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本当にいる空想の友だち「イマジナリーフレンドと生きるための存在証明」

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「おっ、ヤッタ。ここんちの鯖の煮つけは美味い」
「美味しいよねえ、うちのかあちゃん煮物上手だから。私も早う料理覚えにゃ…」 (p43)

たりは、夕ごはんを前にして仲良く会話しています。 ふたりは2009年に出会いました。今で4年経ちました。最初は少々距離のある関係でした。でも、出会った次の日に彼は日記を書き始めて見せてくれるようになりました。

一緒に学校に行くようになりました。試験の時には忘れていた単語や数式の解き方を教えてくれました。ふたりは除々に仲良くなりました。

今では結婚することも考えるようになりました。彼女の指には、高校卒業と同時にプレゼントされた指輪が光っています。でも、ふたりは結婚できたわけではありません。なぜなら彼には体がないからです。

ここまで読んで、なんとオカルトじみた話だと思われるかもしれません。しかし、この話にそうした要素はまったく関わっていません。これは、人間の心の不思議な機能の一つで、「イマジナリーフレンド」という現象なのです。

今回紹介する本、ここにいないと言わないで ―イマジナリーフレンドと生きるための存在証明―は、ひょんなきっかけから、空想の友だちとともに暮らし、日常生活を送るようになった人による、現実の体験記です。

これはどんな本?

この本の著者、久保香奈子さんは、空想の友だちである、ルーク・ユグノーという青年と暮らしています。といっても、この青年は、一般的な「空想」の印象とは一線を画しています。前述したように、非常にリアリティがあり、日常生活を一緒に送っていても違和感がありません。

さらに、香奈子さんは彼、ルーク・ユグノーを自発的な意思で空想し、創りだしたわけではありません。彼女はルークを「創った」とはいわず、「出会った」と述べています。

はっきり言って、ルークと出会ったとき、私は彼を自分で順序よく組み立てた制作物とは認識しなかった。彼は私の問いを受け流すなど、自分の思考と意思で行動していたし、はっきりと目に浮かぶ容姿をもっていた。(p38)

彼があまりに現実的な存在なので、香奈子さんは、独特な悩みを抱えるようになります。「目に見えぬ彼らもまた人間であると、はっきり認められるようになる」そんな社会が来てほしい、彼が確かにいる、という存在証明を著したい、そう考えるようになったのです。(p92)

そのようなわけで、この本のタイトルはなかなかに壮大です。ここにいないと言わないで ―イマジナリーフレンドと生きるための存在証明―という名前が付されました。目に見えない、客観的にいえば「空想」でしかないはずの一人の人物について、存在を証明をするために書かれた本なのです。

イマジナリーフレンドとは?

まずイマジナリーフレンドとは何かを説明しましょう。

イマジナリーフレンド(Imaginary Friend/空想の友だち)は、イマジナリーコンパニオン(空想の仲間)、イマジナリープレイメイト(想像上の遊び相手)とも呼ばれます。

幼い子供たちにふつうに見られる現象であり、病的なものではない、ということは広く知られています。著者はこう説明しています。

この現象の体験者は幼い子どもである。人生がはじまってまもない子どもたちは、実際の社会に関わりはじめる前に、空想で練習台を作りだして、人間関係を学ぶのだ。彼らと対話し、遊びながら子どもたちは成長する。

そして小学校にあがるころ、五~六歳になると社会に馴染みはじめ、役目を終えた空想たちは忽然と姿を消す。(p19)

イマジナリーフレンドは、豊かな空想力と独創性のしるしとされているそうです。

ところが、著者が最初のイマジナリーフレンドに出会ったのは、10歳のころだといいます。そしてもうすぐ20歳になろうというのに、イマジナリーフレンドと生活しています。これはいったいどういうことなのでしょうか。

長期的なストレスへの防衛機制

青年期になってイマジナリーフレンドと出会う理由について、確かな研究があるわけではありませんが、著者は自身の体験を振り返り、こう推測しています。

小規模とはいえすでに社会に出て数年を重ねた少年や青年が、幼少期のそれと同じ理由でIFと出会うとは考えがたい。

私はむしろ、社会に出たあと、心に長期的なストレスを感じた場合に発生するのだと考えている。

IFは、精神的負担を軽減するために心が自然と行う防衛機制というはたらきの一種だと考えられるのだ。(p25)

著者はその防衛機制として「投影」というものを挙げています。これは自分が思っていることを、あたかも他人が思っているかのように感じてしまう仕組みだそうです。

香奈子さんは、生まれつきの病気がもとで、歩くことができません。自分ではどうすることもできず、不満や怒りや悔しさが強い精神的ストレスになっていました。

寂しい、だれかが自分を好きでいてくれたら、と常々思っており、そのような欲求やあこがれが、ひとりの人格として人手によらず形になった、と回想しています。

香奈子さんは、こうした結論に至るまでに、自分はどこかおかしいのではないか、と悩んだそうです。あるときは解離性同一性障害(多重人格)ではないかと疑いましたが、多くの点でその病気とは異なっていました。このような勘違いはイマジナリーフレンドを持っている人が「詳しいことをなにも知らない時期によく起こる」そうです。(p24)

しかしイマジナリーフレンドという概念を知り、自分の体験を整理したことで、この現象は病的なものではなく、もっとポジティブなものだという結論に至りました。こう述べています。

自分の考察と経験を総合してみると、IFは非常にポジティブな心のはたらきが引き起こす現象だといえる。保持者は願望の具現であるIFを通して自分の抑えつけてきた欲求に向き合い、理想像をはっきりと見つめることになるからだ。

そして現実の自分自身に足りないものに気づき、理想とのギャップを埋めるためにどうすればよいのかを考えることができる。前向きな変化を助けてくれるようなその存在は、恋人として、またもっと親密な精神的伴侶としてとても頼もしいものだ。(p29)

ずっと一緒にいたければ

イマジナリーフレンドが病的なものではなく、非常にポジティブな働きをすることは、ひとつのエピソードに表れています。

香奈子さんが養護学校の高等部でただ1人、大学受験の勉強に追われる日々を送っていたときのことです。恐ろしいプレッシャーに潰れそうになり、彼女は現実を捨ててやけになってしまいました。

ただルークとしゃべることだけにかまけ、なにもかも忘れて過ごします。その点について読むだけであれば、イマジナリーフレンドは単なる現実逃避にすぎないように思えます。ところがふたりの会話は思わぬ方向に発展します。

(香奈子さん)「私がこのまま引きこもっていたら、私たちの会話材料になる刺激が減る― 『愛してる』しか言えないなんて嫌でしょ―。会話がマンネリ化して、ああ、早い話が、私はあなたを忘れるわよ! 忘れられるような薄っぺらいものにはならないって決めたんじゃなかったの?」

…(中略)…

(ルーク)「外に出て刺激受けて、ふたりでいろんなことを話して対応する、そのほうが消えないためにいいんだな?」(p59)

イマジナリーフレンドをもっていたがゆえに、そしてイマジナリーフレンドと離れ離れになりたくないからこそ、香奈子さんが、危機的状況から立ち直れたことがわかります。

イマジナリーフレンドは考えをポジティブな結論へと導き、現実から逃避するどころか、現実をしっかり見据え、立ち向かうための助けとなったのです。イマジナリーフレンドは逃避的な空想ではなく、もっと現実に即した積極的なイメージであることがうかがい知れます。

単なる空想が非日常へと逃避する手段なのに対し、イマジナリーフレンドは日常を共に生きるためのものなのです。

確かに「ここにいる」

もちろん、イマジナリーフレンドがポジティブなものだからとって、イマジナリーフレンドと生きることに悩みが伴わないわけではありません。

現実に一生を共に過ごすことを誓った男女が、さまざまな問題に直面するように、イマジナリーフレンドと長年暮らしていくことにも、独特な問題がつきまといます。それは、ふつうの人が考えもしないような悩みです。

■自分が書かなければ、他の人は彼の存在にさえ気づかない。(p15)

■彼に現実の人々とコミュニケーションをもってもらうにはどうすればいいか。(p63)

■そもそも空想の人間をずっと好きでいていいものなのか。(p77)

■ずっと会いたいと思っているのに、姿を見ることさえかなわない。(p79)

香奈子さんは、これらの質問ひとつひとつに真剣に向き合い、さまざまな調査を通して、またルークとの会話を通して、答えを出してきました。その過程は、この本に、さまざまな角度から詳述されています。

それらを読むとき、読者であるわたしが感じるのは、圧倒的なリアリティです。確かに、彼女が想っているのは実在する人であり、わたしたちと同じように現実に存在しているのだ、ということを認めざるを得なくなります。

そして、この本の帯に書かれている著者の言葉、『でも、ルークは確かに「ここにいる」』という一節に共感を覚えます。

実在するとはどういうことか

本書を読んで終わりにわたしが感じたのは次のようなことでした。

人が一人現実に存在する、というのは何をもって証明されるのでしょうか。これは大変哲学的な問いです。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉を残しました。

そうであれば、著者の体を借りているとはいえ、ひとりの独立した人間として思考しているように見える彼女のイマジナリーフレンドには、現実性があります。

また自閉症の作家東田直樹さんは自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心のなかで、存在についてこう述べています。

自分の気持ちを相手に伝えられるということは、自分が人としてこの世界に存在していると自覚できることなのです。(p31)

そうであれば、自ら思考を伝えられる彼女のイマジナリーフレンドは、自らを存在していると自覚することでしょう。

他方、水槽の脳や、哲学的ゾンビ五秒前仮説などの哲学的な話題に目を向ければ、わたしたちが自分自身を現実の人間として受け入れていることは、本当に正しいのだろうか、という疑念が沸き起こります。

わたしたちは、自分で思考し、行動し、記憶を積み上げている、だからこそ自分は現実の人間だ、と考えています。しかしそれは果たして疑いようのない事実でしょうか。

もしかすると、イマジナリーフレンドが存在証明を必要としているのと同じく、自らを現実の人間と考えているわたしたちもまた、存在証明を必要としているのではないでしょうか。

考えようによっては、わたしたちとイマジナリーフレンドの境目は、それほどはっきりしたものではないかのようにも思えるのです。

この本は、イマジナリーフレンドという非常に特殊な現象を通して、わたしたちが自分自身についてじっくりと考える機会を与えてくれます。

著者はまだ若い方であり、じっくり考えぬかれた精神的世界というより、思考のはじまりないしは入り口という印象を受けますが、おそらく、これからどんどん深みを増していくのでしょう。他の人にはわからないひとつの文化の発信者として、今後も情報発信を続けてほしいと思います。

自閉症スペクトラムという、独特の文化と個性を持つ人たちの実態は、ドナ・ウィリアムズなどの当事者の著作から明らかになってきました。サヴァン症候群もまた、ダニエル・タメットという、自身について説明できる稀有な存在によって説明されるようになりました。イマジナリーフレンドの豊かな世界についても、同じようになってほしいと思います。

最後に、最も心に残った言葉を引用して、締めくくりたいと思います。この本のテーマをよく言い表している言葉です。

いとしいひとと一緒にいつづけるための責任なら、どんなひとに何時間責められようが全部受け止められる自信がある。

一度は彼のために現実をすべて捨ててしまおうと思えたほどの愛は、ちょっとやそっとじゃ壊れない。

…願わくばこの世を去るときまで、一緒に生きていたい。

たとえ世界のだれもが愚行だとあざ笑おうとも。(p78)


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