こうして誕生したこの本を、すべての個性的でありたい人々に、「LDを活かして生きていこう」というメッセージとともに贈ります。(p6)
中には、自分はあまり特徴がない、趣味がない、影が薄い、と思っている人も多いでしょう。大多数の人は「普通」であることに悩むと言われています。
その逆に、あまりに突き抜けた個性のせいで、学校でも、社会でも目立ったりつまずいたり、理解されなかったりして、山あり谷ありの人生を送ってきたという人もいるかと思います。
今回紹介する本は、まさに、そのような人たち、またそのような傾向を持つ子どもたちに向けられた一冊です。そのような人は、子ども時代からLD(限局性学習症)やADHD(注意欠如多動症)を抱えている場合が少なくないようです。
そうした個性を、社会でつまずく「障がい」ではなく、「才能」として育てるにはどうすればよいのでしょうか。LD教授、上野一彦先生のLDを活かして生きよう―LD教授(パパ)のチャレンジを読んで、心に残った部分をまとめてみました。
これはどんな本
この本は、LDパパの愛称で知られる、日本LD学会理事長の上野一彦先生が、LDの人たちへのアドバイスやメッセージをまとめた本です。
LD教授(パパ)の贈り物――ふつうであるよりも個性的に生きたいあなたへに続く、LDパパシリーズの2番目の本だと紹介されています。
前半では、自分自身もLDとADHDを持っているという上野先生が、特に自分と同じような個性を持つ人たちに向けて、自分の特性をどう受け止め、どう発揮すれば良いのか、自分の生い立ちを話しつつ、アドバイスしています。
後半では、やはりLDやADHDの傾向を持ちながら、社会で活躍している人たち、小説家の市川拓司さん、建築士の藤堂高直さん、ゲーム会社などに務めた亀松和助さんを交えて、とても興味深い対談が交わされています。
▼LDとは
LDとは学習障がいのことで、DSM5という新しい診断マニュアルでは、限局性学習症(SLD)と呼ばれています。学校の勉強のさまざまな部分でつまずく子どもたちのことを言います。詳しくはこちらをご覧ください。
▼ADHDとは
ADHDとは注意欠陥多動性障害のことで、DSM5では、注意欠如多動症という名称に変わっています。多動・不注意・衝動性などを特徴とする脳のアンバランスで、LDとADHDは50%の割合で互いに合併すると言われています。詳しくはこちらをご覧ください。
個性的でありたい人のための13のメッセージ
ここでは、特にわたしの心に残った部分を13箇所引用して、それぞれに解説を加えたいと思います。LDという特性をどのように捉えたらよいのか、どう付き合っていけばいいのか、ということに役立つ心理的なアドバイスです。
1. LD&ADHDは個性か障がいか
LDやADHDといった、いわゆる発達障がいは「個性」なのか、それとも「障がい」なのか。これは当事者や家族、医師の中でも意見がわかれるところです。
その点について、上野先生は、自分の意見をはっきりこう述べます。
私はよく「LDは個性です」というんですけれど。ただ保護者の方からは「先生、個性じゃすまないんですよ」といわれたりします。ですからこれは、「理解されにくい個性」というべきかもしれませんね。
親御さんや先生からも気がつかれにくい、仲間からも理解されにくい特徴であるために、知らず知らずに自信をなくしたり、傷ついていくこともあるとすれば、決して軽い障がいではないかもしれないし、単なる個性というよりも、「理解と支援を必要とする個性」というべきかもしれません。(p9)
上野先生は、「個性じゃすまされない」という意見を聞きつつも、決して「障がい」だとは言いません。むしろ、「理解つと支援を必要とする個性」と言い換えることによって、あくまで「個性」であるというポリシーを貫いています。
確かに、LDやADHDで苦労してきて、とんでもなく大変な人生を送ってきた人は多いですし、そうした子どもを育ててきた親にとっては、毎日がサバイバルのようになることさえあるでしょう。
ですから、「個性」や「才能」とは決して思えない人がいるのも当然です。特に、日常生活が台無しになるような場合には、「障害」として治療を受ける必要もあるでしょう。
しかし以前の記事で取り上げたように、ピグマリオン効果などの影響を考えると、努力を要するとしても、それが「個性」であり、「才能」であるという解釈を育てることはとても大切だと思うのです。
2. LD=学び方に違いがある子
LDは「ラーニング・ディスアビリティ(learning disabikities)といいますが、「ラーニング・ディファレンセス(learnung differences)」、つまり「学び方にちがいのある子」といったとらえ方もいいな、と思うようになりました。(p26)
上野先生はLDは、「学習障害」と言うより、「学習の違い」ととらえたほうがいいのではないか、と提案しています。
確かに、学校生活でLDとみなされる子どもは、別の教え方をすれば、みちがえるような呑み込みの良さを示すこともあります。
みんなと足並みそろえて授業を聞いて、教科書を読んで理解する、というのはできなくても、特別支援教育や、個人授業、家庭学習のような、ニーズにあった教え方ができたら、ぐんぐん伸びることもあるわけです。
どんな方法が合っているかは、人によって違いますが、「学習障害」があると考えるのではなく、「学び方に違いがある」という視点で見れば、劣等感を抱いたり、落ち込んだりする必要のないことがわかります。
そもそも人間は工業製品ではないのです。みんなを同じ生産ラインに乗せて、同じ教育を施せば、だれもが個性的で創造力のある大人に育つ、と考えること自体がどこかおかしいのではないでしょうか。
3. プラスマイナス
日本で血液型ってよくいわれるじゃないですか。イギリスでは、あれに近い感じの社会的な扱い方ですね。ディスレクシアっていう、ひとつの個性みたいな。
だから、それは障がいっていうよりも、プラスマイナスを含めたものとして扱われている。(p108)
これはイギリスに留学し、建築士になったLDの藤堂高直さんの言葉です。
日本では、麻生首相が、「未曾有」の読み方を間違えただけで、多くの人が失笑し、首相失格だとあざけりました。
しかしイギリスでは、そうした読み書き障害は、いわゆる血液型占いと同じように社会に浸透しているもので、単なる欠点のようには思われていないのだといいます。
むしろ、イギリスのデザイン関係の学校に行くと、校長先生が「六割はそういう子だよ」と堂々と言うほどだといいます。
こうした話を読むと、なんだかわたしたちの社会は、LDやディスレクシアに対して、偏見や劣等感を抱きすぎなのではないかと思えてきます。
マイナスの部分が目立ってしまう社会構造ゆえに、プラスの部分が覆い隠され、本人にも、親にも、先生にも見えなくなってしまっているということはないでしょうか。
4.自信を持つにはどうしたらいいのか
LDやADHDの人が、今の日本社会では自信を持ちにくいのは確かです。どうすれば、自分の特性を「障がい」というマイナスのものではなく、「個性」や「才能」といったプラスのものと考えられるようになるのでしょうか。
あともうひとつは、先生とかぼくは非常にドーパミンが過多なタイプで、自己肯定感が意外と自分でまかなえるタイプなんですね。
で、今の子たちは、被害者的とはいいたくないけど、自己肯定感は傍(はた)が守ってあげないと、自分で支えられない。(p111)
この言葉は、自身もADHD&LD傾向を持っている作家の市川拓司さんによるものです。
LD&ADHDの人の中には、自己肯定感が自分でまかなえるタイプの人もいて、そうした人は比較的安心です。
しかしそうでない子どもたちには、だれかの支えが必要だと述べられています。
5.大切なのは受けとめてくれる人
支えてくれる存在の大切さについて、上野先生はこう述べます。
さっき、世の中でうまくいってるLD的な人はたくさんいますといいましたが、そこには共通点があります。
その人の周りには、たいてい、その人の強烈な個性やバランスの悪さを受けとめてくれる家族や仲間がいるんですね。(p27)
LDの人を支えてくれる存在の多くは、まず第一に母親だそうです。あるいは血のつながった家族のだれかであったり、時には配偶者である場合もあります。
上野先生は、たとえば、トマス・エジソンの母親ナンシー・エリオット・エジソン、アインシュタインの二度目の妻エルザ、ゴッホの弟テオなどを挙げています。(p144)
市川さんも、母親から、「あたりまえはつまんない」「もっとやれ」と育てられたと回想しています。我が子の個性を全面肯定してくれるお母さんや、支えてくれる友だち、配偶者の存在は、LDのプラス面を開花させるのに、とても大切なのでしょう。
さきほど上野先生や市川さんは、自己肯定感を自分でまかなえるタイプだと述べていましたが、単なるドーパミン過多の問題ではなくて、子どものころの親との愛着関係の安定性も影響しているのではないでしょうか。
つまり、幼いころ、家族に理解者がいたことで、愛着の安全基地が形成され、自己肯定感を抱きやすくなったということです。
6.大器晩成でいいじゃない
今の世の中では早期教育が叫ばれています。幼児のころから多国語教育する教材が売られていたり、天才を育てるためのメソッドなどが人気本としてバカ売れすることもあります。
しかし上野先生はこう言います。
「大器晩成」って言葉、知ってる? あまりこまかいこといわないで、ゆっくり育つのを待つということなんだけど。
今、あ~いう感じがないね。「大器晩成」って、とってもいい言葉だった。(p115)
確かに子どもがまだ幼いころから、親が子どもを教えこむのは大切なことです。最近も、幼児への読み聞かせの効用がニュースになっていました。
しかし、幼いころから役立つ教育を施すことと、親が焦って英才教育することとはまったく別問題だと思うのです。
子ども時代に大切なのは、親子のスキンシップや、愛情込めた読み聞かせなどによって、その時期にしか学べない、愛すること、愛されることの大切さを教えることです。愛着はその時期に形成され、一生影響を及ぼすからです。
子ども時代に、英才教育を求めて、親子で過ごす時間を犠牲にしたり、本来の発達段階とは異なることを教え込もうとしたりするのは、かえって有害になることもあります。
イスラエルのキブツの試みの失敗例のように、効率を目指した教育には、どこかに落とし穴があるものです。子どもの能力や限界に配慮して、喜びや楽しさを感じられるように育て、焦らず大器晩成を目指せばいいのです。
7.住みにくい日本という国
残念ながら、日本は、LDやADHDの人にとって、とても住みにくい国だといわれます。上野先生はこう言います。
なんか、日本の特徴かもしれないけど、学校のなかで、個性的であれ個性的であれっていうけど、うっかりそれにのっちゃって個性的だったりすると、今度はすごくはじかれちゃったり…。(p110)
市川さんは、そのような風潮を「都合のいい個性的」だといいます。 なるほど口では「個性的」であることを賞賛しているようですが、実際は、本当に個性的な子どもを、「都合のいい個性的」という型に押し込めようとします。
その人たちの考える個性というのは、作られた個性、決められた個性でしかありません。
たとえて言えば、人物画を描かせるときに、髪留めの色だけは好きに塗ってもいいよ、と言っているレベルの個性です。人物の肌を緑色に縫ったり、そもそもお手本とは全く違う絵を描いたりするような、本当に個性的な子どもは望まれていないのです。
日本の場合には、アインシュタインやエジソンのような存在は育たないといわれています。それは、そのような才覚ある子どもがいないからではなく、「ある強い特徴をもっているような人たちはつぶされちゃう」からだと上野先生は言います。
市川さんは、その潰そうとする力を「同調圧力」と述べています。同級生や先生が、「みんなと同じであるように」プレッシャーをかけてくるのです。(p112)
8.とても楽しい同種の人間探し
そのような「本当に個性的」な人たちにとって、学校や社会で出会う周囲の人たちは、どこか自分とは違う、なんだか物足りない人たちであることが少なくありません。
決してまわりの人たちを軽蔑するわけではありませんが、一緒にいて心から楽しめる、心底気の合う人たちではないと感じるのです。
そのため、そうした人たちは、自分と似ている人間を見つけると、たいそう喜びます。市川さんはこう述べます。
ご存じのように、ぼくらは「同種」の人間を探すのが大好きですから。(p69)
上野先生は、自分と同じLDやディスレクシアの過去の有名人たちを調べあげ、LD(学習障害)とディスレクシア(読み書き障害) (講談社+α新書)[Kindle版]という本でリストにしています。
その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチやマイケル・ファラデー、アガサ・クリスティ、トム・クルーズといったそうそうたる面々が並んでいます。
市川拓司さんも、作家のジョン・アービングやJ・R・R・トールキンなど、自分と同じ傾向を持つ作家たちに興味を惹かれています。
しかし、こうした「同種の人間探し」は世間から顰蹙を買うことも少なくありません。このブログでも、過去のADHDやアスペルガーの偉人をまとめた記事がありますが、必ずといっていいほど、反感を持つ人がいます。
過去の偉人を死後診断して「発達障がい」などと決めつけるのはけしからん、というわけでしょうか。わたしにとっては、そのような反応には、「発達障がい」への無理解と偏見が見え隠れするようにも思えます。
もちろん、他の人をだれかれかまわず、ADHDやLD呼ばわりするのはよくありません。そうした決めつけは独善的なものです。
しかし同時に、確かな根拠にもとづいて、もしかすると、あの人はわたしたちと「同種」の個性を持った人間だったのかもしれない、と考えるのは、なかなか自分に似た人と出会えない「本当に個性的」な人たちにとって、自然な欲求であるとも思うのです。
9.類は友を呼ぶ
幸い、今の時代では、本当に個性的な人たちが、同種の仲間と出会える機会も増えています。
ひとつには、インターネットを通して、そうした個性的で枠にはまらない人たちが活躍したり、作品発表したりできる機会が増えたからでしょう。
市川拓司さんは、インターネット小説家として有名になりましたが、なになに賞をもらうような普通のやり方ではデビューできなかっただろうと振り返っています。(p88)
不思議なことに、市川さんの小説を目にとめてくれた出版社の社長さんは、家族ともども、「同種」の人でした。そのあと出版社の担当になった人たちも似たような人ばかりだそうです。
インターネットを通して、本当に個性的な人たちが「同種」の人間と出会い、交流し、コミュニティを作るハードルが低くなっていると考えられます。
本当に個性的な人たちはいわゆる変人のようなところがあり、市川さんはコケ集めをしたり、藤堂さんはエスカレーターで遊んだりしたエピソードを披露しています。
でもその場に集った仲間たちは、その話を聞いて共感し、上野先生は
それはやっぱり挙動不審だわ(笑)。
なんて言っています。もちろん、「あるある」「それが普通だよね」といった気持ちのこもった一言なのでしょう。
LD&ADHDの人にとって、日本は生きにくい、という話はすでにしましたが、今の時代、インターネットやグローバル社会において、さまざまなサービスを活用すれば、同種の仲間や、支え合える友人を見つけることも可能になってきているのではないでしょうか。
10.愛すべき誇りと不思議な連帯感
LD&ADHDの人が、仲間とのやりとりを通して得られるものを、上野先生は、次のような面白いエピソードで説明しています。
もっとも、このTM先生も多弁、多動、その活動力は群を抜いていて、誰もが認めるADHD特性のサンプルのような方なのですが、ただ先生自身、自分がADHDだとはなかなか認めません。
もうひとり、LD学会の重鎮、O大学のTK先生いわく、「彼は自覚症状のないADHDだよ」。そしてご自身のことは「ぼくは抑制のきいたADHDだけどね」「???」。
やたらに誰でも勝手にLD&ADHD呼ばわりしてはいけないことは重々承知の上で、われわれはお互いの内にあるLD&ADHD特性を、むしろ愛すべき誇りのようにさえ感じ始めています。
まさに「ふつうであるよりは個性的に生きたいもの同士」の不思議な連帯感なのです。(p147)
このイニシャルと大学の頭文字だけで、どの先生か特定できてしまいますが…、なんとも楽しそうな話です。
もちろん、この人たちが、ADHDやLDを「愛すべき誇り」のように感じられるのは、彼らが大学教授として成功してきた人だからにすぎない、と考える人もいるでしょう。程度が軽かったり、たまたまうまくいったりしたからだと。
確かに成功した人はなんとでも言えるでしょう。でも、上野先生や、TK先生は、多くのLDやディスレクシア、ADHDの子どもを診てきた上で、率直な感想としてこう言っているということも忘れてはなりません。
学校で大変な目に遭う子どものことも、いじめられる子のことも、社会に出て相当苦労して、失職するような人のことも知っています。でも、「愛すべき誇り」という印象を持っていて、それを公言してはばからないわけです。
それはやはり、同じような特性の仲間と励ましあうことからくる「不思議な連帯感」によって、普段の生活で目についてしまうマイナスの面ではなく、なかなか気づかれにくいプラスの面に目を向けるよう助けられているからでしょう。
11.日常を突き抜ける創造力
LDやADHDの人の一つの大きな特性は創造する力だといいます。
上野先生が市川さんに、小説家のLDやADHD傾向について
なにかファンタジックなものを書くような方に多いんでしょうかね。(p87)
と言うと、市川さんは、その秘訣は
常識を簡単に超えられるような体質
だと答えます。LDやADHDの個性的な人たちは、子どものころから、他の人たちとは違った観点から社会を見、違った方法で学習しているわけですから、常識やルールに縛られない考え方をするのが得意です。
また狭苦しさ、生きにくさを感じながら成長してきたので、何かを変えたい、新しいものを創り出したい、という意欲も持っています。
そうした独創的で行動的なところは、うまく伸ばせば、大きな才能となって開花するのではないでしょうか。
そんな能力など自分にはない、と感じられる当事者の人もいるかもしれませんが、実はそこに気づいていなかったり、磨いたことがなかったりするだけなのではないでしょうか。
ダイヤモンドの原石は、磨いてみないと輝きは放たないのです。
まずは、自分の中に、そうした個性が眠っているのを発掘するところから始めてみてはいかがでしょうか。
12.多様性を理解できるという強み
市川さんは、最後に、自分のADHDとLDのメリットを次のような力強い言葉で表現し、締めくくっています。
でも逆にいえば、われわれみたいな人間が一番多様性とか、独善的ではない相対的なものの見方ができるんじゃないかと思います。
よくいうのは、われわれは相手の気持ちもわかるんですよね。
なんでこんなに想像力が働くんだろうと思うんだけど、自分の価値観の体系がわかれば、相手がこちらを排斥する価値体系も理解できるわけですよね。
でも、相手はこちらの価値体系をまったく理解せずにいいたいことをいっている。今のところ一方的で辛いなと思うんだけど。
こっちは相手の気持ちもわかるという、それがやっぱりわれわれのある種の強みでもあるし、いいところでもあると思うんだよね。
だから、恥ずかしいことでもないし、むしろ誇りをもって、これから生きていったらいいんじゃないかと思いますね。(p125)
苦労してきた人は、自分の経験を通して、相手の苦痛に感情移入することができます。
特に、LDやADHDの人は、多様性というものに敏感です。自分自身が、イレギュラーな立ち位置にいて、大多数の人とは異なったレアな存在であることをよく知っているからです。
いわゆる「普通」の人たちは、自分と違う世界観を持っている人を理解するのに苦労することがよくあります。
違う文化、違う国籍、違う宗教、違う体質…
これまで周りの人と足並み揃えて生きてきて、普通であること、同じであることに何の疑いも持たずに大人になった人たちは、自分とまったく違う素材からできている人がいる、ということを受け入れがたく感じ、ときには排斥したり否定したりします。
その結果、根深い意見の対立が生じたり、互いに憎みあったり、社会的に黙殺したり、迫害したり、といった悲惨な結果が生じます。
しかしLDやADHDのために苦労してきた人たちは、その点で、いくらか柔軟性や想像力を示しやすい立場にいるはずです。自分が人と違うのだから、世の中の人間もみな一人ひとり違うのだ、ということを受け入れるのが容易です。
相手の立場になって考える想像力、異なる背景の人を理解する洞察力、違う価値観を認める受容力。それらは特に今の多様化する時代に必要とされているものではないでしょうか。
人と違うことの大切さを自然に理解できるのは、間違いなく「強み」「誇り」「いいところ」なのです。
13.ギフテッドという考え方
上野先生は最後にこう述べます。
LDを探求してくるなかで、「ギフテッド」という言葉に出会いました。ギフテッドというのは「神様から(才能という)贈り物(ギフト)を与えられた人」という意味です。
親ならわが子にできるだけたくさんの贈り物を、神様からも親からも与えたいと思うことでしょう。(p143)
以前の記事で引用した、LDの研究者の北海道大学の室橋春光先生もこう言っていました。
連続インタビュー「心の社会性」 第11回 << グローバルCOE「心の社会性に関する教育研究拠点」
欧米では秀でた能力を「神から与えられた才能」と考え、それを伸ばそうとしますが、日本では「まんべんなくできる」ことを重視する文化的土壌があるため、「できないこと」に目が行きがちです。
なんでもかんでも欧米のやり方がよいと言うつもりはありませんが、この「神から与えられた才能」という捉え方は、大きな意義を持っていると思います。
ギフテッドという言葉はご存じの方も多いと思います。アメリカでは、高い能力と発達でこぼこを持つ、二重に例外的な子どもたち(2E)を対象に特別支援教育が行われています。
日本でも、東京大学で、ADHDやLDのために学校の教育に合わなかった子どもたちの才能を伸ばすためのプロジェクト「ROCKET」が2014年12月にスタートし、注目を集めていました。
ギフテッドという表現は、何も、アメリカ限定のものではありません。日本でも「天才」、つまり「天から与えられた才能」という言葉があります。しかし「天才」という言葉は、字句だけが一人歩きしていて、実質を伴いません。
同様に、ギフテッドという言葉を、単に問題から目をそらして、欠点を才能だと歪曲するメガネのように用いてはなりません。それは偽りのポジティブ・シンキングです。
むしろ、上野先生は、はっきりこう述べています。
そうした人々は、他の人にはないとてつもない素晴らしい贈り物を神様からもらっているかわりに、バランスが悪いというか、他に弱点のようなものを持ちやすいということです。
どこか突出した秀でた才能は、それ以外の面はかえって見劣りさせるのかもしれません。(p144)
苦手な部分や弱点があることは、しっかり認め、それを意識することが必要です。その上、個性を伸ばし、さまざまな工夫を凝らして才能にまで成長させたとき、それが初めて本当の意味でのギフテッドとなるのです。
「個性的でありたいすべての人々に」
このように、LD&ADHDの特性というのは、裏と表を併せ持ったコインのようなものです。投げ方によっては、表が出るときも、裏が出るときもあるでしょう。
しかし、表と裏どちらが上になったとしても、コインそのものの価値は変わらないのではありませんか?
同様に、LDやADHDの特性をもつ子どもは、プラスマイナス両面を持ち合わせていて、才能として発揮されることもあれば、弱点として裏目に出ることもあります。
しかしどんなときでも、子どもの価値を認め、愛してあげることが大切です。
LD&ADHDを持つ当人もまた、そのような高い能力と低い能力が混在していることをよく理解しておく必要があります。すぐ目立つ低い能力だけを見て、目立たない高い能力に気づかず、自分はできそこないだと考えるとしたらとても残念なことです。
そのような人たちが、自分の個性に気づき、「誇り」や「強み」や「いいところ」を見つけられるようになるためには、時間と試行錯誤が必要かもしれません。当面は苦労することばかりだということもあるでしょう。
しかし、この本で、上野先生や市川拓司さんが話しておられたさまざまなメッセージについてじっくり考えるなら、次第に、自分の個性を才能に変えていくこともできるでしょう。
上野先生は最初にのべたように、この本は「個性的でありたいすべての人々に贈る」ために書いたと述べています。
まさにそうありたいと思う人がいれば、ぜひ、この本を手にとって、自分でじっくり読んでみるようお勧めします。