もし大切な人が発症して夢も希望も失いかけた時には、そばにいる誰かが、病気や苦しみを理解して、その人の手助けをしてあげてほしい。(p190)
漫画家のあきやまひできさんによる、化学物質過敏症(CS)の闘病マンガかびんのつま 3 (ビッグコミックススペシャル)を読みました。第一巻から読んできましたが、第三巻で無事、完結を迎えられました。
これまでも感想を書いてきましたが、この第三巻についても、わたしになりに感じたことを書いておこうと思います。
わたし自身は化学物質過敏症(CS)ではありませんが、友人にCSが何人かいて、その大変さをじかに見ています。それで、CSについての具体的な体験を読めるこのマンガはとても貴重だと思っています。
今回は、このマンガの中の「さまざまな刺激への過敏性」「理解のある先生たち」「理解できないから誤解される」といった話題について、このブログで取り上げてきた他の病気の話とからめて考えたいと思います。
これはどんなマンガ?
このマンガは漫画家のあきやまひできさんによる、奥様のかおりさんの闘病生活を描いたノンフィクションです。
第一巻「前兆編」ではかおりさんとの出会いから始まり、得体のしれない症状の発症、第二巻「重症化編」ではそれが重症化していく症状が描かれていました。
第三巻「完結編」では転地療養や化学物質過敏症の診断のことについて描かれています。
さまざまな刺激への過敏性―ASDとの比較
通過する電車音が脳を剣のようにつらぬいていった。
「音が痛い!」 (p27)
はじめのほうのページでは、かおりさんが、都会の生活に耐えられなくなって、転地療養を決意する様子が描かれています。
転地療養をするために駅に向かい、電車に乗ると、さまざまな化学物質や電磁波の刺激に苦しめられます。
こうした記述を見て、ある人たちは、そんなバカな、と思ったり、精神的なものでしかありえない、と思ったりするかもしれません。
しかしこのブログで取り上げてきた色々な話、特に自閉スペクトラム症(ASD)の人たちの体験世界について考えると、決して嘘偽りのない現実の感覚なのだろう、と思えます。
たとえば、自閉症とサヴァンな人たち -自閉症にみられるさまざまな現象に関する考察‐という本には、あるASDの人の体験が次のように引用されていました。
電車に乗ると、車内のアナウンスが頭のなかを貫通する。そして電車が込めば込むほど、低周波が全身に襲いかかる。いくらウォークマンやイヤフォンで塞いでみても、地下鉄の轟音は容赦しない。
不規則で突発的な過減速。そして予測不能な動きをする人間たちの群れ。電車には特有の臭いがある。夏場は身体それ自体から、そして冬場は黴びた衣服の臭いが嗅覚を襲う。(p224)
こうしたASDの感覚過敏は精神的なものなのでしょうか。
以前は、そうした感覚過敏、感覚鈍麻は社会性の問題で心理的なものだと思われていたのですが、近年の研究では、感覚を統合する脳の働きに異常が出ていると推測されています。
本来、わたしたちの身の回りには刺激があふれていますが、脳は、感覚刺激をフィルターにかけ、濾過することで、情報に圧倒されないよう制御しています。
しかしASDのように何かの不具合で濾過機構がうまく働かなくなったら、大量の感覚刺激にのみこまれ、過敏になることもあるのです。
このような過敏性は、うまく制御できれば、目の見えない人がエコーロケーションによって歩けるようになる場合のように有効に活用できますが、無秩序で制御できないと、強い不快刺激になるのかもしれません。
もちろんここで言いたいのは、化学物質過敏症の人とASDの人が同じだということではなく、単に、脳の機能の変化によって、他の人は気にならない程度の刺激が大きな問題となることが十分ありうる、という点です。
こうした他の例を参考にすると、化学物質過敏症の人の感覚過敏が、心理的な問題ではなく、脳の感覚に関する機能が影響を受けている現実の問題であることが理解しやすくなると思います。
理解のある先生たち―DIDとの比較
先生は大学院で『金属アレルギーと歯科治療』という本を書かれた先生と一緒に研究されたことがあり、歯科金属を取ることには積極的な先生だった。(p161)
後半の部分で、あきやまさんたちは、かおりさんの歯の金属のかぶせものの影響に気づき、化学物質過敏性に理解のある歯科医を探します。
幸いにして、一軒目で理解のある医師が見つかり、とても慎重な配慮をしつつ、金属除去が行われる様子が描かれています。
窓を全開にし、薬品を使うときには飛散しないよう気をつけ、必要ない電気製品はすべて止め、真っ暗な中で治療を行う様子は読んでいてとても感動しました。こんなに理解と配慮を示してくださる方がいるのですね。
化学物質過敏症は、専門家である医師の間でも、意見が分かれ、中には存在をあからさまに否定する医者もいます。精神的な思い込みだと決めつけ、神経過敏性の問題を否定します。
確かに、精神的な影響がまったく関与しないとは思いません。それは、線維筋痛症の人の痛みが、そのときの精神状態で悪化することもあれば良くなることもあるのと同じです。
どんな体の病気であっても、心と体は密接に関連していて、心身相関があるというのは、現代医学の常識です。
しかし先ほどのASDの人の話でも書いたとおり、一見精神的な症状に見えるものでも、脳や各器官の調節機構の異常による体の症状である場合も少なくないはずです。
化学物質過敏性とはまったく別の話ですが、わたしがこのブログでよく話題にしている解離性同一性障害(いわゆる多重人格)を診ている医師たちも、他の「良識ある」医師たちから白い目で見られてきたそうです。
解離を専門とする医師の岡野憲一郎先生は、脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学という本でこう書いています。
解離性障害、特にDID(解離性同一性障害)の治療に当たる心理士や精神科医は、しばしば逆風に晒されることを覚悟しなくてはならない。
「あちらの世界に行ってしまったんだな」という視線。そこにはしばしば憐憫さえ感じられる。
日本の精神分析関係の人々の間では、解離を扱わないという不文律があるようであるが、良識ある精神科医や心理士の間にも「私は解離性障害には懐疑的です」と公言する人は少なくない。(p75)
この状況は、病気の種類はまったく違うとはいえ、化学物質過敏性の医師が直面する状況と非常に似ているのではないかと思います。ある種の「オカルト」「スピリチュアル」「疑似科学」の領域とみなされてしまうのです。
しかし岡野憲一郎先生は、それでも解離を診る理由をこう説明します。
それは私にとっても同じであり、どこかで「そんな馬鹿な」という気持ちはいつも持っている。
ただ目の前に現れる患者は、DIDに対する懐疑的な視線により傷つき、誤解を受けてきている。
それこそが決定的に重要なことなのである。かのシャルコーの言葉を肝に銘じたい。
“La théorie,c'st bon, mais ça n'empêche pas d'exister.”(J-M.Charcot)「理論もいいが、それは実在を妨げない。」
解離を認めない「良識のある」医者は、交代人格の存在を無視して治療しようとしますが、それでは患者との表面的な関わりにとどまり、治療は成功しないそうです。
もちろん化学物質過敏症はDIDとはまったく異なる病気ですが、やはり「目の前に現れる患者」が明らかにそれで困っていて、化学物質過敏症としての治療で良くなることが多いのであれば、たとえ完全に科学的には解明できていないとしても、それを認めて理解することは大切なのではないかと思います。
※もちろん化学物質過敏症を訴える患者の中にも、実は化学物質が原因ではないと考えられる人もいて、たとえばオープン試験やブラインド試験を用いて、本当に化学物質に反応しているのかどうかスクリーニングしている病院もあるようです。
理解できないから誤解される―LDとの比較
みんな原因がわからないから精神的なものだと思って…
症状を訴えると虐待されたり我慢が足りないとか言って怒られてたんだ! (p127)
化学物質過敏症の人は、本人もまわりの人も、原因に気づいていないころには特に、理由もなく怠けていると思われたり、やる気がないと言ってなじられたりしがちです。
かおりさんは、第一巻の時点では、食品会社での試食が原因で化学物質過敏症を発症したのではないか、とされていました。しかし第三巻では、より理解が深まって、子どものころからシックハウス症候群だったという真実が判明します。
子どものころ、さまざまな体調不良があったことや、家族に虐待されたりしたことの原因は、だれも理由をしらないシックハウス症候群にあったのです。(p126,175)
こうした理解できないから誤解される、というのは、慢性疲労症候群や線維筋痛症など、検査で異常が出ない他の病気にも共通することですが、特に子どもの場合に深刻な問題になりやすいと思います。
子どもの起立性調節障害や慢性疲労症候群は、家族や学校の先生、そして医師にさえ怠けと見られやすい、たいへん辛い病気です。
また、最近このブログで取り上げている限局性学習症(これまでの学習障害(LD))の子どもたちは、視覚や聴覚からの刺激が他の子どもとは違うために勉強について行けないのですが、親や先生からできそこないや落ちこぼれのようにみなされがちです。
本当は、他の子どもよりも何倍も努力していることが少なくないのですが、成績は伴わす、不当にも怠けとみなされてしまうのです。
この場合も、やはり脳の認知特性の問題なので、本人の努力でどうにかなるものではないのですが、原因がわからないばかりに、周りに理解されず、疎まれてしまいます。
化学物質過敏症と限局性学習症に共通するのは、他のほとんど大多数の人にとっては何の妨げにもならない日常的なものが、大きなハードルとなってしまうという点です。
ほかの人たちは何も問題をかかえないところで異変が起こるので、周囲の人は理解できず、当人の心の問題や努力不足、わがままとみなされてしまいます。
今回の「かびんのつま」でも、かおりさんが ひできさんの両親から理解されず、辛い思いをする様子が描かれています。
日本は特に、他の人と足並みをそろえること、みんな同じであることが教育の場でも社会でも重視されるます。(口では「個性が大事」などと言う人もいますが、行動ではそれを望まないことを示していることがほとんどです)
そのため、たいていの大人は、自分と違っている人を理解できないどころか、自分と違う存在がいるということさえ、認めることができません。その結果、少数派を占めるイレギュラーな人たちが、社会でのけものにされてしまいます。
化学物質過敏症の人たちが理解されにくいのも、そのような社会の病理の一端であるように思えました。
おわりに
化学物質過敏症はまだ十分、科学的にも解明されているとはいいがたく、世の中で理解されているとも言えない状態です。詳細なメカニズムや治療法についてはさらに研究される必要があると思います。
その中で、「かびんのつま」のような当事者による、ありのままの体験を描いたマンガが出版されたことには、とても貴重な意義があると思います。
もちろん化学物質過敏症の人の体験も人それぞれでしょうから、このマンガを持って、化学物質過敏症の人はみんなこうなのだ、と考えるわけにはいかないでしょう。一人ひとり違うからこそ理解しにくいのです。
しかし一つの例として、同じ国、同じ都市に住みながら、ここまで日常がサバイバルになり、違う感覚世界を生き抜いている人がいるのだ、ということを知るのは、だれにとっても見方を広げる点で重要だと思います。
また、家族でさえ病気を理解してくれない中で、旅館の女将さんや、歯科医の先生のような、人情ある人たちと出会ったというエピソードも、たいへん励みになるものでした。最後に登場したのは宮田先生でしょうか。似ていて思わず笑いました。
何より、このマンガの大きな特徴は、あきやまさんが献身的にかおりさんを支えておられるところです。理解しにくく思いながらも、理解しよう、力になろうと懸命に努める様子は、読んでいて心温まりました。
きっとマンガの執筆においても、日常生活においても、さまざまな困難や心労があったと思いますが、こうして完結させてくださったあきやまさんに感謝しています。お疲れさまでした。
マンガの最後は、希望を持てる終わり方になっていて安心しました。今後もいろいろな出来事に直面するかと思いますが、あきやまひできさんとかおりさんの前途が明るいものとなるようお祈りしています。