「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。
実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。
したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)
これは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのまえがきに寄せられたカナダのサイコセラピスト ガボール・マテの言葉です。
ガボール・マテはわたしにとって重要な気づきをくれた医師でした。彼のことを知ったのは、慢性疲労症候群(CFS)の専門医である三浦一樹先生のおかげです。
外旭川サテライトクリニックの三浦先生は、こちらの記事の中で、慢性疲労の原因を知るための本として、ガボール・マテの身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価を勧めていました。
当時、わたしは愛着と解離について学びはじめたばかりでしたが、ガボール・マテは、精神神経免疫学の知見を通して、これまで「こころ」の問題として知られていたものが、慢性疲労や慢性疼痛、自己免疫疾患などの「からだ」の症状として現れる理由を解き明かしてくれました。
この本の中で、ガボール・マテは、その原因を失感情症や解離と結びつけています。これまで愛着や解離を心理的な反応だと思いこんでいたわたしに、生物学的な観点を与えてくれたすばらしい本です。(p363)
そのガボール・マテが、解離と不動状態、そして慢性疲労が「からだの記憶」によってもたらされる生物学的現象であることを説明したピーター・ラヴィーンの身体に閉じ込められたトラウマのまえがきを書いていたことには、運命的な邂逅を感じます。
ガボール・マテは、「トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ」というラヴィーンの意見に賛同しています。
それゆえ、『知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しない』と言います。身体に刻まれたトラウマを治療するには、カウンセリングのような心理療法ではなく、「からだ」を対象とした身体志向の治療が必要なのです。
身体志向のトラウマ・セラピーの専門家は、あまり馴染みがないかもしれませんが、その分野に通じているセラピストは日本国内でも少数ながら見つけることができます。
たとえば、ラヴィーンが考案したソマティック・エクスペリエンス(SE)をはじめ、センサリーモーター・サイコセラピー(感覚運動心理療法)、ロルフィング、トラウマ・ストレス解放法(TRE)、自我状態療法、内的家族システム療法(IFS)、エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)、ペッソ・ボイデンシステム精神運動(PBSP療法)、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッドなど、身体志向のトラウマセラビーにはさまざまなものがあります。
この記事では、一つずつ詳しく取り上げるわけではありませんが、トラウマ障害に関わる「からだの記憶」とは何か、身体志向のセラピーで大事なポイントは何か、という点を見ていきたいと思います。
これはどんな本?
この記事を書くきっかけになったのは、最近繰り返し紹介している本、神経生理学者ピーター・A・ラヴィーンによる身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアです。
冒頭でも書いたように、わたしが強く影響を受けたガボール・マテや、ヴァン・デア・コークといった専門家たちに支持されている、非常に内容の濃い一冊です。
正直言って、内容がかなり難しいので万人にはお勧めしませんが、多くの本を読んできた上でこの本に出会ったわたしにとっては、あらゆる分野の知識がつながっていく「賢者の石」のように、書かれていることすべてが刺激的でした。
この記事は、わたしが探し求めていた宝の地図ともいえるこの本を参考にしつつ、このブログのひとつの区切りのつもりで書いてみました。
「からだの記憶」とは
最近書いた一連の解離と慢性疲労の考察の土台となっているのは、症状をもたらしているのは「心理的な問題」や「こころの傷」ではなく、「からだの記憶」から来ているという理解です。
「からだの記憶」とは何を意味しているのか、ということについて、過去の記事で繰り返し説明してきましたが、ここで改めて整理しておきましょう。
この一連の記事で扱っている「からだの記憶」とは、一般に「無意識」や「潜在記憶」と呼ばれているものと同じです。しかし、より具体的に言えば、それらは「手続き記憶」と呼ばれるタイプの記憶です。
ノーマン・ドイジの脳は奇跡を起こすの説明を読んでみましょう。
神経科学では、記憶システムには大きく分けてふたつあるとしている。
…二歳二ヶ月の子どもでも、しっかり発達しているのは「手続き記憶」または「潜在記憶」である(カンデルは、このふたつの用語を同義に使うことが多い)。
ここで説明されているように、わたしたちには二種類の記憶システムがあります。それはことばで言い表せる顕在記憶と、言い表せない潜在記憶、またはことばで書き記せる陳述記憶と、からだで表すしかない手続き記憶です。
ここでは「潜在記憶」と「手続き記憶」は同じ意味で使われています。ことばで表現できない「潜在記憶」とは、からだで表現するしかない「手続き記憶」だということです。
手続き記憶は、二歳二ヶ月の赤ちゃん、つまり、まだ文脈のある意識的な記憶(顕在記憶)をつかさどる海馬が発達していない赤ちゃんにも存在している記憶です。
この「手続き記憶」には、どのような特徴があるのか、続く説明を見てみましょう。
手続き記憶/潜在記憶は、注意をあまり必要としない。一連の手続きや自動的な行為を学習するときに機能する記憶で、言語を必要としないのがふつうだ。
人との非言語的なかかわりや、感情的な記憶の多くは、手続き記憶の一部をなしている。(p270)
手続き記憶は、「一連の手続きや自動的な行為を学習するときに機能する記憶」です。つまり、自動的に気づかないうちに実行されるパターンだということです。
カンデルはこう言っている。
「生まれてから二、三年のあいだ、つまり母親との関係がとりわけ大事な時期には、子どもは主に手続き記憶に頼っている」。
この記憶はたいてい無意識である。人が自転車に乗るときには、手続き記憶に頼っている。自転車に乗れる人たちは、どうやって乗るか、説明しようとしても言葉に詰まる。
手続き記憶/潜在記憶は、フロイトが主張したように、わたしたちが無意識の記憶をもっていることを裏づけるのだ。(p270)
「手続き記憶」とは、言語を必要とせず、自動的に再生される記憶であり、フロイトが指摘した「無意識の記憶」でもあります。
無意識は果たして存在するのか、という議論が行われていたこともありましたが、なんのことはない、わたしたちすべてが日常的に無意識の記憶の恩恵を受けています。
無意識とは「手続き記憶」であり、自転車の乗り方や楽器の弾き方のような、言葉で説明できない、からだに染み込んだ記憶のことだからです。
わたしたちは、いつの間にか、気づかないうちに手慣れた家事をこなせます。いつもの習慣で同じ道を通って学校へまた会社へ行きます。操作法について考えなくてもスマホの慣れたアプリを操作し、メールを打つことができます。すべて無意識のうちに行えます。
これらはいずれも、最初に身につけるときは意識して覚えたかもしれませんが、その後は、自動的に実行されるようになりました。すべて無意識の記憶であり、手続き記憶であり「からだの記憶」だからです。
愛着―最初の手続き記憶
「からだの記憶」、すなわち「手続き記憶」は、知らず知らずの間にからだに叩き込まれ染みつくこと、無意識のうちに自動的に繰り返し実行されるパターンであること、そして言葉で説明できないという特徴があります。
「からだの記憶」は、わたしたちの生活のあらゆる部分に、気づかないうちに関与しています。自転車に乗ったり、楽器を弾いたりするときだけでなく、ありとあらゆる場面で、何かしらの手続き記憶が実行されています。
わたしたちの生活で、もっとも最初に身につき、その後の人生で飽き飽きするほど繰り返し実行される手続き記憶は、「愛着」です。
近年、愛着障害という言葉が知られるようになりました。生後2,3歳ごろまでの幼少期に養育者から受けた扱いが、その後の人生に大きな影響を及ぼすという概念です。
たとえば、親から愛情に満ちた世話を受け、「安定型」の愛着を身に着けた子どもは、大人になってからもバランスの取れた人間関係を築けます。
一方あまり関心を示されず「回避型」の愛着を身に着けた子どもは、自分にも他人にも関心が薄く、厳しく批判的になりがちです。
過干渉された「不安型」の愛着の子どもは、大きくなっても人の顔色に敏感で、他人の気持ちに執着し振り回されます。
こうした愛着の影響は心理学的なものだと思われがちですが、そうではありません。愛着とは、人生最初の「手続き記憶」です。
先ほど引用した文中でカンデルはこう述べていました。
「生まれてから二、三年のあいだ、つまり母親との関係がとりわけ大事な時期には、子どもは主に手続き記憶に頼っている」。
生まれてから二、三年、つまり愛着が形成される期間は、まだ海馬が十分に発達しておらず、言葉にできる意識的な顕在記憶はほとんどありません。その代わり、赤ちゃんには、「からだの記憶」が備わっています。
脳は奇跡を起こすの続く文脈にはこう説明されていました。
ヒトの場合、二歳までは右半球のほうが大きい。左半球はそれから急激な成長をはじめるが、三歳頃までは右半球が脳を支配している。
二歳二ヶ月の幼児は、複雑な「右脳に支配された」感情的な生き物であるが、左脳の機能がまだじゅうぶん発達していないので、自分の経験したことを話すことができない。
脳スキャンでも、子どもが二歳になるまでは、母親が自分の右半球を使って非言語コミュニケーションをして、子どもの右半球に訴えかけているのがわかる。(p267)
言語的なコミュニケーションや記憶は、言語中枢のある左脳(右利きの人の99%、左利きの人の70&の場合)に依存しています。
生まれて間もない赤ちゃんは、まだ左脳が発達途上にあるので、親からの世話などの記憶は、通常の言葉にできる記憶ではなく、右脳がつかさどる非言語的な記憶、つまり「手続き記憶」として記憶されます。
ちょうど自転車の乗り方を覚えるように、赤ちゃんは、親から受けたコミュニケーションの仕方を手続き記憶としてからだで覚えます。自転車の乗り方と同様、からだの記憶は大人になっても忘れられることなく、自動的に繰り返されます。
大人になってからの人間関係において、赤ちゃんのときに親から受けた養育から学んだ「手続き記憶」を何度でも無意識に、自動的に繰り返す。これが「愛着」の正体です。
生まれてから三年以内にトラウマを経験した場合、そのトラウマの顕在記憶は、あったとしてもごくわずかだと思われる(Lは、四歳までの記憶はひとつもないと話していた)。
しかし、これらのトラウマについての手続き記憶/潜在記憶は存在していて、トラウマと似たような状況に置かれたときに噴出したり、誘発されたりする。
こういった記憶は、「まったく予期しないときに」よみがえる。顕在記憶とは違って、時間や場所、文脈によって分類されないらしいのだ。
感情的なかかわりにまつわる潜在記憶は、転移あるいは人生のさまざまな場面において、しばしば繰り返される。(p270-271)
赤ちゃんのときの記憶は、言葉で表せません。それは言葉に依存する普通の顕在記憶ではありません。その代わり、からだに記憶された手続き記憶、無意識の潜在記憶として残っているのです。
幼少期に親からの扱いは、あまりに劣悪だった場合、それが愛着トラウマとしてからだに記憶され、その後の人生でも勝手に気づかないうちに繰り返し実行されます。そのせいで、その人は「愛着障害」と診断されます。
しかし逆に、他の人と安定したコミュニケーションを平和裏に行える人は何の手続き記憶も持っていないわけではありません。
その人たちは、愛情深い親から受けた優しい世話という手続き記憶をやはり身につけていて、それが無意識のうちに繰り返されるので、まわりの人と仲良くやっていけるのです。
手続き記憶そのものには良いも悪いもなく、望ましい手続き記憶が身につけば立派な習慣になる一方、破壊的な手続き記憶がからだに叩き込まれると、その人は理由もわからず負のループにとらわれてしまい、簡単には抜け出せなくなってしまいます。
習慣的な姿勢や情動―無意識の記憶
「手続き記憶」は、自転車に乗るときや楽器を弾くときや、だれかとコミュニケーションするとき以外にも、四六時中、わたしたちのからだに影響を与えています。
たとえばそれは習慣的な姿勢です。身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、アレクサンダー・テクニークの創始者、F.M.アレクサンダーはこう言いました。
19世紀末のオーストラリア人、F.M.アレクサンダーは人間の姿勢について広範な研究を行い、「心理学者たちが語る無意識というのは、からだのことなのだ」と結論づけた。(p185)
スポーツ選手は、バッティングフォームを手続き記憶としてからだに覚えさせ、ダンサーは一連の演技の姿勢を手続き記憶としてからだに覚え込ませます。
しかし、そうした職業についていなくても、わたしたちの姿勢には、何かしらの無意識のうちに身についた手続き記憶が反映されています。
その人が無意識のうちに経験してきパターンを、からだが手続き記憶として記憶したものが、習慣的な姿勢です。
まさにガゼルのように、危険に鋭敏に順応し、ふさわしい行動をとる用意がヒトには備わっている。
あるヒトの姿勢、身ぶり、そして表情は、その人が脅かされ圧倒されたときに何が起きて何が起きなかったかということを無言で物語る。
習慣的な姿勢は、過去の何をたどり、何が解消されなければならないかということを教えてくれる。(p56)
わたしたちは、さまざまな刺激に対して、反射的に身構えることをよく知っています。危険を感じたらハッとして身体をこわばらせますし、拘束されつづけると無力感を感じて背を縮こませます。
以前の記事で説明したように、わたしたちのからだの自律神経系は、内外からの刺激に応じて、反射的にストレス応答システムを起動させます。
柔らかいベッドに横になってリラックスしたり、マッサージされたり、愛する人に抱かれたりすると、副交感神経の腹側迷走神経系が働き、からだはゆったりと落ち着き、緊張は解け、安心感を感じ、心地よく自然な姿勢になります。
ストレスにさらされ、脅かされ、ビクビクしていると、交感神経系が働き、からだは緊張し、冷や汗が流れ、脅威に対して身構え、今にも逃げ出したり闘ったりできるよう力がこもり、臨戦態勢の姿勢になり、恐怖や不安の情動に支配されます。
あまりに慢性的なストレスにさらされ、逃げ場も安心できる場所も見いだせないと、背側迷走神経系が起動し、からだは凍りつき、背中は縮こまり、ゾンビのようにだらりと手が下がり、とぼとぼと歩くようになり、無気力や絶望に襲われます。
これらの姿勢と情動の変化は、どれも、自分でそうしようと考えて、意識的に選ぶものではありません。からだが勝手に反応しています。各々のストレス反応と、からだの一連の姿勢と、さまざまな情動は、すべて結びついたものだからです。
そして、日々の生活で、いつも安心感を感じている人はリラックスした姿勢と安心感が習慣的になり、いつもビクビクしている人は身構えているような姿勢と不安が習慣的になり、無力感を感じてる人は手を垂れ下がらせた姿勢と絶望が習慣的になります。
生活の中でそうしたストレスを繰り返し味わうと、いつの間にかそのときの姿勢、そして姿勢と結びついた情動が、習慣としてからだに記憶されていくからです。
私たちの習慣的な行動や気分のうち、どれだけのものが意識的に気づける範囲の外側にあるのだろうか?
そうした行動や気分が、実際は異なるにもかかわらず、自分自身の一部や自分そのものであるとどれほど長い間思われているのだろうか?
こうした行動はこころでは長い間忘れられ(合理化され)ているが、からだによって正確に記憶されている出来事への反応なのだ。(p203)
アレクサンダーが述べていたとおり、無意識の記憶は、からだの姿勢や情動として記憶されているということです。
こうした姿勢に関わる無意識の「からだの記憶」は個人個人に備わるものである以前に、全人類、ひいては様々な生物に見られる普遍的な現象でもあります。
しばしばスピリチュアルな分野で、「集合的無意識」という概念が取り上げられますが、カール・ユングは、これを霊的なものと見なしていませんでした。
ユングは、この集合的無意識は抽象的・象徴的な概念ではなく、実在する物理的・生物学的な現実であると考えていた。(p306)
「集合的無意識」とは目に見えない世界に漂うものではなく、習慣的な姿勢に現れる無意識と同じ「からだの記憶」だとみなすことができます。
「からだの記憶」は姿勢や情動と結びついた生物学的なものであるがゆえに、遺伝によって先祖から脈々と受け継がれます。
一見無関係に思える多くの人が、まるでテレパシーでつながっているかのように同じ感情や意識を経験するとき、それはある動作や姿勢と結びついた「からだの記憶」が再生されているのであり、その記憶ははるか祖先から全人類に等しく受け継がれています。
たとえばストレス反応の「闘争・逃走反応」や「固まり・麻痺反応」は、それ自体が、いずれも姿勢、感情、振る舞いなどが結びついた手続き記憶のパターンです。
これらはすべて、生物のDNAに刻み込まれ、脈々と遺伝してきた「からだの記憶」であり、それがユングの言う「集合的無意識」なのです。
トラウマ記憶―右脳の記憶
知らず知らずのうちにストレスが無意識のからだの姿勢となって記憶されることからわかるように、無意識の手続き記憶は、トラウマ記憶と密接に関係しています。
すでに見たとおり、無意識の手続き記憶とは、生後2-3歳ごろまでに先に発達している右脳がつかさどる記憶でした。左脳の言語機能が関与しないところでからだに記憶されるのが手続き記憶であり、愛着障害であり、習慣的な姿勢です。
トラウマ記憶は、そうした無意識のうちにからだに記録される手続き記憶の最たるもの、最も極端で破壊的なものです。
以前の記事でも何度か取り上げましたが、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法が述べるようにPTSDのフラッシュバックでは、右脳だけが活性化することがわかっており、トラウマ記憶とはすなわち右脳の記憶だとされています。
これらの画像からは、フラッシュバックの間、研究の参加者たちの脳は、右側だけしか活性化しなかったこともわかった。(p81)
人は脳の右半球で空間的記憶を処理しており、私たちが行なった神経画像研究でも、トラウマの痕跡が、おもに右半球にあることがわかっていた。
気遣いや非難、無関心はみな、おおむね表情、声の調子、身体的な動きで伝わる。最近の研究によると、人のコミュニケーションの最大九割が、非言語的な機能が優位な右半球の領域で起こるという。(p495)
メディアでしばしば、「あなたにとってトラウマになっていることは何ですか?」といった話題が扱われます。「ゲームや映画でトラウマになったシーンは?」という特集が組まれることもあります。
しかし、こうした質問に対し、「わたしは何々がトラウマになりました」と答えられるなら、それは医学的な意味ではトラウマ記憶ではありません。
PTSDや解離で症状を引き起こしているトラウマ記憶とは、ことばで説明できる陳述記憶または顕在記憶ではなく、ことばで説明できない、自分でもわけがわからないまま自動的に実行されてしまう右脳の手続き記憶だからです。
この右脳の手続き記憶が関与しているトラウマ記憶は、ことばで説明できる文脈のある一貫した記憶とはまったく異なっています。
右脳は音や声、触感、匂い、それらが喚起する情動の記憶を保存する。また過去に見聞きした声や目鼻立ち、仕草、場所に自動的に反応する。
右脳が思い起こすことは、直感的な事実、すなわち物事の実際のありようのように感じられる。(p82)
自転車の乗り方をことばだけで誰かに教えることができるでしょうか。いいえ、それは空間的、視覚的なもので、からだで経験しなければわかりません。そしてからだで経験した後で、だれかに筋道立てて説明することもできません。
同様に、トラウマ記憶は、ことばで筋道立てて説明することができず、音、声、触感などの空間的な断片としてフラッシュバックしたり、何かのきっかけで気づかないうちに自動的に呼び覚まされたりして、ことばではなく、からだで再体験します。
トラウマ記憶は、本人の気づかないところで、知らないうちに自動的に繰り返し再生されます。幼少期の養育による人生最初のトラウマが、愛着障害として、気づかないうちに自動的に繰り返されてしまうのと同じです。
これがトラウマの「再演」であり、解離における「憑依」や「させられ体験」の正体です。勝手に手続き記憶が再生されるので、だれかに操られているかのように感じてしまうわけです。
通常、わたしたちの二重の記憶システムは、鳥の両翼、自転車の両輪のように、互いに補い合って機能しています。赤ちゃんのころは手続き記憶しか働いていないとしても、成長すれば、陳述記憶と手続き記憶は協力してその人の人生を織りなしていきます。
しかし、あまりに衝撃的な体験をすると、この二つの記憶システムが切り離され、自分でも意識しないうちに、つまり陳述記憶の手の届かないところで、トラウマが無意識の手続き記憶としてからだに焼き付いていまいます。
通常の条件下では、理性的なものと情動的なものという、この二つの記憶のシステムは協働し、結合された反応を生み出す。
だが、覚醒の度合いが高まれば、両システム間の均衡が変化するだけでなく、入ってくる情報を適切に保存したり統合したりするのに必要な、海馬や視床など他の脳領域との接続も断たれる。
その結果、トラウマ体験はの痕跡は、筋の通った、一貫した物語としてではなく、断片化された感覚的痕跡や、情動的痕跡、すなわち光景、音、声、身体的感覚として構成される。(p291)
ことばで説明できる陳述記憶から切り離されて、知らないうちに衝撃的なトラウマ経験が「からだ」にだけ焼き付いてしまう、これが解離です。
人が自分の記憶を変えたり歪めたりするのは自然であるのに対して、PTSDの患者はそうした記憶のもとである実際の出来事を過去のものにできないことをジャネは発見した。
解離のせいで、複合的で絶えず変わる自伝的記憶の貯蔵庫内部にトラウマは統合されず、端的に言えば、複式の記憶のシステムが構築されるのだ。(p298)
トラウマ記憶は、意識から解離されているので、陳述記憶として語ることはできません。筋道立てて説明できません。しかし、もう一方の記憶システム、無意識のからだの記憶である手続き記憶にはまざまざと焼き付いています。
すると、トラウマ記憶を負った人は、自転車の片方のタイヤだけがパンクしているかのように、鳥の片方の翼だけが麻痺しているかのようになります。まともに走ることも羽ばたくこともできなくなります。
顕在記憶では、自分はもうトラウマから解放されたことを知っています。自分のトラウマはもう終わった過去のことであり、とても辛い思いをしたと、ことばで語ることはできます。
しかし顕在記憶から解離された「からだ」の記憶は、いまだにトラウマの時間のただ中に取り残されていて、トラウマが終わったことに気づいていません。
からだの手続き記憶が、交感神経系の「闘争・逃走反応」を延々と繰り返しつづけるのがPTSDであり、背側迷走神経系の「固まり・麻痺反応」を延々と繰り返しつづけるのが解離です。
こうしたからだのストレス反応は、本来緊急時に一時的に機能するためのシステムなので、延々と機能しつづけると、からだに破壊的な影響を及ぼします。
常に緊張した筋肉は痛みを生じさせますし、常に凍りついた筋肉はエネルギーを枯渇させます。つねにトラウマのさなかにある内臓や呼吸器系はさまざまな不定愁訴を引き起こします。
それどころか、慢性的に続くストレス反応は、内分泌系のホルモン分泌パターンや、免疫系の働きともつながっているので、さまざまな精神疾患や自己免疫疾患の原因にさえなります。
以前に取り上げた身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価でカナダの医師ガボール・マテが説明していたように、精神神経免疫学では精神的なストレスが免疫系や内分泌系の反応に影響を及ぼし、重大な疾患を引き起こすことが明らかになっています。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、実際にからだの記憶である染み付いたストレス反応が、免疫疾患の発症と関わっていることが示唆されています。
調査が終わり、データを分析したクラディンの報告によると、近親姦サバイバーたちは、トラウマを経験していない対照群と違い、CD45のRAとROの比率に異常が見られるとのことだった。CD45細胞は、免疫系の「記憶細胞」だ。
…過去に近親姦を経験した患者たちは、いつでも襲いかかる準備のできたRA細胞の割合が標準より大きかった。そのせいで免疫系が脅威に対して過敏になり、必要でないときや、自分の体の細胞を攻撃することになってしまうときにさえも、防衛を開始しがちだ。(p210)
「からだの記憶」は、単なる動作のパターンではありません。それは、心身の反応すべてを含むパターンです。
からだに染み付いたトラウマ記憶が、トラウマの瞬間のストレス反応を繰り返し再演するとき、からだはトラウマの瞬間の姿勢をとるだけでなく、内臓も、手足も、内分泌系も、免疫系も、からだのありとあらゆるシステムが、トラウマの瞬間のパターンを再演します。
それが慢性的に再生されるということは、からだのあらゆるシステムが、トラウマの瞬間のストレス反応を繰り返してして、単にこころだけでなく、からだ全体で、トラウマを再体験しつづけているということです。
愛着障害やPTSDなどの人たちは、単にこころの問題に悩まされるだけでなく、心身症や自己免疫疾患やがんや、その他ありとあらゆる病気になりやすいことがわかっています。
それは、トラウマが「こころの問題」でも「心理的な葛藤」でもなく、からだの記憶であり、トラウマの身体反応が右脳の手続き記憶に刻まれ、からだ全体で再演されているからです。
だから、冒頭で引用したようにガボール・マテは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでこう語っているのです。
「ほとんどの人は」とラヴィーンが指摘するように、「トラウマを〈精神的な〉問題、さらには〈脳の病気〉だと考えている。しかし、トラウマはからだの中にも生じる何かなのである」。
実際に、トラウマが最初に、真っ先にからだに生じることをピーターは示している。トラウマに関連している精神状態は重要ではあるけれども、二次的なものである。からだから始まり、こころが後に続くのだ、と彼は言う。
したがって、知性や情動さえも関与させる「対話による療法」では十分に深いところまで到達しないのである。(p xii)
トラウマとは「からだから始まり、こころが後に続く」ものです。
治療には「身体的な経験が必要」
ガボール・マテが述べるとおり、トラウマは「からだの記憶」であるゆえに、「対話による療法」では、「十分に深いところまで到達しない」という問題があります。
これは、従来言われていたような、PTSDや解離は「こころの問題」であるがゆえに、カウンセリングを主体としたことばによる治療が有効だ、という考え方に真っ向から異議を唱えるものです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でベッセル・ヴァン・デア・コークが繰り返し述べているように、カウンセリングや認知行動療法や曝露療法などの従来の治療法は、「からだの記憶」を扱えないばかりか、症状を悪化させてしまうこともあります。
前回の記事で詳しく扱ったように、トラウマ障害で生じているさまざまな症状は、こころの問題というより、生物学的な問題でした。
高度なこころを持つ人間だけでなく、さまざまなイヌやサルやネズミなど、哺乳類を使った実験でも、PTSDの「逃走・闘争反応」や、解離のシャットダウンなどを再現することができます。
動物たちは、こころの感情的なもつれで、そうした症状に陥っているわけではありません。動物たちは、言語的な陳述記憶を用いて考えたり悩んだりしません。
動物たちの場合、PTSDや解離症状を引き起こしているのは、トラウマに曝露されたときに作られた手続き記憶であり、ことぱで考えずとも、意識せずとも、無意識のうちに、自動的に、からだに染みついたトラウマの瞬間のパターンが再演されてしまっているのです。
それで、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中でヴァン・デア・コークは、それらイヌたちの実験を通して得られた理解を、人間のトラウマ患者たちにも応用できるのではないか、と考えました。
たとえば、扉が開いているときに電気ショックを与える檻から逃げられることを、トラウマを受けた犬たちに教えるには、どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう、檻から繰り返し引きずり出すしかないことを彼とセリグマンは発見した。
私も患者を手助けし、自らを守る手立てはまったくないという、彼らの基本姿勢を変えてあげられないだろうか。
私の患者たちも、自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻すには、身体的な経験が必要なのではないか。
自分がはまり込み、身動きがとれなくなっているトラウマに似た、潜在的脅威となる状況から、体を動かして逃げ出すことを、彼らに教えられないだろうか。(p59)
ヴァン・デア・コークは、度重なるトラウマ経験によって解離の不動状態に陥ってしまったイヌたちの実験から、同じように不動状態と学習性無力感に陥っている人間の患者たちを助けるヒントを見いだしました。
当然ながら、イヌたちをカウンセリングしたり、認知行動療法を施したりしても、トラウマ反応が解けることはありません。
その代わり、イヌたちは、「どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう」にされれば、トラウマ反応の不動状態から抜け出せることがわかりました。
そうであれば、人間のトラウマ患者の場合も同じです。
私の患者たちも、自分に主導権があるという体の芯からの感覚を取り戻すには、身体的な経験が必要なのではないか。
ヴァン・デア・コークはそう考えて、これまでの会話や解釈に重きを置いたトラウマ治療ではなく、身体志向の治療法の可能性を探るようになりました。ことばではなくからだによって、「体を動かして逃げ出すことを」患者たちに教えるのです。
そのような身体志向のトラウマ・セラピーのひとつが、解離と慢性疲労についての一連の記事で何度も参考にしてきたピーター・ラヴィーンが考案したソマティック・エクスペリエンス(SE:Somatic Experiencing)です。
ヴァン・デア・コークは、ピーター・ラヴィーンを「私の友人であり師である」と紹介しつつ、ソマティック・エクスペリエンスの身体志向の治療法について触れています。
身体療法は、動いても安全だという経験によって、患者が再び現在に身を置くのを助けることができる。
効果的な行動をとることの喜びを感じると、主体感覚と、自分を積極的に防御して保護できるのだという感覚を取り戻せる。
すでに1893年に、トラウマの最初の偉大な探究者であるピエール・ジャネは、「行動を完遂させることの喜び」について書いている。
私は、センサリーモーター・サイコセラピーと、ソマティック・エクスペリエンスを実践するときに、その喜びをいつも目にする。
反撃したり逃げたりしたら経験していたであろう感じを身体的に経験できると、患者はリラックスし、微笑み、達成感を実現するのだ。(p356-357)
ソマティック・エクスペリエンスでは、自分のからだを観察して気づきを得るよう患者を助けます。
まず自分のからだを観察して、トラウマの痕跡がどこに残っているかに気づき、その感覚を無視したり、抑え込んだりするのではなく、耐えられるように段階的に援助し、自分のからだをコントロールしていく力を育みます。
ちょうど、セリグマンとマイヤーが、不動状態に陥ったイヌたちを「どうすれば逃げられるかを体で経験できるよう」助けたように、からだの反応をコントロールしてトラウマのただ中から、手続き記憶の再生のループから抜け出せるよう助けるのです。
マインドフルネス―感じながら観察する
ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でソマティック・エクスペリエンスの方法をさまざまな観点から説明していますが、この記事ではいくつかの要点にしぼって考えてみましょう。
これから考えるのは、ソマティック・エクスペリエンスだけでなく、さまざまな身体志向のセラピーに共通する手法です。
治療の具体的な手順というよりは、一般的な会話を主体としたセラピーとは異なる部分、「からだの記憶」を治療するときに心構えとして理解しておきたいポイントです。
ラヴィーンが「一人でもできるが、他の人がいるところでした方が実りが多い」と述べているように、こうしたセラピーは、できるなら経験を積んだ専門家の支えのもと行うのが望ましいといえます。(p348)
冒頭で挙げたような、ソマティック・エクスペリエンスその他の身体志向のセラピストを探してみるのは、こうした治療を実践するのに役立つかもしれません。
どのようなトラウマ治療法でも、まず最初にやるべきなのは、安全な場所のイメージを確保することです。自分が安心感を感じられるイメージ、思い出のぬいぐるみであれ、場所であれ、架空の世界であれ、圧倒されそうになったときに避難できるイメージを用意します。
ついで、身体志向のセラピーでは、「からだの声」に耳を傾けるトレーニングを積んでいきます。
セラピストは、その信念を捨てるよう説得するのではなく、その思考がからだの中に宿る場所を探り、どの部分が緊張し、どの部分が開放されてゆったりしているかに気づき、少しでも虚脱感を感じる場所を突き止めるようクライアントを促すとよい。
おそらくもっと重要なのは、感情のない場所にも気づくよう促すことである。(p178)
ラヴィーンの説明は、近年よく知られるようになってきたマインドフルネスと呼ばれるセルフモニタリングの手法と共通しています。
マインドフルネスでは、目を閉じて自分の感覚に注意を研ぎ澄まし、どのような感覚や感情が現れても、それらをただ確認するだけで、何も反応しないように努めます。
簡単に聞こえますが、このステップは非常に難しく、わたしたちがいかに「からだの声」に耳を傾けていないかを痛感させられます。
このエクササイズが簡単だと思ったり、最初の実験でからだの境界の中にあるすべてを観察できたと思ったりしたら、それはほぼ確実に間違いだ。
おそらく、価値判断や評価を加えずに体験を「ただ」観察するということがどれほど難しいかに気づき始めただろう。
からだの気づきのスキルは、時間をかけて徐々に培っていく必要がある。
あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されて、さらなる抑圧や解離につながるおそれがある。(p349)
要点は「ただ観察する」ということです。自分のからだに起こっている感情や感覚、痛みや緊張や疲労やうずきや不快感や、その他なんであれ、どんな感覚に対しても、それを感じると同時に、ただ観察するトレーニングを積みます。
マインドフルネスでは、いかなる感覚や情動が出てきても、ただそれを確認するだけで、何も反応したり解釈したりすることなく、呼吸に注意を戻すように訓練されます。
はじめのうちは簡単に思えるかもしれませんが、よくよく内面を観察するとき、必ずどんな感覚や情動に対しても、条件反射のようにとっさに別の反応をしてしまっていることに気づくはずです。
からだの緊張に気づいた次の瞬間に、不快感から反射的に姿勢を変えようとしたり、咳払いなどのチック症状を起こしたり、ネガティブな情動に気づいたとたんに、反射的にそれから目をそらして脇に追いやろうとしたり、あらゆる感覚に対して、必ず何かしらの反応をとってしまっているものです。
まずは、こうした感覚や情動を感じたら、いかなる反応も保留して、ただ観察することを徹底します。ただ中立的に観察し、注意を集中することもそらすこともなく、じっと自分の内面をモニタリングします。
このとき、からだの中の何かの感覚に気づいたり、思いもよらない記憶がよみがえってきたりしても、それをたどっていこうとしないよう気をつけます。
何かのトリガーに反応して、それを無意識に追いかけていってしまうのが、PTSDなどのトラウマ反応で生じている本質です。刺激に促されるままに、条件反射としてトラウマの手続き記憶を再生してしまうのではなく、ただ観察する訓練を積むのです。
誤解されがちですが、反応を保留する、というのは反応を抑え込むことではありません。
この経験的なプロセスには、感情を習慣的なやり方で表すのではなく一時保留にしておく能力が含まれる。
このように自制することは、抑制の行為ではなく、感覚と感情を保ったまま区別するための、より大きな入れ物、体験の器を形成する行為である。(p382)
感覚や情動を感じたとき過剰に反応するのがPTSDであり、過剰に抑え込むのが解離です。
もしからだが、過敏に反応するわけでも、過敏に抑制するわけでもなく、ただ姿勢を自発的にに変えようとするのであれば、それを見守り、観察するのもマインドフルネスの一部です。
「そこにとどまる必要もないけれど、去る必要もない」
ここで注意したいのは、ラヴィーンが「あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されて、さらなる抑圧や解離につながるおそれがある」と書いていたことです。
解離傾向の強い人は、からだの刺激や情動を感じたとき、その感覚を切り離して頭を空っぽにしてぼうっとする解離というかたちの条件反射で対応しがちです。しかしそれはマインドフルネスではありません。
マインドフルネスとは、しっかり感覚や情動に注意を向け続けながらも、それに対して反応しないトレーニングです。感覚を切り離してやり過ごしてしまえば、条件反射で反応してしまっていることになります。
意識が飛んで別のことを考え出してしまったり、何も考えなくなって時間が飛んでしまったりしたら、それは解離が起こっている証拠です。あくまで意識を「今ここ」に保ち、感覚や情動をモニタリングしつづけなければ意味がありません。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークは、トラウマを対象としたヨーガのプログラムに、この「ただ観察する」手法が応用されています。
ポーズのうち私にとってトリガーになりうるものもあります。今日は二つありました。
両脚をカエルのように上げるものと、骨盤に向かってとても深い呼吸をしていくものです。パニックが始まりかけるのを感じました。
とくに呼吸をするポーズでは、ああ、嫌だ、私は体のこの部分を感じたくはないのにと思いました。
でも、それから自分を抑えて、かろうじてこう言うことができました。体のこの部分が経験をしまい込んでいることに気づきなさい。そして、ただ、そのままにしておきなさい、と。
そこにとどまる必要もないけれど、去る必要もない。それを情報として使いなさい、と。これほど意識的なかたちで、そうできたことはなかったと思います。(p455)
ヴァン・デア・コークは、ヨーガの特定のポーズをとりながら、自分の感覚や情動に注意を集中するプログラムを考案しました。
以前の記事で取り上げたように、ヴァン・デア・コークらによるヨーガを用いたトラウマ・セラピーの最初の研究では、半数以上の人が脱落してしまいました。
それは、ヨーガにおける特定の姿勢が、性的暴行の「からだの記憶」を強く呼び覚ましすぎて、フラッシュバックや再体験につながったからでした。
この女性の場合は、感じた感覚に対して、解離反応を起こして、「この部分を感じたくはないのに」と思い、そこを「去る」ことを選びそうになりましたが、意識を保ってとどまりました。
ラヴィーンの言うように、「からだの記憶」への気づきを焦りすぎることは、「あまりにも早く深く物事を体験すると、圧倒されて、さらなる抑圧や解離につながるおそれ」があります。
ラヴィーンは、ちょうど振り子運動(ペンデュレーション)のように、徐々にからだの声に耳を傾けること、圧倒されそうになったら、安全な場所のイメージに立ち戻ることを勧めています。
トラウマ障害で感覚が解離している人は、これまでの人生で長きにわたって、「からだの声」に耳を傾けず、からだが何かを言おうとするたびに反射的にそれをさえぎったり覆い隠したり、脇に押しやったりしてきました。
そうしなければ、からだに刻まれたトラウマ記憶に圧倒され、呑み込まれてしまうかもしれないという無意識の防衛から、トラウマを負った人は、自分のからだの声を麻痺させ、意識から遠ざけるようになります。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法にはこう書かれています。
トラウマを負った人は、感じるのを恐れていることが多い。今や彼らの敵は、加害者(近くにいて傷つけられることがもうなければいいのだが)ではなく、自分の身体的感覚だ。
不快な感覚に乗っ取られるのではないかという不安から、体が凍りつき、心は閉ざされたままになる。
トラウマは過去のものなのに、情動脳は、サバイバーがおびえたり、無力だと感じたりするような感覚を生み続ける。
じつに多くのトラウマサバイバーが、強迫観念に駆られて飲み食いし、愛し合うことを恐れ、多くの社会的な活動を避けるのも驚くにはあたらない。
彼らの感覚世界の大部分が、立ち入り禁止になっているのだ。(p340)
からだの感覚を抑圧し、麻痺させ、なかったことにし、気づかないふりをして、「立ち入り禁止」にして、「からだの記憶」にアクセスしようとしてきたのですから、突然、海に飛び込むかのように踏み込むのは危険です。
海で泳ぐ前に、まずプールサイドで準備体操して、底の浅いプールで少しずつ泳ぐ練習をしていく必要があります。
つまり安心できる場所のイメージというプールサイドと、「からだの記憶」という水の中を少しずつ振り子運動(ペンデュレーション)し、毎日少しずつ、練習していくのが大事です。
先ほどの女性が言っていた「そこにとどまる必要もないけれど、去る必要もない」というのがマインドフルネスのキーワードです。
刺激に敏感に反応しすぎて「そこにとどまる」PTSD反応を起こしたり、敏感に抑え込みすぎてからだから「去る」解離反応を起こしたりせず、ただ感じながら反応しない、からだがやりたいようにするのをただ観察するというトレーニングをするのです。
「からだの声」を聞く―反射的にさえぎらずに
マインドフルネスで感覚や情動をただ観察し、条件反射的な反応を保留する、というのは、じつは、何か特別で異質な訓練なのではなく、からだとコミュニケーションをするためのごく普通の方法です。
トラウマ治療には「会話を主体とした療法」ではなく、「身体志向の治療法」が必要だと書きましたが、このふたつは異質なものではなく、とてもよく似ています。
身体志向のセラピーでやろうとしていることをわかりやすく理解するのは、からだを擬人化する必要があります。
ここに三人の人間がいると考えてみてください。「セラピスト」と「あなた」とあなたの「からだ」です。
会話を主体とした療法は、「セラピスト」と「あなた」の二人で会話する治療法です。「からだ」は発言させてもらえません。「からだ」が口を挟むことができず、ぜんぶ「あなた」が代弁してしまい、「セラピスト」と「あなた」と二人だけで話が進んでいきます。
他方、身体志向のセラピーは、「あなた」と「からだ」の二人で会話する治療法です。「セラピスト」は協力するとしても陰から手助けするだけです。「あなた」が「からだ」と直接やりとりして、「からだ」の言い分を聞くようにします。
人間同士のセラピーにおいて、「セラピスト」は「あなた」の話を傾聴します。あなたがどんなことを言おうと、途中で口を挟んだりせず、一方的な解釈を述べたり、理由付けしようとしたりせず、ただ黙って、「あなた」の話に耳を傾けます。
もし、「あなた」が何かを話そうと口を開きかけるたびに、「セラピスト」が話をさえぎって、すぐに「それはきっとこういうことですよ。~だからそうなっているんだと思いますよ」なんて反応してきたら、そんなセラピストのもとに通うのはやめるでしょう。
まず、「あなた」の話を批判せず、頭ごなしに退けたり遮ったりもせず、真剣に耳を傾けてくれる「セラピスト」にあなたは相談したいと思うはずです。
身体志向のセラピーは、これとまったく同じことを、「あなた」と「からだ」で行います。
「からだ」はさまざまな感覚や情動をとおして、「あなた」に語りかけます。ところが、あなたは、これまでの習慣では、「からだ」の声を最後まで聞かず、いきなり遮って反応してしまうのが当たり前になっています。
「あなた」が「からだ」の声をまったく聞かず、ちょっと「からだ」が口を開こうものなら、条件反射的に遮ってあれこれ反応してしまっているせいで、「あなた」と「からだ」は疎遠になり、解離してしまっています。
マインドフルネスは、「からだ」が何かを言いかけたときに、反射的にさえぎるのをやめ、いわば傾聴するためのトレーニングです。「からだ」が何を言おうとも、じっくりと「からだ」の声に耳を傾け、反応したり否定したりせず、よく聞くためのトレーニングなのです。
わたしを含め、大勢の人は、「からだ」の声を最後まで聞かず、さまざまな仕方で勝手に解釈したり、理由づけしたりしてしまっています。
疲労が生じたらシップを貼り、痛みが生じたら痛み止めを飲んで麻痺させ、湿疹や胃腸の不具合などが出たら、検査しにいきます。「からだ」の声に耳を傾けようとせず、一方的に決めつけ、機械的な医学で対処してしまっています。
これはちょうど、患者の話を聞かない医者とよく似ています。あまりに忙しいのか、診察室に入ると、患者の話をほとんど聞かず、二、三言聞いただけで検査にまわし、あとは「お薬を出しましょう」と言うだけの医者です。
こうした医者は、往々にして、症状の背後に潜む「からだ」の声を聴き逃しがちです。精神神経免疫学が明らかにしたように、慢性疲労にしても慢性疼痛にしても自己免疫疾患にしても心身の相関の上に発症しますが、そうしたコミュニケーションを一切無視しています。
あなたはそんな医者にはあまりかかりたくないと思うかもしれません。
ところが、あなたがその医者なのです。
わたしもまたそうですが、「あなた」は自分の「からだ」に対して、そうした医者たちと同じ対応をしています。「からだ」の言い分に耳を傾けず、ただ症状だけを見て、あれこれと勝手に理由付けし、解釈し、人間味を無視した治療を追い求め、薬を飲んで「からだ」を黙らせています。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で「原因不明」の慢性疼痛に悩み続ける人たちについてこう書いています。
長期にわたって怒ったりおびえたりしていると、筋肉が常に緊張状態になるために、いずれ痙攣や背中の痛み、偏頭痛、線維筋痛症といった、何らかの慢性疼痛の症状が出る。
そうした人々は、さまざまな専門家に診てもらい、多様な診断検査を受け、多くの薬を処方されるかもしれない。
それによって一時的に苦しみから解放されることもあるのだろうが、どれも根底にある問題は正してくれない。
診断によって患者の問題が規定されてしまい、それがトラウマに対処しようとする彼らの試みの表れなのだと認識されることはない。(p439)
この人たちの慢性疼痛は、れっきとした理由があって生じていました。「長期にわたって怒ったりおびえたりしている」ために筋肉が緊張し、連鎖的反応の終着点として慢性疼痛が生じていました。
ほんとうは、「からだ」は恐怖や不安を感じているために、「逃走か闘争か」の状態にあり、今すぐにも逃げ出したい緊張状態にあるかもしれません。しかし条件反射的にそれを抑え、固まらせてしまっていることで、からだはいつまでも緊張から抜け出せません。
それなのに、彼らは、「からだの声」に耳を傾けようとしませんでした。ただ、さまざまな専門家に診てもらい、からだとコミュニケーションするどころか、薬で感覚を麻痺させ、黙らせようとしていました。原因不明になってしまうのも当然です。
「からだ」がさまざまな症状を見せるのにはすべて理由があります。ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでこう書いています。
このプロセスで大切なことの一つは、これらの感覚に重要なものなどないという考えを捨てることだ。そのように見えるかもしれないが、そう決めつけてしまうと、感覚の重要性が明らかになっていくのを妨げることになる。
…特に、この実験段階での目的は、あまりにもなじみのあるものになっていて、意味などなく思われる緊張や感覚の慢性的なパターンを探ってもらうことだ。(p356)
「からだ」の感覚や情動は、すべて意味のない単なる症状ではなく、「からだの声」であり、何かしらの理由をもって、「あなた」に発せられているメッセージなのです。
わたしたちは「からだ」にすぎないのではないか
「からだ」を擬人化して考えるこうした見方は、人によっては、ばからしく思えるかもしれません、ただのままごとや空想遊びのように感じられたとしても致し方ないことです。
しかし、ことによると、わたしたちは根本的なところで、致命的な思い違いをしている可能性があります。
特定のからだの場所に生じた情動を擬人化して、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)のように会話することによってトラウマを解消していくセラピーは、以前紹介したように、自我状態療法や内的家族システム療法(IFS)と呼ばれています。
こうした治療法では様々な身体志向のセラピーと同様、からだをじっくりと観察して、「からだの声」に耳を傾けます。
そのとき、「からだの声」に対して、具体的な姿をイメージするという特徴があります。 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法はこう説明しています。
患者が「私の中の何がそう感じているのか」と自問すると、そうした部分のイメージが頭に浮かんでくる場合がある。
抑うつ状態にある部分は、見捨てられた子供のような姿かもしれないし、老いゆく男性、あるいは負傷者の世話にてんてこ舞いの看護師のような姿かもしれない。
また、復讐心に駆られた部分は、海兵隊の戦闘員やチンピラのように見えるかもしれない。(p469)
これは、からだの声を擬人化することで、「あなた」と「からだ」のセラピーをやりやすくして、現実の人間同士の家族療法のような馴染み深いものとするための工夫とも取れますが、もしかすると、まったく逆の意味があるのかもしれません。
あまりに極端な意見に聞こえるかもしれませんが、わたしたち人間の人格とは、もともと擬人化された「からだ」そのものなのではないでしょうか。
以前の内的家族システム療法の記事で書いたように、わたしたちは、言語能力を獲得する前は、ただの情動を感じる「からだ」にすぎません。赤ちゃんはみな、ただ情動のままに振る舞う、ひとつの「からだ」でしかありません。
赤ちゃんは、すでに見たとおり、手続き記憶しかない世界に生きています。赤ちゃんには最初は「こころ」などなく、動物と同じく「からだ」で感じるだけの生き物です。
しかし言語能力を獲得し、名前で呼ばれ、言葉によるコミュニケーションができるようになると、ただの「からだ」は、自分はひとつの人格であると思うようになり、アイデンティティを獲得します。すると「こころ」が生じます。
わたしたちはもともと「こころ」を持つ人格だったわけではなく、最初はただの「からだ」にすぎなかったのです。
受動意識仮説や神経ダーウィニズムなどの近年の研究によれば、わたしたちの「こころ」また人格という意識は、どうやらボトムアップのアプローチで生成されていると思われます。
ボトムアップとはすなわち、「からだ」が「こころ」を作っているということです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でピーター・ラヴィーンは、ジェラルド・エーデルマンの神経ダーウィニズムを引き合いに出してこう書いています。
上記のノーベル賞受賞者らは、「こころのあり方(mindedness)」(意味づけという複雑な機構も含めて)は、行為、感覚、感情、知覚の微調整およびカテゴリー化から生じると考えている。
彼らが過去に唱えた理論をよく考えると、ヒトの思考とは、階層最高位の司令者ではなく、ヒトが行うことと感じることが複雑に同化したものであることがわかる。(p159)
まず最初に、「あなた」という人格、言い換えればこころや魂のようなものが生まれて、その下に「からだ」が作られたのではなく、「からだ」が感じている情動がひとつのかたちになったものが「あなた」だということです。
これはいわゆる群知能と呼ばれるものです。イワシや蜂の群れや粘菌のコロニーは、ひとつひとつは高度な知能を持っていなくても、集団として集まり、群れで行動すると、あたかも高度な知恵や意志を持つかのように、ひとつの人格のように振る舞います。
人間の人格や意志というものも、おそらくは、「からだ」の無数の細胞が寄り集まることで蜃気楼のように立ち現れている群知能ではないかとわたしは思います。
そうすると、「からだ」が一つにまとまっているうちは、「からだ」の細胞全体の総意として、ひとつの人格としての「こころ」が立ち現れることになります。
かつて、このブログで解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオンについて扱い始めたとき、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という定理がどうにもおかしい、ということを指摘しました。
「我思う、ゆえに我あり」は言い換えれば、「こころ」が考えるから「からだ」が存在するという意味です。しかしそうだとすると、内部に複数の人格を抱え持っている人は、複数の実体を持つことになってしまいます。しかし「こころ」が複数でも、「からだ」は見かけ上ひとつです。
この定理は、解離の考え方と真っ向から衝突しているので、解離の専門家の岡野憲一郎先生も疑問をさしはさんでいました。
そして今また、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンも、この定理に異議を唱えています、いえ、それどころか、大胆にも根本から間違っていると主張しています。
人間は存在するがゆえに思考するのであり、思考するがゆえに存在するのではない。
…デカルトの定理は、ボトムアップの処理方法を反映させて、次のように改訂するとよいかもしれない。
「我知覚する、我行動する、我感じる、我認知する、我内省する、我思う、我推論する、ゆえに、我あると我は知る」(p334)
根本が逆なのです。「こころ」が思うから「からだ」が存在するのではなく、「からだ」が存在するから「こころ」がどこからともなく蜃気楼のように立ち現れます。
「からだ」から「こころ」が生まれているのだとすると、もしトラウマなどによって、からだの一部が解離されると、細胞の集まりによって立ち現れる人格も2つまた3つと複数にわかれていくことになります。
トラウマ記憶が「からだの記憶」であり、「からだの記憶」によって解離性障害になり、極端な場合は解離性同一性障害(多重人格)になる、ということからすると、解離しているのは「こころ」ではなく「からだ」であるように思えます。
解離性同一性障害で人格が複数に分裂するのは、「こころ」が分裂しているのではなく、「からだ」の一部の記憶が解離されてしまったために、その「からだ」の部分に対応する別の人格が生成されてしまうのではないでしょうか。
先ほど触れたように、解離性障害における「憑依」や「させられ体験」とは、目に見えない魂や霊が乗り移っているのではなく、「からだ」の手続き記憶が無意識のうちに再演されることで生じていました。
奇妙な人格のように思えたものは、じつは解離された「からだの記憶」だったのです。
だからこそ、内的家族システム療法のようなセラピーでは、解離されている「からだ」の情動に注目して、それを人格として扱うことができるのではないでしょうか。
解離性同一性障害の治療では、解離された別人格を尊重し、一人の人間として扱い、その声に耳を傾け、円滑にコミュニケーションしていけるようになると、人格が統合されます。
身体志向のトラウマ・セラピーでは、解離された「からだ」の声に耳を傾け、あたかも一個の人間であるかのように尊重し、円滑にコミュニケーションしていけるようになれば様々な身体症状が回復されていきます。
内的家族システム療法では、特定の「からだ」の部分に宿る情動に気づき、それを人格化してコミュニケーションし、一個の人格として扱うことによって、トラウマが解消され、からだが統合されます。
この人格を生み出している「からだ」とは、文字通りの「からだ」というよりは、無数の神経細胞のより集まりとして脳が生み出しているバーチャルボディー、文字通りのからだにぴったり重なって、感覚の位置補正を行なっている身体イメージです。
文字通り手足を切り離された感じる幻肢痛の感覚と、トラウマによってからだの一部を感じられなくなり、多重人格になった人の感覚がよく似ているのは、どちらも「からだ」の切り離しによって生じているということを裏づけています。
幻肢痛で切り離された「からだ」を統合するのに用いられたのは、思考でもカウンセリングでもなく、ミラーボックスという身体志向の治療法でした。そうであれば、解離性障害で切り離された「からだ」を統合する近道も、やはり身体志向のセラピーということになります。
文字通りのからだを表象して、からだの声を伝えているバーチャルボディーとは何か、という点については、過去の記事で扱いました。
以前の記事で、わたしたちは理性的に振る舞えるとしても、生物学的メカニズムによって成り立っている「動物の端くれ」にすぎないというピーター・ラヴィーンの考えを紹介しました。
したがって、私たちは結局のところ、動物の端くれにすぎないのである。ただ本能的で、感情的で、論理的なだけである。
終わりに、この章の幕開けを告げたマッシモ・ピグリウッチの引用を繰り返しておく。それがすべてを簡潔に要約してくれそうだからである。
「私たちは特別な動物なのかもしれない。私たちはとても特別な特徴を持った特殊な動物なのかもしれない。
しかしそれでも私たちは動物なのである」(p295)
わたしたちは、なまじ言語を使いこなせるがゆえに、自分がただの「からだ」ではなく目に見えない魂や心といった得体のしれない人格を持っているかのように取り違えるようになりました。
謎めいた心という人格が存在していることはとても便利であり、わたしたちを他の動物とは異なる理性的に考えることのできる動物にならせています。
しかし、わたしたち人間は、他のあらゆる面で、動物と同じです。食べ、飲み、歩き、走り、生殖し、排泄し、そして死にます。死んだ人間は動物と同じように、物質の諸元素へと帰っていきます。
わたしたちがどれほど深い思考やアイデンティティや自我を持っていたとしても、死んだときにそれらは失われます。わたしたちは動物と同じく、有機物の集まりだからです。
心をもつわたしたちは、自分が無数の有機体の集まりからなる動物だということを忘れがちです。
しかし、それは疑いようのない事実であり、わたしたちの「こころ」とは「からだ」の細胞が寄り集まって生み出されている群知能にすぎないのではないか、とわたしは考えます。
どれほどそれが奇跡的なことであろうが、わたしたちは「からだ」であり、「からだ」の声を聞くという身体志向のセラビーは、わたしたちの本質にのっとった、ごくごく当たり前の治療法にすぎないのではないでしょうか。
右脳に語らせる ―左脳を少し黙らせて
わたしたちが、本来ただの「からだ」にすぎないのに、自分を人格を持った特別な存在だと思い込むようになるのは、左脳の言語システム(右利きの人の99%、左利きの人の70%は左脳にある)の働きによります。
すでに見たとおり、わたしたちは赤ちゃんのころ、まだ左脳が発達していないときは、他の動物とそれほど変わらない情動と感覚だけで動く生き物だからです。赤ちゃんの行動は、手続き記憶に支配されています。
しかし、左脳が遅れて発達し、言語中枢が発達すると、わたしたちは他の動物とは異なり、ことばを話すようになります。ことばを話すようになると、自分は名前を持つ特別な存在なのだ、ということに気づきます。このとき人格が目覚めていきます。
以前の内的家族システム療法の記事で紹介したように、ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヘレン・ケラーのエピソードを通して、ただの情動のかたまりである「からだ」が人格に目覚めていく様子を描写しています。
物の名前を学ぶことによってその子は、音も聞こえない周囲の物理的な現実についての内的表象を作り出すだけでなく、自分自身を見つけることができるようになった。
半年後、彼女は一人称の「I(私)」という単語を使い始めた。
…ヘレンはのちの著作『私の住む世界』でも、自我に目覚めるところを描写した。
「先生が来るまで、自分が存在することを知らなかった。私は世界ではない世界に住んでいた。……私には意思も知性もなかった」(p286)
ヘレン・ケラーは、目も見えず、耳も聞こえなくなったせいで、言語を使うことができませんでした。その結果生じたのは、「自分が存在することを知らなかった」という人格の欠如でした。
人はことばで考えることができなければ、左脳の言語中枢によって思考できず、ただ手続き記憶だけが支配する世界に住んでいるとしたら、「こころ」は作り出されません。
意味と解釈と理由づけを行う、左脳の言語システムが働かなければ、自分自身の人格を見つけることができず、ただの「からだ」、情動と感覚を感じるだけの生き物でしかないのです。
この左脳の意味や解釈についてのシステムは、以前に扱ったとおり、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、分離脳研究のマイケル・S・ガザニガによってインタープリターと呼ばれています。
この装置は人間特有のもので、人間を人間にならしめているものだと思われます。
これは貴重な装置であり、おそらくは人間独特のものである。自分が何かを好きな理由やある特定の意見をもつ理由を説明しようとしたり、自分のしたことを正当化しようとしたりするたびに、この装置が私たちの中で作動している。
大量のモジュール化され自動的に作動する私たちの脳によってインプットされた材料をもとにして、混沌から秩序を作りだしているのがインタープリター装置なのだ。
インタープリターは「筋の通った」説明を考えだし、ある種の本質主義を、すなわち私たちは統一された意識体であることを自らに信じ込ませる。(p404)
人間が、動物と同じ有機体からなる「からだ」土台とした存在なのに、あたかも不滅の魂や心をもっているかのように錯覚し、哲学や宗教を作り出すことができるのは、すべてインタープリターという解釈・意味づけ・理由づけを行うシステムが脳に存在しているからです。
ただの「からだ」にすぎないにもかかわらず、インタープリターは、「私たちは統一された意識体である」と思い込ませ、「こころ」を持つ特別な存在だと錯覚させています。
自閉症の人たちが、自分という人格のアイデンティティを感じるのが難しく、一人称の言葉を使いはじめるのが遅いのは、おそらくこのインタープリターの解釈システムがいくらか弱いからです。
自閉スペクトラム症のドナ・ウィリアムズは、自閉症という体験の中で、自分たちが「解釈システム」(インタープリター)ではなく「感覚システム」の世界に生きていると述べました。
やはり自閉スペクトラム症の東田直樹さんは、自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心でこう書いていました。
自然は友達にはなれない、とみんなは思うかもしれません。しかし、人間だって動物なのです。僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかもしれません。(p115)
自閉症の人たちは、インタープリターという解釈・意味づけ・理由づけのシステムが弱いために、冗談を理解したり、比喩の意味を推察したり、空気を解釈したりするのが苦手です。
しかし、そうした目に見えない、実体のないものを解釈し、隙間を埋め、本来存在しないものを作り出すシステムは、ときにわたしたちに「人間だって動物」だという感覚を忘れさせます。
インタープリターというシステムは、わたしたちがさまざまな芸術を創り、文学をつむぎ、哲学や宗教を考え出す、人を人たらしめているシステムですが、それは事実ではない作り話や神話や空想を無責任に作り出すシステムでもあります。
マイケル・ガザニガが右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -で述べているように、左脳のインタープリターは、右脳の手続き記憶が実行した「からだ」の活動に対して、適当で無責任な後づけの理由を考え出します。
詳しくは以前の記事で扱ったとおりですが、分離脳の実験では、右脳の記憶がもっともな理由があって実行したことに対し、それを知らない左脳のインタープリターは、まったく的外れな説明を瞬時に考え出し、手近な情報を用いて理由付けしてしまったのです。
左半球は負の感情が生じていることに気づいているのに、その原因についてはまったくわからないでいた。
興味深い点は、原因がわからなくても、状況に応じた「筋の通った」説明をひねりだす妨げにはならないということだ。(p178)
人の「こころ」とは、「からだ」にすぎない人間が、インタープリターを用いてひねり出した「筋の通った」説明にすぎません。原因がわからないことはすべて「こころの問題」とされるのもさもありなんということです。
これは、トラウマ記憶の治療のとき、わたしたちが極めて陥りやすい罠でもあります。
カウンセリングや会話を用いた治療は、たいていトラウマ記憶の無意識の「からだ」の行動に対し、「からだ」の声を聞こうともせず、適当に解釈し、理由づけし、架空の物語を作り出すことで問題を覆い隠しています。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアにはこう書かれています。
これは「会話によるセラピー」と身体志向セラピーとの間の重要な違いである。
患者に新しい意味づけをさせたり、自らの問題を理解しようとさせたりするよりもむしろ、身体療法は「からだの物語」を紐解いて完了させるための場所を作り出す。
するとこのプロセスにおいて不可欠な部分である、新しい意味や洞察の発見がクライエント自身から自然に起こってくるのである。(p201)
解離性障害の人たちの不可解な症状は、古来より、子宮が暴れるヒステリーだとか、欲求不満だとか、人をあざむくための手の込んだ演技だとか、さんざんに言われてきました。
不登校の子どものさまざまな不可解な症状が、学校嫌いだとか、学校に行かない選択だとか、心理的な葛藤だとか学者たちによって解釈されてきたのもそれと同じです。
これらはみな、症状が右脳の手続き記憶、無意識の「からだ」の記憶の再演として生じていたにもかかわらず、当事者たちがそれをことばで説明できはなかったがために、第三者が適当に理由づけし、当事者さえもわけも分からず納得させられてしまっていたからです。
無意識の「からだ」の記憶、手続き記憶が延々と不動系の反応を繰り返しているにすぎなかったのに、なまじことばで説明できないがゆえに、専門家や、親や当事者が、あれこれとインタープリターを用いて意味を作り出していたのです。
それで、身体志向のセラビーによって、本当の「からだの声」に耳を傾けるときには、左脳のインタープリターにしばらく黙っていてもらう必要があります。
ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで、マインドフルネスで「からだの声」に耳を傾けるとき、感じる感覚や情動を解釈したり、理由づけしたり、分析したり、考えたりしないよう繰り返し忠告しています。
私は、新しい感覚というのは初めのうちは不快なもので違和感を感じることがよくあると説明して彼女を安心させ、「ただ起こるがまま、まかせて……少しの間その感覚がどういうものか考えたり判断したりしないようにしてみてください」と促した。
ミリアムは気分が悪くなり、さらに気持ち悪くなってきたと言った。私はそれを理解しながらも、「あとほんのすこしだけ長くそこにとどまってみて」とおだやかに、かつしっかりと声をかけ、少しの間、両腕と両脚に注意を向けるよう彼女を促した。(p191)
「からだの声」を聞くときには、そこに長くとどまる必要があります。つまり、からだが喋っている最中に条件反射的に反応して、からだの声をさえぎって、理由づけしたり解釈したりしない、ということです。ただじっくり傾聴します。
左脳のインタープリターの解釈能力はとても役立ちます。ただし、すべての話を聞いた後ならばです。「からだの声」、つまり右脳の手続き記憶の声をじっくり傾聴するまでは黙っておいてもらい、すべて耳を傾けた後で、その能力を発揮してもらう必要があります。
「からだの声」を最後まで聞く前に、話をさえぎって分析したり解釈したりしてしまうことを、ラヴィーンは「早計な認知」と呼んでいます。
不快な身体感覚に注目していると、それらを理解して説明したいという気持ちは減っていった。感じていることを解釈しないようにと、私は彼女を注意深く導いた。なぜなら、私は彼女に頭で意味づけをしてほしくなかったからだ。
今ここでの新しい知覚を得るためには、まずはからだが何を「思って」いるのかを話す必要があるのだ
(この「早計な認知」にぴったりの表現が、最近見かけた車のバンパーに貼られたステッカーに書かれていた。
「現実。それはあなたが考えているのとはまったく違うものだ!」)。(p211)
現実の人間同士のコミュニケーションで、「早計な認知」に陥っている人は、相手が「じつはわたし…」と話しはじめると、いきなりさえぎって「わかってるよ、君が言いたいのはこういうことだろう? じつは前からそれをなんとかしてあげたいと思っていて…」と話し始めます。
たいてい、聞く前に話しはじめるこうした人は的はずれです。「現実。それはあなたが考えているのとはまったく違うものだ!」ということです。
「からだの声」を聞くときもこれと同じで、自分は何もかもわかっているという「早計な認知」で判断している現代社会の人たちは、「からだの声」の真意をほとんど捉え損なっています。
私は理解しようとしたくなる気持ちに抵抗するよう導き、その代わりに今ここでからだの中で身体的に感じているものに十分注意を払うように彼女を導いた。
「早計な認知」の弊害は、その人が知覚している経験が終了し新しい知覚や意味が生まれる前に、介入してしまうことである。(p216)
本当はからだが何か言おうとしているのに、すぐに勝手に解釈して、さまざまな病院に行き、健康法を試し、薬を飲み、その結果、原因不明だと言い出します。本当は「からだの声」にじっくり耳を傾けたことが一度もないのに、勝手に判断してしまっています。
原因不明とされるさまざまな病気、慢性疲労症候群や機能性胃腸症の患者たちに、「失感情症」の人が多いのは不思議ではありません。彼らは自分の「からだの声」を聞くことから耳をそむけているからです。
さまざまな感覚や情動が現れたとき、それを左脳のインタープリターによって解釈・分析したい、という気持ちを抑えて、ただ観察をつづけ、「からだの声」を傾聴するために、ラヴィーンはこうアドバイスしています。
鍵は、「今、私は~に気づいている」というやさしい言葉で自分自身を現在に引き戻し、今ここでの内なる体験を追い続けることだ。
よくある傾向は、「よみがえり」に引き寄せられることだ。特に、トラウマ的な要素が含まれているときはそうなりやすい。
だが、トラウマ的な要素をうまく処理する鍵(いわゆる虚偽記憶に陥ることを避ける鍵でもある)は、今ここの中で紐解かれる感覚や感情、イメージ、思考に焦点を当てながら、二重の意識を保つ能力を培うことなのだ。(p352)
ここで書かれている「今、私は~に気づいている」というキーワードはとても役立ちます。
解釈・分析しそうになったら、「今、私は~に気づいている」ということばで自分を引き戻しましょう。ただ「気づいている」だけで、その感覚を追いかけていかないようにします。
何かに気づいて、そのまま解釈したり理由付けしたり、連想したりしてしまうと、インタープリターが勝手に後付の理由ほ考え出すので虚偽記憶が生まれます。筋の通った説明に思えるかもしれませんが、それは憶測です。
何より、何かの刺激に気づいてそれを追いかける、つまり衝動的に追いかけて条件反射に陥ってしまうことが、トラウマ反応のおおもとだからです。
感覚や情動が生じるたびに、それを感じることではなく、ことばで意味づけし、解釈してしまうのは、特に解離傾向の強い人たちが陥りやすいわなです。
困難で恐ろしい感覚や感情を経験したときに私たちがよくやるのは、それから後ずさりし避けようとすることだ。
心理的には、私たちはこうした感情から分離もしくは「解離」する。身体的には、からだは硬直しそれらに対抗すべく緊張する。
こころはこれらの未知の「悪い」感覚を説明し理解しようと必死になる。(p215)
気づかないままトリガーに反応し、闘争や逃走の状態に陥るのがPTSDであり、気づかないままトリガーを抑圧して、なかったことにしてしまうのが失感情症であり、気づかないままトリガーに反応して全身を麻痺させ、シャットダウンし、遠く離れた場所からことばによって解釈しようとしてしまうのが解離なのです。
一流選手たちのイップスという解離
からだの感覚を反応も解釈もせず、ただじっくり観察できるようになってくると、身体志向のセラビーは、次のステップに進みます。
じっくり観察していると、今まで、ひとつながりにの原因不明の反応に思えた症状が、さまざまな段階を負って連鎖的に生じている反応だときづきます。
今まで、ほとんど気づいてもいなかったトリガーとなる刺激がきっかけとなって、それに無意識のうちにからだが反応し、こわばりや麻痺や凍りつきといった条件反射を返してしまっているのだとわかってきます。
何かの刺激をきっかけに情動が生じ、ついでその情動からネガティブな考えが思い込みが連鎖して引き起こされていることにも気づくかもしれません。
どちらの場合も、症状は一種のフラッシュバックとして生じています。フラッシュバックにはよく知られた映像タイプのものだけでなく、身体的、認知的、言語的なものがあります。
ネガティブな思考や思い込みも、じつは、何かしらのトリガーとなる刺激をきっかけに呼び起こされている認知的なフラッシュバックであることが多いのです。
こうしてさまざまな症状が一連の連鎖によって生じていることに気づいたなら、その連鎖を途中でとどめたり、別の方法で反応することを選択したりできるようになっていきます。手続き記憶を書き換えるのです。
このとき行うのは、意外にも、PTSDや解離などのトラウマ障害とはまったくかけ離れたところにいるかのように思える人たちがやっているのと同じことです。
トラウマ記憶とは「からだの記憶」「手続き記憶」であり、それはわたしたちの日常の至るところで無意識のうちに実行されているものだと書きました。
特にこうした「からだの記憶」がものを言うのは、まさにからだを使って活躍しているスポーツ選手たちです。スポーツ選手は、さまざまな動作を手続き記憶としてからだに覚えさせることで、優れたパフォーマンスを発揮できる「からだの記憶」のエキスパートです。
ところが、スポーツ選手たちの世界でも、「からだの記憶」の誤作動による極めて深刻な障害があることが知られています。
それは「イップス」です。
奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころにはこう書かれています。
イップスといえば、スポーツの世界では何よりも恐れられていることばだ。単に力及ばず失敗するのとは次元が違う。
失敗は運動競技にはつきもので、決して避けることはできないが、イップスとはそんなものじゃない。
これはプレッシャーのかかった状況でいきなり運動スキルが崩壊するというもので屈辱であるばかりか、当人にもわけがわからない体験なのだ。(p138)
突然、関係なさそうな話に飛んだので、戸惑う方もいるかもしれません。
わたしも、イップスとトラウマ記憶の関係について、ごく最近まで、まったく考えたこともありませんでした。しかし一度気づいてみると、これはかなり近縁の問題であり、何でも選り好みせずに情報を仕入れておくものだとつくづく思います。
イップスは、「当人にもわけがわからない体験」です。
つまり脳の二つの記憶システムのうち、顕在記憶の手がとどかないところで自動的に実行される手続き記憶が、本人の望まないパフォーマンスを再演し、繰り返し続けてしまう、「からだの記憶」が関与する問題なのです。
「屈辱であるばかりか、当人にもわけがわからない体験」
イップスとは、もともとはゴルファーたちのあいだで用いられるようになった言葉です。これまでプロゴルファーとして見事なパッティングを披露していた人たちが、突然パッティングの動作が乱れるようになってしまい、修正しようとすればするほど混乱していく深刻な症状です。
イップスはゴルフだけでなく、たとえば、優秀な野球選手が、突然、送球するたびに暴投するようになってしまう送球イップスなど、どんなスポーツでも生じるものです。
誤解されがちですが、イップスとは、緊張した場面で失敗する初心者によくある練習不足ではありません。
解離性障害の専門家である岡野憲一郎先生は、脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学で、イップスについてこう説明しています。
慣れないから緊張し、手が震える→慣れればそんなことはなくなる」という「常識」は、おそらく軽い手の震えには通用する。
大部分の震えの訴えに対しては、「そのうち慣れますよ」で済むのである。
しかし深刻な震えにはそうではないものがある。練習すればするほど悪くなることがある。それがイップス病の恐ろしいところである。(p87)
イップスを発症するのは、たいてい一流のベテランプレイヤーです。緊張感のコントロールなど、とうの昔に乗り越えたはずの、自己コントロールのプロがイップスに陥ります。
「単に力及ばず失敗するのとは次元が違う」だけでなく、「当人にもわけがわからない体験」です。しかも、「練習すればするほど悪くな」ります。
そして、ベテランのプロが発症してしまうだけに、イップスは耐えがたい屈辱ともなり、イップスを契機に選手を引退してしまう人も少なくありません。
イップスはしばしば精神的な弱さや緊張しすぎと混同されますが、こころの問題ではありません。本当は別の問題なのに、こころの弱さとみなされやすいのは、トラウマ障害や不登校とよく似た特徴です。
繰り返すが百戦錬磨のプロがこの病気に陥るのだ。それも、田辺氏によれば、むしろプロの経験が長い人ほどイップスに陥る傾向にあるという。
彼らに対して今さらどうやって「強靭な精神力を身につけよ!」などという忠告ができようか? 脳科学的な心得のない治療者のアドバイスは空虚なだけである。(p84)
なんだかどこかで見たような話です。不登校の子どもを「こころの弱さ」となじる人たちに対して、三池輝久先生が義憤を言い表していたことばとよく似ているのではないでしょうか。
実際、よくよく調べてみると、これはよく似ているだけでなく、じつは同じ病理によって生じている現象です。
この本の中で、イップスは、次のような原理で起こる病態だと説明されています。
結局イップスとは次のような病気だと言い換えることができるだろう。
「緊張する状況でのパフォーマンスを強いるうちに、脳に余分な回路が形成されてしまい、それにより自動的に余計な筋肉が収縮してしまうために起きる問題」、つまりはニューラルネットワークにおける配線異常が原因というわけだ。(p83)
イップスの原因は「緊張する状況でのパフォーマンスを強いる」ことにあります。「緊張、ストレス、練習のし過ぎ」が引き金となります。(p83)
これは、不登校に陥る子どもたちの状況とじつによく似ています。三池先生が述べていたとおり、不登校の原因は、絶え間なく持続する慢性的な緊張というストレスを逃げ場のない状況で味わい続けることでした。
イップスに陥る一流スポーツ選手と、不登校に陥る子どもたちの共通点は、絶え間なく緊張する状況にさらされること、そして、その状況の中で、優れた自己コントロール能力を発揮して、自分の振る舞いを制御しようとすることです。
不登校になる子どもたちは、からだが絶え間ない緊張感にさらされ、逃走・闘争反応に陥っているにもかかわらず、無理を推して学校にとどまりつづけることで、不動状態というストレス反応が「からだの記憶」として染み込んでしまいました。
その染み付いた「からだの記憶」が、その後の人生で何度も何度も繰り返し再現されてしまうのか、慢性疲労であり引きこもり状態のループでした。
イップスになる一流スポーツ選手たちは、緊張する状況の中で生じる、からだの震えや恐怖といったストレス反応を押さえ込んで、制御してパフォーマンスをつづけます。
「闘うか逃げるか」というストレス反応を押さえ込んでプレーを続けるうちに、そうしたストレス反応が終息せず、パフォーマンスの一部として巻き込まれてしまい、条件反射として結びついてしまいます。
その結果、「脳に余分な回路が形成されてしまい、それにより自動的に余計な筋肉が収縮してしまうために起きる問題」がイップスなのです。
そうやって形成された「からだの記憶」または「手続き記憶」は、同じような場面が来るたびに再現され、修正しようとするたびに増強していき、頭ではわかっているのにからだが勝手に反応してどうにもならない「当人にもわけがわからない体験」に発展してしまうのです。
プリムーブメント(準備動作)に気づく
からだにら染み付いたパターンを変えるのは非常に困難です。箸の持ち方、字の書き方、タイピングなどはからだの「手続き記憶」の一例ですが、こうしたささいなものでさえ、たとえ悪いクセがあると指摘されたとしても、別のやり方に変えるのは並大抵ではありません。
しかし、イップスに陥ったスポーツ選手たちは、さまざまな知恵を用いて、「からだの記憶」の治療に取り組んできました。そこで見出された対処法は、ラヴィーンが述べていた方法と驚くほどよく似ています。
脳から見える心―臨床心理に生かす脳科学では、イップスの治療法として、次のような方法が提案されています。
すでに成立してしまったプログラムA→B→C→(→E)→Dを変えることが大事なのだ。そのためにはA→B→C→Dという練習を「強靭なメンタル」で繰り返すわけにはいかない。
それはすでにA→B→C→(→E)→Dに変質してしまった脳内プログラムをいたずらに強化することにつながるからだ。
まず、イップスの不可解な症状は、たったひとつの反応からではなく、複数の反応の連鎖によって成り立っています。
マインドフルネスを通してからだの反応を観察すると、それが一枚岩ではなく、複数の反応の連鎖であることに気づくことができました。イップスもまた同様です。
イップスで、A→B→C→(→E)→Dというストレス反応を巻き込んでしまったループができてしまった場合、これまでやってきたA→B→C→Dという手順を「強靭なメンタル」でかたくなにやり続けてはいけません。むしろそれが症状の原因です。
「手続き記憶」は無意識のうちに再演されてしまい、トリガーに誘い出されて、同じ行動を繰り返すたびに強化されています。だから、マインドフルネスのとき、さまざまな刺激を感じたら、すぐさまそれに反応せず、その状態にとどまるようトレーニングしたのです。
スポーツの場合、パッティングしようとするとEの不適切なからだの反応が生じてしまうのに、無理を推して「強靭なメンタル」でこれまで通りプレーをしようとすると、ますますイップスが悪化して、引退の危機に追い込まれます。
やはり手続き記憶の再演によって症状が起こっている不登校の不動状態も、無理を推して「強靭なメンタル」でこれまで通り登校しつづけようとすると、「変質してしまった脳内プログラムをいたずらに強化する」ことになり、より重い不動状態に陥ります。
一度ストレス反応を巻き込んだ手続き記憶が形成されてしまった場合、以前と同じことをしようとすればするほど症状が悪化するので、連鎖的に反応せず、保留することを覚え、別の手順を考案する必要があります。
たとえばA→B→C→F→Dという流れを新たに導入する方法。Fという要素を入れることでEという要素を排除することができるかもしれない。片目をつぶる、体重移動をする、などの新たな要素を一連の行動に組み込むのはその類であろう。
あるいはAをはずして、B→C→Dにしてしまう方法。…これはアメリカの警察学校の射撃の練習によく使われるもので、要するに狙いを定めたらすぐ打ってしまう方法である。
…思いきってAをはずすことで、流れを変え、(→E)が入り込む余地をなくすのだ。(p85)
ここではいくつかの方法が提案されていますが、いずれも着眼点は似ています。
まず「A→B→C→F→Dという流れを新たに導入する方法」。つまり、Eという不適切な反応をFという新しい反応に置き換えています。
マインドフルネスでトリガーに条件反射してしまっていることに気づいたら、それをあえて保留し、別の方法で反応してみるよう訓練することができます。
ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、そのことをこう表現しています。
以前は恐れ、怒り、防衛、無力感といった反応しかなかった状態から、コンテインメント[反応を一時保留し感情を包み込むこと]によって多数の反応から選択できるようになる。
…私たちは、潜在的な運動の(瞬間ごとの)行動に優先順位を付ける能力を強化する。それによって、最も適切な行動を選択できるようになるのだ。(p384)
マインドフルネスで、からだが感じる刺激や情動に気づき、それにすぐ反応せず、対応を保留することは、実生活において、ささいな刺激がトリガーとなって症状が引き起こされる瞬間に気づく助けになります。
具体的に言うと、今までちょっとしたことにカッとなって我を忘れていた怒りっぽい人がいるとします。よくよく自分を観察してみると、それは特定の言葉や表情がトリガーとなって、条件反射的に引き起こされていたPTSD反応だと気づきます。
それに気づくことができれば、トリガーとなる言葉や表情に出くわしたとき、反応を保留して、怒りをぶちまけるというPTSD反応(E)の代わりに、その場を立ち去るという新しい反応(F)を選ぶことができるようになっていきます。
もっと自己抑制の強い人の場合、PTSD的な怒りを爆発させず、ぐっと我慢するのが習慣になっているでしょう。その結果、怒りによって引き起こされた「闘争・逃走反応」の緊張が未完了のままからだに残り、原因不明の体調不良(E)が生じます。
一連のからだの反応を観察して、からだの反応が怒りをトリガーとして生じていることに気づくことができれば、怒りをただ溜め込むのではなく、相手と冷静に話し合う、日記に書き出すといった建設的な方法で発散して、「闘争・逃走反応」が未完了のまま残らないようにする(F)ことができます。そうすればからだの慢性的な緊張はなくなります。
今までは何の法則も脈略もなく無秩序に生じて振り回されていた症状が、じつは気にも留めないささいな刺激をきっかけに呼び覚まされていることに気づきます。そのきっかけさえわかれば、反応を保留し、「「A→B→C→F→Dという流れを新たに導入する」ことができます。
続いて「Aをはずして、B→C→Dにしてしまう方法」。これは、トリガーそのものをなくしてしまうことです。
PTSDや解離で生じるさまざまな症状は「手続き記憶」の再演であると述べました。「手続き記憶」は、何の脈略もなく再演されるのではなく、トラウマ記憶を呼び覚ます何かしらのきっかけに反応し、よみがえっています。
ラヴィーンはこんな例を挙げます。
例えば、目覚めたときおびえる妻の首を締めていることに気づいたベトナム帰還兵は、その奇妙な過剰反応を引き起こしたのは遠くを走る車のバックファイアーや幼い子どもが廊下をかける足音だということに気づかない。
彼が何年も前に竹やぶで眠っていてベトコンに発泡されたときは、即座に殺傷反応を起こすことが命を守る大切な行動だった。
…このような強迫的なサイクルを打ち破り、そのプロセスの中で意識をより大きく自由な方向に拡大させる方法を一つだけ知っている。
それは、本格的な動きの順序に進む前に、プリムーブメント[準備動作]に気づくことだ。(p379)
これはPTSD的な反応ですが、解離的な反応でも同じです。
不登校になった子どもは、生活の中で特に疲労や倦怠感にさいなまれ、頭が働かなくなり、筋道立てて考えられなくなるブレイン・フォグが襲ってくるのを経験するかもしれません。
それは一見、何の脈略もなく気まぐれに生じるかのように思えますが、ブレイン・フォグは解離の固まり・麻痺反応の一部です。つまり、何かのきっかけで引き起こされている手続き記憶なのです。
マインドフルネスでじっくり自分を観察し、さまざまなからだの不動系の反応がどのような順序で生じているのか、観察しつづけると、ふとしたきっかけで、緊張感が高まりすぎて、続いて頭に霧がかかりはじめることがわかるでしょう。
それは、学校の教室を思わせる机のきしむ音、先生が教室に入ってくるときに開ける扉の音、学校で恥をかいた経験を思い起こさせる状況、緊張したテストと同じような瞬間、だれかいじめられた子の顔が浮かんだり、その子と同じようなクセを持つ人を見かけたとき、さまざまなケースがあると思います。
たとえ何がトリガーとなっているとしても、何かのきっかけで、学校にいたころの「逃走・闘争反応」が生じ、それに続いて不動状態の手続き記憶が呼び覚まされ、当時と同じような不動状態に陥ってしまいます。しかしきっかけに気づけば、プリムーブメント(準備動作)の段階で食い止めることができます。
何に反応しているかわかれば、手続き記憶のトリガーとなるものを避けて「Aをはずして、B→C→Dにしてしまう方法」を実行できます。あるいは、すでに見たとおり、たとえAに遭遇したとしても反応を保留して別の選択肢を選べるようになります。
不登校の場合で言えば、早々と学校(A)というトリガーを捨てて、自分の意思で別の選択肢を選ぶことで、「Aをはずして、B→C→Dにしてしまう」ことができます。
またはトリガーが無意識に「闘争・逃走」のスイッチを入れたとき、背側迷走神経系の解離によってシャットダウンするのではなく、からだを動かして闘争・逃走反応を完了させたり、安心できるイメージに立ち戻って腹側迷走神経系で対処したりすることを選べます。
ラヴィーンは、何かの刺激と結びついてひとまとまりの症状になってしまっている条件反射のような反応を、細切れに分け、切り離すこうした手順をアンカップリングと呼んでいます。(p212,381)
無意識のうちに生じている行動を細切れに分け、原因を特定して組み替えていく方法は、以前の記事で扱った神経差異化と同じものです。
身体志向のセラピーであるアレクサンダー・テクニークの考案者F・マサイアス・アレクサンダーや、フェルデンクライス・メソッドの考案者モーシェ・フェルデンクライスなどは、この手順のプロフェッショナルだったといえます。(p398)
彼らはいずれも、自分の内面を鋭く観察し、習慣的なパターンに気づくことで、かつてはひとまとまりになって原因不明だった症状を解決できたことから、その方法を体系化して人々に身体志向のセラピーを施すようになりました。
トリガーを和らげるβブロッカー
ここまで、からだの声を聞く身体志向のセラピーやマインドフルネスによって手続き記憶の連鎖的な反応に対処する方法を考えてきましたが、ときに薬物療法が用いられることもあります。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ヴァン・デア・コークは、こう書いています。
プロプラノロール(インデラル)やクロニジン(カタプレス)のように自律神経系に働きかける薬は、過覚醒やストレスへの反応を抑える助けになりうる。このグループの薬は、覚醒を促進するアドレナリンの、体への影響を抑え込むことによって作用して、悪夢や不眠や、トラウマのトリガーに対する反応を軽減する。(p369)
アドレナリンを抑え込むと、理性脳が稼働し続けるので、「これは本当に私がやりたいことなのだろうか」という問いに基づいた選択が可能になる。
私は、マインドフルネスとヨーガを治療に取り入れ始めてから、患者が安眠できるようにときおり処方する場合を除いて、こうした薬に頼ることが少なくなっている。(p369)
マインドフルネスやヨーガでは、手続き記憶の一連の反応を開始させるトリガーに気づき、プリムーブメント(準備動作)の段階でとどめることによって、手続き記憶の再演を抑えるようトレーニングしていました。
その「トラウマのトリガーに対する反応を軽減する」働きを持つのは、プロプラノロール(インデラル)やクロニジン(カタプレス)のような降圧剤です。
こうした薬は交感神経系を和らげ、過覚醒を抑える効果を持っています。つまり、からだの「闘争・逃走反応」を和らげることで、トリガー刺激に過敏に反応して、一連の手続き記憶が再生されてしまうのをある程度とどめる働きがあります。
不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するによると、この二種類の薬は、不登校の小児慢性疲労症候群の子どもに使われるのは興味深い点です。これらの薬によって過覚醒を抑えることが効果的なのは、不登校がトラウマ性の手続き記憶による反応であることを裏づける証拠の一つです。
同時に、これらの薬は、イップスに対して効果的であることもわかっています。
奇跡の生還を科学する 恐怖に負けない脳とこころによれば、あまり日の目を見なかったプロプラノロール(インデラル)が一躍有名になったのは、演劇界のイップスともいえる症状を抱えたベテランの役者たちを通してでした。
完璧な抗不安薬を求める研究はその後も続けられるが、その一方で舞台人たちは、偶然のなりゆきから、驚くほど舞台恐怖に効く薬に出くわすことになった。
1950年代、スコットランドのハジェイムズ・W・ブラックという薬理学者がプロプラノロールという薬を合成した。この物質は、交感神経系の中にある特定の受容体にエピネフリンが作用するのをじゃまするものだった。
具体的に言うと、エピネフリンがβ1とβ2アドレナリン受容体に結合するのを妨げることから、βブロッカーという名前がつけられた。
βブロッカーはのめばすぐに効き、効き目は長くは残らないこともあって、人前で何かをやれと言われた人なら、どんな層の人にも喜ばれることになった。(p165)
プロプラノロール(インデラル)は、βブロッカーという種類の降圧剤ですが、交感神経系を抑制することで、舞台恐怖というタイプのイップスに効果があることがわかりました。
舞台恐怖とは、百戦錬磨のベテラン俳優が、練習のときは大丈夫なのに、舞台に上がると、すべてが崩壊して、頭が真っ白になって演技できなくなってしまう状態です。
新人よりベテランの方が舞台恐怖に弱い、ということから明らかなとおり、単なる経験の浅い役者が経験するあがり症ではありません。(p160)
おそらく、スポーツ選手のイップスと同様、トラウマ反応の徴候を手続き記憶に巻き込んでしまったものでしょう。
強すぎる意志力で緊張をコントロールして舞台に上がりつづけているうちに、過緊張による交感神経系の高ぶりと、それに引き続いて生じる解離的なシャットダウン反応が一連の動作に条件付けられて再演されるようになるのです。
俳優のイップスにβプロッカーが効くのであれば、スポーツ選手のイップスに苦しむ人たちがそれを見逃すはずはありません。
本番で降圧薬を飲むなんて、からだを動かすスポーツ選手には適さないようにも思えますが、イップスに苦しめられている人たちは多少のデメリットなど意に介さないほど苦しめられています。
心理学の見地からいえば、イップスも舞台恐怖の親類にあたる。それだけに、持久力や筋力よりも精密さや安定性が問われる競技にかぎれば、スポーツ界にもβブロッカーが広まったのは意外なことではない。(p165)
βブロッカーはあまりに多用されすぎるせいで、多くの競技団体が禁止薬物のリストに含めるようになりました。それでも使う選手はいて、2008年のオリンピックのピストル射撃でメダルを獲得した北朝鮮の選手は、インデラルが陽性と出たことでメダルを剥奪されました。
ピストル射撃のような精密さが求められる種目では、手続き記憶の狂いは命取りになります。もし重症なイップスに苦しんでいたのだとすると、明るみに出ないことに一縷の望みをかけてβブロッカーを服用するしかなかったのかもしれません。
解離性障害、不登校、スポーツ選手のイップス、演劇の舞台恐怖などにいずれも共通しているのは、我慢強く、自己抑制が強く、すぐに逃げ出さず、限界まで耐えて頑張る人たちがなりやすいことです。
その人たちは、あまりに自己抑制が強すぎるために、からだがトラウマ反応を出してもそれを制御して我慢して振る舞い続けることができ、そうやってトラウマ反応が生じたまま同じ動作を頑張って繰り返すことで、トラウマ反応を巻き込んだ手続き記憶が形成されてしまうのだと思われます。
あまりに長く複雑な家庭環境などのトラウマを我慢しつづけた人が解離性障害になり、あまりに長く学校の教室で息を殺しすぎた子が不登校になり、あまりに長く大舞台でパフォーマンスを維持しつづけた選手や役者がイップスになります。
イップスの原因について、この本にはこう書かれていました。
英国の心理学者ティム・ウッドマンは同僚のルー・ハーディンと共同で、パフォーマンス低下の「カタストロフ・モデル」を打ち立てた。
「生理的な覚醒が高まっていくと、ある点まではパフォーマンスも上昇します。その点をこえてもなお覚醒度が高まれば、パフォーマンスは急激に低下するので、これをわれわれは「カタストロフ」とよんでいるわけです。なだらかに、少しずつ低下するんじゃない。がくんと落ちるんです。(p149)
このとき、イップスで生じている生理的な覚醒が高まりすぎて、一瞬でがくんと落ちるのは、不登校の子どもについて、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するで書かれている現象と同じものです。
筆者らのデータによれば、CCFS(PCFS)において交感神経機能が常に副交感神経機能を抑制しているが、交感神経機能が低下し、それにつれて副交感神経機能も低下してしまうとうつ度が高くなることがわかっている。
すなわち、頑張ることも休養することもできない究極の疲労では強い“うつ”が現れることになる。(p19)
これはまた、前回の記事で説明したとおり、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれている、イワン・パブロフが洪水によるトラウマを経験したイヌたちで観察した「超限界段階」と同じものです。
パブロフは、緩和されないストレスにつづいて起こる衰弱の記録の第3章と最終章を超-逆説段階と名づけ、それを超限界段階とも呼んだ。
「極限を超えた」状況のこの最終段階で、臨界点に達してしまう。この頂点を超えてしまうと、彼のイヌたちの多くはシャットダウンした。彼らはどんなに時間をかけても、反応しなくなってしまった。
パブロフは、このシャットダウンは神経系の過負荷に対する生物学的な防衛であると信じていた。(p292)
イップスも、不登校も、イヌたちのシャットダウンも、これらはすべて、パブロフが考えたとおり「神経系の過負荷に対する生物学的な防衛」である解離の働きです。
交感神経系の「闘争・逃走反応」が過剰になりすぎて、もはやどうしようもなくなったとき、最終手段である原始的な背側迷走神経系の「固まり・麻痺反応」が起動して、すべてをシャットダウンしてしまうということです。
そして超限界段階を超えたトラウマ反応は、繰り返し我慢しつづけているとからだに記憶されてしまい、さまざまなトリガーに反応して「からだの記憶」として何度もよみがえり、解離というシャットダウンを発動し、すべてを崩壊させてしまうのです。
イップスが、「単に力及ばず失敗するのとは次元が違う」とまで言われ、「いきなり運動スキルが崩壊」し、「屈辱であるばかりか、当人にもわけがわからない体験」と述べられていたのは当然です。
不登校の子どもがわけがわからないまま不動状態に閉じ込められてしまうのも、解離性障害の人がアイデンティティが崩壊した混乱状態に放り出されるのも、舞台恐怖の役者が絶望のあまり生きる気力さえ失うのも、すべて解離がもたらす崩壊なのです。
そして、この手続き記憶の容赦ない再演を防ぐには、交感神経系が何かのトリガーによって超限界段階にひとっ飛びしてしまうのを防ぐ必要があり、それが交感神経系を抑制するβブロッカーでした。
こうした仕組みを考えると、三池先生が、不登校治療において、インデラルやカタプレスという降圧剤にたどり着いたのは必然的だったのでしょう。
そしてヴァン・デア・コークのみならず、解離の専門家である岡野憲一郎先生も、著書解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合の中でβブロッカーについて書いているのも当然の成り行きです。
その発端となった米国マサチューセッツ総合病院のロジャー・ピットマン医師は、トラウマの体験を持った患者にある薬物を投与することで、そのトラウマ記憶が定着するのを抑制することができた、と発表した。2002年のことである(Pitman,2002)
ピットマン医師が使ったのは、内科では日常的に処方されている薬、いわゆるβ(ベータ)ブロッカーである。高血圧や頻脈にとてもよく用いられる薬だ。彼はトラウマを経験した人にこの薬を用いることで、その後のPTSDの発症を防ごうと試みたのだ。
…トラウマ記憶が生じる場合には、この興奮が強すぎ、記憶が過剰に固定されてしまうという現象が起きている。
ここでトラウマが起きた直後にこれらのストレスホルモンを抑える薬であるβブロッカー、たとえばインデラールを投与すると、それが記憶の過剰固定を抑えるというわけである。(p25)
βブロッカーは、すでに発症したトラウマ反応を抑制できるだけでなく、PTSDの発症を抑制できる可能性もあるのかもしれません。しかし、もちろん薬は万能ではなく、トラウマ経験そのものを消し去るわけではありません。
すでに引用したとおり、ヴァン・デア・コークは、「マインドフルネスとヨーガを治療に取り入れ始めてから、患者が安眠できるようにときおり処方する場合を除いて、こうした薬に頼ることが少なくなっている」と書いていました。
身体志向のセラピーやマインドフルネスを通して内面の感覚や情動に気づき、反応を保留するトレーニングは、自分で超限界段階に至るのを防ぐスキルなので、βブロッカーによる交感神経系の抑制よりも効果的な手段です。
そうはいっても、こうした薬物療法があることを知っておくのは、身体志向のセラピーだけでは難しい場合の補助としては役立つかもしれません。
また、前回の記事で取り上げたように、トラウマ障害の患者たちは、しばしばADHDのような症状を見せます。
しかし、ADHDの治療に一般的に使われているコンサータ(メチルフェニデート)などの中枢神経刺激薬は望ましくなく、カタプレスやインデラルのような降圧剤のほうがよいとされていました。
薬物療法を行う際、ADHDに使用される中枢神経薬は時としてトラウマ障害の症状増悪をもたらす可能性も示唆されている。
ドパミンを上昇させるメチルフェニデートではなく、むしろニューロトランスミッターを抑制するクロニジンのほうが望ましいとされている。(p118)
中枢神経刺激薬によって覚醒状態を上げれば不動状態は解除されやすくなるでしょう。しかし同時に、それは生理的覚醒を高めることで、トラウマ記憶のトリガーに対して敏感にしてしまっていることにもなります。
何らかのトリガーで覚醒状態が上がりすぎて、超限界段階に至ってシャットダウンしてしまうと、より不動状態が強化される再トラウマ被害にもなりかねません。
トラウマ障害で生じる解離は、ADHDのような単なる低覚醒ではなく、過覚醒が反跳してシャットダウンされた結果 低覚醒になっているので、無理やり覚醒度を上げるのは危険であり、逆に過覚醒を抑えるほうが効果的なのでしょう。
また、ヴァン・デア・コークは、インデラルやカタプレスをあまり処方しなくなったとは言いつつも、「患者が安眠できるようにときおり処方する場合を除いて」と但し書きを加えていました。
不登校の小児慢性疲労症候群の治療で使われるインデラルやカタプレスも、夜の眠りの質を確保する目的で処方されています。
以前の記事で扱ったように、インデラルやカタプレス、そしてミニプレスといった降圧剤を用いて睡眠時の交感神経系を抑制することは、レム睡眠を正常化する効果があるようです。
レム睡眠は手続き記憶の処理に関わっているようなので、こうした薬の助けを借りて睡眠を整えることは、マインドフルネスや身体志向のセラピーとはまた違った経路で、トラウマの手続き記憶の再演を抑える働きがあるように思えます。
芸術療法は評価されると解離する
「からだの記憶」によって引き起こされる解離には、スポーツ選手のイップス、役者の舞台恐怖、子どもの不登校のほかにもさまざまなものがあります。
興味深いのは、作家のイップスともいえるライターズ・ブロックという症状です。これはベテランのブロの作家が、突然まったく話を書けなくなるスランプに陥ることを言いますが、以前の記事で扱ったようにれっきとした脳科学的な根拠があります。
ライターズ・ブロックは、抑制機能が強く働くすぎて、頭が動き出せなくなってしまった、いわば思考力の不動状態です。ライターズ・ブロックは、解除できなければ作家生命に関わる深刻な問題で、いわば作家の“不登校”や“引きこもり”にもつながる脅威です。
これを解決するには、さまざまな作家たちが作家生命をかけて編み出した涙ぐましい方法がいろいろとありますが、特に効果的なのは、ライターズ・ブロックのもとでも書くことのできる別の文章を書きはじめることです。
不思議なことに、ライターズ・ブロックでは、目の前に積まれている原稿を書こうとすると、思考力がフリーズして凍りついてしまうのに、課題の原稿ではなく、日記や趣味の文章ならわりかし書けるという特徴があります。
これは、学校に行こうとすると身体がフリーズするのに、趣味などであれば比較的楽しめる不登校とよく似ています。
つまり、不登校が、学校を思い出させる刺激をトリガーとして引き起こされる過覚醒と解離であるのに対し、ライターズ・ブロックは、仕事の原稿というトリガーをきっかけに引き起こされる思考の解離現象だということです。
そして、この二つ、いえ、さまざまなタイプの解離現象に関わっているのは「人からどう見られるか」という恥の感覚が症状と強く結びついている場合が多いということです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、ピーター・ラヴィーンはこう説明しています。
さらに、トラウマと恥の精神生理学的パターンが似ていることから、恥とトラウマには本質的な関連性がある。(p75)
ここまで、人間は動物の場合と同じような経緯で解離することを再三示してきました。動物は、セリグマンとマイヤーの実験のイヌたちのように、物理的にどこにも逃げ場がない「逃避不能ショック」という体験をしたときに感覚がシャットダウンされ、解離状態に陥ります。
人間の場合も、逃げ場がない追い詰められた状態で解離するのはまったく同じですが、動物と違って、自分のこころに追い詰められることがあります。
文字どおり、肉体的に逃げ場がない場合だけでなく、心理的に追い詰められ、逃げ場がなくなった状況でも、人はフリーズし、解離状態に陥ります。人を追い詰めるのは、恥という体験である、と以前に説明しました。
性的虐待や暴行の被害者が解離に陥るのは、ただ単にからだを傷つけられたからではなく、あまりに耐えがたい恥の感覚にさらされ、思考がシャットダウンされるからです。
不登校の子どもや、プロのスポーツ選手、舞台俳優などが解離状態に陥るのも、身体的に逃げ場がなくなるからではなく、恥への恐怖によって心理的に追い詰められ、プレッシャーをかけられ、逃げ場がないと感じるからです。
そして、プロの作家がライターズ・ブロックに陥るのも、あまりに忙しく身体的に追い詰められることのみならず、人からの評価に過度に敏感になり、恥の気持ちが強くなり、過緊張状態に陥って、思考がフリーズしてしまうからです。
不登校の子どもが、症状の軽いうちは学校以外の活動を楽しめたり、プロのスポーツ選手や舞台俳優が本番以外の練習であればイップスを起こさなかったり、ライターズ・ブロックに陥った作家が仕事以外の文章なら書けたりするのは、自分を追い詰めていた恥から解放されるからにほかなりません。
人間の場合、たとえ幼少期から虐待されたり、物理的に監禁されたり、拷問されたりした場合でも、必ず恥の体験によって心理的に追い詰められる経験が関係しています。これが、動物の解離とは幾分異なる点です。
どんな解離にも恥、つまり他の人からどう思われるか、という視点が絡んでいるがゆえに、裏を返せば、恥というトリガーを取り除くことができれば、トラウマ症状を軽減することができる、ということがわかります。
興味深いのは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークが、ライティング(書くこと)を通して、自分の内側を探る、つまりマインドフルネスと同じような気づきを得られることがある、と述べていることです。
感情という内面世界に触れる方法は他にもある。非常に効果的なものの一つは、書くことだ。
人は裏切られたり見捨てられたりしたあとに、その思いを、怒りに満ちた手紙や、非難めいた手紙、哀れを誘う手紙、悲しい手紙としてぶちまけることがある。
そうすると、たとえその手紙を出さなくても、間違いなく気分が良くなる。自分自身に手紙を書くときには、他者の判断を気にしなくて済む。自分の思考にただ耳を傾けて、その流れに身を任せればいい。(p391)
ここまで見てきたように、ことばを用いた会話によるセラピーは、身体志向のセラピーのような「からだの声」に気づくのを妨げます。
しかし問題を引き起こしているのは、ことばという言語機能そのものではなく、すぐに解釈し、理由付けし、無責任な意味を考え出してしまうインタープリターでした。
ことばによるコミュニケーション自体はとても有用で、たとえば内的家族システム療法では、擬人化した「からだ」とことばでやりとりしていました。
ということは、ことばを用いた会話によるセラピーの本当の問題点は、ことばをつかっていることではなく、インタープリターを刺激してしまうからだ、ということになります。解釈したい、理由づけしたい、と無意識に強く感じてしまうからです。
そしてそれは、ヴァン・デア・コークが述べているように、相手がどう思うだろうか、という気持ちが入り込むからです。
自分の人生の最も私的な瞬間や不快な瞬間、頭が混乱するような瞬間を思い出すと、図らずも選択を迫られることがよくあった。
記憶の中の昔の場面を追体験することに的を絞り、その場面で感じたことを自分に感じさせるか、あるいは、起こった出来事を論理的に筋道立てて精神分析医に話すかという選択だ。
後者を選ぶと、いつもたちまち自分自身とのつながりを失い、分析医にしている話についての彼の意見に意識を集中しはじめた。
疑われたり、判断をくだされたりしている気配を少しでも感じると、私は抑え込まれて、彼の承認を取り戻すことに注意を向けてしまうのだった。(p387)
「あなた」対「セラピスト」という構図で行われる会話を用いた心理療法では、どうしても、「セラピスト」に対して話すことになります。
セラピストがどんなに傾聴してくれたとしても、どうしても相手は他人なので、よほど信頼した人でないかぎりは、「どう思われるだろうか」、という気持ちが入り込みます。
そして一度でも恥に追い詰められ超限界段階でシャットダウンしてしまい、トラウマ記憶を負ってしまった人は、恥の気持ちに敏感なので、相手はどう思うだろうか、という感覚が生じたとたん、それがトリガーとなって解離が引き起こされます。
ヴァン・デア・コークも「疑われたり、判断をくだされたりしている気配を少しでも感じると」つまり、「相手がどう思うだろうか」、という恥のトリガーがちょっとでも入り込むと、「たちまち自分自身とのつながりを失い」解離してしまったのでした。
そうなってしまうと、インタープリターが適当に体験を脚色し、解釈し、相手が望むような受け答えをし、作り話や筋の通った物語を考え出してしまうので、からだが実際に体験している情動や感覚とはかけ離れていってしまい、セラピーはただの茶番に成り下がってしまいます。
しかし、自分の「からだ」と「あなた」の二者の間で行われる身体志向のトラウマセラピーでは、あなたの「からだ」は「あなた」がどう思うだろうか、などと身構えずにすみます。
「あなた」がすぐに反応せず、「からだ」の声を傾聴してくれるようになりさえすれば、「からだ」は包み隠さずに自分の体験を「あなた」に話すことができます。なんだかんだいって「からだ」は「あなた」の一部なので、「あなた」のことをまったく信頼しているからです。
これは、愛着障害やトラウマ障害の子どもが、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)を相談者として活用するのとよく似ています。子どもたちは、まわりの大人や親にさえ話せないような感情でも、イマジナリーコンパニオンに吐露することができます。
イマジナリーコンパニオンは結局のところ、その子のからだの一部から生まれているものなので、「どう思われるだろうか」という恥の気持ちにとらわれることなく、解離することなく本心を打ち明けられるからです。
言ってしまえば、内的家族システム療法で「からだ」の一部を擬人化するのと、自然に現れるイマジナリーコンパニオンはどちらも同じもので、切り離された「からだ」の一部が生み出した「こころ」です。
それらがいずれもトラウマ治療に役立つのは、他人ではなく自分自身の一部に話しているおかげで、「どう思われるだろうか」という恥の気持ちが入り込まず、気持ちを包み隠さずに、解釈したり脚色したりせずに打ち明けられるからです。
セラピーが本物になるか茶番になるかを分けるのは、ことばを用いているかどうかではなく、恥が入り込むかどうかです。恥を気にしないでいられれば、つまり「相手がどう思うだろうか」、と考えないでいられれば、解離は引き起こされにくいのです。
それで、ヴァン・デア・コークは、ライティング(文章を書く)ことがトラウマ治療に役立つと述べたとき、こんな条件をつけていました。
自分自身に手紙を書くときには、他者の判断を気にしなくて済む。自分の思考にただ耳を傾けて、その流れに身を任せればいい。
自分自身に向けて手紙を書き、だれにも見せず、投函さえしないという方法は、イマジナリーコンパニオンに体験を吐露する手紙バージョンのようなものです。
これは、トラウマ治療でよく陥りがちな落とし穴を避ける、極めて重要なポイントです。
トラウマ治療には、しばしば、芸術の創作が効果があると言われます、絵を描いたり、文章を描いたり、詩を書いたりすることなどです。
解離の当事者は、こうした才能や感性を持っていることも多いため、創作しているうちにしだいに周りに評価されることもあるかもしれませんが、それはとても危険な徴候です。
まわりに評価されるということは、創作している当事者は、まわりの目を意識して作ろうとするようになるということです。しかし、周りの目を意識したとたん、「どう思われるだろうか」という恥の感情が入り込みます。
そうすると、今まで、素直に自分のからだの声に耳を傾けて、気の向くままに創作していて、それがセラピーのように機能していたにもかかわらず、だれかの評価を気にしだすと、「自分自身とのつながりを失い」インタープリターが口をはさむようになります。
作る作品は、からだの記憶の表出ではなく、人に見せるためにインタープリターが脚色した創作になってしまいます。
ヴァン・デア・コークが述べるところによると、そうなってしまっては、もはや創作を通してトラウマを治療する効果は期待できません。
PTSD症状に焦点を当てたライティングの研究の結果は、これまで期待外れのものばかりだった。
ペネベーカーはこれについて私と話し合ったとき、PTSD患者に対するライティングの研究はたいてい集団で実施されていて、そこでは患者は自分の物語を披露しあうことが期待されている点を指摘した。
そして、私が前述したのと同じことを述べた。すなわち、ライティングの目的は自分自身に向けて書くこと、自分がずっと避けようとしていたことを自分自身に知らせることだ、と。(p399)
「自分の物語を披露しあうことが期待」されるようになってしまうと、芸術を用いたセラピーは「期待外れのものばかり」の茶番になるのです。
そのようなわけで、あまりに陥りやすい芸術療法の落とし穴がここにあります。
さまざまな芸術療法が効果があるのそれが芸術だからではなく、身体志向のセラピーだからなのです。
言い換えれば、「あなた」と「からだ」の二人のあいだでやりとりされる芸術療法は間違いなく効果がありますが、「あなた」と「セラピスト」と「仲間の患者」と有象無象と…というような集団で実施される芸術療法の効果はあまり期待できないということです。
集団で実施されるということは、よほど配慮された環境でないかぎり「どう思われるだろうか」という恥が入り込みます。だれかに評価されたり、お互いの作品を見せあったりすることは、恥に敏感になっている人にとっては、間違いなく解離を引き起こすトリガーになります。
インターネット上のSNSに作品を発表して、コメントをやり取りしたりする場合もそうです。はじめは、評価されると嬉しくなってやる気が湧きますが、次第に「この作品はどう見られるだろうか」という恥が入りこんできます。
だれかの反応や評価が入り込むようになれば、作品は「からだの声」の現れを形にする身体志向のセラピーではなくなり、インタープリターが作り出した人に見せるための創作、評価されるための作り物になります。
ときどき、トラウマ障害などの人たちが作る芸術は、アール・ブリュットと呼ばれて賞賛されたり、展示会が設けられたり、コンクールが開かれたりしますが、良かれと思ってなされているそうした「評価」システムは、じつは芸術の治療効果を台無しにしてしまっているのです。
ですから、芸術をトラウマ治療に用いたいと思うなら、あくまで自分のために創り、他人の評価が不必要に入り込まない環境を整えなければなりません。それができない集団で行われる芸術療法の場に入っていったとしても解離が悪化するだけです。
巨大な箱庭空間にタイムスリップする
最後に、一風変わった身体志向のトラウマセラピーについて考えましょう。
いま芸術療法について考えましたが、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するによると、不登校の小児慢性疲労症候群の子どもたちにも、そうした治療がいくらか取り入れられています。
話すことよりも作業や芸術表現を好む場合は、描画、スクイグル、箱庭療法、簡単なワーク(折り紙、トランプなど)を実施する。(p92)
注目したいのは、描画などの芸術療法と並んで挙げられている「箱庭療法」です。
箱庭療法とは、ちょうど子どものおままごとのように、箱庭セットの中に、さまざまな家具や人形などを、自由に思うがままに配置していく方法です。
そして、箱庭の風景や人形を手がかりにして、配置した人形や家具をさまざまに動かしたり、ときには人形に自分の気持ちを投影したりしながら、セラピストとともに物語をつむいでいき、無意識への気づきを得ることができます。
じつはわたしが、不登校と小児慢性疲労症候群の完全な学習性無力感のゾンビ状態から抜け出せたのは、箱庭療法と描画療法のセラピーをたまたま受けたことでした。
もつれにもつれてこんがらがっていてフリーズしていた頭の中が、ほんの2日のワークショップで整理され、後から思えばそれを境に少しずつ自分を取り戻すことができました。
単なる偶然かもしれないとは思いつつ、長年、不思議に思っていましたが、今になってみれば、わたしの解離状態に箱庭療法や描画が役立ったのは当然でした。
すでに見たとおり、トラウマ記憶とは手続き記憶であり、手続き記憶とは自転車の乗り方や楽器の弾き方のような空間的な記憶です。手続き記憶をつかさどる右脳は、空間・視覚・感覚などの断片的な要素を記憶します。
つまり、手続き記憶はことばで言い表すことはできませんが、そのかわり、空間的・視覚的な表現によって語ることでできる記憶です。左脳の言語がことばであるなら、右脳の言語は三次元的な視覚的表現です。
箱庭療法のようなセラピーは、左脳の言語で語るカウンセリングとは異なり、右脳の言語でやり取りするセラピーなので、「からだの記憶」にダイレクトに響きます。
それを如実に物語っているのは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法でヴァン・デア・コークが紹介しているペッソ・ボイデンシステム精神運動(PBSP療法)です。
PBSP療法は、アルバート・ペッソという元ダンサーによって考案されたトラウマセラピーです。
この治療法は、名前も聞きなれないばかりか、その方法もまた特殊で、世界的なトラウマ治療の第一人者であるヴァン・デア・コークをして、「それは今まで私が目にしたグループワークのどれとも違っていた」と言わしめるほどでした。(p494)
ヴァン・デア・コークは、はじめ、この新参のトラウマセラピーに疑いを抱いて警戒していましたが、とりあえず自分がそれを試してみようとペッソに会いに行きました。
本来、PBSP療法は、大勢の参加者とともに行なうグループ・ワークです。ペッソの家には、彼とヴァン・デア・コークの二人しかいませんでしたが、その部屋と、そこにある家具を使うことで、PBSP療法とはいったい何なのか、そのエッセンスを体験することができました。
役を演じる人が他にいなかったため、ペッソはまず、物か家具を選んで父親に見立てるように言った。
私は大きな黒い皮のソファを選び出して、自分の正面からやや左寄り、二メートル半ほど離れたところに立てて置いてくれるようにペッソに頼んだ。
次に母親も部屋に招き入れたいかと訊かれたので、私は立てたソファとほぼおなじ高さの、どっしりした電気スタンドを選んだ。(p497)
ペッソはまず、部屋の中にある色々なごくふつうの家具を指し示し、父親と母親はどの家具のイメージに近いか選んでみるよう、ヴァン・デア・コークに勧めました。彼は直感で手近にある家具を両親に見立てていきました。
さらに、親友や妻や子どもに見立てた家具も選ぶように言われます、そうするうちに、二人だけだったはずの部屋は、ヴァン・デア・コークの父親や母親、その他大切な人たちを見立てた擬人化された家具でいっぱいになりました。
彼は、ペッソがPBSP療法によって、何を作ろうとしていたのか気づきました。
しばらくすると私は、自分の内面の風景を投影したこの場面を眺め渡した。
両親を表す二つのやたらに大きく暗い威嚇的な物と、妻や子供や友人たちを表すちっぽけな物の数々。
私は愕然とした。
自分が幼かったころの厳格なカルバン主義の両親という内面のイメージを、私は再現していたのだ。胸が締めつけられた。声はなおさらひきつっていたに違いない。
空間を司る脳が暴露したものは否定のしようがなかった。このストラクチャーによって、私は内面に秘められた自分の世界の地図を視覚化することができたのだ。(p497)
これは巨大な箱庭療法でした。
ふつうの箱庭療法と違うのは、箱庭のただ中に自分がいることでした。箱庭は部屋、人形は家具でした。ヴァン・デア・コークは、ペッソの指示にしたがって家具を選んでいるうちに、自分のまわりに巨大な箱庭を創り上げていました。
そして、そこに投影されていたのは「空間を司る脳が暴露した」記憶、つまり右脳の「からだの記憶」であることに気づきました。言葉にできない手続き記憶を、空間という右脳の言語によって再現していたのです。
続いてペッソが提案したステップでは、驚くようなことが起こりました。
自分がたった今明らかにしたものについてペッソに話すと、ペッソはうなずいてから、私の物の見え方を変えてもいいかと尋ねた。
…するとペッソは、私とソファと電気スタンドの間に自分の体をすかさず割り込ませて、私の視線から二つを隠した。
私は即座に体の中で強い解放感を味わった。胸の締めつけが緩み、呼吸が楽になった。
ペッソの下で学ぼうと決めたのは、この瞬間だった。(p497)
ペッソが、ヴァン・デア・コークの「両親」を視界から隠しただけで、ヴァン・デア・コークのからだがはっきりと変わりました。強い解放感を味わい、呼吸が楽になりました。これは、不動状態のストレス反応が解除されたことを意味しています。
ヴァン・デア・コークは、このセラピーを受けるまで、もう40歳にもなる自分に、80代の両親が影響を与えているなんて考えもしませんでした。
しかし、右脳の手続き記憶には、人生最初の手続き記憶である愛着として、両親のイメージがはっきりと刻まれていました。
彼の右脳に刻まれた両親のすがたは、「やたらに大きく暗い威嚇的な物」のようであり、すでに親元を離れて立派な医師にさえなったヴァン・デア・コークのからだに絶えず継続的なストレスを与え、幼いころのトラウマ反応を絶え間なく再演しつづけていたのです。
実際のPBSP療法では、家具の代わりに、ワークショップに参加している他の人たちを、自分の人生に登場するさまざまな人物に見立てます。そして、それら本物の人間という人形を相手に、巨大な箱庭の中で人生の物語を演じます。
グループの参加者は、親やその他の家族といった、主役の人生における重要人物の役をするよう頼まれ、その結果、内面の世界が3次元空間で徐々に形になっていった。
グループのメンバーはさらに、重大なときに欠けていた支えや愛情、保護を与えてくれる理想的な望みどおりの親を演じるように求められた。
主役は自分の劇の演出家になり、実際にはなかった過去を自分の周りに創り上げた。(p496)
ヴァン・デア・コークが、さまざまな家具を両親や家族や友人に見立てていったとき、無意識のうちに右脳がふさわしい形をした家具を適切に選んだように、登場人物を配役するとき、右脳は無言のまま、適切な人を選び、適切に場所へと配置します。
私はストラクチャーを実施するたびに舌を巻くのだが、脳の右半球はじつに的確に外部への投影を行なう。
主役は常に、自分のストラクチャーのさまざまな登場人物がどこにいるべきかを正確に心得ているのだ。(p502)
右脳のからだの記憶が、三次元空間に投影され、巨大な箱庭空間を創り上げたなら、こんどは文字通りの箱庭療法のように、そこで過去の物語を上映していきます。
もちろん、このPBSP療法のワークショップでは、先ほど見たような他の人の評価を気にすることで生じる解離が起こったりしないよう、巧妙な工夫が施されています。さすが元ダンサーが演出しているだけあります。
「是非の判断を加えずそのまま受け止める観察者」が徹底されているおかげで、主役は、「まわりにどう思われるだろうか」という恥や恐れを完全に捨てて、なかばトランス状態になって箱庭世界に没頭していけるようです。(p501)
そして、巨大な箱庭のなかの登場人物になって、自分の「からだの記憶」の世界を体験するうちに、主役は「からだの記憶」に刻まれたトラウマの瞬間にタイムスリップします。しかし、実際に起こったのとは異なる理想的なストーリーを体験します。
参加者たちは生身の人間がたくさんいる空間に自分の心の中の現実を安心して投影でき、そこで過去の不協和音と混乱を探ることができる。
これが具体的に腑に落ちる瞬間につながる。
「そうだ、こんなふうだったのだ。私が対処しなくてはならなかったのは、これだ。そして、もし私が大事に優しく育てられていたら、あのころ、こんなふうな感じだったのだろう」(p508)
単に座ったままでことばだけで交わされる無味乾燥なカウンセリングとは異なり、PBSP療法では、「からだの記憶」が投影された仮想空間に入り込み、からだ全体で記憶の瞬間を味わい、からだ全体で反応します。
先ほどのイップスの治療法で出てきたように、右脳の記憶の中では、A→B→C→(E)というトラウマ反応を巻き込んだ手続き記憶が形成されているかもしれません。
それを後から書き換えるのは大変ですが、もしもタイムスリップして、その瞬間を再体験でき、別の選択肢を選ぶ機会が与えられるとしたら、話は別です。
PBSP療法では擬似的なタイムスリップを体感し、しかも本物のトラウマの瞬間とは違い、支持的で協力的な仲間たちに囲まれて、その瞬間に立ち向かうことができます。
そのとき、からだ全体を使って、A→B→C→(E)の代わりに、A→B→C→(F)という建設的な反応を選べば、からだはそれを記憶します。
凍りついていたトラウマ記憶を、時空を超えて上書きすることができます。「疑似体験の記憶」「新しい追加の記憶」が構成されていくのです。(p499)
自分の人生のトラウマとなった同じ瞬間をもう一度再現し、異なる未来を選び取ることができ、そのとき形成されたトラウマの手続き記憶をダイレクトに上書きするというSF映画のような体験に没頭させるのがPBSP療法なのです。
この手法は、特に幼少期の安定した愛着を育めなかった「子供のころに望まれていないと感じた人や成長過程で誰にも安心感を抱いた記憶がない人」に効果があるようです。
そうした人たちは「従来の精神療法があまり役立たない」そうです。それもそのはず、愛着トラウマはことばではなく「からだの記憶」だからです。(p493)
すでに見たとおり、愛着とは人生最初の手続き記憶であり、PBSP療法のような、視覚的・空間的な体験を通して、右脳の記憶を扱う身体志向の治療が必要です。愛着はからだで味わわないかぎり変わりません。
むろん、幼少期の愛着パターンは、生涯にわたりほとんど変化しないと言われる一方で、大人になってから安定した「獲得型愛着」を得る人もいます。
そのような人たちは、さまざまな人たちとの出会いの中、親子関係をやり直したり、親代わりとなる人に出会ったり、子育てを通して親の気持ちを理解したり、育て直しとも言われる体験をしたりして、愛着を安定させていきます。
そうした体験は、PBSP療法で経験するような過去のタイムスリップとよく似ています。
人生のさまざまな場面で、過去の愛着トラウマの瞬間と似た場面に遭遇しますが、異なる反応を選び取ることで、徐々に愛着の手続き記憶を「疑似体験の記憶」「新しい追加の記憶」で上書きし、修正していくのだといえます。
残念ながら、PBSP療法のような特殊なワークショップをおいそれと体験するのは難しいでしょう。よほど訓練され、センスのあるセラピストがいないことには仮想のタイムスリップに没頭するほどの体験はできません。
しかし、PBSP療法そのものと比べるとかなりチープに思えるかもしれませんが、伝統的な箱庭療法や絵画療法は、右脳の空間的・視覚的な記憶を扱うのに役立つでしょう。
また、ヴァン・デア・コークがペッソの家で体験したのと同じ方法を試してみることができます。今、あなたの部屋にある家具を見回して、父親、母親、友人、家族にふさわしいものをそれぞれ選んで配置してみるのはいかがでしょうか。
どれをどう選ぶか、どこに置くか悩む必要はありません、右脳の記憶は、パターン認識と場所認識に優れているので、直感的に選んで移動させるだけで、からだの記憶がしっかり反映されているはずです。
わたしも数ヶ月前に試しにやってみましたが、ヴァン・デア・コークと同じく「愕然と」しました。無意識に配置した三次元空間をよくよく見てみると、それが確かに自分の内的世界の空間的な投影であるに違いないことに気づき、そのリアルさに呆然とします。
また、PBSP療法は、現実の人を使って、擬似的なタイムスリップという仮想空間を演出しますが、本来こうしたバーチャルな体験は、VR(バーチャルリアリティ)などのデジタル技術が役立ちそうな分野です。
近年、VRヘッドセットの医療への応用が始まっていますが、空間的、視覚的な体験であるVRが、右脳のトラウマ記憶の治療に応用されるのはそう遠くないのではないかと思います。
「自分自身に関する世界有数の専門家になる」のをやめる
冒頭に書いたように、身体志向のトラウマ・セラビーにはさまざまなものがあります。
ソマティック・エクスペリエンス(SE)をはじめ、センサリーモーター・サイコセラピー(感覚運動心理療法)、ロルフィング、トラウマ・ストレス解放法(TRE)、自我状態療法、内的家族システム療法(IFS)、エモーショナル・フリーダム・テクニック(EFT)、ペッソ・ボイデンシステム精神運動療法(PBSP)、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス・メソッド、など、より詳しく知りたい方は、それぞれ検索してみれば、詳しく解説してある書籍やサイトが見つかることと思います。
身体志向の考え方の入門編としての読みやすい本としては、ガボール・マテの身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価やヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法をお勧めします。
ピーター・ラヴィーンの身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはひときわ思考を刺激する本ですが、少なくとも最初は以上の二冊のほうがとっつきやすいでしょう。
わたし自身はというと、ライティングがトラウマ治療に役立つのは大いに実感しています。前に書いたとおり、わたしは文章を書いているときは時間を忘れて没頭できますし、生きている実感を味わえます。
わたしの場合、こうして文章をブログに公開してはいますが、まったく人の評価を気にしていないようです。
もしもわたしが、「専門家でもないのにこんなことを堂々と書いたらどう思われるだろうか」「他の当事者はこれを読んでどう思うだろうか」などと考えて、ライティングに恥の気持ちが入りこんでいたら、わたしはライターズ・ブロックになって書けなくなっているでしょう。
とはいえ、わたしは、こうやってブログでさまざまな観点から自分のからだを分析して、解離と身体志向のセラピーについて知ったいま、自分自身に対するアプローチを変えるべきではないか、という結論に至りつつあります。
ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで紹介しているある青年の言葉は、わたしの胸に突き刺さりました。
気づきを深めるのは困難だ。両親が自分を十分に愛してくれなかったから困難なのではなく、困難だから困難なのだ。個人的な問題に帰する必要はない。
僕は何年もかけて自分の過去を掘り起こし、残骸を分類し、目録を作った。しかし、本当の自分、自分の中の本質的な本当の自分は、どれほど自分の洞察力が鋭くても、理解することはできない。
僕は内観と気づきを混同していたが、この二つは違うものだ。
自分自身に関する世界有数の専門家になることは、完全に今にいることとは何の関係もない。(p344)
わたしはまさに「何年もかけて自分の過去を掘り起こし、残骸を分類し、目録を作っ」てきました。それがこのブログのすべてであると言っても過言ではありません。
しかし、「本当の自分、自分の中の本質的な本当の自分は、どれほど自分の洞察力が鋭くても、理解することはできない」と今まさに実感してもいます。
そして、それがかなわないのは、知識が足りず、理解が足りず、推理が足りないからだと信じてここまで掘り進んできましたが、それは間違っていました。
自分自身に関する世界有数の専門家になることは、完全に今にいることとは何の関係もない。
わたしは、「自分自分に関する世界有数の専門家」になろうとしていましたが、それは「完全に今にいること」、すなわち解離から解放されることと何の関係もなかったのです。
いえ、むしろ、わたしが自分自身を探り続け、洞察を重ねていたことは、からだから遠ざかり、こころとからだの解離という谷間を広げてさえいました。
洞察は重要なことであるが、それが神経症を治したり、トラウマを癒したりすることは滅多にない。
それどころか、症状を悪化させることが往々にしてある。結局のところ、人や場所や物事に反応してしまう理由がわかっても、そのこと自体が助けになるわけではないのだ。
それがかえって害になる可能性さえある。例えば、恋人に触れられたときにどっと冷や汗をかくというのは、それだけで十分に苦しいことだ。
だが、理由がわかった後でも、同じ反応を繰り返し経験すれば、さらに混乱が深まる。
起こっている症状は過去の出来事がきっかけになっているに過ぎないとわかったとしても、その招かれざる侵入に繰り返し耐えなければならないとしたら、挫折、恥、無力感などの打撃的な感情が深まるばかりだ。(p344)
わたしは自分自身を研究するために、洞察し、客観的に分析し、解釈しようとしてきました。
しかし考えてみれば、客観的に分析するのは解離の症状そのものなのです。こころとからだが解離している人だからこそ、客観的に分析できます。
解離の当事者が苦手なのは、解釈することではなく感じることです。客観的になるよう務め、解釈に重きを置けば置くほど、感じることからは遠ざかります。
わたしのブログが、客観的な分析を積み重ねれば積み重ねるほど、それは、わたしのこころとからだの解離が加速していることの現れでした。からだから遠ざかれば遠ざかるほど、全体像が見えてくるものです。「からだの声」は聞こえなくなりますが。
ラヴィーンが述べるように「洞察は重要なこと」です。仕組みを理解することは大切です。自分のからだに何が起こっているのかを客観的に理解することはとても大切です。
でも、分析したり研究したりする旅路は限りありません。知れば知るほど、新たな謎が立ち現れます。探究にはきりがありません。いくら探究しても、わたしは今、生きているのだろうか?といった疑問の答えにたどり着くことはありません。
生きているかどうか知るには、いくら分析して解釈して考えても哲学的問答になるだけです。生きていることを知るには、ただ全身で感じるほかないのです。
幸い、調べ続けてきたことは無駄ではなく、身体志向のセラピーについての知識を得たことで、自分の路線が間違っていたことに気づけました。解離から抜け出るつもりが、解離行きの特急に乗っていることに気づきました。
「自分自身に関する世界有数の専門家になること」を目指すか、「完全に今にいること」を目指すかは、一度に片方しか選べません。
どちらも自分にしかできないことです。考察は面白く興味深い旅です。もっと知りたい、知識を取り入れたい、理解したい、推理したい、という気持ちはあります。
でも、ここはひとまず自制を働かせて、解釈して分析したいという条件反射を保留したいと思います。
解離されたわたしが、客観的に眺められるわたしがたどり着いた答え、それは、ここでひたすら答えを探りつづけ、終わりなき旅を続けるよりも、立ち止まってからだの声に耳を傾けたほうが、長い目で見れば必ず得るものが多いはずだ、ということでした。
こんなとき、今までやってきたことに見切りをつけられず、従来路線に固執してしまう傾向は、「埋没費用の誤謬」(サンクコスト・バイアス)と呼ばれます。これまで投資してきたことに愛着がありすぎて、方針転換ができず、かえって損をしてしまうのです。
わたしはサンクコスト・バイアスにとらわれて、解離から抜け出す機会を逸したくありません。
最近は客観的な考察を書くことに専念しすぎて、自分を見失っていました。書いている瞬間は満たされるものの、分析すればするほど、自分が虚ろになって人生が虚しくなるような気がしていました。
わたしはもともと絵描きであり、小説を書いたり、詩を書いたり、楽器を演奏したりするほうの人間であり、論理的な分析をする学者肌の人間ではありません。
内的家族システム療法のことばを借りれば、論理的な人格は、わたしの「管理者」ではありますが「セルフ」ではありません。小学生高学年ごろの解離体験以降に現れた「守護天使」です。
「セルフ」が出てくるためには「管理者」は口を慎み、「守護天使」は後ろに退かねばなりません。
自分自身を分析したり解釈したりするのはいったんやめて、しばらくは「セルフ」が望んでいる別のかたちの創作に専念しようと思います。なんだかそう決めただけでわくわくしてきました。
まずしっかり「からだ」の声を最後まで聞いてはじめて、インタープリターの解釈者の出番が来ます。からだの声を聞いた上でまたいつか解釈してみれば、違う景色が見えるかもしれません。聞くことが先、語ることは後です。
この記事で見たとおり、「こころ」は「からだ」から生まれています。源たる「からだ」と疎遠になれば、「こころ」が現実感を喪失し、虚ろになっていくのはある意味当然です。生きている実感を得るには、「からだ」とのつながりを回復しなければなりません。
「自分自身に関する世界有数の専門家になること」と「完全に今にいること」を天秤にかけてみれば、わたしはやっぱり「完全に今にいること」を選びたいと思います。
ピーター・ラヴィーンがその類まれな著書を通して教えてくれたように、わたしも考える人間である以前に、結局のところ、この地球で生きる「動物の端くれ」にすぎないのですから。