■「ほどほど」ができず、いつも100%全力を尽くしている
■体が悲鳴を上げているとわかっていても、頑張り続けないといけないと感じる
■全力を尽くしていないと、怠けているような気がして自分を責めてしまう
■休むことや遊ぶことに罪悪感を感じる
■自分では嫌だと思うことでも、周りの人や親の期待に応えないといけないと感じる
限界を超えて頑張りつづけてしまう人の中には、頑張り続けていないと自分には価値がない、という思いに縛られている人がいます。
そうした人は、息抜きが苦手で、休むことに罪悪感を感じることも多く、ストレスや過労が引き金となって病気になる場合さえあります。
こうした問題を抱える人は、世の中では、「完璧主義」とか「まじめすぎる」と言われたりします。そして「もっと気楽に」「肩の力を抜いて」「リラックスしよう」などと、なんの役に立たないアドバイスが送られることが多いのではないでしょうか。
それらの人は、リラックスする必要があることくらいわかっているのです。それでも切迫感や追い立てられる思いに駆り立てられて、立ち止まって心と体を休めることができないのです。
そのおおもとの原因はどこにあるのでしょうか。表面をなでるようなアドバイスではなくて、本当に心休まる場所を見出すにはどうすればいいのでしょうか。この記事では、愛着と安全基地という概念に解決の糸口を見出したいと思います。
なぜ頑張り続けないといけないと感じるのか
自分の体が壊れるまで頑張りつづけてしまったり、ほどほどに手を抜くことができず、何事にも全力で取り組んでしまったりする。
それは単なる「完璧主義」「まじめすぎる」といった性格上の問題なのでしょうか。
たとえば、異常な疲労を感じる慢性疲労症候群という病気になる人たちには、研究機関のリーフレットによると、「完璧主義で過剰適応な側面がある」とされています。
他のさまざまなストレスが関与している病気の場合も、やはり、まじめな人、手を抜くことができない人に多い、という表現がなされることもあります。
しかし「まじめ」であることは何も悪いことではありません。場合によっては「完璧」に仕上げることもまた美徳といえます。それはむしろ、粘り強さや誠実さ、根気強さの表れであり、病気の原因どころか、褒められるべきことでもあるはずです。
ですから、問題は、「まじめすぎる」ことや「完璧主義」そのものにあるわけではありません。
一日中走り続けている人
問題の本質を知るために、たとえで考えてみましょう。
わたしたちはだれでも、全力を尽くして走ることがあります。たとえば、子どものころ、運動会の100m走のときに死に物狂いで走ったかもしれません。それは何も悪いことではありません。
しかし日常生活のあらゆる場面、たとえば家の中でも、職場でも、通勤でも、どこにいても常に文字通り全速力で走っているとしたら? いつでもどこでも走り続けているとしたら? それは体に異常をきたすでしょう。
それと同じように、常にあらゆることに全力を尽くしていて、比喩的な意味で走り続けなければいけない、という思いにとらわれている人こそ、この記事で扱っている「いつも頑張っている人たち」なのです。
さきほどのたとえのように、文字通りの意味で、常に走っている人がいた場合、わたしたちは、その人が単なる「まじめさ」や「完璧主義」からそうしているとみなすでしょうか。
そんなはずはありません。むしろ、もっと根深い、得体のしれない問題が潜んでいるのではないか、と考えます。いつも全力で頑張り続けている人についても同じことがいえるのではないでしょうか。
常に全力を尽くすアスリートはいない
ときどき全力を尽くすことは自然ですが、常に全力を尽くすことは生理的に見て普通ではありません。
オリンピックで活躍するようなトップアスリートたちは、一見、昼夜問わず、一日中自分に厳しいトレーニングを課し、がんばり続けているように思えるかもしれません。
しかし実際にはそんなことはなく、もし一日中厳しいトレーニングをしている人がいるなら、オリンピックに出場するどころか、早々とオーバートレーニング症候群になり、競技生活を棒に振ってしまうことでしょう。
筋肉が成長するには、「超回復」という現象が不可欠であり、「超回復」は、全力を尽くした後で、休息をとることで生じるからです。
そのようなわけで、常に全力を尽くすことは、人間の生理的機能からしても普通ではなく、その背後には、何らかの大きなトラブルが潜んでいるはずです。
あなたには帰る港がありますか
常に全力で頑張り続けている人に潜む、得体のしれない問題。その手がかりを探るために、さらに別のたとえを使って考えてみましょう。
広い海に船出する漁師たちについて考えてみてください。漁師たちはふつう、航海に出かけるとき、ひたすら未知の海原へと進み続けたりはしません。遠くの海に行く場合もありますが、必ずどこかで引き返します。それはなぜでしょうか。
それは、帰る港があることをよく知っているからです。そして、港に戻れば、少なくなった船の燃料が補給でき、何より家族が笑顔で出迎えてくれて、一家だんらんの幸せな時間が待っていることをよく知っているからです。
同様に、わたしたちのうち、多くのバランスのとれた人たちは、広い海に出て頑張るべき時と、戻って休息すべき時とをわきまえています。疲れたり、消耗したりすると、休息するために「港」へ戻り、体を休めます。
ところが、常に全力で頑張り続け、限界を超えてまで走り続けてしまう人たちは、あたかも「港」を持たない漁師のようです。
その人たちにとっては、家族が待っている「港」に戻って休む、という概念がありません。
たとえ燃料が底をつきそうになっても、戻る場所がありません。ひたすら未知なる海原へと進み続けるしかないのです。
そうなれば、いずれ食糧も燃料も尽きて、海の藻屑と消えるかもしれませんが、たとえそうなるかもしれないとわかっていてもなお、進み続けるしかないのです。「港」がないからです。
果たしてこの「港」とは何なのでしょうか?
あなたが親から学んだ「愛の定義」
勘のいい方や、このブログの過去記事を見てくださっている方は、すでに船と港のたとえで、気づかれたかもしれません。
この船と港のたとえは、愛着理論における、「安全基地」の役割を解説するときにしばしば使われる、有名な比喩です。
このたとえが、今考えている、限界を超えて頑張り続けてしまう人たちにどう関係しているのかを理解するには、愛着とは何か、ということを少し理解する必要があります。
愛着(アタッチメント)とは、イギリスの精神科医ジョン・ボウルビィが提唱した精神医学の用語です。
愛着は、おもに生後半年から1歳半くらいの期間に形成される、母親との絆のことをいいます。そしてそれを土台に、子ども時代の親子関係、思春期の父親との関係なども加わって、その人の愛着のスタイルが形づくられます。
この愛着のスタイルというのは、いわば、その人の内なる「愛の定義」のようなものです。
「愛し愛される」という性質は、だれもが生まれつき持っているものだ、と考える人がいるかもしれませんが、決してそうではありません。「愛し方」「愛され方」というのは、実は言語と同じで、子どものころに学ばないと身につかないものなのです、
もしも「条件付きの愛」で育てられたなら
もし、赤ちゃんのころの、そして子ども時代の親との関係が、何らかの理由で不適切なものであった場合、この内なる「愛の定義」はどうなるのでしょうか。
もし「愛し方」「愛され方」を正しく教わることができなかったら? それはもちろん、歪んだ「愛の定義」を身につけて育つことになります。
本来、親は無条件で尽きない愛を子どもに注ぐものです。たとえ間違いや失敗を犯しても、愛情ある親はきちんと子どもを正し、愛していることを伝えます。
しかし、もし子どものころに、条件付きの愛、たとえば良い成績をとったときだけ愛されたり、ルールに従ったときだけ愛されたりする歪んだ愛情を注がれたなら、その子が身につける「愛の定義」はどうなるでしょうか。
■失敗したり、ルールを守れなかったりしたら、自分は愛してもらえない
■休んだり遊んだりするなら、自分は悪い子だ
といった、条件付きの「愛の定義」で自分の価値を推し量るようになるでしょう。たとえ意識してそう考えていなくても、心の奥底で、そうした思い込みにとらわれ、自分のあらゆる行動が影響されていることでしょう。
愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)という本の著者である岡田尊司先生はこう述べています。
遺伝的な気質とともに、パーソナリティの土台となる部分を作り、その人の生き方を気づかないところで支配しているのが、愛着スタイルである。
愛着スタイルは恒常性をもち、特に幼いころに身につけたものは、七~八割の人で生涯にわたり持続する。
生まれもった遺伝的天性とともに、ある意味、第二の天性としてその人に刻み込まれるのである。(p45)
いかに子どものころに育んだ愛着のスタイルが、人生に大きな影響を及ぼすかがわかります。
もしも土台が傾いていたら
なぜ愛着はそれほどまでに大きな影響を及ぼすのでしょうか。
愛着とは、いわば、わたしたち一人ひとりが建てられている「土台」ともいえます。「土台」が傾いていたら、その上にどれだけ良い建材を使って家を建てても、不安定で壊れやすくなります。
同様に、わたしたちの考え方や行動は、子どものころに親との関係で培われた「愛の定義」の上に築きあげられていて、否が応でもその影響を受けています。
その土台に、「条件付きの愛」が刻み込まれているならば、常に頑張っていないと認めてもらえない、愛してもらえないという無意識の恐れを生み、体が壊れるまで必死に走り続けるよう、その人を駆り立て、追い立てることになるのです。
つまり、常に頑張り続けてしまう人に潜む根深い問題とは、単なる「完璧主義」や性格上の「まじめさ」ではなく、その人が育んできた愛着と密接に関係しているものであるということです。
※注)もちろん、「無条件の愛」とは、悪いことをしても子どもを叱らないことではありません。愛情ある親は、子どもが間違ったことをした場合、道理にかなった仕方で正すことにより、子どもを深く気遣っていることを伝えます。むしろ放任主義や溺愛は、歪んだ愛の一種であり、愛着障害の原因となることが指摘されています。
「安全基地」という帰る場所
愛着とは何か、ということを知ったところで、船と港の話に戻りましょう。
愛着理論を発展させた、アメリカの発達心理学者、メアリー・エインスワースは、深い愛着で結ばれた親との関係がもたらす安心感のことを「安全基地」と呼びました。
以前、NHKの番組で、児童精神科医の高岡健先生は、船と港のたとえを用いて、愛着と安全基地の役割についてこう説明していました。
愛着というのはしばしば船と港に例えられます。
港すなわち親や家族が安心できる安全な場所であると、船である子どもは外の海に向かって悠然と出かけて行くことができます。
そして燃料が少なくなってくると、また安心な港に帰ることができます。
ところがもし港がうまく機能していないと、子どもは常に裏切られた経験を積み重ねていってしまった結果、自分をわかってくれる大人なんているわけがない、という気持ちに陥りがちです。
この場合、わたしたちは船で、港は「安全基地」です。
親との愛着がしっかりしていると、わたしたちは、未知なる海に航海に出かけたとき、疲れたり、傷ついたりすると、「安全基地」という港に帰り、自分を癒やすことができます。
この「安全基地」というのは、文字通りの親そのものではありません。
むしろ、愛情に満ちた親が教えてくれた安心感のことです。親との愛着がまっすぐに育つと、わたしたちは、たとえ親が近くにいなくとも、自分を支え、慰め、励ましてくれる暖かな安心感をイメージできるようになります。
たとえば…
■苦しくなったら休んでもいいんだよ
■疲れたらゆっくり休んで、また元気が出てきたら頑張ったらいいよ
■たとえ何があっても、あなたはわたしたちにとって大切な子どもだよ
■わたしたちは絶対あなたを見捨てない。だから安心して行っておいで
そのように言ってくれる、あたたかな家族のイメージです。それこそが「港」つまり「安全基地」です。
「安全基地」を持たない人たち
ところが、親から歪んだ愛情、つまり条件付きの愛を注がれて育ったとしたら、そのような温かいイメージは心に抱けないでしょう。
心の中に思い描く家族の姿は、あなたが頑張ったときにだけ褒めてくれて、そうでなければ、怒鳴りつけたり、無視したり、あからさまに失望したり、けなしたりする姿かもしれません。
あるいは、少し休んだり遊んだりするだけで、怠けている、努力が足りない、サボっていると叱りつけ、監視員のように目を光らせているイメージでしょうか。
「親の期待に添えないような子はうちの子じゃない」「こんなこともできないなんてがっかりだ」「こんなふうに育てた覚えはない」。そんな冷たい、刃物のように突き刺さる言葉が聞こえてくるでしょうか。
もしそうだとしたら、あなたは「安全基地」を持たない人、不幸にも「安全基地」を持つ機会に恵まれなかった人なのでしょう。
「安全基地」という港がなければどうなるかは、さきほど説明したとおりです。帰る場所がなければ、戻ったときに笑顔で迎えてくれる場所をイメージできないとしたら、傷つき倒れようとも、ひたすら頑張り続ける以外の選択肢がないのです。
そのような人は、自分の体が悲鳴をあげたとしても、ひたすら頑張り続けるでしょう。港に戻って休むという概念がなく、休むことに罪悪感を覚えることすらあるでしょう。
いつも頑張り続けなければならないと感じる人に潜む根本原因とは、「安全基地」を持たないことだったのです。
「安全基地」があるかどうかは生死を分かつ
「安全基地」を持つかどうかは、困難な事態に直面したとき、なおさら大きな意味を持ち、生死を分けるものとなります。
航海する人は、海で嵐に遭うこともあるでしょう。しかし大嵐で荒れ狂う海の上でも、帰る「港」や待っていてくれる家族のことを思い浮かべることのできる漁師は、希望と勇気を奮い起こすことができるでしょう。
ところが、帰る「港」も笑顔で迎えてくれる家族もいなかったら? どこにも帰る場所がないなら、大嵐の中で自暴自棄になり、容易に絶望してしまうのではないでしょうか。
以前に、試練を乗り越える人と、屈してしまう人についてのマーティン・セリグマン博士の研究を紹介しました。逆境を克服できる人の共通点は、どんな困難に直面しても、無力感に陥らず、自分の状況をコントロールできると信じることでした。
しかし帰る「港」、「安全基地」を持たない人は、より「無力感」に陥りやすく、船の舵取りをあきらめ、ただ荒波に翻弄されるに任せてしまうことでしょう。
親との愛着関係、そして安全基地というあたたかなイメージを抱けるかどうかは、文字通り、わたしたちの生死を分かつことさえあるのです。
▼飛行場現象
以下の記事で紹介しているように、船と港のたとえを、飛行機と飛行場と表現している専門家もいます。この場合も言わんとしていることは同じです。
着陸できる飛行場、つまり「安全基地」がなければ、飛行機は燃料が切れるまで飛び続けるしかありません。最後に待っているのは墜落の二文字です。
どうやって安心できる居場所をイメージするのか
では、もしあなたが不幸にも「安全基地」を持たない人であった場合、どのようにして、安心できる場所、帰るべきところ、といった温かなイメージを抱くことができるのでしょうか。
参考になるのは、「愛着障害」の子どもたちの治療に使われている手法です。「愛着障害」とは、おもに虐待やネグレクトされた子どもたちが抱える深刻な症状のことで、「愛の定義」が根本から歪んでいる究極の状態です。
「愛着障害」の子どもたちは、「愛し方」「愛され方」を知らないばかりか、「愛情には痛みが伴うものだ」と思い込んでいることもしばしばです。
親の愛について考えると、温かな「安全基地」がイメージできるどころか、殴られたときに口の中に広がる血の味を連想したりするのです。
「安全な場所」の確認
こうした子どもたちの治療に使われている精神療法として、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)や自我状態療法があります。
これらは、トラウマ処理や解離性障害の治療を目的としていますが、愛着の問題とも密接に関係しています。
こうした精神療法で重視されるステップが、「安全な場所」の確認です。発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方という本にはこう書かれています。
トラウマ処理の前に、まずは子どもも大人も安全な場所を確認する。
…元被虐待児で現在は加虐側になっている大人の複雑性PTSDレベルの人々において、この安全な場所が極めつき困難なのだ。…それほど、世界には安心できる場所がない。
安全な場所のイメージを作れない場合には、安心感がある体の部分を用いることが推奨されているが、これまた満身創痍で、(背中には刃物の切り傷が、足はバットで殴られ骨折したことが、腹は蹴られて流産が……など)、安心感のある体の場所を探すことすら困難という場合も多い。(p105-106)
愛着障害の子どもや成人が、いかに安心できる場所を思い描けないかがわかります。単に「安全基地」である「港」がないというよりは、むしろ陸地に近づくと命を狙われるので、一刻も早く離れなければならないような状況です。
それでも、治療者は、安心できる場所をイメージできるよう助けるために、さまざまな工夫を凝らすといいます。
筆者はぶっ飛んだイメージ操作をいろいろ行ってきた。比較的安定した時代に大事にしていた熊のぬいぐるみに自分がすっぽり入っているというイメージ、夫が葬儀屋なので棺桶の中に入って外からは誰も入ってこないというイメージ、近所の占い師に尋ねたところ、現実では実在していない妹が稲荷のキツネに生まれ変わっているとお告げを受けたので、稲荷の鳥居と数匹のキツネをとっさに描き、稲荷神社の結界の中にいるというイメージなどなど。
…現在、過去を問わず大切にしていたペットがいると、それが安全な場所として使えることが多いし、また成人女性の場合ゆっくりと風呂につかっているといったイメージを選択することが多い。(p106)
たとえ、安心できる場所が少しもイメージできないほど辛い目に遭ってきたとしても、なんとかしてイメージできるよう助けることが、精神療法の第一歩なのです。
今回取り上げている頑張り続けないといけない、と感じる人の中には、かなり親との愛着がかなりこじれてしまい、愛着障害に近い状態の人もいるでしょう。その場合にはこうした精神療法も選択肢として考える必要があるかもしれません。
「安全基地」を思い描くには
帰る「港」がなく、頑張り続けるしかない人の大部分は、精神療法を受けるほどではないと感じるかもしれません。
しかし、この「安全な場所」の確認は、精神療法の最初のステップにすぎないとはいえ、とても重要な意味を帯びていて、安全な場所のイメージを強めるだけでも生活が安定するとされています。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論という本には、空想的避難場所を心の中にありありと思い描くことは、治療的に重要で、推奨されるものだと書かれています。(p221)
このような「安全基地」のイメージを深めるには、単なるイメージトレーニング以上のものが必要です。
「安全基地」はイメージトレーニングの産物ではなく、愛着関係の結果として生まれるものである、ということはすでに述べたとおりです。つまり、他者との相互的なやりとりが必要なのです。
人によって「安全基地」となりうるイメージはさまざまです。たとえ子どものころに親との愛着を深められなかったとしても、親友や配偶者に恵まれることで愛着の傷が癒され、「安全基地」が作られていく人もいます。
良い治療者やカウンセラーとの出会いが助けになる人もいますし、ペットを育てたりすることで愛情について理解を深められる人もいます。
また、細心の注意を要する分野とはいえ、宗教との関わりによって、愛情ある神や霊的存在といったイメージを持てるようになり、それが「安全基地」の役割を果たすようになる人もいるようです。
特殊な例としては、このブログの過去の記事で取り上げたように、自然に生じるイマジナリーコンパニオン(空想の友だち)によって対処している人もいるようです。
中には、さきほどの治療例に出ていたように、かなり突飛な安全な場所のイメージから入る人もいます。その場合も、単なるイメージトレーニングではなく、過去に何らかの愛着や温かさを感じられた対象を用いています。
自分の過去の記憶や、経験の中をくまなく探り、少しでも安心でき、温かい愛情で包まれる感覚をわずかでも感じられるものがあれば、それを手がかり・きっかけにしてイメージをふくらませていくことができます。
「安全基地」のイメージを育てることができれば、次第に、そのイメージが避難所として機能してくるでしょう。
すなわち現実で試練に直面したり、内なる声によって自分には価値がない、と囁かれたりしたとき、その温かな包まれるイメージを通して、心を安心させ、自分は大丈夫だ、ここにいても構わないのだ、と言い聞かせることができるかもしれません。
「安全基地」のイメージは、自分を無条件に愛し、包んでくれるものであり、失敗したり、落胆したりするときに、それでも自分には価値があるんだ、と言い聞かせてくれるものなのです。
愛の定義を書き換える
冒頭で取り上げたように、「安全基地」を持たない人たちは、さまざまな「こうでなければならない」という思いに縛られています。
こうした思い込みは、子どものころに経験した歪んだ愛情が背景にあるわけですが、「安全基地」というバックアップ態勢が育ってくれば、こうした心の声に反論できるようにもなります。
いわば、安心できる場所、自分をいつでも受け入れてくれる港を思い描くことにより、内なる嵐にも勇気を持って立ち向かえるようになるのです。
冒頭に挙げた思い込みには次のようなものがありました。
■「ほどほど」ができず、いつも100%全力を尽くしている
■体が悲鳴を上げているとわかっていても、頑張り続けないといけないと感じる
■全力を尽くしていないと、怠けているような気がして自分を責めてしまう
■休むことや遊ぶことに罪悪感を感じる
■自分では嫌だと思うことでも、周りの人や親の期待に答えないといけないと感じる
こうした思い込みは、全力を尽くして、良い結果を出したときにだけ褒められ、肯定され、認められた子ども時代が関係しているのかもしれません。親の期待に応えてはじめて、いい子とみなされたことが背景にあるのかもしれません、
いずれにしても、条件付きでしか愛されなかったために、成長して大人になった今でさえも、自分を条件付きでしか認めてあげられなくなっているのです。
でも、無条件で自分を受け入れ、包んでくれる「安全基地」のイメージが育ってくれば、たとえ常に全力を尽くせないとしても、失敗したとしても、休んだとしても、自分は価値のある存在なのだと自分を説得できるようになることでしょう。
心の奥底に刻まれた歪んだ愛の定義の影響は根深いので、なかなか条件付きの愛という考えを振り払えないかもしれませんが、それに抵抗し、自分で自分を繰り返し説得できるようになるはずです。
それはいわば、子どものころに親や他の人から刻み込まれた古い愛の定義と、大人になってから培った新しい愛の定義とのせめぎあいでもあります。
「安全基地」のイメージが強まるにつれ、少しずつ少しずつ、重い臼石を押しのけるように、古い愛の定義という重荷を脇へ押しやります。
そして、いずれは愛の定義を書き換えることができるでしょう。
いつか無条件の愛で温かく包まれるために
ここまで書いてきたような、安心できる居場所、つまり「安全基地」のイメージをふくらませること、そして、自分を突き動かしている 根深い思い込みを書き換えることは、なかなか一朝一夕でできるものではありません。
この記事の説明だけでは、抽象的でわかりにくく思う人もいるでしょう。それで最後に、助けになる本を3冊ほど厳選して紹介しておきます。何年も前の本なので、新品で買わずとも古本や図書館でも見つかると思うので、ぜひ読んでみてください。
まず、おすすめするのは、この記事のテーマ「愛着」について解説し、愛着の傷の癒やし方なども説明されている岡田尊司先生の愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)です。読むとこの記事の内容がよりよく分かると思います。このブログでの感想はこちら。
次におすすめするのは、愛着理論にも詳しいカナダの医師ガボール・マテ先生の身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価。こちらは、自分の子ども時代はそれほど不幸ではなかったと感じている人におすすめです。このブログでの感想はこちら。
最後におすすめするのは、有名なベストセラー毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)。明らかに悪い家庭環境で育った場合にはこちらのほうがふさわしいでしょう。このブログでの感想はこちら。
いずれの本も、自分の奥底に刻まれた子どものころの傷跡と向き合い、自分の考え方や態度、思い込みを吟味するのに役立つと思います。
「安全基地」を持たない、ということは、とりもなおさず、本当の親とはどんな親なのか、想像もつかない、ということです。
「わたしはどんなことがあってもあなたを守る」「何が起きてもあなたを見捨てない」「大丈夫、いつも君の味方だよ」といった親の無条件の愛を経験したことがない、ということです。
人は経験したことのないものを想像することはできません。もし少しでも思い描けるとしたら、それと少しでも似たもの(この場合は温かい安心できるイメージ)を手がかりに、少しずつ、少しずつ、手探りで近づいていくしかないでしょう。
「安全基地」を形成する、安心できる場所を思い描く、という取り組みは、それほど難しいものです。しかし、そうする努力を払うだけの価値が間違いなくあります。
いつか無条件の愛で温かく包まれるために。そして自分には価値があり、ここにいてもいいのだとはっきり自信を持って言えるようになるために。
温かい笑顔が待ち受ける港に帰りつくことは、きっと可能です。