■布団たたきは意味がないと言われたが何となく続けている
■星占いなんて信じていないのに気になって毎朝見てしまう
■新製品が出ると必要ないのにまた買ってしまう
■得るものがない飲み会に毎月知り合いのよしみで出席している
あなたの身近に、明らかに無意味な習慣をだらだらと続けている人はいませんか。あるいは自分がそのような実りのない習慣を何か続けているでしょうか。
こうした、無駄だとわかっているのにやめられない習慣には、「強迫」という概念が関係しています。強迫とは、衝動に駆り立てられて、理由もないのに繰り返し同じことをやってしまうことです。
強迫行為は、無意味な習慣とどのように深く関わっているのでしょうか。無意味な習慣から抜け出すには、どうすればいいのでしょうか。
図解やさしくわかる強迫性障害などの強迫性障害の資料や、わたし自身の経験を交えて考えてみたいと思います。
科学的には無意味だとわかっていても
無意味だとわかっていながらやめられない習慣には、それこそありとあらゆるものがあります。冒頭で挙げたものをはじめ、わたしたちの日常に根深く入り込んでいます。
強迫行為の代表例といえば、強迫性障害(OCD)という病気です。OCDは、無意味な強迫行為によって生活ががんじがらめにされ、身動きが取れなくなってしまう深刻な状態です。
OCDの強迫行為の中には、よく知られたものでは、細菌を過度に恐れて、執拗に手洗いや掃除を繰り返すものがあります。その程度の汚れで病気になったりしないと科学的に証明されていても強迫行為をやめられません。
同様に、わたしたちの身近に存在する強迫行動の中には、実は意味もないとわかっているのに、なんとなく続けてしまうものが数多くあります。
その点でOCDの強迫行為が「儀式」と呼ばれていることは、とても興味深く思います。
安心するために行われる儀式
儀式というと、みなさんは何を想像するでしょうか。古くから各地域で行われているような伝統的な宗教儀式が思い浮かぶかもしれません。
現代のわたしたちのほとんどは、そうした伝統的な儀式には、科学的にみて何の意味もないことをよく知っています。
かつては、それらは神や仏を鎮め、災いを払いのけてもらおうとして行われていました。しかし、現代の統計学は、宗教的儀式と、災害の発生率には何の関係もないことを明らかにしています。
それでも、そうした儀式を行い続ける人は多くいて、毎日、毎週、毎年、真剣に執り行われています。
こうした伝統的儀式と強迫行為には多くの類似点があります。
どちらの場合も、理性的には無意味だとわかっていますが、それを続けないと、不吉なことが起こるかもしれない、という得体のしれない不安を感じます。
そのため、儀式に本来の意味や価値がないとしても、不安を取りのけ、自分が安心するためには、無意味な儀式を続けないではいられないのです。
冒頭で挙げた無意味な習慣の例を考えてみてください。
■布団たたきは無意味でも、それをしないとそわそわして落ち着きません。
■占いを信じていなくても、それを見ればほっとするので毎朝確認します。
■本当は必要なくても、買い逃すと何かを得損なう気がするので新製品を買います
いずれにしても、無意味な習慣を続けてしまうのは、そうしないと不安だから、あるいはそうすると安心感が得られるから、という感情が関係しています。
強迫のスパイラルと理由づけ
それにしても、どうして無意味なことがいつの間にか習慣になり、しかもやめられなくなってしまうのでしょうか。
それには、強迫行為の負のスパイラルが関係しています。古代の宗教儀式のことを考えてみましょう。
古代の宗教儀式と強迫行為
古代において、さまざまな災害に苦しんでいたとき、ある人たちが、一縷の望みをかけて、何かの石像を作ってお供えしたとしましょう。
すると驚いたことに災害が収まりました。じつは自然に収まっただけでしたが、当時の人は、お供えの儀式のおかげで災害が止んだと考えました。
そうすると、災害がこないように、お供えの儀式を敬虔に守り行うようになります。儀式をやって災害が来なければ、儀式のおかげだ、と考えますし、儀式をやっているのに災害が来ると、何か不備があったのだ、と考えます。
その場合、何かのことで神仏が怒っているのだととみなして、儀式をより複雑にしたり、何かの捧げ物を備えたりします。そうしているうちに災害が収まれば、その複雑化した儀式が伝統に組み込まれます。
このように「儀式」は誤った理由づけを中心にどんどん複雑化していく、負のスパイラルになよって習慣化するのです。
このスパイラルは、強迫行為が成り立つメカニズムにそのまま当てはまります。
はじめはちょっときれい好きだった人が、風邪をひいたことをきっかけに、風邪を引いたのは消毒が足りなかったせいだという誤った理由づけをするかもしれません。
すると以前にもまして徹底的な消毒を始め、細菌を極度に恐れ、複雑な清掃を繰り返す強迫行為に発展するかもしれません。
誤った理由づけを見つける確証バイアス
本来、強迫行為は意味のないものですが、強迫行為に陥いる人たちは、古代の宗教的儀式と同様、無意味な習慣に誤った理由づけをしています。(p24)
まったく意味のない習慣が、自分の体調や運勢を左右していると信じこみ、それを熱心に続けるのです。
人はだれでも、自分の信念を裏付ける証拠ばかり探す傾向を持っていて、それは心理学で「確証バイアス」と呼ばれています。確証バイアスが働くと、本来まったく関係のないはずのものに因果関係を見いだすことがよくあります。
災害と供え物の関係のように、迷信的な考えでも、裏付け証拠を見つけようとして探せば、どんどんもっともらしい理由付けが見つかってしまうのです。
黒猫は悪いことの予兆だとか、11という数字は不吉だとかいった迷信は、こうした確証バイアスによって、作られた誤った因果関係の例です。
▼強迫性障害(OCD)の儀式
強迫性障害(OCD)に伴うさまざまなタイプの儀式と、それが成立する負のスパイラルについて詳しくはこちらをご覧ください。
あえて変化をつけて儀式を破壊する
こうした無意味な儀式にとらわれてしまった場合、どうすればいいのでしょうか。
本人は、薄々と、これは無意味かもしれない、と感じているかもしれませんが、やめると体調が悪化したり、運勢が悪くなったりするかもしれない、という不安にとらわれているので、やめることができません。
しかしその無意味な習慣が、莫大な時間やお金を浪費しているとしたら、どこかで一念発起して、それを断ち切らないといけません。
それに役立つのが、強迫性障害(OCD)の治療に使われる「儀式妨害」です。(p84)
いつもやらないではいられない儀式を妨害し、儀式をやらないことで生じる不安や心配、落ち着きのなさの中にあえて身を置いてみるのです。
■毎朝見ないと不安だった星占いをあえて見ないで過ごしてみます。
■毎月惰性で行っていたお金のかかる飲み会に行くのをやめます。
今まで、それなしではやっていけず、続けなければ安心感が得られなかった習慣をあえて捨ててみます。
はじめのうちは、とても不安になるかもしれません。たまたま悪いことが起こると、誤った結びつけをして、やっぱりあの習慣をやめたからひどいことになっているのではないか、と思うかもしれません。
それでもやはり儀式を行わないでいれば、いずれ、儀式を行っても行わなくても、実は何も変わらない、ということがわかってきます。
その習慣をやめたからといって、特段不幸なことに襲われるわけでもなければ、逆に良いことがあるというわけでもありません。いつもと何ら変わらないのです。
そうすると、確かにその儀式は無意味な習慣だったのだ、ということがはっきりと分かります。
儀式とは、無意味な繰り返しの習慣なので、あえてその構造を破壊して、生活に変化をつけるなら、そこから抜け出せるのです。破壊ははじめは苦痛を伴いますが、新しいことを始める楽しさがそのうちわかるでしょう。
毎週電話をかけてくる人
わたしがどうして、こんな記事を書こうと思ったのかは、わたしに定期的に電話をしてきていたある友人の話が関係しています。
その友人は、生活上のストレスや悩みを抱えていて、助けやアドバイスがほしいとのことで、わたしを頼って電話してきてくれました。
わたしは心配して、快く相談に乗ることにしたのですが、やがてその友人は毎週電話してくるようになりました。わたしは時間を区切って話を聞くことで、それほど負担なく対処しているつもりでした。
しかし何ヶ月とそれが続くうちに気になってきたのは、相手がいつもまったく同じことを延々と話し続けることです。
毎週30分ほど、自分の悩みをひたすら訴えるのですが、話す内容は、ずっと同じです。わたしが何か視点を変える助けを提供しても、それが益になっている様子はありませんでした。
ほとんど会話の内容の積み重ねがないどころか、1年が経つころには、より悩みや不安が増えているようでした。
相手は、いつも話を聞いてくれてありがとう、とわたしに感謝してくれるのですが、何の問題も解決していないことは明らかでした。
無意味な習慣は「儀式」かもしれない
そのときわたしは、ついに、これが、強迫行為だと気づきました。
その友人は、生活の中で、ストレスによる不安が生じると、わたしに電話するという「儀式」によって、不安を鎮めるサイクルを形成していたのです。
その人はいつも一方的にわたしに悩みをしゃべるだけでしたが、それもそのはず、それは安心感を得るための「儀式」であり、わたしは儀式に巻き込まれ、付き合わされている犠牲に過ぎませんでした。
悩みを聞いて、お互いがコミュニケーションし、解決策を探るとしたら、それは有益な時間です。しかし、相手が求めているのが単なる儀式のよりしろであれば、それはどちらにとっても何の益にもなりません。
むしろ、強迫的な儀式はそれに協力するなら、より悪化します。かつて複雑な宗教儀式が成立したときのように、誤った理由づけが行われ、より大きな思い込みが生じる負のスパイラルにつながります。
わたしが電話を受けるなら、友人はそこで偽りの安心感を得ます。そうすると誤った関連付けが生じ、ストレスの解決策は電話することだと思いこむようになります。
その結果、ストレスを感じるたびに電話してくるという無意味な習慣が成立し、ストレスの真の原因を探すという、正しい解決策に目を向けなくなってしまっていたのです。
わたしがその友人のためにできる最善のことは、儀式妨害によって構造を破壊し、電話に出るのをやめると伝えることでした。
そして、その代わりに、浮いた電話代と時間を使って、正しい解決策を探してくれる専門家のもとへ相談に行くよう、アドバイスすることでした。
強迫性障害(OCD)の治療の場合と同じく、儀式妨害をすると、相手は取り乱したり怒ったりしますが、長い目で見れば、それがその人のためになるのです。
凍てついた時を動かすために
このように、「儀式」としての強迫行為は一見わかりにくい形で、生活に潜んでいることがあります。
キーとなるのは、無意味なのにだらだらと続いている習慣です。ずっと続けているのに、何の前進も見られず、時間やお金がただ無駄になっている習慣があれば、それは「儀式」です。
当人は安心感を得るためにそれを続けているのでしょうが、そこで得られる安心感は偽りのもの、表面的なものであり、何の解決にもつながっていません。
無意味な強迫行為は、あたかも、時間の止まった空間のようです。永遠にループしつづける凍りついた世界なのです。一見平和に見えますが、それは時間が止まっている不自然な静けさです。
本当に安心感を得たいなら、痛みを伴うとしても、その構造を破壊し、時間の流れを取り戻す必要があります。偽りの静けさではなく、変化する世界の中に平和を見出さねばなりません。
何かの無意味な習慣がやめられない人は、このような「強迫行為」と「儀式」という観点から状況を捉え直してみると、再び時の流れを取り戻すし、本当の解決策へと歩み出すきっかけが得られるかもしれません。
▼依存症の習慣
わかっていてもやめられない無意味な習慣にもさまざまなタイプがあります。たとえば依存症の場合は、この記事で扱った強迫行為とは違います。
依存症は、安心感ではなく、快感や覚醒感のために行われている場合があり、その背景には、さまざまな脳の機能低下が隠れていると考えられます。
一例として、ADHDの人は脳の覚醒度が低いために依存症になりやすいそうです。