

たとえば、適応がもたらす深刻な負の影響の一つともいえる解離性障害は、同じような症状を伴う統合失調症とは異なり、適切な支援を受ければ、十分に回復する可能性を秘めているとされています。

それはおそらく、悪いほうにも良いほうにも柔軟に適応していける、生まれ持った強い可塑性がもたらす回復力なのでしょう。

強い感受性を持っているということは、悪い影響に苦しめられやすい反面、裏を返せば、良い環境に巡り合ったときに、人生をひっくり返せる可能性もまた備え持っている、ということでもあるのです。

回避性パーソナリティにしろ、より深刻な解離性障害にしろ、たとえ追い込まれても、決して人生をあきらめなくてもよいといえる最大の理由がここにあります。

それらの問題を抱えているということは、あなたが可塑性の遺伝子を持っているということの証拠、すなわち、良い状況が訪れたときには、そのチャンスを最大限に活かせる手札を持っているということの紛れのない証拠でもあるからです。

回避性パーソナリティを克服した人たち

この生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)では、回避性パーソナリティを抱えていたと考えられるさまざまな人たちが、足踏みし、引きこもっていた時期を乗り越えて、ふと舞い込んできたチャンスを最大限に活かして大きな飛躍を遂げた例がたくさん載せられています。

その中には、作家の井上靖(p29,272)、村上春樹(p83)、森鴎外(p160)、星新一(p218)、音楽家のベートーヴェン(p103)、ブラームス(p214)などがいます。

作家が多いのは、たまたまではなく、感受性の遺伝子を持っている人の傷つきやすさは、鋭い感性ともなり得るということを雄弁に物語っています。

繊細な感性を備えたクリエーターは、自分の世界が壊れないように、自分を守らなければならない。現実の雑事などの余分な負担を避ける必要もある。

そこには、回避性の真髄が示されているとも言える。(p83-84)

実際に、作家や詩人には回避性の傾向を持った人が少なくない。

現実の中で自分のやりたいことをやすやすと行うことができるのならば、わざわざフィクションという方法で表現する必要もない。(p162)

この本には、ほかにも回避性を抱えつつも克服していった意外な人物として、「ピーターラビット」の作者ビアトリクス・ポター(p233)や、自身をモデルとして「のび太」を創りだした藤子不二雄なども出てきます。(p80)

もっと変わり種としては、「逃げちゃダメだ」のセリフが印象深い新世紀エヴァンゲリオンのキャラクター碇シンジも、架空の人物でありながら、回避性パーソナリティ的な性格が反映されているとされています。(p81)

そして、何よりも、著者の岡田尊司先生ご自身の、これまでの人生の経験談が、この本全体を貫く糸となっています。

もしかすると、この本は、回避性パーソナリティの傾向を持つ岡田先生が、自分の人生を語りたいけれど、正面切って自伝のように語るのは恥ずかしいという葛藤を抱え、それならば表向きは回避性パーソナリティの解説本にしてしまおう、という形で一歩踏み出した一冊なのではないか、とも思えます

そんな岡田先生をはじめ、これら回避性パーソナリティを乗り越えた様々な人たちの転機となったのは、ただ一歩踏み出して、目の前にたまたま舞い降りてきた小さなチャンスをつかんだことだといいます。

回避性の人が回復し始めたときに、しばしば起こるのは、それまで抱いていた大きな理想や願望にこだわるのをやめて、その人の前に提供された小さなチャンスに思い切って乗ってみるということだ。(o255)

ものぐさな回避性パーソナリティの人は、そんな小さな端切れのようなチャンスが何になるのかと感じて、なかなかやる気が起こらないかもしれませんが、実際にはそんな小さなチャンスで十分なのです。

なにせ回避性パーソナリティの人は、可塑性の遺伝子、つまり、ちょっとした環境の変化にさえ敏感で、チャンスに恵まれたとき、それを誰よりも活かせる感受性の強さを生まれつき持ち合わせているのです。

何より大切なのは、自分でその小さなチャンスに手を伸ばし、主体性を取り戻すというアクションです。

生まれつきの感受性は、他人に押し付けられた人生を生き、他人の手のひらでコントロールされているときは、人に対する恐れや失敗への恐怖となって手足を絡め取り、がんじがらめにしてしまいます。

しかし、たとえ対人アレルギーを持っているとしても、食物アレルギーと同じで、自分で何を選び、何を避けるかという主導権を握ってしまいさえすれば、症状が出ないように環境を整えることも可能です。

ひとたび、自分の人生を歩き始め、自分のペースで周りの環境をコントロールするようになってしまえば、繊細で敏感な自分なりのやり方、自分だけの生き方の道筋が開けてくるものです。

この本は、そんな繊細で敏感な回避性パーソナリティの人が、自分の手で小さなチャンスをつかむのをそっと後押ししてくれる本だと思います。

恐れのせいで一歩踏み出せず、自分の人生を見失ってしまい、生きることさえ面倒くさくなっている人は、寝転んだままで構わないので、この本を手にとって、スナック菓子をつまむくらいの気持ちで、さきほど挙げた人たちの興味深いエピソードを、だらだらと読んでみるといいと思います。

そうすれば、そんなちょっとしたきっかけに手を伸ばしたことが、あれよあれよと、びっくりするような変化を呼び込む最初の一歩になってしまうかもしれません。

なんといっても、回避性パーソナリティのあなたは、ほんの些細な変化にさえ生まれつき敏感で、ひといちばい過敏に反応してしまう感性の持ち主なのですから。

▼恐れ・回避型とのび太型ADHD
のび太が引き合いに出されていることから思い当たった人もいるかもしれませんが、おそらくは、回避性パーソナリティと、いわゆるのび太型のADHDは、共通の遺伝要因を持つ重なり合う概念ではないかと思います。

岡田先生の別著、愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、この記事で取り上げた恐れ・回避型(混乱型)の愛着スタイルとADHDとは、同じドーパミン関連の感受性に関わるの遺伝子が関係しているという研究があるそうです。

ひといちばい敏感な子を見ると、そうしたドーパミン関連の遺伝子や、この記事で取り上げたセロトニントランスポーター遺伝子などの感受性の遺伝子は、生まれつき敏感なHSPと密接に関連しているようです。(p436)

のび太型ADHDの人も、生まれつき敏感で、優れた感性を持っていて、そのせいで傷つきやすかったり、人間関係に悩んだりしやすいことは、以前の記事でも扱いました。

そのような人の場合、どちらが正しいというより、ADHDとして捉える見方と、不安定型の愛着として捉える見方の両方が、別々の角度から問題を捉えるアプローチとして役立つのではないかと思います。

気づかれにくい「女性のADHD」の10の特徴&治療に役立つポイント集 | いつも空が見えるから

 

 

【10/11】トラウマ研究の権威ヴァン・デア・コーク博士の本「身体はトラウマを記録する」が発売

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ラウマ研究の世界的権威であり、このサイトでも取り上げた発達性トラウマ障害(DTD)サバイバル脳といった斬新な概念を提唱したことで知られる、ボストン大学医学部のヴァン・デア・コーク博士の本身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が来月2016年10月11日に出版されます。

楽天ブックスの本書のページによると出版社である紀伊國屋書店からの内容紹介は次のようになっています。

私たちは何よりもまず、患者が現在をしっかりと思う存分生きるのを助けなくてはならないーー世界的第一人者が、トラウマによる脳の改変のメカニズムを解き明かし、薬物療法や従来の心理療法の限界と、EMDR、ニューロフィードバック、内的家族システム療法、PBSP療法、ヨーガ、演劇など、身体志向のさまざまな治療法の効果を紹介する、全米ベストセラー。トラウマの臨床と研究を牽引してきたヴァン・デア・コーク博士の集大成。

ヴァン・デア・コーク博士は2011年に来日し、「東日本大震災とトラウマ」をテーマにした講演を行うなど、日本の研究者との交流も盛んです。

これまでサイコロジカル・トラウマトラウマティック・ストレス―PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべてが邦訳されていますが、今回の本は、それらから10年以上を経ての「集大成」で、充実した内容を期待できそうです。

日本のトラウマ研究の権威である杉山登志郎先生も、この本の解説の中で、こう述べておられます。

■本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑問を感じつつそのままになっていた問題や、断片的な理解のままになっていた問題のほぼすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍にも広がったような体験をした。

本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。--杉山登志郎(「解説の試み」より)

タイトルでも示されているとおり、トラウマが単なる心の問題ではなく、身体的な影響をもたらすものであり、心理療法だけでなく、身体に働きかけるアプローチの有効性も説明する本となっているようです。

発達性トラウマ障害(DTD)にみられるような、解離症状や重い身体面の不調を抱える人にとっても参考になる一冊だと思われます。

価格は高めの本ですが、トラウマ研究に関心がある人にとって、間違いなく読んでみる価値のある一冊だといえそうです。

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!

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覚的思考力が高い自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの脳の特徴が、金沢大学 子どものこころの発達研究センターとモントリオール大学の共同研究プロジェクトで明らかにされました。

世界初! 自閉スペクトラム症児の視覚類推能力に関わる脳の特徴を捉える | 金沢大学

 

 自閉スペクトラム症児の視覚類推能力に関わる脳の特徴明らかに-金沢大 - QLifePro 医療ニュース

ASD児の視覚類推能力に新知見|QLifePro 医療ニュース|医療情報サイトその視覚的能力の高さは、脳の視覚野につながるボトムアップ型の情報処理と関連している多様な個性の一つであることがわかったそうです。

自閉スペクトラム症の優れた視覚的思考力

アスペルガー症候群などを含む、自閉スペクトラム症(ASD)の人の中には,たとえば「三次元の物体イメージを,心の中でうまく回転させることができる」など、視覚性の問題を解く能力が優れた人たちがいます。

そのことは、以前の記事で取り上げた天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)にも詳しく書かれていました。

アスペルガーの2つのタイプ「天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル」 | いつも空が見えるから

 

その秘訣として、モントリオール大学のローレン・モトロン教授らの、自閉スペクトラム症の大人を対象とした これまでの研究によると、脳の視覚野と他の場所の機能的結合、すなわち神経活動のつながりが強いことが重要であると考えられてきました。

一方で、脳機能を計測するには、放射線被曝のリスクがあったり、大掛かりな機器を使ってじっとしていることが必要だったりする難しさがあり、子どもを対象とした研究は行われていませんでした。

しかし、このたび国内唯一の、幼児用脳磁図計(MEG)という、子どもの頭の大きさに合わせて巻き、体に害のない方法で脳活動を計測できる機器を利用でき、研究への道が開けたそうです。

視覚的思考とボトムアップ思考が関係している

研究では、4 -10 歳の定型発達の子どもと自閉スペクトラム症の子ども、それぞれ18名を対象に、視覚を用いる課題をこなしてもらい、幼児用MEGで脳の神経活動を記録しました。

すると、自閉スペクトラム症の子どもでは、大人の場合と同様に、脳の後頭部の視覚野から他の部位への神経の活動のつながりが強いほど、視覚的な課題をこなす能力が高かったそうです。

自閉スペクトラム症児においては,視覚野(後頭部)から他の部位への機能的結合が強いほど,視覚性の課題(視空間課題および視覚性類推課題)の遂行能力が高いこと(※)が世界で初めて示されました。

またこの視覚野と他の領域との神経活動のつながりには、ガンマ帯域活動(GBA)と呼ばれる脳波の活動が見られたそうです。GBAは特にボトムアップ型の情報処理と関連していると言われています。

ガンマ帯域はボトムアップ処理を反映していると考えられることを踏まえると、自閉スペクトラム症児においては、視覚野からのボトムアップ情報処理が促進されている場合に、視覚情報処理の長所が発揮されていることが分かったとしている。

多様な個性を「見える化」する

ボトムアップ型の情報処理とは、トップダウン型の情報処理と対をなす言葉です。

トッブダウン型が上から見押すかのようにまず全体をおおまかに把握するのに対し、ボトムアップ型は下から積み上げていくように、細部を正確に把握してから全体像へと進んでいきます。

トップダウン処理とボトムアップ処理の違いや、それぞれの利点については、発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)にも次のような説明がありました。

大多数の取るトップダウン処理は、社会の維持にとって便利な反面、先入観が強くて独断的な判断に陥る可能性もある。

逆にいえば、自閉症者は、先入観なしに物事を判断する資質をもっているともいえるのだ。絶対的な物差しに則る、フェアな判断というわけだ。

…フェアで公平な見方をすることによって、必然的にコンピュータに強かったり、数学に強かったりする特徴に至るわけでもあろう。

一方で絶対的な判断は、相対的判断をする多数派から見ると、機械的だと称されることにもなる。(p81)

こうした大多数のトップダウン思考と、自閉スペクトラム症(ASD)のボトムアップ思考との違いは、以前の記事でも取り上げた互いへの違和感にもつながっているのでしょう。

アスペルガーから見たおかしな定型発達症候群 | いつも空が見えるから

 

しかしながら、トップダウン処理とボトムアップ処理はどちらも個性、向き不向きであり、優劣があるわけではありません。多様な思考が共存してこそ豊かな社会が生まれます。

今回の研究では、このような多様な個性の一端を客観的に明らかにしたという点で大きな意義を持っています。

この成果は、視覚性類推課題についての自閉スペクトラム症児の頭の働き方の特徴をとらえることができた世界で初めての報告。

子どもの脳の個性を「見える化」するひとつのステップになると、研究グループは期待を寄せている。

今後のさらなる研究による多様性の理解の進展にも期待したいところです。

金沢大学子どものこころの発達研究センターはこれまでにも自閉症に関する多数の先進的な研究を行っています。

その成果はこのブログでも以前に紹介した自閉症という謎に迫る 研究最前線報告(小学館新書)にまとめられているので、興味のある方はぜひ一読をおすすめします。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち

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■光や音、匂い、そのほかのさまざまな感覚に人一倍敏感
■場の空気や他の人の気持ちを読みとることが得意
■人より深く考え、呑み込みが早いと言われる
■感受性が強すぎるせいで刺激に圧倒されて疲れ果てることがある
■子どものころから空想の友だちなど不思議な体験をしてきた

なたはこのような、人一倍強い感受性の持ち主ですか? あるいは、もしかすると、あなたのお子さんがこのリストに当てはまるでしょうか。

もしそうなら、あなたやお子さんはHSP (Highly Senfitive Person)、つまり「人一倍敏感な人」や、HSC (Highly Senfitive Child)、つまり「人一倍敏感な子ども」と呼ばれる生まれつきの感受性の強さを持っているのかもしれません。

生まれつきの感受性の強さは、優れた才能につながることがあります。HSPの人は人の心をつかむコミュニケーション力に長けていますし、優れた芸術家や科学者の中には、HSPの繊細な感性を生かして成功した人が少なくないとも言われています。

しかし一方で、優れた感受性の強さのために、人混みやイベントで疲れやすかったり、学校で強いストレスを感じて不登校になったり、果ては慢性疲労症候群解離性障害といった心身の問題を抱えることもあります。

HSPとはいったいどんな性質なのでしょうか。しばしば混同されるアスペルガー症候群の感覚過敏とはどこが違うのでしょうか。やはり感受性が強いADHDとの間にはどんな関わりがあるのでしょうか。どんなリスクまた可能性を持っているのでしょうか。

HSPという概念を提唱したエレイン・N・アーロン博士ひといちばい敏感な子や、そのほかの関連する資料から、HSPについてわかりうることを広範囲にまとめてみました。

HSPとは何か?

HSP(人一倍敏感な人)、HSC(人一倍敏感な子)は、心理学者エレイン・N・アーロン博士によって提唱された概念です。

アーロン博士が1996年に書いたHSPについての本、ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)(原題は、「The Highly Senfitive Person」)は英語で出版された後、オランダ語、日本語、中国語、ギリシャ語、ポーランド語に翻訳されるベストセラーになりました。

アーロン博士はこれまで、「内向的」「怖がり」「引っ込み思案」などとネガティブに語られがちだった敏感な人についての研究に一石を投じ、それらの人は、本当は感受性豊かで創造的、そして子どもの15~20%を占める個性の一つなのだ、ということを明らかにしました。

そして、感受性の強さとは、おもに育て方によって決まる後天性のものではなく、持って生まれた先天性のもの、その人固有の遺伝的性質であり、才能ともなる、ということを学術的に立証したのです。

アーロン博士は、自身がHSPであり、子どももHSCであることから、人一倍敏感な人の性質や、そのような子どもの育て方について、とても深い洞察と研究を世に送り出してきました。

今回おもに参考にしたひといちばい敏感な子は2002年に書かれた10年以上前のアーロン博士の本の邦訳です。

しかし、日本語版に寄せて、2015年2月に書かれた最新の学術的情報を含む明快な解説が追加されており、その部分を特に参照して、HSPとは何かをまとめる助けにしました。

HSPの4つの特徴

HSPについては、世間ちまたでは、様々な形で紹介されていますが、本来の定義からそれた情報も少なくありません。誤解されがちですが、普通より感覚が過敏であれば すなわちHSPである、というわけではないのです。

HSPという概念を提唱したエレイン・アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSPには、特徴的な4つの性質が必ず存在すると述べています。

最近、私はこの根底にある性質には「4つの面がある」と説明しています。つまり、人一倍敏感な人にはこの四つの面が全て存在するということです。

4つのうち1つでも当てはまらないなら、おそらくここで取り上げる「人一倍敏感」な性質ではないと思います。(p425)

たとえ感覚が過敏な人であっても、その4つの性質のうちの1つでも当てはまらないならHSPではなく、その人の過敏さは別の問題から来ていることになります。

それでは、その4つの性質とは何なのでしょうか。アーロン博士は、それら4つの頭文字をとって「DOES」と呼んでいます。一つずつ見ていきましょう。(p425-432)

D 「深く処理する」

一つ目の性質は、「深く処理する」(Depth of processing)ことです。簡単に言えば、「一を聞いて十を知る」という性質のことです。

HSPの人たちは、単に敏感に反応するわけではありません。ちょっとした刺激や情報から、他の人以上に深く感じたり、深く考えたりします。無意識にであれ、意識的にであれ、物事を徹底的に処理し、理解していきます。

そのような意味では、HSPの敏感さとは「過敏性」ではなく「感受性の強さ」だと言えるでしょう。

この「深く処理する」という性質は、年齢以上に大人びた受け答えをしたり、初めて経験する場所や人の前で行動するまでに時間がかかったりという行動にも現れます。

これは、場の空気を読み取って行動する能力に優れているということです。自分の考えだけで直情径行に行動したりせず、その場の状況や相手の気持ちを深く読み取り、それに合わせて行動することができます。

HSPの人は、異文化や異なる社会背景の人の気持ちや行動を理解し、共感する能力に長けています。

ビアンカ・アセヴェドによる研究によると、HSPの人は非HSPの人より、脳内の島皮質と呼ばれる場所が活発に働いていたそうです。この場所は内面の感情や、外部の感覚刺激を読み取って統合する意識の座と言われています。(p426)

O 「過剰に刺激を受けやすい」

二つ目の特徴は、「過剰に刺激を受けやすい」(being easily Overstimulated)ことです。

HSPの人は、自分の内外で起こっていることに人一倍よく気がつき、処理し、配慮するので、精神的にかなりの負担がかかり、疲れやすく感じます。

変化に敏感で、普通よりも多くの新しい経験が得られるぶん、多くのことを読み取りすぎて疲れ果ててしまうこともしばしばです。

強い明るさ、大きな音、手触り肌触り、匂い、暑さ寒さなどからも、普通以上のストレスを受けたり、疲れや痛みも通常より強く感じてしまうかもしれません。

すでに触れたHSPの人で強く働いている島皮質は、そうした感覚を感じ取る感受性の源です。他の人と同じ刺激を受けても、感受性が強いせいでより強く刺激を受けてしまうのです。

人の多いパーティーや雑踏、大きな音の映画館や遊園地など、刺激の量が多い場所はことさら苦手です。他の多くの人にとっては、そこは日常よりも目一杯刺激を開けて楽しめる場所ですが、普段から人並み以上に刺激を感じ取っているHSPにとっては、そこは刺激が多すぎる場所なのです。

このような刺激を過剰に受けすぎる性質は、特に子どもの不登校の原因と一つとされる慢性疲労症候群(CFS)と密接に関係していると思われます。おそらくは、学校という集団行動において、普通の子以上に刺激を受けすぎてしまうのでしょう。

子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とHSPは、遺伝子レベルで要因が重なっている可能性があり、その点については後ほど改めて取り上げます。

また、過剰に刺激を受けすぎるという性質は、アスペルガー症候群、広汎性発達障害などで知られる自閉スペクトラム症(ASD)の子どもにもよく見られる特性ですが、HSPと自閉症は別のものです。この点についても、次の副見出しで詳しく取り上げます。

E 「感情反応が強く、共感力が高い」

三番目の特徴は「全体的に感情の反応が強く、特に共感力が高い」(being both Emotionally reactive generally and having high Empathy in particular)ことです。他の人の気持ちに同調する力の強さのことです。

ここまで考えてきたとおり、HSPの敏感さは、単に感覚刺激が強い過敏さではなく、深く処理する感受性の強さでした。そしてその中には、場の空気を読み取る力も含まれていました。それは共感力の強さです。

HSPの子どもは人の心を読み取る能力に長けていて、まわりの人の顔色を読んで、自分を合わせることが得意です。親の望むこと、友達や先生の望むことをよく読み取って、適切な配慮や気配りをすることができます。

本を読むときには物語の登場人物に深く感情移入し、相手が人間でなくても、動物やロボットや物にさえ、強い感情移入を示します。ときには、物語の内容や、テレビのストーリーに深く共感して、涙もろくなってしまうこともあります。

後で触れますが、このような他人への関心や共感性の強さは、子ども時代に空想の友だち現象(イマジナリーフレンド)として現れることもあります。

ヤージャ・ヤゲロヴィッチの研究によると、HSPの人では良い経験にも悪い経験にも人一倍強く反応する脳活動が、思考や感情をつかさどる脳の高度な部分で見られたとのことです。(p430)

S 「ささいな刺激を察知する」

最後の四つ目は、「ささいな刺激を察知する」(being aware of Subtle Stimuli)ことです。小さな音、かすかな匂い、ちょっとした変化など、細かいことによく気がつきます。

こうしたささいな刺激を感知する細やかさは、各感覚の受容体が敏感だから、というわけではなく、それらから入ってきた情報を受け取る感受性が強いからだと考えられます。アーロン博士はこう説明しています。

中には感覚器が特に発達している人もいますが、大半は、感覚器の反応が大きいのではなく、思考や感情のレベルが高いためにささいなことに気づくのです。(p432)

そのようなわけで、HSPの人は、どれか特定の感覚だけが過敏である、というわけではなく、さまざまな種類の刺激に対して繊細な反応を示すのです。

環境の変化や、物の配置が変わったことに目ざとかったり、自然の風景や動物とのふれあい、芸術作品などから強い影響を受けたり、親や友達のちょっとした声のトーンや態度の変化から、何かあったのだと察知したりします。

ただし、刺激が過剰すぎる状態では、かえって普通の人以上に気づくのが難しくなることもあります。これはおそらく、感覚の過剰さから脳を守るために、意識がぼーっとしたり上の空になったりする解離が生じるからでしょう。

このように、HSPの人は、「深く処理する」「過剰に刺激を受けやすい」「感情の反応が強く、特に共感力が高い 」「ささいな刺激を感知する」という4つの特徴が見られます。これらは内外の刺激に対する感受性の強さを物語っています。

アーロン博士が述べていたとおり、感覚の過敏性があっても、これら4つの特性のうち、一つでも当てはまらない部分があるなら、その人はHSPではありません。

感覚の過敏性があり、これら4つのうち幾つかは当てはまるものの、すべてを満たさない人の代表例は、途中でも名前が出た自閉スペクトラム症(ASD)の人たちでしょう。

HSPの感受性の強さと、ASDの感覚過敏が別のものであるといえるのはどうしてでしょうか。

アスペルガーの感覚過敏とは別のもの

はじめに、HSPの性質は、ネット上の多くの記事などで誤って説明されていることがあると述べましたが、特に区別があいまいになっているのは、自閉スペクトラム症(ASD)の過敏性との関係です。

自閉スペクトラム症とは、これまで広汎性発達障害(PDD)アスペルガー症候群(AS)として知られていた、さまざまな程度の自閉症を一括りにした概念です。

自閉スペクトラム症の人たちは、しばしば場の空気が読めず、社会的なコミュニケーションが難しいとされますが、そのほかにも様々な感覚過敏を抱えていることが少なくありません。

たとえば、スキー場などの明るさが強い場所や、電車や救急車などの激しい音のせいで感覚刺激が過剰になりすぎてパニックになってしまう人もいます。自閉スペクトラム症の当事者研究によわると、そのような過剰な刺激は「感覚飽和」と呼ばれています。

自閉スペクトラム症の独特な視覚世界を体験できるヘッドマウントディスプレイを大阪大学が開発 | いつも空が見えるから

 

このような感覚過敏の面だけを取り出すと、一見、自閉スペクトラム症は、人一倍敏感な人、つまりHSPであるかのように思えますが、実際にはそうではありません。

むしろアーロン博士は、自閉スペクトラム症とHSPをはっきり区別していて、正反対のものであるとしています。

HSPは共感力がとても強い

すでに4つの特徴の中で説明したとおり、HSPの人たちは、場の空気や他の人たちの気持ちに敏感です。親や友達や先生の気持ちを先回りして読み取り、適切に配慮する能力に長けています。

HSPの人たちは、感情移入して相手に配慮できるので、しばしばサービス業などコミュニケーションを要する職種に就きますが、そうした社交的な能力は、自閉スペクトラム症の人には見られません。

ひといちばい敏感な子にはこうあります。

HSCと混同される理由は、自閉症やアスペルガーの子どもたちは、感覚的な刺激に極めて敏感な点です。

でも、場の空気や相手の気持ちには敏感とはいえません。これがHSCと大きく異なるところです。(p66)

では、HSPとは、感覚の過敏性を持つ自閉傾向の人たちのうち、コミュニケーションの点ではさほど苦労がない人、つまり程度の軽い自閉症なのでしょうか。

アーロン博士は、その見方をもはっきりと否定しています。

HSCは、「自閉症スペクトラム」のうち、程度の軽いほうに属するのてはないかという議論もありますが、私は違うと思います。

「自閉症スペクトラム」の程度の軽い子を表現するなら、何か癖があったり風変わりだったり、融通が利かなかったり、感情が乏しかったりということになるでしょう。

HSCを含め、疾患がない子どもは、生まれつき人と関わることを望んでいます。(p67)

アーロン博士が説明するとおり、HSPの人たちは、自閉症のうち程度の軽いものでもありません。自閉症のうち、言語コミュニケーション能力に秀でた程度の軽いもの、とされているのは、アスペルガー症候群ですが、彼らにとってコミュニケーションは決して簡単ではありません。

アスペルガー症候群は、確かにカナー型などの自閉症と比べると程度は軽い、という見方ができますが、実際には人との通常の関わりが難しく、社会で「空気が読めない」というレッテルを貼られてしまう人たちも少なくないのです。

アーロン博士は、むしろ、HSPは自閉症の軽いものであるどころか、正反対のものであると述べます。

つまり、人づきあいが不器用で、人との関わりもあまり望まない自閉傾向のある人たちとは違って、HSPの人たちは人への強い興味があり、根っからの社交性を持ち合わせているのです。

異なる立場の人を理解する力に長けている

自閉スペクトラム症の人たちがコミュニケーションを難しく感じる理由として、人の動きを真似するときに発火する脳のミラーニューロンや、それが組み込まれた脳の共感システムであるミラーシステムの働きの問題がしばしば指摘されます。

しかしHSPではその反対の結果が観察されていて、ミラーニューロンの働きが活発であることがわかっているそうです。

HSPは非HSPに比べて、ミラーニューロン系の働きも活発です。特に、自分の大切な人があれしい、あるいは悲しい表情を浮かべるのを見た時や、知らない人がうれしい顔をした時にもこの傾向が見られます。

これは、HSPが、感情を感じ取った相手に同調すること、全般的にポジティブなことに同調した結果といえるでしょう。…子どもが残酷なことや不公平なことに動揺しやすいのも当然でしょう。(p431)

このような点でも、HSPと自閉スペクトラム症は正反対の特徴を持っているといえますが、こと共感性について言うと、HSPはもっと独特な性質を持っています。

以前の記事で取り上げたとおり、自閉症の人たちが、「共感力がない」とする見方は、近年では誤りとされています。というのも、自閉スペクトラム症の人たちも、自分と同じ自閉スペクトラム症の人相手には共感性を示せるからです。

そして、世の中の多くの人も、自分と同じ集団、自分と同じ社会の人に対しては共感する力を持っています。ある意味で、自閉症の人も、自閉症でない人(つまり定型発達者)も、自分と同じ相手のことは理解でき、そうでない人の気持ちはわからないという点で共通しています。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった | いつも空が見えるから

 

自閉スペクトラム症の人たちが定型発達の人の気持ちがわからないように、定型発達の人も自閉スペクトラム症の気持ちがわかりません。そして国や人種が変われば、定型発達者同士でも理解や共感ができないため、衝突や差別や偏見や戦争が引き起こされてきました。

こうした観点からすれば、共感性という点では、自閉スペクトラム症の人も定型発達者も似たり寄ったりです。

しかし、HSPの人たちは、この点で独特な立場にいます。

ひといちばい敏感な子によると、HSPの人たちは、際立った共感力のおかげで、文化の違いなどの影響にとらわれにくいことが研究からわかっています。

私のチームが行った研究では、アジア地域とアメリカのそれぞれで生まれ育ったHSPと非HSPについて、育った地域によって難易度が異なるとされる認知処理りの作業のしかたを比較しました。

つまり、アジアのように集団を尊重する文化で育った場合と、アメリカのように個々を尊重する文化とで、脳の活動度がどのように違うかを検討したのです。

非HSPの脳は、自分の文化で育った人にとって難しいと感じる作業をした時に、ふだんより多くの労力を使っていましたが、HSPの場合は、生まれ育った地域にかかわらず、特別な労力を使ってはいませんでした。彼らは文化の違いを超えて、物事の「本質」を見ているかのようでした。(p426)

HSPの人たちは、物事を深く感じ取って処理するので、文化による表面的な違いにとらわれにくく、どちらにも共通する本質を感じ取り、異なる文化圏の活動にも自分を合わせることができました。

HSPの人は、場の空気を読み取ることに長けていますが、それは異なるタイプの環境に自分を合わせていける柔軟さのことでもあります。別の文化、という場の空気にもまた適切に順応し、労せずして異なる背景、文化、人種、宗教などの人たちに合わせることができるのです。

この研究については、さらに次のような補足も書かれていました。

HSPのこうした性質についても、脳の活動を調べた研究データすがあります。まず、似た写真を見せて違いを見つける試験では、試験中、HSPの脳は非HSPに比べてはるかに活発に働いていました。

また、前出の文化背景に関する試験では、ささいな違いを見つける能力は、HSPは育ってきた文化の影響を受けていないのに対し、非HSPはその影響を受けていました。(p433)

この説明からわかるとおり、HSPの人は、異なるものの違いを見つけるとき、育ってきた文化によるバイアスを受けていませんでした。

文化的なバイアスというと、たとえばわたしたちの日本の社会では、メディアなどの報道のせいで、中国製品は信頼できない、イスラム国は危険だ、といったものがあるかもしれません。

そのせいで個人的に中国人やアラブ人と会ったとき、無意識のうちに先入観が働いて、悪いイメージを持ってしまう人も少なくないでしょう。

また、文化的なバイアスは、男女についてのイメージとも関係しています。男女の脳には本来大きな違いがないのに、男の子はチャンバラ、女の子はおままごとといったイメージがあるために、娯楽や育て方や教育までが左右され、文化的に作られた男らしさ、女らしさ、つまり「ジェンダー」ができあがります。

しかし、HSPの人たちは、そうした文化的なバイアスにとらわれにくく、深く処理する感受性のために、本質をとらえることができ、文化の違いや性別の違いに影響されない感性を発揮することができます。

このようなジェンダーや文化の枠にとらわれない感性は、創造性の強いクリエイティブな人たちの特徴とされています。さまざまな背景の人たちに訴える魅力を備えた、ワールドワイドな製品やサービス、芸術などを作ることができるからです。

脳神経科医オリヴァー・サックスのミクロネシア諸島への旅行記、色のない島へ: 脳神経科医のミクロネシア探訪記 (ハヤカワ文庫では、異文化間を橋渡しする仕事において、そのような感性が いかに役立つかについてこう書かれていました。

しかし人類学者は先住民の詩や儀式そのものだけを研究の対象として扱う傾向があるので、その内面や精神、詩を吟ずる人の視点にまで立ち入ることは難しい。

人類学者にとっての歴史は、たとえば外科医にとっての患者のようなものだ。異なる歴史観や文化を十分に理解したり共有したりするには、歴史家や科学者の技術を超えた何かが必要なのだ。

つまり、特別な芸術的・詩的な感性が必要とされるのである。(p282)

ここで言及されている「芸術的・詩的な感性」こそが、HSPの人が持つ感受性の強さです。

異文化に接する人は、しばしばサンプルを扱うかのような冷淡で機械敵な態度をとりがちです。これは患者を研究対象としか見られない医者などの場合もそうです。

しかしHSPの人たちは、異なる立場、異なる種類の人たちを同じ対等な人間として見て、理解し、共感できる力を持っており、異文化からより多くの知識や発見を引き出すことができます。

患者に対して友人のような思いやりを示す医師がいれば、その人はきっとHSPとしての感受性の豊かさを持っているのでしょう。また定型発達者と自閉症の人たちの橋渡しができるような人もまたしかりです。

一方で、この強い感受性は、マイナス方面に発揮されてしまうこともあり、それが以前にこのブログで紹介した、「過剰同調性」と呼ばれるものです。これについては、この記事の後の部分、解離性障害との関わりのところで再度取り上げます。

「敏感性感覚処理」と「感覚統合障害」

このように、HSPと自閉スペクトラム症は、場の空気を読み取る能力の点では、正反対ともいえる性質を持っています。

では、どうして両者では、共通する性質として、感覚の過敏性が見られるのでしょうか。

この二つを混同してしまうのは、じつは言葉のあやのようなものです。本当は、HSPの人が抱える敏感さとASDの人たちが抱える過敏性はまったく別のものなのに、同じ感覚過敏という言葉で説明しているせいで、本質が伝わっていないのです。

ひといちばい敏感な子によると、じつは、HSPと自閉スペクトラム症の感覚過敏は、学術的には、それぞれまったく別の用語が当てられているそうです。

[HSPの感覚過敏は] 学術文献では「敏感性感覚処理(sensory processing sensitivity)」と呼ばれています。第1章でも述べましたが、「感覚処理障害(sensory processing dosorder)」や「感覚統合障害(sensory integration disorder)」と混同しないでください。(p424)

ここで紹介されているとおり、HSPの感覚過敏は学術論文では「敏感性感覚処理」という名前がつけられています。あるいは、別の箇所では「差異感受性」(differential susceptibility )とも呼ばれています。(p434)

他方、自閉スペクトラム症の感覚過敏は、「感覚統合障害」ないしは「感覚処理障害」と呼ばれます。発達障害の早期療育の一つとして「感覚統合療法」という方法をご存じの方もいるでしょうが、一般に感覚過敏として認識されているのはこちらのほうです。

では、HSPの「敏感性感覚処理」「差異感受性」と自閉スペクトラム症の「感覚統合障害」「感覚処理障害」は何が違うのでしょうか。

わかりやすくするために単純化して考えると、これは「入ってくる」感覚の過敏性と、「受け取る」感覚の過敏性の違いだと思われます。

わたしたちは、まず外部から情報が「入ってくる」とき、ちょうどフィルターで濾し取るかのように、 無意識のうちに必要でない情報が取捨選択され、大事な部分だけが脳に届くようになっています。もしこのフィルターが働いておらず、情報がそのままなだれこんできたら、脳が圧倒されてしまいます。

自閉症では、このフィルター部分が弱く、外部かからのありのままの情報がそのままなだれこんで来やすいようです。そのため、刺激の多い場所に行くと、騒音が脳に突き刺さったりするような過剰な感覚に圧倒され「感覚飽和」を起こし、メルトダウンとも呼ばれるパニック状態に陥るのでしょう。

このようなありのままな情報がなだれ込んでくることで、かえって特殊な才能を発揮する人たちの中に、自閉症のサヴァンと呼ばれる人たちがいます。彼らの中には、たとえばスティーヴン・ウィルシャーのような、見たままの風景を記憶して写真のような絵を描ける人や、キム・ピークのように数千冊の本の内容を一字一句たがわず丸暗記できる人がいます。

なぜ自閉症・サヴァン症候群の人は精密な写実絵を描けるのか | いつも空が見えるから

 

こうした人たちは、情報を取捨選択するというフィルターが働いていないため、わたしたちであれば大事な部分しか印象に残らず、後はきれいさっぱり忘れたり見逃したりしてしまうような視覚情報をそっくりそのまま認識し、記憶することができるのです。

もちろん自閉症といってもそこまで顕著な人は少なく、人によってどのような感覚過敏が強いかはさまざまでしょうが、一般に「感覚統合障害」の本質は、情報が適切に取捨選択されずになだれ込んでくることにあると考えられます。

アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSPと自閉症の過敏性の違いを次のように説明しています。

例えば、自閉症スペクトラムの場合は、感覚処理の過剰な負担に反応することもありますが、反応しなすこともあります。自閉症の場合は、注意を向けるべきものと排除していいものとを見極めるのが難しいようです。

ですから、人と話す時に、相手の顔よりも靴に気をとられてしまうことがあるのです。それに対して、HSPは顔をはじめとする社会的な手がかりに注意を払います。(p429)

このように、自閉症の感覚過敏は、入ってくる刺激のうち、必要なものと排除すべきものが選り分けられていないことによる「感覚処理」の問題、そしてそれらを「感覚統合」することの問題なのです。

一方で、HSPの感覚過敏は「受け取る」側の感受性の強さです。HSPの人の場合、「入ってくる」感覚はしっかり統合されているので、洪水のような情報がなだれ込んでくることはありません。自閉症の人たちのようなメルトダウンと呼ばれる独特なパニック状態にはなりません。

しかし、「入ってくる」情報は適正でも、「受け取る」側の感受性が強いため、少ない刺激でも人より深く処理してしまいます。

これはまさに、先ほど書いたとおり「一を聞いて十を知る」です。入ってくる量は「一」であり、決して過剰ではないのです。しかし受け取る側で情報を増幅して、「十」を感じ取ってしまいます。

この「受け取る」側の感受性の強さは、受け取った情報を解釈し、加工する能力が強いということを意味しています。この部分が、自閉症の感覚過敏にはない別の特徴を生み出します。

というのは、自閉症とHSPの違いとして、先ほどから度々話題に上っているのは、場の空気を読み取り、他の人に共感する能力の強さでした。

自閉症でも、HSPでも、光や音、におい、手触りなどには敏感ですが、人の気持ちや場の空気に対する敏感さは、HSP特有のものなのです。自閉症の人たちは、どちらかというとそれらには鈍感なほうに属しています。

人の気持ちや場の空気というのは、光や音、におい、手触りのような物理的な刺激ではありません。ですからありのままの情報が過剰になだれ込んでくることはありえません。言葉にこめられた感情や、場の空気というのは概念的なものです。

しかしHSPの人は、物理的な刺激に過敏になわけではなく、他の人と同じ物を見、同じ音を聞いているのに、それらを解釈する力が強いせいで過敏に反応します。

すると、だれかから言われた言葉の内容や、周りの人の顔色といった概念的な情報にも、敏感に解釈し、「十を知る」敏感さを示すのです。

このように、自閉スペクトラム症とHSPの最大の違いとされていた場の空気への共感性は、それぞれの過敏性の違い、「入ってくる」情報が過剰か、それとも「受け取る」感受性が強いかという性質の違いに由来していて、アーロン博士の言うとおり、両者は正反対のものなのです。

共感覚にも二通りある

このような自閉スペクトラム症とHSPの感覚過敏の違いは、低次の領域の感覚過敏高次の領域の感覚過敏という分け方もできるかもしれません。

自閉スペクトラム症の人も、HSPの人も、しばしば共感覚を持っていることがあります。共感覚とは、簡単に言えば、ある感覚が、通常は関連していないはずの別の感覚と強いつながりをもって感じられることです。

たとえば黒字の文字を見るとさまざまな色がついて見えるとか、音を聞くと色が見えるとか、数字が空間に配置されて感じられるとか、さまざまなタイプがあります。

共感覚について研究している脳神経学者のV・S・ラマチャンドランは、一見同じように思える共感覚にも低位の共感覚高位の共感覚とがあることに気づきました。この「低位」また「高位」というのは、劣っているとか高度であるという意味ではなく、脳の情報処理の領域の違いを指しています。

脳のなかの天使によると、たとえば、文字に色が見える共感覚には、二種類のタイプの人がいると言われています。一方は、文字の形に反応するタイプ。他方は文字の意味に反応するタイプです。

形に反応するタイプは低位の共感覚であり、「3」と「三」と「III」では、いずれも違う色が見えます。色は視覚的な外形と結びついています。

意味に反応するタイプは高位の共感覚であり、「3」と「三」と「III」は、すべて同じ色が見えます。色は視覚的情報ではなく、それぞれの意味や概念と結びついているのです。

ラマチャンドランは、これらの共感覚は、一見よく似ているものの、脳の内部ではまったく違うプロセスが生じていると分析しています。

一部の共感覚者では、低位の紡錘状回ではなく、角回付近に位置する色と数に関する二つの高次領域のあいだでクロストークが起きているという可能性はないだろうか。

もしそうなら、彼らの場合には、曜日や月によって呼び起こされる抽象的な数の表象や概念に、はっきりとした色がついている理由が説明できる。

言いかえれば、共感覚の遺伝子がどちらの脳領域に発現しているかによって、共感覚者のタイプが分かれる―数の概念によって共感覚が起きる「高位」の共感覚者と、視覚的外形だけで起きる「低位」の共感覚者である。(p146-147)

少し難しい説明ですが、簡単に言えば、形と色がつながっている低位の共感覚は、脳の色や形を処理したり統合したりする浅い処理プロセスにおける混線で、概念と色がつながってる高位の共感覚は、もっと深い思考にかかわってくるプロセスにおける混線である、ということです。

これは、先ほど考えた、自閉症の「感覚統合障害」とHSPの「敏感性感覚処理」の違いとよく似ています、

低位の共感覚が起こる部分は、脳の情報処理のより浅い部分、つまり外から入ってくる情報を処理し、統合する部分の混線であり、本来は別々の処理するはずの感覚がなぜか混ざり合ってしまっている状態です。

一方の高位の共感覚が起こる部分は、脳の情報処理のより深い部分、つまり処理された情報を受け取る感受性に関わる部分であり、情報を解釈するプロセスで、別々の情報を過敏に関連づけ、概念レベルで混ぜ合わせている状態です。

もちろん、必ずしも低位の共感覚が自閉症に特有のものであるとか、高位の共感覚がHSPに特有のものであるというわけではないかもしれません。

しかし一般にひとくくりにされる共感覚が情報処理の過程によって少なくとも2タイプあることは、やはり十把ひとからげにされがちな感覚過敏もまた、感覚が処理される過程によって、複数の種類があるということを示唆しています。

HSPと自閉症の創造性は正反対

アーロン博士のひといちばい敏感な子によると、概念や意味の解釈に鋭く、感受性が豊かなHSPの人たちは、昔から、作家や芸術家など、クリエティブな感性を要する職業で優れた業績を上げてきました。

昔から、敏感なタイプの人は、科学者やカウンセラー、宗教家、歴史家、弁護士、医師、看護師、教師、芸術家などの職に就いてきました。(p46)

現代では、組織の集団主義が浸透しすぎて、そうした職業でHSPの人がやっていくのは難しくなってきているようですが、それでも繊細で敏感な感性は、クリエイティブな仕事に大いに役立つ才能といえます。

そして、興味深いことに、先ほどHSPの人の感受性とよく似ていると述べた高位の共感覚もまた、脳のなかの天使によると作家・詩人・芸術家の才能において大きな役割を果たしてきたと言われています。

才能に恵まれた作家や詩人は、単語や言語に関与する領域どうしのあいだに過剰な結合をもち、才能に恵まれた作家やグラフィックデザイナーは、高位レベルの視覚野どうしのあいだに過剰な結合をもっているのかもしれない。

「ジュリエット」、「太陽」といった一つの単語でさえ、意味の渦、あるいは豊かな連想の渦の中心として考えることができる。才能に恵まれた文章家の脳のなかではその渦が過剰な結合により大きく広がって、より大きな重なり合いができ、それに付随してメタファーに向かう傾向がつよくなるのだろう。

これで、創造的な人たち一般に共感覚の出現率が高いことの説明がつけられるかもしれない。(p154)

高位の共感覚もまた、概念や意味といった深く処理し、混ぜ合わせる力なので、作家や芸術家の創造性と深いつながりをもっています。創造性とはとりもなおさず、情報を人並み以上に鋭く加工し、料理する技術であるといってよいでしょう。

文才豊かな作家や、言葉で絵を描くとも言われる詩人がメタファー、つまり比喩や隠喩などの美しいたとえをひねりだすことができるのは、物事の本質を深くとらえ、意味を解釈して結び合わせることのできる力によるのです。

HSPの人の感受性の強さと、高位の共感覚とは、おそらく同じ土台を持っているものであり、どちらも複数の感覚を混ぜ合わせ、より強く感じ取る感性を指しているのだと思われます。

他方、アスペルガー症候群をはじめとした自閉スペクトラム症の人たちもまた、高い創造性を示すことがあります。

しかしこの点でも、一見同じ創造性に見えても、HSPの創造性とは正反対の特徴を持っています。

近年、自閉スペクトラム症の人たちの脳の活動が統合失調症の脳の活動とよく似ているという研究結果がありましたが、脳のなかの天使には、統合失調症の創造性について次のような説明があります。

脳の配線に問題のある統合失調症の人は、メタファーやことわざの解釈が苦手である。しかし臨床で伝えられているところによれば、彼らは語呂あわせに長けている。これはつじつまがあわないように思えるメタファーも語呂あわせも、無関係と思える概念を結びつけることがかかわっているからだ。

それなのになぜ、統合失調症者は前者が苦手で後者が得意なのだろうか? それは両者が似ているように見えても、実際には語呂あわせはメタファーとは反対だからだ。

メタファーは、表面レベルの類似性を利用して、奥深く隠れた結びつきをあらわにする。語呂あわせは深いレベルであるかのようによそおった表面レベルの類似性である―だから滑稽さがある。

…ひょっとすると、「わかりやすい」表面レベルでの類似性に気をとられることによって、深い結びつきに対する注意が失われたり、そらされたりするのかもしれない。(p157)

HSPの「敏感性感覚処理」や、高位の共感覚を持つ人たちは、比喩や隠喩などのメタファーに秀でていましたが、統合失調症の人たちは逆に語呂あわせに秀でているとされています。

これは、統合失調症と脳の働きが似ているとされるアスペルガー症候群でもよく見られる特徴であり、たとえばアスペルガーだったとされるルイス・キャロルは語呂あわせが大好きで、不思議の国のアリスなどの作品にもたくさん織り込みました。

そうしたアスペルガーの作家たちの作品の特徴については、以下の記事にまとめています。

自閉症・アスペルガー症候群の作家・小説家・詩人の9つの特徴 | いつも空が見えるから

 

独創的なアスペルガーの芸術家たちの10の特徴―クリエイティブな天才の秘訣? | いつも空が見えるから

 

作家にしろ、画家にしろ、彼らの作風の特徴は、膨大な知識から編み合わされるコラージュ的な要素を持っているとされています。

先ほど、見た風景をそのまま記憶しているスティーヴン・ウィルシャーや、読んだ本を一字一句暗記しているキム・ピークを引き合いに出しましたが、自閉スペクトラム症の人たちは情報をありのままに受けとり、記憶する能力に長けているため、それらを語呂あわせしたりコラージュしたりするのが得意なのです。

なぜアーティストは生きづらいのか? 個性的すぎる才能の活かし方でも、そのような優れた正確な記憶力による引き出しの多さで、音楽的な才能を発揮しているアスペルガーのミュージシャンについて書かれていました。

だから独創性という意味では、このタイプの人は、どちらかというと、純粋な意味でのオリジナリティを発揮するのが難しい人が多いのかもしれません。ただ、ものすごく知識が豊富なので、自分で学んだ多くのパターンから独自の組み合わせを引き出して結果としてオリジナルな方はいらっしゃる。(p72)

本書の中でも、自閉症スペクトラムの傾向を持つ人は即興が苦手だと思われがちだが、膨大なフレージングの引き出しを持っている場合には、むしろ即興の名手になりうるというくだりがありますが、俳優もミュージシャンと同じなんですね。(p125)

この2つの創造性、つまりHSPの感受性や高位の共感覚をベースとする自由奔放な比喩のような創造性と、アスペルガー症候群などに見られる、膨大な引き出しから合成される語呂あわせやコラージュ的な創造性とは、基本的にいって共存しえないものです。

というのは、アスペルガーの創造性は、ありのまま素材をそのまま組み合わせたものであり、HSPの創造性は、素材が調理されて煮詰められたスープだからです。

アスペルガーの人たちは、受け取った大量のありのままの情報が脳の中に蓄えられていきます。それが自閉スペクトラム症の感覚過敏の正体でした。

以前の記事で紹介したとおり、自閉スペクトラム症の人たちは、年月が経過しても記憶がかなり正確であると言われています。記憶が加工されにくいので、正確な記憶による語呂あわせやコラージュができます。

一方で、ありのままの情報を受けとるということは、適切に解釈することが苦手、ということでもあります。

それは、アーロン博士がひといちばい敏感な子で述べるように、比喩表現を字句通りに受け取ってしまったり、冗談を額面通りに解釈してしまったりという、自閉スペクトラム症ならではの融通の利かなさにもつながります。

アスペルガーの子は、コミュニケーションを取りたがりますが、人の話を聴いたり、話すタイミングを直感的に理解することができず、なかなかうまくいきません。

婉曲表現や皮肉を理解する、秘密を守る、顔色を読む、といったことも苦手です。誰も興味がないような事柄について、淡々と話すことがよくあります。このような点はいずれもHSCでは見られないことです。

それに対して、HSPや高位の共感覚者は、情報を受け取ったらすぐに加工してしまいます。「一を聞いて十を知る」ということは、つまり9割方は勝手に作り出したものだということです。

情報の正確さは失われますが、それらを混ぜ合わせ、味付けして、独特な感性によって新しいものを創造できます。もとの素材をそのまま残すということと、それらを加工してスープにするということは、どちらか一方しか選べないのです。

HSPは脳のインタープリターの働きが強い

このように、HSPと自閉スペクトラム症は、どちらも、感覚過敏や共感覚があったり、創造性を発揮したりすることがありますが、表向きは似ているようでも、よく理解すれば、まっったく逆の性質に基づいていることがわかります。

わたしたちはしばしば、自閉スペクトラム症と定型発達者という枠組みで考えがちですが、それは正確ではないのでしょう。

一つの物差しを用意して、左端を自閉症とすると、右端は定型発達ではなく、HSPとなるのです。左端が自閉症、真ん中が定型発達者、そして右端がHSPです。

では、この物差しとは何なのか、というと、これは脳の意味を解釈するシステム、「意味システム」または「インタープリター」(解釈者)と呼ばれる部分の強さだと思われます。

先ほどの見たままの写真のような絵を描けるサヴァンの画家などについて考察した芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察では、こう指摘されていました。

自閉症例では、大脳皮質にも問題がある可能性が示唆されている.

そのために、言語学的な意味に関係するだけでなく経験自体や経験の意味するところを貯蔵するシステムでもある“意味システム”が描くことに関係した神経システムと離断された状態にある、と考えられるのである.(p97)

自閉症の人たちの解釈の弱さは、「意味システム」の働きの弱さを意味しています。

認知神経科学の権威マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語るの中で脳の左半球には、言語的情報の意味や解釈に特化した「インタープリター」(解釈者)という領域があることを説明しています。

左半球には、状況の要点を把握し、できごとの概要にうまく当てはまるような推論を行い、そうでないものはみな捨て去る傾向がある。こうした手の込んだ作業をすることで正確性には悪影響が生じるが、一般的には新しい情報の処理が容易になる。(p178-179)

したがってインタープリターにとっては、事実は確かに貴重ではあるが必須というわけではない。左半球は手近にあるものを何でも使い、残りを即興で埋めている。(p179)

この説明が示すとおり、脳の左半球、特に言語機能の一部をなす「インタープリター」は、単に言語を操るだけでなく、概念的な意味の解釈や、ストーリーの創造に関わっています。

「インタープリター」にとって受け取った情報は手がかりとしては大切ですが、あくまで材料にすぎないため、正確さを期すためそのまま保存するようなことはありません。それらを解釈し、加工し、組み合わせて、あるときは都合のよい作り話へ、あるときは感動的な物語へと作り変えてしまうのです。

このインタープリターは「トップダウン」の思考方法、つまり全体をおおまかに見渡して、だいたいの検討をつける情報処理に特化していると言われていて、自閉スペクトラム症の人が得意とされる、緻密に一つずつ積み上げていく「ボトムアップ思考」とは正反対です。(p266)

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明! | いつも空が見えるから

 

インタープリターは、脳のどこか一箇所というよりは、複数の部分からなるネットワークによって成り立っているのでしょう。先ほど出てきた島皮質や角回など情報の解釈に関わる脳領域の活動が感受性の強さとも関係しているのではないかと思います。

インタープリターの機能が弱いせいで、解釈されない正確な情報の扱いに長けているのが、数学やプログラム、マニアックな専門知識に強い自閉スペクトラム症であり、逆にインタープリターの機能が強く鋭い解釈や感受性の強さを発揮する人たちが、芸術やコミュニケーションに強いHSPの人だといえます。

もちろん、これから説明するように、HSPに複数のタイプがありますが、おおまかな区別として、HSPと自閉スペクトラム症とは正反対の傾向を持っている、ということを知っておくと理解しやすくなるでしょう。

アーロン博士が述べていたように、先の4つの特徴すべてに当てはまらないなら、たとえ一部似ている特徴があるとしてもHSPではなく、むしろ正反対の性質を持っているということさえあるのです。

HSPとADHDは同じものなのか

ここまで考えてきたのは、アスペルガー、また自閉スペクトラム症という人たちについてですが、それとは別に、HSPとよく似た性質を持つ人たちとして、ADHD(注意欠如多動症)の人がいます。

ADHDの人たちもまた、さまざまな物事への感受性が優れていますし、突飛なアイデアを駆使した、素材を調理してスープにしてしまうような創造性を発揮することで知られています。

アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSCとADHDの類似性については幾度も言及していて、次のような意見を述べています。

表面上はこの2つはとてもよく似ていて、多くのHSCがADHDと誤診されていると言う専門家もいます。

私はHSCがADHDだということは、ありえると思います。

でも、この2つは同じではありませんし、ある意味で正反対ともいえます。(p64)

「HSCがADHDだということはありえる」けれども「ある意味で正反対」という歯切れが悪いというか、ややこしい説明がされていますが、ADHDとHSPの関連性を考えると、確かにこう言うしかないように思えます。

HSPとADHDの違い?

まず、アーロン博士が、HSPとADHDは同じものではなく、ある意味で正反対だと述べる根拠は、この本で繰り返し語られている次の点に集約できます。

HSCはたくさんのことに気がつくので、気が散りやすい傾向にあります。ただ通常は、受け取った情報を深く処理する性質のほうが樹の散りやすさよりも強く、不安のない静かな場所では集中力を発揮することができます。(p57)

学校の環境が騒がし過ぎたり刺激が多過ぎたりすると、ADD/ADHDのような反応を見せることがあります。(p337)

つまり、HSPの子どもは、刺激の強い環境に置かれるとADHDのような多動・衝動・不注意になりますが、刺激のない環境では穏やかさを取り戻し、集中することもできます。他方、ADHDの子どもはどんな環境でも多動・衝動・不注意のままだということです。

ADHDに詳しい方、また当事者の方はお気づきかと思いますが、一般的に言って、ADHDの診断のときに、このような点がはっきり考慮されることはまずありません。

むしろ、ADHDの子どもが集中しやすいように、学校や家で環境調整して、気を散らす刺激をなくすという配慮が指導されることはよくあるものです。

アーロン博士の分類によると、そうした方法が功を奏する子はすべてADHDではなくHSPということになります。

愛着障害との切っても切れない関わり

また、アーロン博士がADHDだとしている、どんな環境に置かれても多動性や衝動性が収まらない子は、ADHDでない可能性もあります。

端的に考えて、外部の刺激を減らしても多動性が収まらない子どもは、どんな環境に置かれても変わらない内部の刺激によって駆り立てられ、多動になっているのかもしれません。

そのような内部の刺激は、ADHDのような脳内物質のアンバランスの可能性もありますが、より明確なのは、愛着障害の子どもたちのケースです。

以前の記事で取り上げたように、愛着障害の子どもたちは、ADHDと症状がよく似ていて、さらに愛着障害とADHDを合併しているケースも少なくありません。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか | いつも空が見えるから

 

愛着障害とは、恵まれない養育環境などのため、親子の愛着形成が不十分だったときに生じる症状です。自分を守り養ってくれる安心できる保護者のイメージを育むことができなかったがために、常に警戒し、緊張している状態になります。

子どものPTSD 診断と治療によると、愛着障害とADHDの脳の機能障害は原因こそ違えど、脳の内部で生じている反応は、ほとんど区別がつきません。

トラウマ障害の過覚醒は子どもの命を守るために脳が後天的に身につけた手法のようなものであり、ADHDにおいては、記憶にとらわれない覚醒過剰持続が存在しているといえよう。

…ADHDとトラウマ障害の近似点は、脳科学的な研究からもうかがえる。

HartやTomodaの研究では、被虐待児における脳容量や活動異常の部位が、ADHDで報告されている部位とほぼ同領域であることを報告している。(p117)

愛着障害の子どもは、家庭にいても落ち着かないのはもちろん、一人でいるときも多動で落ち着かないという特徴があります。愛着とは本来、親から離れているときに、一人でいても情動の安定を保てるようにするため、親の温かいイメージを内在化するためのシステムだからです。

そうすると、アーロン博士がHSPとみなしている環境が整えば落ち着く子どもは、実は愛着形成に成功している親子関係がしっかりしたADHDの子どもであり、ADHDとみなしているいつも多動な子どもは、愛着障害の子ども、あるいはADHDに愛着障害を併発している子どもかもしれません。

さらに話がややこしくなりますが、アーロン博士はひといちばい敏感な子の中で、HSPの子どもは、愛着形成が乱れやすいことを説明しています。

ここで愛着について取り上げるのは、HSCは非HSCよりも、愛着が安定しているかどうかの影響を受けるからです。子どもの約40パーセント(ということは、大人も同じ率)が、安定した愛着を得られていません。

私の調査では、この割合はHSPに多いわけではありませんが、愛着が不安定だった場合は、その影響をより強く受けてしまいます。(p235)

ここで説明されているとおり、HSPだからといって愛着が不安定になる確率が高いわけではありませんが、不幸な家庭環境に置かれた場合に、愛着がより不安定になりやすい、つまり感受性の強さゆえに、より大きな愛着の障害を抱えやすい、ということです。

さらに畳み掛けるようですが、これと同じことはADHDでも報告されていて、愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)にはこう書かれていました。

そうした中で、現在のところ、ほとんど唯一有望なのは、すでに述べたドーパミンD4受容体の変異(多型)である。繰り返し配列が通常より長く、七回反復している場合には、新奇性探求が高く、ADHDとの関連を認めている。

またこの多型遺伝子は、混乱型愛着障害のリスク遺伝子でもある。(p162)

ここでは、特定の遺伝子変異をもつ場合に、ADHDになりやすく、混乱型愛着という、不安定な愛着のより悪いタイプにもなりやすいという研究が報告されています。そしてこの遺伝子変異とは、HSPの感受性の強さに関わる遺伝子なのです。

話が非常にややこしくなって混沌としてきました。

アーロン博士が「HSCがADHDだということはありえる」けれども「ある意味で正反対」と述べていた理由がお分かりでしょうか。

一言でまとめてしまうと、HSPとADHDと愛着障害は、互いに互いを区別できないほど絡み合っていて、おそらく研究者でさえ明確に区別できていないということです。

そうであれば、医者によって診断された当事者や、ネット上の玉石混交の情報を発信している人たちは間違いなく区別できていないはずであり、もはや今さら誰がADHDで、誰がHSPで、誰が愛着障害と分けるのは不可能だということになります。そしておそらくこれら3つはそもそも明確に区別できないものです。

すべては感受性の遺伝子から

それでは、ここまでの情報を整理するとどうなるでしょうか。

HSP、ADHD、そして愛着障害に共通している特徴は、先天的なものであれ、後天的なものであれ、ささいな刺激に敏感に反応する、感受性の強さです。

そして、特にそれが先天的なものである場合、もとをたどれば、感受性の遺伝子に行き着くと考えられます。

アーロン博士も、ひといちばい敏感な子の中でHSPの最大の原因は遺伝子である、とはっきり述べています。

しかし、私は、研究によって見えてきた「敏感性の進化的理由」という観点から、人一倍敏感であるという性質は「主に」遺伝子で決まると考えています。(p437)

このHSPの遺伝子は、ひとつではなく、複数あると考えられています。先ほどHSPにもさまざまなタイプがあると述べたのはそのせいです。

まず関係している大きな遺伝子変異は、セロトニントランスポーター遺伝子です。

アカゲザルも人間も、どちらも脳が使うセロトニンの量の違いによる、正常な変異でした。…セロトニンに関する遺伝的変異は「差異感受性」をもたらす主因なのです。

…この遺伝的変異は、どちらも極めて社会的で、さまざまな環境に適応できる、人間とアカゲザルという2種類の霊長類に見られました。(p436)

セロトニントランスポーター遺伝子とは、気分の安定に関わる脳内の神経伝達物質セロトニンの輸送に関わる遺伝子であり、おおまかに分けてセロトニンを運ぶ効率がよいタイプと効率が悪いタイプとがあります。

HSPの感受性に関係しているのは、このうち、運び去る効率が悪いほうの遺伝子です。セロトニンを運び去る効率が悪いというのは、感情伝達する神経伝達物質が一箇所に長い時間留まりやすいということなので、良い感情も悪い感情も強く感じやすくなります。まさに感受性の遺伝子です。

そしてセロトニントランスポーター遺伝子は、すでに述べたとおり、不安定な愛着のリスク遺伝子でもあり、不幸な家庭環境で育った場合、愛着障害につながりやすくなります。

しかし、これとは別に、意欲や注意などに関わる脳内の神経伝達物質ドーパミンに関わる遺伝子もまた、HSPと関連しているというデータがあるそうです。

HSP、HSCの誰もがセロトニンに関する遺伝子変異があるわけではありません。敏感になる遺伝子には数多くの種類があると考えられています。

例えば、中国のチェンの研究チームが、ドーパミンに関連する7つの遺伝子が、HSPの評価基準と関係することを発見しています。(p436)

HSPの原因はセロトニントランスポーター遺伝子だけではなく、ドーパミン関連の遺伝子変異が関与している場合もあることがわかります。

そして先ほど見たとおり、ドーパミン関連の遺伝子変異は、ADHDや愛着障害のリスク遺伝子になることがあります。

またアーロン博士はひといちばい敏感な子の中で、HSPの要因として、遺伝子が主な原因であるとはいえ、環境要因もまた関与しているとしています。

近年のエピジェネティクス、つまり遺伝子は環境で変化するという考えからは、敏感な性質には、遺伝子以外にも要因があると考えることもできそうです。(p436)

脳科学は人格を変えられるか?によると、遺伝子の変化に影響を及ぼすさまざまな環境要因のうち、特に大きなものは、幼児期の家庭環境であり、養育者による愛情だとされています。

これが意味することは深刻だ。母親の愛情という古典的な環境要因は、子どものストレスへの耐性に非常に強く影響していた。

母親の愛情によってストレスに強い子どもが育つのは純粋な慈しみの作用だと思われがちだが、その一見魔法のような力の陰には遺伝子の発現がかかわっていたのだ。(p193-194)

つまり、本来HSPになる遺伝子が発現していなかった子どもでも、極端な家庭環境で育つと、愛着障害という形で遺伝子が目覚め、ストレスから大きな影響を受ける感受性の強さを身につけてしまうことがあるのです。

それで、またややこしくなりましたが、これら遺伝子にまつわる原因を探ると、HSP、ADHD、愛着障害の関係を次のようにまとめることができるでしょう。

HSPとはセロトニンやドーパミンに関わる遺伝子の変異による、生まれつきの感受性の強さである。それはADHDや愛着障害のリスク要因でもある。そして、極端な養育のような環境要因によって眠っている遺伝子が目覚め、HSPや愛着障害になることもありうる。

HSPのもう一つのタイプHNS

ところで、HSPの原因遺伝子として、セロトニンに関わる遺伝子と、ドーパミンに関わる遺伝子の二種類が出てきましたが、これらはどのような違いを持っているのでしょうか。

脳科学は人格を変えられるか?では、それらはある面で正反対の役割を持っている、という研究が説明されています。

セロトニン運搬遺伝子の発現量が低いSS型の人は、リスクに手を出す率がほかの人々より28パーセントも低いという結果が出た。セロトニン運搬遺伝子の短い型は、リスク回避の役割を果たしているらしい。

いっぽう、脳内のドーパミン分泌にかかわるドーパミン受容体D4遺伝子が長いタイプ(七反復以上)の人は対照群と比べて、リスクを冒してでも設けを増やそうとする率が25パーセント高かった。(p173)

この二つのタイプの遺伝子変異は、どちらも感受性の強さと関わっていますが、それぞれ正反対の反応を示しています。

リスクに対して過敏に反応する、という意味での感受性の強さは同じです。しかしセロトニントランスポーター遺伝子の変異がある人は、リスクを過剰に避ける反応を見せ、逆にドーパミン関連の遺伝子変異がある人は、リスクに飛び込んでいく反応を見せたのです。

アーロン博士は、ひといちばい敏感な子の中で、HSPの70%は慎重で内向的であるのに対し、残りの30%は外向的であるというデータを紹介しています。同じHSPでも、リスクを回避する子もいれば、リスクを求めて冒険する子もいるのです。(p35)

そして、後者のような、あえてリスクに飛び込む感受性の強い子を新奇追求型(HNS:High Novelty Seeking)と呼んでいます。

新奇追求型(HNS)は、…探検が好きで、よく行く場所よりも新しい場所へ、旅行もまだ行ったことのない所へ行きたいと考えます。型どおりの行動が苦手です。

人一倍敏感な人(HSP)が、HNSであることもあります。HNSと非HSPは、簡単に新しい状況に飛び込もうとするところが、一見似ているのですが、その理由が違います。HNSは新しい体験がしたいからですし、非HSPは立ち止まって確認をしないからです。(p113-114)

HNSは一見考えなく無謀に冒険しているかのように思えますが、実際には、感受性の強さのため、より大きなスリルや快感、新たな体験を求めて行動しているのです。

このように一括りに感受性の強さといっても、興味を抱いて冒険するタイプと、危険を察知して慎重になる用心深いタイプの2種類の子どもがいる、ということになります。

そして、あくまで単純化した見方だと承知していますが、慎重なHSPにはセロトニン関連の遺伝子が、新奇追求するHNSにはドーパミン関連の遺伝子変異が関わっているのでしょう。

実際には、どちらの遺伝子変異も抱え持っていて、生まれ育った環境によって、どちらかに傾くHSPの子もいるでしょう。

HSPとADHDの本当の違いは何か

それにしても、このHSPの遺伝的要素による2つのタイプは何かとよく似ていないでしょうか。

そう、この2つのタイプは、ADHDの2つのタイプとよく似ていると感じた人がいるかもしれません。

ADHDには大きく分けて2つの傾向があります。多動・衝動性の強いわんぱくな「ジャイアン型」(多動・衝動性優位型)、そして不注意が強く自信を持って一歩踏み出すのが苦手な「のび太型」(不注意優勢型)です。そして、それらの両方を併せ持つ「混合型」も存在します。

ここまでのところでいうと、冒険好きな「ジャイアン型」は外向的なHNSとよく似ていて、用心深い「のび太型」は内向的なHSPとよく似ているように思えます。

いえ、というより、ジャイアンからすぐに怒ったり暴れたりする問題行動を除けば、冒険好きで頼りになるHNSになり、のび太から臆病で怠け者な問題行動を除けばHSPになるのではないでしょうか。(ドラえもんをよく知っている方々には「劇場版」のジャイアンとのび太と言えばわかるでしょうか)

ここにおそらく、HSPまたHNSと、ADHDの本当の違いがあるのです。

すなわち、HSPやHNSといった人一倍感受性の強い子が、学校などの刺激が強すぎる環境にうまく適応できず、感受性の強さが問題行動となって現れたときにつけられる診断名がADHD、つまり注意欠陥多動性「障害」なのではないでしょうか。

近年、大人になってはじめて社会で不適応を起こし、ADHDと診断される人が増えていますが、彼らはそれまでは「障害」ではなかったので、ADHDと診断されなかったのです。それまでは人一倍敏感な子HSPやHNSだったということでしょう。

ADHDは個性か障害か、という問題はずっと議論されていますが、個性とみなせる状態は、HSPまたHNSであり、何らかの事情ゆえに問題行動が見られ、医学的な対応を必要とする状態はADHDという障害になるのだとするとすっきりします。

HSPがADHDという「障害」になるきっかけとしては様々な要因があるでしょう。

まず、学校などの刺激の強すぎる環境がそうです。アーロン博士の説明のとおり、家では落ち着いていられるHSPなのに、学校に行けば、大勢の人が集まる刺激が強すぎて、ADHDになってしまうかもしれません。

また、もともと持って生まれた感覚過敏の程度と、それを抑制する自己コントロール力のバランスも関係しているでしょう。

たとえ感覚過敏の程度が強くても、それを抑制できる自己コントロール力に長けていれば、問題行動を起こさずにすみ、多動性はエネルギッシュさとして、衝動性は行動力として、不注意は発想の豊かさとして特性を生かしていけるでしょう。

しかし、感覚過敏の程度に対して、自己コントロール力が不十分だと、刺激に対してすぐに反応してしまい、多動で衝動的な不注意な問題児になってしまうでしょう。

HSPの子どもたちは、ADHDと同じような感受性の強さを持っているにもかかわらず、優れた自己コントロール力によって行動を制御していることはアーロン博士もひといちばい敏感な子で認めています。

HSCは、幼児期の知覚の感受性が高く、自己をコントロールする力が生まれつき強いというデータもありますが、親から学ぶ部分もあります。

親が刺激への対応を教えたり、同調せず、「そのような反応は受け入れられない」と伝えたりすることで、子どもは学んでいけます。特に用心システムと冒険システムをコントロールする力を育むには、こうした親の手引が有効です。(p243)

アーロン博士は、HSPの子どもたちは自己コントロール力が生まれつき強いとしていますが、たとえそうでなくとも、幸いにも、自己コントロール力は後天的に育んでいけるとも述べています。

生まれつき感覚過敏ばかり強くて、自己コントロール力が弱いためにADHDとして問題行動を起こしがちな子どもでも、辛抱強く訓練を続けることによって、問題行動を減らし、感受性の強さを才能として生かしていけることはよく知られています。

たとえば、以下の記事で紹介した意志力の専門家ロイ・バウマイスターやマシュマロ・テストで有名なウォルター・ミシェルは、自制心を鍛えるさまざまな手段を考案していて、それがADHDの子どもにも役立つことを説明しています。

意志力のないADHDの人が少しでも自己コントロールするための5つの科学的アドバイス | いつも空が見えるから

 

ささいなことにも傷つく「拒絶感受性(RS)」の強い人たち―傷つきやすさを魅力に変えるには? | いつも空が見えるから

 

何より、ADHDの子どもの症状は、一般に成長し大人になるにつれ和らぐとされていますが、それは大人になるにつれ脳の前頭前皮質という行動の制御に関わる部分が発達し、自己コントロール力が身についていくからです。

しかし、自己コントロール力は後天的に身につく反面、自己コントロールが後天的に身につきにくくなる要因も存在していて、それが愛着障害です。ADHDでは年齢とともに脳の成長が追いつくキャッチアップが生じますが、愛着障害はそれを妨げると言われています。

もちろん、HSPの場合もADHDの場合も、関係する遺伝子は、まだすべてが発見されるには程遠いため、さまざまなタイプが含まれていることは明白です。

しかし、一つの考え方として、生まれつきの感受性の強いHSPのうち、自己コントロール力が十分育っておらず、問題行動が出てしまう場合にADHDの、さらにマイナスの環境要因が関わっている場合に愛着障害の症状が出るとすれば、それぞれの関係性がわかりやすくなります。

感受性が強すぎる人がなりやすい3つの病気

ここまでのところで、感受性の強さであるHSPと、自閉スペクトラム症やADHDといった発達障害との関係を考察してくることができました。

HSPと自閉スペクトラム症は正反対のものでしたが、HSPとADHDは関わりが深く、HSPが不適応を起こした場合にADHDとなるのではないか、ということでした。

このように、HSPの感受性の強さは豊かな創造性や柔軟なコミュニケーション力のような才能として発揮される一方で、さまざまな不慮の事情のせいで、問題を招くことがあります。

特に危険なのが、感受性の強さに特有の病気や障害などを招いてしまうケースです。

ここでは、HSPの感受性の遺伝子がリスク要因であるとされる3つの疾患について考えましょう。

不登校・引きこもり

一つ目は不登校や引きこもりです。

不登校や引きこもりには様々な原因がありますが、その中には、失敗を過度に恐れたり、恥をかきたくない思いから一歩踏み出すのが怖くなったりする回避性パーソナリティ障害があります。

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)には、特にHSPと同様のセロトニントランスポーター遺伝子の多型が、回避性パーソナリティ障害に関わっているという研究が報告されています。

回避性パーソナリティ障害と関連する遺伝子としては、セロトニントランスポーター遺伝子が知られている。神経伝達物質のセロトニンは不安のコントロールに関係するが、セロトニントランスポーターは、放出したセロトニンをくみ上げるポンプの役割をしている。

このポンプの働きが悪いと、セロトニンがうまく機能せず、不安を感じやすく、うつにもなりやすい。ただ、この遺伝子との関連は、回避性パーソナリティ障害だけでなく、他の不安障害やうつ病でも報告されており、回避性パーソナリティ障害に特異的なものではない。(p131)

HSPにみられるセロトニントランスポーター遺伝子のタイプは、リスクを強く回避する傾向と関わっていましたが、それこそまさに回避性パーソナリティ障害そのものなのです。

感受性が強すぎ、繊細すぎるために、他の人からの批判や、学校での人間関係から強いストレスを感じてしまい、ストレスを回避して引きこもりがちになってしまいます。

詳しくはこちらの記事で説明しました。

感受性が強すぎて一歩踏み出せない人たち「回避性パーソナリティ」を克服するには? | いつも空が見えるから

 

小児慢性疲労症候群(CCFS)

回避性パーソナリティ障害と共に引きこもりや不登校の原因となっている疾患として、小児慢性疲労症候群(CCFS)があります。

小児慢性疲労症候群(CCFS)の場合、回避性パーソナリティ障害のように心の葛藤から引きこもってしまうわけではなく、慢性的な強い疲労感睡眠リズム障害をはじめとする体調不良によって学校に行きたくても行けなくなってしまいます。

HSPの人が感受性の強さのために疲労感のような身体症状を強く感じやすいことは、ひといちばい敏感な子の中でアーロン博士も言及しています。

HSPが刺激を過剰に受けやすいというデータとして、ドイツの学者フリードリヒ・ゲルステンベルクによる研究があります。

この研究では、コンピューター画面にさまざまな向きのLの文字が並ぶ中に、Tの文字が紛れているかどうかを判断するという、いささか厄介な認知作業をさせて比較を行う実験がなされました。

HSPでは、そうでない人に癖べて短時間で正確にできましたが、作業後の疲労も強く感じていました。(p429)

また、国内のHSPの研究者である長沼睦雄先生による「敏感すぎる自分」を好きになれる本の中でも、次のように書かれています。

うつ病ほど認知度が高くないのですが、HSPの方によく見受けられる症状として、「慢性疲労症候群」というものもあります。

…HSPの方は敏感で、しかも良心的なため、疲労感やストレスを感じやすいのです。疲れ果てるまで自分を酷使した結果、そのストレスによって慢性疲労症候群を引き起こしてしまう可能性があります。(p99)

さらに遺伝子レベルの研究においても、慢性疲労症候群とHSPの関わりの深さがわかっています。

文教大学教育学部の成田奈緒子先生の研究 によると、やはり回避性パーソナリティ障害と同じく、セロトニントランスポーター遺伝子の多型が関係していることが判明しています。

しかし、それだけでなく、三池輝久先生の、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)では小児慢性疲労症候群(CCFS)にはドーパミントランスポーター遺伝子の多型も関わっていると書かれています。

不登校の子どもたちのドーパミントランスポーター遺伝子の過多について、東大の石浦章一教授に検討していただいた結果、彼らはいろいろなものに興味をもちやすい性質をもっている可能性が示唆されるデータを得た。(p109-110)

小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもは、単にリスクを回避するセロトニントランスポーター遺伝子の多型だけではなく、新奇追求性に関わるドーパミントランスポーター遺伝子の多型も持ち合わせている可能性があります。

この場合、感情面においても感覚面においても感受性が強く、HSPやHNSの傾向を強く有しているはずですから、外部から受け取る感覚による疲労はかなり強いはずです。リスクを回避したい気持ちとチャレンジしたい気持ちに板挟みになって疲れ果てるかもしれません。

こうした極端な感受性の強さによる繊細な気質のために、他の子と同じレベルのことをしているようでいても学校の環境から人一倍ストレスを受けやすく、慢性的な自律神経系の不調を抱えやすいのかもしれません。

またドーパミントランスポーター遺伝子の変異は、神経が高ぶりやすく冷めにくいことを示唆しています。これは、以前の記事で説明したようなADHD特有の切り替えの悪さにつながり、概日リズム睡眠障害を招きやすくもなるでしょう。

なぜADHDの人は寝つきが悪いのか―夜疲れていても眠れない概日リズム睡眠障害になるわけ | いつも空が見えるから

 

極端な感受性の強さは、豊かな創造性などの才能をもたらす反面、小児慢性疲労症候群のような体調不良にも陥りやすり諸刃の剣であることを覚えておく必要があります。

小児慢性疲労症候群(CCFS)について詳しくはこちらをご覧ください。

子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とは (1)どんな病気か? | いつも空が見えるから

 

解離性障害

最後の3つ目として、強い感受性が仇をなす究極の疾患として、解離性障害があります。解離性障害は、HSPの人が持つ感受性の強さがすべて裏目に出てしまったような病気です。

解離性障害は、幼児期の愛着障害に起因するとされています。

しばしば犯罪被害などの大きなトラウマ経験が解離性障害の引き金になるといわれますが、実際には、幼児期の愛着障害がなければ、トラウマ経験に遭遇しても解離性障害ではなくPTSDになるそうです。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合ににはこう書かれています。

ショアの主張をひとことで言えば、解離という心の働きを脳科学との関連で探っていくと、愛着の問題にまでさかのぼらなくてはならないということである。

すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを念頭に置くべきなのである。(p15)

愛着障害はHSPの人特有の問題ではありませんが、すでに見てきたように、HSPの人はより強い愛着障害を抱えやすいことがわかっています

HSPに関わるセロトニントランスポーター遺伝子、ドーパミン関連の遺伝子多型は、両方とも、愛着障害、そして解離性障害のリスク要因です。

解離性障害の特徴は内外の強い感覚刺激に対処するため、意識を飛ばしたり空想に逃避したりする「解離」という反応を用いることで、特に重症の場合は意識を複数に切り離す多重人格(解離性同一性障害)が生じます。

興味深いことに、アーロン博士はひといちばい敏感な子において、HSPの人はADHDと比べると、右脳の血流が活発だと述べています。(p64)

その理由は定かではありませんが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、幼児期の愛着障害と、それに伴う解離傾向は、右脳の働きと関係していると説明されています。

通常はトラウマが生じた際は、体中のアラームが鳴り響き、過覚醒状態となる。そこで母親による慰撫sootingが得られると、その過剰な興奮が徐々に和らぐ。しかしタイプDの愛着が形成されるような母子関係においては、その慰撫が得られず、その結果生じると考えられるのがこの解離なのだ。

それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることができるだろう。そしてこのように解離は特に右脳の情緒的な情報の統合低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もある。(p20)

ここで登場するタイプDの愛着というのは、このブログで以前にも詳しく取り上げたより困難なタイプの愛着であり、先ほどHSPの感受性の遺伝子を持つ人がなりやすいとされていた混乱型の愛着のことを指しています。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち | いつも空が見えるから

 

このタイプDの愛着は、すでに触れた、場の空気を読みすぎる「過剰同調性」とも強い関わりを持っていて、まさにHSPの強い共感力が裏目に出た状態です。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か | いつも空が見えるから

 

空気を読むのが得意といえば聞こえはいいですが、空気を読みすぎてしまうと、過剰同調性に陥り、相手の感情を感じ取りすぎて強い疲労を感じるようになります。

その苦痛を処理する手段、つまり限界を超えた感受性の強さに対処する手段が、意識を切り離して飛ばす解離なのです。

解離性障害は虐待による愛着障害などの悲惨な環境で生じるのはもちろんですが、以前の記事で書いたように、そこまで悲惨ではない機能不全家庭で生じる例も多数報告されています。

解離性障害をもっとよく知る10のポイント―発達障害や愛着障害,空想の友だちとの関係など | いつも空が見えるから

 

わかりやすい「解離性障害」入門によると、このような場合、もちろん家庭環境の側の問題も大きいとはいえ、単にそれだけではなく、当人の側の感受性の強さも相互に影響しているとされていました。

この記事で考えたことからすると、それはすなわち、生まれつきのHSP気質により、養育の問題を過敏に感じ取って、D型の混乱した愛着に発展してしまったせいだということになります。

なお、自閉スペクトラム症の人も、人の顔色を過剰に気にしすぎたり、さまざまな解離現象を経験したりすることがありますが、同じ感覚過敏でもHSPと自閉症では別のものだったように、解離もまた自閉症では似て非なるものであるようです。詳しくは以下の記事をご覧ください。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる | いつも空が見えるから

 

健常な範囲の解離現象

このようなHSPによって生じやすい解離傾向は、解離性障害にまで発展しなくても、さまざまな形でHSPの人に影響を及ぼしている可能性があります。

たとえば、HSPの人は、さまざまな神秘的な現象を感じやすいとされています。「敏感すぎる自分」を好きになれる本にはこんな話があります。

私が診療の中で出会った、HSPの中でもさまざまな過敏さが複合している「超」過敏なレベルに属するような子どもたちは、幼児期から、だれにも教わらないのに人間や人生や命のことが直感的にわかったり、体内や出産時の記憶があったり、…幽霊や妖怪が見えたり、架空の友人がいたり、重要なときに導いてくれる声が聞こえたりする子どもたちもいたのです。(p53)

HSPの人がこうした様々な神秘体験を経験しやすいことはアーロン博士もひといちばい敏感な子の中で認めています。(p388)

このブログで説明してきたとおり、これらのうちの多く、特に後半の神秘体験のように思えるものは、正常な範囲の解離現象です。

解離性障害になりやすい人には幼少期から現実との区別がつきにくくなるほど 空想の中に深く没頭する傾向「空想傾向」(fantasy-proneness)が見られると言われますが、それはまさしく生まれつきのHSPを土台とする解離傾向のことでしょう。

近年の日本の発達心理学の研究によると、子どものころの空想の友だち体験は、妖怪や幽霊の伝承とも結びついており、遭難体験などの際に導く声が聞こえるサードマン現象と同じ解離現象の一種だと考えられています。

そして、以下の記事で紹介したとおり、そうした現象を体験しやすいのは、人の気持ちに強い感心を持ち、人一倍感受性が強い子たちであることが示唆されているのです。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究 | いつも空が見えるから

 

また、ADHDの中でも、特にHSPの7割を占める内向的なHSPと関わりの深いタイプと考えられる「のび太型」(不注意優勢型)の子どもたちは、空想にふけりがちで、ぼーっと意識を飛ばす傾向が強く見られます。

HSPとのつながりでいえば、これは軽度の解離傾向であり、さまざまな感覚を強く感じすぎるせいで、ときどき感覚を切り離すことによって、刺激が過剰になりすぎないように適応しているといえるのかもしれません。

またも、すでに触れた高位の共感覚などに関係する芸術的創造性は、解離傾向の強い人に強く見られる特性です。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの | いつも空が見えるから

 

そもそも高位の共通性を制御していた脳の角回(側頭頭頂接合部)は、体外離脱など一部の解離現象に強く関わっていることが知られています。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム | いつも空が見えるから

 

このように、HSPは、回避性パーソナリティや、小児慢性疲労症候群、そして解離性障害と深く関わっていると考えられます。

ここでは3つの項目に分けましたが、実際にはそれぞれ共通性が多く見られる疾患群なので、遺伝的傾向や環境によって、いずれの症状が強く出るかが変わるだけで、要はすべて「感受性が強すぎることによる疾患」という共通項を持っているのでしょう。

可能性をどう生かすかはあなた次第

こうしてHSPがもたらしかねない負の側面を概観すると、HSPとは心身の弱さをであるかのように思えますが、決してそうではありません。

持って生まれた感受性の強さが、ある時はADHDのような問題行動や、慢性疲労症候群のような強い心身の不調を身に招くことはあれど、ある時は創造性あふれる芸術家や学者の才能として花開くこともまた事実であり、この両極性は、HSPの遺伝子そのものの性質です。

先ほどから紹介している、セロトニンやドーパミン関連の遺伝子は、何かの障害のリスクになる欠陥遺伝子ではなく、ただ感受性の遺伝子、つまり良い環境からも、悪い環境からも、人一倍強い影響を受けやすい遺伝子です。

アーロン博士は、HSPの子どもたちについてひといちばい敏感な子でこう書いています。

私たちの研究から、HSPは不幸を感じやすく心配しやすい傾向があると分かりました。

…さまざまな調査で、不幸な子ども時代を送ったHSPは、同じく不幸な子ども時代を送った非HSPに比べ、落ち込み、不安、内向的になりやすい傾向がありました。

でも、じゅうぶんによい子ども時代をお待ったHSCは、非HSCと同様、いやそれ以上に幸せに生活しているのです。HSCはそうでない子よりも、よい子育てや指導から多くのものを得ることができるということです。(p433)

HSCは周囲から、反応が強いとか、身体面でのストレスを開けやすい、内気、引込み思案、あるいは、抑うつや不安症に関係する遺伝子を持っていると評価されることが多いのですが、これらのいずれの面も、例えば良質の子育てを受けるなど、よい環境に置かれた場合には、他の子よりもプラスに作用します。

…敏感な子は、そうでない子に比べて悪い環境を吸収するだけではなく、よい環境も人一倍吸収するのです。(p434)

先ほど、ADHDや愛着障害のリスク遺伝子について説明していた愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)にもこうあります。

また同じチームの別の研究(Bakermans0Kranenburg et al.,2011)でも、この多型遺伝子をもつ人では、親のうつや不和といった影響を強く受けやすく、中年期になっても未解決型の愛着スタイルを示しやすいが、親に問題がない場合には、未解決型の愛着スタイルを示す割合が、むしろ低かったのである。(p131)

ドーパミンD4受容体の遺伝子多型にしろ、セロトニン・トランスポーターの遺伝子多型にしろ、それが存在することは、養育環境に影響されやすいという過敏な傾向を有無が、逆に良い環境を整えることができれば、そうした遺伝子多型でない場合よりも、むしろ安定を獲得することができるのである。(p134-135)

さらにセロトニンとドーパミンの遺伝子変異の違いについて説明していた脳科学は人格を変えられるか?もまたこう述べています。

わたしはまもなくこれらの実験結果が、ロンドン大学バークベック校の心理学者、ジェイ・ベルスキーによる最新の理論に合致することを知った。

ベルスキーは遺伝子と環境との相互作用に関する過去の研究を細かく検証し、これまでだれも目をとめていなかった事実に気づいた。

それは、神経伝達物質に作用するいくつかの遺伝子の発現量が低い人は、良い環境と悪い環境のどちらにも敏感に反応しやすいということだ。(p181)

いずれの場合も要点は共通しています。

これらの感受性の遺伝子の持ち主は、悪い環境に陥ってしまった場合は、より強いダメージを受けやすいですが、良い環境に恵まれた場合は、よりよい感化を受けて才能を開花させやすいということです。

では、すでにHSPの感受性が、ADHDの問題行動や愛着障害といった悪いほうに出てしまっている場合はどうなのでしょうか。

先ほどの脳科学は人格を変えられるか?は続く部分でこう述べています。

わたしが行った学習実験も結局、セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人は高い人に比べ、ポジティブなものでもネガティブなものでも感情的な背景に非常に敏感であるという、先と同様の結論に落ち着いた。

だから、セロトニン運搬遺伝子は、「逆境に弱い」遺伝子や、「楽観」の遺伝子であるというより、仮にそれが「何かの」遺伝子であるとすれば、「可塑的な」遺伝子だと考えるのが妥当だろう。(p182)

ここで注目したいのは「可塑的な」遺伝子という表現です。これまで、HSPの遺伝子は感受性の遺伝子であると説明してきましたが、より明確には可塑的な遺伝子であるとするべきでしょう。

可塑(かそ) 的であるとは、脳の構造が柔軟に組み変わることを意味しています。

HSPの人が、異なる文化や環境に適応して創造性を発揮できるのも、望ましくない環境でADHDや、さらには愛着障害のような混乱した性質を示すのも、単に感受性が豊かなだけではなく、脳がそれぞれの状況を読み取って適応しているからです。

虐待のような劣悪な環境で生じる愛着障害の場合でさえ、以前の記事で紹介したとおり、それは冷酷な環境で生きていけるように脳が適応していった結果であるとみなされています。

ここまで取り上げた以外の感受性の遺伝子の中には、虐待を受けた子ども特有のものもありますが、それもやはり、環境によって良くも悪くも効果が変化する適応的なものだとされています。

先に紹介したカスピとモフィットによる研究では、虐待を受けた子どもの中でもMAOA遺伝子の発現量が低い子は特に、大人になったとき反社会的な行為に走る率が高いという指摘があった。

だがここで見過ごされていたのは、同じタイプの遺伝子をもつ子どもがもし虐待を受けなければ、そうした行為に走る確率はずっと低いことだ。(p181)

感受性が豊かであるとは、良くも悪くも、環境の変化に柔軟に適応し、脳の働きをそれに合わせて調整していく性質なのです。

このような柔軟な適応力は、心や脳の柔らかさといってもよいでしょう。ささいなことでもストレスを受けやすい反面、ちょっとした環境の良い変化にも目ざとく反応できます。

興味深いことに、解離性障害の症状は幻聴などの点では統合失調症とよく似ていますが、統合失調症は回復がまれで妄想的になっていくのに対し、解離性障害は自分の状況をよく理解することができ、回復することも十分可能であるという違いがあります。

もしかすると、同じような窮地に陥っても、解離性障害のほうは、HSPとしての脳の可塑的な柔軟性が土台にあるために、環境が好転すれば回復していけるということなのかもしれません。

ですから、HSPの子にとって、周りの環境は特に大事です。

適切な養育環境、ストレスの少ない教育サービス、その子に合った生活リズム、手本にできるメンターまたアドバイザーなどを見つけることができれば、今まで感受性の強さがマイナス方向に発揮されていたとしても、それをプラス方向へと変えていくことが十分可能なのです。

そのためにHSPの人やHSCの子どもを持つ親は、感受性の強さにどう対処していくかを学ぶ必要があります。

アーロン博士はひといちばい敏感な子の中で、人一倍敏感というのが、一つの種類であると述べます。

敏感という性質をグラフにすると、身長や体重のように大部分の人が中間値付近に分布するような、なだらかな山形になるのではなく、右端か左端に偏っているのです。…他のテストの評価にかかわらず、敏感であるというのは一つの種類であって、程度の差ではないことが分かりました。あなたはHSPか非HSPかのどちにかで、子どももHSCか非HSCかのどちらかなのです。(p439)

人一倍敏感というのは、ほぼ生まれつきの性質であって、性別などと同様、変えることのできない種類です。

アスペルガーの人たちが、自分たちは一つの種族また民族だ、と述べるのと同様、HSPの人やHSCの子もまた、一つの種類、独特のニーズを持った特殊な人たちなのです。

この独特なニーズに対応する点で、ここまで紹介してきた何冊かの本はとても役立ちます。

まず、繰り返し紹介してきたアーロン博士のひといちばい敏感な子は、この記事での扱い方からすると意外かもしれませんが、実はHSPのメカニズムについての本ではなく、HSCを持つ子どもの育て方について実用書です。

HSCを持つ子どもの成長に合わせ、乳児期、幼児期、学童期、思春期にわたり、親がどのように、感受性豊かな子どもに最善の環境を整えて、才能の開花を後押ししてあげられるか、丁寧なアドバイスがふんだんに綴られています。

またアーロン博士の別の本ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。 (SB文庫)や長沼先生の「敏感すぎる自分」を好きになれる本は、すでに成人したHSPの人を対象に、どのような生きやすい環境を整え、敏感さをプラスに生かしていけるか、やはり丁寧なアドバイスが豊富に載せられている本です。

こうした本を参考にすれば、HSPまたHSCとしての感受性からくる陥りやすいリスクを避け、同時に可能性を最大限に生かすための環境づくりをしていくことができるでしょう。

忘れないでください。HSPの人やHSCの子どもは、可能性の遺伝子を持っているのであり、その可能性を良い方向に導くか、悪い方向へ流れ落ちるままにするかはあなた次第なのです。

慢性疲労症候群の客観的診断ができる血液中の成分発見―ピルビン酸/イソクエン酸などの比率が高い

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化学研究所、大阪市大、関西福祉大、慶應義塾大などの研究チームによって、慢性疲労症候群(CFS)の客観的な診断の目印(バイオマーカー)となる血液中の物質が発見されたそうです。

【プレスリリース】「慢性疲労症候群の客観的診断に有効なバイオマーカーを発見」について | 関西福祉科学大学

 

プレスリリース本文(PDF)

慢性疲労症候群患者の血漿成分中に特徴的な代謝物質 - 大阪市大が発見 | マイナビニュース

慢性疲労症候群患者の血漿成分中に特徴的な代謝物質が存在-大阪市大ら - QLifePro 医療ニュース

「慢性疲労」血中成分に異常…客観的診断法へ期待 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞

慢性疲労症候群、血中の目印発見 検査で診断しやすく?:朝日新聞デジタル

慢性疲労症候群の診断の鍵特定 大阪市立大など  :日本経済新聞

なぜバイオマーカーが必要だったか

慢性疲労症候群(CFS)は、半年以上の激しい疲労など、多様な身体症状を伴う病気であり、国内に約30万人の患者がいると概算されています。

しかし血液検査など、客観的な診断に用いられる目印(バイオマーカー)が存在せず、診断の妥当性が疑問視されていました。

これまでの研究によって、ヘルペスウイルスの活性化や自律神経機能異常による疲労度測定などの手法が開発されてきましたが、CFSの病態に則したものではなかったり、CFSの専門医でないと診断が難しいといった問題があったようです。

ピルビン酸/イソクエン酸、オルニチン/シトルリンの比率に注目

このたび、研究チームは、より客観的でわかりやすいバイオマーカーを見つけるため、血液中の全代謝物質を測定するメタボローム解析という手法を用いました。

慢性疲労症候群(CFS)の血液をメタボローム解析するという研究は2012年にも行われていたので、その延長線上にある研究成果かと思われます。

慢性疲労症候群は血液で診断できる?メタボローム解析でバイオマーカーを発見! | いつも空が見えるから

 

今回の研究の結果、ピルビン酸/イソクエン酸、オルニチン/シトルリンという代謝物質の比率が、慢性疲労症候群(CFS)の患者で有意に高いことがわかり、客観的な診断に用いるバイオマーカーになると判明しました。

この試験は二段階で行われました。

(1)CFSに特徴的な代謝物質を発見する
まずCFS患者47名と健常者46名を対象に検査したところ、エネルギー産生などに関わる「解糖系」「TCA回路」前半、そしてアンモニアを分解する「尿素回路」と呼ばれる部分の代謝機能が低下していることがわかりました。

さらにコンピューターによって解析すると、特にイソクエン酸、ピルビン酸、オルニチン、シトルリンという4つの代謝物質に特徴が見られることが明らかになりました。

専門的に言うと…
■長期的な疲労のため、解糖系からTCA 回路に流入する機能が低下して、ピルビン酸濃度が上昇し、イソクエン酸濃度が低下している、
■続いて、その先の尿素回路の機能の低下によってオルニチン濃度が上昇し、シトルリン濃度が低下した。

ことを反映していると考えられるそうです。

(2)妥当性を確認する
二段階目の試験では、最初の検査とは異なるCFS患者20名と健常者20名を対象に、先の結果の妥当性が検証されました。

先ほど見つかったピルビン酸/イソクエン酸、オルニチン/シトルリンという2つの代謝物質の比率を調べると、健常者よりCFS患者群のほうが高くなっていました。

この2つを組み合わせると、高い精度でCFSを診断することができるとわかったとのこと。

今後の展望

今後について、各報道機関によると、片岡洋祐チームリーダーは次のように述べているそうです。

「もっと多くの患者や外国人にも適用できるか今後検証し、一般の医療機関で診断できるシステムを構築したい」

「(これらの代謝物質を)血液検査で簡単に調べられるようになれば、より早く客観的に診断でき、患者に合った治療方針も立てられる」

「1、2年内にもこれらの成分を基にした新たな診断法の開発を目指す」

具体的には、プレスリリースによると、

■異なる人種などにも適用できるか検討
■CFSを発症していない慢性的な疲労の自覚がある人の血液も解析して検証
■一般の医療機関でも検査できるよう、医療システムを構築
■CFSの代謝病態を是正するような食薬の開発

などに取り組んでいくとのことです。

4年前にも報告されていたメタボローム解析の研究が着々と進展しているようで、期待をこめて見守りたいと思います。

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