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ダニエル・タメットが語る「ぼくと数字のふしぎな世界」―人間の本質は無限の多様性の中にある

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10代のころぼくは、この数が大好きなんだ、と同級生に打ち明けたことがある。

…彼女は考えながら答えた。ぼくの質問の意味がよくわからないようだった。「数は数でしょ」と彼女は言った。

たとえば333と14は、君にはなんの違いもない? 違いはなかった。

じゃあπをどう思う? ぼくはなおも訊いた。この不思議な数についてちょうど授業で学んだばかりだった。美しい数字だとは思わない? (p149)

キュメンタリー「ブレインマン」で円周率π(パイ)を2万2514桁も暗唱して一躍有名になったアスペルガーまたサヴァンのダニエル・タメット。

彼は、冒頭に引用したぼくと数字のふしぎな世界の中で、自分が子どものころから抱いてきた数字に対する愛着、とりわけπという円周率に対する愛着について語っています。

「πをどう思う?」と聞かれたら、たいていの人は戸惑ってしまうでしょう。タメットのように、数字に対して、あたかも友だちに抱くかのような親しみを感じる人はなかなかいません。

数字や文字に色があるわたしからしたら、πの3.14という数字の組み合わせは、からりとした夏の屋台でひるがえる かき氷の旗の配色にそっくりなのですが、そんな突拍子もない連想はともかく、タメットは3.14から果てしなく続くπの数列の魅力についてこう熱弁します。

完全な円には、考え得るあらゆる数字の連なりが入っている。

πのどこかに、少数点以下何兆桁かのあたりに、五が100個も連続しているところがあるかもしれない。ゼロと一だけが交互に1000個も続くところがあってもおかしくない。

でたらめに見える数字の泥沼の、思いもよらないほど深いところには、ビックバンが起きてからいままでの時間より長い時間をかけて計算すれば、123456789……の連続が1億2345万6789回立て続けに現れるところが見つかるかもしれない。

…循環もせず、割り切れることのない唯一の数がπなのだ。(p150)

πという数字は、永久に割り切れることなく、循環することもなく無限に続いていきます。そこには特定のパターンはありません。あらゆる可能性が秘められていて、あらゆる多様性が含まれています。

もしも今わたしが書いているこの文章を暗号化して数列に置き換えたとしても、それとぴったり一致する数の並びが、無限に続くπの連なりのどこかに見つかることでしょう。

ぼくと数字のふしぎな世界は、そんな無限の可能性を秘めたπをこよなく愛するダニエル・タメットが、数字という窓を通して、この世界に満ちる無限の多様性をかいまみせてくれるエッセイ集です。

シェイクスピアが数字のゼロに心を奪われたこと、トルストイが微分積分の考え方を歴史に応用したこと、詩や俳句に素数が巧妙に織り込まれていることなど、今まで考えもしなかったような観点から想像力を刺激してくれる このユニークな本の感想を書きたいと思います。

これはどんな本?

ぼくと数字のふしぎな世界は、ダニエル・タメットによる三冊目の本です。

一冊目のぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)は自伝、二冊目の天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界は自分探しの医学・心理学的な考察、という側面が強い本でしたが、今作は、タメットが大好きな数学をモチーフにしたエッセイ集です。

タメットは、この本を『「人生の中にある数学」にまつわる24篇のエッセイを集めたもの』と紹介しています。(p3)

三作目にしてはじめて、単なる自分史の振り返りでも、自分探しの資料のコラージュでもなく、数学をこよなく愛してきたタメットにしか紡げない、彼ならではの芸術的な感性のこもった独創的な作品が生み出されたのを感じました。

心理学の本などで時々見る話題が多いものの、そのどれもがタメット以外には思いもよらないような語り口から考察されているのがとても新鮮で、タメットがまぎれもなくザヴァン、つまり類例のないユニークな人であると感じさせてくれる すばらしい作品です。

文学と数学はつながっている

この本テーマの一つは、文学と数学とを橋渡しすることです。

ダニエル・タメットがサヴァンだと言われる理由のひとつは、彼が数学的な才能だけでなゆく、語学的な才能も持ち合わせている稀有な人だからです。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中でタメットはこう言っていました。

十二の言語に通じていて、新しい言語でも一週間あれば高度な会話がこなせるまでになり、しかも自分で言語まで作れてしまう(p167)

ふつう、語学は文系、数学は理系などと分けられ、互いに相容れない才能とみなされがちですがタメットにそれは当てはまりません。

それ以前に、タメットは、言語的能力と数学的能力は、世の中の人が思うほどかけ離れているものではないと考えています。

ぼくと数字のふしぎな世界で彼はこう書きます。

ネミロフスキーとフェラーラが言うように、作家と数学者には、(この二つの職業は比較できないと言われることが多いが)、考え方や創作法において共通点がたくさんある。(p4)

言葉を操る作家と、数字を操る数字者。この二つの職業は、「考え方や創作法において共通点がたくさんある」というのがタメットの意見です。

だからこそ、タメットのこのエッセイ集は、数学と文学を橋渡しする話題がとても豊富です。

0になったシェイクスピア

たとえば、タメットは、かの有名な劇作家、ウィリアム・シェイクスピアが、ゼロという数学的概念に魅了されていたことに注目しています。

ウィリアム・シェイクスピアは、小学校の算術の授業で数字のゼロを学んだ初めての世代だ。

幼いころにゼロを知ったことでどんな変化が起きたのか、それを考えるのは楽しい。(p67)

わたしたちにとって、ゼロという概念はごくごく当たり前のもので、幼いころから慣れ親しんできたものかもしれません。0という数字なくしては、簡単な算数さえ成り立ちません。

しかしシェイクスピアのより前の世代は、ローマ数字を用いていました。ローマ数字は現在でもナンバリングに用いられることがありますが、1,2,3,4,5はそれぞれI II III IV V…といった仕方で表記されます。

ローマ数字にはもともとゼロを表す特別な文字はなく、10はX、100はC、1000はMでした。だから3000はMMMと表記されました。0という概念の居場所はなかったのです。

そんな時代に、ゼロという概念を幼い時期に学ぶ最初の世代となったシェイクスピアは、その摩訶不思議な数字に強く心を揺さぶられたのではないか、とタメットは想像します。

タメットによれば、シェイクスピアは『冬物語』のポリクシニーズにこんな台詞をあてがいました。

したがって、ひとつのゼロが
桁を増やすように、私も
これまで述べた何千というお礼の言葉に、もうひとつ
「ありがとう」を加えよう。(p72)

ローマ数字では3と3000には何のつながりもなく、IIIがMMMに変わるだけでした。しかし0という概念を使えば、3の後ろに0を増やすだけで、3000にも30000にもなります。

この小さな魔術師のような数字に魅了されたシェイクスピアは、作品のなかで何度も0という役者を登場させました。しまいには、自分自身をさえ0にたとえました。

しかし、シェイクスピア少年がレコードから教わったゼロに強い衝撃を受けたことがはっきりと読み取れるのは、青年になって書いた詩の中からかもしれない。

ソネットの38番には、自分と彼の愛する恋人(ミューズ)の関係を書いていて、ふたりを10の数字にたとえている。詩人がゼロで、愛する恋人(ミューズ)は一だ、と。(p73)

シェイクスピアは、作家また詩人としての自分はゼロのような存在だと考えたのでしょう。自分一人だけでは何者にもなれませんが、創作を通して、だれかの魅力を引き立て、1を10に、また100にするかのような非凡な才能を持ち合わせていたのです。

タメットは、そのほかにも、数学と文学をつなぐ興味深い話題を次々に展開します。

ロシアの作家レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、微分積分の手法をヒントにして歴史を考察しました。特定の偉人が歴史を動かすのではなく、無数の名もない人が寄り集まってできた時代の波が歴史を動かします。

歴史家が選んだアプローチの仕方が間違っているとトルストイが主張するのは、大きな戦いがほんのわずかな原因に帰することはありえないように、船の航路がほんのわずかな波に帰することはありえないからだ。

フランスの港とロシアの港のあいだの海上には、無数の点がある。

船が港に到着したのは、海上の1万5403番目の点、あるいは7万1968番目の点があったからだなどとどうして言えようか。(p183)

歴史が特定の偉人たちによってコントロールされているのではなく、無数の普通の人たちによって形作られているというのは、小さな集団が寄り集まることで一つの意志を持っているように振る舞う群知能と相通ずるところがあります。

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あるいは、人の意識とは、脳の司令官にあたるコントロールタワーが生み出すものではなく、無数の神経細胞が寄り集まったボトムアップのアプローチで生成されているという神経ダーウィニズムもほうふつとさせます。

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タメットはまた、詩が心を動かすのは、神秘的な素数のリズムが組み込まれているからだと言います。

その証拠としてタメットは、セスティーナ(六行六連体)の単語の配置が、循環小数の数字の移動とよく似ていること、また日本の伝統的な短歌や俳句が素数からなっていることを例に挙げます。

詩と素数とに深い関係があることをぼくはいつも考えているので、多くの人がその関係を意外に思うことがぼくにとっては驚きだ。

この関係は、ある意味では完璧だ、詩と素数には共通点がある。両方とも、人生のように予想することも定義することもできず、多様な意味を含んでいる。(p210)

数学は一見、芸術とはかけ離れたところにあるかに思えますが、花びらの数やパイナップルの実などあらゆるところに顔を出すフィボナッチ数列や、自然界に組み込まれているフラクタルなど、数学的な調和と芸術の美しさとは、切っても切れない間柄にあります。

わたしたちはみなある意味でサヴァン

タメットに言わせれば、数学と文学に深いつながりがあるのは、まったく違った世界に見えて、じつは同じ脳の機能を土台としているからです。

彼は、複雑な数字をすぐさま素数に因数分解できますが、それはマジックでも天才的ひらめきでもなく、ごく普通のことだと言います。なぜなら、大多数の人は、母国語を話すときに、それと同じことを当たり前のようにやってのけるからです。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界のなかでタメットはこう説明します。

数字を意味のある形として視覚化できるおかげで、ぼくは、たちまち数字を因数分解することができる。

先ほどの掛け算で例として出した6253で考えれば、ぼくはすぐにこれが13×13(169)×37の組み合わせだと「わかる」。

数をたちまち素数に分解する力は、英語が母語の話者が「incomprehensibly」という合成語を「in」「comprehend」「ly」にたちまち分解できるのと同じだ。(p171)

複雑な数字を直感的に因数分解できるのは、複雑な言葉を直感的に操れる能力と同じです。

日本語を話すわたしたちは、「すうがくてきさいのう」というような ややこしい文字の羅列を見ても、一瞬でそれを「すうがく」「てき」「さいのう」という要素に分けて理解できます。

言ってみればタメットのサヴァン的な才能は、数学を母国語として扱っているようなものです。彼にとっては、数字はひらがな、数字の集まりは単語、そして数列は文章のようなものだ、ということなのでしょう。

ニューサウスウェールズ大学のピーター・スレザクは、わたしたちが言語を使いこなすときに使っている脳の機能を、サヴァンは数字に対して用いているにすぎないと述べたそうです。

われわれ全員が、ある意味ではサヴァンであり……難しい言語を理解している。

言語を使いこなす能力には極端に高いレベルの数学的複雑さがあり、その働きをわれわれはまったく理解していない……それにもかかわらずわれわれは、難なく、無意識に、本能的に直観的に言語を操っている。

サヴァンはこれと同じことを脳の違う領域でおこなっているのだ。(p166)

冒頭で引用した、タメットがさまざまな数字やπに対して抱く親しみについてのエピソードも、これと似たものとみなせるでしょう。

わたしたちは普通、身の回りの様々な人、家族や友だちを見分け、それぞれに異なった印象を持ち、近しい人にはひときわ親しみを覚えます。

タメットはどうやら、わたしたちが友人や家族一人ひとりに対して抱く親しみを、数字ひとつひとつに対して抱いているようです。

人に対する個別の感情を、人以外の動物や物に対して抱く、というのは何も現実離れしたことではなく、顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)にはこんな例が載せられています。

顔以外の、車や犬や鳥を大量に記憶しているカーディーラーやブリーダーやバードウォッチャー、これらの特異な能力を持つ人たちは、顔を処理する脳の部位をこれらの処理にも転用しているといわれている。

それが証拠に、相貌失認になったブリーダーは、人の顔だけでなく、ブリーダーとしての能力だった犬の個体識別もできなくなっていたそうだ。(p161)

多種多様な車を見分けるカーディーラーや、数多くの動物を見分けるブリーダーは、通常は人を見分けるのに使っている脳の機能を、車や動物ひとつひとつを見分けるために用いているようです。

そうであれば、通常は身近な人ひとりひとりに親しみを抱くために用いられる脳の機能が、タメットのように数字ひとつひとつ、またときには車や動物に対して転用され、あたかも友だちや家族に対するかのような親しみを感じることもあるのでしょう。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界で、タメットは特に脳の中において、言語に特化した領域(左前頭葉)と、数字に特化した領域(左頭頂葉)が隣接していることに注目しています。

彼の場合、生まれつきの自閉スペクトラム症やてんかん発作の体質のせいで、隣り合うそれらの領域に混線(クロストーク)や過剰結合が生じ、数字をあたかも言葉のように処理できるのではないかと述べています。(p167)

なぜサヴァン症候群のダニエル・タメットは数字が風景に見えるのか
特異な能力を持って生まれたダニエル・タメットが、自閉症スペクトラム(アスペルガーやサヴァン症候群)は“普通の人”と変わらないと述べるのはなぜでしょうか。書籍「天才が語る サヴァン、

いずれにしても、わたしたちの大半が言語を難なく操れることと、数学者が数字を魔法のように操れることはそれほどかけ離れた能力ではないのでしょう。

数学というと、無機質で機械的なイメージを持つ人も多いですが、タメットは、数字に対して、家族や友人のように温かい感情を抱いているがゆえに、もっと違う見方をしています。ぼくと数字のふしぎな世界の中で彼はこう言います。

文学作品と同じように、数学的な発想は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれる。

きちんと考えられた数は、ぼくたちをよりよい人間にしてくれるのだ。(p19)

わたしたちの当たり前は他の人の当たり前ではない

タメットは、数学は「一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれる」と述べました。彼によれば、すべての数列、無限の可能性を含む円周率πのように、数学は人類の多様性を覗き見る窓になります。

彼は、数と言語という二つの得意分野を手がかりにして、わたしたちとはまったく異なる物の見方をしている人たちの文化をめぐる旅へと、読者を連れて行きます。

大きな数の概念がない少数民族

たとえばスリランカのヴェッダ族には1と2だけを表す言葉しかありません。まるで二進法の世界のようにも思えますが、彼らにとっては指の数を超える大きな数を使う機会がないのです。

スリランカに昔から住むヴェッダ族には、一(エッカマイ)と二(デッカマイ)の二つしかないという報告がある。

その数より多いときには、オタメカイ、オタメカイ、オタメカイ…と続く。さらにひとつ、さらにひとつ、さらにひとつ、という意味だ。(p35)

他方、ブラジルのムンドゥルク族は、数字が大きくなればなるほど、それを意味する言葉の音節も増えていくという独特な言語を持っています。

ブラジルのムンドゥルク族は、数と音節の数を一致させるやり方で数を表している。

一はpug、二はxep xep、三はebapug、四はedadipdipというふうに。五より多い数の数え方はない。

数と音節とを一致させるやり方はわかりやすくはあるが、明らかに限界がある。(p35)

もし100まで数える必要があれば話す側も聞く側も疲れ果ててしまいそうですが、彼らの文化では、大きな数を扱う機会がありません。

わたしたちにとっては数とは無限に桁数が増えうるものであり、もし指の数ほどしか数えられなければ、お金のやりとりにさえ苦労してしまいます。年齢さえも数えられません。

でも、世の中には、お金や年齢など気にもせず、まったく違う文化の枠組みで日々を過ごしている人たちがいることがわかります。

写真や絵がわからない人たち

タメットはまた、このブログでも以前に取り上げたピラハ(ピダハン)族に注目します。過去や未来に関する時間の概念がなく、物語や神話も持たない人たちです。

この人たちは、時間や神のような抽象的な存在について考えもしません。それだけでなく、なんと二次元的に描かれた絵や写真を理解することができません。

ピラハの人たちに絵や写真を見せてもそれがなにかわからない。彼らは写真を横向きや反対向きにして手に持つ。写っているものがなにを表しているのかわからないからだ。

絵も描けない。一本の直線すら引けない。簡単な形を正確に真似して書くことができない。そういうことに興味がないのだ。(p39)

子供のときからイラストや写真、マンガやアニメに当たり前のように慣れ親しんでいるわたしたちからすれば想像もつかないかもしれませんが、二次元的な画像を現実の身の回りの物に対応させる、というのは、決して当たり前の能力ではないのです。

神経科学者オリヴァー・サックスも著書心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界の中でそのことに触れています。視覚失認に陥っていたリリアンは、立体的な物は認識できましたが、イラストや写真のような二次元的な物は認識できなくなりました。

絵に比べて立体的な物のほうがうまく名前を言えたことから、私はまたもや、リリアンには表象に対する失認症があるのではないかと思った。

表象の認識には、ある種の学習、つまり記号体系や伝統的表現法の理解が、物の認識の場合以上に必要だろう。

だから、写真に触れたことのない原始文明の人々は、写真がほかのものの表象であることを認識できないかもしれないと言われている。(p21-22)

わたしたちが三次元のものを二次元に対応させられるのは、子どものときから、二次元的な表現に慣れ親しんできたおかげです。

サックスが別の箇所で述べているように、ジャングルなどの環境で生きる民族は、日常生活の中で遠くのものを見る機会がないために、自分を取り巻く身の回りの立体的な風景の把握に特化して、遠くのほうの平面的な風景はうまく認識できないことがあるようです。

コリン・ターンブルは『森の民』で、ジャングルを出たことのなかったピグミーの男性とのドライブについて書いている。

数キロ離れたずっと下のほうで、のんびり草を食(は)んでいるバッファローが見えた。

彼は私のほうを向いて言った。「あれは何ていう虫だい?」。私は初め理解できなかったが、すぐに気づいた。

森では視野がごく限られているので、大きさを判断するときに無意識に距離を斟酌する必要がないのだ。

……その虫はバッファローだと話すと、ケンゲは大笑いして、そんなばかばかしい嘘はつくなと言った。(p167)

遠近感がつかめず、遠くの景色にいるバッファローが虫に見えてしまうというのは、わたしたちからすればとても奇妙に思えます。けれどもこのピグミーの男性にとっては、遠くの平面的な景色を見たり、写真や絵を楽しんだりする機会はなかったのでしょう。

その代わり、自分のまわりの三次元空間、つまりジャングルのただ中で感じる音の方向や、自分の位置の把握に関しては、きっとわたしたちには真似できないほど鋭敏な感覚を持っていて、ジャングルを自由自在に動き回れるのではないでしょうか。

彼らは知能が劣っているわけではない

タメットは、このような少数民族の人たちは、決して知能が欠けているとか、賢さが足りないわけではない、とぼくと数字のふしぎな世界の中で説明しています。

ピラハのような民族は知的能力が足りないのではないかと思う人がいるかもしれないが、そんなことはない。

それを証明するためにオーストラリアのクイーンズランド州北部に暮らすグーグ・イミディル族のことを話そう。

大半のアボリジニの言語に共通することだが、グーグ・イミディル語には数を表す言葉は三つしかない。

…しかしこの人々は、自分たちの土地の景色を幾何学的に説明することができる。磁北、南、東、西が直感的にわかるので、自分のいるところに関しては卓越した感覚を持っている。(p40)

タメットによると、グーグ・イミディル族は、やはり大きな数字を扱えません。それを扱う語彙がないので、大きな数字の足し算や引き算という概念もないのです。

しかし、その分、自分の位置感覚を正確に把握するという、わたしたちが持ち合わせていないコンパスのような能力を身に着けます。その結果、面白いことが起きます。

西洋の諸国では、子供たちはマイナスの数の概念を把握するのにかなり苦労する。2とマイナス2の違いは子供たちの想像力では理解しにくい。

その点、グーグ・イミディルの子供は生まれたときから恵まれている。2は「東の二歩進む」こと、マイナス2は「西に二歩戻る」ことだと考える。(p40)

彼らには数学という概念がありませんが、数字を距離や位置として幾何学的に理解しているため、マイナスの概念を理解しやすいのです。

数字を抽象的な概念として学校で学ぶわたしたちの社会の子どもたちは、2引く3の答えを知るには、マイナスの概念を学び、-1という数字があることを知らねばなりません。

しかし数字を日常生活の中で空間的に理解しているグーグ・イミディル族にとっては、2引く3とは、2歩進んで、それから3歩戻った位置のことなのです。

タメットが、こうした例を通して明らかにしているのは、わたしたちにとっての当たり前は、別の文化で育った人の当たり前とはまったく異なるということです。

ある文化から見れば、別の文化が劣っているように思えるかもしれません。数学が発展した文化からすれば、数字を数える語彙さえもほとんどない文化は劣っている、とみなす短絡的な人もいるでしょう。

しかし、本当は別々の環境に適応して特化してきただけで、そこに優劣はありません。彼らの文化では大きな数字や二次元的画像を扱う必要がない代わりに、立体的なジャングルで生き抜く空間把握能力が求められます。

もし彼らの文化を基準にしてわたしたちの文化を見れば、ジャングルでは何の役にも立たない技能はあれど、生きていくために必須な当たり前の能力が欠けているとみなされてしまうかもしれません。

少数派を「障害者」と見なすと気づけないユニークな世界―全色盲,アスペルガー,トゥレットの豊かな文化
わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

「学習障害」は本当に障害なのか?

覚えておきたいのは、文化によって当たり前が異なり、そこに優劣はない、という、相対的な視点は、わたしたちと少数民族との違いにだけ当てはまるわけではないということです。それは、もっと身近な、この社会においても役立つ考え方です。

たとえば教養としての認知科学には、学校教育を受け読み書きのできる人と、そうでない人との考え方の違いについて書かれています。

たとえば、「綿は暖かく乾燥した地域に育つ。イギリスは寒く湿気が多い。イギリスに綿は育つか?」と尋ねられたとき、学校教育を受けた人は「育たない」と答え、読み書きができない人は「わからない」と答える傾向があるそうです。

一見したところ、学校教育を受けた人は賢く問題に正解し、読み書きのできない人はごく簡単な論理でさえもわからないのか、と感じられるかもしれませんが、そうではありません。

なぜなら、この調査が行われた当時、イギリスはインドを植民地にしていました。厳密に言えば、「わからない」と答えた人のほうが正解に近かったともいえます。

まるでひっかけ問題のようですが、冷静に考えてみて、この世の中には、一問一答の正誤問題のような状況と、複雑なひっかけ問題のような状況のどちらが多いでしょうか。

論理学は前提自体を疑うことは許されない。P→Qと言われれば、P→Qなのであり、「イギリスは寒い」と言われれば、「イギリスは寒い」なのである。

一方、日常生活では確実な前提が得られることはほぼない。こうした世界では前提を疑ったり、棄却したりすることは、けなされるどころか、慎重な態度として尊重される。

読み書きができない人が行った思考は、論理学の仮定する世界とは別の世界の中で行われたのである。(p208)

つまり、学校教育を受けた人は、一問一答の正誤問題をたくさんこなす必要がある、学校という特殊な環境に適応して、能力を特化させた人たちだったといえます。

他方、学校教育を受けておらず読み書きのできない人たちは、知力が劣っているどころか、自分たちがいる環境、つまり学校の外側にある世界、もっと複雑な問題に直面することが多い日常世界に適応して、能力を特化させた人たちだったとみなせます。

小、中学校ではそもそも論理などは教えない。何を教えるかといえば、先生が言ったことは黙って聞く、疑わない、余計なことは考えない、そういうことである(これは隠れたカリキュラムと呼ばれる)。(p208-209)

そうすると、テストの成績が高く、よい大学に進んだ人たちこそ頭が良く知力が高い人たちなのだ、とみなすロジックの誤りに気づけます。そうした人は、テストで知能を測る学校という特殊な環境に適応したにすぎません。

現に、大学を一歩出て、現実社会に足を踏み入れると、テストで好成績を収めていたエリートよりも、学校では落ちこぼれだったものの実生活に役立つスキルを磨いてきた人のほうが、より柔軟に仕事をこなせたりするものです。

学校で勉強ができる子どもは賢くて、それができない子どもは「学習障害」。本当にそうでしょうか。

じっと授業を聞ける子どもは正常で、落ち着きのない子どもはADHDという「発達障害」。本当にそうでしょうか。

学校や会社で円滑にコミュニケーションできる人は定型発達で、空気の読めない人はアスペルガーという「発達障害」。本当にそうでしょうか。

数字を何十桁も数えられる先進諸国の人たちに比べ、指の数ほどしか数えられない少数民族は知力が劣っている。決してそんなことはありませんでした。

そうであるなら、現代社会で学習障害や発達障害とされている子どもたちも、実際には、学校という特殊な環境や、多数派が作り上げた現代社会という環境に適応してきた人と異なっているだけで、それとはまったく別の環境に適応し、異なる能力を発達させてきた子どもたちなのではないのでしょうか。

わたしたちは、たったひとつの物差しで優劣を測定できる直線上に並んでいるのではなく、もっと幾何学的な立体感のある世界に散らばっています。

優等生か学習障害か、健常者か発達障害か、といった良いか悪いか二極しかない物差しで人々を測ることなどできません。それぞれが異なる環境に適応し、異なる才能を伸ばしてきたがため、ある点では劣っていても、別の点では優れているだけなのです。

学校と私:勉強の仕方見えた聞き書き=詩人 アーサー・ビナードさん - 毎日新聞

タメットの言うとおり、「数学的な発想は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれ」ます。

「平均的な人間」などいない

人は健常か障害か、健康か病気か、優れているか劣っているか、などという単純な二極に分けられるわけではなく、本質的にもっと多様で複雑なもの。

それは、ほかならぬダニエル・タメット自身の人となりからも感じ取れます。

タメットは、自分は自閉スペクトラム症(ASD)、いわゆるアスペルガー症候群であると公言しています。

しかし、タメットの本を読むたびに、あまりに情緒あふれる文章なので、本当にアスペルガーなのだろうか?と思ってしまうことがありました。

わたしが当初抱いていたアスペルガー症候群のイメージは、タメットとはどうにもかけ離れていました。

わたしが初めてアスペルガー症候群についてこのブログにまとめたのは、こちらのNHKの放送内容だったかと思います。

【7/2 あさイチ!】大人の発達障害(ASD、アスペルガー症候群)に対処する
NHKのあさイチで取り上げられた、「子どもも大人も増加!発達障害」という番組のまとめです。特に大人の発達障害が特集されています。ASDとは何か、なぜ子供のころ見過ごされてしまうのか

その中で、アスペルガー症候群の人は「心の目が見えない」などと言われていました。今から思えば、まったくひどい話で、そんなことを言う定型発達者の心の目のほうが曇っていないか検査したくなります。

アスペルガーという少数民族

もちろん、ダニエル・タメットの、アスペルガーらしさを物語るエピソードは、彼が書いた三冊の本のそこかしこに見られます。

今回のぼくと数字のふしぎな世界では、子供のころ母親の行動が理解できなかったので予測モデルを作った話が印象的でした。

全体像を認識するのが苦手で、代わりにボトムアップ思考を得意とするアスペルガー症候群らしさを最も如実に示す、「らしい」エピソードでしょう。

数学者は「データを表にしろ」とよく言う。数学者はそういう言い方をする。そしてそれが正しいのだ。

不可解な物事は長時間かけて観察し、前後のつながりを把握する必要がある。

子供のころぼくは、もし記憶をきちんと整理して、分析に必要な変数(パラメーター)をいくつか設定しさえすれば、母の行動の予測モデルを作ることができるかもしれないと思った。(p225)

アスペルガー症候群など、自閉スペクトラム症の人たちは、ある意味で異文化を持つ異なる民族のようなものだと言われますが、物事をトップダウンで概観してばかりのわたしにとっては、母親の行動の予測モデルを作るといった発想は、まさに考えもつかない異文化でした。

そういえば、親子の立場は正反対ですが、やはりアスペルガーだったのではないかと言われているダーウィンは、書きたがる脳 言語と創造性の科学によれば、子どもの感情を知るために表情の変化を観察して分類した、なんてエピソードもありました。

ダーウィンも感情を理解するうえで表情を重視した。彼はさまざまな実験をやってみて、子どもがいまにもわあっと泣き出そうとするときのわずかな顔面の筋肉の変化について、とり憑かれたように長々と詳細に記している。(p246)

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!
自閉スペクトラム症の子どもの視覚的思考力の強さやボトムアップ処理の脳活動を金沢大学が明らかにしました。

またタメットは、自身の記憶力がとてもいいことを記しています、ブレインマンとして円周率を2万桁も暗唱したことを思うと言わずもがなですが、記憶を正確に保持でき、細かい数値や表現まで覚えていられるのはアスペルガー症候群らしいでしょう。

じつは、ぼくは昔から「物覚え」がよかった。そのおかげで、電話番号や人の誕生日や記念日、本やテレビ番組に溢れる数字や事実などを正確に簡単に覚えて思い出すことができる。

…学校の試験で苦労したことはなかったし、先生に教わった知識は、ぼくの記憶力にとってはとりわけ覚えやすいものだった。(p152)

記憶力がザルで、Evernoteなどの外付け脳に頼りっぱなし、学んだことの輪郭や印象しか覚えておらず、自分が書いた文章さえすっかり忘れていて、学校のテストの暗記は大の苦手だったわたしからすれば羨ましい限りです。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

けれども、ダニエル・タメットが、アスペルガー症候群のステレオタイプに当てはまるかといえば、わたしは全然そうは思えません。

空気が読めない? 確かに彼の話題は独特ですが、子どものころの回想の中には、ぶしつけな来客のせいで、部屋が白々とした空気で満ちていたことを振り返っているものがあります。(p30)

これは、近年言われているように、自閉スペクトラム症の人たちは、人の心を想像する「心の理論」が欠けているわけではなく、大半の人と視点が違う「心の理論」を持っているだけだとする見方を思い出させます。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)の人は「共感性がない」と言われていますが、実際にはそうではなく、むしろ定型発達者も共感性に乏しいという研究を紹介しています。

想像力の障害? これほど文才にあふれたタメットにそんなことを言えるほど想像力のある人が世の中に果たしてどれほどいるのでしょうか。

タメットは子どものころ、アンデルセンの「王女さまとえんどうまめ」を読んで、王女がマットレスをどれだけ増やしても、マットレスの下のごろごろした豆の感触から逃れられないだろうという分数計算をして「おまえは想像力がありすぎるよ」と父親に言われたくらいです。(p22)

やはり自閉スペクトラム症のニキ・リンコさんが 自閉っ子におけるモンダイな想像力の中で書いているように、彼らは想像力が欠けているのではなく、想像力の方向性が大半の人とは異なる、という意見が正しいのでしょう。

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コミュニケーションの障害? 確かに彼は人付き合いが苦手だと吐露していますが、子どもたちや生徒に、数学の話題をわかりやすく楽しく教える才能にはずば抜けています。

主婦を相手に一時間以上も分数の話題で盛り上がれるほど話術が巧みな教師はなかなかいません。(p65)

こうしてタメットの人となりを見てくると、やはり、さっきのタメットの少数民族についての話のとおりだと感じます。

タメットを含め、自閉スペクトラム症の人たちは、空気が読めないコミュ障の発達「障害」者ではなく、大半の人と違う文化を持ち、異なる認識を発達させた少数派にすぎないのです。

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「平均や中央値は幻想にすぎない」

わたしがこの本を読んで強く感じたのは、タメットのような人を、特定のステレオタイプに当てはめることそのものが不可能なのではないか、ということです。

以前の記事に書いたとおり、わたしはアスペルガー症候群というステレオタイプにそっくりそのまま当てはまるアスペルガー症候群の人はほとんどいないと思っています。

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タメットはこの本の中で、数学的観点から「平均的人間」、つまりステレオタイプという偏見を打ち崩しています。

ベルギーの数学者アドルフ・ケトレーは、人々のさまざまな性質を平均化すれば、より真実に近い理想的な特徴をあぶり出せると考えました。

かくしてケトレーは千や万にのぼる人々から集めたデータを平均し、男性の「平均」身長は167センチであるとか、新聞を読む「平均」時間は12分だとか、タマゴとジャガイモと肉のスープが「平均的な」食事だとかいった結果を手にした。

162センチや185センチの身長は異常であり、新聞を五分しか読まない人や30分も読む人は普通ではなく、魚をたくさん食べて卵を食べない人は変わり者だ、と。

今日でも平均寿命とか、平均体重とか、平均睡眠時間といった言葉をそこかしこで耳にしますが、それは「近代統計学の父」アドルフ・ケトレーの平均化の取り組みから始まったのです。

ケトレーの統計的な分析そのものはとても有用で、わたしたちが複雑なデータを把握する助けになっていますが、平均化してしまうことは、困った副作用を引き起こします。

このデータから、ケトレーはある規則性を見出した。それは、大半の男性の身長は、平均より五センチ高すぎるか低すぎるかする。

大半の新聞の読者は、新聞を読む時間が平均より三分ほど長すぎるか短すぎるかする。

大半の主婦は、ジャガイモを一週間に六回料理するより多すぎるか少なすぎるかする、ということだった。(p260)

平均いくら、という数字が示されると、わたしたちは、平均値の頻度が高いと錯覚します。たとえばある病気で平均余命が4年だと言われると、あと4年ほどが寿命だろうとみなして計画を立て始めるものです。

しかし、平均4年、というのは、4年で亡くなった人が多いということを示しているわけではありません。極端に言えば、1年で亡くなった人が5人、7年で亡くなった人が5人いても、全部合わせて平均すると4年になります。誰一人として4年きっかりの人は存在しなくてもです。

現実はこれほど極端ではありませんが、よくある正規分布曲線を見てみても、ぴったり平均に一致している人は全体のごく一部です。

とすると、大勢の人を平均して導き出された典型的な人物像、つまりステレオタイプがぴったり当てはまる人もまた、そうそう存在しないことになります。

たとえばエンジニアたちの顔写真を集めて、すべての画像の特徴を平均化して、平均的なエンジニアの顔というステレオタイプを作ったところで、それと瓜二つの顔の人などまずいないでしょう。

それなのに、わたしたちは「平均的な人間」という、さまざまな種類のステレオタイプを見るとき、それにそのまま当てはまる典型的な人間が多くいるのだと錯覚しがちです。

人々は、それにあてはまる平均的な男性を面白がり、嘲笑し、非難し、笑い物にした。

しかし最悪なのは、そういう男性が実際にいると人々が思い込んだことだった。(p261)

「平均的な人間」、ステレオタイプがそこかしこに存在するという錯覚は、行動経済学者ダニエル・カーネマンのファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)に書かれている代表性ヒューリスティックと呼ばれるものでしょう。

代表性ヒューリスティックとは、実際の統計や頻度を無視して、目の前の人や物をステレオタイプに当てはめて直感的に判断してしまうことです。しかしそんなステレオタイプどおりの人などまずいません。

ちまたにあふれるさまざまなステレオタイプ、たとえばA型人間の特徴とか、ADHDやアスペルガー症候群の特徴などにぴったり当てはまる人がいないのはある意味当然で、それは平均値が生み出した架空の人物の特徴なのです。

ケトレー(とその追随者たち)は、人間の本質は平均値の中にあると信じていたが、それは間違っていた。

人間の本質は無限の多様性の中にある。

スティーヴン・ジェイ・グールドは、後にこう述べている。

「進化生物学者はだれもが、多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質だということを知っている。

多様性は厳然たる事実であり、中央の値を知るための不完全な測定の中にあるのではない。

平均や中央値は幻想にすぎない」と。(p263)

「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」

「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」であることを思いに留めれば、タメットのようなユニークな人が、特定のステレオタイプや医学のカテゴリに当てはまらないのも当然といえます。

そもそも彼は、一般的なステレオタイプからかけ離れているために、サヴァン症候群だとみなされてもいます。多様性の極致にいるわけです。

けれども、タメットは、自分だけがユニークで特殊な存在であるとは思っていません。

タメットの三冊の著書の中で貫かれているのは、人は一人ひとり、だれもがユニークで唯一無二の存在である、という見方です。天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中でタメットはこう述べます。

ぼくは、才能とはその語源の意味の通りだと思っている。

つまり、「talent」がラテン語の「talenta(重さ)」からきているように、人をある特別な方向へと押しやる重みが才能なのだと。

だれもがある種の才能を持って生まれ、献身的な懸命に努力をすることでその才能が実を結ぶのだ。(p73)

ひとりひとりに才能がなければ、ぼくたちはみな白紙のようなもので、生まれた環境に大きく左右されてしまう。

しかし実際は、ぼくたちひとりひとりがこの世界に貢献できるかけがえのないものを持っているということを知れば、だれもが自信を抱くことができる。(p74)

彼にしてみれば、自分だけがサヴァンなのではなく、だれもが驚くべき才能を秘めています。彼自身が説明していたとおり、サヴァンとは多くの人が気に止めずに使っている能力が、たまたま別の分野で使われているにすぎないからです。

平均的人間やステレオタイプ、という尺度からすると、あたかも、「正常」な人間や「普通」の人間がいるかのように思えます。タメットのようなサヴァン症候群の人は「特殊」または「異常」ということになります。

しかし、人間は本当に普通か特殊か、正常か異常かにばっさり二分できるものなのでしょうか。ここまで見てきたタメットのエッセイの数々は、そうした二極的な考え方は幻想だと明らかにしています。

「平均的な人間」など存在せず、スティーブン・ジェイ・グールドが述べていたように、「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」なのであれば、わたしたちの中に一人として同じ人はいません。皆が皆、根本のところで違っています。

ぼくと数字のふしぎな世界によれば、フランスの哲学者、ミシェルド・モンテーニュは、あるとき、シャム双生児の子どもに会いました。けれどもモンテーニュはその子を差別的な目で見ませんでした。

「神の広大無辺なる想像力の中では、あの子供も子供のひとりであって怪物ではない。ただ人間には未知なだけだ」とモンテーニュは考える。

「われわれは習慣に反して起こることを、自然に反することだと称する。しかし、なんであれ、自然に従わないものなどないのだ。

新奇なものがわれわれにもたらす、驚愕の念による誤謬を、ぜひとも、自然という普遍的な理性の力で、われわれ人間から追い払ってほしいものである」と。(p147)

たとえシャム双生児やサヴァン症候群のように、他の人との違いが目立つ人がいるとしても、その人たちが極めて異常なわけではありません。

おそらくはわたしたちの誰もが、あまり目立たないところで、あるいは自分でも気づいていないところで、極めて異例な多様性を有しているのですから。

31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話という本では、ダニエル・タメットのように生まれながらにしてサヴァンだったわけではなく、31歳で脳に外傷を負って、たまたま後天的にサヴァンの能力が現れたジェイソン・パジェットの経験が書かれています。

彼の経験したことがダニエル・タメットの能力とよく似ているのはとても興味深い点です。彼自身タメットに親近感を感じていますが、彼の共感覚、数学を直感で幾何学的に理解するところ、そして円周率πに対する愛着などはタメットにそっくりです。(p83,246)

ジェイソン・パジェットのように、後天的にタメットと似たような能力が現れるケースがあることは、タメットだけが異例なわけではない、ということをはっきり物語っています。

πの視点から人類の多様性をを見る

モンテーニュは、すべての可能性を熟知している「神の広大無辺なる想像力の中では」「自然に従わないものなどない」と述べました。どれほど奇妙にみえることでも、それは単に「人間には未知なだけ」です。

これは、ダニエル・タメットが愛してやまないπという数字を思い起こさせます。円周率であるπはどこまで行っても、円を描き続けるように割り切れず、特定のパターンを繰り返すわけでもなく、決して終わりのない唯一の数でした。

πの無限に続く数列の中には、あらゆる数の並びが含まれています。極めて異例で、一度も現れない数の並びなど、そこにはないのでしょう。

すべての可能性を知る「広大無辺なる想像力」を持ったモンテーニュの述べる神と、πに内包された無限の可能性はよく似ています。

タメットもこの本の中で、無限という数学の概念は、神学と結びついて発展してきた歴史があると述べています。(p272-280)

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)に書かれているように、無限を解き明かそうとする数学者の探究は、神を証明したいという熱意に支えられていました。

ですから、無限の可能性を含むπという数字に思いを馳せることは、あたかも無限の想像力を持つ神の視点から物事を見るようなものなのかもしれません。本当にそれができる人間は一人もいませんが、そうするよう努めることは誰にでもできます。

ダニエル・タメットのこの ぼくと数字のふしぎな世界は、πをこよなく愛するダニエル・タメットだからこそ気づけるπの視点へとわたしたちを案内してくれます。全部で24篇のエッセイを収めたものですが、どれも今までにない着眼点で、世の中を眺めさせてくれるものでした。

これまでに読んだどんな本とも違う独特の切り口の数々に、思考を深く刺激され、視野が広がったように感じました。数学や文学に興味のある人のみならず、新しい世界に触れたいすべての人におすすめしたい一冊です。


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