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本当は何も知らないことに気づけない―だれもが陥る「知ってるつもり」の認知科学

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「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」。(新共同訳) 

およそ2000年前、新約聖書の筆者はそのように書いたそうです。

この言葉は、知識が飛躍的に進歩した今日でも真実であり、知ってるつもり――無知の科学の著者である認知科学者スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックは、次のように書いていました。

おそらくなにより重要なのは、個人の知識は驚くほど浅く、この真に複雑な世界の表面をかすったぐらいであるにもかかわらず、たいていは自分がどれほどわかっていないかを認識していない、ということだ。

その結果、私たちは往々にして自信過剰で、ほとんど知らないことについて自分の意見が正しいと確信している。(p12)

2000年前も、現代も、わたしたち人間は、ほんのわずかしか知らないことを「知ってるつもり」になる、という点で何ら変わっていません。

スローマンとファーンバックは、「さまざまな心理学的現象を研究してきたが、知識の錯覚ほど出現率の高いものにはめったにお目にかからない」とさえ述べています。(p33)

自分が本当は物事を知らないということに気づけない、という現象は、もちろんこの記事を書いているわたしも含め、あらゆる人が日常的に経験する普遍的な錯覚であり、人類社会の隅から隅にまで浸透しています。

しかも自分がその錯覚に陥っていると気づくことからして困難です。世の中にみられる極端な思想の対立は、本当はろくに知らないことをよく知っていると思い込み、自信満々に支持してしまうせいで生じていることが多い、と著者たちは述べています。

人はなぜ自らの理解度を過大評価してしまうのでしょうか。どうすれば自分が知識の錯覚に陥っていることに気づけるでしょうか。そもそもどうして人類という生き物は、知識の錯覚を抱くよう発達してきたのでしょうか。

この記事では、わたしたちを謙虚にしてくれる知ってるつもり――無知の科学の研究を紹介したいと思います。

また記事末の補足部分では、「知っていると同時に知らずにいること」と表現される「解離」との関係性についても考えます。

これはどんな本?

知ってるつもり――無知の科学の著者は、25年以上にわたり知性について研究してきた認知科学者スティーブン・スローマンと、マーケティング論の教授として意志決定を研究してきた認知科学者フィリップ・ファーンバックです。

二人は各々の研究から、人間の知性は思った以上に限界や制約を抱えていること、自分で決めたと思っている意思決定でさえ実は他人や環境の影響を色濃く受けていることなどを明らかにしてきました。

とりわけ二人の研究から浮かび上がったのは、わたしたちは皆、自分がどれだけ知識を持っているか強烈な錯覚に陥っていて、しかもそれに気づいていないということでした。

さらに明らかになったのは、人はファスナーのような身の回り品だけでなく、ありとあらゆるものに対してこうした錯覚を抱くということだ。

税制や外交関係のような政治問題、遺伝子組み換え技術や気候変動といった科学分野の重要トピック、さらには自分の懐具合についてまで、人は自分の理解度を過大評価する。

われわれは長年、さまざまな心理学的現象を研究してきたが、知識の錯覚ほど出現率の高いものにはめったにお目にかからない。(p33)

わたしたちは自分について、身の回りの物事について、さらにこの世界について、なんとなくわかっている気になっていますが、本当は全然わかっていません。しかしそれでも、ほとんど不自由なく日常生活を送ることができます。

その理由は、わたしたち人間のそもそもの造りにある、ということがわかってきました。わたしたちは知識を細部まで収集するコンピュータとは違い、物事の因果関係を直観的に認知し、理屈ではなく身体で判断する生き物なのです。

「説明深度の錯覚」―自分が知らないことに気づけない

あなたは自分の体についてよく知っていますか? スマホやインターネットのことはわかっていますか?

こうした質問をされると、たいていの人は、だいたいはわかっている、と答えるものです。「自分の体のことは自分がいちばんよくわかっている」と自負してはばからない人もいます。

ところが、「では、それについて説明してください」と言われると、返答に窮します。自分がよく知っているつもりだったこと、わかっている気になっていたことをいざ言葉で表現しようとすると、筋道立てて説明できないことに気づきます。

たった一つのモノについてさえ、そのすべての側面に精通するのは不可能だ。とびきり単純なモノでさえ、その製造と使用には複雑に絡みあうさまざまな分野の知識が必要だ。

ましてや細菌、樹木、ハリケーン、愛、生殖プロセスといった自然界の複雑な現象などなおさらだ。いったいどんな仕組みになっているのか。

たいていの人はコーヒーメーカーの仕組み、糊で紙がくっつく仕組み、カメラの照準の仕組みなど説明できない。愛のような複雑な現象などお手上げだ。

ここで言いたいのは、人間は無知である、ということではない。人間は自分が思っているより無知である、ということだ。私たちはみな多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。(p16)

この「実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚」は科学的な分野にとどまりません。

たとえば歴史もそうです。学校の授業で重要な用語を学び、テストで良い点を取れると、「わかった気」になります。

ところが、それらの歴史がどのようにつながり、どのように展開していったのか説明するよう求められると自分の理解度の低さに気づきます。

認知科学者フランク・カイルやレオン・ロゼンプリットは、このような錯覚について研究し、「説明深度の錯覚」(IED)という概念を提唱しました。(p32)

このような実験によって人々が錯覚のなかで生きていることが示される。

被験者たちは、自分がファスナーの仕組みをもっとよく理解していると思っていたと認めた。

二回目の評価で理解度を引き下げたのは、要するに「自分が思っていたほど知らなかった」と言っているのに等しい。

知識の錯覚を解くのは驚くほど簡単だ。では説明してくれ、と相手に頼むだけでいい。

…これこそが「説明深度の錯覚」の本質である。何かを説明しようとするまで、被験者は自分の理解度はそれなりの水準だと思っていた。だが説明した後には、そうは思わない。(p33-34)

熟慮する人は「自分の見たものがすべて」に陥りにくい

「説明深度の錯覚」の本質は、本当は理解していないのに、それなりに知っている気になっている、つまり自分が知らないということに気づいていない、ということにあります。

この傾向がいかに根深く、御しがたいものであるかは、はるか紀元前の哲学者ソクラテスも気づいていました。この本では、ソクラテスの有名なエピソード(日本では「無知の知」として知られる)が引用されていました。(p190)

しかし私自身はそこを立去りながら独りこう考えた。とにかく俺の方があの男よりは賢明である。

なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何か知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。

されば私は、少くとも自らが知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。

―プラトン「ソクラテスの弁明・クリトン」久保勉訳 岩波文庫

このエピソードに登場する「私」(つまり哲学者ソクラテス)と、「あの男」は、どちらも「善についても美についても何も知っていまい」、すなわち無知であるという点では大して変わりませんでした。

しかし「あの男」は「何も知らないのに、何か知っていると信じて」いて説明深度の錯覚にとらわれていましたが、「私」(ソクラテス)のほうは、少なくとも「自らが知らぬことを知っているとは思ってい」ませんでした。

どれだけ知識量があるかどうか、どれほど物事の仕組みを理解しているかどうか以前に、まず自分が何も知らないということに気づく、ということからして、いかに難しいかを物語るエピソードです。

同時に、このエピソードは、ソクラテスのように、説明深度の錯覚にとらわれにくい人、つまり自分がいかに物事を知らないかに自分で気づける人がときおりいることを示唆しています。

認知科学の実験でも、認知反射テスト(CRT)、いわゆる引っかけ問題に直観的に答えてしまうことなく、じっくり考えて正しい答えを出すような内省的・熟慮型の人は、説明深度の錯覚にとらわれにくいことがわかっているそうです。(p98)

そのような人たちは、普段から何ごとについても考え抜くタイプで、詳しく説明されるのが好きだったり、説明されないと落ち着かず不安になったりするので、自分がいかに何も知らないかを自覚しやすいのかもしれません。

CRTで高得点をあげた人々は、なぜ説明深度の錯覚を示さなかったのか。

…熟慮型の被験者(CRTのスコアの高い人)は、詳しく説明されている製品を好む傾向があった。この結果は、それほど熟慮型ではない被験者(つまり大多数の人)とは対照的だった。

CRTのスコアが低い人は、ほんのわずかしか説明がない製品を好んだのである。説明が詳しすぎる製品にはそっぽを向いた。

大方の人とは異なり、熟慮型の人は詳細な情報を求める。物事を説明するのが好きなので、おそらく誰かに頼まれなくてもいちいち説明するのだろう。そういう人は、説明深度の錯覚に陥ることはないはずだ。(p98)

このような「物事を説明するのが好き」で「詳しく説明されている製品を好む」人たちは、意思決定をする前にも、じっくり考え、説明すべてに目を通す傾向があるそうです。

たいていの人は、意思決定をするときには「説明嫌い」になる。

…もちろん、あなたの周りにも例外的な人は何人かいるだろう。選択をする前には、詳細な部分まですべて知っておこうとする。

入手できる資料はすべて何日もかけて読み込み、新たなテクノロジーのプラス面とマイナス面を調べる。こうした人々を「説明マニア」と呼ぼう。

…認知反射テストで高得点を取る人は、自分がどれだけ理解しているかをじっくり考える習慣があるので、引っかけ問題に引っかからない。

同じようにモノをしっかり考える人は、満足できる説明について、いつも高い基準を持っている。(p257)

熟慮型の人たちは、新しいことをする前に、入手できる情報にすべて目を通してメリットとデメリットを調べます。

すぐに新しいことに飛びついたりせず、何かを決定する前に、石橋を叩くかのごとく、しっかり調査する慎重さは、以前にこのブログで紹介した「防衛的悲観主義」ともよく似ています。

熟慮型の人たちは、裏を返せば、説明が少ないと納得できず不安になる人たちなのかもしれません。

たいした根拠がなくても、すぐに楽観的に考えてしまえる人たちとは異なり、現実世界をしっかりと理解してから行動に移したい、と考える人たちなのです。

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行動経済学者ダニエル・カーネマンは、ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、直観的に思考する人たちは、いま自分の手元にある情報がすべてだ、と早まって断定し、結論に飛びついてしまいまうと述べます。

限られた手元情報に基づいて結論に飛びつく傾向は、直感思考を理解するうえで非常に重要であり、これから本書に何度も登場する。

この傾向は、自分の見たものがすべてだと決めてかかり、見えないものは存在しないとばかり、探そうともしないことに由来する。

…この「自分の見たものがすべて(what you see is all there is)」は、英語の頭文字をとって、WYSIATIという長たらしい略語が作られている。(p157)

「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)という傾向に陥る人たちは、物事にはさらに詳しい説明や、見落としている情報があるかもしれない、とは考えません。

ほんの少しの説明や情報しかなくても、筋が通っているように思えれば、直観的に結論に飛びついてしまいます

「自分の見たものがすべてだ」という態度からうかがわれる通り、手持ちの情報の量や質は主観的な自信とは無関係である。

自信を裏付けるのは筋の通った説明がつくかどうかであり、ほとんど何も見ていなくても、もっともらしい説明ができれば人々は自信たっぷりになる。

こうしたわけで、判断に必須の情報が欠けていても、それに気づかない例があとを絶たない。(p159-160)

他方、熟慮型の人たちは、少なくとも、自分の手持ちの情報だけがすべてではない、ということに気づいています。

そのため、さらなる未知の判断材料、「判断に必須の情報」があるかもしれないと考えて、もっと詳しい説明を探します

もちろん、どれほど入念に調査する人であっても、あらゆる情報に目を通すことは不可能です。この世界の情報はあまりにも膨大で、すべてを把握することは、全知全能の神でもない限り 絶対にできません。

少ない説明で満足して即断する直感型の人も、より詳しい説明を求める熟慮型の人も、必要なあらゆる情報を入手できないという点は同じです。たとえ少し詳しく調べたところで、あらゆる事実を把握することなどできません。

しかし、たとえあらゆる情報に精通できないとしても、手持ちの情報がすべてだと思いこんでいるか、それともまだ未知なる情報がきっとあると常に考えているか、という違いが直観型の人と熟慮型の人の最大の違いなのです。

ファストな直感とスローな熟慮は補い合うもの

では、何事もすぐ直観的に判断してしまう人たちが、もっと熟慮して決定できるようになるにはどうすればいいのか。

…というような月並みな話題にはならないのが、この知ってるつもり――無知の科学という本のおもしろいところです。

ここまでは熟慮型の人たちにが、引っかけ問題に強く、「説明深度の錯覚」に陥りにくい、といったメリットに注目してきました。

しかし、熟慮型のほうが、直観型の人たちより勝っているというわけではありません。この本でははっきりと、「どちらにも強みと弱点がある」と書かれています。(p258)

それに、熟慮型の人たちは、比較的「説明深度の錯覚」に陥りにくいとはいえ、錯覚をまったく起こさないわけではありません。どれほど熟慮型の人でも、“知ってるつもり”、“わかったつもり”になってしまうことはよくあります。

そもそも、人類の大多数が「説明深度の錯覚」に陥るということからして、「説明深度の錯覚」は克服すべき欠点のようなものではなく、この世界を生き抜くのに有利だからこそ発達した、人類の本来の生物的傾向であるといえます。

著者たちは「さまざまな心理学的現象を研究してきたが、知識の錯覚ほど出現率の高いものにはめったにお目にかからない」と書いていましたが、それはそう錯覚したほうが生きるのに有利だからにほかならないのです。(p33)

すでに考えたように、どれほど熟慮型の人でも、この世界の情報すべてを把握するのは不可能です。わたしたち人間の脳は、あらゆる事実をコンピュータのように記憶するようにはできていないからです。

コンピュータは膨大なプログラムという「説明」が一行でも抜けているとうまく動作しなくなりますが、人間を含め、動物の脳はそうではありません。コンピュータとと脳は、記憶の仕方からして異なっています。

続いてランドアーは、私たちが人生70年のあいだ、一定の速度で学習を続けると仮定し、持っている情報の量、すなわち知識ベースの大きさを計算した。

さまざまな方法を使ったが、結果はだいたい同じだった。1ギガバイトである。

ランドアーは自分の計算結果が精緻であるとは主張はしなかった。ただ1ケタずれていたとしても、つまり知識ベースが1ギガバイトの10倍あるいは10分の1であったとしてもたいした量でないのに変わりはない。

現代のノートパソコンの内蔵メモリと比べれば微々たる量だ。人間はおよそ知識のかたまりではない。(p38)

わたしたち人間は、必要な情報すべてを記憶して判断するコンピューターのような生き物ではありません。途中の詳細な情報が抜けていても、あいだの説明をすっとばして、直観的に行動に結びつけることができます。

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人間はもちろん、日々、周囲の世界から受ける膨大な情報にさらされています。たとえたった一日のうちに出くわす情報だけでも、すべてコンピュータに記録しようとすれば容量が足りなくなるでしょう。

一日中首からビデオカメラをぶらさげて動画を取り続けた場合の容量について考えてみてください。しかし、わたしたちの脳は日々それよりももっとたくさんの情報にさらされているのです。

それでも、わたしたちが、そうした大量の情報に圧倒されずに、ふだんの生活を送っていられるのは、脳が出会う情報すべてを記録しようとするのではなく、必要なものとそうでないものをフィルターにかけて瞬時にふるいわけ、エッセンスだけを抽出しているからです。

このフィルターがうまく働かないのが、この本にも出てくる、見たものをすべて記憶してしまう超記憶症候群の人たちですが、「ほとんどが鬱状態に苦しんでいて」「コントロール不能で本当に疲れる」といいます。(p51)

自閉スペクトラム症やサヴァン症候群の人たちの中にも、細部まで認識し記憶する類まれな能力を持っている人たちがいますが、やはり感覚過敏や神経の過負荷に悩まされます。

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こうした例からわかるのは、すべての情報に精通し、あらゆることを知り、あらゆることを説明する、というのは、(時に才能になる場合もあるとはいえ)、生物として荷が重すぎる上に、効率的でもない、ということです。

この世界はとてつもなく複雑なので、大多数の人たちは、細部を認識せず、直観的に“わかったつもり”になることで自己防衛し、圧倒されないよう自分を守っているのです。

物事の仕組みに対する自らの知識を過大評価し、本当は知らないくせに物事の仕組みを理解していると思い込んで生活することで、世界の複雑さを無視しているのである。

実際にはそうでないにもかかわらず、自分には何が起きているかわかっている、自分の意見は知識に裏づけられた正当なものであり、行動は正当な信念に依拠したものであると自らに言い聞かせる。

複雑さを認識できないゆえに、それに耐えることができるのだ、これが知識の錯覚である。(p47)

知識の錯覚、説明深度の錯覚は、わたしたちが克服すべき欠点ではなく、むしろこの複雑な世界を生きやすくするために発達した生物的な防衛本能なのです。

直観は「だいたいにおいて正しい」

人類の大半は「熟慮型」ではなく「直観型」です。詳しい説明など好まず、直観的に物事を決めます。それでも、ふだんの生活は十分にやっていけます。

大脳新皮質が発達した人間には、あれこれと考えるのが好きな「熟慮型」がたまに存在しますが、直観(直感)的に考えるほうが、ここ地球上に生きる生物としては普通のことです。

自然界に生きる動物たちはみな「直観型」であるとはいえ、決して知能が劣っているわけではありません。むしろ直観的な本能によって、ときには熟慮した人間よりも正しい判断を下せます。

そもそも、どれほど理性的であると自負している人であれ、また引っかけ問題をクリアできる熟慮型の人であれ、直観的な判断をまったくしていない人は一人もいません。

すべての人間は、根源的には本能的また直観的です。その上で、人間にだけ発達した大脳新皮質のおかげで、ほんのちょっと熟慮して振る舞えるだけです。熟慮のみで生きている人などどこにもいません。

腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかに書かれているように、もとより人間は、他の動物たちと同じく直感的に判断する生き物です。

2002年にノーベル経済学賞を共同受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、ベストセラー『ファスト&スロー―あなたの意思はどのように決まるか?』で「直感的な判断は、私たちの行なう多くの選択や判断の背後にあるもの」だと述べた。

ここでは、理性的な思考という衣装をまとうのではなく、直感、すなわち内臓感覚に基づいて、自分にとって何が最善かを判断できるという考えが、人間性に対する見方の中心をなしている。(p173-174)

行動経済学の専門家ダニエル・カーネマンのファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の書名になっている「ファスト」と「スロー」はそれぞれ直観型の思考と熟慮型の思考を指しています。

わたしたちは、ファストに、つまり即座に直観(直感)に基づいて思考することもあれば、スローに、つまりゆっくりと熟慮して思考することもあります。

人間はこれら二つから成り立っていますが、カーネマンはどちらがより優れているとは述べていません。確かに、ファストな直感型思考(システム1と呼ばれる)は引っかけ問題には弱いですが、現実には間違うより合っている場合のほうがはるかに多いのです。

本書ではシステム1説明に重点を置き、とりわけシステム1に起因する直感的判断や選択のエラーに多くのページを割いた。

しかしこのページ配分は、直感的思考の驚嘆すべき点と甚だしい欠陥のバランスを適切に表すものではない。いや、適切にはほど遠い。

私たちが犯す誤りの大半はシステム1に端を発するとはいえ、私たちが行う正しいことの大半もシステム1のおかげなのだし、しかも私たちのやることの大半はそうまちがってはいないのである。

私たちはの考えと行動は日常的にはシステム1に導かれているが、だいたいにおいて正しい。(p328)

わざわざじっくり考えなくても、膨大な説明を理解したり記憶したりしなくても、「だいたいにおいて正しい」判断ができるからこそ、人類の大多数は説明嫌いでもやっていけるのです。

「身体を使って思考や記憶をする」

カーネマンの本では、ファストな直観型の思考と、スローな熟慮型の思考は、それぞれシステム1、システム2と呼び習わされています。

この呼び名が示唆しているように、直感と熟慮は、使っている脳の経路が異なっているまったく別個のシステムです。

直観のほうが考えが浅く、熟慮のほうが考えが深い、といったひとつの物さしで測れるようなものではありません。エレベーターで上がるか、階段で上がるか、のように思考するルートそのものが異なっています。

しばしば熟慮型の判断は“頭を使って”考える、と表現されます。他方で、直観型の判断は、“身体を使って”考える、と表現されます。

頭(脳)と身体を切り分けてしまうのはあまり科学的とはいえませんが、知ってるつもり――無知の科学で説明されているように、直感型の思考は、“身体を使って”思考するルートだとみなすのは、ある程度、的を射た考え方です。

私たちが身体を使って思考や記憶をすることを示す例はたくさんある。

たとえばある研究では、ある場面を記憶するには、その場面を演じてみることが他の記憶手段より有効であることが示された。

…実際にギターを持っているほうが、ギターの指の動きは再現しやすいし、頭の中で考えるより紙に書いたほうが、単語の綴りや計算をするのは簡単だ。一般的に物理的世界を使ったほうが思考はうまくいく。

この事実は、思考は頭の中だけで起こる肉体とは無関係のプロセスではないことを示唆している。

知的活動は脳内だけで起こるのではない。むしろ脳は身体その他の物質世界を巻き込んだプロセス体系の一部にすぎない。(p118-119)

直観的な思考とは、無意識のうちに身体を使って(もちろん脳も使っていますが)判断する思考方法です。

続く説明によれば、この「身体を使って思考や記憶をする」という能力は、このブログでも過去に詳しく説明した神経科学者アントニオ・ダマシオの理論に基づいています。

人間は感情的反応を、ある種の記憶として使うこともある。ある出来事に喜び、痛み、恐れを感じるとき、私たちは何に注意を払うべきか、何を避けるべきかを学ぶ。

東カリフォルニア大学の神経科学者、アントニオ・ダマシオは、このような反応を「ソマティック・マーカー」と呼ぶ。ギリシャ語で身体を意味する「ソマ」を使った造語である。(p119)

アントニオ・ダマシオは、わたしたちの心や意識というものは、単に脳の中だけで生成されているのではなく、じつは身体の内臓や筋骨格からの感覚(ソマティック・マーカー)から作られていることを明らかにした科学者です。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかでも書かれているように、神経科学者アントニオ・ダマシオは、わたしたちの思考には、「身体から脳へ送られるシグナルの伝達経路」が重要であることを指摘しました。

神経科学者アントニオ・ダマシオは三冊の著書を通じて、『デカルトの誤り―情動、理性、人間の脳』で導入したソマティックマーカー仮説を緻密に発展させていった。

ダマシオの理論に従えば、私たち人間には、脳から身体へ、そして身体から脳へ送られるシグナルの伝達経路からなる、いわゆる身体ループが備わる。

情動状態に対する身体の反応を告知するこの情報は、筋緊張、動悸、浅い呼吸などの身体状態の、無意識的な記憶として蓄積される。(p167)

わたしたちは乳幼児のころから、周囲の状況を身体で感じ取り、それに対する身体の反応を、無意識の記憶(情動記憶や手続き記憶)として蓄えています。

たとえば、親に抱かれたときに筋肉が緩む感覚、とげとげしい声を聞いたときに内臓が締めつけられる感覚、ストレスを感じたときに呼吸が浅くなる感覚など、あらゆるものに対する身体や内臓の反応を無意識のうちに記録しています。

身体に記憶された情報(ソマティック・マーカー)は、過去に経験したのと似たような場面に出くわすと無意識に活性化します。

たとえば初対面の人と出会ったとき、その人の雰囲気を身体で感じ取り、頭で考えるよりも先に身体が反応します。もしかすると、内臓がリラックスしたり逆にこわばったりするかもしれません。

わたしたちは、無意識のうちにそのような身体感覚に基づいて直感的な判断を下し、相手が安心できる人物か、それとも注意すべき人物か、といった第一印象を持ちます。

トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際にも書かれているように、直感とは、無意識のうちに蓄えられた身体の内的な感覚から導かれるものなのです。

今日では、第六感は「内受容器」(interoceptors)によるものであると理解されています。身体内部からくる刺激を受けとめ伝達する、感覚神経受容体によるものだということです。

…内臓感覚は「内受容(enteroception)」とよばれ、私たちの内部臓器でおこる動き、すなわち心臓のドキドキ、腹部のそわそわ感、吐き気、空腹感、または虫のしらせ、直観などを伝達します。(p19)

わたしたちは誰でも、普段の生活の中で、自分でも気づかないうちにこうした内的感覚に基づく無数の直観的判断を下しています。直観型の思考は熟慮型の思考に劣るどころか、むしろわたしたちの生活の基盤をなしています。

熟慮型の人たちは、世の中の大多数の人よりかは、少しだけ“頭で”考える熟慮が多いだけであり、“身体で”考える直感型の思考をしていないというわけでは決してありません。

身体を使った直感型のファストな思考と、頭を使った熟慮型のスローな思考は、どちらが優れているというものではなく、互いに補い合うものです。

身体を使った直感は、過去の具体的な「経験」に基づく思考だとみなせます。他方、頭を使った熟慮は、「経験」を伴わず頭の中だけで考えることです。

容易に想像がつくことですが、実際に身体を使って経験したことがない人が、頭で熟慮したところで、的外れになるだけです。

絵を描いたこともない人が、絵の描き方を熟慮したところで無意味です。スキーをしたこともない人が頭の中だけであれこれ考えても役に立ちません。

事実、今日の大学教育などで「知ってるつもり」が蔓延している理由のひとつは、具体的な経験が欠けているのに、教科書などの表面上の知識だけで何もかもわかっているつもりになってしまうからです。

あなたの子どもには自然が足りないには、ステンフォード大学医学部神経科のフランク・ウィルソン教授の次のような言葉が載せられていました。

ウィルソンによれば、医学部の教師たちは、心臓のポンプとしての機能について学生に教えるのが最近だんだん難しくなってきたと言うが、それは「学生たちに死絶世界での経験がなさすぎるからだ。

彼らはポンプで何かを吸い上げたこともなければ、車を修理したこともないし、ガソリンのポンプを扱ったこともないし、おそらく庭の水撒き用のホースをフックに架けることすらもしたことはないだろう。

あらゆる子供たちにとって、裏庭や物置小屋や野原や森での直接的な経験は、機械を通しての間接的経験に取って代わられてしまった。

これらの若者たちの頭は鋭く、コンピュータで育ったのだから、優秀なはずだと思われている。しかしわれわれはようやく、彼らには何かが足りないことに気づきはじめたのだ」(p89)

熟慮の欠けた直観は、“知ってるつもり”につながりやすいですが、その逆もやはり同じなのです。直観の源となる身体的経験が欠けていれば、いくら高等教育によって熟慮を育てたところで、「何かが足りない」ままです。

最も望ましいのは、直感か熟慮かどちらかに過度に偏りすぎることなく、身体で実際に体験して学習し、その上で、自分の経験を熟慮して吟味できる、ファストな思考とスローな思考を両方使い分けられる人だといえるでしょう。

人間は集団的知能の生き物

わたしたちが“知ってるつもり”の錯覚に陥ってしまう理由として、知ってるつもり――無知の科学に載せられている別の面白い研究は、わたしたちは「自分の知識と他人の知識を区別できない」というものです。

たとえばiPS細胞とか、宇宙の成り立ちとか、古代史の考古学的な研究など、何かの専門的なニュースを見聞きしたとします。ニュースではたいてい、専門家の教授が、新しい事実を発見したり、未知の領域を解明したりした、と書かれているでしょう。

この本に載せられている ある実験では、参加者たちにそうしたニュースを見せた後で、理解度について尋ねました。

すると、参加者たちは“自分の”理解度を尋ねられたにもかかわらず、科学者たちが理解していることを知ってるつもりになりました。

被験者の自らの理解度に対する評価は、他の人々の理解度についての情報に影響を受けていた。

科学者がある現象を理解しているという事実を伝えるだけで、被験者自身の理解度の評価も高まったのだ。

被験者には、質問しているのは被験者自身の理解度であることを明確に伝えていた。

被験者は自分の理解していることと、他の人々の知っていることとを区別できないようだった。(p139)

わたしたちは普段このことを自覚していないので、わかりにくいかもしれませんが、だれもがみな、自分が知っていることと社会が知っていることを無意識のうちに混同しがちです。

たとえばテレビで科学のドキュメンタリーを見て、いかにも多くの謎が解明されたかのように説明されると、自分はその分野の専門知識を何も知らないのに、理解が深まった気になります。

難病について研究が進んだというニュースを読むと、たとえわずか数行のニュースを読んだだけでも、その病気の理解度が深まったと錯覚するようになります。

自分の活動と他者のそれとの境界がどこであるかを見極めることができないのと同じように、自分の知識と他者のそれとを明確に区別することができない。

コミュニティの中に知識があることを知っているだけで、私たちは自分が知っているような気になる。(p137)

自分が知っていることと、他者が知っていることを区別できない、というのは、字面で表現するとなんとも奇妙ですが、人間が集団で生活してきた生き物である、ということを考えれば理にかなっています。

あるレベルでは、これはきわめて理にかなっているのかもしれない。私自身の頭の中にある情報があるか否かが、なぜ重要なのか。

あなたから特定の電話番号を知っているかと尋ねられた場合、私がそれを記憶しているのか、紙に書いてポケットに入れているのか、あるいは隣に座っている人が記憶しているのかで、何か違いはあるのだろうか。

私の行動する能力は、ある瞬間にたまたま頭に入っている知識によって決まるわけではない。必要なときにアクセスできる知識によって決まる。(p139)

わたしたちは、自分が何かについて知っているかどうかを判断するとき、自分の頭のなかに知識が入っているかではなく、「必要なときにアクセスできる知識」があるかどうか、で判断しています。

昔から、わたしたち人間は地域社会の共同体のなかで、役割分担しながら生活してきました。

自分が料理の仕方がわからなくても、家族のだれかが料理できます。みんなが狩猟採集できなくても誰かが食物を獲ってきてくれます。農家や粉屋や医者がそれぞれ専門的な分野を担ってくれます。

自分個人としては限られた知識しかなくても、専門知識を持っている人がコミュニティの中にいるだけで「知っている」という安心感が生まれます。必要が生じたら手を借りればいいだけだからです。

たとえ自分の頭の中に知識そのものが入っていなくても、必要なときに誰に聞けばいい、あるいはどこを調べればいい、という知識の出典情報さえ知っていれば、わたしたちは自分がそのことを知っている、と錯覚してしまうのです。

言ってみれば、わたしたちの頭の中の知識は、ネット社会で言うところのハイパーリンクの形で保存されているといえます。

知識の実体そのものは保存されていないのに、「必要なときはこのリンク先からダウンロードしてください」という情報があるだけで、自分はそのことを知っていると認識します。

この便利な能力のおかげで、わたしたちは限られた記憶容量を大幅に節約できます。必要なときに検索したり、社会のなかの専門知識をもった人に相談したりすることで、自分の能力を超えた問題にもうまく対処することができます。

しかし、「必要なときにアクセスできる知識」を、自分が「知っている」知識だと錯覚してしまうこの錯覚は、今日のインターネット社会においては望ましくない傾向を育みかねません。

「説明深度の錯覚」の提唱者の一人でもあるフランク・カイルと、イェール大学のマット・フィッシャーによる実験では、インターネットで検索できる環境と、検索できない環境それぞれにおいて、知識の錯覚がどう変化するかを調べたそうです。

その結果、最初の質問でインターネット検索をしたグループは、しなかったグループより無関係の質問に答える能力を高く評価していた。

特定の質問の答えをうまくインターネットで検索し、見つけるという行為が、検索していない質問も含めたあらゆる質問への答えを知っているという感覚を高めていた。(p152)

なんと、インターネット検索をした人たちは、知識の錯覚の度合いが深まっていました。

ネット上には「必要なときにアクセスできる知識」が膨大に存在するので、「自分の知識とインターネットに存在する知識を混同」してしまい、自分が本当に知っていることよりはるかに多くのことを知ってるつもりになってしまったのです。(p152)

今日、ここ日本においては、ネット環境がなく、ネット検索を使わない、という人は少数でしょうから、今この記事を読んでいる人やわたしも含め、ほとんどすべての人がこの錯覚に陥っています。

これはやや気がかりな影響をもたらす。インターネット上の知識がこれほどアクセスしやすく膨大であることから、スマートフォンとWi-Fiを持っている人はみな、自分は幅広い分野に精通していると思い込むようになるかもしれない。(p153)

この錯覚は、あなたの子どもには自然が足りないでもやはり指摘されていました。

驚くことではないが、狭い領域のものであれ、次々に感覚にインプットがある世界で成長した若者は、多くの場合、自分の周囲に金網を張り巡らし、知ったかぶりをする人間になる。

グーグルで検索してヒットしないものは重要でない、というわけだ。(p89)

わたしたちは自分では意識していないでしょうが、日常的にインターネットにつながっていることで、気づかないうちに、実際の手持ちの知識よりもはるかに多くのことを知っている、という自信過剰に陥っています。

人類の歴史上、自分では経験したこともない、説明すらできない表面的な知識が、あらゆる分野において、これほどたやすく手に入るようになった時代はほかにありません。

科学や医学の進歩のおかげで、今やなんでも解明され、この地球上にわからない謎はもうごくわずかしか残っていない、と錯覚している人は数え切れないほどいるでしょう。

しかし知ってるつもり――無知の科学に書かれているように、実際には「何かをじっくり観察すればするほど、ますます疑問が湧いてくる」「理解すべきことは次々と増えていく」ので、現代は歴史上最もわからないことだらけになっている時代であるはずです。(p45)

世の中の多くの人が、この世界の謎はもうほとんど解明されていると感じているとしたら、それは、インターネットなどによってアクセスできる知識が増えたせいで、本当は何も知らないのに知っているつもりになってしまっているということなのです。

しかし、わたしたちは、インターネットが普及する前の、グローバル化する前の社会の人たちよりも、本当に「知っている」のでしょうか。

たとえば、羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季に出てくる昔の羊飼いたちのような、実生活で役立つ具体的な知識を持っているのでしょうか。

私の祖父と父は、イングランド北部のどこにでも迷わずに行くことができる。このあたりの土地では、農場、羊の群れ、家族の関係が非常に複雑に絡み合っている。にもかかわらず、祖父と父はその土地の農場主をほぼ完璧に言い当てることができる。

それどころか、昔の所有者や隣の農場主についても覚えていることも多い。私の父親は一般的な単語のスペルはあやふやなのに、土地についての知識は百科事典並みだ。

そう考えると、誰が知的なのかという従来の考えは、じつにバカげたものなのかもしれない。これまでに私が出会ったもっとも頭のいい人間のなかには、読み書きさえおぼつかない人もいるのだから。(p47)

あなたの子どもには自然が足りないにも、現代のわたしたちが、いかに表面的な知識だけを集めて「知ったかぶり」に陥っているかを示すエピソードが出てきます。

抑圧されることが大嫌いなジャレド・グラーノは9年生で、父親は中学の校長をしている。…ジャレドは、自分たちの歩いた道について詳しく説明してくれた。

…「キャニオンの底まで下りる道を歩いていたら、急に空が暗くなった。そう思ったら雨が降りだして、いきなり霙に変わったんだ。それで僕たちは、大昔の先住民が住んでいた洞穴を見つけて避難した。

稲光でキャニオンが明るく照らされて、雷の音が洞穴に響きわたった。嵐が止むのを待つあいだ、僕たちはそこに立って、昔そこに住んでいたインディアンのことを話しあった。

彼らが洞穴の中でどんなふうに料理をしたか、眠ったか、そしてちょうど今の僕たちのように、どうやって避難場所を見つけたろうかって話したんだ」

…それ以来、彼の人生の意味は変わった。人間にはどうすることもない自然の出来事に出合ってそれに気づき、生き生きとした歴史の中に入りこんだからだ。彼はその時、生を謳歌していた。

…知ったかぶりの心とは、実際にはきわめてもろいものだ。それは一瞬にして燃え尽き、その灰の中から必要不可欠な何かが生まれるのである。(p92)

わたしたちも、自分ではろくに経験したことがないものを、他の誰か話を見聞きしただけで、またネットで検索した知識だけで、知ったかぶりになってしまいがちです。

しかしいざ身を持ってそれを体験し、自分がそれまで何も知らなかった、ということに気づいたとき、はじめて他の人の言葉ではなく、自分の言葉で説明できるようになります。

「群集の知恵」か「集団浅慮」か

「必要なときにアクセスできる知識」を自分が知っている知識と混同してしまう人間の傾向は、本来はとても便利で合理的な能力です。人類が諸問題に対処してこられたのは、集団として知性を発揮してきたおかげです。

わたしたちは、一人ひとりの能力は限られていても、ちょうどミツバチの群れのように的確な役割分担をすることで、個人の能力以上の知恵を発揮してきました。

たとえば、知ってるつもり――無知の科学によると、によると、近年の研究では、個人のIQ(g因子)ではなく、チームとしての集団知能(c因子)のほうが創造性に直結する、という興味深いことがわかってきているそうです。(p226)

しかし、同時に、わたしたちは周囲とつながっているからこそ、周りに影響されて「知ったかぶり」に陥り、ときにはひどく偏見に満ちた考えに染まってしまうこともあります。

この両極端性は、「群衆の知恵」「集団浅慮」という二つの概念によって説明できまくす。

この本によると、「群衆の知恵」という概念は、ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンが1907年に書いた論文に基づいています。

ゴルトンは、イングランドのプリマスで開かれた品評会での、太った牡牛の重量を推測するコンテストの様子を描写している。

コンテストは牛の重量を当てて賞金を獲得したいと思う者なら誰でも、わずかな金額を払えば参加できた。賭けには一般人のほか、肉屋や酪農家といった専門家も参加した。

…ゴルトンがコンテストの参加者が記入した用紙を入手したところ、判読可能なものは787枚あった。フタを開けてみると、参加者の当て推量の平均量と、543キログラムという牡牛の本当の重量との誤差は、1パーセントもなかった。(p164)

ダニエル・カーネマンも、ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で群衆の知恵の概念について触れ、みんなの意見を集めれば驚くほど正確なことがある、と書いています。

大勢の人が硬貨のいっぱい詰まった数本のガラス瓶を見て、それぞれの瓶に硬貨が何個入っているか当てるとしよう。

ジェームズ・スロウィッキーがベストセラーとなった著書『「みんなの意見」は案外正しい』(小高尚子訳、角川書店)の中で述べているように、この種の推定では一人ひとりの答はまるで見当はずれだが、全員の判断を集計してみると驚くほど的確であることが多い。

しかし、ここで注意すべなのは、群衆の知恵が正しいのは、ひとりひとりが意見を共有せずに個別に判断を下した場合に限られる、というポイントです。

ただしこの誤差収斂の魔法が働くのは、観察や評価が個別に行われ、エラーに相関性がない場合に限られる。

もし回答者が同じバイアスを持っていたら、多数の判断を集めてもバイアスは減らない。

回答者が互いに影響を受けるような場合には、実質的に標本数が減ることになるので、集団としての推定の制度は下がる。

したがって、複数の情報源から最も有効な情報を得るためには、一つひとつの情報源をつねに相互に独立させておかなければならない。(p154)

ひとりひとりが、自分の頭で考え、推論し、独自に判断を下した場合にのみ、群衆の知恵は驚くほど正確です。

もしも、集計する前に、ひとりひとりが互いに意見を交換したり、相談し合ったりすれば、群衆の知恵は働かなくなります。バイアス(偏見)が共有されてしまうので、逆に極端で的はずれな意見へと偏ります。

カーネマンは会社の会議を例を挙げています。会議がはじまる前に、前もって一人ひとりが自分の意見を個別にまとめて提出し、それぞれの意見について会議で検討するなら「グループ内の知識や意見の多様性を活かすことができ」、群衆の知恵を活用できます。

しかし、それぞれが何の準備もなく会議に出席し、自由討論しようとするなら、「最初に発言する人や強く主張する人の意見に重みがかかりすぎ」、バイアスが強化されて的外れな議論になります。(p135)

知ってるつもり――無知の科学の中では、この後者のバイアスのかかった会議のように、意見が交換されたり共有されたりした場合、群衆の知恵とは真反対の現象、「集団浅慮」(グループシンク)が引き起こされると書かれています。

これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという錯覚を助長する。

…社会心理学者のアービング・ジャニスはこの現象を「グループシンク(集団浅慮)」と名付けた。グループシンクについての研究では、同じような考えを持つ人々が議論すると、一段と極端化することが明らかになっている。

つまり議論をする前に持っていた見解を、議論の後には一段と強固に支持するようになる。(p191)

意見を共有することでますますバイアスがかかり、的外れで極端な思考へとかたよっていくグループシンク(集団浅慮)は、政治、宗教、学問、さらには何らかの当事者たちが集まった団体など、あらゆる閉鎖的なコミュニティで起こっています。

同じことだけに興味関心を持つ人、似たような背景を持つ人だけが寄り集まって結束を強めた結果、浮世離れした専門性だけが特化し、極端な主義主張にそまっていきます。

その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。

誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。

コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。(p191)

こうした閉鎖的なコミュニティは、あたかも近親交配が繰り返されて病的な遺伝子が濃縮されてしまう小さな島の社会のようなもので、明らかに自分たちは異質なのに、その異質さを認識できなくなっていく錯覚に陥ります。

しばしば情報の大海原に例えられるインターネットもまた、一見すると開けた無限の大洋のように思えますが、実際には小さな島のようなコミュニティの寄せ集めで成り立っている世界です。

インターネットで発信する人の多くは、検索やSNSを利用することで意見を共有し、自分と同じような意見を持つ人たちを見つけて結束を強め、自分が望む情報だけを集めるようになっていくからです。

この問題は今日、特に顕著になっている。

インターネットによって自分の意見に賛同してくれる同じような考えを持つ人を見つけやすくなったこと、別の世界観を保つ人々の愚かさや邪悪さについて語り合う場ができたことが原因だ。

しかも異なる意見を持つ連中とは、互いに交流する気もない。(p191)

SNSでの情報収集、誰でも編集できるWiki、さらにはオンラインショッピングモールのレビューなどは、一般には「群衆の知恵」が結集されたものだと思われがちですが、意見交換や共有が頻繁になされている時点でバイアスがかかっているとみるべきです。

このブログのプロフィールページに、かねてから「個々の当事者はそれぞれ異なる問題に直面している以上、医師などの専門家、特定の書籍やウェブサイト、さらには仲間の当事者からのアドバイスや情報を鵜呑みにせず、それぞれが自分で調べて結論にたどりつく必要がある」と書いているのはそのためです。

わたし自身は、できるだけ独立した文献を調べるようにしていますが、このブログの内容も、過度に参考にされるべきではないと思っています。だからSNSによる情報発信もしていません。

あくまで一人ひとりが自分の経験に基づき、自分の頭をひねって独自に思考したときにのみ、多様な意見が寄り集まって群衆の知恵が発揮されます。

「複数の情報源から最も有効な情報を得るためには、一つひとつの情報源をつねに相互に独立させておかなければならない」のです。

ゴルトンの牡牛の品評会や、カーネマンのガラス瓶の中の硬貨の例からわかるように、「群衆の知恵」は一人ひとりの直観を寄せ集めたものです。

群衆の知恵が案外正しいという事実は、内臓感覚に基づく直観的思考はかなり信頼できる、ということを意味しています。しかし、グループシンクからわかるように、外部からの影響によって、簡単に狂うこともまた事実です。

直観はちょうど即座に北を指し示すコンパスのようなものです。大抵の場合は正しい方向を指し示しますが、近くに強い磁石や電子レンジなどがあれば、見えない力によって歪められてしまいます。

腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかに次のように書かれているとおりです。

私たちが内臓感覚として知っているものが真なら、もしくは少なくとも真とみなすのが妥当なら、「最善の判断は、内臓感覚に基づくものである」といえるのだろうか?

その答えは、「イエス」でもあり「ノー」でもある。内臓感覚は、私たちが考えている以上に、自分自身の経験や学習で獲得した知識から情報を引き出している。

しかしその反面、トラウマ経験、気分障害、宣伝広告などの、外部からのさまざまな影響によっていとも簡単に撹乱される。(p190)

この場合もやはり、直観型思考と、熟慮型の思考は互いに補い合うものです。

直観はニュートラルな状態であれば案外正しいとはいえ、そのときの体調や、外部からの影響、意見の共有などで容易にバイアスがかかってしまいます。

そのため、無条件に自分の直観を信頼するのではなく、常に客観的な目で自己吟味し、熟慮によって補正することが必要です。

他者や世界を信頼しているからこそ錯覚できる

身体を使って直観的に思考することと、他者が持っている情報やネット上の情報を自分の知識と混同してしまう傾向は、まったく違うことを説明しているようでいて、じつは同じことを言っています。

どちらも一言でいえば人間は自分の頭の中に知識を蓄えるのではなく、外部のさまざまなものを記憶装置として使っている、ということです。

身体を使って直観的に思考するというのは、説明によれば、「実際にギターを持っているほうが、ギターの指の動きは再現しやすいし、頭の中で考えるより紙に書いたほうが、単語の綴りや計算をするのは簡単だ。一般的に物理的世界を使ったほうが思考はうまくいく」というようなことでした。

これは言い換えれば、ギターや紙など、外部の物理的世界に頼って思考しているということです。自分の頭で覚えていなくても、そうした外部の物が必要な動作(手続き記憶)を思い出させてくれます。

自分の頭の中の知識と、他人やコミュニティが持っている知識を混同してしまうのも同じです。自分でわざわざ知識をぜんぶ覚えていなくても、必要なときには他者やコミュニティ、インターネットなどの外部の知識に頼ればいいからです。

いずれの場合も、わたしたち人間は、単一の個人としてではなく、隣人、社会のコミュニティ、さらにはこの地球の環境と密接につながって、周囲世界と共生しながら生きる動物だ、ということを意味しています。

もしも、身の回りの人間が、毎日一人残らず別人に入れ替わり、この世界の物理法則が不思議の国のアリスのごとく刻一刻と変化するなら、わたしたちはあらゆる知識をすべて自分の頭に蓄えておかなければならないでしょう。

しかし実際にはそのようではなく、わたしたちの身近に住む隣人は昨日も明日も同じ専門知識を持ち、いつでも頼ることができます。ネット上の情報はそうそう消えません。この世界の物理法則も安定していて突然変化したりしません。

そのおかげで、わたしたちは常に、まわりの他人やこの世界を無意識のうちに信頼し、それらを外部メモリとして活用し、自分の頭のなかに大した知識が入っていなくても、“知ってるつもり”になって安心していることができます。

この周囲の世界に対する無自覚の信頼こそが、自分と他人の知識を区別できなかったり、ネット上の知識を直観的に受け入れてしまったり、ときにはバイアスさえも信頼して集団浅慮に陥ってしまったりする理由だといえます。

このような周囲世界に対する無自覚の信頼(基本的信頼感)は、ほとんどの人が幼いころに身につけるものですが、すべての人がそうだとは限りません。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

たとえば、難病を抱える人たちは、この世界の物理法則が信頼できるものには到底思えず、刻一刻と移り変わる奇怪な世界に思われるかもしれません。

脳神経科学者オリヴァー・サックスによるレナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)には、病気と薬のせいで、まったく身体のホメオスタシス(恒常性)が働かず、奇怪な症状に振り回されていた女性のことが書かれています。

「もうたくさんです! 薬局ごと飲まされたみたいですよ。良くなったり悪くなったり、横道にそれたり、裏表になったり、どんな症状にだってなりました。

それに、あっちに押されたり、こっちに引っぱられたり、ぎゅっと絞られたり、折り曲げられたり、どんどんスピードが速くなったと思えば遅くなったり、あんまり速すぎて一つところに止まってしまったり。

それから開かれたり、閉じられたり、まるで人間アコーディオンみたいですよ……」

そこまで言うと、フランシスはひと息ついた。私は脳炎後遺症という不思議の国にいるパーキンソン症候群の「アリス」を思い浮かべずにはいられなかった。(p136-137)

オリヴァー・サックスは、このような奇妙極まりない病状を長年抱えた患者たちは、何十年もの闘病生活の中で、より深く考えるようになっていった、と書いています。

かつて私は、一度地獄へ落ちた人は二度とそこから戻ってこないものと考えていた。だが、そうではないことを患者たちから教わったのである。

地獄から戻ってきた人々は、その経験を永遠に内に留めている。彼らは底なしの深さを知り、忘れることは決してないのだ。

それでもその経験によって彼らは深みを増しただけでなく、最後には子供のように無垢で陽気になった。

ニーチェはこう書いている。

偉大な痛みのみが、長い時間をかけて緩やかに我々を襲う痛みのみが……我々に自分自身の奈落に下りていくことを強いる。……そのような痛みが我々を「まし」にするかはわからない。だが、それによって我々がより深くなることはわかる。。(p490-491)

心的外傷後成長(PTG)とは―逆境で人間的に深みを増す人たちの5つの特徴
トラウマ経験をきっかけに人間として成長する人たちは、「心的外傷後成長」(PTG)という概念として知られています。PTGはどのような状況で生じるのか、心的外傷後ストレス障害(PTSD

このような人たちが、普通以上に深く考えるようになったのは、ある意味では、あまりに不安定で信頼できない世界に長年生きていたからでしょう。

身近な他者や、外部の当たり前の世界、さらには自分の身体さえも信頼できない世界では、複雑すぎる問題の答えを求めてだれかに頼ることはできません。すべて、自分で考え抜かなければなりません。

あるいは、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)に出てくるような、小児期トラウマの当事者たちもまたそうです。

小児期のトラウマのおもな原因は、あまりに無秩序で予想できない幼少期の環境(虐待などの家庭環境だけでなく、難病を抱えていること、犯罪や事故に巻き込まれることなども含む)であると書かれていました。

ローラ、ジョン、ジョージア、カット、ミシェル、エリー。この6人の子ども時代の逆境は、各人各様だ。

それでも、それぞれのレベルのトラウマに対して、彼らの脳は同じように反応した。

要因にごく単純な共通点があるからだ。それは、すべてが予測不能ということである。次の精神的あるいは身体的な攻撃がいつ、なぜ、どこから来るのか、子どもには予想がつかない。

…要するにマッカーシーによれば脳は「予測できればかなりのストレスにも耐えられますが、まったく予測できないと、どんなに軽いストレスでも耐えることができません」。(p71-73)

ACE研究が明らかにした「小児期逆境後症候群」ーなぜ子ども時代の体験が脳の炎症や慢性疾患を引き起こすのか
17000人以上のデータから子ども時代の逆境体験と成人後の体調不良の関連性を導き出した画期的なACE研究の取り組みをもとに、幼少期の経験がわたしたちの一生にわたり、心身の健康にどん

予測できない環境で育った子どもは、他者や世界に対する当たり前の信頼が育めないので、刻一刻と変化する予測できない環境に、逐一自分で対処するしかありません。

しばしば、幼少期から難病を抱えている人や、子ども時代に慢性的な逆境を経験した人は、考えるのをまったくやめてしまうか、あるいは人並み以上に物事を深く考えるようになるか、どちらかになります。

記事末の補足で考えますが、子ども時代の逆境のために「解離」と呼ばれる反応を起こした人たちの場合、自分の内臓感覚さえも切り離してしまいます。内臓感覚は直観の源なので、これは自分の直観さえも信用しなくなる、ということを意味しています。

古今東西の作家や哲学者の中には、幼少期に逆境を経験した人が少なくありませんが、あまりにも普通でない環境で育ったために、周囲世界や直観を無自覚に信頼できず、自分でひたすらに熟慮するしかなかったのかもしれません。

文学や芸術を創造する「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」
辛い子ども時代を過ごした人の中に、文芸や芸術などの分野で、豊かな想像力を発揮する人が意外なほど多いといいます。「愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)」という本に基づい

こうした徹底的に考え抜く人たちは、生まれつきの才能や能力というより、自分が生きてきた予測のつかない環境ゆえに、「説明深度の錯覚」に陥りにくくなったといえます。

人類の大多数が「説明嫌い」でいられるのに対し、一部の人だけが説明を求め、ひたすら熟慮するようになる理由のひとつは、おそらくここにあるのでしょう。

知ってるつもり――無知の科学に書かれているように、わたしたちは誰でも、子どものころは質問したがります。自分には未知のことがたくさんあると感じて、説明を自ら求めます。

みなさんも小さな子供が「なぜ」「なぜ」と繰り返し質問し、聞かれた大人が最後には「だからそういうものなの!」と会話を打ち切る場面を見たことがあるだろう。

子供は物事が複雑であること、何かを説明しようとすると次々と疑問が湧いてくることを、なんとなくわかっている。(p47)

ところが、ほとんどの人は大人になるにつれ、そうした態度を捨ててしまいます。世の中が複雑であることを忘れ、わかったつもりの錯覚を抱き始めます。

「説明深度の錯覚」は、大人が物事は複雑であることを忘れ、質問するのをやめてしまったことに起因するのかもしれない。

探求をやめる決断をしたことに無自覚であるために、物事の仕組みを実際より深く理解していると錯覚するのだ。(p47)

だれでも幼いころは説明を求めたがります。しかし、ほとんどの人は成長する中で、他者や環境を信頼できることに気づき、質問しなくても大丈夫だ、困ったときは外部に頼ればいい、ということを悟るのです。

「知ってるつもり」でいるというのは、いわば銀行にお金を預けることと似ています。銀行にあずけているお金は手元にはありませんが、自分の持っているお金だとみなしています。預け先である銀行を信頼しているからです。

同じように、世の中の大半の人が、自分の頭の中にない知識を自分のものだと錯覚できるのは、他者やコミュニティという、知識の“預け先”を信頼しているからです。

しかし、一部の人は、それを許さない何らかの事情のもとで、つまり他者に頼ることなく、自分で考えないとやっていけない環境で育ちます。

その中には子ども時代の病気やトラウマだけでなく、周囲とあまりにも違う個性や、普通以上に不安が強い敏感な性格なども含まれるでしょう。

そのような人たちは、銀行を信頼できないために、お金を預けられず、手元で保管しようとする人のようなものかもしれません。

自分が抱える問題や疑問について周囲に頼ることができず、納得のいく答えも得られないので、周囲世界を信頼して「知ってるつもり」になって判断する代わりに、その都度、自分で徹底的に熟慮して対処せざるを得なくなるのです。

このブログは説明好きの人のためのもの

最後に、この記事で考えたことをまとめてみましょう。

説明深度の錯覚
ほとんどの人は身の回りのさまざまな物事について“わかったつもり”になっていて、「では説明してください」と言われるまで、自分が表面的な知識しか持っていないことに気づけない。これを「説明深度の錯覚」という。

■「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)
ソクラテスによると、自分は本当は物事を十分に知らない、ということに気づくのはとても難しい。自分の手元にある情報がすべてだと考え、自信過剰になってしまう傾向は、「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)と呼ばれている。

直観(ファスト)と熟慮(スロー)
熟慮する人たちは、ふだんから「自分の見たものがすべて」とは考えずに、より詳しい説明を求める傾向があるので、説明深度の錯覚にも陥りにくい。

とはいえ、わたしたちは誰でも無意識のうちに直観に基づく判断をしている。直観は過去の情動を記憶した内臓感覚などから生まれるものであり、だいたいにおいては正確。

直観と熟慮は互いに補い合うものであり、どちらが欠けても「知ったかぶり」になりうる。

■人は集団で知性を発揮する生き物
わたしたちは、自分の知っていることと、社会の知っていることを区別できない。そのおかげで、自分一人ですべて覚えておかなくてもすむが、インターネットなどの表面的な知識だけ「知ったかぶり」になりやすい。

■「群衆の知恵」と「グループシンク」(集団浅慮)
一人ひとりが個別に判断した場合、それらを集計すると正解に近づく「群衆の知恵」がみられる。しかし、互いに意見交換し、情報を共有してから判断すると、バイアスも共有されるので、「グループシンク」(集団浅慮)に陥ることがある。

■直観的な判断は信頼の表れ
大多数の人が、熟慮することなく直観的に判断できるのは、自分の内臓感覚や、周囲世界、さらには社会の他の人たちを無意識のうちに信頼しているからこそ。深く考えなくても、だいたいはうまくいくことを知っている

しかし、深く考えなければやっていけない状況で育った人の場合、直観や他者の意見を過度に信用せず、熟慮するようになるかもしれない。

このブログを書いているわたしはというと、昔から説明が少ないと満足できない傾向がありました。

授業で疑問に思った点について学校の先生に質問しても満足のいく答えが帰ってこないので、いつしか教師を信用するのをやめ、自分で調べたほうが賢明だということに気づきました。

在学中に体調をひどく崩したときには、とても親切なことに、確信のこもった態度で「それは慢性疲労症候群ですよ」「自律神経失調症ですよ」と断言して治療を勧めてくれる人が大勢いました。

しかし、そうした“ラベル”は、たいした手がかりになりませんでした。わけのわからないものにとりあえず名前をつけて“わかったつもり”になるだけにすぎなかったからです。

身の回りの一般の人たちだけでなく、医師などの専門家と話しても、その思いは変わりのせんでした。わたしの奇妙で耐えがたい症状を話しても、医師は納得のいく説明がてきないどころか、話を聞く姿勢さえないことがほとんどでした。

医師のおざなりな説明にも、インターネット上の浅い説明にもまったく納得のいかなかったわたしは、納得のいく説明を求めて、書籍の海をあさりました。そして、「誰かに頼まれなくてもいちいち説明する」ためにこのブログを作りました。

このブログは、説明好きなわたしが書いているため、記事が長すぎ、詳しすぎる傾向があります。おそらく「それほど熟慮型ではない被験者(つまり大多数の人)」は飽き飽きして最後まで読まずに帰ってしまうでしょう。

裏を返せば、この記事をわざわざここまで読んでくださったような方は、わたしと同じ説明好きな人なののかもしれません。「大方の人とは異なり、熟慮型の人は詳細な情報を求める」のですから。(p98)

もちろん、そんな「説明好き」のわたしでも、“知ってるつもり”になってしまうことは多々あります。つねに未知なる情報が存在しうることを意識しているつもりですが、「自分の見たものがすべて」(WYSIATI)に陥ってしまうこともあります。

そんなとき、この記事で紹介したような、知ってるつもり――無知の科学ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)といった本を読み直すと、謙虚な気持ちにさせられます。

たとえどれほど調べたところで、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らない」ということを思い起こさせてくれるからです。

どれほど知識があるように思える人でも、この世界全体の理解からすれば、ほんのわずかなことしかわかっておらず、人はみな無知であることに変わりありません。「教養のある人」が「教養のない人」に誇れる点などありません。

ごくわずかな知識や理解を得ただけで思い上がったり、得意げになったりせず、常にまだ知らないことは無限にあるのだという子どものような謙虚さをもって、これからも興味あることを探求していきたいものです。

補足1 :病気や障害を内側から「説明できる」人たち

本文で考えたように、わたしたちはみな、学校で学んだり、インターネットで検索したりした表面的な知識だけで、自分では実際に経験したことのない物事を「知ってるつもり」になりやすい傾向があります。

この種の経験を伴わない「知ってるつもり」が最も広く見られるのは、医学の分野だと思われます。

医療関係者のほとんどは、自分が診る患者の体験世界を身をもって経験したことがありません。しかし、単に教科書などで学んだ知識だけで、患者に対してあれこれとアドバイスする立場に就きます。

医師たちの大半は、自分たちのほうが患者より病気についてよく知っていると思いこみ、ときに患者に対して不遜な態度を取ります。たとえば患者が訴える細かな症状に耳を貸さず、「気にしすぎだ」「思い込みだ」と取り合わないかもしれません。

けれども、一部の熟慮型の医者は、これが「知ってるつもり」の錯覚にすぎないことに気づくことができます。(おそらく、医者だからといって、また大学を出ているからといって、とりたてて熟慮型が多いわけではないと思われる。ことによると一般人より「知ったかぶり」が多いかもしれない)

たとえば、脳神経科医オリヴァー・サックスは、旧態依然とした医学の説明に納得せず、徹底的に調査と観察を繰り返し、他の人が気にも留めないようなさまざまな不可思議な脳の現象を詳しく説明するのが大好きな人でした。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

サックスは、レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で、自分がさまざまな脳の不思議について説明できたのは、高度な医学教育を受けたからではなく、患者たちが説明してくれたおかげだと述べています。

私たちは「客観的な観察者」の立場から降りて、患者と直接向きあい、人間的な共感と想像力をもって彼らと接しなければならない。

彼らと協調し、ともに良い人間関係を築いてはじめて、彼らがどんな状況にあるのかを学ぶことができる。

パーキンソン症候群であるとはいかなることなのかを彼らは私たちの語り、示してくれる。そんなことができるのは彼ら患者たちだけなのだ。

…私たちは一般的な世界の境界を超えて、パーキンソン症候群の奇妙な王国を彼らとともに探検する必要があるが、探すべきは「被験者」でもデータでも「事実」でもなく、未知なるものに親しみを湧かせるようなもの、これまで考えも及ばなかったものに気づかせるもの、つまり患者が口にするイメージや直喩、類推、隠喩である。(p65)

サックスはまた、次のようにも書きます。

私たちの目に始めから終わりまではっきりと映り続けるのは、機械的な医学そして機械的に世の中を推し量ることがいかに不適切であるかということだ。

患者たちは機械的な医学が正しくないことの生きた証であるとともに、生物学的な考え方の生きた手本である。(p465)

医師サックスは、教科書的なデータや事実から学べないような「これまで考えも及ばなかったものに気づかせるもの」を「生きた手本」である患者たちから学べると述べています。とりわけ、その一人が、書名にもなっているレナードという患者でした。

彼と出合ってからの六年半で、パーキンソン症候群や脳炎後遺症といった病気、苦しみ、そして人間の本質ということについて彼から学んだことは、他のすべての患者を合わせたよりもずっと多い。(p360)

レナードはその他にも、目覚めているときや夢のような状態にいるときになにを感じるのか、私のために示してくれた。

…脳炎後遺症の患者に起こるこうした状態についての私の知識の多くは、レナードから教えられたものである。彼は自分の考えをはっきりと言葉で表すことができた。

他の患者(とくにヘスター・Yとローズ・Rや、この本では取り上げていない患者たち)も頻繁にそうした状態を経験してはいたが、誰も彼ほどの情熱と能力を持って説明することはできなかった。(p363)

サックスが診ていた脳炎後遺症の患者たちのうち、大多数は自分の状態をうまく説明できなかったのに対し、レナードは違いました。

レナードは、自らの独特で奇妙な体験を、病の“内側”から的確に説明し、外部の人に伝えることができました。そのおかげで、病の“外側”にいるサックスも、彼ら患者たちの独特な体験世界について理解を深めることができました。

これと似たようなことは、あらゆる病や障害の研究において見られます。

かつて自閉症は深刻なコミュニケーション障害や想像力の障害であると“外側”から一方的に認定されていました。

しかし、テンプル・グランディンやドナ・ウィリアムズ、東田直樹さんのような、“内側”から自閉症の世界を説明できる人たちが現れたために、概念が大きく転換しました。

今日では、自閉症は欠陥ではなく、異なる体験世界、別の文化を持つ少数者たちである、と考えられるようになっています。

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サヴァン症候群もまたかつては常軌を逸した能力を発揮する精神遅滞の人たちであるとみなされていました。

しかし、ダニエル・タメットやジェイソン・パジェットのような、自分の状態を説明できるサヴァンの当事者が現れたことで理解が深まりつつあります。

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ダニエル・タメットのエッセイ集「ぼくと数字の不思議な世界」から人間が持っている多様性について考えてみました。

既存の説明に満足することなく、自分のことを詳しく説明できる例外的な患者は、どの分野にも少数ながらいるようで、認知症、パーキンソン病、ALS、PTSDなどのトラウマ関連疾患、トゥレット症候群などの理解が進んだのは、そうした当事者たちの説明があったおかげです。

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わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

こうした少数の例外的な患者は、いわば主観と客観を使い分けることができる能力を持った人たち、といえるかもしれません。

自分の身体に起こっている奇妙な現象を直観的また主観的に体験するだけでなく、それを経験できない他の人たちに、熟慮のうえ、客観的に説明することができます。

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左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)によると、医師であるオリヴァー・サックス自身も、子どものころの疎開時のストレスからくる解離現象や、片頭痛の前兆からくる幻覚などの奇妙な症状をたびたび経験していました。

これはなかなかおもしろくてためになる。今はそう思うことができた。これから何がおこるのかよくわかっていたし、その状態が一過性のものであることもわかっていたからだ。

しかし、夢を見ているときや目覚めたばかりのときは、ほんとうに恐ろしかった。そういえば子供のころ、このような発作がおこったときも、ひどく恐ろしい思いをしたものだ。

傷つきやすい年頃だったので、私は二つのことにとても神経を使った。ひとつは、知覚に現れたごくわずかな変化や不調にたいして、もうひとつは、それらの変化を、まちがっても人に洩らさないようにするということだ。

「つくり話」だとか「頭がおかしい」と思われる可能性があったからだ。(p113)

サックスは子ども時代からそうした不思議な体験を繰り返し経験し、周囲の大人に打ち明けたり頼ったりことができなかったので、ひたすら自分で熟慮するようになったのでしょう。

サックスが他の大多数の医者と異なり、「知ってるつもり」の落とし穴に陥らず、患者の言葉にしっかり耳を傾けることができたのは、医者だったからでも高度な教育を受けたからでもなく、子供のときからの独特な経験のためだと思われます。

わたしの場合もそれと似ていて、子どものころから、あれこれと不思議な体験をしていましたが、そんな経験をしたこともない周りの大人や医者に打ち明けると、「つくり話」だとか「頭がおかしい」と思われてしまうことに気づきました。

それで、そうした体験については誰にも言わずに自分で調べるようになり、オリヴァー・サックスの著作などを通して、自分で「説明する」ようになりました。

興味深いことに、オリヴァー・サックスは、レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で幻覚などの奇妙な解離症状は、すぐに統合失調症などの精神異常と結びつけられてしまうけれども、自分や患者たちの経験からすると、それはまったくの誤解だと述べています。

当然のことながら、幻覚を見る人は「見えたもの」や「聞いた声」について大きな声では語らない。なぜなら変わっているとか狂っていると思われるのではないかと恐れるからである。

…何年もかかってようやく、彼らは私を信頼するようになり、ごく個人的な経験や感情を打ち明けてくれるようになった。

…まず、最も長く入院していて重い障害を負った患者の少なくとも3分の1、おそらく過半数は、「慢性的に幻覚を見る」ということであり、次に、患者に対しても彼らの幻覚に対しても「統合失調」という言葉を使うことは適当でないことである。(p380-381)

サックスや、彼の患者たちは、統合失調症ではないのに幻覚を見ることがありました。それは、彼らが置かれた辛く苦しい環境によって誘発された解離現象だったと思われます。

しかし、たいていの場合、そうした慢性的に辛い環境にある人ほど熟慮型になるので、「変わっているとか狂っていると思われるのではないかと恐れ」て、そうやすやすとは奇妙な症状をだれかに打ち明けたりしません。

他方、統合失調症の人は、熟慮したり自分を客観視したりすることができなくなる病気なので、幻覚を見たら事実と決めつけて、なんのはばかりもなく他の人に伝えます。

統合失調症の人だけが幻覚をはばかりなく周りに打ち明け、そうでない人たちは幻覚を見ても口外しないので、医師たちは幻覚=統合失調症と誤解するようになります。

幻覚を見る人のうち、統合失調症は少数例にすぎず、実際には幻覚を見ても誰にも打ち明けない人が大半なのに、それを知らない医者たちは「知ったかぶり」に陥って、自信満々に幻覚と統合失調症を結びつけるようになってしまうのです。

サックスは、自分も幻覚をよく見る当事者であったため、見てしまう人びと:幻覚の脳科学という本の中で、統合失調症ではないタイプのさまざまな豊かな幻覚について詳しく説明しています。

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前述の左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)では、偏頭痛の前兆としてしばしば見る、こんな幻覚についても記しています。

そしていま、暗点にはいっている左半分に何かがおきつつあった。もの思いにふけっているあいだに、きわめて繊細な模様が目の前にあらわれたのだ。ごく細い蜘蛛の巣よりも繊細で透きとおっている。

…部屋自体がレース模様でできているようにみえた。六角形の断片でできたモザイクが、一つ一つ、完全に隙間なくはめこまれてならんでいる。

…その瞬間私は、客観的に詩情をまじえず、数学的な意味だけで、こま動きのない無限のモザイク模様のような光景を楽しんで敷いた。そういえば以前にもときおりこんなことがあった。(p114)

このときサックスが、統合失調症の幻覚を見ていたのでないことは明らかです。彼はまったく妄想的ではなく、客観的な思考を保っていて、熟慮することができました。

当然ながら、彼はその幻覚を現実のものとは思っておらず、だれかに性急に話したりもしませんでした。しかし、その不可思議な現象について、自身の神経科学の知識を総動員して調べ、著書を通して「説明」しました。

この場合もやはり、“内側”から体験世界を説明できる当事者の登場によって、医学の誤った常識が打ち砕かれました。

自分では解離症状や幻覚を経験したことのない大半の医師たちは、“外側”からそれらの現象を観察して、それらは妄想の産物であると推論しただけで「わかったつもり」になっていました。

しかし、オリヴァー・サックスを含め、自分の幻覚体験について“内側”から説明できる当事者たちが現れたことによって、“外側”から観察していただけの医師たちは、「説明深度の錯覚」に陥っていたことが、明らかにされてきたのです。

サックスは、この本の中で、モンテーニュの次のような言葉を引用して、表面的な知識だけで「知ってるつもり」になっている医学を批判しています。

現に医学は、常に経験をその実施の試金石にすると公言している。

同じようにプラトンも、「真の医者になろうとする者は、なおそうと思うあらゆる病気や、診断しようとするあらゆる症状と、それに付随する症状を前もって経験しておかなければならぬ」と言ったのはもっともである。

……本当にそういう医者なら私も信頼しよう。実際、他の医者どもは、海や岩礁や港を描いて、自分は机の前に座って、何の危険もなく船の模型を動かす人のようにわれわれに指図する。

彼を実際の中に投げ込んでごらん。どうしていいかわからなくなるから。ーモンテーニュ『エセー』第三巻十三章(p14)

実際の「経験」がないのに、教科書やネット上の知識だけで知ったかぶりになってしまうという錯覚は、患者たちの体験世界を医師が身をもって経験できない医学の分野において、とりわけ広く見られるものなのです。

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鈍感な医者が、いかにさまざまな害を患者にもたらすか、芸術的感性をもつ医者はどのように一人の人間としての尊厳を強めてくれるか、という点ほ考えました。

補足2 : 解離とは「知っていると同時に知らずにいること」

この記事では、たとえばネット上の知識だけでわかったつもりになるかのような錯覚、つまり本当は何も実質を知らないのに、あたかも「知ってるつもり」になってしまうという錯覚を考えました。

この錯覚は、このブログでよく取り上げている「解離」と呼ばれる現象とは、正反対のものだといえます。

精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークは 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、解離とは何か、次のように表現しています。

ライオンズ=ルースは、赤ん坊の誕生後二年間に母親が関与も同調もしないことと、その子供が成人したときに解離の症状を見せることとの間に、「顕著で意外な」関係があるのを発見した。

…養育者に欲求を無視されたり、存在そのものを腹立たしく思われたりした子供は、拒絶されたり、心を閉ざされたりするのを予期することを学ぶ。

そういう子供は、母親の敵意あるいはネグレクトを頭から締め出し、何ともないかのように振る舞うことで精一杯対処するが、打撃あるいは窮乏、遺棄を避けるために、体は強い警戒を続ける可能性が高い。

このように、解離とは、知っていると同時に知らずにいることを意味する。(p200)

解離とは「知っていると同時に知らずにいること」です。

たとえば、慢性的な逆境で育った子どもは、現実のあまりに辛いストレスを頭から締め出し、感覚や記憶を切り離し、ストレスに気づかなくなってしまいます。

しかし、意識の上ではストレスに気づかなくなったとしても、体のほうは「強い警戒を続け」、ストレスに気づいています。

こうして、意識の上ではストレスを「知らずにいる」のに、体のほうはストレスを「知っている」という奇妙な状態になります。

このような例のひとつが、解離の一種である「失感情症」です。ヴァン・デア・コークは、強制収容所の過酷な体験のせいで失感情症になった人たちについて、次のように書いています。

失感情症について私に教えてくれた人の一人が、精神科医のヘンリー・クリスタルで、重度のトラウマを理解しようと、1000人以上のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)サバイバーを診た人だ。

自身も強制収容所生活を生き延びたクリスタルは、患者の多くが職業人生では成功しているとはいえ、個人的な人間関係はわびしく、よそよそしいものであることを発見した。

感情を抑え込むことで世事は処理できたものの、それには代償が伴った。彼らはかつて圧倒的だった情動を抑えることを学んだのだが、その結果、自分が何を感じているのか、もはや気づくことがなくなった。

セラピーに関心のある人はほとんどいなかった。(p166)

強制収容所を生き延びた人たちの多くは、過酷すぎる体験のせいで、感覚を切り離して麻痺させることを学びました。

その結果、体はストレスを感じている状況でも、意識の上ではストレスに気づかなくなりました。まさに「知っていると同時に知らずにいる」状態です。

このような失感情症は、オリヴァー・サックスが診ていた慢性病棟の患者たちにも生じていました。サックスはレナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中でアーロンという人についてこう書いてます。

気分はどうかと尋ねると、無表情のまま決まって「まあまあ」とか「こんなもんさ」と答える。

周囲に積極的な注意はまったく払わなかったが、何が起こっているかは機械的に認識していた。私は彼からなんらかの感情を引き出そうと躍起になったが、いつも失敗した。

とうとう彼自身がこう言った。「私には感情はなにもないよ。内側が死んでしまったんだから」 

この数ヶ月間、アーロンはどこか死んだように見え、幽霊かゾンビのようだった。生きた存在としてのいかなる感情も表さなくなり、車椅子に座った空虚な存在になってしまったのだ。(p347)

アーロンもまた、失感情症によって「知っていると同時に知らずにいる」状態に陥っていました。

彼の体は、周囲で「何が起こっているかは機械的に認識していた」という意味で「知って」いました。しかし彼の意識はみはやそれに気づかなくなったという意味で「知らずに」いました。

ヴァン・デア・コークはまた、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で次のような古典的な例を挙げています、これは、「解離」という概念を作ったフロイトと同時代の医師ピエール・ジャネが記録した症例です。

イレーヌは母親の死の記憶を失っていたのに加え、別の症状も示した。週に何度か、彼女は我を忘れて空のベッドを見つめ、周囲で何が起こっていようとかまわずに、いもしない人物の世話を始めるのだった。

彼女は母の死の場面を思い出すことはなく、その代わりに細部に至るまで忠実に再現した。

トラウマを負った人々は、記憶が極度に乏しいと同時に、あまりに多過ぎる。

イレーヌは母親の死の意識的な記憶をいっさい持っていなかった。つまり、彼女は何が起こったのかを語れなかった。だがその一方で、母親が死んだときの出来事を、体を使って表現せずにはいられなかった。(p295)

イレーヌは、は意識の上では、母の死というトラウマの記憶を失っていました。彼女は母親が死んだことを知りませんでした。

しかし、彼女の身体はそれをはっきり覚えていて、無意識のうちに、母親が死んだときの動作を繰り返しました。

これは、エピソード記憶(意識して思い出せる記憶)のレベルではトラウマを忘却しているのに対し、手続き記憶(無意識のうちに身体の反応や動作として保存される記憶)のレベルではトラウマを覚えていることを示唆しています。

トラウマによって解離を起こした人は、意識の上では、トラウマ経験の詳細を忘れてしまっていることがよくあります。あまりにも辛い経験はエピソード記憶から忘れ去られてしまいます。

ところが、そうした人の身体は、トラウマ経験をしっかり手続き記憶として覚えています。そのため、身体はトラウマを「知って」いて異常な反応をしてしまうのに、意識はトラウマを「知らずにいる」ため、症状が意味不明に思えてしまいます。

身体には多種多様な不可解で奇妙な症状が現れるのに、意識の上ではその原因がまったく思い当たらないので、原因不明の病の治療を求めてドクターショッピングを繰り返すようになってしまいます。

慢性疲労症候群の文化が抱える「バラムとロバ」現象
慢性疲労と解離についての記事の補足1

また、トラウマとは別の解離現象の例として、神経科学者アントニオ・ダマシオは、意識と自己 (講談社学術文庫)で、人の顔がまったく見分けられなく重度の相貌失認という症状を抱えたエミリーという女性についてこう書いています。

顔失認(第五章で述べたエミリーのような患者)に、患者の親族や友人の顔写真とともに患者が会ったこともない人々の顔写真をランダムな順番で提示し、同時に患者の皮膚電気伝導をポリグラフで記録すると、ある劇的な乖離が起きているのがわかる。

患者の意識的な心には、どの顔も同じように認識不可能である。友人、親族、まったく見ず知らずの者、そのどの顔も患者の心に同じ空白状態を生み、彼らがだれかを知らしめるようなものは何も心に浮かばない。

にもかかわらず、友人や親族の顔は事実上どの顔も、それが提示されると明確な皮膚電気伝導反応が起きたが、見ず知らずの顔の場合はそれが起きなかった。

こうした反応を患者自身は少しも気づいていない。さらに、皮膚電気伝導反応の強さは、もっとも身近な親族に対して大きくなる。(p389)

人の顔が見分けられない相貌失認は、幼少期のストレスによって起こることもあれば、遺伝的要因や、事故などの後遺症によっても起こりうる一種の解離症状です。

人の顔が覚えられない「相貌失認」の4人の有名人とその対処方法―記憶力のせいではない
人の顔が覚えられない、何度会っても見分けられない。それは10人に1人が抱える相貌失認(失顔症)かもしれません。ルイス・キャロル、ソロモン・シェレシェフスキー、オリヴァー・サックスな

エミリーの場合親しい人の顔を見ると、無意識のうちに体が反応していました。つまり彼女の体は、間違いなく親しい人のことを「知って」いて、見分けていました。

ところが彼女は、意識の上では親しい人の顔に気づけませんでした。体は「知っている」のに、意識は「知らない」のです。

このような現象は、ほかにも、実際には目が見えているにもかかわらず、自分が盲目だと思いこむ盲視など、さまざまな神経医学上の解離現象に見られます。

これらの特徴は、本人の身体は、実体験として周囲の情報をしっかり「知っている」のに、本人の意識は、それを「知らない」ことです。

本文で考えた「説明深度の錯覚」の場合は、たとえば学校の教科書で学んだだけの知識や、インターネットで検索しただけの知識など、自分では体験したことのない表面的な知識だけで「知ってるつもり」になってしまうという現象でした。

それに対して、トラウマの解離などの場合は、実際に身体で体験した強烈な出来事があるにもかかわらず、あまりに辛いがために「知らない」かのようになってしまう、真逆の現象だとみなせます。

この両者は、おそらく脳科学的にみても、正反対の現象であるように思えます。

説明深度の錯覚により「知ってるつもり」になっている人は自信過剰に陥ります。他方、解離によって過去のトラウマを「知らない」状態になっている人は、生きていることさえおぼつかない不安にさいなまれます。

このとき、両者では、脳の島皮質帯状回と呼ばれる場所の活動が正反対の状態にあるようです。

神経科学者バド・クレイグなどの研究によると、脳の島皮質や帯状回は、身体の内側からの体性感覚(たとえば本文で考えた、直観の源となる内臓感覚などのソマティック・マーカー)を処理している場所です。

そのため、腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかによると、物事を直観的に判断する人の場合、この島皮質や帯状回が活発に働いていることがわかっています。

現在では、即断するときには前部島皮質や前帯状回が活性化することが知られている。

これらの脳領域は、痛み、恐れ、吐き気、あるいは何らかの社会的情動を経験している最中にも活性化する。

何かがおかしいと思ったときにも直感細胞は発火し、変化した状況に応じて直観的な判断を再調整するように導く。(p186)

他方、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、トラウマなどのために解離状態にある人の場合は、島皮質や帯状回の活動は低下しています。

解離状態の患者には、身体感覚を制御する脳領域(島および帯状回)の大幅な活動低下が認められた。(p139)

本文で考えたように、わたしたちの身体的な経験は、内臓感覚などの形で記録されます。直観的に判断する人は、過去の身体的な経験を伝えるソマティック・マーカーを、脳の島皮質や帯状回で処理して、即座に判断します。

他方、過去にトラウマを負った人は、やはり身体的な経験を内臓感覚などの形で保存していますが、それはあまりにも耐えがたい、異常な体験です。

そのため、そうした身体の内部の感覚を判断の助けにするどこか、まったく受け取らないよう遮断してしまいます。これが解離(つまり切り離し)です。

身体の内側に保存されたソマティック・マーカーの情報を遮断しているので、それらが生み出す直観をほとんど利用できなくなり、それを処理するための脳の島皮質や帯状回の活動も低下します。

このような解離を起こした人たちは、自分の直観(つまり自分の“身体”)をまったく信用しなくなる代わりに、ひたすら思考することで対処するようになります。いわば、極端すぎる「熟慮型」になります。

以前の記事で触れたように、重度の解離によって自分の身体の感覚をうまく認識できない離人症になった人たちは、奇妙な体験について、ひたすら頭で考え続けるようになります。

おそらく、過去の偉大な哲学者の中には、かなり強い解離を起こしていた人たちが少なからずいるのではないかと思われます。

現実感がない「離人症」とは何か―世界が遠い,薄っぺらい,生きている心地がしない原因
現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

こうした強い解離症状を治療するには、ソマティック・エクスペリエンスなどの手法によって、身体感覚とのつながりを取り戻し、正常な直観を回復させる必要があります。

ソマティック・エクスペリエンス(SE)を知る10ステップ―「凍りつき」を溶かすトラウマセラピー
近年注目されているトラウマの治療法「ソマティック・エクスペリエンシング」(SE)についてまとめました。

興味深いことに、 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、身体の内的な感覚を処理する島皮質の活動は、わたしたちの確信や不安感にもかかわっているという仮説があります。

2006年、マーティン・ポーラスとマリー・スタインの二人は、慢性不安は前部島皮質が機能不全を起こし、通常より予測エラーが増えることが原因だとする説を発表した。

それと正反対のことが起きているのが恍惚発作かもしれないとピカールは考える。前部島皮質に電気の嵐が発生して誤作動を起こし、予測エラーがほとんど、あるいはまったく出なくなった状態だ。

そのため世界に問題は何ひとつなく、すべてが理解できるという絶対的な確信感が生じるのである。

この前部島皮質説はかなり有効だとアニル・セスは言う。「現象学的に考えると、恍惚発作は慢性不安の対極です。

恍惚発作ではすべてが完璧であり、平穏な確信に満ちているのに対し、慢性不安は身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめきを覚えるのです」(p292)

ここでは、島皮質の過活動は「すべてが理解できるという絶対的な確信感が生じる」ことと、逆に島皮質の機能不全は「身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめき」と結び付けられています。

島皮質は身体の内的感覚を処理する場所ですから、島皮質が過剰に活動しているときは、自分の身体を含めすべてのことが「わかったつもり」になります。そして、これが正しいに違いないという直観によって突き進みます。(その最も極端な場合が、引用文中に書かれていた、てんかんなどの恍惚発作です)

他方、島皮質が機能不全を起こしていると、自分の身体さえもわからない、おぼつかないという慢性不安に陥ります。(この最も極端な場合は、別の記事で取り上げた、自分の身体が「死んでいる」ように感じる離人症やコタール症候群です)

ヴァン・デア・コークが 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書いているように、トラウマの解離によって耐えがたい身体の感覚を切り離してしまった人も、自分の身体のことが「わからなく」なります。

トラウマを負った人々は、自分の体の内部で絶えず危険に感じている。過去が、心を苦しめる内部の不快感として生き続けているからだ。

彼らの体は、内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ、それを制御しようとするうちに、腹の底で感じるものを無視し、内部で起こることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう場合が多い。

彼らは自己から隠れることを学ぶのだ。(p162)

その結果、「身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめきを覚える」ので、いったい自分の身体には何が起こっているのだろう、とひたすら考えざるをえなくなります。

本文で書いたように、世の中の大勢の人たちが、「説明嫌い」「わかったつもり」でもやっていけるのは、根底の無自覚の信頼や安心があるからでした。

無意識のうちに、周囲世界のことを、他人のことを、そして自分の身体のことを信頼する「基本的信頼感」(あるいは「基本的安心感」)と呼ばれるものを持っているおかげで、詳しい「説明」などなくても、安心していられます。

[しかし、トラウマを負ったり、逆境で育ったり、生まれつき極端な感覚過敏を抱えていたりした人は、周囲の世界や人間に対する基本的信頼感を十分に育めません。

nlink url="https://susumu-akashi.com/2015/12/a_sense_of_basic_trust/"]

そして自分の身体の内的感覚をさえ信頼できず、切り離してしまう解離は、その最たるものといえるでしょう。自分の身体、およびそこから生まれる直観さえも信頼できないので、自分の存在そのものに対する慢性的な不安感やおぼつかなさを抱えます。

なぜ子ども虐待のサバイバーは世界でひとりぼっちに感じるのか―言語も文化も異なる異邦人として考える
子ども虐待のサバイバーたちが、だれからも理解されず、「人類から切り離されて、宇宙でひとりぼっちのように感じる」理由について、異文化のもとで育った異邦人として捉える観点から考察します

その結果、ひたすら自分の頭で熟考して、納得のいく「説明」を求めざるを得なくなります。

つきつめて言えば、説明なしで直観で判断する人ほど、島皮質や帯状回の活動が活発で、無条件に確信する傾向が強いはずです。

逆に詳しい説明がなければ納得できず疑り深い人ほど、島皮質や帯状回の活動は弱く、直観より熟慮に頼りやすい、といえるかもしれません。

そう考えると、やはり本文で考えたような直観的で自信過剰な「知ってるつもり」と、この補足で考えたような「知っていると同時に知らずにいる」解離症状とは、正反対のものだといえるでしょう。

この場合も、確信しすぎる態度と不安で疑り深い態度は、やはりどちらがより優れている、劣っているというものではなく、最も望ましいのは両者のバランスがとれた状態だといえます。

あまりに直観に偏りすぎ、自信過剰で「すべてが理解できるという絶対的な確信感が生じる」タイプは、過去の記事でも考えたように、おそらくカルト宗教などの指導者に多いかもしれません。

他方、あまりに熟慮に偏りすぎ、疑り深く、「身体状態に反映されるあらゆることに不穏なざわめきを覚える」タイプは、不可知論的な哲学者に多いでしょう。

前者も後者も、世の中の実際とはかけ離れた極端な思想を持ちがちです。絶対的な確信によって石橋を叩かずにわたるか、絶対的な疑り深さによって石橋をどれだけ叩いてもまだ納得しないかのどちらだからです。

人間はおそらく、直観と熟慮、ファストとスローのバランスをとって生きるときに、最大限の創造性を発揮し、人生の喜びを満喫できる生き物なのでしょう。


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