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心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体

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ありがたいことに、分離脳研究から多くのことが学べた。

手術で二つの半球を分離すると二つの心をもつひとりの人間になるという最初の定義づけに始まり、長い道のりを経た今日では、決定を行動に移すことのできるようになる複数の心を私たちの誰もが実際にもっているという、直観に反するような見解に到達した。(p402-403)

たしたちの脳は、ただひとつの自己ではなく、「複数の心」、複数の異なる自己から成り立っている。

そんなことを書くと、まるでドラマやマンガに出てくる現実離れした話だ、と感じるかもしれません。たいていの人にとって、自分はひとつであり、心の中に複数の自分がいる、などと言い出す人は突拍子もなく思えます。

ところが、冒頭の本、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の著者、マイケル・S・ガザニガは、認知神経科学の研究を通して、「複数の心を私たちの誰もが実際にもっているという、直観に反するような見解」に至りました。

その後、多くの研究を通して、わたしたちが単一の自己を持っていると感じるのは、巧妙な錯覚であることがわかってきました。実際には、人の脳は、異なる複数の心から成る社会のようなもの、「内的家族システム」(IFS:Internal family systems)であることが明らかにされつつあります。

そして、わたしたちが経験する、さまざまな精神的な葛藤、抑うつ、衝動、依存症などの背景には、この内的家族システムの不和が関係していることがわかってきました。

わたしたちの心が複数の自己から成り立っているといえるのはどうしてでしょうか。それは愛着障害や、解離性同一性障害、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)などの現象とどのように関係しているのでしょうか。

自分が無意識のうちに、内的家族システムの問題を抱えているとしたら、どのようにしてそれに気づき、問題を解決することができるのでしょうか。

これはどんな本?

今回おもに参考にした本は、次の三冊です。

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -は、タイトルのとおり、分離脳研究を通して、右脳と左脳の役割を発見したマイケル・S・ガザニガによる自伝ともいえる本です。

脳は奇跡を起こすは神経可塑性についてさまざまな角度から研究している医師また作家であるノーマン・ドイジによる本で、第9章では、幼少期のトラウマと右脳の関係に光が当てられ、愛着や解離のメカニズムが説明されています。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法は、トラウマやPTSD研究の第一人者であるベッセル・ヴァン・デア・コークによる本で、心が複数の自己からなる社会であることを活用した、内的家族システム療法が紹介されています。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」である

一人の人の心の中に、複数の自己がいる。

そんな奇妙で直観に反する事実が明らかになったのは認知神経科学の先駆者マイケル・S・ガザニガの研究を通してでした。

ガザニガは、分離脳研究の専門家として知られています。分離脳とは、重度のてんかん患者の症状を和らげる手術として、左右の脳をつなぐ脳梁(のうりょう)を切り離した状態のことを言います。

左右の脳を切り離すというと、恐ろしいことに思えますが、重度のてんかん患者の場合、脳を分離させる手術を受けると、症状が解決するばかりか、一見したところ、まったく正常に見えることさえ知られていました。

では、なぜ左右の脳を結びつける脳梁が必要なのでしょうか。そしてなぜ、脳は左右両半球にわかれているのでしょうか。

それまで、脳の言語機能は左脳にあることが知られていたので、わたしたちの自己は左脳にあり、右脳は付属品であるかのように考えられていました。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。

脳に障害のある患者に関するそれまでの研究は、脳の左半球が意識のある側だと結論づけていた。

左半球が私たちの魂の中枢であり、すべてのものが集まる場所である。脳のもう一方の半球、すなわち右半球はたんなる付属品だと考えられていた。

ロジャー・スペリーは1981年のノーベル賞受賞記念講演で、彼がこの研究を始めた当時の右半球に関する一般的概念を簡潔に述べた。

すなわち右半球は「沈黙し、書字不能であるだけでなく、失読症、言語聾、失行症であり、高次な認知機能を全面的に欠いている」と考えられていたのである。(p262-263)

しかし、ロジャー・スペリーとその弟子であるマイケル・S・ガザニガは、分離脳の手術を受けた人たちの特殊な状況を利用して、右脳と左脳それぞれの役割を調べることにしました。

通常、右脳と左脳は脳梁によってつながっているため、それぞれを別々に調査することは困難です。しかし、両者が分断されている患者では、ある工夫を凝らすことによって、片側の脳だけを調査することができました。

右脳と左脳の命令系統はクロスしていて、右脳は左半身を、左脳は右半身を統御しています。そうすると、脳が分断されている患者の場合、右目だけに何かを見せれば、その情報に気づくのは左脳だけです。その逆ももちろんしかりです。

そうした手法によって、これまで沈黙を保っていた右脳の役割が明らかになりました。

驚いたことに、右半球は無言でもなければ無能でもなかった。それどころか「抽象化、一般化、連想」において不可欠の役割を果たしているらしかった。

当時の定説に反して、脳の一方の半球が他方の半球を支配したり減圧したりすることはないのだった。

実際、これらの患者はその逆が正しいことを証明した。

すなわち、それぞれの葉(よう:半球のこと)は独自の自己をもっていて、それぞれが独自の願望、才能、感動をもっている。(p263)

この発見は、またたく間に世界を席巻し、左脳は論理的、右脳は芸術的といった都市伝説が流布することになりました。

当のガザニガやスペリーは、こうした左脳人間、右脳人間といった俗説には関わりを持ちませんでした。「脳の一方の半球が他方の半球を支配したり減圧したりすることはない」からです。

彼らが注目した点は、別のところでした。

それはそれぞれの半球に、本人も気づかないうちに「独自の自己」が存在していて、互いに協力しあっているという不可思議な現象でした。

ガザニガは、分離脳患者に対する実験について、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中でこう振り返っています。

こうした簡単な検査を行い、P・Sの右半球には自己意識があり(自分の名前を知っていた)、未来についての感覚がある(作業上の目的があった)ことがわかった。

どちらも自覚的な意識に備わった重要な性質である。

とりわけ興味深いのが、右半球と左半球とが、それぞれに異なる未来の目的をもっていることだった。

つまり、ひとつの頭に二人の人がいるということなのだろうか?(p175)

分離脳研究が示していたのは、彼らのなかに、あたかも「二人の人」がいて、目的も願望も異なっているかのようだ、ということでした。

それどころか、研究を進めるうちに、これは分離脳のような特殊な状況にある人にのみ見られる現象ではないことがわかってきました。

わたしたちの脳は二つの心だけでなく、もっと多くの心的システムからなっているのではないか、ということです。

 この例では、ひとつの別個の心的システムが興奮し、そのせいで他の心的システムの通常機能が妨げられた。

「心」はひとつではなく、複数の心的システムの集まりなのではないか、という考えが頭をもたげた。

当時、それは新しい考えであり重要な意味をもっていた。こうした概念は、分離脳のサルや人間の患者たちがなぜあのようにふるまうのかを理解するにあたり、きわめて重大なものだった。(p100)

「心」はひとつではなく、複数の心的システムの集まりなのではないか。

このガザニガの着想は、分離脳研究や、その後のさまざまな実験を通して裏づけられてきました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ベッセル・ヴァン・デア・コークは、ガザニガが最終的にどのような結論に至ったか、次のように書いています。

現代の神経科学も、心をある種の社会と見なすこの概念を裏づけている。

分離脳に関する先駆的な研究を主導したマイケル・ガザニザは、心は半自律的な機能モジュールで構成され、各モジュールには特有の役割があると結論した。

彼は1985年の著書『社会的脳―心のネットワークの発見』に、次のように書いている。

「だが、自己とは統一された存在ではなく、私たちの内部には、いくつもの意識領域が存在しうるという説についてはどうだろう

……私たちの[分離脳の]研究から新たに浮上したのは、文字どおり複数の自己が存在し、しかもそうした自己は、必ずしも内面で相互に『対話』してはいないという見方だ」。(p463)

スペリーとガザニガは、右脳と左脳には別々の自己が存在するという研究から始まって、やがて、わたしたちすべてには「文字どおり複数の自己」が存在している、という結論に至ったのです。

そしてそれら「複数の自己」は、「必ずしも内面で相互に『対話』してはいない」ために、わたしたちのうちの多くは、自分が単一の自己であるかのように錯覚し、心はひとつだと思いこんでいます。

「単一の自己」というごく当たり前に思える認識は、錯覚また思い込みにすぎず、脳の本当の姿ではない、ということは、今やほかの研究者たちも認めています。

人工知能研究の草分けであるマサチューセッツ工科大学のマーヴィン・ミンスキーは、こう断言した。

「単一の『自己』 という伝説は、自己に関する研究の対象を見誤らせることにしかならない。

……人の脳の中に、異なる複数の心から成る社会が存在すると考えることは、理にかなっている。

家族一人ひとりと同じく、それぞれの心が協力した互いに助け合いながら、他の心にはけっして知りえない、独自の心的経験を持っている可能性がある」(p463)

マーヴィン・ミンスキーは、「単一の自己」という考え方は「伝説」でしかなく、実際には一人の人の中に「異なる複数の心からなる社会」があると認めています。

彼はそうした複数の心を、「社会」にたとえると同時に、いみじくも「家族」とも表現しています。

サイコセラピストのリチャード・シュウォーツは、わたしたちの内なる複数の自己を「内的家族システム」(IFS:Internal family systems)と名づけました。

IFSの核をなす概念は、私たちの心とは、一人ひとり成熟度も、興奮しやすさも、見識の程度も、苦痛の大きさも異なる家族のようなものだというものだ。

そうしたいくつもの部分がネットワーク、もしくはシステムを形成しており、その一部分に変化が起これば、それが他のあらゆる部分にも影響する。(p463)

わたしたちの心は、単一の自己であるどころか、複数の自己からなる「内的家族システム」であり、それぞれの心は、文字どおりの家族の成員一人ひとりのように、異なる性格や感情、記憶を持っているのです。

そして、わたしたちが「単一の自己」だと思いこんでいるものは、それら複数の家族のメンバー一人ひとりが互いに影響しあった結果生まれた、見かけ上ひとつのものにすぎないのです。

あなたは複数の自己に気づいていない

それではなぜ、心は複数の自己からなる「社会」また「内的家族」であるのに、大半の人は、自己はひとつだと思い込み、錯覚してしまうのでしょうか。

マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、そこには、脳が考案した巧妙なトリックがあることを示唆しています。

外部から見れば、二つの半球が一体となって見える。

いずれにせよ半球の内部においても数百、数千のモジュールが相互に作用してその半球の心を生み出しているのだ。

おそらくは、右の心と左の心は別々のものでありながら、外部の観察者だけでなく内部の観察者の目にも統一して見えるのかもしれない。(p300)

ガザニガが言うように、わたしたちの心は別々のものでありながら、外部の観察者から見ても、内部の観察者から見ても、統一された単一のものであるかのように見えます。

外から見れば、その人の身体はひとつであり、頭もひとつですから、見かけ上ひとりの人間に見える、というのはごく当たり前のことです。

しかし、一体どうして、脳は内部の観察者、つまりわたしたち自身をも欺き、自分の中にはひとりの自己しかいないかのように思い込ませることができるのでしょうか。

ガザニガが行った実験は、その驚くような答えを明らかにしました。 プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちには次のようなエピソードが書かれています。

だが、私たちはふつうこの皮質の対立に気づかない。それはなぜか。

自己は本当は分断されているのに、どうした私たちには統一感があるのか。

スペリーとガザニガは、この疑問に答えるために、いささかいたずらっぽい実験をおこなった。両断脳の患者の左右の目に、別々の写真を同時にぱっと見せたのである。

たとえば患者の右目にはニワトリのかぎ爪の写真を、左目には雪の車道の写真を見せた。

その後、患者にさまざまな画像を見せ、その中から先に見た写真と最も縁の深いものを選ぶようにと指示した。

両断脳の患者の両手は優柔不断さを悲喜劇的に発揮して、それぞれ別の写真を指さした。右手はニワトリを(これは左半球が見たニワトリのかぎ爪と符合する)。左手はシャベルを指さした(右半球はシャベルで雪かきをしたかったのだ)。(p264)

スペリーとガザニガは、分離脳の患者の左右の目に別々の画像を見せました。脳梁がつながっている普通の人なら、この時点で、かぎ爪と雪の車道の両方の画像が見せられていることを認識できますが、分離脳の患者はそれができません。

そのため、似ている画像を指差すよう言われたとき、左半球の自己と、右半球の自己とは、お互いに示し合わせることなく別個に行動し、それぞれ別個の判断をしたのです。

しかし、驚かされるのはこの後です。

科学者たちが患者に、その矛盾した反応を説明してくれないかと頼むと、患者はすぐにもっともらしい作り話をした。

患者は「ああ、それは簡単です。ニワトリのかぎ爪はニワトリについているものですし、ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要です」と答えた。

患者は、自分の脳が絶望的に混乱していることを認めず、その混乱をきちんとした話に仕立てたのである。(p264-265)

なんと、分離脳の患者は、自分の中にいる内なる別々の自己が異なる判断を下したことに気づかず、もっともらしい理由を考え出したのです。

しかも、このときの理由づけに、「雪の車道」の写真に関する情報が一切含まれていないことに注目してください。

すでに見たとおり、大半の人の言語機能は左脳の言語野が司っています。つまり、ここで科学者の質問に答えて、口頭でもっともらしい理由をひねり出したのは、左半球の自己です。

右半球の自己は「雪の車道」の写真を見たからシャベルを選んだのですが、左半球の自己は、自分が見ていない「雪の車道」の写真について、記憶を持っていませんでした。

そのため、自分が知っている情報、つまり「かぎ爪」の写真を見たという記憶から、ニワトリだけでなくシャベルまでをも結びつける説明を、無理やりひねり出してしまったのです。

左半球の自己は、自分の左手が選んだ行動の理由を知りませんでしたが、自分の中にもう一人別の自己がいるなどと思ったりせず、単一の自己が矛盾した行動をとるもっともらしい理由を考え出すのです。

ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、別のいたずらっぽい実験についても、こう振り返っています。

スプーンの写真が左視野に一瞬映された。その内容は右半球だけに知らされている。

MSG:何が見えましたか?
N・G:何も見えません。

顔に特別な表情はない。

MSG:わかりました。では点を見つめてください。

次は、右半球に裸の女性の写真が映しだされた。

MSG:何が見えましたか?
N・G:何も見えません。

……笑いを抑えようとするが、抑えきれずにくすくす笑いだす。

MSG:なぜ笑っているのですか?
N・G:なんででしょう。先生はおもしろい機械を持っているのね。(p108-109)

この実験では、いささか悪趣味ですが、分離脳の女性の左視野にだけ、ヌード写真を見せました。

すると、女性の右脳の自己は、それを見て、つい笑いをこらえられなくなってしまいましたが、言語機能をつかさどる左脳の自己は、右脳の自己が見たヌード写真を知りませんでした。

それで、なぜ笑っているのかを尋ねられたとき、理由がわからず、ガザニガが使っていた面白い機械のせいだと、適当な理由づけをしてしまったのです。

このように、左半球の自己が、自分とは異なる自己がとった不可解な行動の理由を即座にひねり出せるのは、左半球に言語機能の中枢があるからです。

それは「インタープリター」(解釈者)と呼ばれていて、理由を考え出したり、筋道だった物語を考え出したりする才能を持ち、自己の連続性や一貫性を作りだす役割を担っています。

ガザニガはこう述べます。

これは貴重な装置であり、おそらくは人間独特のものである。

自分が何かを好きな理由やある特定の意見をもつ理由を説明しようとしたり、自分のしたことを正当化しようとしたりするたびに、この装置が私たちの中で作動している。

…インタープリターは「筋の通った」説明を考えだし、ある種の本質主義を、すなわち私たちは統一された意識体であることを自らに信じ込ませる。(p404)

わたしたちの多くは、この左脳のインタープリター装置によって、自分は単一の自己であるという作り話を信じ込まされています。しかしそれは悪いことではなく、自己の同一性を保つのに大いに役立っています。

以前の記事で書いたとおり、自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群)の人たちは、おそらく左脳のインタープリターが弱いせいで、冗談や比喩を解釈したり、柔軟なコミュニケーションをとったりするのが苦手なようです。

そして、アスペルガー症候群の人たちがしばしば訴える、自己の連続性の乏しさ、アイデンティティのあやふやさなどは、インタープリターが弱いために「統一された意識体であることを自らに信じ込ませる」のが苦手であることを示唆しています。

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分離脳研究が明らかにした二人の自己

このように、脳の左右をつなぐ脳梁を切り離した分離脳の患者たちは、一見、まったく正常であるかのように見えて、じつは左右の脳が別々に行動するという矛盾を抱えているということがわかりました。

左右の脳が別々に行動し、一人の人の脳の中でまったく違う二人の自己が勝手に振る舞っていることを考えれば、極めて混乱した日常になってしまいそうですが、実際はそうなりません。

実験室の外では、右目と左目がまったく違う別々のものを見ることなど、そうそうありませんし、たとえ右脳が左脳とは違う判断を下して予想外の行動をとったとしても、左脳の自己は、もっともらしい理由を考え出すことができるからです。

さらに、分離脳の患者の右脳と左脳は、脳の中では切り離されていますが、同じ身体を通してつながりを保ってはいます。そのため、やがて無意識のうちに身体を使った合図をするようになり、右半球だけが気づいた刺激を左半球にも伝えるといったことがうまくなっていくそうです。

こうして、たとえ自分の中に切り離された二人の自己がいるとしても、ある程度はうまく協調し、折り合いをつけながら生活していくようになります。それはある意味で、結合双生児の人が二人の脳で一つの身体を使って生活していくのと同じでしょう。

では、ここまで考えてきた右脳の自己と、左脳の自己が別々に行動し始めるという奇妙な現象は、分離脳など、極めて特殊な状態にある人にだけ関係する研究結果にすぎないのでしょうか。

じつはそうではなく、この分離脳研究の発見は、意外なことに、まったく別の分野の研究者たちに、これまで解けなかった不可思議な問題に対するインスピレーションを送ることになりました。

それは、トラウマ研究の専門家たち、そして愛着障害の研究者たちでした。だからこそ、さっきPTSDの専門家ベッセル・ヴァン・デア・コークが、著書の中でガザニガの研究に触れていたのです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、ヴァン・デア・コークは、PTSD患者の脳画像の研究をしていたとき、奇妙なことに気づきました。

これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。

今日、右脳と左脳の違いについては、厖大な数の科学的な文献や通俗的な文献がある。

だが90年代初期には、私は一部の人が世の中の人を左脳人間(理性的で論理的な人々)と右脳人間(直感的で芸術的な人々)に分け始めていることを耳にしたものの、この考え方にはろくに注意を払わなかった。

ところが、私たちのスキャン画像は、過去のトラウマが脳の右半球を活性化させ、左半球を不活発にさせることをはっきり示していた。(p81-82)

それは偶然の発見のようでいて、実際には、科学者がいつかは必ず行き当たる発見だったのでしょう。PTSD研究の第一人者だったヴァン・デア・コークが真っ先にそれに気づいたのは必然でした。

いったいなぜ、分離脳の研究と、トラウマ研究、そして愛着障害の研究とがつながってくるのでしょうか。

脳の右半球にあるアクセスできない記憶

これに先立って、分離脳研究をしていたマイケル・S・ガザニガは、脳のなかには複数の自己がいるという発見とは別に、さらに不可思議な事実を探り出していました。

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -によると、ガザニガは、こんな疑問を抱きました。

私たちは、かなり風変わりな疑問を解こうとしていた。

言語機能が優位な左半球が睡眠中で右半球がいわばひとりで留守番をしているとき、右半球に何かを教えることはできるだろうか?

さらには、右半球は教えられた知識を、麻酔から目ざめた左半球に伝えることができるだろうか?

優位な言語システムが眠っているあいだに右半球において記憶が作られたなら、眠りからさめた左半球の言語システムは、居眠りをしていたあいだにコード化された情報にアクセスできるだろうか?

ガザニガは、左半球の自己と右半球の自己とは、記憶を共有しているのかそれとも別々の記憶を持っているのか、ということを知りたいと考えました。

分離脳の実験では、確かに、左目だけが見た「雪の車道」の写真を知っていたのは右半球の自己だけでした。言語機能を持つ左半球の自己は、その情報を知らずに、もっともらしい作り話を考え出しました。

では分離脳ではない、健康な人の場合はどうでしょうか。もし仮に、脳の片側が寝ている間に、もう一方だけが何かを見たり聞いたりしたら、その情報の記憶は後に共有されるのでしょうか。

それまでの実験は、脳梁を切断した分離脳の患者を対象としたものでしたが、ガザニガはあるとき、健康な脳を持つ人たち、つまり左右の脳を切り離していない、脳梁で左右がしっかりとつながっている人たちの左右の脳について調べる機会を得ました。

かつては、脳梁がつながっている人の左右の脳を別々に調べる方法はありませんでしたが、科学の進歩は、脳の片側だけを麻酔薬アミタールソーダを使って眠らせるという方法を考案しました。

神経外科医は、脳の手術をする前に、言語機能に影響しないように、脳の片側を麻酔して、その人が左右の脳のどちらに言語中枢を持っているかを調べるようになりました。

脳の言語中枢は、ここまで見たとおり、大半の人では左脳に存在していますが、まれに右脳に言語中枢が存在する人もいることが知られています。

芸術的才能と脳の不思議―神経心理学からの考察によると、言語機能が右半球にあるのは右利きの人の4%、左利きの人の15%で、両半球に言語機能にある特殊な例も、左利きの人の15%に見られます。(p183)

ガザニガは、脳の片側を麻酔する検査に便乗して、右半球の自己と、左半球の自己の記憶の違いについて調べました。

脳の片側は、もう片側が眠っている間に知った情報を共有できるのか。

その結果はたいへん示唆に富むものでした。

私たちの行った実験では、それは不可能だという答えが見つかった。

その一方、私が掲げたカードに書かれた回答をただ指すように患者に指示した場合には、(おそらくは)右半球がコード化された情報を上手に思い出せたようだった。

情報はそこにあったが、もう一方の半球にある言語システムからは到達できないところに保存されていたのだ。(p202)

脳梁で左右の脳がつながっている健康な人であっても、脳の左半球が麻酔で眠っている間に右半球が見た情報は、左半球が目覚めた後も共有されていなかったのです。

ガザニガは、一連の研究を通して、自分が発見したものが何なのか気づきました。

簡単に言えば、意識的には到達できない情報が、それでもなお、意識的に見えるような決定がくだされる過程に影響を与えることがあると証明したのだ。

私たちは、広大な無意識を、私たちがすることの大半をおそらくは支配しているネットワークをのぞき見ることができたのだ。(p186)

そう、それは「無意識」または「潜在記憶」と呼ばれる領域でした。

フロイトら心理学者たちは、早くから、人には意識していない潜在記憶としての無意識があることを主張していましたが、今や、たしかに意識からはアクセスできない記憶があることが証明されました。

解離性障害の専門家である岡野憲一郎先生も、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でこの右脳の自己とはフロイトのいう無意識である、というアラン・ショアの見解について触れています。

ショアは、自己の表象は、左脳と右脳の両方に別々に存在するという考えが専門家の間でコンセンサスを得つつあるという。

…この右脳の自己表象とは、フロイトの無意識や、非明示的な情報処理とも関係しているという。(p23)

脳の左半球を麻酔する実験で、左半球の自己が眠っているあいだに右半球の自己が得た情報は、後に共有されることなく、右半球だけが知っている無意識の記憶として保存されていたのです。

右半球の情動は共有されている

しかしながら、右半球の無意識に保存されている記憶が、左半球から気付かれないまま格納されているとしても、アクセスすることができないのなら、特に気にする必要はないのではないでしょうか。

確かに、実験に参加した人たちは、左半球が麻酔で眠っている間に、右半球が見た何かの情報を思い出せないとしても、特に困りませんでした。

しかし、ガザニガは、もう一つ、極めて重要な発見をしていました。

右半球の自己だけが知っている記憶にアクセスすることはできませんが、右半球の自己が抱いている感情は、脳梁が切断されている分離脳の人でも、皮質下を通して共有されているのです。

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -で彼はこう言います。

情動の状態は、皮質下において半球間でやりとりされているようであり、脳梁を切断してもこのやりとりは影響を受けない。

したがって、そうした情動の状態のきっかけとなった知覚や体験は、すべて右半球に隔離されているかもしれないが、両方の半球がその情動を感じることになる。

左半球は、その情動がなぜ、どこから生じたかを知る手がかりをもっていなくても、つねに理由を説明しようとする。

左半球の自己と右半球の自己は、別々の記憶を持っていますが、感情は共有しています。

すると、ガザニガが言うように、右半球の自己が持っている記憶を知らないのに、その結果として生じた感情だけを感じるので、左半球の自己は、自分が感じる感情の原因について、もっともらしい作り話をして理由付けすることになります。

ガザニガは、次のような例を紹介しています。

たとえば、男の人が火事に巻き込まれる怖い防火ビデオをV・Pの右半球に見せたことがあった。何が見えたかと質問すると彼女はこう答えた。

「何を見たかよくわかりません。一瞬白い光が見えたような気がします」。

この分離脳の女性の左半球(ふだん話しているほうの自己)は、右半球だけが見せられた、トラウマ的なビデオについて気づいていませんでした。右半球の自己が持つ記憶は共有されていなかったのです。

しかし、右半球がそのビデオを見て感じた気持ちについては、そうではありませんでした。

しかし何かの感情をおぼえたかと尋ねるとこのように答えた。

「理由はよくわかりませんが、ちょっと怖くなりました。びくっとしました。

たぶんこの部屋の居心地が悪いのか、それとも先生のせいかもしれません。先生のせいで神経質になっているのかも」。

彼女はそれから研究助手に向かって、「私はガザニガ先生を好きなはずですが、今はなぜだか先生が怖いんです」と言った。

左半球は負の感情が生じていることに気づいているのに、その原因についてはまったくわからないでいた。

興味深い点は、原因がわからなくても、状況に応じた「筋の通った」説明をひねりだす妨げにはならないということだ。(p178)

左半球は、右半球だけが見た恐怖をあおるビデオを知りませんでした。しかし右半球が感じた「ちょっと怖い」気持ちは感じていました。

それで、理由もわからずに感じる怖さについて、その場で、もっともらしい理由をひねり出しました。ビデオについての記憶はなかったので、その場にある手近なものを使って、つまり、目の前にいる先生のせいで怖いのではないか、と解釈したのです。

左半球の自己が眠っている間に、右半球の自己が見聞きした情報の記憶はアクセスできない無意識に隔離されている。しかし、右半球の自己が感じた感情は共有されるので、左半球の自己は、理由のよくわからない感情を味わうことになる。

ガザニガたちが見つけたこの奇妙な発見は、とても興味深いものです。しかしある人たちはこう考えることでしょう。

これは分離脳の患者や、実験室で麻酔を使って左半球の自己を眠らせた、特殊な状況の人にのみ当てはまる研究結果だ。

わたしたちの日常では、脳の片側だけが眠っているなどという状況はありえないのだから、大半の人には関係ない雑学にすぎない。

なぜあなたは生後数年間の記憶を覚えていないのか

わたしたちの日常では、脳の片側が眠っているような特殊な状況はありえない。これは本当にそうでしょうか。

PTSDやトラウマ研究の専門家たちは、これが決して特殊なものではないことに気づきました。いえ、むしろ、あらゆる人類がその状況を経験したことがあることに気づきました。

わたしやあなたを含め、世の中のありとあらゆる人すべてが、あたかも麻酔をかけられた人のように、左半球が眠っている間に、右半球だけが目覚めている、という奇妙な経験をしているのです。

「幼児期健忘」という言葉をご存じでしょうか。

たいそうな名前がついていますが、ただ単に、幼いころの記憶を思い出せない、ということを指す心理学的な用語です。

わたしたち誰もが実感として気づいていることですが、人間はみんな幼少期の記憶がほとんどありません。小さいころの記憶は、ほぼまったく覚えていなかったり、とても断片的なものだったりします。

「小さかったから覚えてないのね」とさも当たり前のように言われますが、幼いころのことを覚えていないのは「小さかったから」なのでしょうか。

ベッセル・ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べる次の説明を読めば、勘の良い人は、すぐさまピンとくることでしょう。

右脳は子宮の中で先に発達し、母親と赤ん坊の間の非言語的コミュニケーションを担う。子供が言語を理解し、話し方を学び始めると、左半球が稼働するようになったことがわかる。

言語能力を獲得すれば、子供は物の名前を言ったり、物どうしを比べたり、物と物の関係を理解したり、自分独自の主観的経験を他者に伝え始めたりすることができる。(p82)

同様の点を、脳は奇跡を起こすの著者ノーマン・ドイジは、もっと具体的にこう指摘しています。

ヒトの場合、二歳までは右半球のほうが大きい。左半球はそれから急激な成長をはじめるが、三歳頃までは右半球が脳を支配している。

二歳二ヶ月の幼児は、複雑な「右脳に支配された」感情的な生き物であるが、左脳の機能がまだじゅうぶん発達していないので、自分の経験したことを話すことができない。

脳スキャンでも、子どもが二歳になるまでは、母親が自分の右半球を使って非言語コミュニケーションをして、子どもの右半球に訴えかけているのがわかる。(p267)

両者の説明から明らかなとおり、脳の右半球と左半球は、発達する時期が異なっています。

そして、生まれてから数年間にまず活動しているのは右脳のほうなのです。そして、遅れて左脳が発達し始めます。

これが意味しているのは、わたしたちは生まれてから数年間、みな、あたかも左脳が眠って留守にしているかのような状態にあるということです。

正確には、左脳は留守にしているのではなく、まだ発達していないだけなのですが、状況としては、左脳を麻酔で眠らせている人の場合とよく似ています。

あなたが、生まれてからしばらくの時期、幼いころの記憶を思い出せない、幼児期健忘を経験する理由がもうおわかりでしょう。

あなたが覚えていない時期に、あなたの身体を使って生きていたのは、あなた、つまり左半球の自己ではないのです。

そのときにあなたの身体をコントロールしていたのは先に生まれていた右半球の自己であり、左半球の自己であるあなたは、右半球の自己が経験した幼少期の記憶にアクセスできないのです。

「愛着障害」の正体

わたしやあなたが、生まれてからの数年間、右脳の自己によって生きていた、ということは、極めて重要な意味を持っています。

生まれてから数年間の養育経験は、その後の人生に大きな影響を及ぼす、と主張したのは、イギリスの精神分析学者ジョン・ボウルビィでした。

ボウルビィは、戦災で孤児になった子どもたちを観察して、生後2、3年ごろまでの養育者との絆が、その後の生き方や人間関係の土台となることを発見し、その生物学的な絆を「愛着」(アタッチメント)と名づけました。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
愛着理論によると、子どものころの養育環境は、遺伝子と同じほど強い影響を持ち、障害にわたって人生に関与するとされています。愛着の傷は生きにくさやさまざまなストレスをもたらす反面、創造

ボウルビィと、その共同研究者のメアリー・エインスワースは、1歳のころに子どもが示す愛着のパターンが、6歳になってもほとんど変わらず、さらには大半の人で生涯にわたってほぼ変化しないことに気づきました。

それはちょうど、わずか1歳や2歳ごろに受けた母親の世話の特徴を無意識のうちに記憶していて、大人になっても、友だちや恋人、さらには我が子に対して、そのときと同じパターンで、接しているかのようでした。

幼少期に安定した世話を受けられた人は、その後の人生でも安定した人間関係を築きますが、不安定な世話を受けた人は、その後の人生の対人関係もまた依存的になったり、回避的になったりしてしまいます。

さらには、不幸にも幼いころに満足のいく世話を受けられなかった人は、精神的に不安定になりやすく、しばしば理由もわからず、うつ状態になったり気分が変動したりしがちです。

しかも当の本人は、自分の考え方や行動の癖が、幼少期の母親の世話に由来している、ということにまったく気づいていないのです。

なぜ、生後わずか数年間の母親の世話が、これほどまでに色濃く、ときには「第二の遺伝子」と呼ばれるほどに、わたしたちの人生に影響を与えるのか、ボウルビィをはじめ愛着の研究者たちはよくわかっていませんでした。

右脳の自己だけが幼少期を覚えている

しかし、分離脳の研究という、まったく意外なところから、その答えがもたらされました。 脳は奇跡を起こすの中で、ノーマン・ドイジは、不安定な愛着とは何か、その正体を明らかにしています。

生まれてから三年以内にトラウマを経験した場合、そのトラウマの顕在記憶は、あったとしてもごくわずかだと思われる(Lは、四歳までの記憶はひとつもないと話していた)。

しかし、これらのトラウマについての手続き記憶/潜在記憶は存在していて、トラウマと似たような状況に置かれたときに噴出したり、誘発されたりする。

こういった記憶は、「まったく予期しないときに」よみがえる。顕在記憶とは違って、時間や場所、文脈によって分類されないらしいのだ。

感情的なかかわりにまつわる潜在記憶は、転移あるいは人生のさまざまな場面において、しばしば繰り返される。(p270-271)

愛着とは、すなわち、生まれてから数年間にあなたの身体を用いている、右脳の自己が経験した記憶なのです。

左脳の自己、すなわち今のあなたが目覚めるより前に、右脳の自己は生後数年間、母親の世話を経験します。そのときの記憶は、右脳の自己はしっかりと覚えています。

しかし、4、5歳ごろになって左脳の自己が成長してくると、身体のコントロールは、言語機能に秀でた左脳の自己に任されるようになります。

左脳の自己は、自分が目覚めるまでに右脳の自己が経験した記憶にはアクセスできないので、幼児期健忘が生じます。

しかし、情動は共有されているので、その後の人生で、右脳の自己が感じる気持ちをリアルタイムに経験します。

解離性障害の専門家の岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、アラン・ショア博士の分析を参考にしてこう述べています。

逆に愛着の失敗やトラウマ等で同調不全が生じた場合は、それが解離の病理にもつながっていく。

つまりトラウマや解離反応において生じているのは、一種の右脳の機能不全というわけである。ショアがこれを強調するのには、それなりの根拠がある。

というのも、人間の発達段階において、特に生後の最初の1年でまず機能を始めるのは右脳だからだ。

そのとき左脳はまだ成熟を始めていない。

するとたとえば生後2ヶ月になり、後頭葉の皮質のシナプス形成が始まると、その情報は主として右脳に流れ、右脳が興奮を示す(Tzourio-Mazoyer,2002)。

子どもが成長し、左右の海馬の機能などが備わり、時系列的な記憶が生成され始めるのは、4,5歳になってからだ。(p19)

 幼少期に満足のいく養育を受けられなかった場合、さらにはトラウマ的な経験をしていた場合、成長してからの日常生活や人間関係において、それを思い出させるような場面に出くわしたとき、右脳の自己が反応し、怒りや悲しみ、抑うつなどを感じるかもしれません。

しかし左脳の自己には、なぜそんな感情が生じているか、理解するための記憶がありません。すると、左脳の自己は、手近にある情報を用いて、なんとか理由づけしようとして、作り話を考え出します。

ちょうど、「雪の車道」の写真を覚えていなかったために、ニワトリ小屋を掃除するにはシャベルが必要だと解釈した分離脳の人や、怖いビデオを見せられたのにその記憶にアクセスできず、怖いのはガザニガ先生のせいだと理由付けした人のように。

理由もわからずに感じられる抑うつや気分の変動、強迫症状、パニックなどに直面したとき、たいていの人は、その理由は、最近経験した何かの出来事にあると考えて理由づけします。

あるいは、精神疾患は「脳の病気」であるという医学モデルにしたがって、理由もなくただ脳が故障して、化学物質のバランスがおかしくなっていると理由づけして、処方された薬を飲んで対処しようとするかもしれません。

確かに精神疾患が脳は化学物質のバランス異常である、というのは間違いではありません。しかし、なぜ化学物質のバランス異常が生じるのか、という答えにはなりません。

ほとんどの人は、理由もわからず生じる感情の変動の原因が、右脳の自己が過去の記憶にしたがって抱いている感情にあるかもしれない、とは考えもしないのです。

幼少期を「再演」する

不安定な愛着を抱えた人たちは、自分でも理解しがたい感情にとらわれたり、気分が変動したり、理由もわからないまま、衝動的に行動したりして、後で後悔してしまうようなことがあります。

愛着障害が、ときに慢性的な自尊心の低さや、双極性障害のような気分の不安定さとして表れることは、トラウマ研究の専門家たちはよく知っています。

臨床家のためのDSM-5 虎の巻の中で杉山登志郎先生は、重度気分調整障害(DMDD)という概念についてこう述べています。

DMDDはわれわれが見ている被虐待児の気分調整困難と、あまりにも臨床像が一致しており、異なった問題を扱っているとは考えにくい。

さらにこの愛着障害を基盤にした気分調整不全は、成人にいたった時に、双極性障害II型類似の、気分変動に展開していくという発達精神病理学的な出世魚現象が認められるのである。(p47-48)

愛着障害の子ども、または大人は、気分や行動の調整に困難を抱えていることが多く、さまざまな診断名をつけられますが、トラウマに気づかれることは少なく、PTSDという診断を受けることもめったにありません。

なぜなら、PTSDの診断には、トラウマ体験を記憶していることが必要ですが、愛着障害の人たちは、具体的なトラウマ体験を記憶していないことが多いからです。

ヴァン・デア・コークは身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でこう書いています。

マサチューセッツ・メンタルヘルスセンターの外来クリニックに来る子供たちは、必ずしも自分のトラウマ体験を記憶していない(PTSDの診断基準の一つ)か、あるいは少なくとも、虐待の具体的な記憶で頭がいっぱいではないが、自分が依然として危険な状態にあるかのように振る舞い続ける。(p236)

トラウマを負い、国立子供トラウマティックストレス・ネットワークで診療を受けた子供の82パーセントは、PTSDの診断基準を満たさない。(p262)

愛着障害を抱えた子ども、または大人の多くは、トラウマ経験を記憶していないため、PTSDのようなトラウマに関連した病気とは診断されません。

しかし理由もわからずに「自分が依然として危険な状態にあるかのように振る舞い続ける」ので、表面的な症状にだけ注目して、うつ病や双極性障害、ADHD、さらには原因不明の痛みや疲労と診断されるのです。

なぜ、あたかもトラウマを抱えているかのような気分変動や問題行動、あるいは身体への強い負担が症状として現れるのに、トラウマ体験そのものの記憶はないのか、それはこれまで調べてきた分離脳研究がはっきりと示しています。

左脳の自己が不在の間、つまり生後幼いころに右脳の自己が経験した記憶は、左脳の自己とは共有されません。

しかし右脳の自己は、はっきりと記憶をもっており、感情は皮質下で共有されています。

分離脳研究で見たとおり、右脳の自己は、確かに理由があって、「シャベル」の写真を指差すという行動をとったり、怖いビデオを見た「恐怖」という感情を感じたりします。

同様に、愛着障害では、左脳の自己が気づかないところで、右脳の自己が反応し、恐怖や悲しみを感じたり、パニックになったり、身体をこわばらせたりします。

しかし、左脳の自己は、その理由を知らず、右脳の自己の記憶にアクセスできないので、それは原因不明の感情や身体の反応として認識されます。

原因不明の感情や行動とは、左脳の自己が知らないところで経験されたトラウマ記憶を持つ右脳の自己が、そのときの反応を「再演」しているのですが、気づかれることはほとんどありません。

ガザニガは、人の心は、本当は複数の自己から成り立っているのに、外部の観察者の目にも、内部の観察者の目にも、ただひとつの自己に見えてしまう、と述べていました。

愛着障害を抱える人の不可解な感情や行動もまた、本人が知らない記憶を持っている内なる別の誰かによるものだとは気づかれません。

ある人が思い出す代わりに再演を続けているかぎり、医師や警察官、ソーシャルワーカーはどうすれば、その人がトラウマ性ストレスを抱えているのだと気づくことができるだろうか。

患者自身は、自分の振る舞いの原因をどうすれば突き止められるだろうか。

過去のいきさつがわからなければ、彼らは過去を統合する助けを得られずに、頭のおかしい人というレッテルを貼られたり、犯罪者として罰せられたりする可能性が高い。(p301)

病院に行くと、過去を統合する代わりに、原因不明の症状に対する対処療法として、感覚を麻痺させたり、無視したりするのに役立つ薬を処方されます。

つまり、内なる別の自己の悲痛な叫びを封じ込め、麻痺させ、なかったことにすることで、問題にフタをしてしまいます。

だが、薬はトラウマを「治す」ことはできない。乱れた生理機能の表れを抑えることができるだけだ。

また、自己調節を可能にする効果が永続するような教訓を与えてはくれない。

感情と行動を制御するのを助けることはできるが、それには常に代償が伴う―なぜなら薬は、関与、モチベーション、痛み、喜びを調節する化学システムを抑え込むことによって作用するからだ。(p368)

ヴァン・デア・コークが言うように、愛着障害による気分変動や問題行動を薬によって治療しようとするのは、症状を和らげる助けにはなります。その助けによって一時的な安定を得ることもできます。

しかしそれは、内なる別の自己が感じている感情や、抱え持っている記憶を抑え込んでいるだけで、トラウマを「治す」という根本的な対策にはなっていないのです。

では本当の解決策とはなんでしょうか。

ヴェトナム戦争の帰還兵のスール・マーランテスは、長年、自分の中にある、コントロールできない相反する感情に苦しめられていました。戦争を楽しむ気持ちと、戦争を悲しみ恐れる気持ちとが同居していました。

やがて彼は、自分が感じるその理由のわからない感情の葛藤は、心の中の複数の自己の分裂にあると気づきました。

長年、その分裂状態を癒やす必要があることを自覚していなかったし、帰還後にそれを指摘してくれる人は誰もいなかった。

……自分の中には一人の人間しかいないと、なぜ思い込んでいたのだろうか。(p383)

そして彼は、内なる別の自己を薬で麻痺させ、無理やり黙らせるのではなく、その自己が何を考えているのか、何を感じているのか、そして自分が知らない何を知っているのか、耳を傾けようと考えました。

私は自分の中で起こっていることを誰にも話せなかった。だから、そうしたイメージを長年、遠くのほうに押しやってきた。

その若者を一人の若者、ことによると私の子供だと本当に想像するようになって初めて、自分の経験のうち、切り離された部分を再統合し始めた。

すると、この圧倒するような悲しみが訪れた―そして癒やしが。(p383)

彼は、自分の中にいる別の自己を知り、その記憶と悲しみを共有することにしたのです。

これと同じことをするために体系化された手法、それが「内的家族システム(IFS)療法」です。

「内的家族システム(IFS)療法」とは

「内的家族システム療法」 (Internal family systems Therapy)とは、リチャード・シュウォーツによって考案された、内なる自己とのコミュニケーションによるトラウマ解決方法のことです。

Center for Self Leadership, IFS Therapy Training (Official Site)

文字どおりの家族療法では、精神疾患を抱えた人の問題は、本人だけでなく、その家族全体が抱えている家庭の病理の一角にすぎない、とみなして、家族全体を治療していきます。

内的家族システム療法は、それと同様に、一人の人の内部に存在する複数の自己を、ひとつの家庭とみなします。そして、表に出てきている自己が抱えている問題は、内的家族全体の問題だと考えます。

IFSでは、各部分を単なる情動の一時的状態や習慣的な思考パターンではなく、独自の来歴や、能力、欲求や世界観を持つ個別の精神システムと捉える。

トラウマは、そうした各部分にさまざまな信念や情動を植えつけ、その信念や情動が各部分を乗っ取り、本来の有益な状態から切り離してしまう。(p464)

ここまで見てきた左脳の自己、右脳の自己というモデルでは、マイケル・ガザニガが初期の分離脳研究から見いだした、脳の中に二人の自己がいる、という考えに基づいて考えてきました。

しかしすでに見たとおり、ガザニガはやがて、自己は右脳と左脳のたった二人の自己のみではなく、もっと多くの、複数の自己から成り立っていると考えるようになりました。

「だが、自己とは統一された存在ではなく、私たちの内部には、いくつもの意識領域が存在しうるという説についてはどうだろう

……私たちの[分離脳の]研究から新たに浮上したのは、文字どおり複数の自己が存在し、しかもそうした自己は、必ずしも内面で相互に『対話』してはいないという見方だ」。(p463)

わたしたちの内部には複数の自己がいますが、それらは「必ずしも内面で相互に『対話』しては」いません。

内部の複数の自己は、脳という一つの家に住んでいますが、互いに互いのことをよく知っているとは限らず、それぞれが自分勝手に身体をコントロールしようとします。

文字どおりの家族において、家族のメンバーの意思疎通ができていないと、内部分裂が生じて、さまざまな家庭問題が噴出しますが、内的家族の場合もそれと同様です。

内的家族の分裂がもとで生じている多種多様な原因不明の問題を解決するには、内的家族のメンバー同士が一致した家庭になっていけるよう助ける必要があります。

解離性同一性障害(DID)は特別ではない

自分の中に、複数の異なる自己がいて、互い同士をよく知らないままに勝手に身体をコントロールしようとしている、などというと、まるで多重人格(解離性同一性障害)の人のようだ、と感じられるかもしれません。

大半の人は、解離性同一性障害(DID)を極めて異常で、オカルトチックなものだと考えがちですが、分離脳研究が明らかにしたことからすれば、決してそうではない、ということがすぐわかります。

分離脳研究や、内的家族システムのモデルが示すように、一人の人の中に複数の自己がいるのは、まったく普通なことです。

つまり、健康な人の場合、内なる複数の自己からなる家族が、一致団結しているので、見かけ上、ひとつの自己に見えているにすぎません。

一方、解離性同一性障害(DID)の人は、ちょうど脳梁を切断され、右脳の自己と左脳の自己が別々に機能している分離脳の人たちのように、内なる複数の自己が分裂し、無秩序に行動している状態にあります。

健康な人の愛着が「秩序型」に分類されるのに対し、解離性同一性障害の根底にある愛着は「無秩序型」と呼ばれています。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
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ヴァン・デア・コークは、解離性同一性障害(DID)は、決して異常なものではなく、極端なトラウマ体験のせいで内的家族が極端な反応を見せているにすぎないと述べます。

解離性同一性障害に見受けられる内部分裂や異なる人格の出現は、幅広い精神生活の領域の極端な例にすぎない。

自分の中に相容れない衝動や部分がいくつもあるという感覚は誰しも抱いているが、トラウマを負い、生き延びるために極端な手段に頼らざるを得なかった人々には、とりわけ顕著なのだ。(p457)

特に、幼少期にトラウマを経験した人の場合、脳は、自分の記憶や感覚の一部を切り離す「解離」という防衛手段を身に着けます。

ちょうど左脳と右脳を文字どおり切り離した分離脳の人たちと似ていますが、「解離」とは、脳のネットワークの一部を物理的にではなく、機能的に切り離すことです。

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たとえば、著しいトラウマ体験に直面した場合、そのとき表にいた自己は、恐怖や痛みから脳の大部分を守るために、感覚を遮断します。

すると、表に立ってトラウマを経験した自己(犠牲者人格)と、切り離して逃れさせてもらった自己(生存者人格)とにわかれます。

そして、トラウマを経験した自己(犠牲者人格)は、自分が経験したトラウマ記憶を覚えていますが、そのとき切り離されて守られた自己(生存者人格)は、あたかも麻酔で眠らされていた左脳のように、トラウマ経験の記憶がありません

それ以降の人生では、おもにトラウマ体験から守られ、トラウマ体験を記憶していない自己(生存者人格)がメインの人格となって身体をコントロールします。

しかし身代わりになってトラウマを体験し記憶している自己(犠牲者人格)もまた内なる自己として存在していて、ときおり別人格として表れます。

お気づきのように、これは、左脳の自己がいない間に、右脳の自己が経験した幼少期の記憶によって、感情や行動のトラブルが生じる愛着障害と同じ構造です。

このようにして、トラウマを経験した人の内的家族は分裂してしまいます。

スイッチング―気づかれない人格交代

では、このような人格の分裂、内的家族の分裂は、極端なトラウマを経験した人にのみ生じるのでしょうか。

つまり、内的家族には、統一されている健康な状態か、内的家族が完全に分裂している解離性同一性障害(DID)か、という、白か黒か、はっきり区別できる二つの状態しか存在しないのでしょうか。

ヴァン・デア・コークは、内的家族システム(IFS)というモデルが、その答えを与えてくれたと述べています。

IFSモデルのおかげで、私は解離がスペクトルの上で生じることに気づいた。

トラウマを負うと、自己システムが故障し、自己を成す各部分がスペクトルの両極に分かれて互いに争い始める。(p464)

内的家族の分裂、つまり「解離」という現象は「スペクトルの上で生じる」のです。

スペクトルとは、虹のように連続したグラデーションのことですが、そこには白か黒か、というような切れ目はなく、さまざまな程度の色が連続しています。

内的家族の分裂もまた、一致団結しているか、完全に分裂しているか、という二択ではなく、さまざまな程度の解離が存在しているということです。

文字どおりの家庭の問題がさまざまであるように、内的家族が抱えている問題の程度もさまざまで、ちょっとしたコミュニケーションの行き違い程度のものから、互いに激しい憎しみを抱いて口も利きたくないと思っている状態まで多種多様です。

では、内的家族が一致している状態が普通の人、内的家族が完全に分裂している状態が解離性同一性障害(DID)だとするなら、その中間に存在する、さまざまな程度の分裂とは、どのようなものなのでしょうか。

たとえばそれは、「スイッチング」と呼ばれる病理です。

テキサス大学オースティン校のジェイムズ・ペネベーカーによる実験では、学生たちは、誰も見ていないときに、テープレコーダーに向かって、自分の辛い体験について語るよう指示されました。あとで記録された声を再生すると、奇妙なことがわかりました。

私はペネベーカーの研究の別の点にも注意を惹かれた。

参加者が、私的な問題あるいは厄介な問題について話したときは、声の調子と話し方が変わることが多かったのだ。

素の違いがあまりにも著しいので、ペネベーカーは自分がテープを取り違えてしまったのかと思ったほどだった。(p396)

ペネベーカーは、精神科の患者ではなく、学生たちを対象にこの実験を行いましたが、辛い経験を思い出して語ってもらったとき、あたかも別の人間であるかのように話し方が変わっている人たちがいたのです。

ヴァン・デア・コークは、これと同様の現象を、臨床現場ではしばしば目にすると述べています。

そうした変化は臨床現場では「スイッチング」と呼ばれており、トラウマを負った人にしばしば見られる。

患者は話題が変わるたびに、まったく違う情緒的状態と生理的状態に入る。

スイッチングは声のパターンのはなはだしい変化としてだけでなく、表情や体の動きの変化としても表れる。

臆病な人から強引で攻撃的な人へ、心配症で他人の言いなりになる人からいかにも魅惑的な人へと、人格が変わるようにさえ見える患者もいる。(p396-397)

「スイッチング」が生じる人は、必ずしも、解離性同一性障害(DID)の人たちのように、完全に別の人格へと交代しているわけではありません。「スイッチング」しても記憶はつながっていて、別人になっているという自覚はありません。

しかし、その振る舞いや話し方、行動は、はた目から見てもはっきりとした違いが感じられます。

このような「スイッチング」を見せる人の中に境界性パーソナリティ障害(BPD)の人たちがいます。

BPDの人たちは、自分の心の中に複数の自己がいるとは思っていませんが、とても親切で魅力的な人が、突然 別人のよう振る舞い出し、激しく怒りだしたり、罵詈雑言を浴びせたりします。

見捨てられ不安に敏感な「境界性パーソナリティ障害」とは?―白と黒の世界を揺れ動く両極端な人たち
他の人を白か黒かでしか判断できなくなってしまい、グレーゾーンがわからない。最初尊敬して、どこまでもついていきたいと思うのに、ちょっとしたことで裏切られたと感じ、幻滅してしまう。そん

これは、単に二面性のある人、というものではなく、人格交代の軽微なもの、つまり「スイッチング」だとみなすことができます。知らず知らずにうちに、別の自己にコントロールを奪われていることに気づかないのです。

シュウォーツが指摘するように、「私たちは、彼らの視点から自分自身、さらには世界を眺めるので、それこそが、『唯一無二の』世界だと信じ込んでしまう。

この状態では、まさか自分が乗っ取られていようとは思いもしない」(p479)

同様のことは、双極性障害のような奇妙な気分変動で別人のようになる人や、衝動的な依存行為からなぜか抜け出せないような人にも当てはまります。

内的家族の成員が口を利かず、情報共有もしていない状態が解離性同一性障害だとすると、内的家族が一応コミュニケーションしてはいるものの、意思疎通がうまくいっていなくて、分裂しかかっている状態が、境界性パーソナリティ障害などの軽微な人格交代だといえます。

「幸せな子ども時代」だと言ってしまえる理由

こうした分裂した内的家族を抱えている人の中には、自分にはトラウマ的な経験などなく、「幸せな子ども時代」を送ってきたと信じている人もいます。

過去について尋ねると、幸せな子供時代を「送ったに違いない」と思うとマリリンは答えたが、12歳になる前のことはほとんど思い出せなかった。(p206)

過去の記事で取り上げたように、ガボール・マテは、身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価の中で、「自分は幸せな家庭で育った」という偽りのポジティブシンキングにはまりこんでしまっている人たちがいると述べています。

ここに働いているのは、一種の逆「偽りの思い出症候群」である。

意識的なレベルてぜは、人はだいたい子供時代のいいことだけを覚えている。嫌な出来事を思い出すにしても、その出来事の感情は抑圧されているのである。(p361)

過去の出来事は覚えているが、それにまつわる心の傷は思い出さないというときには、この種の“解離”が働いている。

人が「幸せな子供時代」を回想するのはそれが理由なのである。(p363)

病気の人が習慣にしがちな偽りのポジティブ思考とは何か
病気の人はポジティブシンキングを身につけるようよくアドバイスされます。しかし意外にも、ポジティブに見える人ほど病気が重いというデータもあるのです。「身体が「ノー」と言うとき―抑圧さ

これは特に、「回避型」と呼ばれる愛着スタイルを抱える人に多い傾向です。

本当に幸せな子ども時代を送った人たちは、「安定型」の愛着スタイルを持っており、幼少期の良い出来事も悪い出来事もはっきりと回想することができますし、心身の不安定さを見せることもありません。

しかし「回避型」の人たちは、幸せな子ども時代を送ったと述べはしますが、具体的なエピソードはあまり思い出せず、心身には原因不明の不調を抱えていて、ときおり解離症状を見せるという特徴があります。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で、回避型の愛着を、「感じることのない対処」と呼んでいます。

なぜなら、この回避型の愛着の人たちは、心ではストレスを意識せず、身体だけがストレスに反応して心拍数を上げたり、過覚醒になったりといった反応を見せるからです。(p191)

回避型の愛着の人たちの特徴は、分離脳研究が示していた、理由のわからない感情を感じる左脳の自己と、ただ無言のうちに抱え持つ記憶に反応している右脳の自己の関係とよく似ています。

回避型の愛着の人が、さまざまな心身の不調を抱えながら、言葉では「幸せな子ども時代」を送ったと述べるのは、決して無理をしているわけでも、嘘をついているわけでもありません。

それはちょうど左脳の自己が、麻酔をして眠っている間に右脳の自己が経験したことをまったく知らなかったのと同様です。

また、解離性同一性障害の生存者人格が、身代わりになって自分を生き延びてさせてくれた犠牲者人格のトラウマ的体験の記憶を知らないのと同様です。

すなわち、「回避型」の愛着スタイルの人が「幸せな子ども時代だった」といえるのは、別の誰かが、身代わりまた犠牲になって、辛い記憶を引き受けてくれているからこそ言える言葉です。

心身に明らかにトラウマ反応類似の異常が出ているのに、臆面なく「幸せな子供時代だった」と言いきってしまえるのは、身代わりになった内なる別のだれかを意識から解離して「感じることのない対処」に陥っているのでない限り説明できないほど不自然な反応です。

原因不明の心身の症状は、解離された過去の記憶を代わりに抱え持ってくれている、身代わりとなった内なる人格の心の声であり、言葉にならない悲鳴のようなものです。

内的家族のだれかが辛い記憶を抱え、すすり泣いているとき、その心身の反応は共有されていても、記憶は共有されていません。そのため、過去に何もなかったはずなのに、症状だけが出ているという不可解な状態になってしまうのです。

結果、「回避型」の愛着スタイルの人は、原因不明の身体疾患を訴えたり、精神症状を脳の病気とみなして抑え込んだりするだけで、根本的な治療を求めることはありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークは、そのような人たちについてこう書いています。

彼らの大半は、さまざまな医師を訪ね、癒えることのない病気を治療し続けるほうが、過去の魔物たちに立ち向かう、つらい課題をこなすよりもましだという、無意識の決定を下してしまったように見える。(p167)

内なる自己を見つける

もし自分がスイッチングを起こしていたり、回避型の愛着のような内的家族の見えない不和を抱えていることに気づいた場合、何ができるでしょうか。

必要なのは内なる別の自己の存在に気づくことです。

たとえば、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、理由のわからない抑うつ感などを抱えている場合、それは内なる別の自己の感情であることを認め、その自己がなぜ泣いているのかを知ろうとする必要があります。

J.G.Warkins,1997は、抑うつ感を人格化する例としてこれを説明している。

「私たちは、抑うつ感が想像の中でどのように感じられるのか、そして、それに苦しんでいるのが誰で、どのような人物なのかを知る必要がある」(p626)

感情を人格化する、というと、精神論的で奇妙なものに思える人がいるかもしれません。空想上のままごと遊びみたいだという人もいるでしょう。

しかし、あなたという自己が、名前を持ち、ひとりの人格としてアイデンティティを持っているのはどうしてでしょうか。

たとえば、あなたが生まれてから一度も名前を呼ばれたことがなく、じめじめした暗い部屋にたった一人で生きてきたとしたら、あなたは自分が誰であるか、どうやって識別できるようになるでしょうか。

あなたもまた、最初は、名前もない、ただの感情の塊にすぎませんでした。ただ泣きわめき、感情と衝動のままに行動することしか知りませんでした。

しかし親があなたの名前を呼び、あなたが誰であるかを教えてくれたおかげで、あなたは徐々に、自分は何者であるかが認識できるようになってきました。そして、自分の感情や行動をコントロールできるようにもなっていきました。

ヴァン・デア・コークは視力も聴力もなく、自分を呼ぶ声に気づけなかったころのヘレン・ケラーを引き合いに出しています。

彼女は、言葉を見つけるまで、「手に負えない孤立した生き物」でした。しかし、サリヴァン先生によって「water」という言葉を見つけたとき、はじめて自分が何者であるか識別できるようになり、半年後に「I」(わたし)という言葉を使い始めました。(p384)

ときおり話題になる、動物に育てられた人間の子どもの場合もこれと似ているのでしょう。言葉によって呼びかけられ、名前で呼ばれることがなければ、ただの感情の塊は自分が何者であるか識別できず、ひとりの人格として目覚めることができません。

そうであれば、あなたの中にいる、まだ名前のない感情の塊も、あなたと同じなのです。だれかがそれに気づいて、名前をつけ、自分が誰なのかを教えてやらなければ、いつまでも感情のままに行動することしかできないのです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、マリオン・ウッドマンはこうアドバイスしています。

つらすぎて正視できない、その影は、私たちが生きなかった、最良の人生を宿しているのかもしれない。

地下室に、屋根裏部屋に、ゴミ箱の中に、入っていきなさい。そこで尊いものを見つけなさい。

食べ物も水も与えられていない獣を見つけなさい。

それは、あなただ!

この顧みられずに、追放され、注意を向けてもらいたがっている獣は、あなたの自己の一部だ。(p377)

内なる家族に自ら気づく創造的な人たち

不思議なことに、なかには、このような働きかけをせずとも、内なる家族の存在におのずと気づいてしまう人もいます。

たとえば、脳神経科医オリヴァー・サックスは、道程:オリヴァー・サックス自伝の中で、自己の「連続性」について疑問を感じることがある、と述べています。(p426)

私はいつからか時間のことを考えていた―時間と知覚、時間と意識、時間と記憶、時間と音楽、時間と運動、とくに、私たちの目に切れめないように映る時間と運動の経過は錯覚なのだろうかという疑問に、たちもどっていた。

私たちの視覚経験は、じつは一連の時間を超越した「瞬間」で成り立っていて、それが脳内の高次のメカニズムによってひとつにまとめられているのではないか。(p425)

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書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

オリヴァー・サックスによると、かの有名なジークムント・フロイトは、68歳だった1924年に、カール・アブラハムへの手紙の中で、自身の「人格の統一性」について不思議に感じていることを吐露しています。(p427)

またこのブログの過去記事で取り上げたように、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちによると、作家のヴァージニア・ウルフは、自己の不連続性を強く意識していて、それが「ダロウェイ夫人」などのユニークな小説を書く動機になりました。

彼女は自分が「一つの状態でない」ことを発見した。「病気であることが、人を何人かの別々の人に分裂させるなんて、じつに妙だ」と彼女は述べている。

…ウルフは、精神について自分の病気から学んだこと、すなわちその移り変わりの早さ、一つではないこと、そしてその「矛盾だらけの奇妙な寄せ集め状態」を、文学技巧へと転換した。

彼女の小説の主題は、人間を知ることの難しさ、つまり「彼らはこうだとか、ああだとか」と言い切ることの困難さだった。(p254)

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脳の可塑性は豊かな創造性をもたらすと同時にもろさと隣り合わせ。可塑性を引き出す近年の研究や、可塑性によって「絶えず変化した人」ヴァージニア・ウルフの生涯などを通して、可塑性の光と闇

これらの人たちの共通点は、いずれも、ある程度、愛着の不安定さを抱えていたと思われることです。

オリヴァー・サックスやヴァージニア・ウルフの愛着の不安定さについては、自伝や経歴から言わずもがなですが、ジークムント・フロイトについても、岡野憲一郎先生が、岡野憲一郎のブログ: フロイト私論(9)の中で、愛着の不安定さゆえの防衛を指摘していました。

みな社会的に大きな成功を収めた人物ですが、いずれも複雑な内面を抱えていて、アイデンティティの悩みに突き動かされるがごとく、研究や創作に人一倍打ち込んだように思われます。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークが、「ほとんどの研究は自分探しだ」というベアトリス・ピーピーの言葉を引用しているように、彼らの業績や創作はアイデンティティの悩みの結果だったのでしょう。(p180)

近年の研究によると、解離という防衛反応は、幼少期に不安定な愛着を抱えた人特有のもので、その後の人生の家庭問題やトラウマ体験では説明できないと言われています。

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解離性障害は深刻なトラウマ経験がなくても発症することがあり、ADHDやアスペルガーのような発達障害、愛着障害とも関係していると言われています。解離性障害の専門家の本から、役立つ10

おそらくは、内面の不連続性に自ら気づく人たちは、程度の差こそあれ、左脳の自己と右脳の自己が分かたれるかのような愛着の不安定さを抱え持っていて、自分の中にいる相異なる複数の自己の独立性を強く意識しやすいのでしょう。

分離脳研究では、左右の脳をつなぐ脳梁が切断された人に注目することで、二人の異なる自己が存在することを発見しました。

かつて、アインシュタインの脳梁がとても太かったことなどから、脳梁はより太いほうが創造性が強い、という主張がなされていました。

しかし、意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によると、近年の研究では、左右の脳をつなぐ脳梁が細いことによって創造性が発揮される場合がある、と報告されています。

しかし驚いたことに、創造的な人間は脳梁が小さいという。

この研究に携わった研究者たちは、小さな脳梁は脳の各半球により大きな独立性を与えるのではないかと述べている。

ことによると創造性は枠組みにとらわれないことより、二つの枠組みで思考することにかかわりがあるのかもしれない。(p182)

Hemispheric connectivity and the visual-spatial divergent-thinking component of creativity. - PubMed - NCBI

以前の記事で取り上げたように創造性には少なくとも二通りあって、統合失調症傾向と関係していると思われる科学分野の創造性と、解離傾向や愛着障害と関係していると思われる芸術・文芸方面での創造性は、別個のものではないかとされています。

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創造性とはなにか。「天才の脳科学―創造性はいかに創られるか」という本に基づいて、「通常の創造性」と「並外れた創造性」について考えています。また統合失調症との関連が強い科学者の創造性

そして、今取り上げたオリヴァー・サックス、ジークムント・フロイト、ヴァージニア・ウルフ、さらには、この記事で参考にした本の著者マイケル・ガザニガ、ノーマン・ドイジ、ヴァン・デア・コークなどはみな、後者の創造性を有しているように思えます。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、子ども時代にトラウマを経験した人では、左右の脳をつなぐ脳梁が細いことが知られています。

虐待されたりネグレクトされた経験のある男児では、脳梁の中央部が対照群に比べて明らかに小さいことを発見した。

また男児では、ネグレクトが他のどの虐待よりも各脳梁部位のサイズ減少に影響が大きいことがわかった。

一方女児では脳梁中央部のサイズと最も強い関連があったのは性的虐待であった。(p66)

ネグレクトや性的虐待は、回避型の愛着や解離症状のリスク要因でもあります。

また、9-10歳ごろの学童期のトラウマ体験が、より強いダメージを脳梁に与えやすいという研究結果もあるそうです。(p78-79)

オリヴァー・サックスは幼少期に疎開体験という一種のネグレクト状態に置かれたことが自身の愛着の不安定さの要因だとみなしていましたし、ヴァージニア・ウルフは学童期の性的虐待のサバイバーです。

もしかすると、不安定な愛着を抱える人が内面の複数の自己に気づきやすく、同時に文芸などの分野で芸術的創造性を発揮しやすいのは、左右の脳をつなぐ脳梁が細く、右脳と左脳が別々の人間のように振る舞いやすいことで、心の理論など複数の視点で考える能力が発達しやすいからなのかもしれません。

イマジナリーコンパニオン―セルフ内的家族システム療法

自己の不連続性に気づく人の中には、単に自分の中に複数の自己がいることを認めるどころか、内なる別の自己の存在を自然と受け入れ、コミュニケーションを取っている人たちもいます。

内的家族システム(IFS)療法を教えられるまでなく、内的家族とやりとりすることを自然と覚えてしまう人たちです。

その一例は、このブログでも何度か取り上げてきた、10代以降にも残っているイマジナリーコンパニオン(空想の友だち)でしょう。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察
心の中に別の自分を感じる、空想の友だち現象について、子どものイマジナリーフレンド、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害の交代人格にはつながりがあるのか、という点を「

イマジナリーコンパニオンを持つ人たちの多くは、いつしか自然と自分の中の他人、つまり内的家族のだれかと話すようになったといいます。物心ついたころにはすでに、自分とは別のだれかがいることが当たり前だったと言う人もいます。

こうした人たちは、おそらくは、ヴァン・デア・コークが述べるところの、解離のスペクトルにおいては、解離性同一性障害(DID)にかなり近い位置にいる人たちなのでしょう。

自分自身が一つではなく、明らかに別の自己に思える存在が心の中にいるために、おのずから、内的家族の存在に気づくことができます。

解離性同一性障害と異なっているのは、内的家族との仲の良さ、であると言えるかもしれません。

イマジナリーコンパニオンを持つ人たちも、解離性同一性障害の人たちも、強い解離傾向を持っていて、内的家族の独立性が強いのは同じです。だからこそ、はっきりとした別の人格だとわかります。

しかし、解離性同一性障害の人たちは、独立性のある内的家族同士が互いに反目し、口も利かないような分裂状態になっています。

一方のイマジナリーコンパニオンを持つ人たちは、独立性のある内的家族と仲良く接していて、親密なコミュニケーションを保っています。

ある意味では、イマジナリーコンパニオンを持つ人たちは、自身が抱える愛着の問題と無意識のうちに向き合い、自己治療のようにして、セルフ内的家族システム療法をやるようになった、とみなせるかもしれません。

しかし、たとえそうであっても、イマジナリーコンパニオンを持つ人たちには、内なる自己を知る内的家族システム療法を行う必要がない、というわけではありません。

というのは、たとえ内的家族の存在を知って、平和裏にやりとりしているとしても、内的家族の成員すべてを知っているとは限らないからです。内的家族の中に、「仲間はずれ」にされている自己がいるかもしれないのです。

内なる家族をとりまとめる

内的家族システム療法では、理由のわかない感情や、理解しにくい衝動を感じたとき、「私の中の何がそう感じているのか」と自問し、その自己のイメージを思い描きます。

そして、立ち現れた内なる自己と話し合いを始め、その自己とは誰なのか、何を感じ、何を求めているのか、自分とは別の他人とみなして理解を深めていきます。

この手法は、日本国内でも行われている「自我状態療法」とほぼ同じなので、以下の記事を参考にしてください。

トラウマを治療する「自我状態療法」とは? 複数の自己と対話する会議室テクニック
「図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法」という本から、トラウマを治療するのに使われる自我状態療法として、解離のテーブルテクニック・会議室テ

また、こちらの方の記事では、実際に内的家族システム療法を体験した経験談が書かれています。

自分の中のキャラを引き出す — 花川ゆう子、Ph.D. サイコロジスト 

こうして自分の内面の自己を探るうちに、さまざまな自己を見つけることになりますが、そうしたさまざまな自己には、大きく分けると「追放者」「管理者」「消防士」という呼び名が当てられています。

追放者(exile)

まず、「追放者」とは、幼少期の辛い体験のときに身代わりとなり、トラウマ記憶の重荷を引き受けている、いわゆる「犠牲者人格」や「身代わり天使」のことです。

しかし、内的家族システム療法において、この自己が「犠牲者」ではなく「追放者」と呼ばれていることには理由があります。

私たちには誰にでも、子供っぽいおどけた部分がある。

だが虐待を受けると、こうした部分は最も大きく傷つき、虐待による苦痛や恐怖、裏切りを背負わされ、凍りつく。

この重荷のせいで、そうした部分は有害な存在、すなわち、どのような犠牲を払っても否認しなければならない部分になる。

そうした部分は内側に閉じ込められてしまうので、IFSでは「追放者(exile) 」と呼ばれる。(p464)

犠牲者人格は、辛い記憶を背負わされているために、危険で有害な存在とみなされ、他の自己から遠ざけられ、黙殺されています。つまり、解離されています。

他の内的家族と親しくして、イマジナリーコンパニオンのように会話している人でも、内的家族から遠ざけられているこの「追放者」の存在に気づいていないことがあります。

原因不明の気分の落ち込みや悲しみ、怒りといったネガティブな感情が生じる場合、それは何らかの辛い記憶を抱え持つ「追放者」が、ひとりぼっちにされたまま すすり泣いていることを示唆しているといえます。

彼らは現実の大部分を否認したり、分離したりすることによって生き延びる。虐待を忘れ、憤激や絶望を抑え込み、身体的感覚を麻痺させる。

もしあなたが子供のころに虐待を受けていたとしたら、あなたの中にはおそらく当時のまま凍りついた子供のような部分が残っていて、今なお、そうした自己嫌悪や否認をやめられずにいるだろう。(p459)

こうした「追放者」としての自己は、「インナーチャイルド」と呼ばれていることもあります。

管理者(manager)

内的家族システム療法では、インナーチャイルドとしての「追放者」のほかにも、さまざまな内なる自己が存在していることがわかっています。

身代わりとなって犠牲にされた「追放者」を隔離し、その存在をなかったかのように思わせているのは、「管理者」です。

批判的で完璧主義者の「管理者(manager)」は、私たちがけっして誰にも近寄らないようにすることも、絶えずしゃにむに生産性を追求するように仕向けることもできる。(p464)

「管理者」はトラウマ体験を負った人が、その体験を思い出さないようにし、あたかも何事もなかったかのように日常生活を送れるよう助けている人格部分です。ときにこの自己は「守護天使」とも呼ばれます。

「管理者」は冷静かつ批判的で、あなたが傷つけられないよう気を配っています。再び辛い経験をしないよう、常にまわりの空気を読んで立ち回り、厖大なエネルギーを費やしています。

「管理者」は、ときに有能な完璧主義者のように振る舞うので、生産性を追求したり、めざましい業績を挙げたりして、社会的に成功して責任ある立場に就くトラウマのサバイバーもいます。

「管理者」の過剰なまでの自己コントロールは、過剰同調性と呼ばれる傾向として現れることもあります。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

消防士(firefighter)

最後の3つ目のタイプは「消防士」と呼ばれています。

トラウマを抱えた人は、ふだんは「管理者」にコントロールされ、過剰なまでに気を遣ってうまく立ち回るかもしれませんが、エネルギーを使い尽くしたり、トラウマを思い出させるトリガーに遭遇したりすると、「追放者」が反応し、暴れだします。

そのような場面で、なりふり構わずになんとしてでも「追放者」を閉じ込めておき、その存在を葬り去ってしまおうとする火消し役が「消防士」です。

IFSで「消防士(firefighter)」と呼ばれる別の種類のプロテクターたちは、緊急時の対応にあたる存在で、追放された情動が喚起されるような体験をするたびに、衝動的に行動する。(p464)

「消防士」は、冷静にコントロールして危険を避けようとする「管理者」とは対極にあり、文字どおりどんな手を使ってでも、「追放者」を封じ込めようとします。

たとえば、衝動的にリストカットして意識を飛ばしたり、アルコールやコンピューターゲームに依存させて我を忘れさせたり、行きずりのセックスで感覚を麻痺させたり、火消しのためにはなんでもします。

内的家族が分裂している人の場合、問題を起こしているように見えるのは、たいていの場合、「追放者」と「消防士」です。

ふだんは「管理者」がコントロールしている理性的な人物が、ときどき、意味もわからず気分の落ち込みや変動を感じたり、衝動的な行為や依存症にとらわれたりしてしまい、どうやってもそれをなんとかできないので、困惑して、医療の門を叩きます。

意味もわからず生じる気分の落ち込みや変動、自殺衝動などは、閉じ込めている「追放者」が泣きわめいている声です。

異常とも思える衝動的な行動は、「消防士」がなりふり構わず、泣きわめく「追放者」を牢獄に閉じ込めておくための非常手段ですが、ただの問題行動にしか見えません。

それで、医者は感覚を麻痺させ、感情を抑制する薬を出します。それは、牢獄の中で暴れている「追放者」をおとなしくさせる鎮静剤です。

すると、麻痺させられた「追放者」は静かになり、「消防士」には頑張る必要がなくなるので、症状は消えます。ふたたび「管理者」の手にコントロールが戻り、日常がまわるようになります。

ただし、牢獄の中で悲痛な叫びを挙げている「追放者」をつねに鎮静剤で眠らせるために、ずっと薬を飲み続けるならば、のことです。

そして「管理者」も「消防士」も、いつ目覚めるかわからない「追放者」にずっとピリピリしているため、緊張に満ちた家庭のような状態になり、内的家族の一致は永遠にもたらされません。

ヴァン・デア・コークはトラウマ治療にさまざまな薬を使っていますが、薬が有用なのは、トラウマに向き合うセラピーに取り組みやすくする目的で用いる場合のみだと考えています。あくまで薬は治療の「補助輪」のようなものなのです。

「セルフ」(自分そのもの)によるリーダーシップ

このような内的家族の分裂を解消するために、内的家族システム療法では、「セルフ」(自分そのもの)によるリーダーシップを育んでいくよう助けます。

つまり、あなた自身がリーダーシップを発揮して、内なる自己、また内的家族である「管理者」や「消防士」と話し合うようにします。そして、彼らが決して外に出すまいと閉じ込めている「追放者」の存在に気づき、面会します。

自分自身とどれだけうまく折り合いをけられるかは、自分の中のリーダーシップ技能に負うところが大きい。

さまざまな部分の言い分にどれだけうまく耳を傾け、それぞれが尊重されていると感じられるように気を配り、互い足を引っ張り合わないようにしておけるか、だ。(p461)

有能な「管理者」はともかく、トラウマ体験の記憶とネガティブな感情に支配された「追放者」や、衝動的な自己破壊行動で緊急対応する「消防士」は、一見すると厄介者ですが、それらを家族の一部として理解し、抱きしめ、包み込むことが目的です。

この共同作業は、すべての部分が歓迎されること、そして、現在どれほど自己システムを脅かしているように思えても、どの部分も(自殺衝動があったり、破壊的な行動に走ったりする部分でさえも)、すべてシステムを守る方策として形成されたということを、内部システムに納得させるところから始まる。(p466)

内的家族が分裂している状態では、家族のリーダーシップをとるあなた自身(セルフ)はほぼ存在していないかのように見えます。

というのも、ふだん身体の指揮をとっているのは批判的な「管理者」だからです。あるいはトラウマ記憶が強すぎて、理性的に考える力を失っている人の場合は、「消防士」が取り仕切っていることもあります。

しかし、どれほど混乱して分裂していても、内的家族システム療法では、必ず無傷の「セルフ」が生き残っていると考えます。

そもそも、「管理者」や「消防士」といった内的家族の面々が必死になっているのは、どこかに無傷の「セルフ」が残っていて、守る必要があるからなのです。

内的家族システム療法で、内なる自己の「管理者」や「消防士」、「追放者」を特定し、それらを分けて考えていくと、いつしか、本来のあなた自身「セルフ」が出てこられるようになります。

内的家族システム療法は、患者が生き延びるために創り出した、分離された部分を呼び出して、その人がそれらを特定し、それらと話せるようにし、その結果、無傷の「セルフ(自分そのもの)」が出てこられるようにする。(p509)

そして、「セルフ」(自分そのもの)によるリーダーシップを取り戻し、あたかも「セルフ」が一家の大黒柱、便りになるお父さんのような存在へと成長してしていくにつれ、内的家族を取りまとめる方法が見えてきます。

家族であれ、組織であれ、国家であれ、どのようなシステムも効果的に機能するためには、明確に定められた優れたリーダーシップを持っていなければならない。

内的家族も例外ではなく、私たちの「セルフ」も、そのあらゆる側面に目配りする必要がある。(p467)

「セルフ」を発見し、「セルフ」によるリーダーシップを取り戻し、「管理者」や「消防士」、そして「追放者」といった内なる自己一人ひとりの言い分を尊重し、ひとつの家族として一致できるよう結び合わせたとき、心身の問題はおのずと快方に向かいます。

「追放者」が一人で抱え持っていた記憶が癒やされれば、「追放者」は泣きわめく必要がなくなります。すると、「管理者」と「消防士」がやっきになって火消しをする必要もなくなります。家族が一致すれば、スイッチングが生じることもありません。

この本の中で、ヴァン・デア・コークは、内的家族システム療法を用いて治療した人たちの具体例をいくつか載せています。

その中には、自分でも理解できない癇癪やセックス依存に悩まされ、「どれが本当のわたしなのか、自分でもわかりません」と述べたジョーンがいます。彼女は「消防士」のなりふり構わない行動に振り回されていました。

また非常に尊大な医者で、自分には何の問題もなく、妻の気難しさを治してほしいと言ってきたピーターの例も載せられています。彼の場合は、「批判者」が思考を乗っ取っていました。

自己愛性パーソナリティ障害代理症―人をモノ扱いする夫を持つ妻と子どもの苦痛
さまざまなパーソナリティ障害を説明している本、「パーソナリティ障害とは何か」から、自己愛性パーソナリティ障害の特徴や、その周りの人が抱え込む苦痛への対処法について解説しています。

また、自己免疫疾患の関節リウマチなど、身体疾患に対しても内的家族システム療法を導入して効果があったという臨床研究の結果も載せられています。(p482)

内的家族の不和が身体疾患の直接の原因だというわけではないにしても、「管理者」の過剰なコントロールなどが闘病を難しくして、重荷を増し加えている場合があるからです。

ほどなく根本的な問題が発覚した。多くのトラウマサバイバーと同じで、関節リウマチ患者もまた失感情症だった。

のちにナンシー・ソーウェルから聞いたのだが、患者たちはとても耐えられない状態にならない限り、苦痛や身体的な不自由について決して不満を訴えなかった。

いかがですかと問われると「大丈夫です」と判で押したように答えた。

患者たちの毅然とした部分が問題への対処に役立っているのは間違いなかったが、そうした管理者のせいで、患者は何でも否認する状態に陥っていた。(p483)

内的家族システム療法に関心のある人は、ぜひ、この本をじっくり読んでみるようお勧めします。

この本全体の感想についてはこちらの記事でまとめていますので、参考にしてください。この記事と合わせて読めば、より理解が深まると思います。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

「右脳には言いたいことがある」

内なる自己の存在に気づき、その言い分に耳を傾ける方法は、内的家族システム療法だけではありません。

ノーマン・ドイジは、この記事でも参考にした脳は奇跡を起こすの中で、幼少期に右脳の自己が経験した愛着トラウマを理解するためにをヒントにしています。

右脳の自己が持っている記憶は、左脳の自己からアクセスできないところにある潜在記憶ですが、夢を見ているレム睡眠の状態では、ときおり潜在記憶が悪夢などの形で再生されることがあります。

夢を見ている状態で、解離されている潜在記憶にアクセスしやすくなるのは、レム睡眠が記憶の整理の役割を持っているからですが、それと似たメカニズムは、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)としてトラウマ治療で活用されています。

子ども時代の慢性的なトラウマ経験がもたらす5つの後遺症と5つの治療法
子ども時代の慢性的なトラウマが、統合失調症や双極性障害と見分けにくい様々な問題をもたらすことや、その治療法としてトラウマフォーカスト認知行動療法、自我状態療法などが注目されている点

また、ガザニガが指摘していたように、左脳の自己は言語機能を持つのに対し、右脳の自己は言語機能を持たないため、感情を表すことはできても、具体的な言葉にして伝えることができません。

内的家族システム療法で内なる自己と会話するとしても、言葉によるコミュニケーションは、左脳の言語機能を通して解釈されています。

それでは、右脳の自己に、自分の記憶について直接語ってもらうことは不可能なのか、というとそうではありません。

ヴァン・デア・コークは 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で、アルバート・ペッソが考案したペッソ・ボイデン・システム精神運動療法(PBSP:Pesso Boyden system psychomotor therapy)という「今まで私が目にしたグループワークのどれとも違ってた」手法について紹介しています。

Pesso Boyden System Psychomotor

わたしはこの療法について読んだときに、これを考えついた人はまさしく天才ではないか、と思ったほどですが、この治療法は右半球の自己に直接語らせる極めて独創的な手法です。

一言で言うと、これは三次元的な箱庭療法であり、実在の物と人物を用いて、右半球が抱え持っている言葉にできない記憶を視覚化します。

右半球には言語機能がないといっても、左半球より劣っているというわけではなく、ガザニガが右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で述べるとおり、右半球にもまた特化した役割があります。

左半球のほうが言語情報の処理に長け、右半球は顔などの視覚情報の処理に長けているということもわかった。

つまり、半球の能力がそれぞれ特化しているのだ。提示された種類の情報を専門とする半球は、その種の情報のあつかいが上手である。(p315)

左半球が言語機能に長けているのに対し、右半球は視覚情報の処理に長けていて、顔の表情や身振り、空間的な位置などの把握に特化しています。

つまり、左脳の自己は、体験したことを言葉という文脈に当てはめて記憶しますが、右脳の自己は、体験したことを空間的に散らばる断片として記憶しています。

そのせいで、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているとおり、左脳の自己が停止し、右脳の自己に支配されると、断片的で脈絡のない記憶がフラッシュバックします。

脳の左側と右側では、過去の痕跡の処理の仕方も著しく異なる。

左脳は事実や統計的数値、出来事を描写する言葉を記憶する。私たちは左脳に、自分の経験を説明したり整理したりしてもらう。

右脳は音や声、触感、匂い、それらが喚起する情動の記憶を保存する。また過去に見聞きした声や目鼻立ち、仕草、場所に自動的に反応する。

右脳が思い起こすことは、直感的な事実、すなわち物事の実際のありようのように感じられる。(p82)

これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。(p81)

では、言葉も文脈も持たない右脳の自己に語らせるためにはどうすればいいのか。

それは、左脳の自己の文法ではなく、右脳の自己の文法にそって語れる場を作ってやればいいということになります。

PBSP療法は自分のまわりの空間を使って、三次元的な箱庭療法をすることで、右脳の自己が持っている言葉にならない空間的な記憶を再現します。

私はストラクチャーを実施するたびに舌を巻くのだが、脳の右半球はじつに的確に外部への投影を行なう。

主役は常に、自分のストラクチャーのさまざまな登場人物がどこにいるべきかを、正確に心得ているのだ。(p502)

この手法は、言語を用いた心理療法では効果が見られないような、誰にも安心感を抱いたことがなく、空虚感を感じている人たちに特に効果があるとされています。

すでに見たとおり、言語機能としてのインタープリター(解釈者)は、基本的に左脳特有のものですが、だからといって右脳が解釈能力に劣っていて、まともに話せない、というわけではありません。

むしろ右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -によると、ガザニガは、その後の研究によって、左脳には言語機能のインタープリターがあるのに対し、右脳には視空間認知機能に特化した別のインタープリターが存在するという結論に至っています。

左半球にインタープリターがあると同時に、右半球にも視覚情報のインタープリターがあることを発見したのだ。

つまり、二つの視覚的な物体が同じ方向を向いているのかどうかを判断する能力を授けてくれる特殊なプロセスが右半球にあるのだ。しかもこの機能は右半球だけに特化している。

話ができ分析が得意な左半球であっても、右半球から分離されるとこんな単純な作業もできない。(p348)

つまり、左半球の自己がお手上げになるような複雑な内的家族の問題があった場合、まったく異なる才能に特化している右半球の自己に語らせれば、解決の糸口が見つかるかもしれないというわけです。

右脳に語らせる、というこの独創的な手法について読んだとき、わたしはマイケル・ガザニガが述べていたこの印象的なフレーズを思い出しました。

右脳には言いたいことがある (p284)

「多数でありながら一人の自己」

この記事では、マイケル・S・ガザニガとロジャー・スペリーによる分離脳研究が明らかにした、左脳の自己と右脳の自己という発見から始まり、「単一の自己」というのは思い込み・錯覚であり、わたしたちには内なる「複数の自己」があるのが普通である、という最新の認知科学の概念について考えてきました。

そして、わずか生後数年間に時期の親子の触れ合いによって生じる「愛着」が、生涯にわたって影響をもたらすのは、その時期にいち早く目覚めていた右脳の自己が幼少期の出来事を記憶していて、左脳の自己の知らないところで「再演」するからだ、という理解を得ました。

また、幼児期健忘が、右脳の自己という内なる他人の存在を示唆しているように、回避型の愛着スタイルの人の過去の記憶の乏しさもまた、だれか別の内なる自己が身代わりとなって記憶を引き受けていることを示唆している、という類似点を考えました。

わたしたちは誰しも内なる複数の自己からなる内的家族システム(IFS)を有していますが、たいていの人は内的家族が一致して、セルフによるリーダーシップが働いているので、自己が複数であることを意識しません。

しかし内的家族が分裂していると、気づかないうちに他の自己と切り替わってしまうスイッチングや、極端な場合は内的家族が反目しあっている解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格として複数の自己が表に出てきてしまう、ということがわかりました。

つまり、スイッチングや解離性同一性障害(DID)によって複数の自己が現れてしまう人の場合、問題なのは自己が複数存在することではなく、複数の自己を取りまとめる「セルフ」が機能していないことなのです。

解離性障害の専門家である柴山雅俊先生は、解離の構造―私の変容と〈むすび〉の治療論―の中で、解離性同一性障害の治療に必要なのは、「むすぶこと」「包むこと」だと述べます。

断片化した魂同士がむすばれるためには、それらが互いに包まれることが必要である。

犠牲者としての交代人格は外傷の記憶をひとりで抱え込んでいた。

すでに述べたように、生存者は切り離されていた犠牲者人格を包み返す必要がある。

つながるとはそこでしっかりとしたやりとりがなされることである。

解離性障害の治療において重要なことはたんに一つの人格にすることではない。

必要なことはそれぞれの魂が「包まれる」とともに「つながり」を回復していく過程であり、それによって〈むすび〉すなわち生成する生命の力を奮い立たせることにある。(p236)

内的家族システムとして考えたとき、「むすぶこと」とは、互いに意思疎通ができていない内的家族のメンバー 一人ひとりの仲を取り持ち、家族としての絆を結び合わせることだとわかります。

そして「包むこと」とは、複数に分かれてしまった内的家族のメンバーを、「セルフ」であるあなたが、ひとつの家庭としてまとめ上げることを意味しています。

柴山先生は、解離の舞台―症状構造と治療で、フィリップ・ブロンバーグの言葉をこう引用しています。

できるだけ簡潔に言うと、ひとつの統合された自己―「現実のあなた」―というものは存在しない。自己表現と人間関係は必然的に衝突するだろう。(…)

しかし健康とは統合することではない。健康とは、さまざまな現実とのあいだの空間に、それらのうちにどれも失うこともなく立つ能力である。

これこそ私が考える自己受容の意味であり、創造性は実際にすべてこのことと関連している。

すなわち多数でありながら一人の自己であるかのように感じる能力のことである。(p250-251)

わたしたちの内面に、複数の自己が存在することは当たり前なのです。「ひとつの統合された自己」というものはありません。文字どおりの家族のメンバーと同じように、一人ひとりは別々の個性、記憶、感情を持っています。

しかし文字どおりの家族が、異なる複数のメンバーから成り立っていても、ひとつの家族として一致団結できるように、内的家族の一人ひとりが、「セルフ」(あなたそのもの)のもとに一致するとき、「多数でありながら一人の自己」と感じられるようになります。

文字どおりの家族が、それぞれの才能や能力を活かして互いに補い合い、喜びも苦難も共にして生きていくように、内的家族もまた、固い絆で結び合わされ、人生の諸問題を協力して乗り越えていけるようになるのです。


自閉症は脳の過成長、ADHDは脳の成熟の遅れー脳画像研究による発達の違い

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閉症とADHDそれぞれの脳の発達の傾向に関する研究が報道されていました。

以前から言われていたことですが、自閉症は早期に生じる脳の過成長が、一方ADHDは脳の発達の遅れが関係しているようです。

Nature ハイライト:早期脳過成長から自閉症スペクトラム障害を予測できる | Nature | Nature Research

ADHD、脳の大きさにわずかな差 大規模研究で確認 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News 

自閉症で脳のサイズが大きくなるのは、「シナプスの刈り込み」という脳の機能の最適化が十分に行われないことが一因だと考えられています。これは変化に柔軟に適応していくことの苦手さと関係している可能性があります。

またADHDでサイズが小さいことが確認された部位には、PTSDなどトラウマへの脆弱性と関係している部位が含まれていて、ストレス耐性の低さないしは過敏さを示唆しているのかもしれません。

この記事では、それぞれのニュースをもとに、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如多動症(ADHD)の脳の特徴について考察してみたいと思います。

自閉症は脳が早期に過剰に大きくなる

自閉症の脳については、かねてから脳の容量が大きく、過成長していることが指摘されていました。

2011年のニュースでは、米ユタ大学のジャネット・ラインハート(Janet E Lainhart)らが、不慮の事故などで死亡した自閉症の子どもの脳を調べたところ、同じ年齢の自閉症でない子どもの脳よりニューロン(神経細胞)が多く、脳がより重いことがわかったと報告されていました。

Increased neuron number and head size in autism. - PubMed - NCBI

自閉症児の脳は過度に発達、出生前に起因か 米研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

米国の研究者らは、2歳から16歳までの自閉症の少年7人の遺体の脳を調べた。死因は大半が溺死だが、8歳児1人は筋肉のがんで死亡し、16歳少年1人の死因は不明だ。

 事故で死亡した自閉症ではない少年6人(対照群)の脳と同じ年齢で比較してみると、自閉症の少年の脳は前頭前皮質にあるニューロンの数が対照群の脳より67%多く、脳の重さも各年代の平均より18%近く重かった。

そして、昨日Natureに載せられていた研究によると、ノースカロライナ大学チャペルヒル校のヘザー・コーディ・ハズレット(Heather Cody Hazlett)らは、ASDの遺伝的リスクが高い子ども102人と、そうでない子ども42人を対象に調べた結果、ASDのリスクが高い子どもの81%に、出生後6-12ヶ月の時点で、脳の皮質成長率の増大がすでに認められたそうです。

Early brain development in infants at high risk or autism spectrum disorder : Nature : Nature Research

Nature ハイライト:早期脳過成長から自閉症スペクトラム障害を予測できる | Nature | Nature Research

自閉スペクトラム症(ASD)を乳児期の脳スキャンで高い確率で予測することが可能に - GIGAZINE

今回、H Hazlettたちは、家族性ASDに高いリスクを持つ幼児を対象に神経画像化による長期的研究を行い、24か月齢時点でASDの診断を受けた高リスク児は、6~12か月齢の時点で皮質成長率の増大を示していたことが分かった。

この結果、生後1年目という早い段階の脳画像検査で、脳の過成長に注目することで、ASDの傾向を予測することができるのではないか、と言われています。

自閉症はシナプス刈り込みによる最適化が難しい

自閉症とADHDは、脳の発達傾向においては異なる特徴を有していますが、どちらの場合にも、脳の発達に関わる「シナプスの刈り込み(剪定)現象」という機能の異常があると考えられているようです。

小脳のシナプス刈り込みの仕組み解明 | 東京大学

生後間もない動物の脳には過剰な神経結合(シナプス)が存在するが、生後の発達過程において、必要な結合だけが強められ、不要な結合は除去されて、成熟した機能的な神経回路が完成する。

この過程は「シナプス刈り込み」と呼ばれており、生後発達期の神経回路に見られる普遍的な現象であると考えられている。

自閉症やADHD(注意欠陥多動性障害)などの発達障害において、発達期のシナプス刈り込みの異常が関係すると考えられている。

人間の脳は胎児期にニューロン(神経細胞)が作られ、2歳ごろまでにシナプス(ニューロンのつながり)が劇的に形成されていきます。

それから、不要なシナプスを刈り込んで、脳の機能を最適化していく「シナプスの刈り込み現象」が、生後1年目から思春期、ひいては若年成人のころまで続き、社会に適応する脳が作られていきます。

しかし、自閉症では、初期にニューロンが過剰に作られるとともに、この「シナプスの刈り込み」という最適化がうまく行われていないようです。

薬剤でシナプスの「刈り込み」回復、自閉症治療に可能性 米研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

だが自閉症ではない19歳の若者は、シナプスの数が幼児より約41%減少していたが、19歳の自閉症患者の脳内にはシナプスがはるかに多く残存しており、幼児の脳と比べて約16%程しか刈り込みされていなかった。

赤ちゃんの脳に最初にシナプスが大量につくられるのは、さまざまな環境に適応する可能性を作るためであり、その後の生活環境に応じて、必要なものを残し、不要なものを刈り取ることで、環境に適応した脳が作られます。

悲しいことに、この時期に虐待など不適切な養育にさらされると、過酷な世界に適応するための脳へと刈り込まれてしまう、ということも知られています。

だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版)
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どんな環境で生きるにしても、シナプスの刈り込みが生じるおかげで、わたしたちは成長とともに、自分が生まれ育った環境に適応していけるわけですが、自閉症では、この刈り込みが十分に行われません。

そうすると、成長とともに、社会に適応した脳が作られないので、社会に馴染めず、独特の性質を持つ脳に発達していくのではないか、と思われます。

しばしば自閉スペクトラム症との類似点が指摘される統合失調症では、思春期のシナプスの刈り込みが逆に過剰になっていて、必要なシナプスまで刈り込んでしまうという異常がみられるようです。

プレスリリース詳細 | 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター

統合失調症では、この記憶や感情に関わる24野と14r野のシナプスが思春期以降も減少し続けることが分かっています。

今回の研究から、通常では一定量に維持されている記憶や感情に関わるシナプス数の減少が統合失調症の発症に関与していることが想定されます。

つまり、一見似た症状があっても統合失調症とアスペルガー症候群は別のものであり、治療薬などの対処も異なっていることがうかがえます。

統合失調症の予後が一般的にあまりよくないと言われるのに対し、解離性障害や解離型の自閉スペクトラム症の場合は、一時的に幻聴などの症状が強く出るとしても、適切な対応によって回復していくことが可能だと言われているのは、こうした脳機能の違いが関係しているのかもしれません。

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なぜ脳が早期に過成長するのか

自閉症の脳で過成長が起こる原因については諸説ありますが、以前に読んだ失われてゆく、我々の内なる細菌では、ひとつの可能性として、慢性炎症との関わりが示唆されています。

寄生虫なき病によると、ウィスコンシン大学のクリス・コー(Christopher L. Coe)らのアカゲザルを用いた研究では、妊娠中の急性ウイルス感染が統合失調症のリスクを高めるのに対し、持続的な軽度の慢性炎症は、脳に絶えず刺激を与えて過成長を促し、自閉症のリスクを高めることが示されました。

コーは図らずも、クールシェンヌが自閉症児の脳で観察したのと(広い意味で)同じ特性を持った脳(育ちすぎた脳)を作り出していたのである。

育ちすぎを促進したのは急性の炎症ではなかった。それを引き起こしたのは、慢性的な軽度の炎症だった。

「逆説的だが」とコーは言う。「慢性的な軽度の炎症は、ほとんど刺激のように作用していた」。

ここから慢性的な軽度の炎症は自閉症のリスクを高め、急性の激しい炎症(感染症に伴って起きるような)は統合失調症のリスクを高める」という推測が浮かび上がってくる。(p332-333)

こうしたタイプの慢性炎症は、世界各地で、抗生物質の使用や衛生改革で急性感染症が減少したのと反比例するかのように増加しているようです。

腸内細菌(マイクロバイオーム)の研究者たちは、人間にとって有用な細菌の生態系をも破壊してしまった結果、現代人に免疫異常が蔓延したと考えています。

現代に増加しているアレルギー、自己免疫疾患、ひいては慢性炎症と関わる自閉症やメタボリック症候群、慢性疲労症候群などの脳の炎症を特色とする病気の増加は、すべて人体を取り巻く細菌の生態系バランスの崩壊とつながっているのではないかということです。

脳の慢性炎症の原因はひとつではなく複数でしょうが、その中の一因としてマイクロバイオームの問題が絡んでいる可能性は十分にありそうです。

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独自の個性や能力を伸ばしていく

自閉症の脳のシナプス刈り込みの弱さは、独特の脳機能の発達と深く関係しているようです。

発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)にはこう書かれていました。

8ヶ月まで神経細胞同士の結合が大量に増加するのに対し、その後は不要な結合を減らし、より能率的な結びつきになるように、神経細胞の活動の頻度や細胞同士の連携の頻度の多さなどから状態を変化させていく。

結果、より遠くの神経細胞同士の連携も進み、トップダウンな思考(全体を見わたる能力)の獲得を可能にしていく。

…この刈り込みに問題があるとされるのが、自閉症児だ。自閉症児は刈り込みが少なく、多くのシナプスをもち続けるのではないかといわれている。

脳の構造を調べた研究によれば、2歳の時点で、自閉症児の脳の容量が大きいというデータもある。それは前頭葉や側頭葉に顕著だという。(p32)

先にも説明したように、脳の発達とともに神経細胞の接合部分であるシナプスの「刈り込み」が行われる。

未成熟で生まれた脳が、発達初期の学習によって休息に成長し、次のステップとして、この大量の結合の中から、不要な結合を刈り込むと同時に、遠くの神経細胞同士の結合を可能にする。

この結合が、意識を支えるトップダウン処理とかかわりがあるというのだ。(p79)

自閉症の人たちが、さまざまな感覚の未分化を経験し、一種の感覚過敏や共感覚を持っていることが多いのは、不要なシナプスが十分に刈り込まれなかったせいなのかもしれません。

また定型発達の人たちが大量の感覚を効率よくさばくトップダウン処理で思考するのに対し、自閉症の人たちは、大量の感覚をそのまま処理するボトムアップ処理で思考するのもまた、シナプスの刈り込みが不十分なことと関係しているようです。

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もっとも、定型発達の人たちが、社会に適応していくためには「不要」とみなして刈り込んでしまうシナプスが、自閉スペクトラム症の人には残っているということは、ユニークな個性にもつながります。よき理解者に恵まれた場合は、能力や才能として伸ばしていくことができるかもしれません。

トップダウン処理は、全体のおおまかな情報を効率よく抽出するのは得意ですが、細部にわたる正確さはボトムアップ処理のほうが勝るのです。

こうした自閉症の脳の機能に関する傾向からわかるのは、自閉スペクトラム症の人たちは、シナプスの刈り込みによる最適化が弱いために、新しい環境に適応していくのが難しいということです。

自閉スペクトラム症の子ども、大人は、変化の少ない繰り返し作業や慣れ親しんだルーチンワークを好みます。

周りの人たちは、自閉スペクトラム症の人が、通常よりも環境の変化に適応しにくい脳の傾向を持っているということを理解して、無理な変化を強制したりせず、その人の得意なことを伸ばしていけるよう支えるのがよいということでしょう。

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ADHDは脳がわずかに小さく、成熟が遅れている

一方で、別のニュースでは、ADHDの子ども・大人を対象にした、大規模な脳画像研究が報道されていました。

オランダ・ラドバウド大学のマーティン・ホーグマン(Martine Hoogman)らの研究では、4歳から63歳までのADHDと診断された1713人と、そうでない1529人の脳をスキャンしたところ、ADHDの人のほうがわずかに脳が小さいことがわかりました。

Subcortical brain volume differences in participants with attention deficit hyperactivity disorder in children and adults: a cross-sectional mega-analysis - The Lancet Psychiatry

ADHD、脳の大きさにわずかな差 大規模研究で確認 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News 

ADHDは脳障害で患者の幼少期の脳体積は健常者よりも小さくなることが判明 - GIGAZINE

 今回の研究では、4歳から63歳までの被験者らにMRIスキャンを受けてもらい、その結果を分析。脳スキャンの画像から、脳全体の体積とともに障害に関連すると考えられている7つの領域の大きさが測定された。

その結果、ADHDと診断された人の脳では、全体の体積および5つの領域がより小さいことが確認された。

 研究結果についてHoogman氏は「その差は極めて小さく、数%の範囲内だった。これらの差を見極めるうえで、研究が前例のない規模であったことが大いに役立った」と述べている。

脳の小ささが確認された5つの領域は、側坐核、扁桃体、尾状核、海馬、被殻で、頭蓋内全体の容積も少ないことがわかりました。一方で、淡蒼球、視床の大きさには違いがありませんでした。

また、ADHDの薬の服用は、脳の大きさには関連性が見られず、併存する精神障害もありませんでした。つまり薬は良くも悪くも脳の構造を変えたりせず、対処療法にすぎないということなのでしょう。

ADHDの脳の成長の遅れはやがて追いつく

この研究は、幅広い年齢層を対象にしていますが、参加者の年齢の中央値は14歳で、子どものADHDが大部分を占めていることがわかります。

子どもと大人の脳を年齢別に比較すると、脳の成熟の遅れ( a delay of maturation and a delay of degeneration)が示唆されているとも書かれていました。

同様の点は、2007年11月、アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)の小児精神部門フィリップ・ショー(Philip Shaw)らの446人の参加者(うちADHD223人)を対象にした研究でも報告されていました。

NIMH » Brain Matures a Few Years Late in ADHD, But Follows Normal Pattern

この研究では、ADHDの子どもは脳の成熟が同年代の子どもと比較すると遅れていて、特に行動のコントロールに関わる前頭前皮質には最大5年の遅れが見られたそうです。

しかしADHDの若者に見られるこうした脳の成熟の遅れは、多くの場合、成長していく中で最終的には追いつくともされています。

これは、自閉症のような通常の年齢より早く脳の体積がピークを迎えるパターンとは対照的だとも解説されていました。

They also noted that the delayed pattern of maturation observed in ADHD is the opposite of that seen in other developmental brain disorders like autism, in which the volume of brain structures peak at a much earlier-than-normal age.

彼らはまたADHDで観察された成熟の遅延パターンは、自閉症のような他の脳の発達障害に見られる、脳構造の容量が通常の年齢よりずっと早くピークを迎えるパターンとは対照的だと指摘している。

ADHDの人たちは、脳の成長が遅れるために、同年齢の子どもに比べて、子どもっぽいとか、社会的に未熟だと思われやすいかもしれません。

しかし、研究でも示されているように、若年者で脳の発達の遅れが目立っていても、脳は20代後半まで緩やかに成長していくので、次第に発達が追いついていくと言われています。

大人になると、多動性や衝動性といった子どもっぽさが和らぎ、落ち着きのなさが改善していくADHDの人が多いのは、次第に行動のコントロールに関わる前頭前皮質の発達がキャッチアップするからなのでしょう。

それでも、ADHDの人は、どこかしら成長の遅れの名残りが残っていて、子ども心を残したまま大人になったような雰囲気が見られやすいようにも思います。

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ストレスに過敏に影響されやすい

ところで、ADHDの大規模研究についてのニュースでは、「ADHDは身体的な疾患であり、単なる行動の問題ではない」ということが強調されています。

ホーグマンは研究結果についてこう述べていました。

「研究を通じて構造の違いが確認され、ADHDが脳の疾患であることが示された」

「この研究結果が、ADHDを『単なる難しい子ども』や『親の教育の問題』とするレッテル貼りをなくす一助になることを願う」

ADHDの子どもを持つ親は、ときに「しつけがなっていない」とか「子どもを甘やかしている」と非難されますが、それは不当なもので、子どもの遺伝的な脳の性質の影響が大きいことは確かです。

ADHD:母6割、確定診断で「原因分かり、ほっとした」 - 毎日新聞

ADHDの当事者であり、支援活動に取り組むNPO法人「えじそんくらぶ」(埼玉県)の高山恵子代表は

「育て方が原因ではないと分かることで、虐待防止につながる。

不登校や自尊感情の低下といった2次障害を防ぐには、投薬治療だけではないトータルな支援が必要だ」と話した。

とはいえ、気にかかるのは、今回の研究結果で、ADHDの子どもの脳の小ささが見出された部位が側坐核、扁桃体、尾状核、海馬、被殻の5つだということです。

側坐核被殻は、報酬系と関係している部分で、やる気や意欲に関係する部分です。

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尾状核は学習や記憶と関係していますが、脳のモードを切り替えるスイッチのような役割を果たしていて、たとえばバイリンガルの人が言語のフレームを切り替えるときに尾状核が働いているのがわかっています。

脳は奇跡を起こすによると、強迫性障害の人が強迫行為から抜け出せないのは、このスイッチが切り替わらない脳ロック状態になっているからではないかとも言われています。(p200)

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意欲の低下や慢性的な疲労感を特色とする小児慢性疲労症候群(CCFS)でも、尾状核や被殻などの報酬系に関わる領域がうまく働いていないことが報告されています。

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こうした側坐核、尾状核、被殻などは大脳基底核と呼ばれる領域の一部ですが、この部分はドーパミンによる時間感覚の制御と関係している可能性があります。

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また、扁桃体は、危険を察知するアラームのような機能を果たしていて、海馬は記憶などの学習に関係しています。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、扁桃体や海馬が小さいことは、PTSDをはじめ、しばしばADHDの人がなりやすいとされる境界性パーソナリティ障害でも確認されています。(p57-62)

ストレスホルモンのコルチゾールによって海馬が萎縮することはよく知られていますが、逆に海馬や扁桃体の領域が小さいことが、トラウマ経験の際にPTSDを抱えやすいリスクになるのではないかとも言われています。

Smaller hippocampal volume predicts pathologic vulnerability to psychological trauma. - PubMed - NCBI

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睡眠不足の子どもでは海馬サイズが小さいことがわかっており、もしかすると、ADHDの子どもでは、乳幼児期から睡眠障害を抱えやすいことが、海馬を含む脳の発達の遅れにつながっているのかもしれません。

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研究チームは2008年からの4年間で、健康な5~18歳の290人の平日の睡眠時間と、それぞれの海馬の体積を調べた。その結果、睡眠が10時間以上の子どもは6時間の子どもより、海馬の体積が1割程度大きいことが判明したという。

ADHDの脳の小ささが確認される部位は「その差は極めて小さく、数%の範囲内」だとされているので、環境に恵まれた場合、それほど大きな問題を生じないまま、成長とともに症状が和らいでいくADHDの子どもも多いのでしょう。

しかし、扁桃体や海馬が小さめであることから、普通の子どもよりストレスに敏感で、影響を受けやすい可能性がありそうです。報酬系が弱いことから、学業に集中しにくい傾向もあるでしょう。

そのため、学校生活で問題を抱えた場合に、普通の子どもよりも、概日リズム睡眠障害や慢性疲労症候群などによる不登校に陥ったり、機能不全家庭や犯罪被害にさらされた場合には、PTSDなどに発展したりするリスクがいくらか高いのかもしれません。

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愛着障害を研究している友田先生は、通常 ADHDの子どもは大人になるにつれて脳の発達が追いつくものの、それを妨げる要因としてトラウマなどの環境要素が足を引っ張ることがあるとも指摘していました。

つまり、大人になっても非常に強いADHD症状が残っている人の場合、生来の遺伝以外の、何かしらの環境要因の影響を考慮に入れる必要がありそうです。

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なお、ASDとADHDは、脳の発達においては、それぞれ異なる特徴を持っているとはいえ、厳密な意味で対称関係にあるわけではないことには注意が必要です。

寄生虫なき病に載せられているクールシェンヌの研究によれば、ASDは早期に脳が過成長して早くピークが訪れる反面、その後成長が鈍くなり、ウサギとカメでいえば、ウサギのような傾向を見せ、発達が追い抜かれるとも言われていました。

マラソンにたとえるなら、自閉症児の脳は最初は飛ばしていたが、途中で倒れてしまったということになる。(p320)

現に、ASDとADHDが合併する例があることは、両者が対称関係にあるわけではないことをはっきり示しています。つまり、早期に脳の過成長が生じることと、その後何かしらの要因で脳の発達が遅れることとは、重なり合う可能性があります。

ASD症状とADHD症状を両方持っている人の中には、遺伝的な傾向として、純粋な意味でASDとADHDを合併している人ももちろんいるのでしょう。

しかし、中には、ASDまたはADHDの片方と不安定型愛着を合併した結果、あるいは生まれつきの発達障害がないにもかかわらず、劣悪な環境要因によって発達が妨げられた結果として、両方の特徴を持っているように見える場合があることにも留意しておくべきです。

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ちなみに、ADHDで特に異常がみられなかったとされていた淡蒼球は、統合失調症で大きいことがわかっています。

阪大など、統合失調症患者の脳で左右の体積がアンバランスな部位を発見 | マイナビニュース

淡蒼球は大脳皮質下領域にある大脳基底核の1つで、運動機能や、動機付け、意欲、欲求が満たされる感覚に関与するとされる。

統合失調症患者では健常者に比べて体積が大きいことが知られていた。

やはりADHDや自閉症などの発達障害と統合失調症は、ひとまずのところ区別して考えたほうがよさそうです。

一人ひとり脳の構造が違う

これらの研究からはっきりわかるのは、自閉スペクトラム症、ADHDいずれにしても、環境への適応が難しかったり、ストレスに過敏に反応したりしてしまうのは、本人の心の弱さや気にしすぎのようなものではなく、れっきとした脳の構造の違いによるものだ、ということです。

そして、脳の発達や構造が違う、ということは、定型的な発達をした人に比べて、うまくできない短所がある一方で、非定型な発達をしたからこその長所があることも物語っています。

それぞれの脳の傾向が違うことを認めた上で、その人の良い特徴が出るような環境を整えていくことが、発達障害を「障害」ではなく「個性」へと変えていく第一歩だと感じます。

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創造的な人がもつ複雑で多面的な人格の10の特徴―HSPや解離とのつながりを考察する

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重要なのは、ただ単にある特定の性格特性を身にまとうだけでは創造性の衣鉢を受け継ぐことはできないということである。

人は僧侶のように生きても、身体を酷使して無理をして生きても、創造的であり得る。

ミケランジェロは女性にそれほど興味を示さなかったが、ピカソは常に女性を求めていた。彼らの性格に共通点はほとんどないが、しかし、両者は絵画の領域を変えたのである。(p64)

造的な人に「ある特定の性格特性」などない。

自信を持って、そう言い切ってしまえるのは、創造性について、豊富な調査と研究を積み重ねてきた第一人者、ミハイ・チクセントミハイをおいてほかにはいないでしょう。

今日、さまざまなメディアで、創造性、クリエティビティについて、ありとあらゆることが取り上げられています。

創造的な人は外向的だとする記事もあれば、内向性人間の時代が来たとする学者もいますし、朝型人間のほうが、あるいは夜型人間のほうがクリエイティブだとか、コーヒーブレイクや瞑想が役立つなど、さまざまな意見が飛び交っています。

そんな中、心理学者ミハイ・チクセントミハイは、創造性とは何か、という研究にあたって学術的なアプローチをとり、フロー理論など、さまざまな革新的な発見を積み重ねてきました。

そして、創造的な人には特有の性格特性や習慣があるどころか、「ただ単にある特定の性格特性を身にまとうだけでは創造性の衣鉢を受け継ぐことはできない」という結論に至りました。

しかしそれは、結局のところ創造的な人に固有の特徴などないのだ、というお手上げ状態を意味する言葉ではありません。

むしろ、チクセントミハイは、メディアで交わされる創造性についての表面的な論議を超えて、創造的な人の深みに共通する、不思議で奇妙な、ひとつの性質へとたどり着きました。

この記事では、チクセントミハイの代表的な著書クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学を通して、創造的な人に見られるある一つの性質の10の側面について考えます。

そして、その性質が、このブログで取り上げてきたHSP(人いちばい敏感な人)という概念や、幼少期の愛着、そして解離という心の機能と、どのように結びついているかに注目したいと思います。

これはどんな本?

クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学は、心理学者ミハイ・チクセントミハイの代表的な著書で、原著Creativity : Flow and the Psychology of Discovery and Inventionは1996年、つまり20年以上前に書かれました。

2016年10月になってようやく翻訳された一冊ですが、科学技術を用いた研究ではなく、過去の偉人たちについての分析や、20世紀の創造的な偉人たち91人へのインタビューに基づく考察が主体なので、今読んでも時代遅れという印象はありません。

むしろ、400ページ以上のボリュームがある非常に濃い内容のつまった一冊で、一般に流布している創造性についての表面的なライフハック情報とは一線を画しています。本書の冒頭で、著書が、こう但し書きしているほどです。

本書に書かれていることは、創造的になるための簡単な方法ではなく、あまり知られていないいくつかのアイデアである。

創造性についての現実的な説明は、過度に主張されてきた楽観的な多くの記述と比べるとわかりにくく馴染みのないものである。(p1)

この本は、創造性は限られた天才だけの特権ではなく、だれもが創造的になりうる、というスタンスをとる一方で、創造的な人たちには固有の性質があり、遺伝的要素や、子ども時代の環境的要素が重要な役割を果たしているともされています。

本書の末尾には、一般読者向けに創造的になるためのアドバイスがまとめられてはいますが、おもなテーマは、ずばぬけた創造性を示す人たちの特徴を探ることであり、そこから浮かび上がった人物像は、とても奇妙で不思議なものでした。

創造的な人に共通するひとつの特徴

冒頭に引用したように、チクセントミハイは、さまざまな歴史上の創造的な偉人たちや、現代の創造性あふれる91人の芸術家・科学者・実業家たちなどの人となりを分析した結果、「彼らの性格に共通点はほとんどない」という結論に達しました。

通説とは違って、創造的な人は内向的だとか、奇抜でエキセントリックだとか、孤高の天才だとかいう、特定の性格特性は見当たらなかったのです。

それもそのはず、たとえば絵画の歴史をひもとくだけでも、創造的な芸術家にはさまざまな性格の人たちが入り混じっていることがわかります。

チクセントミハイは、芸術家にはミケランジェロのように禁欲的な人もいれば、ピカソのように奔放な人もいたことを指摘していますが、絵画にみられる多種多様なスタイルの幅の広さは、それを作り出した芸術家たちの多様さを雄弁に物語っているといえます。

ネット上にあふれかえる、創造的に役立つと吹聴するライフハック情報を見ても、それと同様のカオスが見られます。さまざまな対立するアドバイスからすれば、創造性という答えを導く普遍の公式など、どこにも存在しないかのように思えます。

それでは、創造的な人にはなんの共通項もないのでしょうか。

「一言で言わなければならないすれば、私は“複雑さ”を挙げる」

チクセントミハイは、短絡的な結論には飛びつきませんでした。それどころか、この混乱した状況そのものに、創造的な人に共通する単一の性質を見いだしました。

では、創造的な人々を特徴づける特性はまったくないのだろうか? 

もし創造的な人々の性格と他の人々の性格を分け隔てるのは何かを一言で言わなければならないすれば、私は複雑さを挙げるだろう。(p64)

チクセントミハイが見いだした、創造的な人の共通項、それは「複雑さ」でした。

「複雑さ」とは何を意味するのか、チクセントミハイは、続けてこう説明しています。

創造的な人は状況に応じて、同時に積極的かつ協調的であったり、あるいは、あるときには積極的で、あるときには協調的であったりする。

複雑な性格を持つということは、人間の能力の全範囲に潜在的に存在しながらも、通常は、私たちがどちらか一方の極が「良く」、もう一方の極が「悪い」と考えるために退化してしまうような、多様な特性すべてを表現できるということを意味している。(p65)

創造的な人は、競争的でもあると同時に協調的でもあり、内向的であると同時に外向的でもあり、奇抜であると同時に真面目である、といった、「多様な特性すべてを表現できる」複雑な内面を有しているのです。

「状況に応じて一つの極からもう一方の極へと移動する能力」

このように書くと、しばしば生じるのは、「では結局のところ、だれでも、どんな人でも創造的なんじゃないか」という誤解です。

つまるところ、内向的な人でも外向的な人でも、奇抜な人でも真面目な人でも、どんな人でも創造的なのだ、というような、あたかも「何でもあり」という意味合いに受け取られてしまうことがあります。

チクセントミハイは、この「複雑さ」とは、誰にでも当てはまるどころか、それとはまったく正反対である、とはっきり述べています。

心に留めておくべき重要なことは、これらの矛盾する特性―あるいは、矛盾するどのような特性であっても―を、通常、同一人物のなかに見出すことは困難だということである。(p86)

ミハイ・チクセントミハイが言わんとしているのは、外向的な人や、内向的な人のような、互いに相反する性質を持つ人が、どちらも創造的だ、という意味ではありません。だれでもかれでも、高い創造性を発揮しうるという無責任で楽観的な話ではありません。

そうではなく、そのような、通常は相容れないはずの性格特性すべてが、同じ一人の人物の中に存在している。それこそが極めて創造的な人間の特徴だと述べているのです。

それでも、「心の中に互いに矛盾するようなさまざまな特性があるのはごく普通のことではないか」と言う人もいるでしょう。

たとえば、血液型占いのような心理テストは、どれをやっても、なんとなく自分に当てはまるような結果が出るものです。心理学ではこれをバーナム効果といいます。

たいていの人は、自分は積極的だと思うときもあれば、消極的だと感じる瞬間もあり、勇気があるようにも臆病なようにも、計画的なようにも行き当たりばったりなようにも、理性的なようにも感情的なようにも思えるものです。

そう感じるのは、たいていの人は、さまざまな両極端な性質の中間付近に位置していて、時と場合によって、ポジティブになったりネガティブになったり、理性的になったり感情的になったりするものだからです。

しかしチクセントミハイは、そうした平均的な人たちは、極めて創造的な人の特徴である「複雑な性格」には当てはまらないとしています。

複雑な性格とは、中立的な状態、あるいは平均的な状態を意味してはいない。二つの極の中間に存在するある特定の位置ということではないのである。

たとえば、それは、あまり協調的でないといった優柔不断さを意味するものではない。

むしろ、複雑な性格とは、状況に応じて一つの極からもう一方の極へと移動する能力とかかわっている。(p65)

チクセントミハイが述べるように、複雑さとは「中立的な状態」や「平均的な状態」ではありません。

たとえばそれは、「内向的」とも「外向的」とも解釈できる中途半端さではなく、はっきり「内向的」であると同時に、はっきり「外向的」でもあることを意味しています。非常に「協調的」でありながら、非常に「競争的」でもあります。

アスペルガー的でありながらADHD的

この説明そのものが複雑でカオスすぎてピンとこない人も多いでしょうから、もう少し、このブログに馴染み深い表現に言い換えてみましょう。

チクセントミハイは、複雑な人格とは何かを説明するにあたり、複雑な性格には当てはまらない2つの対照的なタイプを挙げています。

ある人々は、統合化されているが、さほど差異化されていない。彼らは限られたアイデア、意見、感情に固執する。彼らは予測可能であり、退屈で表面的で融通が利かないという印象を与える。

その一方で、多くの意見を表明し、気まぐれで、常に何か新しいこと、それまでとは異なることを行おうとするが、中心となるものがなく、継続性を欠き、抑えきれないほどの情熱は持っていないという印象を与える人々もいる。彼らの意識は差異化されているが、適切に統合されてはいない。

そして、これらのどちらの存在様式も、大きな満足をもたらすものではない。(p409)

この二種類の対照的なタイプの性格は、近年、発達障害としてよく知られるようになった人たちによく見られるものです。

まず前者に挙げられているのは、引きこもりがちでコミュニケーションが苦手、冗談があまり通じなくて、融通が利きにくいものの、マニアックな知識が豊富なアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)に典型的な性格です。

大人の発達障害「自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群」の5つの特徴と役立つリンク集
最近、大人の発達障害を疑って医療機関を受診する人が増えているといいます。その多くは、子どものときから困難を抱えながらも、なんとか学生生活には適応してきました。しかし社会人になると、

後者は、落ち着きがなく常に動き回り、不注意で見落としが多い、いわゆるそそっかしくておっちょこちょいではあるものの、行動力があって発想に優れたADHD(注意欠如多動症)に典型的な性格です。

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集中できないときと没頭しすぎるときの落差が激しい、計画を立てられない、いつも先延ばしににして期限に間に合わない…。この記事では大人のADHDの10の特徴をチェックポイントとしてまと

自分の身の回りの家族や友人を思い浮かべると、ああ、あの人はADHDみたいだとか、彼はアスペルガーっぽいかな、という例が思い当たるかもしれません。

逆に、しっかり者で、よく気がつき、空気も読めて、柔軟に接してくれる人、とてもじゃないけれど、発達障害のステレオタイプには当てはまらないような人、いわゆる定型発達者も何人か思い当たるかもしれません。

では、ものすごくADHDのような行動力や豊かな発想力がありながら しっかり者で、同時にものすごくアスペルガーのようなマニアックな博識やこだわりがありながら柔軟に周りに合わせることもできる、そんな人がいるでしょうか。

アスペルガーとADHDの悪いところが両方出ている、という意味ではなくて、両者の性格特性のいいとこ取りをして、両極端の長所を同時に持っているという意味です。

チクセントミハイの言う「複雑な性格」とはそのようなものです。そして、それこそが、チクセントミハイが、極めて創造的だと感じた91人の人たちに共通してみられた特徴なのです。

創造的な人々は間違いなく両極端を知っており、それらを同等の強さで、内的な葛藤なしに経験するのである。

この結論は、創造的な人々のなかにたいてい存在し、それぞれが弁証法的緊張のなかで統合されている。(p65)

絶対に矛盾するような両極端の性質をすべて持っていながら、それらが奇跡的に統合されて一人の人間のなかに存在している、それこそがチクセントミハイの言う、極めて創造的な人に特有の「複雑さ」なのです。

10の例から「複雑な性格」とは何かを理解する

こうして言葉を多くして説明してみても、まだ表面をつるりと滑っているようで、狐に化かされているかのように感じる人もいるかもしれません。

チクセントミハイは、本書の中で、ただこうしたつかみどころのない説明で煙に巻こうとするのではなく、より理解しやすくするために創造的な人が持つ「複雑さ」の例を10個挙げています。

ここからは、それらを順に考慮して、チクセントミハイの言わんとする創造的な人たちが持つ「複雑さ」とは何かに一歩ずつ迫ってみることにしましょう。

1.エネルギッシュなのに落ち着いている

1.創造的な人々にはかなりの身体的エネルギーがあるが、しばしば、物静かで落ち着いている。

創造的な人の「複雑さ」の一つ目の例は、エネルギッシュでありながら、落ち着いてもいることです。

まず前提として、創造的な人がエネルギッシュであることは、だれもが異論なく認めるでしょう。異常なほど多作、異常なほど論文が多い、信じられないほど多数の分野にまたがって活躍している、いつ寝ているのか疑問に思われるほど活動的。

これらは、創造的な人たちが、まわりの人たちを驚かせる最もわかりやすい側面であり、同時に創造的な人だと認められる必須条件でもあります。

どれほどユニークなアイデアを持った人であっても、ほんのひとつの作品、ほんのひとつの論文を書くだけで、後世にわたって創造的な人と記憶されることはまずありません。

たとえば、パブロ・ピカソは有名なよく知られている作品だけを作ったわけではなく、日夜たゆまず創作しつづけ、15万点もの作品を残したと言われています。

「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86には、画家サルバドール・ダリについてこんな逸話が載せられていました。

超現実主義の画家サルバドール・ダリが、「What`s my Line (私は誰でしょう)」というアメリカのクイズ番組にゲスト出演したときのこと。有名人で構成される回答者が、目隠しのままゲストの講義をあてるという番組だった。

回答者がヒントを求めるゲストに質問をする。しかしこの日に限って、質問するほど回答者の混乱は深まった。何を尋ねてもゲストの答えは「はい、そうです」だったから。

「小説家ですか」と問われれば答えは「はい」、3冊のノンフィクション書籍に加えて『隠された顔』という小説を上梓しているのだから。

芸能人ですかと尋ねられても答えは「はい」。ダリは様々な舞台芸術を手がけたのだから。

回答者の1人がうんざりして言った。「この人がやらなかったことなんて、ないんじゃないの?」(p14)

創造的な人が、抜きん出た業績を挙げたり、類まれなるアイデアを世に送り出したりできるのは、ひとえに、人の何倍も作品を作り、異例なほど多分野の知識に通じているからにほかなりません。

こうした人たちは、「いったいいつ寝ているのだろう?」といぶかしまれますが、クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学でチクセントミハイは、彼らは決して強健なわけでも、人の何倍もの体力があるわけではない、という矛盾するような特徴を浮きらかにしています。

このことは、創造的な人々が異常なほど活動的であり、いつも「オン」の状態で、常に忙しく動き回っていることを意味してはいない。

実際彼らは頻繁に休みをとり、よく眠る。重要なことはエネルギーが彼らの制御下にあるということである―カレンダー、時計、あるいは、外的なスケジュールによって制御されることなく。(p66)

創造的な人たちは、極めてエネルギッシュに活動しているように見えて、実際には、人よりもよく眠り、休息を多めにとっています。

アインシュタインが10時間以上寝るロングスリーパーだったことはよく知られていますが、長時間寝る人のほうが繊細で感受性が強いという研究者もいます。鋭敏な感覚のせいで受けとる情報が多く、睡眠中の記憶の処理にも時間がかかるのかもしれません。

さらに、チクセントミハイは、創造的な人たちは、幼少期は虚弱体質だったり、病気がちだったりすることも多い、と指摘しています。

70代、80代においてもなお健康で活力にあふれた人々の多くが、幼少期に頻繁に病気で苦しんでいたことを記憶していることは意外である。

ハインツ・マイヤー=ライプニッツは、肺の病気療養のため、スイスの山中で数ヶ月間ベッドから出られなかった。

ゲオルク・ファルディは、病気がちな子どもであったし、心理学者のドナルド・キャンベルもまた同様であった。

世論分析者、エリザベス・ノエル=ノイマンは、担当医に生存の見込みがないと伝えられたが、ホメオパシー療法(同種療法)によって健康を回復し、30年後の今では、年齢が彼女の半分のどんな人を四人集めていたとしても、彼女のほうが懸命に働いている。

これらの人々のエネルギーは内部から生じ、遺伝子の優位性よりも、集中した精神状態に起因しているように思われる。(p66)

こうした説明から見えてくるのは、極めて創造的な人たちは、必ずしも、頑強な肉体に恵まれたがために、多作で活動的になれたわけではない、ということです。

むしろ、創造的な人たちは、元来、神経が高ぶりやすく、疲れやすい傾向を持っているように思われます。そのため、人生の初期には、通常の学校生活や社会生活にうまくなじめないこともあります。

しかし彼らは、人生の早い時期に、自分の特殊な体質と折り合いをつける生活リズムを見いだすようです。チクセントミハイが言うように、それは「カレンダー、時計、あるいは、外的なスケジュールによって制御されることなく」、それぞれの体質に合った独特のリズムです。

私たちの行動を構造化するための最善の方法など存在しない。ここで重要なことは、私たちの行動を偶然や外部のルーティーンに自動的に決定させないことである。(p163)

ほとんどの創造的な人たちは、睡眠や食事、仕事のための最適なリズムを早い時期に見出し、他のことが魅力的に見えても、そのリズムを守っている。(p164)

創造的な人の中には夜型の人もいれば、朝型の人もいます。しかし共通していえるのは、それぞれが、自分に合ったリズムを見つけ、周りの人たちがなんと言おうと、そのリズムを固守して活動することです。

もともとすこぶる健康だというわけではなくても、自分の体質に合った生活のリズムを身に着けた結果、落ち着いた環境で「集中した精神状態」を活かせるようになり、他の人より少ない時間でも、より多くのアイデアを形にすることができるのでしょう。

2.トップダウン思考でありながらボトムアップ思考

2.傾向として、創造的な人々は頭脳明晰でありながら、同時に単純な側面も持っている。

創造的な人の「複雑さ」の二つ目の例は、頭脳明晰でありながら単純でもある、ということです。

これもまた、創造的な人たちのイメージとして、馴染みのあるものかもしれません。極めて創造的な人たちは、カミソリのように鋭い推理や論理を展開しますが、同時に、茶目っ気あふれるユーモアも持ち合わせています。

もとより頭がやわらかくなければ、偉大な業績は残せません。特定の理論に固執したり、人の意見に耳を傾けなかったりしたら、先人たちに勝るアイデアは得られません。

しばしば、アニメやドラマに出てくる、天才の肩書きといえば、「IQ200の…」といった紋切り型ですが、チクセントミハイによると、創造的な人の頭のやわらかさは、IQでは測れません。

心理学者、ルイス・ターマンによって1921年にスタンフォード大学で開始された「優れた知能」についての最初の縦断的調査は、非常に高いIQの子どもたちは人生で成功するが、ある特定の段階を過ぎると、IQはもはや実生活における優れた業績と相関関係を示さなくなるらしいことを、かなり決定的に示した。

その後の研究は、IQ120あたりにその限界点があることを示唆している。つまり、120より低いIQでは創造的な仕事は難しいかもしれないが、IQが120を超えても、その数値の増加がより高度な創造性を伴うとは限らないということなのである。(p68)

創造的な仕事には、IQ120ほどの明晰さは必要ですが、それ以上IQが高くなっても、より創造性が高まるということはありません。歴史上最もIQが高いとされているのはマリリン・ボス・サヴァントですが、極めて創造的な人としては知られていません。

それどころか、チクセントミハイは、IQが高くなりすぎると、創造性が低下する可能性があるとも指摘しています。IQが極めて高い人たちは、尊大になって社交性を欠いたり、現状に満足したりすることがあるからです。

哲学者ソクラテスは、「自分が知らないことを知らないと自覚していること、すなわち「無知の知」が知恵には必要だと述べました。

創造的な人は、頭脳明晰でありながら、過度に賢すぎないがために、さまざまな人の意見に耳を傾けたり、質問したり、先入観にまどわされずに熱心に調査したりできるのかもしれません。

IQテストは、ボトムアップ型の収束的思考、つまり、緻密に論理的に思考する能力を計測しますが、創造的な人はそれと正反対のトップダウン型の拡散的思考、つまり突飛に思える連想や、ばからしく思えるようなアイデアを思いつく能力にも秀でています。

チクセントミハイは、創造性には、収束的思考と拡散的思考のどちらが欠けても不十分であり、創造的な人は拡散的思考でさまざまなアイデアを思いつくと同時に、収束的思考によってアイデアの良し悪しを選別していると述べています。

ノーベル医学・生理学賞を受賞したジェラルド・エーデルマンは、脳は空より広いか―「私」という現象を考えるの中で、この二種類の思考を、召使いと女王の関係にたとえています。

もし選択主義的思考を自由奔放で自立した女王にたとえれば、論理的思考は、手堅く城を守る召使いといったところだろうか。(p178)

創造的な人には、さまざまなパターンを直感的にひらめく自由奔放な女王のような拡散的思考(選択主義的思考)が欠かせませんが、それを手堅く堅実に処理していく召使いのような収束的思考(論理的思考)がなければ、創造的なシステムとして機能させることはできません。

あたかも二つのまったく正反対のタイプの頭脳を自由自在に切り替え、あるときは「自由奔放な女王」、あるときは「手堅く城を守る召使い」として、問題にアプローチできるのが、創造的な人が複雑たるゆえんなのです。

3.真面目なのに遊び好き

3.三つ目の逆説的な特性は、遊び心と自制心、あるいは、責任と無責任といった相互に対応する組み合わせである。

創造的な人の「複雑さ」の三つ目の例は、遊び心と自制心を両方持ち合わせていて、責任感がありながら、無責任でもあることです。

すでに見たとおり、創造的な人は、融通が利かない頑固な人ではなく、柔軟でユーモラスです。しゃにむに働きつづけ、定年後になんの趣味もないとこぼす企業戦士のような人ではなく、仕事に打ち込みながらも楽しみを欠かしません。

創造的であるためには、真面目すぎても、遊び好きすぎてもいけません。だれよりも真面目に学問や創作に打ち込んでいながら、同時にだれよりもはっちゃけて遊びにふける一面も持っています。

遊び心があって、子どものような旺盛な好奇心で楽しいことに手を出してまわることは多彩なアイデアを生み出す拡散的思考の源泉になりますが、ただ遊びほうけているだけでは、何も成し遂げられず、現実ばなれしたことばかり言う夢想家として終わってしまいます。

遊び心のある軽妙な態度が創造的な個人の典型であるということに疑問の余地はない。

…しかしこの遊び心はそれに対立するもの、つまり、頑固さ、忍耐力、粘り強さといった特性がなければそれほど役には立たない。(p69)

現実ばなれしたアイデアを思いついたら、すぐさま思考を切り替えて真剣に取り組み、いかにしてそれを実現できるか、だれよりも真面目に考えます。

やるべきときにはきっちり自制心を働かせて、辛抱強くコツコツと仕事に取り組めるからこそ、創造的な人は確かな実績を残すことができるのです。

4.ロマンチストでありながらリアリスト

4.創造的な人々は、一方に想像や空想を置き、もう一方にしっかりと根づいた現実感覚を置いて、その間を行き来する。(p72)

創造的な人の「複雑さ」の四つ目の例は、夢想家でありながら現実主義者でもあるということです。

これまでの点とも大いに関係しますが、創造的な人は、空想にふけって大胆なアイデアをたくさん思いつきますが、それを実現するために現実的な計画を練ります。

興味深いことに、創造的な実績のある人と、そうでない普通の人を対象に、インクのしみのような絵から自由に連想させるロールシャッハテスト(雲の形からいろいろ連想するのと同じで「パレイドリア」と言われる)をさせると、両者では、不思議な違いが見られるそうです。

これらの検査では、インクのシミや絵など、ほとんど何にでも見える曖昧な刺激について、ひとつの物語を作ることが要求される。

より創造的な芸術家たちは、まったく独創的な回答を返し、その回答は、非日常的で、色彩豊かな細かい要素まで彩られていた。

しかし、一般の人々が時々するような「奇異」な回答は決してしなかった。奇異な回答とは、どう好意的に見ても、その刺激のなかに決して見出せないようなものである。

…彼らが見出す斬新さは現実に根ざしているのである。(p72)

創造的な人は独創的で豊かな連想能力を発揮しますが、必ず、なぜそう連想したかを説明することができます。つまり、創造的な人の突拍子もなく思えるアイデアは、実は地に根ざした堅実なもので、豊富な知識と経験に裏打ちされています。

創造的な人たちのアイデアは、あまりに突拍子もないように見えるため、「天才と狂気は紙一重」などと言われますが、その実、並外れて広い見識と豊富な経験、ふつうの何倍も深く掘り下げる思考とが融合した現実的なアイデアなのです。

5.外向型人間であり内向型人間でもある

5.創造的な人々は、外向性と内向性の間に横たわる連続体の両極端を漂っているように見える。

創造的な人の「複雑さ」の五つ目の例は、外向的でありながら内向的でもある、ということです。

一般に、世の中の人は、内向型人間か、外向型人間のどちらかである、と分類されがちです。外向的でコミュニケーションが得意な人が社会で重宝される一方、近年では内向型人間の強みを解説する本も書店にたくさん並ぶようになりました。

しかし創造的な人たちは、この点においても、どちらにも当てはまるような複雑な人格を有しています。

通常、私たち一人ひとりは、群衆の真っただ中にいることを好むか、あるいは束の間のショーを傍観者として座ってみるかの、どちらか一方の傾向を示す。

実際、現在の心理学では、外向性と内向性は、人々を互いに区別し、確実に測定できるもっとも安定した性格特性であると考えられている。

しかし一方で、創造的な人々は両方の特性を同時に表すように見えるのである。(p74)

「孤高の天才」という言葉が示すように、創造的な作家や学者はしばしば部屋にこもってひたすら創作や研究に打ち込んでいるというイメージがつきものです。それゆえ内向型人間の強みは繊細さや独創性だと言われています。

しかし、本当に典型的な内向型人間が、はたしてあれほど多くの作品を発表したり、斬新なアイデアを声高に主張したりするでしょうか。創造的な人は、社会で広く受け入れられている概念に真っ向から挑戦し、常識を覆すからこそ創造的なのです。

創造的な人々は、人に会い、人の話を聞き、アイデアを交換し、他者の仕事や考えを知ることの重要性を何度も繰り返し強調する。(p74)

ここでもやはり、創造的な人は複雑な人格を持っています。一人になって孤独な仕事に打ち込む時間が大好きですが、同時に他の人と意見を戦わせ、見識を深めるのもまた大好きです。

創造的な人は、孤高の天才であると同時に、その創造的な仕事によって、さまざまな分野の人たちをつなぐ架け橋となり、新しい組織や学問、企業を立ち上げる、文化のネットワークハブのような役割を果たすのです。

6.謙虚に学び、自信たっぷりに発表する

6.創造的な人々は、謙虚であると同時に傲慢である。 (p77)

創造的な人の「複雑さ」の六つ目の例は、謙虚であると同時に傲慢であるということです。

謙虚でありながら傲慢とは、これまで見てきた複雑な両極性の中でも、特に矛盾しているように思えますが、実在の人物の例を見れば、それほど珍しいことではありません。

たとえばアイザック・ニュートンは、自分の業績がロバート・フックら先人たちの洞察に基づいていることを謙遜に認め、「わたしがはるか遠くを見渡せたのはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからだ」と述べました。しかしその同じニュートンは、微分法の発見を自分の手柄とするために、先に発表していたライプニッツを狡猾におとしめました。

先人たちの研究を認める謙遜さは、創造的な人に不可欠です。まず前提として、先人の研究や作品をしっかり調べて知識と技術を学ばなければ、自分のアイデアを形にして世に送り出すことは不可能でしょう。

しかし先人たちが積み重ねた業績に不十分なものがあると確信し、斬新なアイデアを主張するためには、自分のアイデアのほうが勝っているはずだ、という自信なしには、やはり不可能でしょう。

創造的な人たちは、自分の限界を認め、まだまだ知るべきことがたくさんあるのを知っているので、柔軟に他の人の意見に耳を傾けますが、同時に、自分の成し遂げたことにも相当の自信を持っていて、唯一無二のものだと自負しているからこそ、アグレッシブに切り込んでいけるのです。

7.文化のバイアスに影響されず、女性的かつ男性的

7.あらゆる文化において、男性は「男性的」に育てられ、文化が「女性的」とみなす気質的な面を無視し、抑圧するように方向づけられる。一方、女性はその逆を期待される。

創造的な人々は、いくぶん、こうした厳格な性役割の固定観念から自由である。 (p80)

創造的な人の「複雑さ」の七つ目の例は、男性的でありながら女性的でもある、ということです。

誤解を招きやすい点ですが、これは、創造的な人が中性的である、という意味ではありません。すでに見たように、創造的な人の複雑さとは、平均や中間点ではなく、両極端が同時に存在していることです。

また、創造的な男女は同性愛の傾向が強いという意味でもありません。創造的な人の中には同性愛者もいますが、大部分はごく普通の異性愛者で、結婚して子どもも設けています。

この両性具有的な傾向は、時折、純粋に性的な観点から理解され、その結果、同性愛と混同されてしまう。

しかし、心理的な両性具有性はより広い概念であり、ジェンダーとは関係なく、攻撃的であると同時に慈しみ深く、繊細であると同時に厳格であり、支配的であると同時に従順であり得るという、一人の人間の能力を意味する。

心理的に両性具有的な人は、事実上、自分の反応のレパートリーを倍増させ、世界との交流においては、より豊かで多様な見方で好機に対処できるのである。

したがって、創造的な人々が、自分のジェンダーの長所ばかりでなく、もう一方のジェンダーの長所を持つ傾向にあったとしても、それは驚くことではない。(p80)

そもそも、創造的な人が男性的でもあり女性的でもあるとは、セックス(生物学的な性)ではなくジェンダー(文化的な性)と関係しています。

以前の記事で取り上げたように、生物学的に見れば、男性の脳と女性の脳は、メディアで好まれる通説とは違って、それほど大きな違いは存在しないと言われています。

ダーウィンも気をつけた「アインシュテルング効果」とは? 人は自分の意見の裏づけばかり探してしまう
自分の意見に固執して、他の人の新しい意見を無視してしまう傾向は「アインシュテルング効果」と呼ばれています。わたしたちが無意識のうちに自分の考えの裏付け証拠ばかり探していることや、ダ

女性とは繊細でおしとやかなものだ、男性とは勇敢でたくましいものだ、といった認識があるとすれば、それは生物学的なつくりではなく、生まれ育った文化や育てられた方によって、そうなっていくにすぎません。

つまり、チクセントミハイは、文化の影響の一例として、男性的、女性的という表現を用いてはいますが、彼が言いたいのは、創造的な人たちは、自分が生まれ育った社会に存在している根深い先入観に捕らわれず、自由に自己表現できるということです。

地域社会に根づいた目に見えない因習や偏見、ルールといったバイアスに影響されて思考停止してしまうのではなく、自分で考え、判断しながら、周囲に迎合しない生き方を貫けるからこそ、男性らしさと女性らしさの両方を発揮できるのです。

8.空気を読むことも読まないこともできる

8.一般的に創造的な人々は反逆的で独立心が強いと考えられている。しかし、まず、文化のある領域を内面化しなければ、創造的になることは不可能である。(p80)

創造的な人の「複雑さ」の八つ目の例は、独立心に富んでいながら、従順でもあるということです。

これは6番目で見た謙虚でありながら自信過剰ということ、また7番目で見た文化の影響を受けすぎず自分で決定できることと共通しています。

言うなれば、創造的な人は、「空気を読む」こともできれば、「あえて空気を読まない」こともできます。

先人たちの業績から学んだり、さまざまな分野の人に広く耳を傾けたりするときには「空気を読んで」います。社会のルールに従順に従えなければ、研究や作品を発表する機会を持てないでしょう。

しかし、通説に縛られず新しいアイデアを送り出したり、男性らしさや女性らしさという、社会が望む型にはまらない、という点では「あえて空気を読まずに」振る舞います。

時と場合によって「空気を読むこと」も「空気を読まない」こともできるので、創造的な人は謙虚なようにも傲慢なようにも、柔軟なようにも頑固なようにも、賢いようにも愚かなようにも見え、一般人には理解しがたい複雑な振る舞いをするのです。

9.感情的でありながら理性的

9.多くの創造的な人々は、自分の仕事にとても情熱的であるが、同時に極めて客観的でもある。

多くの人々は、この愛着と分離の矛盾から生じるエネルギーが、彼らの仕事の重要な一部であると述べている。(p82)

創造的な人の「複雑さ」の九つ目の例は、感情のままに没頭する主観的な視点と、冷静に分析する客観的な視点の両方を持ち合わせていることです。

主観的で没頭しやすい人とは、周りが見えなくて、自分の気持ちだけで突っ走って思い込みが激しい人のことです。情熱にあふれているのはよくわかりますが、自分が空回りしていることにさえ気づきません。

客観的で冷静な人とは、落ち着いて物事をよく考え、理性的に分析するのが得意な人です。コンピューターのような判断力がありますが、人間味のある感情にとぼしく、機械的です。

大半の人は、どちらか一方の視点のみで考えていて、正反対の人の立場に身をおいて考えるのが苦手ですが、創造的な人は、自在に二つの視点を切り替えることができます。

たとえば作家であれば、物語を書いているときには、没頭して情熱をこめ、感性のおもむくままに書き連ねますが、推敲する段になると、まるで初めて読む読者になったかのような客観的な視点で分析し、つじつまの合わないところや改善点を洗い出します。

つまるところ、創造性とは、主観的な視点と客観的な視点を交互に切り替えながら積み重ねていくプロセスだといって差し支えないでしょう。

10.ひどく苦悩しながら、とても楽しんでもいる

10.最後に、創造的な人々はしばしば、開放性と感受性によって苦悩と苦痛、そして、多くの楽しさにさらされる。

彼らの苦悩は容易に理解できる。強い感受性は、私たちが通常感じない軽蔑や不安を引き起こす。(p82)

最後に、創造的な人の「複雑さ」の十番目の例は、多くの苦悩を経験すると同時に、多くの楽しさや喜びも経験するということです。

その理由について、チクセントミハイは、創造的な人は「開放性と感受性」を持っていると述べています。これはつまり、広く社会にて出ていきたいと感じる外向的な側面と、周りの評価を気にする内向的な側面が同時に存在しているということでしょう。

自分の研究や作品を発表して認めてもらいたい、同じ興味を持つ人とつながりたいと思いつつも、そうするなら、批判的な言葉や鈍感さに傷つけられるというジレンマを生み出します。

仕事や趣味に限らず、日常的な人間関係でも、社交的で大胆な面と、繊細で傷つきやすい面とが同居していて、内なる葛藤に悩まされるかもしれません。それが創造的な人たちが抱え持つ苦悩です。

しかし同時に、創造的な人たちは、そうした苦悩が雲散霧消する瞬間もよく知っています。自分が愛してやまない創造的な活動に没頭している時間は、思い煩いや不安をすべて忘れて、ただひたすらに喜びと楽しさを味わえるのです。

しかし、その人が自分の専門領域で働いているときには、不安や心配事は消え失せ、それらは無上の喜びに変わる。

おそらく、もっとも重要な特質、言い換えれば、創造的な人々すべてに恒常的に見られる特性とは、創造のプロセスそれ自体を楽しむ能力であろう。(p84)

そのようなわけで、創造的な人たちは、起伏の激しい、ジェットコースターのような人生を送り、人生の良い面も悪い面も、同時にすべて味わいつくす、人いちばい充実した日々を送ることができます。

そのように良いことも悪いことも全力で味わい尽くしているからこそ、創造的な作家が創る作品には人生のうまみが濃縮されていて、創造的な学者が著す著作には、鋭い洞察が秘められているのかもしれません。

以上が、ミハイ・チクセントミハイが創造的な人の「複雑な性格」の例として挙げる10の側面です。

むろん、この10個だけでなく、他のありとあらゆる領域において、創造的な人は両極端を同時に経験します。

これら10項目だけでも、相当、複雑な内面を持つ人物像がイメージできますが、いったいなぜ、創造的な人は、こうした相異なる性質がさまざまに同居しているような心を持つようになるのでしょうか。

複雑な性格は遺伝か環境か

天賦の才能は、遺伝によるものか環境によるものか、という議論は、これまで長きにわたって舌鋒鋭くやりとりされてきました。

たとえば、10000時間の法則で知られるアンダース・エリクソンの研究を取り上げた究極の鍛では、天才とは生まれつきの才能ではなく、飽くなき努力や効果的なフィードバックによる訓練の賜物であるとされています。

他方、自閉症の専門家マイケル・フィッツジェラルドが天才の秘密 アスペルガー症候群と芸術的独創性の中で唱えるように、自閉症やADHDといった発達障害の遺伝的要因が、天才の基盤となっている、と考える人もいます。

ADHDの画家ピカソとアスペルガーの画家ゴッホの共通点と違い―発達障害がもたらした絵の才能
ADHDだったとされる画家ピカソ、アスペルガーだったとされる画家ゴッホを比較して、ADHDとアスペルガーの違いや共通点を考えています。

脳科学者ナンシー・アンドリアセンの天才の脳科学―創造性はいかに創られるかによれば、統合失調症や双極性障害などの精神疾患の脆弱性が関与している可能性もあります。

創造的な人は心の断崖のふちに立っている―「天才の脳科学」を読み解く
創造性とはなにか。「天才の脳科学―創造性はいかに創られるか」という本に基づいて、「通常の創造性」と「並外れた創造性」について考えています。また統合失調症との関連が強い科学者の創造性

近年ではさらに、環境要素による遺伝子のオンオフの変化、つまりエピジェネティクスが関係していることもわかってきました。才能には、遺伝と環境が複雑にからみあっているのです。

人の才能は遺伝子で決まるわけではない―可塑性、自由意志、エピジェネティクスの発見
わたしたちの才能は、遺伝子によって運命づけられているわけではない、ということを「プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たち」という本を参考に3つの科学的発見にもと

チクセントミハイも、このクリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学の中で、やはり遺伝と環境それぞれの影響について考察しています。

まず、彼は、創造性の要因として、特定の感覚の優位性といった遺伝的要因を挙げています。たとえば、色や光に鋭い感受性を持つ人が視覚芸術のセンスに秀でたり、音に鋭敏な人が音楽センスを発揮しやすかったりするということです。

創造性を促進する第一の特質は、おそらく、ある特定の領域に対する遺伝的素因であろう。

色彩や光により敏感な神経系をもつ人が画家になる有利さを持ち合わせていることや、絶対音感を持って生まれた人が音楽の才能を発揮することは、道理にかなっている。(p59)

アスペルガーの2つのタイプ「天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル」
天才建築家アントニオ・ガウディと、写真家にして童話作家ルイス・キャロル。あなたは自分がどちらに似ていると思いますか? わたしたちはだれしも、この正反対の二人のどちらかに似ています。

しかし、遺伝的な感覚の優位性は、子ども時代に才能のきらめきとして現れるかもしれませんが、大人になってからの創造性とはほとんど関係がないとしています。

実際には、子ども時代の才能から、子どもが創造的になるか否かを判断するのは不可能である。

子どもたちのなかには、特定の領域で早熟の兆しを見せる者もたしかにいる。

モーツァルトは幼少時代から優れた技術を持つピアニストであり、作曲家であった。ピカソは少年のころからとても上手な絵を描いていたし、多くの傑出した科学者たちは学校で飛び級をし、機知に富んだ精神で年長者を驚かせた。(p172)

しかし、その一方で、歴史書に何も記述されることなく、幼少期に見られた将来性が消えていった子どもたちも数多くいたのである。(p172)

若いころのアインシュタインは神童ではなかった。政治家としてのウィンストン・チャーチルの才能は、中年になるまで発揮されることはなかった。トルストイやカフカ、プルーストは、年長者に将来の天才としての印象を与えることはなかった。(p174)

確かに、創造性あふれる人の中には、幼少期から天才的な才能を発揮したとの逸話を残している人が数多くいます。偉人の伝記を読めば、たいていまことしやかな神童伝説がいくつも記されているものです。

しかし、神童伝説が華々しい印象を残すため、意外に感じるかもしれませんが、創造性豊かな偉人たちの中には、子ども時代に才能のきらめきをほとんど見せなかった人も少なくありません。

これはちょうど、左利きの天才のエピソードばかりが語られ、それよりはるかに多い右利きの天才の例は当たり前すぎて語られないせいで、天才は左利きが多い、という誤ったイメージが定着してしまうのと似ているのでしょう。

創造性な人の神童伝説は印象に残りますし、繰り返しメディアで取り上げられます。一方、創造的な人がごく普通の子ども時代を送ったという話は地味で印象にも残らないため、取り立てて話題にもなりません。

わたしたちの思考は、よく見聞きするもの、印象に残りやすいものを頻度が多いと錯覚してしまう傾向があり、利用可能性ヒューリスティックと呼ばれています。

しかし、前述したように、ターマンの天才児研究では、子どものころに神童とみなされる高IQの人たちは、大人になっても、さほどそれに見合った業績を残しませんでした。

チクセントミハイの91人の創造的な人たちへのインタビューでも、子ども時代から頭角を現した人もいれば、そうでない人もいて、創造性には遺伝的才能が必要だ、という通説を裏付ける根拠は得られませんでした。

それで、チクセントミハイは感覚の優位性については、こう結論しています。

その一方で、感覚の優位性は必ずしも不可欠なものではない。

エル・グレコは視神経の疾患に苦しんでいたようであり、ベートーヴェンはもっとも優れた作品のいくつかを作曲した当時、機能的に耳が不自由であった。

偉大な科学者の多くは、幼少期に数学や実験に引きつけられていたようだが、最終的にどれほど創造的になったかということと、子どもとしてどれほど才能にあふれていたのか、ということはほとんど関係がない。(p59)

遺伝―生まれつきの感受性の強さ「HSP」

しかしながら、創造性において、遺伝的要因が何の役割も果たさないのかというと、そうではありません。

チクセントミハイは、すでに見たように、創造的な人の複雑な性格を説明するにあたり、10番目の点の中で、「感受性の強さ」を挙げていました。

彼は、「これまでの調査では、芸術家と作家は精神障害や依存症の割合が著しく高い」ことに注目しています。(p83)

その理由について、彼がインタビューした一人、作家また詩人のマーク・ストランドはこう分析しています。

憂うつやうつ病に悩み、みずから命を経った作家や画家たちの不運な事例がこれまでにたくさんあります。

それが職業と関係しているとは思いません。たとえ作家でなかったとしても、彼らはうつか、アルコール依存症か、あるいは強い自殺願望を持つ、といった感じだったでしょう。

…そうした芸術家は、自分を取り巻く世界に対して、とても敏感で、感受性が強く、その世界に反応するよう強く駆り立てられるため、ほとんど耐えられなくなるのです。(p83)

ストランドが述べるには、芸術家が精神疾患になりやすいのは、職業のせいではありません。むしろ、作家であろうがなかろうが「自分を取り巻く世界に対して、とても敏感で、感受性が強く」、過度に影響を受けてしまうからだと考えています。

チクセントミハイもこれに同意し、創造的な人は仕事の過酷さのゆえに精神疾患になるのではなく、敏感にまわりの環境を「反映」し、強い影響を受けてしまうために問題を抱えやすいのだと語っています。

今日、ある種の創造性とある種の病理との間に明らかな関連性が発見されているが、私はこれらが本質的なつながりではなく、偶然によるものだと確信している。

言い換えれば、もし創造的な音楽家がしばしば薬物中毒に陥り、劇作家が治療を要するほどのうつ病になりやすいとすれば、それは仕事そのものではなく、彼らの仕事が置かれている歴史的な状況の反映なのだ。

これはある程度、精神分析家のエルンスト・クリス(Kris 1952)とジョン・ゲド(Gedo 1990)が議論したことでもある。

多くの偉大な芸術家が精神障害を避け、むしろ優れた精神的健康を享受してきた。たとえば、作家のチューホフ、ゲーテ、マンゾーニ、そして、作曲家のバッハ、ヘンデル、ヴェルディ、視覚芸術家のモネ、ラファエロ、ロダンなどがそうである。(p431)

先ほどの神童伝説と同様、芸術家が精神的に病んでいる、という印象は、よく見聞きする物事の頻度が多いと感じる利用可能性ヒューリスティックによる錯覚を多分に含んでいます。

確かに、普通の人に比べると、芸術家に精神疾患が多いのは事実ですが、すべての芸術家が精神疾患を発症するわけではなく、極めて健康な精神状態を保った芸術家も大勢います。

つまり、精神疾患と芸術的感性は、原因と結果の関係にあるのではなく、何か別の共通する因子が、環境次第で良い面を反映したり、悪い面を反映したりするのでしょう。

そして、この共通する別の原因とは、マーク・ストランドが述べたような「感受性の強さ」だといえます。それがプラスに出れば芸術的な感性として現れますし、マイナスに出れば周囲の環境に影響されすぎて、精神疾患として現れてしまうこともあるということです。

このような性質は、近年HSP(Highly Sensitive Person)として知られるようになった、遺伝的な感受性の強さとみなせるでしょう。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
エレイン・N・アーロン博士が提唱した生まれつき「人一倍敏感な人」(HSP)の四つの特徴について説明しています。アスペルガー症候群やADHDと何が違うか、また慢性疲労症候群などの体調

鈍感な世界に生きる 敏感な人たちに書かれているように、HSPは、しばしば高い創造性と結びつけられます。

HSPの人の多くが、芸術作品を作り出します。1つだけでなく複数の分野にまたがって、創作活動する人もいます。(p61)

しかし、チクセントミハイの言う極めて創造的な人たちの性質が、HSPという生まれつきの敏感さの概念にぴったり当てはまるかというと、わたしはそうではないと思います。

思い出してください。チクセントミハイは、「複雑な性格」を持つ極めて創造的な人たちについて、こう書いていました。

心に留めておくべき重要なことは、これらの矛盾する特性―あるいは、矛盾するどのような特性であっても―を、通常、同一人物のなかに見出すことは困難だということである。(p86)

チクセントミハイが挙げた創造的な人たちの特徴は、「通常、同一人物のなかに見出すことは困難」な、かなり珍しいものです。

HSPという概念を提唱したエレイン・アーロンのチェックテストでは、どの文化でも、だいたい人口の15~20%がHSPだとされています。心理学者ジェローム・ケーガンの調査によれば赤ん坊の5人に1人が敏感でした。

5人に1人ということは、学校の同じ教室のクラスメイトの中に5人かそれ以上HSPがいるということです。しかしここまで見てきたような複雑な性格の持ち主は、いち学年にひとりいたら良いほうでしょう。

HSPの人たちは確かに、大半の人よりも創造的です。しかしチクセントミハイが挙げた人たちのようにエネルギッシュで多作だったり、行動力があったり、好奇心旺盛に次から次へと新しいものに手を出したりはしません。

HSPの特徴は、感受性豊かで、直感が鋭く、謙虚で、控えめなことです。それらは、10の特徴に挙げられていた両極端な性質の片側だけしか満たしません。つまり、HSPはチクセントミハイの言う複雑な性格には当てはまりません。

HSPは時おり「内向型人間」と混同されますが、エレイン・アーロンの調査によると、HSPの70%が内向型で、30%が外向型でした。HSPの敏感さは遺伝による生まれつきの特性ですが、外向型・内向型という気質は、養育環境による後天的なものとされています。

しかし、HSPの70%が内向型で、30%が外向型ということは、いずれにせよHSPの人たちはみな、おおまかにいって内向型か外向型かどちらか一方に区別できるということです。

ここでもやはり、チクセントミハイが挙げていた、「内向型人間でありながら外向型人間でもある」という複雑な性格の特徴は満たしていません。

それゆえ、チクセントミハイが挙げた創造的な人の傾向のうち、「感受性が強い」という部分だけに注目して、彼らはHSPである、とみなすのは無理があります。

極めて創造的な人たちが「感受性が強い」のは事実です。つまり、彼らはHSPの性質を有してはいます。しかし単なるHSPではなく、もっと珍しい、もっと複雑なタイプの人たちである、と考えるのは理にかなっています。

「HSP/HSS」という珍しいタイプ

ここで、いったんチクセントミハイの分析に立ち戻りましょう。彼はクリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学の中で、創造的な人たちの生まれつきの特徴として、「感受性の強さ」以外に、もうひとつ別の要素を挙げています。

神童であることが成長後の創造性の必要条件ではないにしても、周囲の環境に対して示される通常以上の鋭い好奇心はその必要条件であるように思える。

実際、領域に新たな貢献をもたらした人々は、例外なく、人生の神秘に対して畏敬の念を抱いたことがあり、そうした神秘を解き明かすための努力について豊富に逸話を持っている。(p174)

チクセントミハイは、創造的な人たちが、幼少期から「感受性が強い」だけでなく、「並外れた好奇心」をも持ち合わせていることに気づきました。

子どものころ神童とみなされていなくても、異例なほど好奇心が強く、さまざまな物事に普通以上の強烈な関心を示し、あらゆるものに手を出し、あらゆるものに取り組み、しかも徹底的に知ろうとします。

物理学者のジョン・ホイーラーは次のことを思い出す。

「三歳か四歳のころ、浴槽の中にいたのですが、お風呂に入れてくれていた母に向かって、宇宙はどこまで広がっているのか……世界はどこまで広がっているのか…そして、その向こうはどうなっているのかを尋ねていました。

もちろん、私がそれ以来ずっとそうであるように、彼女もまた答えに窮していました」。(p175)

幼少期からの並外れた好奇心は、尾鰭が付きがちな神童伝説とは違い、子どものころのノートや作品集、使い古してぼろぼろになったお気に入りの本、スケッチブックなどによって、はっきり確かめることができます。(p176)

このような性質は、心理学では新奇追求性と呼ばれます。生まれつき新奇追求性の強い子どもは、HSPとは別の性質、新奇追求型(HNS:High Novelty Seeking)、あるいは刺激追求型(HSS:High Sensation Seeking)と呼ばれています。

敏感すぎてすぐ「恋」に動揺してしまうあなたへ。によると、HSPという概念を作った心理学者エレイン・アーロンは、HSSについて、こう説明しています。

マービン・ズッカーマンは、この特徴についての研究の第一人者であり、HSSという言葉をつくった人である。

彼によればHSSは「変化に富み、新奇で複雑かつ激しい感覚刺激や経験を求め」、さらに「こういった経験を得るために肉体的、社会的、法的、経済的なリスクを負うことを好む」という。(p54)

この説明からわかるとおり、HSSは多動なADHDの人とよく似ていますが、ADHDという概念が障害としてのネガティブな意味合いを含むのに対し、HSSという概念は、ただ新奇性を追求するというフラットな意味合いを持っています。

以前の記事で説明したとおり、生まれ持ったHSSの新奇追求性が、裏目に出て、社会適応に困難をきたす場合に、多動障害と診断されることが多いのではないかと思われます。

HSSは用心深いHSPと正反対とも言える特性ですが、ここで注目したいのは、正反対であるからといって、両立しないわけではない、ということです。エレイン・アーロンはこう述べます。

飽きっぽいので、新しいことに挑戦するというリスクをとりがちなHSSはHSPの対極にあるように思えるが、それは間違いである。

敏感さと刺激追求は完全に独立した特徴なので、どちらかが強い、両方とも強い、あるいは両方とも弱いということがあり得るのだ。(p55)

遺伝的な観点から見れば、「感受性の強さ」(HSP)はセロトニントランスポーター遺伝子の変異と、「並外れた好奇心」(HSS)はドーパミン受容体遺伝子の変異と関係している、生まれつきの性質なのでしょう。

それらはかたやリスクを避ける、かたやリスクを求めるという正反対の傾向ですが、異なる原因に基づいているため、一人の人物のなかに生まれつき同時に存在することがあるのです。

それで、エレイン・アーロンは、HSPまたHSSという概念にそって人々を分類すると、4つのタイプに区別しうるとしています。

1.HSP/非HSS……内省的で、静かな生活を好む。衝動的ではなく、あまり危険を冒したがらない。

2.非HSP/HSS……好奇心に満ち、やる気があり、衝動的で、すぐに危険を冒し、すぐに退屈する。与えられた状況の繊細なことにあまり気づかないし、興味もない。

3.非HSP/非HSS……それほど好奇心もなく、内省的でもない。あまり物事を考えることなく淡々と生活している。

4.HSP/HSS……移り気である。HSPの敏感さとHSSの衝動性の両方をもつため、神経の高ぶりの最適レベルの範囲が狭い。つまりすぐに圧倒されるが、同時に飽きっぽい。新しい経験を求めるが、動揺したくないし、大きな危険は冒したくないのである。あるHSP/HSSによると、「いつもブレーキとアクセルの両方を踏んでいるような気がする」そうだ。(p57)

もうおわかりと思いますが、この4つのタイプを見れば、チクセントミハイのいう創造的な人、「複雑な性格」の持ち主が、どこに当てはまるのかは、一目瞭然です。

HSP/非HSS、つまり純粋なHSPは内省的で創造性を発揮しますが、両極端の性質を持つ「複雑な性格」ではありません。

非HSP/HSS、つまり純粋なHSSは活動的ですが、じっくり考えないので、深みのある創造性を発揮できません。やはり「複雑な性格」ではなく、はっきり言うと単純です。

非HSP/非HSS、いわゆる普通の人は、チクセントミハイが述べていた「平均的」「中間的」な性質を持っているので、まったく両極端ではなく平凡です。

複雑な性格を持つ創造的な人とは、間違いなく最後の4番目、HSP/HSSの人たちのことです。敏感さと衝動性を両方持っていて、内向的であると同時に外向的でもあり、あたかもアクセルとブレーキを同時に踏んでいるかのような珍しいタイプです。

HSPや内向型人間についての書籍は、ここ数年、よく見かけるようになりましたが、HSP/HSSという珍しいタイプについては、それらの本の中でさえ、おまけのようにしか扱われていません。

多くの人が共感しやすいと感じるほど、取り立てて一般的なものではない、ということからしても、HSP/HSSは、チクセントミハイが言う「通常、同一人物のなかに見出すことは困難」な特性とよく合致しています。

エレイン・アーロンは、HSP傾向とHSS傾向の両方が強い人の特徴について、さらにこう説明しています。

HSP/HSSは、自分の神経の高ぶりの最適レベルを見極める特別な助けが必要である。

こういう人はすぐに退屈するし、すぐに圧倒される。外出するか家にいるか、もっといろいろなことに手を出すべきか、出さざるべきかで悩むことが多いだろう。

これは非HSPのようになろうとするができない、という悩みではなく、むしろ自分の基本的な仕組みからくる「内なる葛藤」である。(p61)

HSP/HSSの人は、外向性と内向性、新奇追求性と用心深さのような、あまりに両極端の性質を抱え持っているため、自分の基本的な仕組みからくる「内なる葛藤」に悩まされます。そして、「神経の高ぶりの最適レベルを見極める」のに苦労します。

これは、チクセントミハイが91人のインタビューから見いだした1つ目の傾向、すなわちエネルギッシュでありながら疲れやすいことと一致します。

チクセントミハイによれば、創造的な人たちは、子ども時代には体調が優れず、大人になって自分に最適な生活リズムを身に着けることで、創造性を活かせるようになる場合があるとのことでした。

それはすなわちHSP/HSSという生まれ持ったアクセルとブレーキを同時に踏んでいる荒馬のような気質を乗りこなすのに試行錯誤の期間を要するせいでしょう。

エレイン・アーロンは、さらにこうも述べています。

HSP/HSSの不利な点は、外的な力と、自分の中にある相容れないふたつの気質が引き起こす内的な葛藤の両方に引きずられ、スーパーマンやスーパーウーマンになろうとがんばってしまうことだ。そのため体が悲鳴を上げるまで、敏感な側面は無視されてしまう。

ここで重要な警告をしておこう。HSP/HSSも、神経の高ぶりすぎや疲労感を経験するのだ。

HSSであるがゆえに、社会のいう理想型に近づけるような気になるかもしれないが、身の丈に合わないジェンダー・ステレオタイプを自分に押しつけてはいけない。(p86)

ここでもHSP/HSSの特徴は、創造的な人の「複雑な性格」と見事に合致しています。

自分の中にある相容れない気質からくる、内なる葛藤を乗り越えるには、「社会のいう理想型」「身の丈に合わないジェンダー・ステレオタイプ」を自分に押しつけないことを学んでいく必要があります。

チクセントミハイがインタビューした91人の創造的な人たちは、このプロセスをすでに乗り越えて創造的な業績を挙げていたので、自分のリズムを守り、空気を読むときもあれば読まないときもあり、文化的影響に流されず、ジェンダーフリーに見えたのです。

そのようなわけで、チクセントミハイが見いだした、極めて創造的な人たちに共通する「複雑な性格」とは、感受性の強さと並外れた好奇心を両方持ち合わせた、生まれつきの遺伝的性質HSP/HSSを土台に形成されたものである、ということができます。

環境―ギフテッドとサバイバー

ここまでは遺伝的要因について考えましたが、それでは環境的要因はどのような役割を果たすのでしょうか。

クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学によると、この点においても、やはりと言うべきか、創造的な人たちは、両極端の例外的な傾向を示すことをチクセントミハイは発見しました。

創造的な衝動を解放するためには困難や葛藤が必要であると結論づけるには、暖かく、刺激に富んだ家庭環境の例があまりにも多すぎる。

実際、創造的な人々は、例外的と言えるほどの支援を受けた子ども時代か、貧しく、厳しい子ども時代の、いずれかを過ごしていたように思える。

欠落しているように見えるのは、その広大な中間である。(p191)

チクセントミハイが発見したのは、まず創造的な人たちの大半は、「例外的と言えるほどの支援を受けた子ども時代」を送っているということです。幼少期から才能を見出されたり、とても共感豊かな両親に育てられたりするなど、だれもが羨むような理想的な環境で育ちました。

しかし、一方で、残りの人たちは、まったく真逆の環境、「貧しく、厳しい子ども時代」という、相当厳しい逆境を経験してきたこともわかりました。

これまた両極端なことに、創造的な人たちの生い立ちは、例外的なほど理想的か、例外的なほ悲惨かのどちらかに偏っているというわけです。

ここでは便宜上、前者の理想の子ども時代によって才能を開花させた人たちを「ギフテッド」タイプ、後者の悲惨な子ども時代を過ごして才能を開花させた人たちを「サバイバー」タイプと呼ぶことにします。

まず、創造的な人たちの大半を占めるギフテッドタイプについては、生まれつきHSP/HSSという複雑な気性を有していたものの、理想的な養育に恵まれたおかげで、その特質をプラスに活かすことができた人たちだとみなせます。

以前の記事で説明したように、HSPやHSSの遺伝的素因は、それ自体はポジティブなものでもネガティブなものでもなく、単に、環境の影響を強く受けやすい、という感受性の強さを意味しています。

つまり、良くない環境で育った場合は、人いちばい悪い影響を受け、精神疾患などのネガティブな問題を抱えますが、良い環境で育った場合は、その益を人いちばい吸収し、ポジティブな才能を開花させると言われています。

ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。の中で、エレイン・アーロンは、敏感さがプラスに出るかマイナスに出るかは、子ども時代の環境に由来する、と説明しています。

注目すべきは、ユングが、「子供時代にトラウマを受けていない敏感な人々は、神経症にはならない」と言っていることだ。

ガンナーが、「敏感な子供でも母親に安心できる愛着を感じているなら、新しい経験を恐れない」と発見したことを思い出してほしい。(p82)

HSPについての調査を始めてすぐに、私はHSPには二種類あることに気づいた。うつ状態や不安感を強く訴える人々とあまり訴えない人々だ。このふたつのグループの違いははっきりしている。

前者のグループに属するHSPのほとんど全員が問題の多い子供時代を過ごしている。

…「敏感」と「神経症的」は別物である。(p125)

敏感さが、精神疾患の原因になるのは、幼少期に問題を経験している場合だけなのです。すでに見たとおり、チクセントミハイも同様に、感受性の強さは周りの環境を反映したときにだけ、精神疾患として現れるとしていました。

幼少期に問題を経験しない、つまり「例外的と言えるほどの支援を受けた子ども時代」を送ったHSP/HSSの人たちは、敏感さがネガティブな方向に現れることはありません。結果として、彼らはギフテッドタイプの創造的な人へと成長していけるのでしょう。

クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学によると、チクセントミハイは、ギフテッドタイプの創造的な人たちが、理想的な養育を受けた子ども時代を振り返るとき、親から受け継いだ大切なものとして特に「価値観」を挙げることに気づきました。

父親、あるいは母親がある特定の価値観を教えてくれたことが、彼らにとっていかに重要であったかについて、多くの回答者が言及している。

そして、こうした価値観でもっとも重要だったものが誠実さであろう。驚くほど多くの人が、彼らが成功を収めた主な理由の一つに正直さと誠実さを挙げ、それらは彼らが母親、あるいは父親を模範として獲得した美徳であると述べている。(p185)

親の影響が一貫して否定的で、子供が将来避けたいと思うような実例は少ない。(p186)

HSP/HSSのような複雑な性質を生まれ持った人は、自分を見失いやすく、ともすれば内なる葛藤によって混乱した人生を送りかねません。しかし両親がいわば羅針盤のように確かな方向性を示す価値観を与えてくれるなら、路頭に迷うことなく大成できます。

人生を安定させる上で、価値観がいかに大切かは、以下の記事で書いたとおりです。

「あいまい性耐性」―逆境のもとで新しい価値観を見つけ自分の人生を歩み出す力
あんまり現実というものが苦しいので、絶えず瞑想のうちに逃れていたが、これはどうやら無駄なことではなかったらしい。 今、僕は以前思っても見なかった望みや希(ねが)いを持っていま

近年、特別に才能豊かながら、発達障害の傾向や、独特すぎる個性を持つゆえに、普通の学校生活になじめない子どもたちを対象にしたギフテッド教育が注目されています。

たとえば東京大学先端科学技術研究センターのプロジェクトROCKETなどが有名ですが、こうした特別に配慮された教育の場も、創造的な人たちを生み出す「例外的と言えるほどの支援を受けた子ども時代」に寄与するのかもしれません。

「無秩序型」の愛着パターン

一方で、創造的な人の中には、例外的なほど逆境に満ちた子ども時代を過ごした人、「サバイバー」タイプも少なからずいました。

すでに触れたとおり、通常、HSP/HSSのような遺伝的要因を持った子どもが劣悪な養育環境を経験した場合、重い精神疾患などの破壊的な影響として現れます。そうなれば、創造性を発揮するどころか、人生の早期に社会から脱落することが多いでしょう。

チクセントミハイは、先に引用した部分でこう述べていました。

創造的な衝動を解放するためには困難や葛藤が必要であると結論づけるには、暖かく、刺激に富んだ家庭環境の例があまりにも多すぎる。(p191)

創造的な人のうち、「暖かく、刺激に富んだ家庭環境の例があまりにも多すぎる」のは、悲惨な環境で育った子どもは、たいてい再起不能の破壊的ダメージを負ってしまうことのほうが多く、逆境を乗り越えて大成できる例はわずかにすぎないためだと思われます。

しかし、少数であっても、例外的に悲惨な環境で育った子どもが、後々歴史的な偉人になるケースがあるのは間違いありません。

創造的な人のうち、子ども時代に著しい逆境を経験した人は、例外的なほど理想的な環境で育った人よりは少ないものの、ありふれた中間的な環境で育った人よりははるかに多いのです。

このブログで過去に取り上げたように、スティーブ・ジョブズや夏目漱石は生まれてすぐに養子に出されて苦労の連続を味わいましたし、芥川龍之介や川端康成は、幼少期に母親と死別しました。

チクセントミハイのインタビューでも、創造的な人の中には、幼くして親を喪失した人がかなりの人数いたそうです。

親の援助の重要性に対する注目すべき矛盾に、人生の早い時期に、創造的な人々の多くが父親を失っている、という事実がある。

…父と子の関係は時間のなかで凍結され、子どもの心は、全能の親の強迫的な記憶を常に持ちつづけることになる。

創造的な人々の、複雑で、しばしば苦悩を抱えたパーソナリティが、こうした両価性によって部分的に形作られることは、あり得ることである。(p187)

このような人たちの場合、生まれつきHSP/HSSだったか否かにかかわらず、ギフテッドタイプのような、親の共感的な養育によって才能を開花させた創造的な人たちとは、まったく異なる道を歩んできたはずです。

こうした例外的なほど厳しい子ども時代を過ごした人に特有なのは、「無秩序型」と呼ばれる特殊な愛着パターンです。

愛着パターンとは、幼少期の親との関わりによって形成される、その後の人生の土台となる生理学的な脳の発火パターンです。

前述の理想的な子ども時代を過ごした人たちは、「安定型」(B型)と呼ばれる、もっともバランスのとれた愛着パターンを身に着け、それが大人になってからの精神的な健康や、適度な自尊心の源になったのでしょう。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
愛着理論によると、子どものころの養育環境は、遺伝子と同じほど強い影響を持ち、障害にわたって人生に関与するとされています。愛着の傷は生きにくさやさまざまなストレスをもたらす反面、創造

「安定型」(B型)に対して、もっとも不安定で混乱した愛着パターンが「無秩序型」(D型)であり、幼少期に虐待やネグレクトを経験したり、親の死別などの喪失体験や、度重なる養育者の交替に直面した子どもに典型的に見られます。

注目すべき点として、「無秩序型」(D型)の特徴について、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合では次のように解説されています。 

このタイプDについての話をもう少し続けよう。ショアはこれを示す赤ちゃんの行動は、活動と抑制の共存だという。

つまり他人の侵入という状況で、愛着対象に向かおうとする傾向と、それを抑制するような傾向が同時に見られるのだ。

ちょうど「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」と考えると分かりやすいかもしれない。

そしてそれは、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。これが解離状態であるというのだ。(p17)

この説明を読んで、きっとデジャヴュを感じたのではないでしょうか。

そう、今さっき見た、エレイン・アーロンが書いていたHSP/HSSの特徴とそっくりです。「アクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態」という比喩までもが同じです。

無秩序型の愛着については、以前の記事で詳しく扱いましたが、この愛着パターンを示す人の特徴は、他の人への積極的な関心と、極度の恐れという、外向性と内向性とが混在したような対人関係です。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

HSP/HSSの人は、感情に関わる先天的な遺伝的要素のせいで、内的な葛藤を抱えますが、無秩序型の愛着の人は、悲惨な家庭という後天的な逆境体験のせいで、内なる葛藤を抱えるようになります。

そうすると、原因は違えど、先天的なHSP/HSSの人と、後天的な無秩序型の愛着の人はともに似たような複雑な内面を抱え持つことになります。

これはおそらく、見かけ上似ているように思えるだけでなく、脳の中で生じている現象としても類似した部分があるのでしょう。前述のとおり、エピジェネティクスな変化によって、後天的に遺伝的要素のオンオフが切り替わる例があるからです。

無秩序型の愛着は、幼少期のトラウマ体験の結果、ADHDとアスペルガーを両方合わせたよりもひどい発達の問題につながることがあり、「発達性トラウマ障害」と呼ばれています。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

ある意味、ADHDとアスペルガーのいいとこ取りをしたのがギフテッドタイプのHSP/HSSの人なら、逆にADHDとアスペルガーの悪いところを濃縮したのが無秩序型愛着や発達性トラウマ障害の人だといえます。

方向性は間逆ながら、いずれの場合も、複雑で多面的な人格が培われることは言うまでもありません。

混沌に秩序を与えるための創作

通常、無秩序型愛着は、虐待などの悲惨な環境がもたらす破壊的な爪痕といった文脈で語られ、決して創造性に寄与するような望ましいものとはいえません。

しかし中には、破壊的な影響を乗り越えていく人たちがおり、その過程は心的外傷後成長(PTG)と呼ばれています。

心的外傷後成長(PTG)とは―逆境で人間的に深みを増す人たちの5つの特徴
トラウマ経験をきっかけに人間として成長する人たちは、「心的外傷後成長」(PTG)という概念として知られています。PTGはどのような状況で生じるのか、心的外傷後ストレス障害(PTSD

例外的ともいえる悲惨な子ども時代を過ごし、後天的なダメージとして、複雑で多面的な人格を身につけたものの、飽くなき闘いによって、それを乗り越え、逆境をひっくり返した人たちが、サバイバータイプの創造的な人たちなのでしょう。

どうして、例外的なほど逆境的な体験が、ときに心的外傷後成長、そして創造性の開花に結びつくのかというと、ひとつには、創作そのものが、生きるための闘いに役立つということがあります。

チクセントミハイは、クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学で、インタビューした91人のうち、特に第二次世界大戦と関係する逆境体験を数多く経験した、ユダヤ人作家ヒルデ・ドミンについて、こう書いています。

インタビューをしたすべての作家のなかで、ヒルデ・ドミンは文学を、もっとも明確に、もう一つの現実、人生の野蛮な側面から逃れるための避難場所と見ている。

七十代の彼女は、ドイツ文学界の主導的な立場にある。彼女の詩は広く読まれ、高校の認定教科書にも掲載されている。権威ある賞をいくつも受け、多くの文学賞の審査員を依頼されている。

しかし、彼女の人生を特徴づけるのは困難と悲劇であり、もし彼女が、詩の秩序立った韻律を経験の混沌に強要することができなかったとしたら、彼女がこれほど長く生き抜いてこられたかは疑わしい。(p274)

「彼女の人生を特徴づけるのは困難と悲劇」でした。

ヒルデ・ドミンは、悲劇を経験する前は、詩を書いたこともなく、創造的でもなかったようです。

しかし、極めて悲惨な経験をしたことで、人生の意味や価値について考えるようになり、混沌とした感情や記憶を整理するために、詩や文学を書くようになりました。

彼女にとって、文学は「避難場所」であり、混乱を秩序へと変えていくために欠かせないものでした。

すでに何度か見てきたように、経験に秩序を回復するために、人は一般的に文学の執筆に向かう。

マデレイン・レングルは、宇宙の混沌によって脅かされる、精神の存続に関心を持つ。

アンソニー・ヘクトは、戦争の愚かさに突き動かされた。

ヒルデ・ドミンを突き動かしたのは、ナチズムの悲劇と彼女の母親の死であった。 (p293)

やり場のない激情を言語化して整理することは、カウンセリングのように働いて、精神の安定にとりわけ役立ちます。

それは私たちに、みずからの感情を認識させ、持続的で共有された性質という観点から、その感情に名前をつけることを可能にする。

そうすることによって、著者と読者は、直接的な生の経験からある程度の距離を置くことができるようになり、そうしなければ本能的な反応のままでありつづけたものを理解し、文脈に当てはめ、説明しはじめるのである。

詩人と小説家は存在の混沌に敢然と立ち向かう。(p295-296)

チクセントミハイは、特に文学の執筆が経験に秩序を与えるとしています。詩、小説、絵画などの分野には、おそらくサバイバー型の創造的な人が多い傾向があるようです。

幼少期から「無秩序型」と呼ばれる混乱した愛着パターンを抱え、混沌とした人生を送ってきた人たちは、トラウマ的な経験を言葉に変え、文脈に当てはめ、詩や文学などの芸術に昇華することで、自分のアイデンティティの秩序を取り戻し、安定させることができるのでしょう。

文学や芸術を創造する「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
辛い子ども時代を過ごした人の中に、文芸や芸術などの分野で、豊かな想像力を発揮する人が意外なほど多いといいます。「愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)」という本に基づい

「自己統御感」―自分の人生の手綱を握っている

このように、創造的な人の「複雑な性格」にはおおまかにいって二通りの説明が考えられます。

ギフテッド型の創造的な人は、先天的なHSP/HSSの強い傾向を持ち、支持的な養育を受けたことで、安定型の愛着を身に着けて、才能を発揮できた人たちです。

サバイバー型の創造的な人は、先天的なHSP/HSSのあるなしにかかわらず、幼少期からの逆境体験によって無秩序型の愛着を抱えたものの、創作活動などを通してトラウマ経験を昇華し、創造性へと変えてきた人たちです。

この二つのタイプは、表面的には正反対に思えますが、チクセントミハイは、遺伝と環境、子ども時代の影響などが創造性に与える影響を調べた結果、両者の深いところに共通点があることに気づきました。

二十年以上にわたって断続的に続けてきた芸術家たちへのインタビューで、私は一つの興味深い傾向に気づいた。

1963年、非常に成功していたある若い芸術家が、自分の子ども時代を平凡で、牧歌的でさえあったと述べた。

話を脱線させながら、彼が確実なものとして私に伝えたのは、人が芸術家の伝記のなかで読むような葛藤や不安は、彼の場合には存在しなかったということであった。

十年後、その芸術家は職業的に困難な状況にあった。彼の絵は流行からはずれ、批評家や収集家は彼を避け、絵の売り上げは急落していた。

そのとき、彼は明らかに楽観性に欠けた子ども時代の出来事について語り始めた。彼の父は超然としていて、厳しく、母親は強引で、所有欲が強かった。

十年前のようにすばらしい夏の日に果樹園で過ごした日々について話す代わりに、彼はたびたびベッドを濡らしたこと、そしてそれが、結果として両親を狼狽させたことをくどくどと語った。(p192)

この画家は、チクセントミハイのインタビューに対し、極めて奇妙な受け答えをしました。

最初にインタビューを受けたとき、彼は新進気鋭の華々しい芸術家でしたが、そのときは自分の子ども時代に葛藤や不安はなかった、つまり理想的な子ども時代だったと述べました。

しかし10年後、画家として落ちぶれ、窮境に陥ったときのインタビューでは、なんと10年前にはおくびにも出さなかった、辛い子ども時代について多弁に語りました。

ここでもまた、創造的な人に特有の、あの複雑な両極性が垣間見えます。

いったいどちらが真実なのでしょうか。はたしてこの芸術家は、例外的なまでに理想的な子ども時代を送ったのでしょうか。それとも例外的なまでに悲惨な子ども時代を送ったのでしょうか。あたかも彼は両方の子ども時代を経験したかのようにさえ思えます。

そして、この例からわかるのは、ここまで考えてきた、理想的な子ども時代を過ごしたギフテッドタイプ、悲惨な子ども時代を過ごしたサバイバータイプという分け方が、必ずしも真実とはいえないかもしれない、ということです。

創造的な人たちの大半は、理想的な環境で育った、と断言していましたが、チクセントミハイは次のような可能性を指摘しています。

したがって、私たちの調査の成功を収めた創造的大人たちが、みずからの子ども時代を基本的に温かいものとして記憶しているのは、彼らが成功しているからである、ということも十分考えられることである。(p193)

彼らはうそをついていたのでしょうか。インタビューで印象を操作するために、わざと辛い記憶を隠して、理想的な子ども時代の話だけを取り繕ったのでしょうか。

おそらくそうではないでしょう。彼らはみな、誠実にインタビューに答えていましたが、無意識のうちに、過去の記憶が書き換えられていた可能性があります。

エレイン・アーロンのささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。によると、過去の記憶が編集され、改変されていくのは、HSPの人たちの特徴のひとつです。

HSPはものごとをより細かく感じ取る傾向にあるということを考えれば、非HSPよりもHSPのほうが子供時代の問題により強い影響を受けるというのが納得できるだろう。

ただ、現在の問題の要因となった子供時代の大きな出来事を、本人が覚えていないことが多い。

ごく小さい時に起こったから覚えていなかったり、あまりにも苦痛だったために、わざと忘れてしまう。

つまり意識がその情報を無意識に葬り去ってしまったのだ。この無意識が、深く不信に満ちた態度を創り上げ、うつ状態や不安感を引き起こす。(p126)

HSPの人は、感受性が強すぎるために、トラウマ経験から通常よりも大きなダメージを受けがちですが、脳がその経験に耐えられないと判断したとき、記憶は無意識のうちに忘れ去られます。この働きは脳の防衛機制の一つで「解離」と呼ばれます。

では、創造的な大人たちが、みながみな解離されたトラウマを抱えていて、口では「理想的な子ども時代」だったといいつつも、実際はそうでなかったことを忘れているのか、というとそうではないでしょう。

すでに見たように、創造的な人の中には、精神的にまったく健康だった人も大勢います。チクセントミハイはバッハやヴェルディ、モネ、ラファエロ、ロダンなどを挙げていましたが、そうした人たちはトラウマを経験しなかったか、支持的な養育に支えられて首尾よく乗り越えたかして才能を開花させたのでしょう。

一方、ユングは「子供時代にトラウマを受けていない敏感な人々は、神経症にはならない」と分析していました。そうすると、創造的な人たちのうち、理想的な子ども時代だったと述べながらも神経症を抱えているような人たちは、解離が働いて悪い出来事を完全に忘れている場合が多いでしょう。

しかしながら、大切なのは、創造的な人たちが、良きにつけ悪きにつけ、どんな子ども時代を送ってきたか、という点ではない、とチクセントミハイは強調します。

より重要なことは、子どもたちがそうした事実をどのように利用し、それらをどのように解釈し、それらからどのような意味や自信を引き出すかであり―そして、後の人生で経験する出来事の観点から、彼らが記憶にどのような意味づけを行うかということなのである。(p193)

チクセントミハイは、ギフテッド型の創造的な人であれ、サバイバー型の創造的な人であれ、共通しているのは、自分の経験を意味づけし、解釈を引き出していることだ、と考えました。

言い換えると、創造的な人たちはみな、自分の人生の手綱を握り、自分の人生は自分でコントロールしていけるという強い確信、つまり「自己統御感」を持ち合わせています。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」
難病など極めて困難な試練から奇跡の生還を遂げる人たちは、共通の特徴「内的統制」を持っていることが明らかになってきました。「がんが自然に治る生き方」「奇跡の生還を科学する」などの本か

ギフテッド型の人は、その支持的な養育のおかげで、自己統御感を身に着けた大人に育ちやすい恵まれた環境にあるといえます。

サバイバー型の人は、通常は統御感と正反対の無力感に陥りやすいでしょう。しかし、逆境を乗り越える人たちは、苦闘の中で生き抜くすべを探すうちに、必ず統御感を身に着けていきます。

そしてどちらの場合も、自己統御感を持っている人は、子ども時代の経験を自分なりにうまく解釈し、そこから力を引き出すようになります。

先の芸術家の例で言えば、自分の人生の手綱を握っていたときは、過去の子ども時代を全体として良いものだったと認識し、自信を引き出すことができていました。

しかし、凋落しはじめて、自分の人生の手綱を握っているという感覚を喪失したとたん、過去の子ども時代の記憶もまたコントロールできなくなり、混沌に飲み込まれてしまいました。

良い環境に恵まれた場合でも、悪い環境に見舞われた場合でも、それをどう解釈し、どう意味づけするかはその人次第です。自己統御感に満ちた人は過去に操られることなく、過去を自分でコントロールします。

創造的な人が創造的だと言われるゆえんは、自分の過去でさえもうまく料理して、良い素材をも悪い素材をも十二分に活かし、血となり肉となる教訓を引き出して、創造的に解釈していけるからなのです。

創造性とはコントロールされた解離

最後に、さきほど触れた、HSPの人で強く働く「解離」という防衛機制について、創造性との関わりを考えましょう。

このブログで過去に何度も取り上げてきたように、解離と創造性は、密接に関係しているとされています。

解離性障害と芸術的創造性ー空想世界の絵・幻想的な詩・感性豊かな小説を生み出すもの
芸術家や作家の豊かな創造性には、解離という脳の機能が関わっていることがあります。なぜ解離が創作と関わるのか、夏目漱石、宮沢賢治、芥川龍之介、宮崎駿などの例を通して考えてみました。

解離とは言い換えると「意識を切り離すこと」であり、たとえばすでに出てきた、過去の辛いトラウマを切り離すことだけでなく、意識を現実から切り離して空想に没入すること、時間を忘れて創作に没頭することなども解離の働きのひとつです。

作家のリチャード・スターンは、チクセントミハイのインタビューに答えて、自分の執筆プロセスについてこのように述べました。

最高の状態のとき、人は何も考えません。考えていたら、どうやってその世界のなかを進んでいけるでしょうか? 進んでいくことなどできません。

そうではなくて、登場人物、場面、本の形式、浮かんてくる言葉に集中するのです。そして、それらの具体化されたかたちにも。我を忘れ……その時点で自我は消え失せます。それとは競争しないのです。

それは……私ならそれを純粋という言葉で表現するでしょう。人には、これが正しいということがわかります。その世界ではそれが有効か、辻褄が合うといった意味ではなく、この場所においてはそれが正しいということです。

この物語において。その物語にふさわしい。その人にとって、その登場人物にとって、それが正しいということです。(p135-136)

このようなありありとした没入感を伴う、よどみなく流れるような集中状態(フロー状態)は、解離の働きの一種です。

没頭する幸せ―「フロー体験入門」の8つのポイント
「ゾーンに入った」「エクスタシー」「過集中」…。時間を忘れて何かに没頭した極度の集中状態は、古今東西、いろいろな言葉で表現されてきました。学問的には、特に「フロー体験」として、ミハ

ここまで見たように、創造的な人は、空想と現実を自在に行き来したり、寝食を忘れて打ち込むほどの集中力を見せたりしますが、それらはいずれも健常な範囲の解離とみなすことができます。

「1人の人格の中に大勢の人格がいるようなもの」

しかしながら、解離症状は、解離性障害や、解離性同一性障害といった精神疾患として現れることもあります。

解離性障害や解離性同一性障害の特徴は、アイデンティティが二つ以上あり、自分が複数に分かれてしまうことです。

解離性障害の場合は、地に足がついていないような現実感喪失が生じ、自己が「存在する私」と「眼差す私」の2つに分かたれてしまったかのように感じられます。

現実感がない「離人症状」とは何か―世界が遠い,薄っぺらい,生きている心地がしない原因
現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

そして、ここが最も重要なポイントですが…

解離性障害のより重い病態とされる解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格では、圧倒されるトラウマ記憶のせいで、自分が複数の人格にわかれて多重化してしまい、コントロールできない人格交代が生じて、自己の連続性が破綻してしまいます。

多重人格の原因がよくわかる8つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か
解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる8つのたとえ話と治療法についてまとめました。

この自己が多重化して、複数にわかれてしまう解離性同一性障害の病態は、何かに似ていないでしょうか。

言うまでもなく、チクセントミハイが言う創造的な人の「複雑な性格」にそっくりです。いえ、そんなまどろっこしいことを言わずとも、「クリエイティブ」の処方箋―行き詰まったときこそ効く発想のアイデア86 によると、チクセントミハイ自身がこう言い切っています。

クリエイティブな思考を持った人々について調べるうちに、そのような人が、いかに矛盾に満ちた人格の持ち主であるかも明らかになる。

高名な心理学者ミハイ・チクセントミハイは、そのことに気づいてこう言っている。

「クリエイティブな人というのは、相容れない両極を併せ持っている。それは、1人の人格の中に大勢の人格がいるようなものなのだ」(p326)

創造的な人というのは、通常は相容れないはずの両極端な性質が同居している複雑な性格を特徴としていますが、それはわかりやすく言い切ってしまえば、「1人の人格の中に大勢の人格がいるようなもの」なのです。

「1人の人格の中に大勢の人格がいるようなもの」というのは、まぎれもなく解離性同一性障害(DID)の特徴です。

創造的な人は、ADHDのような部分もアスペルガーのような部分もあると述べましたが、解離性同一性障害では、衝動的な人格であれ、自閉症的な人格であれ、考えうるありとあらゆるタイプの人格が生じえます。

そもそも、さきほど見たサバイバー型の創造的な人の特色である無秩序型の愛着パターンというのは、解離性同一性障害のおおもとです。

無秩序型の愛着パターンという、人に近づきたいのに怖くて近づけないという強い内面の葛藤が生じた子どもは、空気を過剰に読んで、相手によって表に出す自分を変容させる「過剰同調性」を示すようになります。

無意識のうちに空気を読んで、複数の自分を使い分ける「過剰同調性」の時点では記憶はつながっていますが、トラウマ経験によって記憶さえも分断されたとき、それぞれが別個のアイデンティティを持つようになり、多重人格へと発展します。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

ここでもやはり、キーポイントとなるのは、自分で自分の手綱を握っているかどうか、つまりコントロールできているかどうかです。

多面的な自己を自分でコントロールし、自分の意志で使い分けることができるのが創造的な人です。

チクセントミハイは、創造的な人の複雑な人格を、「差異化」されながら「統合」されたシステムとも表現しています。

ある物が複雑であるというとき、それは、そのものがきわめて差異化したシステム―それは多くの明確に区別できる部分から成る―であり、同時にきわめて統合化されたシステム―さまざまな部分がなめらかに連携しなから機能している―であることを意味する。(p409)

「差異化」というと、以前の記事で、深く考えるHSPの人は、ひとまとまりになって融合している脳の活動パターンを、細切れに分けて別々に発火するよう訓練できるという、神経差異化について扱いました。

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敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ

複雑な人格というのは、鋭い感受性を用いて、通常はひとまとまりになって気づかない「自己」という脳の活動を、「複数の自己」に神経差異化している状態だとみなせます。

複数の自己という多重的なニューロン発火パターンを持っていながらも、多重人格のように分裂しておらず、自由に使い分けることができるという点において、創造的な人たちの人格は「差異化」されながら「統合」されています。

一方、差異化された多面的な自己をコントロールできていない状態が、解離性障害の「存在する私」と、「眼差す私」の分離だとみなせます。

また、多面的な自己をまわりにコントロールされ、自分の意志とは無関係に別々の自分を使い分けるようになってしまうのが、過剰同調性です。

そして、解離傾向という暴れ馬の手綱から手が外れ、完全にコントロールを失ってしまった状態が解離性同一性障害(多重人格)なのです。

つまり、創造性とは、自己統御感によってコントロールされた解離であり、多重人格とは自己コントロールを失った解離だということができます。

「二つの半球の相互作用あるいは交替」

創造性がコントロールされた解離である、というのは、単に概念的な見方ではなく、現代の脳科学にも、ある程度根ざしたものです。

チクセントミハイは、創造性な人が、両極端な性質を自在に使い分けることを繰り返し強調しています。

たとえば主観的な視点と客観的な視点、現実と空想、生き生きとした感情と理性的な分析、トップダウン思考とボトムアップ思考、収束的思考と拡散的思考などです。

先に見たとおり、ジェラルド・エーデルマンは、その二つを自由で奔放な女王と堅実な召使いとにたとえていました。

一般に、客観的に分析したり、解釈したりするプロセスは、言語中枢が存在している脳半球(たいていの人は左脳)が主に担っていて、感情や視覚イメージを伴う主観的なプロセスは、それとは逆の半球(たいていの人は右脳)が関係しているとされています。

右脳と左脳の役割は、しばしば誇張されすぎていますが、それぞれの半球にある程度得意な役割があるのは事実です。そして、創造性とは、左右の半球が二人三脚のように交互に働くことで発揮されると考えられています。

書きたがる脳 言語と創造性の科学にはこうあります。

実験では、創造性には右脳の活動だけでなく左右の半球のバランスのとれた相互作用が必要であることが示されている。

…このような考え方はすべて、二つの思考法あるいは二つの半球の相互作用あるいは交替が創造性を強化するはずだという予想につながっていく。

この説はまた、創造的な作家は作品を生み出してはそれを編集するという仕事を繰り返す、といいう標準的な文学モデルに該当する。(p98)

創造的な人は、「二つの思考法あるいは二つの半球の相互作用あるいは交替」を自由自在に切り替えられるので、複雑な性格になり、創造性を発揮できるのだと考えられます。

前にも引用したことがありますが、意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によると、このような「二つの思考法あるいは二つの半球の相互作用あるいは交替」は、左右の脳をつなぐ脳梁のサイズと関係している可能性が示唆されています。

しかし驚いたことに、創造的な人間は脳梁が小さいという。

この研究に携わった研究者たちは、小さな脳梁は脳の各半球により大きな独立性を与えるのではないかと述べている。

ことによると創造性は枠組みにとらわれないことより、二つの枠組みで思考することにかかわりがあるのかもしれない。(p182)

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、子ども時代のネグレクトや虐待などの著しい逆境体験によって、左右の脳をつなぐ脳梁の発達が妨げられることがわかっています。

そうすると、サバイバー型の創造的な人たちの場合、その生育歴のせいで、脳梁のサイズが小さくなり、左右の脳が独立して働きやすいために、創造性を発揮しやすい反面、コントロールを失って解離性障害などの問題を抱えやすくもあるのではないか、と考えられます。

一方、支持的な養育に恵まれたギフテッド型の創造的な人の場合、生まれ持ったHSP/HSS傾向のため、やはり相反した自己のせめぎあいや交替といった内なる葛藤を経験します。

その場合、脳梁のサイズがどうなっているのかはわかりませんが、安定した愛着に支えられることからすると、むしろ脳梁のサイズは大きいのかもしれません。

サバイバー型の創造的な人のような自己が分裂する危うさはありませんが、安定した愛着に基づく優れた自己コントロール能力を活用して、二つの思考の枠組みを自由に切り替えたり、協調させたりできるようになるのかもしれません。

『「個人」である代わりに、彼ら一人ひとりが「群衆」』

チクセントミハイは、創造的な人の特徴は「複雑さ」である、と述べた文脈の続きで、複雑さとは何か言い表す興味深い比喩を2つ述べていました。

では、創造的な人々を特徴づける特性はまったくないのだろうか?

もし創造的な人々の性格と他の人々の性格を分け隔てるのは何かを一言で言わなければならないすれば、私は複雑さを挙げるだろう。

このことによって言おうとしていることは、創造的な人々は、ほぼすべての人々のなかで隔離されている思考や行動の傾向のすべてを合わせ持っているということである。

彼らには矛盾する両極端の特性が存在している―「個人」である代わりに、彼ら一人ひとりが「群衆」なのである。

白がスペクトルの色相をすべて含むように、彼らは人間のあらゆる可能性をみずからのうちに内在させる傾向を持っているのである。(p64-65)

一つ目の比喩は『「個人」である代わりに、彼ら一人ひとりが「群衆」』であるということです。

これは、多重人格のように内面に複数の自己を抱えながらも、それらをひとつにまとめあげ、多面的な人格を自在にコントロールしていることをよく言い表しています。

以前も引用しましたが、解離の舞台―症状構造と治療で、解離の専門家であるフィリップ・ブロンバーグのこんな言葉が紹介されていました。

できるだけ簡潔に言うと、ひとつの統合された自己―「現実のあなた」―というものは存在しない。自己表現と人間関係は必然的に衝突するだろう。(…)

しかし健康とは統合することではない。健康とは、さまざまな現実とのあいだの空間に、それらのうちにどれも失うこともなく立つ能力である。

これこそ私が考える自己受容の意味であり、創造性は実際にすべてこのことと関連している。

すなわち多数でありながら一人の自己であるかのように感じる能力のことである。(p250-251)

解離性同一性障害では、自己が複数にわかれますが、それらを取りまとめて「それらのうちにどれも失うこともなく立つ能力」を身につけることができれば、「多数でありながら一人の自己であるかのように感じる」ことができ、「創造性は実際にすべてこのことと関連している」とされています。

創造的な人が、個人でありながら群衆であり、多面的な自己をコントロールしているというチクセントミハイの言葉と見事に一致しています。

特にサバイバー型の創造的な人は、無秩序型の愛着によってコントロールを失いかけながらも、飽くなき苦闘の末に解離をコントロールするすべを身に着け、混沌を創造性へと変えることのできた人たちなのでしょう。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

「白がスペクトルの色相をすべて含むように」

チクセントミハイが用いている2つ目の比喩は「白がスペクトルの色相をすべて含むように、彼らは人間のあらゆる可能性をみずからのうちに内在させる傾向を持っている」ということです。

こちらもやはり、解離性障害の特徴と極めて類似しており、解離の舞台―症状構造と治療には、こんな調査結果が載せられています。

自分の色について、解離性障害の患者57名のうち41名(72%)が、自分の色について「ない」「透明」「白」「グレー」「黒」と答えている(2012年2月調査)。

…自分の色については、一般女子大学生に比較すると、解離性障害の患者では、圧倒的に「ない」「透明」「グレー」「黒」が多いことになる。

解離におけるこのような自分の有彩色のなさを、どのように考えたらいいのであろうか。(p34)

解離性障害の人は、自分の色は何かと尋ねられたとき、白や黒をはじめとする無彩色だと感じることが、一般の人たちよりもはるかに多いとされています。その理由について、調査に答えたある女性はこう回答しています。

自分はカメレオンのように周りの色に合わせる。自分には色がない。自分のなかには全部の色がある。玉虫色になっている。

つねにいろんな要素があって、状況によって特定の色が出てくる。自分の引き出しから出てくる。(p35)

理由のひとつは、カメレオンのように何色にでも変わってしまうことです。自分には特定の色はなく、周りの環境によって、何色にでも変わってしまう、つまり解離性障害の空気を読みすぎる「過剰同調性」のことを色に例えた表現です。

一方、同じ色のなさについて、こう述べる人もいました。

私が半透明なのは、透明のように何もなくなることの延長ではない。相手に合わせて色が変わる。私が半透明で、それを通して色が見える。

自分の色が欲しいけど、一つになると、いろんな色になれたのにそれができなくなる。それも能力のうちだと思っているところもある。自分は存在感がなくて、何にでも溶け込んでしまう。何にでもなるし、何でもない。(p38)

相手によって色が変わる、というところは同じですが、この女性の場合は、自らいろんな色になれることを「それも能力のうち」だと考えています。つまり、相手に合わせて、いろんな色を出せる、というポジティブな捉え方を含んでいます。

ここでも、まさしくチクセントミハイの言うとおりです。「白がスペクトルの色相をすべて含むように」、つまりあらゆる色の光を混ぜると白になります。

太陽の透明な白色光が雨の水滴で屈折して虹になるのは、白い光にあらゆる色が含まれているからです。つまり、白というのは、「何も色がない」とも、「すべての色を含んでいる」とも解釈できます

解離傾向の強い人が、自分を白をはじめとする無彩色に例えるのは、自分には色がなく、どんな色にでも変わってしまう、と感じているからです。しかしそれを自分でコントロールできれば、どんな色でも生み出せるという能力へと変貌します。

興味深いことに、解離性同一性障害(多重人格)の人たちは、自分自身については無彩色だと述べますが、自分の中に存在するさまざまな人格については、それぞれに固有の色のイメージを持っているそうです。

世の中のごく普通の人たちは、自分自身の色のイメージを聞かれると、単一の有彩色で答えますが、解離性同一性障害の人たちは、自分は無彩色でありながら、内なる自己に関しては、一つのみならず、さまざまな色の人格を持っています。

すべての色を含むという特殊な才能を持っているがために、自分のうちにさまざまな色の人格を作り出せます。どんな色の人格を表に出すか、自分の意志でコントロールできるようになれば、まさしく、複雑な性格と呼ぶにふさわしい多面的な創造性を発揮できるでしょう。

解離性障害の色についての考察の締めくくりに、こう書かれているのはもっともなことです。

彼女たちは自分の色をもつことができないでいる。多彩な色を身にまとうことはできる。そのなかに溶け込み、演じ、かぶることはできる。

しかし、自分の色を「もつ」ことができないでいる。多彩な色は自分がもつ色ではなく、他者がもつ色でしかない。

しかし、彼女たちにはどこか状況に合わせて多彩な色を引き出す力、受動を能動に変えていく潜勢力がある。

彼女たちの何人かは、回復過程の中で絵やイラストを描いたり、作曲をしたりして創造的活動へと向かう。(p39)

自分の色を持てず、「過剰同調性」に陥っていた人たちが、自己統御感を身に着けて、「状況に合わせて多彩な色を引き出す力、受動を能動に変えていく潜勢力」を発揮するとき、コントロールされた解離は創造性として発揮されるようになるのです。

創造性とは何かを探る道のり

この記事では、心理学者ミハイ・チクセントミハイの分析を手がかりに、創造的な人とは何か、という問いの答えを探ってきました。

一般的でない内容を丁寧に説明しようとするうちに、またしても長くなってしまいましたが、この記事のポイントは、以下のように簡潔に要約できます。

■まず創造的な人が持っている「複雑さ」とは何かについて、10の例を通して、さまざまな両極性を自由自在に発揮できる、という特殊な才能である、ということを具体的に考えました。

■ついで、そのうちの特に「感受性の強さ」と「並外れた好奇心」という真逆の性質に着目し、先天的な遺伝的要因としてのHSP/HSSと、後天的な環境的要因としての無秩序型の愛着がベースになっているのではないか、と推測しました。

■創造的な人たちの子ども時代は理想的か悲惨かの両極端でしたが、どちらの場合でも、創造的な才能を開花させるカギとなっているのは「自己統御感」、すなわち自分で自分の人生をコントロールしているかどうかでした。

■最後に、チクセントミハイの述べる創造性な人の複雑な人格とは、解離性同一性障害に見られる多重化した人格と瓜二つであり、解離傾向をコントロールできれば創造性に、コントロールしそこなうと解離性障害になる、という結論に至りました。

創造性については、このブログでも長く追ってきた話題であり、さまざまな観点から何度も考察を重ねてきました。

最初のうちは、双極性障害や統合失調症のような精神疾患とつながりがあるように思えましたが釈然とせず、アスペルガーやADHDとのつながりを示唆する情報もまとめましたが、やはり腑に落ちないところがありました。

いずれの場合も、創造的な人たちが、特定の精神疾患や発達障害の範疇に収まらず、あまりに例外的に思えたからでした。精神疾患を抱えているとするにはあまりに自由で、発達障害を抱えていたとするにはあまりも柔軟すぎて、医療モデルと合致しません。

特に不思議に思っていたのは、似たような経歴を持ち、何かと比較されることの多かったアップルCEO、iPodとiPhoneで一世を風靡したスティーブ・ジョブズと、任天堂社長で和製ジョブスとも言われ、WiiやDSで一躍有名になった岩田聡です。

両者とも50代の若さで亡くなりましたが、ADHDのような豊かな想像力やエネルギッシュさ、アスペルガーのようなプログラミングの強さや数学的才能も存分に持ち合わせていながら、人の心を動かす技術に秀でていて、必要なときには優れた共感性を発揮できました。

今になって思えば、ジョブズはサバイバー型の創造的な人、岩田聡はギフテッド型の創造的な人だったのではないかと思います。ジョブズの生育歴は無秩序型愛着の典型ですし、岩田聡は鋭い感受性を持った安定型愛着の典型でした。

「天才と狂気は紙一重」という、創造性には発達障害や精神疾患がつきものなのだ、という思い込みを超えて、HSPや解離という、状況によって良くも悪くも変化するフラットな性質について学んだことが、このよく似ているのに対照的な、両極端な2人の天才を理解するヒントになったと思います。

もちろん、理解というのはどんどん発展して変化していくものなので、より多くのことを学ぶうちに、また新しい見解を思いつくでしょう。そのときは改めてブログの記事にしたためるつもりです。

今回おもに参考にした、チクセントミハイのクリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学は、最初に書いたように、かなり分厚く、込み入った内容の本です。しかし、世に多く出ている表面をかすめるだけのクリエイティブ本とは一線を画する、鋭い分析がつまった一冊なので、興味のある人はぜひ読んでみてください。

解離性同一性障害の多重性と、創造的な人の多面性がよく似ている、というのは、かなり前から考えていたことですが、裏づけとなる資料が十分でなく、今回の本をきっかけに、やっとピースがはまって記事にまとめることができました。

創造性というのは「複雑さ」であり「多面性」でもあります。見る角度によって色も形もさまざまに変わるものですから、きっと、この本を読めば、わたしとはまた違った、あなただけの発見が得られることでしょう。

ADHDの「片付けられない」とアスペルガーの「捨てられない」の違い―脳の発達は視覚によって導かれる

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溜め込み障害は強迫関連障害に属し、DSM-5で新たに登場した項目である。

これは子どもにないではないが、一般的には成人の問題である。それをあえてなぜ取り上げるのかというと、われわれ児童精神科医が遭遇することが稀ではないからである。

…われわれの経験では圧倒的にAD/HD(片付けられない)よりASD(捨てられない)のほうが目立つのであるが。(p55-56)

れは、臨床家のためのDSM-5 虎の巻という本で、児童精神科医の杉山登志郎が書いておられる「溜め込み障害」(Hoarding Disorder)についての一文です。

発達障害かどうかにかかわらず、部屋が散らかって片付けられないことに悩んでいる人は多いでしょう。本人よりも家族が頭を抱えることが多いかもしれません。

片付けられないことそれ自体は、病気や障害というほどではありませんが、ときどきメディアで報道されるゴミ屋敷のような、明らかに健康に支障を来たし、近隣の迷惑にもなるような状態は、医療の対象になるれっきとした病気です。

冒頭の説明が示すとおり、部屋が散らかるといっても、その原因には大きく分けて、どうやら2通りのタイプがあるようです。

きれい好きな人から見れば、概して同じに思えるかもしれませんが、かたやADHD(注意欠如多動症)に多い「片付けられない」と、かたやアスペルガー(自閉スペクトラム症:ASD)に多い「捨てられない」は、じつは別物なのです。

このエントリでは、「片付けられない」と「捨てられない」はどう違うのか。なぜそうなってしまうのか、という点を考えましょう。

そして、さらに視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)などの本を参考に、両眼視機能視覚性ワーキングメモリといった見る力が、発達障害のさまざまな個性が形作られていく上で、意外なほど大きな役割を果たしているということを分析してみたいと思います。

これはどんな本?

今回の記事では、脳の発達と視覚に関する様々な本を参考にしていますが、その中でも特に拠り所としたのは、視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)という一冊です。

この本は斜視のために立体視ができなかった神経生物学者スーザン・バリーが、自分に立体視の能力が欠けていることに気づき、50代になってからの視能療法を通して、生まれてはじめて立体視を経験するまでの道のりをつづった自伝的な物語です。

斜視のせいで臨界期までに立体視を獲得できなかった人は、大人になってから立体視を獲得するのは不可能である、という通説に反して、少しでも両眼性ニューロンが存在していれば、脳の可塑性を引き出すことで立体視を獲得できる、ということが数々の論拠や実体験によって論証されています。

彼女の感動的な体験談は、脳神経科医オリヴァー・サックスの心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界や、精神科医ノーマン・ドイジの脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線、さらには国内の両眼視の専門家藤田一郎の脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ (DOJIN選書)の中でも紹介されていて、脳と視覚のつながりを知りたい人にとっては必読の本となっています。

「片付けられない」と「捨てられない」

「散らかってるから片付けなさい!」

片付けるのが苦手な人たちは、子どものときから、親や先生にさんざんそう言われて育ってきたことでしょう。

近年、その原因として、よく聞かれるようになったのは、もちろん発達障害です。発達障害のうち、特によく知られているのはADHDとアスペルガーですが、それらは両方とも、物があふれて雑然とする問題を抱えることがあります。

まず、ADHD(注意欠如多動症)という発達障害が知られるようになったきっかけには、サリ・ソルデンの片づけられない女たちという本の存在がありました。

マスメディアで汚部屋やゴミ屋敷の問題が知られるようになるとともに、片付けられない=ADHDという認識は、強く印象づけられたのではないかと思います。

一方で、アスペルガー症候群(自閉スペクトラム症:ASD)は、ひたすらマニアックに特定の分野のものを集めるオタクと呼ばれる人たちの代名詞として知られるようになりました。

普通の人は興味を持たず捨ててしまうような こまごまとしたものまで、山のように収集しているといったイメージです。

もちろん、こうしたステレオタイプが、ADHDやASDの人すべてに当てはまるわけではありませんが、どちらも一般の人たち(定型発達者)から見て、散らかった部屋に住んでいるように思われやすいのは確かでしょう。

ADHDやASDは、同じ「発達障害」、同じ「片付けられない」として一緒くたにされがちですが、冒頭で杉山登志郎先生が述べていたように、散らかる原因は別のものです。

ADHDの人の部屋が散らかってしまうのは「片付けられない」ためであり、持ち前の新しい物好きや衝動性によって買い込んでしまった大量の物を管理できなくなって、どこからどう手を付けたら片付けられるのかわからず、途方に暮れてしまいます。

一念発起して片付けようとしても、段取り力がなく、押入れを掘り返しただけで余計に散らかってしまったり、集中力が続かずに、いつのまにか別のことをしていたりして、お手上げ状態になってしまいます。

よくわかる「大人のADHD」の10の特徴・チェックポイント
集中できないときと没頭しすぎるときの落差が激しい、計画を立てられない、いつも先延ばしににして期限に間に合わない…。この記事では大人のADHDの10の特徴をチェックポイントとしてまと

他方、ASDの人の場合、「片付けられない」と言われるのは心外かもしれません。集めに集めたコレクションの良さがわからない人からすれば散らかっているように見えるのかもしれませんが、本人からすれば、それぞれがあるべきところへ収まっていて片付いてはいるのです。

どちらかというと、きちんと整理整頓して片付けることについては、ASDの人たちは杓子定規なほど厳格で、だれかが勝手に持ち物の位置を動かしたり、秩序を乱したりするのに我慢ならないこともあります。

ASDの人たちの場合、問題はものを捨てられず際限なくマニアックに溜め込んでしまうこと、つまり、こだわりが強すぎて「捨てられない」ことにあるのであって、決して「片付けられない」わけではないのです。

大人の発達障害「自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群」の5つの特徴と役立つリンク集
最近、大人の発達障害を疑って医療機関を受診する人が増えているといいます。その多くは、子どものときから困難を抱えながらも、なんとか学生生活には適応してきました。しかし社会人になると、

ADHDやASDの人たちは、理由は違うとはいえ、どちらも部屋が散らかりやすいのは同じです。しかし、発達障害の傾向のある人が、いつも散らかった部屋に住んでいると考えるのは大きな間違いです。

杉山登志郎先生は別の著書、発達障害のいま (講談社現代新書)の中で、大人の発達障害の特徴について、こう説明しています。

このグループにおける周囲に迷惑なパターンとは、逆に代償的に極度の整理魔が誕生したときである。

継続的に自分がものを散らかすことが分かっている。それを克服しようとして、不要なものが少しでもあると混乱してしまう。

すると少しでも散らかった状況が自分の能力の欠陥のように感じられてしまい、強迫的な片づけを繰り返すようになる。(p227-228)

発達障害の人の中には、代償的に人並み以上に片付けに勤しむようになる人もいます。

大人の発達障害を見分ける10のチェックポイント―キーワードは「代償」と「誤学習」
大人の発達障害の特徴は子どもの場合とは異なり「代償」と「誤学習」が関係しています。見分けるのに役立つ10のポイントを杉山登志郎の書籍「発達障害のいま」を参考にリストアップしてみまし

昔から一病息災などと言われますが、何か欠点があったほうが、人より余計に弱点に気を遣い、カバーしようと努力するものです。

いえ、欠点をカバーするくらいならともかく、子どものころからADHDやASDの傾向があり、さんざん「ちゃんと片付けなさい!」と怒鳴られてきたことで、逆の極端まで突っ走ってしまう人もいます。

「片付けられない」ADHDの人の中には、物が増えると管理できないことがわかっているので、物を持たない暮らしをしよう、ということで、シンプルライフやミニマリズムに凝って、極限まで持ち物を減らしてしまう人がいるかもしれません。

もともと、ADHDの人は騎馬民族や遊牧民族の血を引いていると言われますが、持ち物が少ない生活は遺伝子に刻まれたライフスタイルにもよく合っているのでしょうか。

持たない暮らしがあまりに快適なので、中にはそのままバックパッカーとして海外を放浪しはじめるワイルドな人たちもいます。

「捨てられない」ASDの人もやはり、極端なまでに質素な生活をするようになる人がいます。持ち物だけでなく衣食住を含めた生き方全体で、一種の精神修養として断捨離を追い求める人もいます。

片付け術で有名な人たちの中にも、もともと自分があまりに整理整頓ができないことに悩んだ結果、ある種の悟りの境地に達して、片付けの極意を習得して有名になった人がそこそこいるような気がします。

いずれにしても、発達障害の人たちは、どうやら、部屋が散らかりすぎるか、かえって整理しすぎる両極端な傾向があるようです。

しかし、なぜADHDの人は「片付けられない」問題に悩みやすく、ASDの人たちは「捨てられない」問題に悩みやすいのでしょうか。

両眼視機能で部屋の見え方が変わる

そもそも、「片付けられない」「捨てられない」といった性質が、発達障害者だけの問題かというと、わたしはそうではないように思えます。

最初に見たとおり、「片付けられない」「捨てられない」というのは、程度の差こそあれ、わたしたちのだれもが抱えうる、もっと身近な問題です。

単純に、ADHDだから「片付けられない」、ASDだから「捨てられない」とみなしてしまうと、本当の問題を発達障害という言葉にすり替えているだけで、なぜそうなってしまうのか、理由があやふやになってしまいます。

では、何が原因で、整理整頓が苦手になったり得意になったりするのか。

さまざまな理由が考えられますが、そのひとつは、意外にも、両眼視機能という目の機能にありそうです。

両眼視機能というのは、二つの目を協調して動かす能力のことですが、それは特に、両眼立体視、つまり、物を立体的に見る能力、3Dの奥行きを把握する能力に現れます。

わたしたちに目が二つあるのは、わずかに位置の違う2つの眼球に映る像の視差を利用して、物の立体感や距離感をとらえるためです。しかし、この両眼立体視能力は、人によって程度の差があります。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)によると、この立体感を認識する能力の強弱が、部屋の散らかり具合に大きな影響をもたらす可能性があります。こんな例が載せられていました。

先日、わたしは、車の事故で片目の視力を失った女性に会って体験談を聞いた。

彼女はいま、家のなかと机まわりがきちんと整理されて、ひとつひとつの物があるべき場所にないといやなのだと言う。

ある精神分析医から、極度のきれい好きは強迫症の一歩手前だと言われたそうだが、その心理学者は片目だけで物を見ることがどういうものか体験してはいない。

わたしは、この女性が極度のきれい好きになったのは、視力を失ったことへのひとつの順応ではないかと思う。(p120)

この女性の場合、事故で片目の視力を失った、つまり両眼立体視の能力を失ったことで、極度のきれい好きになりました。立体視が失われたことで、部屋の散らかり具合をより強く意識するようになったのです。

なぜ立体視がなくなると散らかり具合が気になるのか、例をひとつ考えてみましょう。

たとえば高層ビルが立ち並ぶ街を想像してみてください。その街を遠くから写した写真を見ると、ゴミゴミした都会で、ビルがひしめき合って、とても窮屈に感じられるかもしれません。

しかし、実際にその街の中を歩いて、空間の中に身を置いてみると、建物と建物のあいだにはスペース、つまり空間があるので、物が多いにしても、それなりにゆとりがあることを実感できます。

写真、つまり奥行きのない二次元の視覚情報では、空間を表現できないので、すべてがべったりと重なり合っているように見えてしまいます。一方、三次元の視覚情報では物と物の隙間が認識できるので、窮屈さが和らぎます。

この本の著者スーザン・バリーは生後幼いころから斜視のせいで、両眼立体視ができませんでした。その結果、彼女は、散らかっているのが気になって仕方なかったと述べています。

わたしは自分の視覚の使いかたを意識しだしてから、人々を、“近くを見る人”と“遠くを見る人”に分けるようになった。

いまはかなり安定した視覚を持っているとはいえ、わたしはまだ近くを見る人だ。すぐ目の前の空間については認識力がきわめて高く、そこを秩序正しく整えようとする。

他方、正常な両眼立体視の能力を持つ夫のダンは、散らかっているのが気にならないようでした。

夫のダンは正常な視覚の持ち主だが、やはり遠くを見る人だ。…ダンは家のなかがおそろしく散らかっていても平気でいられる。

わたしは最初のうち、妻がきれい好きなのを知っているくせに散らかすなんて、と腹をたてていた。

ずいぶん経ってからようやく、雑然とした状態が目に入らないだけなのだと気がついた。

もちろん、散らかっているのは見える。ダンの視力はすばらしくいい。だが、注意を払うのははるか遠くの対象だけなのだ。(p120)

斜視のせいで正常な立体視能力を持たなかったスーザンは、二次元的な視覚情報に頼っていたので、先程の事故で片目の視力を失った女性と同じように、物の視覚的な重なりが気になって、ごちゃごちゃしているように感じられました。

しかし正常な立体視能力を持っている夫のダンは、奥行きを認識できるおかげで、物と物との間にある空間を把握できていたので、物がたくさんあっても、あまり散らかっているとは感じませんでした。

では、この例からすると、正常な両眼視機能があるとダンのように物が散らかってしまい、斜視などで両眼視機能が欠けているとスーザンのようにきれい好きになるのでしょうか。

「空間」を認識できないとどうなるか

物事はそう単純ではありません。

冒頭に出てきた杉山登志郎先生や室内装飾家の岡南先生らによるギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス)では、やはり、両眼立体視と部屋が散らかることには関係があるとされていますが、その説明は、まったくの正反対です。

聴覚言語優位性に偏った子どもの場合、奥行き感のない見え方をしていることがある。

…自分の部屋が散らかったままでも、全体の関係性が見えていないために、子ども自身はそれを「散らかった」とは感じていないこともある。

家族が「散らかっているから、片づけなさいと言っても、らちがあかないのである。(p84)

この説明では、立体視能力が弱い子ども、つまり、物の奥行きが見えにくい人は、部屋が散らかっているのがわからない、と書かれています。

先程の本では、スーザン・バリーの経験や事故で片目の視力を失った女性の例から、両眼立体視が欠けていると部屋の散らかり具合が気になりすぎると書かれていました。しかしこちらの説明では、両眼立体視の弱い子どもは、散らかり具合がわからなくなりました。

一見するとこの二つの説明は正反対でまったく矛盾しています。立体視が難しい人は、部屋は散らかるのか、それとも片付くのか、いったいどちらなのでしょう。

この見かけ上の矛盾は、両眼立体視ができなければ何が失われるのか、という観点を見落としているために生じるようです。

さっきのビルが立ち並ぶ街のたとえで、写真で二次元的に見た街と、現地に行って三次元的に見た街との違いは何だったでしょうか。

それは「空間」を認識できるかどうかでした。つまり、立体視の有無は、片付けられる、片付けられない以前に、空間を感じられるか感じられないか、ということに結びついています。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)を書いたスーザン・バリーは、 生後3ヶ月で斜視の兆候が現れ、立体視の能力を発達させられませんでした。

しかし、50代になってから検眼医(オプトメトリスト)による視能療法を受けて立体視能力を獲得することができました。そのときに感じた変化についてこう書いています。

視覚が変化しはじめてすぐ、わたしは日課のジョギングに出かけた。そして、近所の茂みの葉っぱに注意を引かれた。

葉っぱの一枚一枚が固有の空間を占め、自分のものにしている。二枚の葉っぱが同じ空間を占めることはない。

というか、ふたつの物体が同時に同じ空間に存在することはありえないのだ。(p138)

彼女にとって、立体視を獲得する以前は、「空間」という概念がよくわかりませんでした。頭では空間という概念を知ってはいましたが、実感として感じることはできませんでした。

立体視力のある人と立体視力のない人の違いは、身の回りのものすべてを、三次元的に認識しているか、それとも二次元的に認識しているかの違いです。

この点においては、ギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス)の説明も一致していて、立体視が正常でない人が、身の回りのものを認識する方法について、こう書かれています。

物の「奥行き」が見えていないとするなら、空間そのもののボリューム感が異なるということにほかならない。

物が多くひしめき合っている空間でも、奥行きのない見かけだけを意識するなら、狭さを感じないということが生じる。と同時に、自分に向いた面しか見えていないということにもなる。

奥行きが認知できなければ、体が触れて落としたり、倒したりすることにもなるが、本人にはそうした感覚が事前にもてないのである。(p76)

立体視のない人は「奥行きのない見かけだけを意識」していて、「空間そのもののボリューム感が異なる」とされています。

正常な立体視のある人は、部屋の中を見回すとき、奥行きのある正確な位置関係を認識することができます。見かけより散らかっていると感じるわけでも、見かけより片付いていると感じるわけでもなく、ありのままの空間的位置を読み取れます。

一方、両眼立体視の能力が欠けていたり、普通より弱かったりする人は、部屋の中を見回すとき、「奥行きのない見かけだけ」しかわからないので、物と物の正確な位置関係を認識することができず、どれくらい散らかっているかは推量で判断することになります。

正確な数字がわからない場合、多めに見積もってしまうこともあれば、少なめに見積もってしまうこともありますが、散らかり具合についても同じです。

「空間」としての物の配置を認識できず、写真のような二次元的な視覚に頼って判断していると、散らかり具合の感覚が、実際より多めにずれることもあれば、少なめにずれることもあるのでしょう。

そうすると、散らかり具合に対する感覚が鈍麻して、散らかっていることに気づかないようになる人もいれば、反対に感覚が過敏になって、散らかっていることに過度に敏感になってしまう人もいると考えられます。両極端になりやすいのです。

木を見て森を見ずなASD

部屋が散らかりすぎるか、あるいは片付きすぎるか、というこの両極端は、さっきの何かと似ているのではないでしょうか。

そうです。ADHDやASDの人たちの、整理整頓に対する両極端な反応です。

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ (DOJIN選書)によれば、1970年代の米国の調査で、両眼立体視ができない人は2~4%、問題を抱える人はその倍とされています。筆者の体感では1割近くが立体視の難しさを抱えているのでは? とも書かれています。(p105)

発達障害の子どもの視知覚認識問題への対処法によると、発達障害や学習障害の人では、両眼視機能の能力が弱さが見られることが多い、ということがわかっています。

視覚の問題は注意欠陥多動性障害(AD/HD)、ディスレクシア(読み書き困難)や非言語性学習障害といった学習障害(LD)にもよく見られます。

読み書きをする時に文字を裏返す、右と左の区別がつきにくい、位置関係の認識や視覚記憶の弱さといった典型的な問題は、視覚を効果的に使えていないために起こります。

特に両眼視がうまくできず、近くのものに視点が合わない子どもが多いのです。(p10)

発達障害で見られやすい両眼視機能の異常のなかには、はっきりと外見からわかる斜視だけでなく、ときどき症状が表れる間欠性斜視や、はた目には斜視だとわからず、本人すら気づいていない斜位(隠れ斜視)なども含まれます。

ADHDでもASDでも、両眼視機能の弱さからくる空間把握能力の低さが、発達性協調運動障害(DCD)と呼ばれる運動能力の不器用さとして現れることがあります。

両眼視機能は、通常の学校での視力検査(単眼視力の検査)ではまったくわからないので、発達障害の人たちは、自分が立体視力の問題を抱えていることに気づいていないことが少なくありません。

その結果、整理整頓ができないのは、根気や集中力が足りないとか、こだわりが強いせいだとか考えて、発達障害のせいにしがちです。しかし、実は、両眼視機能の弱さからくる空間認識能力の低さがおおもとにあるのかもしれません。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)によると、スーザン・バリーは、立体視能力がある人と、立体視能力がない人は、まったく違う方法で、身の回りの世界を認識していると説明しています。

立体的な奥行きをもった世界をわたしが想像できなかったのと同じで、正常な立体視力がある人は、つねに立体視がない人の世界観を体験することはできない。

こう話すと、あなたは驚くかもしれない。ただ片目を閉じるだけで、立体視がもたらす手がかりを消すことができるのだから。

ところが、実のところ、多くの人は片目で見た世界と両目で見た世界に大きなちがいを感じない。

正常な両眼視力のある人が片目を閉じても、生まれたときから培ってきた視覚体験が、欠けた立体視の情報を再現してしまうのだ。(p146)

立体視力がない人の物の見方、というのは、健康な立体視力がある人が、片目をつぶれば体験できる世界ではないのです。

立体視のない人は、健常な人から立体視力を差し引いた人ではなく、ずっと二次元的な視覚の世界に慣れ親しみ、正常な立体視のある人とはまったく別の仕方で適応している人たちです。

驚くべきことに、スーザン・バリーは、立体視のある世界に生まれ育ったか、立体視のない世界で生まれ育ったかは、思考パターンの違いにさえ現れると述べています。

何よりも驚きだったのは、視覚の変化が考えかたにまで影響をもたらしたことだ。

いままではずっと、段階を追うようにして物を見て考えていた。片方の目で見て、次にもう片方の目で見るというやり方だ。

人がたくさんいる部屋に入ったときは、ひとりずつ顔を見ていく方法で友人を探した。どうやれば、部屋全体とそこにいる人間をひと目で頭に取り込めるのか、さっぱりわからなかった。

大学で講義を行なうときはいつも、AがBをもたらしひいてはCをもたらしというふうに説明していた。

子どもたちの成長を観察するまでは、細部を見ることと全体を把握することはべつべつの過程だと思いこんでいた。

というのも、自分は細部を見きわめたあとでそれらを足しあわせて、ようやく全体像を作り上げることができたのだ。ことわざにあるとおり、木を見て森を見ずの状態だった。

…息子と娘は幼いころから、細部と全体像を同時に把握することができた。わたしがそのやりかたをようやく理解したのは、中年になって、ふたつの目で同時に見るやりかたを学んだときだ。

これができてはじめて、森全体とそこにある木々を同時に意識できるようになったのだ。(p182-183)

立体視がうまく機能せず、空間という概念を実感できないままに育ったスーザン・バリーは、「細部を見ることと全体を把握することはべつべつの過程だと思いこんで」いました。正常な眼球運動が難しく、遠くへ近くへ自在に焦点を変えることが難しかったからです。

一方、正常な両眼視機能を持っていた子どもたちは、「細部と全体像を同時に把握する」ことができました。

先に見たとおり、「空間」という概念がはっきりしていないと、物の見かけ上の位置しかわからないため、散らかり具合に対する感覚が麻痺したり、逆に過敏になったりします。

それは、周囲をバランスよく把握できず、細部に注意が向きすぎる(木を見て森を見ず)か、全体に気を取られすぎる(森を見て木を見ず)か、という偏りと言い換えることができます。

両眼視機能が十分でないために、全体が見えず細部に注目してしまう人たちは、ちょっとした物の重なりや汚れが気になって、実際より余計に散らかっているように見えていまい、きれい好きになりすぎるでしょう。

興味深いことに、以前の記事で紹介したように、近年の研究では、ASDの人たちは、赤ちゃんのころから、細部が見えすぎる視力を持っていることがわかっています。

顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)にはこう書かれていました。

そこで自閉症がある程度遺伝するという前提のもと、その妹・弟を対象にした赤ちゃんの研究が行われるようになった。

その中でわかったことは、この子たちの生後6ヶ月時点の視力が通常よりもよいことだった。

ちなみにこうした「グレーゾーン」と呼ばれる子がほんとうに自閉症になるのは3割強程度であることから、その他はこの特徴を持つものの自閉症にならない子たちであるということだ。

つまり、自閉症特有の見方は、逆説的にも見えるが、通常よりも視力がよいことにありそうだ。これが顔全体よりも細部に注目しがちな見方を生み出し、顔認知を疎外している可能性がある。(p149)

自閉症の人たちは、幼い時期は、他の子よりも視力が鋭い傾向があります。これはおそらく、自閉症の特徴である、早期に見られる脳の過成長と関係しているのでしょう。

自閉症は脳の過成長、ADHDは脳の成熟の遅れー脳画像研究による発達の違い
自閉症やADHDの脳の発達の特徴を調べた脳画像研究のニュースについてまとめました。

本来なら、視覚の発達は、全体をおぼろげに認知するようになってから徐々に細部が見えてくるという段階を経て進むものです。

しかしASDの赤ちゃんは、早期の脳の過成長のために、おぼろげに全体を見るという過程をすっとばして細部が見えるようになってしまうため、全体を見る力が養われないのかもしれません。

この本では、自閉症の子どもは乳幼児期から細部が見えすぎるせいで、人の顔のうち、特に白黒のコントラストの強い部分、つまり「目」がはっきりと見えすぎるため、過剰なコントラストから目をそらすようになり、視線が合わなくなるのではないか、とも推測されています。

そして、その結果、ASDの主症状である特定の狭い分野の物に対する強いこだわりや、場の全体に注意を向けられない空気の読めなさが生じるのではないか、ともされています。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

ASDの人たちは、絵を描くときにも、細部から全体へ向かう傾向が見られる場合があるそうです。

絵の描き方から分かる自閉症スペクトラムの4つの特徴
アスペルガーを含め自閉症スペクトラムの芸術家は大勢います。その独特な認知特性は、絵を描くときにも表れるそうです。「芸術と脳: 絵画と文学、時間と空間の脳科学 」という本に基づいて、

一般に、ASDの人たちは、ものごとを視覚的に把握して、細部から全体へと向かうボトムアップ思考に秀でているとされています。有名なテンプル・グランディンも、「私は絵で考える」と述べました。

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!
自閉スペクトラム症の子どもの視覚的思考力の強さやボトムアップ処理の脳活動を金沢大学が明らかにしました。

天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)では、アントニ・ガウディのような視覚優位のアスペルガー症候群の人たちが紹介されていますが、視覚優位であるからといって、必ずしも両眼視機能が優れているというわけではないことがわかります。(p82)

ガウディのような認知の偏りがある、あるいは発達障害を持つ人たちのたいへんさの一つに、健康の問題があります。

…眼球周辺の筋肉の弱さにより、机上の本の文字に焦点を合わせ続けることや、動くものを追い続けることが難しいといった眼球運動周辺の問題を抱えていることもあります。(p82)

こうした両眼視機能の問題は、スーザン・バリーのような、立体視ができない、という程度まで強いものでなくとも、スムーズに全体を把握することを難しくし、細部へと意識を向かわせるのかもしれません。

ASDの人たちのマニアックな収集癖は、周りの人からはごちゃごちゃして物があふれているように見えても、本人視点では整理整頓されて片付いている、ということをすでに考えました。

ASDの人は、全体像が見えず、一度にわずかな範囲にしか注意を向けられません。すると、彼らの見えている範囲、つまり部分部分だけ見れば片付いてはいるのに、彼らが見落としている部屋全体としては物があふれているという状況になりやすいのかもしれません。

ASDに限らず、先ほど出てきた事故のせいで立体視力を失った女性も、細部に関してはきれい好きなものの、全体のバランスは見えていなかったため、強迫的に片付けすぎていた可能性があります。

スーザン・バリーの場合も、おそらく細部に注目しすぎる視覚特性のせいで、実際よりも物が散らかりすぎているように見えていたのでしょう。

彼女は夫のダンが、なぜこんなに散らかった部屋で過ごせるのかイライラしていましたが、正常な立体視能力を持っていて、細部も全体も意識できるダンからすれば、ほどほどに物が点在しているだけだったのかもしれません。

森を見て木を見ずなADHD

他方、立体視力が十分でない人たちの中には、全体像はわりと意識できるのに、細部がおろそかになる、おおざっぱな認知に偏りすぎる人たちもいると考えられます。

そうした人たちの場合、部屋が雑然としていても、散らかっているという感覚が乏しくなるかもしれません。そもそも片付ける必要があることに気づかない人たちです。

細部が意識できないせいで、ごちゃごちゃしていて汚い部屋でも気にならず、まだ余裕があるように思えてしまうおおざっぱなタイプは、どちらかといえば、ADHD傾向を持つ人たちに多いのではないかと考えられます。

有名な認知神経科学者マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、自分はADHDだったかもしれないと述べています。

彼の部屋が散らかっていたかどうかはわかりませんが、「ひとつの課題に集中するのが私の性分に合わない」のに対し、「私は大局観のある人間」で、「詳細に圧倒されると抽象に立ち返る」傾向があるのだそうです。(p267,376)

ADHDの人たちは、視覚が鋭いどころか、「見落とし」の常連です。目が「節穴」だと言われてばかりです。細かい違いには無頓着で、うっかりミスだらけの不注意傾向を示します。

子どものPTSD 診断と治療によると、ADHDの原因のひとつと考えられるドーパミン関連の遺伝子の変異は、短期記憶(ワーキングメモリ)の容量と関係しているようです。

このドパミンによって、ヒトは注意が喚起されワーキングメモリーに貢献するといわれている。

ワーキングメモリーは、ある思考を保持し、行動に結びつけるまでその思考を慎重に分析する役割をもつ。

ある考えに基づいて推理し計画を立て実行することにはドパミンD2受容体の活動が必要とされる。

ADHDでは、このD2受容体遺伝子の変異やドパミントランスポーター遺伝子の変異により、ワーキングメモリーが十分に機能せず症状が起こるとされている。(p115)

興味深いことに、教養としての認知科学によると、短期記憶(ワーキングメモリ)には、聴覚性のワーキングメモリとは別に、視覚性のワーキングメモリが存在しています。

では、なぜ節穴になるのだろうか。これについては、視覚性のワーキングメモリが限定されているからという説明がある。一度にワーキングメモリ内に貯蔵できる視覚情報はどうやら四つくらいしかないと言われている。

つまり、いっぱい見てもどうせ保持できないから、限定されたところしか見ていないというわけである。(p110)

視覚系の情報と聴覚系の情報は独立して保持されるために、聴き取りで数字を覚える際に、視覚情報を使った処理課題を行っても、あまり干渉を受けないこともわかっている。(p79)

一般に、人のワーキングメモリの容量は、7つプラスマイナス2つほどで、「マジカルナンバー7±2」というインパクトある有名な論文のタイトルでよく知られています。

対して、視覚性ワーキングメモリの容量は、それよりも少なく、一度に4つほどしか覚えられません。

すると、ワーキングメモリが通常より限られているADHDの人の場合、細部か全体か、になると、見たものををおおざっぱに認識する「節穴」のほうに偏りがちなのかもしれません。

細部が意識できないので、こまごまとした片付けは苦手ですが、全体の空気感は読み取れるので、ものが増えすぎると余計に落ち着かなくなり、その反動で物を持たないシンプルライフを始める人もいるのでしょう。

たまに自分の興味のあることだけ脇目も振らずに過集中しますが、そのときもまた、一つのことしか見えなくなってしまうのはのは致し方なし、といったところでしょう。

ちなみに、先ほどのマイケル・ガザニガも、自分は大局観があるが詳細に圧倒される傾向があると述べている文脈で、「ワーキング・メモリに入る項目を増やす余地を作ること」に四苦八苦していました。(p376)

ここまでのところで、木を見て森を見ずの傾向に偏った結果、細部にこだわって「捨てられない」ようになる人と、森を見て木を見ずの傾向に偏った結果、全体をおおざっぱにしか見ずに「片付けられない」ようになる人がいるのではないか、と考えてきました。

けれども、この2つが同時に存在しないというわけではなく、「捨てられない」し「片付けられない」人も当然いるのでしょう。

問題となっているのは、木と森を同時に見られないことです。ある時は木だけに注目し、別の時は森だけに注目し、結局どちらか片方しか見ていないというバランスの悪い人もいるのではないかと思います。

スーザン・バリーの正常な子どもたちは「森全体とそこにある木々を同時に意識」できたわけですが、部屋が散らかる人は、一度にどちらか一方しか注意を向けられないことが問題なのです。

愛着障害と病的な溜め込み症

ところで、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、視覚性ワーキングメモリの容量低下は、虐待の後遺症として生じる視覚野の萎縮で引き起こされることもあるようです。

フリーサーファーで得られた結果は、性的虐待を受けた群が健常群に比べて左半球の視覚野の容積が8%も減少していた。…また右半球の視覚野の容積も5%減少していた。(p73)

オランダのアムステルダム大学のSuperは、外部からの視覚刺激を一番に取り入れる場所である一次視覚野は、視覚的な知覚(見ることで入ってくる外界からの情報)やワーキング・メモリなどの認知のプロセスに重要な役割を果たしていることを報告し、筆者らが行った視覚タスクによる記憶力の課題で、虐待歴のある者だけでなく、虐待歴のない対照群でも視覚タスクによる記憶力のスコアと一次視覚野の容積に強い関連が認められた。

このことから考えると、一次視覚野の容積は単に虐待による病的な結果と関連しているだけはなく、外界からの視覚的な知覚の許容量と何らかの関連があることが示唆された。(p77)

この記述によると、虐待歴があると、一次視覚野が萎縮する場合がありますが、それは視覚性ワーキングメモリの減少とも関連していることがわかります。

同様の結果は、国内における愛着障害の研究でも報告されていて、視覚野の萎縮は、視覚的な注意力や顔を見分ける能力に影響してくるようです。

愛着障害の子どもの脳の2つの特徴―左脳の視覚野が減少,ADHDより線条体が働かない

虐待の後遺症としての愛着障害は、ADHDと症状がよく似ていて、脳科学的にも見分けるのが難しいとされています。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか
アップルの故スティーブ・ジョブズはADHDとも愛着障害とも言われています。両者はよく似ていて見分けがつきにくいとされますが、この記事では(1)社会福祉学の観点(2)臨床の観点(3)

おそらくADHDでは、生まれつきのドーパミン関連の遺伝子変異のせいでワーキングメモリの容量が少ないのに対し、愛着障害では過酷な環境に対する適応のせいで、後天的に視覚性ワーキングメモリが縮小するのでしょう。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳では、虐待を受けた子どもの場合、なぜ視覚野が萎縮するのか、こう説明されていました。

これらの事実から、性的虐待を受けた被虐待児の脳、とくに視覚野の部分は細かい詳細な像を無意識下に“視ない”ようにするように適応していったのではないかと私は推測している。

残酷な性的虐待を繰り返し受けてきた子どもたちが、トラウマ的な出来事の詳細を“視る”ことに“ふた”をした表れではないだろうか?(p76)

愛着障害では過酷な虐待のせいで、物事の細部を見ないように適応してしまい、視覚性ワーキングメモリが弱くなってしまうのです。

そうすると、虐待などのせいで愛着障害を抱え、細部を見ることにフタをした人たちは、部屋が散らかっていても、散らかっていることに気づけず、「片付けられない」タイプへと発展していくかもしれません。

冒頭で、「片付けられない」や「捨てられない」は、ある程度はだれにでも見られる特徴ではあるものの、極端な汚部屋やゴミ屋敷の場合は、「溜め込み障害」のような治療を要する障害になりうる、ということに触れました。

臨床家のためのDSM-5 虎の巻で杉山登志郎先生は、そのようなケースには、単なる発達障害ではなく、幼少期の虐待など、愛着障害との合併例が多いことを指摘しています。

現在のところ、典型的な病理をAD/HD×虐待的育ち×強迫性と説明されているが、われわれの経験では圧倒的にAD/HD(片付けられない)よりASD(捨てられない)のほうが目立つのであるが。

自閉症スペクトラムの親が、虐待の既往と強迫性を抱えているときにしばしば溜め込み症の並存があるのである。(p56)

虐待による愛着障害は、ADHDに合併する場合もあれば、ASDに合併する場合もあります。

どちらの場合にしても、単なる生まれつきのADHDや、生まれつきのASDよりも、より重く混乱した症状が見られるため、「第四の発達障害」や「発達性トラウマ障害」として知られています。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

ADHDにしろ、ASDにしろ、極端な「片付けられない」や「捨てられない」、さらにはその両者が混合して、生活が立ち行かなくなるような場合は、生来の脳機能だけでなく、愛着障害も含めた脳機能の問題として捉える必要があるかもしれません。

混乱した視覚情報に適応する

注目したいのは、愛着障害の子どもが正常な視覚能力を発達させられないのは、過酷な環境に適応するために、細部を見ないように適応した、言い換えれば、衝撃的な視覚情報が入ってこないように抑制した結果として、視覚野が十分に発達しなかった、という点です。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)を見ると、脳が自分を守るために視覚情報を意図的に抑制する、というのは、愛着障害に限らず、斜視でも似たような現象が起こっているようです。

どうして、斜視の乳児はたいてい、外に目を開くのではなく内に寄せているのか。

当時、ファザネッラ医師はこの問いに答えを与えられなかったが、最近の研究で、ごく幼い乳児は、たとえ正常な視覚を持っている場合でも、目を外に開くより内に寄せるほうがはるかに得意なことが判明した。

つまり、情報を抑制するために片目の位置をずらす必要がある場合、固視していない目を外側ではなく内側に向けるほうが簡単に行なえるというわけだ。

片目を内に向けることで、わたしは像のひとつを無視し、ひとつだけの世界を見ることができた。

この方法は問題のひとつを解決したが、代わりにべつの問題をもたらした。立体視に頼らずに奥行き感覚を発達させざるを得なくなったのだ。(p52)

斜視の子どもは、もともと生まれつき目の位置がずれているわけではありません。斜視が現れやすい時期は二回あり、 生後2~3ヶ月と2~3歳ごろ だとされています。(p45)

スーザン・バリーの説明によると、最初から目の位置がずれていることが斜視の根本原因なのではなく、目の位置がずれるのは、赤ん坊なりの適応戦略だということになります。

つまり、何かしらの原因で、両目を協調して動かすのが難しい赤ちゃんは、右目と左目の像が一致しない「視覚混乱」と呼ばれる状態に陥ります。二つの目が違う像を捉えるので、どちらが正しい情報かわからなくなってしまいます。(p47)

すると、その状況に適応するため、片目からの情報はわざとシャットアウトして、どちらか片方だけの情報を頼りにするようになります。その結果、抑制されたほうの目の位置がずれるので、「斜視」として認識されるということです。

ということは、愛着障害における適応も、斜視における適応も、種類は違えど、混乱するような視覚情報から脳を守るために、目から入ってくる情報を抑制した結果、という意味では共通しています。

もっと言えば、先ほど見た自閉症の赤ちゃんの場合もそうです。普通よりも早期に視覚が鋭く発達してしまうために、赤ちゃんの目にとってコントラストの刺激が強すぎる他人の目から視線をそらすようになり、表情の認識が難しくなります。

典型的な斜視の症状が現れるほど、両目の協調運動に問題があるわけではない人の場合も、似たような理由で、視覚情報の抑制が生じているのかもしれません。

たとえば、間欠性斜視では、疲れたときや集中力が切れたときなどに目の位置がずれます。また斜位では、目の位置はそろっていますが、常に努力して方向を揃えている状態なので、正常な両眼視機能を持つ人よりも疲労がたまります。

そうすると、通常よりもノイズが多い視覚情報にさらされるため、脳が刺激を抑制しようと適応した結果、一般とは異なった視覚認知、ひいては細部か全体かに偏った、発達障害特有の思考パターンへと発達するのかもしれません。

脳の発達は視覚によって導かれる

この記事では、部屋が散らかってしまう「片付けられない」「捨てられない」問題から始まり、その原因の一端が両眼視機能の問題にあるのではないか、ということを考えてきました。

通常より視覚が鋭かったり、眼球運動の協調が難しかったり、さらには虐待によって衝撃的な場面にさらされたり、といった例外的な状況に対して、脳が自己防衛のために適応していった結果、定型発達者とは違う物の見方が育っていきます。

そして、その延長線上に、それぞれの発達障害の特徴である、こだわりが強い、空気が読めない、見落としが多い、おおざっぱといった思考のくせが作られ、最終的に「片付けられない」や「捨てられない」といった行動問題へとつながっている可能性があります。

もちろん、ASDやADHDの症状がすべて視覚の問題から来ているわけではありません。すべての発達障害者に両眼視機能の異常が見られるわけではありません。明らかに、別の原因も絡んでいます。

たとえば、以前の記事で紹介したように、耳を通して入ってくる聴覚的な情報もまた、脳の発達や思考パターンの形成に大きな役割を果たしているようです。

「トマティス効果」―なぜ高周波音が聞こえてしまう人は感情がこまやかなのか
大半の人には聞こえないモスキート音やコイル鳴きのような高周波音が聞こえてしまう人は、もしかすると、こまやかな感情を読み取る力にも秀でているかもしれない、ということを「トマティス効果

しかし、よく言われるように、人が受け取る情報の大部分は視覚に依存しています。わたしたちが何かを認識し、注意を向け、考えるきっかけをもたらすのは、たいていの場合、目から飛び込んでくる視覚情報です。

脳の可塑性に詳しい精神科医ノーマン・ドイジは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、スーザン・バリーの視覚はよみがえるを紹介したあと、次のような研究を紹介しています。

私たちが目を使ってすることは脳を形作り、その発達を導く。目には、脳の神経可塑性をオンにしたりオフにしたりする力がある。

事実最近の注目すべき研究で、視覚系における神経可塑的な変化は、脳ではなく目から始まることが示唆されている。

ハーバード大学医学部のタカオ・ヘンシュと、フランス高等師範学校に在籍するアラン・プロシアンツ博士の報告によれば、生まれたばかりのマウスの網膜は、Otx2と呼ばれるタンパク質を脳に送ることで学習を促進し、可塑的変化を可能にする段階に入るよう指示する。

ちなみに彼らは、ラベリングの技術を用いて、網膜から送り出されるタンパク質を追跡することができた。

ヘンシュが述べるように、基本的に「目は脳に可塑的になるタイミングを指示している」のである。(p345)

発達障害と呼ばれる人たちの脳機能が、定型発達者と異なる独自の方向へ形作られていくのは、「目を使ってすることは脳を形作り、その発達を導く」との言葉からすれば、脳そのものがそう発達していったというより、視覚に導かれてそう発達したのではないでしょうか。

外部からの情報の大半を受け取る視覚という窓から、普通とは異なる光が差し込んできたために、脳の神経系が普通と少し違った別のかたちへと成長していく、と考えるのは理にかなっているように思えます。

ADHDだから「片付けられない」、ASDだから「捨てられない」、と思っている人の中には、自分が気づいていない視機能問題に対する適応のせいで、そうした認知パターンに陥っている人が少なからずいることでしょう。

その場合、ちょうどスーザン・バリーが、視能療法を通して立体視を獲得した際に、「何よりも驚きだったのは、視覚の変化が考えかたにまで影響をもたらしたことだ」と述べたように、視覚に注目したアプローチによって、生まれつきの性格だと思っていたものが変化する可能性もあるのではないでしょうか。

発達障害の診断を受けている人は、一度、両眼視機能の検査を受けてみて、自分が正常な両眼視能力を持っているのかどうか、また自分の物の見え方は、他の人とどう違っているのか、という点を調べてみるなら、自身の特性に向き合う意外な道が開けるかもしれません。

一般的な検査でわかりにくい両眼視機能について知るには、今回紹介したスーザン・バリーの経験談視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)や、以下の記事で紹介している書籍をご覧ください。

視力検査でわからない3つの視機能異常とは?―発達障害やディスレクシアに多い「見る力」の弱さ
ADHDやディスレクシアとみなされている症状は、じつは「見る力」つまり視知覚認知機能が原因で生じていることがあります。この記事では、隠れ斜視、輻輳不全、サッケードの弱さの3つを扱い

子どもの慢性疲労と睡眠についての解説動画―大阪市大が協力するヨドネルプロジェクト

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You Tubeチャンネルyodogawakuyakusyo にて、ヨドネル大規模調査に基づく、子どもの睡眠と疲労の解説動画がアップされています。

ヨドネルプロジェクトとは

平成28年度に、大阪市淀川区と、疲労研究で有名な大阪市立大学の連携により、小学校4年生から中学校2年生までの生徒約6000人を対象にした、睡眠習慣、生活習慣、学習意欲や疲労に関するヨドネル大規模調査が行われました。

大阪市:報道発表資料 脳科学で読み解く子どもの睡眠~ヨドネル6000人調査の結果報告会を開催します~

睡眠時間短いほど疲労 学年上がるにつれ蓄積 - 大阪日日新聞

この調査を分析した理化学研究所の水野敬先生は、小児慢性疲労症候群の研究もされています。小児慢性疲労症候群を特集した教育と医学 2016年 6月号 [雑誌]による、子どもの睡眠の実態調査の解説が収録されていました。

小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもは脳の情報処理で過活動が生じていることが判明
小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもの脳機能に関する理化学研究所の研究

淀川区は、こうした研究を通して、子どもの睡眠習慣改善に向けたヨドネルプロジェクトを推進しています。

以下の動画は、3/29~4/11に大阪市立大学の健康科学イノベーションセンターの協力のもと、淀川区役所で行なわれているギャラリー「すいみん科学館」のパネル展示と連動する内容だそうです。

淀川区の劇団そとばこまちに所属する田中尚樹さんが演じる「すいみんドクターK」が、ヨドネル6000人調査でわかった研究結果について解説する、という内容になっています。

大阪市淀川区:ヨドネル!淀川区×大阪市立大学「すいみん科学館」を開催します(3/29~4/11) (お知らせ・イベント>参加者募集)

内容の簡単なメモ

■小学生の30%、中学生の46%が疲れている。しかもその疲労は1ヶ月以上続いている。

■平日の睡眠時間が短いほど疲れが強い。学年が上がるにつれ、睡眠時間が減り、疲労度も上がっている。また学習意欲も低下している。

■小中学校の慢性疲労は、睡眠不足をきっかけに、学習意欲の低下、さらには脳機能の低下へつながる負のスパイラルが生じている。

■注意制御力はおもに小学生から中学生時期に発達する。注意制御力が高いほど授業の理解力も高い。

■疲労が強かったり、学習意欲が低かったりすると、注意制御力が低下する。

■実態調査によると、睡眠不足の原因は、スマホ、コンビニ、SNS。携帯やスマホでのSNSを利用する子、平日の夜にコンビニに行く子は、そうでない子より睡眠時間が1時間少ない。1日5時間以上パソコンを利用する子も6%以上いる。

■睡眠時間と意外な相関関係があったのは夕食のとり方。夕食をいつもみんなで食べる子は、一人で食べる子より50分睡眠時間が長い。

■勉強を頑張った結果、家の人からよく褒められる子も、まったく褒めてもらえない子より30分睡眠時間が長い。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える

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ある若い男性が自らの暗い経験を次のように記述している。

「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる……自分が存在しているのかどうかさえわからない……みんなは花の一部なのに、僕は未だに根っこの一部だ」(p133)

日、ある講演の中で、性的虐待のサバイバーである女性のエピソードについて話されるのを聞きました。

講師は、その女性が自殺衝動と闘いながらひたむきに生き抜いていることに触れ、わたしたちはみな、こうした憂鬱な気分や苦悩に見舞われるとしても、それを乗り越えていくことができる、と聴衆を励ましていました。

確かに勇気づけられるエピソードかもしれません。しかし、性的虐待をはじめ、子ども虐待のサバイバーが感じる苦悩は、多くの人がふだんの生活の中で感じる憂うつさや不安とは、あまりに異質で種類の違うものです。

冒頭に引用したのは、神経生理学者ピーター・A・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で述べている言葉です。続く記述にはこうあります。

トラウマを受けた人の多くがいくら頑張っても、善意のセラピストからの援助や思いやりを受け取ることがほぼ不可能なのは驚くにはあたらない

―それを欲していないからではなく、不動状態という原始的な根幹に閉じ込められ、表情やからだの動きや情動を読み取る能力が著しく低下しているからである。

彼らは人類から切り離された存在となってしまうのだ。

子供のころに常識では考えられないような経験をしてきた人は、あまりに普通でない世界に順応して育ち、異質な思考パターンを身に着け、それどころか脳さえもが常人とは違うかたちに発達し、極めつけは、自分が何者なのかさえわからなくなります。

その結果、「彼らは人類から切り離された存在となって」しまいます。サバイバーたちの苦痛は、理解「されない」ことではなく、だれも理解「できない」ほど異質なものであることから生じています。

この記事では、子ども虐待のサバイバーたちの苦痛が、家族にも医者にも理解されず、しばしば否定され、攻撃さえされてきた理由として、サバイバーたちが異なる言語を話し、異なる文化を持ち、異なる世界で育ってきた異邦人である、ということを見ていきたいと思います。

これはどんな本?

今回の記事では、子ども虐待のサバイバーたちが経験する異質な世界を、サバイバーたちの目線で知るために、さまざまな資料から引用しています。

中心となっている身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法は、このブログで何度も引用してきたトラウマ研究の権威ヴァン・デア・コークの本で、当事者たちの気持ちが生き生きとした言葉遣いで表現されています。

また冒頭でも引用した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアは、神経生理学者また心理学者のピーター・A・ラヴィーンが、身体の仕組み、心の仕組みの両面から、トラウマの本質を明らかにしていく本です。

本のタイトルが似ていることからもわかるように、この二冊の著者は、同じ分野で共に切磋琢磨してきた友人同士であり、それぞれの本の中で相手の名前を出して、感謝を述べています。

しかし本の内容は、重複したり似通ったりしているわけではなく、それぞれ独自の視点から、個性を発揮してトラウマの問題を掘り下げているので、二冊とも読むなら、多角的な理解が深まります。

(1)異邦人―味方はいない、どこにもいない

「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」。

冒頭で引用したように、トラウマを負ったある若い男性は、そのような気持ちを抱いていました。

わたしたちはだれしも、孤独を感じることがあります。大きな悩みや問題を抱えて、到底だれもわかってくれない、と孤立無援に感じる瞬間は、多かれ少なかれ、だれでも味わうものでしょう。

一人ぼっちに思えたり、孤独に打ちひしがれたりするのは、どんな場合も辛いものです。それでも、たいていの人は、家族や友だちから気遣いを示してもらうことで、自分が一人ではない、ということを実感できます。

たった一人で闘っているように思えても、だれかが温かい共感と気遣いの手を差し伸べて、深い穴から引き上げてくれるなら、手を取り合って困難に立ち向かっていける。それが本来の人間の姿です。

しかし、子ども虐待のサバイバーが感じる孤独感は、それとは一線を画するたぐいのものです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークはある患者との会話を回想しています。

助けを求めて、その教官を訴えたかどうかを私が尋ねると、「道を渡ってクリニックに行くことが、どうしてもできませんでした」と彼女は答えた。

「なんとしても助けが欲しかったのですが、道のこちら側に立ち尽くしたまま、もっと傷つくだけだと心の奥底で感じました。

実際、きっとそうなったでしょう。もちろん、この出来事は隠さなければなりませんでした。親にも、他の誰にも」(p222)

この女性は、子ども時代の性的虐待のサバイバーであり、その後、大学でも性被害を受けました。

しかし、どちらの被害についても、助けを求めて親や友人に頼ることも、医師に相談することもできませんでした。

そうする気力がないほど痛めつけられていたからでしょうか。打ち明けるのが恥ずかしく感じられたからでしょうか。

いいえ、そうした気持ちもあったかもしれませんが、なんとしても助けがほしかったのに、だれにも相談できなかったのは、そうしたところで、「もっと傷つくだけだと心の奥底で感じ」たからでした。

子ども虐待のサバイバーにとって虐待されたときの痛み、当惑、恐怖、悲しみ、怒り、それらはいずれもひどくショッキングなものですが、それよりもはるかに大きな爪痕を残すのは、だれも味方になってくれず、どこにも逃げ場所がない、という孤立感です。

安全な世界に適応した大多数の人たち

通常、わたしたちは、だれも味方がいない、どこにも逃げ場がない、というほどの絶望感にとらわれることはありません。

人間はもともと社会的な生き物だと言われます。 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、他の人を支えたり親切にしたりすることは、わたしたちに広く見られる特徴です。

私は数年前、ハーヴァード大学の名誉教授で著名な児童心理学者であるジェローム・ケーガンがダライ・ラマに、この世の残虐行為の一つにつき、親切とつながりの何百という小さな行為があると語るのを聞いた。

ケーガンはこう締めくくった。「おそらく、意地の悪さではなく善意こそが、私たちの種の特徴なのでしょう」。

他者といっしょにいて安全だと感じられることが、おそらく、メンタルヘルスの最も重要な一面だろう。(p131)

わたしたちの大部分は、本質的なところにおいて、「他者といっしょにいて安全」だと感じています。心の底では、「親切とつながりの何百という小さな行為」が、この世界では当たり前だと理解しているからです。

もし、本当に他の人が信頼できず危険な存在だと思っていたなら、わたしたちは皆、家を出るときには戦闘服を身に着けて、武器を携帯し、なによりもまず人と出会わないよう細心の注意を払うでしょう。電車でだれかの隣に座るなんてもってのほかです。人に近づけば殺されるかもしれません。

しかし、この社会の大多数を占める人たちは、決してそうではなく、進んで他の人と関わります。さまざまな問題を抱えることはありますが、全体としてみれば そこそこ恵まれた環境で育ち、安全な世界に適応した人たちです。

日々の生活の中でそんなことを自覚しない人がほとんどですが、当たり前だからこそ気にも留めないのだ、と言えます。

基本的信頼感のない世界で育つ

ところが、子ども虐待のサバイバーたちは、それとはまったく違う異質な世界で育ちます。

「この世の残虐行為の一つにつき、親切とつながりの何百という小さな行為がある」のだとすれば、世の中の大半の人が、親切やつながりを感じられる まずまず良い環境で育つのに対し、 ごく一部の人は、幼いころに残虐行為の一つに遭遇するはずです。

不幸にも、そのような残虐行為に出くわしてしまった人、その最たるものこそが、子ども虐待のサバイバーだといえます。

子ども虐待のサバイバーたちは、生後間もないころから、親のまともな世話を受けられないことが少なくありません。生まれてすぐに、親から愛情に満ちたふれあいを得られないなら、人間一般に対する安心感が育まれません。

大多数の人が、武器も持たずに外出して、見知らぬ人の隣に座ることもできるのは、本質的なところにおいて、「他者といっしょにいて安全」だと感じているからだと先に書きました。この安心感は「基本的信頼感」と呼ばれ、ごく幼い時期の養育によって育まれます。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

基本的信頼感が育っていないということは、この世の中のありとあらゆる人に対して危険を感じ、一時たりとも自分をさらけ出したり、安心して心を通わせあったりできない、ということを意味しています。

「基本的信頼感」を持っている大多数の人が「ひとりぼっちに感じる」気持ちと、「基本的信頼感」がないサバイバーが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」気持ちはまったく異質な物です。

それはちょうど、インフラが整った大都市で生まれ育った人が、突然の災害によってひどい不自由を味わうことと、インフラも何もない発展途上国で生まれ育った人が、長引く乾季によって、飢えや渇きに苦しむことの違いのようなものかもしれません。

どちらの人も、紛れもなく苦しさを感じていますが、前提がまったく違っているので、同列に置いて比較することはできません。大都市で災害に見舞われた人の経験は、発展途上国で飢えや渇きを乗り越えてきた人の経験と同じものではありません。

世の中の大多数の人が感じる気持ちと、子ども虐待のサバイバーが感じる気持ちもまた、それと同様に異質なものです。

冒頭で触れた、わたしが聞いたある講演の話し手は、その違いを見過ごしていました。

その講演者を含む世の中の大多数の人に比べれば、子ども虐待のサバイバーは、まったく生まれ育った世界が違う異邦人のようなものなのに、それに気づいていませんでした。

逃避不能ショック、そして学習性無力感

子ども虐待のサバイバーたちは、単に一度や二度、孤立感を感じるだけでなく、虐待されたときから、その後の家族関係、さらには学校生活、ひいては人生のありとあらゆる段階で、孤立感を味わうことになります。

子ども虐待を経験した人たちは、まず、虐待のさなかに、自分は本質的にひとりぼっちで、この世界には、味方が誰もいないのだ、ということをまざまざと脳裏に刻みつけられます。

ポジティブ心理学の生みの親であるマーティン・セリグマンと共同研究者のスティーヴン・マイヤーは、「学習性無力感」という現象を発見したことでも知られています。

以下の記事で説明したように、学習性無力感とは、どれだけ努力しても成果が得られないとき、最初から努力するのをあきらめてしまう、という現象です。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」
難病など極めて困難な試練から奇跡の生還を遂げる人たちは、共通の特徴「内的統制」を持っていることが明らかになってきました。「がんが自然に治る生き方」「奇跡の生還を科学する」などの本か

マイヤーとセリグマンは、動物の学習性無力感について研究したとき、それがどうやっても逃げられない極限状態のもとで脳に刻みつけられることに気づきました。 

残酷な実験ですが、逃げられないよう檻の中に閉じ込められ、電気ショックを繰り返し与えられた犬たちは、扉を全開に開けても、もはや逃げようとしなかったのです。

マイヤーとセリグマンは、このような極限状況を「逃避不能ショック」と呼びました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、この危機的状況は、ただ実験室の中だけで起こる特別なものではありません。

「逃避不能ショック」は現実の世界で、家庭という密室の中で、人間の子どもたちに対してなされる虐待と同じものです。

彼とセリグマンたちが哀れな犬たちにやったのとまさに同じことが、トラウマを負った人間の患者たちの身に起こっていた。

私の患者たちも、恐ろしい害―避けようのない害―を彼らになす人(あるいはもの)にさらされたのだ。(p58)

わたしたちは、危険にさらされたとき、おおまかに言って二種類の選択肢のどちらかを選びます。ひとつは戦ったり逃げたりする活動的な反応、もうひとつは、すべてをあきらめ、凍りついたり気絶したりする無活動な反応です。

戦争や災害、事故などの場面では、どちらかというと前者の活動的な反応が生じやすいでしょう。動き回ることで、生き残れる可能性があるからです。

しかし、強制収容所体験や拷問、性的暴行など、逃げ場がない状況、つまり「逃避不能ショック」では、後者を選ぶしかなくなります。そして、そのような状況の最たるものが、家庭という密室で行われる子ども虐待です。 

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれているとおりです。

レイプの場合、戦うことと屈服することのどちらが最善かは明らかでない。

しかし、扶養下にある子どもが性的虐待を受けた場合、屈服する以外の選択はほぼ存在しない。(p110)

子ども虐待の被害者は、子どもであるがゆえに、そして加害者が大人であるがゆえに、さらには、加害者が自分の命のすべてを左右する扶養者であるがゆえに、どうあがいても逃げられないことに気づきます。

助けを求めようとするかもしれませんが、だれも何が起きているか気づきません。その「逃避不能ショック」によって、サバイバーは、実験室の犬たちと同じように、「学習性無力感」に至ります。

サバイバーたちは、何を学習するのでしょうか。助けを求めても無駄なこと。そして、この世界には、自分を助けてくれる味方など、どこにも存在しないことをです。

追い打ちをかける否定と裏切り

子ども虐待のサバイバーに加えられる仕打ちは、まだ終わっていません。むしろ、ここまではほんの入口にすぎません。

たとえ子ども時代に、性被害のトラウマや、衝撃的な体験をしたとしても、それだけで生涯続くほどの苦悩がもたらされるわけではありません。

ショッキングな経験をした子どもでも、その後、愛情に満ちたケアを受けられれば、生来の回復力を発揮し、傷を癒やしていくことが可能です。

マイヤーとセリグマンは、ひとたび逃避不能ショックを経験した犬たちも、そこから逃げられるということを体で実感できるようにしてやると、学習性無力感から抜け出せることを発見しました。

子どもたちもまた、虐待を受けている最中は逃避不能で助けが現れなかったとしても、それが特殊な状況にすぎなかったことを理解できれば、人への信頼を取り戻していけるでしょう。

しかし、子ども虐待で最も悲劇的なのは、虐待されている密室の中で味わう孤独よりも、そこから出た広い世界で味わうことになる否認と裏切りです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、子ども虐待のサバイバーが味わう否認と裏切りについて、こう書かれています。

ローランド・サミットは、彼の古典的論文「児童性的虐待順応症候群」にこう書いている。

「イニシエーション、脅迫、汚名、孤立、無力感、自己非難は、児童の性的虐待の恐ろしい現実に基づいている。

子供がその秘密を漏らそうとすれば必ず、大人たちの沈黙と不信の共謀に出くわす。

『そんなことは、心配しなくていいよ。うちでは絶対起こるはずがないから』

『いったいどうやったらそんな恐ろしいことを考えつくんだろうね』

『二度とそんなことは口にするんじゃありません!』

普通の子供は、けっして尋ねたり語ったりしない」(p218)

虐待者の密室から出た子ども虐待のサバイバーたちを待ち受けているのは、大人たちの裏切りと共謀です。

以前の記事で書いたように、性的虐待の被害を受けた子どもが事実を打ち明けるとき、嘘をついたり、ふざけていたりすることはほとんどありえないと言われています。

冷静に考えれば、性的な知識をほとんど持たないはずの子どもが、大人をからかったり欺いたりすることなどありえないことがわかるでしょう。

「魂の殺害」である性虐待・性暴力の7つの後遺症―子どもが性被害を受けた時の対処法とは?
性被害の後遺症としての愛着障害やPTSD、解離性障害について、そして子どもが性的被害に遭ったときに保護者ができる対処についてまとめました。

しかし、大人たちからしてみれば、子どもが勇気を出して打ち明けた、胸の悪くなるような話は、大人をかつごうとして考えだした悪趣味な冗談のようにしか感じられません。それできつく注意したり、聞く耳を持たなかったりします。

その実態については、こちらの記事にも詳しく書かれています。

誰も語らない、子どもの「性的虐待」の現実 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

植田:被害は認識できて初めて被害になると思います。でも、子どもだと、何が起きているのかわからないことが多いのです。

勇気を振り絞って親や友達に話しても、嘘だと思われ信じてもらえなかったり、「汚い」と言われたり 、ますます傷が深まって本当のことが言えなくなる。

被害者は口をそろえて「普通の子でいたい」「重いからと引かれたくない」と言うのです。被害を受けた側が周囲に気を使っている。

大人たちの大多数は、「親切とつながりの何百という小さな行為」が当たり前の世界で育ってきました。

自分の身近なところで、自分の家庭で、「残虐行為の一つ」が生じるなど、信じられないし、想像することも汚らわしく感じられます。ましてや子どもが加害者として告発したのが、親族や尊敬されている人ならなおさらです。

勇気を出して打ち明けたにもかかわらず、拒絶され、傷つけられた子どもたちは、大人に助けを求めてはいけないのだ、ということを悟ります。

そもそも、これは助けを求めるような問題ではなく、自分が受けて当然の仕打ちだったのだ、と思うようになることもあります。自分が何か悪いことをしたから、あるいは生まれつき価値がなかったから罰せられているだけなのだと。

子ども虐待のサバイバーたちは、否認と裏切りに直面したとき、狭い密室の中で経験した逃避不能ショックと学習性無力感は、決して例外的なものではなかったのだ、と考えます。

つまり、この広い世界のどこにおいても、自分は逃避不能であり、この世にいる幾千幾万の人の中にさえ、助けを求めたときに答えてくれる人はいないのだ、ということを学習します。

自分の経験したことを誰かに打ち明けるなら、慰めてもらえるどころか、罰せられたり、否定されたり、叱られたりするのを実感しました。何度やってもそうでした。

だからこそ、ヴゥン・デア・コークの患者となった女性はこう言っていたのです。

「なんとしても助けが欲しかったのですが、道のこちら側に立ち尽くしたまま、もっと傷つくだけだと心の奥底で感じました。

実際、きっとそうなったでしょう。もちろん、この出来事は隠さなければなりませんでした。親にも、他の誰にも」(p222)

彼女は、これまでの人生のすべてをかけて、逃避不能ショックの中で無力感を学習してきたのです。

味方はいない。どこにもいないと。

(2)母語―「トラウマと虐待の言語を理解しないかぎり」

子ども虐待のサバイバーが育ってきた世界は、世の中の大多数の人が育ってきた世界とは別ものです。

世界が違えば、当然、言葉も違います。

愛着障害の克服~「愛着アプローチ」で、人は変われる~ (光文社新書)という本の中で、幼少期の経験から愛着の不安定さを抱えた人は、あたかも「異なる言語と文化をもつ異国人のようなもの」だと書かれていました。

愛着スタイルは、パーソナリティのさらに土台ともいえる部分を動かしている。つまり異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである。

この点を理解しておかないと、言語や文化の違いを無視して、コミュニケーションをしようとするような無茶なことになってしまう。

すれ違いや誤解が起きてしまうことは必定だ。実際に、いたるところでそうしたことが起きている。

それぞれの愛着スタイルに備わった認知や思考の様式、感情や行動の表出方法の特性を知らないと、相手の真意をとらえ損なってしまう。(p221)

以前の記事に書いたように、子ども虐待のサバイバーたちは、4種類ある愛着パターンの中でも、もっとも異質で混乱した、無秩序型という愛着パターンを身につけることで知られています。

「異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである」とするならば、虐待のサバイバーの言語と文化は、世の中の大多数の人からは想像もつかないほど異なっているということになります。

同様に、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴゥン・デア・コークも「トラウマと虐待の言語を理解しないかぎり」虐待のサバイバーたちの生きている世界を理解することはできない、と書いています。(p233)

時間の概念がない言語

世の中には、さまざまな種類の言語があります。一説によるとその数は7000種類近くになるそうです。

言語の中には、互いによく似ているものもあります。身近なところでいえば、日本語と中国語は漢字という文字を共有していますし、ヨーロッパの各言語も互いに似通った単語を持っています。

こうした言語の違いは、不思議なことに、文化ごとの思考の違い、概念の違いにも深い影響を及ぼします。

たとえば脳の中の時間旅行 : なぜ時間はワープするのかによると、言語体系の違いは、時間という概念の捉え方を形作るのに一役買っています。

アラビア語やヘブライ語は、右から左に書く。それならアラビア語やヘブライ語を話す人は、過去、現在、未来を、どのような順番で並べるのだろうか? その答えは、過去が右、現在は真ん中、未来は左だった。英語を話す人とは対照的だ。(p113)

中国語を話す人は、住まいが台湾でもカリフォルニアでも、英語を話す人の八倍も、時間を垂直に並べることが多く、過去の出来事を示すときは上を、未来のことは下を指さした。…中国語はもともと縦書きで、右から左に進んでいく言語だった。(p113)

時間という抽象的な概念がどちらからどちらに流れるか直感的に理解するとき、わたしたちはどうやら無意識のうちに書き言葉の方向に影響されているようです。

主要な言語だけをとってみても、さまざまな概念の違いを生み出しますが、中には極めて異例な言語も存在しています。

たとえば、アマゾンのアモンダワ族には、なんと時間を表す言葉がありません。

またピダハン族(ピラハ族)の言語にも、過去や未来を表す語彙がありません。語彙がないということは、そのような概念もない、ということを意味しています。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)には、こう書かれています。

興味深い例外は、ブラジル・アマゾナス州に住む辺境の民、ピダハンだ。

伝道師のダニエル・エヴェレットは、彼らの言語を学び、聖書を彼らの言葉に翻訳するために現地に赴任した。

彼は、ビダハン人の言葉が、西洋文化圏の基準から見て貧しいことを発見する。語彙が少なく、過去や未来について話すときには間接的な表現しかできないのだ。

エヴェレットによれば、彼らは架空の話をせず、天地創造の伝説も神話ももたない。

ピダハン語には、過去や未来を表す言葉がないゆえに、彼らは架空の話をせず、物語も持っていません。それはつまり、彼らの思考や生活もまた、わたしたちとはかけ離れたものであることを意味しています。

もちろん、この記事の論点は、特殊な言語や、それを操る民族についてではありません。

しかし、言語が違えば、思考や概念が異なり、生活の仕方までまったくの別物になってしまう、というアモンダワ族やピダハン族の例は、比喩的な意味でも、当てはまります。

永久にトラウマの瞬間に閉じ込められる

この本の続く部分で、ピダハン語がこの特殊な特殊を持つようになったことには、奇妙な理由があるのではないか、と推測されています。

ところが、ピダハン語はムーラという別の言語と関係していて、ムーラ語には明らかに過去にかかわる記録が多い。

ということは、ピダハンがある時点でムーラ人から分かれて共通の歴史を失い、自分たちの過去まで抑圧しているように思われる。(p124)

彼らの話す言語において、過去や未来の概念がなくなってしまったのは、何らかの過去を記憶から抹消するためだったのかもしれません。

つまり、過去に何らかの民族的なトラウマを経験したせいで、過去や未来を放棄するために、それを表す語彙が消え失せたのだともみなせます。

トラウマを負った人々は、個人として、これと似た現象に直面します。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、トラウマ患者で機能が停止している脳の背外側前頭前皮質について、こう説明されています。

この領域が作動しなくなると、人は時間の感覚を失い、過去、現在、未来の感覚がないまま、今の瞬間に閉じ込められてしまう。(p116)

私たちは背外側前頭前皮質のおかげで、現在の経験が過去とどう関係しているかや、将来にどう影響するかもしれないかがわかる。

したがって、背外側前頭前皮質は、脳の時間管理者と考えてもいい。何が起こっていようと、そこには自ずと限界があり、遅かれ早かれ終わりが来ることがわかっていれば、たいていの経験には耐えられる。

その逆も正しい。すなわち、状況は、いつ果てるとも知れぬように感じられれば耐え難くなる。…トラウマは「これが永遠に続く」という究極の体験と言える。(p116)

トラウマを負った人たちは、時間感覚が麻痺し、凍りついた時のさなかに閉じ込められています。

サバイバーたちは、虐待から解放され、もう危機が去った後でさえ、あたかも今まさにトラウマのさなかにいるかのような反応を示します。つまり、過去や未来という概念が存在せず、トラウマにとらわれた今が永遠に続いています。

永遠にトラウマのさなか、密室の中で虐待されている時間に閉じ込められているせいで、サバイバーたちは、大多数の人とはまったく違った視点で世の中を見ています。

ロールシャッハテストからは、トラウマを負った人は他の人とは根本的に違うふうに世の中を眺めていることもわかった。

たいていの人にとって、道をやって来る人は、ただの歩行者にすぎない。だがレイプの被害者は、今にも自分を性的に虐待しようとしている人と捉え、パニックを起こすかもしれない。

厳格な教師は、平均的な子供にとっては威圧的な存在かもしれないが、継父にさんざん殴られている子供には拷問者のように見えかねず、その子は急にかっとなって襲いかかったり、恐れおののいて部屋の隅で身をすくめたりするかもしれない。(p36)

サバイバーたちは、脳の時間管理者が機能停止しているせいで、永久に逃避不能ショックの状況から抜け出せないでいます。彼らの身体は、自分が今まさに虐待されているかのように振る舞いつづけます。

フリーズした記憶は過去の物語にならない

永久にトラウマ体験の時間に閉じ込められてしまうのは、あまりに衝撃的なトラウマ記憶を自分のものとして統合できず、「解離」が生じているせいです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、ピエール・ジャネによる、次のような説明が引き合いに出されています。

ジャネは、自分の患者に見られるような、記憶の痕跡の分離や孤立を表すために、「解離」という言葉を造った。

…「彼らはトラウマ記憶を統合できないため、新たな経験を取り込む能力も失ってしまうらしい。

それは……あたかも彼らの人格がある時点で完全に凝り固まり、新たな要素を加えたり取り込んだりしてそれ以上拡大することができないかのようだ」。

彼らが分離された要素に気づき、過去に起こったものの今はもう終わった出来事としてそれらを一つの物語に統合しないかぎり、個人生活でも職業生活でもしだいに正常に機能できなくなっていくことを、ジャネは予想した。(p297)

これは、パソコンを使っているとき、ファイルの処理の途中で、何らかのエラーが生じて、フリーズしてしまうことにたとえられるでしょう。

サバイバーは、トラウマ記憶が、あまりに危険で処理できないがために、永久に「処理中」、つまりフリーズ状態にあります。

危機は去っているはずなのに、処理が凍結されているので、今まさに逃避不能ショックのただ中にあるかのように身体が反応してしまいます。永久にトラウマの瞬間の中に閉じ込められてしまうので、過去や未来といった概念がなくなります。

トラウマ記憶は正常に処理できてはじめて、過去の物語になりますが、いつまでも「処理中」だと、記憶に統合されないので、思い出すことができません。この状態が記憶の「解離」です。

こうして虐待のサバイバーの脳で起こっている時間の凍りつきについて考えてみると、それはどうやら、ピダハン語が置かれていた状況によく似ていることがわかります。

ぼくと数字のふしぎな世界に書かれているように、ピダハン族は、過去の記憶が物語にならないために、終わりのない「いま現在」が永久に続いています。

だから彼らは物語を語らず、神話を持たないのだ。物語には、少なくともぼくたちが理解している「物語」には、時間の流れがある。

…しかし、ピラハの人たちはいま現在のことしか話さない。彼らの行動に影響を与える過去がない。考えを刺激する未来がない。

過去では「なにも起こらない、だからあらゆることが同じだ」と彼らはエヴェレットに語っている。(p39)

もしも、ピダハン語から未来や過去といった語彙が消え去ったのは、過去の何かしらの衝撃的な出来事が処理できず、民族の歴史から切り離されて凍結された結果なのだとすると、子ども虐待のサバイバーが身につける「虐待の言語」は、それと似たようなものかもしれません。

衝撃的なトラウマ記憶を、自分の過去の一部として統合できないために、過去や未来について考えられなくなってフリーズしてしまう、そしてそれゆえに、異質な思考パターンにはまり込んでしまった状態が、子ども虐待のサバイバーたちだといえます。

言ってみれば、世の中の大多数の人と、子ども虐待のサバイバーとの間には、日本語や英語のような主要な言語を話す人と、アマゾン奥地の極めて異例な言語を話す人との間にある文化や概念のギャップほどの大きな隔たりがある、ということです。

仮にもし、アマゾンの奥地で生まれ育った少数民族の人が、いきなり日本の大都市のど真ん中につれてこられて、何の助けもないまま置き去りにされたとしたら、どう感じるでしょうか。

子ども虐待のサバイバーたちが、この広い世界の中で感じる孤独と絶望は、それと似ているのかもしれません。サバイバーたちはまさに「異なる言語と文化をもつ異国人のようなもの」なのです。

(3)文化―それでもそこが生まれ故郷

内戦などで祖国を追われ、難民になった人たちは、しばしば、生まれ育った国で、想像を絶する辛い思いをしてきました。

それでも、何の妨げもなく祖国を捨てて、逃れた先の国にすぐ馴染んで、新しい人生を始められるわけではありません。たとえ辛い記憶があろうと、自分たちが生まれ育った場所は特別なものです。

子ども虐待のサバイバーたちにとってもそうです。外部の人たちから見れば、どれほど異常な環境に思えても、子どもたちにとっては、生まれ育った環境は唯一無二のものです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。

子供は、たとえ養育者に虐待されたとしても、その養育者に基本的には忠実であるようにプログラムされてもいる。

恐怖は愛着の必要性を増大させる。慰めのもとが恐怖のもとであるときでさえ、そうだ。

家庭で痛めつけられたにもかかわらず(そして、それを物語る骨折や火傷を抱えていながら)、選択肢を与えられたら、里親に預けられるよりも自分の家族のもとにとどまることを選ばないような10歳未満の子供に、私は出会ったためしがない。(p221)

子ども虐待のサバイバーたちは、特に低年齢である場合、たとえ虐待する家庭から引き離されても、その環境へ戻ろうとします。どれほど異常な家庭、また親であっても、そこで生まれ育った子どもにとっては、それが当たり前、普通のものだからです。

例えば、食べ物の文化について考えてみてください。日本の大都市で生まれた人の中には、いなごや幼虫を炒って食べるアフリカの食生活を見て、拒否感を覚える人もいるかもしれません。

けれども、外国で生まれた人にとっては、逆にエビやシャコ、生魚などを食べる日本の食文化のほうが異様に思えるかもしれません。

どちらの場合も、外から見れば奇異に思えるかもしれませんが、そこで生まれ育った当人にとっては、ごくごく当たり前のもので、違和感もありません。大人になっても、自分が慣れ親しんだ文化には疑問を感じないものです。

それと似たことが、子ども虐待のサバイバーにも生じます。外から見れば、奇異な環境で育ったのに、自分ではそれが普通だと思ったまま成長し、大人になっていくのです。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳に、こう書かれているとおりです。

親の「しつけ・教育」が虐待であるならば、それは幼児が生まれてきてからの生活そのものが虐待という現象の中に組み込まれているということを意味する。

つまり、幼児にとって虐待とは“非日常”ではなく、紛れもない“日常”の姿なのである。森田はこれを家庭内の“文化”であると表現している。

われわれからみたら、虐待というのは非日常的で普通ではない状態である。

しかし被虐待児は「日常的で普通の生活」を経験したことのない者がほとんどであるから、たとえそれがストレスフルな状況であっても、その環境を疑うことができない。(p107-108)

ごく普通の家庭で生まれ育った人たちから見れば、子ども虐待の家庭は異常な環境に思えるとしても、そこで生まれ育った人にとっては、その文化こそが当たり前であり、祖国なのです。

平和な日常に適応できない

わたしたちが、自分の国の文化に馴染んで、たとえ外国から見れば奇異に思える習慣でも、疑問を抱くことなく受け入れているのは、生まれ育った環境に適応する力を持っているからです。

異常な家庭で生まれ育った人たちもまた、時たつうちに心身ともに異常な環境に馴染んでいきます。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、虐待された子どものストレスホルモンの変動についてこう書かれています。

最初の評価のときには、参加者全員がストレスホルモンであるコルチゾールの値の上昇を見せたが、三年後には、虐待を受けた参加者が一年間で最もストレスを感じた出来事を報告したとき、コルチゾール値は下がった。

時がたつうちに、体が慢性的なトラウマに順応するのだ。

麻痺状態に陥ったときの結果の一つは、本人は気が動転しているのに、教師や友人、その他の人がなかなか気づかなくなることだ。本人さえもが認識していないかもしれない。

麻痺状態に陥ると、たとえば身を守る行動をとりそこなうなど、苦悩に対してしかるべき反応をしなくなる。(p271)

虐待された子どもは、最初はその異常な環境に激しく反応してストレスホルモンが上昇するかもしれませんが、「時がたつうちに、体が慢性的なトラウマに順応」していきます。

順応するのは身体だけではありません。心もまた麻痺してしまい、異常な環境を当たり前と感じてしまうようになります。

それは、たとえば性的虐待では、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に書かれているように、性的虐待順応症候群として知られています。

性的虐待が近親者との間で長年にわたって生じたときには、被虐待児が加害者を擁護しようとする行動をとることが少なくない。

これは性的虐待順応症候群として知られ、虐待の事実を開示した直後に虐待を否認するといった行動が、頻繁に認められることになる。(p98)

異常な環境にあまりに長いことさらされすぎたせいで、脳が異常な環境こそ“日常”、ごく普通の環境を“非日常”とみなして、適応してしまうのです。

裏を返せば、それは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が説明するように、ごく普通の子どもたちが順応していく学校や社会での日常には、逆に適応できなくなっていくということです。

性的虐待を受けた女子は、それとはまったく異なる発達の道筋をたどる。

彼女らは人を信頼できないので、同性の友人も異性の友人も持たない。自己を嫌悪していて、生物学的機能も本人に不利に働くため、過剰な反応を見せたり、逆に麻痺状態に陥ったりする。

…これらの女子はあまりに変わっているため、他の子供たちはたいてい、いっさいかかわり合いになりたがらない。

子ども虐待のサバイバーは、異常な家庭に順応するよう脳が最適化され、他の子どもたちとは「まったく異なる発達」を遂げます。

普通の友だち付き合いができず、あたかも命が脅かされている戦場にいるかのように、ときには用心深く、ときには過敏に振る舞うようになります。

そうした子どもは、まわりから「あまりに変わっている」とみなされます。

悲劇的なのは、なぜその子が「あまりに変わっている」のか、本人もまわりも誰一人として理由に気づけないことです。

異常な環境に順応して麻痺してしまうと、表面上は何も問題がないように見えるため、周囲の先生や友人は何が起こっているのか気づけません。本人でさえも自分が子ども虐待のサバイバーであることを認識できなくなります。

特に、子ども虐待のサバイバーの中には、「解離」という脳の機能が働いているせいで、自分が経験したトラウマの記憶をすっかり忘却している場合もあります。

記憶の喪失は、自然災害や事故、戦争トラウマ、誘拐、拷問、強制収容所、身体的虐待、性的虐待を経験した人について報告されている。

完全な記憶喪失が最も多いのが子供時代の性的虐待で、発生率は19~28パーセントだ。(p315)

それはつまり、自分が違う国、違う文化で生まれ育ったにもかかわらず、自分の出自を知らないまま、異国の地で生活しているようなものです。本当は生まれ育ちが違うために周りから浮いているのに、その理由を知りません。

そうすると、だれからも理解してもらえず、孤独を深めていく中で、人間とはこういうものなのだ、人はわかりあえなくて当然なのだ、という不信感を抱くようになるのも当然です。

戦時下で生き生きとする

トラウマのサバイバーたちが「あまりに変わっている」のは、脳が故障したからでも、障害を負っているからでもありません。

大多数の子どもたちの脳が、平和な日常に順応しているのに対し、サバイバーたちの脳は、虐待する家庭という非日常に順応しています。その違いが「あまりに変わっている」とみなされるだけです。

それはちょうど、戦争に適応した兵士たちが、戦場では生き生きと振る舞うことができるのに、平和な日常では不適応を起こすのと同じです。

アメリカの海兵隊は戦闘で見事に任務を遂行した。問題は、彼らが祖国に戻ってからの暮らしに耐えられないことだ。

オーストラリアの戦闘期間兵に関する最近の研究は、彼らの脳が緊急事態を警戒するように配線し直されているために、日常生活の細部に的を絞れなくなっていることを示している

…トラウマを負った患者に、仮想現実セラピーよりも必要なのは、地元のスーパーマーケットっで買い物をしたり、わが子と遊んだりするときに、バグダードの通りで感じたのと同じくらい生き生きとした気分になれるようにしてくれる、「現実世界」セラピーなのだ。(p363)

戦争でトラウマを負った帰還兵たちは、戦争の残虐行為を忌み嫌い、悲嘆に暮れます。生々しい記憶のフラッシュバックのような後遺症に悩まされ、ごく当たり前の日常生活すら送れなくなることもあります。

しかし、不思議なことに、あれほど忌み嫌ってきた戦争の体験について語るときには、日常の生活では久しく感じられなかった生気がよみがえり、生き生きと多弁になります。

たとえ戦争を憎んでいようが、帰還兵たちの脳は戦時下に適応していて、異常な環境の中でだけフル稼働するよう最適化されているからです。

トラウマが生じたのが10年前であろうと40年以上前であろうと、私の患者たちは戦時体験に囚われてしまい、現在の人生をしっかりと歩むことができなかった。

あれほどの痛みを引き起こしたまさにその出来事が、彼らにとって存在意義の唯一の源泉になってしまったのだ。

彼らが思う存分生きていると感じるのは、トラウマを引き起こした過去に立ち返っているときだけだった。(p38)

帰還兵たちの脳は戦時下に最適化されていて、本人が戦争を憎んでいようとも、危機的状況に引き寄せられます。

だとすれば、虐待的な環境に適応したサバイバーたちもやはり、同じような経験をするのでしょうか。

「虐待的絆」に引き寄せられる

戦時下に適応した兵士たちが抱える問題と、子ども虐待のサバイバーの抱える問題が似ている、というのは、単なる比喩ではありません。近年の研究が示しているように、両者の脳は類似しているからです。

虐待受けた子どもとPTSD兵士の脳が類似=研究 - BBCニュース

家庭内暴力や虐待などを経験した子どもの脳と、戦闘で心的外傷後ストレス障害(PTSD)となった兵士の脳の動きが類似していることが研究で明らかになった。ユニバーシティ・コレッジ・ロンドンのマクロリー教授が解説する。

子ども虐待のサバイバーたちが家庭を出てもなおトラウマから逃れられないのは、帰還兵たちと同様、どれほど過去を憎んでいようと、潜在的にトラウマ的な環境を求めてしまう傾向があるからです。

発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方では、それが「虐待的絆」と表現されています。

この歪んだ愛着を虐待的絆と呼ぶ。

父親のDVなど、暴力が常在化した家庭に育った娘が、その家庭を憎み嫌い、高校を卒業と同時に家でのように家から遠く離れ、仕事につき、そこで結婚をする。

するとなぜかかつての父親のような暴力的な夫と一緒になっている。この反復が起きる理由こそ虐待的絆の存在に他ならない。

いくら忌避される記憶であっても、子どもたちにはそれこそが生きる基盤になっているからなのだ。(p34)

幼い子どもは親から虐待されても、親のもとにとどまろうとします。もっと年長になると、自分の身を守るために異常な環境から逃れようとしますが、それでも、いつの間にか同じような環境にたどり着いてしまいます。

子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に書かれているように、性的虐待のサバイバーの中には、成人してからも、自己破壊的な性関係から抜け出せない人もいます。

例えば性的虐待の被害者が、その後の対人関係において、虐待的な性的関係を反復し、先の母親のようにDV被害を何度も受けることになる。

結果としては、性的行動で周囲の人間を操作するといったことも生じてくる。(p98)

脳がトラウマ的な環境に配線されていると、自分では望んでいないはずなのに、危険な状況に身を晒し、トラウマを再体験してしまいかねません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、1万人以上を対象にしたACE研究(逆境的児童期体験研究)では、幼少期に虐待を受けたサバイバーは、その後の人生で、さらに同じようなトラウマを経験する率がとても高いことがわかっています。

研究に参加した女性は、成人してからレイプされたことがあるかどうか訊かれた。

ACE得点が0点の人では、レイプされた人は5パーセントだったのに対して、四点以上の人では33パーセントだった。

子供のときに逆境的あるいはネグレクトの犠牲になった女性は、のちの人生でなぜそれほどレイプされやすいのか。この疑問に対する答えは、レイプ以外のじつに多くの面にも密接に結びついている。

たとえば、幼少期に家庭内暴力を目撃した女性は、大人になったときに自らも暴力的な関係に巻き込まれる危険が大幅に増し、家庭内暴力を目撃した男性は、自分の伴侶を虐待する危険が7倍になることを、多くの研究が示している。(p245)

虐待のサバイバーたちが、子ども時代に受けたトラウマを再体験しやすいのは、脳に刻み込まれた虐待的絆によって、そうした状況に自ら飛び込んでいきやすいためです。

サバイバーたちは、特に若い時期にトラウマを再体験しやすく、その後の人生では、恐れのあまり親密さを避けるという逆の極端にとらわれる傾向がありました。

彼らは親密な人間関係を築いて維持するのが非常に苦手で、見境がなくて危険が大きく不満足な性的関係から、性的活動の完全な停止へと転じることが多かった。

異常な環境という非日常の中では、理由もわからずに生き生きしてしまい、安心できる平和な日常ではかえって適応障害を起こしてしまう。

生まれ育った文化の呪縛は、どれほどそこから逃れようとしても、そう簡単に断ち切れるものではないのです。

(4)歴史―いつの時代も居場所がなかった

子ども虐待のサバイバーという「民族」は、個人として異邦人のような居場所のなさを感じますが、集団としても、社会から追われ、迫害されてきた長い歴史があります。

子ども虐待の後遺症として、特に顕著なのは、解離性障害という病気です。この病気は、歴史上古くから存在していて、古代から「ヒステリー」として知られていました。

ヒステリーの元となったギリシャ語「ヒステラ」は子宮を意味する言葉で、紀元前5世紀のギリシャの名医ヒポクラテスは、ヒステリーを「子宮の病」と表現しました。哲学者プラトンも、子宮が体の中を暴れることで、奇妙な症状が引き起こされていると考えました。

信じがたいことですが、ヒステリーは、性的に満足できていない女性に引き起こされるものとみなされ、治療のために性交渉が勧められることさえありました。

おそらくは、性的虐待のサバイバーたちが、理由もわからずに自己破壊的な性衝動を抱えたり、逆に性的関係を極端に避けたりすることから、そうした解釈が生まれたのでしょう。

その結果、何が引き起こされたかは想像にかたくありません。 続解離性障害にはこう書かれています。

従来のヒステリーに関する俗説は、女性蔑視につながるだけでなく、女性の性被害を助長し、かえって女性の解離性障害を生み出していた可能性が高いとも言えるだろう。(p41)

愕然とする事実ですが、古代ギリシャの時代から、20世紀直前まで、解離性障害は、性的虐待の結果ではなく、性的な欲求不満の病だとみなされていたのです。そしてそれは、かのジークムント・フロイトも同じでした。

フロイトの「裏切り」

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、フロイトは、当初、ヒステリーの患者たちは、幼少期のトラウマを抱えているのではないかと正しく推理しました。

フロイトは、この方法を採用して、引き金となる出来事は多くの場合、幼少期に受けた性的虐待、たいていは父親が娘に対して行う性的虐待であると信じるようになった(フロイトの患者の大多数はいわゆるヒステリー症の女性だった)。(p366)

しかし当時の男性中心社会の圧力や、自身の抱えているセクシュアリティの問題から、フロイトは自説を180度転換させ、原因は、性的虐待ではなく、性的願望である、と主張するようになりました。

言うまでもないが、フロイトの理論は、医師、銀行家、法律家など、専門家のコミュニティにはあまり受け入れられなかった。彼らのほとんどが父親でもあった。

性的虐待の広まりが現在ほど知られていなかったことから、彼らの中にも、近親姦の罪を犯した者がいることはほぼ確実だった。

そのため、また他の理由もあって、フロイトは誘惑理論から離れ(皮肉なレッテルが貼られたため)、また、抑圧された記憶を明らかにし強い感情的なカタルシスを通じて記憶を再現する自分の治療方法からも離れた。

患者の多くは深刻な裏切りと感じたであろうが、フロイトは、患者の症状を性的暴力に起因するものとしてではなく、幼少期の「エディプス的」な願望、異性の親と性的交渉を持つファンタジーに根付くものとしてという解釈を与えた。(p366)

フロイトはそれ以降、虐待の存在をときおり認めつつも、基本的には、抑圧された性的な欲動がヒステリーを引き起こしているとする持論を展開しました。それはかつてのギリシャの哲学者たちの延長線上にある考え方でした。

その一方で、フロイトと同時代のピエール・ジャネは、ヒステリーの患者たちを偏見のない目で見て、患者たちの話に真摯に耳を傾け、その本当の姿を理解しようと試みました。

ジャネは「解離」という新たな言葉を作り出し、性的不満の病とされていたヒステリーが、トラウマによる解離性障害であることを明らかにする最初の一歩を据えました。

しかし、その概念は、登場した最初から、ほかならぬジークムント・フロイトによって否定されることになりました。 続解離性障害にはこうあります。

交代人格を「信じる派」と「信じない派」の対立は、実は力動精神医学の最初の時代、すなわちフロイトとジャネの時代にさかのぼるという事実がある。

結論から言えばフロイトは「信じない派」に近く、ジャネは「信じる派」であったと言える。(p35)

偽りの記憶の論争

その後、フロイトの理論が注目を浴び、精神医学のバイブルのようにみなされるようになると、解離についての理解は停滞しました。ヒステリーは情緒不安定な女性の詐病とみなされるようになりました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、1974年に発刊された「精神医学の総合参考書」には、近親姦は非常にまれで、110万人に1件程度しか起こらず、もし生じたとしても、当人の精神状態によい影響を及ぼし、適応能力を向上させる、とまで書かれていたといいます。

事態が変化したのはベトナム戦争後、後遺症としてのトラウマの研究が活発になってからでした。女性解放運動の機運もあって、子ども虐待や性被害のサパイバーが勇気を出して名乗り出すようになり、埋もれていた解離の理論がにわかに注目を集めます。

しかしここでも、過去と同様の激しい攻撃にさらされます。解離性障害の存在を真っ向から否定する医師は少なくなく、解離に関わろうとした医者は同僚から嘲笑されたり、追放されることさえありました。

多重人格治療のパイオニア ラルフ・アリソンの素顔―患者のために涙を流した医師
多重人格治療のパイオニアとして、医療から見放されていた解離性同一性障害(DID)の患者の苦悩と向き合い、患者を助けるために命をかけた医師ラルフ・アリソンの人柄と、彼の独特な洞察につ

それだけでなく、著名な心理学者たちは、解離されたトラウマ記憶、という概念を否定し、子ども虐待のサバイバーたちは偽りを語っていると非難し始めました。

1990年代初期には、アメリカとヨーロッパの主要な新聞や雑誌に多くに、いわゆる「虚偽記憶症候群」に関する記事がすでに登場し始めていた。

この症候群は、精神疾患患者が性的虐待の手の込んだ虚偽の記憶をでっち上げたうえ、その記憶が長年眠っていたあと、蘇ったと主張するというものだ。(p313)

のちに、多くのサバイバーたちが勇気をもって教会の指導者を告発し、性的虐待の事実を公の場に引きずり出したときには、大勢の権威ある専門家たちが、教会側に立って、被害者を攻撃しました。

教会側に立って証言する専門家は、子供時代に性的虐待を受けたという記憶は、贔屓目に見ても当てにならず、被害者とされる人の主張は、過剰に同情したり、物事を鵜呑みにしやすかったり、自分の立場を優先させたりするセラピストによって頭に植えつけられた虚偽の記憶に由来する可能性のほうが高いと証言した。(p314)

解離やトラウマ記憶など存在しない、という疑い深い見方は、いまだに幅を利かせています。

しかし、以前の記事で説明したとおり、トラウマ記憶は偽りだとする見方も、すべて正確だとする見方も両極端であり、サバイバーたちの実情に即したものではありません。

本当にサバイバーたちの苦悩を理解しているのは、ジャネのように真摯に患者の話に耳を傾け、何が起こっているのか理解しようとしてきた医師やセラピストたちだけです。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

その文化は「カルダーノの輪」の外にある

 このように、子ども虐待のサバイバーたちは、異なる世界に生まれ、異なる言語、異なる文化、異なる歴史を持つ異邦人に例えることができます。

■異なる世界
幼いころに普通の家庭で育ち、人間一般に対する基本的信頼感を育んだ普通の人と、異常な環境で育ち、逃避不能ショックにさらされ、だれ一人味方はいないという無力感を学習してきたサバイバーたちとでは、生まれついた世界が異なっているようなもの。

■異なる言語
言語が異なれば思考パターンも異なる。「トラウマと虐待の言語」を話すサバイバーたちは、凍りついた時間に閉じ込められており、物事の受け止め方が大多数の人とは異なっている。

■異なる文化
子ども虐待のサバイバーは、「虐待的絆」によって、自分では望んでいないのに、生まれついた祖国の文化ともいえる危険な状況に引き寄せられ、トラウマを再体験するという矛盾した行動をとってしまう。

■異なる歴史
子ども虐待のサバイバーが抱える苦悩は、長きにわたり、「ヒステリー」や「虚偽記憶」として偏見や攻撃にさらされてきた。

子ども虐待のサバイバーたちがありとあらゆる点で偏見や攻撃にさらされ、決して理解されることなく、孤独のもとにさすらう運命を強いられているのは、このような生まれ育ちの違いによって、人種間のあつれきにも似た理解のギャップが生じてしまっているからです。

そして、子ども虐待のサバイバーたちが「世界でひとりぼっち」のように感じてしまう最大の原因は、サバイバーたちが、あたかも異なる人種のような存在である、というこの事実がほとんど気づかれていないことにあります。

自分の物差しで測るという間違い

冒頭で触れた ある講演者は、性的虐待のサバイバーの女性が感じた孤独感や憂うつさを、自分たち一般に当てはめ、だれでも多かれ少なかれ感じている気持ちだとみなしていました。つまり、自分たちの物差しで、サバイバーの苦悩を測ろうとしていました。

また子ども虐待のサバイバーたちは、あまりに奇妙な症状を次々と訴えるので、医師たちからしばしば「気のせい」「詐病」「演技をしているだけ」とみなされがちです。ここでも医師たちは、自分の常識の物差しで、サバイバーたちの苦悩を測ろうとする間違いを犯しています。

この記事で見たように、子ども虐待のサバイバーは、生まれたときから、常識ではありえないような経験をしてきました。

当たり前でない世界に適応し、順応してきたサバイバーたちは、当然、自分自身もまた当たり前でない存在へと変容していきます。

子ども虐待のサバイバーたちは、理解できない無秩序な環境に対処するために、自らもまた理解できない無秩序な存在へと変化していき、その結果として、ありとあらゆる奇妙な症状を抱えることになります。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

大人が子どもに異常な仕打ちを加えるという子ども虐待は、この世の中にある理解できない、理解しようがない物事のうちの最たるものだといえます。この問題を長年扱ってきたヴァン・デア・コークでさえ、こう述べていました。

私はこの仕事を始めて40年になるが、患者が子供時代について話してくれているときに、「信じられない」と思わずつぶやいてしまうことが今でもよくある。

患者たちも、私に劣らず信じられないことが多い。

親が我が子にそのような非常な苦痛や恐怖を与えるなどということがどうしてありうるのか。

その体験は自分がでっち上げたに違いない、あるいは自分は誇張していると言い張る人もいる。

だが、全員が自分の身に起こったことを恥じており、自分を責める。自分がひどい人間だから、そのようなひどい目に遭ったのだと、ある次元で固く信じている。(p219)

そもそもの原因である子ども虐待そのものが、理解できない次元のものである以上、そこに適応し、順応していった子ども虐待のサバイバーたちの苦悩が理解されないのは、もはや必然であり、避けられないことです。

子ども虐待のサバイバーたちの苦悩が、人類の長い歴史を通して、いつの時代も誤解され、否定され、攻撃され、親や医師、社会からも理解されなかったのは、そして当事者たちでさえ、自分が何者なのか理解できず、「世界でひとりぼっち」のように感じるのは、彼らが生まれ育った子ども虐待という文化そのものが理解できないほど異質なものだからなのです。

カルダーノの輪の中に吊るされている

こうした「常識を越えているために理解できない」ことを言い得た ひとつのたとえがアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に、載せられています。

そこでは、一般に「カルダーノ・サスペンション」または「ジンバル」と呼ばれる、特殊な構造の輪っかのことが書かれています

16世紀イタリアのジローラモ・カルダーノは物理学者で天文学者で数学者だった。

発明家でもあった彼の名は、人名由来語である「カルダーノの輪」によって永遠のものとなった。

軸を中心にして自由に回転するひとつの輪が、第二の輪の中に吊るされている。第二の輪は、それに垂直な平面上を自由に回っている。

その結果、内側に吊るされているものはあらゆる方向に自由に動くことができる、というものだ。(p345)

カルダーノ・サスペンション(ジンバル)は、大きな輪っかの中に、小さな別の輪っかが組み込まれているという入れ子構造になっています。内側の輪っかは、自由に動くことができますが、外側の輪っかが制限する範囲を越えて動くことはできません。

わたしたちの理解できる範囲も、このカルダーノ・サスペンションの構造とよく似ています。

個々の研究者は時間の中に吊るされている。

カルダーノの輪の中の船の羅針盤のように、彼は最も適切と見なされる方法を用い、そのときに利用できる道具を使い、正しいとされている議論に挑戦し、同時代人たちと共有している。

したがって、ほとんど自分では気づいていない因襲に依拠している。

流布している見解とは合わない立場を選択し、自分のまわりの運動から独立しようとしても、気づかぬうちに、自分の生きている時代の考え方に囚われているものだ。(p345)

わたしたちは、自分が生きている時代の考え方という輪っかの中に閉じ込められています。どれほど自由な発想を持つ人であっても、その制限を抜け出すことはできません。

わたしたちは、自分が身につけてきた常識にもとらわれています。生まれ育った文化の常識という輪っかの範囲を越えた存在を理解することはできません。

ギリシャのヒポクラテスやプラトン、19世紀のフロイトのような偉人たちでさえ、カルダーノの輪の外にある子ども虐待のサバイバーたちの苦悩を理解することはできませんでした。

現在生きている大勢の人たちもまた、くだんの講演者や医師たちのように、自分の生まれ育ちの常識という、カルダーノの輪の外にある虐待のサバイバーたちの経験を理解することはできず、自分の物差しで測ることしかできていません。

ヴァン・デア・コークをはじめ、極めて洞察力に富み、トラウマの苦悩をよく知っている医師たちでさえ、思わず「信じられない」とつぶやかずにはいられませんでした。

何より、子ども虐待のサバイバーである当事者たち自身が、自分の身に生じたことを信じられず、自分が何者かわからず混乱していました。自分が経験してなお、その異常な出来事はカルダーノの輪の外にありました。

自分の経験が理解できず、理解できる範囲を越えているからこそ、子ども虐待のサバイバーは、トラウマ経験を解離させる、つまり理解できないことを自分から切り離すことで対処するしかないのです。

鏡が怖い,映っているのが自分とは思えない―解離性障害は「脳の地図」の喪失だった
わたしたちの脳は「バーチャルボディー」と呼ばれる内なる地図を作り出しているという脳科学の発見から、解離性障害、幻肢痛、拒食症、慢性疼痛、体外離脱などの奇妙な症状を「身体イメージ障害

理解を越えているということを理解する

結びにいえるのは、子ども虐待のサバイバーたちが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」とき、それを理解してほしい、同情してほしいといった、陳腐でありきたりの結論ではありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークの患者のキャシーが述べているように、常識の物差しにそってアドバイスされたり、共感されたりしても、サバイバーたちは慰められるどころか、孤独感を深めるだけです。

それが道理にかなっていないことは百も承知していますし、もっと道理をわきまえるように先生が説得しようとすると、私はなおさら寂しくて孤独に感じるだけで、私という人間がありのままの自分でいるのがどんな感じなのか、世界中の誰一人としてけっして理解してくれないだろうという思いが裏づけられることになります(p213)

必要なのは、理解することではなく、それが理解できる範囲を越えていること、カルダーノの輪の外にあることを認めることです。

常識を越えた信じがたいことが現に起こり、その世界に適応したがためにあまりに異質になってしまった人たちがいる、という現実を受け入れることです。

異なる人種間の橋渡しは、理解できない異文化を受け入れることから始まります。

理解できない習慣を無理やりあれこれと自分の常識に当てはめたりせず、自分の理解の外にあることをわきまえます。

自分の生まれ育った文化という物差しをいったん脇に置いて、ただ相手の生まれ育った文化を批判せず、受け入れることが第一歩です。

未来や過去の概念がない言語を話し、極めて異質な文化を持つピダハン族について研究したダニエル・エヴェレットは、彼らの文化に心を打たれ、数年間彼らとともに暮らしたと言われています。

子ども虐待のサバイバーたちもまた、異なる文化を尊重し、理解できないものを受け入れ、異なる世界で生まれ育った人の気持ちを認めてくれる医師や支え手に出会うことができれば、心を開いていくことができます。

ジャネは、フロイトとは異なり、当時の常識では理解できなかったヒステリーの患者たちの体験を知るために、真剣に耳を傾けました。

ヴァン・デア・コークも、キャシーの言葉を聞いて、そうすることにしました。

私はこの告白に心から感謝し、それ以来、患者に、自分が感じているように感じるべきではないとは言わないようにしている。

私の責務がそれよりもはるかに深いものであることを、キャシーは教えてくれた。周りの世界を描いた心の地図を、患者が再構築する手助けを、私はしなくてはいけないのだ。(p213)

はじめの方に出てきた、誰にも助けを求めることのできなかった女性は、ヴァン・デア・コークのセラピーを受けた後、これまで誰に対しても固く閉ざしてきた心を開きかけていることに気づきました。

セラピーのセッションからの帰り道で、先生に心を開くことの危険についてじっくり考え始め、124号線に入ったときに、先生にも自分の生徒たちにも愛着を抱かないという規則を破ってしまったことに気づきました。(p222)

サバイバーたちが「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」としても、またどれほど高い文化の壁、理解の壁があるとしても、互いの文化を尊重できる人たちにとっては、国境を越えて理解を深め、心を通わせていくことは可能なのです。

解離と愛着から考える空想の友だち―イマジナリーコンパニオンに「出会う」人「作る」人の違い

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■幼児期の子どもの半数近くに見られる空想の友だち
■小学校高学年ごろに一部の子どもに現れるイマジナリーコンパニオン
■アスペルガー症候群の子どもがしばしば持つイマジナリーコンパニオン
■遭難事故などの極限状況で現れるサードマン
■自ら願って作りだすイマジナリーフレンドやタルパ

のブログでは、解離や愛着について扱う中で、それらと深く関係していると思われるイマジナリーフレンド(空想の友だち)という現象についても取り上げてきました。

ひとえに空想の友だちと言っても、上にリストアップしたように、様々なタイプが存在しています。幼児期に現れるもの、学童期に現れるもの、果ては遭難した大人が出会うものまで様々です。

このブログで主に扱ってきたのは、健常な発達の過程で現れる幼児期のイマジナリーコンパニオン、そして少数ながら青年期にまで存在するコンパニオンです。いずれの場合も、どこからともなくいつの間にか現れる、という性質が共通しています。

ところが、ネット上を調べてみると、イマジナリーフレンドを「作りたい」、と思っている人たちが少なからずいることに気づきました。タルパとして知られる概念も、これに類するものでしょう。

様々な時期ごとに現れるイマジナリーコンパニオンや、望んで作ったイマジナリーフレンドは、それぞれ同じものなのでしょうか。それともケースごとに異なる特徴があるのでしょうか。

この記事では、どれが本物か、どれが正しいか、といった意味ではなく、似ているように見えても、それぞれ成り立ちの部分に大きな違いがある、という観点から、さまざまなタイプの空想の友だちと、解離・愛着のつながりについて整理してみたいと思います。

これはどんな本?

今回の記事は、おもに、岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合と、柴山雅俊先生の解離の舞台―症状構造と治療という、国内の解離の専門家として双璧を成しているともいえるお二人の書籍に基づいています。

前者は脳科学に基づく客観的な分析、後者は患者の体験に基づく主観的な分析からなる、趣の異なる二冊ですが、いずれも解離について並外れた洞察が感じられるところは共通しています。

そして、どちらの本でも、解離の周辺体験として、イマジナリーコンパニオンについての記述がいくらか出ており、その意味を読み解くヒントを与えてくれます。

「出会う」と「作る」の違いはなぜ大切なのか

まず、冒頭でリストアップした様々なタイプの空想の友だちを、大きく2つのグループにわけて考えたいと思います。

簡単にいえば、上の4つはいずれも無意識のうちに勝手に現れ「出会う」もの、最後の1つは自分で意識的に「作る」ものという違いがあります。

一見したところ、「出会う」も「作る」も、たいした違いではないように思えます。

しかし、以前の記事で、両者はあくまでも別個のものとして分けて考えるべきではないか、と説明しました。このブログで扱っているイマジナリーコンパニオンは、基本的に「出会う」ものであって「作る」ものではありません。

イマジナリーフレンドは自分で「作る」ものなのか「作り方」があるのか
イマジナリーフレンドに「作り方」はあるのか。イマジナリーフレンドとタルパはどう違うのかを説明しています。

イマジナリーコンパニオン、すなわち空想の友だちという現象について考えるにあたり、いつの間にか「出会う」、つまり無意識のうちに現れる、といった性質を重要視するのはなぜでしょうか。

それは、最も典型的かつ一般的なイマジナリーフレンドといえる、幼児期の空想の友だち現象が、そうした無自覚の現れ方をするからです。

幼児期のイマジナリーフレンドは、だいたい2-3歳ごろに出現することが多いと言われます。当然ながら、幼児は、イマジナリーフレンドを作ろうと思ってあれこれ考えるわけではなく、どこからともなく空想の友だちが現れ、いつの間にかその存在を受け入れます。

このブログで過去に取り上げてきた青年期のイマジナリーフレンドも、いつの間にか勝手に存在するようになることがほとんどです。

イマジナリーフレンド(IF) 実在する特別な存在をめぐる4つの考察
成人・大人のイマジナリーフレンド・イマジナリーコンパニオン(Imaginary Friend/Imaginary Companion:空想の友だち/想像上の仲間)に関する詳しい考察

つまり、無意識のうちに出会う、という要素は、幼児期のイマジナリーフレンドと青年期のイマジナリーフレンドをつなぐミッシングリンクであり、両者が無縁のものではなく、何かしら共通の基盤を持っているのではないか、とうかがわせるゆえんとなっています。

このブログでは、発達心理学や精神医学におけるイマジナリーフレンド(専門的に言えばイマジナリーコンパニオン)を扱った文献を数多く取り上げてきましたが、いずれの場合も、それらは「出現」するものだとされています。意図して「作る」という説明は見かけません。

独りでに現れるという共通点があるからこそ、幼児期に現れるものも、青年期に現れるものも、同じイマジナリーコンパニオンという呼び名でくくることができるのだといえます。

解離によって「出会う」3種類のイマジナリーコンパニオン

では、幼児期のイマジナリーコンパニオンと、青年期のイマジナリーコンパニオンとに共通する、独りでにいつの間にか現れるという性質はいったい何を示唆しているのでしょか。

それは、どちらにも、解離という脳の防衛機制が関係している、ということを意味しています。

解離の働きの中には、まったく健康なレベルのものから、病的なものまで、さまざまな程度があります。

たとえば物語の世界に没入して時間を忘れたり、だれかの気持ちになりきったりするのは、だれでも経験しうる範囲の解離です。しかし、記憶が飛んだり、慢性的に現実感を喪失したりするのはトラウマ患者に生じやすい解離でしょう。

いずれの場合も共通しているのは、圧倒されるような感覚刺激から脳を守るために、何かしらの感覚を遮断して切り離す、という働きが生じていることです。つまり、解離というのは、刺激に圧倒されてしまうないよう、脳が自動的に起動するセーフティシステムのようなものです。

解離を含め、あらゆる防衛機制は無意識のうちに自動的に生じます。本人が意識していないところで生じるので、誰かに指摘されたり、客観的に振り返ったりしない限り、気づくことができません。

無自覚に生じるというその性質ゆえに、解離は、葛藤とは両立しないものです。 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にこう書かれているとおりです。

スターンの解離理論からすれば、葛藤よりもさらに深刻な状況があり、それは葛藤が成立しない状況、心の一部が体験として成立していない解離された状態であるということになる。(p77)

葛藤なしにいつの間にか生じるのが解離であり、ああするべきか、こうするべきか、という葛藤が生じているとしたら、それは無意識の防衛機制ではありません。

それゆえに、解離によって生み出されるイマジナリーコンパニオンは、いつの間にか勝手に存在するという形をとります。作ろうか否かという葛藤が生じるとすれば、それは解離らしくありません。

解離によって生み出されるイマジナリーコンパニオンは、勝手に現れ、何のためらいもなくいつの間にか存在を受け入れていることが多いでしょう。幼児のイマジナリーコンパニオンの場合は、そのまま葛藤もなく自然に消えていきます。

児童期以降も残るイマジナリーコンパニオンの場合は、最初、自分にとって当たり前と思って受け入れていた空想の友だちが、周りの人にとっては当たり前ではなく、奇妙なことをしているのではないか、と気づいたときに始めて、困惑を含んだ葛藤を感じるようになります。

ですから、「出会う」イマジナリーコンパニオンと「作る」イマジナリーコンパニオンは、解離的なものかそうでないものか、という大きな違いをはらんでいることになります。

どうやら、イマジナリーフレンドと「出会う」人たちと、イマジナリーフレンドを「作る」人たちとでは、互いに連続性はあれど、根本のところでは正反対の傾向があるようです。

ここからは、まず、「出会う」イマジナリーコンパニオンを3種類に分けて考え、それから「作る」タイプのイマジナリーコンパニオンについて考察していきましょう。

(1)幼児期のイマジナリーコンパニオン

わたしたちは誰でも、幼児のころは感覚が未分化で、周囲の刺激が取捨選択されずに飛び込んできます。たとえば、複数の感覚が絡み合って感じられる共感覚は、幼児のころは、だれでもみんな持っていると言われています。

そのため、幼児のころは、みな感覚刺激に圧倒されやすく、それゆえに防衛機制としての解離も働きやすいのでしょう。HSPのようなひときわ感覚に敏感な子どもが、幼児期にイマジナリーコンパニオンを経験しやすいのもそのためだと思われます。

「ぼくが消えないうちに」―忘れられた空想の友だちが大切な友情を取り戻す物語
イギリスの詩人A・F・ハロルドによる児童文学「ぼくが消えないうちに」の紹介です。忘れられた空想の友だち(イマジナリーフレンド)が、大切な友だちを探すという異色のストーリーが魅力的で

通常、感覚の未分化は、発達とともに統合され、組織化されていきます。入ってくる情報が取捨選択されるようになるので、感覚刺激に圧倒されることはなくなり、解離も生じにくくなります。それで、幼児期のイマジナリーコンパニオンはいずれ消えていきます。

こうした幼児期のイマジナリーコンパニオンは、まったく健全なものであり、成長してからの病気とは無関係だというデータが報告されています。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究
子どもが目に見えない空想の友達と遊んでいるのを見て驚いたことがありますか? 森口佑介先生の著書「おさなごころを科学する」から、子ども特有の興味深い現象イマジナリーフレンドについてま

(2)学童期のアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオン

しかし、感覚が統合されないまま成長していく子どももいます。それはアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)の子どもで、感覚統合障害を抱えているため、成長しても大量の情報の洪水に圧倒されがちです。

それゆえに、アスペルガー症候群の子どもは、青年期になっても、さらには大人になっても、強い解離を経験しやすいと言われています。

こうした子どもの中にも、解離傾向が強いため、イマジナリーコンパニオンを持つ子がいます。

しかし、アスペルガー症候群の子どものイマジナリーコンパニオンは、そうでない子どものイマジナリーコンパニオンとはいくぶん異なる性質があるようです。

アスペルガー症候群では生まれつき感覚刺激が強すぎて、人の目のコントラストがきつすぎる人の声が心地よく感じられないといった理由から、コミュニケーション能力の発達が妨げられるようです。

結果として、人間への興味が育たなかったり、人の気持ちを想像する心の理論の発達が遅れたりするので、イマジナリーコンパニオンは比較的現れにくいか、学童期などに遅れて現れる傾向があるようです。

以下の記事で取り上げたように、アスペルガー症候群の子どもが持つイマジナリーコンパニオンは、遊び相手というよりも、社会に適応するための仮面のような役割が見られやすいと言われています。コミュニケーションの難しさを補う必要があるからでしょう。

「解離型自閉症スペクトラム障害」の7つの特徴―究極の少数派としての居場所のなさ
解離症状が強く出る解離型自閉症スペクトラム障害(解離型ASD)の人たちの7つの症状と、社会の少数派として生きることから来る安心できる居場所のなさという原因について書いています。

また、アスペルガー症候群は、男女で症状の現れ方に違いがあると言われています。おそらくは女性のアスペルガー症候群のほうが、男性のアスペルガー症候群よりいくらか他の人への関心が育つせいで、イマジナリーコンパニオンを持ちやすいのではないかと思います。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

(3)学童期の居場所のなさからくるイマジナリーコンパニオン

一方、自閉スペクトラム症のような感覚統合障害がなく、感覚が組織化された通常の子どもたちの場合は、日常生活の感覚刺激に圧倒されて頻繁に解離が生じるということはなくなります。

しかし、特殊な環境のせいで、許容量を越えた刺激にさらされてしまうと、防衛機制として脳を守るために解離が働くことがあります。

成長期の子どもの脳にとって、逆境によってもたらされる強い刺激は、ときに耐えられないほど大きく感じられることもあり、それが解離を起こすきっかけとなりえます。

たとえば、虐待、災害、いじめ、病気などの強いストレスに、長期間、慢性的にさらされることが含まれるでしょう。解離の舞台―症状構造と治療によると、こうした解離を引き起こす逆境に共通しているのは「安心していられる居場所の喪失」です。

解離性障害の外傷として特徴的なことは、それらが共通して〈安心していられる居場所の喪失〉に結びついていることである。

本来、そこにしかいられないような場所で、逃避することもできないような状況に立たされ、きわめて不快な圧力や刺激が反復して加えられること、このような場の状況が解離を発生させ、増悪させるのである。(p140)

虐待のような鮮烈な体験に限らず、「安心していられる居場所の喪失」はさまざまな要因が絡み合ってもたらされることがあります。

たとえば、以下のような場面は、いずれも虐待ほどセンセーショナルではありませんが、子どもが「安心していられる居場所の喪失」を感じ取る可能性があるものです。

■きょうだいの誰かが病気になって家族がそちらにかかりっきりになってしまうこと
■特殊な病気や障害のため、ひとりきりで入院したままの日々を過ごすこと
■両親の不仲やステップファミリーにより、家庭内に居場所がなくなること
■親がアルコール依存症や精神疾患などを抱えていて、家庭内が緊張していること
■生まれつき感受性の強いHSPのため、学校や家庭で人いちばい緊張した空気に敏感なこと

こうした「安心していられる居場所の喪失」に直面したとき、子どもは、大人のように自分から家を出て環境を変えたり、家庭外の信頼できる大人や相談機関に助けを求めたりすることはできません。

どこらも居場所がないのに、逃げ出すことができない。そんな「逃避不能ショック」とも呼ばれる環境に置かれたとき、脳を守る最後の手段が、解離、つまり感覚を切り離して感じないようにしてしまうことです。身体が逃げられない以上、意識を逃避させるしかありません。

幼児期ではなく、学童期に生じるイマジナリーコンパニオンの多くは、こうした居場所のなさによって引き起こされる解離の働きの一つとして、無意識のうちに現れるのではないかと思われます。

家族にも友だちにも、気持ちを打ち明けられなかったり、寂しさを分け合ってもらえなかったりする場合、その孤独感をやり過ごすには、信頼できる空想の他者を作るしかないからです。

そうした事情があるからか、以前の記事で取り上げたように、施設の子どもたちに見られるイマジナリーコンパニオンは、単なる遊び相手としての「空想の友だち」ではなく、保護者、守護者といった役割があることが多いと言われています。

そうした相談できる相手としてのイマジナリーコンパニオンは、愛着理論における「安全基地」としての役割を担っています。

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「安心していられる居場所の喪失」によって架空の他者がありありと現れる、というのは何も学童期の子どもに限ったことではなく、雪山や海上で遭難した大人の場合でも報告されています。

遭難などの極限状態で現れる頼れる空想の他者は、冒頭のリストに含めたとおり、「サードマン」として知られていますが、これは学童期のイマジナリーコンパニオンと同じものだと考えられています。

つまり現実の社会で「安心していられる居場所の喪失」に陥った子どものそばに現れるのがイマジナリーコンパニオンなら、雪山などで「安心していられる居場所の喪失」に陥った大人のそばに現れるのがサードマンだということです。

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突き詰めて言えば、アスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンも、目立ったトラウマ環境などに遭遇せずとも、アスペルガー症候群という少数派としての脳の特性それ自体が、居場所のなさをもたらすと解釈することもできます。

そして、いずれの場合も、やはり意識して作りだすものではなく、どこからともなく勝手に現れるという点が共通しています。両者ともに、自動的に作動する脳のセーフティシステムである、解離が空想の他者を生み出しているからです。

無意識のうちに「空気を読みすぎる」傾向

こうして説明するとしばしば誤解されてしまうのは、イマジナリーコンパニオンは、内向的で引きこもりがちな、社交性に欠けた子どもが持つものではないか、ということです。

確かにアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンはそういった一面を持っています。しかしそれ以外のタイプにおいては、まったく逆のことがわかっています。

まず以前の記事で見たとおり、幼児期のイマジナリーコンパニオンは、孤独であるどこか、社交性が強い子どもに多いと言われています。

また、家庭や病気などの事情によって、「安心していられる居場所の喪失」に陥って現れるイマジナリーコンパニオンの場合も同様です。

こうした子どもが感じる孤独とは、文字どおりの孤独ではなく感情的な孤独であり、外から見れば一見とても社交的で、友だちもそれなりにいる子がイマジナリーコンパニオンを持っていることも多いのです。

すでに見たとおり、コミュニケーションの難しさと関係しているアスペルガー症候群のイマジナリーコンパニオンは社会とのやりとりを助ける仮面のような役割を果たします。

アスペルガー症候群の子どもは、イマジナリーコンパニオンという仮面をかぶることで、やっと多数派をなす定型発達者の社会に入っていけるようになる場合もあります。

しかし、「安心していられる居場所の喪失」からくるイマジナリーコンパニオンの場合は、コミュニケーションの障害を伴っているわけではありません。

こうした子どもは、友だちが少ないどころか、むしろ空気を読むのが上手で、他者配慮に秀でていて、一見したところ、友だちも多く、むしろコミュニケーションが巧みだと思われるかもしれません。

それもそのはず、人いちばい他人の気持ちに敏感で、場の空気を読み取りすぎ、気を使いすぎることが、両親や友だちの板挟みになって、居場所のなさを感じてしまう原因のひとつになりうるからです。

前述のさまざまな状況、ステップファミリーや機能不全家庭、幼少期からの慢性病などと付き合ってきた子どもたちは、年相応の無邪気さが欠けていて、大人びていることが多いものです。

これは以前ブログで取り上げた、空気が読めないコミュニケーション障害とは正反対の傾向、つまり、過剰に気を使いすぎ、他の人の責任まで引き受けてしまいがちな いい子特有の「過剰同調性」と呼ばれる特性でしょう。

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過剰同調性は、解離性障害の人に見られる特徴的な病前性格であり、やはり解離傾向を土台としているイマジナリーコンパニオンを持つ青年にも見られやすい性格だといえます。

空気を読みすぎる子どもたちは、こんなことを言ったら親や友だちはどう反応するだろうか、どう思われるだろうか、何と言われるだろうか、と先読みしすぎるせいで、自分の気持ちを正直に打ち明けられず、相手が望むようなことをつい言ってしまいがちです。

そうすると、だれにも素直な気持ちを打ち明けられないので、臆面なく相談できる、絶対的に信頼できる他者が現実には見いだせなくなります。

そのニーズを満たすために、解離という防衛機制によって作り出されるのが、保護者や友のようなイマジナリーコンパニオンです。

他人の気持ちがわかりすぎるために現実の親や友人に気持ちを打ち明けるのをためらってしまい、精神的な意味での孤独感を深めてしまうということ。

そして他人の気持ちを想像できすぎるために、つまり、いわゆる「心の理論」に長けているがために、架空の他者をありありと作り上げてしまえること。

この二重の意味において、過剰同調性は、イマジナリーコンパニオンが現れる土台をなしているといえます。

過剰同調性もまた葛藤が成立しない

興味深いことに、この過剰同調性という空気を読みすぎる性格特性もまた、無意識のうちに、いつの間にか発揮される、という特徴を持っています。

一般的に、気を使いすぎるとか、顔色を見て話すとか言うと、無理にへつらって、自分の気持ちを抑え、気苦労している人を思い浮かべるでしょう。

会社では、上司の顔色をうかがって、相手に気にいられるようなお世辞を並べ立て、仕事帰りに同僚と立ち寄った飲み屋で鬱憤を爆発させる。そんな苦労人をイメージするかもしれません。

しかしこれは過剰同調性ではありません。というのも、本心では相手のことをよく思っていないのに、口ではお世辞を言う、という本音と建前を使い分けている人は、葛藤が成立しているからです。

本当は言いたくもないことを言っているという自覚があるからこそ、つまり葛藤があるからこそ、影では不満を爆発させたり、愚痴ったりするわけです。

葛藤が生じている時点で、それは解離的ではありません。しかもどこかで愚痴ったり不満を爆発させたりできるのなら、居場所のなさには陥りません。ストレスのはけ口という逃げ場がある以上、無意識の最終手段として、解離が働く必要もありません。

解離の舞台―症状構造と治療によれば、こうした葛藤や裏表を抱えている状態は、過剰同調性ではなく、ある種の対人過敏です。

対人過敏では不安、混乱、嫌気、怨み、自罰、他罰など苦悩の色彩が概して強い。そしてそれらですぐに自分が一杯になる。

それに対して解離性の過剰同調性においては、こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない。

また必ずしも周囲に同調していることを意識しておらず、気づいたときにはすでに「自分が目の前の相手に合わせてしまっている」ことが多い。(p143)

この本が述べるように、本音を無理やり押し込めて、表面上だけ相手に合わせる対人過敏は、「気分障害、パーソナリティ障害、対人恐怖などに限らず、現代の若い女性たちにも見られる一般的な傾向」です。もちろん男性にも見られるでしょう。(p142)

しかし、イマジナリーコンパニオンや解離と関係している過剰同調性のほうは、無理して合わせる、という苦労をほとんど伴っていません。「こうした感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない」のです。

この本の中で、ある女性は、自分の過剰同調性について、こう説明しています。

相手に合わせるというよりも、そういった自分が出て来る。相手によって色が変わる。コアは変わらないが、それを覆う膜が変わる。それがいつか破綻する不安がある。

読書をすると、その世界に入ってしまう。夢にも影響を受ける。

さまざまな状況に合わせることがそれなりにできてしまう。合わせることに疲れるということはない。いろんな人の気持ちがわかる。

裏表ではなくサイコロです。どの面が出ても私。(p143)

注目したいのは「合わせることに疲れるということはない」という点です。

過剰同調性を持つ人は、自分から意識して相手に合わせようと思う必要はありません。「相手に合わせるというよりも、そういった自分が出て来る」からです。

自分から主体的に行動するのではなく、いつの間にか勝手にそうなってしまっている、という特徴は、おわかりの通り、解離的なものです。

最初に見たとおり、解離とは葛藤が生じていない状態のことですが、過剰同調性も、相手に合わせるかどうか、といった葛藤を感じるまでもなく、いつの間にか相手に勝手に合わせてしまいます。

自分の意見がないから、誰にでも合わせてしまう、というわけではありません。「コアは変わらない」、つまり自分の考えはしっかり持っています。でも、気づいたら、相手のペースに合わせてしまっています。

本音と建前があるわけでも、裏表があるわけでもなく、相手に合わせて、無意識のうちに空気を読んで気を使ってしまう。すると、葛藤が生じないせいでストレスの理由がわからないので、うまくはけ口を作ることができません。

事実、解離傾向が強い人は、子ども時代に逆境的な体験をしたり、あまり恵まれない家庭で育ったりしても、ストレスを自覚しておらず、「幸せな子ども時代だった」と淡々と語ることがよくあります。自覚していないので不平も不満もほとんど言いません。

ではどうやって、ストレスから脳を守ることができるか。本人がストレスを意識できないのであれば、脳に備わる無意識のセーフティシステムが作動するしかありません。

つまり意識的に逃げ場が確保できないがために、無意識の解離によって、ストレスを切り離すしかなくなってしまうということです。

解離の根本原因は乳幼児期にある

それにしても、過剰同調性を抱える人たちは、なぜ、無意識のうちに周りに合わせてしまい、葛藤さえ生じないのでしょうか。

それは、さらにさかのぼれば、幼少期の体験に由来するようです。

以前の過剰同調性の記事でも説明しましたが、過剰同調性の土台が作られるのは、生後わずか半年から数年ごろの乳幼児期だと思われます。

乳幼児期に養育者がころころ変わったり、親が精神的に不安定で養育態度がころころ変わったりすると、赤ちゃんは、その場その場に応じて自分の対応を変化させる必要に迫られます。

そうした赤ちゃんが身につける生存戦略は、無秩序な養育環境に合わせて適応するので、「無秩序型」のアタッチメント(愛着)と呼ばれています。

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一般的に無秩序型のアタッチメントは、虐待と関係していると言われがちですが、解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、一番の原因は予測できない無秩序な養育態度です。

虐待された幼児の80%が無秩序型愛着を呈したとする報告もあるが、はっきりとした虐待がなくても、養育者自身が子どもの体験に調子を合わせていなかったりコミュニケーションに食い違いが見られたりすると、無秩序型愛着が見られることがある。

ヘッセとメイン(Hesse and Main 1999)は、明らかな虐待がなくても、両親の脅しや怯え(fightening or frightened)の行動が無秩序型愛着をもたらしうることを報告している。(p138)

通常の子どもが身につける「秩序型」のアタッチメントとは異なり、「無秩序型」のアタッチメントは、場面ごとに性格がころころと変わるような一貫性のなさが特徴です。

親の養育態度に一貫性がなかったので、自分もまたその都度 空気を読んで、その時々の親の状態に合わせて振る舞う傾向を身につけるというわけです。

この無秩序型のアタッチメントの延長線上にあるのが、どんな相手に対しても無意識のうちに空気を読んで、いつの間にか合わせてしまう過剰同調性であるのは言うまでもありません。いわば、それは赤ちゃんのときから染み付いている対人関係ののクセのようなものです。

そして、続く部分に書かれているように、乳幼児期の混乱した養育体験は、解離の根本原因でもあります。

ライオンズ=ルース(Lions-Ruth 2003,2006)によれば、虐待や外傷などは後の解離症状を予想しなかったのに対し、幼児の18ヶ月における母親の混乱した感情的コミュニケーションは19歳における解離症状をかなり予想したという。

貧困、片親、母親の解離症状などとの関連は見出せなかったという。(p139)

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にも、同様の点がこう書かれています。

ライオンズ=ルースの研究から、解離は幼少期に学習されることが明らかになった。

のちの虐待やその他のトラウマでは、若年成人に見られる解離の症状は説明がつかなかったのだ。

虐待やトラウマは、他の多くの問題のおもな原因だったが、慢性的な解離や自分に対する攻撃性の原因ではなかった。(p201)

つまり、幼少期に無秩序な養育を受けていないかぎり、その後の人生で虐待や外傷などのトラウマを受けようが、強い解離症状は生じにくいということです。

言い換えれば、学童期以降も解離症状を示す人たちは、アスペルガー症候群などの特殊な事情がある場合を除いて、乳幼児期に混乱した養育を経験している可能性が高いということになります。

すでに見たとおり、通常、解離傾向は、幼児期特有のものです。だからこそ、イマジナリーコンパニオンは、成長するとともに消えていきます。感覚が組織化され、解離が生じなくなるからです。

しかし学童期以降もイマジナリーコンパニオンが現れる人は、何らかの理由で、解離が生じやすいのではないか、ということでした。

ひとつの理由はアスペルガー症候群であり、感覚の統合障害のせいで、明確なトラウマがなくても、強い解離傾向が大人になっても残ります。

もうひとつのケースはさまざまな環境要因による「安心できる居場所の喪失」とのことでした。

しかし単に逆境的な環境に面した子どもがみな居場所のなさを感じるわけではありません。なぜなら、普通の子どもは、逆境に面したとき、ストレスを意識でき、葛藤を抱えるために、何かしらの行動をとるからです。

ある場合は、友だちや親に愚痴って発散します。別の場合は非行や暴力などの問題行動に出て、怒りや不満を発散するかもしれません。

しかし、過剰同調性をもつ子どもはストレスそのものを自覚していないのでそれができません。葛藤を意識できず、どんな場面でも周りの人に合わせてしまいます。乳幼児期から、問答無用で周りに合わせる生き方が染み付いているからです。

ストレスを意識できず、葛藤を経験できない子どもは、自分の行動によってストレスを発散できないため、成長してもずっと、意識を切り離す解離という無意識の防衛機制に頼り続けます。ストレスがたまるとぼーっしたり空想世界に意識を逃したりします。

そうして、本来はなくなるはずの解離傾向が残り続けるため、学童期以降、強い慢性的なストレスにさらされると、泣いたりわめいたりして助けを求める代わりに意識を切り離します。

その切り離された意識は、別人格として、つまりイマジナリーコンパニオンとして、その子の前に現れることになるのです。

3つの条件が重なったとき空想の友だちが現れる?

こうして筋道立てて考えてみると、アスペルガー症候群ではない子どもの場合、学童期以降にイマジナリーコンパニオンが現れるには、3つの特徴的な条件が重なり合う必要があるのではないか、と思われます。

まずひとつは、乳幼児期の無秩序な養育体験です。これはすでに見たとおり、虐待のような状況はもちろんですが、それ以外にも、親の精神疾患や、やむを得ない理由による養育者の交代などによっても生じるものです。

無秩序型のアタッチメントは、単に養育者側の問題ではなく、子どもの側の過敏さがリスクとなる場合もあるようなので、生まれつきのHSP傾向の有無も関係しているでしょう。

これが一つ目の必須条件であり、もしこれがなければ過剰同調性が形成されません。

過剰同調性がなければ、学童期以降にストレスを受けたとしても、解離という無意識の防衛機制で対処することはなく、問題児になったり、別の何らかの精神疾患を発症したりするだけでしょう。

二つ目の条件は、成長してから慢性的なストレス環境にさらされ、「安心できる居場所の喪失」を経験することです。

解離の舞台―症状構造と治療が先ほどの文脈の続きでこう述べています。

カールソンほか(Carlson et al.2009)によれば、早期幼児期において無秩序型愛着が見られてもその後の生活が標準的であれば、解離傾向は高くなるがサブクリニカルな水準にとどまり、ストレス状態において解離的行動が表面化する潜在的素質を抱えることになる。

その後の生活において重度あるいは慢性的な外傷が見られ、かつそれに対する情緒的な援助がなければ、病的解離として発症する危険性は高くなる。(p139)

幼児期に身に着けた無秩序型のアタッチメントは、それ単独で解離を発症させることはありません。

しかし潜在的な解離傾向として潜伏し、のちに慢性的なストレスにさらされ、「安心できる居場所の喪失」に直面したときに解離として表面化します。

そして三つ目の条件は、慢性的なストレス体験の時期です。

幼児期に無秩序型のアタッチメントを身に着けた人が、その後の人生のどの時期にストレスを経験しても、たとえば成人になってから慢性的なストレスにさらされた場合でもイマジナリーコンパニオンが現れるのかというと、どうもそうではないようです。

以前に取り上げたように、イマジナリーフレンドが最も頻繁に観察されるピークは、2歳半から3歳半の時期と、9歳半から10歳半にかけての時期の2回だとされてます。

一回目のものは健常な幼児のイマジナリーコンパニオンですから、ここで関係しているのは、二度目の9歳半から10歳半のイマジナリーコンパニオンだということになります。

それ以降の時期、例えば成人後のサードマン現象などの場合、イマジナリーコンパニオンと呼べるほどまとまった人格としては現れにくく、しかも一過性にすぎないように思えます。

なぜ9歳半から10歳半という短い限られた期間が関係しているのか、当初は謎でしたが、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳には興味深い情報が書かれていました。

性的虐待を受けた時期(年齢)の違いによる被虐待者の局所脳灰白質容積を多重回帰解析にて検討したところ、被虐待ストレスによってさまざまな局所脳の発達がダメージを受けるには、それぞれに特異な時期(感受性期)があることが示唆された。

海馬は幼児期(3~5歳頃)に、脳梁は思春期前期(9~10歳)に、さらに前頭葉は思春期以降(14~16歳頃)と最も遅い時期のトラウマで重篤な影響を受けることもわかってきた。(p78)

脳の発達には順番があり、年齢ごとに成長している場所が異なります。子どもの場合、強いストレスは、脳にいつも一様なダメージを与えるわけではなく、ストレスを受けたときの年齢に応じて、その時ちょうど発達中だった場所がピンポイントで発達不良を起こすということです。

上記の研究は、性的虐待を受けた子どもについてのものですが、性的虐待は「安心できる居場所の喪失」の体験の最たるものです。

そうした子ども時代の「安心できる居場所の喪失」は、3から5歳ごろなら海馬に、9から10歳ごろなら脳梁に、14から16歳ごろなら前頭葉の発達に大きな影響を及ぼすことがわかりました。

このうち注目すべきは9から10歳ごろに脳梁の発達の感受性期があるということです。脳梁というのは、左脳と右脳をつなぐ橋の部分ですが、そこの発達が妨げられるとどうなるのか、子ども虐待という第四の発達障害 (学研のヒューマンケアブックス)に、こう書かれています。

ド・ベリスらの研究では、脳梁体部から脳梁膨大部にかけての脳梁4~7の体積が、被虐待児では健常な対照群に比べて小さかったのである。

さらに脳梁の体積と子どもの解離症状とは負の相関を示していた。つまり脳梁の体積が小さいほど、強い解離症状が認められたのである。

脳梁という右脳と左脳をつなぐ橋の体積が小さければ、右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなると予想される。

従って、そのような脳の状態において、解離症状が強くなることは当然考えられることである。(p104-105)

脳梁の発達不良は解離症状の強さと相関関係にあったのです。しかも、その結果として生じるのは、「右脳と左脳の共同作業が滞り、別々に働く傾向が強くなる」ことです。

右脳と左脳が別々に働くことが、人格の多重化と密接に関係しているというのは、以下の記事で詳しく考察したとおりです。

心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

もし、無秩序型の人がこれとは別の時期に慢性的なトラウマを経験した場合は、たとえば3から5歳の頃なら海馬へのダメージによる解離性健忘といったように、イマジナリーコンパニオンとは別の形の解離症状として現れやすいのではないかと思います。

ここまで考えれば、9歳半から10歳半にピークを迎えるという、学童期以降に見られるイマジナリーコンパニオンの正体が見えてきたように思います。

この遅い時期のイマジナリーコンパニオンは、ひとつのグループをなしているとはいえ、一般的な乳幼児期のイマジナリーコンパニオンに比べれば、かなり少数です。

なぜなら、それは、3つの条件が重なり合って始めて生じる特殊な現象だからです。その3つの条件とは、

(1)生後半年から数年ごろの乳幼児期に何かしらの混乱した養育を経験する
(2)その後の人生で「安心できる居場所の喪失」に遭遇する
(3)およそ9-10歳頃(小学校高学年ごろ)に経験する

の3つであり、おそらく、このいずれが欠けても、学童期以降のイマジナリーコンパニオンが明確に出現することは難しいのでしょう。

(1)の無秩序型のアタッチメントを抱える人は、人口の約15%に上るとされていますが、学童期以降にイマジナリーコンパニオンを持つ人はそれよりもかなり少ないので、やはり複数条件を満たす必要があるように思えます。

例外としてアスペルガー症候群のケースがありますが、自伝でイマジナリーコンパニオンがいたことを公言しているドナ・ウィリアムズは3歳ごろの幼児期に、ダニエル・タメットやテンプル・グランディンは学童期に空想の友だちが出現していて、やはり似たような時期的な条件があるようです。

ここまで考えてきたのは、このブログで過去からずっと取り上げてきた、いつの間にかイマジナリーコンパニオンと出会う人たちについての考察です。

しかし、冒頭で触れたように、このグループよりもはるかに多い人数の人たちが、イマジナリーフレンドを持ちたい、作りたいと考えているようです。

そうした人たちが「作る」イマジナリーフレンドとはいったい何者なのでしょうか。ここまで見てきた解離が無意識のうちに生み出すイマジナリーコンパニオンとはどのような違いがあるのでしょうか。

イマジナリーフレンドを「作る」人たち

これまでの論議から明らかなように、イマジナリーコンパニオンを語る上で、無意識のうちに生み出されるという性質は欠かせません。

幼児期のイマジナリーコンパニオンも、雪山でのサードマン現象も、そして9から10歳ごろにピークを迎える遅い時期のイマジナリーコンパニオンも、いずれも解離というメカニズムが色濃く関わっており、解離の本質は無意識のうちに生じることだからです。

ひとたびイマジナリーコンパニオンと「出会った」人たちは、その後の人生で創作に親しむなどして、空想の存在を「作る」かもしれませんが、それはあくまでも、自分から欲したものというより、空想世界が先にあって、その延長線上にあるものだと考えます。

それに対して、いちからイマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、明らかに、はじめから意識してそうした存在を欲しています。

これは、解離とは正反対の状態、つまり葛藤が認識されている状態だとみなせます。

寂しい、一人ぼっちだ、だれか話し相手がほしい、などといったストレスがはっきり意識されているので、その解決策として、意識的に空想の人物を作りたいと願うのでしょう。

こうした対人関係のストレスが意識されている状態は、すでに見たとおり、過剰同調性にも当てはまりません。過剰同調性は対人関係における「感情や同調をめぐる苦悩はあってもそれほど目立たない」からです。

そうすると、イマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、過剰同調性のおおもとにある無秩序型のアタッチメントにも当てはまらないことになります。

ということは、イマジナリーフレンドと「出会う」人と、イマジナリーフレンドを「作りたい」と思う人は、どうやら、乳幼児期の経験からして異なっているのではないか、ということになります。

イマジナリーフレンドを「作りたい」と思う人の特徴を挙げるとすれば、葛藤にとらわれ、人間関係に悩み、孤独を強く意識する人たち、ということになるでしょう。

こうした特徴は、乳幼児期に「無秩序型」とは別の、「不安型」と呼ばれるアタッチメントを身につけた人たちに見られるものです。

寂しさと空虚感はどこから来るか

「不安型」のアタッチメントの特徴については、以前の記事で詳しく扱いました。

このタイプは、過干渉を受けて育った人や、養育者を突然喪失した人などに見られます。

見捨てられ不安にとらわれる「不安型愛着スタイル」―完璧主義,強迫行為,パニックなどの背後にあるもの
岡田尊司先生と咲セリさんの「絆の病」を参考に、「不安型」「とらわれ型」の愛着スタイルを持つ人の感情や葛藤の原因についてまとめました。

「不安型」のアタッチメントを持つ人は、常に構われていた体験や、喪失体験のせいで、見捨てられ不安に敏感で、孤独を人いちばい強く感じやすく、他の人を慕い求める気持ちが強いという特徴を持っています。

「無秩序型」のように、混乱した養育を受けたわけではないので、無意識のうちに他の人に合わせることはできません。

しかし、見捨てられ不安が強いため、他の人に嫌われたり、拒絶されたりすることに強い恐れを持っていて、そのために相手に気に入られるような振る舞いをして、「良い子」を演じてしまいがちです。

人に合わせていることさえ意識していない過剰同調性とは違って、無理をして周りに合わせているという自覚があるので、対人関係でストレスが溜まりますし、孤独感を強く意識します。つまり、先ほど出てきた対人過敏の状態です。

この、対人過敏からくるストレスや、慢性的な寂しさ、空虚感などのために、それを満たしてくれる存在を求めるようになり、ときにイマジナリーフレンドのような存在を持ちたい、と考えるようになるのでしょう。

こうした人たちは、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合に書かれている次の例に相当するといえます。

解離に興味を持ち、「そのような症状を持ってみたい」という願望や空想を持つ人は少なからずいるということを患者さんたちから聞くことがある。

私は「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」という立場である。「解離になりたい」人たちは「解離になりたい」けれどもそうなれない人のはずだ。(p5)

こうした人たちは、解離の現象の一種であるイマジナリーコンパニオンに興味を持ち、そのようなものを持ってみたい、という願望や空想を持ち、そしてある程度の形でそれを実現させることができます。

しかし、それは解離によって無意識のうちに存在するようになった一般的な意味でのイマジナリーコンパニオンとは、少し異なるものでしょう。

すでに見たとおり、「解離は幼少期に学習される」ゆえに、「解離にはなりたいと思っても簡単にはなれない」からです。

こうして成り立ちを考えてみると、どちらが本物だとか優れているといった意味ではないものの、その性質が異なっている、というのは確かであるように思えます。

無秩序型の人の閉じた世界

ここまで見てきたように、いつの間にかイマジナリーコンパニオンが存在するようになった人たちと、自分の心を満たすために意識してイマジナリーフレンドを作った人たちとでは、振る舞いや性格がかなり異なる可能性があります。

つまり、同じように空想の友だちに親しんでいる人でも、「出会った」人たちと、「作った人」たちとでは、この現象の受け止め方や解釈、そしてコミュニティの文化といった点に至るまで、性質が異なっているのではないかと思います。

たとえば、無秩序型のアタッチメントを土台とし、イマジナリーコンパニオンと「出会った」人たちは、自分の空想の友だちとの交流について、ただ自分の心のうちにだけとどめているか、ごく一部の信頼できる人以外には打ち明けていないことが多いでしょう。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合には、解離性同一性障害をはじめ、解離傾向の強い人たちの特徴として、次のような点が書かれています。

私はおそらく多くの「見事な多重人格」に出会っているが、彼女たちの大半は、症状により自己アピールをする人たちとは程遠いということだ。

彼女たちの多くは解離症状や人格交代について自分でもあまり把握していないことが多い。

…そして多くはそのことを他人にはできるだけ隠そうとするのだ。なぜなら彼女たちは他人から「おかしい」と思われることを非常に恐れるからである。(p5)

解離性障害など、強い解離傾向を持つ人たちは、自分の経験している症状を「他人にはできるだけ隠そうとする」傾向があります。

これは、土台となっている無秩序型のアタッチメント、そして過剰同調性を考えれば当然のことといえます。

これは、予測不可能な状況に自分を合わせることを特徴としていて、周りからおかしいと思われたり、人目を引いたりすることを極端に避け、空気を読みすぎる特性だからです。

自分には空想の友だちがいるとか、見えないものが見える、といった奇妙な体験を、さほど親しくもないだれかに積極的に打ち明けて、空気の読めない振る舞いをすることなどほとんどありえないでしょう。

解離傾向の強い人たちは、そもそもだれかに理解してほしいとか、わかってもらいたい、経験を共有したい、という気持ちをほとんど表に出さないことがしばしばです。

根底ではそうした気持ちを持っているのでしょうが、「安心できる居場所の喪失」を経験して空想の世界に意識を飛ばすことが当たり前になったせいで、現実の他者にはほとんど期待しなくなっていくのでしょう。

その代わりに、長年にわたって構築してきた内的な空想世界を持っており、空想世界にたくさんの仲間がいるおかげで、現実世界の交友には固執しなくなります。

現実の他者への執着がないせいで、自分の空想の友だちについて誰かに理解してほしい、気持ちを共有してほしいという思いはほとんど抱いていません。どちらかというと共有したくない、踏み込まれたくないという気持ちのほうが大きいかもしれません。

リアルでもネット上でも、人間関係でトラブルを引き起こすことは少なく、いざこざに巻き込まれても自分から身を引いてしまうような人たちです。

おおよそのところ、この人たちは、解離の舞台―症状構造と治療に書かれている次のような性格に近いことが多いでしょう。

解離性障害の患者の多くは、演技的でも、露出狂的でも、虚言的でもない。

内気で人にうまく合わせ、控え目で、どこか怯えを抱えている。単に「健康」とは言えず、「一見健康に見える」と言うのがふさわしい。(p19)

解離傾向の強い人たちは、だれか他者を求めるより、一人きりになって自分の空想世界に親しみ、絵や小説などを創作するのに忙しくしている傾向があるように思います。

自分自身の経験を世に送り出すとしても、ちょうど、愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)に書かれている夏目漱石がそうしたように、創作作品に織り込むなどして、はっきりと目立たないようカモフラージュするかもしれません。

漱石は、自分のことを表現するのが、とても不器用だった。それゆえ、文学作品という体裁をとって、間接的に自分の傷ついた心を表そうとしたとも言える。

漱石の作品は、いかに自分の正体を見破られないよう隠蔽しつつ、かつ自分を表現するかという二つの相反する要求の微妙なバランスの上に成り立っていた。(p238)

この人たちは、人間関係も孤独の解消も自分の内側でほぼ完結してしまっていて、閉じた世界、ある意味 自給自足の内部循環システムのある世界に住んでいるのだといえます。

青年期の解離や空想の友だちについての研究があまり進んでいないのは、こうした事情から、当事者が自分の経験を語ることに消極的であるせいなのかもしれません。

不安型の人の開けた世界

他方、「不安型」のアタッチメントを持っていて、寂しさや空虚感を埋めるためにイマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちは、まったく逆の特徴を示すかもしれません。

この人たちは、慢性的な空虚感や寂しさを抱えているので、現実の他者を求める傾向が強くなります。

その空虚感を埋めるためにイマジナリーフレンドを「作りたい」と考えるのでしょうが、たとえ空想の他者を作ったとしても、現実の人間関係を求める気持ちは変わらないでしょう。

自分が作った空想の存在に癒やされるかもしれませんが、それだけでは満足できず、現実のだれかと、あるいはSNS上の人たちと、この空想を共有したい、わかってもらいたい、と考えるかもしれません。

そうした積極的な行動は、「他人にはできるだけ隠そうとする」傾向を持っていた解離傾向の強い人たちとは正反対です。

おそらく、インターネット上のブログやSNSで活発に発信されているイマジナリーフレンド関係の体験の多くは、こちらのタイプの人たちによるものかもしれません。

自分の内的世界の中だけで完結せず、どうしても現実の他者を巻き込もうとしてしまうのは、解離傾向の強い人たちが有していたような巨大な内的世界を持っていないからです。

解離傾向の強い人たちは、子どものころから空想の世界に意識を飛ばすことが習慣だったせいで、空想傾向や持続的空想と呼ばれる内的世界を構築しています。

だからこそ、危機に直面したとき、あたかも内側からだれかが助けに来てくれるかのようにイマジナリーコンパニオンと出会います。

一方、不安型のアタッチメントを持つ人たちは、現実の他者への執着が強いために、空想世界に心を飛ばすようなこともほとんどなく、空想世界を構築してきませんでした。

そのため、自分の内側が空っぽだと気づいたとき、自分でイマジナリーフレンドをどこからか作る必要に迫られます。

内側から呼び出せないものは、外側から手に入れるしかありません。もともと現実の他者ありきの開けた世界に住んでいるため、たとえイマジナリーフレンドを作ったとしても、それだけでは完結できません。

現実の人間関係を切り捨てることはできず、対人過敏傾向はそのままなので、リアルでもネット上でも、しばしば過剰反応したり、意見を闘わせたりと、活発で起伏の激しいやりとりをしがちです。

ここまで見てきたイマジナリーフレンドといつの間にか「出会う」人たちと、イマジナリーフレンドを「作りたい」と考える人たちの性格特性の違いは、おおまかにいえば、以前に記事で取り上げた、解離性障害と境界性パーソナリティ障害の違いと共通しています。

境界性パーソナリティ障害と解離性障害の7つの違い―リストカットだけでは診断できない
境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン:BPD)と解離性障害はどちらもリストカットなど共通点があり区別しにくいとされています。その7つの違いを岡田憲一郎先生の「続解離性障害」など

青年期にイマジナリーフレンドを持つ人たちの多くは、解離性障害や境界性パーソナリティ障害と診断できるほど顕著な症状を示さないかもしれませんが、基本的な性格特性は、このいずれかに相当すると思われます。

つまり、無秩序型のアタッチメントや、過剰同調性を土台として、いつの間にかイマジナリーフレンドが存在するようになる解離傾向の強い人たちは、解離性障害に近い存在でしょう。

他方、不安型のアタッチメントを土台として、対人過敏を抱え、心の空虚感や寂しさに敏感で、イマジナリーフレンドを作りたいと考える人たちは、境界性パーソナリティ障害に近い性格特性を有しているといえます。

解離の舞台―症状構造と治療には、境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)と、解離の違いが次のように簡潔に書かれていますが、それはここまで考えてきたことと一致します。

ボーダーラインでは身近な他者と自己とのあいだ、解離では自己内の他者と自己とのあいだで、病理が展開する。(p190)

境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)傾向のある人では、現実の他者やSNS上の誰かを巻き込んだ世界が必須で、気持ちを共有したいという気持ちが強いのに対し、解離傾向の強い人たちは、自分の内部で人間関係が完結しているので、かえって踏み込まれたくないという気持ちのほうが強いのでしょう。

回避型の人のさばさばした世界

ここまで無秩序型アタッチメントによってイマジナリーフレンドと「出会った」人たちと、不安型アタッチメントによってイマジナリーフレンドを「作った」人たちの性格特性や振る舞いの違いを考えましたが、中には、どちらにも当てはまる中間的な人がいるかもしれません。

もともと無秩序型のアタッチメントは、内部に不安型のアタッチメントを含んでいるので、ときには人を求めすぎ、ときには人を恐れすぎるという両極端に振り回されることは十分にありえます。

アタッチメントスタイルはある程度変動しうるもので、その時々の環境の影響を受けるので、年齢を経るとともに振る舞い方が変わっていく人もいるかもしれません。

他方、ここまで見てきた傾向のどちらにも当てはまらない中間的な人もまた存在しているはずです。

特にアスペルガー症候群の人たちは、他者を過度に恐れて避けることも、他者に執着してとらわれることもなく、そもそも他者に関心が乏しい失感情症傾向が強い場合があります。

この場合は、無秩序型でも不安型でもなく、回避型と呼ばれるアタッチメントの振る舞いに近くなるかもしれません。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

そうした人たちは、イマジナリーフレンドの存在を他者に理解してもらおうと執着することもなければ、踏み込まれたくないと過剰に恐れることもなく、淡々と空想世界と付き合っていくことでしょう。

解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、アスペルガー症候群の人たちが解離しやすいのは、定型発達者のような対人関係の過剰同調性または対人過敏によるものではありません。

解離型ASD者も同じように、そのほとんどが幼少時から「居場所はなかった」と訴える。

しかしASD者にとって辛いのは、こういった定型発達者の他者の攻撃性に由来する「居場所のなさ」とは異なり、そもそも自分はこの社会に落ち着くところがない、馴染むところがないという発達的問題としての「居場所のなさ」である。

定型発達者とASD者では、同じ「居場所のなさ」でもその内実が異なっている。(p104)

アスペルガー症候群では、そもそも他者に対してはあまり関心がなく、生まれ持った感覚統合の弱さのために、社会そのものに対する居場所のなさが生まれ、解離してしまいます。

もともと他の人への関心に乏しく、良くも悪くも空気を読まない、つまりマイペースに振る舞いがちなので、イマジナリーコンパニオンの存在についても、過度に隠すことも、過度にアピールすることもなく独自路線を行くのかもしれません。

しかしアスペルガー症候群でない定型発達者たちの場合は、あくまでも他の人の気持ちに鋭い関心がある上で、それでも現実の他者への不信感や失望から回避的になる場合に、心が分裂するような解離状態が生じ、人格の多重化の土台になるのだと思います。

イマジナリーコンパニオンや空想世界を有している無秩序型の定型発達者は、一見、回避型に近い性格であるように感じられることがあります。

おそらく空想世界の存在が安全基地として働いているおかげで、不安傾向が弱まり、見かけ上、クールな回避型に近い性格で安定しているのではないかと思います。

わかりやすい「解離性障害」入門によると、青年期にイマジナリーコンパニオンを持っていることで、かろうじて精神のバランスを保っている人たちがちらほらいると書かれていました。

解離性障害の患者さんでは、大人になってもイマジナリーコンパニオンの存在によって心のバランスを保っている場合があります。(p40)

ある意味、その存在が安全基地として支えになっているおかげで、本格的な解離性障害や解離性同一性障害が発症するのを食い止めている状態にあるのかもしれません。

しかし、もしそれらの空想上の安全基地が取り去られるようなことがあれば、安定性が損なわれ、典型的な無秩序型の性格に近づくことでしょう。

これに対して、純粋な回避型の定型発達者は他の人の気持ちにあまり共感しないクールさが特徴なので、たとえ解離症状を経験するとしても、イマジナリーコンパニオンのような空想の相談相手は現れにくいのかもしれません。

自身のアタッチメントスタイルは愛着スタイル診断テストなどである程度判別できますが、あくまで空想世界やイマジナリーコンパニオンがない場合を仮定して設問に回答するなら、見かけ上の補正されたアタッチメントではなく、生まれ育った本来のアタッチメントが判別しやすいと思います。

上記テストだと、この記事で考えてきた解離傾向の強い無秩序型の人は「恐れ・回避型」、不安感の強く境界性傾向のある人は「不安型」や「未解決型」に相当します。

「強い解離」と「弱い解離」は文化が異なる

以前の記事の中で、イマジナリーコンパニオンと「出会う」人と「作る人」は、ちょうどある言語を第一言語として話す人と、成長してからバイリンガルの第二言語として学んだ人のような違いがあるのではないかと書きました。

この記事で扱ったことからすると、それは具体的には、幼少期から解離傾向を持つ人と、成長してから「解離になりたい」と感じる人の違いと言うこともできるのでしょう。

アスペルガー症候群や無秩序型のアタッチメントの人が持っている解離傾向は「強い解離」と呼ばれる一方、境界性パーソナリティ障害の人が示すような軽度の人格のスイッチングは「弱い解離」と呼ばれることを以前の記事で書きました。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった
脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし

とすると、イマジナリーコンパニオンといつの間にか勝手に出会ってしまう人は「強い解離」の持ち主であり、心の空虚感や寂しさからそうした存在を求めて作る人は「弱い解離」の持ち主だと言い換えることもできます。

解離という現象はスペクトラム(連続体)なので、あらゆる人に程度の差こそあれ存在しています。

アスペルガー症候群の感覚統合障害や、幼少期の無秩序型のアタッチメントを持つ人は、その傾向がかなり強く、それゆえに自動的に人格が解離され、多重化する傾向があるのでしょう。それがイマジナリーコンパニオンとの「出会い」です。

このタイプの人たちは、もちろん「出会う」ことも「作る」こともどちらもできます。しかし解離が無意識のうちに働きやすいことを考えると、少なくとも最初にイマジナリーコンパニオンと接するときは「出会い」から始まり、その後、別のだれかを「作る」としても、やはり無意識的な性質が強いはずです。

一方、それほど解離傾向の強くない人たちは、無意識のうちに解離して人格が作り上げられることはないのでしょう。だからこそ、意識して自分の心の中の多面性に目を向け、自分の手でイマジナリーコンパニオンを「作る」しかないのだといえます。

この両者は「強い解離」か「弱い解離」かという、同じ解離のスペクトラム上にいるとはいえ、 解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合で書かれているとおり、「強い解離」と「弱い解離」はかなり異なった振る舞いを見せます。

解離性障害における「解離」(強い解離)とは、輪郭が鮮明であり、しばしば健忘障壁があったり別の主体により担われたりしている。

スターンたちの論じる解離はむしろ緩やかな解離(「弱い解離」)である。

…そこで出てくる解離は、もっぱら「弱い解離」であり、解離されている心はいずれ治療その他を通して主体に取り入れられる。そしてあくまでも主体は一つということになる。

つまりスターンの解離理論はそもそも人格部分という考え方を前提としていない。その意味ではまだまだ「精神分析的」なのである。

そのため「強い解離」すなわち解離性障害に悩む人にとっては必ずしも助けにはならないかもしれない。(p82)

ここでのポイントは、「弱い解離」の場合、「あくまでも主体は一つ」ということです。たとえ自分からイマジナリーコンパニオンを作って人格を独立させたように思えても、根本のところで一つです。だからこそ、現実の他者をどうしても必要とします。

他方、「強い解離」の持ち主は、はっきりと別の人格部分の存在を意識しており、「輪郭が鮮明」です。自分はもともと複数であり、自己の内側で世界が完結してしまうのはそのためです。現実の他者にほとんどこだわりません。

「出会う」人と「作る」人の文化の違い

わたしは空想の友だち現象に興味を持ってから、さまざまな本を調べたり、ネット上の当事者たちのブログやSNSを見てきましたが、「出会う」人たちと「作る」人たちの文化には何かしら違いがあるように感じていました。

「出会う」人たち、つまりこのブログで取り上げてきた、精神医学や発達心理学の本の中に出てくる純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンを持つ人は、その存在を、自分とははっきり違う他者として認識しているように思えます。

その感じ方は、「強い解離」の最も極端な例である、解離性同一性障害(DID)の人が、自分の別人格に対して感じる気持ちとかなり近いものだと思われます。

以前に書いたとおり、DIDや純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンとして別人格を持つ人たちは、別人格を自分と同等の尊厳を持つ一個の人間として捉えています。

別人格を自分の望みに応じて作ろうとしたり、使役しようとしたり、無理やり消そうとしたりはしません。あくまで同等の他人だからです。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか
解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオン(IC)の別人格は、一人の人間として尊厳をもって扱われるべきなのか、という難問について、幾つかの書籍から考えた論考です。

解離の舞台―症状構造と治療に書かれているとおり、DIDの別人格と純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンは、おそらく「強い解離」を土台とした、かなり近い部類の現象なのでしょう。

多くの場合、ICは幼少時だけに見られて思春期になるとほとんど消滅してしまい、以降出現することはない。

しかし、DIDではICと交代人格が密接に関係しているケースも散見され、実際にそうした報告もいくつかある。

DIDとICの関係については、幼少期のICと交代人格の連属性がまったく見られないケースや、ICが幼少期に一過性に見られなくなるが思春期に交代人格としてふたたび出現するケース、幼少期のICが成人期の交代人格へとそのまま連続しているケースなどさまざまである。

DIDに見られる幼少期のICは、困難な状況において本人の身代わりを演じていたり、助言を行なったり、本人を守ったりしていることが多い。

こうしたICの役割傾向は、交代人格に見られる救済者ないしは守護者などへとつながっているように思われる。(p161)

以前に書いたとおり、心の中の別人が、互いに親密な関係にあり、しっかりコミュニケーションできる状態がイマジナリーコンパニオンであり、何かのあつれきのために互いに口を利かなくなっている状態がDIDではないかと思います。

現実の他人が、親友として意思疎通することもあれば、気持ちのすれ違いから秘密を作ってしまうこともあるのと同じです。解離傾向が強くて、別人格が明確な輪郭を持つ他人のように分離しているからこそ、現実の人間と同様の振る舞いを見せます。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中に書かれているように、「強い解離」による別人格は、はっきりとした別人であり、当人の一面としてではなく、「個別に」扱う必要があります。

「強い解離」を扱う場合は、やはり解離された個の人格部分を「個別に」、もう少し言えば「別人として」扱う必要はどうしても出てくる。

解離された側は、主観にとっては「なんとなく」「繭に包まれたように」感じ取られるだけかもしれない。

でも「なんとなく」感じさせている側は、独自にある明確な体験を持っている。

…精神分析における「弱い解離」では、解離している部分からの囁きを問題にする。

ところが解離性障害における「強い解離」では、囁き手と直接かかわる必要が生じるのである。(p90)

他方、ネット上で見かけたイマジナリーフレンドやタルパを「作る」人たちの中の場合、創作の延長線上にあるかのように別人格の設定を考えたり、対等な人間というよりも、うちの子、使い魔といった捉え方をしたりしている人たちもいました。

作成した空想の他者は、自律化していく必要がある、とする説明もありました。これは、現れた瞬間から一個の人格として意志をもって動いている純粋な意味でのイマジナリーコンパニオンにはまったく必要ない過程でしょう。

また、自分自身はハンドルネームを使っているのに、自分の別人格の名前はSNSやブログで公開している人もいました。

もし同等の個人としての尊厳をはっきり意識していれば、別人格のプライバシーを意識して自分と同じように本名を伏せるか、あるいは自分も別人格も両方とも本名を公開するように思います。

扱いに差があるというのは、つまり同等の個人ではなく、あくまで上下関係があるということになります。

もちろん、そうした扱いがおかしい、間違っているというわけではなく、単に認識の違いがある、という意味においてです。

そうした上下関係は、すでに見たとおり、創作に近いもので、作家が自分はペンネームを使いながら、登場人物たちには本名を使って語らせるのと似ているでしょう。

そもそも、別人格との具体的なやり取りを、ブログやSNS上に積極的に公開しているのは創作作品との親和性を感じます。ふつう、現実の友だちとのやりとりは、個人的な日記に残すことはあるとしても、ネット上で不特定多数の人に公開したりはしないからです。

以前の記事で扱ったとおり、作家が作るキャラクターと、イマジナリーコンパニオンは連続した性質を持っているのは確かです。

しかしその連続性は「弱い解離」か「強い解離」かという違いにつながるので、同じものとして論じることはできません。

「弱い解離」によって作られたイマジナリーフレンドは、「強い解離」の人のイマジナリーコンパニオンほど独立した別人としての輪郭を持っていないせいで、自分で設定して作ることもできれば、自分の望みに合わせて変更することもできるのでしょう。

「弱い解離」と「強い解離」には、はっきりと境目があるわけではありませんが、それでも、内なる人格に対する扱い方が、対等な尊厳を持つ他者に似ているか、それともある程度創作的なキャラクターに似ているかは、わりとはっきり現れるのではないでしょうか。

解離の文化を知るために

同じ空想の友だちといっても、これほど「出会う」人と、「作る」人との間に認識の差があるのだとすれば、やはり、それをひとまとめにして扱うのは適切でないように思えます。

空想の友だち現象を、創作の登場人物まで含むものとして定義を広げてしまうと、解離性同一性障害の別人格や本来のイマジナリーコンパニオンを持つ人たちの独特な体験が覆われてあいまいになってしまう可能性があります。

もし意識的に「作る」ものを解離の範疇に含めてしまうと、解離性同一性障害の人格交代は意識的に演じ分けている演技や詐病、自己アピールなのではないか、という批判にもつながりかねません。

それが現に生じている極端な例が、アニメやドラマに出てくる、現実にはありえないキャラ付けとしての多重人格者だったり、イマジナリーコンパニオンをエア友や脳内彼氏(彼女)と同列にみなしたりする風潮でしょう。こうした混同は、解離という体験の本質を歪めて伝えてしまっています。

もちろん、作家が空想の友だちのようにして登場人物を「作る」のは事実ですし、イマジナリーフレンドを意識して作り、その空想を楽しむ人たちには、その人たちなりの体験世界があります。

この記事で考えたとおり、「強い解離」を持つ人たちに独特な世界や文化があるのと同様、「弱い解離」を持つ人たちにも特有の文化がありました。それらは、どちらも興味深いもので、掘り下げて調べる価値があります。

しかし、どちらを掘り下げて調べるにしても、やはり両者をはっきり区別しておかないと あいまいになってしまい、本質を捉え損なうでしょう。

「強い解離」と「弱い解離」の違いは、この記事で考えたように、源流をたどれば幼少期のアタッチメント(愛着)の違いに行き着くのではないか、と考えられます。 

愛着障害の克服~「愛着アプローチ」で、人は変われる~ (光文社新書)とでは、アタッチメントスタイルが違えば、あたかも別の人種のような違いが生じるとされています。

愛着スタイルは、パーソナリティのさらに土台ともいえる部分を動かしている。つまり異なる愛着スタイルの人は、異なる言語と文化をもつ異国人のようなものである。

この点を理解しておかないと、言語や文化の違いを無視して、コミュニケーションをしようとするような無茶なことになってしまう。

すれ違いや誤解が起きてしまうことは必定だ。実際に、いたるところでそうしたことが起きている。

それぞれの愛着スタイルに備わった認知や思考の様式、感情や行動の表出方法の特性を知らないと、相手の真意をとらえ損なってしまう。(p221)

異なるアタッチメントを持つ人たちの文化をまぜこぜに扱ってしまうと、「相手の真意をとらえ損なってしまう」ことになります。

たとえばヨーロッパの文化をひとくくりにしてとらえると、そこにある多様性の本質を捉え損ないます。本当にヨーロッパの文化を理解したいなら、ヨーロッパの各国家や各民族それぞれの文化を個別に理解し、その上で、それらが混じり合った世界について考えなければなりません。

そのようなわけで、やはりこのブログでは、解離とその文化を扱う以上、イマジナリーコンパニオンに「出会う」人と、「作る」人は、別個に分けて考えるのが不可欠だ、ということになるでしょう。

結局のところ、多様性が混じり合った文化を尊重するには、まずそこに含まれる小さなグループそれぞれの文化を尊重し、個々の違いを理解していく必要があるのです。

概日リズム睡眠障害の非24時間型と睡眠相後退型の違いが見つかる―体内時計が真の夜型かどうか

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立精神・神経医療研究センター (NCNP)の三島和夫先生らのグループによる、概日リズム睡眠障害の最新の研究成果が発表されました。

概日リズム睡眠障害の患者の体内時計の周期を皮膚細胞から簡単に測定できるようになったほか、睡眠時間が日に日にずれていく非24時間型(non-24)と、宵っ張りの朝寝坊で固定する睡眠相後退型(DSPS)とでは、異なる特徴が見られたとのことです。

この結果は、同じ概日リズム睡眠障害といっても、治療の目指すところはそれぞれ異なっていて、規則正しい生活とは一人ひとり異なるものだ、という点を示唆しているのかもしれません。

皮膚細胞を用いて『概日リズム睡眠-覚醒障害患者』の体内時計周期の異常を同定│プレスリリース詳細 | 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター

概日リズム睡眠障害の2つのタイプ

過去に取り上げたように、概日リズム睡眠障害とは、睡眠リズムが乱れて社会生活が難しくなる睡眠障害です。

全部で6種類あり、睡眠相後退型(極端な宵っ張り)、睡眠相前進型(極端な早起き)、非24時間型(時間がずれていく)、不規則型(リズムが崩壊している)のほか、時差ボケや交代勤務による睡眠障害も含まれます。

このブログでは、特に子どもの不登校や慢性疲労症候群と関わりが深いことから、概日リズム睡眠障害のうち、睡眠相後退型(DSPS)と非24時間型(non-24)を詳しく扱ってきました。

睡眠相後退型について今回のプレスリリースではこう説明されています。

睡眠-覚醒相後退障害では明け方にようやく寝ついて昼頃に目を覚まし、重症型では昼夜逆転に陥ります。

一般人口での有病率は約0.4〜1.7%、慢性不眠のある方の7〜10%が該当すると推定されています。

夜眠れず朝起きられない「睡眠相後退症候群(DSPS)」にどう対処するか(1)DSPSとは
朝どうしても起きられない、夜なかなか寝つけない、一度眠ると10時間以上目が覚めない…そうした悩みは症状は睡眠相後退症候群(DSPS)の症状の可能性があります。一連のエントリの最初で

非24時間型については次のように説明されています。

非24時間睡眠-覚醒リズム障害では睡眠時間帯が毎日徐々に遅れます。一般人口での有病率は不明ですが、全盲者の約20%、弱視者の約10%で認められます。

視覚障害のない方では稀ですが、睡眠障害外来では決して珍しくない疾患です。全米では10万人ほどが罹患しているとされ、日本の人口に換算すると4万人強の患者さんがいると推定されます。

睡眠リズムがどんどんずれていく非24時間型睡眠覚醒症候群(non-24)の原因と治療法まとめ
同じ時刻に眠ることができず、睡眠時間帯が毎日遅れてゆく。時差ぼけ症状に苦しみ、社会生活に大きな支障が生じる。そしてときには慢性疲労症候群(CFS)と診断される。数ある睡眠障害の中で

どちらも自分ではコントロールできないところで睡眠時間がずれてしまい、社会生活が難しくなってしまう、という点では共通しています。

しかし、過去の資料を見ると、極端な宵っ張りの朝寝坊である睡眠相後退型は、環境調整や高照度光療法、メラトニンによる治療が効きやすいのに対し、非24時間型は比較的難治性で治療が難しいという違いがありました。

非24時間型と睡眠相後退型の原因の違い

三島先生らのグループによる過去の研究では、非24時間型の人と睡眠相後退型の人とでは、遺伝的な体質の部分で異なる点があるのではないか、と示唆されていました。

まず、2012年の研究では、健常者の体内時計の周期が平均24時間7分、つまり ほぼ24時間周期だったの対して、夜型の健常者や非24時間型の人は平均24時間29分と、かなり長いことがわかっていました。

(独)国立精神・神経医療研究センター・三島和夫部長らの研究グループが、睡眠リズム異常の原因を解明- 新たな診断法の開発に期待 -│プレスリリース詳細 | 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター

このことは、生まれつき夜型の体質(クロノタイプ)で体内時計の周期が長い人たちがおり、朝型社会に合わせるのに苦労するばかりか、場合によっては非24時間型を発症しかねないリスクがあることを示唆していました。

概日リズム睡眠障害の患者さんの多くでは幼少時から夜型傾向が見られます(環境ではなく体質が強く関連)。

本研究により夜型と非同調型との間にも睡眠リズムが崩れやすくなる共通の生物学的基盤が存在することが明らかになりました。

今回のプレスリリースにもこう書かれています。

睡眠や体温、ホルモン分泌など多くの生体機能は体内時計(生物時計)システムによって約24時間周期のリズム(概日リズム、サーカディアンリズム)を刻んでいます。

ただし体内時計周期の長さには大きな個人差があるため、周期の長さが極端に短縮したり延長している人では24時間の昼夜サイクルに時刻合わせができなくなり、概日リズム睡眠-覚醒障害を発症すると考えられています。

三島先生の著書朝型勤務がダメな理由 あなたの睡眠を改善する最新知識によると、朝型・夜型という体質(クロノタイプ)は遺伝の影響が強く、環境によって変えることは難しいとされていました。

朝型夜型についての体質は「クロノタイプ」とも呼ばれていて、これは変えられない。過去の研究から、個人のクロノタイプの決定には遺伝的影響が約50%、加齢の影響が数%程度関わることが分かっている。

一方、環境的影響はないか、あってもごく小さいと言われていて、目覚ましや光を使って朝早く起きる生活を続けても、朝型体質に変わることは期待できないんだ。(p56)

つまり、非24時間型の人は、この遺伝的な夜型体質のクロノタイプが強いために、睡眠リズムがずれやすく、環境を変える治療もあまり効果が長続きしないのでしょう。

続いて2014年の研究では、夜型の健常者と非24時間型では、特殊な時計遺伝子の多型が多かったのに対し、睡眠相後退型では標準型の健常者と変わらない、という結果が出ていました。

国立精神・神経医療研究センター・三島和夫部長らの研究グループが、睡眠・覚醒リズム異常に関連する遺伝子の違いを同定│プレスリリース詳細 | 独立行政法人国立精神・神経医療研究センター

非24時間型睡眠覚醒症候群(フリーラン型)に関係する遺伝子PER3が見つかる
時計遺伝子PER3の違いが概日リズム睡眠障害の発症や夜型指向性に関連していることが明らかになったそうです。

このことは、非24時間型は生まれついた夜型のクロノタイプとの関連性が強いのに対し、睡眠相後退型はそうではない、ということむを示しています。

睡眠相後退型でも、さまざまな時計遺伝子の異常が報告されることがありますが、非24時間型は、とりわけ体内時計に関わる遺伝子の影響が強いのかもしれません。

非24時間型は体内時計の周期が長い

今回の研究では、より簡便に体内時計の周期を測定できるようになったことから、睡眠相後退型や非24時間型と体内時計の周期の関係、治療の効果との関連が、より詳しく調査されました。

このたび対象とされたのは、概日リズム睡眠障害の人67名、そのうち睡眠相後退型が41名、非24時間型が26名、そして比較対象としての健常者50名です。

それぞれの皮膚細胞から、末梢時計の周期を測定し、体内時計のリズムを比較したところ、以下のような点が明らかになりました。

■非24時間型の体内時計の周期
以前の研究と同様、非24時間型(非同期型)の人たちは、健常者よりも体内時計の周期が長くなっていることが確かめられた。

その結果、非24時間睡眠-覚醒リズム障害群の末梢時計周期は健常者群に比較して有意に延長していることが確認できました(図3)。

■睡眠相後退型の体内時計の周期
睡眠相後退型の体内時計の周期は健常者とほとんど同じだった。一部の家系発症型(遺伝型)を除いて、末梢時計リズムの周期の問題ではないと思われる。

 一方、睡眠-覚醒相後退障害の患者では末梢時計周期の異常は認められず、時間療法の効果判定にも有用ではありませんでした。

ごく最近、家系発症型(遺伝型)の睡眠-覚醒相後退障害患者では体内時計周期が延長していることが報告されましたが、患者の大部分を占める孤発型の睡眠-覚醒相後退障害は体内時計周期の異常以外の原因で発症している可能性が示唆されました。

■体内時計の周期の長さと治療効果の関係
非24時間型の中でも、体内時計の周期が短めの人は時間療法(高照度光療法やメラトニン/メラトニン受容体作動薬など)の効果が高かった。逆に体内時計の周期が長いほど効果が薄かったことになる。睡眠相後退型のほうは、体内時計の周期と治療の効果に関係は見られなかった。

本研究の結果、時間療法の奏功した非24時間睡眠-覚醒リズム障害患者では、奏功しなかった患者に比較して末梢時計周期が有意に短いことがわかりました。

今後は、難治例の治療法の研究や、概日リズム障害の診断ツールの開発に取り組み、それぞれの人の体内時計に合ったテーラーメイド医療を目指していくそうです。

「真の夜型」と「なんちゃって夜型」

これらの結果を見てみると、これまでの研究と一致した理解が得られるように思います。

つまり、睡眠相後退型は、一部の家族性のものを除いて、体内時計の長周期、つまり生まれつきの夜型のクロノタイプ以外の要素によって発症しているということになります。

もともと通常の睡眠パターンを持つ健常者が、夜の光などの環境要因のせいで睡眠時間が後ろにずれてしまうのかもしれません。そうすると、治療もまた、環境要因を調整すれば改善されやすいのだと推測できます。

遺伝的な要素がまったく関係ないわけではなく、体内時計の夜型朝型(クロノタイプ)以外の遺伝要素、たとえば光への感受性が強く、夜の光で夜型リズムにずれこみやすいことなどが関係している可能性はありそうですが、今のところははっきりとしません。

他方、非24時間型のほうは、遺伝的に体内時計の周期が長く、生まれつき夜型のクロノタイプを持っているようです。そして生来の夜型傾向が強ければ強いほど、時間療法の効果も薄くなります。

この二つは、三島先生の朝型勤務がダメな理由 あなたの睡眠を改善する最新知識で書かれている「真の夜型」か「なんちゃって夜型」に相当するのでしょう。

「なんちゃって夜型」「真の夜型」というのは正式な学術用語じゃなく、僕たちが研究の結果をもとに面白半分で付けた名前なんだ。

このようなへんてこなネーミングは個人的にはあまり好きじゃないのだけれど、夜型の誤解を解くためにはいいかと思って。

夜型の調査研究の結果、何かの理由で宵っ張り型の生活をたまたま続けているうちに夜型生活が固定してしまった、でも必要があれば朝型生活に戻れる人が交じっていることが分かってきたんだ。

そのような朝型生活にすぐ戻れる夜型を「なんちゃって夜型」、朝型生活への適応が体質的に難しい夜型を「真の夜型」と呼んでいるんだよ。(p61)

睡眠相後退型の人たちがみな「なんちゃって夜型」と呼べるほど瞬時に朝型に戻れるわけではないでしょう。睡眠相後退症候群(DSPS)の治療が一筋縄ではいかないことは、このブログの過去記事で扱ってきたとおりです。

しかし、三島先生の調査では、睡眠相後退型の人たちの体内時計の周期の平均は、健常者とそれほど変わらず、夜型の人と共通する時計遺伝子の多型もさほど見られませんでした。つまり、その多くは「真の夜型」のクロノタイプではありませんでした。

この場合、夜に光に当たる生活環境やデジタルデバイスの使用などを見直して、染み付いた夜型志向の習慣を正していくことができれば、朝型生活に復帰することもできるはずです。

「なんちゃって夜型」という表現は、どうあがいても抜け出せない「真の夜型」ではなく、適切な治療を受ければ朝型に戻れる可能性がある体質なのだ、というポジティブな意味にとらえることができます。

もっとも、習慣を正すというのは非常に困難なことも事実です。学生の場合、家族の夜型生活、夜の塾通い、友だちとのSNSなどの習慣が関係していることもあり、家族ぐるみで根本的な変化が求められるかもしれません。

あるいは、別の何らかの心身の病気のせいで、朝起きるのが困難だったり、日中活動する体力がなかったりして、やむをえず夜型生活に陥ってしまっている人もいることでしょう。

【アーカイブから】眠れぬ子供たち 夜型生活の犠牲者
子どもの慢性疲労症候群など本当にあるのだろうか。子どもの立場で疲れるなんて生意気だ、大人はもっと大変なんだ。そう思いますか? 学校過労死とも呼ばれる子どもの慢性疲労症候群について2

他方、非24時間型の人たちや、その予備軍ともいえる健常者の夜型の人たちは、もともと「真の夜型」のクロノタイプに生まれついていて、朝型社会に無理に合わそうものなら生活が破綻しかねないといえます。

夜型体質の人の苦労を理解するには、下流(夜型)に向かう川に小舟を浮かべて、流されないように毎日必死にオールを漕ぐ船頭をイメージしていただきたい。

朝型の人は流れが緩やか、時には流れが止まっていることもある。

…これに対して夜型の人は激流との戦いである。流されないようにするのが精一杯。どうやって上流に行けというのか。カヤックのオリンピック選手でもいずれは疲れ果ててしまうだろう。(p50)

しかし、非24時間型の人たちは、睡眠相後退型の人と違って、自分の時間の流れで生活していればそれほど苦痛を感じないとも言われます。

この人たちは、かえって生活の枠組みを体質のほうに合わせ、定時制の学校やフリースクール、自営業などで、自分のクロノタイプに適した生き方を構築していくことが、ある意味で正しい「治療」となるのでしょう。

【理論編】 夜型のあなたが知っておくと幸せになれる5Tips
研究が明らかにしたところによると、夜型は欠点ではなく、努力の不足でもありません。時間生物学の専門家ラッセル・フォスターとレオン・クライツマンの著書「生物時計はなぜリズムを刻むのか」

「規則正しい生活とは、人それぞれのもの」

概日リズム睡眠障害といっても、一概に社会生活に合わせられるようにすることだけが治療ではない、といえる理由がここにあります。

夜更かしの習慣で「なんちゃって夜型」で睡眠相がずれているだけなのか、それとも「真の夜型」で社会に合わせるのが体質的に無理なのか、はっきり見極めないと、よかれと思って施した治療が、かえって悪影響を及ぼすことさえあるでしょう。

三島先生が述べるとおり、何がなんでも「早寝早起き」という指導は個人のクロノタイプを無視しており、多様性(ダイバーシティ)に逆行しています。

「不規則生活が恒常化している現代だから、朝型勤務もいいじゃないか、いちいち目くじら立てるな」という意見もあるけど、同じような理解不足からきているね。

皆同じにしようということがモンダイなんだ。規則正しい生活とは、人それぞれのものであって、軍隊式に皆で早起きする生活とは違う。(p59)

以前の記事で触れたように、時間生物学の最新の知見を取り入れた学校は、何が何でも朝型、という見方には固執せず、登校時間をずらしたり、さまざまな授業時間を設けたりして、クロノタイプの多様性への配慮を始めています。

時間生物学によると若者の夜ふかしはゲームやスマホのせいではない―海外の画期的な取り組みとは?
「なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?」という本の書評です。若者の夜ふかしは、スマホなどの環境によるものではなく生物学的なものであり、学校の始業時間は遅くすべきだとい

今回の研究では、個人の体内時計の周期がより簡単に測定できるようになった、という点にも触れられていましたから、それが実用されれば、個人のクロノタイプが朝型夜型のどちらに適しているか判別できるようになるでしょう。

その上で、それぞれの人にとって無理のない社会生活の選択肢を選べるようになれば、概日リズム睡眠障害を取り巻く悩みが、かなり解消されるのではないかと期待できます。


ダニエル・タメットが語る「ぼくと数字のふしぎな世界」―人間の本質は無限の多様性の中にある

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10代のころぼくは、この数が大好きなんだ、と同級生に打ち明けたことがある。

…彼女は考えながら答えた。ぼくの質問の意味がよくわからないようだった。「数は数でしょ」と彼女は言った。

たとえば333と14は、君にはなんの違いもない? 違いはなかった。

じゃあπをどう思う? ぼくはなおも訊いた。この不思議な数についてちょうど授業で学んだばかりだった。美しい数字だとは思わない? (p149)

キュメンタリー「ブレインマン」で円周率π(パイ)を2万2514桁も暗唱して一躍有名になったアスペルガーまたサヴァンのダニエル・タメット。

彼は、冒頭に引用したぼくと数字のふしぎな世界の中で、自分が子どものころから抱いてきた数字に対する愛着、とりわけπという円周率に対する愛着について語っています。

「πをどう思う?」と聞かれたら、たいていの人は戸惑ってしまうでしょう。タメットのように、数字に対して、あたかも友だちに抱くかのような親しみを感じる人はなかなかいません。

数字や文字に色があるわたしからしたら、πの3.14という数字の組み合わせは、からりとした夏の屋台でひるがえる かき氷の旗の配色にそっくりなのですが、そんな突拍子もない連想はともかく、タメットは3.14から果てしなく続くπの数列の魅力についてこう熱弁します。

完全な円には、考え得るあらゆる数字の連なりが入っている。

πのどこかに、少数点以下何兆桁かのあたりに、五が100個も連続しているところがあるかもしれない。ゼロと一だけが交互に1000個も続くところがあってもおかしくない。

でたらめに見える数字の泥沼の、思いもよらないほど深いところには、ビックバンが起きてからいままでの時間より長い時間をかけて計算すれば、123456789……の連続が1億2345万6789回立て続けに現れるところが見つかるかもしれない。

…循環もせず、割り切れることのない唯一の数がπなのだ。(p150)

πという数字は、永久に割り切れることなく、循環することもなく無限に続いていきます。そこには特定のパターンはありません。あらゆる可能性が秘められていて、あらゆる多様性が含まれています。

もしも今わたしが書いているこの文章を暗号化して数列に置き換えたとしても、それとぴったり一致する数の並びが、無限に続くπの連なりのどこかに見つかることでしょう。

ぼくと数字のふしぎな世界は、そんな無限の可能性を秘めたπをこよなく愛するダニエル・タメットが、数字という窓を通して、この世界に満ちる無限の多様性をかいまみせてくれるエッセイ集です。

シェイクスピアが数字のゼロに心を奪われたこと、トルストイが微分積分の考え方を歴史に応用したこと、詩や俳句に素数が巧妙に織り込まれていることなど、今まで考えもしなかったような観点から想像力を刺激してくれる このユニークな本の感想を書きたいと思います。

これはどんな本?

ぼくと数字のふしぎな世界は、ダニエル・タメットによる三冊目の本です。

一冊目のぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)は自伝、二冊目の天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界は自分探しの医学・心理学的な考察、という側面が強い本でしたが、今作は、タメットが大好きな数学をモチーフにしたエッセイ集です。

タメットは、この本を『「人生の中にある数学」にまつわる24篇のエッセイを集めたもの』と紹介しています。(p3)

三作目にしてはじめて、単なる自分史の振り返りでも、自分探しの資料のコラージュでもなく、数学をこよなく愛してきたタメットにしか紡げない、彼ならではの芸術的な感性のこもった独創的な作品が生み出されたのを感じました。

心理学の本などで時々見る話題が多いものの、そのどれもがタメット以外には思いもよらないような語り口から考察されているのがとても新鮮で、タメットがまぎれもなくザヴァン、つまり類例のないユニークな人であると感じさせてくれる すばらしい作品です。

文学と数学はつながっている

この本テーマの一つは、文学と数学とを橋渡しすることです。

ダニエル・タメットがサヴァンだと言われる理由のひとつは、彼が数学的な才能だけでなゆく、語学的な才能も持ち合わせている稀有な人だからです。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中でタメットはこう言っていました。

十二の言語に通じていて、新しい言語でも一週間あれば高度な会話がこなせるまでになり、しかも自分で言語まで作れてしまう(p167)

ふつう、語学は文系、数学は理系などと分けられ、互いに相容れない才能とみなされがちですがタメットにそれは当てはまりません。

それ以前に、タメットは、言語的能力と数学的能力は、世の中の人が思うほどかけ離れているものではないと考えています。

ぼくと数字のふしぎな世界で彼はこう書きます。

ネミロフスキーとフェラーラが言うように、作家と数学者には、(この二つの職業は比較できないと言われることが多いが)、考え方や創作法において共通点がたくさんある。(p4)

言葉を操る作家と、数字を操る数字者。この二つの職業は、「考え方や創作法において共通点がたくさんある」というのがタメットの意見です。

だからこそ、タメットのこのエッセイ集は、数学と文学を橋渡しする話題がとても豊富です。

0になったシェイクスピア

たとえば、タメットは、かの有名な劇作家、ウィリアム・シェイクスピアが、ゼロという数学的概念に魅了されていたことに注目しています。

ウィリアム・シェイクスピアは、小学校の算術の授業で数字のゼロを学んだ初めての世代だ。

幼いころにゼロを知ったことでどんな変化が起きたのか、それを考えるのは楽しい。(p67)

わたしたちにとって、ゼロという概念はごくごく当たり前のもので、幼いころから慣れ親しんできたものかもしれません。0という数字なくしては、簡単な算数さえ成り立ちません。

しかしシェイクスピアのより前の世代は、ローマ数字を用いていました。ローマ数字は現在でもナンバリングに用いられることがありますが、1,2,3,4,5はそれぞれI II III IV V…といった仕方で表記されます。

ローマ数字にはもともとゼロを表す特別な文字はなく、10はX、100はC、1000はMでした。だから3000はMMMと表記されました。0という概念の居場所はなかったのです。

そんな時代に、ゼロという概念を幼い時期に学ぶ最初の世代となったシェイクスピアは、その摩訶不思議な数字に強く心を揺さぶられたのではないか、とタメットは想像します。

タメットによれば、シェイクスピアは『冬物語』のポリクシニーズにこんな台詞をあてがいました。

したがって、ひとつのゼロが
桁を増やすように、私も
これまで述べた何千というお礼の言葉に、もうひとつ
「ありがとう」を加えよう。(p72)

ローマ数字では3と3000には何のつながりもなく、IIIがMMMに変わるだけでした。しかし0という概念を使えば、3の後ろに0を増やすだけで、3000にも30000にもなります。

この小さな魔術師のような数字に魅了されたシェイクスピアは、作品のなかで何度も0という役者を登場させました。しまいには、自分自身をさえ0にたとえました。

しかし、シェイクスピア少年がレコードから教わったゼロに強い衝撃を受けたことがはっきりと読み取れるのは、青年になって書いた詩の中からかもしれない。

ソネットの38番には、自分と彼の愛する恋人(ミューズ)の関係を書いていて、ふたりを10の数字にたとえている。詩人がゼロで、愛する恋人(ミューズ)は一だ、と。(p73)

シェイクスピアは、作家また詩人としての自分はゼロのような存在だと考えたのでしょう。自分一人だけでは何者にもなれませんが、創作を通して、だれかの魅力を引き立て、1を10に、また100にするかのような非凡な才能を持ち合わせていたのです。

タメットは、そのほかにも、数学と文学をつなぐ興味深い話題を次々に展開します。

ロシアの作家レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、微分積分の手法をヒントにして歴史を考察しました。特定の偉人が歴史を動かすのではなく、無数の名もない人が寄り集まってできた時代の波が歴史を動かします。

歴史家が選んだアプローチの仕方が間違っているとトルストイが主張するのは、大きな戦いがほんのわずかな原因に帰することはありえないように、船の航路がほんのわずかな波に帰することはありえないからだ。

フランスの港とロシアの港のあいだの海上には、無数の点がある。

船が港に到着したのは、海上の1万5403番目の点、あるいは7万1968番目の点があったからだなどとどうして言えようか。(p183)

歴史が特定の偉人たちによってコントロールされているのではなく、無数の普通の人たちによって形作られているというのは、小さな集団が寄り集まることで一つの意志を持っているように振る舞う群知能と相通ずるところがあります。

粘菌が集まるとまるで人間のような知性が現れるのはなぜか? 
単細胞生物に過ぎない粘菌に知性が見られるのはなぜでしょうか。書籍「粘菌 その驚くべき知性」から“自律分散方式”とは何か、人間社会はどのような教訓を学べるか、ということを書いています

あるいは、人の意識とは、脳の司令官にあたるコントロールタワーが生み出すものではなく、無数の神経細胞が寄り集まったボトムアップのアプローチで生成されているという神経ダーウィニズムもほうふつとさせます。

なぜ「脳は空より広い」のか―実はコンピュータとは全然違う脳の神経ダーウィニズムの魅力に迫る
ジェラルド・エーデルマンの神経ダーウィニズム(神経細胞群選択説:TNGS)の観点から、脳がコンピュータとまったく異なるといえるのはなぜか、「私」という意識はどこから生じるのか、解離

タメットはまた、詩が心を動かすのは、神秘的な素数のリズムが組み込まれているからだと言います。

その証拠としてタメットは、セスティーナ(六行六連体)の単語の配置が、循環小数の数字の移動とよく似ていること、また日本の伝統的な短歌や俳句が素数からなっていることを例に挙げます。

詩と素数とに深い関係があることをぼくはいつも考えているので、多くの人がその関係を意外に思うことがぼくにとっては驚きだ。

この関係は、ある意味では完璧だ、詩と素数には共通点がある。両方とも、人生のように予想することも定義することもできず、多様な意味を含んでいる。(p210)

数学は一見、芸術とはかけ離れたところにあるかに思えますが、花びらの数やパイナップルの実などあらゆるところに顔を出すフィボナッチ数列や、自然界に組み込まれているフラクタルなど、数学的な調和と芸術の美しさとは、切っても切れない間柄にあります。

わたしたちはみなある意味でサヴァン

タメットに言わせれば、数学と文学に深いつながりがあるのは、まったく違った世界に見えて、じつは同じ脳の機能を土台としているからです。

彼は、複雑な数字をすぐさま素数に因数分解できますが、それはマジックでも天才的ひらめきでもなく、ごく普通のことだと言います。なぜなら、大多数の人は、母国語を話すときに、それと同じことを当たり前のようにやってのけるからです。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界のなかでタメットはこう説明します。

数字を意味のある形として視覚化できるおかげで、ぼくは、たちまち数字を因数分解することができる。

先ほどの掛け算で例として出した6253で考えれば、ぼくはすぐにこれが13×13(169)×37の組み合わせだと「わかる」。

数をたちまち素数に分解する力は、英語が母語の話者が「incomprehensibly」という合成語を「in」「comprehend」「ly」にたちまち分解できるのと同じだ。(p171)

複雑な数字を直感的に因数分解できるのは、複雑な言葉を直感的に操れる能力と同じです。

日本語を話すわたしたちは、「すうがくてきさいのう」というような ややこしい文字の羅列を見ても、一瞬でそれを「すうがく」「てき」「さいのう」という要素に分けて理解できます。

言ってみればタメットのサヴァン的な才能は、数学を母国語として扱っているようなものです。彼にとっては、数字はひらがな、数字の集まりは単語、そして数列は文章のようなものだ、ということなのでしょう。

ニューサウスウェールズ大学のピーター・スレザクは、わたしたちが言語を使いこなすときに使っている脳の機能を、サヴァンは数字に対して用いているにすぎないと述べたそうです。

われわれ全員が、ある意味ではサヴァンであり……難しい言語を理解している。

言語を使いこなす能力には極端に高いレベルの数学的複雑さがあり、その働きをわれわれはまったく理解していない……それにもかかわらずわれわれは、難なく、無意識に、本能的に直観的に言語を操っている。

サヴァンはこれと同じことを脳の違う領域でおこなっているのだ。(p166)

冒頭で引用した、タメットがさまざまな数字やπに対して抱く親しみについてのエピソードも、これと似たものとみなせるでしょう。

わたしたちは普通、身の回りの様々な人、家族や友だちを見分け、それぞれに異なった印象を持ち、近しい人にはひときわ親しみを覚えます。

タメットはどうやら、わたしたちが友人や家族一人ひとりに対して抱く親しみを、数字ひとつひとつに対して抱いているようです。

人に対する個別の感情を、人以外の動物や物に対して抱く、というのは何も現実離れしたことではなく、顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)にはこんな例が載せられています。

顔以外の、車や犬や鳥を大量に記憶しているカーディーラーやブリーダーやバードウォッチャー、これらの特異な能力を持つ人たちは、顔を処理する脳の部位をこれらの処理にも転用しているといわれている。

それが証拠に、相貌失認になったブリーダーは、人の顔だけでなく、ブリーダーとしての能力だった犬の個体識別もできなくなっていたそうだ。(p161)

多種多様な車を見分けるカーディーラーや、数多くの動物を見分けるブリーダーは、通常は人を見分けるのに使っている脳の機能を、車や動物ひとつひとつを見分けるために用いているようです。

そうであれば、通常は身近な人ひとりひとりに親しみを抱くために用いられる脳の機能が、タメットのように数字ひとつひとつ、またときには車や動物に対して転用され、あたかも友だちや家族に対するかのような親しみを感じることもあるのでしょう。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界で、タメットは特に脳の中において、言語に特化した領域(左前頭葉)と、数字に特化した領域(左頭頂葉)が隣接していることに注目しています。

彼の場合、生まれつきの自閉スペクトラム症やてんかん発作の体質のせいで、隣り合うそれらの領域に混線(クロストーク)や過剰結合が生じ、数字をあたかも言葉のように処理できるのではないかと述べています。(p167)

なぜサヴァン症候群のダニエル・タメットは数字が風景に見えるのか
特異な能力を持って生まれたダニエル・タメットが、自閉症スペクトラム(アスペルガーやサヴァン症候群)は“普通の人”と変わらないと述べるのはなぜでしょうか。書籍「天才が語る サヴァン、

いずれにしても、わたしたちの大半が言語を難なく操れることと、数学者が数字を魔法のように操れることはそれほどかけ離れた能力ではないのでしょう。

数学というと、無機質で機械的なイメージを持つ人も多いですが、タメットは、数字に対して、家族や友人のように温かい感情を抱いているがゆえに、もっと違う見方をしています。ぼくと数字のふしぎな世界の中で彼はこう言います。

文学作品と同じように、数学的な発想は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれる。

きちんと考えられた数は、ぼくたちをよりよい人間にしてくれるのだ。(p19)

わたしたちの当たり前は他の人の当たり前ではない

タメットは、数学は「一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれる」と述べました。彼によれば、すべての数列、無限の可能性を含む円周率πのように、数学は人類の多様性を覗き見る窓になります。

彼は、数と言語という二つの得意分野を手がかりにして、わたしたちとはまったく異なる物の見方をしている人たちの文化をめぐる旅へと、読者を連れて行きます。

大きな数の概念がない少数民族

たとえばスリランカのヴェッダ族には1と2だけを表す言葉しかありません。まるで二進法の世界のようにも思えますが、彼らにとっては指の数を超える大きな数を使う機会がないのです。

スリランカに昔から住むヴェッダ族には、一(エッカマイ)と二(デッカマイ)の二つしかないという報告がある。

その数より多いときには、オタメカイ、オタメカイ、オタメカイ…と続く。さらにひとつ、さらにひとつ、さらにひとつ、という意味だ。(p35)

他方、ブラジルのムンドゥルク族は、数字が大きくなればなるほど、それを意味する言葉の音節も増えていくという独特な言語を持っています。

ブラジルのムンドゥルク族は、数と音節の数を一致させるやり方で数を表している。

一はpug、二はxep xep、三はebapug、四はedadipdipというふうに。五より多い数の数え方はない。

数と音節とを一致させるやり方はわかりやすくはあるが、明らかに限界がある。(p35)

もし100まで数える必要があれば話す側も聞く側も疲れ果ててしまいそうですが、彼らの文化では、大きな数を扱う機会がありません。

わたしたちにとっては数とは無限に桁数が増えうるものであり、もし指の数ほどしか数えられなければ、お金のやりとりにさえ苦労してしまいます。年齢さえも数えられません。

でも、世の中には、お金や年齢など気にもせず、まったく違う文化の枠組みで日々を過ごしている人たちがいることがわかります。

写真や絵がわからない人たち

タメットはまた、このブログでも以前に取り上げたピラハ(ピダハン)族に注目します。過去や未来に関する時間の概念がなく、物語や神話も持たない人たちです。

この人たちは、時間や神のような抽象的な存在について考えもしません。それだけでなく、なんと二次元的に描かれた絵や写真を理解することができません。

ピラハの人たちに絵や写真を見せてもそれがなにかわからない。彼らは写真を横向きや反対向きにして手に持つ。写っているものがなにを表しているのかわからないからだ。

絵も描けない。一本の直線すら引けない。簡単な形を正確に真似して書くことができない。そういうことに興味がないのだ。(p39)

子供のときからイラストや写真、マンガやアニメに当たり前のように慣れ親しんでいるわたしたちからすれば想像もつかないかもしれませんが、二次元的な画像を現実の身の回りの物に対応させる、というのは、決して当たり前の能力ではないのです。

神経科学者オリヴァー・サックスも著書心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界の中でそのことに触れています。視覚失認に陥っていたリリアンは、立体的な物は認識できましたが、イラストや写真のような二次元的な物は認識できなくなりました。

絵に比べて立体的な物のほうがうまく名前を言えたことから、私はまたもや、リリアンには表象に対する失認症があるのではないかと思った。

表象の認識には、ある種の学習、つまり記号体系や伝統的表現法の理解が、物の認識の場合以上に必要だろう。

だから、写真に触れたことのない原始文明の人々は、写真がほかのものの表象であることを認識できないかもしれないと言われている。(p21-22)

わたしたちが三次元のものを二次元に対応させられるのは、子どものときから、二次元的な表現に慣れ親しんできたおかげです。

サックスが別の箇所で述べているように、ジャングルなどの環境で生きる民族は、日常生活の中で遠くのものを見る機会がないために、自分を取り巻く身の回りの立体的な風景の把握に特化して、遠くのほうの平面的な風景はうまく認識できないことがあるようです。

コリン・ターンブルは『森の民』で、ジャングルを出たことのなかったピグミーの男性とのドライブについて書いている。

数キロ離れたずっと下のほうで、のんびり草を食(は)んでいるバッファローが見えた。

彼は私のほうを向いて言った。「あれは何ていう虫だい?」。私は初め理解できなかったが、すぐに気づいた。

森では視野がごく限られているので、大きさを判断するときに無意識に距離を斟酌する必要がないのだ。

……その虫はバッファローだと話すと、ケンゲは大笑いして、そんなばかばかしい嘘はつくなと言った。(p167)

遠近感がつかめず、遠くの景色にいるバッファローが虫に見えてしまうというのは、わたしたちからすればとても奇妙に思えます。けれどもこのピグミーの男性にとっては、遠くの平面的な景色を見たり、写真や絵を楽しんだりする機会はなかったのでしょう。

その代わり、自分のまわりの三次元空間、つまりジャングルのただ中で感じる音の方向や、自分の位置の把握に関しては、きっとわたしたちには真似できないほど鋭敏な感覚を持っていて、ジャングルを自由自在に動き回れるのではないでしょうか。

彼らは知能が劣っているわけではない

タメットは、このような少数民族の人たちは、決して知能が欠けているとか、賢さが足りないわけではない、とぼくと数字のふしぎな世界の中で説明しています。

ピラハのような民族は知的能力が足りないのではないかと思う人がいるかもしれないが、そんなことはない。

それを証明するためにオーストラリアのクイーンズランド州北部に暮らすグーグ・イミディル族のことを話そう。

大半のアボリジニの言語に共通することだが、グーグ・イミディル語には数を表す言葉は三つしかない。

…しかしこの人々は、自分たちの土地の景色を幾何学的に説明することができる。磁北、南、東、西が直感的にわかるので、自分のいるところに関しては卓越した感覚を持っている。(p40)

タメットによると、グーグ・イミディル族は、やはり大きな数字を扱えません。それを扱う語彙がないので、大きな数字の足し算や引き算という概念もないのです。

しかし、その分、自分の位置感覚を正確に把握するという、わたしたちが持ち合わせていないコンパスのような能力を身に着けます。その結果、面白いことが起きます。

西洋の諸国では、子供たちはマイナスの数の概念を把握するのにかなり苦労する。2とマイナス2の違いは子供たちの想像力では理解しにくい。

その点、グーグ・イミディルの子供は生まれたときから恵まれている。2は「東の二歩進む」こと、マイナス2は「西に二歩戻る」ことだと考える。(p40)

彼らには数学という概念がありませんが、数字を距離や位置として幾何学的に理解しているため、マイナスの概念を理解しやすいのです。

数字を抽象的な概念として学校で学ぶわたしたちの社会の子どもたちは、2引く3の答えを知るには、マイナスの概念を学び、-1という数字があることを知らねばなりません。

しかし数字を日常生活の中で空間的に理解しているグーグ・イミディル族にとっては、2引く3とは、2歩進んで、それから3歩戻った位置のことなのです。

タメットが、こうした例を通して明らかにしているのは、わたしたちにとっての当たり前は、別の文化で育った人の当たり前とはまったく異なるということです。

ある文化から見れば、別の文化が劣っているように思えるかもしれません。数学が発展した文化からすれば、数字を数える語彙さえもほとんどない文化は劣っている、とみなす短絡的な人もいるでしょう。

しかし、本当は別々の環境に適応して特化してきただけで、そこに優劣はありません。彼らの文化では大きな数字や二次元的画像を扱う必要がない代わりに、立体的なジャングルで生き抜く空間把握能力が求められます。

もし彼らの文化を基準にしてわたしたちの文化を見れば、ジャングルでは何の役にも立たない技能はあれど、生きていくために必須な当たり前の能力が欠けているとみなされてしまうかもしれません。

少数派を「障害者」と見なすと気づけないユニークな世界―全色盲,アスペルガー,トゥレットの豊かな文化
わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

「学習障害」は本当に障害なのか?

覚えておきたいのは、文化によって当たり前が異なり、そこに優劣はない、という、相対的な視点は、わたしたちと少数民族との違いにだけ当てはまるわけではないということです。それは、もっと身近な、この社会においても役立つ考え方です。

たとえば教養としての認知科学には、学校教育を受け読み書きのできる人と、そうでない人との考え方の違いについて書かれています。

たとえば、「綿は暖かく乾燥した地域に育つ。イギリスは寒く湿気が多い。イギリスに綿は育つか?」と尋ねられたとき、学校教育を受けた人は「育たない」と答え、読み書きができない人は「わからない」と答える傾向があるそうです。

一見したところ、学校教育を受けた人は賢く問題に正解し、読み書きのできない人はごく簡単な論理でさえもわからないのか、と感じられるかもしれませんが、そうではありません。

なぜなら、この調査が行われた当時、イギリスはインドを植民地にしていました。厳密に言えば、「わからない」と答えた人のほうが正解に近かったともいえます。

まるでひっかけ問題のようですが、冷静に考えてみて、この世の中には、一問一答の正誤問題のような状況と、複雑なひっかけ問題のような状況のどちらが多いでしょうか。

論理学は前提自体を疑うことは許されない。P→Qと言われれば、P→Qなのであり、「イギリスは寒い」と言われれば、「イギリスは寒い」なのである。

一方、日常生活では確実な前提が得られることはほぼない。こうした世界では前提を疑ったり、棄却したりすることは、けなされるどころか、慎重な態度として尊重される。

読み書きができない人が行った思考は、論理学の仮定する世界とは別の世界の中で行われたのである。(p208)

つまり、学校教育を受けた人は、一問一答の正誤問題をたくさんこなす必要がある、学校という特殊な環境に適応して、能力を特化させた人たちだったといえます。

他方、学校教育を受けておらず読み書きのできない人たちは、知力が劣っているどころか、自分たちがいる環境、つまり学校の外側にある世界、もっと複雑な問題に直面することが多い日常世界に適応して、能力を特化させた人たちだったとみなせます。

小、中学校ではそもそも論理などは教えない。何を教えるかといえば、先生が言ったことは黙って聞く、疑わない、余計なことは考えない、そういうことである(これは隠れたカリキュラムと呼ばれる)。(p208-209)

そうすると、テストの成績が高く、よい大学に進んだ人たちこそ頭が良く知力が高い人たちなのだ、とみなすロジックの誤りに気づけます。そうした人は、テストで知能を測る学校という特殊な環境に適応したにすぎません。

現に、大学を一歩出て、現実社会に足を踏み入れると、テストで好成績を収めていたエリートよりも、学校では落ちこぼれだったものの実生活に役立つスキルを磨いてきた人のほうが、より柔軟に仕事をこなせたりするものです。

学校で勉強ができる子どもは賢くて、それができない子どもは「学習障害」。本当にそうでしょうか。

じっと授業を聞ける子どもは正常で、落ち着きのない子どもはADHDという「発達障害」。本当にそうでしょうか。

学校や会社で円滑にコミュニケーションできる人は定型発達で、空気の読めない人はアスペルガーという「発達障害」。本当にそうでしょうか。

数字を何十桁も数えられる先進諸国の人たちに比べ、指の数ほどしか数えられない少数民族は知力が劣っている。決してそんなことはありませんでした。

そうであるなら、現代社会で学習障害や発達障害とされている子どもたちも、実際には、学校という特殊な環境や、多数派が作り上げた現代社会という環境に適応してきた人と異なっているだけで、それとはまったく別の環境に適応し、異なる能力を発達させてきた子どもたちなのではないのでしょうか。

わたしたちは、たったひとつの物差しで優劣を測定できる直線上に並んでいるのではなく、もっと幾何学的な立体感のある世界に散らばっています。

優等生か学習障害か、健常者か発達障害か、といった良いか悪いか二極しかない物差しで人々を測ることなどできません。それぞれが異なる環境に適応し、異なる才能を伸ばしてきたがため、ある点では劣っていても、別の点では優れているだけなのです。

学校と私:勉強の仕方見えた聞き書き=詩人 アーサー・ビナードさん - 毎日新聞

タメットの言うとおり、「数学的な発想は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれ」ます。

「平均的な人間」などいない

人は健常か障害か、健康か病気か、優れているか劣っているか、などという単純な二極に分けられるわけではなく、本質的にもっと多様で複雑なもの。

それは、ほかならぬダニエル・タメット自身の人となりからも感じ取れます。

タメットは、自分は自閉スペクトラム症(ASD)、いわゆるアスペルガー症候群であると公言しています。

しかし、タメットの本を読むたびに、あまりに情緒あふれる文章なので、本当にアスペルガーなのだろうか?と思ってしまうことがありました。

わたしが当初抱いていたアスペルガー症候群のイメージは、タメットとはどうにもかけ離れていました。

わたしが初めてアスペルガー症候群についてこのブログにまとめたのは、こちらのNHKの放送内容だったかと思います。

【7/2 あさイチ!】大人の発達障害(ASD、アスペルガー症候群)に対処する
NHKのあさイチで取り上げられた、「子どもも大人も増加!発達障害」という番組のまとめです。特に大人の発達障害が特集されています。ASDとは何か、なぜ子供のころ見過ごされてしまうのか

その中で、アスペルガー症候群の人は「心の目が見えない」などと言われていました。今から思えば、まったくひどい話で、そんなことを言う定型発達者の心の目のほうが曇っていないか検査したくなります。

アスペルガーという少数民族

もちろん、ダニエル・タメットの、アスペルガーらしさを物語るエピソードは、彼が書いた三冊の本のそこかしこに見られます。

今回のぼくと数字のふしぎな世界では、子供のころ母親の行動が理解できなかったので予測モデルを作った話が印象的でした。

全体像を認識するのが苦手で、代わりにボトムアップ思考を得意とするアスペルガー症候群らしさを最も如実に示す、「らしい」エピソードでしょう。

数学者は「データを表にしろ」とよく言う。数学者はそういう言い方をする。そしてそれが正しいのだ。

不可解な物事は長時間かけて観察し、前後のつながりを把握する必要がある。

子供のころぼくは、もし記憶をきちんと整理して、分析に必要な変数(パラメーター)をいくつか設定しさえすれば、母の行動の予測モデルを作ることができるかもしれないと思った。(p225)

アスペルガー症候群など、自閉スペクトラム症の人たちは、ある意味で異文化を持つ異なる民族のようなものだと言われますが、物事をトップダウンで概観してばかりのわたしにとっては、母親の行動の予測モデルを作るといった発想は、まさに考えもつかない異文化でした。

そういえば、親子の立場は正反対ですが、やはりアスペルガーだったのではないかと言われているダーウィンは、書きたがる脳 言語と創造性の科学によれば、子どもの感情を知るために表情の変化を観察して分類した、なんてエピソードもありました。

ダーウィンも感情を理解するうえで表情を重視した。彼はさまざまな実験をやってみて、子どもがいまにもわあっと泣き出そうとするときのわずかな顔面の筋肉の変化について、とり憑かれたように長々と詳細に記している。(p246)

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!
自閉スペクトラム症の子どもの視覚的思考力の強さやボトムアップ処理の脳活動を金沢大学が明らかにしました。

またタメットは、自身の記憶力がとてもいいことを記しています、ブレインマンとして円周率を2万桁も暗唱したことを思うと言わずもがなですが、記憶を正確に保持でき、細かい数値や表現まで覚えていられるのはアスペルガー症候群らしいでしょう。

じつは、ぼくは昔から「物覚え」がよかった。そのおかげで、電話番号や人の誕生日や記念日、本やテレビ番組に溢れる数字や事実などを正確に簡単に覚えて思い出すことができる。

…学校の試験で苦労したことはなかったし、先生に教わった知識は、ぼくの記憶力にとってはとりわけ覚えやすいものだった。(p152)

記憶力がザルで、Evernoteなどの外付け脳に頼りっぱなし、学んだことの輪郭や印象しか覚えておらず、自分が書いた文章さえすっかり忘れていて、学校のテストの暗記は大の苦手だったわたしからすれば羨ましい限りです。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

けれども、ダニエル・タメットが、アスペルガー症候群のステレオタイプに当てはまるかといえば、わたしは全然そうは思えません。

空気が読めない? 確かに彼の話題は独特ですが、子どものころの回想の中には、ぶしつけな来客のせいで、部屋が白々とした空気で満ちていたことを振り返っているものがあります。(p30)

これは、近年言われているように、自閉スペクトラム症の人たちは、人の心を想像する「心の理論」が欠けているわけではなく、大半の人と視点が違う「心の理論」を持っているだけだとする見方を思い出させます。

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アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)の人は「共感性がない」と言われていますが、実際にはそうではなく、むしろ定型発達者も共感性に乏しいという研究を紹介しています。

想像力の障害? これほど文才にあふれたタメットにそんなことを言えるほど想像力のある人が世の中に果たしてどれほどいるのでしょうか。

タメットは子どものころ、アンデルセンの「王女さまとえんどうまめ」を読んで、王女がマットレスをどれだけ増やしても、マットレスの下のごろごろした豆の感触から逃れられないだろうという分数計算をして「おまえは想像力がありすぎるよ」と父親に言われたくらいです。(p22)

やはり自閉スペクトラム症のニキ・リンコさんが 自閉っ子におけるモンダイな想像力の中で書いているように、彼らは想像力が欠けているのではなく、想像力の方向性が大半の人とは異なる、という意見が正しいのでしょう。

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コミュニケーションの障害? 確かに彼は人付き合いが苦手だと吐露していますが、子どもたちや生徒に、数学の話題をわかりやすく楽しく教える才能にはずば抜けています。

主婦を相手に一時間以上も分数の話題で盛り上がれるほど話術が巧みな教師はなかなかいません。(p65)

こうしてタメットの人となりを見てくると、やはり、さっきのタメットの少数民族についての話のとおりだと感じます。

タメットを含め、自閉スペクトラム症の人たちは、空気が読めないコミュ障の発達「障害」者ではなく、大半の人と違う文化を持ち、異なる認識を発達させた少数派にすぎないのです。

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「平均や中央値は幻想にすぎない」

わたしがこの本を読んで強く感じたのは、タメットのような人を、特定のステレオタイプに当てはめることそのものが不可能なのではないか、ということです。

以前の記事に書いたとおり、わたしはアスペルガー症候群というステレオタイプにそっくりそのまま当てはまるアスペルガー症候群の人はほとんどいないと思っています。

アスペルガーから見たおかしな定型発達症候群
定型発達症候群(Neurotypical syndrome)は神経学的な障害である。「アスペルガー流人間関係 14人それぞれの経験と工夫」という本では、定型発達の人は、とても奇妙に

タメットはこの本の中で、数学的観点から「平均的人間」、つまりステレオタイプという偏見を打ち崩しています。

ベルギーの数学者アドルフ・ケトレーは、人々のさまざまな性質を平均化すれば、より真実に近い理想的な特徴をあぶり出せると考えました。

かくしてケトレーは千や万にのぼる人々から集めたデータを平均し、男性の「平均」身長は167センチであるとか、新聞を読む「平均」時間は12分だとか、タマゴとジャガイモと肉のスープが「平均的な」食事だとかいった結果を手にした。

162センチや185センチの身長は異常であり、新聞を五分しか読まない人や30分も読む人は普通ではなく、魚をたくさん食べて卵を食べない人は変わり者だ、と。

今日でも平均寿命とか、平均体重とか、平均睡眠時間といった言葉をそこかしこで耳にしますが、それは「近代統計学の父」アドルフ・ケトレーの平均化の取り組みから始まったのです。

ケトレーの統計的な分析そのものはとても有用で、わたしたちが複雑なデータを把握する助けになっていますが、平均化してしまうことは、困った副作用を引き起こします。

このデータから、ケトレーはある規則性を見出した。それは、大半の男性の身長は、平均より五センチ高すぎるか低すぎるかする。

大半の新聞の読者は、新聞を読む時間が平均より三分ほど長すぎるか短すぎるかする。

大半の主婦は、ジャガイモを一週間に六回料理するより多すぎるか少なすぎるかする、ということだった。(p260)

平均いくら、という数字が示されると、わたしたちは、平均値の頻度が高いと錯覚します。たとえばある病気で平均余命が4年だと言われると、あと4年ほどが寿命だろうとみなして計画を立て始めるものです。

しかし、平均4年、というのは、4年で亡くなった人が多いということを示しているわけではありません。極端に言えば、1年で亡くなった人が5人、7年で亡くなった人が5人いても、全部合わせて平均すると4年になります。誰一人として4年きっかりの人は存在しなくてもです。

現実はこれほど極端ではありませんが、よくある正規分布曲線を見てみても、ぴったり平均に一致している人は全体のごく一部です。

とすると、大勢の人を平均して導き出された典型的な人物像、つまりステレオタイプがぴったり当てはまる人もまた、そうそう存在しないことになります。

たとえばエンジニアたちの顔写真を集めて、すべての画像の特徴を平均化して、平均的なエンジニアの顔というステレオタイプを作ったところで、それと瓜二つの顔の人などまずいないでしょう。

それなのに、わたしたちは「平均的な人間」という、さまざまな種類のステレオタイプを見るとき、それにそのまま当てはまる典型的な人間が多くいるのだと錯覚しがちです。

人々は、それにあてはまる平均的な男性を面白がり、嘲笑し、非難し、笑い物にした。

しかし最悪なのは、そういう男性が実際にいると人々が思い込んだことだった。(p261)

「平均的な人間」、ステレオタイプがそこかしこに存在するという錯覚は、行動経済学者ダニエル・カーネマンのファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)に書かれている代表性ヒューリスティックと呼ばれるものでしょう。

代表性ヒューリスティックとは、実際の統計や頻度を無視して、目の前の人や物をステレオタイプに当てはめて直感的に判断してしまうことです。しかしそんなステレオタイプどおりの人などまずいません。

ちまたにあふれるさまざまなステレオタイプ、たとえばA型人間の特徴とか、ADHDやアスペルガー症候群の特徴などにぴったり当てはまる人がいないのはある意味当然で、それは平均値が生み出した架空の人物の特徴なのです。

ケトレー(とその追随者たち)は、人間の本質は平均値の中にあると信じていたが、それは間違っていた。

人間の本質は無限の多様性の中にある。

スティーヴン・ジェイ・グールドは、後にこう述べている。

「進化生物学者はだれもが、多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質だということを知っている。

多様性は厳然たる事実であり、中央の値を知るための不完全な測定の中にあるのではない。

平均や中央値は幻想にすぎない」と。(p263)

「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」

「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」であることを思いに留めれば、タメットのようなユニークな人が、特定のステレオタイプや医学のカテゴリに当てはまらないのも当然といえます。

そもそも彼は、一般的なステレオタイプからかけ離れているために、サヴァン症候群だとみなされてもいます。多様性の極致にいるわけです。

けれども、タメットは、自分だけがユニークで特殊な存在であるとは思っていません。

タメットの三冊の著書の中で貫かれているのは、人は一人ひとり、だれもがユニークで唯一無二の存在である、という見方です。天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中でタメットはこう述べます。

ぼくは、才能とはその語源の意味の通りだと思っている。

つまり、「talent」がラテン語の「talenta(重さ)」からきているように、人をある特別な方向へと押しやる重みが才能なのだと。

だれもがある種の才能を持って生まれ、献身的な懸命に努力をすることでその才能が実を結ぶのだ。(p73)

ひとりひとりに才能がなければ、ぼくたちはみな白紙のようなもので、生まれた環境に大きく左右されてしまう。

しかし実際は、ぼくたちひとりひとりがこの世界に貢献できるかけがえのないものを持っているということを知れば、だれもが自信を抱くことができる。(p74)

彼にしてみれば、自分だけがサヴァンなのではなく、だれもが驚くべき才能を秘めています。彼自身が説明していたとおり、サヴァンとは多くの人が気に止めずに使っている能力が、たまたま別の分野で使われているにすぎないからです。

平均的人間やステレオタイプ、という尺度からすると、あたかも、「正常」な人間や「普通」の人間がいるかのように思えます。タメットのようなサヴァン症候群の人は「特殊」または「異常」ということになります。

しかし、人間は本当に普通か特殊か、正常か異常かにばっさり二分できるものなのでしょうか。ここまで見てきたタメットのエッセイの数々は、そうした二極的な考え方は幻想だと明らかにしています。

「平均的な人間」など存在せず、スティーブン・ジェイ・グールドが述べていたように、「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」なのであれば、わたしたちの中に一人として同じ人はいません。皆が皆、根本のところで違っています。

ぼくと数字のふしぎな世界によれば、フランスの哲学者、ミシェルド・モンテーニュは、あるとき、シャム双生児の子どもに会いました。けれどもモンテーニュはその子を差別的な目で見ませんでした。

「神の広大無辺なる想像力の中では、あの子供も子供のひとりであって怪物ではない。ただ人間には未知なだけだ」とモンテーニュは考える。

「われわれは習慣に反して起こることを、自然に反することだと称する。しかし、なんであれ、自然に従わないものなどないのだ。

新奇なものがわれわれにもたらす、驚愕の念による誤謬を、ぜひとも、自然という普遍的な理性の力で、われわれ人間から追い払ってほしいものである」と。(p147)

たとえシャム双生児やサヴァン症候群のように、他の人との違いが目立つ人がいるとしても、その人たちが極めて異常なわけではありません。

おそらくはわたしたちの誰もが、あまり目立たないところで、あるいは自分でも気づいていないところで、極めて異例な多様性を有しているのですから。

31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話という本では、ダニエル・タメットのように生まれながらにしてサヴァンだったわけではなく、31歳で脳に外傷を負って、たまたま後天的にサヴァンの能力が現れたジェイソン・パジェットの経験が書かれています。

彼の経験したことがダニエル・タメットの能力とよく似ているのはとても興味深い点です。彼自身タメットに親近感を感じていますが、彼の共感覚、数学を直感で幾何学的に理解するところ、そして円周率πに対する愛着などはタメットにそっくりです。(p83,246)

ジェイソン・パジェットのように、後天的にタメットと似たような能力が現れるケースがあることは、タメットだけが異例なわけではない、ということをはっきり物語っています。

πの視点から人類の多様性をを見る

モンテーニュは、すべての可能性を熟知している「神の広大無辺なる想像力の中では」「自然に従わないものなどない」と述べました。どれほど奇妙にみえることでも、それは単に「人間には未知なだけ」です。

これは、ダニエル・タメットが愛してやまないπという数字を思い起こさせます。円周率であるπはどこまで行っても、円を描き続けるように割り切れず、特定のパターンを繰り返すわけでもなく、決して終わりのない唯一の数でした。

πの無限に続く数列の中には、あらゆる数の並びが含まれています。極めて異例で、一度も現れない数の並びなど、そこにはないのでしょう。

すべての可能性を知る「広大無辺なる想像力」を持ったモンテーニュの述べる神と、πに内包された無限の可能性はよく似ています。

タメットもこの本の中で、無限という数学の概念は、神学と結びついて発展してきた歴史があると述べています。(p272-280)

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)に書かれているように、無限を解き明かそうとする数学者の探究は、神を証明したいという熱意に支えられていました。

ですから、無限の可能性を含むπという数字に思いを馳せることは、あたかも無限の想像力を持つ神の視点から物事を見るようなものなのかもしれません。本当にそれができる人間は一人もいませんが、そうするよう努めることは誰にでもできます。

ダニエル・タメットのこの ぼくと数字のふしぎな世界は、πをこよなく愛するダニエル・タメットだからこそ気づけるπの視点へとわたしたちを案内してくれます。全部で24篇のエッセイを収めたものですが、どれも今までにない着眼点で、世の中を眺めさせてくれるものでした。

これまでに読んだどんな本とも違う独特の切り口の数々に、思考を深く刺激され、視野が広がったように感じました。数学や文学に興味のある人のみならず、新しい世界に触れたいすべての人におすすめしたい一冊です。

脳という劇場の不思議な幻視「シャルル・ボネ症候群」とは―レビー小体病や解離性障害と比較する

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「病院の点滴スタンドの上に小人さんが見えるのよ」。

そんなことを言われたら、この人は冗談を言っているのだろうか? と頭をひねってしまうのが普通かもしれません。人によっては気は確かなのだろうか、と思うこともあるでしょう。

しかし、わたしの場合は違いました。そう話してくれている人が、とても頭脳明晰なおばあちゃんで、大半の若い人たちよりも頭の回転が鋭く、とても理知的なのを知っていたからです。

話を聞いてみると、その人は目の病気のために視野が欠けていて、その欠けた部分を補うかのように、妖精や小人のような不可思議な幻が見えるのだということでした。

当人は、もちろん見えているものが幻であることを知っていました。その幻はとてもリアルで本物のように動くのですが、そんなものは現実にはいないと知っているし、あまりに場違いなので、幻覚だとはっきりわかるようでした。

この不思議なエピソードは、ずっとわたしの記憶に刻まれていたのですが、数年前、たまたま稀で特異な精神症候群ないし状態像という本を読んでいるとき、まさしくこれだ、という記述を見つけて驚きました。

それはシャルル・ボネ症候群(Charles Bonnet Syndrome:CBS)。

目の病気で視野が歪んだり欠けたりする年配の人に現れる幻視で、異国風の楽しい幻覚が多く、それを見ている本人は至って冷静で、幻覚を幻覚だと認識している、とのことでした。

その後、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語など別の幾つかの本にもシャルル・ボネ症候群の話が紹介されていて、この幻覚は決してまれなものではなく、視覚障害を持つ高齢者の少なくとも15%ほどは経験しているのだと知りました。

また、この幻覚は視覚障害のある高齢者のみならず、別の原因、たとえば大脳皮質の不具合などによっても起こることを知りました。つまり、目の病気がなくても、はたまた高齢者でなく若い人であっても、同じような幻覚を見る可能性があるのです。

そして、どうやらそのようなケースは、レビー小体型認知症(レビー小体病)や、幼児のイマジナリーコンパニオン、若者の解離性障害とみなされているのではないか、と考えるようになりました。

この記事ではシャルル・ボネ症候群の幻覚の特徴を調べるとともに、レビー小体病や解離性障害の幻覚との類似性を見てみたいと思います。

これはどんな本?

わたしが最初にシャルル・ボネ症候群(CBS)について知ったのは、前述のとおり稀で特異な精神症候群ないし状態像でした。この本はタイトルと裏腹に、「稀で特異な」症候群というよりは、本当は稀ではないのにあまり知られていない症候群についての論文が含まれています。

その後、脳神経学者オリヴァー・サックスの見てしまう人びと:幻覚の脳科学を読んだとき、のっけからCBSについてまる一章を割いて詳しく扱われていて、CBSのめくるめく幻覚の不思議な世界について理解を深めることができました。

このサックスの本では、彼の本より前に、オランダの心理学者ダウエ・ドラーイスマがCBSについての詳しい本を書いた、とされています。(p18)

その本とは、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語のことで、こちらもまる一章を割いて、CBSの歴史や特徴について考察されています。

先に出版されたアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語では確認されていないとされる症例が、見てしまう人びと:幻覚の脳科学のほうで報告されているなど、情報が補われているので両方読むと理解が深まります。

また意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)ではサックスの記述を踏襲する形でCBSの話題が少し出てきます。

興味深いのは、レビー小体病の当事者、樋口直美さんによる私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活で、サックスが記したCBSの幻覚に、ご自身の体験を重ね合わせる記述がありました。

ダウエ・ドラーイスマは、本を出版した時点ではCBSはほとんど知られておらず、論文は100に満たないと書いています。(p24)

しかし、CBSのような幻覚はまれではないことからすると、こうした論考が世に送り出されたことが呼び水となって、今までなかなか人に自分の体験を打ち明けられなかった当事者たちが声を挙げるようになり、次第に認知が広がっているように思います。

今回の話題は、以前の記事でも似たような範囲を取り扱いましたが、シャルル・ボネ症候群(CBS)を中心に据えて再考したものとなっています。

姿が見える,声が聞こえる,リアルな幻覚を伴うイマジナリーフレンド現象の研究
姿を見ることも、声を聞くことも、触ることもできる、というリアルなイマジナリーフレンド現象についてオリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」などから説明しています。幻聴や幻覚は解離の

シャルル・ボネ症候群(CBS)の歴史

シャルル・ボネ症候群の歴史については、ダウエ・ドラーイスマのアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に詳しく書かれています。

この幻覚は昔からずっと存在していたと思われますが、それを学問的に研究するきっかけとなったのは、1759年、90歳近かった元判事のシャルル・リュランが、自分の体験を口述筆記したことでした。

リュランは、ほとんど視力がなくなってから、奇妙な青いハンカチのようなものが見えるようになりました。

しかし、リュランは老齢になっても頭脳明晰だったので、そのハンカチが実際に存在すると考えたことは一度もなく、目の問題と関わりがあるに違いないと確信していました。(p20)

しかし、ときにはハンカチどころか、もっと複雑な幻視が現れることもあり、そのときばかりはさしもの元判事も、幻覚のリアルさにだまされてしまいます。

八月のある日、孫娘がふたりやってきた。リュランは暖炉の前の肘掛け椅子にすわり、孫娘たちは彼の右側にすわった。

すると左のほうから、ふたりの若者があらわれた。彼らは赤とグレーの豪華なコートを着て、帽子には銀の縁取りがあった。

「ずいぶん立派な紳士たちをお連れしたんだね。どうしてあらかじめ教えてくれなかったんだい?」。

孫娘たちは、ここには誰もいませんよと答えた。ハンカチと同じく、紳士たちはじきに消えた。(p20)

もちろんリュランは、突然、見当識障害に陥ったわけではありません、あまりに幻覚がリアルすぎて、指摘されるまで本物と見分けがつかなかったのです。リュランは頭脳明晰だったので、指摘されれば、いくらリアルでも幻覚だと理解できました。

そんな経験を繰り返し経験し、あまりに幻覚が多様なことに驚いたリュランは、あるとき博物学者であった孫の熱心な勧めに促されて、自分の体験を生き生きと詳細に18ページも口述筆記し、5人の立会人に署名させました。(p22)

このシャルル・リュランの孫にして博物学者、のちには心理学者としても活躍した先見の明ある人物こそ、シャルル・ボネ、つまりシャルル・ボネ症候群の名前の由来となった人物でした。

名付け親はド・モルシエ

ではシャルル・ボネが、シャルル・ボネ症候群という名前をこの幻覚に付したのかというと、そうではないようです。

シャルル・ボネは、1760年の著書「魂の働きに関する分析的研究」の中で、「ある老人」すなわち祖父シャルル・リュランの体験を紹介しました。さらに自身も晩年、祖父と同じような幻覚を見るようになりました。つまりシャルル・ボネはシャルル・ボネ症候群になりました。

しかしその体験について詳しく論じることもなくシャルル・ボネは亡くなり、くだんのシャルル・リュランのノートは、彼の死後、1900年ごろになってようやく発見されます。

そして1902年、心理学者・哲学者のフルールノワがリュランのノートをはじめて活字にし、雑誌「心理学の古文書」の創刊号の巻頭に載せて発表しました。(p24)

その後、さらに30年が経過して、1936年、ジュネーブの神経学者ド・モルシエが、「スイス医学週報」の中で、このような幻覚を「シャルル・ボネ症候群」(CBS)と命名したのでした。

興味深いのは、このときまで、リュランの幻覚は「病気」や「症状」とはみなされていなかった、という点です。

シャルル・リュランは、この幻覚を大いに楽しんでおり、見てしまう人びと:幻覚の脳科学によれば、たびたび幻覚を楽しむべく静かな自室をシアター代わりにくつろぐほどでした。

孫のシャルル・ボネもこれを心理学の話題として書き残していて、その後ジュネーブで発掘されたときも「心理学の古文書」として扱われました。

しかしド・モルシエがはじめてこれを「症候群」、つまり、何かしら病理学的な要素のある異常として定義したのでした。

この歴史を知っておくと、シャルル・ボネ症候群の幻像が、当事者を困惑させることもあれば、楽しませることさえあるという独特の性質、すなわち一概に病気とは言い切れない不思議な特徴をもっていることが理解しやすくなります。

シャルル・ボネ症候群(CBS)の特徴

幻覚というと、掴みどころのない摩訶不思議なものをイメージするものですが、シャルル・ボネ症候群の幻覚には、様々な点において似かよった特徴があるといいます。

客観的に意識できる幻視

CBSの人たちが見る幻視は、とても客観的な内容で、ちょうど傍観者として眺める映画のスクリーンのようなものです。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、当事者の一人のロザリーは、こんな体験をしていました。

ロザリーによると、彼女の幻覚は夢というより「映画のよう」だという。

映画のように、心を奪われることもあれば、退屈なときもある(「例によって上ったり下りたりばかり、いつも東洋風の衣装ばかり」)。来ては去り、彼女には何の用もないように思われた。

無声の画像で、向こうは彼女に気づいていないようだ。異様に静かなことを除けば、その人たちはとてもリアルで、確実にそこにいるように見える。ただし映像のようにうすっぺらに見えることはある。

しかし、彼女はこのような経験をしたことがなかったので、「私は頭がおかしくなっているのかしら?」と考えずにはいられなかった。(p17)

CBSの幻視は、統合失調症の幻覚や、夢の中で見る奇妙な世界のように、自分が幻の世界に入り込んで、深く関わったりすることはほとんどありません。中立的な内容で、感情を掻き立てたり、妄想的にならせたりはしません。

「私は頭がおかしくなっているのかしら?」と考えるのは、冷静かつ客観的な証拠です。妄想的になっている人は、自分が正しいと信じ込んでいるので、そんな自己吟味はしません。

サックスは、CBSの人たちは、概して「物事を批評できる通常の目覚めた意識を保っている」といいます。

夢を見る人は自分の夢のなかに完全に入っていて、たいていは積極的にそこに参加するが、CBS患者は物事を批評できる通常の目覚めた意識を保っている。

CBSの幻覚は、外部空間に出現はするが、他との相互作用がないのが特徴である。つねに静かで中立的で、感情を伝えることも引き起こすこともない。

見えるだけで、音もにおいも触感もともなわない。たまたま入った映画館のスクリーンに映った映像のようによそよそしい。

その映画館は心のなかにあるのに、真に個人的な意味では、幻覚は本人とほとんどかかわりがないようだ。(p38)

CBSの幻覚は、あくまでも中立的で、感情を伝えることも引き起こすこともなく、本人とほとんど関わり合いにならない「たまたま入った映画館のスクリーンに映った映像」のようなものです。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に載せられている老人専門精神科医ロベルト・チューニスの調査でも、CBSの当事者は、それはが幻だと理解していて、幻像は感情的に中性で生活の内容と無関係、さらには自分で幻像を呼び出せず、内容もコントロールできないといった特徴がありました。(p34-35)

幻覚は幻視だけ

今引用した記述にあったとおり、CBSの幻覚は幻視、つまり視覚性のものだけに限られているのが普通です。

「見えるだけで、音もにおいも触感もともなわない」幻像で、ロザリーが言っていたように「無声の画像」です。たまたま入った映画館でサイレント映画すが上映されているようなものだ、ということでしょう。

しかしながら、シャルル・ボネ症候群と同じような現象が、視覚のみならず、他の感覚でも起きることが報告されています。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語では、聴覚性の幻覚として「ボネ幻聴」とでも言うべきものが紹介されています。

触覚、味覚、嗅覚も老いや病によって鈍くなることがある。

しかしこれまで、視覚におけるボネの幻像に相当するような、触覚・味覚、嗅覚における幻覚に関する報告はない。

ただし聴覚に関する報告はある。そのいわば、「ボネ幻聴」とでも呼びうる現象は、聴覚を失いつつある人びとが経験する音楽の幻聴である。(p41)

ここでは、視覚を失いかけた人がシャルル・ボネの幻像を見るように、聴覚を失いかけた人が架空の音楽や声を聞く例が紹介されています。

ボネ幻聴のようなタイプも含め、聴覚性のさまざまな幻聴についてはサックスの別の本、音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々に詳しいので参照してください。

ダウエ・ドラーイスマは「視覚におけるボネの幻像に相当するような、触覚・味覚、嗅覚における幻覚に関する報告はない」と書いてはいますが、その後に出版されたオリヴァー・サックスの見てしまう人びと:幻覚の脳科学では、嗅覚などでも同様の例があると言及されています。(p66)

CBSとメカニズムが似ていると思われるレビー小体病の当事者、樋口直美さんも、私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活や以下の記事の中で幻臭の体験を語っています。(p151)

第2回 匂い、このうっとりするもの|かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-

必ずしも他の感覚においてCBS的な幻覚が存在しないわけではなく、わたしたちは感覚の大部分を視覚や聴覚に依存しているために、その二つがとりわけ目立ちやすいだけなのかもしれません。

CBSでは、目の障害が直接の原因で幻覚が生じるので、ほとんど視覚性の幻覚に限られていますが、別の感覚が衰えればそれに対応する幻覚が現れます。

後で説明するように解離性障害などでは、同様のことが複数の感覚にまたがって現れている可能性があります。

摩訶不思議な幻視の内容

幻視の内容、つまりどんな幻視を見るかについては、極めて多種多様なので、一概にこれ、と言い切ることはできません。

しかし特徴的なのは、奇怪で恐ろしい幻視に悩まされることはほとんどないという点です。サックスは、大部分のCBSの幻覚は恐怖心を生じさせるものではなく、慣れてしまうとちょっと楽しくなるとさえ述べています。(p42)

幻視は、ごく普通の現実にありそうなものが見えることもあれば、いささか非現実的に改変されていることもあります。

たとえば、CBSの幻視は、異様に鮮やかだったり、異様に細かいディテールまで見えたりすることがあります。

CBSの幻覚はよく、まばゆいばかりの鮮烈な色がついているとか、人が目で見るよりはるかにディテールが細かくて豊かだと言い表される。

みな同じような服を着て同じような動きをしているというような、反復や増加が現れる傾向が強い。(p33)

また、シャルル・デュランや、先程のロザリーがそうだったように、ちょっとした異国情緒のある凝った幻像が見えることが多いようです。

理由はわかっていないが、この異国風を求める強い傾向はCBSの特徴であり、これが文化によって異なるかどうかを知りたいところだ。(p37)

サックスは他の文化の例を知りたいと述べていますが、わたしがCBSについて知ったおばあちゃんは、妖精や小人という、西洋風の幻視を見ていたようです。やはり文化が違っても、「異国風」という趣向は共通しているのでしょうか。

幻像は大きさが現実とは異なっていて、人間や物が奇妙なほど大きかったり、逆に小さかったりもするようです。これは「不思議の国のアリス症候群」と呼ばれる偏頭痛やてんかんに伴うことの多い幻視とよく似ています。

そのほか、マンガのようなデフォルメされた顔、幾何学的な図形などを見る場合もあり、CBSの幻像には特定の傾向はあっても、これこれはありえない、といった制限はないようです。(p33)

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、自分自身の姿が見えるという幻視、つまり自己像幻視(オートスコピー)も見られる場合があります。(p24)

しかし、これらの幻視の注目すべき特徴として、たいていは、見知らぬ人や見知らぬ物が見えるという共通点があります。だからこそシャルル・デュランは、孫娘たちが見知らぬ紳士を連れてきたと感じましたし、CBSの幻視はスクリーンの映画のように他人行儀です。

サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、CBSの幻視は、具体的な記憶ではなく、もっと普遍的に分解された要素のようなものから構成されているのではないか、と考えています。

CBSでは、記憶が完全なかたちでそのまま幻覚にはならない。

CBSの患者が人や場所の幻覚を見るとき、認識できる人や場所であることはほとんどなくて、もっともらしいものやつくり上げられたものでしかない。

CBSの幻覚は、初期知覚系のどこか下位レベルに、イメージや部分的イメージのカテゴリー辞書があるような印象を与える。(p36)

これはつまり、CBSでは「富士山」(固有名詞)のような特定のものではなく、単に「山」(一般名詞)のような普遍的で特定できない幻視が見えやすいようです。

だれかが現れるとしても、ほとんどが適当にパーツを寄せ集めた特定できない見知らぬ顔であり、楽譜や文字が見えるテキスト幻覚でも、音符や文字を適当に寄せ集めただけの解読できないテキストであるようです。(p23-24)

気まぐれな現れ方をする幻視

奇妙なのは、幻視の現れ方です。視力が欠けることが原因だとすると、視力が衰えるにつれ、四六時中 幻視が見えていても不思議でないように思えますが、CBSの幻視は極めて気まぐれです。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、ひとつの幻視は1時間見えていたものもあれば、数秒で消えてしまうこともあります。(p35)

特に、静かなときに慣れ親しんでいる環境で現れやすいと言われていますが、リュランの幻視は眠っていようと目が覚めていようと、ベッドにいるときには一度も現れませんでした。(p21,35,39)

CBSが生じる期間としては、たいていは1年以内ですが、5年以上続くこともあります。(p34)

ダウエ・ドラーイスマは、CBSの幻視は「視力が低下しはじめたときに現われ、視力が完全に失われるときに消える」と書いています。(p40)

ところがオリヴァー・サックスが見てしまう人びと:幻覚の脳科学で記しているロザリーは、すでに失明して全盲になった女性でした。(p20)

ロザリーの幻視は、失明してから数年経って初めて現れただけでなく、その後一度消えて、ストレスのかかった時期に再度出現することもありました。

物事をよく考える人に多い

さらに不思議なのは、視力が低下した年配者ならだれもがCBSを経験しうるというわけではなく、CBSを経験する人にはいくらか共通する性格傾向があるということです。

すでに触れたアルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に載せられている、1998年にオランダの老人専門精神科医ロベルト・チューニスが行なった14人の当事者へのインタビューでは、こんな傾向がありました。

彼の研究から浮かび上がる典型的な患者像は、かなり高齢で、視力をほとんど失っている、というものだ。

ほとんど字を読むことができず、比較的静かな環境で暮らしている。

独り暮らしで、外に出かけたり、知り合いに会ったりする意欲も気力もない。

来客はほとんどいない。静かに日々が過ぎていき、毎日特に何も起きない。

夕方になり、外界が暗くなっていき、かすかな眠気を催しはじめると、幻像があらわれる。

幻像によって心が乱されることはない。それが現実でないことを知っているからだ。幻像を消すこともできる。瞬きさえすれば、消えてしまうのだ。

だがこのことを他人には話さない。奇妙な現象であることは確かだから、他人から理性を失ったと思われたくないのだ。(p36)

この調査で明らかにされたのは、視力が弱いだけでなく、内向的で静かな一人暮らしをしている年配者に多い、という傾向でした。

自分の体験をあまり人に話さず、4分の3の人が配偶者にさえ打ち明けたことがなかった、という結果からは、シャルル・ボネ症候群がなぜ見過ごされてきたかがうかがえます。(p35)

つまり、CBSはもっとありふれた現象であるにもかかわらず、よく考える慎重な人たちが当事者に多いせいで、あえて口に出さない、あえてだれにも言わないことが多く、実際より数が少ないと誤認されてきたのでしょう。

ダウエ・ドラーイスマは、CBSは これまで信じられてきたよりかなり多く、眼科医クレインが1995年に診察した患者のうち38%に見られたと述べています。(p33)

サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学で最近の調査結果を参照して、CBSは知名度とは裏腹に、わりとありふれた現象である、という点を示しています。

CBSはいまだに医者にさえもあまり認識されていないので、かなり多くの症例が見落とされるか誤診されていることは大いに想像できるが、最近の研究はCBSが実はかなりよくあることを裏づけている。

オランダで視覚障害のある高齢者600人近くを研究しているロベルト・テウニッセらが、人、動物、光景のような複雑な幻覚を見ている人が15パーセントいて、像や光景にはなっていないが形、色、たまに模様が見える単純な幻覚を経験する人は80パーセントもいることを発見している。(p22)

この調査で明らかにされた典型例からすれば、CBSの幻覚は内向的で孤独な年配者に多いようにも見えますが、最も古いCBS当事者のシャルル・デュランは孤独な老人とは言いがたい快活な人でした。

わたしが親しくしていたおばあちゃんもやはり、とても孤独とは言いがたい人で、一人暮らしをしていたものの社交的で快活でした。両者に共通しているのは極めて内省的なよく考える人で、内的世界が年をとるごとに充実していたことです。

続く部分で考えますが、どうやらCBSを経験する人たちは、単に内向的、というよりは思考力を働かせてよく考える人たち、脳の活性レベルが高い人たちであるようです。

なぜ幻覚が生じるのか

CBSの幻覚は、視力の損なわれた人に現れるという特徴があるものの、すでに見たとおり気まぐれで、現れたり消えたりする傾向があるので、はっきりとしたメカニズムはわかっていません。

それでも、ダウエ・ドラーイスマが考えられる説としてあげているのは、「感覚遮断」「解放」です。(p40)

感覚遮断と解放

「感覚遮断」とは、何かの感覚入力が失われたとき、その失われた穴を埋めるかのように、記憶から感覚が再生されるという、古くからある考え方です。

「夢」の認知心理学によると、たとえば夢も、眠って感覚遮断されている状態で内側から再生される記憶なので、感覚過敏による幻覚と同じようなものと言えなくもありません。

内的に活性化した脳波、睡眠を維持し、夢を持続させるために外界からの刺激を遮断する。(p14)

つまり、CBSは外部からの入力が乏しくなることで、内側が活性化した結果再生されるものだと考えることができます。

この感覚遮断による幻覚は、わりとよくある現象で、オリヴァー・サックスは見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、狭い牢獄に閉じ込められた囚人や、ずっと同じ風景ばかり見るパイロットが幻視を見る現象を紹介しています。

また、緊急時に生じる臨死体験の幻覚は、感覚遮断による解離現象が密接に関わっていることを、ダウエ・ドラーイスマは別の著書なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学の中で説明しています。

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全身の感覚をできるだけ遮断した状態に近づけてリラックスを促す感覚遮断タンク(アイソレーションタンク)を使うと、普通の人でも変性意識状態を体験できる場合があります。

「解放」説もこれと似たようなもので、より高次の活動が損なわれることで、それにより抑制されていた低次の活動が活性化するというものです。

たとえば、不思議な能力が現れる共感覚やサヴァン症候群は、通常は抑制されている脳の機能が何かの理由で解放されたものだと考えられています。CBSの幻視の場合は、視覚の衰退が能力の解放の引き金になるということでしょう。

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いずれの場合も、共通していると思われるのは、脳の内的活動が活性化され、普段使われていない回路が解放されることです。

CBSは現れたり消えたりしますが、おそらくは脳のある部分の内的活動レベルの変動にそっているのでしょう。

視力が減退して数年ほどだけCBSが現れたり、全盲になるとCBSが消えたりするのは、視力が欠けたことで脳の内的活動が高まるのは一時的で、しだいにその状況に慣れて活性が落ち着くせいなのかもしれません。

ロザリーのように全盲になってからCBSが現れる理由はよくわかりませんが、彼女が二度目にCBSが現れた時期は強いストレスがかかっていたらしいので、やはり脳の活動が高ぶっていた可能性があります。

過剰な視覚連想

注目すべきことに、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、脳のある部分が損なわれることで、CBSのような幻視が生じうることがわかっています。

視覚連想を司る大脳皮質に損傷を受けた患者が、ボネの幻像のようなものが見えるようになった。

早くも1931年には、V19と呼ばれる場所(視覚連想を司る大脳皮質の一部)に電気刺激を与えるとボネの幻像が生じることがわかっている。(p45)

ここで言われている部分は、もしかすると視覚連想をつかさどるというよりは、視覚連想を制御しているのかもしれません。

そうだとすると、歯止めが利かなくなったことで、いわば夢で見るような驚異的な視覚連想が解放されてしまい、それが幻覚のようにして視界に割り込んでくるのでしょうか。

CBSが過剰な視覚連想と関係しているらしいことは、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語に載せられているこんな説明からも明らかです。

ホロヴィッツ医師は、視覚的幻覚は眼と脳の「交渉のプロセス」で生じるという。

…この論文にはボネの幻像への言及はないが、この脳と眼とのつながりは、その後頻繁に繰り返される。

シャルル・ボネ症候群は、眼から伝えられたひどく歪んだ情報を用いた、脳の過剰な自由連想の結果である、と。

…すなわち脳は、混沌と偶然とノイズを与えられたときでも、混沌の中に秩序を、偶然の中にパターンをノイズの中に信号を、認識するように作られた器官である、という見方だ。

脳はこう考える―無数の粒子が空中に浮遊しているはずはないのだから、眼が見ているものは鳩の群れに違いない、と。(p38)

ここでは「シャルル・ボネ症候群は、眼から伝えられたひどく歪んだ情報を用いた、脳の過剰な自由連想の結果である」とされています。

ロザリーのような全盲の人たちはともかくとして、視力がいくばくかでも残っているCBSの人たちの場合、なんとなく見えるぼんやりした形や、欠けている視野の一部を補うようにして幻像が構成されやすいようです。

つまり、CBSの幻覚は、何の脈絡もないものが見えているわけではなく、その場にある何らかのもの、あるいはその場に欠けているもの、わずかに見えている光景から連想しうるものが、自動的に補われているのではないか、ということです。

その一例として、ここではリュランが見た鳩の群れは、空気中に舞っていたホコリを脳が鳥の群れのようだと自動的に解釈した結果ではないかと推測されています。

それと似たような例をオリヴァー・サックスも見てしまう人びと:幻覚の脳科学で書いています。

あるとき彼女が私を見ていると、私のひげが広がって顔と頭全体を覆うまでになり、そのあとちゃんとした姿に戻った。(p29)

オリヴァー・サックスの立派な髭をたくわえた素顔を知っていると、つい笑ってしまうような話です。

ホコリを鳩に変え、サックスの顔をひげいっぱいにしてしまうCBSの視覚連想は、じつにユーモラスな詩人です。

このような視覚連想は、わたしたちにも生来備わっていて、「パレイドリア」と呼ばれています。

たとえば、空に浮かぶぼんやりとした形の雲が、色々なものに見えてきたり、ロールシャッハ・テストで使われるようなインクのシミが、何か意味あるものに見えてきたりする現象です。

なかでもごく普通の模様などから過剰に顔を検出してしまうような場合はシミュラクラ現象と呼ばれています。このときは脳の顔認識に関わる側頭葉の紡錘状回が過剰に活動しているようです。

あとで考えますが、このパレイドリアやシミュラクラ現象が過剰に働くことは、レビー小体病でも報告されていて、シャルル・ボネ症候群とレビー小体病の幻覚に何かしらのつながりがあることを思わせます。

高い脳の活動レベル

いずれにしても、こうした普段は抑制されている能力の解放や、過剰な視覚連想は、脳の活性の高さに関係しています。

CBSは、視力の欠けた、何かしらの視覚障害を抱える年配者に出現しやすいとはいえ、視覚障害そのものは、引き金であって決定要因ではないのでしょう。

先ほどのロベルト・テウニッセらの報告によれば、視覚障害を抱える年配者の中でも、複雑な幻覚(CBS)を見ている人が15パーセント、単純な幻覚を経験する人は80パーセントいる、とのことで、幻覚の複雑さや頻度に差がありました。

これは幻覚を引き起こすきっかけが視覚障害であることは確かなものの、その人の脳の内的な活動レベルの違いによって、幻覚の具体性や頻度が変わってくる、という意味かもしれません。

すなわち、CBSに見られる多種多様な幻視、内容の複雑さや異国情緒などは、あくまで、脳の内的活動が強い人が持つ豊かな想像力あってのものではないか、ということです。

それを裏付けるかのように、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、先ほどのCBSの当事者14人にインタビューしたチューニスの調査に基づき、ダウエ・ドラーイスマはこう考えています。

 チューニスの報告では外向的行動が少ないという事実から、脳の活性レベルとの関係が疑われる。外向的な人は内向的な人よりも脳の活性レベルが低いことは、昔から知られている。

ふつうに考えるとなんだか意外だが、広く流布している説明によれば、外向型の人はさらなる神経刺激を求めるために外向的なのである。

もっと簡単に言えば、内向的な人の脳は生まれつき活発であり、外向的な人は外的な刺激を必要とするということである。

この仮説に従えば、ボネの幻像は、脳の比較的高い活動レベルに慣れている内向型の人にあらわれ、極端な場合(視覚的刺激が多少とも消えるとき)、自分自身の蓄積―想像力、記憶、そして両者の結合―を使って幻像を生み出し、生まれつきの力を誇示するのだ。(p45)

彼の考察によれば、CBSの幻視は、活性レベルの高い脳が「生まれつきの力を誇示する」ようなものです。

もともと内向的、または内省的で、極めてよく考えるタイプの脳を持っている人たちが視覚障害に直面したとき、活発な脳はそれまでの人生で溜め込んだ情報のストックを活用して、豊かな幻視を再生するのかもしれません。

こうした生まれつき より深い思考力を持っている人たちは、もしかするとHSP(人いちばい敏感な人)と呼ばれる人たちに多いかもしれません。

HSPの人は、色々とスピリチュアルな現象(解離現象)を経験しやすいとも言われています。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
エレイン・N・アーロン博士が提唱した生まれつき「人一倍敏感な人」(HSP)の四つの特徴について説明しています。アスペルガー症候群やADHDと何が違うか、また慢性疲労症候群などの体調

CBSの名前ともなったシャルル・ボネは、祖父のエピソードをはじめて紹介した「魂の働きに関する分析的研究」の中で、人を生命を持たない石像にたとえました。

ただの石像にすぎない人にさまざまな感覚器官を与えたとき、外から入ってくる刺激によって死んだ石がひとつの人格に成長します。つまり、人という石像をある人格へと形作る(のみ)は、感覚刺激だと言うわけです。(p26)

今日でも、それと同様の見方が存在していて、たとえば発達障害の人が、独特な脳へと発達していくのは、もともとの感覚刺激という(のみ)が異なっているせいかもしれません。

たとえば自閉症の人たちが、人とのコミュニケーションを好まないのは、生まれつきの視覚過敏や聴覚過敏、触覚過敏のせいで、母親の顔を見つめたり、声を聞いたり、抱かれたりすることが快適ではないため、人を避けるようになっていく可能性があります。

HSPのような、感覚を深く感じ取り、強く解釈する人たちもまた、深い感覚刺激を感じるがゆえに、しばしば よく考え抜く人へと発達することがあります。

内省的で情報を咀嚼する力の強い人たちは、HSPとも関係している物事の違いを感じ取る力、「差次感受性」に秀でているようです。

HSPの人が持つ「差次感受性」―違いに目ざとく脳の可塑性を引き出す力
敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ

差次感受性に秀でている人は、見聞きした情報、体験した物事を、人並み外れて深く考え、分析します。通常はひとまとまりになっている物事を細かい要素に細切れ(チャンキング)して考えるのが得意です。

この思考パターンは、もしかすると、CBSの幻視の特徴である、特定の記憶の再現ではなく、要素に細切れに分解された記憶が見知らぬ人や物の姿をとって再生されることと関連してるのかもしれません。

生まれつき感受性が強く、外からの刺激を深く処理する脳は、外部からの深い刺激がなくなったとき、自らのストックの中から複雑な幻視を再生して、「生まれつきの力を誇示」したいと思うとしても不思議ではありません。

HSPのような物事を深く感じ取る感受性の強さがある程度の遺伝性を持つことを考えると、頭脳明晰なシャルル・デュランの孫のシャルル・ボネが博物学者であり、二人とも晩年にCBSを経験したのは意外ではないのでしょう。

レビー小体病との類似点

こうしたCBSのメカニズムや特徴は、やはり幻視を特徴とする他のいくつかの現象との関連性をうかがわせます。

すでに見たとおり、CBSの幻視において、重要な役割を果たしているのは脳です。とすると、たしかに眼科疾患が引き金になることが多いにしても、眼科疾患がない場合でも、脳の強い視覚連想や幻視が呼び覚まされることはありうるはずです。

サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学でこう指摘しています。

視力が失われたり消えたりするときには、多種多様な、ありとあらゆる視覚障害が起こりうることは確かで、もともと「シャルル・ボネ症候群」という言葉は、眼病などの目の問題とのつながりで幻覚を起こす人たちに使われるものだった。

しかし、本質的に同じような数々の障害が、目そのものではなく、もっと高度な視覚系、とくに大脳皮質の視覚をつかさどる領域―脳の後頭葉とそこから側頭葉および頭頂葉に突き出た部分―に、損傷がある場合にも起こりえる。(p27)

何かしらの要因で、目そのものではなく、高度な視覚系、大脳皮質のほうに異常を来たし、CBSのような幻覚が見えてしまうのではないか、と考えられるものに、レビー小体型認知症(DLB)があります。

レビー小体型認知症は、「認知症」との名前がついてはいますが、病理学的にはパーキンソン病と同様のレビー小体によって生じる病気であり、必ずしも認知機能障害が伴うわけではないので、レビー小体病という呼び名のほうが適切かもしれません。

以前に紹介したように、レビー小体病の特徴の中には幻視が含まれています。必ず幻視が出るわけではありませんが、かなり特徴的な症状なので、レビー小体病を他の認知症や精神疾患と区別する手がかりになりえます。

若年発症もあるレビー小体型認知症の10の症状―薬に過敏,幻視,疲労感,パーキンソン症状など
若年発症もあるレビー小体型認知症に伴う、慢性疲労や認知の変動、薬物過敏性、幻視、体のこわばりなどの症状、そして治療に使われる薬や役立つサポート情報についてまとめました。

このレビー小体病の幻視は、一見すると統合失調症の妄想や、認知症の見当識障害のようにも思われますが、実際にはCBSに近い現象であるようです。発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)にはこう書かれています。

この逆の症状が、認知症の一種のレビー小体型認知症の患者だ。彼らは過度に顔に反応してしまうため、顔ではないのに顔に見えてしまうパレイドリア現象を引き起こす。

レビー小体型認知症の主な症状は、幻想や妄想が生じやすいことだ。ポケットの中に小人が見えたり、人がいないのにいると主張する。この幻覚の原因には、顔の見えすぎがあった。

顔を見出して、そこに人の姿を作り出すのだ。試しにごく普通の風景写真を見せてみると、トラやチョウの羽の模様、樹木の木目などに、次々と顔を見つけ出すことがわかっている。(p155)

ここでは「幻想や妄想が生じやすい」と書かれてはいますが、ここまでのCBSの事例を考えればわかるように、他者から見れば妄想に思えてしまう、というほうが近いでしょう。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学によれば、CBSの幻視は、脳活動の観点からすれば、本物と区別がつかないそうです。それは、シャルル・ボネがかつて主張したとおりだと言います。

さらにフィッチェらは、通常の視覚的想像と実際の幻覚の差異も観察した。

たとえば、色つきの物体を想像しても視覚野のV4領域は活性化しなかったが、色つきの幻覚は活性化したのだ。

このような発見は、主観的にだけでなく生理学的にも、幻覚は想像とはちがうもので、知覚にかなり近いことを裏づけている。

ボネは1760年に幻覚について、「心は幻と現実を区別できないだろう」と書いている。フィッチェらの研究は、脳も両者を区別していないことを示している。(p35)

シャルル・デュランは妄想的ではありませんでしたが、孫娘たちが紳士を連れてきたと思いこんでしまった瞬間がありました。あまりにリアルに見えたからです。

また先ほどの全盲のCBS当事者ロザリーは、しばらくCBSが消えていた後、再度いきなり現れたとき、あまりにリアルだったので混乱してしまったといいます。

そのさなか、幻はロザリーにとってまさに現実に思えた。彼女は自分がシャルル・ボネ症候群であることを忘れかけていた。

「とても怖かったので、何度も叫んでしまいました。『この人たちを部屋から追い出して、門を開けて! 追い出して! そして門を閉めて!』」。

彼女は看護師がこう言うのを聞いた。「彼女は正気じゃないわ」。(p21)

もちろんロザリーは正気であり、見えているものがCBSの幻像だとわかったら、納得して落ち着きを取り戻すことができました。しかし、そのとっさの反応は、看護師からすれば、妄想にしか見えませんでした。

レビー小体病の当事者である樋口直美さんは、私の脳で起こったこと レビー小体型認知症からの復活の中でサックスのこうした記述に触れています。

オリヴァー・サックスが書いた『見てしまう人びと』などの本に、「シャルル・ボネ症候群」という幻視の症例がたくさん紹介されています。

彼らは知的能力や精神状態には何の問題もないのに、ただ幻視が見えてしまうんです。それを読むと、彼らの幻視の様子は、私の幻視の様子ととてもよく似ています。

…「本物にしかみえないなら、どうやって幻視とわかるんですか」とよく訊かれます。この場所にこういうものがいるだろうか、あるだろうか、と考えます。

もし家の中に人がいれば、それはありえないので幻視だとわかります。でも突然現れますから、心臓が止まるかと思うぐらい、びっくりします。(p238)

この記述が物語るとおり、CBSの幻視と、レビー小体病の幻視は、客観的に似ているだけでなく、主観的にもよく似ているようです。

すでに見たとおり、レビー小体病の幻視ではパレイドリア現象、または顔を過剰に検出してしまうシミュラクラ現象の過剰が知られていて、樋口直美さんも著書でそれに言及しています。(p47)

先ほどのロザリーは、突然の幻視に混乱して、気が触れているかのように誤解されましたが、それはレビー小体病でも同じだと樋口直美さんは言います。

みなさん今夜、お家に帰られて、夜、寝室の扉を開けた瞬間に、知らない男が眠っていたらどうされますが。叫ぶという方? 警察を呼ぶ方? 棒を持ってくる方? 包丁を持ってくる方はあまりいらっしゃらないと思いますけど、「初めまして」と言う方もいらっしゃらないと思います。

でも、レビーの、特に高齢の方が叫ぶと、全く違います。

「頭がおかしい」と怒鳴られ、説教され、バカにされ、BPSD[認知症の周辺症状]だと決めつけられます。病院に無理やり連れて行かれて、抗精神病薬を飲まされるかもしれません。

「認知症だから、ない物をあると言って、わけのわからないことをするのよね」と家族の方は言います。

違います。思考力があって、本物にしか見えないものが見えるから、正常に反応しているんです。不審者がいれば怖いです。でも慰められるどころか、狂人扱いされます。(p239)

おそらくは、視覚障害が引き金になるか、脳のレビー小体が引き金になるかという違いはあれど、視覚連想の過剰が引き起こされるという点で、CBSとレビー小体型認知症の幻視には、何かしら共通の基盤があるのではないでしょうか。

それとともに、どちらも年配者に多いことからして、互いに混同されて診断されているケースもあるかもしれません。単なる視覚障害からくるCBSの人が、幻視を妄想や思考力低下、認知症の兆候だとみなされるようなケースがありそうです。

イマジナリーコンパニオンとの類似点

CBSとレビー小体病は年配者が大多数を占めていますが、CBSの幻視のメカニズムからすると、それが年配者特有のものであるはずはないでしょう。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によれば、CBSの幻視の原因の一端が、脳の内的活動レベルの高さにあることを示唆したチューニスは、これが若い人にも生じうると述べています。

ド・モルシエによれば、老齢がこの症候群の定義の本質的部分だが、チューニスに言わせれば、老齢は関連要因のひとつにすぎない。

つまり、若い人もシャルル・ボネ症候群を経験する可能性を示唆している。(p44)

そもそも、すでに見た感覚遮断や解放といったCBSの幻視のメカニズムは、幼少期の子どもに見られやすいものです。

たとえば複数の感覚が混ざり合って体験される共感覚や絶対音感といった不思議な能力は、幼児のころはだれにでも見られると言われます。もともとは「解放」されていた低次の機能が、その後発達する高次の機能によって抑制されていくのかもしれません。

そうであれば、幼少期の子どもにはCBSと同様の幻視が生じやすい、ということになります。それはおそらく、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)と呼ばれる幻覚体験でしょう。

簡単に言えば、イマジナリーコンパニオンとは「となりのトトロ」であり、子どものときにしか見えない幻視を含む空想の存在のことをいいます。

子どもにしか見えない空想の友達? イマジナリーフレンドの7つの特徴に関する日本の研究
子どもが目に見えない空想の友達と遊んでいるのを見て驚いたことがありますか? 森口佑介先生の著書「おさなごころを科学する」から、子ども特有の興味深い現象イマジナリーフレンドについてま

サックスはCBSを取り上げた同じ見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中でイマジナリーコンパニオンについても触れています。

架空の友だちがいる子ども、というのは珍しくない。想像力豊かでたぶん寂しい子どもが作り出す、順序立って進行していく空想の作話のようなものの場合もある。幻覚の要素を持つケースもありえる。(o297)

イマジナリーコンパニオンを持つ子どもは、架空の存在としゃべったり手を繋いだりしますが、実際にその声を聞き、姿が見えている場合が多いようです。なぜなら子どもたちはイマジナリーコンパニオンの姿を絵に描くこともできるからです。

イマジナリーコンパニオンを持つ子どもも、誰もいないところへ向かって話しかけたり、見えない人がいると主張したりするので、CBSやレビー小体型認知症と同じく、周りの人から気味悪がられることがあります。

しかし年齢の違いは、周りの人の反応に大きな違いをもたらすでしょう。サックスは、イマジナリーコンパニオンがいたヘイリー・Wの経験談を次のようにつづっています。

ケイシーとクレイシーにはミルキーという妹もいました。私の心の目には彼女たち全員の姿がはっきり見えていて、当時の私にとってはまさに現実に思いました。

両親はそれをおおむね面白がっていましたが、私の架空の友だちがそれほどまでに詳しくて、しかもたくさんいるのは自然なことなのか、疑問には思っていました。(p297)

年配の大人が見えないものが見えると言い出すと、気が触れてるとか、妄想や認知症だとかと思われます。

しかし、子どもの場合は、幼い無邪気なファンタジーだと思われたり、大人をからかって遊んでいると思われたりするだけで、大きな問題に発展しないうちに消えていくのだと思われます。

イマジナリーコンパニオンは幼少期の子どもに普遍的なごく普通の現象ですが、やはり連想が鋭く、感受性の強い子どもに現れやすいようで、CBSやレビーの幻視と似ています。

「ぼくが消えないうちに」―忘れられた空想の友だちが大切な友情を取り戻す物語
イギリスの詩人A・F・ハロルドによる児童文学「ぼくが消えないうちに」の紹介です。忘れられた空想の友だち(イマジナリーフレンド)が、大切な友だちを探すという異色のストーリーが魅力的で

また、イマジナリーコンパニオンと同様の現象は、極限状況下のサードマン現象や、だれかと死別したときの幻視として大人にも現れることがあります。これは一度消えたCBSがストレス下で再度現れることとよく似ています。

脳は絶望的状況で空想の他者を創り出す―サードマン,イマジナリーフレンド,愛する故人との対話
絶望的状況でサードマンに導かれ奇跡の生還を遂げる人、孤独な環境でイマジナリーフレンドと出会い勇気を得る子ども、亡くなった愛する故人と想像上の対話をして慰めを得る家族…。これらの現象

CBSはもともと病的なものではなく心理学的なものとみなされていましたが、イマジナリーコンパニオンも、ときには当事者たちを大いに楽しませることもある、病的とは言えない現象です。

異なっているところはというと、イマジナリーコンパニオンはCBSのような視覚的な幻覚に限らず、触感や声も感じられること、スクリーンのような幻視ではなく当人が幻想の中に入り込んで交流する点です。

はっきりとはわかりませんが、その違いは、CBSが視覚障害を契機に幻覚が解放されるのに対し、イマジナリーコンパニオンはあらゆる感覚が未発達な時期に生じること、また幼児は幻覚に対して大人よりフレンドリーなことと関係しているのかもしれません。

樋口さんは大人は幻覚で見える見知らぬ人間に対して「初めまして」と言うことはまずないと書いていましたが、子どもは幻覚として現れるイマジナリーコンパニオンに対して「初めまして」と受け入れる気がします。

解離との共通点

幻視は幼い子どもに生じるだけでなく、10代から20代に若い人に生じる場合もあります。

この場合は、おそらくは解離性障害として診断されることが多いと思われます。

解離性障害は、もともと感受性が強い人が、極端なストレスを経験したときに生じやすいものですが、やはり幻視を伴う場合があるという特徴があります。

若い人の幻覚というと統合失調症をすぐに思い浮かべる精神科医は多いですが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、統合失調症ではほとんどが聴覚性の幻覚、つまり幻聴なのに対し、解離性障害では幻視がよく見られます。

他方の幻視はどうか。統合失調症においては少ないとされる幻視は解離性障害では比較的多く聞かれる。

また統合失調症の幻視が奇怪な内容であるのに対し、解離性障害の幻視の内容はおおむね現実的で、過去のトラウマのフラッシュバックという色彩を持つ (Bremner,2009)。

しかし他方では、幽霊を見るケースも報告されている。(Hornstein,et al.,1992)(p125)

統合失調症の幻視は、あるとしても奇怪な内容を取りやすいのに対し、解離性障害で生じる幻視は、おおむね現実的である、という点は、CBSの幻視といくらか似通っています。

すでに見たとおり、通常、子どもは成長するにつれて、神経の感覚遮断や解放による幻覚は経験しなくなりますが、解離性障害の場合、トラウマ経験のせいで、脳が感覚を遮断して自らを守ろうとします。

この脳が自発的に生じさせる感覚遮断が「解離」であり、その結果、年齢にかかわらず感覚遮断に伴う幻覚が生じえます。

CBSの幻視は、特定の意味を持たず、特定の記憶とも結びつけられない断片の寄せ集めのような傾向がありましたが、解離の幻視についてはわかりやすい「解離性障害」入門にこんな例が書かれています。

幻聴のほかにも解離性障害では多彩な幻視がみられます。人の形をした影が視野の隅にいるのが見えたり、黒い影のようなものがさっと動くのを感じたりと、錯覚のような訴えがあります。

またはっきりとした人間や動物の姿が見えることもあります。交代人格と交流する際に、その人格の様子をきわめて詳細に語る場合もあります。

解離性の幻視にはそれ以外にもさまざまなものがあります。天使、悪魔、小人、霊、空想上の動物などが見えることもあれば、髪の毛や手や目玉といった体の一部だけが宙に浮いていたり、それらがこちらを見張っていたり、追いかけてきたりするようなものもあります。(p73)

こうした例を見る限り、CBSに近い点もあれば、そうでない点もあるように感じます。

錯覚のような見え方、視界に浮いている断片のようなものは、CBSのパレイドリアや、デュランの視界に浮いていたハンカチに近いものでしょう。

しかし、中立的な幻視というより、いくらか恐怖を感じさせるものがあるのは、「過去のトラウマのフラッシュバックという色彩」を含んでいるからかもしれません。それでも過去の特定の記憶そのものを具体的に再生しているわけではありません。

思考の内容とつながっている意味のある幻覚もあれば、どこから湧き出てきたのかわからない断片的なものもあるようです。具体例として、20代前半の女性のこんなエピソードが載せられています。

エリカさんは霊的な存在は信じていませんでしたが、特にパニックの際は現実ではない人やモノが見えることがありました。

ビルの上に馬が浮いており、自宅の廊下の角を曲がると知らないサラリーマンと出くわし「あ、失礼」と言われ、風呂場を開けたら火の玉が笑っていて、見なかったことにしてドアを閉めたこともありました。

「一緒にいる人には見えていないようだし、それが現実のものでないことはわかっているけれど、その体験をどう捉えたらいいのか自分の中で混乱している」と、エリカさんは治療者に言いました。(p82)

エリカさんの場合、被害妄想や思考障害は見られなかったので、統合失調症ではなく解離性障害と診断されました。

解離性障害とCBSは、幻視が引き起こされるきっかけや、幻覚が生じるレベルは異なるとはいえ、共通点を多く含んでいます。

たとえば、CBSは外向性が低く受動的なタイプの人に見られやすいとされていましたが、解離性障害になる人は、まさしくそうした性格の人が多く、感受性の強さや内向的な傾向を持っています。

解離性障害の人たちは、CBSの当事者と同様、自分の奇妙な体験をあまり人に話さない傾向があります。

CBSの幻視は映画やテレビのスクリーンを見ているようだと表現されますが、解離性障害の場合も、スクリーンを傍観しているかのようなありありとした白昼夢を伴うことがあります。

CBSの幻視では、異様に鮮やかだったり、ディテールが細かったりしますが、解離性障害の人もそうした知覚変容やリアルな夢を経験します。

宮沢賢治の創造性の源? 「解離性障害―『うしろに誰かいる』の精神病理」
「後ろに誰かいる」「現実感がない」「いつも空想している」。こうした心の働きは「解離」と呼ばれています。『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 』という本にもとづいて、解離と創

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によると、CBSの幻視や、それと似た聴力の衰えがきっかけで生じる幻聴は、薬が効かないという特徴があるようです。 (p35、43)

発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方によると、解離性の幻覚も、やはり統合失調症の幻覚に用いられるような薬が効かないという特徴があります。

フラッシュバックにせよ、解離性幻覚にせよ、このタイプの幻覚の特徴は、抗精神病薬に対する難治性である。

また不思議なことに、解離性の幻覚は抗精神病薬にやけやたらと強い。副作用すらまったく出現しないという例もしばしば経験する。(p57)

また、CBSと関係があるのではないかとされていた視覚連想に関わる脳の部位は、解離とも関係しているようです。解離性障害で思考やイメージが次々に湧き出てしまう思考促迫は、視覚連想の箍(たが)が外れた状態なのかもしれません。

CBSの視覚連想はユーモラスな詩人のようだと書きましたが、解離傾向の強い人の中には、実際にその連想力を活かして芸術家として活躍している人もいます。

頭がさわがしい,次々と考えや映像が浮かぶ「思考促迫」とは何かー夏目漱石も経験した創造性の暴走
考えが次々に湧き上がる「思考促迫」「自生思考」とは何か、という点を、解離性障害、統合失調症、アスペルガー症候群との関わりなども含めてまとめました。また文学者夏目漱石が経験した、映像

何より、解離性障害の人たちは、幻覚を現実だと思いこんで妄想的になる統合失調症の人たちとは違い、先の例のエリカさんのように、幻覚を幻覚だと理性的に認識しているという特徴があります。これはCBSや純粋なレビー小体病の幻視とよく似ています。

統合失調症と解離性障害の6つの違い―幻聴だけで誤診されがち
精神科医の中には「幻聴=統合失調症」と考えている人が多いと言われます。しかし実際には解離性障害やアスペルガー症候群が統合失調症と誤診されている例が多いといいます。この記事では解離の

脳という劇場の予想外の催し物

こうして多彩な幻視の例を見てみると、どうやら、人の脳は、何かしらの体験をきっかけに正常とも病的とも判別しがたいタイプの幻覚を“上映”することがあるようです。

あまりにリアルなので、ときにはぎょっとしてしまい、当人と周りの人を混乱させることがありますが、おおむね中立的な内容が多く、CBSの異国情緒ある幻覚や、イマジナリーコンパニオンのような好意的といえる内容もあります。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学でサックスは、CBSの幻覚を楽しんだ人たちの例をたくさん書いています。

大部分のCBSの幻覚は恐怖心を生じさせるものではなく、慣れてしまうとちょっと楽しくなる。

デイヴィッド・スチュワートは、自分の幻覚を「とにかく友好的」と言い、自分の目がこう言っているのだと想像している。

「がっかりさせてごめん。失明が楽しくないことはわかっているから、このちょっとした症候群、目の見える生活の最終章のようなものを企画したよ。

たいしたものではないけど、私たちにできる精いっぱいなんだ」(p43)

シャルル・リュランはこの最終章の上映を楽しんでいたようです。孫のシャルル・ボネは、アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語によると、祖父についてこう書き残しました。

彼の精神はイメージで楽しんでいる。彼の脳は劇場であり、そこでは舞台装置が催し物を演じるのだが、それは予想外の催し物なので、なおさら驚異的なのである。(p45)

シャルル・ボネ症候群や、その周辺の幻視体験は、あまり知られていない上、当人の反応が突拍子なく思えるため、家族から気味悪がられたり、妄想扱いされたり、認知機能障害とみなされたりします。

幻覚、幻視、幻聴といった言葉は、あまりに頻繁に、またあまりに容易に精神障害や妄想と結び付けられがちです。

しかし、正しい知識を得てみると、それらはどうも、脳の内的活動レベルの高さや、感覚遮断に反応して、正常な機能の一部が解放されて上映されているシアターにすぎないようです。

この記事で考察してきたような事実に通じておくなら、その人だけにしか見えない、一人分しか座席のない劇場の催し物を尊重することができるのではないでしょうか。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語見てしまう人びと:幻覚の脳科学には、ここでは紹介しきれない当事者たちの生き生きとした体験が豊富に収録されているので、興味ある人はぜひ一読をお勧めします。

オリヴァー・サックスは、こちらのTEDでもシャルル・ボネ症候群について語っています。

オリバー・サックス: 幻覚が解き明かす人間のマインド | TED Talk | TED.com

わたしは、小人と妖精の体験を語ってくれた あのおばあちゃんに、その体験にはシャルル・ボネ症候群という名前があることを伝えられなかったことが心残りでした。でもきっと病理学的な名前なんていらなかったのでしょう。

その体験を隠すでもなく生き生きと語ってくれたことからすると、おばあちゃんは、きっと、シャルル・デュランのように自分だけの劇場で、予想外の催し物を味わいつくして満足していたのでしょうから。

なぜ耐えがたい恥は人を生ける屍にしてしまうのか―「公開羞恥刑」と解離の深いつながり

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なたが今まで「人生でいちばん恥ずかしい」という思いをしたのはいつですか?

そう問われると、思い出したくもない記憶がいくつも頭をよぎって、思わず顔をしかめたり、思考を追い払ったりしてしまう人もいるでしょう。

「恥」という感情は、ひときわ耐えがたいものの一つです。痛みに強く、怒りをコントロールでき、悲しみにも呑み込まれない屈強な人でも、恥ずかしさだけは耐えることができないかもしれません。

恥ずかしさは、わたしたちにとって身近なものですが、度を越えた恥ずかしさは、人を殺すことさえあります。ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)という本で取材された、精神分析学者ジェームズ・ギリガンはこう語ります。

あらゆる暴力は、その被害者から自尊心を奪い、代わりに恥の感情を植えつける。

それは事実上、その人を殺すのと同じだ。(424)

「恥」が人を殺すとはどういうことでしょうか。

「恥」は、これまでに数限りない人を殺してきました。恥が殺すのは、その人の心、また人格です。学校でのいじめや先生によるあげつらいが子どもを不登校に追い詰めたり、虐待や性被害が心を破壊したりするのは、耐えがたいまでの恥にさらされるからです。

特に、公の場で、たとえばクラスメイトたちの前や、大勢の人が見ている会場、そして今日ではあらゆる人がアクセスできるSNS上などで恥をかかされることは、ひときわ強いショックを与え、PTSDに苦しませ、ひどい場合は自殺へと追い込むことさえあります。

なぜならそれは、古代において死刑よりも残酷と言われ、先進国ではあえて廃止されてさえいる刑罰、犯罪者や異国民を辱めるために行われていた「公開羞恥刑」(こうかいしゅうちけい)と同じ構造をしているからです。

現代のいじめなどにも見られる「公開羞恥刑」としての辱めは、どこにも逃げ場がない、安心できる居場所をことごとく奪い去るといったことから、このブログで取り上げてきた「解離」、つまり心のシャットダウンや切り離しと、非常に深いつながりをもっています。

なぜ公の場で恥をかかされる公開羞恥刑のような体験が、死刑よりも恐ろしいとまで言われるほど残酷で、人格を殺害するのか、なぜ恥と解離は本質的に絡み合っているのか、幾つかの本から見てみましょう、

これはどんな本?

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)は、邦題が示すように、近年ネット上で増えているネットリンチ、言い換えると炎上についての事例を研究した書籍です。

ごく普通の人が、いかにちょっとした不用意な発言や一枚の写真がきっかけで、恐ろしい吊し上げに遭うか、さまざまな事例が集められています。

しかし元の原題はSo You`ve Been Publicly Shamed(だから君は公に辱められた)であり、ネット上のみならず、公衆の面前で辱めを受けることが、いかに人の心を破壊し、追い詰めるかについて、多方面から調査した本でもあります。

公衆の面前で辱めることは、古くは「公開羞恥刑」として公式に行われていて、現在でも、裁判における戦略の一つとして、恥をかかせる手法が積極的に用いられることがあります。

それだけでなく、近年SNSで見られる炎上騒ぎは、紛れもなく古代の「公開羞恥刑」の再来であり、戦時下の残虐な集団行動の研究などと密接に関係しています。

さらには、いじめや虐待が人の心を破壊し、ときには自殺まで追い詰めるのは、それが一種の「公開羞恥刑」であり、死よりも辛い仕方で心や人格を破壊するからだ、という点を明らかにして、壊された心や傷つけられた評判を回復する方法を著者は探っています。

もう一冊、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこのブログで以前にも紹介した、心理学者でありなおかつ神経生理学者でもあるピーター・A・ラヴィーンによるトラウマを生物学的に考察した本です。

この本でもまた、解離やトラウマにおいて「恥」は重要な役割を果たしていて、それが単なる感情や気持ちの問題ではなく、生物に普遍的に備わっている麻痺や不動状態を引き起こす凶器であることが書かれています。

今も身近な「公開羞恥刑」

「公開羞恥刑」、つまり公衆の面前で辱めることは、古くから刑罰の一種として頻繁に用いられていました。

犯罪者を公の場で、群衆たちの目の前で鞭打ったり張り付けにしたりすること、敗者を見せしめとして鎖でつないだり服を剥ぎ取ったりして行進させること、引き回すことなどは、有名なキリストの死やローマの凱旋行列など、歴史の至るところで行われてきました。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、文献をたどると、姦通を告発された女性がむち打ちの刑はともかく、人前でのむち打ちだけはしないでほしいと懇願している例もあるそうです。(p95)

公開羞恥刑が、あまりに残酷なので、アメリカ建国の父の一人ベンジャミン・ラッシュは1787年にこう書きました。

公衆の面前で屈辱を与える刑罰は、実は死刑よりも残酷であると広く認識されている。

にもかかわらず、その種の刑罰が、死刑よりも軽い罪に対して用いられているのは奇異としか思えない。

このとてつもない過ちに気づかない限り、人間の心は何事に関しても真実に到達することはまずできないであろう。(p99)

こうした事例は、肉体的苦痛よりいや増して、公の辱めのほうが人にとっては恐ろしく耐え難いものであることを如実に物語っています。

イギリスでは1837年、アメリカでは1839年、公開羞恥刑は公には廃止されました。(p22)

では、公開羞恥刑は、もはや過去の残酷な歴史にすぎないのでしょうか。そう考えるのはとんでもないことです。

著者は、さまざまな取材を通して、公開羞恥刑は今でも、たとえば裁判の場において、効果的な戦略として用いられ続けていることを明るみに出しています。

ある有能な弁護士はこう言いました。

「ああ、はい」彼はとても嬉しそうにそう答えた。「私はいつもやっていますね。

これまで、相当な数の人にそういう攻撃をしました。標的にすることが多いのは何かの専門家ですね」(p398)

この弁護士が述べるように、検察側の証人や専門家を追い詰めて、公衆の面前で恥をかかせることは、その証言が当てにならないことを知らしめる効果的な手段だとみなされています。

また、判事の中には、刑罰として、犯罪者に対して公開羞恥刑を求める人もいます。死ぬほど恥ずかしい思いをさせることが、再発の防止に大きく貢献するからだといいます。

しかしときには、法廷は、本来守られるべき被害者を公開羞恥刑に遭わせる処刑場ともなりえます。

スコットランドのある裁判では、レイプ被害者の16歳の少女が、証言と称して、事件のことを思い出させられ、屈辱的な尋問を強いられました。少女は三週間後に自殺し、有罪になった犯人は、2年後に刑務所から釈放されました。(p410)

心を破壊し、再起不能にまで追い詰める公開羞恥刑は、裁判所どころか、もっと身近なところでも生じます。最も公開羞恥刑の温床となっている場所のひとつは、間違いなく学校でしょう。

わたし個人の子ども時代を振り返るだけでも、自分やクラスメイトのだれかが公開羞恥刑に遭わされるような体験は、日常的に行われていたように思います。

古いマンガでは、先生は忘れ物をした生徒に「バケツを持って廊下で立っておれ!」と怒鳴るお約束があります。実際の学校でも、忘れ物をした生徒がクラスメイトの目の前で怒鳴られたり、ときには体罰を受けたりすることもあります。

美術や図工の先生が、“上手な”生徒の絵と、“下手な”生徒の絵を比較して晒し者にすることがあります。

運動の苦手な子どもたちは、悪い例としてやり玉に挙げられ、他の生徒の前で教師からバカにされます。

発達性協調運動障害(DCD)や限局性学習症(SLD)の子どもたちは、他の子たちより人いちばい頑張って取り組んでいるにもかかわらず、教師たちから嘲られ、公の場でひどい扱いを受けることが少なくありません。

光の感受性障害「アーレンシンドローム」とはーまぶしさ過敏,眼精疲労,読み書き困難の隠れた原因
まぶしさや目のまばたき、眼精疲労、ディスレクシア、学習障害、空間認識障害などの原因となりうる、光の感受性障害「アーレンシンドローム」についてまとめています。偏頭痛や慢性疲労症候群や

学校で生じる公開羞恥刑は、教師が生徒を辱めるものだけではありません。生徒のあいだで生じる極めて残酷な公開羞恥刑は「いじめ」でしょう。

クラスメイトの前でいじめられたり、クラスメイト全体から除け者にされたりして、大人になっても癒えない心の傷を抱えている人は少なくありません。

子どものCFS研究の原点「学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているか」
不登校は、「生き方の選択」「学校嫌い」「心の未熟さ」「能力の欠如」「根性が足りない」「親の育て方のせい」なのでしょうか。医学の進歩は、子どもや親に原因を求める伝統的な考え方について

教師による吊し上げやいじめは、時々日本の集団主義の学校だから起こるもので外国ではそんな陰湿なことはされない、と言われることもありますが、決してそんなことはなく、文化を問わず広く見られるものです。

さらには、すでに述べたように、近年、ネット上で生じているSNS上の炎上も、インターネットという公の場で起こる凄惨な公開羞恥刑です。

何気なく不用意な発言をした人や、不謹慎な画像を投稿してしまった人が目をつけられ、またたく間にネット中に拡散され、実名や住所まで特定され、その後も検索結果の上位に残ってしまうせいで、ネット上だけでなく現実世界でも居場所を奪われます。

こうしたさまざまな形の公開羞恥刑に共通するのが、被害者に強烈な「恥」を背負わせることです。恥をかかされた人は、それ以前とはまったく違った印象をもたれることになります。

羞恥は、遊園地によくある、物が歪んで映る鏡に似ている。

公衆の面前で誰かにわざと恥をかかせると、その人を本来とは違う姿に見せることができる。(p410)

ひとたび恥をかかされると、周りの人はもはや、その人を今までと同じようには見なくなります。馬鹿なことをした最低の愚か者、道化者のようにみなします。だからこそ法廷闘争や凱旋行列では、相手に恥をかかせ、勝利の美酒に酔いしれます。

けれども、より破壊的なのは、その人自身、つまり辱められた当人が、もはや自分を以前のように見れなくなることです。

辱められた人は、歪んだ鏡に映る自分を見るように、ありのままの自分を認識できなくなり、自尊心が打ち砕かれ、生きている価値さえもないと思い込みます。

なぜ人は公開羞恥刑をやめないのか

公衆の面前で恥をかかせることは、あまりに残酷で、人の心を死に至らしめるものなのに、なぜ、いつの時代もなくならないのでしょうか。

これまでよくなされてきた説明は、19世紀の心理学者、ギュスターヴ・ル・ボンが唱えた「群衆心理」、つまり人は集団になると理性を失い残酷に行動する、という理論にもとづくものだと著者は言います。

それを裏付ける証拠としてよく引き合いに出されるのは、あの有名な「スタンフォード監獄実験」です。

「スタンフォード監獄実験」は心理学をかじった人なら、だれでも知っているであろう、あまりに鮮烈で印象的な、恐ろしい実験です。

この実験は、1971年、スタンフォード大学の心理学者フィリップ・ジンバルドーによって執り行われました。

ジンバルドーは、群衆が異常な状況でどのような振る舞いをするかを調べるために、参加者を看守役と囚人役に分け、地下室に擬似的な監獄を作り上げました。

しかし実験はわずか6日で中止されます。広く知られている話によると、看守役があまりに残虐になり、手がつけられなくなったせいで、ジンバルドーの婚約者が恐怖を覚え、実験をやめさせたからでした。

それ以来、この実験は、ミルグラム実験と並んで、戦時下などでごく普通の人が残虐行為に手を染めてしまう理由を説明するモデルとして、たびたび言及されるようになりました。このブログの過去記事でも紹介したとおりです。

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スタンフォード監獄実験の本当の意味

しかし、ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)では、スタンフォード監獄実験の当時の関係者、特に看守役へのインタビューをすることに成功し、一般に知られているのとは少し違った真相が引き出されています。

フィリップ・ジンバルドーは、スタンフォード監獄実験は、群衆心理と同様、善良な人々でも、集団で邪悪な環境に置かれると残虐になることを示していると考えましたが、当時の看守役のある男性はこう述べたそうです。

「私は完全に意図的に、自分に与えられた役を演じていました」彼はそう答えた。

「自分でこういう人間を演じようと考え、その考えを実行に移したんです。無意識ではまったくありません。

あの時は自分では良いことをしているつもりでしたね」(p187)

スタンフォード監獄実験の手法を詳細に調べてみると、ジンバルドーは実験を始める前に実験の趣旨や目的を参加者に詳しく説明していました、一般的な傾向として、心理学の実験の参加者は、研究者の期待を知れば、進んでそれに応えようとする傾向があるそうです。

そのため、看守役が暴力的かつ残虐になったのは、「群衆心理」にふさわしい結果をジンバルドーが期待していて、それを態度で示していたからだ、ということになります。

では、この実験は「やらせ」だったのかというと、そうではない、と別の心理学者スティーブ・ライカーは述べたそうです。この実験の着眼すべきポイントが違っているのだ、と彼は言いました。

そのポイントとは、看守役の男性が「あの時は自分では良いことをしているつもりでした」と述べていたことです。ライカーはこう説明します。

「どれほど暴力的な群衆であっても、ただ無秩序に暴れるわけではありません。必ずパターンがあります。そのパターンには、何というか、大きな『信念体系』のようなものが反映されます。

不思議なのは、リーダーがどこにもいなくても、群衆が自らある程度、知性的に、集団の構成員の普段の思想に沿って行動できるということです。

感情が人から人へ電線して狂った行動を取っているのではありません」(p190)

彼が言うには、集団になって残酷な行為を働く人たちは、ル・ボンの集団心理や、一般に知られているスタンフォード監獄実験の理解とは裏腹に、理性を失って狂人のように残虐行為にふけるわけではありません。

スタンフォード監獄実験の看守役が振り返ったように、「意図的に」つまりある程度の知性や判断力のもとに、理由があって行動します。

善悪の区別がつかなくなって暴動を起こしているのではなく、「自分では良いことをしているつもり」で、あえてそうするのだといいます。

この本に載せられている数々の公開羞恥刑の事例において、だれかを辱める側にいた人たちの言葉は、この見解を裏づけているように思います。

たとえば、先ほど、裁判の場面において、専門家を公開羞恥刑に遭わせると述べた弁護士は、その行いを恥じるでもなく、「とても嬉しそうに」「私はいつもやっていますね」と言い切りました。

犯罪者に辱める刑罰を課す判事は、そうすることが再犯防止につながるというデータがあるので、処罰されるべき悪を裁くための正しく効果的な手法だと自信を持っていました。

ネット上の炎上のキーマンとしての役割を果たした人たち、たとえば不用意なツイートを見つけて自分の大勢のフォロワーにそれを流したような人たちは、正義感からやった当然のことだと臆面もなく語ります。

あたかも犯罪を「通報」するかのように、ふざけた行為や不謹慎な発言を摘発し、世の中に知らしめるヒーローになり、罰を受けるべき人に当然の報いを与えてやったのだ、と考えていました。

その発言や写真を拡散する無数のネットユーザーも、何の考えもなしにシェアしたり、リツイートしたりするのではありません。「こんなバカげた不謹慎な振る舞いをする奴がいることを、世の中に知らしめたい」、という義憤があります。

公開羞恥刑の温床になっていると述べた学校においてもそうです。学校の先生や他のクラスメイトは、「群衆心理」のように理性を失ったせいで、“できそこない”の子を吊し上げるわけではありません。

そうやって公衆の面前ではっきり指導することが、怠けている子どもを奮い立たせるのにふさわしい罰、つまり教育的指導だと信じ込んでいます。

また運動や勉強ができない子どもは“努力していない”子なので、“努力している”成績優秀な子と比較して良い例と悪い例をはっきり見せることが、クラス全体を教える効果的な方法だと考えています。

いじめにしても、何の理由もなく粗暴な振る舞いをしたり中傷したりするわけではありません、だれかの欠点や弱みを見つけ、明るみに出すことは、クラスでだれが主導権を握っているのかをはっきり示すための制裁なのです。

いずれにしても、共通しているのは、ほとんどの場合、ネット上であれ、現実社会であれ公開羞恥刑に関わる無数の人々、それを容認したり、煽ったりする群衆は、理性を失って発狂しているわけではないということです。

各々が自分の信念に照らして行動し、自分は正しいことをしている、社会のために良いことをしていると考えています。しかしそれが、吊し上げられている人の心をどれほど傷つけるのかは、ほとんど考えもしません。

だが、私も含め、多くの人たちの良いと思った行動が、大きな犠牲を生んでしまっている。(p197)

正義か悪かの二極に巻き込まれる

公開羞恥刑が行われるとき、それに関わる人々は、ばっさりと白か黒か、正義か悪かにわけられることになります。

公に辱められ、恥をかかされている人は、社会にとって全面的に「悪」です。恥知らずな行いをして、当然の報いに遭っている、逸脱者、人格障害者、人間以下のクズだとみなされます。

自分たちが攻撃し、傷つける相手のことを、人間性を欠いた存在と見なしがちなのは、ごく普通のことである。特に珍しくはない。

攻撃する側も、攻撃の最中も、その後も、相手は人間ではない、と思い込むのだ。(p147)

他方、その恥知らずな行いを暴いて制裁し、公衆の面前に引きずり出し、社会の悪を明るみに出した側にいる人々は、全面的に正義だとみなされます。彼ら自身、自分は社会を守っているのだ、という優越感に酔います。

ライカーは、集団で残酷な行為にふける人たちは、無秩序な振る舞いをするのではなく、「大きな『信念体系』のようなものが反映され」ると述べていました。

善悪がばっさりと二分化される公開羞恥刑の場では、普段からその話題において、明確な信念を持っていない人たち、あまりその話題を知らなかったり、どっちつかずにあやふやな態度を持っていた人たちは、どちらかの側につくように強いられます。

たとえば、記憶に新しいのは、2017年3月、大相撲の新横綱 稀勢の里と大関 照ノ富士の優勝争いの中、照ノ富士がもう後がない先輩大関に対し立ち会い変化して勝ったことで、現地の観客だけでなくSNSをも巻き込んで広く炎上したことです。

確かに、彼の振る舞いは批判を招いても致し方ないことでしたが、土俵上で人種差別的発言まで飛び交う公開羞恥刑に発展し、文部科学省が動くまでの騒ぎになったのは、この本の事例に負けず劣らず異常です。

このとき、普段は相撲というスポーツにそれほど関心がない人たちや、照ノ富士のことをあまりよく知らない人たちも、公開羞恥刑に加わりました。

その人たちは、相撲というスポーツにおいて、変化がどうみなされているか、あるいは照ノ富士がどんな力士なのか、という知識や意見を特に持っていませんでした。しかし集団に巻き込まれると、善か悪かどちらかにつくよう強いられました。

もしも「何か事情があったのでは」「騒ぎ過ぎでは」などと発言すると、正義の側についていると考えている人たちから、攻撃されることもあるでしょう。

「攻撃する側も、攻撃の最中も、その後も、相手は人間ではない、と思い込む」とありますが、翌日の新聞に載せられたあるコラムでは、まさにそのような表現で、照ノ富士は人間の心を持たない、という扱いがされていました。普段は見識ある人でさえそう書いたのです。

この騒動において、照ノ富士を一貫して擁護したのは、相撲の変化について自分なりのしっかりした意見を持っていた人たちや、普段からずっと彼のファンであった人たち、つまり、この話題について元から何かしら信念を持っていた人たちだけでした。

いじめのような公開羞恥刑でも同じことが言えます。クラス全体が特定の子を仲間外れにしたり除け者にしたりするとき、クラスにおいて正義と悪がばっさり二分されます。

いじめられている子を擁護しようとすると、悪とみなされて、一緒に攻撃されることになります。それで、普段からその子と交流がなく、あまりよく知らないクラスメイトたちは、攻撃されないように、いじめっ子側の意見に同調します。

そうした場面で、いじめられている側の子どもを擁護できるほど強い勇気を示せるのは、普段からその子の人となりを知っていて、共に攻撃されることになってもその子の味方をしたいと思うほど固い絆で結ばれてる親友だけです。

その子は確かにいじめられるような落ち度や弱みはあるかもしれない、でもそれ以上に良いところがたくさんあって、こんな公開羞恥刑に遭うべき子ではない、という固い信念があればこそ、群衆の信念、社会の信念をはねのけられるのです。

この世の中には、本当に正義か悪か、正しいか間違っているか、はっきり二分できるような物事はそうそうありません。

しかし、集団で炎上やいじめの公開羞恥刑が始まると、仮想の正義と仮想の悪が作られ、巻き込まれたあらゆる人が、どちらかに所属するよう迫られます。

深く考えていない人、信念を持っていない人は、仮想の正義という社会が作り出した信念体系に同調させられます。自分が公に裁かれないためには、一緒になって仮想の悪を裁くしかないからです。

先ほどの大相撲の騒動では、正々堂々と勝負せず恥知らずな振る舞いをした照ノ富士という悪に対して、怪我を押して出場し、優勝決定戦では真っ向からねじ伏せた稀勢の里がヒーローとして讃えられ、歴史に残る奇跡のストーリーとして連日報道されました。

炎上に参加した人たちは、自分たちは良い行いをし、悪をとっちめて当然の報いを受けさせたと考え、最後には正義が勝つ結末に酔いしれたかもしれません。

しかし後に明らかにされたように、照ノ富士が変化をしたのは、歩くのもやっとなほど膝の状態が悪くなっていたからでした。しかも彼はそれだけの理由を抱えていたのに、一言も不平を言わず、言い訳をせず、公開羞恥刑の中、最後まで戦い抜いたのです。

照ノ富士は、たしかに、批判されるようなことをしました。しかしそれは公開羞恥刑を受けるほどのものではなかったでしょう。人々が攻撃し、人格否定し、人間ではないとまで言い切っていた相手は、間違いなく仮想の悪、実際には存在しない作られた悪でした。

なぜ恥は解離を引き起こすのか

ここまで考えてきたのは、公開羞恥刑に参加する加害者たちの心理のほうです。なぜごく普通の人たちが、炎上やいじめといった公開羞恥刑に加担し、それほど知らないはずの人の心を残虐に踏みにじるのかを考えてきました。

こうした群衆が公開羞恥刑へと群がる心理は、SNSの炎上や学校のいじめだけでなく、暴動、民族浄化、集団虐殺、戦争とも関係している恐ろしいものです。

しかし公開羞恥刑が何より恐ろしいのは、ごく普通の人がそれに加害者になりうるから、というよりは、公開羞恥刑に遭わされた被害者の心が破壊され、魂が殺害されるからです。

このブログで、公開羞恥刑について取り上げるのは、冒頭で触れたように、それが「解離」と呼ばれる脳の現象と密接な関わっているからです。

公開羞恥刑の被害者は、必ず、解離という脳の働きによって、心を守ろうとします。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)に載せられているあるライターは、不確かな文章を書いたことで告発され、謝罪講演をすることになりました。

謝罪講演の会場についてみると、講演者の横の巨大スクリーンにtwitterでの反応がリアルタイムで表示されるようになっていて、彼自身も、それを確認することができました。

中世の公開羞恥刑では公衆の面前で辱められている人は、群衆から人格を否定する罵詈雑言を浴びせかけられましたが、彼の場合は、twitterのタイムラインという文面の形で罵詈雑言を浴びせられ、その内容はすべて公に中継されていました。

彼はこう言いました。

私は謝罪しようとしました。書き込みにリアルタイムで応えようと思いました……でも、そんなことが果たして可能だったかはわかりません。

私はもう感情のスイッチを切らざるを得ませんでした。心の扉を閉じている状態で話していたと思います。(p112)

「自分の感情のスイッチを切りました。切らないとだめだと思ったんです」(p428)

彼は押し寄せる恥ずかしさと屈辱に圧倒されて、心を守るとっさの緊急手段として、心の防火壁を閉じたのです。

この、心の隔壁閉鎖、感情の扉を閉じることが「解離」です。以前の記事で説明したとおり、解離は隔壁の閉鎖に例えられます。

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恐怖性麻痺

このライターのような状況に置かれたわけではないにしても、多くの人は、似たような体験をしているかもしれません。

大勢の人の前でスピーチをしなければならないときに頭が真っ白になる、みんなが見ているところで怒られて思考がフリーズする、足がすくむ、言葉が何も出ないほどパニックになる。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、「解離」は、わたしたち人間をはじめ、動物に普遍的に備わる「恐怖性麻痺」と呼ばれる現象の一部です。(p59)

「蛇に睨まれた蛙」ということわざがあるように、動物は極めて恐ろしい場面に遭遇したとき、フリーズし、固まり、足がすくみ、恐怖のあまり麻痺します。人間の場合は、さらに感情のスイッチを切ります。場合によっては現実感を喪失し、体外離脱のようなものも経験します。

これは、緊急事態に遭遇したとき、人の身体に備わる自律神経、つまり自分ではコントロールできない自動的に動くシステムが、身を守るための手段を講じるからです。

よく知られているように、自律神経にはアクセルにあたる「交感神経」とブレーキにあたる「副交感神経」があります。

緊急事態に面したとき、最初はアクセルにあたる「交感神経」が身体をのっとり、人は頭がパニックになって、一心不乱に闘うか、一目散に逃げるかします。これは「闘争・逃走反応」として知られています。

しかし、どうしても逃げられない状況や、理性を保てないほどの恐怖にさらされると、人はもう一つの恐怖反応、「固まり・麻痺反応」にのっとられます。つまり、感情がシャットダウンされたり、恐怖性麻痺ですくんだり、フリーズして固まったりします。

「固まり・麻痺反応」は動物においては、どうあがいでも勝ち目がなく逃げられる見込みもないとき、感情や痛みを遮断して死の苦痛を和らげるか、あるいは死んだふりをして、万が一にも助かる可能性に賭けるために生じるのでしょう。

そのとき身体を支配するのは、自律神経のうち、ブレーキにあたる「副交感神経」です。一般に、副交感神経というと、リラックスに役立つものだと思われていて、ちまたの健康アドバイスでは、副交感神経を活性化させる方法が色々と紹介されています。

しかし、あまり知られていないのは、「副交感神経」にはさらに二種類あるということです。

一般に知られているのは「有髄の迷走神経」(腹側迷走神経)であり、親子の愛着や、人との社会的なふれあい、によって活性化される副交感神経で、リラックスするのに役立ちます。

しかしもうひとつ、より原始的であるとされ、愛着システムがない魚のような生き物にも備わっている普遍的な「無髄の迷走神経」(背側迷走神経)があり、生き物が危機に陥ったとき、あらゆるシステムにブレーキをかけ、シャットダウンさせます。(p119)

「固まり・麻痺反応」は、こちらの「無髄の迷走神経」にあたる副交感神経が働くため、本人も理解できないままに、頭が真っ白になり、フリーズし、力が抜け、麻痺し、動けなくなります。

どこにも逃げ場がない

こうした「固まり・麻痺」反応が生じやすいのは、どうあがいても勝ち目がない、逃げ場所もない状況だと述べましたが、それは「逃避不能ショック」として知られています。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、ゴードン・ギャラップと、ジャック・E・メイザーは、檻の中に閉じ込められ、どこにも逃げ場がないようにされて繰り返し恐怖にさらされた動物は、「固まり・麻痺」反応の不動状態にとらわれてしまうことを発見しました。

著者たちは極めて緻密な、非常によく統制された実験を行い、動物が脅かされかつ拘束された場合、(拘束が解かれた後の)不動状態の時間が劇的に増加することを示している。(p67)

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これと同じことが、公開羞恥刑にさらされた人に生じます。

公開羞恥刑とは、極めて恐ろしい精神的な恐怖にさらされる経験ですが、公衆の面前で行われ、しかも自分以外の群衆はすべて敵意を持っているので、どこにも逃げ場がありません。まさに洪水のように迫りくる「逃避不能ショック」です。

公衆の面前で逃げ場がないとき、人ができるのは、闘うことでも逃げることでもありません。どちらも不可能です。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、公開羞恥刑の場で感じられるのは、「どこにも出口はない。後戻りもできない。我々は決して許さない」という圧倒的な敵意だけです。(p436)

とても恥ずかしい思いをさせられたときに使われる「穴があったら入りたい」という言葉は、公開羞恥刑に遭った人たちが解離によって心を切り離さざるをえなくなる様子を適切に表現しています。

穴、つまり逃げ込める場所がどうしてもほしいのに、それがないのです。

最後にできる手段は、自分の中に隠れること、あるいは自分から抜け出して空っぽになってしまうことだけです。「その状況だと人間は自分の中から抜け出してしまいます」と書かれています。(p434)

解離性障害の専門家は、しばしば解離を引き起こすのは、「安心できる居場所の喪失」、居場所がどこにもなくなることだ、といいます。

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公開羞恥刑はまさしく、安心できる居場所を奪い去る究極の体験の一つです。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、かつて1867年、ニューヨーク・タイムズ誌は、いつまでも公開羞恥刑をやめようとしないデラウェア州の政策を非難し、公開羞恥刑が及ぼす結果についてこう述べていたそうです。

見ている者たちから散々に罵倒、嘲りの言葉を浴びせかけられることで、駄目の烙印を押されたと感じる。

周囲の人たちから見捨てられ、自分の居場所を失ったと思い込むようになる。(p101)

公開羞恥刑は、身体的な意味でも、精神的な意味でも、安心できる居場所を完全に奪い去る仕打ちです。

「安全基地」がないときの最後の手段

それを考えると、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、恥、解離、トラウマが、それぞれ本質的な関連のあるものとして扱われているのも不思議ではありません。

被害者の年齢が若く未発達で愛着が不安定であるほど、その人がストレスや脅威、危険に対して積極的に抵抗することよりも麻痺で反応する傾向が強くなる。

主たる養育者との間にしっかりとした初期の愛着の絆が形成されておらず、それゆえ安心感の基礎を欠く人たちは、事件やトラウマ被害に遭うことでより傷つきやすく、恥、解離そして抑うつという確立した症状を発症する可能性が高くなる。

さらにトラウマと恥の精神生理学的パターンが似ていることから、恥とトラウマには本質的な関連性がある。(p75)

解離の「固まり・麻痺」反応に陥りやすいのは、特に親との愛着が十分でない子ども時代を送った人たち、つまり、副交感神経のうち、より高度で愛着やコミュニケーションによって安心感を得られるとされる「有髄の迷走神経」の働きが弱い人たちです。

もし、子ども時代に安定した愛着を得られていれば、緊急事態に陥ったときでも、副交感神経の二つのサブシステムのうち、愛着に関わる「有髄の迷走神経」が働きます。

愛着の働きには、親がいない場面でも、愛にあふれる親のイメージをしっかりと保ち、心の中の「安全基地」として思い描く、ということがあります。

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古くから公開羞恥刑に遭わされた人たちは大勢いますが、そのすべてが心を破壊されたわけではありません。公開羞恥刑の中でも、高潔な精神を保ち続けた人たちもいます。

たとえば、火あぶりにされても死ぬまで信念を保った殉教者たちがいます。そうした人たちは、いわば、神のような存在が、「安全基地」として働いていたのでしょう。

そのおかげで、死に至るまで、副交感神経のサブシステムのうち、「有髄の迷走神経」が優勢で、より原始的とされる「無髄の迷走神経」のフリーズやシャットダウンにのっとられることはありませんでした。

しかし、幼少時に親との愛着を十分に結べなかった人たちは、副交感神経の中でも、「有髄の迷走神経」の働きが十分でないため、アクセルである交感神経を抑えてリラックスするのが苦手です。

トラウマ経験に直面すると、愛着や「安全基地」のイメージによって居場所を確保することができないので、最終手段として、愛着を持たない生物にさえ備わっている本能、「無髄の迷走神経」による固まりと麻痺、つまり解離的な反応が生じます。

以前の記事で見たように、子どものころに親と安定した愛着を結べず、「無秩序型」と呼ばれるような極度に不安定な愛着に陥った子どもが、大人になってからも解離症状を示しやすいのはそのためなのでしょう。

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心を殺害された犠牲者たち

このように、学校でのいじめなど、公開羞恥刑の体験は、「逃避不能ショック」を生じさせ、解離を招きます。

しかし、最も残酷で、極めて恐ろしい公開羞恥刑は、子ども虐待でしょう。

ここまで見たとおり、公開羞恥刑のような場面において、「固まり・麻痺」がどれほど強く出るかは、同じ副交感神経のもう一つのサブシステムと関係する愛着の働きの程度にかかっていました。

本来、子ども時代に形作られるべき愛着の土台を粉々に打ち砕き、「安全基地」の片鱗さえも奪い去り、人を完全に固まり・麻痺反応でのっとってしまうもの、それが子ども虐待です。

子ども時代から毎日のように逃避不能ショックにさらされ、しかも親や家族といった存在に恥をかかされ、人間ではないかのように辱められてきた人たちはどうなってしまうのか。

あたかも、人生のあらゆる場面で公開羞恥刑にさらされてきたような人たちの事例もこの本に載せられています。

その人たちがいたのは、刑務所の、それも残虐非道で人間とは思えないような人たちを収容しているとされる独房でした。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によると、冒頭に出てきた精神分析学者ジェームズ・ギリガンは、凶悪犯の精神分析に携わる前は、そういった人たちはサイコパスのような良心を持たない存在なのだろう、と考えていました。

しかし、実際に受刑者たちと接するうちに、彼らは生ける屍(しかばね)、ゾンビのような生気を失った状態にあることに気づきました。

皆が口を揃えて言ったのが、自分たちはもうすでに死んでいるということです 

…いずれも手がつけられないほど暴力的になってしまった者たちです。彼らは、他人を殺し始める前に、すでに自分自身を殺してしまっているということです。すでに人格が死んでいる、ということでしょうか。(p422)

自分がロボットかゾンビのように感じられると私に話した者がいた。自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない、血管や神経はなく、紐や糸が入っているだけ、そう感じる者もいるらしい。(p423)

あまりに奇妙な状態でした。自分がもはや死んでいるかのように感じられる。身体さえも生気がなく、藁人形のように感じられるというのです。

彼らは、自分たちが生きていることを感じられないがために、人を殺すことにもためらいがありませんでした。また、しばしば自分の身体を傷つけましたが、それはあまりに身体が無感覚なので、せめて痛みによって、生きていることを感じたいがためでした。

また、身体的な感覚も麻痺してしまっている。自分自身を傷つける者がいるのはそのためです。自分自身の身体を酷く傷つけて平気でいるのです。

自分を傷つけるのは、罪の意識があるからではありません。罪の意識を感じ、自らを罰して罪を償おうとしているわけではないのです。

自分に感覚があるかどうか、確かめようとして、そういうことをするのです。彼らにとっては、自分が無感覚だと知る方が、身体的な苦痛を感じるよりも辛いのだと思います。(p423)

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何も知らない人なら、彼らは冷血人間で、人間味のある温かい感情をもともと持ち合わせていないサイコパスなのだだ、と決めつけたかもしれません。

しかしジェームズ・ギリガンは違いました。その理由を考えようとしました。 ジョン・ロンソンはこう書きます。

こういう人間の魂は、ただ単に死んでいるのではない。死んでいるのは何者かに殺されたからだ。

いったい、なぜ、どのように殺されたかのか。(p423)

これら凶悪犯たちの心が死んでいるのは、だれかに殺されたからです。生ける屍もゾンビも、かつては生きていたに違いなのです。

彼らの現実感の喪失は、れっきとした医学的な症状でした。生きている心地がしないとか、自分の身体が自分でないように感じられる、といった感覚は、解離の兆候、「離人症」です。その極めて強い状態に囚人たちは陥っていました。

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そもそも人間になれなかった

ジェームズ・ギリガンは、凶悪犯たちを調べるうちに、彼らの心を殺した犯人を突き止めました。むしろ、あまりに普遍的で共通していたので驚いたといいます。

私が確認した範囲では、重大な暴力犯罪の背後には、必ず恥の感情がある。

恥をかかされた、屈辱を与えられた、軽蔑された、嘲笑われた、そういう経験が背後に必ずある。

この種の犯罪者は、子供の頃に、銃で撃たれる、刃物で切られる、殴られる、首を締められるなどして窒息させられそうになる、むちで打たれる、ドラッグを投与される、飢えさせられる、火をつけられる、窓から放り投げられる、レイプされる、親に売春を強制される、などの経験をしている。(p424)

凶悪犯たちは、まだ幼いころ、子どものころに、親や大人たちによって、心を殺されていました。

正確に言えば、あまりに頻繁に公開羞恥刑のような場に置かれたせいで、それも、親や家族のだれも味方にならず、たった一人で公開羞恥刑にさらされたせいで、心がシャットダウンされていました。

先ほどの罵詈雑言のtwitterのタイムラインの前で講演させられたライターのように、人は公開羞恥刑で辱められると、一時的に感情がシャットダウンして固まり・麻痺反応に支配されます。

しかし普通は一時的です。PTSDのような後遺症が残るにしても、感情がずっとシャットダウンされたままにはなりません。

しかし凶悪犯たちは、そうした一時の公開羞恥刑にさらされたわけではありませんでした。

普通の人間であれば、単に言葉によって恥をかかされ、拒絶され、侮辱され、軽蔑されるだけでも、自尊心を破壊され、魂が死んでしまうことがあるだろう。

だが、凶悪犯罪者たちの場合は、言葉だけではない、もっと酷く、極端で、おぞましい仕打ちを繰り返し、頻繁に受けたのだ。

大人になってから頻繁に凶暴な振る舞いをした者たちは、ほぼ例外なく、子供の頃に絶え間なく暴力的な虐待を受けていた者たちである。(p424)

凶悪犯たちの心が死んでいたのは、そして彼らの心がシャットダウンされたまま決して戻らず、あたかもゾンビや生ける屍のようになっていたのは、公開羞恥刑がほんの一時的なものではなかったからです。

彼らは子ども時代に絶え間なく辱められ、ひとときたりとも人間として扱われませんでした。親や家族に虐待され、学校では問題児としてやり玉に挙げられ、若くして刑務所に入れられ、モンスターであるかのように檻の中に閉じ込められてきました。

だから、彼らの人間味のある心は、シャットダウンされ、隔壁が閉じられたままでした。人生全体を通じて、人間として振る舞える安全な瞬間は一度もなかったので、彼らはそもそも人間になれなかったのです。

解離性障害は、かつては女性に多い疾患と思われていましたが、近年では、男性と女性とでは症状が違うのではないか、とされています。

ジェームズ・ギリガンは、男が暴力をふるうのはなぜか―そのメカニズムと予防という本も書いていますが、男性の場合は攻撃性が外向きに、つまり他者に対して現れやすいようです。

男性が暴力的になりやすいのは、劣悪な環境で育った場合に人を暴力行為へと目覚めさせるリスクとされるMAO-A遺伝子の変異体が、性染色体がXXの組み合わせからなる男性ではXYの組み合わせからなる女性より発現しやすいこと、また男性ホルモンのテストステロンの影響が強いことなどが考えられます。

つまり、子ども虐待のサバイバーで、極めて強い解離症状に陥っている男性の中には、若いころに犯罪に手を染めてしまい、病院にかかるまでもなく刑務所や断頭台へ送られた人たちが少なからずいるせいで、女性より少ないと誤認されていたのでしょう。

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「魂の殺害」

男性とは症状の現れ方が違うとはいえ、子どものときから度重なる公開羞恥刑にさらされてきた女性たちもまた、心を殺害され、生ける屍となります。

慢性的なトラウマを負わされたある女性は、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、自分のことをこう述べています。

慢性的にトラウマを抱えている人は、生きているという実感や人生に積極的に関わっているという感覚のないまま、ただ型通りに生きているかのようだ。

このような人々は、その実存の中心は空虚である。ある集団レイプの被害者が、最初のセッションで私にこう語った。

「私は散歩に出かけることができます。でも、それはもう私ではないのです……私は空っぽで冷たくて……死んだも同然です」

「私は空っぽで冷たくて……死んだも同然」という言葉は、ジェームズ・ギリガンが報告していた凶悪犯が述べた「自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない」という言葉と恐ろしいほどよく似ています。

凶悪犯のほうは人を殺したために刑務所におり、女性のほうはゾンビのように散歩する日々の中で精神科にいました。

あまりに慢性的にトラウマにさらされたがために、極度の解離に陥った人たちは、居場所こそ違えど、みな生ける屍のようになります。

重篤で遷延的(慢性的)なトラウマのサバイバーたちは、自らの人生を「生ける屍」のようだと述べる。

マレーはこの状態について次のように鋭く記述している。「それは、まるで人間の活力の源泉が干上がってしまったかのようであり、まるで実存の中心が空虚てせあるかのようである」(p83)

解離とは、固まり・麻痺反応、また死んだふりの状態でした。それがずっと続いているとしたら、それはもはや死んだ「ふり」ではなく「生ける屍」そのものでしょう。

性的虐待や性被害の場合、先に見た自殺した少女のように、性被害そのものだけではなく、その後の裁判や日常生活で何度も精神的に辱められるセカンドレイプを経験しがちです。

家族や友人から性被害を受けた子どもたちは、もちろん、このわけのわからない無秩序な重荷にさらに耐えなくてはならない。

恥は「悪」という全般的な感覚として、彼らの人生の隅々まで浸透し深く埋め込まれていく。(p75)

性被害はひときわ「恥」を引き起こしやすく、公開羞恥刑と近い要素を持っているので、性被害が解離とつながりが深いばかりか、「魂の殺害」とまで呼ばれるのも不思議ではありません。

「魂の殺害」である性虐待・性暴力の7つの後遺症―子どもが性被害を受けた時の対処法とは?
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なお、しばしば凶悪犯 イコール サイコパスと思われがちですが、遺伝的要素が強いと思われる純粋なサイコパスは、こうした虐待の犠牲者たちとは大きく異なっています。

サイコパスは家庭環境によらず発症し、一見とても社交的で、言葉や振る舞いで人をコントロールするのに長けています。感情を制御し、人を身体的に傷つけるより、ゲームのように感情的にもてあそぶのを好みます。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)でもサイコパスの事例は出てきますが、心を殺されて普通の生活を送れない凶悪犯たちとはまったく異なり、サイコパスはごく日常の社会生活に溶け込むことができます。(p329)

何より大きな違いは、サイコパスは公開羞恥刑を苦にしないことです。もともと恥を知らない、認識しないので、そうした場面に立たされても「無傷で立ち直れ」ます。(p335)

サイコパスはもともと良心が解離されているので、公開羞恥刑で恥じることはありません。わざと自分を炎上させて楽しんだり、お金を儲けたりすることもできます。普通の人は良心が機能しているので、公開羞恥刑に遭うと感情が解離されます。

どちらも解離という切り離しが関わっていますが、もともと生理的に解離されているのと、トラウマへの防御として解離せざるを得ないのとでまったく異なります。

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毎日が公開羞恥刑

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているとおり、大人になってから経験する一度限りの辱めは、解離が生じるとしても一時的です。公開羞恥刑が終われば、逃げることができるようになるので、シャットダウンされた感情は復活します。

そのような人たちは、生ける屍になる代わりに、交感神経の「闘争・逃走」反応が制御できなくなり、フラッシュバックや動悸など、PTSDに苦しめられます。

強いトラウマを受け、慢性的にネグレクトまたは虐待された人は不動およびシャットダウン・システムにょって支配されている。

一方、急性のトラウマを受けた(最近の一度だけの出来事によることが多く、繰り返すトラウマ、ネグレクト、虐待歴がない)人は、通常、交感神経系の闘争か逃走かというシステムに支配されている。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)で出てくるネットリンチなどの公開羞恥刑にさらされた人たちの多くもPTSDになりました。

しかし 身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの続く記述が語るとおり、子ども時代にトラウマを経験し、慢性的で繰り返すトラウマにさらされるなら、つまり子ども時代から公開羞恥刑が当たり前の中で育つと、解離や麻痺、離人症などに苦しめられるようになります。

急性トラウマを受けた人はフラッシュバックと動悸に苦しむことが多いが、慢性トラウマのある人は心拍数に変化なく、むしろ減少している場合もある。

こういった人々は、もうろう感、非現実感、離人症などの解離症状や、さまざまな身体的および健康上の問題に悩むことが多い。

身体症状には、胃腸症状、片頭痛、ある種の喘息、慢性疼痛、慢性疲労、人生生活への一般的な関心の低下などがある。(p124)

子ども時代に経験するトラウマは、虐待だけとは限りません。子どもの観点からすれば、痛みを伴う手術も、拘束された状態で身体をもてあそばれるという点で、性的虐待と変わらないほど強いトラウマをもたらすことがあります。

私はテッド・カジンスキー(科学技術の非人間性に対して報復した「ユナボマー」)の母親と、ジェフリー・ダーマー(被害者を切断した連続殺人犯)の父親と話をする機会があった。

彼らは二人とも、幼少時に病院で体験したぞっとするような出来事の後、子どもがいかに「壊れてしまったか」について恐ろしい話をしてくれた。(p79)

子ども時代に強烈なトラウマを経験すると、その後の正常な発達が妨げられます。遺伝的な発達障害よりもさらに重度の問題が連鎖的に生じ、さまざまな場面で不適応を起こします。

幼いころの強烈なトラウマ経験のために理由もわからず周りと異なるかたちに発達した子どもたちは、同年代の子どもに比べ、あまりに変わっているため、教師からやり玉に挙げられたり、クラスメイトからいじめられたり仲間はずれにされたりしやすくなります。

また愛着が不安定なせいで、恥に敏感に反応し、恥ずかしい場面で解離によって反応しやすくなります。その結果、他の子どもにとっては普通の学校生活が、トラウマ障害の子どもには毎日が公開羞恥刑の連続になりえます。

幼少期にトラウマを抱えた子どもが、そうした負の連鎖に巻き込まれて強い解離や他のさまざまな精神・身体症状を次々に併発されていく現象は「発達性トラウマ障害」として知られています。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

恥は氷、愛着は炎

公開羞恥刑における恥という心理が、これほどトラウマや解離と密接に結びついていることを思うと、ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の引用文中で、ジェームズ・ギリガンが、恥とは感情ではない、と言っているのももっともです。

「恥を感情と呼ぶのは、矛盾したことかもしれない。

恥は苦痛を呼ぶ。そして、自分を絶えず恥じていると、その人の感情は死んでしまう。

恥が感情を殺すのだ。その恥を感情と呼ぶのは奇妙だ。(p427)

恥は感情ではなく、感情を殺すものだとギリガンは述べます。

確かに、人は恥を「感じる」とき、実際には感情を「感じられなく」なります。頭が真っ白になり、フリーズし、現実が現実でないように思え、感情がシャットダウンされます。

ギリガンは、恥は寒さであり、暖かさの欠如だと述べます。

恥は「寒さ」に似ているかもしれない。寒さとはつまり「暖かさの欠如」だからだ。

とてつもなく酷い恥を経験すると、人は感情の欠如した状態になってしまう。感情の死だ。

(ダンテ『神曲』の「地獄篇」では)地獄の最下層は、炎燃え盛る地獄ではなく、氷地獄だとされている。完全に寒さに支配された地獄だ」(p427)

そうすると、恥とは、人と人とを結びつける暖かさである「愛着」の対極にあるものだ、とみなせるでしょう。

愛着とは、元をたどれば、親子のふれあいであり、生まれたばかりの我が子に言葉によらずして肌と肌のふれあいで伝えられる、「わたしはあなたを愛しており、どんなときも決して見捨てない」というメッセージです。

だからこそ、人は、たとえ公開羞恥刑のような場面にさらされても、強い愛着の炎がともっていれば、耐え抜くことができます。自分は一人ではなく、愛してくれている味方がいる、というイメージを働かせられるからです。

愛着は、副交感神経のうち、有髄の迷走神経を活性化させます。対照的に、恥は、有髄の迷走神経を弱めます。

愛着は、「あなたは決して一人ではない」という希望の暖かさであり、恥は、「あなたは一人きりで、味方などどこにもいない」という絶望の冷たさです。

この本に出てきた、公開羞恥刑をよしとする人たち、たとえば法廷で公開羞恥刑を課す判事や弁護士、またネットリンチで不注意な人に制裁を加える人たちは、自分たちは正義のために当然の刑罰を課していると考えていました。

確かに公開羞恥刑で辱められた人は、再度同じ間違いを犯すことはないのかもしれません。再犯率は下がります。しかし、心を破壊されてPTSDになり、社会から抹殺される人たちもいます。

他方、子どものころから心を破壊され、PTSDを越えて魂が殺害されてしまった生ける屍のごとき犯罪者たちの場合は、公開羞恥刑によって再犯率が下がることはありませんでした。理由はわざわざ書くまでもないでしょう。(p425)

ジェームズ・ギリガンはそのような凶悪犯罪者、つまり、もはや死刑にするか、独房に閉じ込めておくしかない、と思われていた人たちを、再犯しないよう訓練するにはどうすればいいかを探り、ひとつの結論に至りました。

「ただ、囚人たちを、敬意をもって扱っただけです」(p430)

公開羞恥刑に勝るもの

凶悪犯たちは、だれかに銃を向けるとき、相手から尊敬されているように感じて嬉しくなる、と語ることがありました。

それほどまでに、そんな束の間の偽の注目でさえ価値があると思えるほど、彼らの自尊心は冷え切っていました。(p425)

ジェームズ・ギリガンは、自尊心が極限まで冷え切って、生きているという実感さえない犯罪者たちが心を開ける環境を作り、辛抱強く、敬意をもって扱うようにしました。

その結果、幼いころからのダメージの後遺症で普通の社会に戻れるほどには回復しなくとも、「予想もしなかったほどの人間性を持つようになった」人もいました。敬意のある扱いは、恥で氷漬けになった人の人格を呼び覚ますことがあるのです。

解離性障害のうち、最も深刻な病態とされる、解離性同一性障害(多情人格)の治療において、ひときわ大切だとされているのが、どんな人格に対しても、尊厳を認めて敬意をこめて人間らしく扱うことだ、と言われているのもうなずけます。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか
解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオン(IC)の別人格は、一人の人間として尊厳をもって扱われるべきなのか、という難問について、幾つかの書籍から考えた論考です。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の著書は公開羞恥刑の心理の研究を通して、以前は良かれと思って参加していた炎上騒ぎから手を引きました。

他方、恥をかかされたことで人生がよりよくなったと語る人もいました。判事によって「私は飲酒運転で二人の人を殺しました」と書かれたプラカードを持って毎朝街路に立つよう命じられた男性は、それがきっかけで生きた警告の例になるという役割を見出し、「私はこの恩を生涯忘れないでしょう」と述べたそうです。(p159)

ある程度の恥は、人を反省させ、よりよい人間になるよう奮起させます。しかし度を越えた恥は人の心を氷漬けにしてしまうことがあります。

適度な悲しみが人の心を浄化するのに対し、度を越えた悲しみは人を無活動にならせます。適度な怒りは物事を正しますが、我を忘れる怒りは人を破滅させます。

小さな炎は人を温め、燃え盛る炎は町を焼きます。小さな氷は夏の暑さを和らげますが、氷だけの世界は生き物を凍えさせます。

ですから、一概に、恥という感情が間違っている、絶対悪だと言い切ることはできません。そんなことをしたら、自分は正しいことをやっていると信じて架空の絶対的な正義と悪を作りあげ、公開羞恥刑を課す人たちとあまり変わらないでしょう。

必要なのは、人と人との温かみが感じられる焚き火のような愛着と、ほてったり熱を出したりしたときに冷静さを取り戻させてくれる氷嚢(ひょうのう)のような恥なのでしょう。

このバランスが失われて、自分やだれかが冷え切って凍えそうになったり、あるいは虚栄心で熱に浮かされたりしているとき、適切な炎か氷を用意できる柔軟な観察眼こそが、わたしたちに求められているものなのかもしれません。

このルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)は、SNSの場など新たな形での公開羞恥刑が登場している今、思いがけず群集行動に巻き込まれてしまう前に、わたしたちのだれもが読んでおくといい名著だと思います。

恥についての多方面の取材ということで、時おり生々しい表現も出てきますが、時代に即した広い視野を育ててくれるのでおすすめです。

著書のジョン・ロンソンは、こちらのTED動画でもこの話題を扱っているので参考にしてください。

ジョン・ロンソン: ネット炎上が起きるとき | TED Talk | TED.com

男性の解離は女性の解離性障害とは症状の表れ方が異なる?

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の記事は、以下の記事の補足です。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった
脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし

本文では、解離は回避型寄りの愛着スタイルに伴う反応であり、PTSDは不安型寄りの愛着スタイルに伴う反応だと考えました。そして、たとえば境界性パーソナリティ障害は後者にあたると書きました。この分類に従えば、他のさまざまな病態も説明することができます。

たとえば、回避型の愛着スタイルに多い強迫性パーソナリティ障害(批判的な完璧主義者)、反社会性パーソナリティ障害(犯罪者)、自己愛性パーソナリティ障害(尊大で横柄な人)、ジゾイドパーソナリティ障害(極めて孤独を好む人)などは、人間味のある感情や記憶を解離しているために、冷徹で批判的、尊大な性格になります。

これらは、解離傾向だけが強く、PTSD傾向はかなり弱いため、上記の分類では解離性障害と似たような場所に位置するとみなせます。

男性の解離性障害は少ないのか?

一般に、解離性障害は女性に多いとされていますが、男性の解離性障害は、症状の表れ方が異なり、家庭内暴力や刑事事件の加害者となって、病院ではなく刑務所などに存在していることが多いのではないか、と言われています。

解離性障害をもっとよく知る10のポイント―発達障害や愛着障害,空想の友だちとの関係など
解離性障害は深刻なトラウマ経験がなくても発症することがあり、ADHDやアスペルガーのような発達障害、愛着障害とも関係していると言われています。解離性障害の専門家の本から、役立つ10

そうすると、女性の場合に解離性障害や解離性同一性障害が多いのは、意外にも、女性では解離傾向が強いためではなく、PTSD傾向が強いせいだということになります。

そもそも、女性のほうがPTSDになりやすいことはよく知られていますが、PTSD傾向と強く関係している境界性パーソナリティ障害になりやすいのも女性です。

女性は、不安型の愛着スタイルに起因するPTSD、境界性パーソナリティ障害などになりやすいため、解離傾向が強い場合でも完全にフラッシュバックを抑えられず、幻聴・幻視などの形で軽微なフラッシュバックが起こる解離性障害や、人格がまるごとフラッシュバックする解離性同一性障害になりやすいのでしょう。

女性の場合の解離は、もともとPTSD傾向による脳の興奮があり、その上でそれを押さえ込むかのようにして解離が生じるので、より強力な全身を巻き込む解離に発展するのかもしれません。

一方、男性は、PTSD傾向はあまり強くなく、部分的なこころの解離だけが生じやすいので、しばしば過度に理性的だったり、人間味のある感情が乏しかったりする、強迫性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、ジゾイドパーソナリティ障害などになりやすいのだと思われます。

生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)には、回避型の愛着スタイルについて、こう書かれています。

回避型の子どもは将来、暴力や非行、いじめ、反社会的行動など、破壊的な行動上の問題を起こしやすいことが長年の研究で裏付けられている。優しさや甘えを求めない代わりに、力で相手を支配し、ねじ伏せようとするところがある。

…幼い頃に認められる回避型は、成長して…むしろ自己愛性パーソナリティ障害や反社会性パーソナリティ障害、ジゾイドパーソナリティ障害に発展するほうが典型的である。

この三つのパーソナリティには、大きな共通項がある。それは、共感性が乏しく、クールで、相手の気持ちや痛みに鈍感だということだ。(p100)

そうした人たちは、普段はほぼ完全に感情を抑制していますが、ときどき突発的に激しい自己愛的な怒りの爆発を起こしたり、意識が飛んで暴力を振るったりする際に、フラッシュバックや人格交代のような現象が生じ、家庭内暴力や犯罪事件につながるのでしょう。

ふだんは厳格で、ときどきカッとなって激怒するような、年配の頑固な男性のステレオタイプは、解離傾向による感情の解離が強く、PTSD傾向によるフラッシュバックをかなりの程度押さえ込めている状態だといえます。

別の記事で紹介しましたが、アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは、幼少期の記憶がほとんどなく、都合の悪いことをすべて無意識に忘れてしまい、突然激しい怒りを爆発させる性格で知られており、解離傾向の強い男性の一例ではないかと思われます。

自己愛性パーソナリティ障害代理症―人をモノ扱いする夫を持つ妻と子どもの苦痛
さまざまなパーソナリティ障害を説明している本、「パーソナリティ障害とは何か」から、自己愛性パーソナリティ障害の特徴や、その周りの人が抱え込む苦痛への対処法について解説しています。

男性の場合の解離は、女性の場合と異なり、こころとからだ全身を巻き込む典型的な解離性障害というよりは、感情や身体感覚のみのシャットダウンのような部分的な解離として現れやすいのかもしれません。

反社会性パーソナリティ障害

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)には、幼少期にあまりに壮絶で恐ろしい経験をしたせいで、感情がシャットダウンされ、つまり解離されてしまい、その後の人生で冷徹な犯罪者となってしまう反社会性パーソナリティ障害の人たちの姿がつづられています。

この本によれば、その分野で先駆的な研究をしている精神分析学者ジェームズ・ギリガンは次のように述べています。

自分がロボットかゾンビのように感じられると私に話した者がいた。自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない、血管や神経はなく、紐や糸が入っているだけ、そう感じる者もいるらしい。(p423)

だが、凶悪犯罪者たちの場合は、言葉だけではない、もっと酷く、極端で、おぞましい仕打ちを繰り返し、頻繁に受けたのだ。大人になってから頻繁に凶暴な振る舞いをした者たちは、ほぼ例外なく、子供の頃に絶え間なく暴力的な虐待を受けていた者たちである。(p424)

この言葉が物語るように、凶悪犯罪に手を染める人たちは、生きているという感覚の喪失を伴う強い離人感を経験しています。過去のあまりに辛い経験のせいで感情が解離されているので、他の人を殺めることにためらいがありません。

特に男性の場合、幼少期におぞましい経験をしたとき、攻撃性が内側に向く女性と異なり、攻撃性が外側へ向いて、暴力犯罪などに現れやすいようです。その結果、強い解離症状を持つ男性たちは、病院よりも刑務所に集まりやすいのでしょう。

この点は、以下の記事の後半で詳しく扱っています。

なぜ耐えがたい恥は人を生ける屍にしてしまうのか―「公開羞恥刑」と解離の深いつながり
公衆の面前で恥をかかせるという刑罰「公開羞恥刑」。現代のいじめやSNSの炎上、子ども虐待などが、いかに公開羞恥刑のようにして人を辱め、その結果、被害者の心を殺害し、解離させてしまう

ただし、この男女差はあくまで傾向であり、女性の場合も冷徹で批判的な反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害の人はいますし、逆に男性でも傷つきやすく恐れが強い解離性障害や解離性同一性障害に悩んでいる人もいます。

文化のストレスの男女差

このような症状の性差は、生物学的なホルモン分泌の違いとみることもできますが、そのほかにも文化によるジェンダー教育(たとえば、男の子は強くあるべきで涙を見せてはいけないと教育される「男の子の掟」など)による影響も強いのかもしれません。

わたしたちの社会では、女性の場合は生き方や尊厳そのものを抑圧されやすいので、こころとからだ全体を巻き込んだ解離になりやすいのに対し、男性の場合は行動は自由である反面、感情を抑圧するよう強いられるので、感情のみに解離に陥りやすいのではないか、という考えもできます。

解離は、生物にもともと備わる防衛機制であると同時に、文化や環境によってさまざまな現れ方をします。防衛機制であるということはつまり、ストレスに対応して生じるということなので、ストレスのかたちが違えば、それに対応して生じる解離のかたちも変わります。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、現代社会で、男性と女性てとでは、「恥」という概念が異なっている可能性が示唆されています。

私は現代の公開羞恥刑において、一つ大きな謎とされていることについても尋ねてみた。それは、「あまりに女性に厳しすぎるのではないか」ということだ。なぜ、異常なまでに女性に厳しいのか、それが知りたいと思っていた。

ジョナ・レーラーが攻撃されている時には、性暴力に関わる言葉は使われていなかった。ところが、ジャスティス・サッコやアドリア・リチャーズの場合には、即、「レイプするぞ」という類の脅迫の言葉を浴びせる者が現れた。(p227)

21歳の女性ハッカー、メルセデス・ヘイファーはそれに応えてこう語っています。

他方、男性は、性被害を恐れて夜道で気をつけたりはしませんが、失業しないよう職場で自制を働かせ、感情を抑制して振る舞う必要に迫られます。

彼女はさらに言う。

「4chanユーザーは、標的にした人を貶めたいのです。わかりますか。我々の文化では女性を貶めるとすれば、おそらくレイプを上回るものはありません。

男性が標的の時に、レイプという言葉を使わないのは、レイプが男性を貶める手段となることはあまりないからです。

男性の場合なら、失職がその代わりになるでしょう。我々の社会では、男性は働いているものという通念があるからです。

失職をすると、男性は存在価値が大きく下がったように感じてしまいます」(p227-228)

女性にとって最も不名誉な辱めは性被害であり、男性にとって最も不名誉な辱めは失業である、という認識があるとされています。

そうすると、女性は性被害に遭わないよう、ふだんから意識的であれ無意識的であれ、不用意に夜道を一人で歩いたりしないように、電車内で男性に近づいたりしないよう、生活全般において、振る舞いを抑制する必要に迫られます。

それはいわば、常に、自分という存在全体が辱められる危険にさらされているようなものです。事実、性被害に遭うと、こころとからだ全体が解離されます。

そうすると、解離性障害の女性は、こころだけでなく身体的にも無活動に近いうつ状態に追い込まれます。その結果、病院を受診します。

他方の男性は、失業しないよう、会社で自己抑制を働かせ、不平や不満を言わず、疲れても休まず出勤し、上司に従うことが求められるでしょう。その場合、男性が抑制する必要に迫られるのは、からだの行動ではなく、こころの本音です。

そうすると、解離が生じたとき、からだの行動は抑制されません。しかし、こころの本音や、身体が疲れているという感覚は抑制されます。

からだは抑制されず、こころだけが抑制されると、失感情症や失体感症といった、感情や感覚の麻痺が生じます。

すると、からだは元気なので病院に行くことはありませんが、人間味のある感情が失われて批判的になった自己愛性パーソナリティ障害、感覚が麻痺して平気で犯罪を行なう反社会性パーソナリティ障害などのかたちで解離症状が現れるということになります。

「異常なまでに女性に厳しい」

全体の傾向としてみれば、わたしたちの社会では、「魂の殺害」である性被害のようなストレスにさらされやすいのは女性であり、感情を押し殺してあくせく働くストレスにさらされやすいのは男性です。

女性は存在全体を抑制されるのに対し、男性はこころだけを抑制するよう強いられます。

存在全体を抑制されるというのは、以下の記事で扱ったように、たとえ心理的な拘束であったとしても身動きを取れないよう押さえつけられることに等しく、完全に逃げ場を奪われるということです。ストレス反応のうち、全身の凍りつきや麻痺を特色とする不動系が働きやすくなります。

他方、こころだけを抑制される場合、からだの動きは拘束されないので、不動系ではなくその一歩手前の段階、「闘争か逃走か」というストレス反応をつかさどる交感神経系が働くことになります。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によれば、解離性障害の分類のうち、人格交代の伴わない解離性遁走(記憶を失ってどこかへ逃げること)は、圧倒的に男性に多い症状とされています。(p110)

女性の場合、社会的な意味でも逃げ場が完全に奪われているせいで、どこかに逃げるのではなく、人格そのものをシャットダウンして多重化させるしかなくなります。それが解離性障害や解離性同一性障害です。

しかし男性のほうは、こころが解離された状態でも、からだは元気なままで、不動系ではなく交感神経系が優位だからこそ、無活動な解離性障害ではなく、どこかへ走って逃げられる解離性遁走になりやすい、ということができます。

とすると、男性の場合、攻撃性が外向きに出やすく、女性の場合は内向きに出やすいのは、男女のストレスの違いによって、男性は交感神経系のストレス反応で止まりやすく、女性はその一歩先の不動系のストレス反応に至りやすいからではないか、ともみなせます。

男性は生活のなかで部分的にしか抑圧を求められないために、解離が生じるとしても部分的であり、女性は生活のなかで四六時中抑圧を求められて心理的逃げ場がないせいで、完全な解離という不動状態が引き起こされやすいのではないでしょうか。

つまり、解離性障害が女性に多いのは、女性のほうが慢性的で強いPTSDを経験しやすく、PTSDの先にある解離性障害にまで進行しやすいからかもしれません。

現代社会における男性のストレスが女性より軽い、というわけではありませんが、恥という観点から見れば「異常なまでに女性に厳しい」のは事実であり、それが女性の場合、PTSDと解離が絡み合ったより重い全身の解離症状、つまり不動系の反応につながっているのでしょう。

むろん、何度も言うように、男性でも全身を巻き込む解離症状に陥る人はいますし、女性でも感情だけが解離される人がいます。

とはいえ統計的には解離の症状の分布には男女差があるのは事実であり、もともとの生物学的違いだけでなく、現代社会における男性と女性の感じるストレスの違いが色濃く反映されている可能性があります。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態

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不登校状態とは生命の脳の疲労であるため生活エネルギーがなくなってしまっており、自らを守るためには、じっと動かず回復を待つこと、すなわち引きこもりが必要となる。

…不登校は「心理的な問題」と漠然としてつかみようもない解釈がなされつづけてきたが、実際には中枢神経機能障害、ホルモン分泌機能障害、免疫機能障害の三大障害を伴うものであり、人生最大の危機に発展する例があることがわかってきた。(p3-5)

どもの不登校、そして小児慢性疲労症候群(CCFS)の専門家である三池輝久先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)でこう書いています。

本来、活力に満ちあふれているはずの学生時代に、想像を絶する慢性疲労とエネルギーの枯渇に閉じ込められ、まったく身動きが取れなくなり、わけもわからないままに不登校、引きこもり、そして「人生最大の危機」へと発展していく。

いったいなぜ、活力に満ち満ちたはずの学生にそんなことが起こるのか。このブログでは、ずっとその理由を調べ続けてきました。

重要な手がかりとなったのは、エネルギーの枯渇、慢性疲労、そして生きているのか死んでいるのかもわからない状態をもたらす、生物学的なからだのメカニズム、「不動系」です。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれています。

この絶体絶命の不動系は緊急時に短時間のみ機能するようになっている。

慢性的に作動すれば、本当に生きているわけでも実際に死んでいるわけでもない非存在という地獄のような状態に陥ってしまう。(p127)

この記事ではこの「不動系」という神経の働きを中心に、次のような話題を解き明かしていきます。

■なぜ慢性疲労と解離はつながっているのか

■解離に陥った人の自律神経系では何が起こっているか

■不登校や引きこもり、特に小児慢性疲労症候群(CCFS)と呼ばれる病態にみられる極度のエネルギーの枯渇が解離と関わっているといえるのはなぜか

■どうすれば慢性化した不動状態から回復できるか

専門家ではなく当事者目線での分析にすぎず、非常に長文ですが、さまざまな資料から系統立てて考察した、このブログの里程標となる記事なので、以上の話題に興味のある方がいらっしゃいましたら、どうぞお付き合いください。

これはどんな本?

この記事で中心とする書籍は、冒頭で取り上げた二冊です。

ここを訪問してくださる方の中には、このブログは心理学関係の読書が好きな著者が、書評のようなものを書いているところだと思っておられる方もいるかもしれません。

扱うテーマが比較的広めなので、そう思われても仕方ありませんが、このブログは、時代のトレンドを追うアフィリエイトブログではありませんし、話題になった本を片っ端から読んでいくハイパーレキシア(過読症)的な書評ブログでもありません。

わたしは病気の影響で失読症になっていた時期もあり、いまだに影響は残っているので、そもそも本を読むことには労力が伴います。それでも本を読むのは、どうしても知りたいことがあるからにほかなりません。

わたしは、あの日以来、ずっと、自分の身に起きたのは何だったのか探り続けてきました。このブログは最初から今まで、一貫して当事者研究のブログであり、わたしは自分のからだと関係のない話題を扱ったりはしません。

どの記事もまるで他人事のように客観的に書いているかもしれませんが、自分の経験に根ざしていないことはほとんど書いていません。

わたしが読んできた多くの本の中でも、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)は、大きな転機になった一冊です。以前の記事で小児慢性疲労症候群(CCFS)についてまとめる際にも大いに参考にしました。

子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とは (1)どんな病気か?
子どもの慢性疲労症候群(CCFS)とは何でしょうか、どんな独特の問題があるのでしょうか。子どもたちの不登校は果たして“心の問題”や“家庭の問題”なのでしょうか。「学校を捨ててみよう

この本に出会ったときの衝撃を今でもよく覚えています。最初、この本は「学校を捨ててみよう」という啓発書のようなタイトルだったので、まったく眼中にありませんでした。

しかし日本臨牀 2007年 06月号 [雑誌](慢性疲労症候群の特集号)を読んでいたとき、ひときわ自分にぴったりの説明を見つけ、それが成人型慢性疲労症候群とは別のグループによる研究、つまり三池輝久先生や、その教え子の友田明美先生による研究だと知りました。

そこで、三池先生や友田先生の著書を読んでみようと思い、学校を捨ててみよう!も手に取りました。

今まで、成人型慢性疲労症候群の本を読んでも全然腑に落ちなかった様々な疑問の答えが見つかり、医者としての熱意あふれる分析と、当事者の目線に立った思いやりある共感に、いたく感動しました。紛れもなく、わたしの人生を変えた一冊です。

その後、三池先生の他の著書を通して睡眠や発達の問題が絡んでいることを知り、友田先生の著書から、愛着やPTSDが脳に及ぼす影響も知りました。このブログの多岐にわたる話題はそうして派生していきました。

そして、三池先生や友田先生が敷いてくれたレールに沿って視野を広げていくうちに、わたしは、奇妙な世界のことを知りました。子どもの発達や愛着について研究しておられる杉山登志郎先生の著書に出てくる「解離」です。

解離の本をたくさん読んだ上で、改めて三池先生の学校を捨ててみよう!を読み返してみると、解離性障害の病前性格と、小児型慢性疲労症候群の当事者の性格は、不思議なほど似ていることに気づきました。それはたとえば「過剰同調性」と呼ばれるものです。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

それどころか、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で、三池先生はこう書いてさえいます。

100パーセントよい子になるためには、結果として息がつまるほど自らを殺さなければならないことである。

…長期間、よい子を演じることは、自ら価値観を中心とした変えることの難しい扁桃体の働きを押さえ込まなければならない。

…しかし、持続する緊張感(この持続的な緊張状態こそがこころの問題に直結する現代人に共通の時限爆弾ということがわかってきた)のなかで疲労があらわれ、がんばりが利かなくなり、すべての能力が少しずつ低下しはじめると、素顔の自分があらわれはじめて、自己主張をはじめる。

「どちらがいったい本当の自分なのか」と。

この多重人格的混乱は、不思議なことに生命力の低下が起こったときにあらわれてくる。(p20-21)

「息がつまるほど自らを殺」すこと、「扁桃体の働きを押さえ込」むこと、そして「どちらがいったい本当の自分なのか」といった「多重人格的混乱」は、みな解離性障害と共通している特徴です。

一方、さまざまな解離性障害の本を読むと、頻繁に出てくるのが、慢性疲労症状とのつながりでした。たとえば解離の専門家、柴山雅俊先生の解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)には、こう書かれていました。

解離性障害の患者の多くがうつ状態を呈する。

疲れやすい、だるい、憂鬱で死にたいなどという気分については、程度の差こそあれ、患者のほぼ90%以上が肯定する。(p146)

解離の場合のうつ状態とは、いわゆる大うつ病(MDD)のような圧倒される悲嘆ではなく、どちらかというと、疲れ果てて、エネルギーが枯渇して、何も手につかなくなるような無気力状態、死んだように動けなくなる状態です。

これは不登校や小児型慢性疲労症候群とよく似ています。

こうした手がかりから、慢性疲労と解離には本質的なつながりがあるに違いない、と考えていましたが、これまで、なぜそうなのかをを説明するための十分な情報が手元にありませんでした。

しかし、近年、解離を生物学的メカニズムとしてとらえる専門家が増えてきており、神経生理学者ピーター・A・ラヴィーン(ピーター・リヴァイン)による身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアを読んだとき、大きな手がかりが得られました。

ピーター・ラヴィーンは、このブログで頻繁に紹介してきた身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の著者ヴァン・デア・コークの友人で、共に切磋琢磨して解離の理論を組み立ててきたと、お互いの本で述べ合っています。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

この本は、解離をこころの問題としてではなく、ソマティックな(つまり「からだの」)問題として扱っています。いわゆる複雑な「こころ」を持っていない魚類や爬虫類のような動物にも備わっているシステムであり、解離と慢性疲労がつながっている理由を明快に説明しています。

これまで、解離の身体症状というと、たとえば心因性難聴など、特に異常はないはずなのに体の一部分の機能が麻痺する転換症状を中心に語られてきました。声がでなくなる、目が見えなくなる、歩けなくなる、といった症状です。

しかし、解離を生物学的なメカニズムとしてとらえると、解離に関係する身体症状は、むしろエネルギーの枯渇や慢性疲労、身体全体の固まり、凍りつきなどです。

翻訳者の方のあとがきによると、原文が難解だったらしく、訳を頑張ってくださったとはいえ知識がないとかなり読みづらい本なので、万人におすすめする気にはなれません。

しかし内容は非常に重要なので、この記事でできるだけ噛み砕いて解説できればと思います。

なぜ「学校を捨ててみよう」なのか

解離と慢性疲労のつながりについて説明する前に、この二つが、確かに関わりを持っているといえる証拠を提示するのは筋の通ったことでしょう。

そのためには、まず、わたしにとって、当事者研究のスタート地点となった三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)に立ち戻る必要があります。

この本のタイトルには、さっき書いたとおり、「学校を捨ててみよう!」という啓発書めいたメッセージが冠されています。

内容からすれば「子どもの慢性疲労症候群」のような直球なタイトルのほうがいいのに、とわたしは初めのうち感じていました。タイトルのせいで読んでいない当事者も多いのではないかと。

しかし、今となっては、この本のタイトルとして、「子どもの慢性疲労症候群」ではなく「学校を捨ててみよう!」が選ばれたことには、大きな意味があると感じています。

この本で主張されているのは、不登校や慢性疲労に陥った子どもたちは、過度の自己抑制を強いる学校社会の被害者であり、加害者である学校社会から逃れて心身を休めることが、回復にはどうしても必要なのだ、ということです。

一見すると、過激なメッセージに思えますが、わたしは自身の経験から、それは正しいと思っていますし、この記事ではそれが正当であることを順を追って説明するつもりです。

学校社会に対するPTSD?

学校社会が加害者、不登校の子どもは被害者、という図式のなかで、三池先生は、不登校や小児型慢性疲労症候群は、一種のPTSD的な病理を伴っていると述べています。

不登校状態とは生命の脳の疲労困憊を伴う、中枢神経の機能低下であることを述べた。これは持続時間はさまざまであるが、生命の危機を経験したことに等しい。

地下鉄サリン事件における人々の反応を思い出していただきたいのであるが、彼らのなかには、いまだ地下鉄に乗ることができない人があるといわれている。

理性では二度とサリン事件などあるはずもないと感じている。しかし防衛本能が地下鉄に乗ることを抑止するのである。

不登校状態でも、生命力の低下を経験するので同じ反応がおこってしまうと考えられる。

肉体的な疲労は回復し精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。(p67)

三池先生は、不登校の子どもたちが、学校に行けなくなるのはPTSD的な反応である、と述べます。

PTSDと言うと、日本語では「心的外傷後ストレス障害」なので、「心的」な、つまり「こころの病」だと誤解している人は少なくありません。不登校はPTSDだ、などというと、すぐに心の弱さやいじめ問題と結びつける人が出てくるものです。

しかし実際にはPTSDは「こころの問題」ではありません。三池先生が「いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである」と述べているとおりです。

近年、PTSDは「こころの問題」ではなく、「脳の問題」でもなく、からだ全体を巻き込む身体的な病気である、と言われるようになっています。

PTSDは「心の傷」ではなく脳の炎症を伴う病気―トラウマ記憶の治療法をめぐる最近の研究
PTSDに脳の炎症が発見され薬物療法の臨床試験が計画されていることなど、最近のPTSDやトラウマ記憶の治療についてのニュースをまとめました。

しかし、不登校や小児型慢性疲労症候群はPTSDではありません。そもそもPTSDと診断できるのであれば、不登校を小児型慢性疲労症候群などという別の名前で呼ぶ必要はありません。

いじめなど、具体的な心的外傷が関わっている場合を除いて、小児型慢性疲労症候群の子どもは、学校社会を加害者として認識していることはあまりないと思います。

少なくとも、わたし自身は、身体的な極度の疲労やエネルギーの枯渇、そして思考力の崩壊のせいで、学校に行けなくなりました。学校が嫌で行けなくなったのではなく、学校にどうしても行きたかったのに、からだがどうしても行けない状態になりました。

PTSDは、トリガーとなる刺激に直面したとき、フラッシュバックやパニック、制御できない感情に襲われます。だからこそ、精神科的な問題とみなされがちです。自分が何に傷つけられたかをはっきり覚えていて、それに恐怖を感じます。

具体的なトラウマ経験を記憶していることは、PTSDの診断の必須条件のひとつです。

サリン事件の被害者たちは、忘れられない記憶を抱えていて、地下鉄に乗ろうとすると、またあの悲劇に見舞われるかもしれないというフラッシュバックやパニックに見舞われるからこそPTSDなのです。

しかし不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもの多くは、学校の何が悪かったのかわかりません。なぜ学校に行けなくなったのかわかりません。なぜか「こころ」ではなく「からだ」が学校に行けなくさせます。

何よりもPTSDは過覚醒や過活動と関係しています。これは小児型慢性疲労症候群とは正反対です。不登校、そして小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、ぐったり疲れ切り、動けなくなり、過覚醒どころか過眠状態になります。

もろもろの特徴を見る限り、小児型慢性疲労症候群はPTSDとは反対です。

それはPTSDではない

しかしながら、小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、一時的にPTSDに近い症状を見せることがあります。

三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)でこんな研究に触れています。

彼らの脳はピリピリとして過敏状態にあり、必要・不必要にかかわらず、すべての情報に対して反応してしまうのである。

これは、さらりと見過ごすことができない。間違っていないかどうか、一つ一つ確認してしまう脳である。

…このタイプの不登校状態は、まだ登校できなくなって日が浅いものに多いことがわかったのである。

しかし、不登校状態が長引いている慢性閉じこもり的状態にある若者たちは…認知力が低下しており、さらに疲労感も強いことがわかった。

これは初期のピリピリとした状態から、時間を経て次第に認知能力が低下していくことを示しており、長い時間、情報の少ない環境下ですごさなければならない若者たちの脳機能に異変がおこってしまうことを示している。(p53-54)

この研究が示しているのは、不登校の子どもの脳は、時間とともに変化するということです。

不登校に追い込まれて日が浅い子どもたちは、ピリピリして、警戒状態にある過敏な脳波が検出されました。周囲の危険に警戒しているこの状態は、PTSDに近いものを感じさせます。

しかし、時たつうちに、彼らの脳波は変化しました。過敏に警戒するどころか、認知力が低下して、強い疲労感が現れました。

三池先生は、これを、引きこもり状態という「情報の少ない環境下ですごさなければならない」ことに伴う変化だと考えていますが、まったく別の見方、もっと生物学的に即した見方ができます。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるPTSDのあまり知られていない側面についての説明を聞いてみましょう。

麻痺状態になるのは、PTSDの二つの面の一つだ。

治療を受けていないトラウマサバイバーの多くは、最初はスタンのように、わずかのきっかけでフラッシュバックに見舞われるが、やがてその後の人生ではしだいに麻痺状態に陥ってしまう。

トラウマの追体験は劇的で、人をぞっとさせるし、自己破壊的なものになりかねないが、長い目で見ると、自己が不在の状態は、それに輪をかけて有害になりうる。

これは、トラウマを負った子供たちにとってとりわけ問題となる。行動に表す子供は他者の注意を惹くことが多いのに対して、頭が働かなくなっている子供は誰にも迷惑をかけないので放置され、自分の未来を少しずつ失ってしまうのだ。(p121)

ここで注目したいのは、PTSDを負った人たちの中には、時とともに症状が変化するケースがある、ということです。

はじめは「わずかのきっかけでフラッシュバックに見舞われる」ような過敏状態にありますが、「やがてその後の人生ではしだいに麻痺状態に陥って」「頭が働かなくなって」しまいます。

この変化は、不登校に追い込まれた子どもたちの脳波の変化とよく似ています。最初はPTSDに似た過敏状態にあるのに、やがてPTSDとは思えない麻痺状態になり、頭が働かなくなり、慢性疲労に呑み込まれます。

こうした変化は、「PTSDの二つの面の一つ」で、「子供たちにとってとりわけ問題となる」と言われていますが、ほとんど知られていません。一般的なPTSDのイメージとはかけ離れていますし、PTSDの人が必ずそうした経過をたどるわけでもありません。

これはPTSDに比べると、ほとんど知られていない正反対の現象、まったく別の名前が付された、ほとんど知られていない現象です。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。

これは解離の影響である。シャロンはまるで他人に起きた出来事を説明しているようだった。

彼女は自分のからだの外側にいて自分を観察していて、彼女自身はそこにはいないかのようだった。

彼女は解離の原因となったショックの瞬間に未だとどまっていた。しかし解離のおかげで、想像を絶するような恐怖と戦慄から免れることができたのだった。

ハリウッドのヒッチコック映画で描かれるようなトラウマでは、トラウマを受けた人はフラッシュバックに翻弄されるものである。

しかし実生活においては、シャットダウンによる無感覚状態の方がより深刻であり、またそれが重篤なもしくは慢性的なトラウマに見られる性質である。

こうした人々は「歩く屍」のようになってしまうのである。(p206)

これは「解離」の影響です。

解離はPTSDとは正反対の現象です。過敏になり、フラッシュバックやパニックに呑み込まれるどころか、感情が麻痺して、冷静かつ客観的になります。

解離の状態にある人たちは、からだは「ショックの瞬間に未だとどまって」います。しかしこころは「恐怖と戦慄から免れることができ」ています。

その結果生じるのは、悲しみや怒りやパニックといった感情的な問題ではなく、「シャットダウンによる無感覚状態」です。エネルギーが枯渇し、慢性疲労に閉じ込められ、「歩く屍」(しかばね)のようになってしまいます。

けれども、こんな重篤な状態、世の中であまり話題にならないほど奇妙な「解離」状態が、本当に不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもに起こっているのでしょうか。

ただ部分的に似ているだけで、かたや過労に似た慢性疲労状態、かたや心的外傷による麻痺状態という、まったく別のものなのではないのでしょうか。

ここは大事なポイントで、実際には何の関係もない現象を、ただ主観と思い込みで、同じものだとみなすわけにはいきません。

もしも解離と不登校を関係あるものだとみなすとしたら、それなりの証拠が必要です。

脳画像研究が指し示すもの

近年、解離についての研究が進むにつれ、解離がこころの問題ではなく、脳やからだの具体的な異常を伴う病態だとわかってきました。

以前の記事で詳しくまとめたとおり、脳科学的には、解離はPTSDと正反対の現象と見なされるようになってきています。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった
脳科学的には正反対の反応とされるPTSDと解離。両者の違いと共通点を「愛着」という観点から考え、ADHDや境界性パーソナリティ障害とも密接に関連する解離やPTSDの正体を明らかにし

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアも、ラニウスとホッパーによる、fMRIを使った脳画像研究を参照して、こう述べています。(p124,134)

この説得力にある研究は、身体状態および情動の気づきに関連する脳領域の活動を記録し、トラウマを受けた被験者における交感神経性覚醒と解離を明確に区別している。(p135)

PTSDは「交感神経性覚醒」、つまり過覚醒を伴う激しい状態ですが、解離はその反対の抑制された状態にあります。

解離の専門家、岡野憲一郎先生による解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合という本もまた、解離が過覚醒とは正反対の状態だと述べています。

それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることができるだろう。(p20)

過覚醒、つまり当初のピリピリした脳が、まったく逆の弛緩状態に反転したのが解離です。

このとき、解離に関係している脳の部位は、右脳の前帯状回であるとされています。

そしてこのように解離は右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もある。(p20)

解離状態では、この右の前帯状回や前頭葉をはじめとする右脳の各所が興奮し、その結果、脈拍数が下がるなどして、過敏な反応が低下します。

そして解離状態の場合、ないしはPTSDの患者が典型的な状態から解離的な状態に反転した場合、たとえばトラウマ状況を描いた文章を聞くことで、逆に脈拍数が下がったりする場合には、右の上、中側頭回の興奮パターンが見られたり、あるいは右の島および前頭葉の興奮が見られるという(Lanius,2005)。(p20)

つまり、右脳の前帯状回や前頭葉の興奮は、興奮を抑制する役割と関係しているようです。その結果、危険を知らせるアラームである扁桃体の活動が抑えられ、怒りや悲しみといった強い感情が麻痺します。

すなわち内側前頭皮質と前帯状回の活動の亢進と、扁桃核の活動低下が生じるのだ。

ちなみにこの脳科学的な所見とも関連した解離の理論は「皮質辺縁系抑制モデル corticolimbic inhibitation model」と呼ばれる。(p119)

では、不登校、また小児型慢性疲労症候群の子どもの場合はどうでしょうか。近年、理化学研究所により発表された脳画像研究は非常に興味深いことを示しています。

「慢性疲労症候群」の子 脳機能多く使用か 理研

原因不明の疲労が長期間続く「小児慢性疲労症候群」の子どもは、2種類の作業を同時に行う場合、健康な子どもが文字の読み取りなどを担う左脳だけを使うのに対し、直感力や独創力をつかさどる右脳も使うため疲れやすいとみられることを、理化学研究所分子イメージング科学研究センター(神戸市中央区)などのチームが突き止めた。

小児慢性疲労症候群患児の脳活動状態を明らかに | 理化学研究所

CCFS患児と健常児を比較すると、CCFS患児では一重課題と二重課題いずれの時も右中前頭回が特異的に活性化し、活性度は物語の内容理解度と正の相関関係にあることが分かりました。

さらに二重課題においては右中前頭回に加え、前帯状回背側部と左中前頭回も特異的に活性化することも分かりました。

このことから、CCFS患児は過剰に神経を活動させて脳の情報処理を行っているために、さらに疲労が増強していることが懸念されます。

前頭葉の過活動の抑制がCCFSの症状の緩和につながる可能性など、CCFSの病態の解明や治療法の開発への貢献が期待できます

この研究では、小児型慢性疲労症候群の子どもでは、疲れる読解課題をこなしたとき、通常使われない右脳の一部、前頭葉、前帯状回などが活性化していました。解離に関係する脳の抑制に関わる部分と共通しています。

小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもは脳の情報処理で過活動が生じていることが判明
小児慢性疲労症候群(CCFS)の子どもの脳機能に関する理化学研究所の研究

では、脳以外の反応はどうでしょうか。解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこんな記述もありました。

解離と右脳との関係、ないしは幼少時のトラウマと右脳の機能不全との関係については、近年になりさらにいろいろとエビデンスが出されているようだ。

霊長類に関する研究によると、フリージング(固まり、凍りつき)状態では、右前頭葉の過活動(直観的には活動低下を想像しがちだが)とストレスホルモンの一種であるコルチゾールのレベルの低下がみられるという。(p22)

動物の霊長類の研究によると、解離の反応が生じたとき、前述の右前頭葉の過活動のほか、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下がみられました。

一方、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、三池輝久先生はこう述べています。

しかし、基本的にはうつとCFSは以下のような理由から異なる疾患と考えられている。

(1)うつに対する治療により疲労が回復しないこと、

(2)副腎皮質ホルモンの分泌傾向が異なる(うつでは増加し、CFSでは減少する)、

(3)免疫学的な問題点が異なっている、などである。(p18)

うつ病では、コルチゾールのような副腎皮質ホルモンが増加するのに対し、慢性疲労症候群では低下するとされていて、これが両者が別の病態である、と区別する根拠のひとつとなっています。

慢性疲労症候群とうつ病の14の違い―見分けるための類似点と相違点
慢性疲労症候群とうつ病の違いをわかりやすく説明しています。3つの類似点と14の相違点をさまざまな資料から解説します。

内分泌機能からすると、PTSDはうつ病と関連が深い病態であり、解離は慢性疲労症候群とよく似ていることになります。

うつに対する治療で疲労が回復しないとありましたが、解離性障害でもうつ病の薬は効きません。解離の専門家から見れば、新型うつは解離の軽い病態だとみなされていますが、やはり抗うつ薬が効きにくいことが特徴です。

新型うつは、解離の軽い病態であると同時に、過眠や疲労を特色とすることからして、小児型慢性疲労症候群の軽い病態であるようにも思えます。

若い女性に多い「新型うつ」「非定型うつ病」とは何か、本当に存在するのか
若い女性に増加しているという「新型うつ」「非定型うつ」「現代型うつ」と呼ばれる病態について整理しています。

このように、解離と慢性疲労は、同じ脳の性質や、内分泌機能を有しています。生物学的にみれば、共通の土台を持つ反応ということになります。

わたしは、不登校や小児型慢性疲労症候群のすべてが、解離と密接に関係しているとは思っていません。なかには低血糖症や、脳脊髄液減少症、一時的な概日リズム睡眠障害や気づかれにくい睡眠時無呼吸症候群などのせいで、慢性疲労状態に陥っている子どももいることでしょう。原因はさまざまです。

しかし、解離のメカニズムが関わる不登校が少ないとも思いません。学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で紹介されている当事者たちの言葉は、解離傾向の強い、つまり過剰な抑制を示しやすい人たち特有のものです。

近年、小児型慢性疲労症候群には自閉スペクトラム症(ASD)や、不注意優性型のADHDなどの素因が関係しているケースがあると言われています。

慢性疲労症候群の子ども(CCFS)には発達障害が多い?
小児慢性疲労症候群にはやASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)やADHD(注意欠如多動症)が併発しやすいという最新の研究を、「いま、小児科医に必要な実践臨床小児睡眠医学」

このブログで取り上げたとおり、自閉スペクトラム症はトラウマ被害などがなくても、生まれつきの感覚過敏のせいで解離症状を示しやすく、特に女性のASDは子どものころから慢性疲労など自律神経症状を抱えやすいと言われています。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

また不注意優性型ADHDはぼーっとして我を忘れるなど解離症状を示しやすく、おそらく生まれつき感受性が強いHSP(人いちばい敏感な人)と類似性があります。こちらも解離症状を示しやすく、慢性疲労症候群になりやすいとされています。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
エレイン・N・アーロン博士が提唱した生まれつき「人一倍敏感な人」(HSP)の四つの特徴について説明しています。アスペルガー症候群やADHDと何が違うか、また慢性疲労症候群などの体調

三池先生らが研究してきた不登校に多い小児型慢性疲労症候群と、生まれつき敏感で慢性疲労になりやすい女性のASDや不注意優性型のADHDやHSPは、解離というキーワードでつながっています。

いずれの場合も、強い刺激を感じるせいで脳が興奮して過敏状態になりやすく、それを鎮める防衛手段として解離が強く働き、その結果として慢性疲労がもたらされているのだと考えられます。

ではここからは、解離とは生物学的にいえば、どんなメカニズムで生じているのかを見ていきましょう。

「持続的不動状態」(TI)とは?

慢性疲労症候群はストレスが原因と言われます。いえ、慢性疲労症候群のみならず、ほとんどの病気の発症にストレスが関係しています。

「ストレスが原因」という言葉は「こころの問題」と言うのと同じほど無責任な方便として多用されています。つまり、原因はよくわからないのでご自身で考えてください、という意味です。

慢性疲労と解離の関係について知るには、ストレスが心身にもたらす影響を、生物学的に読み解かねばなりません。

そもそもストレスとは何なのでしょうか。PTSDは心的外傷後「ストレス」障害の意味ですが、PTSDや解離の専門家たちはストレスの実態をよく把握しています。

わたしたち生物が、ストレスに直面したときどのように反応するか、系統立てて分析した最初の人はアメリカの生理学者ウォルター・キャノンでした。

1915年、キャノンは有名な「闘争か逃走か」というストレス反応を見いだし、生物は危機に面すると、心拍数が上がって、血流が増し、汗が出たり震えたりして、一目散に逃走するか、果敢に敵に挑みかかるかする、と指摘しました。

あなたがジャングルを探検しているとき、突然、獰猛なトラに出くわしたと想像してみてください。あなたは一瞬静止したあと、恐怖のあまり我を忘れて一目散に逃げ出すか、逃げ道がないなら持っている武器で闘うかするでしょう。これが「闘争・逃走」反応です。

人は、ジャングルの中で出会う脅威に対してだけでなく、現代社会で出会うストレスに対しても、同じようなストレス応答を示します。

ストレスとなるような状況に直面すると、頭に血が上ったり、イライラしたりします。サンドバッグを殴ってストレス発散したくなる人もいます。心の余裕がなくなり、交感神経が興奮して夜寝られなくなり、頭がパニックになります。

だからこそ、ストレス対策のために、深呼吸したり、身体をリラックスさせたりして、副交感神経を働かせるように言われます。ストレスという獰猛なトラに追い詰められて、「闘争か逃走か」の状態になっている神経系を鎮めなければ、身体に悪影響が及ぶからです。

この「闘争か逃走か」というアグレッシヴな反応は、PTSDの原理でもあります。

犯罪に巻き込まれたり、恐ろしい経験をしたりすると、人はトラに出くわしたときのように「闘争か逃走か」のパニックの状態になります。

ふつうは、トラから逃げ切るとその反応は鎮まるものですが、PTSDの場合はそうなりません。脅威が去っても、いまだ脅威のただなかにいるかのように、神経系が「闘争・逃走」反応を示したままになります。

PTSDになった人は、ストレスの原因が去ったあとも、過覚醒で眠れず、冷や汗をかき、常に警戒し、ちょっとしたことでフラッシュバックが引き起こされます。いつまでもトラが目の前にいるかのように振る舞います。

しかし、すでに見たとおり、慢性疲労や解離はPTSDとは異なっています。

科学者たちは、ストレスに対する反応には、ウォルター・キャノンが見いだした「闘争か逃走か」のみならず、あまり知られていない別の反応があることに気づくようになりました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれています。

この闘争か逃走というよく知られている反応に加えて、あまり知られていない、脅威に対する第三の反応がある。

不動化である。

動物行動学者はこの麻痺の「初期」状態を持続性不動状態(TI)と呼ぶ。これは、は虫類とほ乳類に備わる。(p60)

わたしたちがジャングルでトラに出くわしたとき、あるいは現代社会でストレスに直面したとき、身体で生じるストレス反応は、「闘争か逃走か」だけではないのです。

もう一つの選択肢、それせは「不動化」、または「持続的不動状態」(TI)です。

圧倒的な死の危険(逃げる機会がごくわずか、もしくはまったくない場合)を有機的組織(organism)が知覚すると、全体的な麻痺とシャットダウンという生物学的反応が生じる。

動物行動学者はこの生得的な反応を持続性不動状態(tonic immobility,TI)[訳注:擬死と呼ばれることがある]と呼ぶ。(p29)

トラに出くわしたとき、わたしたちが我を忘れて、逃げ出すか、闘うかするのは、そうすれば助かる可能性がある、と身体が判断するからです。

理性的に考えるまでなく、脅威から逃れるか、やっつけるかするために、身体の全エネルギーが動員されます。

しかし、闘っても勝ち目がなく、逃げ出すこともできない、そんな進むも地獄退くも地獄、 前門のトラ後門のオオカミのような状況に追い詰められたら、身体は第三の選択肢、不動化を選びます。

凍りつき、麻痺して動けなくなり、感覚がシャットダウンし、痛みを感じなくなり、ときには身体から魂が抜け出したかのようになります。

凍りつきでは、筋肉は致命的な打撃で固くなり、「怯えによる硬直」を感じる。

一方で、死を明らかに避けられないものとして経験するとき(例えばむき出しになった牙が今にもあなたを殲滅させようとしているときのように)、筋肉はあたかもすべてのエネルギーを失ってしまったかのように崩れ落ちてしまう。

…自分が無力な諦めの境地にあり、命に燃料を補給し前進するためのエネルギーに欠けていると感じるだろう。(p61)

闘うか逃げるかどころではなく、「むき出しになった牙が今にもあなたを殲滅させようとしているとき」には、身体は、脅威を避けるためにエネルギーを動員する代わりに、避けられない脅威をやり過ごすための反応をとります。

恐ろしい痛みに襲われることは避けられないので、痛みや感情の感覚を切り離し、あたかも死んだかのように思わせるため、全身のエネルギーもまた切り離します。切り離す、というのはつまり「解離」させるということです。

これはいわゆる、動物が捕食者に襲われたときに見せる「死んだふり」や「たぬき寝入り」の現象です。もちろん、動物は、自分で判断して死んだふりをするわけではありません。

逃げられない脅威を察知したとき、「不動化」という生物学的なストレス応答システムが勝手に起動し、全身を麻痺させ、エネルギーを枯渇させてしまうのです。

ストレス反応は「4つのF」

このように、ストレス反応には、能動的でアグレッシヴな「闘争・逃走」反応だけでなく、その正反対の、受動的にじっと耐え抜く「不動化」という反応があります。

能動的なほうの反応が「逃走」と「闘争」の2つに分けられるように、受動的なほうの反応も2つに分けることができ、ストレス反応は合計すると4種類あると言われるようになっています。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。

キャノンの発見から75年以上も動物行動学および生理学の研究が進展した現在、闘争か逃走反応は、「一つのAと四つのF」という頭文字にまとめられる。

すなわち停止(Arrest:注意の増加、状況の精査)、逃走(Flight:まず逃げようとする試み)、闘争(Fight:動物や人間の逃走が阻害された場合)、凍りつき(Freeze:恐怖―怯えによるこわばり)、そして破綻(Fold:無力感による虚脱状態)。(p60)

この本の説明では、「4つのF」としてまとめられていて、能動的な反応が、「逃走」(Flight)と「闘争」(Fight)であるのに対し、受動的な反応は「凍りつき」(Freeze)と「破綻」(Fold)だとされています。

岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合では、一部の表現が少し異なるものの、やはりストレス反応は4つにまとめられています。

解離において起きていることを明らかにするということは、これまでの恐怖の際のキャノンCannonの理論、つまり「fight-flight response 闘争・逃避反応」だけでは十分ではなかったということを意味する。

…要するにキャノンのストレス時の2つのFの理論に、もうひとつのF、つまりfreeze response(固まり反応)が加わるのだ。

そしてそれだけではなく、もう一つP、すなわちparalysis(麻痺反応)も加えなくてはならない。

すると、危機の際の反応は、

積極的なもの……闘争、逃避
消極的なもの……固まり、麻痺

の2種類に分かれることになる。

そして後者の消極的なものは解離に関係づけられるというわけである。

…ともかくも現代的な恐怖反応は、もはや「FF」ではなく、「FFFP」であるということは、記憶にとどめておきたい。(p22)

こちらでは積極的な反応は「逃走」(Flight)、「闘争」(Fight)で同様ですが、消極的な反応は「固まり」(Freeze)、「麻痺」(paralysis)という3つのFと1つのPにまとめられています。

表記にばらつきはありますが、言わんとするのは同じです。つまり、ストレス反応は、逃走・闘争というよく知られた能動的な反応に加え、固まり(凍りつき)、麻痺(破綻)という、さらに2つの受動的な反応があるということです。

この固まり(凍りつき)と麻痺(破綻)との違いは、固まり(凍りつき)が、意識がありつつ凍りついて固まるような反応であるのに対し、麻痺(破綻)のほうは意識さえもシャットダウンして虚脱してしまう状態だということです。

この4つのストレス反応は、すべて、同じ目的のために生じます。つまり、襲いかかる脅威から何とかして逃れて生き延びるためです。

能動的な逃走・闘争に対して、受動的な固まり(凍りつき)と麻痺(破綻)が、どうして生き延びるための反応といえるのか、わかりにくく思う人もいるかもしれません。

しかしそれら受動的な反応は、痛みや恐怖をシャットダウンするとともに、相手を油断させ、わずかでも逃げるチャンスがあれば、そこに全エネルギーをかけるために生じます。

それは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれている、自然界で生じる「死んだふり」の効果を見るとわかります。

俗に「タヌキ寝入り」として知られる、土壇場での生存戦略である。しかしそれは見せかけではなく、生来の命がけの生物学的戦略だ。

…ガンジーのあの伝説的方法のような無抵抗の抵抗は、その動物の不活性状態が捕食者の攻撃性を抑制し、殺して食べようという欲求を抑える働きがある。

…また、チーターは動かない動物を安全な場所に引きずって行き潜在する敵から隠し、(獲物を分け合うために)子どもを呼びに巣に戻るかもしれない。

母チーターが出かけて油断しているすきに、ガゼルは麻痺から覚醒し急いで逃げ出せるかもしれない。(p62)

どこにも逃げ場がなく、闘っても勝ち目がないとき、生き延びる可能性がある最後の手段は「不動化」なのです。

身体を麻痺させ、エネルギーも枯渇したように見せかけ、一瞬の可能性にかける、それが受動的なストレス反応の正体です。

もう一つの副交感神経

では、この受動的なストレス反応が生じるとき、わたしたちの身体では何が起こっているのでしょうか。

すでに見たとおり、積極的なストレス反応、つまり「闘争か逃走か」が生じるときには、身体が交感神経優位になり、すべてのエネルギーが動員されます。アクセルを目一杯踏み込んだ状態になり、我を忘れて行動を制御できなくなります。

しかし、「固まり」(凍りつき)や「麻痺」(破綻)といった受動的なストレス反応では、まったく正反対のことが生じます。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれています。

ちょうどアクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態と考えると分かりやすいかもしれない。

そしてそれは、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。これが解離状態であるというのだ。(p17)

不動化の反応が生じるとき、言うまでもなく、まずアクセルは目一杯踏み込まれています。目の前に脅威があるのですから、闘うか逃げるかしようとする「闘争・逃走」反応はすでに生じています。

しかし、アクセルを目一杯踏み込んでも逃げ場がないことがわかると、目一杯踏み込んだアクセルに対して、今度はブレーキも同時に目一杯踏み込まれます。アクセルとブレーキを同時に踏み込んだ状態、それが不動化であり解離です。

このとき、生物学的に言えば、まずアクセルである交感神経が目一杯興奮し、危険に備えます。そこへ今度は、ブレーキである副交感神経が目一杯興奮し、すべてをシャットダウンします。

それは生理学的に言えば、交感神経の過剰な活動の次の相として起きてくる状態、すなわち副交感神経の過覚醒状態ということである。(p18)

しかし、不思議に思う人もいることでしょう。身体を興奮させる交感神経に対して、一般に副交感神経は身体をリラックスさせる良いものとして知られています。

交感神経が高ぶってイライラして、心身が休まらないとき、健康本でよくあるアドバイスは、副交感神経を活性化させてリラックスしよう!というものです。

副交感神経を活性化させたら、不動状態のような死んだふりではなく、ぐっすり安心して眠るような穏やかな状態になるのではないでしょうか。

そう考えるのも無理はありません。ここで言っている副交感神経とは、健康本で言われる副交感神経とは別のものだからです。まったく知られていないことですが、副交感神経には二種類あるのです。

副交感神経とはブレーキのようなものだと書きましたが、自動車には通常のフットブレーキだけでなく、駐車する際や緊急時に用いられるパーキングブレーキが備わっています。生物の副交感神経にも、これに相当する二種類のブレーキが存在しています。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法や他の解離の専門家の本によると、生物学的に解離を理解するうえで欠かせないのは、ノースカロライナ大学のスティーヴン・ポージズが1994年に発表した「情動のポリヴェーガル(多重迷走神経)理論」(polyvagal theory of emotion)です。(p129)

これによると、わたしたちの自律神経系は、よく知られている交感神経系と副交感神経系の2つにわかれるだけでなく、副交感神経系がさらに2種類に分かれています。

ひとつは有髄の迷走神経。こちらは「腹側迷走神経」とも呼ばれ、健康本などでわたしたちがよく知る身体をリラックスさせる副交感神経、つまり自動車で言うところのフットブレーキです。この腹側迷走神経は、他の人とのつながりや愛情、笑顔などによって活性化されます。

もうひとつは無髄の迷走神経。こちらは「背側迷走神経」とも呼ばれ、不動化、凍りつき、麻痺、エネルギーの枯渇と関わっている副交感神経です。これは自動車で言うところのパーキングブレーキにあたり、絶体絶命の危機に面すると問答無用で身体を仮死状態にします。

解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合では、解離と不動化を引き起こす「背側迷走神経」は、「腹側迷走神経」よりも、生物学的に見てより原始的な反応だとされています。

ここでその不調和は、たとえば副交感神経のうちより洗練された腹部の機能から同じ副交感神経の背部の機能に移ってしまうという形をとるという。

この理論の支えになっているのが、すでに紹介したポージスの理論である。

彼によれば迷走神経は、進化論的により新しい腹側迷走神経と、より古い背側迷走神経に分かれ、ストレス時にはその支配が腹側から背側へと移り、より原始的な反射としての解離状態が生じるというわけである。(p21-22)

「背側迷走神経」がより原始的だと言われているのは、これが高度な社会的脳を持たない生物、たとえば軟骨魚や両生類にも備わっているからです。

哺乳類などに備わる「腹側迷走神経」は、人とのつながりや愛情、笑顔、社会的なつながりによって活性化しますが、「背側迷走神経」はもっと原始的な、心の伴わない身体の反射であり、それが働くと凍りつきや麻痺といった解離状態に陥ります。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べます。

この原始的システムの機能は不動化、代謝維持、シャットダウンである。活動の対象は内臓である。(p118)

背側迷走神経は、身体を不動化、シャットダウンし、内臓をさえ制御します。つまり、極めて身体的な反応が現れるということです。

絶体絶命システム

生物学的な難しい説明が続いていますが、大事なポイントなので、もう少しご辛抱ください。

わたしたちの自律神経は、交感神経系と、2種類の副交感神経系から成り立っている、ということを考えると、わたしたちは、ストレスに直面したとき、3つのステップで対処している、ということになります。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう説明しています。

疑核(あるいは「高等な」)の有髄腹側迷走神経系は、顔とのどを通して感情の情報をやりとりしていて、「社会的つながり(交流)」とコミュニケーションのシステムでもある

交感神経系は四肢に情報を送り……「闘争か逃走」をサポートする

迷走神経と背側迷走神経系は、内臓からの情報を受け取り、伝達する。そして「不動化」あるいは「凍りつき」反応を起こす。(p120)

この説明が示すように、わたしたちはストレスに面したとき、(1)腹側迷走神経、(2)交感神経、(3)背側迷走神経 の3つのステップで対処します。

別の本、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法を参考にしながら、この3つがそれぞれどのような条件で働くかを整理してみましょう。

(1)一般的な副交感神経(腹側迷走神経)が働く
人とのつながりや愛情に満たされている場合は、ストレスに面しても社会的脳をつかさどる副交感神経、通常のフットブレーキが働き、笑顔になってリラックスできます。一番理想的なストレス対処方法です。

「腹側迷走神経複合体」が主導権を握っているときには、私たちは誰かに微笑みかけられれば微笑み、同意するとうなずき、友人が不運な出来事を語れば眉をひそめる。

腹側迷走神経複合体が稼働していると、心臓にも肺にも信号が送られ、心搏数が落ち、呼吸が深くなる。

その結果、私たちは落ち着いてくつろいだ気分になったり、精神的に安定した感じを抱いたり、心地よい覚醒を覚えたりする。(p134)

(2)交感神経系が働く
助けてくれる人がおらず、自分だけで対処しなければならないような場合、手足をつかさどる交感神経系、自動車におけるアクセルが活性化します。「闘争か逃走か」という能動的なストレス反応で、なりふり構わずストレスを退けようとします。

助けを求める声に誰も応えてくれないと、脅威が増し、もっと古い大脳辺縁系が急いで加勢する。

交感神経系が主導権を奪い、闘争/逃走のために、筋肉や心臓、肺を動員する。

私たちは早口になり、声は耳障りになり、心臓も鼓動を速める。(p136)

(3原始的な副交感神経(背側迷走神経)が働く
助けてくれる人がおらず、どうやっても逃げられず、闘っても勝ち目がない、絶体絶命の状態に追い込まれると、もうひとつの、より原始的な内臓をつかさどる副交感神経、すなわちパーキングブレーキが働きます。

すると凍りつき(固まり)や破綻(麻痺)といった受動的なストレス反応、つまり解離が生じます。

最後に、逃れる術がなく、来るべき脅威をどうしても防ぎようがないと、私たちは究極の緊急系である背側迷走神経複合体を活性化させる。

この系は横隔膜を越えて、胃、腎臓、腸に達しており、全身の代謝を徹底的に減らす。(p136)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこの「究極の緊急系」である不動系を「絶体絶命システム」と呼んでいます。

後に獲得されたシステム(社会的交流または闘争か逃走)のいずれによっても状況が解決されない場合、または死が差し迫る場合―絶体絶命システムが発動する。

不動、シャットダウン、解離を支配するこの最も原始的なシステムが、あらゆる生存の試みに取って代わり、乗っ取ってしまうのだ。(p122)

長くなりましたが、わたしたちがストレスに面したとき、身体でどんなことが生じるかがわかっていただけたでしょうか。

この3つのシステムは、優先順位があって、(1)がだめなら(2)、(2)がだめなら(3)というかたちで発動します。フットブレーキで対処できなければアクセルを全開にし、それでも無理ならパーキングブレーキを使うということです。

たいていの状況では、(2)の交感神経系の「闘争か逃走か」までしか発動しないため、世の中一般では、ストレスの対処といえば、交感神経を鎮めてリラックスしましょう、とばかり言われます。

しかし、解離や慢性疲労といった特殊な病態を理解するには、(3)の「究極の緊急系」の働きまで理解しなければなりません。

そして、ここが大切なポイントなのですが、(2)の交感神経の「闘争・逃走」システムが、危機が去ってもなお鎮まらず、いつまでも危機のただなかにいるかのように反応してしまうのが、PTSDでした。

同様のことが(3)にも生じます。危機が去っても、凍りつきや麻痺、死んだふり、エネルギーの枯渇の状態のままになってしまうのが解離や慢性疲労だということになります。

この絶体絶命の不動系は緊急時に短時間のみ機能するようになっている。

慢性的に作動すれば、本当に生きているわけでも実際に死んでいるわけでもない非存在という地獄のような状態に陥ってしまう。(p127)

三池先生が不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、小児型慢性疲労症候群(CCFS)についてこう書いているとおりです。

筆者らのデータによれば、CCFS(PCFS)において交感神経機能が常に副交感神経機能を抑制しているが、交感神経機能が低下し、それにつれて副交感神経機能も低下してしまうとうつ度が高くなることがわかっている。

すなわち、頑張ることも休養することもできない究極の疲労では強い“うつ”が現れることになる。(p19)

交感神経機能が優勢になって「闘争・逃走」反応が起こっているとき、それでも対処しきれず、交感神経も副交感神経も低下させて究極の疲労やうつに閉じ込めてしまうのが、アクセルに対してパーキングブレーキを踏み込み、シャットダウンしてしまう不動系なのです。

とはいえ、ここでひとつ大きな疑問が生じます。

不動状態や解離は、本来、短時間のみ機能して、生命を逃げのびさせるための生物学的システムです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの著者ピーター・A・ラヴィーンは、自身が交通事故に遭ったとき、一時的に不動状態や解離を経験したことを語っていますが、それは一過性で、深刻な後遺症はありませんでした。(p5)

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の著者ヴァン・デア・コークも、自身が強盗に襲われたとき、解離状態になって体外離脱し、恐怖がシャットダウンされた経験を述べていますが、やはり一時的なもので、事件後に後遺症は残りませんでした。(p167)

わたしが敬愛する作家また神経科学者のオリヴァー・サックスも、道程:オリヴァー・サックス自伝によれば、山で雄牛に襲われて足に大怪我を負ったとき、強い解離を経験し、大怪我を負った「だれか」が他人に感じられましたが、程なくして我に返りました。(p268)

いったいなぜ、本来は絶体絶命のときだけに働くはずの(3)の不動化システムが、危機が去ったにもかかわらず継続して、慢性疲労に閉じ込められてしまうのでしょうか。

どうして、この最終手段である絶体絶命システムが、不登校や小児型慢性疲労症候群と関係しているのでしょうか。言い換えれば、いったい何が、「究極の緊急系」と呼ばれるほどのシステムを慢性的に発動させてしまうのでしょうか。

なぜ不動状態に閉じ込められるのか

なぜ本来は一時的な緊急システムであるはずの不動系に、何年も、さらにはそれ以上もの期間閉じ込められてしまうのか。

不動状態の研究は、生物学の分野で進展してきましたが、不動状態を長期化させる条件についても、すでに明らかにされています。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、早くも1973年、ゴードン・ギャラップとジャック・E・メイザーが、特定の状況では一時的であるはずの不動状態が長期化しうるという論文を著していました。

著者たちは極めて緻密な、非常によく統制された実験を行い、動物が脅かされかつ拘束された場合、(拘束が解かれた後の)不動状態の時間が劇的に増加することを示している。(p67)

彼らが発見したのは、「脅かされかつ拘束された場合」、一時的な緊急系であるはずの不動状態が長期化する、ということでした。その研究成果は、その後もたびたび実証されてきました。

不動状態の自然終息は、捕まえられる前(もしくは不動状態から出てくるとき)に意図的に脅かされたときや、繰り返し仰向けに置かれたときには決して生じない。

後者の場合では、モルモット(もしくは他の動物)は、数分よりもはるかに長い時間、麻痺状態を継続する。(p69)

不動状態が自然に解けるのは、危険が去ったと感じられたときなのです。野生では、捕食動物が去れば、また死の危険から解放されれば、不動状態は自然に解除されます。

しかし、自然界ではありえないような状況、つまり悪意を持ってたびたび脅かされたり、拘束されたり、意図的に激しい恐怖に繰り返しさらされたりした場合は、あまりに危険が慢性的になってしまうため、たとえ危機が去っても、からだがそれを認識できず、不動状態が終息しません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、突き詰めて言えば、不動状態を慢性化させる要因は、動きの自由を奪われた状態で、繰り返し、恐怖や恥を味わわされることです。

動きの自由を奪われることが、ほとんどのトラウマの根底にある。

それが起こると、背側迷走神経複合体が主導権を奪う場合が多い。

鼓動が遅くなり、呼吸が浅くなり、人はゾンビのようになって自分自身や環境との接触が途絶える。解離し、気が遠くなり、虚脱状態に陥る。(p140)

では、たとえばどんな状況で、動きの自由を奪われ、恐怖を繰り返し味わうことがありうるでしょぅか。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアが説明するところによると、最も危険なのは性的虐待です。

言うまでもなく、動かないよう無理やり拘束され、同時に激しい恐怖や恥辱を味わわされるからです。その他の虐待や拷問などの経験でも、慢性的な不動状態という後遺症が引き起こされかねません。

しかし、ここでいう「動きの自由を奪われる」という条件は、何も、肉体的に無理やり押さえつけられ、拘束された場合にのみ当てはまるわけではありません。

PTSDや解離の症状は、第一次世界大戦当時、砲弾ショック(シェルショック)として注目された歴史があります。

砲弾が飛び交う戦場を生き延びた兵士たちは、性的虐待の被害者のように身体を無理やり押さえつけられたわけではありません。しかしやはり慢性的な不動状態を発症しました。なぜでしょうか。

砲弾下の兵士たちは逃走したり物理的に闘ったりすることがほぼ不可能だ。

彼らはしばしば、(積極的に闘うか逃げるかという欲求を抑制しながら)地面にぴったり張り付いたままでいなければならないことが多い。(p73)

彼らの場合、「動きの自由を奪われ」たのは、他の人に拘束されたからではなく、自分で自分を拘束したからでした。

兵士たちは、自分で動こうと思えば動くことはできました。しかし、砲弾が飛び交う中で逃げ出したりしたら、命を失ったり敵前逃亡で処罰されたりするという恐怖から、身動きがとれませんでした。彼らは自ら「闘争・逃走」反応を抑制し、その結果、不動状態に陥りました。

このように、不動状態が慢性化する背景には、力づくであろうとなかろうと、自由に動くことを抑制され、しかも激しい恐怖や恥を繰り返し味わう、という体験がからんでいます。

不登校や小児型慢性疲労症候群になる子どもたちは、はたして、これと同じような体験をしたのでしょうか。

三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)には、はっきりとした答えが載せられています。

小児型慢性疲労症候群に陥った大勢の子どもたち・若者たちと出会い、彼らの苦しみ・悩みの一端を共有する仕事のなかで、それこそが最大のストレスと感じはじめたのである。

彼らの最大のストレスとは、自らの抑制そのものである。

この自己抑制を犠牲として学校生活に溶けこみ協調性を保ち、友人関係を維持している。

自己主張をしない、自分の素顔を見せない、その場の雰囲気に自らをあわせ融和していく。表面だけの友人関係。

若者たちの間に浸透したこのような生き方は、「他人が、自分という肉体のなかに入りこんで生きているのと同じ」であり、「自分という生き物が存在している理由がわからなくなる」と彼ら自身により表現される。(p33)

三池先生が、小児型慢性疲労症候群の子どもたちを大勢診察する中で、彼らが味わっている最大のストレスだと感じられたのは、「自らの抑制そのもの」でした。

あまりに長い期間、自己抑制を強いられた子どもたちは、ちょうど、砲弾が飛び交う戦場で、塹壕にぴったり張り付いて息を潜めていた兵士たちのごとく、自分自身の気配を殺していました。

その結果、「他人が、自分という肉体のなかに入りこんで生きているのと同じ」、「自分という生き物が存在している理由がわからなくなる」といった状態に陥っていました。

もはや説明するまでもありません。これこそが解離、そして慢性化した不動状態です。

学校という戦場

不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもたちが、砲弾が飛び交う戦場の兵士たちと同じような経験をして慢性的な不動状態に至ると言うと、ある人たちは、それは極端だと異議を唱えるかもしれません。

刻一刻と命が危険にさらされる残虐な戦争体験と、平和な治安が保たれた日常における学校生活とを同列に置くなどナンセンスだと。

しかし果たしてそうでしょうか。

わたしはこの記事を書くよりずっと以前、まだ不動状態や砲弾ショックについてみじんも知らなかったころ、睡眠を削ってひたすら無理を強いる学校社会を、ナチスのテレジーン強制収容所にたとえたことがあります。

テレジーン強制収容所は、国連の視察に備えて、表向き明るく平和な社会に演出されたユダヤ人強制収容所でした。視察に来た人たちは気づきませんでしたが、裏では虐殺や虐待が当たり前のように行われていました。

社会的虐待として考える小児慢性疲労症候群
発達途上にある若い時期に、慢性的に異常な環境に置かれるなら、脳に“いやされない傷”が刻まれる。小児慢性疲労症候群(CCFS)と児童虐待の問題には共通点があります。最後のエントリでは

現代の学校社会を、強制収容所体験と比較しているのは、わたしだけではありません。先日読んだ、愛着障害の専門家、岡田尊司先生の生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)には、まったく同じような表現がされていました。

一見何の問題もないように見える、むしろ善意に満ちた団体や家庭においても、実質的には、それと近いことが起きてしまってはいないだろうか。

たとえば、有名進学校に合格することをスローガンに、子どもたちやその親を煽って、受験勉強へと駆り立て、プレッシャーを与え続けることは、強制収容所体験に似た慢性外傷を生みはしないだろうか。

年端のいかない子どもにとって、受験戦争を戦うことは、戦争体験の後遺症にも似た慢性外傷症候群をもたらしてはいないだろうか。(p152)

岡田尊司先生は、愛着障害の観点から不登校や非行に走る子どもたちを大勢診てこられた方ですが、現代の学校社会は、「強制収容所体験に似た慢性外傷」「戦争体験の後遺症にも似た慢性外傷症候群」をもたらしうると結論しました。

三池輝久先生は、早くも1994年、学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているかの中で、学校社会によって、あたかも強制労働をさせられるかのようにして過労死させられる、それが不登校であり慢性疲労症候群だと主張していました。

子どものCFS研究の原点「学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているか」
不登校は、「生き方の選択」「学校嫌い」「心の未熟さ」「能力の欠如」「根性が足りない」「親の育て方のせい」なのでしょうか。医学の進歩は、子どもや親に原因を求める伝統的な考え方について

まったく違う観点から不登校の子どもを大勢診察してきた二人の医師、そして当事者であるわたしがみな学校社会を強制収容所や戦争体験、強制労働に例えたのは偶然とは思えません。

確かに学校社会では、だれもが不登校になるわけではなく、だれもが辛い経験をするわけではありません。それは戦争体験とはかなり異なる点です。しかし、だからといって、そこが安全であるという意味にはなりません。

労働災害の「ハインリッヒの法則」では、1つの重大な事故の背後には、29の小さな事故、そして300の異常があると言われます。

これを学校社会に当てはめてみると、1人が不登校や小児型慢性疲労症候群になる背後には、29人が起立性調節障害など何らかの問題を発症し、さらに300人がトラブルを経験することになります。

特にリスクが高いのは、発達障害や学習障害(LD)、発達性協調運動障害(DCD)などの子どもたちです。

本当はがんばっているにもかかわらず、うまくできないことを教師たちから「怠け」や「サボリ」とみなされてやり玉に挙げられます。他の子より人いちばい努力しているのに、人間性を度外視した成績表の数値で低く評価されるので、自尊心が傷つけられます。

三池先生は学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)でこう述べています。

私は、私たちが学力と称しているものが、じつはロボットやコンピュータ脳の機能であって、真の学力やこころとはかけ離れていることを述べてきた。

このような、人としてのこころに欠ける学校社会のなかでは、しばらくの間、子どもたちは自分の顔に仮面をつけたまま生きていかざるを得ない。(p223)

子どもたちは教師たちから、けっして一人前の人格が認められておらず、怠けているなどの疑いの目でみられていることを示すのである。(p143)

わたしはまったくその通りだと思います。近年、教師によるいじめが問題になっていますが、それが特殊な事例だとは思いません。

なぜ教師が子どもを「いじめ」るのか (1/5) 〈AERA〉|dot.(ドット)

わたしの経験を思い返してみても、学校生活は、砲弾下が飛び交う戦場のような緊張感に満ちていました。飛び交っていたのは、命を奪う弾ではなく、心を傷つける言葉や恥をかかせる罰でした。

たとえば、忘れ物をしてきた子は、みんなの前でこっぴどく怒られ、晒し者にされました。体罰を加えられることもありました。

わたしは、生まれつきのADHD気質のせいか、それとも解離傾向のせいか、どちらかは定かではありませんが、忘れ物が異常に多い生徒でした。どれほど気をつけていても必ず何か忘れてしまっていました。

忘れ物がばれると、みんなの前でひどく怒られることは目に見えていたので、何か忘れ物をしてしまったことに気づいたら、大急ぎで隣のクラスの友達に借りに行きました。それが無理なら、授業中、どうにかばれないことを願いながら、ひたすら目立たないよう気をつけていました。

ナチスの強制収容所では、看守に目をつけられるとひどい仕打ちを受けるため、囚人たちはできるだけ目立たないよう努め、気配を消していたといいます。子どものころのわたしの体験は、それとよく似ているように感じられます。

すでに見たとおり、不動状態が慢性化する背景には、物理的であろうと、心理的であろうと、自由に動くことを抑制され、しかも激しい恐怖や恥を繰り返し味わう、という体験があります。

慢性的な解離の発症には、「恥」の体験が、切り離せないほど深く関わっています。

前の記事で詳しく説明したとおり、特に、逃げられない状況下で、繰り返し辱めを与えられる行為は、古代より死刑より残酷な「公開羞恥刑」として知られてきました。

なぜ耐えがたい恥は人を生ける屍にしてしまうのか―「公開羞恥刑」と解離の深いつながり
公衆の面前で恥をかかせるという刑罰「公開羞恥刑」。現代のいじめやSNSの炎上、子ども虐待などが、いかに公開羞恥刑のようにして人を辱め、その結果、被害者の心を殺害し、解離させてしまう

戦争が身近だった時代の人々が「公開羞恥刑」を死刑より残酷なものとみなしていたのであれば、学校社会で経験するそれと同様の吊し上げやいじめが、命を奪い合う戦争体験より軽いものだとみなすことは到底できません。

上記の記事で取り上げたとおり、「恥」が死よりも辛いのは、その人の命そのものではなく、人格を殺すからです。耐え難い恥は、「魂の殺害」と呼ばれるとおり、人を生ける屍、ゾンビのようにしてしまいます。

身体を殺されなくても、心だけが殺された状態、つまり身体から心が分かたれた状態が解離です。

岡田尊司先生が、生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)で述べるように、いじめはまさしくそのようなもの、公に恥をかかせ人格を殺す「公開羞恥刑」です。

いじめは、その人の居場所を奪い、存在価値を否定する行為であり、それだけでも深く傷つくのだが、さらにその傷を複雑なものにするのは、そこに恥の感情が入り混じることによってである。

いじめられるという状況は、明白な暴力とは異なり、人前でからかわれたり、なぶりものにされたりするという状況をしばしばともなう。

いじめには、みんなが犠牲となった人の困る姿を見て面白がるという見世物的な要素がある。(p138)

解離性障害の専門家たちは、しばしば、解離のきっかけとなるのは、どこにも逃げ場のない状態で、「安心できる居場所」を完全に奪われることだといいます。

言い換えれば、恥や恐怖という獰猛なトラが襲いかかってくるにもかかわらず、「闘争か逃走か」という手段がどうしても不可能なとき、人は解離、つまり不動化という最終手段で反応します。

いじめは、まず安心できる居場所という逃げ場を奪い、その上で公に恥をかかせるので、いじめられた子は逃げ出すことも闘うこともできず、不動状態になって感覚をシャットダウンするしかなくなります。

学校社会全体もまた同じです。三池先生が学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で述べているとおり、学校は、子ども一人ひとりの人格を尊重するどころか、他者と比較し、人格を殺して協調するよう求めるからです。

のびのびと個性尊重教育とは名ばかりの、がちがちに規則で固めた指導教育の押しつけをおこなう、平たくいえば教育方針の正反対方向への変更が平気でなされる現代の学校社会から子どもたちは脱出しはじめている。

…日本においては「人格を認められない場」として、あるいは「自分の価値観を学校の価値観にあわせて変更しなければならない理不尽さ」が存在する場としての学校から、子どもたちを守ろうとする考えから、学校離れの動きがでてきている。(p144)

「人格を認められない場」である学校社会という戦場では、人格を殺す砲弾が飛び交っています。しかも、学校から逃げ出すという選択肢は、ほとんどの子どもは自分で選べません。

教師による吊し上げであれ、同級生によるいじめであれ、繊細な子ども、敏感な子ども、発達障害や学習障害の子どもなど、他の子よりもリスクが大きい子どもたちは、いつなんどき公開羞恥刑に遭うかもしれない恐怖に、慢性的にさらされています。

わたしは三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)を読んだとき、当初、不登校や小児型慢性疲労症候群の説明には強く共感しつつも、それらと関連してさまざまな凶悪少年犯罪の事例が挙げられていることに戸惑っていました。

私はこの10年あまり、著書(1994年『学校過労死』診断と治療社、1997年『フクロウ症候群を克服する』講談社)や講演を通して、若者たちの慢性疲労と自信の喪失、さらには若者たちによって引き起こされる神戸少年殺傷事件に匹敵する残忍な犯罪の頻度が高くなるであろうと予測してきた。(p7)

しかし、今の知識からすれば、それらの関連を見抜いていた三池先生の観察眼の鋭さは確かでした。

上に挙げた「公開羞恥刑」の記事で説明したとおり、犯罪心理学者のジェームズ・ギリガンは、幼少期からあまりに度重なる恐怖や恥を経験し、人格を殺され、極度の解離状態に陥った人たちが凶悪犯罪に手を染めることを発見しました。

解離が感情や身体感覚のシャットダウンとして現れるか、それとも身体の不動状態として現れるかという違いはあれど、病理全体として見れば、不登校も凶悪犯罪も、ある程度連続性を持った近しい場所にあるのでしょう。

3つの共通ストレス

学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で三池先生は、小児型慢性疲労症候群の発症には、共通した三つのストレス要因があると述べていました。

私たちの研究では共通した三つのストレスの要因があると判断され、さらに第四、第五のストレスが加わると脳が眠れなくなって疲労がたまると考えられている。

…つまりすべての子どもたちが生活環境のなかにもっている共通のストレス背景としては、

(1)夜型生活による日常的睡眠不足状態、

(2)情報量の多さに伴う競争社会による緊張持続、

(3)協調性を重視する学校社会での自己抑制的生活があげられる。

すなわち起きている時間のほぼ100パーセントが緊張を強いられている状態にある。(p66)

この3つのストレス要因を、ここまで見てきた慢性化する不動状態の原因と比較するとどうでしょうか。

まず、(1)夜型生活による日常的睡眠不足状態。

これは「安心できる居場所」の喪失に当たります。本来は、くつろいで休めるはずの家庭、そして睡眠の時間という逃げ場が失われてしまいます。

こうなると、先に見た3つのストレス反応のうち、最も優先順位が高い、リラックスに欠かせない副交感神経、腹側迷走神経による安らぎという選択肢は失われます。

睡眠不足の子どもたちがADHD様の多動症状を見せることは睡眠の専門家のあいだでよく知られていますが、それは睡眠不足が腹側迷走神経を弱め、次の段階のストレス応答、「闘争・逃避反応」にギアチェンジしてしまうからです。

次に、(2)情報量の多さに伴う競争社会による緊張持続

これは、砲弾が飛び交う戦場のように、常にだれかと戦わなければならない、緊張に満ちた状況です。

この段階では、3つのストレス反応のうち、2番目に優先される交感神経系による「闘争か逃走か」が働きます。もしここで「闘争か逃走か」に成功すれば、その子は慢性疲労症候群や不登校ではなく、非行に携わったり、問題児になったりします。

最後に、(3)協調性を重視する学校社会での自己抑制的生活。

砲弾が飛び交う戦場のような場所で、恐怖や恥の感情のせいで「闘争か逃走か」に踏み切れず、ただじっと息を潜めて自己抑制する状況です。

この段階に至ってしまうと、3つのストレス反応のうち、最も原始的な最終手段である、不動系が働きます。

つまり、この3つのストレスがすべて重ね合わさると、慢性化した不動状態に閉じ込められてしまう条件が整うことになります。

このほかにも、慢性的な不動状態のリスクを増加させる幾つかの要因があります。

まず、途中ですでに述べましたが、生まれつきの感受性の強さ(HSP)や自閉スペクトラム症(ASD)などがあると、人よりも感覚刺激が強くなるので、よりストレスを受けやすく、解離によるシャットダウンに至りやすいでしょう。

また、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、女性であることもリスクのひとつです。

しかしながらブランチャードらの研究では被験者の大部分が女性であり、治療を求めていた人のみが対象であった。

女性は(心拍数を下げる)迷走神経と関連のある「凍りつき」のストレス反応をより多く示しがちである―反対に男性は交感神経―副腎系反応が優性であることが多い。(p17)

一般的にいって、男性は交感神経優位の「闘争・逃走」反応を示しやすく、女性は背側迷走神経優位の「凍りつき」や「麻痺」反応を示しやすいようです。慢性疲労症候群が女性に多い理由のひとつでしょう。

おそらく、男性の場合、テストステロンなどの男性ホルモンが女性より活動性を高める要因のひとつです。それに加えて男性優位の文化によって形作られる幼少期からの影響(ジェンダー)は女性の抑圧傾向を助長しているはずです。

男性の解離は女性の解離性障害とは症状の表れ方が異なる?

とはいえ、昨今は「草食系男子」と呼ばれるように、解離傾向の強い自己抑制的な男性も増えてきています。これは、最後のほうで考えるように、本来の性別の影響を超えて、文化による影響が解離促進的になっている時代だからでしょう。

加えて、その子が幼いときから育んできた愛着スタイルのタイプも関係しています。

友田明美先生のTED「愛着―親と子のためのガイド」視聴メモ
友田明美先生のTED「Attachment - A guide for parents and children」(愛着―親と子のためのガイド)の視聴メモです。

養育環境によって形作られる愛着スタイルのうち、「安定型」の子は、ストレスがかかっても、社会的つながりを活用してリラックスできる腹側迷走神経が働きやすく、不登校になりにくいはずです。

「不安型」(とらわれ型)の子は、ストレスがかかると、交感神経系優位で「闘争・逃走」反応を示しやすく、多動や衝動の強い問題児になりやすいかもしれません。

「回避型」の子は、部分的に解離が生じ、感情のみをシャットダウンして、クールに批判的になったり、いじめっ子になったり、自分に対して過度に厳しくなったりしますが、かえって優秀な成績を収めることもあります。

(記事末尾の補足1で扱いますが「回避型」は成人後の慢性疲労症候群のリスクだとわたしは思っています)

不登校と強く関係するのは、最後の「無秩序型」(恐れ・回避型)と呼ばれるタイプで、恐れや恥の気持ちが強く、安心感を感じにくく、ストレスが生じたときに解離や不動状態で対処しやすいと言われています。

このタイプは、不登校や回避性パーソナリティ障害、慢性疲労などに陥るリスクが高いといわれています。

感受性が強すぎて一歩踏み出せない人たち「回避性パーソナリティ」を克服するには?
失敗したり、恥をかいたりすることへの恐れが強すぎて、人との関わりや新しい活動を避けてしまう。そんな悩ましい葛藤を抱える「回避性パーソナリティ」は決して心の弱さではなく、良くも悪くも

こうした不安定な愛着スタイルは、乳幼児期に混乱した養育を経験した場合や、不安定な家庭で育った場合に見られやすいものですが、三池先生も学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で慢性疲労や不登校との関連を指摘しています。

その他にもいろいろな動物実験から、生後間もない親と子の密接なやり取りのなかで生命の脳は育っていることと、何があっても自分を守ってくれる保護者の存在が実感されなければ、外界に対する好奇心が芽生えないので学習もはじまらず、逆に乳幼児期の極端な愛情欠乏はこころを育てることを難しくする結果となることが知られている。(p86)

離婚は当事者としての父母や子どもにも、見捨てられ感が芽生える。つまり不安緊張が生まれるので、子どもたちの慢性疲労症候群が引き起こされやすく、不登校の引き金的原因となりうる。(p90)

そのほか、意外に思える条件で、不動状態が慢性化してしまうこともありえます。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、本当に安定した健全な家庭でも、子どもに不動状態などの奇妙な反応が現れることがあります。

安定して慈愛に満ちた家庭環境を提供している「十分に良い(good enough)」両親の子どもの場合、とくに当てはまる。

ときに子どもの新しい反応は、それがどれほど些細なものであったとしても謎めいたものとなる。

当惑する家族は子どもの行動や症状と、恐怖の原因とを関連づけて考えたりはしないだろう。(p242)

そうした子どもの原因不明の不動状態は、時として、子どものころの交通事故などによる身体的外傷や、それにともなって、善意で行われた医療処置などによって引き起こされる場合があります。

何千人もの兵士が戦争の強烈なストレスと恐怖を経験している。さらにまたレイプや性的虐待や性被害といったひどい事件もある。

しかしながら私たちの多くは、手術や侵入的な医療処置といったよりずっと「普通の」出来事によって圧倒されているのだ。

例えば最近の研究によると、整形外科の患者で手術後に完全な心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断される割合が52%を示したという。(p11)

この本には、若くして慢性疲労や慢性疼痛に悩まされるようになった大学院生の女性の経験が載せられています。

ナンシー(仮名)は頻繁な片頭痛、甲状腺機能亢進症、疲労、さらに慢性疼痛やひどい月経前症候群に悩まされていた。

今日では、このような症状は線維筋痛症と慢性疲労症候群と診断されるだろう。(p24)

のちに、この女性の多彩な症状の原因は、4歳のときに経験した扁桃腺摘出手術の恐ろしい経験にあることがわかりました。彼女はセラピーを受けるまで、その経験のいっさいを忘却、つまり記憶から解離させてしまっていたため原因不明だったのです。

後にナンシーは次のように報告している。

このセッションの間、彼女は自分が4歳の子どもに戻って、「ありふれた」扁桃摘出手術のためにエーテル麻酔をかけようと彼女を押さえつけている医師たちから逃げようともがいている悪夢のようなイメージを見ていた、と。

そのときまでこの出来事は「長い間忘れ去られていた」ものだったと言う。

…セッション中に起きたパニック発作はそれが最後の発作となり、それから2年間、大学院を卒業するまでに、慢性疲労、片頭痛、そして月経前症候群も劇的に改善した。(p26)

この経験のように、幼いころの事故や病気に伴う医療措置は、拘束された状態で恐怖や痛みを伴うがゆえに、慢性化した不動状態をからだに刻み込んでしまうことがあります。

こうした幼少期の不動化は、意識からは忘れられていても、からだに記憶されたままになっていて、数年以上経ってから、何か別のショックをきっかけに表面化することがあります。

理由は不明であることが多いが、半年以上もしくは1年半や2年以上も経た後に遅れて症状が出現するのは珍しいことではない。

また症状は別のトラウマ経験をしたときに初めて明確になることもある。それが数年経った後という場合すらありうる。(p203)

「からだの記憶」

幼少期に受けた怖い手術の体験が、のちに慢性疲労や慢性疼痛として表面化するというと、どうにも奇妙に思えるかもしれません。

しかしこれは、先ほど見た、幼少期に形成された不安定な愛着が、学生時代に不動化や不登校のリスクになりやすいのと同じ理由によるものです。

不安定な愛着とは、まだ自我が形成される前に、からだに記録された幼少期の記憶であり、成長してからも、からだはその記憶を無意識のうちに再演します。

わたしたちの記憶には、顕在記憶と潜在記憶、つまり意識して思い出せる記憶と、無意識の中にしまいこまれてアクセスできない記憶が存在すると言われています。

なんともつかみどころのない概念ですが、有名なアレクサンダー・テクニークの創始者、F・マサイアス・アレクサンダーは無意識とはすなわち「からだの記憶」のことだと考えました。

19世紀末のオーストラリア人、F.M.アレクサンダーは人間の姿勢について広範な研究を行い、「心理学者たちが語る無意識というのは、からだのことなのだ」と結論づけた。(p185)

彼が開発したアレクサンダー・テクニークとは、身体の無意識の動きや姿勢に、その人の感情や信念が反映されている、という理論にもとづき、習慣的な姿勢を正すことで、心と身体を整える手法です。(p32)

以前の記事で書いたとおり、精神科医ノーマン・ドイジは脳は奇跡を起こすの中で、この無意識の記憶、「からだの記憶」とは、いわゆる手続き記憶である、と述べています。(p270)

手続き記憶とは、言葉で説明できない、からだに染み込んだ記憶のことで、たとえば自転車の乗り方がそうです。

自転車の乗り方は、からだが記憶しているものなので、わたしたちはどうやって乗っているか、言葉で他の人に説明することができません。しかし、言葉にできなくても、ひとたび自転車に乗れば、頭で考えなくても運転できます。

からだが覚える手続き記憶の不思議なところは、長年使っていなくてもほとんど忘れないということです。長年自転車に乗っていなくてもいざ自転車に乗ればからだが覚えています。ずっと演奏していなくても楽器を手に取れば弾き方をからだが思い出します。

からだに染み込んだ手続き記憶は、一度学習すれば、めったに忘れることなく、何度でも再演することができます。

これと同様のことがトラウマ記憶や、慢性化する不動状態では生じています。

つまり、幼少期に混乱した養育を経験して、解離によって対処せざるをえなかったことや、拘束されたままで怖い手術を受けて、不動化に陥ったことは、意識は覚えていなくても、からだは手続き記憶として覚えています

そのため、後の人生で同じような場面に出くわし、強いストレスにさらされたとき、ちょうど無意識に自転車を乗りこなし、楽器を弾き始めるように、からだがかつての不動状態を再演し、慢性疲労や凍りつきに陥ってしまうのです。

そのようなわけで、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアは「からだの記憶」についてこう述べます。

残念なことに多くのトラウマ被害者にとっては、このような解離反応もしくは「からだの記憶」はささいなものでも一過性のものでもない。

それらはトラウマ被害者に現在の時間に―今ここに―注意を向け、定位し、機能することを不可能にさせ、なおかつ長きにわたる多種多様ないわゆる心身症的(身体的)症状(正式には「身体性解離」と呼ばれるもの)を発症させる。

実際にはトラウマを受けた人の身体的麻痺症状はずっと続くわけではない。

しかし霧の中にいるような不安、慢性的な部分遮断、解離、遷延化する抑うつ、そして無感覚状態で途方に暮れたままとなる。

多くの人は人生の喜びを享受できない「機能性凍りつき」状態のまま、かろうじて生活を送ったり家庭を築いたりしている。

こうした症状に加えて、生きていくうえでの困難な道のりを歩むためのエネルギーも、トラウマを受けたために激減してしまう。(p65)

トラウマ記憶は「からだの記憶」であるということを知れば、不登校や小児型慢性疲労症候群とは何なのか、よりはっきり理解できるようになります。

それは、「こころの問題」でも、「気の持ちよう」でも、ましてや「怠け」でも「サボり」でもありません。からだに染み付いた、叩き込まれた不動状態なのです。

「からだの記憶」がいつ形成されるのかは人それぞれです。

ある人は乳幼児期の混乱した養育環境のせいで、からだに無秩序型の愛着として、解離のパターンが記憶されます。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

ある人は、幼少期に受けた手術のとき、身体を拘束されたまま痛みや恐怖を感じたことで、不動状態のパターンがからだに染み込みます。

またある人は、学校社会で長年、砲弾下の兵士のように、目立たないよう息を潜め、ただじっと身体を抑制していた不動状態が、からだに記憶されます。

そして、多くの場合、これらは複数重なり合って、あたかも自転車の乗り方や楽器の弾き方を反復練習するかのように不動状態を増強させていきます。

一度身体に覚えさせたパターンはそう簡単には失われず、同じような場面がくると自動的に実行され、しかも繰り返すたびに強化されます。

そのようにして、不動状態という「からだの記憶」を繰り返し繰り返し強化してしまい、麻痺や凍りつき、エネルギーの枯渇が当たり前のようになってしまった状態が、不登校であり小児型慢性疲労症候群なのです。

慢性的な不動状態は、無感覚、シャットダウン、罠にかかった感じ、無力感、抑うつ、不安、恐怖、激しい怒りと絶望といった、トラウマの中心的な情動症状を引き起こす。

そうなると、いつもビクビクし、消えることのない(内的な)敵から安全に逃れることを想像できず、人生を生き直すことができない。

重篤で遷延的(慢性的)なトラウマのサバイバーたちは、自らの人生を「生ける屍」のようだと述べる。

マレーはこの状態について次のように鋭く記述している。「それは、まるで人間の活力の源泉が干上がってしまったかのようであり、まるで実存の中心が空虚であるかのようである」(p83)

不安定な愛着やトラウマ記憶が「からだの記憶」であり、無意識のうちに再演されることについての科学的な根拠については、以下の記事で説明しています。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
愛着理論によると、子どものころの養育環境は、遺伝子と同じほど強い影響を持ち、障害にわたって人生に関与するとされています。愛着の傷は生きにくさやさまざまなストレスをもたらす反面、創造
心は複数の自己からなる「内的家族システム」(IFS)である―分離脳研究が明かした愛着障害の正体
スペリーとガザニガの分離脳研究はわたしたちには内なる複数の自己からなる社会があることを浮きらかにしました。「内的家族システム」(IFS)というキーワードから、そのことが愛着障害やさ

不登校になった理由を説明できない

自転車の乗り方や楽器の弾き方のような「からだの記憶」は手続き記憶であり、通常の陳述記憶のように、言葉で説明することができません。手続き記憶には文脈がなく、物語として語ることはできません。

そのことを知ると、三池先生が不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するで書いている、不登校の子どもたちが示す奇妙な特徴の説明がつきます。

この自己矛盾状態にこそこれまでの“不登校解釈”の歴史が潜んでいるのだと考えられる。

一般には、患者自身が自らの不調を訴え受診するのが普通であるが、小児慢性疲労症候群(CCFS)としての“不登校”は自らのコントロールタワー(脳機能)が混乱する病的状態を中心としているため、何が起こっているのか本人自身にも皆目わからないという“自己矛盾状態”を主訴とするのであるからややこしい。(p22)

不登校とは何なのか、いまだ様々な意見が飛び交っているのは、当人たちが、自分自身に何が起こっているのかを説明できないからにほかなりません。

それもそのはず、不登校を不動状態として考えれば、その原因は「からだの記憶」であり、手続き記憶は言葉にできないのです。

不登校になった子どもが、自分が不登校になった理由を文脈にそって語ることができず、第三者から「学校嫌い」や「登校拒否」や「こころの弱さ」や「学校に行かないという選択」などとさまざまなレッテルを貼られている状況は、解離性障害の歴史と類似しています。

以前に取り上げたとおり、解離性障害の患者も、はるか昔に「ヒステリー」(子宮の病)という侮蔑的な名前をつけられて以降、詐病や神経衰弱やノイローゼなど、ありとあらゆるレッテルを貼られてきました。当事者たちが、自らの体験を文脈にそって語れなかったからです。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

両者に共通しているのは、症状を引き起こしているのは通常の陳述記憶ではなく、無意識のうちに理由もわからず実行される手続き記憶であり、手続き記憶は言葉で説明できないということです。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、言葉に言い表せる通常の記憶に対して、トラウマ記憶などのからだの記憶は文脈から解離している、と述べています。

端的に言えば、私たちの研究は、100年以上前にジャネとその同僚たちがサルペトリエール病院で記述した二重の記憶システムの確証となった。

トラウマ記憶は私たちが過去について語る話とは根本的に違う。トラウマ記憶は解離している。

トラウマを負ったときに脳に入った異なる感覚は、適切にまとめられた一つの話や自伝のひとコマにはなっていない。(p321)

トラウマにさらされた解離性障害の患者であれ、不登校の子どもであれ、文脈をもたない「からだの記憶」がストレス反応を再演し続けているだけなので、なぜそうなったのか理由を聞いても答えられないのは当然です。

三池先生は、不登校に陥った子どもたちを、怠けだとか、根性がないとか否定することは「中傷」であるとしていましたが、それは医学的に見ても正しいことでした。

不登校状態に陥った学生生徒が両親からも、友人たちからも、また学校社会からも見捨てられるという強い孤独感と不安感を抱えこんでいく実態は、ほとんど知られていないようである。

ゆえに、彼らを怠けであるとか、根性がないとか否定することにつながっているのであろうが、このような中傷は彼らの傷口に塩を塗り込む行為、いじめや虐待と同様のものといってもよい。(p92)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・A・ラヴィーンも、戦争の砲弾ショックなどのトラウマ被害者について、まったく同じ意見を書いています。

この話は、圧倒的な脅威に直面したときの不動化や解離を臆病と同じ類の弱さとして裁きがちな現代文化に異論を唱えるものだ。(p74)

言葉で説明できないのは、こころの弱さでも怠けでもなんでもなく、症状が「からだの記憶」によって再演されている説明不能のものであることを示しているにすぎないのです。

なぜ時々元気に見えるのか

不登校や小児型慢性疲労症候群を「からだの記憶」によって無意識のうちに引き起こされる不動状態として見ると、さまざまな不可思議な症状の理由を説明できます。

たとえば、三池先生は学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で繰り返し、不登校の子どもたちに、まっすぐぴんと座れず、全身から力が抜けたような、「背骨のない」状態、姿勢保持筋の弱さが見られると書いています。(p27,98)

こうした姿勢保持の弱さは、廃用性筋萎縮とみなされることが多いですが、それは事実に即していません。不登校の子どもたちは、ときおり、自分の本当に好きな活動なら、一時的に熱中することができます。そのときは長時間同じ姿勢を保っています。

不登校の子どもたちは、興味のある活動(おそらくドーパミンレベルが上昇する活動)の際には、一見元気そうに見えるので、怠けている、気の持ちようだと誤解されがちです。もし本当に筋萎縮が生じているならそんな誤解は生じません。

つまり、姿勢が崩れてまっすぐ座れないのは、筋肉が弱ったからではなく、本来そこに注がれるべきエネルギーが遮断されているからです。

そして、それは、ここまで見てきたことから明らかなとおり、不動系が働いて、身体が凍りつきや麻痺状態にある人の特徴です。不動系が働くと、全身がこわばり、力が抜け、虚脱状態に陥るからです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べていました。

一方で、死を明らかに避けられないものとして経験するとき(例えばむき出しになった牙が今にもあなたを殲滅させようとしているときのように)、筋肉はあたかもすべてのエネルギーを失ってしまったかのように崩れ落ちてしまう。p61)

慢性的な不動状態といっても、デフォルトの反応が不動系に固定されているだけであり、場面や状況によって、わずかながら交感神経の「闘争・逃走」に移行したり、あるいは腹側迷走神経のリラックス反応が一時的に働いたりすることもあります。

健康な人の場合、緊急時に、一時的に「闘争・逃走」反応や「凍りつき・麻痺」の不動系がオンになるのと同じです。

同様に、PTSDの人たちも、デフォルトが「闘争・逃走」反応になっているとはいえ、一時的に不動系に支配されたり、リラックスした気分になれたりすることがあります。

いずれの場合も、どのストレス反応が、デフォルトの位置に固定されているかという違いだけで、場面によっては、一時的に別のモードに移り変わったり、複数のモード(とくに交感神経系と不動系)が同時に生じたりすることがあります。

これらはほぼ体質的なものであり、性差も関係している。さらにこうした症候群は経時的に、ときには一回のセッション中に変化する傾向がある。

最も重要なのは、セッション中に三つの系統のうちどれが活性化しているか、どれが休止しているかに応じて治療方法を変えなければならないということある。(p125)

このことを理解すれば、不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもたちが、四六時中エネルギー不足に悩まされているわけではない、という不可思議な事実の意味を説明できます。

もしも小児型慢性疲労症候群が、しばしば言われるようにエネルギー産生の障害であるなら、一時的に元気に活動できたり、ときどきゲームに熱中したりできるのは辻褄が合いません。ときどき元気に見えるから仮病呼ばれりされてしまうわけです。

しかし、そうした症状の変化が示しているのは、この病態は、エネルギー産生の障害ではなく、エネルギー活用の障害であり、本来はエネルギーがあるはずなのに、何かしらの理由でエネルギーが解離されていてアクセスできない、ということです。

それは本来はエネルギーが存在しているのに、身体を虚脱させて麻痺状態に置き、いざチャンスが来たときに全速力で逃げられるようエネルギーを隔離したままにする、という不動系の働きと一致しています。

しかし不動系が解除されなくなっているので、エネルギーが隔離されたままになっていて、一時的に不動系から他のモードに移行した瞬間だけ活力が戻ってくるというわけです。

しばしば解離性障害と見分けがつきにくいとされる双極性障害II型も、やはり慢性的な疲労感や抑うつと、一時的な軽い躁状態を特色としています。おそらくは不動系の脳の反応がデフォルトになっていて、一時的に他のモードに切り替わる類似した病態なのでしょう。

原因不明の胃腸症状や息苦しさの理由

さらに、不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、さまざまな不定愁訴を訴えます。わたしも経験したことですが、その中にはたとえば腹部膨満感や過敏性腸症候群のような症状、息苦しさ、のどのつっかえなどがあります。

検査に出ない腹部膨満感は、ストレスが原因の「呑気症」、「空気嚥下症」などと呼ばれます。のどのつっかえ感は漢方では「梅核気」、西洋医学では「ヒステリー球」などと呼ばれていますが、ヒステリーとはつまり解離の古い呼び名です。

こうした症状は、古くから神経症、ヒステリーと結び付けられていて、解離性障害では頻繁に見られる症状群です。解離の専門家は、解離性障害の人が訴えるさまざまな身体的な不快感を「体感セネストパチー」と呼びます。

一見、これらは、神経質な人が気にしすぎるために感じる症状に思えますが、解離を不動状態という生物学的現象としてとらえると、決してそうではないとわかります。

3つのストレス反応のところで少し触れましたが、最も原始的といわれる不動系、つまり無髄の迷走神経(背側迷走神経)は、内臓からの情報を受け取って作動するシステムです。

脳から内臓に指令を送るのではなく、内臓からの情報を受け取る、というところに注目してください。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう説明しています。

驚くべきことに、内臓と脳を結ぶ迷走神経の90%もが感覚性である!

つまり、脳から内臓に指令を伝える神経繊維1本につき、9本の感覚神経が腸の状態に関する情報を脳に送る。

…脳から内臓に対してよりも、明らかに内臓の方が脳に対する発言力がある(9:1の割合で)!(p145)

不動状態は、「からだの記憶」によって引き起こされるものでした。しかも、不動状態は、わたしたちの意思にかかわりなく、全身を強制的にシャットダウンします。

これほどまでに「からだの記憶」が強力なのは、不動系を構成する、脳と内臓をつなぐ迷走神経のうちなんと9割もが求心性、内臓から脳のほうへ情報を伝達する経路だからなのです。(p166)

そうすると、そもそも不動状態とは、脳が判断して引き起こしているものではなく、からだの判断によって引き起こされているということになります。

不動状態およびシャットダウン状態では、内臓が激しい恐怖を感じているため、通常はその感覚を意識から遮る。(p149)

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にもこう書かれています。

「怖くて体が硬直する」とか「恐怖で凍りつく」(虚脱状態や麻痺状態に陥る)といった表現は、恐怖やトラウマがどのように感じられるかをじつに正確に言い当てている。

トラウマは、内臓を土台とするそうした感覚から生じる。

恐れの体験は、何らかのかたちで逃避が妨げられて感じた脅威に対する原始的な反応に由来する。

内臓の経験が変わらないかぎり、その人の人生は恐れに人質に取られたままとなる。(p163)

拘束されて逃げられないという恐怖を感じるのは、脳ではなくまず身体なのです。

たとえば、わたしたちは熱いお湯に指が触れたとき、先に「熱いから手を引っ込めよう」と思うでしょうか。それともまず考える間もなく、手が勝手に反応して引っ込むでしょうか。間違いなく身体が先に反応します。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでは、実験心理学者ウィリアム・ジェームズの、こんな洞察が引用されています。

私の理論では、身体的な変化は刺激因子を知覚した直後に起こる。それと同じ変化の感覚が感情である。

「常識」によれば、財産を失えば悲しくなり涙を流す。クマに会えば怖くなり、逃げ出す。ライバルに侮辱されると、怒りを感じて殴る。

ここで主張している仮定は、この順序は正しくないということだ。ひとつの精神状態が別の精神状態によって即座に引き起こされるわけではない。

その前にまずからだの兆候が現れる。

より合理的な(正確な)説明としては、泣くから悲しくなるのであり、殴るから怒りを感じるのであり、震えるから怖いのだ。(p373)

この説明は直感に反するかもしれません。

しかし、わたしたちのストレス反応は、基本的に身体が先に反応し、次いで情動が動かされるようになっています。

神経生理学者ベンジャミン・リベットは、人は刺激を受けると、まず脳が反応し、その後0.5秒遅れて、意識がそれに気づくという有名な実験で知られています。(p375)

この実験は、わたしたちの意思より前に無意識の脳が反応しているという文脈でしばしば引用されますが、からだが先かこころが先か、という問題にはっきりとした答えを与えています。

腹側迷走神経は安心するからリラックスするのでしょうか。違います。だれかに抱かれたり、笑顔になったり、マッサージを受けたり、温かいお湯でくつろいだりすると、身体の反応に続いて、心がリラックスします。

交感神経系は手足の動きと密接につながっています。歩くと気分がすっきりして、サンドバッグを殴るとスカッとして、自転車に乗ると気分がよくなり、走るとアドレナリンハイになります。

そうであれば背側迷走神経も同じです。これは内臓の働きと強く関係していて、危険がせまると身体がふるえ、胃が痛くなり、胸が引き裂かれるようにうずきます。ついで、怒りや悲しみ、恐怖、恥ずかしさなどがこみ上げてきます。

そのようなわけで、不動状態を引き起こすのは内臓なのです。内臓が恐怖や恥を感じ取り、硬直したり締め付けられたりするので、内臓は「この感覚をどうにかしてくれ!」という悲鳴に似たコールサインを脳に送ります。

するとそれに呼応するように不動系が活性化し、内臓の要請に応えて、内臓の望みどおりに、身体の感覚をシャットダウンします。

このとき、内臓ではさまざまな反応が生じます。胃や腸の不定愁訴が引き起こされ、心臓の鼓動や肺の働きにも影響が及びます。

避けがたく致死的な状況では、は虫類の脳である脳幹が内臓に強い信号を送り、その結果、一部の内臓は過剰作動(胃腸系)などに陥り、他は収縮して停止(肺の細気管支や心臓の拍動など)する。

最初の例(過剰作動)では、胃けいれんや締め付けるような痛みまたはゴロゴロいう制御不能な下痢といった症状が現れる。

肺の場合は、苦しく息の詰まる感覚が現れ、慢性化すると喘息の症状になる場合がある。(p155)

身体はこわばり、腹部膨満感や過敏性腸症候群や機能性ディスペプシアといった胃腸の不定愁訴が生じ、呼吸は浅くなり息苦しくなります。

呑気症、空気嚥下症、のどの固まり、ヒステリー球などという病名は、「ストレスのせい」「自律神経失調症」「こころの問題」と同じほど役に立たない医者の方便です。

その実態は、気のせいでも神経質でもなく、内臓と密接につながっている不動系の反応であり、内臓が感じている恐怖や恥などの「からだの記憶」を脳に伝達するメッセンジャーなのです。

この記事では詳しく触れる余裕がありませんが、慢性疲労にしばしば合併する慢性疼痛(線維筋痛症など)についてもこの本に症例が出ており、正反対の方向へと筋肉を引っ張る、激しく葛藤する「からだの記憶」という観点から考えることができます。(p230-234)

この本によると、3つのストレス反応のうち、腹側迷走神経(通常の副交感神経)と不動系はほとんど排他的ですが、交感神経系(闘争・逃走反応)と不動系は同時に働くことがあります。(p126)

たとえば事故の瞬間、闘うか逃げるか、といった相反するエネルギーが筋肉に生じた状態のまま凍りついてしまうと、交感神経系と不動系が同時に活性化したパターンが記憶され、両方向に引っ張られた筋肉は慢性疼痛を生じさせます。

これはつまり、「反対の運動パターンまたは未完了の運動パターン」がからだに記録され、再演されているということであり、線維筋痛症などの慢性疼痛が引き起こされる原因になると考えられます。(p353)

そのほか、不登校や小児型慢性疲労症候群でみられる学習記憶力障害(ブレイン・フォグ)は、解離でいうところの解離性離人症と同質のものとみなせます。

現実感がない「離人症状」とは何か―世界が遠い,薄っぺらい,生きている心地がしない原因
現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

解離では思考がまとまらない、生きている心地がしないなどのほか、過去や未来について考えることができなくなってしまいます。

人生が短縮した感覚、言葉を失うほどの絶望の感覚は、深刻なトラウマの中心的な性質である。

この人は過去の恐ろしい痕跡の中にすっかり閉じ込められてしまっていて、過去とは違う未来を想像することができないのである。(p205)

トラウマ記憶がなぜ時間感覚の異常や、過去や未来の喪失を伴うのかは、以前の記事で説明しました。

いすれにしても、この記事で考えたように、不動状態にとらわれている人のからだは、いつまで経ってもまだ砲弾飛び交う戦場にいるのと変わらないのです。

不動状態から帰ってくるには?

ここからは、不登校、そして小児型慢性疲労症候群を、慢性化した不動系の反応としてとらえた場合、どんな治療が役立つと思われるか、見ていきたいと思います。

わたし自身がまだ手探りなので、特効薬のような治療法があるのかどうかはわかりませんが、とらえどころのない慢性疲労ではなく、生物学的な反応である不動系の治療という観点から考えてみることは、より効果的な方法を突き止める助けになるはずです。

学校を捨てる

まず、三池先生は学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で、不登校になった子どもを学校という戦場に無理やり戻さないよう述べています。

なぜなら、学校に留まることは、明確に徹底的な消耗につながるからである。学校に留まれば留まるほど消耗し、混乱しPTSDが固定することがわかっているのである。

「教師たちの不登校」の項で述べたとおり、不登校状態は慢性疲労的中枢神経消耗状態であるから、当然長期療養が必要な状態である。

彼には、もはや通常の学校社会生活どころか、日常生活さえまともに送る心身の余力は残っていなかったはずなのである。(p185)

これは、不動状態の治療と照らして理にかなったことです。

有名なトラウマの治療法のなかに、トラウマの状況に身を置く曝露療法があります。保健室登校などで徐々に学校に復帰する方法は、この曝露療法に近いものとみなせます。

曝露療法は一過性のトラウマや不安の治療には効果があるようですが、慢性化したトラウマによる不動状態の場合は悪化する可能性があります。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。

曝露療法の研究からも、同様のがっかりするような結果が出ている。この手法で治療を受けた患者の大多数が、治療の終了後三か月の時点で、相変わらず深刻なPTSD症状を見せるのだ。(p321)

曝露は、恐れや不安に対処するのに役立つことがあるが、罪悪感や他の複雑な情動への有効性は証明されていない。(p362)

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアもこう述べます。

さまざまなトラウマ・セラピーの落とし穴の一つは、情動の強烈な除反応をともなうトラウマ的記憶の再体験を重視してきたことだ。

曝露を基本としてこれらのセラピーでは、痛ましいトラウマ記憶を掘り返し、記憶に結びついた情動、とくに不安や恐怖、怒りや悲嘆といった情動の除反応ができるようにクライアントは促される。

このようなカタルシス的アプローチは、虚脱や無力感の感覚を強化することが多く、十分なものとはいえない。(p220)

ピーター・ラヴィーンは、かつてPTSDに曝露療法が有効であると思われていた理由について、曝露療法によってトラウマをいわば繰り返し再体験させることで感覚が麻痺(除反応)し、PTSDがより重い解離状態へと進行していたからではないか、と考えているようです。(p408)

PTSDの人が繰り返し再トラウマ体験に曝露して、より重い解離に進展すると、ストレス反応が「闘争・逃走」から「固まり・麻痺」の不動系へシフトするので、表面上問題行動が減ります。

患者は社会から隔絶された麻痺状態になりますが、問題を起こさないので、PTSDは「治療」できたとみなされます。残っている麻痺状態は、治療しきれない後遺症というわけです。

これは皮肉なことに、あの悪名高いロボトミーとよく似ています。ロボトミーでは、アイスピックで脳の前頭葉と辺縁系を切り離して(いわば物理的に解離させて)、問題行動を消失させる代わりに感覚を麻痺させゾンビのようにしてしまうことを「治療」と称していました。(p312)

曝露療法とは、再トラウマ体験という比喩的なアイスピックを脳に打ち込んで、機能的な解離を起こさせることで、トラウマ被害者を問題行動の多いPTSDから無活動なゾンビのような麻痺状態へと移行させていた可能性があります。

むろん、純粋な体調不良による不登校、たとえば睡眠障害のみや、他のやむをえない身体疾患や、比較的軽い起立性調節障害などの不登校の場合は、徐々に慣らしていく曝露的な方法が役立つかもしれません。

しかし、慢性的に無理を重ねて、「からだの記憶」として不動状態が生じている場合は、曝露は「虚脱や無力感の感覚を強化する」ので、避けるべきでしょう。「学校を捨ててみよう!」ということです。

この「からだの記憶」は、以前の記事で説明したように空間を認識する右脳の視覚的記憶で構成されているようです。自転車の乗り方などが空間的な記憶であることは言うまでもありません。

そうすると、たとえ頭では大丈夫と認識していても、学校の教室などに足を踏み入れると、三池先生が述べていたとおり「精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまう」ことになり、不動状態が強化されます。

そもそも不登校が長期化し、引きこもりや慢性疲労に至るのは、起立性調節障害など初期の自立神経症状の段階で学校から離れず、体調が悪くても無理に頑張って登校しつづけることで、事実上、曝露療法による再トラウマ被害と似たPTSDから解離への進行が生じているのだと思います。

できるなら、たとえ元気になったとしても、空間的な右脳の視覚的記憶と結びついてしまっている元いた学校に戻るのではなく、別の選択肢を探したほうがいいかもしれません。

カウンセリングの限界

先ほど見たとおり、三池先生は、小児型慢性疲労症候群の不登校状態では、自分のことを認識できない自己矛盾が生じていると述べていました。

PTSDやトラウマというとカウンセリングで治療するものだと思われがちですが、不動状態に関わっているのは「からだの記憶」です。

「からだの記憶」は言葉で説明することができず、文脈もないため、カウンセリングで理由を問い尋ねても、困惑が深まるだけです。

さらに悪いことに、自分では理由がわからないがゆえに、カウンセラーの独自の解釈を鵜呑みにしてしまったり、自分でありもしない理由を考え出してしまったりすることがあります。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。

自分の人生の最も私的な瞬間や不快な瞬間、頭が混乱するような瞬間を思い出すと、図らずも選択を迫られることがよくあった。

記憶の中の昔の場面を追体験することに的を絞り、その場面で感じたことを自分に感じさせるか、あるいは、起こった出来事を論理的に筋道立てて精神分析医に話すかという選択だ。

後者を選ぶと、いつもたちまち自分自身とのつながりを失い、分析医にしている話についての彼の意見に意識を集中しはじめた。

疑われたり、判断をくだされたりしている気配を少しでも感じると、私は抑え込まれて、彼の承認を取り戻すことに注意を向けてしまうのだった。(p387)

言葉によって解釈し、説明しようとすると、「その場面で感じたことを自分に感じさせる」ことができなくなり「自分自身とのつながりを失い」ます。そして自分のからだの声ではなく、カウンセラーの「意見に意識を集中」してしまいます。

カウンセリングが役立つのは、通常の記憶に対してです。たとえば認知行動療法は、すでにわかっていると思い込んでいることに対して、別の視点から物事を考えるよう助けます。

認知行動療法は、クモに対するような不合理な恐れについては有効であるものの、トラウマを負った人、とりわけ児童虐待を受けたことのある人には、あまり成果を挙げていない。(p362)

不登校は児童虐待とは異なるものですが、解離や不動化を伴う慢性的なトラウマという点では共通しています。

「からだの記憶」によって不動状態が生じている場合は、そもそも何が起こったのか理解できていないので、言葉は役に立ちません。「からだの記憶」を扱うには、からだの言語が必要です。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきを担当しているガボール・マテはこう書いています。

「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。

実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。

したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)

「からだの記憶」が根底にあり、内臓が背側迷走神経を通して恐怖や苦悩を伝えている場合、発言権があるのは内臓9に対して脳は1にすぎませんでした。

カウンセリングや認知行動療法といったトップダウンの方法で、いくら脳の思考を修正しても、その言葉は内臓にはほとんど届きません。内臓そのものに安心感を感じてもらうボトムアップの手法のほうがよほど役立ちます。

ピーター・ラヴィーンは、この本の中で、からだに閉じ込められた感情を感じ取り、「内なる声」に耳を傾けるとき、その意味や理由を解釈しないよう繰り返し注意しています。(p211、215、216、233)

思考を働かせて分析しようとすると、からだが感じていること、ずっと麻痺させてしまってきた内なる感情を聞く事ができません。何の訳にも立たない理屈や解釈をこじつけ、理屈っぽい言葉だけが上滑りしてしまいます。

解離や不動状態に陥った人が苦労するのは、ありのままを感じること、からだの声を聞いて受け入れることです。

彼はこの本のなかで、からだの声を聞くことに注意を向けるソマティック・エクスペリエンス(Somatic Experiencing)という手法を説明しています。

セラピストは、その信念を捨てるよう説得するのではなく、その思考がからだの中に宿る場所を探り、どの部分が緊張し、どの部分が開放されてゆったりしているかに気づき、少しでも虚脱感を感じる場所を突き止めるようクライアントを促すとよい。

おそらくもっと重要なのは、感情のない場所にも気づくよう促すことである。(p178)

こうした身体の声に気づくアプローチは、不登校や小児型慢性疲労症候群の不動状態にも役立つ可能性があります。

ボトムアップの手法

三池先生たちが、小児型慢性疲労症候群の治療として、カウンセリングや認知行動療法のようなトップダウンの手法ではなく、さまざまなボトムアップの手法を駆使してきたのは、不動状態という観点から見ても、極めて効果的に感じます。

三池先生は、不登校の治療にあたり、概日リズム睡眠障害の治療を最優先していますが、安心して休める居場所を確保するのは、不動状態を解除する上でとても重要なポイントです。

先述のとおり、睡眠不足の子どもたちは、交感神経優位の「闘争・逃走」反応を示しがちですが、裏を返せば、睡眠を確保できれば、ストレス反応をそれ以前の段階で食い止められるということです。

ストレス反応の第二段階である「闘争・逃走」反応を予防することは、第三段階の最終手段である不動系に至るのを防ぐ、もっとも効果的な手段といってよいでしょう。

「高照度光療法」は自宅でも可能? 睡眠障害や小児慢性疲労症候群(CCFS)の治療法
ゴーグル型の高照度光療法器の開発が進められているというニュースに基づき、CCFSと光治療について書いています。

また、不動状態が生じる原因には、逃げ場がどこにもないことが密接に関わっていました。

安心して眠れる家庭という逃げ場を確保できれば、不動化があまりに慢性化していないかぎりは、つまり不登校初期の場合や、年齢が低い場合は、「からだの記憶」を上書きできるかもしれません。

そもそも、解離や不動状態は、一種の局所的な睡眠障害ではないかと思います。不動系のシャットダウンとは言いかえれば、危機に備えて身体の機能の一部を無理やり眠らせることです。解離性障害の治療でも睡眠を安定させることが重視されていました。

解離性障害は脳の一部だけ眠る睡眠障害かもしれない―覚醒と夢のはざまの考察
解離性障害の幻覚とナルコレプシーなど、解離と睡眠障害には多くの類似点が見られます。様々な専門家の意見を参考に、脳の局所的な睡眠として解離を捉え直すことで、解離のメカニズムを考察して

また、低温サウナ療法(和温療法)のような、ぬくもりによって自律神経を活性化させる方法は、元を辿れば不動系が自律神経系の一部であることからすると効果的に思えます。

凍りつきを生じさせる背側迷走神経ではなく、人肌で抱かれるような温かなぬくもりによってリラックスする腹側迷走神経を活性化させる助けになりそうです。

低温サウナ療法(和温療法)が子どもの慢性疲労症候群(CCFS)に効果的
近年注目されている低温サウナ療法と慢性疲労症候群(CFS)や化学物質過敏症(MCS)との関わりについてまとめています。

さらに、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)では、家族による支えと励ましの重要性が繰り返し強調されていますが、これももっともなことです。

不登校状態、すなわち慢性疲労の子どもたちに対して、とくに暴力傾向をもった子どもたちの場合にはさらに、家族は彼らとしっかり向き合って「自分たちはどのようなことがあってもあなたを好きであり、見捨てたりすることはない」と伝えなければならない。

なぜなら彼らの不安の原因は、見捨てられる思いにあるからである。(p65)

すでに見たとおり、解離や不動状態は、親との愛着が不安定な子どもたちに生じやすい反応です。

愛着が安定していれば、副交感神経のうち、原始的な背側迷走神経ではなく、愛着や社会的交流に関わる腹側迷走神経が働くので、解離や不動状態に陥りにくくなります。

しかしながら、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアが述べるとおり、不動状態をもたらす背側迷走神経はかなり強力で、いったん働くと、他の上位のシステムをのっとります。

作動系統が原始的であるほど、生体の全身機能を乗っ取る力は強くなる。

これは、より新しい洗練された神経サブシステムが機能しないよう効果定期に阻害することで実現される。

特に不動系は社会的交流/愛着システムをほぼ完全に抑制する。(p123)

ですから、不動状態に乗っ取られて慢性疲労に陥っている場合、ちょっとした愛情や一時的な支えで不動状態が解除されることはほとんどないでしょう。

親は決してあきらめず、「自分たちはどのようなことがあってもあなたを好きであり、見捨てたりすることはない」というメッセージを、言葉と態度で伝え続ける必要があります。単に心にではなく内臓にまで安心感が届く必要があるのです。

サウンドセラピー

近年、小児型慢性疲労症候群の研究で、ドーパミン関連の治療が効果的ではないかというニュースがありました。

小児慢性疲労症候群(CCFS)は報酬系の感受性が低下している―ドーパミン系の治療法が有効?
理化学研究所によると、小児慢性疲労症候群(CCFS)では脳の報酬系のドーパミン機能が低下していることがわかりました。

ドーパミンは、身体の能動的な活動を促す神経伝達物質なので、受動的な不動状態に閉じこもる反応とは真逆のものです。

以前の記事で、ADHDなどの疲労感は、ドーパミンレベルの低さ、不安定さと関係しているのではないか、と推測しました。

なぜADHDの人は慢性的な疲労や痛みを感じやすいのか―脳の注意配分能力とワーキングメモリー
注意力のコントロールが苦手なADHDなどの人では、痛みや疲労が強く感じられている可能性があります。その理由は、フロー状態・マインドフルネス・ワーキングメモリ・注意配分能力などの研究

その記事で、ADHDの人が疲労を感じやすいのは、不快刺激に頭を占領されてしまうせいではないか、という見方を紹介しました。

一見、今回の記事とは何の関係もなさそうですが、実際には同じものを別の観点から見ているだけです。

不快刺激に頭を占領されてしまうのは、入ってくる刺激があまりに多すぎて、それを処理しきれなくなり、頭がフリーズしてしまうからです。この凍りつき反応が解離です。

つまり、交感神経系というアクセルを目一杯踏み込んでいるところで、副交感神経系のブレーキを目一杯踏み込んで、エンストした状態が解離であるのと同じです。

大量に入ってくる深い刺激はアクセルを目一杯踏み込むことに相当し、それをブレーキの抑制機能によって処理しきれないと解離が生じます。

このアクセルにあたる脳の部位は危険を知らせるアラームである扁桃体で、ブレーキにあたる脳の部位は前頭前野です。ドーパミンは前頭前野のブレーキの働きを強化します。

そのようなわけで、刺激に敏感で、すぐに圧倒されて、アクセル全開になってしまうADHDの子どもの多動性や衝動性を治療するのに、メチルフェニデートなど、ブレーキを強めるドーパミンの薬が用いられています。

逆に、過剰な刺激にさらされて興奮しているアクセルのほうを鎮めるのは、小児型慢性疲労症候群の睡眠の治療でしばしば用いられ、ADHDやトラウマ障害の子どもの過敏性を抑えるためにも使われているカタプレス(クロニジン)などの交感神経系を鎮める薬でしょう。

もちろん、アクセルを弱めたり、ブレーキを強めたりする方法は、薬だけではありません。

以前の記事で取り上げたように、近年では、ADHDの子どもに対するサウンドセラピー(音楽療法)が注目されています。

「時間感覚の障害」としてのADHD―時の流れを歪ませるのはドーパミンだった?
ADHDの人は時間感覚が歪んでいる、ということが実験で証明されているそうです。「脳の中の時間旅行 : なぜ時間はワープするのか」という本から、なぜADHDの時間感覚は歪んでいるのか

精神科医ノーマン・ドイジは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、ADHDの子どもに対するサウンドセラピーに触れて、こう書いています。

ダニエル・レヴィティンとヴィノッド・メノンが示すように、音楽は脳の報酬中枢に働きかけ、それによってドーパミンの産生が増大し、快感情やモチベーションが向上する。(p525)

サウンドセラピーは、やはりドーパミン系の問題である、パーキンソン病やトゥレット症候群にも効果的であることがよく知られています。

アルツハイマー病の人が懐かしいメロディを聞けば昔に戻ったかのように歌えるという話もあります。歌のメロディやリズムは、自転車の乗り方と同様、一度覚えれば何十年経ってからでもよみがえる手続き記憶なのでしょう。

歌のリズムはからだの乱れたリズムを整え、無意識のうちに実行されている手続き記憶を一時的にであれ相殺する効果があるのかもしれません。

人間は本質的に芸術家―たとえ脳が傷ついても最後まで絵を描き音楽を楽しむのをやめない
人間は脳が傷ついても、芸術的感性を保ち続ける。そのことはアルツハイマー病やパーキンソン病など、さまざまな脳の病気の研究からわかっています。アートセラピーや音楽療法が効果的なのはなぜ

不動系はまた内臓をつかさどるシステムでもありました。「腹の底から声を出して」歌うことは、内臓に生気を取り戻させるきっかけになるかもしれません。

ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、内臓を振動させる発声や呼吸法が、「不動状態がもたらす、もがくように苦しく、吐き気を催し、弱体化させ、麻痺するような感覚と相反する」効果を持っていて、平衡を回復すると述べています。(p150-152)

パーキンソン病では、固縮と呼ばれる固まり状態が見られますが、近年パーキンソン病の原因が胃腸にあるのではないかと言われているのは興味深い点です。もしかすると、胃腸のSOSとドーパミン不足が組み合わさって不動状態が引き起こされているのかもしれません。

ほかにも、大勢で一致して歌を歌うこと、楽器を演奏することなどは、ドーパミン系を刺激し、正常なリズムを取り戻させる力があるようです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、音楽療法は、トラウマ経験のために不動状態に閉じ込められた人たちの虚脱や凍りつきを溶かすことができます。

女性たちは前かがみで座り、悲しみに満ちて凍りついており、ボストンで目にしてきた多くのレイプセラピーのグループの女性たちとそっくりだった。

私は無力感というおなじみの感覚を味わい、虚脱状態の人々に囲まれて、自分自身も精神的に虚脱するのを感じた。

そのとき一人の女性が、体をそっと前後に揺らしながらハミングをし始めた。ゆっくりとリズムが生まれてきた。他の女性たちも少しずつ加わっていく。

まもなくグループ全体が歌い、動き、立ち上がって踊りだした。それは驚くべき変化だった。人々は生命を取り戻し、表情は同調し始め、生気が体に蘇った。

私は、ここで目にしているものを応用すること、そして、リズムと歌と動きがトラウマの治療にどのように役立ちうるかを研究することを誓った。(p350)

不動状態とは、内外の刺激に圧倒されることに対する反射的な反応として生じていますが、音楽は刺激で乱され、混乱しているニューロンのリズムを同期させ、まとめあげる力があるのでしょう。

(解離とリズムの関わりについては記事末尾の補足2でも扱います)

内側に気づく

先に挙げたADHDと疲労の関係について考察した記事の中で、マインドフルネスが注意力を改善し、痛みや疲労を和らげることも紹介しました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でも、同様の点が書かれています。

マインドフルネスはうつ病や慢性疼痛といった数多くの精神医学的・心身医学的症状や、ストレス関連症状に有効であることが立証されている。(p342)

マインドフルネスは、過敏に反応している扁桃体のアクセルを和らげ、前頭前野のブレーキを強化する働きがあります。

さらに、マインドフルネスは、内面への注意力を向上させ、自分の感覚への気づきを高める効果があります。

以前の記事でみたように、慢性疼痛に対してマインドフルネスが効果があるのは、痛みが「一枚岩ではないことに気づく」からでした。

慢性疼痛・線維筋痛症にマインドフルネスが効果的
線維筋痛症などの痛みにマインドフルネスが効果的だという話が日経サイエンス2015年01月号 に書かれていました。注意力散漫と痛みや疲労との関係、注意力を鍛える方法などについても書い

どういうことかというと、からだの記憶によって引き起こされる慢性疼痛や慢性疲労などのさまざまな不定愁訴は、一枚岩ではなく、複数の段階によって生じています。

PTSDの症状は、まずトリガーとなる刺激にさらされ、次いでそれにからだが条件反射のように勝手に反応することで生じます。からだの記憶による不定愁訴も、何かしらの外的刺激か内的刺激が引き金となって、それに対するからだの条件反射として起こります。

本人からすれば原因不明な症状に思えても、じつは、ほとんど気にも留めていないようなかすかな刺激、生活上の不安、苦手な人によるストレス、音、まぶしさ、姿勢、他のどんなものであれ、必ず何かに反応してからだの記憶が再演されているのが不定愁訴なのです。

ピーターラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのなかで、そうした無意識のうちに自動的に生じている症状のトリガーに気づき、対応を変えていくために、マインドフルネスのやり方を詳しく解説しています。(p347-359)

マインドフルネスは、注意深く内面を探ることにより、かすかな刺激というトリガーに気づく助けになります。そして今まで原因不明と思っていた症状が、もっともな原因に対する条件反射として生じていることがわかります。

そうすれば、かすかな刺激に対して、からだが条件反射で反応する習慣に自動的に従う代わりに、もっと別の方法で対応できるようになります。

これは以前の記事で取り上げた細かい違いに気づき、習慣を変えていく力、「差次感受性」を鍛えるということです。

以下の記事では、気づかないうちに自動的に行なってしまっていた習慣に気づき、それを細切れに分けて意識できるようになったことで、無意識の条件反射として生じていたさまざまな病気の症状に対処できるようになった人たちの例を挙げました。

HSPの人が持つ「差次感受性」―違いに目ざとく脳の可塑性を引き出す力
敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ

マインドフルネスは、正しい方法で行えば、からだの声に気づき、無意識のうちに内外の刺激に対して、反射的に過敏に反応してしまっているからだのコントロールを取り戻す助けになるでしょう。

生きていることを味わい知る

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の著者ヴァン・デア・コークの息子ニックはミドルスクールのときに小児型慢性疲労症候群になりました。(p551)

そのとき彼を回復させたのは、演劇プログラムに参加したことでした。のちにヴァン・デア・コークは、この経験から演劇プログラムを解離やトラウマの治療に導入しました。

ニックは二年間学校に行けず、ベッドから抜け出すこともできませんでした。おそらく概日リズム睡眠障害を発症していたようで、午後5時ごろになんとか少し元気が回復するだけでした。

両親は、なんとか彼を助けようと、そのわずかに動ける時間を活用して、即興劇の夜間教室に参加するよう勧めました。同年代の子どもたちと少しでも交流できるよう期待してのことでした。

すると意外な収穫がもたらされました。

自分の具合の悪さについて何人ものセラピストとさんざん話をしてきたそれまでの経験とは異なり、演劇は彼に、自分とは違う人間(彼は少しずつ学習障害のある神経過敏な少年になってしまっていた)になるのがどんなものなのかを、全身でたっぷり経験する機会を与えてくれた。(p552)

自分自身の声を見つけるためには、体の中にいる必要がある。深呼吸ができて、内部感覚がつかめる状態だ。

これは解離、つまり「体の外」に出て自分自身を消し去るのとは逆の状態だ。(p552)

確かなことはわかりませんが、ニックは「学習障害のある神経過敏な少年」の傾向があったので、学校生活から強いストレスを受け、不動状態に閉じ込められてしまったのでしょう。

父親であるヴァン・デア・コークが言うように、「体の外」に出て自分自身を消し去る解離に陥っていました。

セラピストの言葉によるカウンセリングはまったく役に立ちませんでしたが、演劇に参加して、自分の体全体で感情を感じたり、表現したりすることは、彼が体の心から、つまり内臓から生き生きとした内部感覚を感じる助けになりました。

その結果、内臓に染み付いていた「からだの記憶」、すなわち学校は危険で逃げられず、自分はどこにいても無力だという恐怖が、演劇という場で感じた生き生きとした喜びに上書きされたのでしょう。

解離また無感覚状態とは、こころがからだから切り離された状態、シャットダウンされた状態です。本来こころとからだは一体のものなのに、別々の異質なもの同士に感じられます。

解離状態では、自分のからだは自分のものではないかのように、エネルギーが枯渇し、朽ち果てたボロボロの亡き骸のように感じられます。生きて存在しているという実感が消え失せます。

解離によってこころとからだが切り離されると、たとえこころは危機を乗り越えたとしても、からだはまだ危機のただなかに取り残されます。

それはちょうど、遠くの島に取り残された残留兵のようなものです。戦争が終わったのに、本国と連絡を断たれているがゆえにそのことに気づけません。

本国であるこころがすでにトラウマ後の世界を生きていても、そこから切り離された残留兵であるからだはいまだに戦争の真っ最中にいます。

からだはこころとつながりを断たれているがゆえに、すでに危機が去ったこと、不動状態から息を吹き返してもよいということに気づけず、「闘争・逃走」反応や不動状態に陥ったまま、生きた世界に帰還できないでいるのです。

ですから、解離状態から戻ってくる、不動状態から抜け出すというのは、自分のからだに、生きている実感に気づいてもらうということです。内臓、そしてからだ全体で感覚を味わえるようになれば、おのずと生き生きとしたエネルギーも感じられるようになるはずです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。

「自分が生きているってどうやってわかる?」と尋ねられると、ほとんどの人は、「ええと、それは……」と考えはじめる。

だが、それでは答えることはできない。自分が生きていることを知るには、私たちの深いところにある、身体感覚に埋め込まれた生き生きとした身体的な現実を、直接的な経験を通じて感じる能力を使わなければならない。(p340)

生きていることを知るには、こころで考えるのではなくからだで味わわねばなりません。

「結局のところ、動物の端くれにすぎないのである」

この記事で見てきたように、わたしたちのこころとからだは決して別々に存在してはいません。内臓と手足と脳は、一体となって機能しています。そして内臓や手足や脳をコントロールしているのは、動物に備わる生物学的なシステムでした。

ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、解離とは何かを総括するにあたり、ひとつの重要な真理をわたしたちに伝えています。

したがって、私たちは結局のところ、動物の端くれにすぎないのである。ただ本能的で、感情的で、論理的なだけである。

終わりに、この章の幕開けを告げたマッシモ・ピグリウッチの引用を繰り返しておく。それがすべてを簡潔に要約してくれそうだからである。

「私たちは特別な動物なのかもしれない。私たちはとても特別な特徴を持った特殊な動物なのかもしれない。

しかしそれでも私たちは動物なのである」(p295)

この言葉を念頭に置くと、この記事で考えてきた解離とは何か、不登校とは何かの本質が見えてきます。

自然界に生きる動物は、内臓と手足とこころを別々に働かせたりはしません。それぞれをつかさどる3つの自律神経は、互いに協調して生物のからだ全体をコントロールします。

しかし、今の世の中では、からだ全体ではなくこころだけで楽しむような娯楽、経験があふれています。

わたしたちはしばしば、テレビの前に座って美しい景色やおいしい料理の映像を見ます。しかし自然界の生き物がそんな経験をすることはありえません。視覚が美しい景色や食事を見るとき、手足も内臓も共にそれを味わいます。

わたしたちはしばしば、座ったままや、棒立ち状態で歌詞を見ながら歌います。しかし自然界の生き物は、ただ鳴き声を上げて歌うだけでなく、全身で情熱的に表現し、ダンスします。

わたしたちはまた、映画館で席に座ったままスリリングな世界を味わい、ゲームの仮想世界で冒険します。しかし自然界では、何かに襲われたとき、座席にじっと座っているようなことはなく、内臓で恐怖を感じながら、手足を全力で動かして反応します。

現代社会の人たちは、機械的な設備でウェイトトレーニングします。しかし自然界の生き物がダンベルで身体を鍛えるでしょうか。いいえ、からだだけを切り離して鍛えるのではなく、全身でサバイバルするうちに必要な筋肉はしぜんと身につくものです。

映像機器が普及した今日、ある人たちは、現実の異性ではなくポルノで欲望を満たします。しかし自然界において、愛とは目だけで満たされるものではなく、全身で、手足や内臓も一体となって体感するものです。

こうした現代社会の娯楽や体験はすべて、何かを味わった「ふりをする」だけです。からだ全体で、生きている感覚を味わうには程遠いものです。

ピーター・ラヴィーンは、このような本来、生物がからだ全体で体験するはずの活動を、部分的に切り離して体験してしまっていることが、こころとからだの解離を生んでいるといいます。(p334-340)

本来、手足や内臓も一体となって味わうべき活動を、脳だけで経験するとしたら、それは、手足や内臓を抑制し、解離させていることになります。

スリリングな映像を見ながら、全身で逃げるでもなくじっとしていることは、危機に面したとき手足を使って闘ったり逃げたりするPTSD的な反応ではなく、じっと凍りついて対処する解離的な反応をトレーニングしているようなものです。

戦時下や高度経済成長期にはPTSDや境界性パーソナリティ障害が多かったのに対し、ネット社会やバーチャル体験が一般的になった現代社会では解離的な傾向を持つ人が増えているのは、決して偶然ではありません。

ラヴィーンの考えによればまた、やはり増加しつつある男性のポルノ中毒と女性の摂食障害(もちろん性別が異なっても発症しうる)は、「同じコインの両側」です。どちらも、からだをこころから切り離したモノのように扱います。(p338)

ポルノを見る男性は、女性のからだをこころから切り離したモノのように扱っています。ノーマン・ドイジの脳は奇跡を起こすによれば、異性を求める欲求をからだから切り離し、からだの伴わない見た目だけで性欲を満たすようになった結果、本来の性行動からからだが切り離されて反応しない性機能障害が生じます。(p127)

他方、摂食障害の女性は、自分のからだを、こころから切り離したモノのように扱います。見た目の体型の美しさだけを重視するマスメディアに影響されて、こころの伴わないからだの外見だけに異常に固執した状態が強迫的な拒食症です。

拒食症が実体としてのからだと、脳が作り出す身体イメージの解離であり、解離性障害のメカニズムと関係していることは以前の記事でも扱いました。

これらはいずれも、本来はからだ全体で表現し、味わうものであるはずの性を、一部だけ切り離して体験することで、こころとからだの解離が生じているという共通点があります。

それをずっと極端にしたものが、本来愛情を全身で表現し、内臓と手足とこころが一体となって感じるはずの性行為を、手足を拘束された状態で強制させられる性的虐待だといえます。

性的虐待で解離が起こるのは、生き物が本来、内臓と手足と感情すべて一体となって行なうはずの行為を、手足や心を切り離されて、内臓だけで体験させられるからです。

当然ながら、もし内臓と手足と心すべてが一体となって性行為を体験できれば、解離は生じませんし、逆に自分が生きているという喜びを最大限に味わえます。自然界の生き物すべてがそうであるように。

からだを切り離すオーバートレーニング症候群

機械的なスポーツジムによる身体のトレーニングも、ラヴィーンに言わせれば、まったく生き物らしくないいびつな行為です。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこうあります。

ここにくる人たちはあたかも少し立ち寄って服をクリーニングに出すかのようにからだを預け、マシンでエクササイズ済みのからだを引き取っていくかのようだ。(p338)

本来はこころもからだも一つの魂として結びついている生き物全体から、からだだけを切り離して鍛えようとするトレーニングは自然界ではありえません。それはこころとからだが解離した人間特有の異質な活動です。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法などの本でしばしば、極端なウェイトトレーニングに励む男性たちの中に、幼少期の辛い経験によってこころとからだが解離してしまっている人がいると言われているのも不思議ではありません。

たとえば第11章で取り上げた、小児性愛の聖職者に虐待された男性たちを思い出してほしい。

彼らはジム通いをし、筋肉増強剤を飲み、雄牛のように強靭だった。それにもかかわらず、診察のときにはしばしばおびえた子供のように振る舞った。

心の奥底ではまだ無力だと感じている、傷ついた少年だったのだ。(p345)

脳神経学者オリヴァー・サックスは、混乱した子ども時代を過ごし、若い頃は極端なウェイトトレーニングや麻薬、自暴自棄な活動にはまりこんで危うく命を落としかけましたが、自分が身体を強迫的に鍛えた理由を道程:オリヴァー・サックス自伝でこう語っています。

なぜ、あんなにひたむきにウェイトリフティングに打ち込んだのだろうと、考えることがある。その動機はありがちなことだったと思う。

私はボディービルの広告に出てくるやせぽっちの弱虫ではなかったが、内気で、自信がなくて、臆病で、従順だった。

ウェイトリフティングで腕っぷしは強く―とても強く―なったが、性格にはなんの影響もなく、そちらはまったく変わらなかった。

…私たちはウェイトリフティングで壊れかけた互いの体を見あった。

「おれたち、なんてばかだったんだろう」とデイヴが言った。私はうなずいて同意した。(p158)

サックスは、内面のコンプレックスからからだを鍛えましたが、こころから切り離されたからだをいくら鍛えても内面は何ら変化しませんでした。こころから切り離され、モノのように機械的にトレーニングさせられたからだが悲鳴を上げて壊れかけただけでした。

こころから切り離された“女らしい”ほっそりしたからだのイメージに引きずられた肉体改造が拒食症だとすれば、こころから切り離された“男らしい”筋肉質なからだのイメージに影響された肉体改造がウェイトトレーニングであると言うこともできます。

三池先生はしばしば、不登校や小児型慢性疲労症候群の背景として、オーバートレーニング症候群(OTS)、つまり限界を越えて身体を鍛えすぎることを挙げています。

たとえば学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)ではこう書いています。

私たちの外来でも毎年20名程度の若者が明らかにオーバートレーニング症候群と診断されている。

オーバートレーニングからの脱出には、年余の時間が必要であり、希望に燃えた若者への負担はあまりにも大きく、なかには将来への希望をあきらめなければならない人もあり、一生の問題となる。(p75)

オーバートレーニング症候群で慢性疲労に閉じ込められるのは、単に中枢神経が疲労するからではありません。

それは、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで言うように、からだをこころから切り離して鍛え、からだが悲鳴を上げているにもかかわらず、こころがそれに気づけないほどからだを追い込んでしまうからです。

たくさんの人が筋肉隆々としたからだになろうとロボットのように並んでウェイト・トレーニングをしているが、その動作への内的な気づきはほとんどない。(p338)

度を越えたウェイトトレーニング、すなわちオーバートレーニングに励むには、からだから聞こえる悲鳴を無視し、抑制し、切り離さねばなりません。意志の力で、からだの感覚を抑制し、シャットダウンし、気づかないふりをしなければなりません。

そこで起きている病理は、性的虐待のとき、からだの痛みや苦痛を感じないようこころを切り離す解離や、交通事故のときに、からだの痛みに圧倒されないよう、こころを切り離す解離と同じです。

からだの声を遠ざけて、からだをモノのように酷使するうちに、次第にこころとからだのつながりは失われ、解離してしまいます。

オーバートレーニングとはとりもなおさず、からだの交感神経系が悲鳴を上げて危機を知らせているにもかかわらず、不動系によってそれを抑制し、麻痺させ、シャットダウンするトレーニングを積んでいるようなものです。

オーバートレーニング症候群による慢性疲労とは、性的虐待と同様、モノとして扱われたからだが、こころから、そして一人の生きた人間から切り離され、あたかも生きているのか死んでいるのかわからないゾンビのように、不動状態に閉じ込められたままになってしまう現象なのです。

オーバートレーニング症候群は慢性疲労症候群(CFS)とほぼ同義ー大久保嘉人選手や権田修一選手が発症
サッカーの大久保嘉人選手がオーバートレーニング症候群を克服したことが書かれています。

内的脱同調から回復する

そうであれば、こうした体験のみならず、学校という場所も、教育という名のもとに、こころとからだを切り離すトレーニングをしているようなものです。

学校の授業はじっと座って手足や内臓を抑制して、感情も切り離して思考だけで勉強するものであり、体育の時間は自由に楽しむこころを抑制して、からだだけを機械的に訓練するものです。

本来、自然界の生き物が体験する学習とは、こころとからだを同時に使って、からだで体験してこころで理解していくものなのに、現代の教育はそれらをバラバラに切り離し、解離させています。

三池先生はフクロウ症候群を克服する―不登校児の生体リズム障害 (健康ライブラリー)の中でオーバートレーニング症候群について触れた後でこう書いていました。

220といわれる世界の国のなかで、体育を教科としている国は10ていどといわれており、スポーツをレジャーとして楽しむものだという大多数の人々の考えとは明らかにちがった方向性をもたせたものが日本のスポーツなのです。

わるいことに、若者たちにとってスポーツは、自分で好きなことをだれにもいわれずに楽しむ「遊び」よりも、人にいわれてやる「仕事」になっているのです。(p134)

学校がサバンナのような生きる力あふれる世界ではなく、動物園の檻の中のような飼育場になっているのは、本来、内臓と手足とこころが一体となって、全身を使って行なうはずの活動を、無理やり一部だけ切り離して、一部だけ抑制して行なうよう求めているからです。

それに対して、ここまで見てきたような解離に役立つ治療法、たとえば、みんなで一緒になって歌うこと、楽器を演奏しリズムと一体になること、演劇の舞台でからだ全体で情動を表現すること、ダイビングや山登りで自然そのものを探検すること、ヨーガやマインドフルネスで感覚を味わい尽くすことなどは、からだ全体で生きている実感を味わう体験です。

三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で、日本の学校で不登校の慢性疲労状態になった子どもが、ニュージーランドに留学すると元気に活躍できた例を紹介しています。(p230)

また数年前のニュースでは、沖縄の自然のさなかに身を置くことが、不登校の子どもに効果があるとも述べていました。

「民泊に効果期待」 不登校研究の三池名誉教授 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

「生きる力が落ちている不登校の子どもたちに『自然』の力が大きく影響を及ぼすのではないか。

温暖な気候、豊かな自然、民泊体験で一般家庭に温かく迎えられて支えてもらえる人がいるなどの要素が、伊江島には詰まっている。生きる力を取り戻せる有効性がある場所になる」

それらは単なる転地療法ではなく、わが身ひとつで新たな環境に飛び込んでいくことが、ニックが演劇を通して味わったのと同じように、また野生の動物がサバンナで実感するのと同じように、からだに染み付いた無力感を上書きできるほど、生きる力を「全身でたっぷり経験する機会を与えて」くれるからなのでしょう。

ゾンビのような虚脱状態、エネルギーが枯渇した慢性疲労に陥ってしまった人が、生きているのか死んでいるのかわからない不動状態から帰ってくるためには、ひとり戦時下に取り残された敗残兵のような内臓そのものが「自分はいま、こころと一体となって生きているのだ」と心底実感できる機会が必要なのです。

他方、三池先生は、ニュージーランドでは元気になった子どもたちが、日本に帰国すると再び疲れはててしまうことも書いていました。からだに染み付いた「手続き記憶」は、すでに述べたとおり空間的な記憶であり、同じ場所に戻ってくると再度呼び覚まされます。

一度こころとからだが解離することを覚えると、それは条件反射として染み付いてしまうので、以前と同じような場面では、こころとからだが切り離され、たやすく解離してしまうのでしょう。

こうした例を考えてみても、やはり一度不登校や不動状態に陥ったなら、同じ場所に戻ろうとするより、新しい場所に全身で飛び込んで、生き生きとした可能性を探るほうがよいように感じます。

ただし、注意点をひとつ。これまで麻痺していたからだを、すぐさま生き生きとした感覚にさらすのは逆効果です。動物園で飼育された生き物を、すぐに野生に放しても生きていけないのと同じです。

ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、それを爆発の危険がある薬品を混ぜ合わせることにたとえています。(p102)

塩酸と苛性ソーダのような相反する薬品を中和したい場合、一気に混ぜると激しい爆発が起きます。安全に中和するには、一気に混ぜるのではなく、一滴ずつゆっくりと混ぜる必要があります。

解離してしまった こころとからだを一つに混ぜ合わせるときも、すぐに刺激に圧倒されてしまう過敏状態にあるので、いきなり強い刺激にさらそうものなら、再トラウマ体験を引き起こして不動状態が強化されるだけです。

刺激が強くなりすぎないよう段階的に調節(タイトレーション)して、振り子のように行ったり来たり(ペンデュレーション)させつつつ、生き生きとした感覚を味わっていくことが勧められています。

それは言い換えれば、からだの中でバラバラに動くようになってしまっていた内臓、手足、こころを同調させることです。あるいは、本来の自然界のあるべき形、内臓と手足とこころが一体となって味わうという生き物の本来の姿に同調することです。

三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で述べているように、睡眠障害の研究を通して、不登校とはすなわち内的な脱同調、つまり生体リズム障害であり、不登校の治療は、からだのさまざまな機能のリズムを同調させることだと結論しました。

私は、日本の若者たちの疲労が社会の存続を脅かすほどに顕在化しており、不登校状態に陥った若者たちの多くが慢性疲労症候群の診断基準を満たしていることを報告し、その背景に「生体時計(リズム)」の脱同調、すなわち生活リズムの歯車の狂い、が存在することを明らかにした(p35)

それはまさしく真実でした。

より正確に言えば、不登校は、睡眠のみならず、もっと広範囲にわたり、生き物としての人体が脱同調を起こした状態です。

解離とはすなわち、本来ひとつになって働く生物の内臓や自律神経からなるからだ、そしてこころのリズムがバラバラに切り離された状態、内的な脱同調であり、自然からの脱同調なのです。

そして解離の治療とは、内部でバラバラに切り離されてしまった、内臓、手足、こころを統合して、それぞれをつかさどる自律神経のリズムを同調させ、ひとつの生き物、自然界から切り離された人間ではなく、自然界の一部として生きる「動物の端くれ」に戻すということなのです。

当事者でありながら他人事のように

この記事のはじめのほうで引用した、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の、不登校はPTSDであるとする文章を覚えているでしょうか。

肉体的な疲労は回復し精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。

これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。(p67)

文脈では、地下鉄サリン事件のPTSDと比較されていましたが、わたしは、不登校は慢性疲労や過眠といったPTSDとは正反対の症状を見せると書きました。

ここまで読んでくださった方なら、なぜ不登校や小児型慢性疲労症候群が、ある点ではPTSDと似ているのに、全体としては正反対の性質を持っているのか、理解していただけたと思います。

PTSDになるか、不動状態になるか、それにはさまざまな要因がからんでいますが、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの次の説明は理解しやすいでしょう。

強いトラウマを受け、慢性的にネグレクトまたは虐待された人は不動およびシャットダウン・システムによって支配されている。

一方、急性のトラウマを受けた(最近の一度だけの出来事によることが多く、繰り返すトラウマ、ネグレクト、虐待歴がない)人は、通常、交感神経系の闘争か逃走かというシステムに支配されている。

急性トラウマを受けた人はフラッシュバックと動悸に苦しむことが多いが、慢性トラウマのある人は心拍数に変化なく、むしろ減少している場合もある。

こういった人々は、もうろう感、非現実感、離人症などの解離症状や、さまざまな身体的および健康上の問題に悩むことが多い。

身体症状には、胃腸症状、片頭痛、ある種の喘息、慢性疼痛、慢性疲労、人生生活への一般的な関心の低下などがある。(p124)

おおまかに言って、単回性の、一回限りの劇的なトラウマは、PTSDを発症させやすい体験です。地下鉄サリン事件の被害者がPTSDになってしまったのはそのためです。「闘争か逃走か」のシステムに支配され、過覚醒やフラッシュバックに悩まされます。

そりに対して、頻回の、慢性的なトラウマは、解離症状や不動状態をもたらします。慢性的である、ということは言い換えれば闘争も逃走もできない状況だからです。

このタイプのトラウマは、あまりに慢性的すぎて、あまりに日常的すぎて、本人もトラウマだと認識していないことさえあります。

正直言ってわたしも、三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)などを読むまで、自分が通っていた学校が異常な環境だと気づいていませんでした。

わたしは朝4時まで予習して、朝刊がポストに入る音とともに寝て、遅刻しそうになりながら駅まで走って満員電車に乗って、授業では緊張した空間でディベートして…という日々を送っていたのですが、それが普通だと思いこんでいました。

客観的に見れば、あるいは大人の視点から見れば、極めて異常なことだとしても、世の中の常識に疎く、自分が生まれ育った家庭や通ってきた学校しか知らない子どもにとっては、何もかもが普通に見えてしまうものです。

いい学校に送りこむことが唯一無二の価値観であるかのごとく親子を洗脳し、朝早くから夜遅くまで勉強を詰めこみ、そのシステムのなかで命を削り、疲れはてて脱落せざるを得ない生徒たちを量産しているという罪の意識もなく、逆に彼らを怠け者扱いする大人たちに教育者などと名乗る資格はないのである。(p223)

わたしは今、自分の経験に照らして、これが過激な物言いだとか、誇張だとかはまったく思いません。事実通りです。それをこの目で見てきました。

わたしは解離的な気質なので、それが良いのか悪いのかはともかく、学校での嫌なことをほとんど覚えていません。ただ、ものすごくしんどかったことは覚えていますし、時々夢に見ます。それが「からだの記憶」として残っている慢性疲労なのでしょう。

わたしは不登校になる直前ごろから頻繁な睡眠麻痺(いわゆる金縛り)に悩まされるようになりました。今でも体調が悪いときは頻繁に金縛りになります。

以前の記事で紹介したように、なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?によると、極端な睡眠不足状態を続けた子どもにはナルコレプシーの兆候が見られるとされていて、それと同様のものかもしれません。(p146)

時間生物学によると若者の夜ふかしはゲームやスマホのせいではない―海外の画期的な取り組みとは?
「なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?」という本の書評です。若者の夜ふかしは、スマホなどの環境によるものではなく生物学的なものであり、学校の始業時間は遅くすべきだとい

健康な人にたまに生じる睡眠麻痺はごく普通の生理現象ですが、ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで言うように、不動系と関係している場合があります。

この正常な「睡眠麻痺」中の覚醒は、不動状態によく見られる自己のからだからの離脱を体験していると、とくに恐ろしいと感じられることがある。(p107)

睡眠麻痺とは、レム睡眠で骨格筋が脱力している最中に目覚めてしまう現象ですが、おそらくは不動状態における4つ目のF、破綻(麻痺)のさなかに意識が部分的に戻る現象と関連性があります。

ラヴィーンが述べているように、脅威に襲われて不動系が作動したとき、 身体が麻痺して動けなくなると同時に、体外離脱したかのようになる場合があります。

先に触れたとおり、ラヴィーンは交通事故の際に、ヴァン・デア・コークは強盗に襲われた際に、両者ともこれを経験しています。

以前の記事でメカニズムを解説しましたが、これは解離性障害でも頻繁に見られる症状で、感覚遮断により身体から意識が切り離されることと関係しています。

鏡が怖い,映っているのが自分とは思えない―解離性障害は「脳の地図」の喪失だった
わたしたちの脳は「バーチャルボディー」と呼ばれる内なる地図を作り出しているという脳科学の発見から、解離性障害、幻肢痛、拒食症、慢性疼痛、体外離脱などの奇妙な症状を「身体イメージ障害

またヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べるように、トラウマ障害の人は、レム睡眠に入るとすぐに目覚めてしまう傾向があるようです。

本来レム睡眠は記憶を処理するものですが、その際に処理できない「トラウマの断片を活性化してしま」うと、処理がフリーズして、「凍りついた連想の中に閉じ込められて」しまい、レム睡眠中にもかかわらず処理が中断して目覚めてしまうようです。(p430-431)

とすると、わたしがあまりに頻繁に睡眠麻痺に陥るのは、レム睡眠中に「トラウマの断片」、つまり「からだの記憶」の処理に失敗して目覚めてしまうことにあるのではないかと思います。それは睡眠麻痺であると同時に不動系の麻痺の再演でもあります。

わたしの場合に問題となったのはどちらかというと身体症状が中心でしたが、わたしの幼なじみのアスペルガー症候群の子の場合は、そうではありませんでした。

この人は完全に学校社会によるPTSDになってしまって、アスペルガー症候群ならではの細部にわたる記憶力のせいか、自分が先生や同級生から受けた仕打ちを事細かに記憶しています。

その子の場合、なぜわたしと違ってPTSD傾向が強く出ているのかはわかりませんが、わたしとは学校で経験した苦痛が異なっていたようです。

わたしの場合はいじめなどの単発的なトラウマはありませんでしたが、過剰同調性のせいで、一分一秒たりとも気の休まる時間がありませんでした

反対にその子は発達障害ゆえにショックを感じる突発的な経験が多かったものの、過剰同調性のようなものはなく、学校も不登校にならずに卒業しています。

また、わたしが幼少期からの恐れ・回避型の愛着なのに対し、その子はとらわれ型の愛着スタイルであることも関係しているようです。

その人を見ていると、学校社会で同じように強烈なストレスを経験したとき、交感神経系で対処する人と不動系で対処する人の違いがよくわかります。

交感神経系の過覚醒による「闘争・逃走」反応の段階で閉じ込められてしまったのがその人であり、うつやフラッシュバックや強迫症状、感覚過敏など、ありとあらゆるPTSD症状(一言でくくると強迫性スペクトラム障害とも言われる)に見舞われています。

冷静に考えることがほぼ不可能で、常にあちらこちらに揺れ動いてまわりに翻弄されています。いまだ学校社会というトラが目の前にいて、闘うか逃げるかの瞬間に閉じ込められています。しかし慢性疲労やエネルギーの枯渇は生じていません。

他方のわたしは、発症当初は繰り返す悪夢などPTSDに似た症状がありましたが、次第に麻痺してしまい、ただ身体の不動状態と慢性疲労に閉じ込められました。

嫌な思い出も、辛い記憶も、まるではじめから無かったかのように忘却されています。思い出そうにも手が届きません。だから、恐怖や不安からは解放されていて冷静に考えることができます。その代わり、身体の凍りつきとエネルギーの枯渇はそのままです。

ちょうど、のどもとにトラの牙をつきつけられた人が不動状態になり、身体感覚が麻痺し、体外離脱して他人事のように自分を見つめているように、わたしは遠くから自分を観察して気づいたことをこのブログに客観的に書いてきました。

だから、このブログは、当事者研究でありながら、他人事なのです。今回の記事では、珍しく自分の経験と向き合ってみましたが、やはり遠くから眺めているような書き方になってしまいました。

けれども、ずっと考えてきた話題、慢性疲労と解離という一見相異なる二つの分野をつなぐ記事をこうして書けたことを嬉しく思っています。まわりまわってやっと帰ってくることができました。

長い道のりのおわり、そして新たな入り口

この記事では、不登校の慢性疲労状態を中心に考えてきましたが、ここで考えた生物学的メカニズムは、他の近縁の問題、たとえば女性のASDやHSPや、新型うつや、解離性障害、回避性パーソナリティ障害などの慢性疲労とも深く関係しているはずです。

慢性疲労の原因がすべて不動系によって説明できるとは思っていませんが、解離的反応と慢性疲労とが共存する場合には、不動系が関与しているのは間違いないでしょう。

不登校の60%が典型的なCCFS、31%が非定型的なCCFS、9%がCCFS類似疾患である、という三池先生の主張は、しばしば極端に思われがちですが、この記事で見たとおり、過労、いじめ、オーバートレーニングといったほとんどの不登校に解離と不動系が関係していることからすれば事実に即しています。

同じ解離が関係しているのに、人によって症状の出方にいくぶん差異があるのは、解離という反応が過剰な感覚刺激への対処反応だからでしょう。トラウマとなった経験の内容、種類、時期によって、それに対応する解離の現れ方もいくらか変わってくるということです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアがこう述べるとおりです。

解離にはさまざまな様式があり、そこにはトラウマ後に生じる一連の心理的断片化や身体症状なども含まれる。(p255)

解離は、時代や文化によって、カメレオンのように症状を変えるという特徴があります。その現れのひとつが、文化結合症候群(文化依存症候群)と呼ばれる、特定の文化にだけ見られる奇妙な症状です。

文化が異なればストレスの原因も変わります。ストレスの原因が異なれば、そのストレスに対応して生じる防衛機制である解離の現れ方も変わります。文化というハコの形が違えば、ハコの中にストレスを閉じ込めておくために必要な解離というフタの形も変わります。

不登校や小児型慢性疲労症候群は、解離の伴う文化結合症候群の一種とみなすことができます。なぜなら、学校という奇妙な文化なくしては、不登校は存在しないからです。

不登校とは、学校社会が一般的になった、わたしたちの時代、わたしたちの文化に特有の文化結合症候群であり、自然界に生きる生物としての有り様から外れたその特殊なストレスに対応する解離症状が、小児型慢性疲労症候群なのです。

(解離にはさまざまな現れ方がある、という点は記事末尾の補足3でも扱います)

今回おもに紹介した本のうち、三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)は、不登校や小児型慢性疲労症候群の当事者の方には、間違いなくおすすめできる一冊です。この本がなければこのブログはありませんでした。

この記事で確かめてきたとおり、三池先生による不登校や小児型慢性疲労症候群の分析は極めて的確かつ事実に即していて、医師としての飽くなき情熱、科学者としての確かな観察眼、研究者としての深い洞察、世の中の常識に挑戦する勇気とが見事に融合した名著です。

不動系について説明するにあたり参考にした身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアは、予備知識がないと読みにくい本ですが、多くの発見が得られるすばらしい本でした。

友人ベッセル・ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するに比べるととっつきにくく、あまり注目されていませんが、どちらが優れているとも甲乙つけがたい、両方読んではじめて解離を多角的に理解できる相補的な内容です。

もし読んでみようと思う人がいた場合、この記事とともに読み進めることで理解しやすくなればと思っています。

わたしの当事者研究はまだ終わっていませんし、自分自身がまだ不動系から抜け出せておらず、やっと状況が見えてきた段階にすぎません。

長い道のりを経て、いまやっと、自分のからだに起こったことの意味を探り出せました。わたしに必要なのは、分かたれたこころとからだを一つに統合し、内なる脱同調を同期させることだと、やっと理解できました。

この記事で考察したことが、未来のわたしにとって、またわたしと同じような状況に置かれている人にとって、次の段階に進むためのステップになることを祈っています。

▼補足
この記事で考察した点の補足です。

成人型の慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象
解離は引き込み・共鳴現象と関わるリズム障害かもしれない
解離をさまざまなレベルで生じるフラクタル現象として考える

▼おもな参考書籍
この考察の土台となったおもな書籍の一覧

不登校と小児型慢性疲労症候群の特徴。

小児型慢性疲労症候群のリズム障害の医学的情報。

解離と不動状態の生物学的メカニズム。

トラウマを身体的反応とみなす根拠。

解離の脳科学的な考察。

解離傾向の強い人たちの性格特性

トラウマが手続き記憶として再演されること。

成人型の慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象

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の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の1つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

本文では、小児型の慢性疲労症候群に焦点を当てて扱いました。では、成人型の慢性疲労症候群はどうなのでしょうか。

子どもであれ、大人であれ、同じ慢性疲労症候群だ、とみなす人もいますが、わたしはそうは思いません。

根拠のひとつは、今回扱った本が述べているように、たとえばトラウマ障害の場合、子ども時代に発症した場合と、大人になってから発症した場合とでは、表に出てくる症状が異なるからです。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

特に、本文で扱っている解離や不動状態は、生まれつきの感覚過敏性や、幼少期の愛着の安定性が大きく関わっています。

おそらく、若くして、まだ元気なはずの子ども時代、学生時代に慢性疲労状態になってしまう人は、発達障害であれ、HSPであれ、無秩序型愛着であれ、ある程度そうなってしかるべき要素を持っているのではないかと思います。

そうであれば、少なくとも学生時代には不登校に追い込まれるほどの体調不良を発症するに至らず、学校社会を乗り切って成人することができ、大人になってから別の要因で慢性疲労症候群になった人とは、生来の性質が違うのではないかと思います。

成人型の慢性疲労症候群の文化

わたしはもともと小児型の慢性疲労症候群も、成人型の慢性疲労症候群も、ほとんど同じものだろうと考えていました。このブログの初期の記事はそうした書き方をしていたものと思います。

しかし成人型の慢性疲労症候群の人たちと現実で知り合ったり、ネット上でその人たちのコミュニティのぞいたりするうち、どうにも違和感を感じるようになり、基本的にはまったく別の文化ではないかと思い始めました。

不可解に思ったことのひとつは、成人型の当事者の全員ではないものの、それなりの数の人たちが、何らかのこころの問題が併存しているのではないか、と指摘されることに強硬とも思える拒否感を示すことです。

慢性疲労症候群は、本当は体が辛いのに、こころの問題ではないか、と医者に言われることが多く、そのせいで精神科疾患に対して拒否的になってしまうのはわかります。わたし自身がそうだったからです。

しかしわたしの場合、無責任に心の問題という言葉が使われるのが嫌だっただけで、最初からこのブログの記事では、慢性疲労症候群は心の問題と体の問題が複雑に絡み合っているものとして扱ってきました。

わたしはウイルスだけが原因だと考えるのは望ましくないと思っています。その2番目の理由をお書きしましょう。

不登校や小児型の慢性疲労症候群の子どもたちを見ても、心の問題を指摘されることにそれほどまでの拒否感はないように思います。そうでなければ、不登校がこれほど精神科的な問題として扱われることはないでしょう。

他方、成人型の慢性疲労症候群の人たちにしばしば見られる、精神科疾患への拒否感は、単にこころの問題と言われて傷ついたから、という言い方で説明できるレベルを越えているように思います。

「病は気から」を科学するには、ランセットに載せられた医師ピーター・ホワイトによる、認知行動療法(CBT)と段階的運動療法の研究に対するイギリス患者団体の激しい反発という、わりと有名なエピソードが載せられています。

ところが、患者グループはその研究結果を歓迎するどころか、反感を抱いた。「イギリス内外のほとんどすべての患者支援団体が、試験を失敗として受け止めた」とホワイトが言う。

こういった団体はCBTのような「心理学的」な治療がCFSの患者に有効だという考えにかなり懐疑的で、段階的運動療法のような活動目標は非常に危険だと考えていた。

彼らの主張は、「CFSは治療法のわからない純粋な体の病気だから、ホワイトの治療法のどれかが効いた人はこの病気ではない」というものだった。(p125)

イギリスでは、慢性疲労症候群を精神的な問題と関連づけると、一部の攻撃的な患者によって医師の身に危険が及ぶという話までありました。

それは極端な例であるにしても、「イギリス内外のほとんどすべての患者支援団体が、試験を失敗として受け止めた」という事実だけでも不可思議です。

こうした精神科疾患に対する拒否感は、海外の遠い世界の話ではなくて、ここ日本でもしばしば見られます。たとえば慢性疲労症候群には、何かしらの精神的な問題が絡んでいるはずはなく、ウイルス感染その他の身体的な、器質的な疾患である、という信念を持っている人もいます。

事実は、ピーター・ホワイトが述べるとおりであるとわたしは思っています。

その分け方にホワイトは異議を唱える。当然ながら心と体は相互にやり取りし、反映し合っている。

「心理的なものは身体的なものであり、身体的なものは体に対する心理的な感覚だ」。

…たとえば、CBTにより脳に測定できる増大が起こること、コルチゾールなどストレスホルモンの濃度が影響を受けることが、いくつかの研究で明らかになっている。

考え方を大きく変えれば、CFSの患者は、自分の病気は身体的要因と心理的要因が絡み合ったものだと受け入れられるようになるかもしれないと、彼は非難を恐れることなく主張する。

CFSは、体の病気でも、心の病気でもない。その両方なのだ。(p128)

人の体は心身相関の上に成り立っているゆえに、慢性疲労症候群は、心と体の複雑な相互作用によって発症する病気であり、身体的なアプローチも精神的なアプローチも両方役に立つ、とわたしも考えています。

身体的なアプローチであれ、心理的なアプローチであれ、回復する見込みがあるなら何でもやってみたらいいのではないでしょうか。たとえもし本当にウイルス性であったとしても、がん患者がそうするように、心理的なアプローチは役立つはずです。

それなのに、成人型の慢性疲労症候群の文化では、「CFSは治療法のわからない純粋な体の病気だから、ホワイトの治療法のどれかが効いた人はこの病気ではない」とみなされます。

彼らにとっては回復するかどうかより、精神的な疾患ではないと証明されることのほうが重要なのだとしか思えません。

昨今の病名変更問題についてもそうで、わたしは慢性疲労症候群でも、全身性労作不耐疾患でも、いっそうつ病でも、治療や福祉につながればそれでいいと思うのですが(皮肉なことに慢性疲労症候群よりもうつ病などの精神科的な病名のほうが福祉の支援を受けやすいはずです)、ある人たちは「身体的な病気」だとはっきりわかる病名を望みます。

失感情症と回避型愛着スタイル

このあまりに奇妙に思える考え方は、ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれている「失感情症」について知れば、納得がいきます。

失感情症の人は情動の言語に代えて行動の言語を使う。

…彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてできなく、身体的問題として認識する傾向にある。

腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)

「失感情症」とは、解離のうち感情だけが切り離された状態をいいます。

この記事で見た慢性的な不動状態は、記憶や人格を切り離すような解離と関係していて、自分の体の外に出てしまうことを意味していました。

「失感情症」はそれよりも一段上にある軽い解離であり、自分自分を切り離すでもなく、ただ感情を切り離すことで対処します。

「失感情症」は、子ども時代に厳しく育てられた人、甘えを許されなかった人、ネグレクトされた人などに多い、「回避型」と呼ばれる愛着スタイルによく見られます。

きっと克服できる「回避型愛着スタイル」― 絆が希薄で人生に冷めている人たち
現代社会の人々に増えている「回避型愛着スタイル」とは何でしょうか。どんな特徴があるのでしょうか。どうやって克服するのでしょうか。岡田尊司先生の新刊、「回避性愛着障害 絆が稀薄な人た

続 解離性障害―脳と身体からみたメカニズムと治療でも、解離性障害を診ている奥田ちえ先生がそれと一致した意見を述べています。

日本に戻る前の何年かは、behavioral medicine specialistとして、身体表現性障害の患者さんで慢性的なうつや機能障害を持つ患者さんを診るようになりました。

これらの患者さんのセラピーをしていると、相当な数の人に過去のトラウマの話が浮かび上がり、機能低下がトラウマに関係している印象を受けました。

特に、私からみると幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人などは、1つの典型的なタイプと思われました。(p205)

「幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人」。それこそ失感情症に陥る、回避型の愛着の人たちの特徴です。

回避型の人たちは弱音を吐くことができなかったため、本当はだれかに頼りたい、優しくしてもらいたい、といった気持ちを解離させ、自分にも他人にも厳しく振る舞い、こだわりが強く完璧主義になりがちです。

ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、そのようなある男性についてこう書かれています。

ピーターはさらにメディカルスクール時代のローテーションで精神科を受診して、精神科医は今なお魔術まがいのことをやっていると確信し、夫婦療法を一度試してみて、この見方は一段と強まったと語った。

彼は自分の問題を親や社会のせいにする人々に対する軽蔑をあらわにした。

ピーター自身も、子供のころにそれなりの苦難を味わってきたが、自分を犠牲者とは考えまいと心に決めていた。(p486)

失感情症の人たちは、自分は甘えずに強く生きてきたという自負があり、そう簡単に不平を言ったり、弱音をはいたりしない心が強い人間だという自信を持っています。そのため、「こころの問題」があるなどと言われると、プライドを傷つけられたと感じます。

今回紹介した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきを担当しているガボール・マテも、別の著書で、こうした人たちが慢性疲労などの身体疾患に陥りやすいと述べていました。

病気の人が習慣にしがちな偽りのポジティブ思考とは何か
病気の人はポジティブシンキングを身につけるようよくアドバイスされます。しかし意外にも、ポジティブに見える人ほど病気が重いというデータもあるのです。「身体が「ノー」と言うとき―抑圧さ

たいていの人は多かれ少なかれ、さまざまな心理的ストレスを日々味わうので、たとえ身体的な病気でも、心理的な要因があると言われれば、そうかもしれない、と思ってしまうものです。

不登校と関わりが深いと思われる「恐れ・回避型」の人たちも失感情症にはなりますが、純粋な「回避型」の人たちより感情的な不安や過敏性が強いので、感情のみを器用に切り離すことはできず、もっと強い解離、たとえば自分が自分でないように思える離人症などを経験します。

感情を認識している人なら、体調が悪くなったとき、身体的な原因だけでなく、感情的な原因も結び合わせるものです。

それなのに、まったく心の問題ではない、絶対に身体的な病気だ、と言い切ることができてしまうのは、感情的なきっかけがひとつも思いつかない、つまり、普通の人が日々の生活で自然に感じているであろう心理的ストレスが解離されていて意識から覆い隠されているのだとしか説明がつきません。

そもそも、自分は失感情症である、ということも気づいていないでしょう。感情が満ち溢れる状態を、子どものころから経験したことがないからです。

失感情症の人も、自分は怒りや悲しみや、そのほかの情動を普通に感じていると思っています。しかしそれは、本当に生き生きとした感情を感じている人に比べたら、ほんとのわずかしか感じていません。

わたしは、自分が人の顔があまり覚えられない相貌失認だとなかなか気づけませんでした。わからないなりに髪型や服装などの手がかりから判断していて、他の人もそうしているのだと思っていたからです。失感情症の人も、そのようなものです。

盲視と失感情症の類似点

失感情症の人の状態は、盲視と呼ばれる解離現象とよく似ています。盲視の人は自分は目が見えないと信じていますが、障害物を避けたり、質問されたものを適切に指差したりできます。

オリヴァー・サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でこんな例を紹介しています。

同様に、脳の一次視覚野への重大な損傷による完全な皮質盲の患者は、何も見えないと主張するが、不思議なことに、自分の前にあるものを「当てる」こともある―いわゆる盲視だ。

このようなケースでは、知覚と知覚上のカテゴリー化は保持されているが、高次の意識とは切り離されているのだ。(p444)

これは嘘をついているわけではなく、目という感覚器官は正常に働いているのに、それが意識から解離されているのです。からだはしっかり見ているのに、こころは見えていない、見えていることを認識できない状態にあります。

失感情症の人も、感情はしっかり存在しているのに、感情が意識から解離されています。からだは感情を認識しているのに、こころは感情を認識できず、気づくことができません。

そうすると、盲視の人が自分では見えていないと言いながら、からだは視覚刺激に反応していたように、失感情症の人も自分では心理的ストレスはないと言いながら、からだは心理的ストレスに反応して、ときには慢性疲労に陥ります。

失感情症とは、心理的ストレスを“見る”ことが意識から解離されている、盲視と同じカテゴリの解離現象であるといえます。

盲視の人たちは、実際には見えているはずだ、と指摘すると怒ります。本人にとって見えていないのは事実なので、言い分を信じてもらえず、詐病と思われている気になるからです。

失感情症の人たちは、心の問題がからだに出ていると指摘すると怒ります。本人にとってはこころの問題が存在しないのは事実なので、やはり言い分を信じてもらえず、詐病扱いされている気になるからです。

意識から解離されている物事は、本人にとっては正真正銘存在していないように感じられるので、たとえからだに影響が現れるとしても、やすやすと信じることはできないのです。

「バラムとロバ」現象

サックスは道程:オリヴァー・サックス自伝でも別の類似した解離現象も挙げています。

神経の損傷のあとに、記憶と意識の解離が起こり、潜在的な知識または記憶だけが残ることがある。

そのため、私の患者で健忘症の船乗りのジミーは、ケネディー暗殺の顕在記憶はなく、20世紀に暗殺された大統領はいたかと訊くと、「いいえ、知りません」と言う。

しかし「それならもしもの話として、あなたの知らないところで大統領暗殺が起きていたとしたら、どこで起こったと思いますか、ニューヨーク、シカゴ、ダラス、ニューオーリンズ、それともサンフランシスコ?」と訊くと、彼は必ずダラスだと「当てる」。(p443)

この場合の解離は、知識の解離でした。この人は記憶喪失で意識の上では過去の歴史を知りませんでした。しかし、この人の無意識はそれを覚えていました。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、解離とは、次のような状態のことをいいます。

解離とは、知っていると同時に知らずにいることを意味する。(p200)

解離とは、「知っていると同時に知らずにいること」、つまり、からだは自分自分が体験してきたストレスやトラウマの存在を知っていて反応しているのに、意識はそれを知らずにいて存在が見えていないことを言います。

ちょうどそれは、古代ユダヤ人の物語「バラムとロバ」のようなものです。道に剣を持った天使が立っているのを見たロバは恐怖を感じてうずくまりました。しかしロバに乗っていたバラムは天使が見えていなかったので、ロバが怠けていると思って打ち叩きました。

失感情症の人のからだは、剣を持っている心理ストレスやトラウマが“見えている”ので、それに反応して、さまざまな身体症状を示します。しかしその人のこころには何も“見えていない”ので、なぜからだがうずくまっているか原因不明になってしまいます。

失感情症の人にとって、こころの問題を指摘する精神科医は、何もない空間を指指して、「ここにいる剣を持った天使のせいで、あなたのからだは怖がって慢性疲労や慢性疼痛を抱えているのですよ」などと言っているようなものです。

失感情症や盲視といった解離のまやかしについて知らなければ、どう考えてもその精神科医がペテン師だとしか思えないでしょう。

当然ながら、そのような人は、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にあるように、心理的なストレスがからだにどんな影響を及ぼすかを学んだり、精神科のセラピーを受けたりすることはまずありません。

失感情症の人は、自分の身体的感覚と情動の関係に気づくことを学ばないかぎり、回復できない。

色覚異常の人が、灰色の色合いを区別できるようにならないかぎり、色のある世界に入れないのと同じことだ。

…彼らはたいてい、それを学ぶことに乗り気ではない。彼らの大半は、さまざまな医師を訪ね、癒えることのない病気を治療し続けるほうが、過去の魔物たちに立ち向かう、つらい課題をこなすよりもましだという、無意識の決定を下してしまったように見える。(p167)

成人型の慢性疲労症候群の人たちが、効果があるという報告されている心理療法を拒み、治る可能性を求めて心を探ることよりも、あくまで身体的な病気であるということのほうに固執しがちなのは、これとよく似ています。

もっとも、現代の精神科の多くが解離やトラウマをまっとうに扱えず、不登校やヒステリーの原因を理解できていない現状からすれば、おいそれと無闇に精神科に行かないのは正しい選択であるともいえます。

必要なのは精神科医にかかるかどうかではなく、失感情症によって覆われている本来の情動の存在に気づくことだからです。ちょうど、もの言わぬロバの言い分を聞こうとするかのように、言葉によらずして「からだの声」に耳を傾けることが必要です。

「とてもうまく変装」する

不登校の子どもたちには、自分自身に起きたことを説明できない混乱状態に陥る、という不可思議な共通点がありましたが、それには経験の解離という重要な意味がありました。

同様に、成人型の慢性疲労症候群でしばしばみられる、こころの問題への忌避感という不可思議な共通点にもまた、感情の解離という重要な意味があるのではないかと思います。

世の中の不思議で奇妙な出来事の裏には、必ずといっていいほど解離のまやかしがあるものです。

先に出てきたピーターは、心理的な問題を絶対に認めない人でしたが、不平を言いながらもヴァン・デア・コークのセラピーに来るようになり、内的家族システム療法を通して「からだの声」を聞き、幼少期に父親から厳しい扱いを受け、感情を麻痺させていたことに気づきました。

過去の傷ついた自分を受け入れ、弱さを認めない厳しい自分の態度を変えていくことで、感情を感じ取れるようになり、片頭痛などの身体的な問題が解消されました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、未解決のトラウマは片頭痛をはじめ、さまざまな身体疾患として表面化します。

かくして気まぐれな症状へと道筋が定まっていく。首や肩、背中の張りは時間の経過とともに線維筋痛症へと進行する可能性が高い。

また未解決のストレスによる身体的表現としてよく見られるものに偏頭痛がある。

胃腸のむかつきは、わく見られるような過敏性腸症候群やひどい月経前緊張症候群、またけいれん性結腸のような消化器系の問題へと突然変異的に進行してしまうかもしれない。

こうした状態は苦しんでいる人のエネルギー資源を枯渇させてしまい、慢性疲労症候群という形に進行する可能性もある。(p219)

成人型の慢性疲労症候群の場合も、もしかすると、原因の根は意識されていない心理的ストレスや、抑圧された過去の記憶にあるのかもしれません。

口で「ノー」と言えなければ身体が「ノー」と言うようになる― 抑圧された感情が招く難病と慢性疾患
ガンや自己免疫疾患、慢性疲労症候群(CFS)を含む多くの難病は、突然発症するのではなく、子どものころから抑圧してきた感情が関係している。患者の気持ちに配慮しつつ、ガボール・マテ博士

もちろん、成人型の慢性疲労症候群の中にもさまざまなタイプが含まれているのでしょう。ウイルス感染や、その他さまざまな要因が関わっているケースを否定するわけではありません。

とはいえ、もし精神的な疾患か身体的な疾患かという区分けに対するこだわりを捨て、どんなアプローチであれ治療する方法を探すことを優先したい、という気持ちになることができるなら、次のことばに心を向けるのは、きっと無駄なことではないと思います。

多くの場合、このような人たちは、複数の症状を抱えた病人となる。

救いを求めて医師から医師へとたずね歩くものの、自分たちを苦しめているものに対する解決策をほとんど得ることができないのだ。

トラウマは病人を苦しめる多くの症状や「不調」としてとてもうまく変装し、またそうした症状を作りだす。

現代の人類がかかる病気の大部分は、未解決のトラウマに原因があると推測してよいのかもしれない。(p219)

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

解離をさまざまなレベルで生じるフラクタル現象として考える

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の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の3つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

記事でみたように解離という考え方は、さまざまな現象を説明するのに役立ちます。

統合されているものが「切り離される」ことで生じる病理は、医学的な概念を越えて世の中に広く当てはまるフラクタル的な現象です。

つまり、解離は狭い意味では精神医学的な概念ですが、世の中のさまざまなスケールに当てはまる汎用的な概念でもあります。

統合されながら差異化されたシステム

以前の記事で考察したように、心理学者ミハイ・チクセントミハイによれば、創造的な人とは、一人でありながら多面的な自己を有する人物でした。これは、統合されながら差異化されたシステムと言い換えられます。

創造的な人がもつ複雑で多面的な人格の10の特徴―HSPや解離とのつながりを考察する
創造的な人は「複雑な人格」を持っている、という心理学者チクセントミハイの分析を手がかりにして、感受性の強さHSPや、自己が複数に別れる解離が、創造性とどう関係しているのかを考察しま

ひとつのものとして統合されているのに、多様な役割に差異化されている、というのは、創造的に活動する自然界のありとあらゆるシステムに共通している普遍的なシステムです。

たとえば、人体はひとつのからだとしてまとまっていますが、それを構成している内臓などの各部分は異なる多様な役割に差異化されています。

創造的な会社は、ひとつの組織としてまとまっていますが、個々の社員としては才能と個性にみちあふれた多様な人が集まり協力することで成り立っています。

動植物はひとつにまとまった生態系に属していますが、個々の生き物は多様性を有しています。

微生物のマイクロバイオームも、ひとつの生態系をなしていますが、おびただしい種類の異なる性質を持つ多様な微生物が共生して成り立っています。

こうした仕組みは、一種のフラクタルであり、自然界のあらゆるレベルでみられます。自然が創造的に機能するには、必ず、統合されていると同時に差異化されていなければなりません。

裏を返せば、差異化されているのに統合されていなかったり、統合されているのに差異化されていなかったりすると、物事はうまく組織されなくなります。

差異化されているのに統合されていないシステム

差異化されているのに統合されていないシステムとは、多様性がありながら、ひとつにまとまっていない状態です。

なんでもかんでも興味を持ち、とりあえずやってみるものの、目的や価値観を持たない人は、多様性を持ってはいますがまとまりを欠いているため創造性を発揮できません。

同様に、大通りを歩く雑多な人を無秩序に集めて創造的な会社を作ろうとしてもうまくいきません。多様な個性や才能はありますが、組織として統合されていないからです。

交通ルールのない車社会は事故だらけになります。おのおのが無秩序に動き、自由で差異化されているのに、それらを統合しまとめあげるルールがないからです。

道徳の倫理のない人間社会もうまくいきません。多様で差異化されてはいますが、だれもかれもが法律もルールもなく振る舞ったとしたら無政府状態になります。

世界中から多種多様な動植物を集めてきて、ひとつの部屋に集めて飼育したとしてもやがて死滅していきます。多様ではありますが、本来ひとつにまとまっていた生態系から切り離されているからです。

統合されているのに差異化されていないシステム

他方、統合されているのに差異化されていないシステムとは、ひとつにまとまっていながら、多様性のない状態を指します。

同じ行動を繰り返し、融通が利かず、柔軟さのない人は、一貫性がありますが、多様性がないので創造性を発揮できません。

人体の臓器がすべて目だったりすべて手だったりしたら、人間として成り立ちません。

同じような個性を持ち、同じような考えしか持たない人たちを集めた会社は創造的にはなれません。

ある生態系の生き物がすべて同じ種類だと、統一はされていますが、やがて死に絶えます。

伝統的な学校教育のように、子どもの多様性を無視して同じ型に一律に当てはめようとする教育がうまくいかず、創造性を殺してしまうのもそのせいです。

ですから、あらゆる創造的なシステムは、ひとつに統合され統一されていること、役割が差異化され多様性が維持されていることの両方を満たしている場合のみ、うまく機能するようになっています。

フラクタルとしての解離

自然界の構造は、統一されたシステムから、一部だけを切り離して(つまり解離させて)運用するようにはできていません。あくまで他の多様な要素とつながり、ひとつのシステムの枠組みの中で機能した場合にのみ、創造性に生き生きと働くようになっています。

本来ひとまとまりになって機能するはずのこころから、一部の人格だけ切り離されると、解離性同一性障害になります。人格が差異化されているものの、統合が失われた状態です。

家族の成員のだれかが無視されたり、クラスのだれかがいじめられてのけ者にされたりすると切り離された人は事実上、ひとつの統合されたシステムから解離されます。

切り離されたまま鬱憤や怒りを溜め込んでしまう別人格も、家族から無視されてネガティブな感情を募らせる人も、のけ者にされて傷つけられる子どもも、本来ひとつにまとまって機能するはずのシステムから切り離されることによって苦痛を味わいます。結果として、システム全体に害が及び、創造的が妨げられます。

本文中で、こころから解離した身体を、敗残兵として戦地に取り残され、本国から切り離された人に例えましたが、これは比喩であると同時に、異なるスケールで生じている類似した現象です。

戦争のさなかに兵士が本隊から解離し、切り離された兵士が戦場に置き去りにされたまま忘れられてしまうのが残留兵です。

トラウマのさなかに、人格が複数に解離し、切り離された人格の一部がトラウマの最中に置き去れにされたまま凍結されてしまう状態が解離性同一性障害(DID)です。

交通事故や外傷のさなかに、こころとからだが解離し、切り離されたからだが、外傷体験の瞬間に取り残されたまま凍結してしまうのが外傷後に傷が治っても続く慢性疼痛です。

もうトラウマが終わっていることを知ってもらうには、敗残兵を見つけ出して戦争が終わったことを平和な本国で体験してもらう必要があり、別人格の存在に気づいて安心感で包んであげる必要があり、からだの声に耳を傾けて内臓に安全を感じてもらう必要があります。

人体の内部における解離と、人類社会をひとつの人体のように見なした場合の解離は、同様のフラクタル的な構造をしています。

もちろん、異なるスケールのものに常に同じ法則が当てはまるという単純な考え方は便利であると同時に危険です。

分離脳研究を通して、人間の心は異なる複数の人格から成り立つ社会のようなものであるというフラクタルな発見に至ったマイケル・S・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中でこう警告しています。

極端な還元主義者は、機構には複数のレベルがある、すなわち、物事が実際に起こる理由を理解するための因果の連鎖に異なる複数の層が寄与しうるという考え方を受け入れるのに苦労する。(p386)

ガザニガは、ミクロの世界とマクロの世界のように、スケールのレベルが異なれば、まったく違った法則や理論が必要となる場合があると述べています。

たとえば物理学における量子力学がそれにあたり、ミクロの世界ではマクロの世界の常識が通用しません。

結局のところ、フラクタルもまた統合されながら差異化されています。

マクロの世界とミクロの世界は、互いに協働しあってひとつの世界を作り上げていますが、それぞれは差異化されています。雪の結晶はフラクタルの代表例ですが、やはりひとつとして同じものはなく多種多様です。

つまり、精神疾患における解離、からだとこころの解離、その他の分野におけるさまざまな切り離し、たとえば国から切り離された敗残兵、生態系から切り離された動物、自然界のリズムから切り離された睡眠障害、マイクロバイオームから切り離された人体に生じる自己免疫疾患などは、いずれも、統合されたシステムから一部が切り離されるという点で似ていますが異なる性質を持ってもいます。

それは、もし解離(切り離し)をひとつの統合された概念として見た場合、その中に含まれる、これらさまざまな異なるスケールで起こるさまざまな解離もまた、それぞれが多様で差異化されており、類似しつつも別々の性質を持っていることを意味しています。

本文中で述べたとおり、解離は文化によってさまざまな形をとります。時代や文化の期待を反映してさまざまな形をとるのが創造性であり、時代や文化のストレスを反映してさまざまな形をとるのが解離です。

統合されながらも差異化されている、ということは、その概念そのものにも当てはまるので、たとえ似た部分があるにしても、異なるスケールの創造性、異なるスケールの解離を一様なものとして扱うことはできません。

「同類の、しかし性質の異なる病理」

事実、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によれば、こころに現れる解離(解離性障害や解離性同一性障害など)と、からだに現れる解離(転換性障害や慢性疲労、慢性疼痛など)は、「同類の、しかし性質の異なる病理」だとされています。

これらの研究が示していることは、解離性障害と転換性障害は同一の疾患の別の表現形態というよりは、同類の、しかし性質の異なる病理である可能性が高いということだ。

これらの両方を含めて解離と呼ぶか、あるいは一方を解離、もう一方を転換性障害と呼び続けるべきかについてはさまざまな議論があろう。

しかし最近の「構造的解離理論」(van der Hart,et al.,2006)に基づいた分類、すなわち解離を精神表現性解離と、身体表現性解離とに分けて理解するという方針が適切と考える識者も多い。

ストレスが解離を生んだ場合、それを精神面の症状として表現されたもの(狭義の解離)と身体面の症状として表現されたもの(転換症状)に分けるという考え方はより自然で、臨床家にとっても受け入れやすいものと思われる。(p120)

こころの解離とからだの解離は別のものではなく、マクロのレベルからみれば、同じ解離という「同類の」共通項を持っています。しかし、ミクロの観点からすれば、「性質の異なる病理」であり、統合されながらも差異化されています。

これはつまり、成人型の慢性疲労症候群と、小児型の慢性疲労症候群に、解離という共通のメカニズムが関わっているとしても、「同類の、しかし性質の異なる病理」である、つまり統合されながらも差異化されている概念であるという可能性を考えなければならないことを示唆しているともいえるでしょう。

それで、解離について考えるときに、常にガザニガが右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -で述べるこの言葉を念頭に置いておくのは大切に思えます。

私たちはみな、こうした情報のダイエットに弱い。携帯メールや携帯電話で得られる即席の満足感に屈してしまったように、誰もが情報の簡略化に依存するようになった。

それでも、うわべだけの知識人と真の教養人を区別するものは、あらゆるものは単純ではないとわかっているかどうかである。

その秘訣は、どのような話題であっても、その根本にある複雑さを十分に認識しながらも明瞭に語ることができるかどうかにあるようだ。(p404-405)

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

解離は引き込み・共鳴現象と関わるリズム障害かもしれない

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の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の2つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

本文中で、サウンドセラピーがトラウマ障害などに効果があるのは、メロディやリズムが、トラウマ記憶と同じく手続き記憶であり、トラウマの手続き記憶によって乱れた脳のリズムを、音楽のリズムの手続き記憶が一時的に相殺するからではないかと書きました。

わたしの場合、一部のハイパーグラフィアと同じように、文章を書いているときは不動状態が解除されます。枯渇したはずのエネルギーが動員されます。

オリヴァー・サックスが言うように、書くことで考えが一つにまとまり、整理されます。サックスが書くことと音楽をこよなく愛していたのは偶然ではないでしょう。書くことも音楽も、ドーパミンによって脳の非同期な活動をひとつのリズムへとまとめる力を持っています。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

からだの不動化、そして歌のリズムやメロディがともに手続き記憶であることからすれば、からだは同時に2種類のリズムを刻むことはできませんから、別のリズムに没頭して同調しているうちは不動化の手続き記憶が解除されるのかもしれません。

引き込み現象

近年の研究からすると、外部のリズムに共鳴し、引き込むことで内部のリズムを同調させるシステムが人体にも備わっているようです。

低い温度で体内時計が止まるメカニズムを解明 | お茶の水女子大学

ブランコは、たとえ乗り手がこぐのをやめていても、上手いタイミングで繰り返し押してやれば小さな力でも大きく揺らすことができます。

そこで実際に、低い温度で止まってしまった体内時計にほぼ24時間のリズムで2度の温度変化を与えました。すると、低温では決して現れないような強いリズムが観察されました。

この現象は物理学でよく知られている共鳴現象とよばれているものと同じで、体内時計でも共鳴が起こることが初めて発見されました。

第3回 ヒトの脳はどのように時間を知覚しているのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

引き込み現象(エントレインメント)というのは、要は、「つられてしまうこと」「同期してしまうこと」ことだ。

それにわざわざ名前がついているのは、20世紀後半からの研究で、これまでばらばらに知られていた現象が、数理的には同じ枠組みで議論できることがわかったからだ。

おそらく解離にみられる人や物に対する過剰な同化・同調は、これら物理学的な共鳴現象引き込み現象と関係しています。というのも、脳のニューロンの発火もリズムだからです。

脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、精神科医ノーマン・ドイジはこう書いています。

これは私の仮説だが、音楽による刺激が脳障害を持つ人に有効なもう一つの理由は次の点にある。

(自閉症の例に見たように)そのような人においては、脳領域同士の結合が貧弱であるために、ニューロンの発火が同期していない。

私の見るところ、脱同期化した脳はノイズに満ち、ランダムな信号を発し、つねにエネルギーを浪費している。

要するに、ほとんど何の仕事も行なわず、本人を消耗させるだけの活動過多の脳なのである。

音楽は引き込みによってニューロンの発火の同期を取り戻し、脳を効率的に機能するよう導くのだ。(p525-526)

自閉症と統合失調症はリズム引き込み障害

ドイジはこれを仮説としていますが、わたしも同様の考えを持っています。

ドイジが例として挙げているように、自閉症は外部のリズムを引き込む機能がうまく働いていないリズム障害だと思われます。自閉症の人たちが「空気が読めない」とされるのは、場の雰囲気や他の人の感情に現れるリズムを取り込めないからです。

場の雰囲気や他の人の感情のリズムを取り入れるというと、超能力やテレパシーを思い浮かべるかもしれませんが、わたしたちの脳には、物理的に接続していないもののパターンを取り込む機能が備わっています。

それはちょうど、Wi-Fiを介して物理的に接続していないパソコンのデータを同期することと似ているので、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では神経Wi-Fiと呼ばれています。

この発見に続いて世界各地で無数の実験が行なわれ、共感や模倣、同調、さらには言語に発達といったそれまで説明できなかった多くの側面が、ミラーニューロンで説明できることがほどなく明らかになった。

ある書き手は、ミラーニューロンを「神経Wi-Fi」になぞらえた。私たちは他者の動きだけでなく、他者の情動的な状態や意図まで摸倣するのだ。(p99)

ミラーニューロンおよび、それを内包する脳のミラーシステムは、他者の動きだけでなく心情まで模倣する共感や同調と関係しています。動きや感情は脳のニューロンの発火パターンというリズムからなっているので、ミラーシステムはリズムを同期する神経Wi-Fiです。

人体に備わるリズム同調システムが、ミラーシステムだけなのか他にも存在するのかは定かではありませんが、少なくとも自閉症の人たちは、このリズム同調システムがうまく働いていないとされています。リズムの引き込みがうまくいかないのです。

自閉症と脳の働きが似ているとされる統合失調症もまた、リズムの引き込みがうまくいかないために、外部世界と切り離されてしまう病気です。

統合失調症の妄想とは、取りも直さず「空気が読めない」が極端になりすぎて、他者の思考というリズムをまったく取り込めず、リズムが完全に脱同調したものだとみなせます。

神経科学者ゲオルク・ノルトフの脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫るによれば、統合失調症は、自己が世界から切り離された状態だとされています。

安静状態に関する研究による発見は、統合失調症患者では安静状態の空間/時間構造が異常をきたしていることを示す。

機能的結合性として測定される空間構造は異常に硬直的で、そのために外部刺激に反応して変化することができない。

周波数変動によって確立される時間構造も異常をきたしており、とりわけ長く遅い周期で極端な高まりが見られる。

統合失調症患者は、この周波数変動の異常によって、通常はまとめられることのない複数の刺激を結びつけ統合するようになる。(p202)

何やら難しい内容ですが、簡単にいえば、統合失調症では、空間や時間(リズム)に関わる内部のリズムを「外部刺激に反応して」外部のリズムと同期させることができなくなっているということです。

外の世界のリズムと同期できないせいで、どんどん内部りリズムが狂ってしまい、「とりわけ長く遅い周期で極端な高まりが見られる」などした結果、外の世界のリズムから逸脱した思考、すなわち妄想が生じてしまうのです。

ここで、外部の刺激によって同期されるのが、時間(リズム)だけでなく空間も挙げられていることは興味深い点です。

統合失調症と同様、外部のリズムを引き込む能力が働かない自閉症では、時間感覚の異常だけでなく空間感覚の異常も生じるからです。そして、リズムと空間は、どちらもからだに記憶される手続き記憶の特徴でもありました。

そうすると、リズムの引き込みとは、まわりの環境に合わせて柔軟に手続き記憶を変化させる能力なのかもしれません。自閉症の常同行動や、統合失調症の人格の硬化は、外部のリズムを引き込めず、同じ手続き記憶を繰り返している状態なのでしょうか。

HSPと解離性障害はリズム引き込み過剰

対照的に、外部のリズムの引き込み、共鳴が過剰すぎる人たちがいます。それは、以前の記事で書いたとおり、定型発達者を中心に置くと、自閉症とは正反対の極に位置していて、他者の気持ちを読み取りすぎる感受性の強い人たち、HSPです。

HSPの人たちは、神経Wi-Fiであるミラーニューロンの働きが通常より強いことも確かめられています。

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また、やはり過剰なリズム引き込みを見せるのは、トゥレット症候群の人たちです。オリヴァー・サックスが音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々で述べているように、トゥレット症候群のチックとは、まわりの人のくせや姿勢、ことばなどを過剰に摸倣してしまうことで生じます。

トゥレット症候群と併発することも多いADHDもまた過剰なリズムの引き込みが生じてかき乱されているとみなせます。

多動や衝動に陥ってしまうのは、あまりに感受性が強すぎて、外部のさまざまなリズムを取り入れてしまうからです。ちょうど携帯電話や電子レンジなどのそばで精密機器を使うと動作が乱れてしまうのと同様の影響を被っているのです。

ADHDとHSPは、感受性が強いという点では共通していますが、上記の記事で見たとおり、HSPの人は、子どものころから、自己コントロール力が強いことがわかっています。

過剰なリズムの引き込みがあるにもかかわらず、自己コントロールの強さゆえに自制することができるため、HSPの人はADHDと違って、外からのリズムによる影響より、内からのリズムの強さが勝り、多動や衝動を抑えることができます。

しかしこの自己コントロール力の強さとは、この記事で扱った自己抑制の強さと同じものです。HSPの人は解離や慢性疲労に陥りやすいですが、それは過剰なリズムの取り入れに対する防衛としてシャットダウンが生じているとみなせます。

引き込み障害か一時的な解離か

外部のリズム引き込みが強すぎて苦痛なせいで、解離というかたちでシャットダウンすると、外部と同期できないために脱同調が生じます。この状態は自閉症や統合失調症とよく似ています。

しかし、自閉症や統合失調症は、もともとリズム引き込みがうまくいかないのに対し、解離では、通常以上のリズム引き込み能力を持っているにもかかわらず、あえてシャットダウンしているという違いがあります。

三池先生の不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するによると、小児型慢性疲労症候群の不登校の子どもたちの中に、一時的にアスペルガー症候群などの発達障害にみえるものの、治療に成功すると発達障害と診断する根拠がなくなる人たちがいるとされていました。

DSM-IVでチェックを入れ診断する医師が後を絶たず、不登校状態の子どもたちにさまざまな診断名がつきはじめている。

「うつ」は併存する確率も高いのでまだ許せるとしても、「PDD」「Asperger症候群」の病名が目立つ。

そう簡単にこのような病名が作られてよいとは思えない。

すなわち心理検査、知能検査により現れる発達障害と診断される検査結果のみで診断がなされてしまうことに問題がある。

実はこの知能検査の結果は二次的な低下である可能性が高い。なぜなら、治療により回復した彼らから発達障害と診断する根拠が消えることが少なくないのである。(p82)

これは、子どものPTSD 診断と治療が述べている、外傷後自閉性発達障害(APTDD)という概念と同様の現象が生じているものと思われます。

たとえば、Reidは、タピストック研究所でのワークショップにおける論議をもとに、「外傷後自閉性発達障害」(autistic posttraumatic developmental disorder : APTDD)という診断概念を提唱している。

彼女は、自閉症の子どもの症状と子どものPTSDの症状の類似性(反復的プレイと反復的行為・発語、回避・解離症状と自己刺激による身体感覚への没入、過覚醒・過活動と情緒的過敏性・反応鈍麻の複合)に着目し、生来的な脆弱性(過敏性と完璧性)をもった乳幼児が、生後2年の間にトラウマ性の出来事を体験した場合、その一部が自閉性障害を生じるとして、APTDDという診断分類の提案に至ったわけである。(p44)

外傷後自閉性発達障害(APTDD)は、生後2年の間に「過敏性と完璧性」をもった子がトラウマを経験した場合、本来は自閉症ではないのに自閉症に似るという概念です。

不登校の場合は、生後2年の時期ではないため、重度の自閉症に似るまではいたらず、アスペルガー症候群の診断になるのでしょう。いわゆる「発達性トラウマ障害」や「第四の発達障害」と似た外傷性の発達障害類似状態です。

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HSPなどの生まれつきの強い感受性を持った子どもは、自閉症とは反対に同調しすぎる体質を持っているせいで、トラウマ体験で強い刺激にさらされると、自分からあえて外部のリズムとの同調をシャットダウンする解離に陥る可能性があります。

興味深いことに、先ほど統合失調症では外部との同期が失われていると述べていたゲオルク・ノルトフは、脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫るの中で、本文で扱ったタイプの、大うつ病(MDD)ではない、不動状態による慢性疲労型のうつについても考察しています。(p117)

それによると、このタイプの抑うつでは、外部の環境のリズムから切り離されてしまいます。

抑うつにおいては、異なるタイムスケールのあいだで脱協調が生じ、この疾病に特徴的な症状を引き起こしているのではないか。

これらのデータが示すところでは、脳は単なる神経組織ではない。これは時間的な器官、つまり異なる幾つかのタイムスケールを生み、構造化し、統合する時間エンジンである。(p127)

抑うつに陥ると、自己と環境の関係が、まったく消失するわけではないにしても減退するように思われる。…うつ病患者の自己は、環境への埋め込みの低下を経験している、つまり環境から切り離されていると言えるだろう。(p141)

慢性疲労型の抑うつでは、「環境から切り離されて」しまう、つまり解離してしまうせいで、外部のリズムとの同期が難しくなり、タイムスケールの脱協調が引き起こされます。

HSPの子が不登校になる場合、もともと外部からのリズム引き入れが強く、学校という環境で過剰に同調するようになってしまい、それが苦痛になりすぎた場合に、自ら解離によって、外部のリズムとの同調を切り離してしまうのではないでしょうか。

そのため、一時的に自閉スペクトラム症に似た症状を示しますが、治療によって解離が解消されれば、元にもどります。彼らは自閉症ではなくHSPだからです。発達障害に見えて発達障害ではないという三池先生の見立ては正しかったことになります。

同様に、解離性障害における過剰同調性は、HSPを土台とした過剰な引き込み現象の現れと解釈できます。解離性障害の人たちが、もともと「投影」とは真逆の「取り入れ」という防衛機制が強く働くことは以前の記事で触れました。

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解離傾向の強い人たちは、過剰同調性のせいで様々な環境の雰囲気というリズムや、他者の性格というリズムを脳のニューロン発火パターンというかたちで内部に取り込み、ときには、解離性同一性障害の別人格、つまり本来の自分とは異なる脳の発火パターンを内在化します。

解離性障害は統合失調症と異なり、頑固な妄想が生じないことが最大の違いとされています。これは、完全に外部リズムの引き込みが断たれている統合失調症に対し、解離性障害では、苦痛のせいで一時的に外部との同調を自ら遮断しているだけだからです。

統合失調症と解離性障害は予後が異なるのはそのせいでしょう。統合失調症は人格の荒廃に向かうとされているのに対し、解離性障害は十分回復可能です。

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HSPの不登校の子どもが一時的に自閉スペクトラム症に見えても治療が成功すればそうではなくなるのと、解離性障害の人が一時的に統合失調症に見えても、治療が成功すれば回復できるのは、どちらも同じ理由による、ということになります。

つまり、自閉症や統合失調症は、もともと外部リズムを引き込むシステムが機能していないのに対し、HSPや解離性障害は、外部リズムを引き込むシステムが逆に強すぎるせいで、トラウマに対する防衛として一時的にシャットダウンしていて、回復するとリズム同調能力も元に戻るということです。

トラウマの瞬間のリズムが再生される

また、音楽のリズムとトラウマ記憶は、いずれも手続き記憶でした。すなわち、PTSDや解離性障害で問題となっているからだの手続き記憶とは、言い換えればトラウマ記憶のリズムだということになります。

頭の中に居座って再生され続けるメロディ(イヤーワーム)や、何かのきっかけでふと思い出す懐かしいメロディのように、トラウマ記憶のリズムも再生されます。

トラウマの瞬間の生体リズムが再生され続けて止まらなくなる状態、あるいは何かのきっかけでトラウマの瞬間のリズムが呼び覚まされ、再生されてしまうのがトラウマ障害の手続き記憶ではないでしょうか。

たとえば、PTSDでは、ふとしたきっかけで、闘争・逃走反応にはまりこみます。このとき、からだはトラウマ記憶に同調しています。トラウマを経験した瞬間にからだで生じていたのと同じ心拍変動などの激しいリズムが再生されているのです。

他方、解離では、慢性的なトラウマを経験していた時期と同じリズムが、イヤーワームと同じように延々と再生され続けています。

解離では外部のリズム引き込みがシャットダウンされるとともに、内部の記憶によるリズム、すなわち拘束されていたときの仮死状態のリズムである心拍低下が延々と再生されてしまうということです。

だからこそ、解離の治療に必要なのは、その人がもともと持っていた外部のリズム引き込み能力を再度取り戻させ、内部で延々と再生されているトラウマ記憶のリズムを上書きしなければならないのです。

みんなで一緒に歌ったりするサウンドセラピーが解離の不動状態に有効なのは、音楽という外部のリズムによって、内部で再生されている不動状態のリズムを一時的に上書きできるからだ、ということになるでしょう。

本文中で解離は脳の部分的な睡眠障害ではないかと書きましたが、こうした観点で見ていくと、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線が述べるように、解離や発達障害は、睡眠障害と同様、脳やからだの生体リズム障害なのかもしれません。

脳障害の多くは、脳がリズムを失い、「リズム障害」的な状態で発火するために起こるので、音楽療法はこれらの症状にとりわけ効果が期待できる。

音楽療法のリズムは、脳の「ビート」を取り戻す非侵襲的な手段になり得るのだ。(p523)

従来の解離を人のこころの病理として捉える考え方が間違っているわけではありません。人は確かにこころを持つ生き物だからです。

しかし、人は動物の一種であり、同時に物理学の法則にもしたがって構成されている物質でもあります。本文ではピーター・ラヴィーンの考察をもとに、解離を生物学的観点から分析しましたが、解離はまた物理学的観点からも考察されねばなりません。

解離とリズムとの関連は、これからじっくり煮詰めていく課題となりそうです。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

睡眠不足症候群とPTSD/解離の関係―眠育で不登校が予防できるのはなぜか

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の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の4つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

三池輝久先生は、不登校・小児型慢性疲労症候群の予防として、睡眠不足症候群(IIISS)を防ぐ眠育の効果が高いとして、近年、その分野に注力しています。

睡眠時間の確保が小児型慢性疲労症候群の発症を防ぐのは、本文で見たように、睡眠不足によってストレス反応の第二段階、つまり交感神経系の「闘争・逃走」が生じやすくなるのを食い止めるからでしょう。

しかし、小児型慢性疲労症候群を解離による不動系の反応として考えた場合、眠育によって不登校が予防される、さらなる納得のいく理由を見い出すことができます。

PTSDと睡眠障害はどちらが先か

本文で考えたとおり、PTSDと解離は、対照的な脳の反応でありながら、どちらも同じトラウマ障害とみなすことができます。簡単に言えば、急性のトラウマはPTSDを引き起こしやすく、慢性のトラウマは解離を引き起こしやすい、という違いがあります。

PTSDにおいて睡眠障害が現れるのは、わざわざ説明するまでもなく直感的に理解できます。トラウマを負ったPTSDの人が、悪夢やフラッシュバックや過覚醒に悩まされるのは、フィクションでもおなじみの場面です。

ところが、近年、PTSDにおける睡眠障害は、PTSDの二次症状であるだけでなく、PTSDの原因でもある、と考えられるようになっています。

PTSDになったから睡眠障害になるのではなく、もともと睡眠障害があったので、PTSDになるのではないか、というわけです。

子どものPTSD 診断と治療の中で、谷池雅子先生はこう述べていました。

PTSDにおいては不眠や悪夢のような睡眠障害が認められるのみならず、睡眠障害はPTSDの発症に先行し、その重症度を予測させることが示唆されている。(p123)

アリゾナ・プレスコットバレー睡眠障害センターのロバート・ローゼンバーグ医長による睡眠の教科書――睡眠専門医が教える快眠メソッドでは、PTSDと睡眠障害の関係が、まる一章を割いて、詳しく扱われています。

特に、PTSDは睡眠時無呼吸症候群(SAS)と関係が深いとされていて、睡眠時無呼吸症候群はPTSDの「結果」ではなく「原因」のひとつだと考えられています。

睡眠時無呼吸は、PTSDの帰還兵と、性的トラウマによるPTSDの女性に最も多く見られます。

特にPTSDを持つ帰還兵の睡眠時無呼吸の割合は、性別と年齢によって分類したグループで推定される割合よりはるかに高いことから、偶然そうなるのではないことがわかります。

PTSDになる以前に睡眠時無呼吸を発症していたと推測されます。(p210)

もともと睡眠時無呼吸症候群を抱えている人がPTSDになりやすいのはどうしてでしょうか。

それは睡眠が記憶を整理する役割を持っているからです。

感情的トラウマを処理するにはレム睡眠が必要です。レム睡眠は、恐怖記憶除去と呼ばれるプロセスにかかわっています。

恐怖記憶除去というのは、日常生活のごくふつうの行動から、恐怖を感じた出来事を切り離す脳の作用のことです。(p209)

睡眠時無呼吸は、レム睡眠を分断するので、もともと潜在的に睡眠時無呼吸を抱えているがために、トラウマを経験したとき、その記憶をうまく処理できず、PTSDを発症しやすくなると考えられます。

このような場合、PTSDの症状を直接治療するのではなく、睡眠時無呼吸を持続的陽圧呼吸療法(CPAP)で治療するだけでも、悪夢や不安がかなり改善するそうです。

睡眠不足症候群がPTSDのリスクを高める

PTSDのリスクを高める睡眠障害は睡眠時無呼吸症候群だけではありません。睡眠の教科書――睡眠専門医が教える快眠メソッドには次のような調査結果が載せられています。

近年行われた、初めて戦地に派遣される15204人の男女を対象としたミレニアム・コホート研究と呼ばれる追跡調査では、派遣前の不眠症が、PTSDのリスクを高める要因だとわかりました。

調査によれば、派遣前に不眠症の症状があった軍人は、うつ病、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、パニック障害、不安症などの精神的問題を起こす確率が高いのです。(p211)

また1晩で6時間以下の短い睡眠時間も、PTSDの発症率を上げることがわかりました。不眠症は入眠と睡眠持続が困難な障害です。睡眠時間が短いと、精神やホルモンなどの回復に必要な睡眠サイクルが生まれません。(p212)

PTSDの患者の多くが、PTSDになる以前に睡眠障害を発症しています。睡眠時無呼吸、不眠症、悪夢などの障害は、PTSDになる以前のPTSD患者に多く見られるようです。(p291)

ここで注目したいのは、睡眠不足、いわゆる睡眠不足症候群(BIISS)がPTSDのリスクを押し上げるとされていることです。

近年の日本の研究によると、睡眠不足の直感に反する影響が明らかになっています。

睡眠不足は、ふつう眠りが浅くなると思われがちですが、三島和夫先生らのグループの研究によると、そうではないことが分かりました、睡眠不足下でも深いノンレム睡眠は保たれていますが、浅い睡眠やレム睡眠が損なわれていたのです。

『潜在的睡眠不足』の解消が内分泌機能改善につながることを明らかに | 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター

これは睡眠不足時には深い睡眠が最優先で保たれ、浅い睡眠やレム睡眠から削ぎ落とされることを示しています。

しかし本研究から、浅い睡眠やレム睡眠もまた代謝やストレス応答機能の維持にとって重要であることが明らかになりました。

巷で広まっている「短時間睡眠法」の問題点を浮き彫りにした結果と言えるでしょう。

無自覚の「潜在的睡眠不足」(PSD)が内分泌・代謝機能に慢性的な影響―子どもの疲労と関係する調査も
現代人の多くで、自分でも気づいていない「潜在的睡眠不足」(PSD)が身体的健康に慢性的な影響を及ぼし、生活習慣病などの健康リスクをもたらしているという研究が発表されました。

つまり、慢性的な睡眠不足症候群に陥ると、トラウマ記憶を除去するための「恐怖記憶除去」のプロセスを担うレム睡眠が損なわれます。

その状態でトラウマ体験に遭遇すると、本来、睡眠によって処理されるはずのトラウマ記憶が処理できず、エラーを吐き出してしまいます。

その結果、いつまでもトラウマ記憶と日常生活が結びついたままになる症状がPTSDなどのトラウマ障害ではないか、ということになります。

他方、一概に睡眠障害が「原因」で、PTSDは「結果」だと言い切れるわけでもありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるように、処理しきれないトラウマ記憶の断片は、レム睡眠を中断させます。

私はボストン退役軍人クリニックにいたときに同僚たちと、PTSDを持つ帰還兵はレム睡眠に入るとすぐに目覚めてしまうことが多いのを発見した。

おそらく、夢を見ている間にトラウマの断片を活性化してしまったのだろう。(p430)

睡眠障害によってレム睡眠が中断するからトラウマが処理できないだけでなく、トラウマ記憶によってレム睡眠が中断されるという逆のことも生じています。

これは、睡眠障害とトラウマ障害が、ニワトリが先かタマゴが先かのように複雑に絡み合っている可能性を示唆しています。

おそらくは、睡眠障害が先にあるケースが多いのでしょうが、睡眠障害がPTSDを生み、PTSDが睡眠障害を生み、睡眠障害が…という延々と続く負のループに陥ってしまっているということです。

子どものPTSD 診断と治療によれば、PTSDの悪夢障害への効果性が実証されているミニプレス(プラゾシン)はレム睡眠を正常化させることで効果を発揮すると考えられています。

特異的α1アドレナリン受容体拮抗薬のプラゾシン(ミニプレス)は、2003年に少数の退役軍人を用いたcontrol studyにおいて、悪夢を含むPTSDの睡眠障害に有効であることが示され、大規模な研究により、睡眠の質が改善し、悪夢が減少することが確かめられている。

プラゾシンが悪夢を軽減するメカニズムについて、Raskindは、以下のような仮説を提唱している。

1)PTSDの悪夢は浅睡眠時に認められ、REM睡眠を阻害する。
2)浅睡眠は、中枢神経系におけるα1受容体の刺激によって増加する。
3)プラゾシンのα1受容体拮抗作用は、浅睡眠を減少させ、REM睡眠を正常化させる。(p127)

ミニプレスは、レム睡眠を正常化させることでPTSDの悪夢を減少させ、そのほかの症状も改善させるようです。

このようなわけで、睡眠の教科書――睡眠専門医が教える快眠メソッドでは、プラゾシンはPTSDの悪夢にいちばん効果的な薬として言及されています。

PTSDの悪夢の治療に使われる薬剤が何種類かあります。セロクエルという新型の非定型抗精神病薬を使用すれば、ある程度快方に向かいます。

けれども、いちばん効き目があったのは、プラゾシンというやや古い降圧薬でした。(p289

興味深いことに、ミニプレス(プラゾシン)は、小児型慢性疲労症候群の睡眠障害の治療に使われるカタプレス(クロニジン)や近年ADHDに承認されたインチュニブ(グアンファシン)の近縁の降圧薬です。

子どものPTSD 診断と治療では、この3種の薬がいずれもPTSDの治療薬として並べて挙げられています。(p127)

なぜ眠育が小児型慢性疲労症候群を予防するのか

こうしたPTSDと睡眠障害の複雑な関係を理解すると、PTSDとは正反対のトラウマ反応である解離の場合も、同様のループが生じていると推測できます。

すなわち、睡眠不足症候群(BIISS)のせいで、レム睡眠の恐怖記憶除去が損なわれた状態で学校生活などの慢性的な拘束性のトラウマに曝露すると、その記憶を日常生活から切り離せなくなり、常に不動系のトラウマ反応が生じるようになっていきます。

睡眠によって急性のトラウマ記憶を処理できず、日常生活でも交感神経系の「闘争・逃走反応」が生じる状態がPTSDだとすると、やはり睡眠によって慢性のトラウマ記憶を処理できず、日常生活でも不動系の「固まり・麻痺反応」が慢性化してしまう状態が解離、そして不登校や小児型慢性疲労症候群だということができるでしょう。

以前に扱ったように、解離の病態はさまざまなタイプの睡眠障害と非常に似ており、解離という不動系のトラウマ反応が、実際には睡眠障害を土台として生じている可能性を示唆しています。

解離性障害は脳の一部だけ眠る睡眠障害かもしれない―覚醒と夢のはざまの考察
解離性障害の幻覚とナルコレプシーなど、解離と睡眠障害には多くの類似点が見られます。様々な専門家の意見を参考に、脳の局所的な睡眠として解離を捉え直すことで、解離のメカニズムを考察して

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるように、PTSDや解離性障害でEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が功を奏するのは、それが損なわれているレム睡眠の機能を補うためのようです。

その後まもなく、EMDRは急速眼球運動を伴うレム睡眠(睡眠のうち、夢を見る段階)に関係すると主張する論文が、「ドリーミング」誌に掲載された。

睡眠、とりわけ夢を見ているときの睡眠が、気分の調節に重要な役割を果たすことは、研究によってすでに明らかになっていた。「ドリーミング」誌の論文が指摘したように、レム睡眠時には目が素早く左右に動くが、同じことがEMDRでも起こる。

レム睡眠の時間が増えるとうつが軽減し、レム睡眠が減ると抑うつ状態になりやすくなる。(p430)

近年では、夢を見ているのはレム睡眠のときだけではないことがわかっていますが、レム睡眠が記憶の整理と関連しているのは事実です。

「夢」の認知心理学によれば、レム睡眠は手続き記憶、ノンレム睡眠はエピソード記憶の整理に関わっている可能性が示唆されています。

最近、レム睡眠とノンレム睡眠で処理される記憶の内容に差異があるという研究が多く見られる傾向がある。

大雑把にいえば、レム睡眠では手続き記憶に関する内容が、ノンレム睡眠では宣言的もしくはエピソード的記憶の処理が行われていることを示す内容が多いことを付け加えておこう。(p216)

本文で考えたとおり、トラウマ記憶は、通常のエピソード記憶ではなく手続き記憶であるせいで、言葉で説明することができず、本人も気づかないうちに自動的に再演されつづけるという性質を持っていました。

そうすると、ここまで考えてきたことは、すべて一本の線上にすっきりとまとまります。

(1)睡眠障害はトラウマ障害のリスクとして先行する
睡眠時無呼吸はレム睡眠が分断される。同様に、睡眠不足症候群(BIISS)でも深い眠りは維持され、まずレム睡眠から削ぎ落とされる。

(2)レム睡眠の不足はトラウマ記憶の処理を妨げる
レム睡眠は手続き記憶の処理に関わっている。本文で見たように、PTSDや解離におけるトラウマ記憶とは、エピソード記憶ではなく手続き記憶、つまり「からだの記憶」である。

(3)不登校や小児型慢性疲労症候群は眠育で予防できる
レム睡眠の確保はPTSDや解離といったトラウマ障害を予防できる。手続き記憶の処理の失敗による慢性的な不動系の反応である不登校や小児型慢性疲労症候群も、睡眠の確保で予防できることになる。

こうして睡眠障害とトラウマ障害、そして不登校との関係を整理すると、なぜ感受性の強いHSPやADHDの子や、感覚過敏を伴う自閉症の子が、しばしば不登校や引きこもり、小児型慢性疲労症候群になりやすいとされるのかも見えてきます。

こうした子どもたちは、感受性の強さや感覚過敏のせいで、トラウマ性のストレスにさらされやすい以前に、まず、毎日の睡眠の質が損なわれやすいのです。

先に引用したロバート・ローゼンバーグの睡眠の教科書――睡眠専門医が教える快眠メソッドでは、HSPが不眠症の疾病素質として真っ先に挙げられています。米国の第一線級の睡眠専門医が注目するほど、HSPは睡眠障害と密接に関係しています。

疾病素質とは、ある種の人々を過剰反応させる、または敏感にさせる遺伝子的、肉体的、精神的なパターンのこと。

過剰反応してしまう人の神経系統の特徴をさらに理解するための参考書としてエレイン・アーロン著『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ(SBクリエイティブ)』がある。(p80)

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
エレイン・N・アーロン博士が提唱した生まれつき「人一倍敏感な人」(HSP)の四つの特徴について説明しています。アスペルガー症候群やADHDと何が違うか、また慢性疲労症候群などの体調

また、自閉症についても、三池先生らによるいま、小児科医に必要な実践臨床小児睡眠医学の中で、睡眠障害との関わりが詳しく扱われています。

特に、自閉症の当事者研究に詳しい熊谷晋一郎先生は、この本のなかでこう述べていました。

綾屋の当事者研究から示唆されるのは、少なくとも一部のASD者においては、何らかの原因によってシステム・コンソリデーション[睡眠中の記憶の統合過程]が覚醒期間中にも作動しており、それが意識に上って熟眠を阻害しているということである。(p101)

慢性疲労症候群の子ども(CCFS)には発達障害が多い?
小児慢性疲労症候群にはやASD(自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群)やADHD(注意欠如多動症)が併発しやすいという最新の研究を、「いま、小児科医に必要な実践臨床小児睡眠医学」

ですから、不登校や小児型慢性疲労症候群の予防には、眠育による睡眠不足症候群(BIISS)の抑止が効果がある、という事実は、不登校を慢性トラウマによる不動反応としてみた場合にも理にかなっています。

むしろ、PTSDと睡眠障害の関わりを考慮に入れてはじめて、なぜ眠育が小児型慢性疲労症候群を予防するのかという疑問に、筋の通った納得のいく答えを見い出すことが可能になります。

うつ病やPTSDで過覚醒や不眠が多いのに対し、解離や小児型慢性疲労症候群では過眠が多いという点は、それぞれ睡眠中も交感神経系および不動系がベースになって機能していることを示唆しているのかもしれません。

睡眠中に活性化される不動系の反応

PTSDの人は、睡眠中にトラウマ記憶を再体験すると、悪夢にうなされ、フラッシュバックを体験し、心拍数が上がり、突然目覚めたりします。これはトラウマ記憶と「闘争・逃走反応」が結びついているためです。

睡眠の教科書――睡眠専門医が教える快眠メソッドはそのような睡眠中のトラウマ反応についてこう書いています。

睡眠中の再体験は、解決するのがむずかしい問題です。夢の中の出来事を実際に体験しているかのように複雑に体を動かしたり声に出したりします。

そのとき、眠っている人は悪夢を見ているか、夜間不安症、パニック発作、過覚醒、睡眠障害になっていることがあります。(p11)

他方、本文で扱ったように、トラウマ反応のうちPTSDに関わる「闘争・逃走反応」とは逆に、解離に関わる「固まり・麻痺反応」では内臓の働きに影響が及びます。その中には胃腸の過剰な活動や息苦しさが含まれます。

解離の人は、睡眠中にトラウマ記憶が活性化されると、そこに結びついているのは「固まり・麻痺反応」です。つまり、内臓の過剰活動や、心拍の低下、息苦しさなどが生じるはずです。

本文で考察したとおり、解離性障害の人が睡眠麻痺になりやすいのは、睡眠中にトラウマ記憶の断片を活性化してしまい、PTSDとは真逆の不動系の麻痺が引き起こされるからではないでしょうか。

PTSDの人が交感神経系の「闘争・逃走反応」でハッと目を覚ますのが悪夢なのに対し、解離の人が不動系の「固まり・麻痺反応」でハッと目を覚ますのが金縛りだということです。

睡眠麻痺に体外離脱や幻視、息苦しさが伴うのは、それが不動系の反応の一部であることを示唆しています。危機的状況で不動系が働くと、わたしたちは誰でもそうした症状を経験しえます。

解離しやすい人の変な夢ー夢の中で夢を見る,リアルな夢,金縛り,体外離脱,悪夢の治療法など
「解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病」など、さまざまな本を参考に、解離しやすい人が見る変な夢についてまとめました。夢の中で夢を見る、夢の中に自分がいる、リアルな夢

おそらく不動系と関わりが深いと思われる慢性疲労症候群では、しばしば睡眠中の胃食道逆流症(GERD)が睡眠の質を悪化させていると言われていて、特に松原英俊先生が、その分野からCFS治療に励んでいます。

松原英俊 医師,【慢性疲労症候群、胃食道逆流症(特に食道外症状)】,『慢性疲労症候群』,康生会クリニック(医仁会武田総合病院グループ)-総合診療科(まつばらひでとし,) | 名医を探すドクターズガイド

確かなことはわかりませんが、こうした睡眠中の胃腸の過剰反応が、睡眠中のトラウマ記憶活性化による不動系の作用として生じている場合がありうるのではないでしょうか。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアが述べるように、内臓が吐き気をもよおして、内部のものを逆流させるのは、生物が危機に面したときに反射的に生じさせるストレス反応の一部です。

内臓が迷走神経によって持続的に過剰な刺激を受けると、より大きな苦痛を感じることもある。内臓がねじれるような吐き気を催し、筋肉のエネルギーが抜けてエネルギーがなくなったと感じると、無力感と絶望感に襲われる―実際には破壊的な脅威がなくとも。

つまり、現在のところ何も悪いことがなくても―少なくとも外的には―、むかつき自体が重大な脅威と恐怖の信号を脳に送るのである。(p148)

ストレス反応における吐き気は何の意味もなく生じているわけではなく、不動系が全身のエネルギー代謝を減らし、消化に向けるエネルギーさえ節約するために生じています。だから、ひどいストレス下では吐き気が生じ、もどします。

しかし、それが睡眠中のトラウマ記憶の活性化によって危機的状況でもないのに再現されるとしたら、睡眠中の「逃走・逃避反応」の場合と同じく、やっかいな結果を招きます。

個人的に気になるのは、先述したような睡眠時無呼吸が先行してPTSDが生じている例だけでなく、その逆に、トラウマ記憶の活性化によって睡眠時無呼吸が引き起こされるケースがあるのではないだろうか、という点です。

不動系の別の反応のひとつである呼吸系の抑制が起こると、息が詰まったようになります。本文で引用したとおり、極端な場合は喘息のような症状を引き起こします。

もし眠っている間のトラウマ記憶の活性化でそれが引き起こされるケースがあるとすると、それは見かけ上睡眠時無呼吸に近いかもしれません。

それも、一般に多い閉塞性睡眠時無呼吸(OSA)、すなわち息をしようとしているのに詰まってしまうタイプではなく、中枢性睡眠時無呼吸(CSA)、すなわち呼吸中枢の異常で呼吸そのものが一時的に停止するタイプに似ているのかもしれません。

解離の病態でこうした現象が本当に起こりうるのかはわかりませんが、CSAは持続的陽圧呼吸療法(CPAP)ではなく、順応性自動換気装置(ASV)で治療できるそうです。

このあたりのことは、もう少し情報を集めてみないことにはなんともいえませんが、不登校や小児型慢性疲労症候群を不動系のトラウマ反応として考えることで、睡眠との関係性がより明瞭になるのは興味深いところです。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

「こんなに学校に行きたいのにどうやっても行けない」理由―ドーパミンと不動状態のからくり

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の記事は解離と慢性疲労について考えた以下の記事の5つ目の補足です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

本文では、解離と不動状態というキーワードを考慮することによって、不登校や小児型慢性疲労症候群の奇妙なさまざまな症状を、筋道立てて説明できることを示しました。

たとえば、小児型慢性疲労症候群の子どもたちが、「不登校になった理由を説明できない」のは、それが心理的な問題ではなく、慢性的な拘束ストレスによって、からだに叩き込まれた手続き記憶による不動状態だから、と分析しました。

この補足5では、不登校・小児型慢性疲労症候群の子どもたちが経験する矛盾した葛藤について、掘り下げて考えたいと思います。

その矛盾した葛藤とは、三池輝久先生が、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で紹介している次のような状態です。

そのような女子学生が一人、私の外来を訪れた。友人もできて学校は面白い、勉強もしっかりとついていける。喜びに目を輝かせて私に報告してくれたのは一学期の終わり。

ところが二学期がはじまりなぜか学校から足が遠のきはじめる。本人はどうしても行きたいという気持ちが強い。学校は嫌いではない。

「なぜだろう、先生なぜ私は学校へ行けないのでしょうか。こんなに行きたいのに」と涙ながらに訴えるが私にもわからない。(p145)

「どうしても行きたいという気持ちが強い」「学校は嫌いではない」。

それなのに「なぜ私は学校へ行けないのでしょうか。こんなに行きたいのに」と涙ながらに訴える。

わたしも経験しましたが、これは不登校状態の最も悲痛な体験のひとつで、こころではどうしても学校に行きたいのに、なぜかからだがどうしても動いてくれない、という奇妙なからだとこころの解離状態になります。

本人はこれほど強い葛藤に悩まされているのに、「学校嫌い」「怠け」「行きたくないから仮病を使っている」などと残酷な言葉を浴びせられるのは耐えがたい苦痛です。

なぜそんな状態に陥るのか、本人はまったく理由を説明できず、わたしも当時はわけがわかりませんでした。しかし今では、はっきりした医学的理由を提示できるようになったので、この補足にまとめたいと思います。

「行きたいのに行けない」―ドーパミン不足

こころではどうしても行きたいのに、からだはどうあがいても動かなくなる。

これは、単刀直入に言えば、ドーパミン不足の症状です。

近年、小児型慢性疲労症候群ではドーパミン異常が生じていることが確認されています。

小児慢性疲労症候群(CCFS)は報酬系の感受性が低下している―ドーパミン系の治療法が有効?
理化学研究所によると、小児慢性疲労症候群(CCFS)では脳の報酬系のドーパミン機能が低下していることがわかりました。

ドーパミンはしばしば「意欲」を出すための神経伝達物質だと言われます。それで、ドーパミン不足というと、「やる気がない」状態と結びつけられることがあります。

しかし、実際にはそうではありません。ドーパミンは、行動を開始させる信号を送る神経伝達物質です。ドーパミンが働かないと、どんな状態に置かれるかは、次の二冊の本の説明を見るとよくわかります。

不登校の子どもを持つ親や、小児型慢性疲労症候群の当事者の方には、ぜひ以下の部分をしっかり熟読してほしいと思います。

このドーパミンの働きを親子双方がしっかり理解すれば、不幸な誤解によるいさかいが生じなくなりますし、それを周りの人に説明できるようになれば、教師や医者から浴びせられる事実無根の中傷に対する大きな自衛手段になります。

「いくら本人が動きたくても」

まず、精神科医ノーマン・ドイジの脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線という本では、ドーパミンが枯渇するパーキンソン病の当事者が陥る悩ましい状態について、こう書かれています。

パーキンソン病患者の動機の欠如は、怠惰な性格や無関心や意思の弱さに起因するのではなく、いくら本人が動きたくても、動作を起こす動機づけを司る、ドーパミンを基盤とする脳の神経回路が、特定の動作にエネルギーを付与できなくなるために生じ、それが疲労や倦怠に見えるのである。(p151)

注目したいのは「いくら本人が動きたくても」という部分です。

ドーパミン不足による無活動状態に陥った人たちは、まわりから見れば、「怠惰な性格や無関心や意思の弱さ」に見えてしまいます。不登校の小児型慢性疲労症候群の子どもたちもそうです。だらだらと怠けているように見えます。

しかし、本人はやる気がないわけでもなければ、意欲がないわけでもないのです。「いくら本人が動きたくても」、ドーパミンがなければ、意欲を行動へと結びつけることができないので、動き出すことができません

これは言い換えれば、接触が悪くなった照明器具のスイッチのようなものです。スイッチをどれだけカチカチやっても、明かりがたまにしかつきません。

ドーパミン不足のパーキンソン病や小児型慢性疲労症候群の人たちは、そもそも意欲のスイッチを入れようとしていないとみなされがちですが、本人は、ひたすら意欲のスイッチを入れようとしているのに、なぜか動作につながらないのです。

そのせいで『「なぜだろう、先生なぜ私は学校へ行けないのでしょうか。こんなに行きたいのに」と涙ながらに訴える』状態になってしまいます。

言い換えれば、なぜこんなに意欲のスイッチをカチカチ操作しているのに動作につながらないんでしょう?ということです。それだけ必死にやっているのに、やる気がないなどとなじられたら泣き出したくもなります。

もう一冊、神経科学者ジェームス・ファロンのサイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅にも、ドーパミン不足の影響がこう書かれていました。

ドーパミン細胞が死滅していると寝椅子から立ち上がることができない。

起き上がろうとする意志はあって(前頭前皮質)、その計画を持ち(運動前皮質)、起き上がり、歩き始める信号を送る(運動皮質)のだが、この運動を開始させるために、「それをしなさい」を活性化し、「それをしないように」を不活性化するドーパミンがないからである。(p63)

ここでも言わんとしていることは同じです。

「起き上がろうとする意志はあって(前頭前皮質)、その計画を持ち(運動前皮質)」という部分までは働いているのです。学校に行きたいという意志も計画もあるのです。

ところが、『この運動を開始させるために、「それをしなさい」を活性化し、「それをしないように」を不活性化するドーパミンがない』ために、意志や計画が、行動へと結びつかないのです。

極端な場合、どれだけ、起き上がって勉強しなきゃ、学校に行かなきゃと思っていても、「寝椅子から立ち上がることができない」ようになります。

あとで改めて説明しますが、ここで生じているメカニズムは、いわゆる金縛り(睡眠麻痺)に近いものです。金縛りに遭うと、いくら動こうとしても、からだが微動だにしないので疲れはて、ときには恐怖を感じます。

金縛り(睡眠麻痺)状態を一度でも経験した人ならわかるはずですが、そのとき動こうとする意欲も意志も持たない人はいません。むしろ普通以上に動こうとして渾身の力を込め、意欲を振り絞るのですが、動くことができません。

ですから、ドーパミン不足によって不登校状態になっている子どもに、怠けているなどと言った言葉を投げかけることは、本文でも取り上げた学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の三池先生の言葉どおり、中傷でしかありません。

不登校状態に陥った学生生徒が両親からも、友人たちからも、また学校社会からも見捨てられるという強い孤独感と不安感を抱えこんでいく実態は、ほとんど知られていないようである。

ゆえに、彼らを怠けであるとか、根性がないとか否定することにつながっているのであろうが、このような中傷は彼らの傷口に塩を塗り込む行為、いじめや虐待と同様のものといってもよい。(p92)

ドーパミンが足りないと「朝起きられない」

もうひとつ、覚えておきたい点として、不登校や小児型慢性疲労症候群でみられるドーパミン不足は、不登校状態ではかなりの確率で概日リズム睡眠障害を合併することとも密接に関係しているようです。

なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学にはこう書かれていました。

老年期の覚醒と睡眠の周期にまつわる問題は、おそらくSCN(視神経交叉上核)のなかの細胞が失われた結果であろう。

SCNは、無傷でもせいぜい1立方ミリメートルほどの大きさで、約8000個の細胞からなり、視神経が交差する場所の真上にある。

このSCNが親時計としての機能を果たしている。もしこれが狂うと、体内時計全体が狂ってくる。

SCNは光の刺激を受けることが、実験によってわかっている。神経伝達物質ドーパミンはこのプロセスで重要な役目をしていて、老人ではこの物質の生産が減少する。

SCNにおけるドーパミン不足が、私たちが時間に対処する際に重要な問題を引き起こしている可能性がある。(p293)

むずかしい説明に思えるかもしれませんが、簡単にいえば、ドーパミンがなければ、体内時計のリズムが狂う、ということです。

ドーパミンが不足すると、なぜ概日リズム睡眠障害になりやすいか、という点については、こちらの記事で詳しく扱いました。

なぜADHDの人は寝つきが悪いのか―夜疲れていても眠れない概日リズム睡眠障害になるわけ
ADHD(注意欠如多動症)の人は、疲れているのに夜寝つけない、ついつい夜更かししてしまうなどの睡眠リズム異常を抱えやすいといわれています。その原因が意志の弱さではなく、脳の前頭葉な

その記事でも書いたことですが、ドーパミン異常による概日リズム睡眠障害は、意志力でなんとかなる問題ではありません。

すでに見たとおり、ドーパミンは動作の切り替えスイッチの役割を果たしていますが、睡眠と覚醒というモードを切り替えられないのも、その症状の一部です。

ですから、学校に行きたくても行けない、という奇妙な葛藤や、起きたくても起きられないという奇妙な宵っ張りの朝寝坊は、いずれもドーパミンの機能異常という実態を持っている症状です。

決して「意志の弱さ」や「怠け」や「詐病」や「学校嫌い」などではなく、むしろ、当人はどれほど頑張ろうとしていても成果につながらない絶望的な状態に閉じ込められている、ということを理解しなければなりません。

「学習性無力感」に陥る

不登校状態が長くなると、本人が頑張ろうとしているとは到底思えず、何も努力せず、投げやりになっているように見えるかもしれません。でも、最初からそうではなかったはずです。

不登校の子どもは、最初、死に物狂いで頑張っていた時期から、やがて無気力であきらめたかのような無活動状態に移行します。

人間や動物はどれほど頑張っても報われないという経験を長く繰り返すと、最初から努力せずあきらめてしまうようになります。これは「学習性無力感」と呼ばれます。

脳科学は人格を変えられるか?には、心理学者マーティン・セリグマンとスティーブン・マイヤーによる、次のような実験が紹介されています。

この洞察の最初のヒントは、動物を使った研究からもたらされた。ある実験で犬に、絶対に逃れられない電気ショックを繰り返し与えると、〈学習性無力感〉と呼ばれる症状があらわれる。

この命名者であるペンシルバニア大学の心理学者マーティン・セリグマンは、同僚のスティーブン・マイヤーとともに次の独自な実験を行った。

…片方の犬は鼻でレバーを押せば電気ショックを止めることができるが、もう一匹の犬はレバーを押しても電気ショックを止められない。

ここでのポイントは、どちらの犬もまったく同じ回数の電気ショックを受けるが、片方の犬だけが状況を自分でコントロールできるというのだ。(p281)

かわいそうな実験ですが、マイヤーとセリグマンは、犬たちを逃げられない部屋に閉じ込めて、繰り返し電気ショックを与えました。

片方の犬は、レバーを操作すれば電気ショックを止めることができました。もう片方の犬は、レバーを押しても電気ショックが止まりませんでした。

この二種類の体験をした犬たちを、こんどは別の場所に移して、再度 電気ショックを与えると、対照的な反応を見せました。

実験用の小部屋に移され、床に電流が流れたとき、電気ショックを避けようとためらわずに低い敷居を飛び越えたのは、前の実験でコントロールを手にしていた犬たちだった。

逆にコントロールを与えられていた犬は、電気ショックから逃れようと試みすらしなかった。(p281-282)

最初に電気ショックを与えられたとき、自分でレバーを操作して電流を止められた犬たちは、すぐに逃げました。

しかし、どれだけレバーを操作しても電気ショックを止められなかった犬たちは、すぐに逃げられる状況に置かれたときでも、逃げようとせず、ただ無力に打ちひしがれていました。だいたい3分の2の犬がこの状態に陥りました。

この状態こそが「学習性無力感」というものです。何度やっても努力してもうまく行かないという体験があまりに繰り返し続くと、最初から努力そのものをあきらめてしまうようになります。これは動物だけでなく人間にも見られる現象です。

不登校の小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、まさにこの「学習性無力感」に陥ります。

不登校の子どもたちの場合、何度押しても反応しないレバーとは、すでに見たようにドーパミンのスイッチのことです。

不登校の子どもたちは、最初のうち、なんとかして学校に行こう、動き出そう、朝起きようとひたすら死に物狂いで頑張ります。しかしドーパミン不足のため、どれだけ頑張ってレバーを操作してもからだを動かすことができません。

そのせいで、自分ではどうにもならない電気ショックを繰り返し与えられた犬たちのように、「学習性無力感」に陥ります。あれだけ頑張ってもうまくいかなかったのだから、もう何をしても無駄だと人生をあきらめてしまうようになります。

「学習性無力感」にとらわれた状態の不登校の子どもたちを見ると、無気力で怠けているように見えてしまうかもしれませんが、そうなってしまったのは、どれだけ頑張ってもうまくいかなかったせいです。

本当の問題は「意欲のなさ」ではなく、彼らが意欲のあるうちにどれだけ動かしても反応しなかったレバー、つまりドーパミン不足で反応しなくなってしまった行動切り替えのスイッチのほうにあるのです。

さて、ここまでは実はこれまでもわかっていたことで、過去のブログ記事に書いた部分の焼き直しにすぎません。この記事の本題はここからです。

本文で考えた、解離、そして不動状態というキーワードを手がかりにすれば、さらにこの先にある複雑なからくりを知ることができます。

なぜドーパミン不均衡になるのか

そもそも、小児型慢性疲労症候群でドーパミン異常が生じてしまうのはどうしてでしょうか。

すでに見たドーパミンの作用の説明は、おおかたパーキンソン病や年配の人についてのものでした。なぜ、まだ学生のころに若くして、ドーパミン不足に陥ってしまうのでしょうか。

ひとつの答えは、生まれつきドーパミン系が弱いADHDの素因を持っている可能性があります。

ADHDの中でも、不注意優勢型ADHD、いわゆるのび太型ADHDとも呼ばれ、海外では多動(H)がないADDとも呼ばれることがあるタイプの子どもは、ドーパミン不足状態にあり、ぼんやりしやすく、疲れやすい傾向があります。

以前の記事で見たように、小児型慢性疲労症候群の不登校の子どもたちは、かなりの割合で、不注意優勢型ADHDのチェックリストを満たすというデータがあります。

ADHDの人は若くして慢性疲労症候群(CFS)になりやすい?
ADHDの子どもの脳機能の低下が友田先生により報告されています。

しかし、不登校や小児型慢性疲労症候群になる子どもが、皆もともと不注意優勢型のADHDだったのかというと疑問が残ります。

じつは不注意優勢型ADHDのような症状は、必ずしも先天性の発達障害として生じるとは限りません。生まれつき障害といえるほど不注意が激しくなくても、二次的にドーパミン不足の症状に陥ることがあります。

子どものPTSD 診断と治療には、次のような例が書かれていました。

ADHDとトラウマ障害は、行動面や認知も近似しているため、しばしば誤診されかねない。しかし、根底にあるものは異なるため、異なった対処法が必要とされる。

落ち着きがない、着席できないなどの多動症状をや反抗性を示し、一見するとADHDと思われる子どもの中には、過覚醒や回避などのPTSD症状が潜んでいる可能性もある。

心ここにあらずで注意が散漫な不注意優勢型のADDと思われていた症状は、トラウマ障害の解離であるかもしれない。(p117)

大事なのは、最後の一文です。

「心ここにあらずで注意が散漫な不注意優勢型のADDと思われていた症状は、トラウマ障害の解離であるかもしれない」

ここで、本文で取り上げた最大のキーワードと結びつきます。つまり、一見発達障害の不注意優勢型のAD(H)Dのように見える症状は、「解離」かもしれないのです。

不動系が引き起こすドーパミンの遮断

本文で詳しく説明したように、「解離」という症状は、不登校や小児型慢性疲労症候群の中核そのものだと思われます。

解離とは、慢性的に強い自己抑制を必要とするストレス環境に置かれた人たちに見られる、深刻なストレス反応です。

本文でみたとおり、生物は、危機的状況に遭遇したとき、たいていは交感神経が高ぶり、「闘争か逃走か」というストレス反応で対応します。

しかし、あまりにストレスが慢性的で、しかもどこにも逃げ場がないという拘束状態が続くと、次の段階のストレス反応である「固まり・麻痺」で対応します。これが解離です。

このとき、不動系と呼ばれる、人間のみならず爬虫類などの生物にも備わっている原始的な反射が働き、身体の機能がシャットダウンされ、身動きが取れなくなり、凍りつき、エネルギーが枯渇したかのようになります。

この不動系という原始的な反射が身体をのっとり、シャットダウンしてしまうと、自分の意志でからだを動かすことは不可能になります。先ほど触れた金縛りの状態です。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにあるとおり、凶悪犯罪などに遭い、どこにも逃げ場がない状況で襲われた被害者は、しばしばこの不動系による金縛り状態を経験します。

恐怖に誘発された不動状態の本質を考慮すると、大多数のレイプ被害者が、自分が麻痺したように(時には窒息したかのようにも)感じ、身動きがとれなかったと一様に述べるのは当然である。

…ある研究では、子どもの頃に性犯罪に遭った被害者のうち、88%、成人の性犯罪被害者の75%が、事件の最中、からだの強い麻痺を経験したと報告している。(p73)

このようなからだの凍りつきは、性犯罪特有のものではなく、強い危機にさらされながらも「逃げられない」状況に置かれた人がみな経験するものです。

この凍りつきを引き起こす不動系は動物にも存在しているので、強いストレスにさらされ、しかも「逃げられない」状況に置かれたら、人間でなくても解離による不動状態が引き起こされます。

勘の良い方は気づかれたかもしれません。それが、先ほど見た、かわいそうな実験の犬たちに生じていた身動きが取れない学習性無力感の正体です。

別の本、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法は、この実験についてこう説明していました。

マイヤーは、ペンシルヴェニア大学のマーティン・セリグマンと共同研究を行なった。彼の論題は、動物における学習性無力感だった。

マイヤーとセリグマンは、錠を下ろした檻に犬を閉じ込め、痛みを伴う電気ショックを繰り返し与えた。二人はそれを「逃避不能ショック」と呼んだ。(p57)

どうやっても逃げられない状況で繰り返し痛みを味わう「逃避不能ショック」を経験した犬たちは、しだいに解離に陥り、逃げたくてもからだが動かない不動状態に閉じ込められました。

ひとたび不動状態に陥った犬たちは、逃げ出せる状況に置かれてもなお、電気ショックを受けたときに、逃げ出すことができませんでした。

それらの犬たちは、単に逃げ出す意思がなくなってしまったわけではなく、からだが凍りつき、シャットダウンされていたのです。

不登校の子どもたちも、これと同様の不動状態に陥っているといえる根拠については、本文で詳しく説明したとおりです。

繰り返し慢性的なストレスを受けた犬たちが、逃げ出したくてもからだが凍りついてしまったように、不登校の子どもたちも、学校に行きたくてもからだが凍りついて動けない不動状態に陥ります。

この動きたいのに動けない、逃げ出したくてもからだが言うことを聞いてくれない不動状態こそ、最初に考えたドーパミン不足の状態です。

不動系がドーパミンとどのように関連しているかについて、今のところ十分な資料は見当たりませんでした。一応のところ、子どものPTSD 診断と治療には、次のように書かれていました。

トラウマ障害におけるドパミンの直接的な関与はまだ不明であるが、ドパミントランスポーターを支配するSLC6A3遺伝子は慢性PTSDと深い関係にあり、関係性があることは推測される。(p117)

ここでいう慢性PTSDとは解離のことです。

不動系が引き起こす解離のさまざまな症状、注意力散漫、心ここにあらず、健忘、固まり、凍りつきなどは、いずれもドーパミン不足が指摘されている不注意優勢型ADHDやパーキンソン病と共通した症状です。

特に不注意優勢型ADHDと解離は、臨床でも脳画像研究でほぼ区別がつかないとされています。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか
アップルの故スティーブ・ジョブズはADHDとも愛着障害とも言われています。両者はよく似ていて見分けがつきにくいとされますが、この記事では(1)社会福祉学の観点(2)臨床の観点(3)

おそらく不動系は、動作を開始するために必要な神経伝達物質であるドーパミンをシャットダウンすることによって、からだを固まり・麻痺させるストレス反応です。ドーパミンが遮断されるため、こころでは動こうとする意志や計画があっても動けなくなります。

先ほどこう書かれていたのを思い出してください。

心ここにあらずで注意が散漫な不注意優勢型のADDと思われていた症状は、トラウマ障害の解離であるかもしれない。(p117)

トラウマ障害の解離、つまり慢性的なストレスによって引き起こされる不動状態が不注意優勢型ADHDと似ているのは、どちらもドーパミン不足に陥っているからです。

不登校の小児慢性疲労症候群の子どもたちが、不注意優勢型ADHDのチェックリストをかなりの割合で満たしていたのは、もちろん生まれつきそうだった可能性もあるでしょう。

しかしより説得力のある説明は、彼らが、学校生活の慢性的な拘束ストレスのせいで解離状態に陥っていて、ドーパミンが正常に働かず、意志があってもからだを動かせない不動状態に閉じ込められてしまったということです。

「学校に行きたいのにどうしても行けない」という奇妙な症状は、単なるドーパミン不足というよりは、危機的状況で引き起こされるからだのストレス反応である不動状態、そして解離の症状のひとつなのです。

「行きたいのに行けない」が連鎖していく

不登校の子どもが陥る、解離によるドーパミン不足は、年配者に多いパーキンソン病などのドーパミン不足とは似て非なるものです。

パーキンソン病は、ドーパミンの生産そのものの障害です。脳の黒質にあるドーパミンを生産する「工場」そのものがダメージを受けているので、生活のあらゆる場面で、ドーパミン不足に悩まされます。

他方、不登校の子が経験する解離によるドーパミン不足は、ドーパミンの「工場」そのものは正常に働いています。しかし、ドーパミンを運ぶパイプラインが、一部分だけ遮断されます。切り離される、つまり「解離」するということです。

すると、ある活動をするときには、ドーパミンが正常に供給されているのに、別の活動をするときには、ドーパミンが遮断されて足りなくなるという奇妙な状態になります。

そもそも解離というのは、すでに見たとおり、危機的状況に対処するための生物学的なメカニズムでした。生物は、どうあがいても逃げられない危機に直面したとき、ドーパミンを遮断してからだを「固まり・麻痺」の不動状態にならせます。

それは、あたかもブレーカーを落とすようなものです。電気は正常に届いていても、電線が切れていなくても、普通を超えた負荷がかかるとブレーカーが落ち、電気を遮断します。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、「パブロフの犬」で有名な科学者イワン・パブロフは、これまたかわいそうな犬たちの実験を通して、この「普通を超えた負荷」によって脳のブレーカーが落ちてシャットダウンする現象を見つけ、「超限界段階」と名づけました。

パブロフは、緩和されないストレスにつづいて起こる衰弱の記録の第3章と最終章を超-逆説段階と名づけ、されを超限界段階とも呼んだ。

「極限を超えた」状況のこの最終段階で、臨界点に達してしまう。この頂点を超えてしまうと、彼のイヌたちの多くはシャットダウンした。彼らはどんなに時間をかけても、反応しなくなってしまった。

パブロフは、このシャットダウンは神経系の過負荷に対する生物学的な防衛であると信じていた。(p292)

解離によるドーパミンの遮断は、「神経系の過負荷に対する生物学的な防衛」として生じるシャットダウンです。

ドーパミン工場は正常で、途中のパイプラインが断線しているわけではなくても、「逃避不能ショック」の危機的状況に直面すると、一時的にドーパミンのブレーカーが落ち、からだが不動状態になります。

不登校や小児慢性疲労症候群の子どもの場合、このブレーカーが慢性的に落ちてしまっています。しかし断線しているわけではないので、一時的に元にもどって、明かりがつくこともあります。

最初のほうで使ったたとえで言えば、明かりをつけるスイッチがほとんど役に立たなくなってしまっていても、ときどきちゃんと電気が通って、明かりがつく瞬間があります。

解離は「からだの記憶」

実際の停電や明かりの故障とは違って、不登校や小児慢性疲労症候群の子どもたちの場合、ドーパミンのブレーカーが落ちたり、ときどき回復したりするのは、偶然でもたまたまでもなく、すべて理由があって生じています。

本文で見たとおり、解離、そして不動状態は、「からだの記憶」によって引き起こされる条件反射のようなものでした。

かわいそうな犬たちが味わった慢性的な電気ショックのような体験、つまり逃げられない環境で繰り返しストレスにさらされると、それは条件反射としてからだに結び付けられます。

条件反射というと、パブロフの犬のエピソードが有名です。パブロフの犬は、エサを持ってくる人のベルの音を聞くや、まだエサを食べてもいないのによだれを垂らすようになりました。ベルを聞くだけで、エサを食べた「からだの記憶」が呼び起こされるようになったのです。

セリグマンとマイヤーの電気ショックを受けた犬たちは、電気ショックの痛みという「からだの記憶」が、そのときの反応である不動状態と結びついてしまいました。

そのせいで、たとえ逃げ場のある部屋で電気ショックを受けたとしても、不動状態になって逃げ出せませんでした。電気ショックは「からだの記憶」を呼び覚ましたので、動こうにもドーパミンが遮断されてしまっていたのです。

そして、不登校の子どもたちの場合、学校で繰り返し受けた慢性的なストレスが、それによって引き起こされた不動状態と結びついています。からだは、学校という場所で受けた苦痛を記憶しています。

そのため、こころがどんなに行きたくても、学校に行こうとすると、からだは不動状態を再演します。それは心理的な問題ではなく、「からだの記憶」が引き起こす条件反射です。

「学校に行きたくても行けない」という悲痛な訴えは、こころがいくら意欲を持とうと努力しても、からだのほうが学校に行くことを拒否して、マイヤーとセリグマンの犬たちと同じ不動状態に閉じ込められていることで生じるのです。

三池先生が学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で、こう述べていたとおりです。

理性では二度とサリン事件などあるはずもないと感じている。しかし防衛本能が地下鉄に乗ることを抑止するのである。

不登校状態でも、生命力の低下を経験するので同じ反応がおこってしまうと考えられる。

肉体的な疲労は回復し精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。(p67)

なぜ学校以外にも行けなくなるのか

このように「学校に行きたくても行けない」という不動状態は、学校と結びついた「からだの記憶」によって引き起こされています。

裏を返せば、学校と結びついていないことに関しては、「からだの記憶」は不動状態を引き起こさないということでもあります。

不登校の子どもたちが親を悩ませるのは、学校にはどうしても行けず、慢性疲労状態に陥っているのに、ときどきゲームなどには熱中できて、元気そうに見えることです。

本文で考えたとおり、これは、不動状態が必ずしも固定しているわけではない、ということから生じています。

先ほど考えたとおり、解離におけるドーパミン不足とは、パーキンソン病のようなドーパミン工場の障害ではなく、ブレーカーが落ちてしまうことで生じていました。

このブレーカーは「からだの記憶」によってコントロールされていて、学校で味わった慢性的なストレスを想起させる場面ではブレーカーを落としてしまいますが、そのストレスから解放されている場面では、ブレーカーを上げて不動状態を解除することがあります。

不登校や小児慢性疲労症候群の子どもたちでも、自分が特に興味あること、楽しいことなどには、比較的元気そうに取り組めるのはこのせいでしょう。

しかし、それなら、学校には行けなくても、その他の活動なら何でも元気に楽しめるのか、というと必ずしもそうではありません。

ここが「からだの記憶」のやっかいなところであり、不登校が長期化し、慢性疲労症候群、そして社会的引きこもりへと発展していってしまう理由でもあります。

もう一度、脳科学は人格を変えられるか?に書かれていたセリグマンとマイヤーの「逃避不能ショック」にさらされたかわいそうな犬たちのことを考えてみてください。

一部の犬は実験用の小部屋に入れられる前に、逃れることのできない電気ショックを経験している。

手順は次の通りだ。二匹の犬をペアにし、弱い電気ショックを双方に与える。

片方の犬は鼻でレバーを押せば電気ショックを止めることができるが、もう一匹の犬はレバーを押しても電気ショックを止められない。

ここでのポイントは、どちらの犬もまったく同じ回数の電気ショックを受けるが、片方の犬だけが状況を自分でコントロールできるというのだ。

実験用の小部屋に移され、床に電流が流れたとき、電気ショックを避けようとためらわずに低い敷居を飛び越えたのは、前の実験でコントロールを手にしていた犬たちだった。

逆にコントロールを与えられていた犬は、電気ショックから逃れようと試みすらしなかった。(p281-282)

今回注目したいのは、これらの犬たちは、違う場所で同じ不動状態を経験していることです。

犬たちが「逃避不能ショック」というトラウマを経験したのは、「実験用の小部屋に入れられる前に」別の部屋でのことでした。

しかし「実験用の小部屋に移され、床に電流が流れたとき」、先ほどの別の部屋で経験したのと同じ不動反応が引き起こされました。最初と違う場所だったにもかかわらず、同じ刺激が与えられると同じ反応が生じてしまったのです。

これを不登校の子どもたちに当てはめると、つまりこういうことです。

不登校の子どもたちが「逃避不能ショック」のような慢性的な拘束ストレスを経験し、不動状態に陥ってしまったのは、学校という場所でのことです。だから、そのトラウマ現場である学校に行こうとすると不動状態が引き起こされるのは当然です。

しかし、たとえ実際に拘束ストレスを経験した学校以外の場所でも、似たような刺激を感じる場所ではどこでも「からだの記憶」が不動状態を引き起こす可能性があります。

ここで、冒頭に引用した三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)のエピソードを、前後の文脈を含めてもっと詳しく引用してみましょう。

不登校状態とは、生命の脳が疲れ果てた状態、すなわち生命力の低下状態であることはこれまでに詳細に述べた。

中学時代不登校となり、なにかやり残してしまった思いから高校だけは卒業したいと考えて進学する人は多い。

そのような女子学生が一人、私の外来を訪れた。友人もできて学校は面白い、勉強もしっかりとついていける。喜びに目を輝かせて私に報告してくれたのは一学期の終わり。

ところが二学期がはじまりなぜか学校から足が遠のきはじめる。本人はどうしても行きたいという気持ちが強い。学校は嫌いではない。

「なぜだろう、先生なぜ私は学校へ行けないのでしょうか。こんなに行きたいのに」と涙ながらに訴えるが私にもわからない。

私にいえることは、学校に留まれば留まるほど、こだわればこだわるほど、生命力の低下は取り返しのつかないものになっていく事実である。

少なくとも不登校状態を経験したものは、学校での生活をあきらめて学校から離れなければならないという悲しい現実があるのである。(p145)

冒頭に引用した範囲ではあえて省略していましたが、これは高校時代に初めて不登校になった子どものエピソードではないのです。

中学時代に不登校になり、それでもなんとかもう一度トライしたいと思い、高校に進学したにもかかわらず、そこでもまた不登校になってしまった生徒のエピソードでした。

この女子学生は、中学時代はともかく、新しい高校では、「友人もできて学校は面白い、勉強もしっかりとついていける」と感じていました。学校は嫌いではなく、楽しめていたはずでした。

それなのに、なぜかからだが学校に行けなくなり、「なぜだろう、先生なぜ私は学校へ行けないのでしょうか。こんなに行きたいのに」と涙ながらに訴えることしかできませんでした。

三池先生はなぜそうなるのか「私にもわからない」としていますが、この奇妙な不登校のループは、ここまで見てきたセリグマンとマイヤーの実験と学習性無力感から、はっきりと説明できます。

それは、最初の部屋で逃避不能ショックを経験して不動状態に陥った犬たちが、別の逃避可能な部屋に移されたときも、電気ショックによって不動状態になってしまったのとまったく同じです。

ひとたび中学校という場で「逃避不能ショック」を味わい、不登校という不動状態が引き起こされてしまった子どもは、高校という別の場所に行ったとしても、同じ不動状態が引き起こされます。

たとえそこが友だちができて授業も楽しめたとしても、高校の教室で感じる何らかの刺激が「からだの記憶」を目覚めさせてしまったら、有無を言わさずまたもや不動状態に陥ってしまうのです。

三池先生が「少なくとも不登校状態を経験したものは、学校での生活をあきらめて学校から離れなければならないという悲しい現実がある」と結論しているとおりです。

不登校から引きこもりへのループ

本文で説明したとおり、不登校の不動状態を引き起こしている「からだの記憶」はいわゆる「手続き記憶」と呼ばれるタイプの記憶です。

この記憶は、正誤クイズや受験勉強で覚える陳述記憶とは違って、自転車の乗り方や楽器の弾き方、懐かしの歌のメロディのような、からだに記憶される手順やリズムと同じたぐいの記憶です。

こうした手続き記憶は、陳述記憶と違ってめったに忘れることがありません。長い間自転車に乗っていなくても乗ってみれば走り方を思い出し、楽器を手に取れば弾き方を思い出し、たとえ何十年経っていても昔の流行のメロディをふと思い出せます。

ちょっとしたかすかな匂いや、誰かが口ずさんだフレーズで、懐かしのメロディ全体を思い出せるように、手続き記憶は、ちょっとした刺激で目覚め、昔学んだループを忠実に再現します。

不登校の子どものからだに染み付いている解離と不動状態の反応は、この手続き記憶であり、まったく同じ状況に置かれずとも、何かのきっかけで容易に再現されます。

ひどい慢性的な拘束ストレスを味わった場所の雰囲気、音、映像、におい、空間を、からだはよく覚えています。事実、トラウマ記憶はそうした断片的な要素で構成されています。

この種の記憶は右脳に保存されているようですが、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。

右脳は音や声、触感、匂い、それらが喚起する情動の記憶を保存する。また、過去に見聞きした声や目鼻立ち、仕草、場所に自動的に反応する。

右脳が思い起こすことは、直感的な事実、すなわち物事の実際のありようのように感じられる。(p82)

右脳に保存されている「からだの記憶」は、雰囲気や場所などに「自動的に反応」して再生されます。

すると、実際には拘束ストレスを味わって不動状態に陥ったのが中学校のときの体験だったとしても、高校に通って教室の同じような雰囲気にからだが既視感を覚えると、からだは不動状態という手続き記憶を懐かしのメロディのように再生します。

社会人になって、アルバイトや会社勤めを始めたとしても、会議や勉強会のような場など、何かしら中学校のときの「からだの記憶」を呼び起こしうるトリガーがあれば、やはり長い時を超えて、不動状態の手続き記憶が再生されます。

このとき、実際には脅威でないものに対しても、「からだの記憶」が反応し、不動状態を引き起こすようになります。

たとえば、職場のスピーチの際に、中学校で不登校状態になったころと似た緊張感を感じるとします。頭では、その二つの場面はまったく違うものだとわかっています。しかし心拍変動などのからだの感覚が似ていれば、からだはそれを同種のものと見なします。

これはいわゆる「吊り橋効果」です。吊り橋の上で告白されると、本当は高所のためにドキドキしているのに、相手に気があるせいでドキドキしているとからだが誤認してしまい、理由もわからず恋愛感情が引き起こされるというものです。

同様に先ほどの女子学生の例でいうと、高校での経験は「友人もできて学校は面白い、勉強もしっかりとついていける」と思っていたのに、教室で引き起こされるからだの反応が中学校時代に似ていたせいで、望まないうちに不動状態が誘発されていたのではないでしょうか。

こうして、もともとの体験とは一見関係なさそうな場面にまで不動状態が結び付けられ、不動状態を引き起こすトリガーが増加していき、しまいには四六時中不動状態に悩まされるようになってしまう状態、それが小児型慢性疲労症候群だといえます。

そして、不登校の子どもが、その後、意を決して社会復帰しようとしてもそのたびに不動状態のループを味わい、何度やってもうまくいかないという無力感をつのらせていき、最終的に学習性無力感に支配されてしまうのが引きこもりなのです。

じつは、これと同様のループは、慢性疲労症候群と近縁の病気である化学物質過敏症で、はっきりと観察できます。

化学物質過敏症(CS)は、最初、一種類か数種類の化学物質に反応してさまざまな症状が引き起こされるだけですが、次第にさまざまな無関係に思える化学物質にも反応するようになり、しまいにはあらゆる化学物質に反応して身動きが取れない状態に追い込まれます。

化学物質過敏症―ここまできた診断・治療・予防法 (生命と環境21)が述べるように、これを拡散現象(spreading)といい、多種多様な化学物質に反応するようになってしまった状態を多種類化学物質過敏症(MCS)と呼びます。

反応する化学物質とそれに伴う症状がどんどん増えていくことがあります。これを拡散現象と言います。多種類化学物質過敏症が完成されていく現象です。(p63)

化学物質過敏症は、おそらく特定の成分に反応しているというよりは、不登校の子どもが小児型慢性疲労症候群や引きこもりに発展していくのと同じような、「からだの記憶」の拡散現象に陥っている病態だと思います。

最初、ある匂いが特定の症状と結びついた条件反射という「からだの記憶」が作られ、その後、マイヤーとセリグマンの犬と同様、その「からだの記憶」を呼び覚ますトリガーであれば何でも反応するようになっていき、最終的に逃げ場がなくなってしまうのです。

解明難しい 化学物質過敏症 「におい」の記憶、起因の可能性 | どうしんウェブ/電子版(医療・健康)

先ほど、不登校ではドーパミン不足が生じているということや、小児型慢性疲労症候群ではドーパミン関連の治療が役立つ可能性があるというニュースを紹介しました。

そうすると、不登校における解離状態の治療にはドーパミンを増やす薬が効果的ではないか、という結論になりそうですが、こうした拡散現象のメカニズムからすると、それは慎重になるべき点です。

不登校でドーパミンがシャットダウンされているのは、解離という防衛反応によるものです。つまり、超限界段階の過剰な刺激に対する生物学的な対処として、あえてドーパミンがシャットダウンされています。

それなのに、薬でドーパミンを増やすということは、限界を訴えているからだに強壮剤を打つようなものです。身体が危機を感じて解離させているにも関わらず、覚醒状態を上げることはトラウマ反応の増強につながるおそれもあります。

ドーパミン不足の原因が、生理的にドーパミンが少ない不注意優勢型ADHDであれば、コンサータなどの薬でドーパミンを増加させるのは効果があるのでしょう。

しかし、トラウマ障害の解離のせいで二次的にドーパミン不足になっている場合は、以下の子どものPTSD 診断と治療の指示に留意する必要がありそうです。

薬物療法を行う際、ADHDに使用される中枢神経薬は時としてトラウマ障害の症状増悪をもたらす可能性も示唆されている。

ドパミンを上昇させるメチルフェニデートではなく、むしろニューロトランスミッターを抑制するクロニジンのほうが望ましいとされている。(p118)

交感神経を抑制するタイプのクロニジンやプロプラノロールなどの降圧薬は小児型慢性疲労症候群の治療でも使われています。

別の記事で改めて書くつもりですが、プロプラノロールなどβブロッカーと呼ばれるタイプの薬や、自律神経の興奮を鎮めるマインドフルネスは、この種の悪循環を食い止める助けになるはずです。

「学校を捨ててみよう!」

こうして不登校の「行きたいのに行けない」の理由を解き明かすと、これが極めて深刻なトラウマ性の反応であることがわかります。

意欲を出せば克服できるものでもなければ、認知行動療法のように考え方を変えるだけで太刀打ちできるような「こころの問題」や「心理的な葛藤」ではないのです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるとおり、この不動状態のループを抜け出すには、積極的な対策を考える必要があります。

人は圧倒するような力に屈服するように強いられると、しばしば忍従することによって生き延びる。

これは、虐待された子供や、家庭内暴力から逃れられない女性、監禁された人々のほとんどに当てはまる。

深く染み込んだ屈服のパターンを克服する最善の方法は、自ら積極的に行動して防御するための身体能力を回復することだ。(p357)

不登校における不動状態は、檻の中に監禁されて繰り返し電気ショックを浴びせられた犬たちのように、学校の塀の中に閉じ込められて、繰り返し緊張や恥にさらされ続けた子どもが陥る「深く染み込んだ屈服のパターン」です。

これを「克服する最善の方法」は、「自ら積極的に行動して防御するための身体能力を回復すること」です。

不登校の子どもにとって、自ら積極的に行動して防御するための身体能力を回復する最善の方法とはなんでしょうか。

三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で、先ほどの女子学生についてのエピソードの終わりにこう書いています。

私にいえることは、学校に留まれば留まるほど、こだわればこだわるほど、生命力の低下は取り返しのつかないものになっていく事実である。

少なくとも不登校状態を経験したものは、学校での生活をあきらめて学校から離れなければならないという悲しい現実があるのである。

これが現在の私の結論である。そうしなければ彼らの脳は萎縮し、若年性痴呆があらわれてしまうかもしれない。

私のこころからのメッセージはこうである。

「疲れた子どもたちよ! 学校を離れて人生に役立つ大事な勉強をはじめよう」(p145)

ここで考えたとおり、一度「からだの記憶」として学校と結びついた不動状態のループが染み付いてしまった人は、学校に戻るたびに不動状態が再生されます。たとえ場所が違っても似たような環境では不動状態が再演されます。

そうすると、学校にこだわればこだわるほど、「行きたくても行けない」という葛藤に悩まされることになります。学校に関われば関わるだけ条件付けが強化されていきます。

これは近年言われている不眠症のメカニズム、寝れないのにベッドに横になって寝ようとすればするほどベッド=眠れない場所という条件付けが強化され、不眠症が悪化していくという負のフィードバックと同じたぐいの現象です。

本当はその人の弱さでも怠けでもなんでもなく、ただ生理反応としての不動状態のために「行きたくても行けない」のですが、そんな医学的理由があるなど露ほども思いません

うまく行かず失敗するたびに周りの大人から、意欲が足りない、こころが弱いなどと言われつづけます。そう言われ続けると、自分でも、今回もダメだった、情けない、何をやってもダメだという気持ちを繰り返し繰り返し味わいます。

それを何度も何度も経験すると、どれだけトライしても状況を変えられなかったマイヤーとセリグマンの犬と同様、「学習性無力感」に陥ります。

失敗体験を積み重ねすぎて、本当なら活路がある場面でも挑戦しなくなり、最初からあきらめてしまい、引きこもりになります。

最初は学校に行けなかっただけのはずが、ありとあらゆる場面で、さまざまなトリガーによって「からだの記憶」が刺激され、不動状態が引き起こされるようになっていきます。そして一生抜け出せなくなります。

この不登校から引きこもりに至る「深く染み込んだ屈服のパターン」を克服する最善の方法は、「自ら積極的に行動して防御するための身体能力を回復すること」です。

「疲れた子どもたちよ! 学校を離れて人生に役立つ大事な勉強をはじめよう」ということばに従うことです。

「どうあがいても学校に行けなかった」ではなく「自分から学校を捨てて、もっと将来に役に立つ勉強を始めてみました」と言えるようになることです。

「学校に行けなくなる」のと「自分から学校以外の道を選ぶ」のとではまったく違います。どれほど違うのか知るために、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれている次の実験を考えてみてください。

生まれたばかりの子ネコに可動性の装置を取り付け、円形の囲いの中に入れた。一群の子ネコは能動的に装置を引きながら囲いの中を歩き回れたのに対し、もう一群は受動的に装置に引っ張られた。

両群とも囲いの中を動き回って厳密に同じ視覚体験をした。

しかし、環境を主体的に探索することなく、受動的に引き回された子ネコは、のちに視覚を運動の手がかりとして用いることができなかった。足を適切な位置に置くことも、落ちそうな場所から逃げることもできなかった。

この障害は、環境を探索しながら自発的に動き回れるようにすると、すみやかに正常に戻った。(p158)

この実験では子ネコを2つのグループに分け、同じ機械を取り付けました。

片方のグループは機械に引っ張られて受動的に動き回りました。もう片方のグループは機械を引っ張って能動的に動き回りました。そしてどちらも同じものを見て歩きました。

同じものを見たのなら、同じことを学んだはず、と思うかもしれません。しかし同じ場所で同じ経験をしていたにもかかわらず、自分から動き回った子ネコは健康だったのに、引っ張られて動いた子ネコは混乱して感覚がおかしくなっていたのです。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」
難病など極めて困難な試練から奇跡の生還を遂げる人たちは、共通の特徴「内的統制」を持っていることが明らかになってきました。「がんが自然に治る生き方」「奇跡の生還を科学する」などの本か

学校という場は、どれだけ主体性を重んじようと綺麗事を言われても、受動的な体験ばかりです。授業の内容も、時間も、座る場所も、学ぶ課題も、すべて決められています。あまつさえ、塀に囲まれた刑務所のように、授業が終わるまで半日も拘束され続けます。

そんな受動的な空間に拘束され、逃げられないストレスを受け続け、しまいには不登校にされてしまい、しかも不登校になった子どものほうが悪いかのように責められ、落ちこぼれ扱いされます。

学校にとらわれ、学校の価値基準にそって考え続けているかぎり、機械に引き回された子ネコと同じです。

学校に引き回されるのをやめて、自分の足で動きまわり、自分の人生を自分で決めるようになれば、おのずと無力感のループから解放されます。子ネコの障害は「環境を探索しながら自発的に動き回れるようにすると、すみやかに正常に戻った」のですから。

あなたが「学校に行きたいのにどうやっても行けない」のは、意志の弱さでもこころの問題でも何でもない、ということを知りましょう。それは学校社会から見た一方的な決めつけなのです。

あなたが学校に捨てられた不登校の子どもであるかぎり、主導権は学校側にあり、あなたは受動的な立場です。主導権を取り戻すには、学校を捨ててみよう!しかありません。「学校に捨てられた」はトラウマですが、「学校を捨てた」はトラウマにはなりません。

今は、学校に通い続ける以外にも、社会に出て活躍する選択肢はたくさんあります。「人生に役立つ大事な勉強をはじめ」る選択肢は、高卒検定であれフリースクールであれ、さらにもっと多様な選択肢だって探せば見つかるでしょう。

わたしの場合は、学校にこだわりすぎて、不動状態のループがかなり悪化しました。自分で学校に行かないことを選ぶのではなく、ひたすら頑張って、学校に行こうとしがみつき続けて、あまりに体調が悪化してボロボロになって完全に行けなくなりました。

不登校になってからも復学することを望んでしがみつき続けました。どうにかして学校に戻るため力を振り絞りましたが、症状は悪化する一方で、生きているのか死んでいるのかわからなくなりました。

何をやっても、どうあがいてもうまく行かず、本当は頑張りたいという意志はあるのにからだがまったく動かなくて、学習性無力感に打ちひしがれました。自尊心なんて木っ端微塵に砕け散って、生ける屍の日々を過ごしました。

無理を重ねすぎた結果、不動状態がからだに染み込んで抜けなくなりました。不登校になって高校も卒業できず、大学も行けませんでした。凍りつきや慢性疲労にいまだに悩まされています。

もう学校には行っていないはずなのに、別の楽しい交流の場でも、しばしば不動状態が再演されます。最初は楽しんでいても、月日が経つとともに、まず交感神経系の「闘争・逃走反応」が起こり始め、身体がおかしくなっていき、しまいには「固まり・麻痺反応」に陥ってシャットダウンします。

「こんなに楽しいのになんでからだが行けなくなるんだろう」と思ったとき、不登校になったあのときと同じメロディをからだが再生しているのだとハッと気づきました。それがこの記事を書くきっかけになりました。

でも、そんなわたしでも、どんなに小さなことであっても、自分の人生の手綱を握ろうと決めたことで、少しずつ人生を取り戻してくることができました。

今だって、なんとか自活していますし、こうして問題が生じるたびに、頭をひねって原因を探り出すことができます。原因がわかれば、解決策を考え出すことだってできるのです。

自分の人生のコントロールを取り戻すのに手遅れはありません。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

「からだの記憶」の治療法―解離と慢性疲労のための身体志向のトラウマセラピー

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「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。

実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。

したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)

れは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきに寄せられたカナダのサイコセラピスト ガボール・マテの言葉です。

ガボール・マテはわたしにとって重要な気づきをくれた医師でした。彼のことを知ったのは、慢性疲労症候群(CFS)の専門医である三浦一樹先生のおかげです。

外旭川サテライトクリニックの三浦先生は、こちらの記事の中で、慢性疲労の原因を知るための本として、ガボール・マテの身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価を勧めていました。

当時、わたしは愛着と解離について学びはじめたばかりでしたが、ガボール・マテは、精神神経免疫学の知見を通して、これまで「こころ」の問題として知られていたものが、慢性疲労や慢性疼痛、自己免疫疾患などの「からだ」の症状として現れる理由を解き明かしてくれました。

この本の中で、ガボール・マテは、その原因を失感情症や解離と結びつけています。これまで愛着や解離を心理的な反応だと思いこんでいたわたしに、生物学的な観点を与えてくれたすばらしい本です。(p363)

そのガボール・マテが、解離と不動状態、そして慢性疲労が「からだの記憶」によってもたらされる生物学的現象であることを説明したピーター・ラヴィーンの身体に閉じ込められたトラウマのまえがきを書いていたことには、運命的な邂逅を感じます。

ガボール・マテは、「トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ」というラヴィーンの意見に賛同しています。

それゆえ、『知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しない』と言います。身体に刻まれたトラウマを治療するには、カウンセリングのような心理療法ではなく、「からだ」を対象とした身体志向の治療が必要なのです。

身体志向のトラウマ・セラピーの専門家は、あまり馴染みがないかもしれませんが、その分野に通じているセラピストは日本国内でも少数ながら見つけることができます。

たとえば、ラヴィーンが考案したソマティック・エクスペリエンス(SE)をはじめ、センサリーモーター・サイコセラピー(感覚運動心理療法)ロルフィング、トラウマ・ストレス解放法(TRE)、自我状態療法、内的家族システム療法(IFS)、エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)、ペッソ・ボイデンシステム精神運動(PBSP療法)、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッドなど、身体志向のトラウマセラビーにはさまざまなものがあります。

この記事では、一つずつ詳しく取り上げるわけではありませんが、トラウマ障害に関わる「からだの記憶」とは何か、身体志向のセラピーで大事なポイントは何か、という点を見ていきたいと思います。

これはどんな本?

この記事を書くきっかけになったのは、最近繰り返し紹介している本、神経生理学者ピーター・A・ラヴィーンによる身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアです。

冒頭でも書いたように、わたしが強く影響を受けたガボール・マテや、ヴァン・デア・コークといった専門家たちに支持されている、非常に内容の濃い一冊です。

正直言って、内容がかなり難しいので万人にはお勧めしませんが、多くの本を読んできた上でこの本に出会ったわたしにとっては、あらゆる分野の知識がつながっていく「賢者の石」のように、書かれていることすべてが刺激的でした。

この記事は、わたしが探し求めていた宝の地図ともいえるこの本を参考にしつつ、このブログのひとつの区切りのつもりで書いてみました。

「からだの記憶」とは

最近書いた一連の解離と慢性疲労の考察の土台となっているのは、症状をもたらしているのは「心理的な問題」や「こころの傷」ではなく、「からだの記憶」から来ているという理解です。

だから君は慢性疲労に閉じ込められた―生きるエネルギーを枯渇させる解離そして不動状態
解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

「からだの記憶」とは何を意味しているのか、ということについて、過去の記事で繰り返し説明してきましたが、ここで改めて整理しておきましょう。

この一連の記事で扱っている「からだの記憶」とは、一般に「無意識」や「潜在記憶」と呼ばれているものと同じです。しかし、より具体的に言えば、それらは「手続き記憶」と呼ばれるタイプの記憶です。

ノーマン・ドイジの脳は奇跡を起こすの説明を読んでみましょう。

神経科学では、記憶システムには大きく分けてふたつあるとしている。

…二歳二ヶ月の子どもでも、しっかり発達しているのは「手続き記憶」または「潜在記憶」である(カンデルは、このふたつの用語を同義に使うことが多い)。

ここで説明されているように、わたしたちには二種類の記憶システムがあります。それはことばで言い表せる顕在記憶と、言い表せない潜在記憶、またはことばで書き記せる陳述記憶と、からだで表すしかない手続き記憶です。

ここでは「潜在記憶」と「手続き記憶」は同じ意味で使われています。ことばで表現できない「潜在記憶」とは、からだで表現するしかない「手続き記憶」だということです。

手続き記憶は、二歳二ヶ月の赤ちゃん、つまり、まだ文脈のある意識的な記憶(顕在記憶)をつかさどる海馬が発達していない赤ちゃんにも存在している記憶です。

この「手続き記憶」には、どのような特徴があるのか、続く説明を見てみましょう。

手続き記憶/潜在記憶は、注意をあまり必要としない。一連の手続きや自動的な行為を学習するときに機能する記憶で、言語を必要としないのがふつうだ。

人との非言語的なかかわりや、感情的な記憶の多くは、手続き記憶の一部をなしている。(p270)

手続き記憶は、「一連の手続きや自動的な行為を学習するときに機能する記憶」です。つまり、自動的に気づかないうちに実行されるパターンだということです。

カンデルはこう言っている。

「生まれてから二、三年のあいだ、つまり母親との関係がとりわけ大事な時期には、子どもは主に手続き記憶に頼っている」。

この記憶はたいてい無意識である。人が自転車に乗るときには、手続き記憶に頼っている。自転車に乗れる人たちは、どうやって乗るか、説明しようとしても言葉に詰まる。

手続き記憶/潜在記憶は、フロイトが主張したように、わたしたちが無意識の記憶をもっていることを裏づけるのだ。(p270)

「手続き記憶」とは、言語を必要とせず、自動的に再生される記憶であり、フロイトが指摘した「無意識の記憶」でもあります。

無意識は果たして存在するのか、という議論が行われていたこともありましたが、なんのことはない、わたしたちすべてが日常的に無意識の記憶の恩恵を受けています。

無意識とは「手続き記憶」であり、自転車の乗り方や楽器の弾き方のような、言葉で説明できない、からだに染み込んだ記憶のことだからです。

わたしたちは、いつの間にか、気づかないうちに手慣れた家事をこなせます。いつもの習慣で同じ道を通って学校へまた会社へ行きます。操作法について考えなくてもスマホの慣れたアプリを操作し、メールを打つことができます。すべて無意識のうちに行えます。

これらはいずれも、最初に身につけるときは意識して覚えたかもしれませんが、その後は、自動的に実行されるようになりました。すべて無意識の記憶であり、手続き記憶であり「からだの記憶」だからです。

愛着―最初の手続き記憶

「からだの記憶」、すなわち「手続き記憶」は、知らず知らずの間にからだに叩き込まれ染みつくこと、無意識のうちに自動的に繰り返し実行されるパターンであること、そして言葉で説明できないという特徴があります。

「からだの記憶」は、わたしたちの生活のあらゆる部分に、気づかないうちに関与しています。自転車に乗ったり、楽器を弾いたりするときだけでなく、ありとあらゆる場面で、何かしらの手続き記憶が実行されています。

わたしたちの生活で、もっとも最初に身につき、その後の人生で飽き飽きするほど繰り返し実行される手続き記憶は、「愛着」です。

近年、愛着障害という言葉が知られるようになりました。生後2,3歳ごろまでの幼少期に養育者から受けた扱いが、その後の人生に大きな影響を及ぼすという概念です。

長引く病気の陰にある「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
愛着理論によると、子どものころの養育環境は、遺伝子と同じほど強い影響を持ち、障害にわたって人生に関与するとされています。愛着の傷は生きにくさやさまざまなストレスをもたらす反面、創造

たとえば、親から愛情に満ちた世話を受け、「安定型」の愛着を身に着けた子どもは、大人になってからもバランスの取れた人間関係を築けます。

一方あまり関心を示されず「回避型」の愛着を身に着けた子どもは、自分にも他人にも関心が薄く、厳しく批判的になりがちです。

過干渉された「不安型」の愛着の子どもは、大きくなっても人の顔色に敏感で、他人の気持ちに執着し振り回されます。

こうした愛着の影響は心理学的なものだと思われがちですが、そうではありません。愛着とは、人生最初の「手続き記憶」です。

先ほど引用した文中でカンデルはこう述べていました。

「生まれてから二、三年のあいだ、つまり母親との関係がとりわけ大事な時期には、子どもは主に手続き記憶に頼っている」。

生まれてから二、三年、つまり愛着が形成される期間は、まだ海馬が十分に発達しておらず、言葉にできる意識的な顕在記憶はほとんどありません。その代わり、赤ちゃんには、「からだの記憶」が備わっています。

脳は奇跡を起こすの続く文脈にはこう説明されていました。

ヒトの場合、二歳までは右半球のほうが大きい。左半球はそれから急激な成長をはじめるが、三歳頃までは右半球が脳を支配している。

二歳二ヶ月の幼児は、複雑な「右脳に支配された」感情的な生き物であるが、左脳の機能がまだじゅうぶん発達していないので、自分の経験したことを話すことができない。

脳スキャンでも、子どもが二歳になるまでは、母親が自分の右半球を使って非言語コミュニケーションをして、子どもの右半球に訴えかけているのがわかる。(p267)

言語的なコミュニケーションや記憶は、言語中枢のある左脳(右利きの人の99%、左利きの人の70&の場合)に依存しています。

生まれて間もない赤ちゃんは、まだ左脳が発達途上にあるので、親からの世話などの記憶は、通常の言葉にできる記憶ではなく、右脳がつかさどる非言語的な記憶、つまり「手続き記憶」として記憶されます。

ちょうど自転車の乗り方を覚えるように、赤ちゃんは、親から受けたコミュニケーションの仕方を手続き記憶としてからだで覚えます。自転車の乗り方と同様、からだの記憶は大人になっても忘れられることなく、自動的に繰り返されます。

大人になってからの人間関係において、赤ちゃんのときに親から受けた養育から学んだ「手続き記憶」を何度でも無意識に、自動的に繰り返す。これが「愛着」の正体です。

生まれてから三年以内にトラウマを経験した場合、そのトラウマの顕在記憶は、あったとしてもごくわずかだと思われる(Lは、四歳までの記憶はひとつもないと話していた)。

しかし、これらのトラウマについての手続き記憶/潜在記憶は存在していて、トラウマと似たような状況に置かれたときに噴出したり、誘発されたりする。

こういった記憶は、「まったく予期しないときに」よみがえる。顕在記憶とは違って、時間や場所、文脈によって分類されないらしいのだ。

感情的なかかわりにまつわる潜在記憶は、転移あるいは人生のさまざまな場面において、しばしば繰り返される。(p270-271)

赤ちゃんのときの記憶は、言葉で表せません。それは言葉に依存する普通の顕在記憶ではありません。その代わり、からだに記憶された手続き記憶、無意識の潜在記憶として残っているのです。

幼少期に親からの扱いは、あまりに劣悪だった場合、それが愛着トラウマとしてからだに記憶され、その後の人生でも勝手に気づかないうちに繰り返し実行されます。そのせいで、その人は「愛着障害」と診断されます。

しかし逆に、他の人と安定したコミュニケーションを平和裏に行える人は何の手続き記憶も持っていないわけではありません。

その人たちは、愛情深い親から受けた優しい世話という手続き記憶をやはり身につけていて、それが無意識のうちに繰り返されるので、まわりの人と仲良くやっていけるのです。

手続き記憶そのものには良いも悪いもなく、望ましい手続き記憶が身につけば立派な習慣になる一方、破壊的な手続き記憶がからだに叩き込まれると、その人は理由もわからず負のループにとらわれてしまい、簡単には抜け出せなくなってしまいます。

習慣的な姿勢や情動―無意識の記憶

「手続き記憶」は、自転車に乗るときや楽器を弾くときや、だれかとコミュニケーションするとき以外にも、四六時中、わたしたちのからだに影響を与えています。

たとえばそれは習慣的な姿勢です。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、アレクサンダー・テクニークの創始者、F.M.アレクサンダーはこう言いました。

19世紀末のオーストラリア人、F.M.アレクサンダーは人間の姿勢について広範な研究を行い、「心理学者たちが語る無意識というのは、からだのことなのだ」と結論づけた。(p185)

スポーツ選手は、バッティングフォームを手続き記憶としてからだに覚えさせ、ダンサーは一連の演技の姿勢を手続き記憶としてからだに覚え込ませます。

しかし、そうした職業についていなくても、わたしたちの姿勢には、何かしらの無意識のうちに身についた手続き記憶が反映されています。

その人が無意識のうちに経験してきパターンを、からだが手続き記憶として記憶したものが、習慣的な姿勢です。

まさにガゼルのように、危険に鋭敏に順応し、ふさわしい行動をとる用意がヒトには備わっている。

あるヒトの姿勢、身ぶり、そして表情は、その人が脅かされ圧倒されたときに何が起きて何が起きなかったかということを無言で物語る。

習慣的な姿勢は、過去の何をたどり、何が解消されなければならないかということを教えてくれる。(p56)

わたしたちは、さまざまな刺激に対して、反射的に身構えることをよく知っています。危険を感じたらハッとして身体をこわばらせますし、拘束されつづけると無力感を感じて背を縮こませます。

以前の記事で説明したように、わたしたちのからだの自律神経系は、内外からの刺激に応じて、反射的にストレス応答システムを起動させます。

柔らかいベッドに横になってリラックスしたり、マッサージされたり、愛する人に抱かれたりすると、副交感神経の腹側迷走神経系が働き、からだはゆったりと落ち着き、緊張は解け、安心感を感じ、心地よく自然な姿勢になります。

ストレスにさらされ、脅かされ、ビクビクしていると、交感神経系が働き、からだは緊張し、冷や汗が流れ、脅威に対して身構え、今にも逃げ出したり闘ったりできるよう力がこもり、臨戦態勢の姿勢になり、恐怖や不安の情動に支配されます。

あまりに慢性的なストレスにさらされ、逃げ場も安心できる場所も見いだせないと、背側迷走神経系が起動し、からだは凍りつき、背中は縮こまり、ゾンビのようにだらりと手が下がり、とぼとぼと歩くようになり、無気力や絶望に襲われます。

これらの姿勢と情動の変化は、どれも、自分でそうしようと考えて、意識的に選ぶものではありません。からだが勝手に反応しています。各々のストレス反応と、からだの一連の姿勢と、さまざまな情動は、すべて結びついたものだからです。

そして、日々の生活で、いつも安心感を感じている人はリラックスした姿勢と安心感が習慣的になり、いつもビクビクしている人は身構えているような姿勢と不安が習慣的になり、無力感を感じてる人は手を垂れ下がらせた姿勢と絶望が習慣的になります。

生活の中でそうしたストレスを繰り返し味わうと、いつの間にかそのときの姿勢、そして姿勢と結びついた情動が、習慣としてからだに記憶されていくからです。

私たちの習慣的な行動や気分のうち、どれだけのものが意識的に気づける範囲の外側にあるのだろうか?

そうした行動や気分が、実際は異なるにもかかわらず、自分自身の一部や自分そのものであるとどれほど長い間思われているのだろうか?

こうした行動はこころでは長い間忘れられ(合理化され)ているが、からだによって正確に記憶されている出来事への反応なのだ。(p203)

アレクサンダーが述べていたとおり、無意識の記憶は、からだの姿勢や情動として記憶されているということです。

こうした姿勢に関わる無意識の「からだの記憶」は個人個人に備わるものである以前に、全人類、ひいては様々な生物に見られる普遍的な現象でもあります。

しばしばスピリチュアルな分野で、「集合的無意識」という概念が取り上げられますが、カール・ユングは、これを霊的なものと見なしていませんでした。

ユングは、この集合的無意識は抽象的・象徴的な概念ではなく、実在する物理的・生物学的な現実であると考えていた。(p306)

「集合的無意識」とは目に見えない世界に漂うものではなく、習慣的な姿勢に現れる無意識と同じ「からだの記憶」だとみなすことができます。

「からだの記憶」は姿勢や情動と結びついた生物学的なものであるがゆえに、遺伝によって先祖から脈々と受け継がれます。

一見無関係に思える多くの人が、まるでテレパシーでつながっているかのように同じ感情や意識を経験するとき、それはある動作や姿勢と結びついた「からだの記憶」が再生されているのであり、その記憶ははるか祖先から全人類に等しく受け継がれています。

たとえばストレス反応の「闘争・逃走反応」や「固まり・麻痺反応」は、それ自体が、いずれも姿勢、感情、振る舞いなどが結びついた手続き記憶のパターンです。

これらはすべて、生物のDNAに刻み込まれ、脈々と遺伝してきた「からだの記憶」であり、それがユングの言う「集合的無意識」なのです。

トラウマ記憶―右脳の記憶

知らず知らずのうちにストレスが無意識のからだの姿勢となって記憶されることからわかるように、無意識の手続き記憶は、トラウマ記憶と密接に関係しています。

すでに見たとおり、無意識の手続き記憶とは、生後2-3歳ごろまでに先に発達している右脳がつかさどる記憶でした。左脳の言語機能が関与しないところでからだに記憶されるのが手続き記憶であり、愛着障害であり、習慣的な姿勢です。

トラウマ記憶は、そうした無意識のうちにからだに記録される手続き記憶の最たるもの、最も極端で破壊的なものです。

以前の記事でも何度か取り上げましたが、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるようにPTSDのフラッシュバックでは、右脳だけが活性化することがわかっており、トラウマ記憶とはすなわち右脳の記憶だとされています。

これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。(p81)

人は脳の右半球で空間的記憶を処理しており、私たちが行なった神経画像研究でも、トラウマの痕跡が、おもに右半球にあることがわかっていた。

気遣いや非難、無関心はみな、おおむね表情、声の調子、身体的な動きで伝わる。最近の研究によると、人のコミュニケーションの最大九割が、非言語的な機能が優位な右半球の領域で起こるという。(p495)

メディアでしばしば、「あなたにとってトラウマになっていることは何ですか?」といった話題が扱われます。「ゲームや映画でトラウマになったシーンは?」という特集が組まれることもあります。

しかし、こうした質問に対し、「わたしは何々がトラウマになりました」と答えられるなら、それは医学的な意味ではトラウマ記憶ではありません。

PTSDや解離で症状を引き起こしているトラウマ記憶とは、ことばで説明できる陳述記憶または顕在記憶ではなく、ことばで説明できない、自分でもわけがわからないまま自動的に実行されてしまう右脳の手続き記憶だからです。

この右脳の手続き記憶が関与しているトラウマ記憶は、ことばで説明できる文脈のある一貫した記憶とはまったく異なっています。

右脳は音や声、触感、匂い、それらが喚起する情動の記憶を保存する。また過去に見聞きした声や目鼻立ち、仕草、場所に自動的に反応する。

右脳が思い起こすことは、直感的な事実、すなわち物事の実際のありようのように感じられる。(p82)

自転車の乗り方をことばだけで誰かに教えることができるでしょうか。いいえ、それは空間的、視覚的なもので、からだで経験しなければわかりません。そしてからだで経験した後で、だれかに筋道立てて説明することもできません。

同様に、トラウマ記憶は、ことばで筋道立てて説明することができず、音、声、触感などの空間的な断片としてフラッシュバックしたり、何かのきっかけで気づかないうちに自動的に呼び覚まされたりして、ことばではなく、からだで再体験します。

トラウマ記憶は、本人の気づかないところで、知らないうちに自動的に繰り返し再生されます。幼少期の養育による人生最初のトラウマが、愛着障害として、気づかないうちに自動的に繰り返されてしまうのと同じです。

これがトラウマの「再演」であり、解離における「憑依」「させられ体験」の正体です。勝手に手続き記憶が再生されるので、だれかに操られているかのように感じてしまうわけです。

通常、わたしたちの二重の記憶システムは、鳥の両翼、自転車の両輪のように、互いに補い合って機能しています。赤ちゃんのころは手続き記憶しか働いていないとしても、成長すれば、陳述記憶と手続き記憶は協力してその人の人生を織りなしていきます。

しかし、あまりに衝撃的な体験をすると、この二つの記憶システムが切り離され、自分でも意識しないうちに、つまり陳述記憶の手の届かないところで、トラウマが無意識の手続き記憶としてからだに焼き付いていまいます。

通常の条件下では、理性的なものと情動的なものという、この二つの記憶のシステムは協働し、結合された反応を生み出す。

だが、覚醒の度合いが高まれば、両システム間の均衡が変化するだけでなく、入ってくる情報を適切に保存したり統合したりするのに必要な、海馬や視床など他の脳領域との接続も断たれる。

その結果、トラウマ体験はの痕跡は、筋の通った、一貫した物語としてではなく、断片化された感覚的痕跡や、情動的痕跡、すなわち光景、音、声、身体的感覚として構成される。(p291)

ことばで説明できる陳述記憶から切り離されて、知らないうちに衝撃的なトラウマ経験が「からだ」にだけ焼き付いてしまう、これが解離です。

人が自分の記憶を変えたり歪めたりするのは自然であるのに対して、PTSDの患者はそうした記憶のもとである実際の出来事を過去のものにできないことをジャネは発見した。

解離のせいで、複合的で絶えず変わる自伝的記憶の貯蔵庫内部にトラウマは統合されず、端的に言えば、複式の記憶のシステムが構築されるのだ。(p298)

トラウマ記憶は、意識から解離されているので、陳述記憶として語ることはできません。筋道立てて説明できません。しかし、もう一方の記憶システム、無意識のからだの記憶である手続き記憶にはまざまざと焼き付いています。

すると、トラウマ記憶を負った人は、自転車の片方のタイヤだけがパンクしているかのように、鳥の片方の翼だけが麻痺しているかのようになります。まともに走ることも羽ばたくこともできなくなります。

顕在記憶では、自分はもうトラウマから解放されたことを知っています。自分のトラウマはもう終わった過去のことであり、とても辛い思いをしたと、ことばで語ることはできます。

しかし顕在記憶から解離された「からだ」の記憶は、いまだにトラウマの時間のただ中に取り残されていて、トラウマが終わったことに気づいていません。

からだの手続き記憶が、交感神経系の「闘争・逃走反応」を延々と繰り返しつづけるのがPTSDであり、背側迷走神経系の「固まり・麻痺反応」を延々と繰り返しつづけるのが解離です。

こうしたからだのストレス反応は、本来緊急時に一時的に機能するためのシステムなので、延々と機能しつづけると、からだに破壊的な影響を及ぼします。

常に緊張した筋肉は痛みを生じさせますし、常に凍りついた筋肉はエネルギーを枯渇させます。つねにトラウマのさなかにある内臓や呼吸器系はさまざまな不定愁訴を引き起こします。

それどころか、慢性的に続くストレス反応は、内分泌系のホルモン分泌パターンや、免疫系の働きともつながっているので、さまざまな精神疾患や自己免疫疾患の原因にさえなります。

以前に取り上げた身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価でカナダの医師ガボール・マテが説明していたように、精神神経免疫学では精神的なストレスが免疫系や内分泌系の反応に影響を及ぼし、重大な疾患を引き起こすことが明らかになっています。

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身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、実際にからだの記憶である染み付いたストレス反応が、免疫疾患の発症と関わっていることが示唆されています。

調査が終わり、データを分析したクラディンの報告によると、近親姦サバイバーたちは、トラウマを経験していない対照群と違い、CD45のRAとROの比率に異常が見られるとのことだった。CD45細胞は、免疫系の「記憶細胞」だ。

…過去に近親姦を経験した患者たちは、いつでも襲いかかる準備のできたRA細胞の割合が標準より大きかった。そのせいで免疫系が脅威に対して過敏になり、必要でないときや、自分の体の細胞を攻撃することになってしまうときにさえも、防衛を開始しがちだ。(p210)

「からだの記憶」は、単なる動作のパターンではありません。それは、心身の反応すべてを含むパターンです。

からだに染み付いたトラウマ記憶が、トラウマの瞬間のストレス反応を繰り返し再演するとき、からだはトラウマの瞬間の姿勢をとるだけでなく、内臓も、手足も、内分泌系も、免疫系も、からだのありとあらゆるシステムが、トラウマの瞬間のパターンを再演します。

それが慢性的に再生されるということは、からだのあらゆるシステムが、トラウマの瞬間のストレス反応を繰り返してして、単にこころだけでなく、からだ全体で、トラウマを再体験しつづけているということです。

愛着障害やPTSDなどの人たちは、単にこころの問題に悩まされるだけでなく、心身症や自己免疫疾患やがんや、その他ありとあらゆる病気になりやすいことがわかっています。

それは、トラウマが「こころの問題」でも「心理的な葛藤」でもなく、からだの記憶であり、トラウマの身体反応が右脳の手続き記憶に刻まれ、からだ全体で再演されているからです。

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だから、冒頭で引用したようにガボール・マテは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでこう語っているのです。

「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。

実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。

したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)

トラウマとは「からだから始まり、こころが後に続く」ものです。

治療には「身体的な経験が必要」

ガボール・マテが述べるとおり、トラウマは「からだの記憶」であるゆえに、「対話による療法」では、「十分に深いところまで到達しない」という問題があります。

これは、従来言われていたような、PTSDや解離は「こころの問題」であるがゆえに、カウンセリングを主体としたことばによる治療が有効だ、という考え方に真っ向から異議を唱えるものです。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でベッセル・ヴァン・デア・コークが繰り返し述べているように、カウンセリングや認知行動療法や曝露療法などの従来の治療法は、「からだの記憶」を扱えないばかりか、症状を悪化させてしまうこともあります。

前回の記事で詳しく扱ったように、トラウマ障害で生じているさまざまな症状は、こころの問題というより、生物学的な問題でした。

高度なこころを持つ人間だけでなく、さまざまなイヌやサルやネズミなど、哺乳類を使った実験でも、PTSDの「逃走・闘争反応」や、解離のシャットダウンなどを再現することができます。

動物たちは、こころの感情的なもつれで、そうした症状に陥っているわけではありません。動物たちは、言語的な陳述記憶を用いて考えたり悩んだりしません。

動物たちの場合、PTSDや解離症状を引き起こしているのは、トラウマに曝露されたときに作られた手続き記憶であり、ことぱで考えずとも、意識せずとも、無意識のうちに、自動的に、からだに染みついたトラウマの瞬間のパターンが再演されてしまっているのです。

それで、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴァン・デア・コークは、それらイヌたちの実験を通して得られた理解を、人間のトラウマ患者たちにも応用できるのではないか、と考えました。

たとえば、扉が開いているときに電気ショックを与える檻から逃げられることを、トラウマを受けた犬たちに教えるには、どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう、檻から繰り返し引きずり出すしかないことを彼とセリグマンは発見した。

私も患者を手助けし、自らを守る手立てはまったくないという、彼らの基本姿勢を変えてあげられないだろうか。

私の患者たちも、自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻すには、身体的な経験が必要なのではないか。

自分がはまり込み、身動きがとれなくなっているトラウマに似た、潜在的脅威となる状況から、体を動かして逃げ出すことを、彼らに教えられないだろうか。(p59)

ヴァン・デア・コークは、度重なるトラウマ経験によって解離の不動状態に陥ってしまったイヌたちの実験から、同じように不動状態と学習性無力感に陥っている人間の患者たちを助けるヒントを見いだしました。

当然ながら、イヌたちをカウンセリングしたり、認知行動療法を施したりしても、トラウマ反応が解けることはありません。

その代わり、イヌたちは、「どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう」にされれば、トラウマ反応の不動状態から抜け出せることがわかりました。

そうであれば、人間のトラウマ患者の場合も同じです。

私の患者たちも、自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻すには、身体的な経験が必要なのではないか。

ヴァン・デア・コークはそう考えて、これまでの会話や解釈に重きを置いたトラウマ治療ではなく、身体志向の治療法の可能性を探るようになりました。ことばではなくからだによって、「体を動かして逃げ出すことを」患者たちに教えるのです。

そのような身体志向のトラウマ・セラピーのひとつが、解離と慢性疲労についての一連の記事で何度も参考にしてきたピーター・ラヴィーンが考案したソマティック・エクスペリエンス(SE:Somatic Experiencing)です。

ヴァン・デア・コークは、ピーター・ラヴィーンを「私の友人であり師である」と紹介しつつ、ソマティック・エクスペリエンスの身体志向の治療法について触れています。

身体療法は、動いても安全だという経験によって、患者が再び現在に身を置くのを助けることができる。

効果的な行動をとることの喜びを感じると、主体感覚と、自分を積極的に防御して保護できるのだという感覚を取り戻せる。

すでに1893年に、トラウマの最初の偉大な探究者であるピエール・ジャネは、「行動を完遂させることの喜び」について書いている。

私は、センサリーモーター・サイコセラピーと、ソマティック・エクスペリエンスを実践するときに、その喜びをいつも目にする。

反撃したり逃げたりしたら経験していたであろう感じを身体的に経験できると、患者はリラックスし、微笑み、達成感を実現するのだ。(p356-357)

ソマティック・エクスペリエンスでは、自分のからだを観察して気づきを得るよう患者を助けます。

まず自分のからだを観察して、トラウマの痕跡がどこに残っているかに気づき、その感覚を無視したり、抑え込んだりするのではなく、耐えられるように段階的に援助し、自分のからだをコントロールしていく力を育みます。

ちょうど、セリグマンとマイヤーが、不動状態に陥ったイヌたちを「どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう」助けたように、からだの反応をコントロールしてトラウマのただ中から、手続き記憶の再生のループから抜け出せるよう助けるのです。

マインドフルネス―感じながら観察する

ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でソマティック・エクスペリエンスの方法をさまざまな観点から説明していますが、この記事ではいくつかの要点にしぼって考えてみましょう。

これから考えるのは、ソマティック・エクスペリエンスだけでなく、さまざまな身体志向のセラピーに共通する手法です。

治療の具体的な手順というよりは、一般的な会話を主体としたセラピーとは異なる部分、「からだの記憶」を治療するときに心構えとして理解しておきたいポイントです。

ラヴィーンが「一人でもできるが、他の人がいるところでした方が実りが多い」と述べているように、こうしたセラピーは、できるなら経験を積んだ専門家の支えのもと行うのが望ましいといえます。(p348)

冒頭で挙げたような、ソマティック・エクスペリエンスその他の身体志向のセラピストを探してみるのは、こうした治療を実践するのに役立つかもしれません。

どのようなトラウマ治療法でも、まず最初にやるべきなのは、安全な場所のイメージを確保することです。自分が安心感を感じられるイメージ、思い出のぬいぐるみであれ、場所であれ、架空の世界であれ、圧倒されそうになったときに避難できるイメージを用意します。

ついで、身体志向のセラピーでは、「からだの声」に耳を傾けるトレーニングを積んでいきます。

セラピストは、その信念を捨てるよう説得するのではなく、その思考がからだの中に宿る場所を探り、どの部分が緊張し、どの部分が開放されてゆったりしているかに気づき、少しでも虚脱感を感じる場所を突き止めるようクライアントを促すとよい。

おそらくもっと重要なのは、感情のない場所にも気づくよう促すことである。(p178)

ラヴィーンの説明は、近年よく知られるようになってきたマインドフルネスと呼ばれるセルフモニタリングの手法と共通しています。

マインドフルネスでは、目を閉じて自分の感覚に注意を研ぎ澄まし、どのような感覚や感情が現れても、それらをただ確認するだけで、何も反応しないように努めます。

簡単に聞こえますが、このステップは非常に難しく、わたしたちがいかに「からだの声」に耳を傾けていないかを痛感させられます。

このエクササイズが簡単だと思ったり、最初の実験でからだの境界の中にあるすべてを観察できたと思ったりしたら、それはほぼ確実に間違いだ。

おそらく、価値判断や評価を加えずに体験を「ただ」観察するということがどれほど難しいかに気づき始めただろう。

からだの気づきのスキルは、時間をかけて徐々に培っていく必要がある。

あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されて、さらなる抑圧や解離につながるおそれがある。(p349)

要点は「ただ観察する」ということです。自分のからだに起こっている感情や感覚、痛みや緊張や疲労やうずきや不快感や、その他なんであれ、どんな感覚に対しても、それを感じると同時に、ただ観察するトレーニングを積みます。

マインドフルネスでは、いかなる感覚や情動が出てきても、ただそれを確認するだけで、何も反応したり解釈したりすることなく、呼吸に注意を戻すように訓練されます。

はじめのうちは簡単に思えるかもしれませんが、よくよく内面を観察するとき、必ずどんな感覚や情動に対しても、条件反射のようにとっさに別の反応をしてしまっていることに気づくはずです。

からだの緊張に気づいた次の瞬間に、不快感から反射的に姿勢を変えようとしたり、咳払いなどのチック症状を起こしたり、ネガティブな情動に気づいたとたんに、反射的にそれから目をそらして脇に追いやろうとしたり、あらゆる感覚に対して、必ず何かしらの反応をとってしまっているものです。

まずは、こうした感覚や情動を感じたら、いかなる反応も保留して、ただ観察することを徹底します。ただ中立的に観察し、注意を集中することもそらすこともなく、じっと自分の内面をモニタリングします。

このとき、からだの中の何かの感覚に気づいたり、思いもよらない記憶がよみがえってきたりしても、それをたどっていこうとしないよう気をつけます。

何かのトリガーに反応して、それを無意識に追いかけていってしまうのが、PTSDなどのトラウマ反応で生じている本質です。刺激に促されるままに、条件反射としてトラウマの手続き記憶を再生してしまうのではなく、ただ観察する訓練を積むのです。

誤解されがちですが、反応を保留する、というのは反応を抑え込むことではありません。

この経験的なプロセスには、感情を習慣的なやり方で表すのではなく一時保留にしておく能力が含まれる。

このように自制することは、抑制の行為ではなく、感覚と感情を保ったまま区別するための、より大きな入れ物、体験の器を形成する行為である。(p382)

感覚や情動を感じたとき過剰に反応するのがPTSDであり、過剰に抑え込むのが解離です。

もしからだが、過敏に反応するわけでも、過敏に抑制するわけでもなく、ただ姿勢を自発的にに変えようとするのであれば、それを見守り、観察するのもマインドフルネスの一部です。

「そこにとどまる必要もないけれど、去る必要もない」

ここで注意したいのは、ラヴィーンが「あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されて、さらなる抑圧や解離につながるおそれがある」と書いていたことです。

解離傾向の強い人は、からだの刺激や情動を感じたとき、その感覚を切り離して頭を空っぽにしてぼうっとする解離というかたちの条件反射で対応しがちです。しかしそれはマインドフルネスではありません。

マインドフルネスとは、しっかり感覚や情動に注意を向け続けながらも、それに対して反応しないトレーニングです。感覚を切り離してやり過ごしてしまえば、条件反射で反応してしまっていることになります。

意識が飛んで別のことを考え出してしまったり、何も考えなくなって時間が飛んでしまったりしたら、それは解離が起こっている証拠です。あくまで意識を「今ここ」に保ち、感覚や情動をモニタリングしつづけなければ意味がありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークは、トラウマを対象としたヨーガのプログラムに、この「ただ観察する」手法が応用されています。

ポーズのうち私にとってトリガーになりうるものもあります。今日は二つありました。

両脚をカエルのように上げるものと、骨盤に向かってとても深い呼吸をしていくものです。パニックが始まりかけるのを感じました。

とくに呼吸をするポーズでは、ああ、嫌だ、私は体のこの部分を感じたくはないのにと思いました。

でも、それから自分を抑えて、かろうじてこう言うことができました。体のこの部分が経験をしまい込んでいることに気づきなさい。そして、ただ、そのままにしておきなさい、と。

そこにとどまる必要もないけれど、去る必要もない。それを情報として使いなさい、と。これほど意識的なかたちで、そうできたことはなかったと思います。(p455)

ヴァン・デア・コークは、ヨーガの特定のポーズをとりながら、自分の感覚や情動に注意を集中するプログラムを考案しました。

以前の記事で取り上げたように、ヴァン・デア・コークらによるヨーガを用いたトラウマ・セラピーの最初の研究では、半数以上の人が脱落してしまいました。

身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

それは、ヨーガにおける特定の姿勢が、性的暴行の「からだの記憶」を強く呼び覚ましすぎて、フラッシュバックや再体験につながったからでした。

この女性の場合は、感じた感覚に対して、解離反応を起こして、「この部分を感じたくはないのに」と思い、そこを「去る」ことを選びそうになりましたが、意識を保ってとどまりました。

ラヴィーンの言うように、「からだの記憶」への気づきを焦りすぎることは、「あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されて、さらなる抑圧や解離につながるおそれ」があります。

ラヴィーンは、ちょうど振り子運動(ペンデュレーション)のように、徐々にからだの声に耳を傾けること、圧倒されそうになったら、安全な場所のイメージに立ち戻ることを勧めています。

トラウマ障害で感覚が解離している人は、これまでの人生で長きにわたって、「からだの声」に耳を傾けず、からだが何かを言おうとするたびに反射的にそれをさえぎったり覆い隠したり、脇に押しやったりしてきました。

そうしなければ、からだに刻まれたトラウマ記憶に圧倒され、呑み込まれてしまうかもしれないという無意識の防衛から、トラウマを負った人は、自分のからだの声を麻痺させ、意識から遠ざけるようになります。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。

トラウマを負った人は、感じるのを恐れていることが多い。今や彼らの敵は、加害者(近くにいて傷つけられることがもうなければいいのだが)ではなく、自分の身体的感覚だ。

不快な感覚に乗っ取られるのではないかという不安から、体が凍りつき、心は閉ざされたままになる。

トラウマは過去のものなのに、情動脳は、サバイバーがおびえたり、無力だと感じたりするような感覚を生み続ける。

じつに多くのトラウマサバイバーが、強迫観念に駆られて飲み食いし、愛し合うことを恐れ、多くの社会的な活動を避けるのも驚くにはあたらない。

彼らの感覚世界の大部分が、立ち入り禁止になっているのだ。(p340)

からだの感覚を抑圧し、麻痺させ、なかったことにし、気づかないふりをして、「立ち入り禁止」にして、「からだの記憶」にアクセスしようとしてきたのですから、突然、海に飛び込むかのように踏み込むのは危険です。

海で泳ぐ前に、まずプールサイドで準備体操して、底の浅いプールで少しずつ泳ぐ練習をしていく必要があります。

つまり安心できる場所のイメージというプールサイドと、「からだの記憶」という水の中を少しずつ振り子運動(ペンデュレーション)し、毎日少しずつ、練習していくのが大事です。

先ほどの女性が言っていた「そこにとどまる必要もないけれど、去る必要もない」というのがマインドフルネスのキーワードです。

刺激に敏感に反応しすぎて「そこにとどまる」PTSD反応を起こしたり、敏感に抑え込みすぎてからだから「去る」解離反応を起こしたりせず、ただ感じながら反応しない、からだがやりたいようにするのをただ観察するというトレーニングをするのです。

「からだの声」を聞く―反射的にさえぎらずに

マインドフルネスで感覚や情動をただ観察し、条件反射的な反応を保留する、というのは、じつは、何か特別で異質な訓練なのではなく、からだとコミュニケーションをするためのごく普通の方法です。

トラウマ治療には「会話を主体とした療法」ではなく、「身体志向の治療法」が必要だと書きましたが、このふたつは異質なものではなく、とてもよく似ています。

身体志向のセラピーでやろうとしていることをわかりやすく理解するのは、からだを擬人化する必要があります。

ここに三人の人間がいると考えてみてください。「セラピスト」と「あなた」とあなたの「からだ」です。

会話を主体とした療法は、「セラピスト」と「あなた」の二人で会話する治療法です。「からだ」は発言させてもらえません。「からだ」が口を挟むことができず、ぜんぶ「あなた」が代弁してしまい、「セラピスト」と「あなた」と二人だけで話が進んでいきます。

他方、身体志向のセラピーは、「あなた」と「からだ」の二人で会話する治療法です。「セラピスト」は協力するとしても陰から手助けするだけです。「あなた」が「からだ」と直接やりとりして、「からだ」の言い分を聞くようにします。

人間同士のセラピーにおいて、「セラピスト」は「あなた」の話を傾聴します。あなたがどんなことを言おうと、途中で口を挟んだりせず、一方的な解釈を述べたり、理由付けしようとしたりせず、ただ黙って、「あなた」の話に耳を傾けます。

もし、「あなた」が何かを話そうと口を開きかけるたびに、「セラピスト」が話をさえぎって、すぐに「それはきっとこういうことですよ。~だからそうなっているんだと思いますよ」なんて反応してきたら、そんなセラピストのもとに通うのはやめるでしょう。

まず、「あなた」の話を批判せず、頭ごなしに退けたり遮ったりもせず、真剣に耳を傾けてくれる「セラピスト」にあなたは相談したいと思うはずです。

身体志向のセラピーは、これとまったく同じことを、「あなた」と「からだ」で行います。

「からだ」はさまざまな感覚や情動をとおして、「あなた」に語りかけます。ところが、あなたは、これまでの習慣では、「からだ」の声を最後まで聞かず、いきなり遮って反応してしまうのが当たり前になっています。

「あなた」が「からだ」の声をまったく聞かず、ちょっと「からだ」が口を開こうものなら、条件反射的に遮ってあれこれ反応してしまっているせいで、「あなた」と「からだ」は疎遠になり、解離してしまっています。

マインドフルネスは、「からだ」が何かを言いかけたときに、反射的にさえぎるのをやめ、いわば傾聴するためのトレーニングです。「からだ」が何を言おうとも、じっくりと「からだ」の声に耳を傾け、反応したり否定したりせず、よく聞くためのトレーニングなのです。

わたしを含め、大勢の人は、「からだ」の声を最後まで聞かず、さまざまな仕方で勝手に解釈したり、理由づけしたりしてしまっています。

疲労が生じたらシップを貼り、痛みが生じたら痛み止めを飲んで麻痺させ、湿疹や胃腸の不具合などが出たら、検査しにいきます。「からだ」の声に耳を傾けようとせず、一方的に決めつけ、機械的な医学で対処してしまっています。

これはちょうど、患者の話を聞かない医者とよく似ています。あまりに忙しいのか、診察室に入ると、患者の話をほとんど聞かず、二、三言聞いただけで検査にまわし、あとは「お薬を出しましょう」と言うだけの医者です。

こうした医者は、往々にして、症状の背後に潜む「からだ」の声を聴き逃しがちです。精神神経免疫学が明らかにしたように、慢性疲労にしても慢性疼痛にしても自己免疫疾患にしても心身の相関の上に発症しますが、そうしたコミュニケーションを一切無視しています。

あなたはそんな医者にはあまりかかりたくないと思うかもしれません。

ところが、あなたがその医者なのです。

わたしもまたそうですが、「あなた」は自分の「からだ」に対して、そうした医者たちと同じ対応をしています。「からだ」の言い分に耳を傾けず、ただ症状だけを見て、あれこれと勝手に理由付けし、解釈し、人間味を無視した治療を追い求め、薬を飲んで「からだ」を黙らせています。

ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で「原因不明」の慢性疼痛に悩み続ける人たちについてこう書いています。

長期にわたって怒ったりおびえたりしていると、筋肉が常に緊張状態になるために、いずれ痙攣や背中の痛み、偏頭痛、線維筋痛症といった、何らかの慢性疼痛の症状が出る。

そうした人々は、さまざまな専門家に診てもらい、多様な診断検査を受け、多くの薬を処方されるかもしれない。

それによって一時的に苦しみから解放されることもあるのだろうが、どれも根底にある問題は正してくれない。

診断によって患者の問題が規定されてしまい、それがトラウマに対処しようとする彼らの試みの表れなのだと認識されることはない。(p439)

この人たちの慢性疼痛は、れっきとした理由があって生じていました。「長期にわたって怒ったりおびえたりしている」ために筋肉が緊張し、連鎖的反応の終着点として慢性疼痛が生じていました。

ほんとうは、「からだ」は恐怖や不安を感じているために、「逃走か闘争か」の状態にあり、今すぐにも逃げ出したい緊張状態にあるかもしれません。しかし条件反射的にそれを抑え、固まらせてしまっていることで、からだはいつまでも緊張から抜け出せません。

それなのに、彼らは、「からだの声」に耳を傾けようとしませんでした。ただ、さまざまな専門家に診てもらい、からだとコミュニケーションするどころか、薬で感覚を麻痺させ、黙らせようとしていました。原因不明になってしまうのも当然です。

「からだ」がさまざまな症状を見せるのにはすべて理由があります。ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでこう書いています。

このプロセスで大切なことの一つは、これらの感覚に重要なものなどないという考えを捨てることだ。そのように見えるかもしれないが、そう決めつけてしまうと、感覚の重要性が明らかになっていくのを妨げることになる。

…特に、この実験段階での目的は、あまりにもなじみのあるものになっていて、意味などなく思われる緊張や感覚の慢性的なパターンを探ってもらうことだ。(p356)

「からだ」の感覚や情動は、すべて意味のない単なる症状ではなく、「からだの声」であり、何かしらの理由をもって、「あなた」に発せられているメッセージなのです。

わたしたちは「からだ」にすぎないのではないか

「からだ」を擬人化して考えるこうした見方は、人によっては、ばからしく思えるかもしれません、ただのままごとや空想遊びのように感じられたとしても致し方ないことです。

しかし、ことによると、わたしたちは根本的なところで、致命的な思い違いをしている可能性があります。

特定のからだの場所に生じた情動を擬人化して、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)のように会話することによってトラウマを解消していくセラピーは、以前紹介したように、自我状態療法内的家族システム療法(IFS)と呼ばれています。

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こうした治療法では様々な身体志向のセラピーと同様、からだをじっくりと観察して、「からだの声」に耳を傾けます。

そのとき、「からだの声」に対して、具体的な姿をイメージするという特徴があります。 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法はこう説明しています。

患者が「私の中の何がそう感じているのか」と自問すると、そうした部分のイメージが頭に浮かんでくる場合がある。

抑うつ状態にある部分は、見捨てられた子供のような姿かもしれないし、老いゆく男性、あるいは負傷者の世話にてんてこ舞いの看護師のような姿かもしれない。

また、復讐心に駆られた部分は、海兵隊の戦闘員やチンピラのように見えるかもしれない。(p469)

これは、からだの声を擬人化することで、「あなた」と「からだ」のセラピーをやりやすくして、現実の人間同士の家族療法のような馴染み深いものとするための工夫とも取れますが、もしかすると、まったく逆の意味があるのかもしれません。

あまりに極端な意見に聞こえるかもしれませんが、わたしたち人間の人格とは、もともと擬人化された「からだ」そのものなのではないでしょうか。

以前の内的家族システム療法の記事で書いたように、わたしたちは、言語能力を獲得する前は、ただの情動を感じる「からだ」にすぎません。赤ちゃんはみな、ただ情動のままに振る舞う、ひとつの「からだ」でしかありません。

赤ちゃんは、すでに見たとおり、手続き記憶しかない世界に生きています。赤ちゃんには最初は「こころ」などなく、動物と同じく「からだ」で感じるだけの生き物です。

しかし言語能力を獲得し、名前で呼ばれ、言葉によるコミュニケーションができるようになると、ただの「からだ」は、自分はひとつの人格であると思うようになり、アイデンティティを獲得します。すると「こころ」が生じます。

わたしたちはもともと「こころ」を持つ人格だったわけではなく、最初はただの「からだ」にすぎなかったのです。

受動意識仮説神経ダーウィニズムなどの近年の研究によれば、わたしたちの「こころ」また人格という意識は、どうやらボトムアップのアプローチで生成されていると思われます。

ボトムアップとはすなわち、「からだ」が「こころ」を作っているということです。

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身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でピーター・ラヴィーンは、ジェラルド・エーデルマンの神経ダーウィニズムを引き合いに出してこう書いています。

上記のノーベル賞受賞者らは、「こころのあり方(mindedness)」(意味づけという複雑な機構も含めて)は、行為、感覚、感情、知覚の微調整およびカテゴリー化から生じると考えている。

彼らが過去に唱えた理論をよく考えると、ヒトの思考とは、階層最高位の司令者ではなく、ヒトが行うことと感じることが複雑に同化したものであることがわかる。(p159)

まず最初に、「あなた」という人格、言い換えればこころや魂のようなものが生まれて、その下に「からだ」が作られたのではなく、「からだ」が感じている情動がひとつのかたちになったものが「あなた」だということです。

これはいわゆる群知能と呼ばれるものです。イワシや蜂の群れや粘菌のコロニーは、ひとつひとつは高度な知能を持っていなくても、集団として集まり、群れで行動すると、あたかも高度な知恵や意志を持つかのように、ひとつの人格のように振る舞います。

人間の人格や意志というものも、おそらくは、「からだ」の無数の細胞が寄り集まることで蜃気楼のように立ち現れている群知能ではないかとわたしは思います。

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そうすると、「からだ」が一つにまとまっているうちは、「からだ」の細胞全体の総意として、ひとつの人格としての「こころ」が立ち現れることになります。

かつて、このブログで解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオンについて扱い始めたとき、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という定理がどうにもおかしい、ということを指摘しました。

「我思う、ゆえに我あり」は言い換えれば、「こころ」が考えるから「からだ」が存在するという意味です。しかしそうだとすると、内部に複数の人格を抱え持っている人は、複数の実体を持つことになってしまいます。しかし「こころ」が複数でも、「からだ」は見かけ上ひとつです。

この定理は、解離の考え方と真っ向から衝突しているので、解離の専門家の岡野憲一郎先生も疑問をさしはさんでいました。

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そして今また、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンも、この定理に異議を唱えています、いえ、それどころか、大胆にも根本から間違っていると主張しています。

人間は存在するがゆえに思考するのであり、思考するがゆえに存在するのではない。

…デカルトの定理は、ボトムアップの処理方法を反映させて、次のように改訂するとよいかもしれない。

「我知覚する、我行動する、我感じる、我認知する、我内省する、我思う、我推論する、ゆえに、我あると我は知る」(p334)

根本が逆なのです。「こころ」が思うから「からだ」が存在するのではなく、「からだ」が存在するから「こころ」がどこからともなく蜃気楼のように立ち現れます。

「からだ」から「こころ」が生まれているのだとすると、もしトラウマなどによって、からだの一部が解離されると、細胞の集まりによって立ち現れる人格も2つまた3つと複数にわかれていくことになります。

トラウマ記憶が「からだの記憶」であり、「からだの記憶」によって解離性障害になり、極端な場合は解離性同一性障害(多重人格)になる、ということからすると、解離しているのは「こころ」ではなく「からだ」であるように思えます。

解離性同一性障害で人格が複数に分裂するのは、「こころ」が分裂しているのではなく、「からだ」の一部の記憶が解離されてしまったために、その「からだ」の部分に対応する別の人格が生成されてしまうのではないでしょうか。

先ほど触れたように、解離性障害における「憑依」や「させられ体験」とは、目に見えない魂や霊が乗り移っているのではなく、「からだ」の手続き記憶が無意識のうちに再演されることで生じていました。

奇妙な人格のように思えたものは、じつは解離された「からだの記憶」だったのです。

だからこそ、内的家族システム療法のようなセラピーでは、解離されている「からだ」の情動に注目して、それを人格として扱うことができるのではないでしょうか。

解離性同一性障害の治療では、解離された別人格を尊重し、一人の人間として扱い、その声に耳を傾け、円滑にコミュニケーションしていけるようになると、人格が統合されます。

身体志向のトラウマ・セラピーでは、解離された「からだ」の声に耳を傾け、あたかも一個の人間であるかのように尊重し、円滑にコミュニケーションしていけるようになれば様々な身体症状が回復されていきます。

内的家族システム療法では、特定の「からだ」の部分に宿る情動に気づき、それを人格化してコミュニケーションし、一個の人格として扱うことによって、トラウマが解消され、からだが統合されます。

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この人格を生み出している「からだ」とは、文字通りの「からだ」というよりは、無数の神経細胞のより集まりとして脳が生み出しているバーチャルボディー、文字通りのからだにぴったり重なって、感覚の位置補正を行なっている身体イメージです。

文字通り手足を切り離された感じる幻肢痛の感覚と、トラウマによってからだの一部を感じられなくなり、多重人格になった人の感覚がよく似ているのは、どちらも「からだ」の切り離しによって生じているということを裏づけています。

幻肢痛で切り離された「からだ」を統合するのに用いられたのは、思考でもカウンセリングでもなく、ミラーボックスという身体志向の治療法でした。そうであれば、解離性障害で切り離された「からだ」を統合する近道も、やはり身体志向のセラピーということになります。

文字通りのからだを表象して、からだの声を伝えているバーチャルボディーとは何か、という点については、過去の記事で扱いました。

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以前の記事で、わたしたちは理性的に振る舞えるとしても、生物学的メカニズムによって成り立っている「動物の端くれ」にすぎないというピーター・ラヴィーンの考えを紹介しました。

したがって、私たちは結局のところ、動物の端くれにすぎないのである。ただ本能的で、感情的で、論理的なだけである。

終わりに、この章の幕開けを告げたマッシモ・ピグリウッチの引用を繰り返しておく。それがすべてを簡潔に要約してくれそうだからである。

「私たちは特別な動物なのかもしれない。私たちはとても特別な特徴を持った特殊な動物なのかもしれない。

しかしそれでも私たちは動物なのである」(p295)

わたしたちは、なまじ言語を使いこなせるがゆえに、自分がただの「からだ」ではなく目に見えない魂や心といった得体のしれない人格を持っているかのように取り違えるようになりました。

謎めいた心という人格が存在していることはとても便利であり、わたしたちを他の動物とは異なる理性的に考えることのできる動物にならせています。

しかし、わたしたち人間は、他のあらゆる面で、動物と同じです。食べ、飲み、歩き、走り、生殖し、排泄し、そして死にます。死んだ人間は動物と同じように、物質の諸元素へと帰っていきます。

わたしたちがどれほど深い思考やアイデンティティや自我を持っていたとしても、死んだときにそれらは失われます。わたしたちは動物と同じく、有機物の集まりだからです。

心をもつわたしたちは、自分が無数の有機体の集まりからなる動物だということを忘れがちです。

しかし、それは疑いようのない事実であり、わたしたちの「こころ」とは「からだ」の細胞が寄り集まって生み出されている群知能にすぎないのではないか、とわたしは考えます。

どれほどそれが奇跡的なことであろうが、わたしたちは「からだ」であり、「からだ」の声を聞くという身体志向のセラビーは、わたしたちの本質にのっとった、ごくごく当たり前の治療法にすぎないのではないでしょうか。

右脳に語らせる ―左脳を少し黙らせて

わたしたちが、本来ただの「からだ」にすぎないのに、自分を人格を持った特別な存在だと思い込むようになるのは、左脳の言語システム(右利きの人の99%、左利きの人の70%は左脳にある)の働きによります。

すでに見たとおり、わたしたちは赤ちゃんのころ、まだ左脳が発達していないときは、他の動物とそれほど変わらない情動と感覚だけで動く生き物だからです。赤ちゃんの行動は、手続き記憶に支配されています。

しかし、左脳が遅れて発達し、言語中枢が発達すると、わたしたちは他の動物とは異なり、ことばを話すようになります。ことばを話すようになると、自分は名前を持つ特別な存在なのだ、ということに気づきます。このとき人格が目覚めていきます。

以前の内的家族システム療法の記事で紹介したように、ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヘレン・ケラーのエピソードを通して、ただの情動のかたまりである「からだ」が人格に目覚めていく様子を描写しています。

物の名前を学ぶことによってその子は、音も聞こえない周囲の物理的な現実についての内的表象を作り出すだけでなく、自分自身を見つけることができるようになった。

半年後、彼女は一人称の「I(私)」という単語を使い始めた。

…ヘレンはのちの著作『私の住む世界』でも、自我に目覚めるところを描写した。

「先生が来るまで、自分が存在することを知らなかった。私は世界ではない世界に住んでいた。……私には意思も知性もなかった」(p286)

ヘレン・ケラーは、目も見えず、耳も聞こえなくなったせいで、言語を使うことができませんでした。その結果生じたのは、「自分が存在することを知らなかった」という人格の欠如でした。

人はことばで考えることができなければ、左脳の言語中枢によって思考できず、ただ手続き記憶だけが支配する世界に住んでいるとしたら、「こころ」は作り出されません。

意味と解釈と理由づけを行う、左脳の言語システムが働かなければ、自分自身の人格を見つけることができず、ただの「からだ」、情動と感覚を感じるだけの生き物でしかないのです。

この左脳の意味や解釈についてのシステムは、以前に扱ったとおり、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、分離脳研究のマイケル・S・ガザニガによってインタープリターと呼ばれています。

この装置は人間特有のもので、人間を人間にならしめているものだと思われます。

これは貴重な装置であり、おそらくは人間独特のものである。自分が何かを好きな理由やある特定の意見をもつ理由を説明しようとしたり、自分のしたことを正当化しようとしたりするたびに、この装置が私たちの中で作動している。

大量のモジュール化され自動的に作動する私たちの脳によってインプットされた材料をもとにして、混沌から秩序を作りだしているのがインタープリター装置なのだ。

インタープリターは「筋の通った」説明を考えだし、ある種の本質主義を、すなわち私たちは統一された意識体であることを自らに信じ込ませる。(p404)

人間が、動物と同じ有機体からなる「からだ」土台とした存在なのに、あたかも不滅の魂や心をもっているかのように錯覚し、哲学や宗教を作り出すことができるのは、すべてインタープリターという解釈・意味づけ・理由づけを行うシステムが脳に存在しているからです。

ただの「からだ」にすぎないにもかかわらず、インタープリターは、「私たちは統一された意識体である」と思い込ませ、「こころ」を持つ特別な存在だと錯覚させています。

自閉症の人たちが、自分という人格のアイデンティティを感じるのが難しく、一人称の言葉を使いはじめるのが遅いのは、おそらくこのインタープリターの解釈システムがいくらか弱いからです。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる
一般にアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)は解離しやすいと言われていますが、定型発達者の解離性障害とは異なる特徴が見られるようです。その点について、解離の専門家たち

自閉スペクトラム症のドナ・ウィリアムズは、自閉症という体験の中で、自分たちが「解釈システム」(インタープリター)ではなく「感覚システム」の世界に生きていると述べました。

やはり自閉スペクトラム症の東田直樹さんは、自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心でこう書いていました。

自然は友達にはなれない、とみんなは思うかもしれません。しかし、人間だって動物なのです。僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかもしれません。(p115)

自閉症の人たちは、インタープリターという解釈・意味づけ・理由づけのシステムが弱いために、冗談を理解したり、比喩の意味を推察したり、空気を解釈したりするのが苦手です。

しかし、そうした目に見えない、実体のないものを解釈し、隙間を埋め、本来存在しないものを作り出すシステムは、ときにわたしたちに「人間だって動物」だという感覚を忘れさせます。

インタープリターというシステムは、わたしたちがさまざまな芸術を創り、文学をつむぎ、哲学や宗教を考え出す、人を人たらしめているシステムですが、それは事実ではない作り話や神話や空想を無責任に作り出すシステムでもあります。

マイケル・ガザニガが右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -で述べているように、左脳のインタープリターは、右脳の手続き記憶が実行した「からだ」の活動に対して、適当で無責任な後づけの理由を考え出します。

詳しくは以前の記事で扱ったとおりですが、分離脳の実験では、右脳の記憶がもっともな理由があって実行したことに対し、それを知らない左脳のインタープリターは、まったく的外れな説明を瞬時に考え出し、手近な情報を用いて理由付けしてしまったのです。

左半球は負の感情が生じていることに気づいているのに、その原因についてはまったくわからないでいた。

興味深い点は、原因がわからなくても、状況に応じた「筋の通った」説明をひねりだす妨げにはならないということだ。(p178)

人の「こころ」とは、「からだ」にすぎない人間が、インタープリターを用いてひねり出した「筋の通った」説明にすぎません。原因がわからないことはすべて「こころの問題」とされるのもさもありなんということです。

これは、トラウマ記憶の治療のとき、わたしたちが極めて陥りやすい罠でもあります。

カウンセリングや会話を用いた治療は、たいていトラウマ記憶の無意識の「からだ」の行動に対し、「からだ」の声を聞こうともせず、適当に解釈し、理由づけし、架空の物語を作り出すことで問題を覆い隠しています。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれています。

これは「会話によるセラピー」と身体志向セラピーとの間の重要な違いである。

患者に新しい意味づけをさせたり、自らの問題を理解しようとさせたりするよりもむしろ、身体療法は「からだの物語」を紐解いて完了させるための場所を作り出す。

するとこのプロセスにおいて不可欠な部分である、新しい意味や洞察の発見がクライエント自身から自然に起こってくるのである。(p201)

解離性障害の人たちの不可解な症状は、古来より、子宮が暴れるヒステリーだとか、欲求不満だとか、人をあざむくための手の込んだ演技だとか、さんざんに言われてきました。

不登校の子どものさまざまな不可解な症状が、学校嫌いだとか、学校に行かない選択だとか、心理的な葛藤だとか学者たちによって解釈されてきたのもそれと同じです。

これらはみな、症状が右脳の手続き記憶、無意識の「からだ」の記憶の再演として生じていたにもかかわらず、当事者たちがそれをことばで説明できはなかったがために、第三者が適当に理由づけし、当事者さえもわけも分からず納得させられてしまっていたからです。

無意識の「からだ」の記憶、手続き記憶が延々と不動系の反応を繰り返しているにすぎなかったのに、なまじことばで説明できないがゆえに、専門家や、親や当事者が、あれこれとインタープリターを用いて意味を作り出していたのです。

それで、身体志向のセラビーによって、本当の「からだの声」に耳を傾けるときには、左脳のインタープリターにしばらく黙っていてもらう必要があります。

ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、マインドフルネスで「からだの声」に耳を傾けるとき、感じる感覚や情動を解釈したり、理由づけしたり、分析したり、考えたりしないよう繰り返し忠告しています。

私は、新しい感覚というのは初めのうちは不快なもので違和感を感じることがよくあると説明して彼女を安心させ、「ただ起こるがまま、まかせて……少しの間その感覚がどういうものか考えたり判断したりしないようにしてみてください」と促した。

ミリアムは気分が悪くなり、さらに気持ち悪くなってきたと言った。私はそれを理解しながらも、「あとほんのすこしだけ長くそこにとどまってみて」とおだやかに、かつしっかりと声をかけ、少しの間、両腕と両脚に注意を向けるよう彼女を促した。(p191)

「からだの声」を聞くときには、そこに長くとどまる必要があります。つまり、からだが喋っている最中に条件反射的に反応して、からだの声をさえぎって、理由づけしたり解釈したりしない、ということです。ただじっくり傾聴します。

左脳のインタープリターの解釈能力はとても役立ちます。ただし、すべての話を聞いた後ならばです。「からだの声」、つまり右脳の手続き記憶の声をじっくり傾聴するまでは黙っておいてもらい、すべて耳を傾けた後で、その能力を発揮してもらう必要があります。

「からだの声」を最後まで聞く前に、話をさえぎって分析したり解釈したりしてしまうことを、ラヴィーンは「早計な認知」と呼んでいます。

不快な身体感覚に注目していると、それらを理解して説明したいという気持ちは減っていった。感じていることを解釈しないようにと、私は彼女を注意深く導いた。なぜなら、私は彼女に頭で意味づけをしてほしくなかったからだ。

今ここでの新しい知覚を得るためには、まずはからだが何を「思って」いるのかを話す必要があるのだ

(この「早計な認知」にぴったりの表現が、最近見かけた車のバンパーに貼られたステッカーに書かれていた。

「現実。それはあなたが考えているのとはまったく違うものだ!」)。(p211)

現実の人間同士のコミュニケーションで、「早計な認知」に陥っている人は、相手が「じつはわたし…」と話しはじめると、いきなりさえぎって「わかってるよ、君が言いたいのはこういうことだろう? じつは前からそれをなんとかしてあげたいと思っていて…」と話し始めます。

たいてい、聞く前に話しはじめるこうした人は的はずれです。「現実。それはあなたが考えているのとはまったく違うものだ!」ということです。

「からだの声」を聞くときもこれと同じで、自分は何もかもわかっているという「早計な認知」で判断している現代社会の人たちは、「からだの声」の真意をほとんど捉え損なっています。

私は理解しようとしたくなる気持ちに抵抗するよう導き、その代わりに今ここでからだの中で身体的に感じているものに十分注意を払うように彼女を導いた。

「早計な認知」の弊害は、その人が知覚している経験が終了し新しい知覚や意味が生まれる前に、介入してしまうことである。(p216)

本当はからだが何か言おうとしているのに、すぐに勝手に解釈して、さまざまな病院に行き、健康法を試し、薬を飲み、その結果、原因不明だと言い出します。本当は「からだの声」にじっくり耳を傾けたことが一度もないのに、勝手に判断してしまっています。

原因不明とされるさまざまな病気、慢性疲労症候群や機能性胃腸症の患者たちに、「失感情症」の人が多いのは不思議ではありません。彼らは自分の「からだの声」を聞くことから耳をそむけているからです。

成人型の慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象

さまざまな感覚や情動が現れたとき、それを左脳のインタープリターによって解釈・分析したい、という気持ちを抑えて、ただ観察をつづけ、「からだの声」を傾聴するために、ラヴィーンはこうアドバイスしています。

鍵は、「今、私は~に気づいている」というやさしい言葉で自分自身を現在に引き戻し、今ここでの内なる体験を追い続けることだ。

よくある傾向は、「よみがえり」に引き寄せられることだ。特に、トラウマ的な要素が含まれているときはそうなりやすい。

だが、トラウマ的な要素をうまく処理する鍵(いわゆる虚偽記憶に陥ることを避ける鍵でもある)は、今ここの中で紐解かれる感覚や感情、イメージ、思考に焦点を当てながら、二重の意識を保つ能力を培うことなのだ。(p352)

ここで書かれている「今、私は~に気づいている」というキーワードはとても役立ちます。

解釈・分析しそうになったら、「今、私は~に気づいている」ということばで自分を引き戻しましょう。ただ「気づいている」だけで、その感覚を追いかけていかないようにします。

何かに気づいて、そのまま解釈したり理由付けしたり、連想したりしてしまうと、インタープリターが勝手に後付の理由ほ考え出すので虚偽記憶が生まれます。筋の通った説明に思えるかもしれませんが、それは憶測です。

何より、何かの刺激に気づいてそれを追いかける、つまり衝動的に追いかけて条件反射に陥ってしまうことが、トラウマ反応のおおもとだからです。

感覚や情動が生じるたびに、それを感じることではなく、ことばで意味づけし、解釈してしまうのは、特に解離傾向の強い人たちが陥りやすいわなです。

困難で恐ろしい感覚や感情を経験したときに私たちがよくやるのは、それから後ずさりし避けようとすることだ。

心理的には、私たちはこうした感情から分離もしくは「解離」する。身体的には、からだは硬直しそれらに対抗すべく緊張する。

こころはこれらの未知の「悪い」感覚を説明し理解しようと必死になる。(p215)

気づかないままトリガーに反応し、闘争や逃走の状態に陥るのがPTSDであり、気づかないままトリガーを抑圧して、なかったことにしてしまうのが失感情症であり、気づかないままトリガーに反応して全身を麻痺させ、シャットダウンし、遠く離れた場所からことばによって解釈しようとしてしまうのが解離なのです。

一流選手たちのイップスという解離

からだの感覚を反応も解釈もせず、ただじっくり観察できるようになってくると、身体志向のセラビーは、次のステップに進みます。

じっくり観察していると、今まで、ひとつながりにの原因不明の反応に思えた症状が、さまざまな段階を負って連鎖的に生じている反応だときづきます。

今まで、ほとんど気づいてもいなかったトリガーとなる刺激がきっかけとなって、それに無意識のうちにからだが反応し、こわばりや麻痺や凍りつきといった条件反射を返してしまっているのだとわかってきます。

何かの刺激をきっかけに情動が生じ、ついでその情動からネガティブな考えが思い込みが連鎖して引き起こされていることにも気づくかもしれません。

どちらの場合も、症状は一種のフラッシュバックとして生じています。フラッシュバックにはよく知られた映像タイプのものだけでなく、身体的、認知的、言語的なものがあります。

ネガティブな思考や思い込みも、じつは、何かしらのトリガーとなる刺激をきっかけに呼び起こされている認知的なフラッシュバックであることが多いのです。

こうしてさまざまな症状が一連の連鎖によって生じていることに気づいたなら、その連鎖を途中でとどめたり、別の方法で反応することを選択したりできるようになっていきます。手続き記憶を書き換えるのです。

このとき行うのは、意外にも、PTSDや解離などのトラウマ障害とはまったくかけ離れたところにいるかのように思える人たちがやっているのと同じことです。

トラウマ記憶とは「からだの記憶」「手続き記憶」であり、それはわたしたちの日常の至るところで無意識のうちに実行されているものだと書きました。

特にこうした「からだの記憶」がものを言うのは、まさにからだを使って活躍しているスポーツ選手たちです。スポーツ選手は、さまざまな動作を手続き記憶としてからだに覚えさせることで、優れたパフォーマンスを発揮できる「からだの記憶」のエキスパートです。

ところが、スポーツ選手たちの世界でも、「からだの記憶」の誤作動による極めて深刻な障害があることが知られています。

それは「イップス」です。

奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころにはこう書かれています。

イップスといえば、スポーツの世界では何よりも恐れられていることばだ。単に力及ばず失敗するのとは次元が違う。

失敗は運動競技にはつきもので、決して避けることはできないが、イップスとはそんなものじゃない。

これはプレッシャーのかかった状況でいきなり運動スキルが崩壊するというもので屈辱であるばかりか、当人にもわけがわからない体験なのだ。(p138)

突然、関係なさそうな話に飛んだので、戸惑う方もいるかもしれません。

わたしも、イップスとトラウマ記憶の関係について、ごく最近まで、まったく考えたこともありませんでした。しかし一度気づいてみると、これはかなり近縁の問題であり、何でも選り好みせずに情報を仕入れておくものだとつくづく思います。

イップスは、「当人にもわけがわからない体験」です。

つまり脳の二つの記憶システムのうち、顕在記憶の手がとどかないところで自動的に実行される手続き記憶が、本人の望まないパフォーマンスを再演し、繰り返し続けてしまう、「からだの記憶」が関与する問題なのです。

「屈辱であるばかりか、当人にもわけがわからない体験」

イップスとは、もともとはゴルファーたちのあいだで用いられるようになった言葉です。これまでプロゴルファーとして見事なパッティングを披露していた人たちが、突然パッティングの動作が乱れるようになってしまい、修正しようとすればするほど混乱していく深刻な症状です。

イップスはゴルフだけでなく、たとえば、優秀な野球選手が、突然、送球するたびに暴投するようになってしまう送球イップスなど、どんなスポーツでも生じるものです。

誤解されがちですが、イップスとは、緊張した場面で失敗する初心者によくある練習不足ではありません。

解離性障害の専門家である岡野憲一郎先生は、脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学で、イップスについてこう説明しています。

慣れないから緊張し、手が震える→慣れればそんなことはなくなる」という「常識」は、おそらく軽い手の震えには通用する。

大部分の震えの訴えに対しては、「そのうち慣れますよ」で済むのである。

しかし深刻な震えにはそうではないものがある。練習すればするほど悪くなることがある。それがイップス病の恐ろしいところである。(p87)

イップスを発症するのは、たいてい一流のベテランプレイヤーです。緊張感のコントロールなど、とうの昔に乗り越えたはずの、自己コントロールのプロがイップスに陥ります。

「単に力及ばず失敗するのとは次元が違う」だけでなく、「当人にもわけがわからない体験」です。しかも、「練習すればするほど悪くな」ります。

そして、ベテランのプロが発症してしまうだけに、イップスは耐えがたい屈辱ともなり、イップスを契機に選手を引退してしまう人も少なくありません。

イップスはしばしば精神的な弱さや緊張しすぎと混同されますが、こころの問題ではありません。本当は別の問題なのに、こころの弱さとみなされやすいのは、トラウマ障害や不登校とよく似た特徴です。

繰り返すが百戦錬磨のプロがこの病気に陥るのだ。それも、田辺氏によれば、むしろプロの経験が長い人ほどイップスに陥る傾向にあるという。

彼らに対して今さらどうやって「強靭な精神力を身につけよ!」などという忠告ができようか? 脳科学的な心得のない治療者のアドバイスは空虚なだけである。(p84)

なんだかどこかで見たような話です。不登校の子どもを「こころの弱さ」となじる人たちに対して、三池輝久先生が義憤を言い表していたことばとよく似ているのではないでしょうか。

実際、よくよく調べてみると、これはよく似ているだけでなく、じつは同じ病理によって生じている現象です。

この本の中で、イップスは、次のような原理で起こる病態だと説明されています。

結局イップスとは次のような病気だと言い換えることができるだろう。

「緊張する状況でのパフォーマンスを強いるうちに、脳に余分な回路が形成されてしまい、それにより自動的に余計な筋肉が収縮してしまうために起きる問題」、つまりはニューラルネットワークにおける配線異常が原因というわけだ。(p83)

イップスの原因は「緊張する状況でのパフォーマンスを強いる」ことにあります。「緊張、ストレス、練習のし過ぎ」が引き金となります。(p83)

これは、不登校に陥る子どもたちの状況とじつによく似ています。三池先生が述べていたとおり、不登校の原因は、絶え間なく持続する慢性的な緊張というストレスを逃げ場のない状況で味わい続けることでした。

イップスに陥る一流スポーツ選手と、不登校に陥る子どもたちの共通点は、絶え間なく緊張する状況にさらされること、そして、その状況の中で、優れた自己コントロール能力を発揮して、自分の振る舞いを制御しようとすることです。

不登校になる子どもたちは、からだが絶え間ない緊張感にさらされ、逃走・闘争反応に陥っているにもかかわらず、無理を推して学校にとどまりつづけることで、不動状態というストレス反応が「からだの記憶」として染み込んでしまいました。

その染み付いた「からだの記憶」が、その後の人生で何度も何度も繰り返し再現されてしまうのか、慢性疲労であり引きこもり状態のループでした。

イップスになる一流スポーツ選手たちは、緊張する状況の中で生じる、からだの震えや恐怖といったストレス反応を押さえ込んで、制御してパフォーマンスをつづけます。

「闘うか逃げるか」というストレス反応を押さえ込んでプレーを続けるうちに、そうしたストレス反応が終息せず、パフォーマンスの一部として巻き込まれてしまい、条件反射として結びついてしまいます。

その結果、「脳に余分な回路が形成されてしまい、それにより自動的に余計な筋肉が収縮してしまうために起きる問題」がイップスなのです。

そうやって形成された「からだの記憶」または「手続き記憶」は、同じような場面が来るたびに再現され、修正しようとするたびに増強していき、頭ではわかっているのにからだが勝手に反応してどうにもならない「当人にもわけがわからない体験」に発展してしまうのです。

プリムーブメント(準備動作)に気づく

からだにら染み付いたパターンを変えるのは非常に困難です。箸の持ち方、字の書き方、タイピングなどはからだの「手続き記憶」の一例ですが、こうしたささいなものでさえ、たとえ悪いクセがあると指摘されたとしても、別のやり方に変えるのは並大抵ではありません。

しかし、イップスに陥ったスポーツ選手たちは、さまざまな知恵を用いて、「からだの記憶」の治療に取り組んできました。そこで見出された対処法は、ラヴィーンが述べていた方法と驚くほどよく似ています。

脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学では、イップスの治療法として、次のような方法が提案されています。

すでに成立してしまったプログラムA→B→C→(→E)→Dを変えることが大事なのだ。そのためにはA→B→C→Dという練習を「強靭なメンタル」で繰り返すわけにはいかない。

それはすでにA→B→C→(→E)→Dに変質してしまった脳内プログラムをいたずらに強化することにつながるからだ。

まず、イップスの不可解な症状は、たったひとつの反応からではなく、複数の反応の連鎖によって成り立っています。

マインドフルネスを通してからだの反応を観察すると、それが一枚岩ではなく、複数の反応の連鎖であることに気づくことができました。イップスもまた同様です。

イップスで、A→B→C→(→E)→Dというストレス反応を巻き込んでしまったループができてしまった場合、これまでやってきたA→B→C→Dという手順を「強靭なメンタル」でかたくなにやり続けてはいけません。むしろそれが症状の原因です。

「手続き記憶」は無意識のうちに再演されてしまい、トリガーに誘い出されて、同じ行動を繰り返すたびに強化されています。だから、マインドフルネスのとき、さまざまな刺激を感じたら、すぐさまそれに反応せず、その状態にとどまるようトレーニングしたのです。

スポーツの場合、パッティングしようとするとEの不適切なからだの反応が生じてしまうのに、無理を推して「強靭なメンタル」でこれまで通りプレーをしようとすると、ますますイップスが悪化して、引退の危機に追い込まれます。

やはり手続き記憶の再演によって症状が起こっている不登校の不動状態も、無理を推して「強靭なメンタル」でこれまで通り登校しつづけようとすると、「変質してしまった脳内プログラムをいたずらに強化する」ことになり、より重い不動状態に陥ります。

一度ストレス反応を巻き込んだ手続き記憶が形成されてしまった場合、以前と同じことをしようとすればするほど症状が悪化するので、連鎖的に反応せず、保留することを覚え、別の手順を考案する必要があります。

たとえばA→B→C→F→Dという流れを新たに導入する方法。Fという要素を入れることでEという要素を排除することができるかもしれない。片目をつぶる、体重移動をする、などの新たな要素を一連の行動に組み込むのはその類であろう。

あるいはAをはずして、B→C→Dにしてしまう方法。…これはアメリカの警察学校の射撃の練習によく使われるもので、要するに狙いを定めたらすぐ打ってしまう方法である。

…思いきってAをはずすことで、流れを変え、(→E)が入り込む余地をなくすのだ。(p85)

ここではいくつかの方法が提案されていますが、いずれも着眼点は似ています。

まず「A→B→C→F→Dという流れを新たに導入する方法」。つまり、Eという不適切な反応をFという新しい反応に置き換えています。

マインドフルネスでトリガーに条件反射してしまっていることに気づいたら、それをあえて保留し、別の方法で反応してみるよう訓練することができます。

ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、そのことをこう表現しています。

以前は恐れ、怒り、防衛、無力感といった反応しかなかった状態から、コンテインメント[反応を一時保留し感情を包み込むこと]によって多数の反応から選択できるようになる。

…私たちは、潜在的な運動の(瞬間ごとの)行動に優先順位を付ける能力を強化する。それによって、最も適切な行動を選択できるようになるのだ。(p384)

マインドフルネスで、からだが感じる刺激や情動に気づき、それにすぐ反応せず、対応を保留することは、実生活において、ささいな刺激がトリガーとなって症状が引き起こされる瞬間に気づく助けになります。

具体的に言うと、今までちょっとしたことにカッとなって我を忘れていた怒りっぽい人がいるとします。よくよく自分を観察してみると、それは特定の言葉や表情がトリガーとなって、条件反射的に引き起こされていたPTSD反応だと気づきます。

それに気づくことができれば、トリガーとなる言葉や表情に出くわしたとき、反応を保留して、怒りをぶちまけるというPTSD反応(E)の代わりに、その場を立ち去るという新しい反応(F)を選ぶことができるようになっていきます。

もっと自己抑制の強い人の場合、PTSD的な怒りを爆発させず、ぐっと我慢するのが習慣になっているでしょう。その結果、怒りによって引き起こされた「闘争・逃走反応」の緊張が未完了のままからだに残り、原因不明の体調不良(E)が生じます。

一連のからだの反応を観察して、からだの反応が怒りをトリガーとして生じていることに気づくことができれば、怒りをただ溜め込むのではなく、相手と冷静に話し合う、日記に書き出すといった建設的な方法で発散して、「闘争・逃走反応」が未完了のまま残らないようにする(F)ことができます。そうすればからだの慢性的な緊張はなくなります。

今までは何の法則も脈略もなく無秩序に生じて振り回されていた症状が、じつは気にも留めないささいな刺激をきっかけに呼び覚まされていることに気づきます。そのきっかけさえわかれば、反応を保留し、「「A→B→C→F→Dという流れを新たに導入する」ことができます。

続いて「Aをはずして、B→C→Dにしてしまう方法」。これは、トリガーそのものをなくしてしまうことです。

PTSDや解離で生じるさまざまな症状は「手続き記憶」の再演であると述べました。「手続き記憶」は、何の脈略もなく再演されるのではなく、トラウマ記憶を呼び覚ます何かしらのきっかけに反応し、よみがえっています。

ラヴィーンはこんな例を挙げます。

例えば、目覚めたときおびえる妻の首を締めていることに気づいたベトナム帰還兵は、その奇妙な過剰反応を引き起こしたのは遠くを走る車のバックファイアーや幼い子どもが廊下をかける足音だということに気づかない。

彼が何年も前に竹やぶで眠っていてベトコンに発泡されたときは、即座に殺傷反応を起こすことが命を守る大切な行動だった。

…このような強迫的なサイクルを打ち破り、そのプロセスの中で意識をより大きく自由な方向に拡大させる方法を一つだけ知っている。

それは、本格的な動きの順序に進む前に、プリムーブメント[準備動作]に気づくことだ。(p379)

これはPTSD的な反応ですが、解離的な反応でも同じです。

不登校になった子どもは、生活の中で特に疲労や倦怠感にさいなまれ、頭が働かなくなり、筋道立てて考えられなくなるブレイン・フォグが襲ってくるのを経験するかもしれません。

それは一見、何の脈略もなく気まぐれに生じるかのように思えますが、ブレイン・フォグは解離の固まり・麻痺反応の一部です。つまり、何かのきっかけで引き起こされている手続き記憶なのです。

マインドフルネスでじっくり自分を観察し、さまざまなからだの不動系の反応がどのような順序で生じているのか、観察しつづけると、ふとしたきっかけで、緊張感が高まりすぎて、続いて頭に霧がかかりはじめることがわかるでしょう。

それは、学校の教室を思わせる机のきしむ音、先生が教室に入ってくるときに開ける扉の音、学校で恥をかいた経験を思い起こさせる状況、緊張したテストと同じような瞬間、だれかいじめられた子の顔が浮かんだり、その子と同じようなクセを持つ人を見かけたとき、さまざまなケースがあると思います。

たとえ何がトリガーとなっているとしても、何かのきっかけで、学校にいたころの「逃走・闘争反応」が生じ、それに続いて不動状態の手続き記憶が呼び覚まされ、当時と同じような不動状態に陥ってしまいます。しかしきっかけに気づけば、プリムーブメント(準備動作)の段階で食い止めることができます。

何に反応しているかわかれば、手続き記憶のトリガーとなるものを避けて「Aをはずして、B→C→Dにしてしまう方法」を実行できます。あるいは、すでに見たとおり、たとえAに遭遇したとしても反応を保留して別の選択肢を選べるようになります。

不登校の場合で言えば、早々と学校(A)というトリガーを捨てて、自分の意思で別の選択肢を選ぶことで、「Aをはずして、B→C→Dにしてしまう」ことができます。

またはトリガーが無意識に「闘争・逃走」のスイッチを入れたとき、背側迷走神経系の解離によってシャットダウンするのではなく、からだを動かして闘争・逃走反応を完了させたり、安心できるイメージに立ち戻って腹側迷走神経系で対処したりすることを選べます。

ラヴィーンは、何かの刺激と結びついてひとまとまりの症状になってしまっている条件反射のような反応を、細切れに分け、切り離すこうした手順をアンカップリングと呼んでいます。(p212,381)

無意識のうちに生じている行動を細切れに分け、原因を特定して組み替えていく方法は、以前の記事で扱った神経差異化と同じものです。

HSPの人が持つ「差次感受性」―違いに目ざとく脳の可塑性を引き出す力
敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ

身体志向のセラピーであるアレクサンダー・テクニークの考案者F・マサイアス・アレクサンダーや、フェルデンクライス・メソッドの考案者モーシェ・フェルデンクライスなどは、この手順のプロフェッショナルだったといえます。(p398)

彼らはいずれも、自分の内面を鋭く観察し、習慣的なパターンに気づくことで、かつてはひとまとまりになって原因不明だった症状を解決できたことから、その方法を体系化して人々に身体志向のセラピーを施すようになりました。

トリガーを和らげるβブロッカー

ここまで、からだの声を聞く身体志向のセラピーやマインドフルネスによって手続き記憶の連鎖的な反応に対処する方法を考えてきましたが、ときに薬物療法が用いられることもあります。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ヴァン・デア・コークは、こう書いています。

プロプラノロール(インデラル)やクロニジン(カタプレス)のように自律神経系に働きかける薬は、過覚醒やストレスへの反応を抑える助けになりうる。このグループの薬は、覚醒を促進するアドレナリンの、体への影響を抑え込むことによって作用して、悪夢や不眠や、トラウマのトリガーに対する反応を軽減する。(p369)

アドレナリンを抑え込むと、理性脳が稼働し続けるので、「これは本当に私がやりたいことなのだろうか」という問いに基づいた選択が可能になる。

私は、マインドフルネスとヨーガを治療に取り入れ始めてから、患者が安眠できるようにときおり処方する場合を除いて、こうした薬に頼ることが少なくなっている。(p369)

マインドフルネスやヨーガでは、手続き記憶の一連の反応を開始させるトリガーに気づき、プリムーブメント(準備動作)の段階でとどめることによって、手続き記憶の再演を抑えるようトレーニングしていました。

その「トラウマのトリガーに対する反応を軽減する」働きを持つのは、プロプラノロール(インデラル)やクロニジン(カタプレス)のような降圧剤です。

こうした薬は交感神経系を和らげ、過覚醒を抑える効果を持っています。つまり、からだの「闘争・逃走反応」を和らげることで、トリガー刺激に過敏に反応して、一連の手続き記憶が再生されてしまうのをある程度とどめる働きがあります。

不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するによると、この二種類の薬は、不登校の小児慢性疲労症候群の子どもに使われるのは興味深い点です。これらの薬によって過覚醒を抑えることが効果的なのは、不登校がトラウマ性の手続き記憶による反応であることを裏づける証拠の一つです。

同時に、これらの薬は、イップスに対して効果的であることもわかっています。

奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころによれば、あまり日の目を見なかったプロプラノロール(インデラル)が一躍有名になったのは、演劇界のイップスともいえる症状を抱えたベテランの役者たちを通してでした。

完璧な抗不安薬を求める研究はその後も続けられるが、その一方で舞台人たちは、偶然のなりゆきから、驚くほど舞台恐怖に効く薬に出くわすことになった。

1950年代、スコットランドのハジェイムズ・W・ブラックという薬理学者がプロプラノロールという薬を合成した。この物質は、交感神経系の中にある特定の受容体にエピネフリンが作用するのをじゃまするものだった。

具体的に言うと、エピネフリンがβ1とβ2アドレナリン受容体に結合するのを妨げることから、βブロッカーという名前がつけられた。

βブロッカーはのめばすぐに効き、効き目は長くは残らないこともあって、人前で何かをやれと言われた人なら、どんな層の人にも喜ばれることになった。(p165)

プロプラノロール(インデラル)は、βブロッカーという種類の降圧剤ですが、交感神経系を抑制することで、舞台恐怖というタイプのイップスに効果があることがわかりました。

舞台恐怖とは、百戦錬磨のベテラン俳優が、練習のときは大丈夫なのに、舞台に上がると、すべてが崩壊して、頭が真っ白になって演技できなくなってしまう状態です。

新人よりベテランの方が舞台恐怖に弱い、ということから明らかなとおり、単なる経験の浅い役者が経験するあがり症ではありません。(p160)

おそらく、スポーツ選手のイップスと同様、トラウマ反応の徴候を手続き記憶に巻き込んでしまったものでしょう。

強すぎる意志力で緊張をコントロールして舞台に上がりつづけているうちに、過緊張による交感神経系の高ぶりと、それに引き続いて生じる解離的なシャットダウン反応が一連の動作に条件付けられて再演されるようになるのです。

俳優のイップスにβプロッカーが効くのであれば、スポーツ選手のイップスに苦しむ人たちがそれを見逃すはずはありません。

本番で降圧薬を飲むなんて、からだを動かすスポーツ選手には適さないようにも思えますが、イップスに苦しめられている人たちは多少のデメリットなど意に介さないほど苦しめられています。

心理学の見地からいえば、イップスも舞台恐怖の親類にあたる。それだけに、持久力や筋力よりも精密さや安定性が問われる競技にかぎれば、スポーツ界にもβブロッカーが広まったのは意外なことではない。(p165)

βブロッカーはあまりに多用されすぎるせいで、多くの競技団体が禁止薬物のリストに含めるようになりました。それでも使う選手はいて、2008年のオリンピックのピストル射撃でメダルを獲得した北朝鮮の選手は、インデラルが陽性と出たことでメダルを剥奪されました。

ピストル射撃のような精密さが求められる種目では、手続き記憶の狂いは命取りになります。もし重症なイップスに苦しんでいたのだとすると、明るみに出ないことに一縷の望みをかけてβブロッカーを服用するしかなかったのかもしれません。

解離性障害、不登校、スポーツ選手のイップス、演劇の舞台恐怖などにいずれも共通しているのは、我慢強く、自己抑制が強く、すぐに逃げ出さず、限界まで耐えて頑張る人たちがなりやすいことです。

その人たちは、あまりに自己抑制が強すぎるために、からだがトラウマ反応を出してもそれを制御して我慢して振る舞い続けることができ、そうやってトラウマ反応が生じたまま同じ動作を頑張って繰り返すことで、トラウマ反応を巻き込んだ手続き記憶が形成されてしまうのだと思われます。

あまりに長く複雑な家庭環境などのトラウマを我慢しつづけた人が解離性障害になり、あまりに長く学校の教室で息を殺しすぎた子が不登校になり、あまりに長く大舞台でパフォーマンスを維持しつづけた選手や役者がイップスになります。

イップスの原因について、この本にはこう書かれていました。

英国の心理学者ティム・ウッドマンは同僚のルー・ハーディンと共同で、パフォーマンス低下の「カタストロフ・モデル」を打ち立てた。

「生理的な覚醒が高まっていくと、ある点まではパフォーマンスも上昇します。その点をこえてもなお覚醒度が高まれば、パフォーマンスは急激に低下するので、これをわれわれは「カタストロフ」とよんでいるわけです。なだらかに、少しずつ低下するんじゃない。がくんと落ちるんです。(p149)

このとき、イップスで生じている生理的な覚醒が高まりすぎて、一瞬でがくんと落ちるのは、不登校の子どもについて、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するで書かれている現象と同じものです。

筆者らのデータによれば、CCFS(PCFS)において交感神経機能が常に副交感神経機能を抑制しているが、交感神経機能が低下し、それにつれて副交感神経機能も低下してしまうとうつ度が高くなることがわかっている。

すなわち、頑張ることも休養することもできない究極の疲労では強い“うつ”が現れることになる。(p19)

これはまた、前回の記事で説明したとおり、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれている、イワン・パブロフが洪水によるトラウマを経験したイヌたちで観察した「超限界段階」と同じものです。

パブロフは、緩和されないストレスにつづいて起こる衰弱の記録の第3章と最終章を超-逆説段階と名づけ、それを超限界段階とも呼んだ。

「極限を超えた」状況のこの最終段階で、臨界点に達してしまう。この頂点を超えてしまうと、彼のイヌたちの多くはシャットダウンした。彼らはどんなに時間をかけても、反応しなくなってしまった。

パブロフは、このシャットダウンは神経系の過負荷に対する生物学的な防衛であると信じていた。(p292)

イップスも、不登校も、イヌたちのシャットダウンも、これらはすべて、パブロフが考えたとおり「神経系の過負荷に対する生物学的な防衛」である解離の働きです。

交感神経系の「闘争・逃走反応」が過剰になりすぎて、もはやどうしようもなくなったとき、最終手段である原始的な背側迷走神経系の「固まり・麻痺反応」が起動して、すべてをシャットダウンしてしまうということです。

そして超限界段階を超えたトラウマ反応は、繰り返し我慢しつづけているとからだに記憶されてしまい、さまざまなトリガーに反応して「からだの記憶」として何度もよみがえり、解離というシャットダウンを発動し、すべてを崩壊させてしまうのです。

イップスが、「単に力及ばず失敗するのとは次元が違う」とまで言われ、「いきなり運動スキルが崩壊」し、「屈辱であるばかりか、当人にもわけがわからない体験」と述べられていたのは当然です。

不登校の子どもがわけがわからないまま不動状態に閉じ込められてしまうのも、解離性障害の人がアイデンティティが崩壊した混乱状態に放り出されるのも、舞台恐怖の役者が絶望のあまり生きる気力さえ失うのも、すべて解離がもたらす崩壊なのです。

そして、この手続き記憶の容赦ない再演を防ぐには、交感神経系が何かのトリガーによって超限界段階にひとっ飛びしてしまうのを防ぐ必要があり、それが交感神経系を抑制するβブロッカーでした。

こうした仕組みを考えると、三池先生が、不登校治療において、インデラルやカタプレスという降圧剤にたどり着いたのは必然的だったのでしょう。

そしてヴァン・デア・コークのみならず、解離の専門家である岡野憲一郎先生も、著書解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でβブロッカーについて書いているのも当然の成り行きです。

その発端となった米国マサチューセッツ総合病院のロジャー・ピットマン医師は、トラウマの体験を持った患者にある薬物を投与することで、そのトラウマ記憶が定着するのを抑制することができた、と発表した。2002年のことである(Pitman,2002)

ピットマン医師が使ったのは、内科では日常的に処方されている薬、いわゆるβ(ベータ)ブロッカーである。高血圧や頻脈にとてもよく用いられる薬だ。彼はトラウマを経験した人にこの薬を用いることで、その後のPTSDの発症を防ごうと試みたのだ。

…トラウマ記憶が生じる場合には、この興奮が強すぎ、記憶が過剰に固定されてしまうという現象が起きている。

ここでトラウマが起きた直後にこれらのストレスホルモンを抑える薬であるβブロッカー、たとえばインデラールを投与すると、それが記憶の過剰固定を抑えるというわけである。(p25)

βブロッカーは、すでに発症したトラウマ反応を抑制できるだけでなく、PTSDの発症を抑制できる可能性もあるのかもしれません。しかし、もちろん薬は万能ではなく、トラウマ経験そのものを消し去るわけではありません。

すでに引用したとおり、ヴァン・デア・コークは、「マインドフルネスとヨーガを治療に取り入れ始めてから、患者が安眠できるようにときおり処方する場合を除いて、こうした薬に頼ることが少なくなっている」と書いていました。

身体志向のセラピーやマインドフルネスを通して内面の感覚や情動に気づき、反応を保留するトレーニングは、自分で超限界段階に至るのを防ぐスキルなので、βブロッカーによる交感神経系の抑制よりも効果的な手段です。

そうはいっても、こうした薬物療法があることを知っておくのは、身体志向のセラピーだけでは難しい場合の補助としては役立つかもしれません。

また、前回の記事で取り上げたように、トラウマ障害の患者たちは、しばしばADHDのような症状を見せます。

しかし、ADHDの治療に一般的に使われているコンサータ(メチルフェニデート)などの中枢神経刺激薬は望ましくなく、カタプレスやインデラルのような降圧剤のほうがよいとされていました。

薬物療法を行う際、ADHDに使用される中枢神経薬は時としてトラウマ障害の症状増悪をもたらす可能性も示唆されている。

ドパミンを上昇させるメチルフェニデートではなく、むしろニューロトランスミッターを抑制するクロニジンのほうが望ましいとされている。(p118)

中枢神経刺激薬によって覚醒状態を上げれば不動状態は解除されやすくなるでしょう。しかし同時に、それは生理的覚醒を高めることで、トラウマ記憶のトリガーに対して敏感にしてしまっていることにもなります。

何らかのトリガーで覚醒状態が上がりすぎて、超限界段階に至ってシャットダウンしてしまうと、より不動状態が強化される再トラウマ被害にもなりかねません。

トラウマ障害で生じる解離は、ADHDのような単なる低覚醒ではなく、過覚醒が反跳してシャットダウンされた結果 低覚醒になっているので、無理やり覚醒度を上げるのは危険であり、逆に過覚醒を抑えるほうが効果的なのでしょう。

また、ヴァン・デア・コークは、インデラルやカタプレスをあまり処方しなくなったとは言いつつも、「患者が安眠できるようにときおり処方する場合を除いて」と但し書きを加えていました。

不登校の小児慢性疲労症候群の治療で使われるインデラルやカタプレスも、夜の眠りの質を確保する目的で処方されています。

以前の記事で扱ったように、インデラルやカタプレス、そしてミニプレスといった降圧剤を用いて睡眠時の交感神経系を抑制することは、レム睡眠を正常化する効果があるようです。

レム睡眠は手続き記憶の処理に関わっているようなので、こうした薬の助けを借りて睡眠を整えることは、マインドフルネスや身体志向のセラピーとはまた違った経路で、トラウマの手続き記憶の再演を抑える働きがあるように思えます。

芸術療法は評価されると解離する

「からだの記憶」によって引き起こされる解離には、スポーツ選手のイップス、役者の舞台恐怖、子どもの不登校のほかにもさまざまなものがあります。

興味深いのは、作家のイップスともいえるライターズ・ブロックという症状です。これはベテランのブロの作家が、突然まったく話を書けなくなるスランプに陥ることを言いますが、以前の記事で扱ったようにれっきとした脳科学的な根拠があります。

ハイパーグラフィアの私は「書きたがる脳 言語と創造性の科学」について書かずにはいられない
書きたくてたまらない状態を「ハイパーグラフィア」、どうしても書けない状態を「ライターズブロック」といいます。ハイパーグラフィアの人がハイパーグラフィアについて書いた本「書きたがる脳

ライターズ・ブロックは、抑制機能が強く働くすぎて、頭が動き出せなくなってしまった、いわば思考力の不動状態です。ライターズ・ブロックは、解除できなければ作家生命に関わる深刻な問題で、いわば作家の“不登校”や“引きこもり”にもつながる脅威です。

これを解決するには、さまざまな作家たちが作家生命をかけて編み出した涙ぐましい方法がいろいろとありますが、特に効果的なのは、ライターズ・ブロックのもとでも書くことのできる別の文章を書きはじめることです。

不思議なことに、ライターズ・ブロックでは、目の前に積まれている原稿を書こうとすると、思考力がフリーズして凍りついてしまうのに、課題の原稿ではなく、日記や趣味の文章ならわりかし書けるという特徴があります。

これは、学校に行こうとすると身体がフリーズするのに、趣味などであれば比較的楽しめる不登校とよく似ています。

つまり、不登校が、学校を思い出させる刺激をトリガーとして引き起こされる過覚醒と解離であるのに対し、ライターズ・ブロックは、仕事の原稿というトリガーをきっかけに引き起こされる思考の解離現象だということです。

そして、この二つ、いえ、さまざまなタイプの解離現象に関わっているのは「人からどう見られるか」という恥の感覚が症状と強く結びついている場合が多いということです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、ピーター・ラヴィーンはこう説明しています。

さらに、トラウマと恥の精神生理学的パターンが似ていることから、恥とトラウマには本質的な関連性がある。(p75)

ここまで、人間は動物の場合と同じような経緯で解離することを再三示してきました。動物は、セリグマンとマイヤーの実験のイヌたちのように、物理的にどこにも逃げ場がない「逃避不能ショック」という体験をしたときに感覚がシャットダウンされ、解離状態に陥ります。

人間の場合も、逃げ場がない追い詰められた状態で解離するのはまったく同じですが、動物と違って、自分のこころに追い詰められることがあります。

文字どおり、肉体的に逃げ場がない場合だけでなく、心理的に追い詰められ、逃げ場がなくなった状況でも、人はフリーズし、解離状態に陥ります。人を追い詰めるのは、恥という体験である、と以前に説明しました。

なぜ耐えがたい恥は人を生ける屍にしてしまうのか―「公開羞恥刑」と解離の深いつながり
公衆の面前で恥をかかせるという刑罰「公開羞恥刑」。現代のいじめやSNSの炎上、子ども虐待などが、いかに公開羞恥刑のようにして人を辱め、その結果、被害者の心を殺害し、解離させてしまう

性的虐待や暴行の被害者が解離に陥るのは、ただ単にからだを傷つけられたからではなく、あまりに耐えがたい恥の感覚にさらされ、思考がシャットダウンされるからです。

不登校の子どもや、プロのスポーツ選手、舞台俳優などが解離状態に陥るのも、身体的に逃げ場がなくなるからではなく、恥への恐怖によって心理的に追い詰められ、プレッシャーをかけられ、逃げ場がないと感じるからです。

そして、プロの作家がライターズ・ブロックに陥るのも、あまりに忙しく身体的に追い詰められることのみならず、人からの評価に過度に敏感になり、恥の気持ちが強くなり、過緊張状態に陥って、思考がフリーズしてしまうからです。

不登校の子どもが、症状の軽いうちは学校以外の活動を楽しめたり、プロのスポーツ選手や舞台俳優が本番以外の練習であればイップスを起こさなかったり、ライターズ・ブロックに陥った作家が仕事以外の文章なら書けたりするのは、自分を追い詰めていた恥から解放されるからにほかなりません。

人間の場合、たとえ幼少期から虐待されたり、物理的に監禁されたり、拷問されたりした場合でも、必ず恥の体験によって心理的に追い詰められる経験が関係しています。これが、動物の解離とは幾分異なる点です。

どんな解離にも恥、つまり他の人からどう思われるか、という視点が絡んでいるがゆえに、裏を返せば、恥というトリガーを取り除くことができれば、トラウマ症状を軽減することができる、ということがわかります。

興味深いのは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークが、ライティング(書くこと)を通して、自分の内側を探る、つまりマインドフルネスと同じような気づきを得られることがある、と述べていることです。

感情という内面世界に触れる方法は他にもある。非常に効果的なものの一つは、書くことだ。

人は裏切られたり見捨てられたりしたあとに、その思いを、怒りに満ちた手紙や、非難めいた手紙、哀れを誘う手紙、悲しい手紙としてぶちまけることがある。

そうすると、たとえその手紙を出さなくても、間違いなく気分が良くなる。自分自身に手紙を書くときには、他者の判断を気にしなくて済む。自分の思考にただ耳を傾けて、その流れに身を任せればいい。(p391)

ここまで見てきたように、ことばを用いた会話によるセラピーは、身体志向のセラピーのような「からだの声」に気づくのを妨げます。

しかし問題を引き起こしているのは、ことばという言語機能そのものではなく、すぐに解釈し、理由付けし、無責任な意味を考え出してしまうインタープリターでした。

ことばによるコミュニケーション自体はとても有用で、たとえば内的家族システム療法では、擬人化した「からだ」とことばでやりとりしていました。

ということは、ことばを用いた会話によるセラピーの本当の問題点は、ことばをつかっていることではなく、インタープリターを刺激してしまうからだ、ということになります。解釈したい、理由づけしたい、と無意識に強く感じてしまうからです。

そしてそれは、ヴァン・デア・コークが述べているように、相手がどう思うだろうか、という気持ちが入り込むからです。

自分の人生の最も私的な瞬間や不快な瞬間、頭が混乱するような瞬間を思い出すと、図らずも選択を迫られることがよくあった。

記憶の中の昔の場面を追体験することに的を絞り、その場面で感じたことを自分に感じさせるか、あるいは、起こった出来事を論理的に筋道立てて精神分析医に話すかという選択だ。

後者を選ぶと、いつもたちまち自分自身とのつながりを失い、分析医にしている話についての彼の意見に意識を集中しはじめた。

疑われたり、判断をくだされたりしている気配を少しでも感じると、私は抑え込まれて、彼の承認を取り戻すことに注意を向けてしまうのだった。(p387)

「あなた」対「セラピスト」という構図で行われる会話を用いた心理療法では、どうしても、「セラピスト」に対して話すことになります。

セラピストがどんなに傾聴してくれたとしても、どうしても相手は他人なので、よほど信頼した人でないかぎりは、「どう思われるだろうか」、という気持ちが入り込みます。

そして一度でも恥に追い詰められ超限界段階でシャットダウンしてしまい、トラウマ記憶を負ってしまった人は、恥の気持ちに敏感なので、相手はどう思うだろうか、という感覚が生じたとたん、それがトリガーとなって解離が引き起こされます。

ヴァン・デア・コークも「疑われたり、判断をくだされたりしている気配を少しでも感じると」つまり、「相手がどう思うだろうか」、という恥のトリガーがちょっとでも入り込むと、「たちまち自分自身とのつながりを失い」解離してしまったのでした。

そうなってしまうと、インタープリターが適当に体験を脚色し、解釈し、相手が望むような受け答えをし、作り話や筋の通った物語を考え出してしまうので、からだが実際に体験している情動や感覚とはかけ離れていってしまい、セラピーはただの茶番に成り下がってしまいます。

しかし、自分の「からだ」と「あなた」の二者の間で行われる身体志向のトラウマセラピーでは、あなたの「からだ」は「あなた」がどう思うだろうか、などと身構えずにすみます。

「あなた」がすぐに反応せず、「からだ」の声を傾聴してくれるようになりさえすれば、「からだ」は包み隠さずに自分の体験を「あなた」に話すことができます。なんだかんだいって「からだ」は「あなた」の一部なので、「あなた」のことをまったく信頼しているからです。

これは、愛着障害やトラウマ障害の子どもが、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)を相談者として活用するのとよく似ています。子どもたちは、まわりの大人や親にさえ話せないような感情でも、イマジナリーコンパニオンに吐露することができます。

イマジナリーコンパニオンは結局のところ、その子のからだの一部から生まれているものなので、「どう思われるだろうか」という恥の気持ちにとらわれることなく、解離することなく本心を打ち明けられるからです。

言ってしまえば、内的家族システム療法で「からだ」の一部を擬人化するのと、自然に現れるイマジナリーコンパニオンはどちらも同じもので、切り離された「からだ」の一部が生み出した「こころ」です。

それらがいずれもトラウマ治療に役立つのは、他人ではなく自分自身の一部に話しているおかげで、「どう思われるだろうか」という恥の気持ちが入り込まず、気持ちを包み隠さずに、解釈したり脚色したりせずに打ち明けられるからです。

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セラピーが本物になるか茶番になるかを分けるのは、ことばを用いているかどうかではなく、恥が入り込むかどうかです。恥を気にしないでいられれば、つまり「相手がどう思うだろうか」、と考えないでいられれば、解離は引き起こされにくいのです。

それで、ヴァン・デア・コークは、ライティング(文章を書く)ことがトラウマ治療に役立つと述べたとき、こんな条件をつけていました。

自分自身に手紙を書くときには、他者の判断を気にしなくて済む。自分の思考にただ耳を傾けて、その流れに身を任せればいい。

自分自身に向けて手紙を書き、だれにも見せず、投函さえしないという方法は、イマジナリーコンパニオンに体験を吐露する手紙バージョンのようなものです。

これは、トラウマ治療でよく陥りがちな落とし穴を避ける、極めて重要なポイントです。

トラウマ治療には、しばしば、芸術の創作が効果があると言われます、絵を描いたり、文章を描いたり、詩を書いたりすることなどです。

解離の当事者は、こうした才能や感性を持っていることも多いため、創作しているうちにしだいに周りに評価されることもあるかもしれませんが、それはとても危険な徴候です。

まわりに評価されるということは、創作している当事者は、まわりの目を意識して作ろうとするようになるということです。しかし、周りの目を意識したとたん、「どう思われるだろうか」という恥の感情が入り込みます。

そうすると、今まで、素直に自分のからだの声に耳を傾けて、気の向くままに創作していて、それがセラピーのように機能していたにもかかわらず、だれかの評価を気にしだすと、「自分自身とのつながりを失い」インタープリターが口をはさむようになります。

作る作品は、からだの記憶の表出ではなく、人に見せるためにインタープリターが脚色した創作になってしまいます。

ヴァン・デア・コークが述べるところによると、そうなってしまっては、もはや創作を通してトラウマを治療する効果は期待できません。

PTSD症状に焦点を当てたライティングの研究の結果は、これまで期待外れのものばかりだった。

ペネベーカーはこれについて私と話し合ったとき、PTSD患者に対するライティングの研究はたいてい集団で実施されていて、そこでは患者は自分の物語を披露しあうことが期待されている点を指摘した。

そして、私が前述したのと同じことを述べた。すなわち、ライティングの目的は自分自身に向けて書くこと、自分がずっと避けようとしていたことを自分自身に知らせることだ、と。(p399)

「自分の物語を披露しあうことが期待」されるようになってしまうと、芸術を用いたセラピーは「期待外れのものばかり」の茶番になるのです。

そのようなわけで、あまりに陥りやすい芸術療法の落とし穴がここにあります。

さまざまな芸術療法が効果があるのそれが芸術だからではなく、身体志向のセラピーだからなのです。

言い換えれば、「あなた」と「からだ」の二人のあいだでやりとりされる芸術療法は間違いなく効果がありますが、「あなた」と「セラピスト」と「仲間の患者」と有象無象と…というような集団で実施される芸術療法の効果はあまり期待できないということです。

集団で実施されるということは、よほど配慮された環境でないかぎり「どう思われるだろうか」という恥が入り込みます。だれかに評価されたり、お互いの作品を見せあったりすることは、恥に敏感になっている人にとっては、間違いなく解離を引き起こすトリガーになります。

インターネット上のSNSに作品を発表して、コメントをやり取りしたりする場合もそうです。はじめは、評価されると嬉しくなってやる気が湧きますが、次第に「この作品はどう見られるだろうか」という恥が入りこんできます。

だれかの反応や評価が入り込むようになれば、作品は「からだの声」の現れを形にする身体志向のセラピーではなくなり、インタープリターが作り出した人に見せるための創作、評価されるための作り物になります。

ときどき、トラウマ障害などの人たちが作る芸術は、アール・ブリュットと呼ばれて賞賛されたり、展示会が設けられたり、コンクールが開かれたりしますが、良かれと思ってなされているそうした「評価」システムは、じつは芸術の治療効果を台無しにしてしまっているのです。

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ですから、芸術をトラウマ治療に用いたいと思うなら、あくまで自分のために創り、他人の評価が不必要に入り込まない環境を整えなければなりません。それができない集団で行われる芸術療法の場に入っていったとしても解離が悪化するだけです。

巨大な箱庭空間にタイムスリップする

最後に、一風変わった身体志向のトラウマセラピーについて考えましょう。

いま芸術療法について考えましたが、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するによると、不登校の小児慢性疲労症候群の子どもたちにも、そうした治療がいくらか取り入れられています。

話すことよりも作業や芸術表現を好む場合は、描画、スクイグル、箱庭療法、簡単なワーク(折り紙、トランプなど)を実施する。(p92)

注目したいのは、描画などの芸術療法と並んで挙げられている「箱庭療法」です。

箱庭療法とは、ちょうど子どものおままごとのように、箱庭セットの中に、さまざまな家具や人形などを、自由に思うがままに配置していく方法です。

そして、箱庭の風景や人形を手がかりにして、配置した人形や家具をさまざまに動かしたり、ときには人形に自分の気持ちを投影したりしながら、セラピストとともに物語をつむいでいき、無意識への気づきを得ることができます。

じつはわたしが、不登校と小児慢性疲労症候群の完全な学習性無力感のゾンビ状態から抜け出せたのは、箱庭療法と描画療法のセラピーをたまたま受けたことでした。

もつれにもつれてこんがらがっていてフリーズしていた頭の中が、ほんの2日のワークショップで整理され、後から思えばそれを境に少しずつ自分を取り戻すことができました。

単なる偶然かもしれないとは思いつつ、長年、不思議に思っていましたが、今になってみれば、わたしの解離状態に箱庭療法や描画が役立ったのは当然でした。

すでに見たとおり、トラウマ記憶とは手続き記憶であり、手続き記憶とは自転車の乗り方や楽器の弾き方のような空間的な記憶です。手続き記憶をつかさどる右脳は、空間・視覚・感覚などの断片的な要素を記憶します。

つまり、手続き記憶はことばで言い表すことはできませんが、そのかわり、空間的・視覚的な表現によって語ることでできる記憶です。左脳の言語がことばであるなら、右脳の言語は三次元的な視覚的表現です。

箱庭療法のようなセラピーは、左脳の言語で語るカウンセリングとは異なり、右脳の言語でやり取りするセラピーなので、「からだの記憶」にダイレクトに響きます。

それを如実に物語っているのは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークが紹介しているペッソ・ボイデンシステム精神運動(PBSP療法)です。

PBSP療法は、アルバート・ペッソという元ダンサーによって考案されたトラウマセラピーです。

この治療法は、名前も聞きなれないばかりか、その方法もまた特殊で、世界的なトラウマ治療の第一人者であるヴァン・デア・コークをして、「それは今まで私が目にしたグループワークのどれとも違っていた」と言わしめるほどでした。(p494)

ヴァン・デア・コークは、はじめ、この新参のトラウマセラピーに疑いを抱いて警戒していましたが、とりあえず自分がそれを試してみようとペッソに会いに行きました。

本来、PBSP療法は、大勢の参加者とともに行なうグループ・ワークです。ペッソの家には、彼とヴァン・デア・コークの二人しかいませんでしたが、その部屋と、そこにある家具を使うことで、PBSP療法とはいったい何なのか、そのエッセンスを体験することができました。

役を演じる人が他にいなかったため、ペッソはまず、物か家具を選んで父親に見立てるように言った。

私は大きな黒い皮のソファを選び出して、自分の正面からやや左寄り、二メートル半ほど離れたところに立てて置いてくれるようにペッソに頼んだ。

次に母親も部屋に招き入れたいかと訊かれたので、私は立てたソファとほぼおなじ高さの、どっしりした電気スタンドを選んだ。(p497)

ペッソはまず、部屋の中にある色々なごくふつうの家具を指し示し、父親と母親はどの家具のイメージに近いか選んでみるよう、ヴァン・デア・コークに勧めました。彼は直感で手近にある家具を両親に見立てていきました。

さらに、親友や妻や子どもに見立てた家具も選ぶように言われます、そうするうちに、二人だけだったはずの部屋は、ヴァン・デア・コークの父親や母親、その他大切な人たちを見立てた擬人化された家具でいっぱいになりました。

彼は、ペッソがPBSP療法によって、何を作ろうとしていたのか気づきました。

しばらくすると私は、自分の内面の風景を投影したこの場面を眺め渡した。

両親を表す二つのやたらに大きく暗い威嚇的な物と、妻や子供や友人たちを表すちっぽけな物の数々。

私は愕然とした。

自分が幼かったころの厳格なカルバン主義の両親という内面のイメージを、私は再現していたのだ。胸が締めつけられた。声はなおさらひきつっていたに違いない。

空間を司る脳が暴露したものは否定のしようがなかった。このストラクチャーによって、私は内面に秘められた自分の世界の地図を視覚化することができたのだ。(p497)

これは巨大な箱庭療法でした。

ふつうの箱庭療法と違うのは、箱庭のただ中に自分がいることでした。箱庭は部屋、人形は家具でした。ヴァン・デア・コークは、ペッソの指示にしたがって家具を選んでいるうちに、自分のまわりに巨大な箱庭を創り上げていました。

そして、そこに投影されていたのは「空間を司る脳が暴露した」記憶、つまり右脳の「からだの記憶」であることに気づきました。言葉にできない手続き記憶を、空間という右脳の言語によって再現していたのです。

続いてペッソが提案したステップでは、驚くようなことが起こりました。

自分がたった今明らかにしたものについてペッソに話すと、ペッソはうなずいてから、私の物の見え方を変えてもいいかと尋ねた。

…するとペッソは、私とソファと電気スタンドの間に自分の体をすかさず割り込ませて、私の視線から二つを隠した。

私は即座に体の中で強い解放感を味わった。胸の締めつけが緩み、呼吸が楽になった。

ペッソの下で学ぼうと決めたのは、この瞬間だった。(p497)

ペッソが、ヴァン・デア・コークの「両親」を視界から隠しただけで、ヴァン・デア・コークのからだがはっきりと変わりました。強い解放感を味わい、呼吸が楽になりました。これは、不動状態のストレス反応が解除されたことを意味しています。

ヴァン・デア・コークは、このセラピーを受けるまで、もう40歳にもなる自分に、80代の両親が影響を与えているなんて考えもしませんでした。

しかし、右脳の手続き記憶には、人生最初の手続き記憶である愛着として、両親のイメージがはっきりと刻まれていました。

彼の右脳に刻まれた両親のすがたは、「やたらに大きく暗い威嚇的な物」のようであり、すでに親元を離れて立派な医師にさえなったヴァン・デア・コークのからだに絶えず継続的なストレスを与え、幼いころのトラウマ反応を絶え間なく再演しつづけていたのです。

実際のPBSP療法では、家具の代わりに、ワークショップに参加している他の人たちを、自分の人生に登場するさまざまな人物に見立てます。そして、それら本物の人間という人形を相手に、巨大な箱庭の中で人生の物語を演じます。

グループの参加者は、親やその他の家族といった、主役の人生における重要人物の役をするよう頼まれ、その結果、内面の世界が3次元空間で徐々に形になっていった。

グループのメンバーはさらに、重大なときに欠けていた支えや愛情、保護を与えてくれる理想的な望みどおりの親を演じるように求められた。

主役は自分の劇の演出家になり、実際にはなかった過去を自分の周りに創り上げた。(p496)

ヴァン・デア・コークが、さまざまな家具を両親や家族や友人に見立てていったとき、無意識のうちに右脳がふさわしい形をした家具を適切に選んだように、登場人物を配役するとき、右脳は無言のまま、適切な人を選び、適切に場所へと配置します。

私はストラクチャーを実施するたびに舌を巻くのだが、脳の右半球はじつに的確に外部への投影を行なう。

主役は常に、自分のストラクチャーのさまざまな登場人物がどこにいるべきかを正確に心得ているのだ。(p502)

右脳のからだの記憶が、三次元空間に投影され、巨大な箱庭空間を創り上げたなら、こんどは文字通りの箱庭療法のように、そこで過去の物語を上映していきます。

もちろん、このPBSP療法のワークショップでは、先ほど見たような他の人の評価を気にすることで生じる解離が起こったりしないよう、巧妙な工夫が施されています。さすが元ダンサーが演出しているだけあります。

「是非の判断を加えずそのまま受け止める観察者」が徹底されているおかげで、主役は、「まわりにどう思われるだろうか」という恥や恐れを完全に捨てて、なかばトランス状態になって箱庭世界に没頭していけるようです。(p501)

そして、巨大な箱庭のなかの登場人物になって、自分の「からだの記憶」の世界を体験するうちに、主役は「からだの記憶」に刻まれたトラウマの瞬間にタイムスリップします。しかし、実際に起こったのとは異なる理想的なストーリーを体験します。

参加者たちは生身の人間がたくさんいる空間に自分の心の中の現実を安心して投影でき、そこで過去の不協和音と混乱を探ることができる。

これが具体的に腑に落ちる瞬間につながる。

「そうだ、こんなふうだったのだ。私が対処しなくてはならなかったのは、これだ。そして、もし私が大事に優しく育てられていたら、あのころ、こんなふうな感じだったのだろう」(p508)

単に座ったままでことばだけで交わされる無味乾燥なカウンセリングとは異なり、PBSP療法では、「からだの記憶」が投影された仮想空間に入り込み、からだ全体で記憶の瞬間を味わい、からだ全体で反応します。

先ほどのイップスの治療法で出てきたように、右脳の記憶の中では、A→B→C→(E)というトラウマ反応を巻き込んだ手続き記憶が形成されているかもしれません。

それを後から書き換えるのは大変ですが、もしもタイムスリップして、その瞬間を再体験でき、別の選択肢を選ぶ機会が与えられるとしたら、話は別です。

PBSP療法では擬似的なタイムスリップを体感し、しかも本物のトラウマの瞬間とは違い、支持的で協力的な仲間たちに囲まれて、その瞬間に立ち向かうことができます。

そのとき、からだ全体を使って、A→B→C→(E)の代わりに、A→B→C→(F)という建設的な反応を選べば、からだはそれを記憶します。

凍りついていたトラウマ記憶を、時空を超えて上書きすることができます。「疑似体験の記憶」「新しい追加の記憶」が構成されていくのです。(p499)

自分の人生のトラウマとなった同じ瞬間をもう一度再現し、異なる未来を選び取ることができ、そのとき形成されたトラウマの手続き記憶をダイレクトに上書きするというSF映画のような体験に没頭させるのがPBSP療法なのです。

この手法は、特に幼少期の安定した愛着を育めなかった「子供のころに望まれていないと感じた人や成長過程で誰にも安心感を抱いた記憶がない人」に効果があるようです。

そうした人たちは「従来の精神療法があまり役立たない」そうです。それもそのはず、愛着トラウマはことばではなく「からだの記憶」だからです。(p493)

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

すでに見たとおり、愛着とは人生最初の手続き記憶であり、PBSP療法のような、視覚的・空間的な体験を通して、右脳の記憶を扱う身体志向の治療が必要です。愛着はからだで味わわないかぎり変わりません。

むろん、幼少期の愛着パターンは、生涯にわたりほとんど変化しないと言われる一方で、大人になってから安定した「獲得型愛着」を得る人もいます。

そのような人たちは、さまざまな人たちとの出会いの中、親子関係をやり直したり、親代わりとなる人に出会ったり、子育てを通して親の気持ちを理解したり、育て直しとも言われる体験をしたりして、愛着を安定させていきます。

そうした体験は、PBSP療法で経験するような過去のタイムスリップとよく似ています。

人生のさまざまな場面で、過去の愛着トラウマの瞬間と似た場面に遭遇しますが、異なる反応を選び取ることで、徐々に愛着の手続き記憶を「疑似体験の記憶」「新しい追加の記憶」で上書きし、修正していくのだといえます。

残念ながら、PBSP療法のような特殊なワークショップをおいそれと体験するのは難しいでしょう。よほど訓練され、センスのあるセラピストがいないことには仮想のタイムスリップに没頭するほどの体験はできません。

しかし、PBSP療法そのものと比べるとかなりチープに思えるかもしれませんが、伝統的な箱庭療法や絵画療法は、右脳の空間的・視覚的な記憶を扱うのに役立つでしょう。

また、ヴァン・デア・コークがペッソの家で体験したのと同じ方法を試してみることができます。今、あなたの部屋にある家具を見回して、父親、母親、友人、家族にふさわしいものをそれぞれ選んで配置してみるのはいかがでしょうか。

どれをどう選ぶか、どこに置くか悩む必要はありません、右脳の記憶は、パターン認識と場所認識に優れているので、直感的に選んで移動させるだけで、からだの記憶がしっかり反映されているはずです。

わたしも数ヶ月前に試しにやってみましたが、ヴァン・デア・コークと同じく「愕然と」しました。無意識に配置した三次元空間をよくよく見てみると、それが確かに自分の内的世界の空間的な投影であるに違いないことに気づき、そのリアルさに呆然とします。

また、PBSP療法は、現実の人を使って、擬似的なタイムスリップという仮想空間を演出しますが、本来こうしたバーチャルな体験は、VR(バーチャルリアリティ)などのデジタル技術が役立ちそうな分野です。

近年、VRヘッドセットの医療への応用が始まっていますが、空間的、視覚的な体験であるVRが、右脳のトラウマ記憶の治療に応用されるのはそう遠くないのではないかと思います。

「自分自身に関する世界有数の専門家になる」のをやめる

冒頭に書いたように、身体志向のトラウマ・セラビーにはさまざまなものがあります。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)をはじめ、センサリーモーター・サイコセラピー(感覚運動心理療法)、ロルフィング、トラウマ・ストレス解放法(TRE)、自我状態療法、内的家族システム療法(IFS)、エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)、ペッソ・ボイデンシステム精神運動療法(PBSP)、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、など、より詳しく知りたい方は、それぞれ検索してみれば、詳しく解説してある書籍やサイトが見つかることと思います。

身体志向の考え方の入門編としての読みやすい本としては、ガボール・マテの身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価やヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法をお勧めします。

ピーター・ラヴィーンの身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはひときわ思考を刺激する本ですが、少なくとも最初は以上の二冊のほうがとっつきやすいでしょう。

わたし自身はというと、ライティングがトラウマ治療に役立つのは大いに実感しています。前に書いたとおり、わたしは文章を書いているときは時間を忘れて没頭できますし、生きている実感を味わえます。

わたしの場合、こうして文章をブログに公開してはいますが、まったく人の評価を気にしていないようです。

もしもわたしが、「専門家でもないのにこんなことを堂々と書いたらどう思われるだろうか」「他の当事者はこれを読んでどう思うだろうか」などと考えて、ライティングに恥の気持ちが入りこんでいたら、わたしはライターズ・ブロックになって書けなくなっているでしょう。

とはいえ、わたしは、こうやってブログでさまざまな観点から自分のからだを分析して、解離と身体志向のセラピーについて知ったいま、自分自身に対するアプローチを変えるべきではないか、という結論に至りつつあります。

ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで紹介しているある青年の言葉は、わたしの胸に突き刺さりました。

気づきを深めるのは困難だ。両親が自分を十分に愛してくれなかったから困難なのではなく、困難だから困難なのだ。個人的な問題に帰する必要はない。

僕は何年もかけて自分の過去を掘り起こし、残骸を分類し、目録を作った。しかし、本当の自分、自分の中の本質的な本当の自分は、どれほど自分の洞察力が鋭くても、理解することはできない。

僕は内観と気づきを混同していたが、この二つは違うものだ。

自分自身に関する世界有数の専門家になることは、完全に今にいることとは何の関係もない。(p344)

わたしはまさに「何年もかけて自分の過去を掘り起こし、残骸を分類し、目録を作っ」てきました。それがこのブログのすべてであると言っても過言ではありません。

しかし、「本当の自分、自分の中の本質的な本当の自分は、どれほど自分の洞察力が鋭くても、理解することはできない」と今まさに実感してもいます。

そして、それがかなわないのは、知識が足りず、理解が足りず、推理が足りないからだと信じてここまで掘り進んできましたが、それは間違っていました。

自分自身に関する世界有数の専門家になることは、完全に今にいることとは何の関係もない。

わたしは、「自分自分に関する世界有数の専門家」になろうとしていましたが、それは「完全に今にいること」、すなわち解離から解放されることと何の関係もなかったのです。

いえ、むしろ、わたしが自分自身を探り続け、洞察を重ねていたことは、からだから遠ざかり、こころとからだの解離という谷間を広げてさえいました。

洞察は重要なことであるが、それが神経症を治したり、トラウマを癒したりすることは滅多にない。

それどころか、症状を悪化させることが往々にしてある。結局のところ、人や場所や物事に反応してしまう理由がわかっても、そのこと自体が助けになるわけではないのだ。

それがかえって害になる可能性さえある。例えば、恋人に触れられたときにどっと冷や汗をかくというのは、それだけで十分に苦しいことだ。

だが、理由がわかった後でも、同じ反応を繰り返し経験すれば、さらに混乱が深まる。

起こっている症状は過去の出来事がきっかけになっているに過ぎないとわかったとしても、その招かれざる侵入に繰り返し耐えなければならないとしたら、挫折、恥、無力感などの打撃的な感情が深まるばかりだ。(p344)

わたしは自分自身を研究するために、洞察し、客観的に分析し、解釈しようとしてきました。

しかし考えてみれば、客観的に分析するのは解離の症状そのものなのです。こころとからだが解離している人だからこそ、客観的に分析できます。

解離の当事者が苦手なのは、解釈することではなく感じることです。客観的になるよう務め、解釈に重きを置けば置くほど、感じることからは遠ざかります。

わたしのブログが、客観的な分析を積み重ねれば積み重ねるほど、それは、わたしのこころとからだの解離が加速していることの現れでした。からだから遠ざかれば遠ざかるほど、全体像が見えてくるものです。「からだの声」は聞こえなくなりますが。

ラヴィーンが述べるように「洞察は重要なこと」です。仕組みを理解することは大切です。自分のからだに何が起こっているのかを客観的に理解することはとても大切です。

でも、分析したり研究したりする旅路は限りありません。知れば知るほど、新たな謎が立ち現れます。探究にはきりがありません。いくら探究しても、わたしは今、生きているのだろうか?といった疑問の答えにたどり着くことはありません。

生きているかどうか知るには、いくら分析して解釈して考えても哲学的問答になるだけです。生きていることを知るには、ただ全身で感じるほかないのです。

幸い、調べ続けてきたことは無駄ではなく、身体志向のセラピーについての知識を得たことで、自分の路線が間違っていたことに気づけました。解離から抜け出るつもりが、解離行きの特急に乗っていることに気づきました。

「自分自身に関する世界有数の専門家になること」を目指すか、「完全に今にいること」を目指すかは、一度に片方しか選べません。

どちらも自分にしかできないことです。考察は面白く興味深い旅です。もっと知りたい、知識を取り入れたい、理解したい、推理したい、という気持ちはあります。

でも、ここはひとまず自制を働かせて、解釈して分析したいという条件反射を保留したいと思います。

解離されたわたしが、客観的に眺められるわたしがたどり着いた答え、それは、ここでひたすら答えを探りつづけ、終わりなき旅を続けるよりも、立ち止まってからだの声に耳を傾けたほうが、長い目で見れば必ず得るものが多いはずだ、ということでした。

こんなとき、今までやってきたことに見切りをつけられず、従来路線に固執してしまう傾向は、「埋没費用の誤謬」(サンクコスト・バイアス)と呼ばれます。これまで投資してきたことに愛着がありすぎて、方針転換ができず、かえって損をしてしまうのです。

わたしはサンクコスト・バイアスにとらわれて、解離から抜け出す機会を逸したくありません。

最近は客観的な考察を書くことに専念しすぎて、自分を見失っていました。書いている瞬間は満たされるものの、分析すればするほど、自分が虚ろになって人生が虚しくなるような気がしていました。

わたしはもともと絵描きであり、小説を書いたり、詩を書いたり、楽器を演奏したりするほうの人間であり、論理的な分析をする学者肌の人間ではありません。

内的家族システム療法のことばを借りれば、論理的な人格は、わたしの「管理者」ではありますが「セルフ」ではありません。小学生高学年ごろの解離体験以降に現れた「守護天使」です。

「セルフ」が出てくるためには「管理者」は口を慎み、「守護天使」は後ろに退かねばなりません。

多重人格の原因がよくわかる8つのたとえ話と治療法―解離性同一性障害(DID)とは何か
解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる8つのたとえ話と治療法についてまとめました。

自分自身を分析したり解釈したりするのはいったんやめて、しばらくは「セルフ」が望んでいる別のかたちの創作に専念しようと思います。なんだかそう決めただけでわくわくしてきました。

まずしっかり「からだ」の声を最後まで聞いてはじめて、インタープリターの解釈者の出番が来ます。からだの声を聞いた上でまたいつか解釈してみれば、違う景色が見えるかもしれません。聞くことが先、語ることは後です。

この記事で見たとおり、「こころ」は「からだ」から生まれています。源たる「からだ」と疎遠になれば、「こころ」が現実感を喪失し、虚ろになっていくのはある意味当然です。生きている実感を得るには、「からだ」とのつながりを回復しなければなりません。

「自分自身に関する世界有数の専門家になること」と「完全に今にいること」を天秤にかけてみれば、わたしはやっぱり「完全に今にいること」を選びたいと思います。

ピーター・ラヴィーンがその類まれな著書を通して教えてくれたように、わたしも考える人間である以前に、結局のところ、この地球で生きる「動物の端くれ」にすぎないのですから。

解離を別の反応で置き換えて意識を「今ここ」に保つための実践的ツールボックス

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の記事は、身体志向のセラピーによる解離の治療について考えた以下の記事の補足です。

「からだの記憶」の治療法―解離と慢性疲労のための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる「からだ」を土台として生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。

さまざまなトリガーによって解離しそうになったときに、他の別の方法で置き換えて解離を防ぎ、「今ここ」にとどまるためのアイデアを集めました。

どんな症状も“一枚岩”ではない

本文では、マインドフルネスによって自分のからだの反応を観察し、さまざまな症状が原因不明のものではなく、実際には何かのトリガーをきっかけに連鎖的に生じている反応であることに気づく必要があると書きました。

たとえば、原因不明のEという症状がある場合、それは何の前兆もなく気まぐれに生じているように見えるとしても、「からだの声」に耳を傾け、よく観察するトレーニングを積むうちに、

A(トリガーとなる刺激)→B(条件反射)→C(連鎖反応)→D(連鎖反応)→E(症状)

というように、連鎖的に生じている手続き記憶のパターンだとわかります。

特に感受性が強すぎるHSPの人の場合、解離症状は四六時中生じているように思えるかもしれません。慢性疼痛や慢性疲労に陥っている人の場合も、症状は常に固定していて、いつも変わらないようにに思えるかもしれません。

しかし、マインドフルネスでしっかりモニタリングできるようになれば、そうではないと必ず気づきます。

日経サイエンス2015年01月号 のマインドフルネスの特集では、マインドフルネスが線維筋痛症などの慢性疼痛に効果がある理由についてこう書かれていました。

身体のうち痛みが生じている特定部位に注意を意図的に振り向けると、それらの部位の感覚がかすかに揺らぐのに気づいて、常に変わらない“一枚岩”だと思われていた慢性の痛みが絶えず変動する感覚に瓦解するかもしれない。(p49)

慢性疲労や慢性疼痛に悩んでいる人は、その症状は「一枚岩」だと感じています。常に慢性的に生じていて揺るがぬものであると認知しています。

しかし、マインドフルネスで「からだの声」をモニタリングできるようになると、じつは「感覚がかすかに揺らぐ」ことに気づき、「常に変わらない“一枚岩”だと思われていた慢性の痛みが絶えず変動する感覚に瓦解」します。

これがすなわち、ただのEでしかないと思っていた思っていた症状が、じつはA(トリガーとなる刺激)→B(条件反射)→C(連鎖反応)→D(連鎖反応)→E(症状)という連鎖的に生じているパターンだと気づくということです。

4つのストレス反応が順番に生じる

このパターンは、無秩序に生じているわけではなく、生物学的なメカニズムで生じています。

本文で繰り返し説明したように、スポーツ選手のイップスや、不登校、解離はみな同じようなパターンで生じています。

まず、外部からの刺激によって過緊張状態になり、超限界段階を突破した瞬間に、解離の不動状態に陥ります。

本文で引用したとおり、奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころにはこう書かれていました。

生理的な覚醒が高まっていくと、ある点まではパフォーマンスも上昇します。

その点をこえてもなお覚醒度が高まれば、パフォーマンスは急激に低下するので、これをわれわれは「カタストロフ」とよんでいるわけです。

なだらかに、少しずつ低下するんじゃない。がくんと落ちるんです。(p149)

まず外部からの刺激というトリガーがあり、それにからだが反応して過緊張状態になり、超限界段階に到達すると、感覚がシャットダウンし崩壊する解離が生じてます。

このプロセスは、解離と慢性疲労の記事で紹介した、哺乳類に普遍的に備わる4つのストレス反応にそって生じています。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。

キャノンの発見から75年以上も動物行動学および生理学の研究が進展した現在、闘争か逃走反応は、「一つのAと四つのF」という頭文字にまとめられる。

すなわち停止(Arrest:注意の増加、状況の精査)、逃走(Flight:まず逃げようとする試み)、闘争(Fight:動物や人間の逃走が阻害された場合)、凍りつき(Freeze:恐怖―怯えによるこわばり)、そして破綻(Fold:無力感による虚脱状態)。(p60)

解離という反応は、いきなり、前触れも脈略もなく生じることはありません。どんな場合でも、この4つのストレス反応の連鎖の最後に生じています。

トリガーとなる刺激
    ↓
(1)逃走(まずストレスから逃げようとして交感神経系が緊張する)
    ↓
(2)闘争(逃げられない場合、闘おうとして我を忘れる)
    ↓
(3)凍りつき(闘っても勝ち目がないと不動系が起動して身体を凍りつかせる)
    ↓
(4)破綻(まったく逃げ場がなくどうしようもないときエネルギーがシャットダウンされて虚脱する)

というステップで解離は生じます。

慢性疼痛や慢性疲労は、(3)の凍りつきや(4)の破綻に陥ることで生じます。

目まぐるしい速度で(3)や(4)に到達してしまうので気づきにくいですが、いきなり(3)や(4)に飛んでいるわけではなく、必ず前兆となる予備動作(プリムーブメント)があります。

慢性疲労や慢性疼痛に悩まされている人の場合でも、マインドフルネスでしっかりからだをモニタリングできるようになれば、「“一枚岩”だと思われていた慢性の痛みが絶えず変動する感覚」だとわかり、痛みや疲労が増強する瞬間があることがわかるはずです。

そして、その瞬間に先立って、何かのトリガーがあり、一連のストレス反応がなだれのごとく引き起こされていることに気づきます。

このとき、(3)や(4)は解離と関係している反応なので、自分をよく観察すれば、次のような現象を自分が経験していることがわかるでしょう。

ある刺激がきっかけで、からだが緊張して交感神経が高ぶる。ついで凍りつき、思考が飛んで何も考えられなくなり崩壊する。

ぼーとして、意識が「今ここ」から切り離されて、頭が空っぽになったり、空想の世界に入り込んだりする。

感情が麻痺して失感情症になる。いわゆる慢性疲労症候群につきもののブレインフォグや、線維筋痛症につきもののフィブロフォグが起こる。

これが「解離」です。

解離は必ず、トリガーとなる刺激→「逃走反応」→「闘争反応」→「凍りつき反応」→「破綻反応」 の順番で連鎖して起こるものなので、連鎖の途中を別のものに置き換えることができれば、最後の反応が起こるのを食い止めることができます。

それで、本文では、A→B→C→D→E(解離) のようなパターンがからだに染み込んでしまっているのに気づいたら、連鎖的に条件反射してしまう反応を一次保留するスキルをマインドフルネスによって身につけることが大事だと書きました。

なだれのような条件反射を一次保留して、E(解離)が今まさに生じようとしていることに気づけるようになったら、たとえばA→B→C→D→Fのようにして、E(解離)をF(別の反応)で置き換えることで、症状をコントロールできるようになっていきます。

しかし本文の説明では、ではいったい何に置き換えればいいのか、という部分が、いくらか説明不足だったので、以下にアイデアをたくさん書いておきます。

解離を別の反応で置き換えるためのツールボックス

■仕組みを知る
まず、連鎖反応の仕組みを知りましょう。

生物のストレス反応は、「トリガーとなる刺激」→「逃走反応」→「闘争反応」→「凍りつき反応」→「破綻反応」の順番で連鎖して起こると書きましたが、このとき生じているのは自律神経系の変動です。

以前の記事で詳しく説明したように、ポリヴェーガル理論によると、自律神経系は3種類のシステムからなっています。

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解離と慢性疲労は深く関係していて、不動系という生物学的メカニズムによって引き起こされているという点を、不登校や小児慢性疲労症候群の研究と比較しながら分析してみました。

ストレスを感じたとき、人はまず愛着や社会交流をつかさどる副交感神経系によってリラックスしようとします。

それが無理だと、手足を動かして逃走・闘争で対処する交感神経系が働きます。

それでもどうにもならないと不動系(原始的な副交感神経)が稼働して、からだを凍りつき・シャットダウンさせます。

慢性疲労や慢性疼痛は、最後の不動系による凍りつきやシャットダウンが起動している状態です。つまり、それより上の段階で置き換えれば、症状をいくらか防げるということになります。

■愛着システムを活性化させる
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にあるとおり、一番望ましいのは副交感神経系の愛着システムを刺激してリラックスすることです。

私たち人間が苦悩を軽減する最も自然な方法は、触れられて、ハグされて、体を優しく揺り動かされることだ。これは過覚醒の鎮静に効果をもたらす。

そして、自分は損なわれておらず、安全で、守られていて、主導権を握っているという気持ちにさせてくれる。(p352)

解離しそうになっている自分に気づいたら、信頼のおける人と会話する、心から笑う、愛する人と触れ合う、安心できる場所をイメージするなどして、腹側迷走神経を活性化させることができます。

問題なのは、解離する人は、根底に愛着障害などがあるせいで、この副交感神経の機能が弱すぎて不動系に乗っ取られやすいことです。じっくり強化していく辛抱強さが必要です。

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解離の舞台―症状構造と治療に書かれているように、安全な場所のイメージをしっかり形成しておくことは解離しそうになったときの対応に効果的です。

治療の初期に、患者に完全に安心できて安全な場所を想像してもらい、それを視覚化してもらう。こちらがイメージを先行させるのではなく、あくまで患者個人がそういったイメージを作り出すように促す。

よくあるのは、美しい森の空き地、陽の当たる庭や砂浜、海、安全な部屋などである。

こういった場所のイメージは、患者や交代人格が症状に圧倒されそうになったときに、そこに逃げ込む緊急避難場所として有効である。そこには安全のため鍵をかけることもできる。(p244)

■呼吸を整えて声を出す
愛着システムとつながっている副交感神経系は、人とコミュニケーションすることでリラックスするシステムです。つまり顔の表情やのどの筋肉、呼吸といったからだの機能とつながっています。

解離しそうになったとき、はっきり大きな声を出したり、声を出して笑ったり、ゆっくまり深呼吸したり、呼吸に注意を向けるマインドフルネスを実践したりすることは、副交感神経を活性化する効果があります。

そもそも、解離しがちなのは、はっきりと声を出して「ノー」(いいえ)と言うことができないタイプの人たちなのです。解離した子どもはしばしば緘黙症と診断されることもあります。

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身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでは、「ヴー」という声を出しながら息を吐くことが解離を解除するのに有効だとされています。

この音は内臓を開き、広げて振動させ、シャットダウンまたは過剰に刺激された神経系に新たな信号を送る働きをする。

やり方はきわめて簡単である。「ヴー……」(「ユー」というときの「ウー」のような軽い「ウ」)という音を長く伸ばし、息を履ききるまで、お腹に感じる振動に集中する。

「ヴー」の音をクライアントに初めて出させる際、私はよく、霧深い入り江に鳴り響く、霧笛を想像するように促す。船長たちに陸が誓いことを知らせ、安全に故郷に導くための音である。(p150)

頭が真っ白になったりブレインフォグにのっとられそうになったときに試してみれば、効果を実感できると思います。

■闘争、逃走を完了させる
解離は副交感神経系でリラックスできず、続いて生じる「闘争・逃走」の交感神経系でも対処しきれなかったときに生じます。裏を返せば、「闘争・逃走」に成功すれば、解離には至りません。

マインドフルネスで内面を観察し、何かのトリガー刺激をきっかけになだれのこどく解離や疼痛・疲労の増強に至っていることがわかったなら、からだが危険を知らせて過緊張状態になった段階で、自分の意志でトリガー刺激から逃れることができます。

本文で取り上げたとおり、怒りを引き起こす相手の前から去ったり、学校を自分から捨ててみたりするということです。

ここで大事なのは、恐れに支配されてみじめに逃げ帰ることではなく、自分の意志でその場を立ち去るということです。惨めに追い立てられた経験はトラウマになりますが、自分で選んでトリガー刺激から逃れた場合は、自信になります。

詳しくは以下の記事で書きました。

■能動的になる
解離は、逃走も闘争もできず、どうにもできない無力感を抱いたときに生じます。もはや万策尽きた、打つ手なし、とからだが感じたとき、最終手段として不動系がからだを凍りつかせ、シャットダウンするのです。

つまり、まだ自分には何かやれることがある、と感じているうちは、逃走・闘争反応で交感神経系が高ぶることはあっても、超限界段階まで押し切られることはなく、解離は生じません。

「逃走」が無理でも、自分の意志でしっかり「闘争」できれば、その次の「凍りつき」や「破綻」は生じません。

解離しそうになったときは、自分にもまだできることを見つけ、能動的に参加し、自分には間違いなくやれることがあるという感覚を持てれば、解離を防げます。できることを探しましょう。

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■姿勢を変える
ストレス反応はすべて姿勢と結びついています。

副交感神経が優位になればからだはリラックスして自然体になります、闘争・逃走反応が優位のときは手足に力が入ります。しかし不動系が優位になって解離すると、からだが固まったり力が抜けたりして動けなくなります。

裏を返せば、寝転がったり座ったりしている姿勢では不動系にのっとられて解離しやすくなりますが、立ち上がったり歩いたりできれば、交感神経系を活性化させられるということです。

しかし次の瞬間に彼はまた無表情に戻り、からだも諦めたかのように前屈みになった。私は彼に虚脱状態に陥ってほしくなかったので、膝を少し曲げて立ってみるように言った。

立つことには固有受容的で感覚運動的なシステムの活性化と協調が必要とされる。このことはアダムの意識を常にオンラインにしておくという効果があった。(p224)

慢性疼痛のように交感神経系と不動系が両方起動してしまっている人の場合はさらに交感神経系を刺激する必要はありませんが、慢性疲労のように不動系にシャットダウンされている人は、解離しそうになったら立ち上がったり段階的に運動したりすることで感覚を取り戻せます。

特に、解離して現実感が薄れたりふわついたりするときに、しっかり地に足がついている感覚を感じ取ることはグラウンディングと呼ばれています。

興味深い方法として、立ち上がることのほかに、バランスボールの上の座ることで、解離を起こしにくくするというアイデアもあります。

解離状態の患者には、身体感覚を制御する脳領域(島および帯状回)の大幅な活動低下が認められた。

…もう一つの効果的なバリエーションは、クライアントに適切なサイズのバランスボールの上に座ってもらうことである。

ボールの上でバランスを保つことは、平衡維持のために複数の調整を必要とする。

このため、ボールの柔らかい表面からのフィードバックを通じて内的感覚に触れることに役立つだけでなく、筋肉意識(気づき)、接地感覚、中心感覚、防衛反射および体幹の強さを探ることで、身体意識の発達に全く新しい次元がもたらされる。(p140)、

■リズムを上書きする
以前の記事で考察したとおり、こうした一連の症状を起こしている「からだの記憶」は一種のリズムです。それは、交感神経系や不動系が起動すると、心拍が変動することからもわかります。

解離は引き込み・共鳴現象と関わるリズム障害かもしれない

トリガーによって過剰に刺激されると、からだは「闘争・逃走」に備えて心拍のリズムをぐんと上げます。しかしどうしようもないと、今度はシャットダウンの解離反応を起こし、心拍のリズムがぐっと下がります。

このような内部のリズム変動を制御するためには、音楽を聞いたり演奏したりして、トラウマ反応のリズムではなく音楽のリズムに同調すること、タッピングによって外からリズムを整えてやることなどが効果的です。

タッピングの方法としては、自分で自分を抱きしめながら、左右交互にタップするバタフライハグが効果的かもしれません。交感神経系が優位になって心拍リズムが早まり、過緊張になりそうになったときに落ち着かせることがてきます。

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また身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、指圧のツボを順にタッピングするエモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)という方法も紹介されていました。

体のさまざまな場所にある指圧のツボを自分の指で順にタッピングすることも教えた。

よく「エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)」という呼び名で教えられている手法で、患者が耐性領域の内側にとどまる助けになることが証明されており、PTSDの症状に有効なことも多い。(p437)

不動系によってシャットダウンしてしまったときは、楽器を弾いたり、歌を歌ったり、好きな音楽を聞いたりすることで、リズムを上げて、不動状態から抜け出すことができます。

まもなくグループ全体が歌い、動き、立ち上がって踊りだした。それは驚くべき変化だった。人々は生命を取り戻し、表情は同調し始め、生気が体に蘇った。

私は、ここで目にしているものを応用すること、そして、リズムと歌と動きがトラウマの治療にどのように役立ちうるかを研究することを誓った。(p350)

■感覚を感じて意識をつなぎとめる
シャットダウンして意識が飛んだり、現実感が薄れたり、失感情症になったり、頭に霧がかかってブレインフォグに陥りそうになったりしたら、強い感覚刺激を与えることで意識を引き戻すことができます。

これは、自傷行為を行なう人たちが無意識のうちにやっている手法です。前に説明したとおり、自傷行為の中には、強い痛みによって、解離しかかっている意識を引き戻すために、無意識のうちに行われているものがあります。

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もちろん、解離を食い止めるために自傷行為をするわけにはいきませんが、それと似た方法は使えます。たとえば、冷たく冷やした氷枕のようなものを手に当てたり、パルスシャワーを浴びたりすれば、意識がはっきりします。

また、食べる、飲む、味わう、走る、セックスといった行動も、意識を引き戻します。不動系が引き起こす解離とは、動物における仮死状態のことなので、生きている動物がふだんやっていることは何であれ、解離から意識を引き戻す作用があります。

しかしながら、いくら動物が生きていることを実感する活動とはいっても、食べすぎて過食になったり、トレーニングすぎてアドレナリンハイ依存になったり、マスターベーションにふけったりする中毒になると危険です。

事実、トラウマ障害の人の中には、自傷行為をするのと同じ理由で、こうした依存症になってしまう人がいます。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。

自分のからだの内部を深く感じられなくなればなるほど、私たちは過度の外部刺激を切望する。(p336)

解離から意識を引き戻すために、別の刺激的な感覚で目覚めさせるという方法は、手っ取り早く効果的ではあるものの、こうした落とし穴がひそんでいることには十分注意すべきです。

もし何らかの依存になってしまっている場合は、過度の外敵刺激によって解離を解除するのではなく、マインドフルネスによって内部の感覚をしっかり探れるようトレーニングし、ここまで挙げた様々な方法を臨機応変に駆使して解離を防ぐのを目指すとよいでしょう。

たくさんの選択肢をツールボックスに入れておく

ここまで、解離しそうになったときに解離を別の反応で置き換えるさまざまな方法をリストアップしてきました。

大切なのは、どれかひとつの方法で満足しないことです。どんな状況でも常に役立つ万能薬はありません。

A(トリガーとなる刺激)→B(条件反射)→C(連鎖反応)→D(連鎖反応)→E(症状)といった連鎖で解離が生じることを説明しましたが、これは生物学的にいえば、「トリガーとなる刺激」→「逃走反応」→「闘争反応」→「凍りつき反応」→「破綻反応」のことでした。

この一連の連鎖反応のどの段階でも同じ方法が通用することは絶対にありません。

「逃走」や「闘争」の段階では交感神経系が優位になって過緊張状態になり、今にも超限界段階にいたろうとしています。こんなときに、立ち上がったりアップテンポの音楽のリズムに同調したら逆効果です。

そのあとの「凍りつき」の段階では交感神経系と不動系がほぼ同時に働き、「破綻」の段階では不動系がすべてをシャットダウンしています。つまり、各段階によって、対処法は変わってくるということです。

自分が今どの段階にいるかは、マインドフルネスによって、「からだの声」をじっくり聞き、観察できるようになればわかるようになってきます。

そして、自分がいる段階に応じて、その場その場で臨機応変に、この記事で見たような対照法のいずれかを選択できるようになります。

目的とするのは、耐性領域内にとどまる、ということです。身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれていました。

私たちは、何かのきっかけで過覚醒や低覚醒の状態になるときには、「耐性領域」(最適なかたちで機能できる範囲)の外に押しやられている。

過覚醒の場合には、私たちは反応しやすくなり、混乱に陥る。フィルターが働かなくなるので、音や光に悩まされ、望みもしない過去の光景が心に侵入し、パニックになったり逆上したりする。

低覚醒の状態で機能停止に陥ると、心も身体も麻痺しているように感じ、頭の働きが鈍り、椅子から立ち上がることも難しくなる。(p336)

解離に陥るときには、この低覚醒と過覚醒をジェットコースターのように一瞬にして移動します。

トリガーとなる刺激によって、まず過覚醒になり、ついで超限界段階という耐性領域の上に飛び出てしまい、反動で低覚醒になり、そして最後には耐性領域の下側に飛び出る解離に陥ります。

耐性領域に戻ってくるためには、超限界段階になりそうなときは下側に引き戻し、解離に陥っているときは上側に引き戻す必要があります。ほんの一瞬のうちに変化していく連鎖的反応であっても、その時々で対策は異なっています。

マインドフルネスによって自分をしっかり観察できるようになると、その時々で適切な対策がどれかもわかるようになってきますが、そのためには何を置いてもまず、さまざまなツールをすべて持っていなければなりません。

解離に陥らないために最も大切なことは、「自分には何かできることがある」という感覚です。

解離の不動状態とはすなわち学習性無力感のことだと以前に書きました。どこにも逃げ場がなくなり、「もう打つ手はない」と思った瞬間、からだの生物学的本能が解離を選びます。

自己コントロール感を失い、完全に無力感に支配されると人は解離します。

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子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

どこにも逃げ場がない、という状況に陥らないためには、後ろに余裕があることが必要です。それはつまり、ひとつうまくいかなくても、ほかに様々な方法がツールボックスに入っているので、まだまだやれることはあるはずだ、という心の余裕です。

まずは、この記事で紹介したような方法をすべて、自分のツールボックスに入れておきましょう。そして、この記事以外の情報からも、さまざまなツールを仕入れて、自分のツールボックスに追加していきましょう。

そうするなら、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれていたとおり、たとえトリガーにさらされても解離以外の選択肢をいろいろと選べるようになっていき、自己コントロールの自由を取り戻せるようになるでしょう。

以前は恐れ、怒り、防衛、無力感といった反応しかなかった状態から、コンテインメント[反応を一時保留し感情を包み込むこと]によって多数の反応から選択できるようになる。

…私たちは、潜在的な運動の(瞬間ごとの)行動に優先順位を付ける能力を強化する。それによって、最も適切な行動を選択できるようになるのだ。(p384)

「からだの記憶」の治療法―解離と慢性疲労のための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる「からだ」を土台として生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。
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