解離のある人は、現実との境がわからなくなるほど、空想の世界に深く浸る傾向があります。
たとえば、解離性障害の患者さんは豊かな想像力ゆえに文章や絵画、演劇などの芸術分野が得意で、活躍している人もいます。小さいときから作文が得意だったりします。(p61)
これは、 解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)に書かれている、柴山雅俊先生による、解離性障害の患者たちの印象です。
芸術、特に絵画、小説、詩、演劇などの分野では、豊かな想像力や感受性が求められます。ときにはファンタジーや幻想世界を作り上げたり、そこに没入したりする能力も求められるかもしれません。
そうした豊かな空想力は、解離という脳の機能と密接に関連していると考えられています。解離と聞くと、とかく病的なものと考えがちですが、実は芸術を創造する才能に、大きな役割を果たしています。
解離が芸術的創造性を生み出すのはなぜでしょうか。解離はどのようにして、絵画や作文、詩作、演劇といった芸術の表現に寄与するのでしょうか。一般に創造性と結びつけられることの多い統合失調症や発達障害と、どのように関係しているのでしょうか。
解離性障害と芸術的創造性
冒頭に引用した文章と同様、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)には、解離性障害の人たちについてこう書かれています。
彼女たちの空想能力は概して活発である。
学校では国語や美術の成績が優秀であることが多く、とりわけ作文や詩、絵画において秀逸な作品を仕上げる。
それらの作品を仕上げるのにあまり苦労はなく、頭に浮かぶ空想・表象をそのまま文字や画にうつしかえるだけである。(p127)
この観察からは、解離性障害を抱える人たちが、さまざまな芸術の分野に秀でていることが読み取れます。
それはおもに国語における作文や、美術における絵画、さらには演劇といった、言葉や感情を扱うタイプの芸術です。
世の中の人の多くは、作文を書くときに、文章が出てこなくて苦労したり、絵を描くときに何を描いていいのか思いつかなかったり、という経験をしているかと思います。
しかし解離に関わる人たちは、そのような悩みをあまり経験しません。作品を創造するのにたいして苦労することがなく、ただ自分自身の内にある言葉やイメージをそのまま外に表現するだけでいいのです。
なぜ解離性障害の人たちは、このような豊かな表現力や創造性を持っているのでしょうか。その理由を知るには、解離性障害という独特な疾患について少し理解する必要があります。
創造性の源は何か
解離性障害は、精神病性うつ病や統合失調症のような、脳の意図せぬ故障、トラブルが原因の病気ではないと考えられています。むしろ解離性障害は、環境に適応した自然な結果である場合が少なくありません。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)では、解離性障害の原因がこう説明されています。
解離性障害の外傷として特徴的なことは、それらが共通して「安心していられる場所の喪失」に結びついていることである。
本来、そこにしかいられないような場所で、逃避することもできないような状況に立たされ、きわめて不快な圧力や刺激が反復して加えられること。このような場の状況が解離を発生させ、増悪させるのである。
このような状況をもたらす加害者の多くが、親や同級生など、同時に愛着対象として患者が親密さを求める対象でもある。愛着関係における外傷を愛着外傷(attachment trauma)という。(p119)
解離性障害の原因の多くは、「安心していられる場所の喪失」、愛着外傷(attachment trauma)というものであるとされています。
多くの場合、解離性障害を発症する人たちは、もともとの素因に加えて、子ども時代の辛い経験を持っています。家庭での孤独、緊張した家庭、両親の不仲・離婚、学校でのいじめ、虐待なとです。
そうした経験によって、「安心できる居場所」がどこにもない、という逃げ場のない状態に陥ったとき、徐々に解離の傾向が形づくられていきます。その結果何が生じるのでしょうか。
空想世界の構築
今ある環境が耐え難く、しかもどこにも逃げ場がないとき、人がどのように対処するのか、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこう説明されています。
本来そこにしかいられないような場所で、逃避することもできない状況に立たされ、不快な圧力を反復して加えられること、安心できる居場所が与えられないこと、私はこれが解離を引き起こしやすい外傷の一つと先に述べた。
そのような状況では、人はときに現実に立っている場所から離脱し逃避する傾向を育む。
その一つのあり方がウィルソンらの空想傾向であろう。(p121)
つらい状況において、身体的にどこにも逃げ場がないとき、人は空想の世界へと心を逃がそうとします。現実では逃げ場がなくても、空想の世界には居場所があることを発見します。
複雑な家庭環境など、現実に居場所がないと思える状況では、空想をたくましく膨らませ、白昼夢を展開させることにより、孤独や苦痛を紛らわす傾向が育つのです。
こうした構築された空想のファンタジー世界は、パラコズムと呼ばれることがあります。
映像が見える
そのような空想傾向の強い子どもの中には、ありありと映像が見える現象を経験する人もいます。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこう書かれています。
過去の記憶や映像などが自主的に、まるで見えるかのように目の前数十センチのところや頭のなかに浮かんだり、それが次々と展開したりする。
…解離の患者は、幼少時からこの表象幻視を経験していることが多いが、ただその程度が軽く、日常生活にはほとんど支障がない。(p77)
これはもともとの脳の傾向が関係しているのかもしれません。加えて、孤独や退屈な環境では、ありありとした映像や幻覚が生じやすいことも確かです。
たとえば見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、独房に長時間入れられた人は幻視を見るようになり、「囚人の映画」と呼ばれています。また変化のない風景を延々と見続けるパイロットやドライバーも、やはり幻を見る危険があります。(p51)
思考がわきでる
さらに、解離が進むと、空想や映像が意識せずに自動的に湧き出るようになる場合があります。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはある患者の言葉が書かれています。
すごく空想が出てくる。頭の中にビデオのようにいろんな映像が出てきて収拾がつかない。脈絡なく出てくる。浮かんでくる記憶が本当にあったことなのかわからない。想像が想像を生んでいく。キーワードから映像が膨らんでいく。(p87)
これは「思考促迫」など呼ばれる現象であり、言葉、映像、音などがあふれ、勝手に膨らんでいく状態です。重いものは非常に苦痛を伴いますが、人によって程度はさまざまです。
一人でも寂しくない
このような内的世界の広がりは、芸術において大きな才能となる場合があります。
芸術、特に絵画や詩、小説の創作は、たった一人で黙々と自分の内的世界を表現する行為です。孤独に耐えられない人や、内面に表現する材料がない人は長続きしません。
しかし、解離の人たちは、そのような制約がほとんどありません。内側に大きな空想世界を構築しているので、いくら表現を重ねても枯渇することがありません。
さらに、空想世界には、心地よい場所や空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)などが存在することもあり、孤独をほとんど感じません。続解離性障害では解離の人たちの精神世界についてこう書かれています。
典型的な解離の人は、ひとりでいることは寂しくなく、なぜならもう自分たちは複数だからと言います。「何々ちゃんがいるから全然寂しくないもの」(p207)
病気と健康の境目
もちろん、解離性障害は、苦痛を伴う深刻な病気です。重い解離性障害、解離性人格障害は、創造力豊かといった言葉で片付けられるようなものではなく、日常生活さえままならない状態です。
しかしすでに述べたように「解離」とは本来、脳のトラブルや障害ではありません。「解離」は、心を守る働きの一つであり、それが過剰に働き過ぎたときに病気となるのであって、コントロールできる範囲であれば、才能とみなせることさえあるのです。
すでに解離性障害と診断され、病的な症状と闘っている人の場合でも、暴走する創造性を芸術などで表現する方向へ向けることで、病気が才能へと変化していくこともあります。解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこうあります。
また患者は言語化を含め、自らの心を表現することに困難があるため、絵画や詩などさまざまな手段で自己を表現できるようにすることも効果的である。
解離の患者は文学や美術など芸術的センスに恵まれていることが多い。(p198)
逆に、芸術として表現することで心の安定を得ていた人が、創作を制限されたことをきっかけに、病的な解離に陥ってしまうこともあるようです。
このように、解離傾向の強い人たちは、子どものころから、大きな空想世界を抱え持っているだけでなく、その世界は日に日に深みを増していきます。
普通の人が、いざ何かを創作しようとして空想を思い巡らしても、解離傾向の強い人たちが幼少時から組み立ててきた世界の深さには到底及びもつきません。
そのような累々と内面に降り積もった地層こそが、解離の人たちが芸術に創造性を発揮できるゆえんであり、絵画や小説といった作品の源となっているのです。
解離傾向が役立つ4つの分野
続く部分では、解離傾向の強い人が芸術的創造性を発揮しやすい分野を一つずつ見てみましょう。それは、「絵画」「小説」「詩作」「演劇」です。
解離と絵画的才能
解離傾向の強いの人は、すでに述べたように、美術や絵画に才能を持ち合わせていることが多いと言われています。
内的な空想世界(パラコズム)や、視覚イメージの浮かびやすさ、一人でいても寂しくない充足感などは、絵画の制作にうってつけの才能です。
解離と絵画的才能の関係を知るのに良い例が、 生きていく絵という本に乗せられています。
この本では、精神病院の絵画教室に通う一人の女性について『「異なる世界」を、一枚の紙と一本の鉛筆を使って、どんな哲学者の言葉よりも鮮やかに描きだす人』と紹介されています。(p135)
その女性、20代の実月さん(仮名)は、統合失調症や摂食障害と診断されているそうです。しかし、少なくともこの本の記述の範囲からは、解離性障害であると考える余地がありそうです。
実月さんは、「距離のない親子関係」「大人の悩みを聞かされる子」「常に誰かと比較されてきた」といった背景を持ち合わせていますが、これは解離性障害の人によくあるものです。(p147-149)
芸術の創造性を考えるとき、統合失調症と解離性障害を区別したほうがいい理由については、この記事の後の部分で説明します。
この本によると、実月さんの創作スタイルは次のようなものだと紹介されています。
実月さんは、何か具体的な対象物を写生するというよりも、むしろ無心に近い状態で、手の動くままに鉛筆を走らせていきます。
人物、草花、木、鳥、家、道、電車などの図像が頻繁に登場するのですが、本人は「絵を描いている最中は何も考えていない」「特に具体的なテーマを持って描いているわけではない」と言っています。(p139)
これまでのところで、解離の人たちは、作文や絵画を創ることにあまり苦労せず、思い浮かんだものを描き写すだけで表現できるという点を取り上げましたが、実月さんの描き方もそれとよく似ています。
この本には実月さんの絵が幾つか載せられていますが、どれも情感のこもった深い表現が特徴で、筆者が「異なる世界」を鮮やかに描きだすと評していることにも納得がいきます。
さらに、実月さんの絵について、こう書かれています。
実月さんは、〈造形教室〉に通うようになってから、すでに数千枚に及ぶ絵を描いていますが、それらの絵を通時的に見直すと、彼女の心がどのような道のりをあゆんできたのかがとてもよくわかります。
衝動的に塗りつぶされるばかりだった絵が、一つひとつの図像の「輪郭」が立ち上がり、描かれる人物の表情も豊かになっていく。(p155)
たった6年ほどの間に、数千枚もの絵を描いたということから、いかに内面に表現するものが豊かに存在しているかがうかがえます。
そして、絵を描くことがいわゆるアートセラピーのように、心を癒やし、整える働きを果たしていることもわかります。
絵を描く解離の人たちの多くは、それが一種の癒やし行為として、自分に不可欠なものだと考えています。だれかに認めてもらうためではなく、自分の心の安定のために創作するからこそ、絵は深みを伴い、創作枚数も多くなるのです。
解離と文学的才能
解離の創造性を語るとき、決して欠かせないのが、文学的才能を発揮する人たちの存在です。
愛着障害 子ども時代を引きずる人々という本によると、文学作家の中には、幼年期の愛着の傷を抱え持ち、むしろそれを原動力として創作した人が非常に多いとされています。
小説を書くときに解離傾向が創造性となるのは、一つには空想世界が膨らみやすい、ということが関係していますが、それ以上に関係するのが、他者の気持ちに非常に敏感、という傾向です。
解離傾向の強い人たちは、幼いときから緊張した家庭などで育ってきた場合が多く、場を和めるために、空気を読み、まわりの人の気持ちに配慮することが欠かせませんでした。
そのため、他人の気持ちを想像し、空気を読み過ぎる「過剰同調性」に陥ってしまう人もいます。
しかし、他の人の気持ちに配慮する繊細さは、少なくとも小説を書く場合には才能となりえます。登場人物の心情を巧みに生き生きと表現できるからです。
哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には興味深い調査について書かれています。
マージョリー・テイラーは、子どもが空想の人物を生み出す能力と、大人が反事実からできている架空の世界を創作する能力、つまり小説家や劇作家、シナリオライター、役者、映画監督がもつような能力には関連性があることに気がつきました。
…テイラーは、文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。
…興味深いのは、約半数は幼児期の空想の友だちを覚えていて、その特徴もいくらか答えられたことです。
対照的なのは一般の高校生で、幼い頃は多くが空想の友だちをもっていたのでしょうが、今もそれを覚えていると答えた生徒はごくわずかでした。(p92-93)
この調査によると、小説家たちは、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン:IC)と呼ばれる存在に親しみがありました。ICとは、現実の人物と同じほどしっかりした人格を持った想像の他者のことをいいます。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)によれば、ICの存在は解離傾向と関係しています。
解離性同一性障害の患者では約60%の患者にICがみられたという報告があるが、これは一般の二倍の頻度である。(p128)
ICは子ども時代には普遍的な現象であり、ほとんどは精神的な問題と関係しません。しかし先ほどの調査における小説家たちのように、ICとの関わりが一般の人たちより深い場合は、解離傾向が強いとみなせるかもしれません。
哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)では、ICが生まれる理由についてこのように書かれています。
空想の友だちのいる子は周囲世界の人たちのことを人一倍気にするので、「いない人」のことまで考えてしまうのかもしれません。(p89)
「いない人」のことまで考える。これこそ、小説家の創作にとって、最も重要なポイントではないでしょうか。
わかりやすい「解離性障害」入門という本によると、近代文学に解離性障害らしき登場人物が出てくる例はいくつもあります。
近代文学では『田園の憂鬱』(佐藤春夫)、『二つの手紙』(芥川龍之介)、『Kの昇天―或はKの溺死』(梶井基次郎)などに解離性障害らしき人物が記述されています。(p273)
これらの場合、作家はちゃっかり、自分自身の経験を小説に織り交ぜて書いていたのかもしれません。このうち、芥川龍之介については、統合失調症との違いについての項でも取り上げます。
解離と詩作の才能
続く分野は詩作です。
詩はファンタジーや幻想といった分野と馴染みが深い芸術です。詩人の中には、違法薬物を常用して、わざと幻覚を生じさせていた人もいます。
しかし解離傾向の強い詩人の場合は、薬物などに頼らずとも、幻覚などの不思議な現象を経験することがよくあります。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)では、そのような詩人の一人として、宮沢賢治が紹介されています。
賢治の作品は難解であるといわれるが、心の舞台に浮かんだ現象をそのまま描写したものである。このことは賢治が何度も強調しているとおりである。(p161)
宮沢賢治というと夢の世界のような不思議で幻想的な表現で知られていますが、それは賢治が一から考えだしたものではなく、むしろ自分の体験をそのまま言葉として紡いだものだったといいます。
解離性障害の人たちの日常は、現実と夢との境目があやふやになっている状態だと表現されます。解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にはこうあります。
解離の病態は覚醒を夢の方向へ引き寄せ、夢を覚醒の方向に引き寄せていると考えられる。入眠時体験において解離の病態はもっとも顕著に現われる。(p161)
わたしたちは、眠りにおちるときに幻覚を見たり、夢の中で不思議な経験をしたりします。そのような幻想が日常に入り込んでくる状態が解離であり、解離傾向の強い人たちは、起きながら夢のような幻覚を見たり、浮遊感を感じたりすることがあります。
宮沢賢治は、解離性障害と診断されるほど病的な解離は経験しなかったようです。しかし、妹の死などの影響で、解離傾向が強く育ち、その独特な感性を詩作に活かしていたと推察されています。
現代の解離傾向のある人たちは、賢治の世界観に惹かれると言われますが、どこか似ている部分を感じ取るのかもしれません。
解離の患者でもその多くが賢治の作品に惹かれ、愛読している。彼女たちはどこか賢治の体験と共鳴しているところがあるのだろう。(p164)
解離と演劇の才能
最後に、解離傾向の強い人は、演劇の才能も持ち合わせていることがあります。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)にはこうあります。
解離患者が演劇の経験があることは多いが、これは目立ちたがりや派手好みと関係するよりも、幻想的世界へ容易に入り込むことができるある種の能力の結果でもある。(p109)
解離傾向の強い人は、生き生きとして空想世界を構築し、そこに没入しがちです。それと同じように、演劇の登場人物になりきったり、世界観に浸ったりすることができるのだと思われます。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論にもこう書かれています。
解離患者は幼少時から頭の中にあたかも知覚的イメージが湧出する「表象幻視」や「持続的空想」を経験していることが多い。
彼らはこのようなありありとした表象の中へと容易に没入する傾向がある。
読書でも映画でもテレビでも、その物語の中へ容易に入り込んで、その中の自分に成りきってしまう。(p203)
こうした没入傾向を持つため、登場人物になりきった迫真の演技が生まれ、優れた役者として活躍している人も多いのかもしれません。
統合失調症の創造性との違い
ここまで、解離と関わるさまざまな創造性について考えてきましたが、このような創造性は、資料によっては統合失調症に基づくとされている場合があります。
確かに統合失調症と創造性には深いかかわりがあるようですが、文学や絵画などの創造性を発揮した人たちが統合失調症であったと考えるのは早計です。
天才の脳科学―創造性はいかに創られるか という本にはこう書かれています。
芸術的な創造性と気分障害の関連を支持する証拠はきわめて強いが、統合失調症との関連は見られない。
芸術的な創造性、ことに文芸に関する創造性はその性質上、統合失調症のように発病すると社会的に身を引いてしまい、認知に混乱を生ずる病気とは相容れないのだろう。
小説や劇を執筆する活動は長時間にわたる注意力の維持を求めるし、計画、執筆、書き直しをする一年とか二年といった長期間にわたって、一群の複雑な登場人物の性格や話の筋を頭の中に把握しつづける能力も必要だ。このような長期的な集中は、統合失調症の人にはきわめて困難である。(p144)
この本では、科学における創造性はともかく、芸術、とくに文芸においては統合失調症との関連は見られないという調査結果が出たことが紹介されています。
統合失調症の妄想には柔軟性がない
日本では、たとえば、前述の芥川龍之介や夏目漱石が統合失調症だった可能性が指摘されます。しかし、実際に作家たちについてよく調べると、統合失調症らしからぬ特徴を備えていることが少なくありません。
統合失調症の特徴は、頑固な妄想や、(あまり望ましくない表現ですが)人格の荒廃と呼ばれる荒唐無稽な混乱状態です。上に引用した文中では、「認知に混乱を生ずる病気」とされています。
しかし夏目漱石や芥川龍之介といった作家たちは、その小説を見ればよくわかるとおり、正気を保っており、複雑な文学作品を構築する能力も持ち合わせていました。
解離性障害―多重人格の理解と治療によると、精神科医の岡野憲一郎先生は、解離性障害と統合失調症は一見似ているように思えるが、その性質は決定的に異なるとしています。
DIDにおける独特な思考や体験には、…「解離の創造性」が深く発揮され、その点がschizpohrenia等における病的な妄想と決定的に異なるのである。(p83)
この文中のDIDとは解離性障害の一種の解離性同一性障害のことで、schizpohreniaとは統合失調症のことです。
解離性障害の空想や、解離性同一性障害の別人格も、一種の妄想といえば妄想ですが、それらはとても現実的で、空想世界はどんどん深みを増していきますし、別人格も成長していきます。
ところが統合失調症の妄想はそうではないといいます。
…schizpohreniaにおける妄想について、ブラックウッド(Blackwood N.J.2001)は、その特徴を、あたかも患者にとって「結論が最初からあり、それに飛びつく」ことで生まれると説明する。
すなわちその思考の行き着く先は最初から定められ、…その内容はおおむね画一的であり、「解離性の妄想」に見られる溢れるばかりの創造性とは好対照を成すことになる。(p90-91)
統合失調症の妄想の内容は固定されていて、変化や発展性がないのだそうです。常に同じようなことを気にかけていて、だれがなんと言おうとそれを信じこみ、思い込みます。
こうした思考の柔軟性の有無は、解離性障害と統合失調症を見分ける大きなポイントだと言われています。
芥川龍之介は統合失調症?
芸術療法 (補完・代替医療)という本では、芥川龍之介は統合失調症の作家として紹介されています。
しかし35歳で自殺するまで、「健康な自我機能が残存して」いて、「人格の解体」も生じていなかったことから、統合失調症の「前駆期」だったと結論されています。
ところが、このような従来、統合失調症の前駆症状とされてきたものは、実は本来は解離性障害であることが多く、統合失調症へと進行したりはしないことが、最近の研究からわかっています。
芥川龍之介の場合、母親が幼少期に亡くなるなど、愛着外傷の存在が明らかなので、彼の病気は、統合失調症ではなく、解離性障害だった可能性が十分考えられます。
芥川龍之介の作品には、すでに述べた「二つの手紙」をはじめ、「影」における自己像幻視、「奇妙な再会」における幻聴や幻視など、解離性障害の体験をもとに書かれたと思われる表現が多く含まれています。
自殺する少し前に描いた「河童」は、妄想的な狂気が感じられますが、実際には現実に対する皮肉としての意味をこめてあり、妄想を妄想と承知した上で書かれています。
統合失調症の人が、自分の妄想について、それが妄想であると気づくことができず信じ込んでしまうのに対し、解離性障害の人は、それが自分の空想にすぎないことを理解できる、ということからして、やはり統合失調症らしくないといえます。
もちろん、統合失調症が創造性と関係している場合も、中には存在すると考えられます。この本では、さらに画家のムンクが被害妄想などの形跡から統合失調症であったと推測されています。
しかし一般に統合失調症の芸術家とされる人たちが本当にそうであるのかどうかは、その人について深く知らない限り、なかなか判断できるものではないと思います。
統合失調症と解離性障害の違いについて詳しくは以下の記事をご覧ください。
発達障害との関わり
統合失調症とみなされてきた芸術家の中には、ほかに、たとえば、画家のフィンセント・ファン・ゴッホがいます。
しかし、彼の創造性は統合失調症と誤認されやすい発達障害のアスペルガー症候群と関係していた可能性があります。解離は発達障害とも深く関係しているとされています。
アスペルガー症候群の人は、強い解離傾向を持ちやすいことが知られていて、解離性障害と診断される場合も少なくないようです。
アスペルガー症候群の人はまた、独特のファンタジー世界を持っていたり、映像が浮かぶ視覚的思考を持ち合わせていたりすることも多く、解離の創造性との親和性がうかがえます。
ギフテッドー天才の育て方 (学研のヒューマンケアブックス)という本の中で、児童精神科医の杉山登志郎先生は、すでに述べた天才の脳科学―創造性はいかに創られるかの研究に触れて、創造性に関係する傾向は統合失調症ではなく発達障害ではないかと書かれています。
解離性障害、統合失調症、アスペルガー症候群は類似している部分も多く、まったく別のものなのか、それともどこかで一続きになっている連続性のあるものなのか、ということは、今後の研究を待つ必要がありそうです。
病気にもなれば創造性にもなる不思議な解離
このように、芸術における創造性には、解離と呼ばれる脳の機能が深く関係しています。
解離しやすい傾向の原因にはいろいろあり、幼少期の愛着外傷という環境要因が影響している場合もあれば、発達障害という遺伝要因が根底にあることもあるでしょう。何が原因となっているかは人によってさまざまです。
重要なのは、いずれの才能を発揮してる芸術家にしても、「病気が絵を描いている」わけではないということです。
確かにそれらの芸術家の創造性には、不幸な生い立ちによる解離や、発達障害の傾向が関連しているのかもしれません。
しかしそれらの性質をうまくコントロールし、障害ではなく才能として活かすことができることには、その人たち自身の強い意志や知力、そして周囲の人たちの温かい支えが関係しているのです。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)には、宮沢賢治が強い解離傾向を示しながらも、優れた詩人として大成できた理由についてこう書かれています。
賢治が精神的に不安定になったり、社会生活上大きな破綻がみられたりすることがなかったことは、周囲の人に恵まれていたこと、知能や創造性に溢れていたこと、強い意志を持っていたことなどが関係していたであろう。(p186)
解離は、病気としての負の側面だけでなく、創造性としての正の側面をあわせもつ不思議な現象です。障害ともなれば才能ともなりえます。
何らかの事情により強い解離傾向を持ち合わせている人は、病としての解離だけでなく、創造性としての解離を理解するなら、きっと自身について新たな観点から考えられるようになるでしょう。