愛情や親しさは、支配することや支配されることではない。本来、支配とは正反対のところにあるのが、愛情や友情なのだから。(p303)
わたしたちは誰しも、友情関係を大切に思っています。友情関係は、単なる友だち同士だけでなく、親子や夫婦の絆の一部でもあります。良い親子や夫婦は、親友でもあることが少なくありません。
しかしすべての友だちが、良い友情関係にあるわけではありません。中には、足を引っ張る悪友という、互いが互いを縛っている泥沼関係もあります。
そのような益にならない友情は、実際には「共依存」と呼ばれる破壊的関係だといえます。それに対し、互いを強める友情は、このブログで何度か書いてきた「安全基地」の役割を果たしているといえるでしょう。
「共依存」の友情は、二人三脚のように、片方が倒れれば共倒れになります。「安全基地」の友情は並んで歩く人のように、片方がつまずけばもう一人が手を差し伸べて起き上がらせます。
「共依存」と「安全基地」を分ける要素はどこにあるのでしょうか。いくつかの本を参考に考えてみたいと思います。
これはどんな本?
今回扱う本は複数冊ありますが、おもに引用するのは以下の二冊です。
毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)は、親子・または夫婦の共依存関係を説明していて、実りのない偽りの友情とは何かを明らかにしています。
母という病 (ポプラ新書)は、本当に助けになる「安全基地」としてのバランスのとれた人間関係の特徴を説明しています。
「共依存」―足を引っ張り合う悪友
まず考えたいのは、足を引っ張り合う悪友のほうです。
それにはまず「共依存」とは何なのか知る必要があります。毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)という本にはこうあります。
共依存とは、お互いがはなはだしく精神的に依存しあっている関係をいう。(p55
また、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)にも、こう書かれています。
「共依存」という言葉は、精神科医斎藤学(さいとうさとる)氏が用いて知られるようになった。
アルコール依存症の夫が自らの苦しさを酒に紛らわせ、妻に依存していく状態と、そのダメな夫を支え、自分がしなければこの人は何もできないと感じることにより、自らの存在意義と認識している妻の状態を指すのである。(p158)
「共依存」は、互いが互いに精神的に依存しすぎて、相手がいなければ自分はやっていけないと感じる状態のことです。
もちろん、仲の良い夫婦や長年の親友も、相手がいなければやっていけないと感じるかもしれません。しかし「共依存」の場合は、それが度を超えて破壊的です。
以下の例は、少し特殊な場合ですが、その特徴は、わたしたちの普段の交友や夫婦関係にも表れる場合がある、ということを念頭において読んでみてください。
盲目の愛は共犯者
「共依存」は、さまざまな関係において生じますが、特によく知られているのは、すでに紹介した アルコール依存症の夫婦・親子の「共依存」です。
アルコール依存症の夫・父親がいる家庭では、知らず知らずのうちに妻や子供が巻き込まれ、「共依存」の関係になりがちです。
たとえば、アルコール依存症の父親を持つ子どもは、若い時期に父親から飲酒を強要されるかもしれません。そうすると、そこには奇妙な「友情」が生じます。
毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)にはこう書かれています。
そのような形で一緒に酒を飲むと、その親子のあいだには何やら特別で秘かな感じのする結びつきが生まれる。
このような“共犯関係”を、子供は“友情”のように感じるようになり、それは親から愛と承認を得るためのいちばんよい方法と考えるようになってしまうのである。(p98)
ここに、偽の友情、互いに足を引っ張る「共依存」の友情関係のパターンが見出せます。
「共依存」は実のところ、友情関係に見せかけた「共犯関係」なのです。本人たちは友情と思っているかもしれませんが、実際には相手の悪い習慣を支え、手助けしています。
アルコール依存症の家庭で妻や子どもが「共依存」に巻き込まれる場合、妻や子どもは口では文句を言いつつも、結局は悪い習慣を容認しています。
これらの共依存者は、相手の飲酒が引き起こしている問題について、口では文句を言ったり、飲むのをやめるようにと懇願したり、愚痴を言うことはあっても、飲酒をやめさせるために強い手段に出ることはまずほとんどない。(p108)
口では悪いといいつつも、具体的な解決策を実践しようとせず、いつまでも悪い状態を許容して、事実上、共犯として加担しているのです。
もう一つ別の例を考えてみましょう。それは強迫性障害(OCD)の「共依存」です。
強迫性障害では、患者は、無意味で複雑な「儀式」と呼ばれる習慣から抜け出せず、それを延々と繰り返します。しかしそこにも「共依存」の関係が絡んでいます。
図解やさしくわかる強迫性障害にはこうあります。
本人が泣きわめいてパニックになると、かわいそうになって、本人の言う通りの場所を確認したり、望むやり方で洗浄したり、本人の求めに応じてハンドソープやトイレットペーパーなど、強迫儀式をするために必要なものをせっせと買ってきたりします。
…このように家族などの集団で負の連鎖から抜けきれなくなる状態を「共依存」といいます。(p54)
この場合も、家族は、良かれと思って、強迫儀式に協力し、その結果、問題はよりエスカレートしてしまいます。
問題を解決させるために実際的な行動をとるどころか、かえってその破壊的な行動を手助けし、助長してしまっているのです。
アルコール依存症の「共依存」でも、強迫性障害の「共依存」でも、協力している本人は、それが愛や思いやり、友情だと考えているかもしれません。しかし、内実は相手の悪い習慣を容認し、手助けすることで、いつの間にか「共犯者」となってしまっています。
この共犯関係こそが、足を引っ張り合う悪い友情関係のおおもとです。
愛されるには痛みが必要?
このような共犯関係は、アルコール依存症や強迫性障害といった極端な家庭だけの問題なのでしょうか。決してそうではありません。
わたしたちが普段付き合う友人や、身の回りにいる家族との間に、このような歪んだ友情関係が入り込んでしまっている場合があります。
アルコール依存症の親子の間に生じた奇妙な絆について考えてみてください。その場合、親の悪い要求に従うことが、親から愛と承認を得るための良い方法だと感じていました。
同じように、あなたの悪友は、悪い習慣にあなたを巻き込もうとしてきます。自分と同じ状況に引きずり込もうと誘いをかけてきます。
たとえば学校の友だちから、タバコや飲酒、麻薬などを勧められると、それに従わないと、仲間に受け入れてもらえない、嫌われるかもしれないと感じるかもしれません。いじめに加担しないとのけものにされると思うこともあるでしょう。
そして相手に受け入れられ、認められるために、相手の悪い行動に付き合い、いつのまにかそこから抜け出せなくなる泥沼状態に陥ります。これが「共依存」です。
「共依存」に陥る人たちは、愛されるには犠牲や痛みが不可欠だと勘違いしています。こうした偽りの愛着関係を、精神科医の杉山登志郎先生は発達障害のいま (講談社現代新書)との中で「虐待的絆」と呼んでいました。(p104)
支配し支配される関係
「共依存」の特徴は、対等な関係ではない、ということです。そこには、支配し支配される関係が生じます。
「共依存」の偽りの友情関係は、協力している側が優越感を抱いて、相手を支配しているかのように思っていますが、実際には相手に縛られている奴隷となっています。
毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫)にはこう書かれています。
多くの人は、自分が自分のことをどう思っているかを映し出しているような相手を人生のパートナーに選ぶものだが、共依存者が“ダメ人間”をパートナーにするのは、自分が“ダメ人間”であることを自覚してのことばかりではなく、相手と比較して自分のほうが優れていると感じることができるためのこともある。(p109)
協力する側は、始めのうち、弱い人を支えているつもりになって自分自身に優越感を抱くかもしれません。しかし相手の悪い習慣に協力することで、いつのまにか自分も同じようになり、相手に支配され、身動きが取れなくなります。
自分は溺れている人を助ける救命員のようだと考えているかもしれませんが、陸地にいる人たちから見れば、二人とも溺れていて足を引っ張り合っているのです。
母という病 (ポプラ新書)には、そのような、支配し支配される「共依存」の本質がこう書かれています。
相手が望むことと自分が望むことを混同していないか、振り返ってみてほしい。
もしボランティアのような気持ちで、相手に何かをしようとするのなら、そこには驕りがあり、対等な関係ではない。
ボランティアのはずが、いつのまにか奴隷になっていることを思い知らされるだろう。
もし自分のほうがすべての答えを知ったつもりで、相手にそれを期待しようとしているのなら、それも驕りだ。自分が何も知らなかったことを、後で思い知るだろう。
愛情や親しさは、支配することや支配されることではない。本来、支配とは正反対のところにあるのが、愛情や友情なのだから。(p302-303)
「共依存」の友情関係は、相手を助けてあげているという傲慢さを伴っています。はじめからそこには対等な友情などありません。
互い学びあう関係ではなく、相手の悪い習慣に付き合うことで相手の奴隷になる関係です。お互いがお互いを縛り、立ち上がって未来へ歩き出すことさえ妨げます。
それにしても「共依存」にもいろいろな事情があるのだから、「共犯関係」とまで言うのは言いすぎではないのでしょうか。確かにそうした意見もあるでしょう。
でも、虐待された子どもが、虐待した親だけでなく「共依存」関係にあってそれを容認していたもう一方の親に強い恨みを抱いていたり、親と「共依存」して引きこもりになっていた子どもが、中年になったころ激しく恨みつらみを言うといった例を考えると、「共依存」がいかに間違った愛情かがわかると思います。
このような偽りの友情関係は何の益にもなりません。もし自分がだれかと「共依存」関係に陥っていることに気づいたなら、たとえ痛みを伴うとしても、その関係をきっぱり断ち切るべきです。
互い同士の足が結ばれた二人三脚で転び、起き上がれないのであれば、縄をほどいて外すべきです。そうすれば自分は立ち上がれますし、本当の意味で相手に手を差し伸べることもできるようになります。
「安全基地」―互いに強め合う親友
「共依存」とは対照的に、互いを強め合う友情の基盤となるのが「安全基地」です。
「安全基地」は、愛着理論を発展させた発達心理学者メアリー・エインスワースによる概念で、強い絆で結ばれることで生じる安心感を意味しています。
「安全基地」はしばしば港に例えられます。港のように安全な場所を心に持っているからこそ、安心して遠くの海へ航海し、燃料が尽きてきたら戻ってきて自分を癒やすことができます。
「安全基地」を持つ人は、ずっとそこに縛られていたり、安全な場所に引きこもったりするのではなく、むしろ勇敢に外の世界へと進んでいくことができます。
良い友情で結ばれた親友、親子、夫婦は、互いが「安全基地」となっているので、進んで新たなことに挑戦し、励まし合い、強め合うことができます。
二人の関係が「共依存」となるか、それとも「安全基地」となるかは、何に左右されるのでしょうか。
与え与えられる関係
まず大きなポイントとなるのは、「安全基地」は対等な友情関係だということです。
「共依存」が、支配し支配される関係だったのに対し、「安全基地」は与え与えられる関係です。母という病 (ポプラ新書)にはこう書かれています。
愛情は相互的なものだということを忘れず、自分だけが一方的に甘えるのではなく、自分も相手の安全基地になるよう努力することだ。それによっていっそう相手はあなたの安全基地となってくれるからだ。(p286)
安定した愛着を育むのに大切なことは、結局、一言で言えば、互いが互いの安全基地になるということだ。(p300)
「安全基地」となる友情関係は、「共依存」のように、一方が一方に尽くす主人と奴隷のような関係にはなりません。
むしろ、互いが互いに与え合い、互いが互いから学び合います。そのことは、作家ヘルマン・ヘッセの友情関係からわかります。
ヘッセは友達を大変大切にしたことで知られている。
まめに手紙を書き、また互いに行き来した。ヘッセは大学に行けなかったというコンプレックスを長く引きずっていたが、ヘッセの素晴らしさは、そんな自分の弱みを隠そうとせず、親しくなった友人には進んで本音や悩みを打ち明けたことだ。(p287)
ヘッセは、自分から進んで、友情関係を強める努力をしました。友だちの近況を気遣い、定期的に関心を示しました。
決して、自分の要求だけを一方的に満たしてもらおう、というあさましい関係ではありませんでした。
友の力になれることを探し、自分も相手の「安全基地」になろうと努力しました。
間違っていることははっきり言う
「安全基地」の特徴は、自己中心的ではなく、お互いのことを本当に気遣っているということです。
お互いのことを本当に思いやっている親友は、相手が悪い習慣にはまりこんでしまっているのを知ったら、決して共犯関係は結びません。
むしろ相手の感情に配慮しつつも、はっきりと悪いことは悪いと告げます。そして相手が立ち直るために、できることは何でも手助けします。
「共依存」のように、相手の気に入ることをしないと、嫌われてしまうかもしれないと恐れたりはしません。
友だちを心から信じていますし、たとえ一時的に嫌われるとしても、長期的に見れば相手のためになる、ということがわかっているからです。
「共依存」は、結局はどちらも自分のことしか考えていない利己的な関係でした。協力する側は、口では文句を言いつつも、決して強い行動には出ませんでした。
それは、本人としては相手の気持ちを傷つけない思いやりだと言うかも知れません。しかし本当のところは、自分が弱い人間を支えているという優越感にひたるため、また問題をややこしくしないため、という自己中心的な動機が隠れていました。
本当に相手のことを気遣っていて、幸福な生活を送ってほしいと願っているなら、破壊的な習慣に付き合うことはあり得ませんし、悪い状況を容認してぐずぐずすることもありません。
相手のありのままを受け入れる「無条件の愛」と、何でも許容する「無制限の愛」は違う、ということは、以前の記事で書いたとおりです。
同時に、互いが互いの「安全基地」になっている強い友情関係にある二人は、相手の言うことにも真摯に耳を傾けます。
同時に、相手に対しても、その気持ちを語らせることだ。自分が聞きたくないことを相手が言ったときほど、その言葉に大切に耳を傾けることだ。そこに、問題解決のための重要なヒントがあるからだ。(p303)
自分の言いたいことを一方的に話したり、相手に要求ばかりしたりする関係ではなく、しっかりと相手の言うことに耳を傾けます。
都合の悪いことは無視して、自分の好きなことばかり話すのではなく、相手の意見や近況にも関心を示します。
相手が忌憚ない意見を言うとしても、耳をふさいだりせず、自分のためを思って言ってくれている、ということを思いに留めて、真剣に受け止めます。
「共依存」か「安全基地」か
「共依存」ではなく「安全基地」のような友情関係を持つ、というのは、理想にすぎないのでしょうか。
もちろん、だれも完璧な友だちにはなれません。相手に完璧を求めるなら、お互いに失望して傷つくだけです。
だれでも様々な欠点を抱えていますから、相手の欠点をあげつらい、不満ばかりを口にするとしたら、決して強い絆など育ちません。
しかし、友情関係が、「共依存」になるか、「安全基地」になるかは、そんなに難しい違いがあるわけではないのです。
求める関係か与える関係か
「共依存」の友情関係は、自己中心的で、互いに相手から何かをもらうことばかり考えていました。相手に求めてばかりいるので、相手の欠点が気になり、不平不満ばかりあふれます。
お互いに何かをしてもらうことばかり考えていたら、自分は決して成長しません。もちろん相手も成長しません。
だからこそ「共依存」の関係は、何年、何十年経とうが、何も進歩しません。永久に死ぬまで泥沼のまま、お互いがお互いを縛りあいます。問題が解決するどころか、がんじがらめになります。
それに対し「安全基地」の友情関係は、互いに相手のためにできることを真剣に考えています。相手に求めるのではなく、まず自分には何ができるか、ということを考えます。
学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)にはこうあります。
人というのはなにかを与えることができるときに大きな幸せを感じるものであれ、ただ豊富な物質を与えられることだけでは幸せを感じることができないことくらいは当然理解しておかなければならない。(p118)
人はプレゼントをもらったときより、プレゼントをあげたほうが嬉しい、だれかの力になったときのほうが幸福度が高い、というのは、近年の心理学研究でも明らかになっているとおりです。
もちろんそうするのは、「そうしなければならない」という強迫観念からではなく、あくまで自分がそうしたいから、という自由な気持ちからです。
強いられているとすれば、それはやはり支配し支配される関係であり、本当は嫌で、しんどいけれど、自分が受け入れられるためにやっている、という動機が見え隠れすることでしょう。
母という病 (ポプラ新書)にはこう書かれています。
愛着は相互的な現象だ。自分が親に愛されず、親が安定した愛着を育んでくれなくても、自分が誰かを愛し、その存在と安定した愛着を育むことができれば、自分が抱えている愛着の傷を癒し、不安定な愛着の問題を乗り越えることができる。(p289)
自分が愛されないことをただ嘆いたり憤るよりも、見捨てられた存在を自分が愛することのほうが、どんなにか役立つ。(p290)
見返りを期待する気持ちや、受け入れてもらいたいという動機に強いられることもなく、自分の意志で、相手の力になろうとするなら、それは具体的な行動につながるので、自分も相手も成長していきます。
「安全基地」の友情関係は、一箇所にとどまったりしません。互いの足を縄で縛られているわけではなく、自分の意志で手を取り合って歩き出します。
常に前進しつづけ、互いが互いの手を取り合って険しい山を登っていきます。年月が経つにつれ、より絆は強くなります。
友情関係は積み重ね
結局のところ、「共依存」として無意味な年月を過ごすか、それとも「安全基地」として絆を深めていくかは、次の点に集約されます。
自分の行動は、本当に相手の将来を考えたものだろうか、それとも実際は自分の利益のためにやっているだけだろうか。
大切なのは、相手が親友か悪友か、ということではなく、自分がどちらの行動を選ぶかです。
どんな友情関係も、またたく間に「共依存」に転がり落ちたり、すぐさま「安全基地」として完成したりはしません。
友情関係とは積み重ねであり、自己中心的な行動が積み重なれば、やがて「共依存」となり、相手のことを考えた行動が積み重なれば、やがて「安全基地」となる、ただそれだけのことです。
固めた泥で家を建てれば、やがて雨が振って泥沼になりますし、焼いたレンガで家を立てれば、いつしか安全な家ができます。
わたしが今回の記事を書こうと思ったのは、今年一年も、さまざまな友人と過ごしたことで、「安全基地」として絆を深めていく友情関係と、「共依存」として実りのない友情関係の両方を経験したからです。
まだまだ未熟な人間関係であり、考えの浅いところもあるのは承知しています。しかし、今の時点での、わたしの理解を、こうして記事としてまとめておくことには価値があると思いました。
今、自分が友だちと過ごしている時間は、泥を積み重ねるような無意味なものだろうか、それとも、堅実に一つずつレンガを積んでいるだろうか。
少し立ち止まって、そう考えてみるなら、大切な友情関係を見直し、強い絆を育てるきっかけになるかもしれません。