解離という能力を使って、痛みと窮地を生き延びた すべての勇気ある子どもたちと、子どもたちの中に住むパーツたちへ (p3)
今年8月に翻訳された絵本、私の中のすべての色たち: 解離について最初に出会う本を買ってきて読んでみました。
タイトルどおり、解離について学べる絵本なのですが、わたしの思っていることが詩的な表現でまとめられていて素晴らしかったです。
トラウマ障害を解説する本というと、暗くネガティブな雰囲気になりがちですが、この絵本は一貫して、解離を用いて生き延びてきた子たちのポジティブな側面を強調しています。
ひとつ前の記事で書いたように、病気の患者は何か欠けている障害者だ、とみなすのではなく、逆境を精いっぱい生き延びてきた創造的で勇気ある人、として描いている理想的な絵本です。
著者のサンドラ・ポールセン博士が、解離の専門家であると同時にイラストレーターでもある、芸術的な感性をもつセラピストだからこそかもしれません。
この記事では、この絵本 私の中のすべての色たち: 解離について最初に出会う本(原題:All The Colors of Me)の特徴を紹介します。
また解離の専門家である柴山雅俊先生の解離の舞台―症状構造と治療から、この絵本のテーマである「私の中のすべての色たち」の意味について考えたいと思います。
これはどんな絵本?
この絵本は、 こわかったあの日に バイバイ! : トラウマとEMDRのことがわかる本を書いた心理療法家アナ・M・ゴメスと、 図解臨床ガイド トラウマと解離症状の治療―EMDRを活用した新しい自我状態療法を書いた国際トラウマ解離学会のサンドラ・ポールセンによる共著です。
サンドラ・ポールセンの本は、以前に自我状態療法について扱ったとき、このブログでも参考にしました。
その本では、モンスターのような人格部分(パーツ)は、じつは怪獣の着ぐるみをかぶった幼い子どもなのだ、という挿絵などを通して、難しめの内容が印象的なイラストで補完されていました。
今回の絵本でも、解離のさまざまな特徴が、サンドラ・ポールセンの独特で個性的なイラストを通してわかりやすく描かれています。
なぜかAmazonの販売ページの内容紹介が文字化けしていたり、情報が少なすぎたりしたので、誰かのレビューを見てから買うかどうか決めようと思っていましたが、発売後数ヶ月経っても何の情報もなく。
タイトルがとても好みですし、著者がサンドラ・ポールセンですし、ページ数も48ページということで、内容が薄すぎることはあるまいと判断して、購入することに決めました。やっぱり他力本願はだめですね(笑)
まず解離に気づくことから
最初のページによると、この絵本は、こんな目的のために描かれました。
これは子どもの解離についての本です。
解離している子どもは、自分が解離していることすらわかっていないことがほとんどです。
解離は、私たちの心と体がやってくれる驚くべき対処法です。
私たちはみんな解離すると考える人もいますが、解離が起きるのは、どうすることもできなくなったり、つらくて苦しくなったときだと考える人もいます。
解離は、私たちがそれをコントロールできる、できないにかかわらず起こることがあります。
いつ、どのように起きているのか、気がつかないときさえあるのです。(p7)
ここで著者が書いているように、解離という現象は、わたしたちのだれもが体験しうる、そして実際に体験している身近な現象です。にもかかわらず、「いつ、どのように起きているのか、気がつかない」ものです。
以前の記事でも引用しましたが、神経生理学者のピーター・ラヴィーンは、解離について、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中でこう述べていました。
幼少期に繰り返しトラウマを受けた人は、この世に存在しやすくするための方法としてしばしば解離を身に着けます。
彼らは常にたやすく解離し、しかもそれに気づいていません。
習慣的に解離しない人でも、覚醒したり、不快なトラウマのイメージや感覚を持ちそうになると解離します。
どちらの場合でも解離は、未解放の過覚醒エネルギーを私たちが完全に体験せずにすむという点で貴重な役割を果たしています。(p160)
解離とは、苦痛に気づかないようにするための能力です。本人も気づかないうちに苦痛を切り離して「完全に体験せずにすむ」ようにしてくれます。だから大半の人たちは解離が起こっていることさえも意識しません。
けれども、「幼少期に繰り返しトラウマを受けた人」は、たいてい普通以上に強い解離を働かせなければならないような状況を生き抜いてきたので、さまざまな不思議な症状が引き起こされます。
それでも、それが解離によるものだとは、なかなか気づかないものです。
さらに、解離は気づきにくいだけでなく、現れる特徴も千差万別です。この絵本では、解離の兆候は人によってさまざまな異なる、とされていました。
子どもはそれぞれ、とても特別で独特な方法で解離するかもしれません。
感じたり、見たり、聞いたり、心の中にある場所を呼び出したりするための独自の方法を持っているかもしれません。(p17)
解離は子どもによって、それぞれ「とても特別で独特な方法」で現れるので一人として同じ症状はありません。
それを踏まえた上で、この本では、心身に起こるさまざまな兆候がイラストで解説されていて、自分では意識していない解離に気づけるよう工夫されています。
たとえば、そうした解離の兆候の中には、世界から切り離されているように感じたり、ものの大きさが違って見えたり、時間や記憶が飛んだように感じたりすることがあります。
また「ぼうっとなって、眠たい感じ」などは、日本だと不注意優勢型のADHDなどと診断されてしまい、解離だとはなかなか気づかれないかもしれません。(p19)
解離は心理的な症状として現れるとは限りません。たとえば「体全体か一部がマヒしたように感じるかもしれません」。(p22)
この本には具体的には書かれていませんが、身体の動きのぎこちなさや、理由もわからず息苦しさを感じること、ぐったり疲れる虚脱状態なども、生物学的な観点からすれば解離の兆候でした。
解離に一人として同じ症状がないのは、解離とは何かとても苦しく耐えがたい経験をしたとき、それを覆い隠すために、そして生き延びるために「私たちの心と体がやってくれる驚くべき対処法」だからです。(p7)
どんな解離が起こるかは、どんな辛い出来事を経験したかに対応しています。心理的に追い詰められた人は感情が麻痺して切り離されますし、身体の一部を痛めつけられた人はその部分が切り離され、痛みから逃れられるようにされます。
一人として同じ苦痛を体験する人はいないので、苦痛を覆い隠すために起こる解離もまた、一人として同じものはないのです。
「わたしの中のすべての色たち」
そんな解離のさまざまな特徴を、この絵本では、「わたしの中のすべての色たち」という美しい比喩表現を用いて描いています。
私たちは生まれたとき、心の中に“いきいきとかがやく私”を持っています。
そして私たちは、心の中に虹を描くために必要な色鉛筆を全部持っています。(p10)
わたしたちはみな、生まれつき、すべての色がそろった虹色の色鉛筆のセットを持っています。それによって「いきいきとかがやく私」を心のキャンバスに描き、世界で一人だけの自分を創り出していくことができます。
しかし、とても辛い苦痛を経験すると、この心の中の色鉛筆セットがバラバラになってしまい、あらゆる色を失ったかのように感じてしまいます。
本当は、「私の中のすべての色たち」が集まって一人の自分が描き出されるはずなのに、あたかも自分は透明になって、自分からは切り離された様々な色が心の中に散らばっているかのようになってしまいます。
一つ一つの色鉛筆が、「私」の手を離れて、それぞれ好き勝手に絵を描き初めてしまうのが、解離です。本当は、まとまった一つの自分という絵を描きたいのに、心の中の色たちは言うことを聞いてくれず、コントロールできなくなってしまいます。
この説明だと、抽象的すぎてちょっとわかりにくいかもしれません。
そこで役に立つのが、国内の解離の専門家である柴山雅俊先生の、解離の舞台―症状構造と治療です。興味深いことに、柴山先生もまたこの本の中で、解離を分かたれた色にたとえていました。
柴山先生が調べたところによると、解離している人たちは、自分のイメージについて尋ねられたとき、「色がない」「無色」「透明」などと表現することが多かったといいます。
自分の色について、解離性障害の患者57名のうち41名(72%)が、自分の色について「ない」「透明」「白」「グレー」「黒」と答えている(2012年2月調査)。
とりわけ注目されるのは、色が「ない」と「透明」が合わせて13名(23%)に見られたことである。
…自分の色については、一般女子大生に比較すると、解離性障害の患者では、圧倒的に「ない」「透明」「グレー」が多いことになる。
解離におけるこのような有彩色のなさを、どのように考えたらいいのであろうか。(p33-34)
解離した人たちの自己イメージからは、圧倒的に有彩色が失われていました。「私の中のすべての色たち」がいなくなってしまっていたのです。
なぜ解離した人は、無色になってしまうのでしょうか。柴山先生は、そのヒントとして、「過剰同調性」をもつ人たちに注目します。
相手から嫌われたり周囲の空気を壊したりするのが怖いため、幼少時から目の前の他者に対して過剰に合わせようとする傾向を「過剰同調性」と呼ぶ。
こうした人間関係は現代の若者の多くに見られる特徴であるが、解離ではそれがよりいっそう顕著な形で表れている。
次の症例は過剰同調性を色でたくみに表現している。
●症例B(女性・30代半ば・特定不能の解離性障害)
世界は何色にも変わる無色です。光の加減でペンとかでも虹色になる。そのときそのときで、黒いイメージであったり、虹色、紫であったりする。自分は色をもっていない。そのときの環境で自分の色は変わる。相手の求めるものに合わせすぎる。
そこまで気をつかわないでいいよと人に言われる。子どもの頃からそれは変わらない。(p36)
解離の強い人たちは、子どものころから、自分の身を守るために、過剰に相手に合わせ、同化する傾向を身に着けていることが多いと言われています。これは「過剰同調性」と呼ばれます。
過酷な現実で生き延びるためには、自分を犠牲にして、周りの人に合わせなければなりません。
たとえば、不仲な両親のもとで育った子は、親同士の板挟みになり、それぞれの親に合わせなければ生き抜けません。病気のきょうだいがいたら、もっと甘えたいという自分の色を押し殺してひたすら我慢しなければならないかもしれません。
それはつまり、自分の色を捨て、無色になり、周りの色に合わせる、ということです。本当は色とりどりの自分を持っていたのに、それを表現することを許されず、ただ自分を押し殺すしかなかった。だから色が消えてしまいます。
では、元々あったはずの「心の中のすべての色たち」はどうなってしまったのでしょうか。「私」の中の虹色の色鉛筆セットは、どこかに捨てられてしまい、もう二度と戻ってはこないのでしょうか。
いいえ。柴山先生は、解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格の人たちと接するうちに、不思議な共通点があることに氣づきました。
交代人格はたいていの場合、自分たち特有の色をもっている。
それに対して本来の人格は。自身が色をもつことにどこか抵抗があるようにも見える。
…次の症例は、本来の人格と交代人格について対比的に説明しており、参考になる。
●症例C(女性・30代後半・解離性同一性障害)(α、β、γは交代人格の名前)
この世界の色はグレーです。自分の色は無色。色が思い浮かばない。透明のような色。私に色はないけど、αは派手なパープル、βは青、γは白です。
自分はいつもすぐに消えちゃいそうだから、自分には色はない。私はこの世の中に居場所がない。
αやγには自分の世界があって、これをしたいとか役割がある感じがするけど、私にはこうした世界がない。(p37)
たくさんの人格を抱え持つ解離性同一性障害の人たちもやはり、自分は無色や透明だと感じていて、色がありませんでした。
しかし、交代人格、つまり自分の中にいるさまざまな部分(サンドラ・ポールセンは「パーツ」と呼んでいる)たちは、それぞれ固有の色を持っていました。
ここで例に挙げられている女性は、いじめや家庭内の居場所のなさから、解離せざるを得なかったといいます。無色透明になり、周りに自分を同調させることで、居場所のない子ども時代をやっとの思いで生き抜いてきました。
自分自身から色が失われるにつれ、時を同じくして現れたのが、αやβ、γといった、さまざまな固有の色をもつ人格部分でした。
βは皆の話を伝達する役割。γは私を助けてくれる。私が言えないことを言ってくれたりする。
γは小学校からいて、相手に仕返しをしてくれたり、殴ったりする。そうしたとき私は部屋のなかで安心して寝ている。(p38)
解離する人たちは、周囲に合わせるため、自分の願いも望みも犠牲にする必要に駆られます。そのとき、自分の色を押し殺して無色になるために、「心の中のすべての色たち」を切り離さざるを得ません。
切り離された「心の中のすべての色たち」は、あたかも自分の手を離れた色鉛筆のように、それぞれ独立した色として絵を描き始め、それぞれの役割や存在価値をもって独りでに振る舞い初めます。
「私」のコントロールを離れた色たちは、時には手がつけられない暴力的な人格になったり、年端もいかない子どもの人格になったりもします。それでも、いまの話にあったとおり、どんな人格も、すべて「私」が生き延びるのを助けるために存在しています。
「私の中のすべての色たち」は、もっと穏やかな友だちのようにして現れることもあります。今回の絵本にはこう書かれていました。
子どもには仲のいい友だちがいることがあります。
でも、その友だちは他の人からは見ることができない、想像上の友だちです。
その友だちが子どもを守っているのかもしれません。それに…その友だちは、子どもの心にいるすべての色たちなのかもしれません!(p36)
子どもの心のなかの切り離された色たちは、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)として、振る舞いはじめることもあります。それらは、切り離されたとはいえ、子どもを守るために存在しています。
中には、切り離されたあと忘れ去られてしまい、まだ自分のアイデンティティを確立できていない色もいるかもしれません。
以前の記事で詳しく扱ったように、原因不明の感情の変動や、身体の症状は、そうした気づかれてない人格部分が抱える痛みや苦しみ、とみなすことができます。
「私」から切り離されて、だれからも見つけてもらえず、暗闇の中でひとりぼっちになって取り残されている「色たち」の、悲しみにくれて人知れず泣いている声が、言葉にならない心や身体の痛みとして現れているのかもしれません。
そうした切り離された色に気づき、ひとつの自分として結び合わせるために作り出された方法が、サンドラ・ポールセンの「自我状態療法」であり、リチャード・シュウォーツの「内的家族システム療法」(IFS)でした。
解離は「勇気と強さの証」
どのような経緯で解離せざるを得なかったとしても、それは決して異常なことでもなければ、弱さのしるしでもありません。
今回の絵本の中では、解離することは、実際には「勇気と強さの証」だと繰り返し励まされています。
子どもは、自分を責めたり、解離する自分が悪いんだと考えたりするために、解離について話すことを恥ずかしいと感じることがあります。
でも本当は、子どもは生き延びるために解離するし、これまでも解離してきたのです。
実はそれは勇気と強さの証なのです!(p16)
トラウマを抱えた子どもたちの解離が、「勇気と強さの証」とはどういうことでしょうか?
一般に、トラウマを抱えた子どもたちは、傷つき、弱り果て、心も脳も損なわれた人とみなされます。
しかし、それは「解離」という概念の本質を見落としています。
解離とは、大人のように自由に逃げたり闘ったりできない子どもが、自分一人の力では到底太刀打ちできないような恐ろしい試練に直面したときに、なんとか生き延びるために編み出す創造的な対処法です。
精神的に、感情的に、肉体的に追い詰められたとき、大人は、そこから逃げ出したり闘ったりできます。
しかし、子どものころは違います。まだ社会に出たこともなく、家庭や学校という狭い世界しか知らない子どもたちは、どんなに辛いことに直面しても、ただじっと我慢してやり過ごさなければなりません。
どこにも逃げ場がないほど追い詰められたとき、子どもに残された最後の手段が、自分の中のすべての色を切り離し、透明になることです。そうした極限状況は「逃避不能ショック」と呼ばれていました。
ときどき、映画などで、こんな場面が描かれます。
豪華客船が今にも沈没しそうな極限状況。救命ボートは限られた数しかありません。すべての乗客が助かるのは不可能です。
そのとき、勇気ある人が、自分を犠牲にして、子どもたちを優先的に船に乗せます。そして、自分は逃げ場のない船上にとどまります。
解離する子どもたちはこれとよく似ています。
どこにも逃げ場がない状況。希望も、望みも、喜びも、満足感も、将来も、すべてが否定されてしまうような極限状況に追い詰められたとき、子どもは生き延びるために一つの決定を無意識のうちに下します。
自分一人が、今にも沈みそうな船上に残り、自分の中にいるすべての色たちを切り離して安全に逃れさせることを選びます。
希望、望み、将来、喜び、満足感、そういった色とりどりの部分が、今まさに直面しているこの辛く苦しい体験によって損なわれてしまわないよう、自分から切り離して、安全な場所へと救命ボートで送り出すのです。
その結果、「私」は何も色のない、無色透明な存在になります。生きているのか死んでいるのかわからないような状態になり、喜びも満足感も感じられなくなってしまいます。
でも、虹色の色鉛筆は決してなくなったわけではありません。「私」が勇気ある行動をとって、それらを救命ボートに載せて切り離したので、それらは自分の中のどこかで、無傷のまま生き残っています。
解離の専門家ヴァン・デア・コークは身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、その無傷のまま生き残っている自己を「セルフ」(自分そのもの)という言葉を用いて、こう表現しています。
トラウマサバイバーの表面に現れた防衛的な部分の下には、無傷の本質、すなわち、自信と好奇心に満ちた穏やかな「セルフ」、生存を確保しようとする中で現れ出たさまざまなプロテクターたちのおかげで破壊を免れてきた「セルフ」が存在する。(p468)
今回の絵本私の中のすべての色たち: 解離について最初に出会う本の中で、解離は「強さと勇気の証」だと書かれていたのは、このためです。
つまり、解離とは、どこにも逃げ場がない沈みゆく船上のような危機的状況において、自分を無色透明にしてまで、「私の中のすべての色たち」を生き延びさせる勇気ある行動なのです。
自分が弱いとか、変だとか、何か間違ったことをしたから解離するということはないということを、いつも忘れないでいてください。
それどころか、勇敢で、勇気があって、心の中にヒーローがいるから解離するのです!!!(p43)
そしてヴァン・デア・コークによると、その無傷のまま残っている虹色の自分(セルフ)を取り戻すための方法が、内的家族システム療法や、それに類似する自我状態療法なのです。
内的家族システム療法は、患者が生き延びるために創り出した、分離された部分を呼び出して、その人がそれらを特定し、それらと話せるようにし、その結果、無傷の「セルフ(自分そのもの)」が出てこられるようにする。(p509)
解離は「すべての色たち」を保護している
これまで、このブログでは解離について、さまざまな専門家の意見を多様な観点から調べてきました。
たくさんの情報に触れた結果、わたしが解離について抱くようになった思いは、サンドラ・ポールセンとアナ・ゴメスがこの絵本で描写していることとまったく同じです。
現在の一般的な医学では、解離は、解離性障害という病気の主症状であり、心身に異常をもたらす悪いもののように捉えられがちです。
しかし、解離とはそもそも人間に普遍的に備わる防衛機制、つまり脳と心を守るために自発的に働くセーフティ・システムです。
解離性障害をはじめ、多種多様な解離の症状は、たしかに辛いものですし、日常生活に破壊的な影響を及ぼすこともあります。解離した状態では、人は生きる喜びも満足感も得られず、ゾンビのようになってしまいます。
しかし、それは解離が悪いのではなく、受けたトラウマの大きさを物語っているにすぎません。解離はむしろ、当人を保護するために働いています。
幼少期に、慢性的で耐えがたい苦痛を体験したとき、トラウマを覆い、隔離し、切り離すことで、それでも生き延びられるようにしてくれるのが、解離という能力です。
おそらく、解離性障害の患者たちは、もし解離という防衛機制が働かなかったら、今ごろこの世に生きて存在していないか、心が破壊されて正常な思考を保てなくなっているかのどちらかでしょう。
解離の専門家の岡野憲一郎先生が、解離性障害の人から解離による保護をとり去ったなら、「(多重人格障害ならぬ)単一人格障害」になりかねないと書いていたのを思い出します。
解離性障害の患者は、治療をうける過程で部分的に解離が解除されると、一時的に症状が悪化すると言われています。サンドラ・ポールセンの自我状態療法でも、そうした場合に備えて「安全な場所」のイメージを作るステップが必須です。
解離した人は過去のトラウマ経験の詳細を覚えていないことがほとんどですが、過去のトラウマの苦痛を切り離し、覆うことで、思い出すことの耐え難い苦痛を和らげているのが解離です。
成長してから初めてトラウマを経験した人は、たいてい解離する代わりに、PTSDの症状が強く現れます。しかし、子どものころに慢性的で強いトラウマを経験した人は解離能力が発達するので、PTSD症状よりも解離症状が目立ちます。
身体的に無力な幼少期に慢性的なトラウマを経験するというのは、成人してから一過性のトラウマを経験するよりよほどショッキングなはずですが、解離が働くおかげで、こうした子どもはなんとか生き延び、大人になっていきます。
そして、解離のさまざまな症状に悩まされるとはいえ、PTSDのようにトラウマ記憶に圧倒されるようなことはなく、少なくとも表面的には日常生活を送り続けることができます。解離が過去の記憶を強力に隔離してくれているからです。
トラウマティック・ストレス―PTSDおよびトラウマ反応の臨床と研究のすべての中でヴァン・デア・コークはこう書いていました。
解離能力によって、このような患者の多くは、人生のいくつかの曲面においてかなりの成功を収めることを可能にするような有能な領域を発達させることができるが、一方で、解離した自己の断片のある面は、トラウマに関する記憶をもっており、親密さや攻撃性に関係する問題を調整する能力に壊滅的な軌跡を残してしまう。
…解離は、自分を圧倒してしまうような感情から、自分自身を保護するために距離を保つ一方で、「死んだような」主観的感覚や他者から切り離されてしまったという感覚をもたらしてしまう。(p216-217)
慢性的な解離が生じると、過去の記憶を封印しておくための代償として、「私の中のすべての色たち」、つまり色とりどりの喜びや満足感が犠牲にされてしまいます。
しかし、それでも解離は脳を保護するために働いているのであって敵ではないのです。
「子ども時代を生き抜くための創造的な対処法」
以前考察したように、解離と創造性は、同じコインの裏表と思われます。解離とは、身体的に無力な子どものころに辛い経験をした人が、それを乗り越えるために発揮するたぐいまれな創造性です。
先日のNHKのニュースの中で、解離性同一性障害の当事者であり、 私の中のわたしたち――解離性同一性障害を生きのびての著者でもあるオルガ・トゥルヒーヨについてこう書かれていたのを思い出します。
News Up 私の中の、知らない私 | NHKニュース (インターネットアーカイブへのリンクはこちら)
オルガさんも「私にとっては耐えがたい暴力にさらされた子ども時代を生き抜くための創造的な対処法だった」と語っていました。
…ある医師の「解離性同一性障害の症状がある人と接する時、“自分の中に身代わりの人格を立てなければ耐えられないほどつらい体験を生き延びてきた人”として敬意を持って接する」という言葉が忘れられません。
医学的にはさまざまな見解があるかもしれません。ただ、虐待や暴行、精神的な追い込みを繰り返し受けている人が確実にいます。
そうした人が、周りに自分を守ってくれる盾がない時、別の人格という心の盾を作ることで、なんとか命を守ってきたのではないかと感じることが私にもあるのです。
解離は「子ども時代を生き抜くための創造的な対処法」です。解離する子どもが、痛みや苦痛をやり過ごすために編み出す方法は実にさまざまです。
ただ記憶を切り離すだけのこともあれば、感覚を切り離して身体や感情を麻痺させることもあります。過剰同調性のように、自分を透明にして「色」を切り離すこともあります。
さらに、切り離された「色」は、空想の友だち(イマジナリーコンパニオン)として慰め励ます存在として成長したり、日常を協力して切り抜けるための交代人格として現れたりもします。
中には、現実のどこにも居場所がないがために、自分だけの居場所、避難所としての空想世界を創り上げる子もいます。それがやがて、創作の才能として成長していくことさえあります。
柴山先生は、解離の舞台―症状構造と治療の中で、解離と色の考察の締めくくりにこう書いていました。
彼女たちは自分の色をもつことができないでいる。多彩な色を身にまとうことはできる。そのなかに溶け込み、演じ、かぶることはできる。
しかし、自分の色を「もつ」ことができないでいる。多彩な色は自分がもつ色ではなく、他者がもつ色でしかない。
しかし、彼女たちにはどこか状況に合わせて多彩な色を引き出す力、受動を能動に変えていく潜勢力がある。
彼女たちの何人かは、回復過程の中で絵やイラストを描いたり、作曲をしたりして創造的活動へと向かう。(p39)
トラウマを乗り越え、解離によって生き抜いてきた経験を創造性に変え、サバイバーから作家へと転身していった人は少なくありません。
いずれの場合にしても、闘ったり逃げたりできない子どもが、何とかして苦痛をやり過ごすために創造した方法、オルガ・トゥルヒーヨの言う「耐えがたい暴力にさらされた子ども時代を生き抜くための創造的な対処法」こそが解離なのです。
わたしは解離という概念を知れてよかったと心から思います。解離について学んだ最初の本が、芸術的感性に富む柴山雅俊先生の本、解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)だったのは幸運でした。
先生は漫画や似顔絵を描くのが得意だそうですが、この本では宮沢賢治の創作と解離のつながりが考察されていて、最初から解離のポジティブな側面を知ることができました。
その後、ヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンのような創造性豊かな専門家たちの生き生きとした著作から学び、今またサンドラ・ポールセンとアナ・ゴメスによる絵本で解離の理解を深められたことを嬉しく思います。
はじめに書いたように、トラウマ研究というと、ともすれば暗くじめじめとして恐ろしいイメージがつきものです。
実際、トラウマに苦しんでいる人は、ヴァン・デア・コークが身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法で述べる「魂の闇夜」のただ中で闘っています。(p225)
しかし彼はまた、こうも書きます。
トラウマは私たちの脆さや、人間に対する人間の残酷さを絶えず突きつけてくるが、それと同時に、私たちの途方もないレジリエンスをも見せつけてくれる。
…彼らの症状は彼らの強みでもあると私は見ている。それは、彼らが生き延びるために学んだ方策なのだ。
そして彼らの多くは、あれほどの苦しみを抱えているにもかかわらず、やがて愛情深い伴侶や親、模範的な教師や看護師、科学者、芸術家になった。(p597)
トラウマについての研究、特に解離についての研究は、「彼らが生き延びるために学んだ方策」、トラウマを生き延びるために一人ひとりが編み出してきた創造的な生存戦略についての研究でもあるのです。
今回紹介した絵本私の中のすべての色たち: 解離について最初に出会う本は、まさにそうした観点から、解離について生き生きと説明してくれています。タイトルどおり、解離について最初に出会う本として、申し分のない一冊です。
今まさに解離と向き合っている子どもたちにとって、さらには子ども時代の苦難を解離とともに生き延びてきた大人たちにとっても、「私の中のすべての色たち」に気づき、「心の中の虹」を取り戻すのをそっと後押ししてくれる本になるでしょう。
色を失ってしまうことはありません。色たちは手を取り合って一緒に活動することができるので、子どもはちゃんと自分の心の中の虹を感じることができるようになるのです。(p43)