「大人になる」というのは、子どもの繊細で神秘的な感覚、ワーズワースの言った「輝きと鮮やかさ」を忘れ、それらが次第に日常のなかに埋もれていくことなのだろうか? (p447)
子どものころだけに味わう、「繊細で神秘的な感覚」「輝きと鮮やかさ」。そんな不思議な思い出がありますか?
子どもは大人とは見える世界が異なっているとよく言われます。大人にとっては何の変哲もない建物が、子どもの目には見上げるほどにそびえ立つ魔法の王国に見えるかもしれません。
子どものころ瞳に映り込んだ、摩訶不思議で色鮮やかな景色や、町のあちこちに見えていた別世界への扉を覚えていますか。夢の中でふと、あのころの空想の友だちと再会し、懐かしい声を聞くことがありますか。
もしも、そんな不思議な感覚の残り香を、いまだ思い出せる人がいるなら、きっと今回紹介する本タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)は興味深いものに違いありません。
この本は、2015年に亡くなった脳神経科医オリヴァー・サックスが、自身の少年時代を回想した自伝です。
このブログを読んでくださっている人なら、わたしが至るところでサックスの本から引用しているのをご存じかもしれません。サックスの著書はいつも、わたしを脳の不思議な旅路にいざなってくれますが、この本は意外なことに、「化学」についての本です。
サックスは少年時代、専門家顔負けの化学少年で、自宅に実験室を構えて本格的な実験に夢中になっていました。化学というと、学校の授業で習った難しい化学式を思い出して頭が痛くなる人もいるかもしれませんが、不思議なことに、この本はちょっと違います。
化学の教科書に勝るとも劣らないほど本格的に化学の世界に踏み込んでいながら、どこかノスタルジックで、子どものときにだけ味わえる「繊細で神秘的な感覚」に満ち満ちています。
それもそのはず、この本は化学をテーマとしていながら、同時に、子どものときにだけ訪れる不思議な空想世界と、そこで出会った友だちとの思い出をつづった、異色の自伝でもあるからです。
これはどんな本?
タングステンおじさん:化学と過ごした私の少年時代 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)はオリヴァー・サックスが65歳ごろに書いた一冊目の自伝です。
以前にブログで感想を書いた 道程:オリヴァー・サックス自伝は、サックスが晩年に書いた二冊目の自伝で主に成人後のできごとを扱っていますが、こちらは幼少期から少年時代の体験がまとめられています。
ことの起こりは、60代になったサックスのもとに、古い友人から思いがけない小包が届いたことでした。その中には小さな金属棒が入っていて、床に落ちたはずみに、独特の音が響き渡ります。サックスはすぐに少年時代に親しんだタングステンの音だと気づきました。
それをきっかけに、有名なマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のように、すっかり忘れていた少年時代の記憶が次々とよみがえってきて、最終的に一冊の本にまで膨らんだのだといいます。
私は、タングステンおじさんについてちょっとした短篇が書けそうだと思った。
ところが、思い出は次々にわいてきて、タングステンおじさんだけでなく、少年時代のいろいろな出来事が記憶によみがえった。多くは、50年以上ものあいだ忘れていたものだ。
初めに1ページだけ書きつけた思い出は、4年がかりの大規模な発掘作業を経て、ついには200万語以上にまでふくれ上がった。
そこからどうにか一冊の本が結晶化していったのである。(p450)
サックスは、ただ思い出した記憶を書き留めるだけでなく、化学者たちのもとへ、はたまた鉱山にまで出向き、子どものころ夢中になった分光器や結晶や鉱物を買い集め、すっかり埋もれて風化していた記憶を「発掘」したのだそうです。
サックスがそこまで夢中になって過去の記憶を発掘したのは、その思い出が単なる少年時代の日常ではなく、もっと大切でかけがえのない出会いに関わるものだったからでしょう。
この記事でおいおい見ていきますが、サックスが発掘していたのは、実際には子どものときにしか見えなかったはずの別世界へと続く扉、そしてその中に広がっていた魔法の国の思い出だったのです。
「サックス家の血筋」
オリヴァー・サックスの少年時代の不思議な物語を見る前に、まず、彼の生い立ちを簡単に辿っておきましょう。
オリヴァー・サックスは、第2次世界大戦前の1933年、四人きょうだいの末っ子として、ロンドンで生まれました。
のちに「レナードの朝 」や「火星の人類学者」を著してユニークな作家として名を馳せるオリヴァーは、ごく幼いころから身の回りのものに興味津々で、次から次へと疑問が際限なく湧き上がってきて、両親を質問攻めにして困らせるほどの子どもだったそうです。(p13-15)
そんなオリヴァーに対して、「母はせっかちに答えたり理由もなしに解答を押しつけたりはめったにせず、きちんと考え抜かれた答えで私をとりこにした」とサックスは述べています。(p19)
サックスは自伝の中で、両親やその家系について語っていますが、彼のユニークさは一族に代々受け継がれた血のなせる業だったことがよくわかります。
突然ピンときたり何かの考えや感情にとらわれたりするわけで、それを私は「サックス家の血筋」によるものだと思うようになった。
一方でランダウ家には、物事をもっと順序立てて分析的に考える癖があった。(p144)
まず、父方の「サックス家の血筋」は、「突然ピンときたり何かの考えや感情にとらわれたりする」傾向がありました。直感力が鋭く、人の気持ちに敏感でこまやかな配慮ができる家系だったようです。
サックスの父は人々を深く気にかける思いやりに富んだ医師でした。
父は往診が大好きだった。というのも、往診は社交的要素の強い医療で、家や家庭に入って患者とその環境について知り、病気を総合的な視点でとらえることができたからだ。
医療とは、父にとって、病気を診断するだけのものではなかった。患者の生活や、患者ひとりひとりの性格・感情・反応とからめて判断し、理解すべきものだったのだ。
父は何十人もの患者とその住所をタイプしたリストを持っていて、車の助手席に座っている私に、それぞれの患者がどんな病状なのか、思いやりに満ちた言葉で語って聞かせた。(p138)
サックスは、その著書の数々からありありと読み取れるとおり、どんな病気の患者にも、また、どんなマイノリティな人たちにも感情移入を欠かさなかった思いやりのある医師でしたが、きっと父親の生きた手本から学んだのでしょう。(p142)
正統派ユダヤ教徒であったサックスの父は、聖書の注釈本や詩人たちの本をもっぱら愛読していて、「人間やその行動、神話や社会、言語や宗教が、父の関心のすべてだった」とサックスは振り返っています。(p341)
おそらくサックスの父方の家系は、繊細で感受性が強く、感情を読み取ったり、共感したりするのが得意なHSPの家系だったのでしょう。
けれども、オリヴァー・サックスは、父親に似ていると同時に異なる部分もありました。サックスは「物事をもっと順序立てて分析的に考える」、母方のランダウ家の長所も受け継いでいました。
オリヴァーの両親は二人とも医師をなりわいとしていましたが、父と母は、興味や関心の方向性は大きく異なっていたようです。
両親は、どちらも患者の苦しみをよく理解していたが(わが子の苦しみ以上にわかっていたのではないかと思えることもあったぐらいだ)、ふたりの方向性や視点は根本的に異なっていた。(341)
「人間やその行動」に関心のすべてが向いていた父と異なり、サックスの母は真逆で、人体の構造や生化学が大好きでした。
幼いオリヴァーの質問に辛抱強くつきあっただけでなく、ダイヤモンドや金属について教えてくれたり、身体の構造をスケッチしてくれたりもしました。ときにやりすぎて周りが見えなくなり、人体解剖の様子を熱く語るような母親でもありました。
ひどく内気で、人が大勢いる場所が苦手でしたが、親しい人たちだけの場ではうって変わって社交的になるという一面もありました。
母はひどく内気な女性で、社交の場が苦手だったから、無理に引きずり出されても黙りこくったりひとりで物思いにふけったりしていた。
ところが、母には別のいち面もあった。自分の教え子たちと気楽にしていられるときには、あけっぴろげで、元気にあふれ、演技の派手な役者になったのだ。(p339)
サックスによれば、母のこの多面性は、人の顔が見分けられない相貌失認によるもので、サックス自身も同じ特徴を受け継いで苦労していました。わたしもまた相貌失認なのでサックスとその母の気持ちがよくわかります。
サックスの母の個性的な性格は、母方の家系のランダウ家の特徴だったようです。
特に祖父のマーカス・ランダウは、食料雑貨店を営むかたわら、ヘブライ語の学者、神秘主義者、数学者、発明家でもあり、新聞を発行していて、あのライト兄弟とも親しい間柄でした。(p18)
9人の息子と9人の娘がおり、子どもたちは数学、自然科学、人間科学、教育学などさまざまな分野に関心を持ち、その末っ子がサックスの母だったそうです。
みながみな、興味関心の幅が広く、多彩な才能を持っていて、「一族みんなのなかにあの祖父の血が流れている、と私には思えてならなかった」とサックスは述べています。(p20)
おそらくサックスの母方の家系は、新奇追求性を特色とするADHDやHNS(刺激を追求する人)の血を継いでいたのでしょう。父方と母方の相異なる性質は、どちらもサックスに受け継がれ、ユニークな内面の成長に一役買っていたようです。
けれども、オリヴァー・サックスが、単なる学者や発明家ではなく、独創的な作家になったのは、遺伝的な才能だけによるのではないでしょう。そこにはサックスが子ども時代に経験することになった、数奇な生い立ちが関係していました。
「現実と空想の境目もよくわからなくなっていた」
サックスが生まれたのは、不幸にもあの第2次世界大戦の直前でした。医師だったサックスの両親は、何週間も家を空けざるを得ないことがありました。その結果、幼いオリヴァーはとても寂しい思いをすることになりました。
六週間経ってふたりが戻ってきたとき、私は前回のように母のもとへ駆け寄ったり抱きついたりはせず、見知らぬ人に対するみたいに、そっけなく出迎えた。
母はショックと戸惑いを感じながら、私とのあいだにできた溝をどう埋めたらいいのかわからずにいたと思う。(p146)
幼い子どもは、母親とともに過ごすことで、安定した愛着の絆を結びます。けれども、どれほど恵まれた家庭であっても、予期し得ない事情のせいで、子どもの愛着が損なわれてしまうことがあります。
サックスの場合、幼少茎に戦争に備えて両親が仕事に追われたことで、母親に対してよそよそしい態度を示すようになってしまいました。これは回避型と呼ばれる不安定な愛着タイプを抱えた子どもに見られる典型的なパターンです。
やがて1939年、幼いオリヴァーがまだ6歳のころ、戦争が始まり、ロンドンは激しい空爆にさらされることになります。政府は子どもを安全な場所に避難させるよう命じ、オリヴァーはブレイフィールドへと疎開させられます。
けれども、オリヴァーが疎開した先の学校は安全とは程遠い場所でした。暴力的な校長が支配する無法地帯で、体罰やいじめが当たり前のようにはびこっていました。サックスはそのときの気持ちをこう記しています。
さらに、多くの子どもが家族に見捨てられたという思いを抱いたことが、悲惨な学校生活に輪をかけた。
何かわからないけれども悪いことをした罰として、こんな恐ろしい場所に放り込まれてしまったと思ったのである。(p35)
それでも私を支配していたのは、ブレイフィールドに閉じ込められ、希望もよすがもないという思いだった。
多くの子どもたちにとって、そこでの生活はつらいものだったと思う。(p37)
たとえ、親にとっては、やむをえない事情のある苦渋の決断だったとしても、子どもにはそれがわかりません。
たとえ良い意図があったとしても、幼い子どもにはそれが理解できず、ただ理不尽に辛い目に遭わされたとしか思えません。
子どもは、そうなったのは自分が何か悪いことをして罰を受け、家族から見捨てられたせいではないか、と思うようにもなります。
たとえ親が良かれと思って「しつけ」のために与える体罰や、怪我や病気のために仕方なく受けさせられた入院や手術でも、長きにわたるトラウマを残しうることがわかっています。
突然家族から引き離され、過酷な強制収容所のような学校に疎開させられたサックスの場合もそうでした。その経験は、もともと不安定になりかけていた親との愛着に消えない爪痕を残しました。
突然両親に見捨てられて(私にはそう思えた)、彼らへの信頼や愛が激しく揺らぎ、そのせいで神を信じる心までも損なわれてしまったからだ。
神が存在する証拠なんてどこにあるんだ?―そう自問しつづけた。(p42)
サックスは、敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ちましたが、過酷な体験のせいで、両親も神も信じられなくなりました。
子どもが育む愛情深い親のイメージは愛着理論において「安全基地」と呼ばれます。神への信仰もまた、一種の「安全基地」です。
「安全基地」とは、どんなことがあっても見捨てず共にいてくれる存在のイメージです。どれほど自分が不安定な状況に置かれようと、あくまでも信頼できる相手、世界のすべてが敵にまわろうが、唯一自分の見方をしてくれるような拠りどころを意味しています。
愛情深い親のイメージがしっかり培われた子どもは、一人でいるときにも、心の中に帰るべき港のような温かいイメージがあるので、安心して落ち着いていられます。神の存在が安全基地になっている人もやはり、苦しい目に遭ったとき、そのイメージに支えられます。
けれども、サックスは、過酷な疎開体験のせいで、安全基地として拠りどころになるはずの親のイメージも神のイメージも打ち砕かれてしまいました。
辛いときに支えとなってくれる、愛情深い安全基地のイメージを失ってしまったサックスは、代わりに自分の想像力を使って、苦しみをやり過ごすようになります。
お仕置きとひもじさといじめが続くうちに、それでも学校に居させられた私たちはますます極端な心理的救済策へと追い立てられていった。
自分を一番いじめる相手を、人と思わなかったり、実在しないと考えたりするようになったのだ。
ときどき私は、ぶたれながら、校長を手足の動く骸骨だと想像した。(p42)
サックスは、あまりに過酷な環境を生き延びるために、自分の想像力をフル活用するようになります。自分をいじめたり、虐待したりする相手をイメージの力で書き換えてしまい、現実の苦痛を和らげようとしました。
やがて、ブレイフィールドの悪夢のような学校が閉鎖されることになり、サックスはセント・ローレンスへ移ります。彼はその時期についてこう語ります。
そこで過ごした時期の記憶は、不思議なことにわずかしかない。
どうやら抑圧で封じ込められるか忘れるかしてしまったようで、最近、私をよく知り、ブレイフィールドにいた時期について詳しく知っている人に話したところ、相手はびっくりして私の口からセント・ローレンスのことなど初めて聞いたと言った。
じっさい、私が覚えていることといえば、その地にいて即興でこしらえた嘘かジョークか空想・妄想のたぐい―どう呼ぶべきかわからないが―ばかりだ。(p48)
不思議なことに、サックスは、セント・ローレンスで過ごした時期のことをほとんど覚えていませんでした。
サックスは「抑圧で封じ込められるか忘れるかしてしまったよう」だと書いていますが、このブログで馴染み深い言葉を使えば、解離が起こっていたようです。
サックスはその時期についてさらに詳しくこう書いています。
このころの私を思い返すと、心のなかが白昼夢や作り話でいっぱいで、ときどき現実と空想の境目もよくわからなくなっていた気がする。
どうやら、不条理でもいいから魅力的な自分をこしらえようとしていたようだ。
だれも気にかけてくれない、だれも自分のことを知らないという私の孤独感は、ブレイフィールドにいたときよりセント・ローレンスのときのほうがはるかに大きかったのではなかろうか。
ブレイフィールドでは、校長が向けるサディスティックな視線さえ、なんらかの関心に―愛情とまで―思えることがあった。(p49)
サックスはそのころ、現実と空想の境目があいまいになっていました。心の中が白昼夢や作り話でいっぱいで、空想のなかに生きていました。こうした「空想癖と虚言癖」は、強い解離傾向を抱えた人に多い特徴です。
それにしても、どうしてサックスは、あのプレイフィールドの悪夢のよう学校生活よりも、そこから解放された後のセント・ローレンスで過ごした時期に、より強い解離症状に陥ったのでしょうか。
サックスはその理由を推測して、セント・ローレンスにいるときのほうが、「だれも気にかけてくれない、だれも自分のことを知らないという私の孤独感」が強かったからではないか、と述べていました。
ブレイフィールドで虐待的な校長にサディスティックな関心を向けられていた時期のほうが、セント・ローレンスで何の関心も向けられず忘れ去られていた時期よりもまだましだった、とさえ述べています。
奇妙に思えるかもしれませんが、これは解離ではよくあることです。
たとえば、ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の中で、精神分析学者のジェームズ・ギリガンは、極度の解離傾向のために感情を感じられなくなったある犯罪者についてこう言っていました。
ある囚人がギリガンにこう言ったという。
「誰かに銃口を向けると、その相手から尊敬されているように感じるんだ。信じてはもらえないだろうが」。
子供の頃から、侮辱され、軽蔑されることしか経験してこなかった人間にとっては、このような酷い形であれ、わずかな間でも尊敬されるのは価値があることんのだ。
その価値に比べれば、刑務所に入るかもしれない、自分の命が失われるかもしれない、という危険など、大したことではない。(p425)
子どものころから、存在を認められず、まったく尊重されてこなかった人にとっては、だれかに銃口を向けて偽りの関心を向けられるだけでも、存在を認められないよりはるかにましなのです。
また身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、ナチス・ドイツの強制収容所のサバイバーをモチーフにした映画の、こんなエピソードが紹介されていました。
重篤で遷延的(慢性的)なトラウマのサバイバーたちは、自らの人生を「行ける屍」のようだと述べる。
…1965年の感動的な映画『The Pawnbroker(邦題:質屋)』の中で、ロッド・スタイガーはソル・ナザーマンという失感情状態のユダヤ人ホロコーストのサバイバーを演じている。
ナザーマンは、自分が抱く偏見をよそに、身を粉にして働く黒人の少年に愛情を育んでいく。
最後のシーンでその少年が殺されると、ソルはメモを留める釘で自分の手を刺すのだった。
何か、とにかく何かを感じたいがために、である。(p83)
極度の解離状態に陥って、感情も何も感じなくなって麻痺してしまった人にとっては、何も感じない空虚の状態より、釘で手を刺した痛みのある状態のほうがまだましなのです。
こうした例が物語るのは、人が最も耐え難いのは、何もない、何も感じられない空虚な状態だということです。何もない状態に耐えるよりは、苦痛のある状態のほうがまだ耐えやすいのです。たとえそれが、痛みや敵意や虐待であったとしても。
ひどく虐待されていたブレイフィールドの学校生活より、だれからも気にかけてもらえないセント・ローレンスでの生活のほうがはるかに辛かったというサックスの言葉は、当時いかに極限まで追い詰められていたかをはっきり示しています。
トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によれば、一般に信じられていることとは裏腹に、ネグレクト、つまり世話されず無視される環境は、「虐待だけの場合よりさらに否定的影響をも」つと書かれていました。(p78)
身体的また精神的な暴力を伴う虐待は、よく知られたパニックや強い不安を伴うPTSDの深刻な症状につながります
けれども、まったく関心も向けられず、見放され、ほったらかしにされ、無視され続けるネグレクトのほうは、暴力によるPTSDとは真逆の深刻な症状を引き起こします。
それが解離であり、人は尊厳をまったく認められず、愛情も関心も注がれないとき、あたかも生きているのか死んでいるのかわからない抜け殻のようになり、自分の感情も、身体も感じられず、存在自体が空虚になってしまうのです。
サックスは、疎開から帰ってきたあと、性格が別人のように変わってしまった、と友だちから指摘されたそうです。
私には、戦前から自分のことを知っていたエリック・コーンという友だちがいた。
…そのコーンが、私の変化に気づいた。
戦争の前は、喧嘩っ早いごく不通の少年で、堂々とした態度ではっきり物を言っていたのに、今ではびくびくして喧嘩もしなければ話しかけもせず、引きこもって人と距離を置いているみたいだ、と。(p84)
こうした強い対人過敏は、解離傾向を抱えた人の特徴でもあります。
また、自分でも理解しがたい奇妙な問題行動を起こして周囲を困らせてしまうようになり、それは疎開体験のトラウマによるものだったのだろうと推測しています。
当時はまだ「行動化」(抑圧された葛藤が行動として表にあらわれること)という用語が生まれていなかったが、その概念は、私の学校から1マイル離れていない場所にあったアンナ・フロイト(精神分析で有名なジグムント・フロイトの末娘で、児童精神分析の創始者)のハムステッド・クリニックでたびたび話題にのぼっていた。
アンナは自分の診療所で、疎開によりトラウマを負った子どもが見せるさまざまな神経症的態度や非行を目にしていたのだ。(p87)
こうした子ども時代のトラウマが引き起こす多彩な症状は、サックスがこの本を書いた後になって、トラウマの専門家ヴァン・デア・コークによって、「発達性トラウマ障害」として体系化されました。
サックスは、その後の人生で、スリルを求めて危険なスポーツで命を落としかけたり、薬物中毒で死にかけたりしていますが、それは何も感じられない苦しみのために、自分の手に釘を指してまで何かを感じようとしたサバイバーと同じものだったのでしょう。
特に「人から愛されていないという思い込み」には生涯悩まされたことを、もう一つの自伝で書いています。
けれども、わたしたちがよく知る作家オリヴァー・サックスは、決してトラウマに翻弄されて不幸な人生を送った人ではありません。サックスはやがて、弱い立場にある人たちへの思いやりに富んだ、こまやかな感性を持つ医師になりました。
彼はどのようにして、幼少期の辛い経験を生き延び、乗り越えていったのでしょうか。
「100万年置いといても、今とまったく同じ」
サックスにとって救いだったのは、疎開から戻ってきたとき、親族の中に信頼できる相談相手が何人もいたことです。
私には、書庫や図書館の代わりになるおじやおばやいとこが大勢いた。しかも、問題に応じて違う相談相手がいた。(p318)
その中でも、少年時代のサックスにひときわ強い影響を与えたのは、この本のタイトルにもなっている「タングステンおじさん」ことデイヴおじさんでした。
デイヴおじさんはタングステンのフィラメントで電球を作る仕事をしていて、30年以上もタングステンにまみれて働き、さまざまな種類の金属、とりわけタングステンをこよなく愛し、それがどれほど素晴らしいものかを熱烈に語ってくれる人でした。(p15)
疎開先から戻ってきた当時のサックスは、まだ悪夢のような日々のトラウマを引きずっていて、いつなんどき人生が崩壊してもおかしくないという言葉にならない不安におびえていたそうです。
ロンドンへ戻り、おじたちの「見習い」をしている(ときどき自分でそう思っていた)うちに、ブレイフィールドで味わった恐怖の多くは悪い夢のように去ったが、不合理な恐怖の残渣はなお胸にこびりついていた。
何か特別にひどいことが自分に運命づけられていて、いつなんどきその運命が降りかかるかわからないという不安感があったのだ。(p337)
タングステンおじさんが、水銀が他の金属を一瞬で錆びさせ、ボロボロにしてしまう様子を見せてくれたときには、「夢で見た何かの崩壊のシーン」を思い出して怖くなりました。(p60)
そんなサックスにタングステンおじさんはこう言います。
「心配ない」とおじは答えた。
「うちで使っている金属ならへっちゃらだ。このタングステンのバーを水銀のなかに浸けたって何も変わらない。
そのまま100万年置いといても、今とまったく同じできらきら輝いているだろう」
この不安定な世界にあって、少なくともタングステンは安定なものだったのである。(p60)
タングステンの安定した性質は、不安定な戦禍の時代に翻弄され、不安にさいなまれていた少年時代のサックスにとって、何より信頼できる安定したものに思えました。
タングステンおじさんは、ただの工場主ではなく、「理論と実践を兼ね備えた人」で、化学の実験や歴史についての知識が豊富で、サックスにありとあらゆる金属の興味深いエピソードを聞かせてくれました。(p72)
タングステンはその別名を「ウルフラム」といい、元素記号がWだと知ったときには、とりわけ自分を投影して親近感を抱けました。なぜなら、彼のフルネームはオリヴァー・「ウルフ」・サックスだったからです。(p62)
こうして、疎開体験によって愛着の土台を失った少年オリヴァー・サックスは、とても意外なところに「安全基地」を見いだしました。
「安全基地」とは、一人でいるときにも感情的な支えとなってくれる親の温かなイメージでした。信仰心の篤い人の場合は、神が「安全基地」のイメージとなることもありました。
サックスは、戦争体験を通して、「人から愛されていないという思い込み」につきまとわれるようになりましたが、その心の穴を埋め、安全基地の位置にぴったり収まったのは、決して崩壊しない安定した金属タングステン、そして決して裏切ることのない化学の世界だったのです。
化学に惚れ込んだサックスは、タングステンおじさんの手ほどきを受けて、家の一室、使われていない洗濯部屋に、自分だけの実験室を設けます。さまざまな実験器具をそろえ、ありとあらゆる薬品までも取りそろえた、本格的な実験室です。
戦争体験のトラウマのせいで、ひどく内気で臆病になっていましたが、化学の世界に避難しているときだけは、もともとの性格、何にでも好奇心を持ち、積極的に知ろうとするあの幼いオリヴァーに戻ることができました。
私は学校では内気なたちで(通知表に「自信不足」と書かれたこともある)、とくにブレイフィールドでひどい臆病さを身につけてしまっていた。
ところが、自然の驚異を目にするとがらりと変わった。焼
夷弾の破片、角柱が並んでまるでアステカの遺跡のように見えるビスマスのかけら、腕が下がりそうなほど重くてびっくりするクレリチ液の小びん、手のなかで融解するガリウム(その後、鋳型を作ってガリウムのティースプーンを作ってみたが、それで紅茶をかきまぜると縮こまって溶けてしまった)。
そういうものに出くわすと、すっかり自信を取り戻してだれにでも気軽に話しかけ、一切の不安を忘れてしまった。(p98-99)
化学に夢中になったサックスは、おじさんに教えてもらった各元素の原子量を丸暗記して、「化学の乗車券」のコレクターにもなりました。ロンドンのバスの切符に書かれた、アルファベットと数字を元素記号に見立ててコレクションしたそうです。(p112)
サックスが化学実験に夢中になりはじめたころ、家庭内で痛ましい出来事も起こりました。自分と同じように少年時代に過酷な体験をした兄のマイケルが、統合失調症を発症してしまったのです。
私が家のなかに実験室を設けたのはこのころだった。
そこに入り、ドアを閉め、耳をふさいでマイケルの狂気から逃れようとしたのである。
私は、鉱物学や化学や物理学の世界に没頭しようとした(それはうまくいくこともあった)。科学に集中することで、混乱を目の前にして自分がめちゃめちゃになってしまわないようにしたのだ。
マイケルに無関心になったわけではない。心底かわいそうに思い。彼の味わっている思いがうすうすわかっていたのだが、それと距離を置いて自然界の中立性や美しさを手本に自分自身の世界をつくり、マイケルの世界の混乱や狂気や誘惑に流されないようにしないといけなかったのである。(p269)
まさに、サックスにとって、化学の世界は精神的な拠りどころ、「安全基地」そのものでした。親も、家庭さえも、移ろいやすく不安定に思えたこの世界の中で、化学だけは激流の真ん中に立つ岩のように不動の存在でした。
ところで、まだ10歳前後の少年が、本格的な実験室を持ち、化学に傾倒するなんて、今のわたしたちからすると、あまりに突飛に感じられるかもしれません。
少年オリヴァーがユニークな子どもだったことは確かですが、当時と今とでは、まったく時代背景が異なる、ということも考えに入れると、それほど意外な話ではないとわかります。
たとえば、当時はまだ化学物質の取り扱い制限が厳しくなく、だれでも近くの薬局でシアン化カリウム(青酸カリ)をはじめとする劇薬も買えたそうです。(p125)
娯楽は限られていて、テレビもゲームもスマートフォンもありませんでした。代わりに、日進月歩の化学は人々を魅了し、生活に深く溶け込んでいました。男性も女性も、大人も子どもも化学に親しんでいました。
店には化学を利用したおもしろいおもちゃが並んでいて、ステレオスコープ(のぞくと絵が立体に見える p208)や、ゾーイトロープ・ソーマトロープ(回転させると絵がアニメーションに見える p214)、スピンサリスコープ(ラジウムの光が見える、p410)といったものもありました。
まだX線の危険が十分知られていなかったので、靴屋に行くと、骨が透けて見えるX線検査器械が置いてあり、自分の足が靴にぴったり収まっているかをリアルタイムでチェックできました。(p354)
科学技術が進歩しすぎてブラックボックス化した現代より、はるかに化学が人々の生活に身近だったので、好奇心旺盛な子どもが、色とりどりの金属や炎色反応に夢中になるのは、それほど不思議なことではなかったようです。
現代では、そうした子どもはおそらく、ゲームやアニメの世界に夢中になっていることでしょう。虫や木の実や「化学の乗車券」をコレクションする代わりに妖怪メダルやトレーディングカードを集め、元素記号と原子量を丸暗記する代わりに何百種類ものポケモンの名前を覚えています。
「空想のなかで…つながりのある人々になった」
サックスは片っ端からさまざまな本を読みあさる乱読家でしたが、中でも、化学の世界を織りなしてきた歴史上の偉人たちの「人間的な」エピソードに、強く心を惹かれました。
私は元素とその発見についての話を読むのが好きだった。
化学的な面だけでなく、発見に挑んだ人間的な側面にも興味があり、そうしたすべてを、いやそれ以上のことを、戦争の直前に出版されたメアリー・エルヴァイラ・ウィークスの素晴らしい本『元素発見の歴史』で学んだ。
この本を呼んで、多くの化学者の生きざまが―また実に多彩で、ときには奇異でさえあった彼らの性格が―手にとるようによくわかった。
昔の化学者たちの手紙も引用されており、その手紙には、手探りを続けながら発見にたどり着くまでの一喜一憂がありありと語られていた―ときに道を見失い、袋小路にはまりながらも、ついには目標に到達した過程が。(p94)
サックスは、幼少期の体験のせいで傷つき、引っ込み思案になりましたが、人間嫌いになったわけではありませんでした。やはり、人間が大好きな医師だった、あの父親の血を引いていた、ということなのでしょう。
サックスは、自分と同じように化学の実験に夢中になった過去の偉人たちに親近感を持ちました。
本で知った科学者、とくに初期の化学者は、ある意味で名誉ある先祖となり、空想のなかで自分と何らかのつながりのある人々になった。(p153)
サックスはこの本の中で、タングステンを発見したカール・ヴィルヘルム・シューレから始めて、化学の歴史に関わってきた さまざまな化学者たちの名を挙げて、まるでじかに知り合った親しい友だちのことを紹介するかのように、生き生きと描写しています。
その中の一人は17世紀の化学者ロバート・ボイルです。現代のわたしたちにとってはボイル・シャルルの法則でおなじみかもしれませんが、ボイルの人となりについて詳しく知っている人はほとんどいないでしょう。
現代の学校では、ボイルの研究の成果だけを切り取って味気なく丸暗記させますが、サックスは、教科書には書かれていないボイルの人柄や生きざまのほうに強く惹かれました。
ニュートンより20歳近く年かさのボイルは、錬金術がまだ主流だった時代に生まれ、彼自身、科学的な考えや手法を採り入れながら、錬金術の考えや手法も捨てていなかった。
じっさい、金を作れると信じていて、自分が本当に作れたとも思い込んでいた(ニュートンも錬金術師だったが、ボイルにそのことは内緒にしておいたほうがいいと忠告したらしい)。
ボイルは尽きせぬ好奇心(アインシュタインの言う「聖なる好奇心」)をもった人だった。
というのも、自然界の驚異はすべて神の栄光を称えるものと考えていたからで、それがさまざまな現象を調べる動機になっていた。(p153)
ボイルは、まだ錬金術の名残りが強く残っていた17世紀の化学に、科学的手法を取り入れた先進的な化学者の一人でした。サックスは、ボイルの著作を読んで、その書き方に感銘を受けたといいます。
そうしたさまざまな研究の成果を、ボイルはきわめて単純明快な言葉で記した。錬金術師たちが謎めいた不可解な言葉を使っていたのとは、大違いだった。
ボイルの文章はだれにでも読めたし、彼の実験はだれにでも再現できた。
ボイルは、錬金術の閉鎖性、秘密性ではなく、科学の公開性を象徴していたのである。(p154)
ロバート・ボイルは、神秘的で不可解だった化学実験の世界を、わかりやすい日常的な言葉に言い換えて、だれでも親しめるようにしてくれた化学者でした。独りよがりで偉ぶった学者ではなく、ごく普通の一般の人たちにも配慮ができる聡明な人でした。
サックスはのちに、医学や脳科学のエピーソードを、だれでも読めるわかりやすいエッセイとして世に送り出す作家になりましたが、きっとボイルの手本を強く意識していたのでしょう。彼はボイルに抱いていた思いをこうつづっています。
私は彼を、ひとりの人間として、自分が好きになれそうな人間として、頭に思い描くことができた―ふたりのあいだに三世紀もの隔たりがあるにもかかわらず。(p157)
サックスはまたマイケル・ファラデーについても、化学実験の内容を「専門的でない自然な言語で表現」したと述べています。わかりやすい書き方をする化学者たちの手本を意識していたことがうかがえます。(p246)
サックスが次に情熱的に語りはじめるのは、アントワーヌ・ラヴォアジエの物語です。わたしたちにとっては、「質量保存の法則」で有名ですが、やはり彼がどんな人だったかはほとんど知られていません。
サックスによると、ラヴォアジエは、とても広い視野をもった頭脳明晰な人で、断片的に散らばっていた事実から、全体像を推理するひらめきに長けていました。
ラヴォアジエはこんなことも記している。
自分以前の研究が「物理学と化学に革命をもたらす可能性を秘めているように見えた。
私以前にさまざまな人の得た結果が、何かを暗示していると見るべきではないかと思ったのだ。
……長い鎖を構成するあちこちの断片のように」あとはだれかが、そう、彼が、その鎖の輪を全部つなげてやればよかった。(p160)
ラヴォアジエは、持ち前の推理力と膨大な実験によって神秘的な錬金術を、理論に裏打ちされた近代的な化学へと引き上げました。ファンタジーに出てくるアイテムのような名前だった化学物質の名称を、現代使われている理論的な名前に置き換えたのも彼だそうです。
サックスもまた、断片的に散らばった医学や脳科学の広範な知識をひとつにまとめ、全体像を描き出す能力に長けていましたが、個々の「木」だけでなく「森」全体を見る大切さは、ラヴォアジエから学んだのでしょう。
こうした偉人たちの中でも、サックスが一番親近感を覚えたのは、イギリスの化学者また発明家のハンフリー・ディヴィ―だったようです。
けれども、なにより私の心をとらえたのは、ディヴィーの人となりで、シェーレのように謙虚でなく、ラヴォアジエのように几帳面でもない。
だが、少年のような活気と熱意にあふれ、見事なまでの大胆さをもち、ときには危険なほど衝動的だった(いつでもやりすぎの一歩手前だった)。
これこそ、私を最もとりこにした点なのだ。(p187)
少年のような発想力と、無鉄砲とさえ思える行動力をあわせもったディヴィーは、サックスの生来の性格、好奇心豊かで、ときに「やりすぎる」ところとよく似ていました。(p206)
ディヴィーは、電気分解を発見し、ナトリウムやカリウムを見つけたやり手の化学者でしたが、公開化学実験で聴衆の関心をわしづかみにするエンターテイナーでもあり、何よりその本質は詩人でした。(p183)
ディヴィーは詩人のサミュエル・テイラー・コールリッジと親しく、共に熱烈に共感して、共同で化学の研究所を作ろうとしていたほどでした。コールリッジは著書「友人」で、ディヴィーについてこう語っているそうです。
シェイクスピアのような人間のなかに、深遠で鋭い思考の創造力によって詩に理想化された自然を見つけられるとしたら、ディヴィーのような人間の思索的な観察によって……いわば自然のなかに実体化した詩を見つけることもできる。
さよう、自然そのものが、詩人として、なおかつ詩として、……その姿を現すのである!(p191)
オリヴァー・サックスもまた、医師であり科学者でしたが、その本質は芸術的感性にあふれた作家だった、とわたしは思います。
サックスはもともと音楽の才能があり、13歳のとき、ホテルの広間でリサイタルをしたほどでした。(p385)
その後も、音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) をはじめ、芸術に関わる脳科学のエッセイをたくさん書いています。
作家オリヴァー・サックスの文章は、どんなテーマで書かれていても、決して学術論文のような無機質な言葉ではなく、彩り豊かな生きた言葉でつむがれているので、読者を決して退屈させません。
少年時代のサックスは、化学の歴史をさかのぼって、自分とよく似ている、友だちになれそうな先人たちを大勢見つけましたが、興味深いことに、自分とはまったく異なる ある化学者についても知りました。
それは18世紀のイギリスの化学者ヘンリー・キャヴェンディッシュでした。
キャウェンデッシュは、精密なデータを取って考証する、現在の科学の先駆けとも言える人物で、1797年には地球の密度を測るために、時代をはるかに先取りした巧妙な実験を試みています。
その実験ではじき出された数値は、その時代としては恐ろしく精密で、ニュートンの万有引力定数や、アインシュタインの相対性理論などが発展していく土台を据えました。
一方で、キャウェンデッシュは、相当な変わり者としても知られていて、少年時代のサックスは彼の生き方を知って戸惑いを覚えたといいます。
それと同じくらい驚かされ、存命中からすでに伝説になっていたのは、ほとんど人付き合いをせず(めったに人と話さず、使用人にもメモで会話させた)、富や名声に無関心で(とはいえ公爵の孫にあたり、人生の大半はイギリスでもとりわけ裕福な人間だった)、純真無垢であらゆる人間関係が理解できないことだった。
キャヴェンディッシュについてさらに多くのことを知ると、私は深く関心する一方で、大きな戸惑いも覚えた。(p188)
のちに、サックスは、子どものころ当惑させられたキャウェンデッシュの人となりがアスペルガー症候群の特徴そのものだと氣づきました。
何年もあとにウィルソンの著わした素晴らしい伝記を読み返したとき、私はキャヴェンディッシュが(臨床的に見て)何に「罹っていた」のだろうと考えた。
ニュートンの偏屈さ―嫉妬深く、疑い深く、敵愾心やライバル意識が強い―は、重度の神経症を示唆していたが、キャヴェンディッシュの無垢で人と交われないところは、むしろ自閉症すなわちアスペルガー症候群をほのめかしていた。
ウィルソンの伝記は、稀有なる自閉症の天才の人生と心の状態について、現在手に入るかぎり最も詳細に語られたものではないかと思う。(p190)
サックスははじめこそ戸惑いを覚えましたが、やがてアスペルガーの文化のよき理解者となり、 火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)でテンプル・グランディンの素顔を世に知らしめるなど、自閉症の概念を「障害」から「個性」へと変化させることに一役買うことになりました。
サックスが序文を寄せている、自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)では、読者をアスペルガーの文化へといざなう入り口として、ヘンリー・キャウェンデッシュの風変わりな人となりや並外れた業績がたいへん詳しく紹介されています。
「メンデレーエフの花園」
サックスは、化学実験を楽しむなか、ひとつひとつの元素に親しみ、原子番号や原子量はもちろん、化学的な性質も事細かに記憶して、それぞれの特徴を味わい深く表現しています。
だからこそ、ドミトリー・メンデレーエフが発見した、あの「周期表」を知ったときには、言い知れぬ感動を覚えました。
このときどの元素も、真上の元素の性質を反映し、真上の元素と同じ仲間でありながら少しばかり重さが増していた。
各周期には、いわば同じメロディーが流れていた。出だしはアルカリ金属、次がアルカリ土類金属、そのあとも六種類の元素の族が続いて、どれもそれぞれの族の原子価すなわち音色を奏でていたのだ。
ただ、音域は周期によって違っていた(ここでオクターブや音階を思い浮かべずにはいられなかった。
というのも、私は音楽好きの家で育ち、音階は周期性のあるものとして毎日耳にしていたからだ)。(p275)
サックスは科学博物館の壁に書かれた巨大な周期表を見に行っては、時間が経つのも忘れて没頭し、あれこれと想像を巡らせていたようです。
この表を目にし「理解した」ことで、私の人生は変わった。
私は足繁く博物館へ通い、表をノートに書き写して、どこへでも持ち歩いた。やがて―見かけも概念も―すっかり頭にたたきこんでしまい、脳裏に表を思い浮かべ、どの方向へもたどれるようになった。
ある族を上へのぼり、ある周期で右に折れて、どこかで止まり、ひとつ下に降りるといった具合にたどっても、いつでもどこにいるのかがわかった。
周期表はまるで庭のようで、子どものころ夢中になった「数の花園」を彷彿とさせた。けれども数の花園と違い、それは実在し、世界を読み解く鍵になっていた。
私は陶然としながら、何時間もこの素敵なメンデレーエフの花園をさまよい、いろいろなものを見つけ出した。(p281)
現代の少年少女にとって、周期表は、化学の授業で暗記しなければならない厄介な表のひとつにすぎないかもしれません。けれども、サックスにとっては全く異なるもの、恍惚とするような美しい場所、「メンデレーエフの花園」でした。
周期表を発見したメンデレーエフは、化学者であると同時に作曲家であり、幅広い知識をつなぎ合わせることに長け、死ぬまで思考の柔軟性を保った、サックス好みの化学者でした。(p281,381)
サックスの著書でいつも、興味深い脚注がたくさん載せられているのは、メンデレーエフの作風の影響を受けているそうです。(p297)
サックスにとって、メンデレーエフが発見した周期表は何物にも代えがたいほど特別なものだったので、周期表への手厳しい批判を読んだときにはショックを受け、自分ですべての元素と何百もの化合物を測定して法則性を確かめたほどでした。(p289)
サックスが周期表から受けたインパクトがどれほど大きかったかは、彼が抱いていた価値観が揺り動かされたことからもわかります。
すでに見たとおり、サックスは疎開体験を通して絶望し、神など存在しないという無神論に傾きました。けれども、周期表が示す「自然の奥深くに存在する秩序」について知ったあとにはこう書いています。(p278)
これを知って初めて、私は人間の頭脳がとんでもない能力を秘めていることに気づき、自然の奥深くに潜む秘密を暴き、神の心を読むためにそんな能力が備わっているのではないかと思った。(p279)
その後の人生でサックスは、特定の宗教に所属することはありませんでしたが、原子にみられる信じられないほど精緻な構造について「素晴らしく美しく、論理的で、単純で、合理的な神のそろばんのなせるわざだった」と表現しするなど、個人的な信仰心は幾らか持っていたようです。(p431)
興味深いことに、この本でサックスが挙げている化学者の多く、たとえばボイルやファラデー、ニュートン、プリーストリー、ダーウィンなどは、当時の大多数の人が信奉していた制度宗教の教義には迎合しませんでしたが、みなそれぞれ何かしらの個人的な信仰心を持っていました。
それは、きっと、子どものような好奇心から自然界を探求するときに感じる、あの純粋な感動や畏敬の気持ちの現れなのでしょう。
サックスにとって、「メンデレーエフの花園」は、戦争で凍りついた心を溶かし、そうした純粋な感性を呼び覚ましてくれる驚きと喜びに満ちた世界でした。
ここまで化学に魅入られた少年時代のサックスについて知ると、彼は当然、化学者への道を志してしかるべきと感じます。彼自身、自分は化学者になるものと思っていました。
けれどもわたしたちが知るオリヴァー・サックスは、化学の道に進むでもなく、実験を本職とするでもなく、医学のエッセイを書く作家になりました。いったい何があったのでしょうか。
「楽しい魔法の国から追い出されてしまった」
サックスがメンデレーエフの周期表について知った当時、まだ周期表は完璧ではありませんでした。メンデレーエフはいくつかの未発見の元素を詳細に予言していましたが、実際にその存在が確認されるにはさらなる科学の進歩を待つ必要がありました。
サックスは幸運にも、リアルタイムでその進歩を見守ることができました。
この本の残りの部分では、キュリー夫妻がラジウムを発見したエピソード、アーネスト・ラザフォードによる放射線や原子崩壊の発見、ニールス・ボーアによる原子の構造の解明などをリアルタイムで見聞きした興奮がつづられています。
ボーアが原子の構造を解明したことで、サックスは子どものころから不思議でたまらなかった疑問の答えを見つけます。自分が愛してやまなかった一つ一つの元素の性質の違い、たとえば特有の色や金属光沢、反応性などについて、なぜそうなるかが理解できました。
また、原子崩壊と放射能の発見によって、周期表の各元素は一つ一つ独立した普遍のものではないことも知りました、元素はビッグバン以来の熱核反応によって、一番軽い水素から順により重い元素へと連鎖的に核融合して生まれてきたものだったのです。
それは言い換えると、タングステンおじさんが教えてくれた、「そのまま100万年置いといても、今とまったく同じできらきら輝いている」ような、永久不変の元素は何一つない、ということを意味していました。
サックスは壮大な発見に感動を覚えると同時に、大切な拠りどころが失われたようにも感じました。
私が化学に惚れ込んでいたわけは、ひとつには、それが何ダースかの元素にもとづく無数の化合物の変化を扱う科学で、おのおのの元素自体は永久不変のものだったからだ。
元素が安定で普遍だと意識することは、私にとって、精神的な意味でとても重要だった。不安定な世界のなかで、そこだけは微動だにしない錨のように思えたのである。
ところが今、放射能のおかげで、最も信じがたい種類の変化が明らかになった。(p408)
少年だったオリヴァー・サックスが、化学に傾倒したのは、単に実験好きの化学少年だったからではなく、精神的な拠りどころを求めてのことでした。化学の世界は、不動の「安全基地」だったからこそ、疎開体験で傷ついたサックスの心をわしづかみにしたのです。
新時代の科学はまた、サックスが親しんだ人間味あふれる化学の物語とは似て非なるもののように思えました。
宇宙の形式的・理論的な美しさには、ときに恍惚感すら覚えた。
ところが今、ほかのさまざまな関心がわきだすとともに、反対に科学に虚しさや味気なさも感じるようになっていた。
もはや科学の美しさや科学の愛情だけでは満足しきれず、人間的・個人的なものを求めだしたのである。(p394)
サックスが好きだったのは、ディヴィーが公開実験で披露したような、色とりどりの化学物質を混ぜ合わせ、色や匂いを肌で感じられる化学でした。
しかし近代科学は、キャヴェンディッシュのようなデータと測定に基づく学問へと発展し、もはや一人の化学者の手には負えなくなりました。好奇心にあふれた個人が実験室にこもって研究できる時代は終わったのです。
そしてもう一つ、サックスが化学の道へ進まなかったことには、決定的な理由がありました。
サックスはこの本の全体を通して、400ページあまりを割いて、少年時代の化学の思い出を、ひたすら魅惑的に情熱的に語ってきました。ところが、最後の章で、わずか10ページのあいだに語られる結末は衝撃的です。
かつて私は科学図書館で、時が経つのも忘れて、何時間も夢見ごこちで過ごしていた。
「力線」や、軌道をめぐる電子の振る舞いが、目に見えるように思っていたときもあった。
しかしもう、そんな幻覚を見るような力は失われていた。
現実的で目的をはっきり見据えている、と当時の私の通知表に書いてある。
確かにそんな印象を与えていたのかもしれない。けれども、私自身はまったく違う印象を抱いていた。
内なる世界が滅び、私から奪われてしまったと思っていたのだ。(p444)
サックスが化学に対して抱いていた思いは、ちまたの化学少年や化学少女とは一線を画する特別なものでした。
化学はサックスにとってただの学問ではありませんでした。陶酔して歩き回った「メンデレーエフの花園」をはじめ、化学は「内なる世界」、すなわち少年オリヴァーだけが入ることを許された別世界だったのです。
サックスはその別世界の風景を、「目に見えるように思って」いたほどで、「幻覚を見る力」を感じていました。
サックスは、当時の不可思議な心境の変化を、H・G・ウェルズの小説の「塀のなかの扉」(邦訳:塀についたドア)のエピソードにたとえています。
私はよく、ウェルズが書いた「塀のなかの扉」についての話を思い出した。
その扉をくぐって魔法の庭に入ることのできた少年が、やがて大人になってそこへ入れなくなってしまうという話だ。
当初彼は、日々の忙しさと世間での成功によって、自分が何かを失ったことに気づいていなかった。
しかしそのうちに喪失感が募り、彼を蝕み、ついには破滅させてしまう。
ボイルは自分の実験室を「天国」と呼び、ヘルツは物理学が「魅惑的なおとぎの国」だと言った。
私はこの天国から締め出されたように思った。
おとぎの国の扉はもう私に対して閉ざされ、自分は数の花園やメンデレーエフの花園といった、子どものころ入れたあの楽しい魔法の国から追い出されてしまったのだ、と。(p445)
少年オリヴァー・サックスにとって、化学は「魔法の庭」であり、現実とは異なるもう一つの「おとぎの国」だったのです。そこは子どもだけにしか見えない「塀のなかの扉」の向こうに広がる、「天国」のような別世界でした。
大人の階段をのぼり、子ども時代を卒業しようとしていたサックスには、もはや「塀のなかの扉」が見えなくなってきていました。
彼は化学に飽きたり、幻滅したりしたせいで化学の道に進まなかったわけではありませんでした。
「子どものころ入れたあの楽しい魔法の国から追い出されてしまった」のです。
「どれも大切な幼なじみだ」
子どものときにだけ姿が見えて、声も聞こえる、けれども大人になると見えなくなる。
子どものときだけ入ることのできる魔法の国から、大人になると追い出されてしまう。
まさか化学をテーマとした自伝の最後に、こんなファンタジックな結末が書かれていようとは思いませんでしたが、この本を振り返ってみれば、決して意外ではないことに気づきます。
サックスは疎開体験を通して、愛着が不安定になり、精神的な拠りどころを失いました。
セント・ローレンスで暮らした時期の記憶はほとんど記憶がなく、現実と空想の境目がわからなくなるほど強い解離状態にありました。
疎開から帰ってきたサックスは、他の子どもたちと同じように魅惑的な化学実験に興味を持ち、ごく普通の日常生活を取り戻したかに思えたかもしれませんが、そうではありませんでした。
化学はサックスにとって、居場所がない現実から逃れるために、現実と空想のはざまにこしらえた自分だけの避難場所だったのです。
この本を読んでいて、とても不思議だったのは、サックスが化学の世界を、あまりに生き生きと描き「すぎて」いることです。化学をテーマとしているのに、まったく堅苦しい印象はなく、普段サックスが書いているエッセイに登場する人々の物語と変わりません。
どうして、無機質な化学について書いているはずなのに、まるで人々の物語を書くかのように生き生きと描写できるのか。単にサックスの文才が優れているからでしょうか。
いいえ、答えは簡単でした。
65歳になったサックスは、この本のあとがきの中で、50年経った今でも、こんな夢を見ると記しています。
けれどもなにより好きな夢は、オペラを見に行く夢だ。
私はハフニウムで、メトロポリタン歌劇場でほかに重たい遷移金属たちと一緒にボックス席に座る。
タンタル、オスミウム、イリジウム、白金、金、そしてタングステン―どれも大切な幼なじみだ。(p454)
サックスにとって、化学の元素の数々は「どれも大切な幼なじみ」だったのです!
なまじ化学というテーマを取っているがために、最後の最後まで読まないと気づきませんが、この本は、とても特殊なかたちをとった、子ども時代のイマジナリーフレンドと空想世界にまつわる回想録だったのです。
サックスが、いつもの脳科学のエッセイで一人ひとりの患者について書くときとまったく同じように、化学の各元素のエピソードを個性豊かに描けたのは、巧みな文才によるものではありません。
少年時代の彼にとって、タンタルやオスミウムやタングステンは、現実の人間と変わらないような友だちだったから、彼は慣れ親んだ「大切な幼なじみ」についてありのままに書いていただけなのです。
興味深いことに、この本によれば、サックスの初恋の相手は、ヘリウム気球だったそうです。(p167)
無機質な元素のようなものを友だちにしてしまうのは奇妙なことだと思えるかもしれません。しかし、研究によれば、空想の友だちを持つ子どもは、生き物ではないものに生き物らしさを感じ、ただの図形のランダムな動きをさえ擬人化してしまうとのことでした。
また、繊細で感受性の強いHSPの子どもは、人間以外の動物や無生物にさえ感情移入してしまう傾向があります。サックスが元素という無生物をイマジナリーフレンドにしたとしても何ら不思議はありません。
サックスは晩年、亡くなる直前に書いたサックス先生、最後の言葉の中で、自分が化学に傾倒した理由をこう説明しています。
私は幼いころから、自分にとって大切な人を失う喪失感に対処するのに、人間でないものに注意を向ける傾向がある。
六歳のとき、第2次世界大戦が始まって、寄宿学校に疎開させられたときには、数字が友だちになった。
10歳でロンドンにもどったときには、元素と周期表が仲間になった。(p38)
サックスにとって、数字や元素や周期表は友だち(フレンド)であり仲間(コンパニオン)でした。現実の人間に対する信頼を失ってしまった少年オリヴァーにとって、元素は決して裏切らない友だちになりました。
以前の記事で触れたように、不幸な生い立ちのために施設で育った子どもたちは、普通の一般家庭で育った子どもたちに比べ、助け手や守り手、ときには神のような役割を持つイマジナリーコンパニオンを持つ傾向があると言われていました。
それはつまり、親や神のような存在を本当に必要としているのに、その助けが得られず、信頼を打ち砕かれてしまうような経験をしたせいで、自分の心の中に、絶対に信頼できる頼れる存在を自分で創り出すしかなかった、ということを意味しているのでしょう。
サックスの場合はどうだったでしょうか。両親や神に裏切られたと感じられた少年サックスが拠りどころにしたのは、不動の性質を持つタングステンとその仲間の元素たちではなかったでしょうか。
セント・ローレンスで究極の孤独を感じたサックスを守り、支え、励ますために、タングステンをはじめとする元素たちがイマジナリーフレンドになったのなら、わたしたちにとっては頭が痛くなる難解な表なすぎない周期表に、サックスがあれほど魅入られたのも当然です。
周期表に書かれていたひとつひとつの元素の名前は、ただの無機質な記号ではなく、すべて「大切な幼なじみ」の名前だったのです。
言ってみれば、サックスにとって周期表とは、共に励まし合って少年時代を乗り越えてきた幼なじみたちが一堂に会して整列している集合写真のようなものだったのです。
少年サックスの目には、周期表は、ただの薄っぺらい表ではなく、大切なイマジナリーフレンドたちが暮らすひとつの空想世界に見えました。
だからこそ周期表は「庭」であり、「花園」であり、サックスはいつまでもいつまでも、周期表の中をわくわくしながら歩き回ることができました。
現代でも、解離傾向の強い子どもは、自分の好きなアニメや小説のキャラクターや世界観を採り入れて、自分の居場所を作ることがあります。
アニメの登場人物が、いつのまにか空想の友だちとなって独り歩きしはじめ、自分独自のファンタジックな別世界と現実を行き来するようになります。
そうした空想の友だちは、文字通り声が聴こえ、姿が見えることもあり、子ども時代に迷い込んだ空想世界のイメージは、大人になってから作家の創造力として開花することもあります。
ちなみに、わたしはというと、時代がら、とあるゲームの世界観に影響されたらしいファンタジー世界に没頭していました。その異世界は、間違いなく現実と地続きになっていたので、いまだに、どこからどこまでが現実の思い出なのか区別がつきません。
「生涯をとおして…帰ることになった」
元素というイマジナリーフレンドに支えられ、周期表という空想世界を歩き回った少年オリヴァー・サックスの物語は、子どもが創り上げる空想の友だちの信じられないほどの多様性を目の当たりにさせてくれます。
そして、想像力に富んだ子どもが、どれほど豊かな創造性を発揮して、逆境を乗り越えていくかをまざまざと見せつけてくれます。
この本は、少年サックスと化学の世界の突然の別れで幕を下ろします。化学少年の回想録として読むと極めて意外に思える結末ですが、イマジナリーフレンドについての本だと考えれば、ごく自然な結末です。
子どもの空想の友だちを描いた物語は、となりのトトロであれ、E.T.であれ、あるいはこのブログで紹介した、ぼくが消えないうちにであれ、最後は成長に伴う別れが待ち受けるものだからです。イマジナリーフレンドは、子どものときにだけ訪れる不思議な出会いなのですから。
子ども時代の空想の友だちは、大人になるにつれ、いつのまにか姿を消していくものです。
子どもの半数近くが、何かしらのかたちでイマジナリーフレンドを持つと言われていますが、ほとんどの人は、子ども時代にイマジナリーフレンドを持っていたことをすっかり忘れ去っています。
それでも、ふとしたはずみで子どものころの空想の友だちを思い出すことがあります。たとえばぼくが消えないうちにの主人公アマンダのお母さんは、物語の中で、懐かしい匂いに誘われて忘れていた記憶を思い出し、自分が子ども時代に持っていたイマジナリーフレンドと再会します。
サックスも、この本を書く前、子ども時代の経験のほとんどを忘れていました。けれども、小包に入っていたタングステンの棒が落ちて響かせた音をきっかけに、忘れていた子ども時代の魔法の国での記憶がよみがえってきたのでした。
子ども時代の空想の友だちは、やがていなくなるとはいっても、存在が消えてしまうわけではないようです。ときどき夢の中に現れたり、強いストレスを感じる時期に再度現れたりすることがあるかもしれません。
空想の友だちは、解離という防衛機制の働きの一種であり、解離はストレスから脳を保護するために備わった能力だからです。
サックスの場合はどうだったのでしょうか。
サックスは先ほど引用した サックス先生、最後の言葉の中で、数字や元素や周期表が友だちになったと述べたあと、こう続けていました。
生涯をとおして、ストレスを感じるときは、物理科学の世界に向かう、というか、帰ることになった。
そこは、生命はないが死もない世界である。(p38-39)
サックスは、70代になって眼内メラノーマを患い、片目を失いました。そのころ彼は、幻覚についてのエッセイ集見てしまう人びと:幻覚の脳科学を書き、子どもが持つ空想の友だちの幻覚の事例も含めています。
80歳を迎える直前には、懐かしい昔なじみが登場する夢を見たことが、サックス先生、最後の言葉のエッセイに書かれています。
昨晩、水銀の夢を見た―きらきらした巨大な球が浮かんだり沈んだりしている。
水銀は原子番号80、その夢は火曜日に自分が80歳になることの象徴だった。
子どものころ原子番号について習ったとき以来、私にとって元素と誕生日は結びついている。
11歳のとき、「ぼくはナトリウム」(原子番号11)と言えたし、79歳のいまは金である。(p17)
夢に登場したのは、少年時代のサックスを怖がらせた原子番号80の水銀でした。もっとも今や水銀はサックスを怖がらせる魔物ではなく、昔なじみの顔ぶれの一人になっていました。
81歳になったとき、サックスはまだ1日に1キロ半泳げるほどの体力がありましたが、肝臓に複数の転移ガンが見つかり、辛い闘病生活に入りました。
82歳を迎えるころには、食欲が低下し、疲労感も強くなり、やがてガンが他の場所にも広がっていることを知らされました。
生涯が終わりに近づき、サックスが死と向き合いはじめたとき、彼のそばにいて励まし続けたのはだれだったのでしょうか。
サックスは亡くなるまで結婚はせず、子どももいませんでした。親しい友人は大勢いて、最後まで交流を欠かしませんでしたが、サックスを一番そばで見守っていたのは意外な“人物”でした。
書きもの用テーブルの上には、鉛の円陣の隣にビスマスの世界がある。…ビスマスは原子番号83だ。
私が83歳の誕生日を迎えることはないと思うが、近くに83を置いておくと、希望が持てるし、励まされる気がする。
しかも私はビスマスに弱い。地味な灰色の金属で、金属愛好家にさえも注目されず、無視されることが多い。
不当にあつかわれたり、社会の隅に追いやられたりしている人たちに対する医師としての気持が、無生物の世界にもおよんでいて、ビスマスに対して似たような思いを抱いている。(p42-43)
亡くなる直前の最後の日々、サックスのそばにはビスマスがいました。サックスはビスマスを文字通りの友だちのように愛おしく感じていました。ビスマスがそばにいると、「希望が持てるし、励まされる気が」しました。
化学をこよなく愛した少年オリヴァー・サックスが、最後の月日を共にしたのはあの「大切な幼なじみ」たちでした。70年来の付き合いになる、かけがえのない友人たちです。
そしてついに、翌月、2015年8月30日、オリヴァー・サックスは波乱に満ちた充実した人生を終え、82歳で旅立ちました。
少年時代に苦楽を共にし、手を取り合って逆境を乗り越えてきた、大切な幼なじみたちのもとへと。「生命はないが死もない世界」へ帰ったのでした。