鏡が怖い…。
「鏡が怖い」というのは、ある程度、一般の人たちに普遍的にみられる感情です。鏡の中を覗き込めば、本当はいないはずの何かが映っている、といったシーンはホラー映画の定番ですし、ファンタジーな物語では鏡が異世界への扉になることがよくあります。
しかし、それとはまた違った形で、より根源的な恐怖を鏡に対して抱く人たちがいます。解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)という本はこう述べています。
解離の患者が「鏡を見るのが怖い」と報告するとき、おおかたその理由は二つに分けられる
一つは、「鏡を見てもそこに映っているのが自分の姿であるという実感がない」ことである。
さらに一つは、「鏡に自分以外の何か、普通は映らないものが映っているような気がする」とか「自分の背後に何かがいるのが映っていそうでとても怖い」という報告である。(p56-57)
解離性障害などの患者は、単に、一般の人たちが「鏡が怖い」と思う以上に、鏡に恐怖を覚えることがあります。
トラウマ研究の専門家ベッセル・ヴァン・デア・コークも、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、幼少期にトラウマを負った子供たちに、やはり鏡に関係した不可解な症状が見られることを語っています。
彼らは反抗的であるにせよ、しがみついてきて離れないにせよ、一人として同年代の典型的な子供たちのようには、周りの世界を探検することも、楽しく遊ぶこともできないらしい。
自己感覚をほとんど発達させていない子供もいて、そんな子は、鏡に映った自分の姿を見て自分だと気づくこともできなかった。(p175)
こうした感覚はなぜ生じるのでしょうか。いくつかの本から、解離性障害における「鏡が怖い」という感覚が、単なる気持ちの問題ではなく、もっと深い脳のメカニズムに基づいていることを見てみましょう。
そしてこの不可思議な現象が、幻肢痛や体外離脱体験、さらには拒食症や慢性疼痛といった、別のさまざまな病気の仕組みとも関係していることを調べて、「身体イメージ障害」という最新の医学的概念について考えてみたいと思います。
これはどんな本?
今回おもに参考にした本は、以下の数冊です。
冒頭で引用した解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)は解離性障害の専門家、柴山雅俊先生による本で、タイトルにある「後ろに誰かいる」という感覚が、鏡が怖いという現象と結びついていることが書かれています。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法は、何度も引用してきたトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる本で、「鏡に映る自分を認識できない」症状の脳科学的なメカニズムについて触れられています。
脳は奇跡を起こすと脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線は、脳科学に明るい精神科医ノーマン・ドイジによる本で、そうした体験の背後にある身体イメージの障害という概念について詳しく解説されています。
そして、オリヴァー・サックスによる見てしまう人びと 幻覚の脳科学では、身体イメージの障害としての解離性障害、体外離脱体験、幻肢痛などが、どのように関連しているのか、見事な橋渡しがされている一冊です。
鏡に映る自分がわからない子どもたち
冒頭に引用した文の中で、解離性障害の人に多いと言われている「鏡が怖い」理由は2つありました。
最初に挙げられていたのは、「鏡を見てもそこに映っているのが自分の姿であるという実感がない」ということでした。これはどういう意味でしょうか。
わたしたちのうち、ほとんどの人は、鏡を見るとき、そこに映っているのが自分であることを疑問なく受け入れます。化粧をするとき、髭を剃るとき、鏡に映っているのは誰だろうと考え込んだり怖がったりはしません。
しかしこの能力、すなわち「鏡像認知」は決して当たり前のものではなく、人間をはじめ、イルカやゾウ、カササギなど、一部の高度な知能を持つ動物に限られています。
たとえば、ネコを飼ったことのある人ならわかるとおり、ネコは鏡に映った自分を自分だと認識できず、そこにもう一匹見知らぬだれかがいるように振る舞ったり、警戒したりします。
そして、人間の場合も、この鏡像認知は、生まれつきもともと備わっている能力ではありません。人間は、幼児のころに、鏡に映っているのが自分である、という認知能力を発達させ、獲得します。
豚にも自己意識がある?:鏡像を理解できることが判明|WIRED.jp
人間の発達論に鏡像段階論がある。幼児ははじめ、自分の身体を統一体と捉えられないが、生後6ヶ月から18ヶ月のあいだに、鏡に映った像が自分であり、統一体であることに気づくという理論
ここで、子どもが、鏡に映っている自分を認識する「鏡像認知」を発達される時期が、生後6ヶ月から18ヶ月ほどの時期である、と書かれていることに注目してください。
「生後6ヶ月から18ヶ月」、言い換えれば、「生後半年から一歳半ごろ」まで。
このブログを読んでくださっている方ならお気づきかと思いますが、これは、わたしがこのブログで、よく使っている表現です。
わたしが「生後半年から一歳半ごろ」という表現を使うとき、それは鏡像認知の発達段階について書いているわけではありません。これは、別の重要な機能の発達の感受性期と同じなのです。
その機能とは、「愛着」(アタッチメント)です。
愛着は「自己同一性感覚の基礎」
「愛着」とは、おもに生後半年から一歳半ごろまでに形成される、その人の思考や対人関係のパターンの土台となる、脳の生物学的なシステムのことです。
この時期に、養育者との触れ合いを通して、安定した愛着を築けないと、のちのち感情や自律神経などの生理機能の調節が不安定になったり、対人関係や自尊心が損なわれたりといった問題を抱えやすくなります。
愛着が形成される時期と、鏡像認知の能力が獲得される時期が同じなのは、たまたま偶然そうなっているのでしょうか。もちろんそうではありません。
愛着システムとは、自分と他者を認識する力のことでもあり、子どもは生後半年から一歳半の養育者との関わりを通して、自分を認識し、また他人を認識することを学ぶのです。
トラウマ研究の権威ベッセル・ヴァン・デア・コークによる身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には愛着の研究者であるドナルド・ウィニコットが発見した点が、このように説明されています。
ボウルビィと同時代の小児科医で精神分析医のドナルド・ウィニコットは、同調の近代的研究の父だ。母親が赤ん坊をどのように抱くかから始めて、彼は母子の詳細な観察を行なった。
そして、こうした身体的相互作用が、赤ん坊の自己感覚の土台となり、その感覚とともに、生涯にわたる自己同一性感覚の基礎も固まると主張した。
母親が子供をどのように抱くかが、「精神が宿る場所として体を感じる能力」の根底にある。私たちの体がどのように接し合うかに関するこの内蔵感覚と運動感覚が、私たちが「現実」として経験するものの基礎を築くのだ。(p187)
ドナルド・ウィニコットが気づいたように、幼少期の愛着というのは、「自己感覚の土台」また、「生涯にわたる自己同一性感覚の基礎」になります。
愛着とは英語の「アタッチメント」を訳した言葉ですが、もともとの「attachment」には付着すること、くっつくこと、といった意味があります。
子どもは親に触れられ、撫でられ、抱かれ、接し合ううちに、自分の体を見分け、他人の体と区別する自己認識の能力を育んでいきます。
では、この時期に不幸にして親から共感に満ちた世話が受けられず、「愛着」(アタッチメント)が十分に育たないとどうなるのでしょうか。
脳の「自己感知領域」が停止している
ベッセル・ヴァン・デア・コークは、そうした不幸な境遇に育ち、安定した愛着を築けなかった人たちの脳機能を調べて、愕然とするような事実を発見しました。
幼少期(本書ではおおむね「0~六歳」の時期を指す)の深刻なトラウマを抱える慢性的なPTSD患者18人のスキャン画像との著しい違いには驚かされる。
脳のこれらの自己感知領域のどれにも、ほとんど活性化が見られなかったのだ。
内側前頭皮質、前帯状皮質、頭頂皮質、島は、まったく活性化しなかった。唯一、後帯状皮質がかすかな活性化を見せた。これは、基本的な空間定位を司る部位だ。
幼少期に愛着を育むことのできなかった人たちは脳の「自己感知領域」がほとんど活性化していなかったのです。
その人たちは、幼少期に過酷な環境で育ったため、正常な愛着が育まれず、人間をはじめ、イルカやゾウなど、高度な動物に備わるはずの自己感知能力に関わる脳領域が停止したままになっていました。
このような結果の説明は一つしかありえない。これらの患者は、トラウマ自体への反応として、また、ずっとあとまで残っていた恐怖に対処する中で、特定の脳領域の機能を停止することを学んだのだ。
…まさにそれらの領域が、私たちの自己認識、すなわち自分は誰なのかという感覚の土台を形作るいっさいの情動と感覚の認識を司っている。(p152)
「自分は誰なのかという感覚の土台を形作るいっさいの情動と感覚の認識」がほとんど働いていないのなら、その結果、何が起こるのかは、きっと説明せずとも察しがつくでしょう。
ベッセル・ヴァン・デア・コークは、自分のところに来る幼少期のトラウマを抱えた患者たちについて、こう述べています。
児童期の長年にわたるトラウマの犠牲者に見られる自己認識の欠如は、じつにはなはだしい場合があり、そんなときには、犠牲者は鏡に自分が映っていても、自分と認識できない。
脳をスキャンしてみると、これはただの不注意のせいではなく、自己認識を司る組織が、自己経験にかかわる組織ともども機能停止に追い込まれているからかもしれない。(p154)
幼少期のトラウマを抱えた人たちは、ぼーっとして心ここにあらずの状態になったり、人の顔を覚えられなかったり、さらには鏡に映る自分の顔が見分けられなかったりします。
しかもそれは、ADD(注意欠如障害)のような不注意によるものではなく、もっと根源的なもの、つまり、「自己認識を司る組織」がほとんど機能していないことによるのです。
鏡に映る自分を見ても、それが自分だと気づけないという現象が、しっかり見ていないとか、気にしすぎだとかいったものではなく、明らかに脳機能の異常による症状である、ということは、実験によってその状態が再現できることからもわかっています。
経頭蓋磁気刺激法(TMSで内側前頭前皮質の上部の機能を一時的に停止させると、その間、人は鏡を覗いたときに誰を見ているのかわからなくなりうることをアルヴァロ・パスカル=レオーネが立証した。(p624)
脳の内側前頭前皮質のような、自己感知に関わる脳領域を人為的に停止した場合、健康な人でも鏡に映る自分が誰なのかわからなくなります。
鏡に映る自分が自分だと思えないことからくる「鏡が怖い」という症状は、幼少期の愛着の発達が妨げられ、脳の自己感知能力が十分に働いていないことからくる症状の一つなのです。
冒頭の引用文では、そのような症状が「解離」の患者に多い、つまり、解離性障害で顕著に見られるものだ、とされていましたが、それも当然です。
かつて解離性障害とは、虐待や性的被害による病気である、という考えが主流でした。しかし近年の発見が示すとおり、解離性障害とは愛着の不形成による病気であり、愛着の問題なくして解離は生じません。
過去にも何度か引用した文ですが、解離の専門家の岡野憲一郎先生は、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中で、次のように書いています。
ショアの主張をひとことで言えば、解離という心の働きを脳科学との関連で探っていくと、愛着の問題にまでさかのぼらなくてはならないということである。
すなわち解離性障害とは、それが基本的にはいわゆる「愛着トラウマ」による障害のひとつと理解されることを念頭に置くべきなのである。(p15)
解離とは、生後幼い時期に育まれるべき愛着が十分に育たず、その結果として、自己同一性の感覚や、自己認識の脳領域が育たなかったせいで生じるものです。
ヴァン・デア・コークは身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、鏡の自分を認識できなかった解離性同一性障害(DID)の女性についてこう述べています。
深刻なトラウマを負った人にはありがちなことだが、リサも鏡の中の自分を認識できなかった。
私は人が、連続した自己感覚を欠くというのはどういうことかほこれほど明瞭に描写するのを聞いたことがなかった。(p529)
自己認識の力が弱いために現実感が薄れる離人症が生じ、自己同一性の感覚が希薄なために人格が複数にわかれているように感じられ、連続した自己感覚が欠けてしまう病気、それが解離性障害です。
連続した自己感覚の欠如、また自己同一性の感覚の欠如が、鏡を見たときに、そこに映っているのが誰なのかわからない、という恐怖になって現れることがあるのです。
鏡に映る自分が歪んでいる拒食症
では、自己認識に問題を抱え、鏡が怖いと感じるのは、解離性障害の人たちだけなのでしょうか。
そうではありません。むしろ、自己感知能力の強さというのは、強いか弱いか、存在するかしないか、という二者択一のものではなく、人々が持っている自己認識能力の程度は実にさまざまです。
それは、幼少期に育まれる愛着の程度にも、さまざまなレベルのものが存在していて、極めて安定した愛着の人もいれば、少し不安定な愛着の人もいるのと同じです。
さきほど見た、「鏡に映る自分が誰なのかわからない」解離性障害の人たちは、その究極の端に位置していますが、そこまでいかずとも、自己感知能力が弱かったり、歪んでいたりする人は大勢います。
健康な人でさえ、酒に酔って、二日酔い状態で鏡を覗き込んで、自分の顔に違和感を感じることがあるかもしれません。これは、脳の自己感知能力の活動が、体調によっても左右されることを物語っています。
そして、それと似たような違和感を、鏡の中の自分に対して、四六時中抱き続けている人もまた存在します。
拒食症(摂食障害)や身体醜形障害です。
脳は奇跡を起こすの中で、精神科医のノーマン・ドイジはこのように書いています。
身体イメージがゆがんでいることはよくある。そう、身体イメージと身体そのものはことなるのだ。
拒食症の人は、餓死寸前だというのに太っていると感じている。
ゆがんだ身体イメージをもつ身体醜形障害の患者は、まったく問題がないにもかかわらず、体の一部に欠陥があるという。
…整形手術をする人もいるが、手術を受けても直っていないと感じてしまうだろう。この場合に必要なのは、整形手術ではなく身体イメージを変える「神経可塑性の手術」だ。(p220)
ノーマン・ドイジは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中でもこう書いています。
また、拒食症を抱える人が、実際には栄養失調のために骨と皮ばかりになっているのに、鏡を見て肥満していると思い込むとき、この齟齬が顕著に現れる。
つまりそのような人は、どんなに身体がやせ細っていても、肥満しているという身体イメージを持っているのである。(p53)
どれだけ痩せても自分の体が太っていると感じてしまう拒食症の人たちや、自分の顔や体に醜さがあると思い込んで、何度も整形手術を受けるような人たちは、鏡を見るとき、そこに映っているのが自分だと認識できるものの、正確な姿を認識することはできません。
著名人の例を見ても拒食症のために亡くなったカレン・カーペンターや、死ぬまで整形を繰り返したマイケル・ジャクソンといった人たちからよくわかるとおり、これは、決して気の持ちようとか、気にしすぎ、といった言葉で済まされる問題ではありません。
解離性障害の人たちは、鏡に映る自分がわからない、つまり身体イメージが「ない」のに対し、拒食症や身体醜形障害の人たちは、鏡に映る自分を認識できる身体イメージはあるものの、そのイメージが「歪んで」います。
この二つのタイプの病気を比較するとわかるのは、わたしたちの自己認識というのは、脳が作りだす具体的な身体イメージだということです。
自己感知能力の脳機能の異常には、ほとんどまともな身体イメージが存在しない機能停止状態もあれば、実際の体とは異なる、歪んだイメージを作ってしまうという状態、つまり自己感知能力が故障したまま機能している状態もあるのです。
脳が作りだす「バーチャルボディー」
このような、脳の自己認知機能が作りだす「身体イメージ」という概念に注目すれば、解離性障害や、拒食症、身体醜形障害などは、いずれも「身体イメージの障害」とみなすことができます。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、この「身体イメージ」は、神経科学者たちによって「バーチャルボディー」とも呼ばれています。
身体イメージは、心に形成されかつ脳内に刻まれてから、無意識のうちに身体に投影される。
神経科学者はときにそれを「バーチャルボディー」と呼び、それが身体とは独立して脳と心に宿る点を強調する。(p52)
「身体イメージ」また「バーチャルボディー」という言葉は、わたしたちの脳が作りだす、この独特な自己認識システムの特徴をよく言い表しています。
脳の自己認識システムというのは本物の身体(ボディ)そのものではなく、「バーチャル」な「イメーシ」なのです。
健康な普通の人たちにとって、これはとても理解しにくい部分です。なぜなら、文字どおりの肉体と、脳が作りだす「バーチャルボディー」とは、完全に重なり合って、ぴたりと一致しているからです。
わたしたちが自分の手がある、と感じる場所に、確かに手がありますし、足の小指をタンスの角にぶつければ、確かに足の小指にあたる場所が痛みます。
その結果、わたしたちは、肉体としての手そのものを感じていると思い込み、肉体としての足そのものが痛んでいると錯覚します。
身体イメージは、実際の身体と一致していることもある。つまり、前者は後者のかなり正確な表現たり得る。
そのような状況下では、私たちは、身体イメージが、現実の身体とは異なる心的な現象である事実を忘れている。
しかし、考えてみてください。
あなたは、夜に夢の中で走りまわって疲れを感じたり、悪夢の中で痛みを感じたり、さらには目を開いていないのに景色が見えたりしたことはないでしょうか。
そのとき、体はベッドの中に横たわって寝ているので、実際に運動したり、痛い思いをしたはずはありません。しかし、夢の中では、本物らしい感覚を経験することがあります。
この事実は、わたしたちは、たとえ手足を動かさなくても、あるいは、運動したりケガをしたりしなくても、疲れや痛みなどの感覚を感じることができる、ということを示しています。
それはすなわち、文字どおりの肉体によって感覚を感じているのではなく、脳が作り出している仮想の「バーチャルボディー」のほうが、痛みや疲れを感じているということです。
実際に、疲労や痛みの研究者たちは、それらを感じているのは身体ではなく、脳であることを発見しました。
わたしたちは文字どおりの肉体で感じるのではなく、「バーチャルボディー」によって感覚を経験している、というのは理解しにくい概念ですが、具体例を挙げてみましょう。
それは幻肢痛です。
幻肢痛―迷子になった魂の正体
幻肢痛とは、手や足を失った人が、もう手足がないのに、ありありとした手足の感覚を感じ、特に痛みに悩まされるという現象です。
幻肢痛は昔から知られていましたが、痛む手足を切断手術で切り離したのにまだ痛む、という患者たちの訴えは、精神的なヒステリーや気のせいにすぎないとして、医学から一蹴されてきました。
あるいは、手や足を切り離したにもかかわらず、手足の感覚があるということは、わたしたちには文字どおりの肉体のほかに、魂が存在している証拠だとされたこともありました。
幻肢痛は古代からありふれたものであったにもかかわらず、19世紀の医師サイラス・ミッチェルが記録するまで、まっとうな医学的概念として研究しようとする人はだれもいなかったほどです。
そのような医学界から見放されていた幻肢痛の研究に一石を投じ、幻肢痛の正体を明らかにし、しかも治療法まで確立してしまったのが、神経科学者V.S.ラマチャンドランです。
ラマチャンドランは脳のなかの天使の中で、このように述べています。
腕の切断手術を受けた人が、腕を失ったあともその腕の存在を鮮明に感じつづける場合があることは、すでに一世紀以上前から知られていた。
あたかも腕の幽霊が、いつまでも消えず、断端のあたりにとりついているかのように、この不可解な現象の説明づけとして、願望充足がからんだフロイト風の奇抜なシナリオから、霊魂の呼びかけにいたるまで、さまざまな見解がそれまでにだされていたが、私はそのどれにも納得がいかなかったので、神経科学の見地から取り組んでみようと決意したのである。(p49)
ラマチャンドランは、神経科学者としての知識を駆使し、二つの事実を発見しました。
まず、第一に、痛む手足を切り離しても痛みが消えないことから、痛みの感覚は、手や足といった肉体そのもので感じているわけではないこと。
そして第二に、本当に痛んでいるのは、脳が作り出した「身体イメージ」また「バーチャルボディー」であり、それこそが見えない手足の感覚、そして魂だと言われていたものの正体ではないかということでした。
腕が切断されたらどうなるか、考えてみよう。腕はもうないが、脳のなかの腕のマップはまだある。
このマップの役割、すなわち存在理由は、腕を表象することである。
腕はなくなったかもしれないが、マップはがんばりつづけるほかに、何もすることがない。
刻一刻、来る日も来る日も、腕を表象はしつづける。(p51)
病気やケガなどで、痛む手足を切断して、文字どおりの肉体がなくなったとしても、その手足に重なっていた「バーチャルボディー」のほうはそのままです。
文字どおりの肉体と「バーチャルボディー」は、ふだんは完璧に重なっていて気づきませんが、手足を失ってみてはじめて、肉体を抜きにした、「バーチャルボディー」の存在に気づくのです。
脳は奇跡を起こすに中でラマチャンドランはこう言います。
五体をもつ人は気づかないだろうが、四肢の身体イメージは実際の四肢に「完璧に投影されている」ために、身体イメージと身体を区別することができなくなっている。
「身体そのものが幻なんですよ」とラマチャンドランは言う。(p219)
バーチャルボディーの位置情報がずれる
健康なときに肉体と「バーチャルボディー」が、完全に一体化していて気づかないのは、肉体への刺激や、目で見る位置を通して、「バーチャルボディー」の位置が刻一刻と補正されているからです。
テーブルの上のりんごをつかめば、手を通して触感が脳に伝わりますし、目で手の位置を見れば、肉体としての手が空間的にどこにあるのかもわかります。
脳はそうした情報によって、いわばGPSのように「バーチャルボディー」の位置情報をリアルタイムで補正しつづけ、文字どおりの肉体とぴったり重なって一体化しているように感じられるように、わたしたちの意識をだましています。
しかし、肉体としての手足を失うと、「バーチャルボディー」の位置情報を補正する手段がなくなります。
脳は奇跡を起こすによると、ラマチャンドランは、「バーチャルボディー」という脳のマップが、文字どおりの肉体というGPS情報を失うと、位置がずれたり、形がゆがんだりして、さまざまな変化が生じてしまうことを発見しました。
ラマチャンドランはほかの研究者と協力して―このなかには、タウプとその共同研究者たちもいた―何度も脳マップをスキャンすることによって、幻肢の輪郭と、そのマップがたえず変化しつづけていることを証明した。
幻肢が痛むのは、手足が切断されたときに、そのマップが縮小するだけでなく、秩序を失って、正常に機能しなくなるだめではないかと、ラマチャンドランは考えている。(p214)
行き場を失った手足のイメーシは、ひどくおかしな場所に移動してしまうこともあります。
ヴィクターによると、彼はそのときまで、顔面に幻の手があるとはまったく気づかなかったが、そうと知ってすぐ、それをうまく活用する方法を思いついた。
幻の手のひらにかゆみを感じたら(かゆみはしょっちゅう起きて、頭がおかしくなりそうだった)、顔の手のひらに対応している場所をかくと楽になるのだという。(p51)
このヴィクターという男性の場合は、失った手のかゆみをあまりに強く感じるという、幻肢痛ならぬ幻肢かゆみに悩まされていました。
しかし、ラマチャンドランの助けによって、失った手のひらの「バーチャルボディー」が、今は手のひらではなく顔の部分に移動して迷子になっていることに気づいたので、顔に存在する手のひらの「バーチャルボディー」をかくことでかゆみに対処できることがわかりました。
「バーチャルボディー」の位置情報がおかしくなるのは、珍しい現象であるどころか、わたしたちのうちの多くが、知らず知らずのうちに経験したことがあるほど身近なものです。
見てしまう人びと 幻覚の脳科学[Kindle版]の中で、オリヴァー・サックスは、「バーチャルボディー」の障害は、歯医者で手軽に体験できるものだと述べています。
正常な感覚がさえぎられると、身体イメージの混乱はすぐにでも起こりうる。
たいていの人は、医者の麻酔で頬や舌がグロテスクに腫れているとか、変形したとか、おかしな位置にあるとか、そんな妙な幻覚を経験したことがある。
鏡を見ても、その錯覚を追い払うにはほとんど役に立たないが、正常な感覚がもどれば錯覚は消える。(p333)
ノーマン・ドイジもまた、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、まったく同じことを述べています。
ところが、身体イメージが身体と合わなくなると、両者の差異はすぐにわかる。
この齟齬は、歯医者で局所麻酔を受けたときに、そうと知らずに誰もが経験できる。
突然顎と頬が、実際より大きくなったかのように感じられるのだ。(p53)
わたしたちのうちの多くは、歯医者で歯を削ったり、抜いたりするとき、局所麻酔をかけて痛みをなくすことがあります。
このとき、しばらく、麻酔が切れるまで、麻酔をかけられた部分やくちびるが、腫れぼったくなったり、自分の身体でないかのような奇妙な感覚を感じたりした経験があるでしょう。
たいていの人は、麻酔をして麻痺しているせいで、感覚がおかしくなっているだけだ、と思うかもしれませんが、正確にはそうではありません。
麻酔をした感覚が麻痺させられると、脳は、外から入ってくる感覚によって、顔の各部の「バーチャルボディー」の位置合わせや補正をすることができなくななります。
するとごく短時間のうちに、顔の「バーチャルボディー」にゆがみやずれが生じ、実際よりくちびるが大きく腫れているように感じられたり、変な位置にあるように認識されたりします。しかし鏡を見てみても、くちびるが腫れ上がったりしていることはありません。
やがて麻酔が切れて、正常な感覚入力が戻って「バーチャルボディー」の位置情報が補正されるまでのあいだ、わたしたちは補正の効かなくなった「バーチャルボディー」とはどういうものなのか、身体イメージの障害を短時間だけ経験しているのです。
身体醜形障害―幻肢ならぬ幻顔
この幻肢痛のメカニズムの発見によって、わたしたちには、文字どおりの肉体とは別に、脳内の地図のような「バーチャルボディー」があり、両者は重なっているように見えても実は別々のものである、ということがはっきりしました。
幻肢痛という具体例を通して考えれば、解離性障害や拒食症の人たちの「バーチャルボディー」に何が起こっているのかを理解しやすくなります。
すなわち、脳内の地図が失われたのが、自分の「位置情報」を認識できない解離性障害であり、地図がゆがんで偽りの情報を示しているのが、自分の正確な姿を認識できない拒食症や身体醜形障害なのです。
身体醜形障害のような「顔」の身体イメージのゆがみが、幻肢痛と同じ、脳の地図の障害として生じていることは、単に理論を無理やり当てはめたような机上の空論ではなく、体験者みずからの実感でもあります。
神経科医オリヴァー・サックスは、見てしまう人びと 幻覚の脳科学において、幻肢痛と身体醜形障害の両方ほ経験した患者の体験を、こう紹介しています。
私の患者の一人は、大きな脳腫瘍を切除したことで、顔の片側の感覚神経根が犠牲になった。
そのあと何年も、顔ま右側全体が「縮んでいる」、「崩れている」または「なくなっている」。
そしてそちら側の舌と頬がものすごく腫れてグロテスクな外観になっているという感覚が消えなかった。
彼女はのちに片脚を切断することになり、手術のあとすぐに幻肢に気づいた。そしてこう言った。
「自分の顔のどこが悪いのかわかりました。まったく同じ感じ―幻肢ならぬ幻顔なんです」。(p333)
彼女の言葉が如実に示すとおり、身体醜形障害の苦痛は幻肢痛と同じたぐいのもの、いわば幻顔というべきものです。
似ている別個の病気というより、「バーチャルボディー」の異常が、手足に出るか、顔などの別の場所に出るか、という違いだけで、どちらも脳の地図の疾患、身体イメージ障害なのです。
線維筋痛症―脳マップの感覚異常
ここまで考えれば、「身体イメージ」ないしは「バーチャルボディー」の異常が、決して幻肢痛や拒食症に限られた珍しいものではないことに、多くの人は気づくでしょう。
「バーチャルボディー」の障害の特徴は、幻肢痛の場合でも、拒食症でも、あるいは身体醜形障害でも、ひとつの点で共通しています。
つまり、肉体としての身体そのものには何も異常がないにもかかわらず、脳が作り出した「バーチャルボディー」としての架空の身体イメージに、さまざまな症状、痛みや腫れなどが感じられる、ということです。
幻肢痛では、手足に激痛が走るとしても、そもそも手足はありません。拒食症や身体醜形障害では、身体に違和感を抱きますが、肉体そのものは正常です。
つまり、「バーチャルボディー」の障害とは、身体に異常を訴えますが、実際に病院で身体を検査しても、なんら異常がないという特徴があります。
異常があるのは、肉体そのものではなく、脳が作り出して、肉体に重ね合わせている「バーチャルボディー」のほうだからです。
つまるところ、身体のどこにでも「バーチャルボディー」の障害は起こりうるものです。
その中でも、特によく知られているのは、神経障害性疼痛です。
脳は奇跡を起こすの中で、事故や手術のあと、すでに患部は治っているにもかかわらず、激痛がずっと続く場合、それは一種の幻肢痛である、と書かれています。
手足の切断以外の手術を受けた場合にも、同じように不可思議な痛みをおぼえ、それが生涯なくならないことがある。
…これらの症状も幻肢痛であり、内蔵の一部が「切断」されたと考えると理解しやすい。
…ケガによって、体の組織ばかりか、痛みを感じる神経まで損傷することがあり、そのときには外的な要因がなくても、神経因性疼痛を感じる。脳のマップが損傷して、たえまなくまちがった警報を送ってしまうのだ。
それで、患者は脳に問題があるのに、体に問題があると思い込む。
体が治ってからずいぶん経つというのに、痛みのシステムがまだ発火していて、激痛を感じつづけるのである。(p210)
神経障害性疼痛の患者は、いつまでも続く身体の激痛にさいなまれますが、そのときすでに身体は治っています。
痛んでいるのは、身体ではなく、脳が作っている「バーチャルボディー」であり、幻肢痛と同じことが生じています。
脳は奇跡を起こすでは、幻肢痛の研究者ラマチャンドランが、痛みについてこう述べています。
幻肢で明らかになったように、痛みを感じるのに実際の体の部分はいらないのだ。
痛みの受容体もなくていい。痛みを感じるのに必要なのは、脳マップによって生み出された「身体イメージ」だけなのだ。(p219)
身体ではなく、脳の「バーチャルボディー」が激痛を発している病気の最たるものが、全身の慢性疼痛を特色とする線維筋痛症(FM)です。
線維筋痛症では、いくら激痛に悩まされるとしても、身体そのものを検査してもほとんど異常はみられません。筋緊張や、自律神経異常、免疫異常などが見られることもありますが、どれも激痛を説明するのに十分な異常ではありません。
このことが示すのは、線維筋痛症の痛みは、身体の痛みではなく、脳が作り出した痛みだということです。そして身体に現れている異常は、痛みの原因ではなく、痛みがもたらすストレスの結果だということです。
線維筋痛症の患者は、痛む手足を切り離したいと感じることもありますが、もし仮に切り離したとしても、手足の痛みは治まらないでしょう。
痛んでいるのは肉体ではなく、幻肢痛の場合と同じ「バーチャルボディー」であり、手や足を文字どおり切り離しても、実際に痛んでいる幻肢としての手や足は存在したままだからです。
ラマチャンドランが研究した幻肢の症状には、激痛だけでなく、他のさまざまな感覚異常の場合もありました。
動く幻肢は奇怪だが、さらに異様な現象もある。多くの幻肢患者が、まったく反対に、幻肢が麻痺していると言い、「凍りついているようです、先生」、「コンクリートの塊のなかにあるみたいです」と言う。なかには幻肢がねじまがって、非常な痛みをともなうおかしな位置に固定されてしまっている人もいる。(p57)
言いかえれば麻痺が学習されて、患者の身体イメージを構築する回路に刻印されたのである。のちに腕が切断されたとき、その学習された麻痺が幻肢にもちこされ、幻肢が麻痺していると感じられるようになった。(p58)
幻肢の症状は、痛みだけでなく、麻痺しているとか、凍りついているといった、さまざまな感覚異常も含まれていました。これもやはり、身体そのものには異常はないのに、脳のバーチャルボディーがおかしくなってしまっていたせいでした。
同様のことは、線維筋痛症の近縁の疾患であり、やはり検査をしても詳しい異常がほとんど見られない病気である慢性疲労症候群(CFS)の身体症状にも当てはまります。
興味深いことに、慢性疲労症候群の研究者たちは、患者のヘルペスウイルスや疲労因子FFなどの反応を調べたところ、慢性疲労症候群と急性疲労とでは、まったく異なる違いが見られることに気づきました。
慢性疲労症候群の患者では、疲労マーカーの数値は上昇しているどころか低下していて、身体は完全に休まっている、ということがわかったのです。
これは、先程の神経障害性疼痛の場合と同様です。すなわち「体が治ってからずいぶん経つというのに」「患者は脳に問題があるのに、体に問題があると思い込む」ということです。
身体はもう存在していないのに、脳が作り出した「バーチャルボディー」が激痛を感じ続けているのが幻肢痛なら、身体そのものには異常がないのに「バーチャルボディー」が激痛にさいなまれるのが線維筋痛症、疲労にさいなまれるのが慢性疲労症候群だといえます。
これらはいずれも、身体イメージ障害の一形態とみなすことができるでしょう。
解離性障害―脳の地図が失われた病
このように、身体そのものには異常がないにもかかわらず、脳の「バーチャルボディー」が損なわれるために原因不明の異常を感じる、さまざまな病気が存在します。
「バーチャルボディー」についての理解を深めた上で、改めて解離性障害について考えるなら、単に「鏡が怖い」という症状にとどまらず、解離性障害にまつわる他のさまざまな不可思議な現象を過不足なく説明しきることができます。
たとえば、冒頭で引用した柴山雅俊先生による説明では、解離性障害の人が「鏡が怖い」と感じる理由は二つありました。
一つ目は、すでに見たとおり、「鏡を見てもそこに映っているのが自分の姿であるという実感がない」ことでした。
そして二つ目は、「鏡に自分以外の何か、普通は映らないものが映っているような気がする」とか「自分の背後に何かがいるのが映っていそうでとても怖い」ということでした。
これら二つの特徴を改めて、「バーチャルボディー」という脳の地図の障害として見ていくと、解離性障害の本質が見えてきます。
愛着は脳の地図をマッピングする
まず、一つ目の「鏡を見てもそこに映っているのが自分の姿であるという実感がない」については、自分の肉体は存在しているのに、「バーチャルボディー」、すなわち脳の地図が失われている状態だとみなせます。
脳の地図をマッピングするのは、すでに見たとおり、幼少期の養育者との触れ合い、つまり愛着(アタッチメント)です。
わたしたちの脳は、体への刺激を通して脳の中の地図が、実際の体の位置と重なるよう、位置情報を補正していきます。
そして、ドナルド・ウィニコットが述べていたとおり、その位置情報の補正能力、すなわち「精神が宿る場所として体を感じる能力」の基礎になるのが、養育者との愛着なのです。
愛着の形成パターンは、これまでの記事でも繰り返し説明したきたように、おおまかに分けて4つのパターンが知られています。
親子の愛情に満ちた触れ合いを経験した子どもは「安定型」となり、脳マップと肉体の位置情報はしっかりと一致して安定したものとなります。
親による過干渉を経験した子どもは「抵抗型」(不安型)となり、脳マップが過敏になります。ちょっとした刺激に過剰に反応してしまうようになり、身体イメージがゆがみやすくなります。
親が無関心で共感が欠けていると子どもは「回避型」になり、脳マップの位置補正が希薄になります。この稀薄さは身体イメージが薄れる現実感喪失や、離人症状として表れます。
さらに、虐待などの極端な環境で育つと「無秩序型」になり、鏡に映った自分がわからないなどの、極度の身体イメージの喪失が見られます。
ヴァン・デア・コークが述べていたように、恐怖に対処する中で、自己認知の脳領域の機能を停止し、脳マップを身体から切り離すことを学ぶからです。
脳マップ、すなわち「バーチャルボディー」を身体から切り離すこと、これこそが「解離」です。
背後からの視線の正体は何か
脳の「バーチャルボディー」を肉体から切り離すことを学んだ解離性障害の人たちは、奇妙な症状も経験します。
それが、鏡が怖いと感じる二つ目の理由として挙げられていた、「鏡に自分以外の何か、普通は映らないものが映っているような気がする」とか「自分の背後に何かがいるのが映っていそうでとても怖い」といった感覚です。
解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)によると、解離性障害の患者は、こうした背後から見られているような感覚、すなわち被注察感を日常的に経験しています。
家のなかにひとりでいるとき誰かがいるという気配を感じる。圧倒的に多いのは背後空間であるが、だいたい一、二メートルくらい離れた斜め後ろに位置する。
ときに自分のすぐ後ろで背中に接するほど近くに誰かがいる気配を感じる。
…必ずしもつねに恐怖の対象というわけではない。まれにその他者が「自分自身のようだ」と表現することもある。(p67)
すでに見たように、鏡に自分が映っているのがわからない、という状態は、脳の内側前頭前皮質を人為的に停止させることで再現できましたが、背後から視線を感じる、という症状もまた、実験室で再現されています。
オリヴァー・サックスの見てしまう人びと 幻覚の脳科学[Kindle版]にはこう書かれています。
2006年にオラフ・ブランケとその同僚(シャハル・アルジーら)が、癲癇の外科的手術を受けるべきと診断された若い女性について、左側頭頭頂接合部を電気的に刺激することで、予想どおりに「影人間」を誘発できたことについて記述している。
女性が横になっているとき、この領域を軽く刺激すると、彼女は誰かが背後にいると感じた。
刺激を強くすると、その「誰か」は若いけれども性別はわからず、自分自身と同じ位置に横になっている人だと、はっきり説明できた。(p341)
この実験では、脳の左側頭頭頂接合部という部分を刺激することで、背後から見られているという感覚を再現することができました。
サックスは、持ち前に分析力によって、こうした背後からの気配や視線は、幻肢と同様に「バーチャルボディー」がずれた状態であることを目ざとく見抜いています。
このように、この症例では「他者」の要素だけでなく、「自己」の要素もあって、影人間は彼女の姿勢を模倣また共有している。
身体イメージの障害と「存在」の幻覚には何らかのつながりがあるかもしれないという考えは、アランケらが2006年の論文に書いているように、早くとも1930年にはエンゲルトとホッフによって示されている。
エンゲルトとホッフはこう書いている。「最終的に大勢の幻覚は消えて、次に患者が『忠実な友』と呼ぶものが現れた。
患者がどこへ行こうと、左に並んで歩く誰かが見える。……その友が現れた瞬間、左半身の違和感が消えた」。
そして「この『友』のなかに独立した左半身があると考えてもまちがいではないだろう」と結論づけた。(p342)
サックスは、「身体イメージの障害」、つまり「バーチャルボディー」の異常と、背後からだれかに見られている影人間、という現象にはつながりがあるのではないか、とする研究者の意見を紹介しています。
ユンゲルトとホッフが記録した症例では、身体から切り離された「バーチャルボディー」は、あたかも「並んで歩く友」のような他人として認知されました。
脳の左側頭頭頂接合部を刺激する実験で、女性が、自分の背後にある別のだれかの存在を感じたのと同様です。
この現象は、危機的状況下で経験される「サードマン現象」とも非常に似通っています。「サードマン現象」では、遭難などで生命の危機を経験したとき、そばにだれかがいるかのようなありありとした気配を感じるというものでした。
そして、何よりも、解離性障害や解離性同一性障害の人たちが経験する、だれかに見られているという感覚、いわゆる被注観感と、あまりにも類似しています。
解離性障害の人たちは、「鏡に自分以外の何か、普通は映らないものが映っているような気がする」とか「自分の背後に何かがいるのが映っていそうでとても怖い」といったことを述べていましたが、この背後にいる存在とは何か、もうおわかりでしょう。
柴山雅俊先生は、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)の中で、解離性障害の人たちが経験する背後からの視線の正体は、「存在者としての私」から分かたれた「眼差す私」である、と述べています。
「眼差す私」は、世界のなかに位置づけられた身体から遊離し、俯瞰的位置から世界と「存在者としての私」を眼差す。
基本的に「眼差す私」は周囲空間りいかなる空間にも位置づけられうるが、身体の後上方に位置づけられることが多い。…「眼差す私」は本来、患者を取り巻く空間に魂のように偏在しうる。(p91)
彼らが背後にいるように感じていた「何か」とは、文字どおりの肉体から解離させ、切り離した自分の「バーチャルボディー」だったのです。
サックスによると、影人間を誘発する実験を行ったオラフ・ブランケは、身体イメージ障害にはさまざまなタイプの症状が見られると述べています。
ブランケらは、2003年に身体イメージあるいは「身体認識」の障害について書き、なくなった身体部位があるような感覚、身体部位の変形(拡大または縮小)、部位の転位ままたは切断、幻肢、余剰幻肢、自分自身の体の自己像幻視、「存在の感覚」など、さまざまなタイプがありえると述べている。(p343)
解離性障害では、自分の身体が変形しているとか、内部に違和感を感じるといった体感異常(セネストパチー)がしばしば見られます。
そして、自分を背後や頭上から見ているかのように感じる自己像幻視、逆にだれかに見られているかのように感じる存在の感覚もまた、解離性障害によく見られる症状です。
解離性障害とは、幼少期の愛着という、自己感覚の基礎が十分育まれなかったがために、バーチャルボディーの位置合わせが難しくなり、身体から切り離されて「解離」してしまいやすいことで起こる問題なのです。
体外離脱―切り離されたバーチャルボディー
解離性障害の人において、「バーチャルボディー」が身体から切り離されてしまう経験の最たるものが、いわゆる「体外離脱」や「幽体離脱」と呼ばれるものでしょう。
「体外離脱」や「幽体離脱」は性的虐待は犯罪被害などの極限状況で、身体からあたかも魂が抜け出したかのように、意識が上空に上り、離れたところから自分の身体を見ているように感じられる体験のことです。
「体外離脱」はまた、極限状況だけではなく、睡眠中にも生じることがあり、睡眠麻痺(金縛り)やナルコレプシーなどの睡眠障害と関係していることもあります。
体外離脱体験は、脳科学に詳しくない人からすれば、スピリチュアルな体験かもしれませんが、それは幻肢痛がかつて誤って魂が存在する証拠とみなされていたのと同じです。
幻肢痛の見えない手足も、解離性障害の体外離脱も、魂のように思えるのは脳が作った「バーチャルボディー」であり、感覚が遮断されることで、実際の身体と「バーチャルボディー」の位置がずれたときに生じる現象です。
解離の舞台―症状構造と治療に書かれているとおり、体外離脱は、先ほどの影人間実験と同じ、脳の側頭頭頂接合部への刺激によって実験的に誘発できることがわかっています。
オラフ・ブランケは2004年に、体外離脱体験が見られる脳損傷患者は共通して側頭頭頂接合部(temporo-parietal junction : TPJ)近傍に損傷が見られると報告した。
右側のTPJを電気刺激すると体外離脱体験が生じるとされ、行為を自ら制御しているという感覚をもてない場合には、この脳部位の活動が増加することが知られている。(Blanke et al.2002)。
つまり右側のTPJは自己主体感(sense of self agency)の低下と関係している。
また左側のTPJの電気刺激によって誰かが自分の後ろにいるという「幻の影の人(illsory shadow person)」の感覚が生じるという報告もある(Arzy et al.2006)。
一般的に右側のTPJは他者視点でのイメージ生成に関わり、左側のTPJは自己視点でのイメージ生成に関わるとされる。(p74)
影人間による誰かに見られている感覚と、体外離脱とは、ともに左右の側頭頭頂接合部が関わる「バーチャルボディー」のずれなのです。
トラウマ研究の専門家ベッセル・ヴァン・デア・コークは、自身も犯罪被害に遭ったときに体外離脱体験を経験していますが、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、こうした現象にはみな「自分の体とのつながり」を感じられる能力が関係していると述べています。
失感情症、解離、機能停止はみな、私たちが意識を集中させて、自分が感じていることを知り、自分を守る行動をとれるようにしてくれる脳組織と関連している。
こうした重要な組織が逃避不能ショックを加えられると、困惑と動揺が起こりかねない。
あるいは、私たちは自分の体とのつながりを失ってしまうかもしれず、
これには体外離脱体験(自分自身を遠くから見ているという感覚)が伴うことも多い。
別の言い方をすれば、トラウマによって人は、自分の体が誰か別の人の体であるかのように、あるいは体がないかのように感じてしまうのだ。(p407)
極限状況に直面し、逃避不能ショック、つまり、どうあがいても痛みから逃れられないまでに追い詰められたとき、人は、自分の「バーチャルボディー」を肉体から切り離してしまうことで、痛みを感じないよう身を守ることがあります。
痛みなどを感じないよう、感覚を遮断してしまうということは、位置情報が取得できなくなるということを意味するので、「バーチャルボディー」は迷子になり、実際の身体の位置とずれてしまい、あたかも背後や頭上に浮かび上がったかのように感じられます。
歯医者で麻酔をして痛みの感覚を遮断したときに、すぐに「バーチャルボディー」にゆがみやずれが生じるように、脳が感覚遮断をしたときも、即座に「バーチャルボディー」の位置がずれて、体外離脱が生じるのです。
体外離脱のメカニズムについては以前の記事でも扱いました。
解離性同一性障害(DID)の別人格とは何か
解離性障害の人が経験する解離現象のもう一つの究極の形は、解離性同一性障害(DID)の人に特徴的な多重人格でしょう。
多重人格や人格交代というと、あまりに奇妙でオカルトチックな体験であるかのように思われがちですが、これもまた切り離された「バーチャルボディー」が関係していることは、これまで見てきたことから明らかです。
解離性障害の人が感じる背後からの気配は、肉体から切り離されて位置がずれた「バーチャルボディー」である、ということを考えましたが、位置がずれた「バーチャルボディー」は、背後にいる他人や、並んで歩く友、あるいはサードマン現象として認識されることもありました。
つまり、肉体から切り離された「バーチャルボディー」は、自分ではない別のだれかのように感じられるということです。
オリヴァー・サックスは、見てしまう人びと 幻覚の脳科学の中で、幻肢痛などの、肉体から切り離された「バーチャルボディー」は、自分とは無縁の無生物のように感じられる場合があると述べています。
「影」と「分身」―身体と身体イメージのゆがみによる幻覚―には、もっと奇妙な世界がある。
手足や体の一部が神経や脊髄の損傷で「生気を奪われる」と、生気を奪われた部位自体が、自分とは無縁の生きていない無生物に感じられることがある。(p339)
さらに、自分とは違う無生物に思えるだけでなく、別のだれか、何者かに感じられることもあります。
以下の見てしまう人びと 幻覚の脳科学のオリヴァー・サックスの説明の「幻肢」を「別人格」に置き換えて読んでみると、不思議なほどしっくり来ることに気づくでしょう。
幻肢は、自然な形ある住みか(身体)をなくした、あるいは切り離された、身体イメージの一部だと言えるかもしれない―そしてそれ自体が外在するものとして、本人を邪魔したり惑わしたりすることもありえる(…)。
迷子の幻肢は(たとえ話を許されるなら)新しい住みかを欲しがり、適切な義肢がそれになるのだろう。
大勢の患者から、夜には幻肢に悩まされるが、朝になって義肢を装着した瞬間に幻が消える―つまり、義肢のなかに消えて完璧に融合して、幻肢と義肢が一つになる―ので、ほっとすると聞いたことがある。(p331)
解離性障害の別人格とは、脳が感覚を遮断することによって、自己の「バーチャルボディー」から切り離された、身体イメージの一部なのです。
耐え難い経験に直面したとき、脳はトラウマ記憶を隔離して、トラウマを経験した「バーチャルボディー」の一部を切り離します。
すると、自己の脳の地図から切り離された「バーチャルボディー」の一部は、自分とは別の何か、「外在するもの」として迷子になり、「本人を邪魔したり惑わしたりすることもありえ」ます。
そのような迷子になった「バーチャルボディー」の一部、つまり交代人格は、「新しい住みかを欲しが」っています。
幻肢の場合は、新しい住みかとして、義肢をあてがえば、その中にすっぱりおさまって、再び自分の「バーチャルボディー」と一つになって感じられます。
では、解離性障害の人たちの迷子になった「バーチャルボディー」、つまり、身体から切り離されて背後に漂っている交代人格に、「新しい住みか」を与えるにはどうすればいいのでしょうか。
バーチャルボディーに「住みか」を与える
いち早く幻肢痛のメカニズムを発見したV・S・ラマチャンドランは、「バーチャルボディー」の手術という前代未聞の治療を行った先駆者でもありました。
脳は奇跡を起こすは、今ではよく知られるようになった、ラマチャンドランが考案した奇想天外なトリックのごとき治療法、すなわち「ミラーボックス」療法についてこう書いています。
ラマチャンドランは患者の脳をだます鏡の箱(ミラーボックス)を発明した。
なんでもないほうの手を鏡で映せば、患者には切断された手が「復活した」ように見えるというものだった。(p217)
すでに見たとおり、サックスは、幻肢は迷える身体イメージの切れ端であり、それを治療するには「新たな住みか」を与えるしかないと述べていました。
ラマチャンドランは、ミラーボックスを用いたトリックによって、脳をだますことによって、迷子の幻肢に「新たな住みか」を与えることに成功しました。
彼は、健康なほうの手を鏡に移し、あたかも失われた手がよみがえったかのように錯覚させることで、切り離されていた幻肢の「バーチャルボディー」が、本来手があるべき場所に戻れるようにしたのです。
ラマチャンドランは、何人もの患者にこの箱を使った治療をおこなった。
そのうちの半数が、幻肢痛が消えたり、凍りついた感覚がなくなったり、幻肢をコントロールできるようになっている。
ほかの科学者も、ミラーボックスの訓練によって患者の症状が回復すると発表した。
fMRI脳スキャンでも、幻肢の運動マップがしだいに大きくなり、切断にともなって縮小していたマップがもとの大きさにもどって、感覚マップと運動マップが健全な状態に回復することが確認されている。(p219)
わたしたちの脳が、「バーチャルボディー」の手足と、実際の身体の手足の位置情報を同期する方法のひとつは、視覚によって、空間的位置を一致させる、というものでしたが、ミラーボックス目を通して、あたかも健康な手がよみがえったかのように錯覚させるのです。
これと似ているのが、幼少期にトラウマを抱えた子どもに対する、鏡を用いたエクササイズです。
トラウマによる解離の場合は、「バーチャルボディー」の位置がずれているというより、自己認識能力や自己同一性の感覚そのものが稀薄なせいで、鏡に映っている自分を自分と認識することにも苦労します。
それで、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ベッセル・ヴァン・デア・コークは、鏡を用いて、まず自分を認識する方法を学べるよう助けるといいます。
私たちはじつに単純な方法で始める。鏡を使うのだ。子供は鏡を覗き込むと、悲しいときや怒ったとき、退屈したとき、がっかりしたときに自分がどんなふうに見えるか、自覚しやすくなる。
そのあと私たちは、「そういう顔を目にしたときにどう感じますか?」と問う。脳はどのようにできているかや、情動は何のためにあるか、体のどこで認識されるか、どうすれば自分の感情を周囲の人々に伝えられるかを教える。(p593)
ミラーボックスによって幻肢に新しい住みかを与えるように、鏡を用いたエクササイズは、稀薄になっているバーチャルボディーが住むべき、自分の身体という住みかを案内するのです。
自分の体に安心して収まる
一方で、解離性障害の人たちにおいて、「バーチャルボディー」が稀薄で、身体から切り離されてさえいるのは、具体的な理由あってのことでした。
つまり、逃げることもできないほど追い詰められ、逃避不能ショックを経験したがために、危険な住みかである肉体からバーチャルボディーを切り離し、痛みから身を守るべく、自己認知の脳領域を停止させることを自ら選んだのです。
そうであれば、ただ「バーチャルボディー」のイメージを強化するだけでなく、迷子になった「バーチャルボディー」が、安心して肉体に戻ってこられるよう、安全な住みかのイメージを持てるように助けなければなりません。
もう危険な状況ではなく、文字どおりの身体と、脳の「バーチャルボディー」の位置情報を同期させても大丈夫なのだ、ということを学ばなければなりません。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、そのことを「自分の体に安心して収まっていられるように」すると表現しています。(p454)
そのために用いられている方法のひとつはヨーガです。ヨーガを用いたエクササイズでは、自己感知能力に関わる脳領域が活性化することが確認されました。それは鏡の中の自分がわからなかった人たちでほとんど停止していた脳領域です。
幼少期に深刻なトラウマ体験をした6人の女性を対象とする、私たちの最新のヨーガ研究でも、ヨーガを20週間実習すると、基本的な自己システムである島と内側前頭前皮質の活動が増すことを、初めて示す結果が出た。(p452)
ヨーガによるエクササイズが自己認識能力を強化する、というと不思議に思えるかもしれませんが、ここで行われているのは、トラウマ治療に焦点を当てて組まれた特別なプログラムです。
このヨーガのプログラムでは、自分にとってとりわけ難しいポーズをとり、そのポーズによって引きおこされる強烈な感情のフラッシュバックに対処し、呼吸を整えることなどを学びます。
最初の研究では、骨盤に関わるポーズが性的暴行のフラッシュバックを引き起こしたため、半数もの女性が脱落してしまったといいます。それは、他のあらゆる治療法の研究よりも高い割合でした。
しかし、プログラムが改善され、ゆっくりとカタツムリのようなペースで行うようになってからは、ほとんど脱落者はいなくなりました。
無防備で危険を感じるようなポーズでも、呼吸を整え、フラッシュバックを抑える手法を学ぶことで、迷子になり切り離されていた「バーチャルボディー」が、身体に再び収まっても安全なのだ、と感じるよう助け、本来の住みかに戻ってこられるようにするのです。
このほかにも、マインドフルネスによって今・ここにいる感覚に意識を集中し、自分の身体を実感することや、グラウンディングによって地に足がついている感覚を取り戻すことが、バーチャルボディーと身体を結びつける助けになることもあります。
また、切り離されたバーチャルボディー同士が、互いにトラウマを抱えて反発しあっている状態にあるなら、内的家族システム療法(IFS)を通して、「セルフ」(自分そのもの)と呼ばれる、すべての人格部分を包み込む「住みか」を形成できるように助けます。(p466,623)
VRで慢性疼痛を治療する
「バーチャルボディー」の障害には、そのほかにも、慢性的な痛みを伴う神経障害性疼痛や線維筋痛症のような慢性疼痛もありました。
ミラーボックスを用いた治療法は、片手や片脚のみに生じた幻肢痛を治療するのに役立ちましたが、両手や両足など、もっと広い範囲が痛む場合にはどうすればいいのでしょうか。
オリヴァー・サックスは、見てしまう人びと 幻覚の脳科学[Kindle版]の中で、もっと広範囲な幻肢痛に対する治療法として、バーチャルリアリティ(VR)を用いた研究を紹介しています。
ジョナサン・コールらは、幻肢痛を減らすためのバーチャルリアリティ・システムを試していて、同じようなことを観察した。
…被験者の大半は、自分の動きを画面上のアバターの動きと連動させることを学習し、動作の主体である感覚、つまり当事者意識を覚えたので、バーチャルな手足を驚くほどの繊細さで動かす(たとえばバーチャルのテープルに置かれているバーチャルなりんごに手を伸ばしてつかむ)ことができた。
…この、自分が動作の主体であり、意図して行っているという感覚とともに、幻肢痛が軽くなることも多かった。(p337)
ミラーボックスの場合は、健康な方の手足を鏡に映す必要がありましたが、それが無理でも、バーチャルリアリティ(VR)を使えば、仮想空間に入り込み、バーチャルな手足を自分の手足に見立てることができます。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、ノッティンガム大学のキャサリン・プレストン博士の研究では、VRを用いて、想像上の身体のストレッチをしたところ、手や足や腰に慢性疼痛を抱える人のうち85%で、痛みが半減したそうです。(p55)
日本でも、2016年に東京大学がVRを用いた幻肢痛の治療の成果を発表しています。
バーチャルリアリティを用いた幻肢痛の新しい治療 | UTokyo Research
研究グループは、幻肢をあたかも自らの意思で動かしていると錯覚する仮想現実(バーチャルリアリティ)システムを用いて、幻肢痛が改善されるか否かを検証しました。
この検証に先立って、脳内で幻肢の運動表象が作られる度合いを両手干渉課題と呼ばれる方法により評価しました。
その結果、バーチャルリアリティシステムを用いると、患者さんの幻肢痛が和らぐだけでなく、幻肢の運動表象と痛みの改善には有意な相関関係がみつかりました。
また、オーストラリアの神経科学者G・ロリマー・モーズリーは双眼鏡を用いた実験で「バーチャルボディー」の大きさが痛みの強さと関連していることを発見しました。
興味深いことに、モーズリーらは、手のイメージが拡大されると痛みが増大し、縮小されると減退することを発見した。
…この注目すべき実験も、痛みの経験が痛覚受容体からの感覚入力のみによって引き起こされるのではなく、身体イメージにも影響されることを示している。
双眼鏡を逆側から覗くことで、視覚入力が縮小されたために、苦痛が「より小さな領域」から生じていると判断すると、脳は「ダメージも小さい」と結論づける。(p53-54)
不思議なことに、自分の身体が大きく見える場合は、痛みは増大し、小さく見えるときには痛みは減少しました。
これは、「バーチャルボディー」が、視覚によって補正されるというここまで見てきた理解と一致します。そらに、視覚的な補正が、痛みなどの感覚まで影響を与えることを示しています。
解離性障害のような、「バーチャルボディー」が稀薄な人は、自尊心が低く、自己イメージがいわば「小さい」と同時に、痛みなどの感覚が麻痺して感じにくい傾向がありますが、両者は、おそらく互いに関連しているのでしょう。
逆に、境界性パーソナリティ障害のような、我が強すぎて、自己イメージが「大きすぎる」人が、痛みなどの刺激に過度に敏感なのも、「バーチャルボディー」の大きさと痛みの強さの相関関係を示唆しているように思えます。
いずれにせよ明らかなのは、視覚的な身体イメージのリアルタイムの変化によって、痛みの経験が緩和し得るということだ。
この事実は、身体の痛みという感覚の形成が流動的なものであり、視覚入力に基づいてつねに作り変えられていることを、そして、身体の視覚イメージの変更によって、痛みの神経回路を変えられることをわたしたちに思い出させてくれる。(p55-56)
視覚化によって「バーチャルボディー」を小さくできれば、痛みも和らぐかもしれない、というこれらの研究は、近年、Oculus RiftやVIVEのような、ゲーム用途以外にも活用できるVR機器が数多く発売されてきているので、今後さらに進展していくことでしょう。
脳科学は「内なる地図」の障害を明らかにした
この記事では、「鏡が怖い」という不可思議な現象から出発して、解離性障害とバーチャルボディーをめぐる長い旅をたどってきました。
「バーチャルボディー」という、わたしたちの内なる地図の発見は、これまで理解が困難で、単なる心の問題や気にしすぎとみなされてきた幻肢痛、神経障害性疼痛、拒食症、解離性障害、体外離脱体験などの奇妙な現象について、ようやく理解の手がかりを与えてくれました。
見てしまう人びと 幻覚の脳科学で、オリヴァー・サックスは、そのことを感慨深げにこう綴っています。
1990年より前、幻肢差の他の身体イメージ障害の分野は、患者の説明と行動から現象学的研究するしかなかった。そのような疾患はしばしばヒステリーや過剰な想像のせいにされていたが、精密な脳画像診断の開発により、そのような奇妙な体験の根底にある脳内(とくに頭頂葉の各領域)の生理学的変化が示されるようになって、事情が変わった。
この技術とラマチャンドランのミラーボックスのような巧妙な実験のおかげで、身体性の行為主体性の、そして自己の神経基盤がはっきり見えてきて、純粋に臨床的な発想と、ときに純粋な哲学的な概念を、神経科学の領域に持ち込むことができるようになったのだ。(p339)
かつては、「ヒステリーや過剰な想像のせいにされていた」解離症状や実体のない痛みは、脳の「自己の神経基盤」という実体を有する、身体イメージ障害という新たな分野の病気だったのです。
解離性障害の人たちが感じる「鏡に映る自分が誰だかわからない」という奇妙な感覚は、わたしたちの内なる魂とみなされてきた「内なる地図」の障害です。
わたしたちは、幼いころの養育者との触れ合い(アタッチメント)を通して、内なる地図のマッピングの仕方を学びます。
未知なる世界に旅立つ人たちは、広い大地を冒険するために、まず地図の描き方を学ばねばなりません。
母親が赤ちゃんを優しく抱くとき、親は子どもに、人生の旅路における地図の描き方を教えているのです。
不幸にして幼いころに愛着を育めなかった人たちが、鏡の中の自分を認識できないということは、自分がこの世界の中のどこにいるかがわからない状態、つまり内なる地図がないために、居場所がわからなくなった状態です。
そのような場合、もはや地図の描き方を教えてくれる親はいないので、自分で、地図の描き方を学んでいくしかありません。
それこそが、この記事で見てきた鏡を使ったエクササイズであり、自分の中に収まっていることを学ぶヨーガやマインドフルネスなのでしょう。
今はまだ、研究が始まったばかりですが、今後、脳科学者や神経科学者たちを通して、次々に新しい事実が明らかになり、身体イメージ障害における、内なる地図を作り直していく治療法が発見されていくのを期待を込めて見守りたいと思います。