不登校状態とは生命の脳の疲労であるため生活エネルギーがなくなってしまっており、自らを守るためには、じっと動かず回復を待つこと、すなわち引きこもりが必要となる。
…不登校は「心理的な問題」と漠然としてつかみようもない解釈がなされつづけてきたが、実際には中枢神経機能障害、ホルモン分泌機能障害、免疫機能障害の三大障害を伴うものであり、人生最大の危機に発展する例があることがわかってきた。(p3-5)
子どもの不登校、そして小児慢性疲労症候群(CCFS)の専門家である三池輝久先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)でこう書いています。
本来、活力に満ちあふれているはずの学生時代に、想像を絶する慢性疲労とエネルギーの枯渇に閉じ込められ、まったく身動きが取れなくなり、わけもわからないままに不登校、引きこもり、そして「人生最大の危機」へと発展していく。
いったいなぜ、活力に満ち満ちたはずの学生にそんなことが起こるのか。このブログでは、ずっとその理由を調べ続けてきました。
重要な手がかりとなったのは、エネルギーの枯渇、慢性疲労、そして生きているのか死んでいるのかもわからない状態をもたらす、生物学的なからだのメカニズム、「不動系」です。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれています。
この絶体絶命の不動系は緊急時に短時間のみ機能するようになっている。
慢性的に作動すれば、本当に生きているわけでも実際に死んでいるわけでもない非存在という地獄のような状態に陥ってしまう。(p127)
この記事ではこの「不動系」という神経の働きを中心に、次のような話題を解き明かしていきます。
■解離に陥った人の自律神経系では何が起こっているか
■不登校や引きこもり、特に小児慢性疲労症候群(CCFS)と呼ばれる病態にみられる極度のエネルギーの枯渇が解離と関わっているといえるのはなぜか
■どうすれば慢性化した不動状態から回復できるか
専門家ではなく当事者目線での分析にすぎず、非常に長文ですが、さまざまな資料から系統立てて考察した、このブログの里程標となる記事なので、以上の話題に興味のある方がいらっしゃいましたら、どうぞお付き合いください。
これはどんな本?
この記事で中心とする書籍は、冒頭で取り上げた二冊です。
ここを訪問してくださる方の中には、このブログは心理学関係の読書が好きな著者が、書評のようなものを書いているところだと思っておられる方もいるかもしれません。
扱うテーマが比較的広めなので、そう思われても仕方ありませんが、このブログは、時代のトレンドを追うアフィリエイトブログではありませんし、話題になった本を片っ端から読んでいくハイパーレキシア(過読症)的な書評ブログでもありません。
わたしは病気の影響で失読症になっていた時期もあり、いまだに影響は残っているので、そもそも本を読むことには労力が伴います。それでも本を読むのは、どうしても知りたいことがあるからにほかなりません。
わたしは、あの日以来、ずっと、自分の身に起きたのは何だったのか探り続けてきました。このブログは最初から今まで、一貫して当事者研究のブログであり、わたしは自分のからだと関係のない話題を扱ったりはしません。
どの記事もまるで他人事のように客観的に書いているかもしれませんが、自分の経験に根ざしていないことはほとんど書いていません。
わたしが読んできた多くの本の中でも、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)は、大きな転機になった一冊です。以前の記事で小児慢性疲労症候群(CCFS)についてまとめる際にも大いに参考にしました。
この本に出会ったときの衝撃を今でもよく覚えています。最初、この本は「学校を捨ててみよう」という啓発書のようなタイトルだったので、まったく眼中にありませんでした。
しかし日本臨牀 2007年 06月号 [雑誌](慢性疲労症候群の特集号)を読んでいたとき、ひときわ自分にぴったりの説明を見つけ、それが成人型慢性疲労症候群とは別のグループによる研究、つまり三池輝久先生や、その教え子の友田明美先生による研究だと知りました。
そこで、三池先生や友田先生の著書を読んでみようと思い、学校を捨ててみよう!も手に取りました。
今まで、成人型慢性疲労症候群の本を読んでも全然腑に落ちなかった様々な疑問の答えが見つかり、医者としての熱意あふれる分析と、当事者の目線に立った思いやりある共感に、いたく感動しました。紛れもなく、わたしの人生を変えた一冊です。
その後、三池先生の他の著書を通して睡眠や発達の問題が絡んでいることを知り、友田先生の著書から、愛着やPTSDが脳に及ぼす影響も知りました。このブログの多岐にわたる話題はそうして派生していきました。
そして、三池先生や友田先生が敷いてくれたレールに沿って視野を広げていくうちに、わたしは、奇妙な世界のことを知りました。子どもの発達や愛着について研究しておられる杉山登志郎先生の著書に出てくる「解離」です。
解離の本をたくさん読んだ上で、改めて三池先生の学校を捨ててみよう!を読み返してみると、解離性障害の病前性格と、小児型慢性疲労症候群の当事者の性格は、不思議なほど似ていることに気づきました。それはたとえば「過剰同調性」と呼ばれるものです。
それどころか、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で、三池先生はこう書いてさえいます。
100パーセントよい子になるためには、結果として息がつまるほど自らを殺さなければならないことである。
…長期間、よい子を演じることは、自ら価値観を中心とした変えることの難しい扁桃体の働きを押さえ込まなければならない。
…しかし、持続する緊張感(この持続的な緊張状態こそがこころの問題に直結する現代人に共通の時限爆弾ということがわかってきた)のなかで疲労があらわれ、がんばりが利かなくなり、すべての能力が少しずつ低下しはじめると、素顔の自分があらわれはじめて、自己主張をはじめる。
「どちらがいったい本当の自分なのか」と。
この多重人格的混乱は、不思議なことに生命力の低下が起こったときにあらわれてくる。(p20-21)
「息がつまるほど自らを殺」すこと、「扁桃体の働きを押さえ込」むこと、そして「どちらがいったい本当の自分なのか」といった「多重人格的混乱」は、みな解離性障害と共通している特徴です。
一方、さまざまな解離性障害の本を読むと、頻繁に出てくるのが、慢性疲労症状とのつながりでした。たとえば解離の専門家、柴山雅俊先生の解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)には、こう書かれていました。
解離性障害の患者の多くがうつ状態を呈する。
疲れやすい、だるい、憂鬱で死にたいなどという気分については、程度の差こそあれ、患者のほぼ90%以上が肯定する。(p146)
解離の場合のうつ状態とは、いわゆる大うつ病(MDD)のような圧倒される悲嘆ではなく、どちらかというと、疲れ果てて、エネルギーが枯渇して、何も手につかなくなるような無気力状態、死んだように動けなくなる状態です。
これは不登校や小児型慢性疲労症候群とよく似ています。
こうした手がかりから、慢性疲労と解離には本質的なつながりがあるに違いない、と考えていましたが、これまで、なぜそうなのかをを説明するための十分な情報が手元にありませんでした。
しかし、近年、解離を生物学的メカニズムとしてとらえる専門家が増えてきており、神経生理学者ピーター・A・ラヴィーン(ピーター・リヴァイン)による身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアを読んだとき、大きな手がかりが得られました。
ピーター・ラヴィーンは、このブログで頻繁に紹介してきた身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の著者ヴァン・デア・コークの友人で、共に切磋琢磨して解離の理論を組み立ててきたと、お互いの本で述べ合っています。
この本は、解離をこころの問題としてではなく、ソマティックな(つまり「からだの」)問題として扱っています。いわゆる複雑な「こころ」を持っていない魚類や爬虫類のような動物にも備わっているシステムであり、解離と慢性疲労がつながっている理由を明快に説明しています。
これまで、解離の身体症状というと、たとえば心因性難聴など、特に異常はないはずなのに体の一部分の機能が麻痺する転換症状を中心に語られてきました。声がでなくなる、目が見えなくなる、歩けなくなる、といった症状です。
しかし、解離を生物学的なメカニズムとしてとらえると、解離に関係する身体症状は、むしろエネルギーの枯渇や慢性疲労、身体全体の固まり、凍りつきなどです。
翻訳者の方のあとがきによると、原文が難解だったらしく、訳を頑張ってくださったとはいえ知識がないとかなり読みづらい本なので、万人におすすめする気にはなれません。
しかし内容は非常に重要なので、この記事でできるだけ噛み砕いて解説できればと思います。
なぜ「学校を捨ててみよう」なのか
解離と慢性疲労のつながりについて説明する前に、この二つが、確かに関わりを持っているといえる証拠を提示するのは筋の通ったことでしょう。
そのためには、まず、わたしにとって、当事者研究のスタート地点となった三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)に立ち戻る必要があります。
この本のタイトルには、さっき書いたとおり、「学校を捨ててみよう!」という啓発書めいたメッセージが冠されています。
内容からすれば「子どもの慢性疲労症候群」のような直球なタイトルのほうがいいのに、とわたしは初めのうち感じていました。タイトルのせいで読んでいない当事者も多いのではないかと。
しかし、今となっては、この本のタイトルとして、「子どもの慢性疲労症候群」ではなく「学校を捨ててみよう!」が選ばれたことには、大きな意味があると感じています。
この本で主張されているのは、不登校や慢性疲労に陥った子どもたちは、過度の自己抑制を強いる学校社会の被害者であり、加害者である学校社会から逃れて心身を休めることが、回復にはどうしても必要なのだ、ということです。
一見すると、過激なメッセージに思えますが、わたしは自身の経験から、それは正しいと思っていますし、この記事ではそれが正当であることを順を追って説明するつもりです。
学校社会に対するPTSD?
学校社会が加害者、不登校の子どもは被害者、という図式のなかで、三池先生は、不登校や小児型慢性疲労症候群は、一種のPTSD的な病理を伴っていると述べています。
不登校状態とは生命の脳の疲労困憊を伴う、中枢神経の機能低下であることを述べた。これは持続時間はさまざまであるが、生命の危機を経験したことに等しい。
地下鉄サリン事件における人々の反応を思い出していただきたいのであるが、彼らのなかには、いまだ地下鉄に乗ることができない人があるといわれている。
理性では二度とサリン事件などあるはずもないと感じている。しかし防衛本能が地下鉄に乗ることを抑止するのである。
不登校状態でも、生命力の低下を経験するので同じ反応がおこってしまうと考えられる。
肉体的な疲労は回復し精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。(p67)
三池先生は、不登校の子どもたちが、学校に行けなくなるのはPTSD的な反応である、と述べます。
PTSDと言うと、日本語では「心的外傷後ストレス障害」なので、「心的」な、つまり「こころの病」だと誤解している人は少なくありません。不登校はPTSDだ、などというと、すぐに心の弱さやいじめ問題と結びつける人が出てくるものです。
しかし実際にはPTSDは「こころの問題」ではありません。三池先生が「いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである」と述べているとおりです。
近年、PTSDは「こころの問題」ではなく、「脳の問題」でもなく、からだ全体を巻き込む身体的な病気である、と言われるようになっています。
しかし、不登校や小児型慢性疲労症候群はPTSDではありません。そもそもPTSDと診断できるのであれば、不登校を小児型慢性疲労症候群などという別の名前で呼ぶ必要はありません。
いじめなど、具体的な心的外傷が関わっている場合を除いて、小児型慢性疲労症候群の子どもは、学校社会を加害者として認識していることはあまりないと思います。
少なくとも、わたし自身は、身体的な極度の疲労やエネルギーの枯渇、そして思考力の崩壊のせいで、学校に行けなくなりました。学校が嫌で行けなくなったのではなく、学校にどうしても行きたかったのに、からだがどうしても行けない状態になりました。
PTSDは、トリガーとなる刺激に直面したとき、フラッシュバックやパニック、制御できない感情に襲われます。だからこそ、精神科的な問題とみなされがちです。自分が何に傷つけられたかをはっきり覚えていて、それに恐怖を感じます。
具体的なトラウマ経験を記憶していることは、PTSDの診断の必須条件のひとつです。
サリン事件の被害者たちは、忘れられない記憶を抱えていて、地下鉄に乗ろうとすると、またあの悲劇に見舞われるかもしれないというフラッシュバックやパニックに見舞われるからこそPTSDなのです。
しかし不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもの多くは、学校の何が悪かったのかわかりません。なぜ学校に行けなくなったのかわかりません。なぜか「こころ」ではなく「からだ」が学校に行けなくさせます。
何よりもPTSDは過覚醒や過活動と関係しています。これは小児型慢性疲労症候群とは正反対です。不登校、そして小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、ぐったり疲れ切り、動けなくなり、過覚醒どころか過眠状態になります。
もろもろの特徴を見る限り、小児型慢性疲労症候群はPTSDとは反対です。
それはPTSDではない
しかしながら、小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、一時的にPTSDに近い症状を見せることがあります。
三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)でこんな研究に触れています。
彼らの脳はピリピリとして過敏状態にあり、必要・不必要にかかわらず、すべての情報に対して反応してしまうのである。
これは、さらりと見過ごすことができない。間違っていないかどうか、一つ一つ確認してしまう脳である。
…このタイプの不登校状態は、まだ登校できなくなって日が浅いものに多いことがわかったのである。
しかし、不登校状態が長引いている慢性閉じこもり的状態にある若者たちは…認知力が低下しており、さらに疲労感も強いことがわかった。
これは初期のピリピリとした状態から、時間を経て次第に認知能力が低下していくことを示しており、長い時間、情報の少ない環境下ですごさなければならない若者たちの脳機能に異変がおこってしまうことを示している。(p53-54)
この研究が示しているのは、不登校の子どもの脳は、時間とともに変化するということです。
不登校に追い込まれて日が浅い子どもたちは、ピリピリして、警戒状態にある過敏な脳波が検出されました。周囲の危険に警戒しているこの状態は、PTSDに近いものを感じさせます。
しかし、時たつうちに、彼らの脳波は変化しました。過敏に警戒するどころか、認知力が低下して、強い疲労感が現れました。
三池先生は、これを、引きこもり状態という「情報の少ない環境下ですごさなければならない」ことに伴う変化だと考えていますが、まったく別の見方、もっと生物学的に即した見方ができます。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるPTSDのあまり知られていない側面についての説明を聞いてみましょう。
麻痺状態になるのは、PTSDの二つの面の一つだ。
治療を受けていないトラウマサバイバーの多くは、最初はスタンのように、わずかのきっかけでフラッシュバックに見舞われるが、やがてその後の人生ではしだいに麻痺状態に陥ってしまう。
トラウマの追体験は劇的で、人をぞっとさせるし、自己破壊的なものになりかねないが、長い目で見ると、自己が不在の状態は、それに輪をかけて有害になりうる。
これは、トラウマを負った子供たちにとってとりわけ問題となる。行動に表す子供は他者の注意を惹くことが多いのに対して、頭が働かなくなっている子供は誰にも迷惑をかけないので放置され、自分の未来を少しずつ失ってしまうのだ。(p121)
ここで注目したいのは、PTSDを負った人たちの中には、時とともに症状が変化するケースがある、ということです。
はじめは「わずかのきっかけでフラッシュバックに見舞われる」ような過敏状態にありますが、「やがてその後の人生ではしだいに麻痺状態に陥って」、「頭が働かなくなって」しまいます。
この変化は、不登校に追い込まれた子どもたちの脳波の変化とよく似ています。最初はPTSDに似た過敏状態にあるのに、やがてPTSDとは思えない麻痺状態になり、頭が働かなくなり、慢性疲労に呑み込まれます。
こうした変化は、「PTSDの二つの面の一つ」で、「子供たちにとってとりわけ問題となる」と言われていますが、ほとんど知られていません。一般的なPTSDのイメージとはかけ離れていますし、PTSDの人が必ずそうした経過をたどるわけでもありません。
これはPTSDに比べると、ほとんど知られていない正反対の現象、まったく別の名前が付された、ほとんど知られていない現象です。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。
これは解離の影響である。シャロンはまるで他人に起きた出来事を説明しているようだった。
彼女は自分のからだの外側にいて自分を観察していて、彼女自身はそこにはいないかのようだった。
彼女は解離の原因となったショックの瞬間に未だとどまっていた。しかし解離のおかげで、想像を絶するような恐怖と戦慄から免れることができたのだった。
ハリウッドのヒッチコック映画で描かれるようなトラウマでは、トラウマを受けた人はフラッシュバックに翻弄されるものである。
しかし実生活においては、シャットダウンによる無感覚状態の方がより深刻であり、またそれが重篤なもしくは慢性的なトラウマに見られる性質である。
こうした人々は「歩く屍」のようになってしまうのである。(p206)
これは「解離」の影響です。
解離はPTSDとは正反対の現象です。過敏になり、フラッシュバックやパニックに呑み込まれるどころか、感情が麻痺して、冷静かつ客観的になります。
解離の状態にある人たちは、からだは「ショックの瞬間に未だとどまって」います。しかしこころは「恐怖と戦慄から免れることができ」ています。
その結果生じるのは、悲しみや怒りやパニックといった感情的な問題ではなく、「シャットダウンによる無感覚状態」です。エネルギーが枯渇し、慢性疲労に閉じ込められ、「歩く屍」(しかばね)のようになってしまいます。
けれども、こんな重篤な状態、世の中であまり話題にならないほど奇妙な「解離」状態が、本当に不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもに起こっているのでしょうか。
ただ部分的に似ているだけで、かたや過労に似た慢性疲労状態、かたや心的外傷による麻痺状態という、まったく別のものなのではないのでしょうか。
ここは大事なポイントで、実際には何の関係もない現象を、ただ主観と思い込みで、同じものだとみなすわけにはいきません。
もしも解離と不登校を関係あるものだとみなすとしたら、それなりの証拠が必要です。
脳画像研究が指し示すもの
近年、解離についての研究が進むにつれ、解離がこころの問題ではなく、脳やからだの具体的な異常を伴う病態だとわかってきました。
以前の記事で詳しくまとめたとおり、脳科学的には、解離はPTSDと正反対の現象と見なされるようになってきています。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアも、ラニウスとホッパーによる、fMRIを使った脳画像研究を参照して、こう述べています。(p124,134)
この説得力にある研究は、身体状態および情動の気づきに関連する脳領域の活動を記録し、トラウマを受けた被験者における交感神経性覚醒と解離を明確に区別している。(p135)
PTSDは「交感神経性覚醒」、つまり過覚醒を伴う激しい状態ですが、解離はその反対の抑制された状態にあります。
解離の専門家、岡野憲一郎先生による解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合という本もまた、解離が過覚醒とは正反対の状態だと述べています。
それはいわば過覚醒が反跳する形で逆の弛緩へと向かった状態と捉えることができるだろう。(p20)
過覚醒、つまり当初のピリピリした脳が、まったく逆の弛緩状態に反転したのが解離です。
このとき、解離に関係している脳の部位は、右脳の前帯状回であるとされています。
そしてこのように解離は右脳の情緒的な情報の統合の低下を意味するため、右の前帯状回こそが解離の病理の座であるという説もある。(p20)
解離状態では、この右の前帯状回や前頭葉をはじめとする右脳の各所が興奮し、その結果、脈拍数が下がるなどして、過敏な反応が低下します。
そして解離状態の場合、ないしはPTSDの患者が典型的な状態から解離的な状態に反転した場合、たとえばトラウマ状況を描いた文章を聞くことで、逆に脈拍数が下がったりする場合には、右の上、中側頭回の興奮パターンが見られたり、あるいは右の島および前頭葉の興奮が見られるという(Lanius,2005)。(p20)
つまり、右脳の前帯状回や前頭葉の興奮は、興奮を抑制する役割と関係しているようです。その結果、危険を知らせるアラームである扁桃体の活動が抑えられ、怒りや悲しみといった強い感情が麻痺します。
すなわち内側前頭皮質と前帯状回の活動の亢進と、扁桃核の活動低下が生じるのだ。
ちなみにこの脳科学的な所見とも関連した解離の理論は「皮質辺縁系抑制モデル corticolimbic inhibitation model」と呼ばれる。(p119)
では、不登校、また小児型慢性疲労症候群の子どもの場合はどうでしょうか。近年、理化学研究所により発表された脳画像研究は非常に興味深いことを示しています。
原因不明の疲労が長期間続く「小児慢性疲労症候群」の子どもは、2種類の作業を同時に行う場合、健康な子どもが文字の読み取りなどを担う左脳だけを使うのに対し、直感力や独創力をつかさどる右脳も使うため疲れやすいとみられることを、理化学研究所分子イメージング科学研究センター(神戸市中央区)などのチームが突き止めた。
小児慢性疲労症候群患児の脳活動状態を明らかに | 理化学研究所
CCFS患児と健常児を比較すると、CCFS患児では一重課題と二重課題いずれの時も右中前頭回が特異的に活性化し、活性度は物語の内容理解度と正の相関関係にあることが分かりました。
さらに二重課題においては右中前頭回に加え、前帯状回背側部と左中前頭回も特異的に活性化することも分かりました。
このことから、CCFS患児は過剰に神経を活動させて脳の情報処理を行っているために、さらに疲労が増強していることが懸念されます。
前頭葉の過活動の抑制がCCFSの症状の緩和につながる可能性など、CCFSの病態の解明や治療法の開発への貢献が期待できます
この研究では、小児型慢性疲労症候群の子どもでは、疲れる読解課題をこなしたとき、通常使われない右脳の一部、前頭葉、前帯状回などが活性化していました。解離に関係する脳の抑制に関わる部分と共通しています。
では、脳以外の反応はどうでしょうか。解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこんな記述もありました。
解離と右脳との関係、ないしは幼少時のトラウマと右脳の機能不全との関係については、近年になりさらにいろいろとエビデンスが出されているようだ。
霊長類に関する研究によると、フリージング(固まり、凍りつき)状態では、右前頭葉の過活動(直観的には活動低下を想像しがちだが)とストレスホルモンの一種であるコルチゾールのレベルの低下がみられるという。(p22)
動物の霊長類の研究によると、解離の反応が生じたとき、前述の右前頭葉の過活動のほか、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下がみられました。
一方、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、三池輝久先生はこう述べています。
しかし、基本的にはうつとCFSは以下のような理由から異なる疾患と考えられている。
(1)うつに対する治療により疲労が回復しないこと、
(2)副腎皮質ホルモンの分泌傾向が異なる(うつでは増加し、CFSでは減少する)、
(3)免疫学的な問題点が異なっている、などである。(p18)
うつ病では、コルチゾールのような副腎皮質ホルモンが増加するのに対し、慢性疲労症候群では低下するとされていて、これが両者が別の病態である、と区別する根拠のひとつとなっています。
内分泌機能からすると、PTSDはうつ病と関連が深い病態であり、解離は慢性疲労症候群とよく似ていることになります。
うつに対する治療で疲労が回復しないとありましたが、解離性障害でもうつ病の薬は効きません。解離の専門家から見れば、新型うつは解離の軽い病態だとみなされていますが、やはり抗うつ薬が効きにくいことが特徴です。
新型うつは、解離の軽い病態であると同時に、過眠や疲労を特色とすることからして、小児型慢性疲労症候群の軽い病態であるようにも思えます。
このように、解離と慢性疲労は、同じ脳の性質や、内分泌機能を有しています。生物学的にみれば、共通の土台を持つ反応ということになります。
わたしは、不登校や小児型慢性疲労症候群のすべてが、解離と密接に関係しているとは思っていません。なかには低血糖症や、脳脊髄液減少症、一時的な概日リズム睡眠障害や気づかれにくい睡眠時無呼吸症候群などのせいで、慢性疲労状態に陥っている子どももいることでしょう。原因はさまざまです。
しかし、解離のメカニズムが関わる不登校が少ないとも思いません。学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で紹介されている当事者たちの言葉は、解離傾向の強い、つまり過剰な抑制を示しやすい人たち特有のものです。
近年、小児型慢性疲労症候群には自閉スペクトラム症(ASD)や、不注意優性型のADHDなどの素因が関係しているケースがあると言われています。
このブログで取り上げたとおり、自閉スペクトラム症はトラウマ被害などがなくても、生まれつきの感覚過敏のせいで解離症状を示しやすく、特に女性のASDは子どものころから慢性疲労など自律神経症状を抱えやすいと言われています。
また不注意優性型ADHDはぼーっとして我を忘れるなど解離症状を示しやすく、おそらく生まれつき感受性が強いHSP(人いちばい敏感な人)と類似性があります。こちらも解離症状を示しやすく、慢性疲労症候群になりやすいとされています。
三池先生らが研究してきた不登校に多い小児型慢性疲労症候群と、生まれつき敏感で慢性疲労になりやすい女性のASDや不注意優性型のADHDやHSPは、解離というキーワードでつながっています。
いずれの場合も、強い刺激を感じるせいで脳が興奮して過敏状態になりやすく、それを鎮める防衛手段として解離が強く働き、その結果として慢性疲労がもたらされているのだと考えられます。
ではここからは、解離とは生物学的にいえば、どんなメカニズムで生じているのかを見ていきましょう。
「持続的不動状態」(TI)とは?
慢性疲労症候群はストレスが原因と言われます。いえ、慢性疲労症候群のみならず、ほとんどの病気の発症にストレスが関係しています。
「ストレスが原因」という言葉は「こころの問題」と言うのと同じほど無責任な方便として多用されています。つまり、原因はよくわからないのでご自身で考えてください、という意味です。
慢性疲労と解離の関係について知るには、ストレスが心身にもたらす影響を、生物学的に読み解かねばなりません。
そもそもストレスとは何なのでしょうか。PTSDは心的外傷後「ストレス」障害の意味ですが、PTSDや解離の専門家たちはストレスの実態をよく把握しています。
わたしたち生物が、ストレスに直面したときどのように反応するか、系統立てて分析した最初の人はアメリカの生理学者ウォルター・キャノンでした。
1915年、キャノンは有名な「闘争か逃走か」というストレス反応を見いだし、生物は危機に面すると、心拍数が上がって、血流が増し、汗が出たり震えたりして、一目散に逃走するか、果敢に敵に挑みかかるかする、と指摘しました。
あなたがジャングルを探検しているとき、突然、獰猛なトラに出くわしたと想像してみてください。あなたは一瞬静止したあと、恐怖のあまり我を忘れて一目散に逃げ出すか、逃げ道がないなら持っている武器で闘うかするでしょう。これが「闘争・逃走」反応です。
人は、ジャングルの中で出会う脅威に対してだけでなく、現代社会で出会うストレスに対しても、同じようなストレス応答を示します。
ストレスとなるような状況に直面すると、頭に血が上ったり、イライラしたりします。サンドバッグを殴ってストレス発散したくなる人もいます。心の余裕がなくなり、交感神経が興奮して夜寝られなくなり、頭がパニックになります。
だからこそ、ストレス対策のために、深呼吸したり、身体をリラックスさせたりして、副交感神経を働かせるように言われます。ストレスという獰猛なトラに追い詰められて、「闘争か逃走か」の状態になっている神経系を鎮めなければ、身体に悪影響が及ぶからです。
この「闘争か逃走か」というアグレッシヴな反応は、PTSDの原理でもあります。
犯罪に巻き込まれたり、恐ろしい経験をしたりすると、人はトラに出くわしたときのように「闘争か逃走か」のパニックの状態になります。
ふつうは、トラから逃げ切るとその反応は鎮まるものですが、PTSDの場合はそうなりません。脅威が去っても、いまだ脅威のただなかにいるかのように、神経系が「闘争・逃走」反応を示したままになります。
PTSDになった人は、ストレスの原因が去ったあとも、過覚醒で眠れず、冷や汗をかき、常に警戒し、ちょっとしたことでフラッシュバックが引き起こされます。いつまでもトラが目の前にいるかのように振る舞います。
しかし、すでに見たとおり、慢性疲労や解離はPTSDとは異なっています。
科学者たちは、ストレスに対する反応には、ウォルター・キャノンが見いだした「闘争か逃走か」のみならず、あまり知られていない別の反応があることに気づくようになりました。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれています。
この闘争か逃走というよく知られている反応に加えて、あまり知られていない、脅威に対する第三の反応がある。
不動化である。
動物行動学者はこの麻痺の「初期」状態を持続性不動状態(TI)と呼ぶ。これは、は虫類とほ乳類に備わる。(p60)
わたしたちがジャングルでトラに出くわしたとき、あるいは現代社会でストレスに直面したとき、身体で生じるストレス反応は、「闘争か逃走か」だけではないのです。
もう一つの選択肢、それせは「不動化」、または「持続的不動状態」(TI)です。
圧倒的な死の危険(逃げる機会がごくわずか、もしくはまったくない場合)を有機的組織(organism)が知覚すると、全体的な麻痺とシャットダウンという生物学的反応が生じる。
動物行動学者はこの生得的な反応を持続性不動状態(tonic immobility,TI)[訳注:擬死と呼ばれることがある]と呼ぶ。(p29)
トラに出くわしたとき、わたしたちが我を忘れて、逃げ出すか、闘うかするのは、そうすれば助かる可能性がある、と身体が判断するからです。
理性的に考えるまでなく、脅威から逃れるか、やっつけるかするために、身体の全エネルギーが動員されます。
しかし、闘っても勝ち目がなく、逃げ出すこともできない、そんな進むも地獄退くも地獄、 前門のトラ後門のオオカミのような状況に追い詰められたら、身体は第三の選択肢、不動化を選びます。
凍りつき、麻痺して動けなくなり、感覚がシャットダウンし、痛みを感じなくなり、ときには身体から魂が抜け出したかのようになります。
凍りつきでは、筋肉は致命的な打撃で固くなり、「怯えによる硬直」を感じる。
一方で、死を明らかに避けられないものとして経験するとき(例えばむき出しになった牙が今にもあなたを殲滅させようとしているときのように)、筋肉はあたかもすべてのエネルギーを失ってしまったかのように崩れ落ちてしまう。
…自分が無力な諦めの境地にあり、命に燃料を補給し前進するためのエネルギーに欠けていると感じるだろう。(p61)
闘うか逃げるかどころではなく、「むき出しになった牙が今にもあなたを殲滅させようとしているとき」には、身体は、脅威を避けるためにエネルギーを動員する代わりに、避けられない脅威をやり過ごすための反応をとります。
恐ろしい痛みに襲われることは避けられないので、痛みや感情の感覚を切り離し、あたかも死んだかのように思わせるため、全身のエネルギーもまた切り離します。切り離す、というのはつまり「解離」させるということです。
これはいわゆる、動物が捕食者に襲われたときに見せる「死んだふり」や「たぬき寝入り」の現象です。もちろん、動物は、自分で判断して死んだふりをするわけではありません。
逃げられない脅威を察知したとき、「不動化」という生物学的なストレス応答システムが勝手に起動し、全身を麻痺させ、エネルギーを枯渇させてしまうのです。
ストレス反応は「4つのF」
このように、ストレス反応には、能動的でアグレッシヴな「闘争・逃走」反応だけでなく、その正反対の、受動的にじっと耐え抜く「不動化」という反応があります。
能動的なほうの反応が「逃走」と「闘争」の2つに分けられるように、受動的なほうの反応も2つに分けることができ、ストレス反応は合計すると4種類あると言われるようになっています。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。
キャノンの発見から75年以上も動物行動学および生理学の研究が進展した現在、闘争か逃走反応は、「一つのAと四つのF」という頭文字にまとめられる。
すなわち停止(Arrest:注意の増加、状況の精査)、逃走(Flight:まず逃げようとする試み)、闘争(Fight:動物や人間の逃走が阻害された場合)、凍りつき(Freeze:恐怖―怯えによるこわばり)、そして破綻(Fold:無力感による虚脱状態)。(p60)
この本の説明では、「4つのF」としてまとめられていて、能動的な反応が、「逃走」(Flight)と「闘争」(Fight)であるのに対し、受動的な反応は「凍りつき」(Freeze)と「破綻」(Fold)だとされています。
岡野憲一郎先生の解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合では、一部の表現が少し異なるものの、やはりストレス反応は4つにまとめられています。
解離において起きていることを明らかにするということは、これまでの恐怖の際のキャノンCannonの理論、つまり「fight-flight response 闘争・逃避反応」だけでは十分ではなかったということを意味する。
…要するにキャノンのストレス時の2つのFの理論に、もうひとつのF、つまりfreeze response(固まり反応)が加わるのだ。
そしてそれだけではなく、もう一つP、すなわちparalysis(麻痺反応)も加えなくてはならない。
すると、危機の際の反応は、
積極的なもの……闘争、逃避
消極的なもの……固まり、麻痺の2種類に分かれることになる。
そして後者の消極的なものは解離に関係づけられるというわけである。
…ともかくも現代的な恐怖反応は、もはや「FF」ではなく、「FFFP」であるということは、記憶にとどめておきたい。(p22)
こちらでは積極的な反応は「逃走」(Flight)、「闘争」(Fight)で同様ですが、消極的な反応は「固まり」(Freeze)、「麻痺」(paralysis)という3つのFと1つのPにまとめられています。
表記にばらつきはありますが、言わんとするのは同じです。つまり、ストレス反応は、逃走・闘争というよく知られた能動的な反応に加え、固まり(凍りつき)、麻痺(破綻)という、さらに2つの受動的な反応があるということです。
この固まり(凍りつき)と麻痺(破綻)との違いは、固まり(凍りつき)が、意識がありつつ凍りついて固まるような反応であるのに対し、麻痺(破綻)のほうは意識さえもシャットダウンして虚脱してしまう状態だということです。
この4つのストレス反応は、すべて、同じ目的のために生じます。つまり、襲いかかる脅威から何とかして逃れて生き延びるためです。
能動的な逃走・闘争に対して、受動的な固まり(凍りつき)と麻痺(破綻)が、どうして生き延びるための反応といえるのか、わかりにくく思う人もいるかもしれません。
しかしそれら受動的な反応は、痛みや恐怖をシャットダウンするとともに、相手を油断させ、わずかでも逃げるチャンスがあれば、そこに全エネルギーをかけるために生じます。
それは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれている、自然界で生じる「死んだふり」の効果を見るとわかります。
俗に「タヌキ寝入り」として知られる、土壇場での生存戦略である。しかしそれは見せかけではなく、生来の命がけの生物学的戦略だ。
…ガンジーのあの伝説的方法のような無抵抗の抵抗は、その動物の不活性状態が捕食者の攻撃性を抑制し、殺して食べようという欲求を抑える働きがある。
…また、チーターは動かない動物を安全な場所に引きずって行き潜在する敵から隠し、(獲物を分け合うために)子どもを呼びに巣に戻るかもしれない。
母チーターが出かけて油断しているすきに、ガゼルは麻痺から覚醒し急いで逃げ出せるかもしれない。(p62)
どこにも逃げ場がなく、闘っても勝ち目がないとき、生き延びる可能性がある最後の手段は「不動化」なのです。
身体を麻痺させ、エネルギーも枯渇したように見せかけ、一瞬の可能性にかける、それが受動的なストレス反応の正体です。
もう一つの副交感神経
では、この受動的なストレス反応が生じるとき、わたしたちの身体では何が起こっているのでしょうか。
すでに見たとおり、積極的なストレス反応、つまり「闘争か逃走か」が生じるときには、身体が交感神経優位になり、すべてのエネルギーが動員されます。アクセルを目一杯踏み込んだ状態になり、我を忘れて行動を制御できなくなります。
しかし、「固まり」(凍りつき)や「麻痺」(破綻)といった受動的なストレス反応では、まったく正反対のことが生じます。
解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合にはこう書かれています。
ちょうどアクセルとブレーキを両方踏んでいるような状態と考えると分かりやすいかもしれない。
そしてそれは、エネルギーを消費する交感神経系と、それを節約しようとする副交感神経系の両方がパラドキシカルに賦活されている状態であるとする。これが解離状態であるというのだ。(p17)
不動化の反応が生じるとき、言うまでもなく、まずアクセルは目一杯踏み込まれています。目の前に脅威があるのですから、闘うか逃げるかしようとする「闘争・逃走」反応はすでに生じています。
しかし、アクセルを目一杯踏み込んでも逃げ場がないことがわかると、目一杯踏み込んだアクセルに対して、今度はブレーキも同時に目一杯踏み込まれます。アクセルとブレーキを同時に踏み込んだ状態、それが不動化であり解離です。
このとき、生物学的に言えば、まずアクセルである交感神経が目一杯興奮し、危険に備えます。そこへ今度は、ブレーキである副交感神経が目一杯興奮し、すべてをシャットダウンします。
それは生理学的に言えば、交感神経の過剰な活動の次の相として起きてくる状態、すなわち副交感神経の過覚醒状態ということである。(p18)
しかし、不思議に思う人もいることでしょう。身体を興奮させる交感神経に対して、一般に副交感神経は身体をリラックスさせる良いものとして知られています。
交感神経が高ぶってイライラして、心身が休まらないとき、健康本でよくあるアドバイスは、副交感神経を活性化させてリラックスしよう!というものです。
副交感神経を活性化させたら、不動状態のような死んだふりではなく、ぐっすり安心して眠るような穏やかな状態になるのではないでしょうか。
そう考えるのも無理はありません。ここで言っている副交感神経とは、健康本で言われる副交感神経とは別のものだからです。まったく知られていないことですが、副交感神経には二種類あるのです。
副交感神経とはブレーキのようなものだと書きましたが、自動車には通常のフットブレーキだけでなく、駐車する際や緊急時に用いられるパーキングブレーキが備わっています。生物の副交感神経にも、これに相当する二種類のブレーキが存在しています。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法や他の解離の専門家の本によると、生物学的に解離を理解するうえで欠かせないのは、ノースカロライナ大学のスティーヴン・ポージズが1994年に発表した「情動のポリヴェーガル(多重迷走神経)理論」(polyvagal theory of emotion)です。(p129)
これによると、わたしたちの自律神経系は、よく知られている交感神経系と副交感神経系の2つにわかれるだけでなく、副交感神経系がさらに2種類に分かれています。
ひとつは有髄の迷走神経。こちらは「腹側迷走神経」とも呼ばれ、健康本などでわたしたちがよく知る身体をリラックスさせる副交感神経、つまり自動車で言うところのフットブレーキです。この腹側迷走神経は、他の人とのつながりや愛情、笑顔などによって活性化されます。
もうひとつは無髄の迷走神経。こちらは「背側迷走神経」とも呼ばれ、不動化、凍りつき、麻痺、エネルギーの枯渇と関わっている副交感神経です。これは自動車で言うところのパーキングブレーキにあたり、絶体絶命の危機に面すると問答無用で身体を仮死状態にします。
解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合では、解離と不動化を引き起こす「背側迷走神経」は、「腹側迷走神経」よりも、生物学的に見てより原始的な反応だとされています。
ここでその不調和は、たとえば副交感神経のうちより洗練された腹部の機能から同じ副交感神経の背部の機能に移ってしまうという形をとるという。
この理論の支えになっているのが、すでに紹介したポージスの理論である。
彼によれば迷走神経は、進化論的により新しい腹側迷走神経と、より古い背側迷走神経に分かれ、ストレス時にはその支配が腹側から背側へと移り、より原始的な反射としての解離状態が生じるというわけである。(p21-22)
「背側迷走神経」がより原始的だと言われているのは、これが高度な社会的脳を持たない生物、たとえば軟骨魚や両生類にも備わっているからです。
哺乳類などに備わる「腹側迷走神経」は、人とのつながりや愛情、笑顔、社会的なつながりによって活性化しますが、「背側迷走神経」はもっと原始的な、心の伴わない身体の反射であり、それが働くと凍りつきや麻痺といった解離状態に陥ります。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べます。
この原始的システムの機能は不動化、代謝維持、シャットダウンである。活動の対象は内臓である。(p118)
背側迷走神経は、身体を不動化、シャットダウンし、内臓をさえ制御します。つまり、極めて身体的な反応が現れるということです。
絶体絶命システム
生物学的な難しい説明が続いていますが、大事なポイントなので、もう少しご辛抱ください。
わたしたちの自律神経は、交感神経系と、2種類の副交感神経系から成り立っている、ということを考えると、わたしたちは、ストレスに直面したとき、3つのステップで対処している、ということになります。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう説明しています。
疑核(あるいは「高等な」)の有髄腹側迷走神経系は、顔とのどを通して感情の情報をやりとりしていて、「社会的つながり(交流)」とコミュニケーションのシステムでもある
交感神経系は四肢に情報を送り……「闘争か逃走」をサポートする
迷走神経と背側迷走神経系は、内臓からの情報を受け取り、伝達する。そして「不動化」あるいは「凍りつき」反応を起こす。(p120)
この説明が示すように、わたしたちはストレスに面したとき、(1)腹側迷走神経、(2)交感神経、(3)背側迷走神経 の3つのステップで対処します。
別の本、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法を参考にしながら、この3つがそれぞれどのような条件で働くかを整理してみましょう。
(1)一般的な副交感神経(腹側迷走神経)が働く
人とのつながりや愛情に満たされている場合は、ストレスに面しても社会的脳をつかさどる副交感神経、通常のフットブレーキが働き、笑顔になってリラックスできます。一番理想的なストレス対処方法です。
「腹側迷走神経複合体」が主導権を握っているときには、私たちは誰かに微笑みかけられれば微笑み、同意するとうなずき、友人が不運な出来事を語れば眉をひそめる。
腹側迷走神経複合体が稼働していると、心臓にも肺にも信号が送られ、心搏数が落ち、呼吸が深くなる。
その結果、私たちは落ち着いてくつろいだ気分になったり、精神的に安定した感じを抱いたり、心地よい覚醒を覚えたりする。(p134)
(2)交感神経系が働く
助けてくれる人がおらず、自分だけで対処しなければならないような場合、手足をつかさどる交感神経系、自動車におけるアクセルが活性化します。「闘争か逃走か」という能動的なストレス反応で、なりふり構わずストレスを退けようとします。
助けを求める声に誰も応えてくれないと、脅威が増し、もっと古い大脳辺縁系が急いで加勢する。
交感神経系が主導権を奪い、闘争/逃走のために、筋肉や心臓、肺を動員する。
私たちは早口になり、声は耳障りになり、心臓も鼓動を速める。(p136)
(3原始的な副交感神経(背側迷走神経)が働く
助けてくれる人がおらず、どうやっても逃げられず、闘っても勝ち目がない、絶体絶命の状態に追い込まれると、もうひとつの、より原始的な内臓をつかさどる副交感神経、すなわちパーキングブレーキが働きます。
すると凍りつき(固まり)や破綻(麻痺)といった受動的なストレス反応、つまり解離が生じます。
最後に、逃れる術がなく、来るべき脅威をどうしても防ぎようがないと、私たちは究極の緊急系である背側迷走神経複合体を活性化させる。
この系は横隔膜を越えて、胃、腎臓、腸に達しており、全身の代謝を徹底的に減らす。(p136)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこの「究極の緊急系」である不動系を「絶体絶命システム」と呼んでいます。
後に獲得されたシステム(社会的交流または闘争か逃走)のいずれによっても状況が解決されない場合、または死が差し迫る場合―絶体絶命システムが発動する。
不動、シャットダウン、解離を支配するこの最も原始的なシステムが、あらゆる生存の試みに取って代わり、乗っ取ってしまうのだ。(p122)
長くなりましたが、わたしたちがストレスに面したとき、身体でどんなことが生じるかがわかっていただけたでしょうか。
この3つのシステムは、優先順位があって、(1)がだめなら(2)、(2)がだめなら(3)というかたちで発動します。フットブレーキで対処できなければアクセルを全開にし、それでも無理ならパーキングブレーキを使うということです。
たいていの状況では、(2)の交感神経系の「闘争か逃走か」までしか発動しないため、世の中一般では、ストレスの対処といえば、交感神経を鎮めてリラックスしましょう、とばかり言われます。
しかし、解離や慢性疲労といった特殊な病態を理解するには、(3)の「究極の緊急系」の働きまで理解しなければなりません。
そして、ここが大切なポイントなのですが、(2)の交感神経の「闘争・逃走」システムが、危機が去ってもなお鎮まらず、いつまでも危機のただなかにいるかのように反応してしまうのが、PTSDでした。
同様のことが(3)にも生じます。危機が去っても、凍りつきや麻痺、死んだふり、エネルギーの枯渇の状態のままになってしまうのが解離や慢性疲労だということになります。
この絶体絶命の不動系は緊急時に短時間のみ機能するようになっている。
慢性的に作動すれば、本当に生きているわけでも実際に死んでいるわけでもない非存在という地獄のような状態に陥ってしまう。(p127)
三池先生が不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、小児型慢性疲労症候群(CCFS)についてこう書いているとおりです。
筆者らのデータによれば、CCFS(PCFS)において交感神経機能が常に副交感神経機能を抑制しているが、交感神経機能が低下し、それにつれて副交感神経機能も低下してしまうとうつ度が高くなることがわかっている。
すなわち、頑張ることも休養することもできない究極の疲労では強い“うつ”が現れることになる。(p19)
交感神経機能が優勢になって「闘争・逃走」反応が起こっているとき、それでも対処しきれず、交感神経も副交感神経も低下させて究極の疲労やうつに閉じ込めてしまうのが、アクセルに対してパーキングブレーキを踏み込み、シャットダウンしてしまう不動系なのです。
とはいえ、ここでひとつ大きな疑問が生じます。
不動状態や解離は、本来、短時間のみ機能して、生命を逃げのびさせるための生物学的システムです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの著者ピーター・A・ラヴィーンは、自身が交通事故に遭ったとき、一時的に不動状態や解離を経験したことを語っていますが、それは一過性で、深刻な後遺症はありませんでした。(p5)
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の著者ヴァン・デア・コークも、自身が強盗に襲われたとき、解離状態になって体外離脱し、恐怖がシャットダウンされた経験を述べていますが、やはり一時的なもので、事件後に後遺症は残りませんでした。(p167)
わたしが敬愛する作家また神経科学者のオリヴァー・サックスも、道程:オリヴァー・サックス自伝によれば、山で雄牛に襲われて足に大怪我を負ったとき、強い解離を経験し、大怪我を負った「だれか」が他人に感じられましたが、程なくして我に返りました。(p268)
いったいなぜ、本来は絶体絶命のときだけに働くはずの(3)の不動化システムが、危機が去ったにもかかわらず継続して、慢性疲労に閉じ込められてしまうのでしょうか。
どうして、この最終手段である絶体絶命システムが、不登校や小児型慢性疲労症候群と関係しているのでしょうか。言い換えれば、いったい何が、「究極の緊急系」と呼ばれるほどのシステムを慢性的に発動させてしまうのでしょうか。
なぜ不動状態に閉じ込められるのか
なぜ本来は一時的な緊急システムであるはずの不動系に、何年も、さらにはそれ以上もの期間閉じ込められてしまうのか。
不動状態の研究は、生物学の分野で進展してきましたが、不動状態を長期化させる条件についても、すでに明らかにされています。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、早くも1973年、ゴードン・ギャラップとジャック・E・メイザーが、特定の状況では一時的であるはずの不動状態が長期化しうるという論文を著していました。
著者たちは極めて緻密な、非常によく統制された実験を行い、動物が脅かされかつ拘束された場合、(拘束が解かれた後の)不動状態の時間が劇的に増加することを示している。(p67)
彼らが発見したのは、「脅かされかつ拘束された場合」、一時的な緊急系であるはずの不動状態が長期化する、ということでした。その研究成果は、その後もたびたび実証されてきました。
不動状態の自然終息は、捕まえられる前(もしくは不動状態から出てくるとき)に意図的に脅かされたときや、繰り返し仰向けに置かれたときには決して生じない。
後者の場合では、モルモット(もしくは他の動物)は、数分よりもはるかに長い時間、麻痺状態を継続する。(p69)
不動状態が自然に解けるのは、危険が去ったと感じられたときなのです。野生では、捕食動物が去れば、また死の危険から解放されれば、不動状態は自然に解除されます。
しかし、自然界ではありえないような状況、つまり悪意を持ってたびたび脅かされたり、拘束されたり、意図的に激しい恐怖に繰り返しさらされたりした場合は、あまりに危険が慢性的になってしまうため、たとえ危機が去っても、からだがそれを認識できず、不動状態が終息しません。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、突き詰めて言えば、不動状態を慢性化させる要因は、動きの自由を奪われた状態で、繰り返し、恐怖や恥を味わわされることです。
動きの自由を奪われることが、ほとんどのトラウマの根底にある。
それが起こると、背側迷走神経複合体が主導権を奪う場合が多い。
鼓動が遅くなり、呼吸が浅くなり、人はゾンビのようになって自分自身や環境との接触が途絶える。解離し、気が遠くなり、虚脱状態に陥る。(p140)
では、たとえばどんな状況で、動きの自由を奪われ、恐怖を繰り返し味わうことがありうるでしょぅか。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアが説明するところによると、最も危険なのは性的虐待です。
言うまでもなく、動かないよう無理やり拘束され、同時に激しい恐怖や恥辱を味わわされるからです。その他の虐待や拷問などの経験でも、慢性的な不動状態という後遺症が引き起こされかねません。
しかし、ここでいう「動きの自由を奪われる」という条件は、何も、肉体的に無理やり押さえつけられ、拘束された場合にのみ当てはまるわけではありません。
PTSDや解離の症状は、第一次世界大戦当時、砲弾ショック(シェルショック)として注目された歴史があります。
砲弾が飛び交う戦場を生き延びた兵士たちは、性的虐待の被害者のように身体を無理やり押さえつけられたわけではありません。しかしやはり慢性的な不動状態を発症しました。なぜでしょうか。
砲弾下の兵士たちは逃走したり物理的に闘ったりすることがほぼ不可能だ。
彼らはしばしば、(積極的に闘うか逃げるかという欲求を抑制しながら)地面にぴったり張り付いたままでいなければならないことが多い。(p73)
彼らの場合、「動きの自由を奪われ」たのは、他の人に拘束されたからではなく、自分で自分を拘束したからでした。
兵士たちは、自分で動こうと思えば動くことはできました。しかし、砲弾が飛び交う中で逃げ出したりしたら、命を失ったり敵前逃亡で処罰されたりするという恐怖から、身動きがとれませんでした。彼らは自ら「闘争・逃走」反応を抑制し、その結果、不動状態に陥りました。
このように、不動状態が慢性化する背景には、力づくであろうとなかろうと、自由に動くことを抑制され、しかも激しい恐怖や恥を繰り返し味わう、という体験がからんでいます。
不登校や小児型慢性疲労症候群になる子どもたちは、はたして、これと同じような体験をしたのでしょうか。
三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)には、はっきりとした答えが載せられています。
小児型慢性疲労症候群に陥った大勢の子どもたち・若者たちと出会い、彼らの苦しみ・悩みの一端を共有する仕事のなかで、それこそが最大のストレスと感じはじめたのである。
彼らの最大のストレスとは、自らの抑制そのものである。
この自己抑制を犠牲として学校生活に溶けこみ協調性を保ち、友人関係を維持している。
自己主張をしない、自分の素顔を見せない、その場の雰囲気に自らをあわせ融和していく。表面だけの友人関係。
若者たちの間に浸透したこのような生き方は、「他人が、自分という肉体のなかに入りこんで生きているのと同じ」であり、「自分という生き物が存在している理由がわからなくなる」と彼ら自身により表現される。(p33)
三池先生が、小児型慢性疲労症候群の子どもたちを大勢診察する中で、彼らが味わっている最大のストレスだと感じられたのは、「自らの抑制そのもの」でした。
あまりに長い期間、自己抑制を強いられた子どもたちは、ちょうど、砲弾が飛び交う戦場で、塹壕にぴったり張り付いて息を潜めていた兵士たちのごとく、自分自身の気配を殺していました。
その結果、「他人が、自分という肉体のなかに入りこんで生きているのと同じ」、「自分という生き物が存在している理由がわからなくなる」といった状態に陥っていました。
もはや説明するまでもありません。これこそが解離、そして慢性化した不動状態です。
学校という戦場
不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもたちが、砲弾が飛び交う戦場の兵士たちと同じような経験をして慢性的な不動状態に至ると言うと、ある人たちは、それは極端だと異議を唱えるかもしれません。
刻一刻と命が危険にさらされる残虐な戦争体験と、平和な治安が保たれた日常における学校生活とを同列に置くなどナンセンスだと。
しかし果たしてそうでしょうか。
わたしはこの記事を書くよりずっと以前、まだ不動状態や砲弾ショックについてみじんも知らなかったころ、睡眠を削ってひたすら無理を強いる学校社会を、ナチスのテレジーン強制収容所にたとえたことがあります。
テレジーン強制収容所は、国連の視察に備えて、表向き明るく平和な社会に演出されたユダヤ人強制収容所でした。視察に来た人たちは気づきませんでしたが、裏では虐殺や虐待が当たり前のように行われていました。
現代の学校社会を、強制収容所体験と比較しているのは、わたしだけではありません。先日読んだ、愛着障害の専門家、岡田尊司先生の生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)には、まったく同じような表現がされていました。
一見何の問題もないように見える、むしろ善意に満ちた団体や家庭においても、実質的には、それと近いことが起きてしまってはいないだろうか。
たとえば、有名進学校に合格することをスローガンに、子どもたちやその親を煽って、受験勉強へと駆り立て、プレッシャーを与え続けることは、強制収容所体験に似た慢性外傷を生みはしないだろうか。
年端のいかない子どもにとって、受験戦争を戦うことは、戦争体験の後遺症にも似た慢性外傷症候群をもたらしてはいないだろうか。(p152)
岡田尊司先生は、愛着障害の観点から不登校や非行に走る子どもたちを大勢診てこられた方ですが、現代の学校社会は、「強制収容所体験に似た慢性外傷」、「戦争体験の後遺症にも似た慢性外傷症候群」をもたらしうると結論しました。
三池輝久先生は、早くも1994年、学校過労死―不登校状態の子供の身体には何が起こっているかの中で、学校社会によって、あたかも強制労働をさせられるかのようにして過労死させられる、それが不登校であり慢性疲労症候群だと主張していました。
まったく違う観点から不登校の子どもを大勢診察してきた二人の医師、そして当事者であるわたしがみな学校社会を強制収容所や戦争体験、強制労働に例えたのは偶然とは思えません。
確かに学校社会では、だれもが不登校になるわけではなく、だれもが辛い経験をするわけではありません。それは戦争体験とはかなり異なる点です。しかし、だからといって、そこが安全であるという意味にはなりません。
労働災害の「ハインリッヒの法則」では、1つの重大な事故の背後には、29の小さな事故、そして300の異常があると言われます。
これを学校社会に当てはめてみると、1人が不登校や小児型慢性疲労症候群になる背後には、29人が起立性調節障害など何らかの問題を発症し、さらに300人がトラブルを経験することになります。
特にリスクが高いのは、発達障害や学習障害(LD)、発達性協調運動障害(DCD)などの子どもたちです。
本当はがんばっているにもかかわらず、うまくできないことを教師たちから「怠け」や「サボリ」とみなされてやり玉に挙げられます。他の子より人いちばい努力しているのに、人間性を度外視した成績表の数値で低く評価されるので、自尊心が傷つけられます。
三池先生は学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)でこう述べています。
私は、私たちが学力と称しているものが、じつはロボットやコンピュータ脳の機能であって、真の学力やこころとはかけ離れていることを述べてきた。
このような、人としてのこころに欠ける学校社会のなかでは、しばらくの間、子どもたちは自分の顔に仮面をつけたまま生きていかざるを得ない。(p223)
子どもたちは教師たちから、けっして一人前の人格が認められておらず、怠けているなどの疑いの目でみられていることを示すのである。(p143)
わたしはまったくその通りだと思います。近年、教師によるいじめが問題になっていますが、それが特殊な事例だとは思いません。
なぜ教師が子どもを「いじめ」るのか (1/5) 〈AERA〉|dot.(ドット)
わたしの経験を思い返してみても、学校生活は、砲弾下が飛び交う戦場のような緊張感に満ちていました。飛び交っていたのは、命を奪う弾ではなく、心を傷つける言葉や恥をかかせる罰でした。
たとえば、忘れ物をしてきた子は、みんなの前でこっぴどく怒られ、晒し者にされました。体罰を加えられることもありました。
わたしは、生まれつきのADHD気質のせいか、それとも解離傾向のせいか、どちらかは定かではありませんが、忘れ物が異常に多い生徒でした。どれほど気をつけていても必ず何か忘れてしまっていました。
忘れ物がばれると、みんなの前でひどく怒られることは目に見えていたので、何か忘れ物をしてしまったことに気づいたら、大急ぎで隣のクラスの友達に借りに行きました。それが無理なら、授業中、どうにかばれないことを願いながら、ひたすら目立たないよう気をつけていました。
ナチスの強制収容所では、看守に目をつけられるとひどい仕打ちを受けるため、囚人たちはできるだけ目立たないよう努め、気配を消していたといいます。子どものころのわたしの体験は、それとよく似ているように感じられます。
すでに見たとおり、不動状態が慢性化する背景には、物理的であろうと、心理的であろうと、自由に動くことを抑制され、しかも激しい恐怖や恥を繰り返し味わう、という体験があります。
慢性的な解離の発症には、「恥」の体験が、切り離せないほど深く関わっています。
前の記事で詳しく説明したとおり、特に、逃げられない状況下で、繰り返し辱めを与えられる行為は、古代より死刑より残酷な「公開羞恥刑」として知られてきました。
戦争が身近だった時代の人々が「公開羞恥刑」を死刑より残酷なものとみなしていたのであれば、学校社会で経験するそれと同様の吊し上げやいじめが、命を奪い合う戦争体験より軽いものだとみなすことは到底できません。
上記の記事で取り上げたとおり、「恥」が死よりも辛いのは、その人の命そのものではなく、人格を殺すからです。耐え難い恥は、「魂の殺害」と呼ばれるとおり、人を生ける屍、ゾンビのようにしてしまいます。
身体を殺されなくても、心だけが殺された状態、つまり身体から心が分かたれた状態が解離です。
岡田尊司先生が、生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)で述べるように、いじめはまさしくそのようなもの、公に恥をかかせ人格を殺す「公開羞恥刑」です。
いじめは、その人の居場所を奪い、存在価値を否定する行為であり、それだけでも深く傷つくのだが、さらにその傷を複雑なものにするのは、そこに恥の感情が入り混じることによってである。
いじめられるという状況は、明白な暴力とは異なり、人前でからかわれたり、なぶりものにされたりするという状況をしばしばともなう。
いじめには、みんなが犠牲となった人の困る姿を見て面白がるという見世物的な要素がある。(p138)
解離性障害の専門家たちは、しばしば、解離のきっかけとなるのは、どこにも逃げ場のない状態で、「安心できる居場所」を完全に奪われることだといいます。
言い換えれば、恥や恐怖という獰猛なトラが襲いかかってくるにもかかわらず、「闘争か逃走か」という手段がどうしても不可能なとき、人は解離、つまり不動化という最終手段で反応します。
いじめは、まず安心できる居場所という逃げ場を奪い、その上で公に恥をかかせるので、いじめられた子は逃げ出すことも闘うこともできず、不動状態になって感覚をシャットダウンするしかなくなります。
学校社会全体もまた同じです。三池先生が学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で述べているとおり、学校は、子ども一人ひとりの人格を尊重するどころか、他者と比較し、人格を殺して協調するよう求めるからです。
のびのびと個性尊重教育とは名ばかりの、がちがちに規則で固めた指導教育の押しつけをおこなう、平たくいえば教育方針の正反対方向への変更が平気でなされる現代の学校社会から子どもたちは脱出しはじめている。
…日本においては「人格を認められない場」として、あるいは「自分の価値観を学校の価値観にあわせて変更しなければならない理不尽さ」が存在する場としての学校から、子どもたちを守ろうとする考えから、学校離れの動きがでてきている。(p144)
「人格を認められない場」である学校社会という戦場では、人格を殺す砲弾が飛び交っています。しかも、学校から逃げ出すという選択肢は、ほとんどの子どもは自分で選べません。
教師による吊し上げであれ、同級生によるいじめであれ、繊細な子ども、敏感な子ども、発達障害や学習障害の子どもなど、他の子よりもリスクが大きい子どもたちは、いつなんどき公開羞恥刑に遭うかもしれない恐怖に、慢性的にさらされています。
わたしは三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)を読んだとき、当初、不登校や小児型慢性疲労症候群の説明には強く共感しつつも、それらと関連してさまざまな凶悪少年犯罪の事例が挙げられていることに戸惑っていました。
私はこの10年あまり、著書(1994年『学校過労死』診断と治療社、1997年『フクロウ症候群を克服する』講談社)や講演を通して、若者たちの慢性疲労と自信の喪失、さらには若者たちによって引き起こされる神戸少年殺傷事件に匹敵する残忍な犯罪の頻度が高くなるであろうと予測してきた。(p7)
しかし、今の知識からすれば、それらの関連を見抜いていた三池先生の観察眼の鋭さは確かでした。
上に挙げた「公開羞恥刑」の記事で説明したとおり、犯罪心理学者のジェームズ・ギリガンは、幼少期からあまりに度重なる恐怖や恥を経験し、人格を殺され、極度の解離状態に陥った人たちが凶悪犯罪に手を染めることを発見しました。
解離が感情や身体感覚のシャットダウンとして現れるか、それとも身体の不動状態として現れるかという違いはあれど、病理全体として見れば、不登校も凶悪犯罪も、ある程度連続性を持った近しい場所にあるのでしょう。
3つの共通ストレス
学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で三池先生は、小児型慢性疲労症候群の発症には、共通した三つのストレス要因があると述べていました。
私たちの研究では共通した三つのストレスの要因があると判断され、さらに第四、第五のストレスが加わると脳が眠れなくなって疲労がたまると考えられている。
…つまりすべての子どもたちが生活環境のなかにもっている共通のストレス背景としては、
(1)夜型生活による日常的睡眠不足状態、
(2)情報量の多さに伴う競争社会による緊張持続、
(3)協調性を重視する学校社会での自己抑制的生活があげられる。
すなわち起きている時間のほぼ100パーセントが緊張を強いられている状態にある。(p66)
この3つのストレス要因を、ここまで見てきた慢性化する不動状態の原因と比較するとどうでしょうか。
まず、(1)夜型生活による日常的睡眠不足状態。
これは「安心できる居場所」の喪失に当たります。本来は、くつろいで休めるはずの家庭、そして睡眠の時間という逃げ場が失われてしまいます。
こうなると、先に見た3つのストレス反応のうち、最も優先順位が高い、リラックスに欠かせない副交感神経、腹側迷走神経による安らぎという選択肢は失われます。
睡眠不足の子どもたちがADHD様の多動症状を見せることは睡眠の専門家のあいだでよく知られていますが、それは睡眠不足が腹側迷走神経を弱め、次の段階のストレス応答、「闘争・逃避反応」にギアチェンジしてしまうからです。
次に、(2)情報量の多さに伴う競争社会による緊張持続。
これは、砲弾が飛び交う戦場のように、常にだれかと戦わなければならない、緊張に満ちた状況です。
この段階では、3つのストレス反応のうち、2番目に優先される交感神経系による「闘争か逃走か」が働きます。もしここで「闘争か逃走か」に成功すれば、その子は慢性疲労症候群や不登校ではなく、非行に携わったり、問題児になったりします。
最後に、(3)協調性を重視する学校社会での自己抑制的生活。
砲弾が飛び交う戦場のような場所で、恐怖や恥の感情のせいで「闘争か逃走か」に踏み切れず、ただじっと息を潜めて自己抑制する状況です。
この段階に至ってしまうと、3つのストレス反応のうち、最も原始的な最終手段である、不動系が働きます。
つまり、この3つのストレスがすべて重ね合わさると、慢性化した不動状態に閉じ込められてしまう条件が整うことになります。
このほかにも、慢性的な不動状態のリスクを増加させる幾つかの要因があります。
まず、途中ですでに述べましたが、生まれつきの感受性の強さ(HSP)や自閉スペクトラム症(ASD)などがあると、人よりも感覚刺激が強くなるので、よりストレスを受けやすく、解離によるシャットダウンに至りやすいでしょう。
また、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、女性であることもリスクのひとつです。
しかしながらブランチャードらの研究では被験者の大部分が女性であり、治療を求めていた人のみが対象であった。
女性は(心拍数を下げる)迷走神経と関連のある「凍りつき」のストレス反応をより多く示しがちである―反対に男性は交感神経―副腎系反応が優性であることが多い。(p17)
一般的にいって、男性は交感神経優位の「闘争・逃走」反応を示しやすく、女性は背側迷走神経優位の「凍りつき」や「麻痺」反応を示しやすいようです。慢性疲労症候群が女性に多い理由のひとつでしょう。
おそらく、男性の場合、テストステロンなどの男性ホルモンが女性より活動性を高める要因のひとつです。それに加えて男性優位の文化によって形作られる幼少期からの影響(ジェンダー)は女性の抑圧傾向を助長しているはずです。
とはいえ、昨今は「草食系男子」と呼ばれるように、解離傾向の強い自己抑制的な男性も増えてきています。これは、最後のほうで考えるように、本来の性別の影響を超えて、文化による影響が解離促進的になっている時代だからでしょう。
加えて、その子が幼いときから育んできた愛着スタイルのタイプも関係しています。
養育環境によって形作られる愛着スタイルのうち、「安定型」の子は、ストレスがかかっても、社会的つながりを活用してリラックスできる腹側迷走神経が働きやすく、不登校になりにくいはずです。
「不安型」(とらわれ型)の子は、ストレスがかかると、交感神経系優位で「闘争・逃走」反応を示しやすく、多動や衝動の強い問題児になりやすいかもしれません。
「回避型」の子は、部分的に解離が生じ、感情のみをシャットダウンして、クールに批判的になったり、いじめっ子になったり、自分に対して過度に厳しくなったりしますが、かえって優秀な成績を収めることもあります。
(記事末尾の補足1で扱いますが「回避型」は成人後の慢性疲労症候群のリスクだとわたしは思っています)
不登校と強く関係するのは、最後の「無秩序型」(恐れ・回避型)と呼ばれるタイプで、恐れや恥の気持ちが強く、安心感を感じにくく、ストレスが生じたときに解離や不動状態で対処しやすいと言われています。
このタイプは、不登校や回避性パーソナリティ障害、慢性疲労などに陥るリスクが高いといわれています。
こうした不安定な愛着スタイルは、乳幼児期に混乱した養育を経験した場合や、不安定な家庭で育った場合に見られやすいものですが、三池先生も学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で慢性疲労や不登校との関連を指摘しています。
その他にもいろいろな動物実験から、生後間もない親と子の密接なやり取りのなかで生命の脳は育っていることと、何があっても自分を守ってくれる保護者の存在が実感されなければ、外界に対する好奇心が芽生えないので学習もはじまらず、逆に乳幼児期の極端な愛情欠乏はこころを育てることを難しくする結果となることが知られている。(p86)
離婚は当事者としての父母や子どもにも、見捨てられ感が芽生える。つまり不安緊張が生まれるので、子どもたちの慢性疲労症候群が引き起こされやすく、不登校の引き金的原因となりうる。(p90)
そのほか、意外に思える条件で、不動状態が慢性化してしまうこともありえます。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、本当に安定した健全な家庭でも、子どもに不動状態などの奇妙な反応が現れることがあります。
安定して慈愛に満ちた家庭環境を提供している「十分に良い(good enough)」両親の子どもの場合、とくに当てはまる。
ときに子どもの新しい反応は、それがどれほど些細なものであったとしても謎めいたものとなる。
当惑する家族は子どもの行動や症状と、恐怖の原因とを関連づけて考えたりはしないだろう。(p242)
そうした子どもの原因不明の不動状態は、時として、子どものころの交通事故などによる身体的外傷や、それにともなって、善意で行われた医療処置などによって引き起こされる場合があります。
何千人もの兵士が戦争の強烈なストレスと恐怖を経験している。さらにまたレイプや性的虐待や性被害といったひどい事件もある。
しかしながら私たちの多くは、手術や侵入的な医療処置といったよりずっと「普通の」出来事によって圧倒されているのだ。
例えば最近の研究によると、整形外科の患者で手術後に完全な心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断される割合が52%を示したという。(p11)
この本には、若くして慢性疲労や慢性疼痛に悩まされるようになった大学院生の女性の経験が載せられています。
ナンシー(仮名)は頻繁な片頭痛、甲状腺機能亢進症、疲労、さらに慢性疼痛やひどい月経前症候群に悩まされていた。
今日では、このような症状は線維筋痛症と慢性疲労症候群と診断されるだろう。(p24)
のちに、この女性の多彩な症状の原因は、4歳のときに経験した扁桃腺摘出手術の恐ろしい経験にあることがわかりました。彼女はセラピーを受けるまで、その経験のいっさいを忘却、つまり記憶から解離させてしまっていたため原因不明だったのです。
後にナンシーは次のように報告している。
このセッションの間、彼女は自分が4歳の子どもに戻って、「ありふれた」扁桃摘出手術のためにエーテル麻酔をかけようと彼女を押さえつけている医師たちから逃げようともがいている悪夢のようなイメージを見ていた、と。
そのときまでこの出来事は「長い間忘れ去られていた」ものだったと言う。
…セッション中に起きたパニック発作はそれが最後の発作となり、それから2年間、大学院を卒業するまでに、慢性疲労、片頭痛、そして月経前症候群も劇的に改善した。(p26)
この経験のように、幼いころの事故や病気に伴う医療措置は、拘束された状態で恐怖や痛みを伴うがゆえに、慢性化した不動状態をからだに刻み込んでしまうことがあります。
こうした幼少期の不動化は、意識からは忘れられていても、からだに記憶されたままになっていて、数年以上経ってから、何か別のショックをきっかけに表面化することがあります。
理由は不明であることが多いが、半年以上もしくは1年半や2年以上も経た後に遅れて症状が出現するのは珍しいことではない。
また症状は別のトラウマ経験をしたときに初めて明確になることもある。それが数年経った後という場合すらありうる。(p203)
「からだの記憶」
幼少期に受けた怖い手術の体験が、のちに慢性疲労や慢性疼痛として表面化するというと、どうにも奇妙に思えるかもしれません。
しかしこれは、先ほど見た、幼少期に形成された不安定な愛着が、学生時代に不動化や不登校のリスクになりやすいのと同じ理由によるものです。
不安定な愛着とは、まだ自我が形成される前に、からだに記録された幼少期の記憶であり、成長してからも、からだはその記憶を無意識のうちに再演します。
わたしたちの記憶には、顕在記憶と潜在記憶、つまり意識して思い出せる記憶と、無意識の中にしまいこまれてアクセスできない記憶が存在すると言われています。
なんともつかみどころのない概念ですが、有名なアレクサンダー・テクニークの創始者、F・マサイアス・アレクサンダーは無意識とはすなわち「からだの記憶」のことだと考えました。
19世紀末のオーストラリア人、F.M.アレクサンダーは人間の姿勢について広範な研究を行い、「心理学者たちが語る無意識というのは、からだのことなのだ」と結論づけた。(p185)
彼が開発したアレクサンダー・テクニークとは、身体の無意識の動きや姿勢に、その人の感情や信念が反映されている、という理論にもとづき、習慣的な姿勢を正すことで、心と身体を整える手法です。(p32)
以前の記事で書いたとおり、精神科医ノーマン・ドイジは脳は奇跡を起こすの中で、この無意識の記憶、「からだの記憶」とは、いわゆる手続き記憶である、と述べています。(p270)
手続き記憶とは、言葉で説明できない、からだに染み込んだ記憶のことで、たとえば自転車の乗り方がそうです。
自転車の乗り方は、からだが記憶しているものなので、わたしたちはどうやって乗っているか、言葉で他の人に説明することができません。しかし、言葉にできなくても、ひとたび自転車に乗れば、頭で考えなくても運転できます。
からだが覚える手続き記憶の不思議なところは、長年使っていなくてもほとんど忘れないということです。長年自転車に乗っていなくてもいざ自転車に乗ればからだが覚えています。ずっと演奏していなくても楽器を手に取れば弾き方をからだが思い出します。
からだに染み込んだ手続き記憶は、一度学習すれば、めったに忘れることなく、何度でも再演することができます。
これと同様のことがトラウマ記憶や、慢性化する不動状態では生じています。
つまり、幼少期に混乱した養育を経験して、解離によって対処せざるをえなかったことや、拘束されたままで怖い手術を受けて、不動化に陥ったことは、意識は覚えていなくても、からだは手続き記憶として覚えています。
そのため、後の人生で同じような場面に出くわし、強いストレスにさらされたとき、ちょうど無意識に自転車を乗りこなし、楽器を弾き始めるように、からだがかつての不動状態を再演し、慢性疲労や凍りつきに陥ってしまうのです。
そのようなわけで、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアは「からだの記憶」についてこう述べます。
残念なことに多くのトラウマ被害者にとっては、このような解離反応もしくは「からだの記憶」はささいなものでも一過性のものでもない。
それらはトラウマ被害者に現在の時間に―今ここに―注意を向け、定位し、機能することを不可能にさせ、なおかつ長きにわたる多種多様ないわゆる心身症的(身体的)症状(正式には「身体性解離」と呼ばれるもの)を発症させる。
実際にはトラウマを受けた人の身体的麻痺症状はずっと続くわけではない。
しかし霧の中にいるような不安、慢性的な部分遮断、解離、遷延化する抑うつ、そして無感覚状態で途方に暮れたままとなる。
多くの人は人生の喜びを享受できない「機能性凍りつき」状態のまま、かろうじて生活を送ったり家庭を築いたりしている。
こうした症状に加えて、生きていくうえでの困難な道のりを歩むためのエネルギーも、トラウマを受けたために激減してしまう。(p65)
トラウマ記憶は「からだの記憶」であるということを知れば、不登校や小児型慢性疲労症候群とは何なのか、よりはっきり理解できるようになります。
それは、「こころの問題」でも、「気の持ちよう」でも、ましてや「怠け」でも「サボり」でもありません。からだに染み付いた、叩き込まれた不動状態なのです。
「からだの記憶」がいつ形成されるのかは人それぞれです。
ある人は乳幼児期の混乱した養育環境のせいで、からだに無秩序型の愛着として、解離のパターンが記憶されます。
ある人は、幼少期に受けた手術のとき、身体を拘束されたまま痛みや恐怖を感じたことで、不動状態のパターンがからだに染み込みます。
またある人は、学校社会で長年、砲弾下の兵士のように、目立たないよう息を潜め、ただじっと身体を抑制していた不動状態が、からだに記憶されます。
そして、多くの場合、これらは複数重なり合って、あたかも自転車の乗り方や楽器の弾き方を反復練習するかのように不動状態を増強させていきます。
一度身体に覚えさせたパターンはそう簡単には失われず、同じような場面がくると自動的に実行され、しかも繰り返すたびに強化されます。
そのようにして、不動状態という「からだの記憶」を繰り返し繰り返し強化してしまい、麻痺や凍りつき、エネルギーの枯渇が当たり前のようになってしまった状態が、不登校であり小児型慢性疲労症候群なのです。
慢性的な不動状態は、無感覚、シャットダウン、罠にかかった感じ、無力感、抑うつ、不安、恐怖、激しい怒りと絶望といった、トラウマの中心的な情動症状を引き起こす。
そうなると、いつもビクビクし、消えることのない(内的な)敵から安全に逃れることを想像できず、人生を生き直すことができない。
重篤で遷延的(慢性的)なトラウマのサバイバーたちは、自らの人生を「生ける屍」のようだと述べる。
マレーはこの状態について次のように鋭く記述している。「それは、まるで人間の活力の源泉が干上がってしまったかのようであり、まるで実存の中心が空虚であるかのようである」(p83)
不安定な愛着やトラウマ記憶が「からだの記憶」であり、無意識のうちに再演されることについての科学的な根拠については、以下の記事で説明しています。
不登校になった理由を説明できない
自転車の乗り方や楽器の弾き方のような「からだの記憶」は手続き記憶であり、通常の陳述記憶のように、言葉で説明することができません。手続き記憶には文脈がなく、物語として語ることはできません。
そのことを知ると、三池先生が不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するで書いている、不登校の子どもたちが示す奇妙な特徴の説明がつきます。
この自己矛盾状態にこそこれまでの“不登校解釈”の歴史が潜んでいるのだと考えられる。
一般には、患者自身が自らの不調を訴え受診するのが普通であるが、小児慢性疲労症候群(CCFS)としての“不登校”は自らのコントロールタワー(脳機能)が混乱する病的状態を中心としているため、何が起こっているのか本人自身にも皆目わからないという“自己矛盾状態”を主訴とするのであるからややこしい。(p22)
不登校とは何なのか、いまだ様々な意見が飛び交っているのは、当人たちが、自分自身に何が起こっているのかを説明できないからにほかなりません。
それもそのはず、不登校を不動状態として考えれば、その原因は「からだの記憶」であり、手続き記憶は言葉にできないのです。
不登校になった子どもが、自分が不登校になった理由を文脈にそって語ることができず、第三者から「学校嫌い」や「登校拒否」や「こころの弱さ」や「学校に行かないという選択」などとさまざまなレッテルを貼られている状況は、解離性障害の歴史と類似しています。
以前に取り上げたとおり、解離性障害の患者も、はるか昔に「ヒステリー」(子宮の病)という侮蔑的な名前をつけられて以降、詐病や神経衰弱やノイローゼなど、ありとあらゆるレッテルを貼られてきました。当事者たちが、自らの体験を文脈にそって語れなかったからです。
両者に共通しているのは、症状を引き起こしているのは通常の陳述記憶ではなく、無意識のうちに理由もわからず実行される手続き記憶であり、手続き記憶は言葉で説明できないということです。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、言葉に言い表せる通常の記憶に対して、トラウマ記憶などのからだの記憶は文脈から解離している、と述べています。
端的に言えば、私たちの研究は、100年以上前にジャネとその同僚たちがサルペトリエール病院で記述した二重の記憶システムの確証となった。
トラウマ記憶は私たちが過去について語る話とは根本的に違う。トラウマ記憶は解離している。
トラウマを負ったときに脳に入った異なる感覚は、適切にまとめられた一つの話や自伝のひとコマにはなっていない。(p321)
トラウマにさらされた解離性障害の患者であれ、不登校の子どもであれ、文脈をもたない「からだの記憶」がストレス反応を再演し続けているだけなので、なぜそうなったのか理由を聞いても答えられないのは当然です。
三池先生は、不登校に陥った子どもたちを、怠けだとか、根性がないとか否定することは「中傷」であるとしていましたが、それは医学的に見ても正しいことでした。
不登校状態に陥った学生生徒が両親からも、友人たちからも、また学校社会からも見捨てられるという強い孤独感と不安感を抱えこんでいく実態は、ほとんど知られていないようである。
ゆえに、彼らを怠けであるとか、根性がないとか否定することにつながっているのであろうが、このような中傷は彼らの傷口に塩を塗り込む行為、いじめや虐待と同様のものといってもよい。(p92)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・A・ラヴィーンも、戦争の砲弾ショックなどのトラウマ被害者について、まったく同じ意見を書いています。
この話は、圧倒的な脅威に直面したときの不動化や解離を臆病と同じ類の弱さとして裁きがちな現代文化に異論を唱えるものだ。(p74)
言葉で説明できないのは、こころの弱さでも怠けでもなんでもなく、症状が「からだの記憶」によって再演されている説明不能のものであることを示しているにすぎないのです。
なぜ時々元気に見えるのか
不登校や小児型慢性疲労症候群を「からだの記憶」によって無意識のうちに引き起こされる不動状態として見ると、さまざまな不可思議な症状の理由を説明できます。
たとえば、三池先生は学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で繰り返し、不登校の子どもたちに、まっすぐぴんと座れず、全身から力が抜けたような、「背骨のない」状態、姿勢保持筋の弱さが見られると書いています。(p27,98)
こうした姿勢保持の弱さは、廃用性筋萎縮とみなされることが多いですが、それは事実に即していません。不登校の子どもたちは、ときおり、自分の本当に好きな活動なら、一時的に熱中することができます。そのときは長時間同じ姿勢を保っています。
不登校の子どもたちは、興味のある活動(おそらくドーパミンレベルが上昇する活動)の際には、一見元気そうに見えるので、怠けている、気の持ちようだと誤解されがちです。もし本当に筋萎縮が生じているならそんな誤解は生じません。
つまり、姿勢が崩れてまっすぐ座れないのは、筋肉が弱ったからではなく、本来そこに注がれるべきエネルギーが遮断されているからです。
そして、それは、ここまで見てきたことから明らかなとおり、不動系が働いて、身体が凍りつきや麻痺状態にある人の特徴です。不動系が働くと、全身がこわばり、力が抜け、虚脱状態に陥るからです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べていました。
一方で、死を明らかに避けられないものとして経験するとき(例えばむき出しになった牙が今にもあなたを殲滅させようとしているときのように)、筋肉はあたかもすべてのエネルギーを失ってしまったかのように崩れ落ちてしまう。p61)
慢性的な不動状態といっても、デフォルトの反応が不動系に固定されているだけであり、場面や状況によって、わずかながら交感神経の「闘争・逃走」に移行したり、あるいは腹側迷走神経のリラックス反応が一時的に働いたりすることもあります。
健康な人の場合、緊急時に、一時的に「闘争・逃走」反応や「凍りつき・麻痺」の不動系がオンになるのと同じです。
同様に、PTSDの人たちも、デフォルトが「闘争・逃走」反応になっているとはいえ、一時的に不動系に支配されたり、リラックスした気分になれたりすることがあります。
いずれの場合も、どのストレス反応が、デフォルトの位置に固定されているかという違いだけで、場面によっては、一時的に別のモードに移り変わったり、複数のモード(とくに交感神経系と不動系)が同時に生じたりすることがあります。
これらはほぼ体質的なものであり、性差も関係している。さらにこうした症候群は経時的に、ときには一回のセッション中に変化する傾向がある。
最も重要なのは、セッション中に三つの系統のうちどれが活性化しているか、どれが休止しているかに応じて治療方法を変えなければならないということある。(p125)
このことを理解すれば、不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもたちが、四六時中エネルギー不足に悩まされているわけではない、という不可思議な事実の意味を説明できます。
もしも小児型慢性疲労症候群が、しばしば言われるようにエネルギー産生の障害であるなら、一時的に元気に活動できたり、ときどきゲームに熱中したりできるのは辻褄が合いません。ときどき元気に見えるから仮病呼ばれりされてしまうわけです。
しかし、そうした症状の変化が示しているのは、この病態は、エネルギー産生の障害ではなく、エネルギー活用の障害であり、本来はエネルギーがあるはずなのに、何かしらの理由でエネルギーが解離されていてアクセスできない、ということです。
それは本来はエネルギーが存在しているのに、身体を虚脱させて麻痺状態に置き、いざチャンスが来たときに全速力で逃げられるようエネルギーを隔離したままにする、という不動系の働きと一致しています。
しかし不動系が解除されなくなっているので、エネルギーが隔離されたままになっていて、一時的に不動系から他のモードに移行した瞬間だけ活力が戻ってくるというわけです。
しばしば解離性障害と見分けがつきにくいとされる双極性障害II型も、やはり慢性的な疲労感や抑うつと、一時的な軽い躁状態を特色としています。おそらくは不動系の脳の反応がデフォルトになっていて、一時的に他のモードに切り替わる類似した病態なのでしょう。
原因不明の胃腸症状や息苦しさの理由
さらに、不登校や小児型慢性疲労症候群の子どもたちは、さまざまな不定愁訴を訴えます。わたしも経験したことですが、その中にはたとえば腹部膨満感や過敏性腸症候群のような症状、息苦しさ、のどのつっかえなどがあります。
検査に出ない腹部膨満感は、ストレスが原因の「呑気症」、「空気嚥下症」などと呼ばれます。のどのつっかえ感は漢方では「梅核気」、西洋医学では「ヒステリー球」などと呼ばれていますが、ヒステリーとはつまり解離の古い呼び名です。
こうした症状は、古くから神経症、ヒステリーと結び付けられていて、解離性障害では頻繁に見られる症状群です。解離の専門家は、解離性障害の人が訴えるさまざまな身体的な不快感を「体感セネストパチー」と呼びます。
一見、これらは、神経質な人が気にしすぎるために感じる症状に思えますが、解離を不動状態という生物学的現象としてとらえると、決してそうではないとわかります。
3つのストレス反応のところで少し触れましたが、最も原始的といわれる不動系、つまり無髄の迷走神経(背側迷走神経)は、内臓からの情報を受け取って作動するシステムです。
脳から内臓に指令を送るのではなく、内臓からの情報を受け取る、というところに注目してください。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう説明しています。
驚くべきことに、内臓と脳を結ぶ迷走神経の90%もが感覚性である!
つまり、脳から内臓に指令を伝える神経繊維1本につき、9本の感覚神経が腸の状態に関する情報を脳に送る。
…脳から内臓に対してよりも、明らかに内臓の方が脳に対する発言力がある(9:1の割合で)!(p145)
不動状態は、「からだの記憶」によって引き起こされるものでした。しかも、不動状態は、わたしたちの意思にかかわりなく、全身を強制的にシャットダウンします。
これほどまでに「からだの記憶」が強力なのは、不動系を構成する、脳と内臓をつなぐ迷走神経のうちなんと9割もが求心性、内臓から脳のほうへ情報を伝達する経路だからなのです。(p166)
そうすると、そもそも不動状態とは、脳が判断して引き起こしているものではなく、からだの判断によって引き起こされているということになります。
不動状態およびシャットダウン状態では、内臓が激しい恐怖を感じているため、通常はその感覚を意識から遮る。(p149)
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にもこう書かれています。
「怖くて体が硬直する」とか「恐怖で凍りつく」(虚脱状態や麻痺状態に陥る)といった表現は、恐怖やトラウマがどのように感じられるかをじつに正確に言い当てている。
トラウマは、内臓を土台とするそうした感覚から生じる。
恐れの体験は、何らかのかたちで逃避が妨げられて感じた脅威に対する原始的な反応に由来する。
内臓の経験が変わらないかぎり、その人の人生は恐れに人質に取られたままとなる。(p163)
拘束されて逃げられないという恐怖を感じるのは、脳ではなくまず身体なのです。
たとえば、わたしたちは熱いお湯に指が触れたとき、先に「熱いから手を引っ込めよう」と思うでしょうか。それともまず考える間もなく、手が勝手に反応して引っ込むでしょうか。間違いなく身体が先に反応します。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでは、実験心理学者ウィリアム・ジェームズの、こんな洞察が引用されています。
私の理論では、身体的な変化は刺激因子を知覚した直後に起こる。それと同じ変化の感覚が感情である。
「常識」によれば、財産を失えば悲しくなり涙を流す。クマに会えば怖くなり、逃げ出す。ライバルに侮辱されると、怒りを感じて殴る。
ここで主張している仮定は、この順序は正しくないということだ。ひとつの精神状態が別の精神状態によって即座に引き起こされるわけではない。
その前にまずからだの兆候が現れる。
より合理的な(正確な)説明としては、泣くから悲しくなるのであり、殴るから怒りを感じるのであり、震えるから怖いのだ。(p373)
この説明は直感に反するかもしれません。
しかし、わたしたちのストレス反応は、基本的に身体が先に反応し、次いで情動が動かされるようになっています。
神経生理学者ベンジャミン・リベットは、人は刺激を受けると、まず脳が反応し、その後0.5秒遅れて、意識がそれに気づくという有名な実験で知られています。(p375)
この実験は、わたしたちの意思より前に無意識の脳が反応しているという文脈でしばしば引用されますが、からだが先かこころが先か、という問題にはっきりとした答えを与えています。
腹側迷走神経は安心するからリラックスするのでしょうか。違います。だれかに抱かれたり、笑顔になったり、マッサージを受けたり、温かいお湯でくつろいだりすると、身体の反応に続いて、心がリラックスします。
交感神経系は手足の動きと密接につながっています。歩くと気分がすっきりして、サンドバッグを殴るとスカッとして、自転車に乗ると気分がよくなり、走るとアドレナリンハイになります。
そうであれば背側迷走神経も同じです。これは内臓の働きと強く関係していて、危険がせまると身体がふるえ、胃が痛くなり、胸が引き裂かれるようにうずきます。ついで、怒りや悲しみ、恐怖、恥ずかしさなどがこみ上げてきます。
そのようなわけで、不動状態を引き起こすのは内臓なのです。内臓が恐怖や恥を感じ取り、硬直したり締め付けられたりするので、内臓は「この感覚をどうにかしてくれ!」という悲鳴に似たコールサインを脳に送ります。
するとそれに呼応するように不動系が活性化し、内臓の要請に応えて、内臓の望みどおりに、身体の感覚をシャットダウンします。
このとき、内臓ではさまざまな反応が生じます。胃や腸の不定愁訴が引き起こされ、心臓の鼓動や肺の働きにも影響が及びます。
避けがたく致死的な状況では、は虫類の脳である脳幹が内臓に強い信号を送り、その結果、一部の内臓は過剰作動(胃腸系)などに陥り、他は収縮して停止(肺の細気管支や心臓の拍動など)する。
最初の例(過剰作動)では、胃けいれんや締め付けるような痛みまたはゴロゴロいう制御不能な下痢といった症状が現れる。
肺の場合は、苦しく息の詰まる感覚が現れ、慢性化すると喘息の症状になる場合がある。(p155)
身体はこわばり、腹部膨満感や過敏性腸症候群や機能性ディスペプシアといった胃腸の不定愁訴が生じ、呼吸は浅くなり息苦しくなります。
呑気症、空気嚥下症、のどの固まり、ヒステリー球などという病名は、「ストレスのせい」「自律神経失調症」「こころの問題」と同じほど役に立たない医者の方便です。
その実態は、気のせいでも神経質でもなく、内臓と密接につながっている不動系の反応であり、内臓が感じている恐怖や恥などの「からだの記憶」を脳に伝達するメッセンジャーなのです。
この記事では詳しく触れる余裕がありませんが、慢性疲労にしばしば合併する慢性疼痛(線維筋痛症など)についてもこの本に症例が出ており、正反対の方向へと筋肉を引っ張る、激しく葛藤する「からだの記憶」という観点から考えることができます。(p230-234)
この本によると、3つのストレス反応のうち、腹側迷走神経(通常の副交感神経)と不動系はほとんど排他的ですが、交感神経系(闘争・逃走反応)と不動系は同時に働くことがあります。(p126)
たとえば事故の瞬間、闘うか逃げるか、といった相反するエネルギーが筋肉に生じた状態のまま凍りついてしまうと、交感神経系と不動系が同時に活性化したパターンが記憶され、両方向に引っ張られた筋肉は慢性疼痛を生じさせます。
これはつまり、「反対の運動パターンまたは未完了の運動パターン」がからだに記録され、再演されているということであり、線維筋痛症などの慢性疼痛が引き起こされる原因になると考えられます。(p353)
そのほか、不登校や小児型慢性疲労症候群でみられる学習記憶力障害(ブレイン・フォグ)は、解離でいうところの解離性離人症と同質のものとみなせます。
解離では思考がまとまらない、生きている心地がしないなどのほか、過去や未来について考えることができなくなってしまいます。
人生が短縮した感覚、言葉を失うほどの絶望の感覚は、深刻なトラウマの中心的な性質である。
この人は過去の恐ろしい痕跡の中にすっかり閉じ込められてしまっていて、過去とは違う未来を想像することができないのである。(p205)
トラウマ記憶がなぜ時間感覚の異常や、過去や未来の喪失を伴うのかは、以前の記事で説明しました。
いすれにしても、この記事で考えたように、不動状態にとらわれている人のからだは、いつまで経ってもまだ砲弾飛び交う戦場にいるのと変わらないのです。
不動状態から帰ってくるには?
ここからは、不登校、そして小児型慢性疲労症候群を、慢性化した不動系の反応としてとらえた場合、どんな治療が役立つと思われるか、見ていきたいと思います。
わたし自身がまだ手探りなので、特効薬のような治療法があるのかどうかはわかりませんが、とらえどころのない慢性疲労ではなく、生物学的な反応である不動系の治療という観点から考えてみることは、より効果的な方法を突き止める助けになるはずです。
学校を捨てる
まず、三池先生は学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で、不登校になった子どもを学校という戦場に無理やり戻さないよう述べています。
なぜなら、学校に留まることは、明確に徹底的な消耗につながるからである。学校に留まれば留まるほど消耗し、混乱しPTSDが固定することがわかっているのである。
「教師たちの不登校」の項で述べたとおり、不登校状態は慢性疲労的中枢神経消耗状態であるから、当然長期療養が必要な状態である。
彼には、もはや通常の学校社会生活どころか、日常生活さえまともに送る心身の余力は残っていなかったはずなのである。(p185)
これは、不動状態の治療と照らして理にかなったことです。
有名なトラウマの治療法のなかに、トラウマの状況に身を置く曝露療法があります。保健室登校などで徐々に学校に復帰する方法は、この曝露療法に近いものとみなせます。
曝露療法は一過性のトラウマや不安の治療には効果があるようですが、慢性化したトラウマによる不動状態の場合は悪化する可能性があります。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。
曝露療法の研究からも、同様のがっかりするような結果が出ている。この手法で治療を受けた患者の大多数が、治療の終了後三か月の時点で、相変わらず深刻なPTSD症状を見せるのだ。(p321)
曝露は、恐れや不安に対処するのに役立つことがあるが、罪悪感や他の複雑な情動への有効性は証明されていない。(p362)
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアもこう述べます。
さまざまなトラウマ・セラピーの落とし穴の一つは、情動の強烈な除反応をともなうトラウマ的記憶の再体験を重視してきたことだ。
曝露を基本としてこれらのセラピーでは、痛ましいトラウマ記憶を掘り返し、記憶に結びついた情動、とくに不安や恐怖、怒りや悲嘆といった情動の除反応ができるようにクライアントは促される。
このようなカタルシス的アプローチは、虚脱や無力感の感覚を強化することが多く、十分なものとはいえない。(p220)
ピーター・ラヴィーンは、かつてPTSDに曝露療法が有効であると思われていた理由について、曝露療法によってトラウマをいわば繰り返し再体験させることで感覚が麻痺(除反応)し、PTSDがより重い解離状態へと進行していたからではないか、と考えているようです。(p408)
PTSDの人が繰り返し再トラウマ体験に曝露して、より重い解離に進展すると、ストレス反応が「闘争・逃走」から「固まり・麻痺」の不動系へシフトするので、表面上問題行動が減ります。
患者は社会から隔絶された麻痺状態になりますが、問題を起こさないので、PTSDは「治療」できたとみなされます。残っている麻痺状態は、治療しきれない後遺症というわけです。
これは皮肉なことに、あの悪名高いロボトミーとよく似ています。ロボトミーでは、アイスピックで脳の前頭葉と辺縁系を切り離して(いわば物理的に解離させて)、問題行動を消失させる代わりに感覚を麻痺させゾンビのようにしてしまうことを「治療」と称していました。(p312)
曝露療法とは、再トラウマ体験という比喩的なアイスピックを脳に打ち込んで、機能的な解離を起こさせることで、トラウマ被害者を問題行動の多いPTSDから無活動なゾンビのような麻痺状態へと移行させていた可能性があります。
むろん、純粋な体調不良による不登校、たとえば睡眠障害のみや、他のやむをえない身体疾患や、比較的軽い起立性調節障害などの不登校の場合は、徐々に慣らしていく曝露的な方法が役立つかもしれません。
しかし、慢性的に無理を重ねて、「からだの記憶」として不動状態が生じている場合は、曝露は「虚脱や無力感の感覚を強化する」ので、避けるべきでしょう。「学校を捨ててみよう!」ということです。
この「からだの記憶」は、以前の記事で説明したように空間を認識する右脳の視覚的記憶で構成されているようです。自転車の乗り方などが空間的な記憶であることは言うまでもありません。
そうすると、たとえ頭では大丈夫と認識していても、学校の教室などに足を踏み入れると、三池先生が述べていたとおり「精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまう」ことになり、不動状態が強化されます。
そもそも不登校が長期化し、引きこもりや慢性疲労に至るのは、起立性調節障害など初期の自立神経症状の段階で学校から離れず、体調が悪くても無理に頑張って登校しつづけることで、事実上、曝露療法による再トラウマ被害と似たPTSDから解離への進行が生じているのだと思います。
できるなら、たとえ元気になったとしても、空間的な右脳の視覚的記憶と結びついてしまっている元いた学校に戻るのではなく、別の選択肢を探したほうがいいかもしれません。
カウンセリングの限界
先ほど見たとおり、三池先生は、小児型慢性疲労症候群の不登校状態では、自分のことを認識できない自己矛盾が生じていると述べていました。
PTSDやトラウマというとカウンセリングで治療するものだと思われがちですが、不動状態に関わっているのは「からだの記憶」です。
「からだの記憶」は言葉で説明することができず、文脈もないため、カウンセリングで理由を問い尋ねても、困惑が深まるだけです。
さらに悪いことに、自分では理由がわからないがゆえに、カウンセラーの独自の解釈を鵜呑みにしてしまったり、自分でありもしない理由を考え出してしまったりすることがあります。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。
自分の人生の最も私的な瞬間や不快な瞬間、頭が混乱するような瞬間を思い出すと、図らずも選択を迫られることがよくあった。
記憶の中の昔の場面を追体験することに的を絞り、その場面で感じたことを自分に感じさせるか、あるいは、起こった出来事を論理的に筋道立てて精神分析医に話すかという選択だ。
後者を選ぶと、いつもたちまち自分自身とのつながりを失い、分析医にしている話についての彼の意見に意識を集中しはじめた。
疑われたり、判断をくだされたりしている気配を少しでも感じると、私は抑え込まれて、彼の承認を取り戻すことに注意を向けてしまうのだった。(p387)
言葉によって解釈し、説明しようとすると、「その場面で感じたことを自分に感じさせる」ことができなくなり「自分自身とのつながりを失い」ます。そして自分のからだの声ではなく、カウンセラーの「意見に意識を集中」してしまいます。
カウンセリングが役立つのは、通常の記憶に対してです。たとえば認知行動療法は、すでにわかっていると思い込んでいることに対して、別の視点から物事を考えるよう助けます。
認知行動療法は、クモに対するような不合理な恐れについては有効であるものの、トラウマを負った人、とりわけ児童虐待を受けたことのある人には、あまり成果を挙げていない。(p362)
不登校は児童虐待とは異なるものですが、解離や不動化を伴う慢性的なトラウマという点では共通しています。
「からだの記憶」によって不動状態が生じている場合は、そもそも何が起こったのか理解できていないので、言葉は役に立ちません。「からだの記憶」を扱うには、からだの言語が必要です。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきを担当しているガボール・マテはこう書いています。
「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。
実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。
したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)
「からだの記憶」が根底にあり、内臓が背側迷走神経を通して恐怖や苦悩を伝えている場合、発言権があるのは内臓9に対して脳は1にすぎませんでした。
カウンセリングや認知行動療法といったトップダウンの方法で、いくら脳の思考を修正しても、その言葉は内臓にはほとんど届きません。内臓そのものに安心感を感じてもらうボトムアップの手法のほうがよほど役立ちます。
ピーター・ラヴィーンは、この本の中で、からだに閉じ込められた感情を感じ取り、「内なる声」に耳を傾けるとき、その意味や理由を解釈しないよう繰り返し注意しています。(p211、215、216、233)
思考を働かせて分析しようとすると、からだが感じていること、ずっと麻痺させてしまってきた内なる感情を聞く事ができません。何の訳にも立たない理屈や解釈をこじつけ、理屈っぽい言葉だけが上滑りしてしまいます。
解離や不動状態に陥った人が苦労するのは、ありのままを感じること、からだの声を聞いて受け入れることです。
彼はこの本のなかで、からだの声を聞くことに注意を向けるソマティック・エクスペリエンス(Somatic Experiencing)という手法を説明しています。
セラピストは、その信念を捨てるよう説得するのではなく、その思考がからだの中に宿る場所を探り、どの部分が緊張し、どの部分が開放されてゆったりしているかに気づき、少しでも虚脱感を感じる場所を突き止めるようクライアントを促すとよい。
おそらくもっと重要なのは、感情のない場所にも気づくよう促すことである。(p178)
こうした身体の声に気づくアプローチは、不登校や小児型慢性疲労症候群の不動状態にも役立つ可能性があります。
ボトムアップの手法
三池先生たちが、小児型慢性疲労症候群の治療として、カウンセリングや認知行動療法のようなトップダウンの手法ではなく、さまざまなボトムアップの手法を駆使してきたのは、不動状態という観点から見ても、極めて効果的に感じます。
三池先生は、不登校の治療にあたり、概日リズム睡眠障害の治療を最優先していますが、安心して休める居場所を確保するのは、不動状態を解除する上でとても重要なポイントです。
先述のとおり、睡眠不足の子どもたちは、交感神経優位の「闘争・逃走」反応を示しがちですが、裏を返せば、睡眠を確保できれば、ストレス反応をそれ以前の段階で食い止められるということです。
ストレス反応の第二段階である「闘争・逃走」反応を予防することは、第三段階の最終手段である不動系に至るのを防ぐ、もっとも効果的な手段といってよいでしょう。
また、不動状態が生じる原因には、逃げ場がどこにもないことが密接に関わっていました。
安心して眠れる家庭という逃げ場を確保できれば、不動化があまりに慢性化していないかぎりは、つまり不登校初期の場合や、年齢が低い場合は、「からだの記憶」を上書きできるかもしれません。
そもそも、解離や不動状態は、一種の局所的な睡眠障害ではないかと思います。不動系のシャットダウンとは言いかえれば、危機に備えて身体の機能の一部を無理やり眠らせることです。解離性障害の治療でも睡眠を安定させることが重視されていました。
また、低温サウナ療法(和温療法)のような、ぬくもりによって自律神経を活性化させる方法は、元を辿れば不動系が自律神経系の一部であることからすると効果的に思えます。
凍りつきを生じさせる背側迷走神経ではなく、人肌で抱かれるような温かなぬくもりによってリラックスする腹側迷走神経を活性化させる助けになりそうです。
さらに、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)では、家族による支えと励ましの重要性が繰り返し強調されていますが、これももっともなことです。
不登校状態、すなわち慢性疲労の子どもたちに対して、とくに暴力傾向をもった子どもたちの場合にはさらに、家族は彼らとしっかり向き合って「自分たちはどのようなことがあってもあなたを好きであり、見捨てたりすることはない」と伝えなければならない。
なぜなら彼らの不安の原因は、見捨てられる思いにあるからである。(p65)
すでに見たとおり、解離や不動状態は、親との愛着が不安定な子どもたちに生じやすい反応です。
愛着が安定していれば、副交感神経のうち、原始的な背側迷走神経ではなく、愛着や社会的交流に関わる腹側迷走神経が働くので、解離や不動状態に陥りにくくなります。
しかしながら、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアが述べるとおり、不動状態をもたらす背側迷走神経はかなり強力で、いったん働くと、他の上位のシステムをのっとります。
作動系統が原始的であるほど、生体の全身機能を乗っ取る力は強くなる。
これは、より新しい洗練された神経サブシステムが機能しないよう効果定期に阻害することで実現される。
特に不動系は社会的交流/愛着システムをほぼ完全に抑制する。(p123)
ですから、不動状態に乗っ取られて慢性疲労に陥っている場合、ちょっとした愛情や一時的な支えで不動状態が解除されることはほとんどないでしょう。
親は決してあきらめず、「自分たちはどのようなことがあってもあなたを好きであり、見捨てたりすることはない」というメッセージを、言葉と態度で伝え続ける必要があります。単に心にではなく内臓にまで安心感が届く必要があるのです。
サウンドセラピー
近年、小児型慢性疲労症候群の研究で、ドーパミン関連の治療が効果的ではないかというニュースがありました。
ドーパミンは、身体の能動的な活動を促す神経伝達物質なので、受動的な不動状態に閉じこもる反応とは真逆のものです。
以前の記事で、ADHDなどの疲労感は、ドーパミンレベルの低さ、不安定さと関係しているのではないか、と推測しました。
その記事で、ADHDの人が疲労を感じやすいのは、不快刺激に頭を占領されてしまうせいではないか、という見方を紹介しました。
一見、今回の記事とは何の関係もなさそうですが、実際には同じものを別の観点から見ているだけです。
不快刺激に頭を占領されてしまうのは、入ってくる刺激があまりに多すぎて、それを処理しきれなくなり、頭がフリーズしてしまうからです。この凍りつき反応が解離です。
つまり、交感神経系というアクセルを目一杯踏み込んでいるところで、副交感神経系のブレーキを目一杯踏み込んで、エンストした状態が解離であるのと同じです。
大量に入ってくる深い刺激はアクセルを目一杯踏み込むことに相当し、それをブレーキの抑制機能によって処理しきれないと解離が生じます。
このアクセルにあたる脳の部位は危険を知らせるアラームである扁桃体で、ブレーキにあたる脳の部位は前頭前野です。ドーパミンは前頭前野のブレーキの働きを強化します。
そのようなわけで、刺激に敏感で、すぐに圧倒されて、アクセル全開になってしまうADHDの子どもの多動性や衝動性を治療するのに、メチルフェニデートなど、ブレーキを強めるドーパミンの薬が用いられています。
逆に、過剰な刺激にさらされて興奮しているアクセルのほうを鎮めるのは、小児型慢性疲労症候群の睡眠の治療でしばしば用いられ、ADHDやトラウマ障害の子どもの過敏性を抑えるためにも使われているカタプレス(クロニジン)などの交感神経系を鎮める薬でしょう。
もちろん、アクセルを弱めたり、ブレーキを強めたりする方法は、薬だけではありません。
以前の記事で取り上げたように、近年では、ADHDの子どもに対するサウンドセラピー(音楽療法)が注目されています。
精神科医ノーマン・ドイジは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、ADHDの子どもに対するサウンドセラピーに触れて、こう書いています。
ダニエル・レヴィティンとヴィノッド・メノンが示すように、音楽は脳の報酬中枢に働きかけ、それによってドーパミンの産生が増大し、快感情やモチベーションが向上する。(p525)
サウンドセラピーは、やはりドーパミン系の問題である、パーキンソン病やトゥレット症候群にも効果的であることがよく知られています。
アルツハイマー病の人が懐かしいメロディを聞けば昔に戻ったかのように歌えるという話もあります。歌のメロディやリズムは、自転車の乗り方と同様、一度覚えれば何十年経ってからでもよみがえる手続き記憶なのでしょう。
歌のリズムはからだの乱れたリズムを整え、無意識のうちに実行されている手続き記憶を一時的にであれ相殺する効果があるのかもしれません。
不動系はまた内臓をつかさどるシステムでもありました。「腹の底から声を出して」歌うことは、内臓に生気を取り戻させるきっかけになるかもしれません。
ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、内臓を振動させる発声や呼吸法が、「不動状態がもたらす、もがくように苦しく、吐き気を催し、弱体化させ、麻痺するような感覚と相反する」効果を持っていて、平衡を回復すると述べています。(p150-152)
パーキンソン病では、固縮と呼ばれる固まり状態が見られますが、近年パーキンソン病の原因が胃腸にあるのではないかと言われているのは興味深い点です。もしかすると、胃腸のSOSとドーパミン不足が組み合わさって不動状態が引き起こされているのかもしれません。
ほかにも、大勢で一致して歌を歌うこと、楽器を演奏することなどは、ドーパミン系を刺激し、正常なリズムを取り戻させる力があるようです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、音楽療法は、トラウマ経験のために不動状態に閉じ込められた人たちの虚脱や凍りつきを溶かすことができます。
女性たちは前かがみで座り、悲しみに満ちて凍りついており、ボストンで目にしてきた多くのレイプセラピーのグループの女性たちとそっくりだった。
私は無力感というおなじみの感覚を味わい、虚脱状態の人々に囲まれて、自分自身も精神的に虚脱するのを感じた。
そのとき一人の女性が、体をそっと前後に揺らしながらハミングをし始めた。ゆっくりとリズムが生まれてきた。他の女性たちも少しずつ加わっていく。
まもなくグループ全体が歌い、動き、立ち上がって踊りだした。それは驚くべき変化だった。人々は生命を取り戻し、表情は同調し始め、生気が体に蘇った。
私は、ここで目にしているものを応用すること、そして、リズムと歌と動きがトラウマの治療にどのように役立ちうるかを研究することを誓った。(p350)
不動状態とは、内外の刺激に圧倒されることに対する反射的な反応として生じていますが、音楽は刺激で乱され、混乱しているニューロンのリズムを同期させ、まとめあげる力があるのでしょう。
(解離とリズムの関わりについては記事末尾の補足2でも扱います)
内側に気づく
先に挙げたADHDと疲労の関係について考察した記事の中で、マインドフルネスが注意力を改善し、痛みや疲労を和らげることも紹介しました。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でも、同様の点が書かれています。
マインドフルネスはうつ病や慢性疼痛といった数多くの精神医学的・心身医学的症状や、ストレス関連症状に有効であることが立証されている。(p342)
マインドフルネスは、過敏に反応している扁桃体のアクセルを和らげ、前頭前野のブレーキを強化する働きがあります。
さらに、マインドフルネスは、内面への注意力を向上させ、自分の感覚への気づきを高める効果があります。
以前の記事でみたように、慢性疼痛に対してマインドフルネスが効果があるのは、痛みが「一枚岩ではないことに気づく」からでした。
どういうことかというと、からだの記憶によって引き起こされる慢性疼痛や慢性疲労などのさまざまな不定愁訴は、一枚岩ではなく、複数の段階によって生じています。
PTSDの症状は、まずトリガーとなる刺激にさらされ、次いでそれにからだが条件反射のように勝手に反応することで生じます。からだの記憶による不定愁訴も、何かしらの外的刺激か内的刺激が引き金となって、それに対するからだの条件反射として起こります。
本人からすれば原因不明な症状に思えても、じつは、ほとんど気にも留めていないようなかすかな刺激、生活上の不安、苦手な人によるストレス、音、まぶしさ、姿勢、他のどんなものであれ、必ず何かに反応してからだの記憶が再演されているのが不定愁訴なのです。
ピーターラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのなかで、そうした無意識のうちに自動的に生じている症状のトリガーに気づき、対応を変えていくために、マインドフルネスのやり方を詳しく解説しています。(p347-359)
マインドフルネスは、注意深く内面を探ることにより、かすかな刺激というトリガーに気づく助けになります。そして今まで原因不明と思っていた症状が、もっともな原因に対する条件反射として生じていることがわかります。
そうすれば、かすかな刺激に対して、からだが条件反射で反応する習慣に自動的に従う代わりに、もっと別の方法で対応できるようになります。
これは以前の記事で取り上げた細かい違いに気づき、習慣を変えていく力、「差次感受性」を鍛えるということです。
以下の記事では、気づかないうちに自動的に行なってしまっていた習慣に気づき、それを細切れに分けて意識できるようになったことで、無意識の条件反射として生じていたさまざまな病気の症状に対処できるようになった人たちの例を挙げました。
マインドフルネスは、正しい方法で行えば、からだの声に気づき、無意識のうちに内外の刺激に対して、反射的に過敏に反応してしまっているからだのコントロールを取り戻す助けになるでしょう。
生きていることを味わい知る
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の著者ヴァン・デア・コークの息子ニックはミドルスクールのときに小児型慢性疲労症候群になりました。(p551)
そのとき彼を回復させたのは、演劇プログラムに参加したことでした。のちにヴァン・デア・コークは、この経験から演劇プログラムを解離やトラウマの治療に導入しました。
ニックは二年間学校に行けず、ベッドから抜け出すこともできませんでした。おそらく概日リズム睡眠障害を発症していたようで、午後5時ごろになんとか少し元気が回復するだけでした。
両親は、なんとか彼を助けようと、そのわずかに動ける時間を活用して、即興劇の夜間教室に参加するよう勧めました。同年代の子どもたちと少しでも交流できるよう期待してのことでした。
すると意外な収穫がもたらされました。
自分の具合の悪さについて何人ものセラピストとさんざん話をしてきたそれまでの経験とは異なり、演劇は彼に、自分とは違う人間(彼は少しずつ学習障害のある神経過敏な少年になってしまっていた)になるのがどんなものなのかを、全身でたっぷり経験する機会を与えてくれた。(p552)
自分自身の声を見つけるためには、体の中にいる必要がある。深呼吸ができて、内部感覚がつかめる状態だ。
これは解離、つまり「体の外」に出て自分自身を消し去るのとは逆の状態だ。(p552)
確かなことはわかりませんが、ニックは「学習障害のある神経過敏な少年」の傾向があったので、学校生活から強いストレスを受け、不動状態に閉じ込められてしまったのでしょう。
父親であるヴァン・デア・コークが言うように、「体の外」に出て自分自身を消し去る解離に陥っていました。
セラピストの言葉によるカウンセリングはまったく役に立ちませんでしたが、演劇に参加して、自分の体全体で感情を感じたり、表現したりすることは、彼が体の心から、つまり内臓から生き生きとした内部感覚を感じる助けになりました。
その結果、内臓に染み付いていた「からだの記憶」、すなわち学校は危険で逃げられず、自分はどこにいても無力だという恐怖が、演劇という場で感じた生き生きとした喜びに上書きされたのでしょう。
解離また無感覚状態とは、こころがからだから切り離された状態、シャットダウンされた状態です。本来こころとからだは一体のものなのに、別々の異質なもの同士に感じられます。
解離状態では、自分のからだは自分のものではないかのように、エネルギーが枯渇し、朽ち果てたボロボロの亡き骸のように感じられます。生きて存在しているという実感が消え失せます。
解離によってこころとからだが切り離されると、たとえこころは危機を乗り越えたとしても、からだはまだ危機のただなかに取り残されます。
それはちょうど、遠くの島に取り残された残留兵のようなものです。戦争が終わったのに、本国と連絡を断たれているがゆえにそのことに気づけません。
本国であるこころがすでにトラウマ後の世界を生きていても、そこから切り離された残留兵であるからだはいまだに戦争の真っ最中にいます。
からだはこころとつながりを断たれているがゆえに、すでに危機が去ったこと、不動状態から息を吹き返してもよいということに気づけず、「闘争・逃走」反応や不動状態に陥ったまま、生きた世界に帰還できないでいるのです。
ですから、解離状態から戻ってくる、不動状態から抜け出すというのは、自分のからだに、生きている実感に気づいてもらうということです。内臓、そしてからだ全体で感覚を味わえるようになれば、おのずと生き生きとしたエネルギーも感じられるようになるはずです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこう述べています。
「自分が生きているってどうやってわかる?」と尋ねられると、ほとんどの人は、「ええと、それは……」と考えはじめる。
だが、それでは答えることはできない。自分が生きていることを知るには、私たちの深いところにある、身体感覚に埋め込まれた生き生きとした身体的な現実を、直接的な経験を通じて感じる能力を使わなければならない。(p340)
生きていることを知るには、こころで考えるのではなくからだで味わわねばなりません。
「結局のところ、動物の端くれにすぎないのである」
この記事で見てきたように、わたしたちのこころとからだは決して別々に存在してはいません。内臓と手足と脳は、一体となって機能しています。そして内臓や手足や脳をコントロールしているのは、動物に備わる生物学的なシステムでした。
ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、解離とは何かを総括するにあたり、ひとつの重要な真理をわたしたちに伝えています。
したがって、私たちは結局のところ、動物の端くれにすぎないのである。ただ本能的で、感情的で、論理的なだけである。
終わりに、この章の幕開けを告げたマッシモ・ピグリウッチの引用を繰り返しておく。それがすべてを簡潔に要約してくれそうだからである。
「私たちは特別な動物なのかもしれない。私たちはとても特別な特徴を持った特殊な動物なのかもしれない。
しかしそれでも私たちは動物なのである」(p295)
この言葉を念頭に置くと、この記事で考えてきた解離とは何か、不登校とは何かの本質が見えてきます。
自然界に生きる動物は、内臓と手足とこころを別々に働かせたりはしません。それぞれをつかさどる3つの自律神経は、互いに協調して生物のからだ全体をコントロールします。
しかし、今の世の中では、からだ全体ではなくこころだけで楽しむような娯楽、経験があふれています。
わたしたちはしばしば、テレビの前に座って美しい景色やおいしい料理の映像を見ます。しかし自然界の生き物がそんな経験をすることはありえません。視覚が美しい景色や食事を見るとき、手足も内臓も共にそれを味わいます。
わたしたちはしばしば、座ったままや、棒立ち状態で歌詞を見ながら歌います。しかし自然界の生き物は、ただ鳴き声を上げて歌うだけでなく、全身で情熱的に表現し、ダンスします。
わたしたちはまた、映画館で席に座ったままスリリングな世界を味わい、ゲームの仮想世界で冒険します。しかし自然界では、何かに襲われたとき、座席にじっと座っているようなことはなく、内臓で恐怖を感じながら、手足を全力で動かして反応します。
現代社会の人たちは、機械的な設備でウェイトトレーニングします。しかし自然界の生き物がダンベルで身体を鍛えるでしょうか。いいえ、からだだけを切り離して鍛えるのではなく、全身でサバイバルするうちに必要な筋肉はしぜんと身につくものです。
映像機器が普及した今日、ある人たちは、現実の異性ではなくポルノで欲望を満たします。しかし自然界において、愛とは目だけで満たされるものではなく、全身で、手足や内臓も一体となって体感するものです。
こうした現代社会の娯楽や体験はすべて、何かを味わった「ふりをする」だけです。からだ全体で、生きている感覚を味わうには程遠いものです。
ピーター・ラヴィーンは、このような本来、生物がからだ全体で体験するはずの活動を、部分的に切り離して体験してしまっていることが、こころとからだの解離を生んでいるといいます。(p334-340)
本来、手足や内臓も一体となって味わうべき活動を、脳だけで経験するとしたら、それは、手足や内臓を抑制し、解離させていることになります。
スリリングな映像を見ながら、全身で逃げるでもなくじっとしていることは、危機に面したとき手足を使って闘ったり逃げたりするPTSD的な反応ではなく、じっと凍りついて対処する解離的な反応をトレーニングしているようなものです。
戦時下や高度経済成長期にはPTSDや境界性パーソナリティ障害が多かったのに対し、ネット社会やバーチャル体験が一般的になった現代社会では解離的な傾向を持つ人が増えているのは、決して偶然ではありません。
ラヴィーンの考えによればまた、やはり増加しつつある男性のポルノ中毒と女性の摂食障害(もちろん性別が異なっても発症しうる)は、「同じコインの両側」です。どちらも、からだをこころから切り離したモノのように扱います。(p338)
ポルノを見る男性は、女性のからだをこころから切り離したモノのように扱っています。ノーマン・ドイジの脳は奇跡を起こすによれば、異性を求める欲求をからだから切り離し、からだの伴わない見た目だけで性欲を満たすようになった結果、本来の性行動からからだが切り離されて反応しない性機能障害が生じます。(p127)
他方、摂食障害の女性は、自分のからだを、こころから切り離したモノのように扱います。見た目の体型の美しさだけを重視するマスメディアに影響されて、こころの伴わないからだの外見だけに異常に固執した状態が強迫的な拒食症です。
拒食症が実体としてのからだと、脳が作り出す身体イメージの解離であり、解離性障害のメカニズムと関係していることは以前の記事でも扱いました。
これらはいずれも、本来はからだ全体で表現し、味わうものであるはずの性を、一部だけ切り離して体験することで、こころとからだの解離が生じているという共通点があります。
それをずっと極端にしたものが、本来愛情を全身で表現し、内臓と手足とこころが一体となって感じるはずの性行為を、手足を拘束された状態で強制させられる性的虐待だといえます。
性的虐待で解離が起こるのは、生き物が本来、内臓と手足と感情すべて一体となって行なうはずの行為を、手足や心を切り離されて、内臓だけで体験させられるからです。
当然ながら、もし内臓と手足と心すべてが一体となって性行為を体験できれば、解離は生じませんし、逆に自分が生きているという喜びを最大限に味わえます。自然界の生き物すべてがそうであるように。
からだを切り離すオーバートレーニング症候群
機械的なスポーツジムによる身体のトレーニングも、ラヴィーンに言わせれば、まったく生き物らしくないいびつな行為です。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこうあります。
ここにくる人たちはあたかも少し立ち寄って服をクリーニングに出すかのようにからだを預け、マシンでエクササイズ済みのからだを引き取っていくかのようだ。(p338)
本来はこころもからだも一つの魂として結びついている生き物全体から、からだだけを切り離して鍛えようとするトレーニングは自然界ではありえません。それはこころとからだが解離した人間特有の異質な活動です。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法などの本でしばしば、極端なウェイトトレーニングに励む男性たちの中に、幼少期の辛い経験によってこころとからだが解離してしまっている人がいると言われているのも不思議ではありません。
たとえば第11章で取り上げた、小児性愛の聖職者に虐待された男性たちを思い出してほしい。
彼らはジム通いをし、筋肉増強剤を飲み、雄牛のように強靭だった。それにもかかわらず、診察のときにはしばしばおびえた子供のように振る舞った。
心の奥底ではまだ無力だと感じている、傷ついた少年だったのだ。(p345)
脳神経学者オリヴァー・サックスは、混乱した子ども時代を過ごし、若い頃は極端なウェイトトレーニングや麻薬、自暴自棄な活動にはまりこんで危うく命を落としかけましたが、自分が身体を強迫的に鍛えた理由を道程:オリヴァー・サックス自伝でこう語っています。
なぜ、あんなにひたむきにウェイトリフティングに打ち込んだのだろうと、考えることがある。その動機はありがちなことだったと思う。
私はボディービルの広告に出てくるやせぽっちの弱虫ではなかったが、内気で、自信がなくて、臆病で、従順だった。
ウェイトリフティングで腕っぷしは強く―とても強く―なったが、性格にはなんの影響もなく、そちらはまったく変わらなかった。
…私たちはウェイトリフティングで壊れかけた互いの体を見あった。
「おれたち、なんてばかだったんだろう」とデイヴが言った。私はうなずいて同意した。(p158)
サックスは、内面のコンプレックスからからだを鍛えましたが、こころから切り離されたからだをいくら鍛えても内面は何ら変化しませんでした。こころから切り離され、モノのように機械的にトレーニングさせられたからだが悲鳴を上げて壊れかけただけでした。
こころから切り離された“女らしい”ほっそりしたからだのイメージに引きずられた肉体改造が拒食症だとすれば、こころから切り離された“男らしい”筋肉質なからだのイメージに影響された肉体改造がウェイトトレーニングであると言うこともできます。
三池先生はしばしば、不登校や小児型慢性疲労症候群の背景として、オーバートレーニング症候群(OTS)、つまり限界を越えて身体を鍛えすぎることを挙げています。
たとえば学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)ではこう書いています。
私たちの外来でも毎年20名程度の若者が明らかにオーバートレーニング症候群と診断されている。
オーバートレーニングからの脱出には、年余の時間が必要であり、希望に燃えた若者への負担はあまりにも大きく、なかには将来への希望をあきらめなければならない人もあり、一生の問題となる。(p75)
オーバートレーニング症候群で慢性疲労に閉じ込められるのは、単に中枢神経が疲労するからではありません。
それは、ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで言うように、からだをこころから切り離して鍛え、からだが悲鳴を上げているにもかかわらず、こころがそれに気づけないほどからだを追い込んでしまうからです。
たくさんの人が筋肉隆々としたからだになろうとロボットのように並んでウェイト・トレーニングをしているが、その動作への内的な気づきはほとんどない。(p338)
度を越えたウェイトトレーニング、すなわちオーバートレーニングに励むには、からだから聞こえる悲鳴を無視し、抑制し、切り離さねばなりません。意志の力で、からだの感覚を抑制し、シャットダウンし、気づかないふりをしなければなりません。
そこで起きている病理は、性的虐待のとき、からだの痛みや苦痛を感じないようこころを切り離す解離や、交通事故のときに、からだの痛みに圧倒されないよう、こころを切り離す解離と同じです。
からだの声を遠ざけて、からだをモノのように酷使するうちに、次第にこころとからだのつながりは失われ、解離してしまいます。
オーバートレーニングとはとりもなおさず、からだの交感神経系が悲鳴を上げて危機を知らせているにもかかわらず、不動系によってそれを抑制し、麻痺させ、シャットダウンするトレーニングを積んでいるようなものです。
オーバートレーニング症候群による慢性疲労とは、性的虐待と同様、モノとして扱われたからだが、こころから、そして一人の生きた人間から切り離され、あたかも生きているのか死んでいるのかわからないゾンビのように、不動状態に閉じ込められたままになってしまう現象なのです。
内的脱同調から回復する
そうであれば、こうした体験のみならず、学校という場所も、教育という名のもとに、こころとからだを切り離すトレーニングをしているようなものです。
学校の授業はじっと座って手足や内臓を抑制して、感情も切り離して思考だけで勉強するものであり、体育の時間は自由に楽しむこころを抑制して、からだだけを機械的に訓練するものです。
本来、自然界の生き物が体験する学習とは、こころとからだを同時に使って、からだで体験してこころで理解していくものなのに、現代の教育はそれらをバラバラに切り離し、解離させています。
三池先生はフクロウ症候群を克服する―不登校児の生体リズム障害 (健康ライブラリー)の中でオーバートレーニング症候群について触れた後でこう書いていました。
220といわれる世界の国のなかで、体育を教科としている国は10ていどといわれており、スポーツをレジャーとして楽しむものだという大多数の人々の考えとは明らかにちがった方向性をもたせたものが日本のスポーツなのです。
わるいことに、若者たちにとってスポーツは、自分で好きなことをだれにもいわれずに楽しむ「遊び」よりも、人にいわれてやる「仕事」になっているのです。(p134)
学校がサバンナのような生きる力あふれる世界ではなく、動物園の檻の中のような飼育場になっているのは、本来、内臓と手足とこころが一体となって、全身を使って行なうはずの活動を、無理やり一部だけ切り離して、一部だけ抑制して行なうよう求めているからです。
それに対して、ここまで見てきたような解離に役立つ治療法、たとえば、みんなで一緒になって歌うこと、楽器を演奏しリズムと一体になること、演劇の舞台でからだ全体で情動を表現すること、ダイビングや山登りで自然そのものを探検すること、ヨーガやマインドフルネスで感覚を味わい尽くすことなどは、からだ全体で生きている実感を味わう体験です。
三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で、日本の学校で不登校の慢性疲労状態になった子どもが、ニュージーランドに留学すると元気に活躍できた例を紹介しています。(p230)
また数年前のニュースでは、沖縄の自然のさなかに身を置くことが、不登校の子どもに効果があるとも述べていました。
「民泊に効果期待」 不登校研究の三池名誉教授 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
「生きる力が落ちている不登校の子どもたちに『自然』の力が大きく影響を及ぼすのではないか。
温暖な気候、豊かな自然、民泊体験で一般家庭に温かく迎えられて支えてもらえる人がいるなどの要素が、伊江島には詰まっている。生きる力を取り戻せる有効性がある場所になる」
それらは単なる転地療法ではなく、わが身ひとつで新たな環境に飛び込んでいくことが、ニックが演劇を通して味わったのと同じように、また野生の動物がサバンナで実感するのと同じように、からだに染み付いた無力感を上書きできるほど、生きる力を「全身でたっぷり経験する機会を与えて」くれるからなのでしょう。
ゾンビのような虚脱状態、エネルギーが枯渇した慢性疲労に陥ってしまった人が、生きているのか死んでいるのかわからない不動状態から帰ってくるためには、ひとり戦時下に取り残された敗残兵のような内臓そのものが「自分はいま、こころと一体となって生きているのだ」と心底実感できる機会が必要なのです。
他方、三池先生は、ニュージーランドでは元気になった子どもたちが、日本に帰国すると再び疲れはててしまうことも書いていました。からだに染み付いた「手続き記憶」は、すでに述べたとおり空間的な記憶であり、同じ場所に戻ってくると再度呼び覚まされます。
一度こころとからだが解離することを覚えると、それは条件反射として染み付いてしまうので、以前と同じような場面では、こころとからだが切り離され、たやすく解離してしまうのでしょう。
こうした例を考えてみても、やはり一度不登校や不動状態に陥ったなら、同じ場所に戻ろうとするより、新しい場所に全身で飛び込んで、生き生きとした可能性を探るほうがよいように感じます。
ただし、注意点をひとつ。これまで麻痺していたからだを、すぐさま生き生きとした感覚にさらすのは逆効果です。動物園で飼育された生き物を、すぐに野生に放しても生きていけないのと同じです。
ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、それを爆発の危険がある薬品を混ぜ合わせることにたとえています。(p102)
塩酸と苛性ソーダのような相反する薬品を中和したい場合、一気に混ぜると激しい爆発が起きます。安全に中和するには、一気に混ぜるのではなく、一滴ずつゆっくりと混ぜる必要があります。
解離してしまった こころとからだを一つに混ぜ合わせるときも、すぐに刺激に圧倒されてしまう過敏状態にあるので、いきなり強い刺激にさらそうものなら、再トラウマ体験を引き起こして不動状態が強化されるだけです。
刺激が強くなりすぎないよう段階的に調節(タイトレーション)して、振り子のように行ったり来たり(ペンデュレーション)させつつつ、生き生きとした感覚を味わっていくことが勧められています。
それは言い換えれば、からだの中でバラバラに動くようになってしまっていた内臓、手足、こころを同調させることです。あるいは、本来の自然界のあるべき形、内臓と手足とこころが一体となって味わうという生き物の本来の姿に同調することです。
三池先生は、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)で述べているように、睡眠障害の研究を通して、不登校とはすなわち内的な脱同調、つまり生体リズム障害であり、不登校の治療は、からだのさまざまな機能のリズムを同調させることだと結論しました。
私は、日本の若者たちの疲労が社会の存続を脅かすほどに顕在化しており、不登校状態に陥った若者たちの多くが慢性疲労症候群の診断基準を満たしていることを報告し、その背景に「生体時計(リズム)」の脱同調、すなわち生活リズムの歯車の狂い、が存在することを明らかにした(p35)
それはまさしく真実でした。
より正確に言えば、不登校は、睡眠のみならず、もっと広範囲にわたり、生き物としての人体が脱同調を起こした状態です。
解離とはすなわち、本来ひとつになって働く生物の内臓や自律神経からなるからだ、そしてこころのリズムがバラバラに切り離された状態、内的な脱同調であり、自然からの脱同調なのです。
そして解離の治療とは、内部でバラバラに切り離されてしまった、内臓、手足、こころを統合して、それぞれをつかさどる自律神経のリズムを同調させ、ひとつの生き物、自然界から切り離された人間ではなく、自然界の一部として生きる「動物の端くれ」に戻すということなのです。
当事者でありながら他人事のように
この記事のはじめのほうで引用した、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の、不登校はPTSDであるとする文章を覚えているでしょうか。
肉体的な疲労は回復し精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。
これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。(p67)
文脈では、地下鉄サリン事件のPTSDと比較されていましたが、わたしは、不登校は慢性疲労や過眠といったPTSDとは正反対の症状を見せると書きました。
ここまで読んでくださった方なら、なぜ不登校や小児型慢性疲労症候群が、ある点ではPTSDと似ているのに、全体としては正反対の性質を持っているのか、理解していただけたと思います。
PTSDになるか、不動状態になるか、それにはさまざまな要因がからんでいますが、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの次の説明は理解しやすいでしょう。
強いトラウマを受け、慢性的にネグレクトまたは虐待された人は不動およびシャットダウン・システムによって支配されている。
一方、急性のトラウマを受けた(最近の一度だけの出来事によることが多く、繰り返すトラウマ、ネグレクト、虐待歴がない)人は、通常、交感神経系の闘争か逃走かというシステムに支配されている。
急性トラウマを受けた人はフラッシュバックと動悸に苦しむことが多いが、慢性トラウマのある人は心拍数に変化なく、むしろ減少している場合もある。
こういった人々は、もうろう感、非現実感、離人症などの解離症状や、さまざまな身体的および健康上の問題に悩むことが多い。
身体症状には、胃腸症状、片頭痛、ある種の喘息、慢性疼痛、慢性疲労、人生生活への一般的な関心の低下などがある。(p124)
おおまかに言って、単回性の、一回限りの劇的なトラウマは、PTSDを発症させやすい体験です。地下鉄サリン事件の被害者がPTSDになってしまったのはそのためです。「闘争か逃走か」のシステムに支配され、過覚醒やフラッシュバックに悩まされます。
そりに対して、頻回の、慢性的なトラウマは、解離症状や不動状態をもたらします。慢性的である、ということは言い換えれば闘争も逃走もできない状況だからです。
このタイプのトラウマは、あまりに慢性的すぎて、あまりに日常的すぎて、本人もトラウマだと認識していないことさえあります。
正直言ってわたしも、三池先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)などを読むまで、自分が通っていた学校が異常な環境だと気づいていませんでした。
わたしは朝4時まで予習して、朝刊がポストに入る音とともに寝て、遅刻しそうになりながら駅まで走って満員電車に乗って、授業では緊張した空間でディベートして…という日々を送っていたのですが、それが普通だと思いこんでいました。
客観的に見れば、あるいは大人の視点から見れば、極めて異常なことだとしても、世の中の常識に疎く、自分が生まれ育った家庭や通ってきた学校しか知らない子どもにとっては、何もかもが普通に見えてしまうものです。
いい学校に送りこむことが唯一無二の価値観であるかのごとく親子を洗脳し、朝早くから夜遅くまで勉強を詰めこみ、そのシステムのなかで命を削り、疲れはてて脱落せざるを得ない生徒たちを量産しているという罪の意識もなく、逆に彼らを怠け者扱いする大人たちに教育者などと名乗る資格はないのである。(p223)
わたしは今、自分の経験に照らして、これが過激な物言いだとか、誇張だとかはまったく思いません。事実通りです。それをこの目で見てきました。
わたしは解離的な気質なので、それが良いのか悪いのかはともかく、学校での嫌なことをほとんど覚えていません。ただ、ものすごくしんどかったことは覚えていますし、時々夢に見ます。それが「からだの記憶」として残っている慢性疲労なのでしょう。
わたしは不登校になる直前ごろから頻繁な睡眠麻痺(いわゆる金縛り)に悩まされるようになりました。今でも体調が悪いときは頻繁に金縛りになります。
以前の記事で紹介したように、なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?によると、極端な睡眠不足状態を続けた子どもにはナルコレプシーの兆候が見られるとされていて、それと同様のものかもしれません。(p146)
健康な人にたまに生じる睡眠麻痺はごく普通の生理現象ですが、ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで言うように、不動系と関係している場合があります。
この正常な「睡眠麻痺」中の覚醒は、不動状態によく見られる自己のからだからの離脱を体験していると、とくに恐ろしいと感じられることがある。(p107)
睡眠麻痺とは、レム睡眠で骨格筋が脱力している最中に目覚めてしまう現象ですが、おそらくは不動状態における4つ目のF、破綻(麻痺)のさなかに意識が部分的に戻る現象と関連性があります。
ラヴィーンが述べているように、脅威に襲われて不動系が作動したとき、 身体が麻痺して動けなくなると同時に、体外離脱したかのようになる場合があります。
先に触れたとおり、ラヴィーンは交通事故の際に、ヴァン・デア・コークは強盗に襲われた際に、両者ともこれを経験しています。
以前の記事でメカニズムを解説しましたが、これは解離性障害でも頻繁に見られる症状で、感覚遮断により身体から意識が切り離されることと関係しています。
またヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べるように、トラウマ障害の人は、レム睡眠に入るとすぐに目覚めてしまう傾向があるようです。
本来レム睡眠は記憶を処理するものですが、その際に処理できない「トラウマの断片を活性化してしま」うと、処理がフリーズして、「凍りついた連想の中に閉じ込められて」しまい、レム睡眠中にもかかわらず処理が中断して目覚めてしまうようです。(p430-431)
とすると、わたしがあまりに頻繁に睡眠麻痺に陥るのは、レム睡眠中に「トラウマの断片」、つまり「からだの記憶」の処理に失敗して目覚めてしまうことにあるのではないかと思います。それは睡眠麻痺であると同時に不動系の麻痺の再演でもあります。
わたしの場合に問題となったのはどちらかというと身体症状が中心でしたが、わたしの幼なじみのアスペルガー症候群の子の場合は、そうではありませんでした。
この人は完全に学校社会によるPTSDになってしまって、アスペルガー症候群ならではの細部にわたる記憶力のせいか、自分が先生や同級生から受けた仕打ちを事細かに記憶しています。
その子の場合、なぜわたしと違ってPTSD傾向が強く出ているのかはわかりませんが、わたしとは学校で経験した苦痛が異なっていたようです。
わたしの場合はいじめなどの単発的なトラウマはありませんでしたが、過剰同調性のせいで、一分一秒たりとも気の休まる時間がありませんでした
反対にその子は発達障害ゆえにショックを感じる突発的な経験が多かったものの、過剰同調性のようなものはなく、学校も不登校にならずに卒業しています。
また、わたしが幼少期からの恐れ・回避型の愛着なのに対し、その子はとらわれ型の愛着スタイルであることも関係しているようです。
その人を見ていると、学校社会で同じように強烈なストレスを経験したとき、交感神経系で対処する人と不動系で対処する人の違いがよくわかります。
交感神経系の過覚醒による「闘争・逃走」反応の段階で閉じ込められてしまったのがその人であり、うつやフラッシュバックや強迫症状、感覚過敏など、ありとあらゆるPTSD症状(一言でくくると強迫性スペクトラム障害とも言われる)に見舞われています。
冷静に考えることがほぼ不可能で、常にあちらこちらに揺れ動いてまわりに翻弄されています。いまだ学校社会というトラが目の前にいて、闘うか逃げるかの瞬間に閉じ込められています。しかし慢性疲労やエネルギーの枯渇は生じていません。
他方のわたしは、発症当初は繰り返す悪夢などPTSDに似た症状がありましたが、次第に麻痺してしまい、ただ身体の不動状態と慢性疲労に閉じ込められました。
嫌な思い出も、辛い記憶も、まるではじめから無かったかのように忘却されています。思い出そうにも手が届きません。だから、恐怖や不安からは解放されていて冷静に考えることができます。その代わり、身体の凍りつきとエネルギーの枯渇はそのままです。
ちょうど、のどもとにトラの牙をつきつけられた人が不動状態になり、身体感覚が麻痺し、体外離脱して他人事のように自分を見つめているように、わたしは遠くから自分を観察して気づいたことをこのブログに客観的に書いてきました。
だから、このブログは、当事者研究でありながら、他人事なのです。今回の記事では、珍しく自分の経験と向き合ってみましたが、やはり遠くから眺めているような書き方になってしまいました。
けれども、ずっと考えてきた話題、慢性疲労と解離という一見相異なる二つの分野をつなぐ記事をこうして書けたことを嬉しく思っています。まわりまわってやっと帰ってくることができました。
長い道のりのおわり、そして新たな入り口
この記事では、不登校の慢性疲労状態を中心に考えてきましたが、ここで考えた生物学的メカニズムは、他の近縁の問題、たとえば女性のASDやHSPや、新型うつや、解離性障害、回避性パーソナリティ障害などの慢性疲労とも深く関係しているはずです。
慢性疲労の原因がすべて不動系によって説明できるとは思っていませんが、解離的反応と慢性疲労とが共存する場合には、不動系が関与しているのは間違いないでしょう。
不登校の60%が典型的なCCFS、31%が非定型的なCCFS、9%がCCFS類似疾患である、という三池先生の主張は、しばしば極端に思われがちですが、この記事で見たとおり、過労、いじめ、オーバートレーニングといったほとんどの不登校に解離と不動系が関係していることからすれば事実に即しています。
同じ解離が関係しているのに、人によって症状の出方にいくぶん差異があるのは、解離という反応が過剰な感覚刺激への対処反応だからでしょう。トラウマとなった経験の内容、種類、時期によって、それに対応する解離の現れ方もいくらか変わってくるということです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアがこう述べるとおりです。
解離にはさまざまな様式があり、そこにはトラウマ後に生じる一連の心理的断片化や身体症状なども含まれる。(p255)
解離は、時代や文化によって、カメレオンのように症状を変えるという特徴があります。その現れのひとつが、文化結合症候群(文化依存症候群)と呼ばれる、特定の文化にだけ見られる奇妙な症状です。
文化が異なればストレスの原因も変わります。ストレスの原因が異なれば、そのストレスに対応して生じる防衛機制である解離の現れ方も変わります。文化というハコの形が違えば、ハコの中にストレスを閉じ込めておくために必要な解離というフタの形も変わります。
不登校や小児型慢性疲労症候群は、解離の伴う文化結合症候群の一種とみなすことができます。なぜなら、学校という奇妙な文化なくしては、不登校は存在しないからです。
不登校とは、学校社会が一般的になった、わたしたちの時代、わたしたちの文化に特有の文化結合症候群であり、自然界に生きる生物としての有り様から外れたその特殊なストレスに対応する解離症状が、小児型慢性疲労症候群なのです。
(解離にはさまざまな現れ方がある、という点は記事末尾の補足3でも扱います)
今回おもに紹介した本のうち、三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)は、不登校や小児型慢性疲労症候群の当事者の方には、間違いなくおすすめできる一冊です。この本がなければこのブログはありませんでした。
この記事で確かめてきたとおり、三池先生による不登校や小児型慢性疲労症候群の分析は極めて的確かつ事実に即していて、医師としての飽くなき情熱、科学者としての確かな観察眼、研究者としての深い洞察、世の中の常識に挑戦する勇気とが見事に融合した名著です。
不動系について説明するにあたり参考にした身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアは、予備知識がないと読みにくい本ですが、多くの発見が得られるすばらしい本でした。
友人ベッセル・ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録するに比べるととっつきにくく、あまり注目されていませんが、どちらが優れているとも甲乙つけがたい、両方読んではじめて解離を多角的に理解できる相補的な内容です。
もし読んでみようと思う人がいた場合、この記事とともに読み進めることで理解しやすくなればと思っています。
わたしの当事者研究はまだ終わっていませんし、自分自身がまだ不動系から抜け出せておらず、やっと状況が見えてきた段階にすぎません。
長い道のりを経て、いまやっと、自分のからだに起こったことの意味を探り出せました。わたしに必要なのは、分かたれたこころとからだを一つに統合し、内なる脱同調を同期させることだと、やっと理解できました。
この記事で考察したことが、未来のわたしにとって、またわたしと同じような状況に置かれている人にとって、次の段階に進むためのステップになることを祈っています。
▼補足
この記事で考察した点の補足です。
▼おもな参考書籍
この考察の土台となったおもな書籍の一覧
不登校と小児型慢性疲労症候群の特徴。
小児型慢性疲労症候群のリズム障害の医学的情報。
解離と不動状態の生物学的メカニズム。
トラウマを身体的反応とみなす根拠。
解離の脳科学的な考察。
解離傾向の強い人たちの性格特性。
トラウマが手続き記憶として再演されること。