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今日は素直な気持ちを書いてみたい

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埋もれた木日はこのブログの設立日です。今日くらいは__だれの得にもならないことですが__わたしの素直な気持ちについてつらつらと書いてみるのも、悪くないかもしれません。

砂時計はひっくり返せない

わたしはとても焦っています。恐怖しています。たじろいでいます。見かけ上は落ち着いていますが、心の中では、慌てふためく自分を抑えるのに必死です。

なぜそんなに焦っているのでしょうか。何をそんなに怖がっているのでしょうか。

すべては、刻々と時間が過ぎていくことに対する焦燥です。もどかしいのです。目の前の砂時計の砂が、恐ろしい速さで落ちていくのをただ見ていることしかできないのです。

できることなら、何とかしてその砂時計をひっくり返したいと切望しています。もう一度はじめからやりなおせたならどんなにか良いでしょう。しかし、いくら慌てふためいて周りをあたふたと見回しても、そんな手段はどこにもないのです。

どんなに焦っても、切に願っても、過ぎゆく時間は無情です。決して止まってはくれません。

不登校になってからというもの、いえ、正確には慢性疲労症候群(CFS)を発症してからというもの、わたしの人生はずっとそのまま止まっているにもかかわらず、時間は決して止まってはくれません。

その日わたしの時間は止まった

いったい何を言っているのでしょう。たかがわたしはやっと四半世紀生きたかどうかというところです。人生の先輩たちから見れば、そんな20代の焦りなどなんてことはない、むしろ懐かしい限りだと思われるかもしれません。確かにそうだと思います。

しかしそうであるとしても、わたしはもどかしくてたまらないのです。わたしの同級生は今やエンジニアや教師になりました。親友はハワイのすばる望遠鏡で果てなき宇宙を探求しています。家庭を持った人もいます。

しかしわたしはどうでしょう。あの日、慢性疲労症候群(CFS)を発症し、不登校と呼ばれた日から、時間は止まったままです。その日、わたしは突然地面に倒れ、わたしを追い抜かしていく同級生たちの背中に、置いていかれまいと死に物狂いでしがみつこうとしました。

しかしわたしの手を風をつかむだけでした。同級生の背中は小さくなり、やがて見えなくなり、そしてだれもいなくなりました。わたしは色も音も風景も失われた世界に取り残されました。今に至るまでわたしはそこで生きています。

もう一つの人生

わたしの発症は突然でした。厳密には、「学校過労死」の予兆はありました。めまいや腰痛や自律神経症状や、睡眠の絶対的な不足を感じていました。しかしわたしは何の心の準備もできていませんでした。わたしにとって、それは確かに予期しない招かれざる客でした。

そのときからわたしは、自分自身ではなく、慢性疲労症候群(CFS)のSusumu Akashiというまったく知らない人間の人生を歩むことになりました。Susumu Akashi? それはいったいだれでしょうか? そんな人の名前は聞いたこともありません。

それはわたしが望んだ人生でも憧れた生活でもありませんでした。

わたしがこんなことを言うのはわがままです。世の中にはもっと悲惨な人生を送っている人がいます。いったいわたしが何者だというのでしょう。

わたしの弟は、小児がんで苦しみの末に亡くなりました。以前に書いたように、オールブライト症候群で壮絶な人生を送った人のことも知っています。今まさにこの瞬間にも、人権すら踏みにじられている国々で死すらも甘く感じる仕打ちを受けている人もいます。

それら悲惨な事実について考えると、わたしごときが弱音を吐くのはわがままでしかありません。しかしわたしは__病気になってはじめて気づき、今やひしひしと噛み締めていることですが__わたしには何の強さもありません。

…だったら良かったのに

わたしはひとたび立ち直ってからは、絶えず前を向いて歩んできました。しかしそれは決してわたしの強さではありません。

後ろを振り返れば、そこにはかつての元気なころの自分、今となってはもう一人の自分の屍が、埋葬もされずに横たわっていることを知っているからです。過去を手厚く葬る勇気がないから、前を向いて歩いてきたに過ぎません。

わたしは今の人生を受け入れられたわけでも、かつての自分に別れを告げられたわけでもありません。

詩人ジョン・グリーンリーフ・ウィッティアはこう述べました。

“Of all sad words of tongue or pen, the saddest are these, 'It might have been.”

話したり書いたりするあらゆる悲しい言葉のうち、最も悲しみに満ちているのは「…だったらよかったのに」という言葉だ

わたしは今に至るまで、その感情を拭いきれません。もしあのとき慢性疲労症候群(CFS)になっていなかったら。もしあのまま学校に行けていれば。もしあのまま、友人たちと切磋琢磨していられたら。

わたしはだれか見知らぬ人に宛ててこのブログを書いているわけではありません。このブログの記事はすべて、ただ自分自身のために書いています。

発症からこれほど月日が経ったというのに、千の言葉をもってしても納得しようとしない自分を、万の言葉をもって説得するために書いています。

わたしが過去の自分に別れを告げて未来へと進んでいくためには、あらゆる手をつくしてでも今の自分を説得し、新しい人生を受け入れるしかないのです。

過去の自分? そんなものはもはや他人です。もしかすると夢だったのかもしれません。今の自分? それこそ悪夢です。しかし、ぜひ醒めてほしいと思っているこの悪夢こそが、疑う余地のない現実なのです。

どちらを選ぶかは自分次第

「…だったらよかったのに」。わたしはこの言葉ほど無価値なものはないことをよく知っています。それが最も悲しい言葉であるのは、最も愚かな言葉でもあるからです。

冷静に、公平に、客観的に振り返るなら、わたしが慢性疲労症候群(CFS)になってこのかた、過ごしてきた日々は無駄ではありませんでした。わたしが受け入れがたく思うのは、それを望んでいなかったから、というだけに過ぎません。

好むと好まざるとにかかわらず、わたしが闘病の日々から学んできたことはたくさんあります。以前の記事に書いたように、わたしが得た友人はすばらしい財産です。

わたしは同年代の人に比べて物事を深く考えると言われます。実際にそうなのかはわかりません。それはわたしではなく他の人が判断するところです。

わたしは何事においても良い点を見つけようと思っています。どうせ見方が偏るなら、厳しさではなく優しさに偏ろう、というのもわたしのモットーです。周りの人とは観点が違うかもしれません。

それはもともと身についていた考え方ではありません。わたしはもともと尊大で自信過剰でした。不登校になるような人間は怠けであり怠惰であり、努力が足りないと見下していました。病気が考え方を変えさせたのです。そうでなければ生きてゆけませんでした。

人の脳には可塑性があります。状況に適応しようとする能力です。わたしたちは誰しも苦悩に満ちた環境に置かれることがあります。

しかしその環境で、あまりの苦しさゆえに感情を押し殺し、冷酷で無感覚な人になるか、それとも自分が苦しんだからこそ優しく愛情深い人になるかは、その人次第です。自分で選ぶことができます。

倒木につたわるのように

橋本信也先生の総論「慢性疲労症候群の歴史」によると、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)と思われる病態の治療に関する文献は、英国のヒポクラテスと呼ばれた17世紀の医師トーマス・シデナムにまでさかのぼれます。

彼は筋痛性脳脊髄炎(ME)の疼痛に対して、Balm of Gileadという薬を用いました。いったいそれは何でしょうか。調べてみると、これはパレスチナのギレアド地区で採れる樹脂から造ったバーム(香油)なのだそうです。

木から採れる樹脂は、いにしえから、芳しい香りや薬効により人々から愛されてきました。しかし芳しい樹脂は、健康な状態の木からは採れないようです。倒れたり、傷ついたり、沼に埋もれていたり、そんな苦しい状況に置かれた木からだけ、良質の樹脂が採れるのです。

埋もれた木木は、苦しい状況に置かれると、もはや木として、太く、高く成長することは望めないかもしれません。

それでも懸命に生きて、木そのものが熟成するとき、樹脂として流れ出るその「涙」が人々の心を安らがせ、病気を癒すBalmとなるのです。

わたしはもはや、不登校になる前の自分が目指した目標は望めません。今やまったく違う世界に生きています。

それでも、過去の自分としてではなく、慢性疲労症候群の自分として懸命に生きるなら、その経験から学び、だれか他の人の力になれる日が来るかもしれません。

どれほど辛く、どれほどもどかしく、どれほど焦り、どれほど恐怖しようが、結局はその結論にたどりつきます。

これまでやってきたように、体調を少しでも良くするためにデータを集め、分析し、調査し、新たな習慣を身につけ、少しずつでも、這いつくばりながらでも前へ進むしかありません。時間はかかったものの、それによって、確かにここまで回復したのです。

時間の止まった過去の自分はもはや生き返ることはないでしょう。その涙をポケットにいっぱいに詰め込んで、新しい自分として人生を懸命に生きていく、これがわたしにできる唯一のことです。

その涙はいつかすばらしいBalmに変わるかもしれません。香油を表すBalmには「慰め」という意味もあるのです。

さて、なんとも当たり前のことを、なんとも回りくどく書いてきました。

ただ自分のためだけに書いたのですが、はたして最後まで読んでくださった奇特な方がいるのでしょうか。

もしいらっしゃるのであれば、心からの感謝をお伝えします。

あなたの未来にも、喜ばしい日々がありますように。


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