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脳はどこから「もうひとつの世界」を創るのか―創造的な作家たちの内なる他者を探る

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「もうひとつの世界に暮らす人の日記のように、小説を書いています」

…「私にとって、小説の登場人物はイマジナリーフレンド(空想上の友人)のようなもので、彼らと一緒に生きている感覚があります」

れは、先日ふと見つけたインタビュー記事、SUNDAY LIBRARY:著者インタビュー 雪舟えま 『パラダイスィー8』 - 毎日新聞に載せられていた、作家 雪舟えまさんの言葉です。

以前このブログでは、子ども時代のありありとした空想の友だち(イマジナリーフレンド)や、それを取り巻く空想の世界が、小説家や画家など、作家の創造性に影響しているらしい、という研究を紹介しました。

小説家の約5割はイマジナリーフレンドを覚えている―文学的創造性と空想世界のつながり
フィクションやファンタジーをを創作する小説家や劇作家の創造性には、子どものころの空想の友だち体験、イマジナリーフレンドが関わっている、という点を「哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノ

雪舟えまさんの言葉は、まさにその一例と言えますが、興味深いのは、創作世界に対する向き合い方です。

創作する人は「作者」であり また「クリエイター」とも呼ばれます。クリエーターとは、言い換えれば「創造者」であり、いわば作品世界にとっての神の立場にいますが、インタビューの言葉は、それとはまったく違った印象を与えます。

たとえば、「もうひとつの世界に暮らす人の日記」という言葉から読み取れるのは、作家は、作品世界の外側にいて すべてを見渡しコントロールできる全知全能の神のような存在ではなく、作品世界の中で登場人物たちと一緒に住んでいる一介の隣人にすぎない、という認識です。

登場人物たちは、作られた存在というより、対等の友人であり、「彼らと一緒に生きている感覚」がある、と述べられています。あたかも登場人物たち一人ひとりが、自由意志を持って生きているかのようです。

じつは、こんなふうに感じている作家は、小説家のみならず、詩人や画家、はては科学者にいたるまで、クリエイティブな分野には大勢いて、古今東西、決して少なくないようです。

想像力豊かな作家が、作品世界やその登場人物を、自分で生み出した被造物というよりは、どこか別の次元にある「もうひとつの世界」であるかのように感じてしまうのはなぜでしょうか。

創造的な作家たちが感じる、ありありとした「内なる他者」の聴覚的イメージ、また「別世界」のような視覚的イメージはどこから来るのでしょうか。

 

「彼らの言動を書きとめているにすぎない」

冒頭で引用したように、想像力豊かな作家の中には、自分は作品世界の作り手ではなく、観察者であるかのように感じている人が大勢います。

創作しない人からすれば、これは意外に思えるかもしれません。作家は自分の意のままに作品を創り出し、好みのままにストーリーを紡いでいるのではないのでしょうか。

けれどもインタビューに出ていた雪舟えまさんは、こんな言い方をしています。

小説は世界まるごとを描くことができるのがいいと思います。どこかに保存されている物語をダウンロードするようにして書いています。

頭で書くとどこかつくりごとになってしまいますが、上から降りてきたものを自分というパイプを通すようにして書くと、自分でも驚くような小説ができるんです

「頭で書く」のではなく、「どこかに保存されている物語をダウンロードするようにして」書いている。

これは言い換えれば、自分であれこれ頭をひねって創作しているというよりは、どこからともなくやってきたアイデアを受け取って、それを形にしているという感覚があるということでしょう。

こうした感じ方は、珍しいものでも新しいものでもなく、古くから作家たちのあいだで言い習わされているものです。

たとえば、書きたがる脳 言語と創造性の科学にはこんなエピソードが書かれていました。

詩神にインスピレーションを与えられる経験は文学畑だけのものではない。

画家のアンリ・マチスは、大訴人書記の仕事を休まなければならなくなって、趣味として絵を描き始めたときのことを次のように記している。

「わたしは絵を描くことにとり憑かれて、やめられなくなった。描き始めると、自分が天国に移されたように感じた……何かがわたしを駆り立てていた。

それがどんな力だかわからないが、ふつうの暮らしにはない別世界の何かだった」

モーツァルトは交響曲を聴いて採譜しているような勢いで作曲したと伝えられる。

また詩神という考え方は西欧だけのものではない。

インドの天才数学者シュリーニヴァーサ・ラマヌジャンは、自分の等式は女神ナマギーリがささやいてくれたものだと言った。(p307)

ここに登場するのは、小説家や詩人だけでなく、画家、作曲家、数学者など多岐にわたる分野の作家たちです。

彼らはみな、自分から進んで作品を創作しているというよりは、「詩神」(ミューズ)かにらインスピレーションを与えられて、アイデアを受け取って、それを形にしているにすぎない、という共通認識を持っていました。

馴染み深いところで言えば、日本でも「マンガの神様が降りてくる」といった表現があります。漫画家は自分から自由に物語を紡げるわけではなく、アイデアがどこからか降りてこないと筆が進みません。

それどころか、小説家や漫画家は、自分の作品の登場人物の言動を、自分で好き勝手にコントロールしたりはできない、と感じている人が大勢います。 

前にも紹介しましたが、子ども時代のイマジナリーフレンドと、小説家の登場人物の類似性について述べた、哲学する赤ちゃん (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)には、次のように書かれていました。

テイラーは、文学賞を受けた作家から熱心なアマチュアまで、小説家を自認する50人について調査を行いました。

するとほぼ全員が、作品の登場人物の自律性を認めていました。ヘンリー・ジェイムズや空想の友だちを生み出す子どもとそっくりではないでしょうか。

通りを歩けば登場人物が後ろからついてくる気がする。作中の役割について議論を交わすことがある。

自分は彼らの言動を書きとめているにすぎないと感じることがよくある。そんなふうに彼らは答えています。(p93)

なんと小説家のほぼ全員が、「作品の登場人物の自律性を認めて」いた、言い換えれば、冒頭のインタビューにあったように「彼らと一緒に生きている感覚」があり、登場人物一人ひとりが自由意思を持って生きている実在の人間のように感じられていたのです。

そして、作家たちはやはり「自分は彼らの言動を書きとめているにすぎないと感じ」ていました。雪舟えまさんが創作は「もうひとつの世界に暮らす人の日記」だと述べていたのとまったく同じです。

もちろん、これは、作家たちが、ただ速記官のように降ってくるアイデアを書き留めていれば、すばらしい作品が生まれる、という意味ではありません。

小説家にしても画家にしても、構成や構図に頭を悩ませ、あれこれと試行錯誤し、推敲するものです。

有名なパブロ・ピカソは、一見すると大胆に思うままに絵筆を走らせたかのようですが、じつは悩みに悩んで、描いては消し描いては消しながら「ゲルニカ」を描いたことが分かっています。

インタビューの中で 雪舟えまさんは「頭で書くとどこかつくりごとになってしまいますが、上から降りてきたものを自分というパイプを通すようにして書く」と述べていました。

このうち「上から降りてきたもの」は、無意識のうちに湧いて出てきたアイデアのことですが、それはそのままだと作品にはならないので、「自分というパイプを通す」、つまり、うまく頭をひねって考える必要もある、ということでしょう。

無意識のうちに湧いてくるアイデアはちょうど未加工の食材のようなものです。それをうまく調理するスキルがあってこそ、見事な作品に仕上がります。作家とは、だれかがいつの間にか冷蔵庫に入れておいてくれた素材を、腕を奮って料理するコックさんのようなものです。

たとえ自分の作品の世界や登場人物を自分ではコントロールできない自律的なもののように感じているとしても、そこで起こったおもしろい不思議なことをまとめて小説にしたり、その世界の息を呑むような風景を魅力的に描いたりするには、やはり技術や推敲が必要です。

わたしたちの「内なる他者」(Stranger Within)

この無意識のうちに調達される食材と、それを意識的に調理するコックさんの関係を脳科学的に説明すると、どうやら、前者は右脳、後者は左脳の働きのようです。

よく芸術は右脳的なものだと言われますが、以前に書いたように、それは科学的には誤っているゴシップのようなものでした。

「芸術家は右脳人間」は間違い―自閉症の天才画家からわかる創造性における左脳の役割
芸術家の創造性は右脳を用いているという考えは人気がありますが、最新の脳科学では否定されています。自閉症の画家などの研究に基づき、創造性と右脳・左脳の関係について考えてみました。

書きたがる脳 言語と創造性の科学には、その点についてこう説明されています。

実験的な裏付けはそう多くないが、この[芸術は右脳という]仮説は一般の人々の想像力をかきたてるらしい―『右脳で書け!』というような本がたくさん出ている。

右脳主義者は右脳と左脳の活動の違いを、たとえばホリスティックな考え方と線形思考、黙想的な東洋の思考と権威的な西欧の思考といったほかの恣意的な二分法とごたまぜにしていることがある。(p97)

そして、芸術に必要なのは、右脳と左脳の相互作用だと書かれています。

実験では創造性には右脳の活動だけでなく左右の脳半球のバランスのとれた相互作用が必要であることが示されている。

…休んでいるときには創造的な人でもそうでない人でも左脳のほうが活発だから、創造的な思考で相対的に右脳が活発化するのは、右脳が支配的だというより、両半球のバランスをとる必要があることを反映しているのかもしれない。

…この説はまた、創造的な作家は作品を生み出してはそれを編集するという仕事を繰り返す、という標準的な文学モデルに該当する。(p97-98)

創作に必要なのは、右脳だけでなく、「左右の脳半球のバランスのとれた相互作用」です。

なぜかというと、「創造的な作家は作品を生み出してはそれを編集するという仕事を繰り返す」必要があるからです。そこには、無意識的な右脳の活動と、意識的な左脳の活動の両方が求められます。

ではどうして、右脳は無意識と、左脳は意識と関係しているのでしょうか。そこには、右脳と左脳のもっとも大きな違い、つまり、左脳には言葉を操る能力がある、ということが関係しています。

一般に、言葉を操る能力に特化しているのは左脳だと言われています。そのため、左脳は言葉を用いて考える、意識的な思考に大きな役割を果たしています。

逆に右脳は、言葉を用いて考えない活動、身体を使った感覚的な運動とか、視覚的なイメージの認識を担当していると言われています。

詳しくは以前の記事を参考にしていただければと思いますが、わたしたち人間は、左脳が発達し、言葉を身に着けて始めて自分が何者かを識別する意識が芽生えるようです。

わたしたちが生まれて間もないころ、生後数年間は、まだ左脳が未発達で、右脳だけが発達しています。そのため、乳幼児は言葉を話せませんが、同時に、その時期の記憶は後から思い出すことができません。

わたしたちの意識は、言語機能を持つ左脳あってのものであり、まだ左脳が発達していない時期の記憶は、意識からはアクセスできない場所、つまり右脳の無意識にしまいこまれるからだと言われています。

HSPの人が知っておきたい右脳の役割―無意識に影響している愛着,解離,失われた記憶
HSPの子は右脳が活発、という知見にもとづき、右脳と左脳の役割や二つの記憶システム、愛着、解離など、HSPの人が知っておくと役立つ話題をまとめました。

そのようなわけで、言葉を使って意識的に考える活動は左脳的なものであり、対照的に、言葉を用いず無意識のうちにどこからともなく生じる活動、たとえば天から降ってくるアイデアとか、自動的にやってしまう癖や習慣などは、右脳的なものだと考えられています。

精神科医の岡野憲一郎先生によると、近年、こうした研究が進んだのは、アメリカのアラン・ショア博士による功績が大きいとされています。ショア博士は、このブログのテーマのひとつである愛着や解離について先進的な研究をしてきました。

岡野憲一郎のブログ Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: 第10章 右脳は無意識なのか? (1)

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アラン・ショア博士は、The Right Brain and the Unconscious: Discovering The Stranger Within(右脳と無意識―内なる他者を発見する)という本を書いていますが、タイトルが示しているように、右脳の無意識というのは、たとえるなら「Stranger Within」(内なる他人)のようなものなのだそうです。

作品の登場人物は「空想上の友人」のようだとか、作品世界は「もうひとつの別の世界」のようだ、という表現は、つまるところ、それらは作者とは別の意思を持って生きている「Stranger Within」(内なる他人)だ、という意味でしょう。

それは、脳科学的にいえば、意識的な自己である左脳と、無意識の「内なる他人」である右脳との交流だと言えます。だからこそ、創作は、右脳か左脳どちらか片方だけで完成するわけではありません。

正確を期しておくと、ここでいう左脳と右脳は複雑な相互作用をもっているので、左脳は自分、右脳は内なる他者とばっさり分けられるわけではありません。岡野憲一郎先生も「右脳≒無意識」という書き方をしています。

また、以前にも触れたように、言語中枢が左脳にあるのは、右利きの人の99%、左利きの人の70%ほどだそうです。それ以外の人は、右脳または両方の脳に言語中枢があることがわかっています。

左脳と右脳の役割はもともとそう決まっているわけではなくて、成長していく中で、どちらかが特定の役割に特化していくようです。それで一部の左利きの人のように、右脳に言語中枢が発達した人の場合、ここまで書いてきた話は逆になります。

聴覚イメージと視覚イメージ

ここからは、作家が感じる「内なる他者」(Stranger Within)について、もう少し具体的に考えてみましょう。

作家が感じる内なるだれかの感覚は、おもに、二つの感覚から成り立っているのではないか、と思います。

最初のインタビューの中で雪舟えまさんは「空想上の友人」と「もうひとつの別の世界」という二つのキーワードを使っていました。

まず、創作の登場人物である「空想上の友人」のほうは、「内なる他者」そのものです。「空想上の友人」が、現実にはいないけれども、現実にいるかのようなに生き生きと感じられるのは、言葉を用いてコミュニケーションができるから、という理由が主でしょう。

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作家は、作品の登場人物を生き生きと描写するとき、どんな口調か、どんな声か、どんな話題が好きか、という聴覚的なイメージを主に膨らませます。

もちろん登場人物やキャラクターの描写には、外見という視覚的イメージもある程度必要です。けれども、自分とは違う別のだれか、という生き生きとした存在を支えるのは、間違いなく視覚イメージではなく聴覚イメージのほうです。

たとえば、ネット上で用いるアバターについて考えてみてください。アバターには、視覚的なイメージが存在していますが、自由に言葉を話したりはしないので、別のだれかではなく、自分の分身として認識できます。

これを利用したのがゲームの主人公です。ドラゴンクエストの歴代主人公は「はい/いいえ」以外にしゃべりませんし、ゼルダの伝説のリンクや、マリオブラザーズのマリオも、具体的なテキストで会話したり、映画のようにムービーでしゃべることはほとんどありません。

彼らは言葉を話さず、ただ視覚的イメージだけの存在だからこそ、プレイヤーは自分を投影し、冒険の主人公になったように感情移入することができます。

逆に言えば、空想の人物が、自分とは異なる生き生きした他者に感じられるかどうかは、視覚的な外見ではなく、言葉を使ってコミュニケーションできるかどうかにかかっているのです。

他方、創作の舞台となる「もうひとつの別の世界」についてはどうでしょうか。

生き生きした世界を表現するために一番必要なのは、見た目、つまり視覚的イメージでしょう。グラフィックが繊細で本物らしいほど、空想の世界に没入することができます。

文学作品の場合、文字通りの風景は見せられませんが、挿絵を用意したり、言葉で絵を描くかのように情景を描写し、読者のイメージを引き立てたりすることで、作品世界に没入してもらいます。

もちろん、これ以外の感覚を用いたイメージが必要ではない、というわけではありませんが、「内なる他者」の描写には生き生きとした聴覚イメージが、「内な別の世界」の描写には生き生きとした視覚イメージが大きな役割を果たしていると言ってよいと思います。

それで、ここからは、作家たちがありありとした聴覚的イメージ、および視覚的イメージを思い浮かべるときに、脳の中で何が起こっているのか、ということを考えてみたいと思います。

自我異和的な「内なる声」

まず生き生きとした「内なる他者」のイメージに関係しているのは、生き生きとした聴覚イメージでした。

わたしもそうですが、創作している人は、自分の作品に出てくる人物の声や話し方を、はっきりとイメージできることと思います。

この登場人物は、現実のあの人に外見や性格が似ているから この声優の声が合う、といった意味ではなく、現実の友だちについて思い浮かべるときのように、自然と声や話し方のイメージがわかるはずです。

おもしろいことに、見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、作家が空想の人物の生き生きとした声をイメージできる、というのは、比喩的な意味ではなく文字通りの意味だと書かれています。

ジュディス・ワイスマンは著書『二つの心―声を聞く詩人たち(Of Two Minds:Posts Who Jear Voices)』で、とくに詩人自身が述べたことから引いて、ホメロスからイエーツまで大勢が、単なる比喩的な声ではなく本当の声の幻聴によって着想を得ていることを示す強力な証拠を提示している。(p95)

作家にとって、空想の人物の声は、なんとなくおぼろげにイメージできるようなものではなく、現実に聞こえる身の回りの人の声と変わらないほどリアルです。

「単なる比喩的な声ではなく本当の声の幻聴」というと、なんだか病的に思えるかもしれませんが、幻聴というのは、統合失調症のような病気特有の症状ではなく、わたしたちが誰でも経験しているものです。

たとえば音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々に書かれている「ホワイト・クリスマス効果」という幻聴を経験したことはないでしょうか。

1960年代、研究者が「ホワイト・クリスマス効果」と呼んだものについて、結論の出ない実験が行われた。

当時世界中で知られていたビング・クロスビーの歌う〈ホワイト・クリスマス〉がかかったとき、ボリュームをゼロ近くまで下げても、あるいは実験者がその歌をかけると言いながら再生しなかったときでさえ、「聞こえた」被験者がいた。

そのように無意識に音楽を頭に浮かべる「埋め合わせ」は、最近、ダートマス大学のウィリアム・ケリーらによって生理学的に確認されている。(p57)

見てしまう人びと:幻覚の脳科学に書かれている「ベル錯覚」幻聴はどうでしょうか。

サラ・リップマンは自身のブログ(www.reallysarahsyndication.com)で、携帯電話の着信音が鳴っている気がしたり、その幻聴を感じたりするときの「ベル錯覚」幻聴を指摘している。

彼女はこれを、ドアがノックされる音や赤ん坊が泣く声が聞こえているかもしれないと考えるときの、警戒、期待、または不安の状態と関連づけている。(p95)

さらにもう一つ挙げれば、いわゆる「耳の虫(イヤーワーム)」はどうでしょうか。書きたがる脳 言語と創造性の科学にはこうあります。

ふつうの人でも あるメロディが頭にこびりついて離れないことはよくある。ドイツではこれを「耳の虫」と呼ぶ。

多くの人はほかの歌を歌ってこびりついたメロディを追い払う。わたしは神経弛緩薬を投与されていたとき、副作用で「耳の虫」が消えたので驚いた。

それで気づいたのだが、精神神経医学的に見れば、耳のこびりつく歌は幻聴と同じで、自我異和的な声が歌っているのだ。(p316)

いずれも、思い当たる節がある人は多いと思います。

これらはすべて、同じ「埋め合わせ」という理由から起こる幻聴です。

もうすぐ音が鳴るかもしれない、音楽が聞こえるかもしれない、だれかが自分を呼ぶかもしれない、あるいは、CDプレイヤーを止めてずっと聞いていたはずの音楽が聞こえなくなった。

そんな意識が働いているとき、無意識のほうがそれに答えて、鳴っていない音をあたかも鳴ったかのように錯覚させ「埋め合わせ」てしまいます。

音楽や携帯電話の着信音でこれが起こるのなら、いつもアイデアを探し求めている作家の場合、詩神(ミューズ)がささやく声が聞こえるとしても不思議ではありません。

いつも空想世界の登場人物に思いを馳せている小説家の場合も、無意識が「埋め合わせて」、実際に声が聞こえたように思うかもしれません。

詩を書く学生は書かない学生よりも「内なる声を聞く」体験が多く、これらの学生の側頭葉でも脳波に変化が起こっている。

したがって内なる声に最もかかわりの深い領域はハイパーグラフィア[文章をたくさん書く人のこと]にとって最も重要な領域であり、たぶん文学的創造性一般についてもそうなのだろう。(p322)

こうした創造的な作家や学生たちが聞く内なる声のささやきは、一種の幻聴ではあるものの、正常な域の幻聴であって病的なものではありません。

ジュリアン・ジェインズやマイケル・バーシンガーらの説によれば、詩神からの指示を受け取る体験は、正常な内なる声から完璧に自我異和的な幻聴までのスペクトルのどこかに存在しているはずだし、宗教的な体験も同じだろう。

もちろんわたしは、詩神の訪れを感じたという芸術家は単に幻聴を聞いただけだと言っているのではない。

むしろこのような現象すべてに少なくとも何らかの類似性があり、それが理解の手がかりになるだろうと考えている。(p311)

じつは「内なる声」が聞こえるほうが普通?

「ホワイト・クリスマス効果」や「イヤーワーム」について考えると、幻聴という体験は決して病気の人だけに起こるものではなく、わたしたちも多かれ少なかれ経験しているものだ、ということがわかります。

けれども、「正常な内なる声から完璧に自我異和的な幻聴までのスペクトル」がある、と書かれていたように、幻聴をどの程度感じやすいかは、人によってかなりの程度差があります。

内なるだれかの声を意識しやすい人と、全然気にしない人との違いは、今の引用文の中にあった、「自我異和的」かどうか、という点にかかっているでしょう。

これは少し難しい表現ですが、ちょっと言い方を難しくしただけで、要は自分とは異なる存在であるかのように感じる、ということです。

わたしたちはみな、勝手に音が聞こえる幻聴のようなものは多かれ少なかれ経験します。けれども、あまり創作活動と縁がない、世の中のほとんどの人たちにとっては、それが「自我異和的」だと感じられません。

イヤーワームが鳴り止まなくても、「ただの空耳だよね」、と思えてしまうので、何ら意外性はなく、アイデアの源にもならないのです

しかし、創造的な作家たちにとっては、そうした幻聴がどことなく「自我異和的」に感じられます。自分の心の声ではなく、内なる別のだれか、ないしは、超自然的なメッセージであるかのように意外に感じられるので、思いがけないアイデアにつながります。

どうしてこのような違いが生じるのか、脳神経科学者のオリヴァー・サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、こう考察しています。

幻聴の原因は、心のなかの発話を自分のものと認識できないことにある。

(あるいは、聴覚野との交差活性化から生じているために、大半の人が自分自身の考えという経験するものが「声に出される」のかもしれない)と主張する研究者もいる。

おそらく大部分の人には、ふつうはそのような内面の声が外から「聞こえる」ことがないようにする、生理的な障壁か抑制のようなものがあるのだろう。

たえず声が聞こえる人たちの場合、その障壁がどういうわけか壊されたか、十分に発達していない可能性がある。(p84)

本来、自分自身の考えは、当然、自分のものと認識されるはずですが、「内なる声」が聴こえてしまう人は、そのための抑制機能が壊れているか十分に発達してしないのではないか、とされています。

そう考えてしまうと、やはり「内なる声」が聞こえるような人は、ちょっと病的な域に足を突っ込んでいて、病気との境目にいるのではないか、と思えてしまいますが、オリヴァー・サックスはここで意見を180度転換させます。

しかし、逆のことを問うべきなのかもしれない―なぜ大半の人には声が聞こえないのか、と。

ジュリアン・ジェインズは1976年の話題作『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』のなかで、少し前まで、あらゆる人間に声が聞こえていたという仮説を立てた。

自分の脳の右半球から発せられるのに、まるで外から聞こえているように(左半球)によって知覚され、神々からの直接的なメッセージとしてとらえられたというのだ。(p85)

ものすごく突拍子もない仮説です。現代社会のほとんどの人は「内なるだれか」の声を意識しませんが、じつはそうした人たちのほうが人類史的には珍しく、古代の人たちは「内なる声」を当たり前のように聞いていた、というのです。

バカバカしい主張だと感じられるかもしれませんが、ちょっと辛抱しておつきあいください。

この仮説については、先に引用した別の本、書きたがる脳 言語と創造性の科学でもやはり引き合いに出されています。というより、こうした話題を扱った本では当然のごとく出て来るので、かなり注目を集めている説のようです。

自分の内なる声が自我異和的になる現象は、ジュリアン・ジェインズの少々風変わりだが優れた主張にあるように、古代の文学を考えるとき、さらに大きな意味をもつのかもしれない。

ジェインズはギリシャの叙事詩を基本事例として、内なる声は神が語っているのではなくて自分のなかにあると人間が気づいたのはごく最近だと言う。

こう考えると、なぜ古代の文学の主人公には、現代人を当惑させるほど、自分が行動しているという意識が欠如しているのかということも説明がつくかもしれない。

誘惑も狂乱も自殺もしばしば何の説明もなしに、あるいはアテナやゼウスにそそのかされて行われるのだ。(p317)

びっくりするような話ですが、確かに、ここに書かれているように、古代の文明の人たちは、今よりも神や精霊などの超自然的存在を身近に感じていたのではないでしょうか。

それは単に科学が進歩していなかったせいで宗教心が強かったということではなく、じつは「内なる他者」の声を日常的に聴いていて、それを神や精霊の声だと見なしていたからではないか、と彼は言います。

にわかには信じられないような話ですが、ジェインズは神経学的な裏付けも述べています。

なぜ古代の人々は内なる声を自我として認識できなかったかについて、ジェインズは神経学的な仮説を提案している。

この自我異和的な感覚は、脳がまだ発達途上で、左脳と右脳が完璧に連携して働いていなかったからではないか、と言うのである。

したがって右脳とくにウェルニッケ言語野に相当する部分からの言語的あるいは感覚的な命令が、左脳優位の言語野にとっては他者と感じられたのではないか(言語機能は左脳優位だが、右脳にも言語能力がまったくないわけではない)。(p317)

彼が言うには、古代の文明の人たちは、左脳と右脳が完璧に連携して働いていなかったせいで、無意識の右脳から生じる「内なる他者」の声が、意識的な左脳にとっては、「自我異和的」なものに感じられていたのではないか、とされています。

ここで、すでに考えた、創作の原理を思い出してみましょう。アラン・ショア博士によれば、わたしたちの脳のうち、意識をつかさどっているのは左脳で、無意識をつかさどっているのは右脳でした。

そして、創作というのは、左脳と右脳がバランスよく仕事をする、共同作業でした。無意識の右脳が食材をどこからともなく仕入れてきて、意識的な左脳でそれを美味しい料理に調理するのが創造的な作家たちの秘訣でした。

そして、このジェインズの説によると、「内なる声」を聞く人は、左脳と右脳が「完璧に連携して働いていな」いとされています。

これは左脳と右脳が共同作業をしていないという意味ではなくて、それぞれが別々の役割を果たしているということです。二つの脳が一人に統合されているのではなく、それぞれが独立して働いているといえます。

そうすると、創造的な作家たちと、創作に縁のない平凡な人たちとの違いは、作家たちは右脳と左脳を独立させて働かせることができるのに対し、平凡な人たちはそうした使い分けができていないのではないか、ということになります。

作家たちは左右の脳を使い分けられ、あたかも一人の人の中に二つの心があるように「内なる声」を聞くことが多いのに対し、平凡な人たちは左右の脳をうまく使い分けられないから「内なる声」に気づけないのでしょうか。

もしそうなら、創造的な作家たちは、病気との境目にいるどころか、神や精霊が身近だった過去の時代の人たちに近い、人類本来の機能を残している、ということになるでしょう。

興味深いことに、以前考えたことによると、さまざまな神話や宗教は、まだ「内なる声」を聞いていた時代の人たちが体験した、空想上の友人(イマジナリーフレンド)体験などに端を発しているのかもしれません。

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学校教育が創造性を殺すと言われる理由

それでは、左右の脳を交互に使い分けられるような創造的な人たちと、うまく切り替えができない平凡な人たちの違いはどこから生じるのでしょうか。

わたしたちの脳は、左脳と右脳にわかれていますが、その二つをひとつに結びつけ、足並みを揃えさせているのが、二つの脳をつなぐ橋である脳梁(のうりょう)です。

以前の記事で書いたように、難治性てんかんの手術で、右脳と左脳を結ぶ脳梁を切断すると、あたかも一人の人の中に複数の人がいるかのような奇妙な振る舞いが現れることが知られています。

多くの人たちが、ひとつの頭蓋骨の中に、自己そのものである左脳と、「内なる他者」である右脳の二つを抱え持っているのに、自分はたった一人の自己だと思いこんでいるのは脳梁のおかげだといいます。

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書きたがる脳 言語と創造性の科学によると、わたしたちは誰でも、子どものころは、まだ脳梁の働きが弱いこともわかっています。

幼い子どもたちは左右の脳半球の電気活動が比較的に同期していない。

成熟するにつれて、脳梁が左脳と右脳を効率的に連携させるようになる。

最後に両半球の連携はふつうの人が自我異和的な存在を感じるときにも一役買っているらしい。(p318)

わたしたちは誰でも、幼いころは、脳梁があまり発達していないせいで、左右の脳の活動がまばらで同期していません。言い換えれば、左脳の自己と、右脳の「内なる他者」が別々に振る舞いやすい、ということです。

そう言われてみると、確かに、わたしたちは誰でも、幼い子どものころは優れた想像力があるものです。「子どもはみな詩人」と言われるように、子どものころはみな作家のような感性を持ち合わせています。

わたしたちの多くは、幼少期に空想の友人(イマジナリーフレンド)を持つとされています。これはもちろん「内なる他者」そのものです。

多くの大人は覚えていないかもしれませんが、一説によると、子どもの半数近くが、となりのトトロやまっくろくろすけのような架空の友人の声を聞き、姿が見る不思議な体験をしています。

最初のインタビューで、雪舟えまさんは「もうひとつの世界」で暮らし、「空想上の友人」と一緒に生きているような感覚がある、と述べていましたが、子どものころは誰にだってそうしたもう一つの別世界があります。

子どものころは誰でも「内なる声」が聞こえるのです。

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考えてみれば、想像力豊かな作家というのは、子ども時代の感性そのままに大人になった人ではないでしょうか。有名な作家の中には、年を重ねても、子どもみたいな純粋な感性や茶目っ気を持っている人が少なくありません。

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そうすると、不思議なことに気づきます。

ジュリアン・ジェインズの説によると、神や精霊が身近だった時代に生きていた わたしたちの祖先にとっては、「内なる声」が聞こえるのはごく普通の体験でした。しかし、現代人の大半は「内なる声」が聞こえません。

また現代人も子どものころは、「内なる声」を聞くのが普通です。しかし、大人になると、大半は「内なる声」が聞こえなくなってしまいます。

本来「内なる声」が聞こえるはずのわたしたちを、「内なる声」が聞こえない状態にしてしまう この二つの変化、つまり古代社会から現代社会への変化と、現代における子どもから大人になるときの変化に共通する要素は何でしょうか。

おそらく それは、文字や言語を用いた学校教育ではないか、と思います。

「内なる声」が聞こえる古代社会の人々と、「内なる別の世界」を持つ子どもに共通しているのは、どちらも未就学だということです。

古代の文明では、学校教育は存在せず、読み書きを学ぶとしてもほんのわずかでした。それが近代化に伴い、先進国では教育が義務化され、何年もかけて読み書きや教養を学ぶのが当たり前になりました。

現代の学校教育は、言葉を用いて批判的、論理的に考える能力を強化することに重点を置いています。脳の左右のうち、言葉を用いて考えるのは左脳で、無意識の「自我異和的」な声を担当するのは右脳でした。

そうすると、学校に入る前の子どもは、左右の脳がまばらに働くため となりのトトロのような自我異和的な存在が身近なのに、学校教育で左脳が統制的になると、無意識の声があまり聞こえなくなるのではないでしょうか。

これにはいくつかの裏付けがあります。たとえば、現代でも、教育があまり普及していないアフリカなどの国々では、「神」の声を日常的に聴いていた昔の人たちと同じように、病的とは限らない自我異和的な幻聴を聞く人が多いようです。

どこからともなく頭の中に聞こえてくる「声」には良いものもある - GIGAZINE

また、昔の記事でも紹介した、有名なサヴァン症候群の子どもであるナディアの話があります。

なぜ自閉症・サヴァン症候群の人は精密な写実絵を描けるのか
「ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待 (岩波科学ライブラリー)」という本から、なぜ自閉症やサヴァン症候群の人の中に精密な写実画を描ける人がいるのか、写実的な絵を描くのに

神経学者V.S.ラマチャンドランの脳のなかの天使によると、ナディアは、子どものころ、驚異的な絵の才能があり、飛び抜けてリアルな絵を描けました。しかし学校教育で言語能力を獲得すると、その才能は消えてしまいました。

皮肉なことにナディアはその後、青年期を迎えると、自閉症的な症状が軽減し、同時に絵の才能を完全に失ってしまった。

…成熟して高度な能力を獲得したナディアは、もはや右頭頂葉のラサ・モジュールに注意の大きな部分を割り当てることができなくなったのだろう。

(これは、正規教育には、創造性の側面を抑えつけてしまう可能性があることを示唆していいる)。(p316)

ここで書かれているように、正規教育には、「創造性の側面を抑えつけてしまう可能性」があります。

このように言うと、教育を受けると創造性が失われ、教育を受けないと創造性が残るというような、教育と創造性とがトレードオフの関係にある、という誤解をされそうですが、そういう意味ではありません。

世間では、学校教育を受けていない人や、大学を出ていない人はバカにされがちです。しかし高等教育を受けた人が賢く、そうでない人は頭が悪いとみなすのはひどい誤りです。

教養としての認知科学という本によると、現代社会の学校教育は、頭の悪い子どもを頭の良い子どもへと訓練しているわけではなく、子どもの脳を特定の社会に対して最適化しているにすぎないようです。

心理学者A・R・ルリアが、「綿は、暖かく乾燥した地域に育つ。イギリスは寒く湿気が多い。イギリスに綿は育つか?」と質問すると、学校教育を受けた人は「育たない」と即答し、読み書きのできない人は「わからない」と答えました。

一見、学校教育を受けた人の答えは正しいようです。ところがこの時代、イギリスはインドを植民地にしていたので、「わからない」と答えた人たちのほうが事実に近かったのです。

学校教育を受けた人の答えは、学校という環境の中で行われるペーパーテストにおいては正しいものでした。しかし読み書きのできない人の答えは、学校の外の社会で求められる判断において正しいものでした。

日常生活では確実な前提が得られることはほぼない。こうした世界では前提を疑ったり、棄却したりすることは、けなされるどころか、慎重な態度として尊重される。

読み書きのできない人が行った思考は、論理学の仮定する世界とは別の世界で行われたのである。

思考を働かせる世界が全く異なるわけだから、別の答えが導き出されるのは当然と言えるだろう。

一方、学校に行くようになると、…何を教えるかといえば、先生が言ったことは黙って聞く、疑わない、余計なことは考えない、そういうことである(これは隠れたカリキュラムと呼ばれる)。(p208-209)

わかりやすく言えば、学校に行った子どもは、学校のテストでは良い点を取れるようになります。でも家事の手伝いや社会で生きていく力は身につきません。

有名な大学を出れば、大学や学問の世界で生きることに脳が最適化されますが、社会に出ると適応不良をおこすことがよくあります。社会で生きる知恵は、むしろ高等教育を受けず家業を手伝ってきたような人たちのほうが賢いものです。

教育を受けられない発展途上国の人たちのほうが、高等教育を受けられる日本人より劣っているかというと全然そんなことはなく、それぞれが社会の求めるものに対して最適化されていくだけです。

先進国の子どもたちは、学校教育の「隠れたカリキュラム」を受ける中で、賢くなるのではなく、先進国の社会が求めるような、効率的で社会に従順な頭の使い方をするよう最適化されてき、引き換えに創造性を失っていく、ということです。

この見方と一致しているのは、芸術家の中には、学校教育に馴染めない子ども時代を送った人がとても多いということでしょう。

たとえば創造的な作家の中には、パブロ・ピカソのようなADHD、スティーヴン・スピルバーグのようなディスレクシア(読み書き障害)を抱えていた人たちがいます。

創造的な作家たちがみな、学校での成績が悪かったわけではありませんが、たとえ成績がよくても、授業に退屈していたとか、馴染みきれずどこか浮いていたといった話はよく聞きます。

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ADHDの原因はドーパミン不均衡だと言われていますが、興味深いことに、書きたがる脳 言語と創造性の科学には、このドーパミンは「内なる他者」の声を聞くかどうかに強く関係していると言われています。

ドーパミンは内なる声の神経化学の主役と見られている。

ドーパミンを抑制する薬は内なる声を沈静化させ、ドーパミンの活動を促進する薬は声を大きくするからだ。(p312)

ADHDやディスレクシアの子たちは、生まれつきもともと左右の脳が別々に、交互に働くような傾向が強く、古代社会の人たちと同じように、「自我異和的」な声を聞きやすく、子どものころから想像力が豊かなのだと思います。

そのため、現代社会の学校の教育にあまりなじめかったり、不登校になったりしますが、結果として学校教育の影響をあまり受けないので、社会が求める画一化された考え方に最適化されず、大人になっても、左脳とは別々に働く、右脳の自我異和的な声を聞き続けます。

むろん、現代の学校教育で行われる指導は、学校の中だけでなく、社会全体に浸透しています。現代社会は自我異和的な声を聞かない人たちによって構成されているので、たとえ学校に行かなくても、おのずと「内なる声」はかき消されていく傾向があるはずです。

けれども、生まれつきの性質などのために、人一倍、自我異和的な声を聞きやすく、しかも学校教育の影響をそれほど受けなかった子どもの中には、その内なる声が、詩神(ミューズ)のように働いて、やがて作家の才能として開花するケースがあるのでしょう。

 「別世界」の風景を見る

ここまで考えてきたのは「内なる声」という聴覚的イメージの話でしたが、創作には視覚的イメージも強く関係していました。

空想世界の絵を描く人、独創的な世界観の小説を書く人には、自分が表現する世界の風景を、まるでじかに見ているかのように描写する人が少なくありません。

「内なる声」の場合、聴覚的イメージは文字通りの幻聴に近いほど具体的でしたが、視覚イメージもそうなのでしょうか。

架空の音が聞こえる現象は「幻聴」ですが、架空のものが見える現象は「幻視」といいます。書きたがる脳 言語と創造性の科学によれば、幻視のほうは精神病では珍しいと言われています。

これまでは声と聴覚的体験だけを取り上げてきた。だが、人は幻覚も見るのではないか? 

幻覚はドラッグ体験や老人性認知症に共通しているが、精神病では珍しい。(p323)

以前の記事でも書いたように、統合失調症では幻聴は多い反面、幻視はまれだと言われています。幻視はどちらかというと、子どもの空想の友だちなどに関わる解離現象に特有のものです。

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また、引用した文中では、幻視が多いのは、「ドラッグ体験や老人性認知症」だとされていました。

LSDやメスカリンなどのドラッグを使うと、奇妙な幻視が見えるそうですが、ドラッグが規制される前の時代の作家たちはよくこうした薬物を使っていて、それが絵画のシュールレアリズムやサイケデリックの文化に影響したそうです。

もうひとつの老人性認知症のほうは、特にレビー小体型認知症と、シャルル・ボネ症候群という病気で幻視が起こると言われています。この二つの幻視はじつは同じようなものなのではないか、とも言われています。

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視力障害を抱えた年配者に現れやすい不思議ん幻視体験「シャルル・ボネ症候群」(CBS)とは何か、その周辺体験も交えて考察してみました。

シャルル・ボネ症候群の幻視というのは、精神病のように頭が混乱して見えるわけではなく、どうも、さっき見た「ホワイト・クリスマス効果」や「ベル錯覚」と同じようなものだそうです。

「ホワイト・クリスマス効果」や「ベル錯覚」は、聞こえるかもしれないものを無意識の脳が「埋め合わせ」ることで起こっていましたが、シャルル・ボネ症候群の幻視も、目の病気で視野が欠けるなどしたとき、見えない部分を無意識が「埋め合わせ」るので、ないものが見えてしまうそうです。

そうであるなら、目が健康な人の場合でも、一時的に目が見えなくなったら、幻視が見えてしまうのでしょうか。

見てしまう人びと:幻覚の脳科学には、米国のアルバロ・パスカル=レオーネ教授による、健康な人に96時間目隠しを続けてもらうという実験が載っていました。

その結果、13人中10人もの人が幻覚を見ましたが、個人差があって、目隠しから数時間して幻視が見えた人もいれば、2日後に見え始めた人もいました。ほとんどは数秒、数分のみの幻視でしたが、一人だけほぼ途切れなく見た人がいたそうです。

見えた幻視の内容については、こんな報告がありました。

幻覚の明るさと色について話す被験者が数人いた。一人は「まばゆいクジャクの羽と建物」について語った。

別の一人は、耐えられないほどまぶしい夕日と、ものすごく美しい輝く風景を見て、「いままで見た何よりもはるかに美しいですね、絵が描けたらと心から思います」と話している。

幻覚との自然な変化に言及している人もいる。一人の被験者の場合、チョウが夕日になり、それがカワウソに、そして最後に花に変わった。

被験者の誰も幻覚を自由意志でコントロールすることはできず、幻覚には独自の「心」または「意思」があるように思われた。

メラペットらは、被験者が報告する幻覚はシャルル・ボネ症候群(CBS)患者が経験するものとまったく同じであり、この実験結果は視覚遮断だけでも十分にCBSの原因になりうることを物語っていると感じた。(p56-57)

説明されているように、これは視力が欠けた年配の人に起こるシャルル・ボネ症候群と同じものです。

幻視の内容が、自分でコントロールできず『幻覚には独自の「心」または「意思」があるように思われた』というのはとても興味深いところです。

これはつまり、見えた幻視は「自我異和的」だったと言えるからです。自分で意識して作り上げたイメージではなく、どこからともなく勝手にやってきて見え、コントロールできず勝手に変化していく、ということを意味しています。

作家は「内なる他者」が自我異和的だと思うのと同じく、「内なる別の世界」の風景も、自分で意識してイメージしたものではなく、どこからかもたらされたインスピレーションのように感じます。

るアーティストの女性を対象に、22日間目隠ししてもらった別の実験によると、目隠ししたときに見えるような無意識のうちに現れる幻視は、自分で意識して思い浮かべたイメージとは性質が異なるものだとわかっています。

ヴォルフ・ジンガー率いる神経科学研究所の別の研究所グループは、優れた視覚心象能力をもつ視覚芸術家を、ただ一人の被験者として研究を行なった。

…彼女の後頭葉と下部側頭葉にある両方の視覚系が、幻覚とぴったり同時に活性化することをfMRIは示した。

(対照的に、視覚心象の力を使って幻覚を想起または想像するように言われたときは、それに加えて、前頭前皮質にある脳の高度な領域―ただ幻覚を見ているだけのときは、あまり活性化しなかった領域―もさかんに活性化した)。(p37)

なんだか難しいですが、整理すると、自分で意識してイメージしたものは、脳の高度な領域が働いていたのに対し、独りでに見えた幻視ものはそこが働いていなかったということです。

それゆえ、自分で思い浮かべる視覚イメージと、シャルル・ボネ症候群のような幻覚とは、それぞれ異なる性質があることがわかりました。

このことから、視覚心象と幻視は生理学的レベルで根本的に異なることが明らかになった。

自由意思による視覚心象がトップダウンのプロセスであるのに対し、幻覚は、正常な感覚入力の欠如により異常に興奮しやすくなった腹側視覚路の領域が直接ボトムアップで活性化した結果なのだ。(p37-38)

たとえば、「リンゴをイメージしてみてください」と言われたとします。わたしたちは意識的に頭の中にリンゴを思い浮かべますが、そのときは、脳の高度な領域が命令を出す「トップダウン」の経路でイメージが作られます。そのイメージは、間違いなく自分で想像したものなので、「自我異和的」だとは思わないでしょう。

しかし、うとうとしているとき、ぼんやりしているとき、長らく目隠しされたとき、視野が欠けたときなどに、どこからともなく見える幻視は、脳の高度な意思に関係するところからの指示はありません。

無意識をつかさどる右脳が、勝手に、自発的に、欠けているものを「埋め合わせ」るかのようにイメージを再生するので、自分でも思っても見なかったような、意外な映像が見えます。それは、自分では想像だにしなかったものなので「自我異和的」だと感じます。

夢と覚醒のはざまで見える入眠時幻覚

さすがに、作家のほとんどは何十日も目隠ししているわけでも、視野が欠けているわけでもなく、ましてやドラッグを服用したりはしていないはずなので、日常的にこんな鮮明な幻視は見えないでしょう。

けれども、目の機能に何の異常もなく、ドラッグに縁のない人でも、シャルル・ボネ症候群のような幻視が見えることがあります。それは、ぼんやりしているときや、眠りかけているときで、「入眠時幻覚」として知られています。

入眠時幻覚について最初に詳しく調査したのは、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンでした。

フランシス・ゴルトンは大勢の被験者から情報を集め、初めて入眠時幻覚の体系的調査を行なった。

彼は1883年の著書『人間の能力とその発達を探る(Inquiries into Human Faculty and Its Development)』で、そのような心象が見えるかを訊かれて、最初から認める人はごくわずかだと述べている。

そのような幻覚はよくあることで、悪いものではないと強調するアンケートを彼が送ってようやく、一部の被験者がそのことについて気兼ねなく話すようになった。(p241)

ゴルトンによると、入眠時幻覚は決してまれなものではなく、多くの人が少なくとも一度は経験しているはずのものです。しかし、特に意識せず、気づかないまま眠りに落ちているといいます。

これはすでに見た幻聴のパターンとよく似ています。幻聴の場合も、ほとんどすべての人が日常的に経験していましたが、大半の人たちは何の気にも留めておらず、ただ創造的な作家だけが「内なる声」に注意を向け、そこからアイデアを得ていました。

入眠時幻覚のほうもまったく同じで、昔から創造的な作家たちは、大半の人が気に留めないこの幻視に気づき、創作のアイデアをもらってきました。その中のひとりに詩人エドガー・アラン・ポーがいます。

入眠時幻影は「別世界」のもののように思えるのかもしれない。

自分の幻影について説明する人はこの別世界という表現を何度も繰り返し使う。

エドガー・アラン・ポーは、自分自身の入眠時心像は見慣れないものであるばかりか、前に見たどんなものとも似ていないことを強調している。

「絶対的に目新しい」のだ。(p249)

エドガー・アラン・ポーは、「大鴉」などの詩や、歴史上初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」などで有名です。総じて、独特の幻想的・猟奇的な世界観が特徴で、わたしは学生時代にポーに傾倒して全集を買って読んでいました。

ポーは、入眠時幻覚を「別世界」「絶対的に目新しい」と表現していますが、これは、冒頭のインタビューに登場した「もうひとつの世界に暮らす人の日記」という表現とよく似ていないでしょうか。

ポーは間違いなく幻想的でユニークな世界観を構築した作家で、シャルル・ボードレールなどその後の作家たちに多大なる影響を与えましたが、彼の描いた別世界は、じつは入眠時幻覚を通して垣間見た、「もうひとつの世界」の風景だったのです。

ポーにしてみれば、それは「見慣れないもの」「前に見たどんなものとも似ていない」「絶対的に目新しい」ものでした。つまり、自分が見た視覚イメージは、到底自分の心や記憶から出てきたとは思えないような「自我異和的」なものだったのです。

ポーは、この不思議な世界の幻視を記録できるよう、メモを用意して寝たそうです。

ポーは入眠時幻覚によって想像がたくましく豊かになると感じ、自分が見た異様なものをメモできるように幻覚を見ているあいだに突然身を起こして完全に目を覚まし、そのメモをたびたび自分の詩や短篇に織り込んだ。(p259)

彼にとっては、不思議で奇妙な創作作品は、ちょうど、「もうひとつの世界に暮らす人の日記」ならぬ「別世界を観察したメモ」のようなものだったのかもしれません。

不思議な視覚イメージをメモしたポーのエピソードはまた、同じように奇妙で不思議な夢の世界からインスピレーションを受けたシュルレアリスムの画家、サルバドール・ダリを思わせます。

「内なる声」の幻聴が、小説家だけでなく、アンリ・マティスのような画家やラマヌジャンのような数学者にまでインスピレーションを与えていたように、どこからともなく立ち現れる幻視もまた、詩人や画家など、幅広い作家たちにインスピレーションを与えてきました。

この入眠時幻覚はわたしもかなり頻繁に見るのですが、ポーが「絶対的に目新しい」と述べたように、ふだん起きているときに見るイメージとは、かなり質の違いがあります。それは例えば次のようなものです。

入眠時心象はおぼろげな場合や無色の場合もあるが、たいていは明るくてとても鮮やかな色がついている。

アルディスとマックラーは、1956年の論文に、被験者が「すさまじい日光を浴びているかのような強烈なスペクトルの色」と表現した例を引用している。

ほかの研究者と同様、彼らもこれをメスカリンによる色の誇張と比較した。

入眠時幻覚は光度も輪郭も異常に強くはっきりしていて、影やしわが誇張される場合がある。そのような誇張が、マンガのような人物や場面によく合っているときもある。

多くの人が入眠時幻影の「ありえない」鮮やかさや「顕微鏡で見ているような」細かさについて話す。(p248)

おおまかに言えば、その特徴は「ありえない鮮やかさ」「顕微鏡で見ているような細かさ」です。

これは、先ほど引用した、長時間目隠しをした人たちが見たシャルル・ボネ症候群の幻視とよく似ています。

たとえばある人は、「耐えられないほどまぶしい夕日と、ものすごく美しい輝く風景を見」て、「いままで見た何よりもはるかに美しいですね、絵が描けたらと心から思います」と話していました。

どちらの場合も、肉眼ではとらえられないような色合いや、細かさを特色としています。それは現実にあり得ないものなので、「絶対的に目新しい」「別世界」のもののように感じられ、インスピレーションを刺激するのです。

そうしたイメージが見えるのは、おそらくこのタイプの幻視が、ボトムアップのプロセスで生み出されるからでしょう。

通常、わたしたちが起きているときに見る世界は、目から入ってくる光のスペクトルによって描画されます。言い換えれば、光の波長に含まれていないような色やパターンは見ることができません。

しかし目隠しをしているときや、入眠時に見るイメージは、外からの光ではなく、内因性の刺激、脳の内側からのランダムな刺激によって描画されます。もし現実に存在しないようなパターンの信号が送られてくると、そうそうあり得ないような風景が見えることになるでしょう。

ラマチャンドランの脳のなかの天使によると、それと似たようなことが、共感覚で色を見る人に起こりえます。

共感覚者の中には、現実にはありえない色を見て、うまく表現できないと述べる人がいますが、それもやはり通常とは異なる経路で視覚野が活性化されているからです。

共感覚者のなかに、アルファベットの文字の色が、「たがいに重なりあった」複数の色からなっているので、標準的な色の分類にぴったりあてはまらないと表現する人たちがいる。

…視覚経路の結合に不具合があるために解釈ができず、奇妙な色に見えるのだろう。

虹のなかにない色、別次元の色を体験するのはどのような感じなのだろうか?(p168-169)

またオリヴァー・サックスは、見てしまう人びと:幻覚の脳科学の中で、若い頃にアンフェタミンやLSDを調合したドラッグを体験し、現実にはない色を見たときの体験を告白しています。

すると、巨大な絵筆が投げつけられたかのように、純粋な藍色をした、巨大な洋ナシ型の震えるしみが現れた。

輝く崇高なそれは私を歓楽で満たした。それは天国の色であり、私が思うに、中世イタリアの偉大な芸術家ジョットが生涯をかけて出そうといたが出せなかった色だ。

天国の色は地上では見ることができないから実現できなかったのだろう。(p133)

長時間目隠しをされたときの幻視、入眠時幻覚、共感覚、ドラッグ体験のいずれにも共通しているのは、あたかも「別次元」「別世界」「地上では見ることができない」ような風景が見えてしまうということです。

こうした幻覚はどれも、仔細に見ることはできず、じっくり観察しようとすると、指の隙間からこぼれ落ちる水のように、どこかにかき消えてしまい、つかみどころがありません。思い出して現実にスケッチしようとしてもやはり紙の上には表現できません。

けれども、明らかにこの世のものとは思えない「絶対的に目新しい」という印象ははっきり残るので、古今東西、芸術家たちのインスピレーションを刺激してやまないのでしょう。

デフォルトモードネットワークという「創造の窓」

創造的な作家たちがみな、みな、シャルル・ボネ症候群のような明らかな幻視や、豊かな入眠時幻覚を経験するわけではありません。

しかし、独創的な空想世界を作り出す作家たちの多くは、その一歩手前の状態を、おそらくかなり日常的に、頻繁に経験しているでしょう。

シャルル・ボネ症候群の幻視は、長時間目隠しをされていたときに生じ、入眠時幻覚は今まさに寝入ろうとしている覚醒と夢のはざまで生じます。これはつまり、起きている状態と寝ている状態の境界で起こりやすいという意味です。

わたしたちはだれでも、そんな状態に陥ることがあります。何も考えていなくて、ぼんやりと宙を見つめているような、注意散漫な状態です。

この注意散漫な状態は、最近はやりの「マインドフルネス」(充実した心)の対極にあるもので「マインドワンダリング」(さまよう心)と呼ばれます、

そのとき脳は、あたかもアイドリング状態のような、取り留めもなく気ままに遊んで、あちこちへとさまよっている状態にあります。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によれば、専門家はこの脳の働きを、「デフォルトモードネットワーク」(DMN)と名付けました。

ところが、何もしていない脳へ流れる血液の量は作業中の脳の場合よりわずか5~10パーセント少ないだけで、作業中より作業中でないときのほうが脳内ではより広い領域が活性化していることがわかった。

安静時に活動する神経網は「デフォルトモードネットワーク」(DMN)として知られるようになる。

こう命名したのは、ミズーリ州セントルイスにあるワシントン大学の神経教授マーカス・レイクルで、2001年のことだった。

彼は私にこう書き送ってきた。「驚いたことに、それはまるで別個の生き物のようでした。良くも悪くもね」(p18)

わたしたちがデフォルトモードネットワークの状態になるのはどんなときでしょうか。

たとえば、休日にベッドの上でごろごろしているとき、湖畔のベンチに腰掛けながら、ぼーと雲を見つめているとき、自動的な習慣で散歩したり通勤したりしているときなどかもしれません。そうしたマインドワンダリングの状態では、しばしば思いがけないアイデアが降ってきます。

「よくバス(bus)、風呂(bath)、ベッド(bed)を『三つのB』と言いますが、科学の偉大な発見はこれらの場所で生まれたということですね」。

この物理学者は、ポアンカレが集合馬車の昇降段に足をかけた瞬間に思いついた数学の発見や、アルキメデスが風呂に入って「アルキメデスの原理」を思いつき「ユリーカ!」と叫んだという有名な逸話に言及しているのだろう。

ベッドについて考えると、夢はときおり創造的な瞬間につながるが、着想が生まれるのは眠れないときが多いように思う。

そんなときは心がさまようが、思いついたことを見逃さないほどには意識がある。(p193)

注意がさまよって脳がマインドワンダリングするのは、通勤したり、お風呂に入ったり、ベッドに寝たりする、リラックス状態や自動運転状態のときに多く、偉大な発見のアイデアはたいてい、カリカリ集中しているときではなくぼんやりしているときにもたらされてきました。

ドラえもんに出てくる のび太くんのような子どもが、つまらない授業中に、窓から空を眺めてぼんやりしているのも、マインドワンダリングです。そのとき、脳は自由に遊んで、注意があちらこちらへとさまよっているので、次から次に取り留めもなく連想が湧いてきます。

マインドワンダリング状態のときに雲を見上げていると、動物に見えたり、人の顔に見えたり、思いがけない連想がどんどん繋がるものです。

この現象は「パレイドリア」と呼ばれますが、以前の記事で扱ったように、じつはシャルル・ボネ症候群の幻視はパレイドリアの連想によって起こります。

マインドワンダリング状態で起こる連想は、取り留めもなく移ろい変わっていくのが特徴で、それはちょうど、神経科学者マーカス・レイクルが、「驚いたことに、それはまるで別個の生き物のようでした。良くも悪くもね」と述べていたとおりです。

脳がデフォルトモードネットワーク状態でマインドワンダリングしているとき、次から次へとつながっていく連想は「別個の生き物」のように、それ独自の意志をもって移り変わっているように見えます。つまり「自我異和的」な連想なのです。

この自我異和的な連想はまた、見てしまう人びと:幻覚の脳科学によると、ひとつ前に取り上げた入眠時幻覚のときと共通しています。

入眠時心像に特有の急速で不随意の変形には、手紙をくれたアッター氏が言っているように、脳が「アイドリング」していることをうかがわせるものがある。

最近、神経科学者がよく話題にする脳の「デフォルト・ネットワーク」は独自の像を生成する。

思い切って「遊ぶ」という言葉を使って、視覚野がいろいろな変形で遊んでいる、目標も目的も意味もなく遊んでいる、と言ってもいいかもしれない。(p249)

それで、ここで取り上げてきた、シャルル・ボネ症候群の幻視、入眠時幻覚、ぼんやりしているときの連想は、どれも脳のデフォルトモードネットワークの働きという点で共通していると考えられます。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によると、創造的な作家たちのイメージ能力は、デフォルトモードネットワークの働きによって成立しているとされています。

神経科学者のレックス・ユングらは、脳イメージングで得られた証拠を創造的認知の各指標についてつぶさに調べ上げ、創造性がマインドワンダリングのメカニズム、すなわちデフォルトモードネットワークにほぼ依存すると結論づけた。(p181)

創造的な作家たちは、文字通りの幻視ほどはっきりしたしたイメージを見るとは限りませんが、入眠時幻覚を頻繁に見たり、日中よくマインドワンダリング状態になったりして、それに近い自由連想を経験しやすい人たちなのです。

では、この状態にあるとき、右脳と左脳はそれぞれどんな活動をしているのでしょうか。

ある最近の研究では、アートやデザインを学ぶ学生たちが本の表紙のイラストを描くあいだ、彼らの脳活動をMRIスキャナーで観察した。

これらの学生は芸術的な素質があり、アートプロジェクトに参加しているが、彼らの思考が右脳に偏っているという証拠はなかった。

むしろ、活性化したのは実行機能に関連する前頭葉の領域と、マインドワンダリングを司るデフォルトモードネットワークの領域だった。脳のどちらかの半球が優位ということはなかった。(p180-181)

創造的な学生たちが、イラストを描いているとき、やはり脳はデフォルトモードネットワークの状態にありました。彼らの心は、移り変わる雲を眺めているときのように、自由な連想状態にあり、インスピレーションを得ようとしていました。

そのとき、脳の右半球と左半球は、どちらかが優位にある、という偏りはありませんでした。右脳も左脳も、等しく共同作業をしていたのです。

これは、はじめに書きたがる脳 言語と創造性の科学から引用した、創造的な人たちの脳の活動とよく似ています。

創造的な思考で相対的に右脳が活発化するのは、右脳が支配的だというより、両半球のバランスをとる必要があることを反映しているのかもしれない。(p97-98)

創造的な活動に必要なのは、右脳だけではなく、左脳と右脳がバランスよく共同作業することが必要でした。デフォルトモードネットワークの自由連想を頼りに創作している人たちは、まさにそんな状態にあります。

創造的な人の右脳と左脳の共同作業について考えると、わたしは餅つきをする人のコンビネーションのことが思い浮かびます。叩く人とこねる人がすばやく入れ替わり立ち代わり作業して餅をつきあげていきますが、創造的な作業も片方の脳だけではうまくいきません。

先に考えたとおり、わたしたちの脳は、本来はあたかも一つの頭蓋骨の中に複数の人が存在するようなものだと言われています。

大半の大人たちは学校教育を終えるころには自己は一人だと錯覚するようになりますが、創造的な作家たちは、大人になっても自分の中に複数の人間がいるようだ、という感覚をもち続けます。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によれば、この感覚、つまり、自分の中に「自我異和的」な内なる他者がいるように感じられる感覚には、デフォルトモードネットワークが大いに関わっています。

デフォルトモードネットワークは脳内に広く分布し、外界刺激の知覚やそれに対する反応とは直接かかわりのない領域をおもにふくむ。

脳は言わば小さな町のようなもので、そこでは人びとがそれぞれの仕事を抱え立ちはたらく。

フットボールのような大イベントがあると、人びとはフットボール場に集まり、町のほかの部分は静かになる。

なかには町の外からやって来る人もいて、人口が少し増える。

…何かに集中していないとき、心はぶらりと寄り道する。(p19)

わたしたちの脳は、本来、大勢の人が同居している小さな町のようなものなのです。

子どもがイマジナリーフレンドや内なる別世界を持つことからわかるように、「内なる他者」がたくさんいるように感じられるのは、脳そのものがもともとそうした作りになっているからです。

しかし、学校教育などを通して、ひとつのことに意識を集中させ、論理的に批判的に考えるよう脳を最適化していくと、脳のなかの同居人たちは、一度のひとつのことに駆り出され、総動員されるようになります。

学校教育は、先生の話に集中し、教科書やテストの問題を疑ったりしないよう脳を最適化していく「隠れたカリキュラム」があると言われていましたが、それはさまざまな考えを持つ内なる他者を抑制し、あたかも一人の人しかいないかのようにまとめ上げるということです。

引用した文中でフットボール大会のたとえが出てきますが、学校教育という大きなイベントが開催されると、頭の中にある町の住人たちは全員が一箇所に集まって、黙って話を聞くよう訓練されます。それぞれが別々に気ままに好きなことをするのは許されません。

他方、のび太くんのような子どもは、授業中でも意識がさまよって、脳の中にいる複数の同居人たちもまた、先生の話を聞かずに、それぞれが気ままに自分のやりたいことを考え続けます。

のび太くんの名前は、いわゆるのび太型ADHDという、不注意優勢型ADHDの代名詞になっていますが、のび太型ADHDの子がぼんやりと空想にふける様子は「デイ・ドリーマー」(昼間から夢を見る人)と呼ばれます。

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不注意優勢型ADHDの概念は、最近知られるようになった敏感な子どもHSPの概念とオーバラップしているようですが、HSPの子たちは、自己コントロール能力が優れているので きちんと授業に集中できることも多いようです。しかし、休み時間や気を抜いているときは、ぼんやりと空想にふけることがよくあります。

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こうした子どもたちは、もともとマインドワンダリング状態に陥りやすく、脳の中の町にいる複数の「内なる他者」が、それぞれ気ままに動きまわりやすいのでしょう。

創造的な作家というのは、内なる複数の心を抱え持っている人たちではないか、という点は、過去に詳しく考察しました。

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無意識と関係している「内なる他者」が、意識的な自己とは別に、勝手にあちらこちらへと動き回り、気ままにワンダリング(放浪)していると、ときどき旅先からアイデアを持ち帰ってきてくれます。

「内なる他者」が、旅先から思いがけず持ち帰ってきてくれるおみやげには、聴覚的イメージもあれば、視覚的イメージもあります。

それこそが、創造的な作家がどこからともなく思いつくアイデアの正体であり、ぼんやりしているときに起こる自由連想がインスピレーションをもたらしてくれる理由なのです。

昨今、集中力を高めるマインドフルネスがもてはやされていて、ぼんやりと空想するマインドワンダリングはあまりよくないことのようにみなされていますが、それは時と場合によります。

第1章で紹介したジョナサン・スクーラーらによる実験をご記憶だろうか。

彼らは被験者が『戦争と平和』を読むあいだにどれほど頻繁に別のことを考えるか調べた。

そして創造性にかかわる指標で最高の成績を収めたのは、あれこれ夢想していた人だった。

重要な話の最中に窓の外をぼんやり眺めているのを教師や議長に見つかっても、創造の窓を開けていたと言えばいい。(p194)

学校の授業に集中できず窓の外をぼーっと眺めている のび太くんのような学生は、よく先生から怒られますが、ぼんやりとした空想は「創造性の窓」であり、もしかすると将来の芸術的な才能につながるのかもしれません。

「もうひとつの世界に暮らす人の日記」

この記事では、雪舟えまさんのインタビューにあった「もうひとつの世界に暮らす人の日記」という言葉をきっかけにして、創造的な作家たちが感じるインスピレーションの源を探ってきました。

内容をまとめると次のようになります。

■創造的な作家たちは、自分の作品世界を自分が創ったとはあまり思わない。どこかにある別の世界に生きる人たちの暮らしを、ただ観察して書いているように感じる。

■古くから創造的な作家たちは、小説や詩、絵、さらには数学のアイデアに至るまで、インスピレーションはどこか別のところからもたらされると感じてきた。

■創造性には左脳と右脳の両方がバランスよく働くことが必要。左脳は意識的な自己、右脳の無意識は「内なる他者」と関係しているとされる。

■優れた詩人や視覚芸術家の多くが、「内なる声」のような自我異和的な聴覚イメージや、「内なる別の世界」のような自我異和的な視覚イメージをアイデアの源にしている。

■わたしたちは誰でも幻聴を体験しているが、それが自我異和的だと感じる人だけが「内なる声」に注目する。

■古代社会の人や、子どもにとっては「内なる声」が聞こえるのはごく普通のこと。学校教育の「隠れたカリキュラム」によって現代社会に脳が最適化されていくうちに「内なる声」は聞こえなくなっていく。

■わたしたちは誰でも、長時間目隠しされると幻視が見える。入眠時幻覚として見る人もいる。ぼんやりと空想しているときには、それに近い現象が起こる。

■脳がデフォルトモードネットワークの状態にあるとき、自由な連想が刺激され、どこからともなく「内なる声」が聞こえたり、ふと別世界を覗き込むかのような視覚的連想が沸き起こったりして、創造的なアイデアをもたらしてくれる。

昔から、創造的な作家たちは、誰も思いつかないような独創的な世界を思い描き、人びとを魅了してきました。

たとえば子どものころ、J・K・ローリングのハリーポッターシリーズや、J・R・R・トールキンの指輪物語、ジュール・ヴェルヌの海底2万マイルなどに描かれた、別世界の風景に心を奪われた人は数知れないでしょう。

こうした独創的な世界観は、創造性にあふれた作家が、綿密に構成して作り上げた箱庭であるかのように思われがちです。独創的な作家たちは別世界を創造したクリエーター(創造者)であるかのように尊敬されます。

しかし、彼らにしてみれば、それはちょっと実感とは異なるのかもしれません。この記事で考えたように、もしかすると、創造的な作家たちは、ファンタジー世界の「作者」ではなく「住人」なのではないでしょうか。

彼らは、たぐいまれな想像力を持っていたわけではなく、たまたま現実と別世界とをつなぐ、「創造の窓」を見つけただけなのです。自分にしか見えない「創造の窓」を見つけた作家たちは、そこから見える別世界の景色をつぶさに観察し、それを世に送り出してきたにすぎません。

あるいは、彼ら自身が物語に書いているように、異世界につながる窓をくぐって、その世界のただ中で、ありとあらゆる不思議なことを経験し、空想上の友人(イマジナリーフレンド)たちに囲まれて暮らしてきたのかもしれません。

そして「もうひとつの世界に暮らす人の日記」のように、不思議な異世界の見聞録を世に送り出してきたのかもしれません。

作家たちにとって、彼らの作品世界は想像力の産物でも虚構でもなく、じつは自分が体験してきた迫真のドキュメンタリーであり、そこにちょっと作家ならではの味付けを加えて魅力的に料理しているのではないでしょうか。

今も昔も、創造的な作家たちの作品がこれほどまでに人びとの心をとらえて離さないのは、それが実はノンフィクションで、作家自身のリアルな体験に基づいているからではないか。

脳科学からの分析は、そんなファンタジックな結論に至らせてくれます。


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