アスペルガーは、自分の診ていた人間の創造力が数十年先の科学の発展を先どりしていることに思い至った、おそらく最初の臨床医だったのだろう。
彼らの関心が現実の世界から「かけ離れている」わけではないことにも、すでに気がついていた。(p269)
そう尋ねると、「聞いたことがある」とか、「わたしも当事者です」と答える方がいるかもしれません。
でも、冒頭に引用した文からわかるように、ここでいう「アスペルガー」とは、医学用語としての「アスペルガー症候群」のことではなく、その名称の由来となった人名、医師ハンス・アスペルガーのことです。
アスペルガー症候群のことはよく知っていても、その由来となったハンス・アスペルガーについは、ほとんど何も知らない、という方も多いのではないでしょうか。
わたしもこれまで、ハンス・アスペルガーの人となりや、彼が研究した事柄について、ほとんど知らなかったのですが、自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)という本を読んで、とても驚きました。
この本は、英国で最も権威あるノンフィクション賞を受賞し、故オリヴァー・サックスが序文を担当したことで話題になりましたが、自閉症の歴史に関わったさまざまな人物の生き生きとしたエピソードが含まれています。
そこで明らかにされていたのは、ハンス・アスペルガーという稀有な医師が、いかに鋭い先見の明を持って、この21世紀における自閉スペクトラム症の理解を先取りしていたか、そして、なぜ彼の発見が闇に埋もれて、自閉症研究の暗黒時代がもたらされてしまったのか、という知られざる歴史でした。
これはどんな本?
この 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)は、ジャーナリストのスティーブ・シルバーマンによる、自閉スペクトラム症の歴史を追ったノンフィクションの大作です。
火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)でテンプル・グランディンのストーリーを広めることに一役買った故オリヴァー・サックスが序文を担当しており、英国で最も権威あるノンフィクション賞BBC Samuel Johnson Prizeを受賞したとされています。
自閉症の発見者とされるレオ・カナーとハンス・アスペルガーにまつわる史実や、その後の悪名高い冷蔵庫マザー仮説や社会を震撼させたワクチン騒動まで、これまで綿密に取材されたことのなかった自閉症研究の歴史を年代順に明らかにする一冊です
実はこの本は、以下の記事によると、どうも邦訳にあたって、かなりの部分が削られ、しかも深刻な誤訳問題が多く見られるようなので、読むかどうかかなり迷っていました。
スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』の翻訳について - サイコドクターにょろり旅
スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』の翻訳について その2 - サイコドクターにょろり旅
それでも、原著のすばらしい評判から手にとってみると、誤訳問題の欠点を考慮に入れてもなお価値のある内容でした。
誤訳が多いとはいっても、本全体の大まかな流れは十分読み取ることができるので、この記事では貴重な歴史的エピソードの部分に焦点を当てて引用していきます。
アスペルガーとカナーは接点がなかった?
自閉症とアスペルガー症候群。
発達障害の本を読んだことのある人なら、この二つはほぼ同じ時期にまったく別々に発見された、という説明を読んだことがあると思います。
たとえば、図解 よくわかる大人の発達障害 という本にはこんな典型的な説明がありました。
自閉症という用語がはじめて使われたのは1943年、アメリカの精神科医レオ・カナーが発表した論文でのことです。
カナーは社会性や言語発達能力に重い障害がみられる子どもたちを「早期幼児自閉症」として報告しました。
彼らの多くが知的障害(精神発達遅滞)をともなっていたため、自閉症は知的障害を併発すると考えられていました。
その1年後に、オーストリアの小児精神科医ハンス・アスペルガーが「自閉的精神病質」と題した論文を発表しました。
彼が報告した症例は、カナーの症例と共通する特徴をもちながら、言語発達の遅れも知的障害も認められないというものでした。
これがアスペルガー症候群の概念へとつながるのですが、当時、この論文はあまり注目されませんでした。(p12)
また、この記事執筆時点でののウィキペディアのレオ・カナーの項には次のような記述がありました。
ほぼ同時期のアスペルガーも同じ単語を使っており、全く同じ時期に同じものと考えたようである(両者に交流はない)。
これまでの一般的な説明では、レオ・カナーとハンス・アスペルガーという二人の医師が、ほぼ同時期に別々の場所で、それぞれより重いタイプの自閉症と、より高機能なタイプの自閉症とを別々に、何のつながりもなく発見したとされていました。
それ以降、カナー型自閉症と、アスペルガー症候群は、しばらく別々のものだとみなされていましたが、のちにローナ・ウィングによって、一つの概念、自閉症スペクトラムにまとめられたというのが、大まかな流れです。
ほぼ同時期にまったく別々の場所で発見され、しかも同じ用語を使っているという奇妙な偶然が目を引くものの、この説明は広く一般に事実として受け入れられていて、これまでわたしも特に疑問を抱いていませんでした。
ところが自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)によれば、とてもショッキングな事が明らかにされています。
わたしたちがよく知っているこの自閉症の歴史は、意図的に操作されたものだったというのです
ハンス・アスペルガーの鋭い観察眼
先に引用した二つの文献は、どちらも、まずアメリカの精神科医レオ・カナーの発見から始まり、次いで少し遅れてオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが後に続いたとしています。
しかし 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)という本で、先に舞台に登場するのはハンス・アスペルガーのほうです。
ハンス・アスペルガーは、第二次世界大戦が始まる前のオーストリアのウィーンにあった小児科病棟で働いていたようです。彼はチームとしての医療に携わっていて、そのときの同僚には精神科医のゲオルク・フランクルとその妻になるアニー・ヴァイスがいました。
そのウィーンの小児科病棟で、アスペルガーたちは、10年をかけて、不思議な特徴を示す子どもたちの診察に取り組みました。
10年の間にアスペルガーとスタッフは、不器用だが、知能は早熟でかつ、規則性や法則性やスケジュールに魅了されるという、類似の特徴を示す200人以上の子どもの診察を行った。
さらに、同じプロフィールのティーンエージャーや成人も多数診察した。
障害が最重度とされる子どもたちは、知能が低いゆえに精神病院の閉鎖病棟に入院させられていた。(p97)
第二次世界大戦が始まる前のこの時期にアスペルガーが観察した不思議な子どもたちは、とても個性豊かでした。早熟で規則性に魅了されるといった共通のパターンはありましたが、彼らの中にはさまざまな能力や性格といった多様性がみられました。
先ほど、ハンス・アスペルガーは、自閉症のうちでも「高機能」だとされるアスペルガー症候群の発見者だと言われていたのではなかったでしょうか。
しかし記録が示すところによると、彼は「同じプロフィールのティーンエージャーや成人も多数診察し」「障害が最重度とされる子どもたち」の診察もしていました。
彼は自身の発見した症例を「自閉的精神病質」と名付けましたが、それが能力の高い一部の人たちにだけ当てはまるものだとは見なしていませんでした。
「自閉的精神病質」という言葉を聞くと、わたしたちはネガティブなイメージを持つかもしれません。しかし、ハンス・アスペルガーは「精神病質」という表現に、まったく逆の意味を持たせていました。
明らかに精神病ではないのだから、アスペルガーは彼らの症状を説明するために「Autistischen Psychopathen(自閉的精神病質)」という精神的健康状態と病気の間の境界領域を指す用語を用いることにした。
加えて、もっと単純な「Aurismus」という用語を用いることで、「自然界の生命体」に新たに「自閉的存在」を加えることにしたのだった。(p105)
アスペルガーは、自分の観察した症例が病的なものではない、ということに気づいていました。
確かに社会不適応を起こして病棟にやってくるわけなので、健康と病気の境界状態でした。
それでも自閉症とは精神病でも精神病質でもない「自然界の生命体」のひとつの種族、「自閉的存在」だという認識もまた抱いていました。
これは紛れもなく、自閉症は連続するさまざまで多様な病態を含むもの、というスペクトラムの考え方や、自閉症を障害ではなく個性、独自の文化をもった少数民族に例える今日の考え方の先駆けした。
いえむしろ、いまだ時代を先取りしている概念とも言えるはずです。自閉スペクトラム症は今もって医学的には個性ではなく発達「障害」(神経発達症)のひとつとされていますし、現代社会の大部分の人も、やはりそういったネガティブなイメージを抱いているからです。
自閉スペクトラム症はひとつの個性であり、多数派の定型発達者とは異なる特徴をもつ少数民族にすぎず、見方によっては優れた才能ともなるのだ、という考え方は、テンプル・グランディンやドナ・ウィリアムズといった当事者たちの自伝を通して徐々に認知されてきました。
脳神経科学者オリヴァー・サックスが、自著火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)にでテンプル・グランディンの事例を紹介したことを皮切りに、現代の優れた科学者やプログラマー、歴史上の偉人たちの中にも少なからずアスペルガー症候群の人がいるのではないか、と話題になり今に至ります。
しかしハンス・アスペルガーは、今から80年近く前に、すでに同じ考えを持っていました。彼はこう書いていたといいます。
自閉症の子どもたちは、身の回りの物や出来事を、しばしば新しい視点から見る能力を持っている。
しかもとうてい子どものものとは思えない発想である。こうした才能をたくみに発揮することで、他の人が決して成し得ない偉業が達成されるだろう。
例えば、抽象化の能力は、科学的な試みには必要不可欠である。著名な科学者の中には、確かに多くの自閉症の人がいる。(p110-111)
ハンス・アスペルガーは、間違いなく、自閉症の人たちが、単なる障害でも社会不適応者でもないことに気づいていました。そして、多数派の社会では受け入れられないとしても、優れた独自の能力を持っているということを把握していました。
彼は、こうした自閉症特有の一連の素質や技能、態度、能力をまとめて、「自閉的知能」と命名し、自閉症の人が人類の文化の発展において果たした役割は正当に評価されてこなかったと大胆にも主張した。(p111)
このブログでも、自閉症の人たちは定型発達者とは異なる認知機能を持っていて、それが時として歴史に名を残した人々の異才の土台となっていたのではないか、というマイケル・フィッツジェラルドなどの研究を紹介してきました。
けれども、なんのことはない、自閉症を最初に発見した人は誰よりも早くそれに気づいていたのです。
ナチス・ドイツの優生思想に対する「巧妙な戦略」
では、どうして今に至るまで医師ハンス・アスペルガーは、あたかも自閉スペクトラム症のうち、一部の「アスペルガー症候群」のみの発見者であるかのようにみなされているのでしょうか。
それだけでなく、最初の発見者たる彼がここまでポジティブな見方をしていたのに、その後の歴史において、自閉スペクトラム症の人たちが長らく社会的差別に苦しみ、不当にも障害者であるとのレッテルを貼られてきたのはどうしてでしょうか。
そこには不幸な歴史のめぐり合わせが関係していたようです。ハンス・アスペルガーが当時活動していたのは、第二次世界大戦直前のウィーンであり、すでにナチス・ドイツが台頭し始めていました。
ナチス・ドイツは優生学に基づいた思想を広めており、その中には例えば障害者は「生きる価値のない生命だ」といった理念も含まれていました。(p127)
ここ日本においても、昨年の相模原障害者施設殺傷事件を機に、同様のテーマをめぐる議論が巻き起こったのが記憶に新しいところです。しかしハンス・アスペルガーの時代にそれを推進していたのは高圧的な軍事政権の支持者たちでした。
ハンス・アスペルガーは、ナチス・ドイツの理念に逆行するような意見を主張しようものなら、すぐさの身に危険が及ぶような狂信的風潮になりつつあった1938年10月3日、大学病院の講義室で「自閉症についての世界初となる公の講演」を行いました。(p145)
言うまでもなく、この日付は、アメリカのレオ・カナーが自閉症を発見したとされる論文の時期よりもずっと前です。
彼は、自分がずっと診てきた自閉症の子どもたち一人ひとりを愛していました。たとえ様々な症状で覆い隠されていようと、どの子どもたちも個性豊かな、生きる価値のある命であることを確信していました。
しかし同時に、ハンス・アスペルガーは、自閉症の子どもたちが、ナチス・ドイツの優生政策のもとでは、「生きる価値のない命」として断罪されかねないことを、誰よりもよく知っていました。
そこで、アスペルガーは、慎重かつ巧みな話し方で、自閉症の子どもたちを弁護することにしました。
しかしそのあと、予想外の方向に話を展開した。
「今日は、国民の健康という視点でお話をするつもりはありません。ですから、遺伝形質がからむ疾患を防止する法律についても、ふれることはありません。
その代わりに、アブノーマルな子どもたちについて話をしたいと思います。
彼らのために、私たちはどのくらい役に立てるでしょうか? それは私にも疑問です」。
さらにつづけて、恩師なら眉をひそめるであろうことを言った。
「『通常から踏み出る』こと、すなわち『アブノーマルである』ことが、『劣っている』というわけではありません」。
アスペルガーは、この主張が「当面は反発を招く」であろうことを認めたうえで、巧妙な戦略をめぐらした。(p145-146)
彼は、自分の診ている子どもたちが、「アブノーマル」ではあるけれども、「劣っている」わけではない、という持論を述べました。これは、当時の社会では危険な考え方でしたが、それまで自閉症の子どもたちを診てきた中で培われた信念でした。
そして、この大胆な主張に説得力を持たせるために、アスペルガーはある「巧妙な戦略」を用いました。
それこそが、現代に至るまで自閉症の歴史を錯綜させ、ハンス・アスペルガーの名をただ「アスペルガー症候群」の発見者であるかのように誤り伝えるきっかけになってしまった戦略でした。
すなわち、ハンス・アスペルガーは、ナチス・ドイツの息がかかった人たちを納得させ、「アブノーマルな」子どもたちでも生きる価値があることを例証するために、特に能力の高い子どもたちの事例を選んで提示したのです。
これは今日でいうと、ちょうど「ギフテッド」の事例を取り上げて、発達障害の子どもたちの可能性を強調するようなものかもしれません。
今日のさまざまな発達障害の啓発書では、アイザック・ニュートンやレオナルド・ダ・ヴィンチはアスペルガー症候群だったかもしれない、トーマス・エジソンや坂本龍馬はADHDだったかもしれないといった過去の偉人たちの例に言及されています。
それは、何も発達障害の子どもたちがみな天才や偉人になると主張するわけではありませんが、発達障害は必ずしも短所ばかりではなく、長所も兼ね備えているのだ、という希望を読者に伝えるための書き方です。
自閉症の発見者であるハンス・アスペルガーも、自閉症という概念を世に送り出す最初の講演で、まさにそれと同じ論法を用いて、自閉症の子どもたちの可能性を強調しようとしたのです。
彼は、講演を締めくくるにあたり、自分が取り上げた内容は、特に能力の高い子どもたちのものであることをフェアに伝えました。
さらに、施設で生活する重度の障害のある子どもたちよりも、小さな教授然とした子どもたちの症例をどうして重視するのかについて説明を加えた。
「将来に希望のもてる症例を二つ選んで、それを参考に、私たちの治癒方法の方針を解説する方が賢明であると判断しました」と、彼は話した。(p148)
その上で、こうした「アブノーマル」な子どもたちを決して見放さないでほしいと訴えました。
彼の話の組み立て方は、ナチス・ドイツが台頭する時代の背景を考慮すると、とても賢い戦略でしたし、そうせざるを得なかったのも確かです。まさかその思いつきが、その後、半世紀以上、自閉症研究の道筋を狂わせることになるとは知るよしもなかったでしょう。
それはアスペルガーが子どもたちの生命を危惧して、ナチスについている上司に彼らのポジティブな面を強調するという戦略的意図に基づくものであったのだけれども、不幸にことにそれはその後数十年にわたって混乱をまきおこすきっかけとなってしまった。(p148)
やがてナチス・ドイツが本格的に実権を握り、1939年には第二次世界大戦が勃発しました。
そのため、アスペルガーは後に発表した論文でも、やはり「高機能な」事例に着目していて、そのことが他の研究者たちから見たハンス・アスペルガーの印象を決定することになりました。
論文に記載された四人の症例のプロトタイプを根拠に、多くの臨床医と歴史家は、アスペルガーが「高機能の」子どもたちしか臨床場面で見ていないととらえられたことで、彼の発見の最も重要な部分を分かりにくくしてしまったのではないかと見ている。
彼と同僚が第二次世界大戦前のウィーンで見出した自閉症とは、「珍しいものでもなんでもなく」、全ての年齢グループに見られ、発話不能から、興味のある一つのことに長時間集中する優れた能力までの幅広い状態を含む症例にほかならなかった。
すなわち、スペクトラムという考え方の先駆けであり、どこにでもいる人々なのである。(p148)
アスペルガーが発見し、こよなく愛した子どもたち、個性豊かで多様なスペクトラムの中に存在する「自閉的存在」の子どもたちの研究は、戦争とともに闇に葬られてしまいました。
その代わりハンス・アスペルガーは、自閉症とは似ているものの、もっと社会的能力を持った一群の人たちの発見者とみなされ、後代の研究者によって「アスペルガー症候群」という言葉が作られました。
ハンス・アスペルガーは、「自閉症」そのものの発見者であったはずなのに、その中の一握りたる「アスペルガー症候群」の発見者にすぎないというレッテルを貼られてしまったのです。
レオ・カナーが「発見者」を横取りする
では、ハンス・アスペルガーの代わりに、自閉症の発見者として名を馳せるようになったのは誰だったのか。
はじめに引用した定説にあったとおり、ほかならぬアメリカの精神科医レオ・カナーでした。定説では、レオ・カナーの発見に遅れて、アスペルガーがまったく別の経緯で同じ発見をしたことになっています。
これまで、ハンス・アスペルガーとレオ・カナーは、活動していた時期こそ重なっているものの、かたやアメリカ、かたやオーストリアというまったくかけ離れた国にいたために、何ら接点がないとされていました。
しかし、ハンス・アスペルガーが、これほど時代を先取りした自閉症の研究をしていたことを知ってみれば、ハンス・アスペルガーがレオ・カナーよりも遅れて自閉症を発見したとされているのはひどく奇妙なことに思えます。
不可思議に思えるのは実は当然のことで、実は本来あるべきミッシングリンクが欠けていたのです。
それは私利私欲から意図的に塗り消された歴史の1ページであり、半世紀以上にわたる自閉症の歴史に大きな混乱をもたらすことになった二つ目の不幸でした。
当初、カナーはドナルドの行動を把握することができなかった。ハリエット通りの診療所で予備検査をしたあと、ジョンズ・ホプキンス大学のメリーランド子ども研究所へとまわすことにした。
そこには、かつてウィーンの療育ステーションにいたスタッフが働いていた。
彼らにとってドナルドの症例はなじみのあるものであった。
しかも、そのうちの一人は、小児精神科医としてカナーによってオーストリアから呼ばれたばかりの人物だった。アスペルガーの元同僚、ゲオルグ・フランクルである。(p194)
当時、レオ・カナーは、謎めいた不可思議な子どもの症例に手を焼いていました。
彼は手に負えないその患者をボルチモアにあったメリーランド子ども研究所にまわしましたが、そこにいたのはなんと、オーストリアから国外に逃れていた精神科医ゲオルグ・フランクルと、その妻となった心理学者アニー・ヴァイスでした。
何を隠そう、ハンス・アスペルガーと一緒に自閉症の子どもたちを10年も診てきた元同僚たちです。
二人は、ジョンズ・ホプキンスのカナーのチームに加わり、1938年から数年にわたり、共にメンタルクリニックの同僚として働きました。
レオ・カナーと、ハンス・アスペルガーとの間のつながりがないと思われていたのは明らかに誤りでした。確かに両者は直接会うことはありませんでしたが、ハンス・アスペルガーの同僚というミッシングリンクで両者はつながっていたのです。
ではなぜ、ゲオルグ・フランクルとアニー・ヴァイスという二人のミッシングリンクが、今に至るまで歴史のページから失われていたのか。それは、レオ・カナーが恣意的に事実を塗り消したからだとされています。
自閉症に関する二人のパイオニアの運命的なつながりに、歴史家が今まで注目してこなかったのはカナー自身が、そのことについて触れるのを避けていたからだと思われる。
彼がアスペルガーの研究の意義を決して認めようとしなかったことは、自閉症研究者の間では周知のことである。
1950年代に執筆はされたものの未公開となっている記録には、カナーが戦時中にアメリカへの移住を手助けした臨床医の一人としてフランクルの名前がのっているが、カナーを一躍有名にした大発見以前のところまでで、その記録は不可思議にも突然途絶えているのである。
カナーの同僚は、彼がウィーンでの研究について知らなかっただけなのだという認識を示したし、カナー自身もそれを訂正するようなことはなかった。(p194)
レオ・カナーは、明らかにハンス・アスペルガーのことを知っていました。何と言っても、自分が手に負えなかった症例が自閉症であると教えてくれたのは、ハンス・アスペルガーの元同僚だったのですから。
しかし、当時のアメリカ医学界で影響力のある地位についていたレオ・カナーは、その事実をもみ消すことに成功しました。ゲオルグとアニーは、ジョンズ・ホプキンスでは正規の職を与えてもらえず、ボルチモアを去ることになりました。
カナーは自分一人で自閉症の問題を解明する状況に、おいやられることになった。彼は、フランクル夫妻の仕事の中でも、夫のゲオルグの研究を評価していた。
だが、こののち再び彼の名前を挙げることはしなくなる。この後の重大発見の報告はすべて、「セレンディピティ(偶然の発見)」だったと言い出すようになっていく。(p221)
こうしてレオ・カナーは、ハンス・アスペルガーと同僚が10年にわたる研究によって積み上げた自閉症の子どもたちについての洞察を知るすべがなくなりました。
その代わり、彼は影響力ある立場を利用して、自閉症研究の第一人者の地位につき、自閉症に関する独自の見解を発表していきます。
アメリカで最も著名な小児精神科医として、カナーは幅広い人間関係のネットワークを通して、自らの自閉症の見解を一般に普及させることができる格好の地位にあった。(p218)
自閉症研究の暗黒時代の幕開け
たとえばレオ・カナーは、自閉症は、幅広い多様性とスペクトラムを持っているという、アスペルガーとその同僚たちの見解を受け入れませんでした。
そうではなく、自閉症とは重度の障害を伴う限定的な疾患だと主張しはじめ、これがいわゆる「カナー型自閉症」のおこりになりました。
カナーの自閉症についての考え方は、ウィーンにおけるアスペルガーの同僚のそれとは、すでに大きく異なっていた。
カナーは小児期早期にのみ注目したため、10代より年長者は対象外だった。
障害を多様な徴候からなる幅広いスペクトラムとしてとらえる代わりに、子どもは個人差など無視しても支障のない、単一のグループとして扱われることとなった。(p215)
カナーの定義によって、自閉症はひどく限定された概念になってしまったので、今日におけるアスペルガー症候群や高機能自閉症に該当する人たちは門前払いを受けるようになり、自閉症の仲間とはみなされなくなりました。
カナーは1957年に、人生においてたった150人の自閉症の症例、年平均にして八人の患者にしか出会わなかったと主張している。
研究者のバーナード・リムランドや、他の臨床医から「自閉症」とされて、彼の元にやって来た10人の子どもたちのうち、9人は自閉症でなかったとも語った。(p268)
その結果、カナーの定義する自閉症と、健常者のはざまにいる大勢のグレーゾーンの人たちは、医療によって長らくサポートを受けられないまま放り出されました。
自閉症という診断をしてもらえないということは、教育や言語療法や作業療法、カウンセリング、投薬、その他の支援を受けられないということだ。
自閉症は幼児期の障害だといわれ、否定的な診断をされた成人には、働くこと、デートをすること、友人とのつきあい、その他の日常生活につきまとう絶え間ない葛藤について何の説明もされることがなかった。(p268)
こうして、多様な自閉症スペクトラムに属する人たちの長い受難の歴史が幕を開けました。
また、ハンス・アスペルガーは、小児科医として、自閉症の子どもたちの才能を認め、彼らを支援する教育にも力を入れていました。
アスペルガーの考えによれば、自閉症の子どもたちが社会で不適応を起こすのは、自閉症でない教育者たちによる社会的多数派のための教育を受けているからでした。もしも自閉症の特性に適した教育が受けられれば、彼らは才能を開花させられると考えていました。
英語に翻訳されることがなかった1953年のテキストに、アスペルガーは次のように書いている。
「要するに、教師自らが『自閉症的』にならなければならない」のである。(p115)
ハンス・アスペルガーは、今日で言うところの特別支援教育の概念を先取りしていて、病棟の子どもたちに適した教育、「アブノーマルな」子どもたちのユニークな才能を伸ばしていくための教育を日々模索していました。
そこで行われたアスペルガーの特別支援教育の手法は、今日でも未だに革命的であると考えられている。
怪我や骨折、病気の子どもたちを診察する一方で、彼は、個々の子どもの学習スタイルに合う適切な指導方法がなされていないとい感じていた。
どんなに気難しく、反抗的であっても、子どもの中にある潜在的な資質を見出す特殊な能力を彼は持っていた。(p87)
他方、レオ・カナーは、子どもたちの教育にはまったく興味がありませんでした。
カナー特別支援学校には興味がなかった。
精神医学の新領域を開拓したいだけだった。(p197)
さらに、アスペルガーとカナーは、自閉症の原因についても大きく異なった見方をしていました。
ハンス・アスペルガーは、自閉症は精神病ではなく、遺伝的に受け継がれる、ひとつの個性のようなものだとみなしていました。言うまでもなく、これは今日の一般的な見解と一致する先見性のあるものでした。
他方のカナーは、カナーは自閉症を個性ではなく疾患として定義しました。これが今日に至るまで続く発達「障害」の研究の道筋を据えました。
そして自閉症をネガティブな障害として捉えることで、その原因として、あの悪名高き「冷蔵庫マザー仮説」、つまり母親の愛情不足が自閉症の原因であるとする主張もするようになりました。
他方、カナーはというと、のちに世間で「冷蔵庫マザー」という名称で知られるところとなる、悪魔のような養育者の影響を、自閉症の原因として想定するようになっていくのである。
カナーは洞察の鋭い臨床家であり、説得力のある論者であったけれども、自閉症の原因についてのあやまった考察は、きわめて多大な悪影響を社会にあたえることになった。(p221)
こうして、ハンス・アスペルガーやその同僚の優れた洞察は完全に失われ、第一人者であり、自らを発見者だとも主張するレオ・カナーが考えだした説が、医学界の主流となっていきました。
そしてレオ・カナーが自閉症を「発見」したという論文を出したころ、本当の発見者であるハンス・アスペルガーは第二次世界大戦の混乱の真っ只中にいました。
カナーの最初の論文が公刊された四ヶ月後にアスペルガーが、博士論文指導教授のフランツ・ハンブルガーに論文を提出するが、上司の関心は障害を持つ子どもの根絶ひいては、ユダヤ問題の最終的解決すなわちユダヤ人の絶滅へと向いてしまっていた。
そしてアスペルガーの論文が翌年出版された時には、診療所そのものが廃墟と化していたのであった。(p218-219)
レオ・カナーという自閉症の偉大な「発見者」の後追いをする、無名のオーストリアの医師アスペルガーの論文を真剣に受け止める人はほとんどおらず、彼の業績のほとんどは英語に翻訳されることもなく、瓦礫に埋もれた診療所と同じように、歴史の闇に埋没していきました。
虹色のスペクトラムが再発見される
その後の自閉症研究は迷走に迷走を重ね、アスペルガーの研究が再評価されるまで、何十年もの時を要しました。長いあいだ滞っていた歴史が進展したのは、1980年代になってからのことです。
ハンス・アスペルガーの研究が再び日の目を見たのは、イギリスの精神科医ローナ・ウィングがアスペルガーの未翻訳の論文に注目したことがきっかけでした。
アスペルガーの論文は未だに英語に翻訳されていなかったので、ローナはジョンらに翻訳を頼んだ。
その論文を読んだローナは、自分がキャンバーウェルで見た状況と同じものを、アスペルガーもまたウィーンの診療所で目の当たりにしていたのだと悟った。
彼女がいうところの「誰もがお手上げの子どもたち」を、同僚たちがよこすようになると、ローナの目には、アスペルガーのモデルの妥当性がより一層はっきりと見えてきた。
明らかにカナーの狭い自閉症の枠組みにおさまらなかったため、彼らの多くは統合失調症との診断が下されていた。(p444)
ローナ・ウィングは、自閉症は重い知的障害だけに限定されるという第一人者の見解に納得できませんでした。
そして、アスペルガーの論文を読んだとき、半世紀近く前に、すでにハンス・アスペルガーが同じ見解に至っていたことを知りました。
ウィングは、アスペルガーの着眼を現代によみがえらせ、自閉症は、さまざまな種類の連続性をなす多様な症候群であることを提唱し、現在用いられている「スペクトラム」という概念を世に送り出しました。
今日、その「自閉症スペクトラム」という言葉は、自閉症は軽度から重度までさまざまな程度が連続する病態なのだ、ということを表すために用いられていて、わたしも以前はそうした理解をしていました。
言い換えればそれは、最も重いカナー型自閉症を左端として、中程度の自閉症、そして高機能なアスペルガー症候群へと続き、右端に定型発達者が位置するような考え方です。でもそれだと、あたかも右端の定型発達者こそが「健康」であるかのようです。
この本によると、ローナ・ウィングは、まったく異なる考え方をしていて、軽度から重度まで連続しているという意味合いを避けるために、わざと「連続体」という表現ではなく「スペクトラム」という言葉を選んだそうです。
そのうちにローナは「連続体」という言葉に対する興味を失ってしまった。
彼女が主張したかったのは、個々の障害はもっと個別で細かな差異があって、多次元的なものであるということなのに、この表現では軽度から重度まで重症度の増加勾配を意味するものになってしまったからである。(p449)
ローナ・ウィングは、健常者と障害者のあいだのグレーゾーンという意味で、スペクトラムという概念を用いたのではありませんでした。むしろ、 一人ひとり多彩でユニークな個性を持っているという意味合いを込めてこの単語を選びました。
結局彼女は「自閉症スペクトラム」という用語を採択した。
美しい虹のイメージや自然の持つ非常に多様な創造性を証明する現象を連想させる、その言葉の響きを気に入ったのである。(p449)
ですから本来の「自閉症スペクトラム」という概念には、カナー型自閉症は「低機能」で、アスペルガー症候群は「高機能」だというような比較は含まれていません。
そうではなく、ちょうど虹の七色に優劣がないように、どの自閉症もかけがえのないユニークな個性なのです。
それはまさに、ハンス・アスペルガーが、半世紀ほど前に、自閉症の子どもたちと触れ合い、観察する中で気づいたことでもありました。
こうして、自閉症の暗黒時代の霧は少しずつ晴れはじめ、かつてアスペルガーが発見した自閉症の姿が徐々に明らかになる、本来の道筋へと戻ってきたのでした。
それこそが自閉症研究の原点だった
この本の内容は非常に詳細で、ここで取り上げた自閉症の歴史は、ごく一部にすぎません。ハンス・アスペルガーやレオ・カナーの人となりについても、もっと多様な情報が含まれていますし、自閉症の歴史にはもっと多様な人物が関係しています。
ところどころ翻訳の問題が指摘されている本書ですが、自閉症研究の詳細な歴史としてとても価値のある一冊なので、興味のある人はぜひ読んでほしいと思います。
この記事で、あえてハンス・アスペルガーとレオ・カナーをめぐる出来事を取り上げたのは、自閉スペクトラム症にかかわる人にとって、当事者にとっても周囲の人にとっても、どうしても知っておく必要のある歴史だと感じたからです。
この記事では、ハンス・アスペルガーとレオ・カナーを対比させ、レオ・カナーの権力欲がもたらした不幸な歴史をたどってきましたが、この記事の目的はレオ・カナーの評判に泥を塗ることではありません。
確かにこの本を読むと、レオ・カナーに関するさまざまなスキャンダラスなエピソードが出てきますが、良くも悪くも自閉症という発見を世の中に広めたのは彼の社会的立場あってのものでした。
ハンス・アスペルガーの発見を横取りしたレオ・カナーのような不正行為は、残念なことに、歴史上何度も繰り返されてきました。
例えば、有名なところではライプニッツとニュートンの確執があります。ニュートンは、ライプニッツより先に微分法を発見したと主張し、王立協会会長という影響力ある立場を利用してライプニッツの名誉を貶めたとされています。
この不正行為は紛れもなくニュートンの輝かしい経歴に傷をつけるものですが、だからといって、ニュートンの他の業績が否定されるわけではありません。レオ・カナーの不正行為も、彼の人間としての弱さを露呈するものでしたが、彼の業績がすべて害悪であったわけではないでしょう。
不幸だったのは、レオ・カナーという人物が、自閉症の子どもたちに共感する感性を持ち合わせていなかったことに尽きます。
以前に書いたように、自閉症の人たちが「共感性がない」とされてきたのは、自閉症ではない人たちが研究の主導権を握ってきたからだと思われます。
部外者である定型発達の研究者たちが、ちょうど自分たちとは違う部族、異なる言語を使う少数民族を研究してきたようなものなので、表面的な理解に基づいた誤解が生じてしまったのです。
言ってみれば、アメリカで生まれ育った典型的な米国人が、日本文化の専門家になろうとしても、知らず知らずのうちに、どこか視点のずれが生じてしまうようなものです。どの民族にもネイティブにしかわからない微妙な感覚があります。
レオ・カナーが自閉症について見当違いな主張をしてしまったのも、悪意から来たものではなく、当事者に共感しきれないことからくる研究者としての限界があったのでしょう。
他方、ハンス・アスペルガーが自閉症文化の“ネイティブ”だったのかは定かではありません。とはいえ、彼の子ども時代について、周囲から浮いた独特な個性だったことが語られています。
小学校に通っていた時、ハンスは一日中本に没頭し、夜にまだ宿題をしていないことに気がつき、慌てるような子どもだった。(p116)
少なくとも、ハンス・アスペルガーは、多数派とは異なるどユニークな個性をもった少年時代を送っていて、その経験が、自閉症の子どもたちに共感し、マイノリティとしての苦労や長所を理解する大きな助けになったのでしょう。
こうした生まれ持った素質や生い立ちの違いが、自閉症に対するハンス・アスペルガーとレオ・カナーの考え方を左右し、正反対の方向へと歩ませたのかもしれません。
わたしが この記事で注目したかったのは、レオ・カナーの研究の不備ではなく、ハンス・アスペルガーの洞察のほうです。
今日ようやく市民権を得るようになってきた自閉スペクトラム症に関するさまざまな理解を、彼が最初からすでに先取りしていたことを知ると、自閉症という概念に対する見方が変わるはずです。
自閉症はひとつの個性であるとか、自閉症は障害ではなく社会的少数者であるために困難に直面している、という考え方について、最近になって登場した歴史の浅い思想の一つであるかのように感じている人もいるかもしれません。
中には、それは自閉症の人たちが自分たちを弁護するために考えだした詭弁ではないか、というような斜に構えた偏見を持っている人も、いるかもしれません。
しかし事実は逆で、こうした考え方は、80年近く前にハンス・アスペルガーが客観的な観察を通して すでに見出していた事実、自閉症の研究のまさに中心、原点にあるものなのです。
最後にもう一度、 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)から引用してこの記事を締めくくりたいと思います。
自閉スペクトラム症にせよ、その他の理由があるにせよ、いま社会的なマイノリティの立場に置かれている人にとって、ハンス・アスペルガーが、早くも1944の時点の論文の中に寄せたこの言葉は励みになるものではないでしょうか。
自閉症の実例はアブノーマルとされる人でさえ、どれほど発達と順応の能力があるかを如実に示してくれる。
当人ですら夢想だにしなかったように社会へ融け込める可能性は、発達の過程で生まれるものなのかもしれない。
このような知見は、自閉症や他のタイプの問題を抱えた人たちに対する私たちの態度に、多大な影響をあたえるものである。
さらに私たちには自らの存在をかけて、こうした子どもたちを擁護する権利と義務があることを教えてくれるのである。(p118)