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人の才能は遺伝子で決まるわけではない―可塑性、自由意志、エピジェネティクスの発見

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「わたしには才能がないから…」

かの夢や目標を途中であきらめてしまった人たちの中には、この言葉、すなわち「わたしには才能がない」という言葉を残して消えていく人が大勢います。

才能があるかないか、それは多くの場合生まれつきのものだと考えられています。才能を表す英語は「タレント」や「ギフト」です。

「タレント」とは聖書の中の神が人に能力に応じてタラント(資金)を授けるという話に由来していて、「ギフト」はよく知られているとおり「贈り物」を意味する言葉です。どちらも、一見、自分ではどうにもならないことのように思えます。

近年では、遺伝子によって各人の能力や性質が決まっていると述べる人たちもおり、遺伝子解析キットを使って、自分の性格や病気のなりやすさを診断してもらえるサービスも人気です。

では、本当に、人間の才能は生まれつき決まっているのでしょうか。生まれたときにある遺伝子を持ち合わせていなかったなら、いくら努力しても、ある分野ではどうしても成功できない運命なのでしょうか。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちという本から、最近の科学の発見を通して考えてみたいと思います。

これはどんな本?

この本の作者、ジョナ・レーラーはサイエンスライターで、本書は2007年にベストセラーになりました。

この本は、さまざまな芸術家たちが、芸術を探求した結果、現代の脳科学の最先端の発見を先取りしていた、という興味深い物語をたくさん紹介している科学読み物です。

その顔ぶれには、ウォルト・ホイットマン(詩人)、ジョージ・エリオット(作家)、オーギュスト・エスコフィエ(料理人)、マルセル・プルースト(作家)、ポール・セザンヌ(画家)、イーゴリ・ストラヴィンスキー(作曲家)、ガートルード・スタイン(芸術家)、ヴァージニア・ウルフ(作家)が含まれています。

今回紹介する内容は、おもに作家ジョージ・エリオットについての章と関連しています。

才能は生まれつき決まっているのか

才能は生まれつき決まっている、という考えは、決して新しいものではなく、古くから形を変えて、何度も繰り返し述べられている考えです。

たとえば、かつては、女性として生まれるだけで、才能や知力が欠けているとみなされた時代もありました。

また一部の宗教では、運命決定論がまことしやかに論じられ、人の一生は、すべて最初から決まっていると教えられてきました。その人の才能どころか、仕事や結婚、さらには救いまでが、最初からすべて決められているとされたのです。

占星術が科学として信じられていた時代には、生まれたときの星の配置や時刻によって、その人の傾向が決まるとも考えられていました。いまだに星占いという形で、星が人間の運命を形作ってしまうという根深い迷信が存在しています。

さらには、これから考えていく点ですが、20世紀の科学者でさえ、形を変えたこれらの理論の後継者となりました。

たとえば、ある科学者たちは、人間のIQは生まれつき決まっていて生涯変化しないと吹聴しました。

遺伝子が見つかってからは、個々の人の遺伝子の組み合わせで、その人の性格や才能が決まってしまう、という考えが大手を振ってまかりとおるようにもなりました。

こうした例を挙げていけば、枚挙にいとまがありません。

これほど多くの考えが、才能の生得説、つまり生まれつき人間の性質は決まっていると唱えてきたのであれば、それは歴然たる事実なのでしょうか。

それとも、古くからの迷信が、頑固な染みのように現代にまで残り続けているだけなのでしょうか。

これから考える科学の3つの発見は、この論争に光を当てて、真実を明るみに出すものです。

1.可塑性―脳は大人になっても変わるのか

かつて、科学者たちは、人間の脳には柔軟性がなく、大人になれば、もはや変化することはない、と考えていました。

たとえば、子どものころに言語を学ばないと、大人になってからは困難になるのと同様、人間の脳の柔軟性は、大人になると失われ、固定してしまうと主張したのです。

プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこう書かれています。

そのテーマを最も目立った形で表わしていたのが、人間は完成された一式の神経細胞を持って生まれてくるという科学的確信だった。

この理論によれば、人体の他の細胞と違い、脳細胞は分裂増殖しない。

ひとたび幼児期を脱すると、脳は完成され、心の運命は確定される。20世紀を通じて、この見解は神経科学の基本原則の一つだった。(p66)

脳の神経細胞、ニューロンは分裂しない、というこの原則に基づけば、大人はそれ以上成長できません。たとえば、大人になってから、芸術の道に進みたいとしても、それはもはや閉ざされた門であり、二度と再び開けることは不可能なのです。

ところが、1989年、ロックフェラー大学のエリザベス・グールドは、慢性ストレスの研究をしているとき、なんとラットの脳で、ニューロンが分裂し、脳が癒やされている様子を発見しました。

同じ大学のフェルナンド・ノッテボームも、鳥のさえずりに関わるニューロンが、毎日1%も新しくなっていることを発見していました。

こうした研究は、科学界から黙殺されるか、嘲笑されるかしてきましたが、グールドは、それから8年間もこの研究に没頭し、徹底的なデータを集めました。

そしてついに、20世紀の終わりに、脳のニューロンが新生することは事実と認められ、教科書は書き換えられました。

こうした脳の柔軟性、大人になっても変化しつづける能力は、現在では脳の可塑性として知られています。可塑(かそ)とは、粘土のように柔軟に形を変えることを意味しています。

近年では、この脳の可塑性によって、たとえば視覚を失った人の場合、視覚野が聴覚の処理に協力して普通の人より鋭敏な聴覚が作られるなど、脳の各部分が柔軟に役割を変化させ、互いに補い合っていることが発見されています。

大人の脳は、決して水分を失った固い粘土のようなものではなく、死ぬまで変化しつづけ、成長しつづけるのです。大人になってから脳は変化しないどころか、たとえ老人になっても新しいことを学びつづける力を持っているのです。

脳の可塑性について詳しくは以前のこちらの記事をご覧ください。

思い描くなら脳が変わる! 「最新脳科学でわかった五感の驚異」 | いつも空が見えるから

2.自由意志―人間はロボットなのか

かつて、科学者たちは、別のテーマにおいても、人間の一生は運命づけられていると考えていました。それは、人間に自由意志はなく、ロボットも同然なのではないか、という論争です。

アイザック・ニュートンらが自然界の法則を解き明かしたころ、一部の科学者や哲学者は、この世の中の物事すべては、数学的な法則で説明できるのではないか、と考えました。

わたしたちが考え、決定し、選びとることもみな、すべて数学的な計算処理の結果ではないかと考えたのです。

もしすべてが計算できるのであれば、あらゆることは最初から決まっていることになります。

数学者ピエール=シモン・ラプラスは、そのような万物の法則を理解していて、すべての結末を最初から知っている存在を仮定し、有名な「ラプラスの悪魔」として知られるようになりました。

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義にはこうあります。

生物学界からの掩護射撃を受けて、こうした斬新な発想の総仕上げとして登場したのがアインシュタインの相対性理論であり、決定論的な世界観は揺るぎない確信になった。

それだけでは飽きたらないのか、神経科学も決定論を後押しする研究結果をいくつもひっさげて登場する。いずれも基調となっているのは、自由意志はたわごとにすぎないという態度だった。(p145)

たとえば、神経科学者ベンジャミン・リベットが発見した、意識より前に脳が先行している、という事実は、自由意志を否定する証拠として、しばしば引き合いに出されてきました。

しかし事態は意外な展開を見せます。

ところがどの発想も元をたどれば物理学科が発信源であり、そもそもこの騒ぎに巻き込んだのは物理学科であることに人々が気づきはじめるころ、物理学者たちは裏口からこっそり逃げ出した。(p145)

いったいどういうことなのでしょうか。

そのころ、スコットランドの物理学者、ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、気体の研究を通して、物理学の法則の限界を感じ取っていました。

法則はあくまで近似値にすぎず、気体分子の複雑な運動を正確に表すことはできませんでした。やがて自然界の隅々には、事実上予測できない動き「カオス」が満ちあふれていることがわかりました。

カオスは、単に自然界に見られるのみならず、遺伝子の変異にさえ生じていました。これは「発達性ノイズ」と呼ばれるようになりました。

それどころか神経科学者フレッド・ゲージは、カオスが、人間の脳の中にも存在していることを明らかにしました。人間の個性や多様性は、計測できない無原則な原子の押しあいというカオスの結果として生じるのです。

結局のところ、世界を動かしている決定的な法則を探そうとして科学者が奮闘した結果、証明されたのは、世界は無秩序であるということでした。未来を予測しようとする研究がもたらした答えは、未来は予測できない、というものだったのです。

自由意志については現在でも論争が続いていますが、一つ明らかな点として、なぜ「つい」やってしまうのか 衝動と自制の科学[Kindle版]によると、自由意志に疑問を持つ人たちは、犯罪などに手を染めやすいという統計が出ています。(p286)

自分の行動は自分で決められないのだから、何をやっても自分には責任はないというわけです。

そうした人たちは、逆境に直面すると、以前に記事で取り上げた学習的無力感にも陥りやすいようです。すべて運命で決まっているのなら、抵抗しても無駄だと考えてしまうのでしょう。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」 | いつも空が見えるから

もちろん、人間が完全な意味での自由、つまり何でも自分のしたいことを選び取れるようになっているかというと、決してそうではありません。

確かに遺伝や環境は、わたしたちの決定に必ず影響を及ぼしています。身体的・精神的な限界があります。

しかし未来は定まっておらず予測できないという意味においては、わたしたちには常にさまざまな可能性が開かれているのです。

3.エピジェネティクス―ゲノムが全てを決めるのか

最後に取り上げる3つ目の点は、わたしたちにも馴染みが深い、遺伝子による決定論です。

遺伝子の発見により、科学者たちは、人間のすべては遺伝子にプログラムされていて、生まれたときから、才能も健康も性格も決まっているのではないか、と考えるようになりました。

特定の遺伝子の存在によって、必ず発症する病気があることは、それを裏付ける証拠であるかのように思われました。

哲学者リチャード・ドーキンスは、「利己的な遺伝子」の中で「人間は生存機械である。遺伝子という利己的な分子を保存するために、やみくもにプログラムされたロボットである」と主張しました。

1990年、人間の全体を解明するという目的のため、壮大な「ヒトゲノム計画」が開始されました。この計画により、人間の法則のすべてが明らかになり、あらゆる病気を根絶できるようになることが期待されていました。

ところが、「ヒトゲノム計画」が明らかにしたのは、科学者たちの思惑とは正反対の事実でした。 プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちにはこうあります。

「ヒトゲノム計画」は、遺伝子決定論の限界を示すことによって、人間の個性を確認するという皮肉な結果に終わった。

この計画は、「説明できない」ことにより、人間であることは単なるテキストでないことを示した。

その結果、分子生物学は人間の遺伝子が現実の世界とどう相互作用しているかに焦点を当てざるを得なくなり、人間の性質は環境によって無限に変わることが明らかになった。(p75)

研究が明らかにした、遺伝子の新たな性質は「エピジェネティクス」(後生遺伝学)でした。エピジェネティクスによると、遺伝子にはそれぞれオンオフがあり、どれがオンになり、どれがオフになるか、ということは環境に影響されます。

ある遺伝子を持っているとしても、それが発現するかどうかは、その人の環境、たとえば家庭環境、食生活、ストレス、環境ホルモン、化学物質などと経験によって変化するのです。

そのため、特定の病気に関わる遺伝子を持っているとしても、その病気になるかどうかは環境が関係しますし、才能に関わる遺伝子もまた、経験によって発現するかどうかが変わるのです。

一例として、発達障害のいま (講談社現代新書)には近年の自閉症の増加の理由について、こう書かれていました。

極端な環境のなかで育ったとき、それが情緒的なこじれといった曖昧なものではなく、エピジェネティックな変化の引き金を引くことで大きな変化が生じ、本来の因子が非常に乏しくとも発達障害が生じるということもまた、十分に起こりうる。(p40)

こうしたエピジェネティクスに関する発見は、次の事実を示していると、プルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちは述べています。

しかし、DNAが人間の脳を決定しないとしたら、いったい何が決定するのか。

一言で答えるなら、「何によっても決定されない」。遺伝子は脳のおおまかな構造を決定するが、人間の可塑的ニューロンは経験に適合するように作られている。(p76)

原石から何を削りだすかはわたしたち次第

こうした3つの科学の研究を見ると、わたしたちの才能や将来について、なんといえるでしょうか。

確かなのは、人間の遺伝子は、数学的なプログラミングのようなものではないということです。プログラミングの世界では、必ず記述したコードどおりの結果が出力されます。しかし、人間の遺伝子には、より柔軟な性質を持っています。

人間のDNAの最良の隠喩は文学である。あらゆる古典文学のテキストと同じく、私たちのゲノムの特徴は、その意味の確定性ではなく、その言語的不安定性、すなわち多様な解釈を促す力である。

ある小説や詩を不滅にするものは、それが本質的にもっている複雑さ、すなわち、読者それぞれが同じ言葉の中に異なった物語を見つけるという点である。

…各人が自由に自分自身の意味を小説の中に見出せばよい。私たちのゲノムも同じような働きをする。生命は芸術を模倣する。(p77)

確かに、わたしたちは、遺伝子という原材料を超えることはできません。わたしたちがなしうるのは、すべて受け継いだ遺伝子、設計図の範囲内の物事です。空を飛べるわけでも、魔法が仕えるわけでもありません。

しかし、その原材料は、わたしたちが普段考えているより、はるかに豊かなものです。原石としての遺伝子は、非常に多様性に富んでおり、ある人には芸術の才能があり、別の人にはまったく才能がない、といった貧相なものではありません。

何かの才能には、あまりにも多くの要素が関係していて、だれもが自分の個性を削りだすことができます。人間の遺伝子は、環境や経験によって、さまざまに読み取られる仕方が変化し、事実上無限の多様性を生み出すことのできる余地があるのです。

何より、わたしたちは、自分でその原石を加工する自由と可塑性とを持ち合わせています。

DNAは人間を作るが、人間を決定するわけではない。神経細胞の可塑性はゲノムに書き込まれているが、その可塑性のおかげで私たちは自分のゲノムを超える。

…私たちは毎日、新しいニューロンと可塑性のある皮質細胞という贈り物をもらう。私たちだけが、自分の脳がどんなものになるかを決められるのである。(p77)

「タレント」そして「ギフト」とは、すでに形になった才能そのものではありません。むしろ、さまざまな可能性を秘めた原石と、それを削りだすためのノミこそが、わたしたちに与えられた贈り物なのです。

ですから、結論として、ある人に才能があるかないか、ということは、遺伝子によって生まれつき決まっているようなものではなく、経験や意志によって形づくられる多彩で変化に富む、予測できないものだということができるでしょう。

今回紹介したプルーストの記憶、セザンヌの眼―脳科学を先取りした芸術家たちでは、この記事で取り上げたような内容が、いかに作家ジョージ・エリオットの先見性により先取りされていたかが書かれています。

また他の近年の科学的発見についても、過去の芸術家たちの探求とクロスオーバーしていたことが、さまざまな物語を通して解説されているので、科学や芸術に興味のある人にはおすすめです。


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