基本的に臨床美術は人間の楽しみや、作品を創作する喜びによって脳を刺激し、なおかつ心理効果があるという治療法です。心を解放できる治療です。
ですから、認知症に限らずいろいろな疾患に有効な治療法ではないかと考えています。(p85)
これは、日本の臨床美術の先駆けとして活躍した故 金子健二牧師の言葉です。金子さんは、生前、彫刻家として活躍し、そこから得た美術のエッセンスを用いて、認知症(アルツハイマー病)や不登校の患者のセラピーにあたっていました。
芸術がなぜ認知症を改善するのか。 (コミュニティ・ブックス)は彼の死後に出版された本ですが、臨床美術(アートセラピー)がなぜ不登校や認知症に効果があるのか、どんな働きかけが脳機能を回復させるのか、ということについて書かれています。
不登校も認知症も、脳機能の問題であり、脳の機能が低下して症状をきたしているような他のいろいろな病気にも、アートセラピーが効果があることが窺えます。
この書評では、特に3つのポイントにまとめてみました。
1.言葉にできなくても絵にできる
2.先の見えない美術だからこそ
3.失敗や試行錯誤が脳を活性化させる
1.言葉にできなくても絵にできる
不登校の子どもは、自分の気持ちをうまく表現できないことがあります。それは、脳機能が低下していて、混乱状態にあるからだ、ということがわかっています。
その状態はときに大人の慢性疲労症候群(CFS)にも匹敵すると言われています。脳の機能が疲弊しきっていて、何も手につかない状態なのです。
本書に登場するある男子高校生は臨床美術と出会って脳が活性化し始めましたが、それ以前の状態についてこう書かれています。
彼が臨床美術に通い始めた頃、ほんとうにひどい状況で、部屋に閉じこもっていたそうです。
そして、テレビを見たりゲームをしているならまだいいと思ったのに、ゲームをする気も何も起きない状態で、ほんとうに何もしなかったのですとおっしゃっていました。(p32)
不登校でも、特に強い心身の疲労を感じている状態では、日常生活がまったくできず、無活動状態に陥ってしまうことがあります。
しかし、その子どもは、半年間、臨床美術に接し、陶芸の経験を通して、脳機能が再び働き始めました。何もできないほどに疲れていたのが、陶芸の話を延々と話し続けるくらい意欲が戻ったそうです。
思考が混乱している不登校の子どもにとって、なぜ臨床美術が効果があるのでしょうか、別の女子中学生に関する話は、理由の一端をかいま見させてくれます。
彼女は最初のうち、ほとんどの時間話を聞くことだけで過ごしました。「最近頭にきたこと、ある?」と聞いたら「ない」と言います。「何かイライラしたことない?」と聞いても「ない」と言うのです。…何を聞いても「ない、ない」としか答えてくれませんでした。
「じゃあ、今はどういう気持ち?」と聞いたら、「ウーン、何かよくわからない」と言います。そこで、「よくわからないというと、色にするとどんな色なのかな?」と聞きました。すると「色はない」と言います。「形は?」と問うと、「形も何だかない。何かザワザワザワッとした感じ」と言うのです。
…[それで絵を描かせてみると]その子は、今の気持ちを表現する絵として、形も何もなくて、グレーとほんの少し水色や茶色が入った、ほとんど色味を感じない絵を描きました。
…その次に描いたのが、血がドロドロ流れているところです。血がドロドロ流れておどろおどろしい絵でした。でもアートのすごさは、たとえ血がドロドロと流れているようなおどろおどろしい絵であっても、あるいは形がない、色もほとんど感じられない絵であっても、それをほめることができることです。
…アートは、何だかよくわからないことを、目に見える形で置き換えることができるのです。(p28-29)
それを繰り返しているうちに、彼女は、話を聞くより、絵を描く時間のほうが長くなってきたといいます。自分を表現できるようになっていったのです。そして高校に上がるのをきっかけに学校に復帰出来ました。
これらの不登校に関する経験は、もちろん、すべての場合に当てはめることはできません。不登校の背後に、慢性疲労症候群や概日リズム睡眠障害、発達障害などが隠れている場合、それらの治療も必要です。
しかしどんな場合でも、表現することは抑圧された感情を解き放ち、心を解放する効果があります。言葉にできないために抱え込んでしまっている感情があるとしても、アートセラピーはそれを表現することができるのです。
2.先の見えない美術だからこそ
芸術家と職人には大きな違いがあります。そのことは、心を解放し、治癒する芸術の力とも結びついています。
ひとつのエピソードを見てみましょう。
[日本を代表する彫刻家の菊池一雄先生が]夏休みにイタリアに旅行され、ファツィーニという世界的に有名な彫刻家をアトリエに訪ねたのだそうです。そして9月に「俺、たいへんな失敗をしてしまった」と頭を掻きながら大学の私たち学生のアトリエに入ってこられました。
「先生、どうしたのですか。ファツィーニ先生のアトリエに行ったのでしょう」
「行ったのだけどね」と先生がおっしゃるには、ファツィーニ先生の創りかけのまだ完成していない作品があったそうです。
そこで、菊池先生がつい観光気分にそそられて聞いてしまったというのです。
「この先どうなるのですか、この作品」と。
そしたらファツィーニ先生が、「私にもわかりません」とこう言ったというのです。それで、とんでもない恥をかいてしまったと菊池先生は言っているのです。(p49)
普通の人にとっては、何が恥だったのかわからないかもしれません。しかし、芸術に携わる人にとっては、常識となっていることがあります。それは、芸術は先が見えない、ということです。
職人は、完成図を先に作り、それを目指して作品を組み立てます。しかし芸術家は、作品がどう完成するのか知らずに作っているといいます。
職人の作品は、完成図があるため、必ず「上手い」「下手」が生じます。上手にできなければ、作品の価値は著しく低下してしまいます。
しかし芸術は本質的に言えば、そうではありません。金子さんはアートセラピーに取り組むとき、次のような点に注意していました。
私たちは「上手」「下手」というほめ方は一切いたしません。「上手」「下手」という言い方は、とても人を傷つけます。特に「上手ですね」なんて言われてしまうと、却って今度はプレッシャーを与えられてしまいます。(p48)
芸術作品は失敗や試行錯誤の積み重ねの上にできています。失敗と思ったものが思わぬ表現の豊かさを生み出したり、技術の拙さが味を出すこともあります。
あらかじめ完成予想図がないので、作品を作っているうちに、予想よりはるかにすばらしいものができることもあります。それまで形のなかった感情やもやもやしたイメージが一枚の絵になると、感動さえ覚えます。
その創造的な飛躍こそが、アートセラピーで得られる気づきであり、喜びや満足感の源でもあるのです。
3.失敗や試行錯誤が脳を活性化させる
しかしそうは言っても、絵を描くのは苦手だし、ハードルが高い、という人は大勢いるでしょう。ですが、そうしたストレスは必ずしも悪いものではありません。
最後に意外に思えるデータを紹介しましょう。
アートセラピーを受けている認知症の患者の脳波を測り、楽しさやストレスと、知能テスト(MMSe:ミニメンタルステート検査)の成績との関係を調べたものです。
実験に先立って、研究チームは、ストレスがまったくなく、楽しくリラックスしている状態が最も脳を活性化させるだろうと予測していました。結果はどうだったでしょうか。
楽しみながらストレスを感じている人たちは、脳がきわめて活性化していて、MMSeが非常に良くなっています。
次のタイプの方は、楽しいけれど、ストレスはないし、哀しみもない、リラックスし、とにかく楽しいという、ある意味で最高の状態です。…この人たちのデータをみると、全員悪化していました。(p82)
意外なことに、脳機能が活性化するためには、楽しさと同時にストレスが必要であることがわかったのです。
この研究結果は、フロー状態に関する理論と一致しているかもしれません。フロー理論によると、自分のスキルに見合ったハードルがあり、それをぎりぎり克服していける状態が、最も喜びや満足感を生じさせるのです。
先に述べたように、絵を描きながら、ときに失敗し、うまくいかないところも経験し、いろいろと試行錯誤した結果、想像以上の作品ができることもあります。こうした努力の過程が、脳機能を刺激するのかもしれません。
患者がなぜ「芸術家たりうる」境地に達するのか。それはうまく作ろうという思いから開放されているのと、製作途中でたくさん失敗したり手際よくできないからである。
療法士の適切な励ましで、「失敗」をむしろ「素晴らしい発見」としてポジティブにとらえていくと、「イメージの飛躍」を体験し、「自分を超えた世界」が展開して芸術作品が生まれる。(p92)
わたしの体験
わたし自身も、アートセラピーや箱庭療法を体験したことがあります。まだ10代のころに、専門のセラピストのもとで、大勢のメンバーと一緒にやりました。
この本に書かれているのと同じようなやり方で、セラピストの方に自分の気持ちをそのまま紙に描くようにと言われ、クレパスで心の赴くままに描きました。
心を描くというのは、一般のイラストやマンガのようなシンボル的なデザインは何も描かず、ただ感じるままに、紙面を塗っていくということです。
合計で四枚描きましたが、最初は乱雑な塗り方に混乱が表れていたのが、何枚か描くうちに、それぞれの色に意味が感じられ、自分の悩みとリンクして、絵がまとまっていくようでした。
だれに絵の意味を指摘されたわけでもなく、絵の講釈をしたわけでもないのに、描いているうちに、自分が何に悩んでいたのかがわかり、その答えも得られていきました。自分自身で変わっていったのだと思います。
結果として病気が治ったわけではありませんが、もやもやして処理できなかった心がまとまり、方向性が生まれたように思います。箱庭療法のほうも、同じような効果がありました。
このように、臨床美術(アートセラピー)は、衰えた脳機能や、眠っていて正常に働いていない脳機能を目覚めさせる効果があります。本書では、ニューロンが再生したという研究にも触れられています。(p84)
脳の機能障害があっても、生活のQOLを上げ、満足感や喜びを取り戻すために、アートセラピーは選択肢の一つになるかもしれません。