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大自然から感じる「畏怖の念」を科学するー凍りついた人を生き返らせる逆PTSD効果

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2014年の夏、この峡谷をアメリカの帰還兵の一団が下っていった―こんどは全員が女性で、兵役中に心身に深い傷を負っていた。…彼女たちもまたアメリカの大自然を探検すべく川の旅を始めたのだ。

…畏怖の念にほんとうにPTSDとは反対の効果があるなら、そうした効果をもっとも必要としている人たちの脳にも効能はあるのだろうか? (p272-273)

「畏怖の念」と聞くと、あなたは何を思い浮かべますか? 大自然の中で感じる崇高な気持ちでしょうか? あるいは宗教体験における神に対するスピリチュアルな感情でしょうか?

自然を離れて都会で生きることが多くなった現代人は、今やめったに畏怖の念を感じるような体験をしなくなりました。

畏怖のは古来から重要な感情とみなされてきたらもかかわらず、どんな仕組みで感じるのか、なぜそのような感情が必要なのか、といった点は、「ごく最近まで、科学的な研究はほとんど行なわれてこなかった」ようです。(p262)

しかし近年、カリフォルニア大学のダチャー・ケルトナーやポール・ピフといった心理学者たちにより、この不思議な感情の効果が注目されています。

畏敬の念が生き方にプラスに作用 - WSJ

最近発表された研究調査結果から、実際に畏敬の念を覚えるような体験をすると、健康状態は良くなり人間関係も改善されるなどさまざまな効用があることが分かった。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によれば、「数あるポジティブな感情のなかで、畏怖の念は唯一、IL-6の値を大幅に下げる感情と考えられて」いて、『「逆PTSD効果」があるかもしれない』とする専門家もいます。(p263-264)

興味深いことに、ここ最近のトラウマ医学の著しい進展によって、畏怖の念が持つ生物学的な役割のヒントが得られるようになりました。

もしかすると、ヒトを含めた動物が、はるか昔から恐ろしい捕食体験などのトラウマにさらされながらも生き延びてこられたのは、畏怖の念がトラウマ反応をリセットし、「逆PTSD効果」をもたらしてくれていたおかげだったのかもしれません。

この記事では、まず、トラウマ医学の生物学的な観点から、畏怖の念とは何かを調べます。次いで、大自然の中で感じる畏怖の念が、なぜ今のわたしたちに必要なのか考察したいと思います。

これはどんな本?

この記事では、何冊もの本から引用していますが、おもに参考にしたのは以下の3冊です。

まずポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」は、神経科学者スティーヴン(ステファン)・ポージェスによる自律神経系の新しい理論「ポリヴェーガル理論」の解説書です。

従来、自律神経は、交感神経と副交感神経の綱引きという単純な枠組みで解釈されていましたが、より高度な階層を明らかにしたポリヴェーガル理論のおかげで、トラウマや畏怖の念といった現象を科学的に考察することが可能になりました。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこのブログで頻繁に紹介している神経生理学者ピーター・ラヴィーン(リヴァイン)によるトラウマ治療についての本です。

前述のポージェスは著書の中で、ラヴィーンら数名のトラウマ専門家のおかげで、ポリヴェーガル理論をトラウマ医学に組み込む道が開けたことに感謝を表明しています。(p199,258)

最後に、冒頭で引用したNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方です。

この本も、このブログで過去に何度か取り上げていますが、自然界からのさまざまな刺激が、いかにして畏怖の念を引き起こしたり、わたしたちをリラックスさせたりするかについて、近年の心理学者たちの研究が紹介されています。

畏怖の念=スピリチュアルという思い込みを捨てる

畏怖の念について考察する前に、まず押さえておきたいのは、「畏怖の念」=「スピリチュアルな概念」という先入観を捨てることです。

確かに、畏怖の念という感情は、人類史の古くから、おもに宗教体験と結びつけて語られてきました。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、英語の「awe(畏怖)」という単語は、「神の前で感じる恐怖やおびえといった意味をもつ古英語や古ノルド語の単語に由来する」そうです。(p261)

日本語においても、「畏怖」とは、「怖れ」「畏(かしこ)まる」ことであり、人智を超えた強大なもの、とりわけ神に対するおののきと結びつけられることがしばしばです。

しかしながら、心理学者ポール・ピフが説明しているように、畏怖の念を感じる機会が、宗教体験に限られているわけでないことは明らかです。

「畏怖の念とは、戦場では基本的に、頭を吹き飛ばされたような衝撃を受けることを指すんです」とカリフォルニア大学アーヴァイン校のポール・ピフは説明してくれた。

…心の底から驚嘆し、畏怖の念を覚えると、ときには人生観が変わる。さらに、その後の一生が変わってしまうこともある。

…宇宙飛行士も宇宙から地球を眺めたときの「オーバービュー効果」(神のような超越者の視点から、地球の全体を一望のもとにおさめることによる意識の変容)により、同様の感銘を抱く。

また臨死体験した人や、一般的な登山者、サーファー、日食や月食を見た人、イルカと一緒に泳いだ人なども、畏敬の念に打たれ、人生が一変するような衝撃を受ける。(p262-263)

畏怖の念とは、わたしたち人間の身の丈を超えたはるかに強大な何かを実感することで生じる怖れおののきです。こうした強大な力に圧倒されるような衝撃は、雄大な大自然や、生命の奇跡に触れたときにも感じられるでしょう。

この本によれば、18世紀のアイルランドの哲学者エドマンド・バークは、自然界の中で経験する畏怖の念について、次のように書いたそうです。

1757年、28歳のバーグは『崇高と美の観念の起源』を出版し、啓蒙思想の中心的人物となった。世俗主義者だったバークは、アイルランドの自然のなかを歩きまわり、もっと適切な表現がありそうな気もするが、「心が動かされた」と綴った。

…「自然界の偉大で崇高なものが生みだす情念は、もしもこれらの原因が最も強力に作用する場合には驚愕となる。

驚愕とは或る程度の戦慄を混じえつつ魂のすべての動きが停止するような状態を言う」と、バークはこの著書に記した。

そして、流れの激しい大きな滝、激しい嵐、暗い木立といった風景を愛した。

…心から畏怖の念を覚えるには、「はてしない広がり」が必須で、なおかつ、人間にはそう簡単に理解できないものでなければならないと、バークは考えた。(p261)

バーグが気づいていたように、畏怖の念は宗教的体験のような特定の場面に限定されるような感情ではありません。「はてしない広がり」「人間にはそう簡単に理解できないもの」によって、さまざまな場面で引き起こされます。

ちょうど悲しみという感情が、愛する人の死によっても、大切な物を失くしたときにも、さまざまなシチュエーションで感じられるように、また怒りという感情が、だれかに脅かされたときも、不公正に直面したときも、同じ生物学的な仕組みで起こるのと同じです。

怒りや悲しみを研究したいなら、その引き金となった特定の体験に注目しても意味がありません。さまざまな体験によって引き起こされる、普遍的な生物学的仕組みのほうを研究する必要があります。

同様に、畏怖の念を研究する場合も、そのきっかけとなりうる特定の宗教体験とのつながりに注目するのではなく、さまざまな場面で起こりうる普遍的な生物学的仕組みについて調べる必要があります。

感情とは体の状態(情動)から生じるもの

悲しみや怒り、畏怖の念、さらには愛といった「感情」は、一般的には、精神的な、また心理的な現象だと思われています。

しかし、このブログで過去に取り上げた、神経科学者アントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」によれば、わたしたちの「感情」は、わたしたちの肉体(ダマシオの言葉を借りれば、脳と身体を含む「有機体」全体)から作られています。

心は脳だけでなく身体全体から作られる―神経学者ダマシオの自己意識の研究を読み解く
心は身体を土台として生まれるという神経学者アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について、「意識と自己」という本から整理してまとめてみました。

ダマシオ自身が認めていることですが、ダマシオの考え方は、もとを辿れば、実験心理学者ウィリアム・ジェイムズの思考実験に由来しています。 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳という本では、次のように解説されています。

ダマシオの理論は、元をたどれば1880年代後半に活躍したアメリカの哲学者・心理学者であるウィリアム・ジェイムズまでさかのぼる。

彼は情動と感情について、こんな問いかけで疑問を投げかけた。

熊に遭遇した人は、怖いから逃げるのか、それとも逃げたから怖くなるのか?(p183)

この問いかけは実に奇妙に感じられるかもしれません。

ふつうわたしたちは、「怖いから逃げる」のだと考えます。言い換えれば、まず怖いという「感情」が生じて、それから「逃げる」という身体の動きが生じるのだと。

しかしウィリアム・ジェイムズは、そうではないと考えました。

「財産をなくしたから悲しくて泣く。熊に遭遇したから怖くなって逃げる。ライバルに侮辱されたから、腹が立って殴りかかる。ふつうに考えればそうなる」 

ウィリアム・ジェイムズは1884年の論文「情動とは何か」でそう書いている。

だが本当は順序が逆であるとして、ジェイムズは自説を展開する。

「泣くから悲しくなり、殴りかかるから腹が立ち、身体が震えるから怖くなるのだ。泣いたり、殴りかかったり、震えたりするのは、悲しいから、腹が立ったから、怖いからではない」(p184)

ウィリアム・ジェイムズは、緻密に観察することによって、一般に考えられている感情と身体の関係は逆であることに気づきました。

まず感情が生じてから身体が反応するのではなく、まず身体が反応してから、ほんの少し遅れて感情が生まれるのです。ジェイムズは、このような、「感情」に先立って生じる身体の反応を「情動」と呼びました。

現代の神経科学では、情動と感情は次のように定義されている。

まず情動とは、刺激に反応して起きる身体の生理学的状態だ。心拍数や血圧、身体の動き(脅威に反応して凍りつく、逃げだす)、さらにはそのときの認知(思考が冴えているか、鈍っているか)まで含まれる。

対して感情は、脳と身体をひっくるめて起きている情動の主観的知覚だ。

感じるのが先、行動はあと。ジェイムズが論文を発表した当時はそれが常識だった。

たとえばヘビに出くわしたら、まず怖いと思う(ヘビが平気な人は別だが)。それが引き金となって、逃げだすとか、凍りつくといった行動が現れるというわけだ。

だが、情動と感情の関係は長らく誤解されていたとジェイムズは主張する。両者はむしろ逆なのだと。

ジェイムズのいう「情動(emotion)」は、現代の神経科学とぴったり一致するわけではないものの、その主張はおおむね認められている。

先に情動が出現して、あとからそれを感じるのだ。(p184)

日常的な日本語では「情動」と「感情」は似たような意味で用いられるため、少しわかりにくいかもしれませんが、神経科学においては「情動」は肉体の生理的な反応のことをいいます。

ジェイムズは、クマに出くわすと、まず身体の生理的な反応(心拍数の上昇や震えなど)である「情動」があらわれ、それから恐怖のような「感情」が生まれると主張しました。

人間だけが情動を「認識」し、後付け解釈する

これを科学的に裏づけたのが、ダマシオら現代の神経科学者です。

ダマシオは、意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、わたしたちの心の働きを「情動」と「感情」、さらには「認識」にわけることで見事に整理しました。

わたしたちは恐ろしい出来事に出くわすと、まず身体が震えて縮み上がるかもしれません。この第三者から観察できるような身体の生理的な動きが「情動」です。

あなたに向かってくる車は、あなたが臨もうと望むまいと、恐れと呼ばれる情動を引き起こし、あなたの有機体の状態の中の多くのものを変化させる―とりわけ、腸、心臓、皮膚が即座に反応する。(p197)

続いて、その人の心の中で、「情動の主観的知覚」が渦巻きます。これが「感情」です。

最後に、その人は「情動」や「感情」を感じ取って、いま自分は恐怖を抱いていると気づくかもしれません。これが「認識」です。

ダマシオによれば、これら三つのプロセスは別々のものです。

たとえば、カタツムリの一種のアメフラシのような生き物は、情動は経験していても、感情は抱いていないようです。ましてそれを「認識」してもいません。

たぶんアメフラシには、われわれのような感情はないだろうが、情動のようなものはある。

アメフラシの鰓に触れると、鰓は素早く完全に引っ込んでしまう。そのときアメフラシの心拍数は上昇し、敵を欺かんとまわりに墨を放つ。どことなく、ドクター・ノオに激しく追われたジェームズ・ボンドのようである。

アメフラシは、似たような状況でわれわれ人間が示す一連の反応と、ただ単純なだけで形式的には少しも変わらない反応を示す。

神経系に情動的状態を表象できる程度には、アメフラシも感情の素材をもっているかもしれない。

アメフラシが感情をもっているかどうかはわれわれにはわからないが、たとえ感情をもっているとしても、そういった感情を認識できるとはとても想像しがたい。(p97-98)

アメフラシは、脅威に直面したとき、心拍数を上げて身を守るという「情動」は示します。しかし恐怖のような「感情」までは抱きません。そしてそれを「認識」しません。

それに対し、イヌやネコなどのペットは、情動や、その主観的体験である感情も経験していることでしょう。イヌやネコは脅かされると身体でそれを表現する(情動)だけでなく、怖れや怒りの感情も示します。

ある種の動物の心、それもとくに家で飼っている動物の心には意識があると、われわれが自信たっぷりに言うのは、そうした動物たちが示す、明らかに動機づけされた情動の流れからではないだろうか。(p137-138)

しかし、たとえ「情動」や「感情」を経験しているとしても、腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかで解説されているように、それらに気づき「認識」しているわけではありません

脳の解剖学的特徴を精査すれば、動物にはこれらの情動を経験する能力が備わっていないことがわかる。彼らの脳はそう配線されていない。

前部島皮質、および後部島皮質とその他の皮質領域、とりわけ前頭前皮質の相互作用が人間に授けている情動に対する気づきの能力は、人間にしか認められない。

…イヌや他のペットは明らかに情動的に振る舞うが、情動に対する気づきを得ているわけではない。(p187-188)

わたしたちが心と呼んでいる働きは、一枚岩ではありません。まず身体の「情動」が生まれ、ついで「感情」が生じ、最後にそれを「認識」してはじめて、わたしたち人間は、自分の感情に気づくことができます。

人間だけに備わる脳の機能(発達した島皮質や前頭前皮質など)が、そのような気づきを可能にしています。

しかし、アメフラシやペットのイヌやネコのように、自分でそれに気づく能力はなくても「情動」や「感情」を経験している動物はたくさんいます。

ダマシオは意識と自己 (講談社学術文庫)の中で、わたしたち人間もまた、自分の情動や感情に、常に気づいているとは限らないと述べています。

「感情をもつ」ことと「われわれが感情をもっているのを認識する」こととはいったいどうちがうのかと、そのちがいに混乱を覚える読者もいるかもしれない。

…この分離を頭に思い描くことはむずかしい。それは、こうした言葉の伝統的な意味がわれわれの考え方を妨げるからでもあるし、また、われわれは自分の感情を意識する「傾向がある」からでもある。

しかし、われわれが「すべての」感情を意識しているという証拠は一つもないし、逆に、そうではないことを示唆する証拠は多い。

たとえば、われわれはある状況できわめて唐突に、いま自分が不安や不快を、あるいは楽しさや安らぎを感じていることに気づくことがある。

しかし、われわれがそのとき認識する特定の感情の状態は、それを認識した瞬間にはじまったのではなく、なにがしか前にすでに始まっていたことは明らかだ。

その感情状態も、それを生み出した情動も、「意識の中」にはなかったが、それらは生物学的プロセスとしてすでにはじまっていた。(p51-52)

動物も人間も「生物学的プロセスとして」の情動や感情を持っていますが、人間だけが、それに気づく能力を持っています。

とはいえ、人間が気づいてるのも、そのごく一部にすぎません。わたしたちの情動や感情は、わたしたちの知らないところで、身体の中の有機的なプロセスとして進行しています。わたしたちはときどきその一部に気づき「心」として認識します。

しばしば動物には「心」があるのかないのか、といった議論がありますが、それは心の機能を何段階かに分けて考えれば解決します。

わたしたちが、怒り、悲しみ、愛、喜びなどと名付けている感情はみな、もともとは自動的に起こる「生物学的プロセス」であり、動物たちも経験している身体的な反応です。

アメフラシもイヌもネコも、わたしたちヒトも、「生物学的プロセスとして」の情動や感情を経験しています。

しかし、人間だけが、その生物学的プロセスに気づく能力を持っているため、それを「心」として認識し、後付け解釈して、心理学的な意味を与えてきたのです。

動物たちも畏怖の念の情動を経験する

回りくどく説明してきましたが、この原則は、この記事のテーマである「畏怖の念」という感情にも当てはまります。

畏怖の念もまた、「情動」「感情」「認知」に分解できる生物学的プロセスです。

畏怖の念は人間だけに備わるスピリチュアルな感情だと思われがちですが、神経生理学者ピーター・ラヴィーンはそれを否定し、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で次のように書いています。

センス・オブ・ワンダー[訳注 : 自然に対する畏敬の念のような概念]のような特殊な感覚でさえ、最も近縁の類人猿に見られるようだ。

著名な霊長類学者であるジェーン・グドールは、彼女が長年注意深く研究してくたチンパンジーに原始的な霊的感情があることを示唆している。(p272-273)

怒りや悲しみ、愛、怖れといった感情は人間特有のものではありませんでした。

それらに気づき、認識できるのは人間だけですが、認識されない身体の反応、すなわち情動のレベルでは、多くの動物たちも怒りや悲しみ、愛、怖れを感じています。

畏怖の念もそれと同じなのです。自分が畏怖の念を感じていることに気づき、認識できるのは人間だけです。それゆえ人間は、この感情に特別な意味を付し、スピリチュアルなもの、霊的なもの、宗教的なものという後付け解釈を与えてきました。

しかし、チンパンジーのような他の動物たちも、自分では気づいたり認識したりはできないだけで、畏怖の念の生物学的プロセス、すなわち情動は体験しています。

畏怖の念は人間だけに備わる特別な霊的感情、スピリチュアルな宗教体験ではなく、さまざまな動物が体験している生物学的プロセスである。これが論議の出発点です。

人間だけが畏怖の念を感じているわけではなく、さまざまな動物が経験しているのであれば、それは何か必要があって組み込まれている能力であるはずです。退屈 息もつかせぬその歴史に書かれてる次の説明のとおりです。

一次的感情であれ二次的感情であれ、ほとんどの感情は、人間を始めとする生物が、上手く生きていくことを助けるようにできているようだ。

ダマシオらの神経学者たちが言うように、これらは適応的なのである。

なかにはよく思われない感情もあるが―たとえば嫌悪や情欲など―些細なものだとか不自然だとか、病だとか弱さだとかいう理由で、非難される感情はひとつもない。

感情にはそれぞれ生物学的・適応的役割があり、人間が外部世界に行動を上手く適応させ、自身を守れるようになるのは、こうした感情のおかげなのだ。(p39)

あらゆる感情は目的と機能があって備わっています。「感情にはそれぞれ生物学的・適応的役割があり」、畏怖の念もまた例外ではないはずです。

人間だけがそれを認識できるため、後付け解釈によってそれに宗教的な意味を付し、「畏怖の念」という名前をつけましたが、もともとはそうではなかったはずです。

動物たちは、宗教体験やスピリチュアルな意味とは無関係に、「畏怖の念」なるものを太古の昔から経験してきたはずであり、そこには「生物学的・適応的役割」があるはずなのです。

そして、畏怖の念に適応的な意味があるのだとすれば、近年、都市化とともに畏怖の念を感じる機会が減っている現代人は、何か大切なものを得そこなっているということになるでしょう。

太古の昔から、何らかの必要ゆえに動物たちに備わっていた特定の情動がほとんど消え去ってしまい、その恩恵を受けられなくなっている、ということを意味しているからです。

ダーウィンが記した生物学的な「畏怖」

意識と自己 (講談社学術文庫)の中でアントニオ・ダマシオが述べているように、情動の研究において先鞭をつけた研究者の一人がチャールズ・ダーウィンです。

ダーウィンは動物たちをじっくり観察し、彼らがヒトと同様の情動を有していることに気づきました。

19世紀の終わりまでには、チャールズ・ダーウィン、ウィリアム・ジェイムズ、ジグムント・フロイトが情動のさまざまな側面について広範に書き記し、科学的論考において情動に基本的地位を授けた。(p54-55)

あくまで情動は、われわれが生存するために備えるようになった生体調節装置の一部である。

だからこそダーウィンは、多くの種の情動表出のカタログを作成し、そこに一貫性を見いだすことができたのであり、またさまざまな国々、さまざまな文化において、情動がかくも容易に認められるのである。(p75)

神経科学者オリヴァー・サックスは、サックス博士の片頭痛大全の中で、ダーウィンが動物にも「畏怖」の情動が見られることについて先駆的な観察を行なっていたことを記しています。

闘争-逃走反応は、それが極端な場合には重要なものだが、現実の動物の世界でみられる現象の半分を示しているに過ぎない。

他の半分はそれほど劇的ではないが、正反対の反応という点でやはり劇的なのである。その特徴は、威嚇に対して無動を保つことである。

これら対照的な二つの反応について、ダーウィンは積極的な恐れ(恐怖)と消極的な恐れ(畏怖)とを比較検討して古典的な記述を残した。

それによれば、積極的な恐怖とは「突然起こって制御の効かない闇雲な逃走」である。

また、受動的な畏怖の特徴は受け身と屈服であり、内臓機能と内分泌腺が活性化した状態(「……大きなあくびを頻発して……死人のように蒼白の顔面……皮膚には汗のしずくが際立つ……体中の筋肉はすべてが弛緩している……やがてすっかり憔悴する……胃腸が機能しなくなり、肛門括約筋が動かなくなって、もはや腸の中身を体に留めておけない……」)で、一般的には、ひれ伏し、すくみ、くじけた状態である。(p381)

慢性疲労症候群を生き抜いたチャールズ・ダーウィンが遺してくれた研究と足跡に思うこと
慢性疲労症候群の当事者だったと言われるチャールズ・ダーウィンの自伝から、彼の生き方や考え方に寄せるわたしの思いについて書きました。

ここでダーウィンは、「積極的な怖れ(恐怖)」「消極的な恐れ(畏怖)」を対比しています。

前者の「積極的な怖れ(恐怖)」とは、その後、生理学者ウォルター・キャノンによって「闘争/逃走反応」と名付けられた防衛反応です。

ヒトを含め、哺乳類は、脅かされると、闘争/逃走反応によって危機を逃れようとします。闘争/逃走反応とは、その名のごとく闘ったり逃げたりする際の情動のことです。

闘争/逃走反応が生じると、血管は収縮し、心拍数は上がり、アドレナリンが放出されます。

ウィリアム・ジェイムズがクマについての話の中で指摘していたように、このような身体的な情動によって、怒りや恐怖といった主観的な感情が生み出されます。

他方、ダーウィンが言及していた「消極的な怖れ(畏怖)」とは、近年、ようやく科学によって認識されるようになった闘争/逃走反応とは真逆の、受動的な防衛反応のことです。

この防衛反応は、「凍りつき/擬死」と呼ばれ、神経科学者スティーヴン・ポージェスが構築したポリヴェーガル理論によって、やっと科学界で認められるようになりました。(ダーウィン、そしてサックスは、現代の科学をはるかに先取りしていました)

スティーヴン(ステファン)・ポージェスは、最近翻訳された著書ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で次のように書いています。

今まで科学者も臨床家も、人間の科学者も臨床家も人間の神経系がストレスに対抗し自己防衛するには、「戦うか・逃げるか」というたった一つの反応しかないと考えていました。

…この議論には欠けている要素があります。それは「可動化」を伴う闘争/逃走反応に代表される防衛反応とは違う、二番目の防衛システムがあるということです。

それは「不動」、「シャットダウン」そして「解離」です。

…残念ながらトラウマ治療に真剣に取り組んでいる臨床家たちでさえ、この「不動状態」を伴う自己防衛システムについて、あまりよく理解していないようです。(p32-33)

(ポージェスはこの本のp167で、この理論のおおもとにあるのは、1872年のダーウィンの洞察であると書いている)

動物は、危機に直面したとき、まず「積極的な怖れ(恐怖)」である「闘争/逃走」を試みます。しかし、それがうまくいかない場合、より古い二番目の防衛システムである「消極的な怖れ(畏怖)」である「凍りつき/擬死」で対処します。

「闘争/逃走」が激しい手足の抵抗を伴う防衛反応であるのに対し、「凍りつき/擬死」は身を凍りつかせ、不動状態になるという受動的な防衛反応です。

この状態になると、身体が動かなくなって麻痺したり、意識が飛んで気を失ったりします。ポージェスが触れているように、この現象は、精神医学では「解離」として知られていたものです。

前述のとおり、精神医学や心理学といった学問は、本来は動物が普遍的に経験しているだろう生物学的な現象を、それに気づく能力をもつ人間的な観点から、後付け解釈したものです。

「解離」も精神医学や心理学の概念ですが、それをもっと普遍的な生物学的概念として説明しているのが、ダーウィンの述べた「消極的な怖れ(畏怖)」、すなわち凍りつき/擬死現象なのです。

人間は圧倒的な恐怖に直面したとき、気を失ったり体外離脱したりする、といった解離現象を経験しますが、おそらく動物たちも気づく能力がないだけで、それを経験しているはずです。

空腹のコヨーテに襲われたオポッサムと、残忍な犯罪者に襲われた人間は、どちらも同じように気を失ったり、凍りついたり、麻痺したり、体外離脱したりします。「消極的な怖れ(畏怖)」は、動物界に普遍的な生物学的な防衛反応だからです。

このように、ダーウィンの先駆的な洞察からすると、生物学的な観点からみれば、「畏怖」にはトラウマの際に起こる防衛反応としての役割があることがうかがえます。

「畏怖の念」はトラウマとは正反対のもの

オリヴァー・サックスはサックス博士の片頭痛大全の中で、「消極的な怖れ(畏怖)」についてのダーウィンの観察を引用した後、そのような受動的な防衛反応は、動物界においては、さまざまなバリエーションが見られると述べています。

動物の世界においては、威嚇に対する反応としては急激なものよりも受け身反応のほうが重要であり、そのレパートリーは著しく多彩である。

その特徴は、一般的に分泌が増え内臓が活発になるのとあいまって、無動を保つ(ただし姿勢の制御や意識の覚醒はやや失われる)ことだ。

いくつか例示すれば、恐怖におののく犬(パブロフの「わずかに抑制的なタイプ」の犬ではとくに)は身体をすくませ、嘔吐し、便を失禁する。ハリネズミは、身体を丸めて脅威に対抗する。

スナネズミは筋肉の緊張を突然失ってカタトニーのように硬くなり、オポッサムは失神様無動すなわち「偽死」を装う。馬は驚愕して「凍りつき」、冷や汗を流す。

スカンクは恐怖を感じると凍りついて汗腺に変化が生じ、汗がほとばしる(分泌反応は攻撃的機能と考えられる)。また危険にあったカメレオンは凍りつき、体色を環境に似たものに変えるという独特の反応をみせる。(p381-382)

これらはいずれも、動物たちが経験する畏怖のバリエーションです。

先ほど、神経学者アントニオ・ダマシオが、アメフラシの防衛反応はジェームズ・ボンドの反応と似ていると書いていたのを思い出してください。

動物たちは、「似たような状況でわれわれ人間が示す一連の反応と、ただ単純なだけで形式的には少しも変わらない反応を示」します。

上記のサックスが挙げているさまざまな動物たちたの「畏怖」の反応も、生物学的には、人間が危機的状況化で示す反応と共通しています。

人間もまた脅かされると、「身体をすくませ、嘔吐し、便を失禁する」「身体を丸め」る、「筋肉の緊張を突然失」う、「失神」する、「冷や汗を流す」といった反応をみせるのではないでしょうか。

さらにはカメレオンのように、自分を無色透明にするかのように環境に溶け込み、目立たないように同調する人たちもいます。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

人間の場合は、これらの反応は、解離という精神医学的な観点から研究されてきましたが、あくまでこれらは生物学的な情動なのです。アメフラシとジェームズ・ボンドが、危機の際に「形式的には少しも変わらない反応を示」すように。

では、どうして動物およびその一種であるヒトは、危機の際に、これらの「消極的な怖れ(畏怖)」の反応を見せるのでしょうか。

一見すると、襲われたときに、すくんだり、失禁したり、失神したりするのは、愚かな反応であるかに見えます。自分を無防備にして敵のなすがままに任せるだけだからです。

しかし、危機的状況における第一の防衛反応である「積極的な怖れ」(闘争/逃走反応)が危機的状況から逃れるのに役立つように、この第二の防衛反応である「消極的な怖れ(畏怖)」(凍りつき/擬死反応)もまた、生き延びるために重要な役割を果たします。

まず、この第二の防衛反応は、第一の防衛反応である「闘争/逃走反応」が役に立たないときにだけ使われます。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」に書かれているように、抵抗しても勝ち目がないときにだけ起こります。

「不動化」の反応は、小さな哺乳類によく見られます。例えばネコに捕まったネズミです。ネズミがネコに咬まれると、死んだようになります。

しかし実際には死んだわけではありません。この適応的な反応は、「擬死」とか「死んだふり」とも言われます。

これは意図的に行う反応ではありません。闘争/逃走反応が使えず、戦うことも逃げることもできないときに起こる、生物学的には適応的な反応です。

人間が恐怖体験をして失神するときにも、これと同じ反応が起きます。(p33)

これは、物理的に闘っても勝ち目がない、あるいは逃げられない環境のもとで起こる反応なので、人間の場合は虐待された幼児や、侵襲的な医療措置を受けた患者、性被害を受けた女性などに起こりやすい反応です。

性的虐待や身体的な虐待で、被虐待児が動けない状態に置かれた場合、そうしたトラウマを扱うセラピストであれば、被虐待児が、「自分はそこにいなかった」というような心理的な状態を述べるのを聞いたことがあるでしょう。

彼らは、解離したか気を失っており、身体は何も感じなくなっていたのでしょう。

こうした被虐待児は、トラウマ的な出来事によって引き起こされる身体的心理的な苦痛を緩和する適応的な反応を行ったのです。(p47)

ネコに襲われたネズミが凍りついて擬態死状態になるのと、虐待された子どもが解離するのは、生物学的には同じものです。

一見違うように思えるのは、人間だけが、自分の体験に主観的に気づく能力を持っているからです。

ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで書いているように、ヒトを含め、動物は凍りつき/擬死状態になると、無感覚になって痛みが麻痺します。

それによって、もはや避けられない痛みを耐え抜くことができるようにされます。

最後に最も重要な、不動の四番目の生物学的機能は、無感覚という非常に深い変性状態を誘発することだ。この状態では極端な痛みや恐怖を感じにくくなる。

…この「慈悲深い」鎮痛効果は、からだ自身の持つ深いモルヒネ鎮痛システムである、エンドルフィンの放出によって媒介される。

ガゼルにとっては、チーターの鋭い歯と爪によって引き裂かれる苦痛すべてを感じずに済むことを意味する。

これとほぼ同じことがレイプや事故の被害者にも当てはまる。

この鎮痛状態では、被害者は自分のからだの外からその出来事を目撃しているかのように、(私自身が事故で経験したように)あたかも誰か他の人間に起こっていることのように思われるのである。

解離と呼ばれる、このような離れ方は、耐えがたきものを耐えられるようにしてくれるのだ。(p62-63)

痛みを麻痺させるこの鎮痛機能は、身体の感覚を切り離し(つまり解離させて)麻痺させることによって「耐えがたきものを耐えられるようにしてくれ」ます。

このとき、身体の感覚を切り離すということは、身体の位置情報を取得するための固有感覚も麻痺させてしまうということなので、身体は正確な位置情報を把握できなくなり、ふわりと浮き上がったかのように感じられます。

これが体外離脱や幽体離脱として知られているものです。体外離脱はオカルト的な解釈をされがちですが、以前の記事で詳しく説明したように、このような臨死体験は生物学的な現象であり、実験室で再現することさえできます。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム
死の間際に人生の様々なシーンが再生される「走馬灯」現象や「体外離脱」のような臨死体験が生じる原因を、脳の働きのひとつである「解離」の観点から考察してみました。

体外離脱や幽体離脱は、命の危機に瀕した動物たちも経験する生物学的現象であるとみなすのは理にかなっているでしょう。人間だけがそれに気づき認識する能力を持っているため、後付けでオカルト的な意味付けをしているにすぎません。

もしネズミに自己意識があり、ネコに襲われたときどんな感じだったか尋ねることができれば、ネズミは「自分はそこにいなかった」「麻痺して痛みを感じなかった」、さらには「体外離脱した」などと述べることでしょう。そのような体験ゆえに「畏怖の念」を感じたと言うかもしれません。

要するに、「畏怖の念」とは、動物たちも普遍的に経験しているだろう現象を、人間が主観的に認識できるがゆえに、後になって特別な宗教的な意味を付したにすぎないのです。

「畏怖」はもともとは、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」に書かれているような、トラウマ的体験を生き延びるための機能であったとみなせます。

動かないことによって、哺乳類は捕食動物に発見されないで生き延びる可能性があります。

しかしこの戦略の副産物として、心拍数が大幅に減少し、失神反応が誘発され、意識が失われる可能性があります。人間では、解離状態が起きることもあります。

この防衛システムは、様々な哺乳類に安全をもたらすよう作用してきました。(p204)

このような意味において、ダーウィンが記述した「畏怖」とは、トラウマとは正反対の反応だとみなすことができます。

ヒトを含め、動物たちは命の危機に瀕した場合、「消極的な怖れ(畏怖)」という独特な防衛反応をとることによって生き延びるよう、プログラムされているのです。

臨死体験の「逆PTSD効果」

しかしながら、ここで重要な疑問が生じます。

ここまでのところで、動物の「凍りつき/擬死」反応と、人間に見られる「解離」は、生物学的にはダーウィンが記述した同じ「畏怖」の反応であり、トラウマとは正反対の防衛反応である、ということを考えてきました。

しかし、動物の「凍りつき/擬死」反応はともかくとして、人間の「解離」は、これまで精神医学によって病的なものとして研究されてきた歴史があります。トラウマ後に発症する解離性障害という病名はその典型的な例です。

ということは、解離はトラウマとは正反対のもの(つまり、トラウマから守ってくれるもの)というより、トラウマの後遺症そのものであるかのように思えます。

先ほどの引用文中では、凍りつき反応だけでなく、人間の解離もまた「様々な哺乳類に安全をもたらすよう作用して」きたと書かれていましたが、トラウマ後の解離に悩まされている当事者は、それが「安全」とは思えないことでしょう。

この矛盾はどこから生じているのでしょうか。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」にはその答えがあります。

命を脅かす状況にうまく反応したことで、生き延びることができたわけですが、同時に問題も生じました。

その問題とは、その後事態が好転しても、彼らの命を救ってくれた生理学的状態からは、簡単には抜け出せないということです。

ひとたびシャットダウン状態に入ると、レジリエンスと言われる、行動状態を柔軟に保つ力を回復するのが困難になります。(p205-206)

「解離」は確かにトラウマとは正反対のものです。危機的状況において解離した人は、確かに「命を脅かす状況にうまく反応したことで、生き延びることができ」ました。

問題は、その後にあります。命を救うための「解離」ないしは「畏怖」の反応は、通常であれば、緊急時に一時的に作動するだけの防衛反応です。なんといっても、通常の闘争/逃走反応が使えないとき限定の最後の手段なのです。

危機的状況下において、あくまで、一時的に痛みを麻痺させたり、身体の感覚を切り離したりして、恐ろしい衝撃から守ってくるのが解離です。

トラウマを専門とする精神科医ベッセル・ヴァン・デア・コークは、自分もまたそのような一時的な解離を経験したことがあると、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で書いています。

私はある晩遅く、自宅近くの公園で強盗に襲われた。そのとき私はその場の上方に漂い、頭に小さな傷を負って雪の中に倒れている自分を眺めていた。

その自分を、ナイフを手にした三人のティーンエイジャーが取り巻いている。私は両手に負った刺し傷の痛みを解離させ、少しも恐れを感じずに、空にされた財布を返してもらおうと、冷静に交渉していた。(p167-168)

ヴァン・デア・コークは、この経験のあと、とりたてて後遺症のようなものは抱えなかったと述べています。危機的状況において解離したことで、恐怖や痛みから守られたのです。

また、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーによると、探検家のデイヴィッド・リビングストンも、アフリカでライオンに遭遇したときに、この種の解離を経験しました。

生死にかかわる出来事が続いている場合、解離は、私たちを死の痛みから守ってくれます。探検家リビングストンは、彼の日記の中で、アフリカの平原でライオンに遭遇した話を生き生きと記しています。

「私は叫び声を聞いた。驚いてあたりを見回したとき、ライオンがまさに私に飛びかかろうとしているのが見えた。

…そのショックで私は、猫に襲われたハツカネズミさながらの無感覚状態に陥った。起きていることはすべてはっきりと意識しているのに、何の痛みも恐怖感もない、ある種の夢心地である。

それはまるで、クロロホルムの部分麻酔の影響下にある患者が言うような、手術のすべてが見えるのにメスの痛みは感じない状態のようだった。この並外れた状態は、どんな精神的プロセスの結果でもなかった。

…この特定の状態はおそらく、肉食動物に殺されるすべての動物の中で起きるのだろう。

そうだとすれば、それは死の痛みを軽減するために情け深い創造主がお与えくださった、ありがたい備えである」(p158)

リビングストンも、この経験について、「死の痛みを軽減するために情け深い創造主がお与えくださった、ありがたい備えである」と述べています。ひどいトラウマを負ったようには見えません。

これらの経験からわかるのは、生物の凍りつき/擬死反応は、突発的な恐怖に対して一時的に働いた場合は、トラウマの衝撃からわたしたちを保護するだけでなく、畏怖の念を起こさせるような肯定的な体験になる、ということです。

そのことは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、臨死体験をした人たちが、トラウマの後遺症に悩まされる代わりに、畏怖の念を感じ、肯定的な変化を経験することからもわかります。

臨死体験(NDEs)をした多くの人びとが、肯定的なパーソナリティ変容を体験することはよく知られている。

…恐怖と戦慄の「畏怖に満ちた」状態は、畏怖や、ここに在ること、永遠性、そして恍惚状態のような変容的状態に関連しているようだ。これらは精神生理学的および現象学的な根源を共有している。(p416)

似たようなことは、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方にも書かれています。終末期医療の患者たちは、臨死体験によって、畏怖の念を覚え、「逆PTSD」効果を経験するといいます。

ジョンズ・ホプキンス大学の精神薬理学者ローランド・グリフィスは、幻覚作用のある薬を服用している終末期医療の患者が、ときに激しい畏怖の念を覚える体験をすることを研究している。

こうした人たちが幽体離脱を体験し、あちこちを飛びまわり、神のような存在に出会うという幻覚を見るのはめずらしいことではない。

グリフィスはジャーナリストのマイケル・ポーランに、そうした幻覚には「逆PTSD」効果があるかもしれないと話した

「そういう体験によって、態度、気分、行動、さらには脳にも長いあいだ持続するポジティブな変化が生じるんだよ」(p263)

人間は、臨死体験に対して、さまざまなオカルト的、またスピリチュアル的な意味を付したがります。ときには「神のような存在に出会う」体験と解釈します。

それでも、このような臨死体験は、あくまで具体的な理由があって生物に備わっている機能、つまり適応的な解離現象です。

リビングストンが述べていたように、危機的状況下において痛みが麻痺したり体外離脱するといった解離体験は、「肉食動物に殺されるすべての動物の中で起きる」と考えられます。

動物たちは、この能力のおかげで肉食動物に襲われても痛みを感じず、もし幸運にも生き延びた場合には、トラウマ後遺症に悩まされることもありません。このような解離現象には「逆PTSD」効果という生物学的な役割があるからです。

一方、自己意識を持つ人間は、危機的状況において痛みが麻痺したり、体外離脱したり、幻覚が生じると、その解離現象に気づくことができます。それはあまりに非日常に不可思議な体験なので、人は「畏怖の念」を覚えます。

そして、『恐怖と戦慄の「畏怖に満ちた」状態』を通して命の危険を生き延びた人たちは、トラウマを負うどころか、肯定的な変化を遂げます。

しかし、それはあくまで、解離が一時的な作用として終息し、もとの状態に戻ることができたならば、です。

臨死体験は、あくまで一時的なものだからこそ「畏怖の念」を起こさせます。もし常に解離したままになってしまい、感覚がずっと麻痺したまま、身体から離れている感じがずっと続いていたら、「畏怖」ではなく「恐怖」に襲われるだけです。

それがまさしく、解離性障害離人症と呼ばれるものです。離人症に陥った人は、感覚が麻痺したままなので、生きている心地を感じられず、世界から切り離された非現実感や悪夢の中を漂っているかのような苦しみにさいなまれます。

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また、解離とは生物学的には凍りつき/擬死反応ですが、この状態がずっと続いたままになるのが、慢性疲労症候群線維筋痛症です。危機的状況が去っても、身体が虚脱したまま、凍りついたままになり、正常な状態へと回復しないのです。

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解離は生物学的にはトラウマ体験とは正反対の保護的な能力であり、畏怖の念を起こさせる肯定的な現象ですが、それが解除されないままだと、生活に大いに支障を来たす状態になってしまうのです。

慢性的に脅かされると凍りつき/擬死は終息しない

本来なら、ダーウィンが観察したような「畏怖」また「解離」は、自然界において避け得ない捕食などの衝撃的体験がもたらすトラウマから動物を保護する「慈悲深い」機能です。

そして、自然界の動物たちの場合、そして臨死体験をするほとんどの人間たちの場合、確かにこのような体験は肯定的な効果をもたらし、トラウマの後遺症から保護してくれるようです。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、自然界の動物たちの場合、凍りつき/擬死が解除されないまま長引き、人間で言うところの解離性障害や離人症になってしまう、ということはありえないと思われます。

繰り返して言う。一般に、野生の動物は、殺されなければ不動状態から回復し、元通りの生活に戻っていく。

…ある野生動物が(もしくはさらに言うならその種全体が)、多くの人間のように何らかの衰弱生症状を定期的に発症していたら、どうやってこれまで生き残れただろうか? 想像しがたいことである。

この自然の「免疫」は、明らかに現代のヒトには当てはまらない……しかしそれはなぜなのか、そしてそれに対して私たちは何ができるだろうか?(p67)

動物たちの場合、凍りつき/擬死は必ずトラウマから保護するための慈悲深い能力として機能していて、危機的状況が過ぎ去れば終息します。

ところが、なぜか人間だけが、この本来は保護的機能のはずの凍りつき/擬死が終息しないままになって長引き、ずっと解離したままの後遺症に悩まされることがあります。

これはいったいなぜなのでしょうか。続く説明を読んでみましょう。

そこで私はトラウマを理解するための重大な鍵に偶然出会った。ゴードン・ギャラップとジャック・D・メイザーによる論文だ。

この論文は、通常は一時的であるはずの不動状態がいかにして長期化し、最終的に慢性化していくかという中心的疑問について私が考えるきっかけになった。

…著者たちはきわめて緻密な、非常によく統制された実験を行い、動物が脅かされかつ拘束された場合、(拘束が解かれた後の)不動状態の時間が劇的に増加することを示している。(p67)

不動状態の自然終息は、捕まえられる前(もしくは不動状態から出てくるとき)に意図的に脅かされたときや、繰り返し仰向けに置かれたときには決して生じない。(p69)

簡単に言うと、長期にわたって危機にさらされた場合、凍りつき/擬死は終息しなくなります。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」に書かれているように、「単一の出来事によるトラウマの作用機序は、複雑性トラウマを構成する、慢性的に繰り返された虐待の累積的影響とは異なる」のです。(p163)

自然界の動物が捕食動物に襲われるのは、あくまで一過性の危機的状況です。そのような場合は、一時的な解離や不動状態が引き起こされるだけで、危機が去れば凍りつき/擬死も解除されます。

人間においても、先に紹介したヴァン・デア・コークやリビングストンの経験談のような一過性の危機においては、一時的に解離や麻痺が生じますが、危機が去るとすぐ解除されます。そのおかげで人は臨死体験に畏怖の念を覚えます。

しかし、人間の世界においては、自然界ではありえないような長期間にわたる危機が起こりえます。

例えば、拘束された逃げられない環境で、何週間も、何年も、ときには何十年も痛みや恐怖にさらされ続けるという体験です。とりわけ子ども時代の慢性的な逆境は、必然的に逃げられない環境で起こることがほとんどです。

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具体的には、子ども時代から重い病気や障害のため拘束されること、虐待的な家庭で生まれ育つこと、いじめや受験戦争など緊張の伴う学校に何年も通い続けること、暴力的な配偶者と何年も同居すること、そして誘拐や拉致、拷問、強制収容所体験などです。

容易に想像できるように、自然界の動物たちは、他の動物に対して、このような仕打ちを与えません。人間だけが、仲間の人間に対して、このような非人道的で長期的な仕打ちを加えます。

そうであれば、自然界においてはトラウマから保護するために働いていたはずの「慈悲深い」生物学的機能が、自然界とはまったく異なる人間社会のトラウマに対しては裏目に出る、ということは十分に起こりうるでしょう。

わたしたちは、動物たちとまったく異なる社会に暮らしていますが、身体の機能は動物たちと同じままです。わたしたちはヒト科の動物です。

動物たちを実験室や動物園に連れてきて、繰り返し拘束したり脅かしたりすれば、凍りつき/擬死の不動状態から回復できなくなってしまうように、人間もまた、家庭、学校、病院などで慢性的なストレスにさらされると、凍りつき/擬死が終息しなくなってしまいます。

そのような環境は、わたしたちの社会ではそれほど珍しいものではありません。それゆえ、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで書かれているように、かなり多くの人たちが、終息しない凍りつき/擬死がもたらす症状に悩まされていると考えられます。

かくして気まぐれな症状へと道筋が定まっていく。首や肩、背中の張りは時間の経過とともに線維筋痛症へと進行する可能性が高い。

また未解決のストレスによる身体的表現としてよく見られるものに偏頭痛がある。

胃腸のむかつきは、よく見られるような過敏性腸症候群やひどい月経前緊張症候群、またけいれん性結腸のような消化器系の問題へと突然変異的に進行してしまうかもしれない。

こうした状態は苦しんでいる人のエネルギー資源を枯渇させてしまい、慢性疲労症候群という形に進行する可能性もある。

多くの場合、このような人たちは複数の症状を抱えた病人となる。救いを求めて医師から医師へとたずね歩くものの、自分たちを苦しめているものに対する解決策をほとんど得ることができないのだ。(p219)

凍りつき/擬死は「身震い」によって終息する

では、そのような延々と長引いて終わらない「凍りつき/擬死反応」を終息させるためにはどうすればいいのか。

そのヒントになるのは、もちろん、自然界の動物たちの「凍りつき/擬死反応」がどのように終息するのかを観察することです。

ピーター・ラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、次のような観察を記しています。

私が硬直すなわち凍りつき反応を強調するのは、それがしばしば人間のトラウマを引き起こすからです。

動物は通常、それぞれのやり方で「死んだふり」をした後にその後遺症に悩まされることはありません。動物たちを注意深く観察すれば、彼らがどのように後遺症を免れているかが分かります。

…双眼鏡でよく観察すれば、警戒態勢から通常のリラックスした活動への鹿の変化を見ることができます。危険がないと判断すると、鹿はしばしば身体をぴくぴくさせたり、軽く身震いを始めたりします。

このプロセスは首上部の耳のあたりの非常にわずかな震えから始まり、胸、肩、そしてついには腹、骨盤、後ろ足まで達します。

こうした筋肉組織の細かい震えは、有機体が神経系のまったく異なる活性化状態を調節する方法なのです。(p116)

動物たちが、脅かされたことによる凍りつき状態から回復するときのプロセス、それは「身震い」です。

動物たちは、凍りつき/擬死反応の最後に、あたかも恐ろしい経験を払い落とすのように細かい震えを起こします。この震えは、神経をリセットし、凍りつき/擬死という防衛反応を終息させるためのものです。

このような震えは、人間が感じる「畏怖の念」とも相通じるところがあります。「畏怖の念」という言葉は怖れ畏(かしこ)むことを意味していますが、それにはガクガクと震えたりおののいたりすることが伴います。

動物はトラウマ的な危機的状況から復帰するときに震えやおののきを経験しますが、ピーター・ラヴィーンは、人間の場合も、シャーマン医療においては、そうした震えやおののきを通して、神経系をリセットし、トラウマ経験から回復していたと述べます。

文明以前から、さまざまな文化のシャーマン治療者は、「迷子になった魂」が身体の正しい場所へ戻るように促す条件をうまく作り出してきました。

華やかな儀式を通じて、いわゆる「未開」の治療者たちは、患者の中にある強力な先天的治癒力をうながします。

太鼓や歌、踊り、トランスによって高められる集団サポートの雰囲気が、癒やしが起こる環境を作り出します。

儀式はしばしば何日間も続き、薬草やその他の薬物が触媒として使われることもあります。

注目すべきなのは、儀式自体はさまざまに異なるにもかかわらず、癒やしの受け手は儀式が終わりに近づくとほぼ身震いすることです。

これは、拘束されたエネルギーを解放する際にすべての動物に起こる現象と同じです。(p70)

サイコセラピストのパット・オグデンは、これと同じ「身震い」が、現代のトラウマセラピーでも起こると、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の中で書いてます。

トラウマ的記憶に関して取り組むとき、クライエントは頻繁に無意識の震えや身ぶるいを体験します。

そのことは「私たちの中でサバイバルのために生成される膨大なエネルギー」の放電とみなしてもいいでしょう。(p358)

動物も人間も、逃げ場のない危機的状況によって脅かされるときには、凍りつき/擬死という同じ反応を見せ、麻痺したり、失神したり、解離したりします。

そして、その死んだような状態から回復し、凍りつき/擬死反応を終息させるときには、自然界の動物も、伝統的なシャーマン医療の受け手も、さらには現代のトラウマセラピーのクライアントも、自発的な「身震い」という反応によって、神経系をリセットするのです。

それで、ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、次のように総括しています。

野生動物は、ストレス状態に曝されたり拘束されたりするとき震えることがよく見られる。

からだの震えやおののきは東洋の伝統的なヒーリングやスピリチュアルな系譜の実践においてよく報告されている。

例えば気功やクンダリーニ・ヨガでは、微細な動きや呼吸および瞑想の技法を用いる達人は、からだの震えやおののきを伴う恍惚の至福状態を経験することがあるという。

さまざまな状況下で経験され多種多様な機能をも有しているこのような「身震い」はすべて、真の変容や深い癒し、そして畏怖の念をもたらす可能性を秘めている。

不安による恐ろしい震えはそれ自身だけでは状態をリセットして平衡状態に戻ることを確実にするものではないが、「正しいやり方で」誘導され体験された場合にはそれそのものが解決となりうる。

…こうしたものは、私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すためのメカニズムである。(p20-21)

このように、自然界で生じる凍りつき/擬死反応は、脅かされて仮死状態に陥るだけでなく、「身震い」によって息を吹き返すまでが1セットの生物学的現象だとみなすことができます。

動物は脅かされたとき、一時的に電気のブレーカーが落ちるかのように、生命力が断たれ、死んだような状態に閉じ込められます。このとき切り離し(解離)が起こります。

しかし、通常、自然界の動物は解離したままにはならず、生命力のブレーカーは復旧します。切り離されていた感覚がふたたび戻り、仮死状態から息を吹き返すときに生じるのが「身震い」です。

そして、人間の場合、「畏怖の念」という感情が湧き上がるのは、この最後のプロセス、つまり息を吹き返すときに起こる身震いによるものであるに違いありません。

この記事の最初のほうで、神経学者アントニオ・ダマシオの理論から説明したことを思い出してみましょう。

わたしたちヒトを含めた動物は、みな、さまざまな情動(身体の反応)と、それに伴う感情を経験します。動物はそれを客観的に認識できませんが、ヒトだけがそれに気づき、意味付けすることができます。

動物も人間も、畏怖の「情動」、つまり身体の生理的な反応は経験しますが、それに気づき、認識するのは人間だけです。

この畏怖の「情動」というのが、危機的状況下の凍りつき/擬死から復帰するときに起こる「身震い」なのです。

動物も人間も、命の危機に瀕し、仮死状態になったとき、そこから復帰するために「身震い」します。それは死んだような状態から息を吹き返す奇跡的なプロセスであり、命の危機を無事にくぐりぬけた証です。

半分死んだような状態、いわば三途の川のほとりから、生ける者の世界へと戻ってくるプロセスがこの身震いです。

動物も人間もそれを経験しますが、認識できるのは人間だけなので、人はそれを認識したとき、「臨死体験」をしたと感じます。

ときには、人智を超えた何かによって、危険をくぐりぬけた、命を与えられたと感じ、怖れおののきます。

こうして、仮死状態から復活するときに起こる「身震い」は、それを認識できる人類にとっては、スピリチュアルで宗教的な意味を帯びる「畏怖の念」だとみなされるようになったのです。

ダーウィンは、この生物学的なプロセス全体を「消極的な怖れ(畏怖)」と表現していましたが、おそらく前半部分の凍りつき、死んだようになるプロセスだけでは畏怖の念は沸き起こらないのでしょう。

いったん死んだようになるだけでなく、最後に身震いして息を吹き返す段階に至ってはじめて、死から生き返ったかのような驚嘆に満たされ、畏怖の念を感じるのでしょう。

大自然の中で畏怖の念を感じる

すでに考えたように、人間社会に生きるわたしたちは、自然界ではありえないようなタイプの慢性的なストレスに直面します。

その結果、凍りつき/擬死反応が自然終息せず、延々と長引いてしまった状態が、解離性障害や離人症、さらには慢性疲労症候群や線維筋痛症のような疾患でした。

このような病気の場合、慢性的なストレスによって凍りつき/擬死が起こり、生命力が遮断されて仮死状態になるところまでは自然界の動物たちと同じですが、一番肝心の部分が起こっていません。

すなわち、危機的状況が去った後に、「身震い」を起こして息を吹き返し、畏怖の念を感じるというプロセスが完了しないまま、中断されているといえます。

あまりに長い間、慢性的なストレス下に置かれたがために、いわば生命力のブレーカーが落ちた凍りつき/擬態死の仮死状態のまま、復旧させることができなくなってしまっているのです。

回復するために必要なのは、自然界のプロセスに従えば、何らかの方法で「身震い」をもたらすこと、畏怖の念を感じるような経験をさせて、神経系をリセットすることだ、ということになります。

さまざまな状況下で経験され多種多様な機能をも有しているこのような「身震い」はすべて、真の変容や深い癒し、そして畏怖の念をもたらす可能性を秘めている。

…こうしたものは、私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すためのメカニズムである。(p20-21)

簡単なように見えて、これは単純な話ではありません。たとえば、それでは意識的に身体を身震いさせるエクササイズをしましょう、ということにはなりません。

畏怖の念を感じさせるような身震いは、自分の意志で狙って引き起こせるようなものではありません。このような身震いは、めったに経験されない生物学的な情動です。

わたしたちは、怒りであれ、悲しみであれ、愛であれ、特定の情動を狙って自分の意志で引き起こすことはできません。

愛する人を失くしたときの悲しみの情動(断腸の思い)は経験した人にはかわからないものです。我が子が生まれた瞬間の我を忘れる喜びも、その瞬間を経験した者にしかわかりません。どちらも、後から再現することはできません。

意志の力でそのような身体の芯からの悲しみや喜びを引き起こすことはできません。頭でイメージして悲しんだり喜んだりしようとしても、身体の内臓から沸き起こるような情動、そして真なる感情は経験できません。

畏怖の念もそれと同じです。圧倒され、怖れおののき、身震いするような畏怖の念を、自分から狙って引き起こすことはできません。そうした体験は、予期しないときに不意に訪れるものです。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれていたように、何らかの非日常的な体験に圧倒され、腹の底から揺り動かされたときにはじめて、本物の畏怖の念が内奥から湧き上がり、神経系がリセットされるほどの変化が身体に生じるのです。

「畏怖の念とは、戦場では基本的に、頭を吹き飛ばされたような衝撃を受けることを指すんです」とカリフォルニア大学アーヴァイン校のポール・ピフは説明してくれた。

…心の底から驚嘆し、畏怖の念を覚えると、ときには人生観が変わる。さらに、その後の一生が変わってしまうこともある。(p263)

すでに述べたように、このような身体の芯からの身震いとそれに伴う畏怖の念は、専門的なトラウマセラピーの中で、実際にトラウマから回復するときに経験されることがあります。

また、古くから人々が経験してきたように、恍惚的な宗教的体験によって起こることもあります。

スピリチュアルな体験を通して、トラウマから回復する人たちが時おりいますが、それは神の奇跡によるものではなく、腹の底からの畏怖を感じ、神経系がリセットされた生物学的作用によるものでしょう。

とはいえ、だれでも質の高いトラウマセラピーを受けられるわけではありませんし、万人が宗教的体験によって畏怖の念を実感できるとは思えません。

畏怖の念の生物学的なルーツからすれば、腹の底からの畏怖の念を感じる、もっとも正当で自然な手段は、大自然との触れ合いではないか、と思います。

先に出てきた、著名な霊長類学者であるジェーン・グドールは、森の旅人 (角川21世紀叢書)の中で、チンパンジーのような動物も畏怖の念を感じているのではないかと書きました。

わたしはいつも、その滝に行くたびに圧倒され、そこに霊的なものを感じていた。

ときどきチンパンジーもやってきた。かれらは滝に近づくと、滝壺につづく川床の流れが発する律動的な音にあわせて、ゆっくりとリズミックにからだを動かした。

…生きもののようにたえず動いているのにひとつの場所にとどまり、たえず変化しているのにおなじようにみえる水の神秘がひきおこす畏怖の感情。

もしかしたらそれは、圧倒的な力をもつ大自然の猛威と神秘を崇拝する、原初のアミニズム的な宗教を生み出したヒトが懐いた畏怖の念と同質のものではないか?

ここまで考えたように、畏怖は、肉食動物から捕食されるといったトラウマ的な経験に対するリセット機構として、多くの哺乳類に備わっている情動だと思われます。

チンパンジーのような動物も、人間ほど自己の内面を認識する能力は持ってないとはいえ、大自然の中で、畏怖の念を経験することがあるようです。

あなたの子どもには自然が足りないに書かれているように、そのような情動が、動物たちが過ごしている世界、つまり大自然の中に条件付けられている可能性は十分に考えられるでしょう。

「昔、祖先があの木の高いところへ登って土地全体を眺めた時、そこには何かがあったはずよ ―私たちをすぐに癒してくれる何かが」とブルックスは言う。

高い木の枝の上でくつろぐことは、動物の餌食になるかもしれない危険で噴出したアドレナリンをすぐに鎮めてくれていたのかもしれない。

「生物学的には私たちは何も変わっていない。私たちはいまだに大きな獣と戦うか逃げるかするようにプログラミングされているんです。

遺伝子から見れば、私たちはこの世に最初に現れたころと根本のところでは同じ生き物だわ」(p62)

動物たちは、捕食動物に襲われるような危険に直面した後、危機が去った草原や森の穏やかなリズムを感じ取り、仮死状態から息を吹き返してきました。

わたしたち人間もまた、大自然のなかで畏怖の念を感じ、トラウマの凍りつき状態から回復することがあります。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、戦争で心身ともに傷ついた退役軍人たちは、昔から辺境の町に移住し、森林や荒野で癒やしを経験してきたといいます。

「アメリカでは昔から、傷を負った兵士は荒野に向かうと言われて」おり、たとえば「アイダホ、モンタナ、アラスカといった州の辺境の森林は、退役軍人の移住地として有名」です。(p291)

それは、かつてわたしたちもまた動物たちと同じように大自然の中で生き、自然の息吹を感じることによってトラウマ経験を乗り越えてきたことの本能的な名残りかもしれません。

わたしたち人間は、もとを辿ればヒト科の動物であり、セラピーや宗教的体験によって畏怖の念を感じるずっと以前から、大自然の中で命の危険に出くわし、仮死状態になり、身震いし、畏怖の念を感じてトラウマを乗り越えてきた動物たちの仲間なのです。

それにもかかわらず、現代社会のわたしたちは、自然界から遠く離れた環境に住み、めったに腹の底からの畏怖の念を感じなくなってしまいました。

かつて肉食動物から逃れていた「高い木の枝の上でくつろぐ」ことも「滝壺につづく川床」を訪れることもなくなってしまったがゆえに、わたしたち現代人はトラウマに対してもろくなり、凍りつき/擬死から復帰するチャンスを失っているのでしょうか。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでラヴィーンはこう書きます。

不運にも、動物の友達とは違って、人間はストレス下にあると、過去に釘づけにされる傾向がある。過去の後悔に打ちひしがれ、未来に起こることを怖れたりする。それによって今とのつながりを失ってさまよう。

こうした現在の瞬間に生きることの欠如を、現代病だと呼ぶ人さえいる。

これは、私たちが本能的な動物的本性とのつながりを失ったことの副作用のように思える。(p285)

畏怖の念は迷走神経のスイッチを切り替える

大自然の中で感じる畏怖の念が、凍りつき/擬死のようなトラウマ反応を終息させ、神経系をリセットすることは、科学的にも、少しずつ裏づけられてきているようです。

まず、トラウマの凍りつき/擬死の生物学的メカニズムについては、前述の神経科学者スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論によって、かなりの程度、解明されつつあります。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」によれば、この反応の鍵を握っているのは、脳と内臓をつなぐ「迷走神経」です。いち早くそれに注目したのは、ほかならぬチャールズ・ダーウィンでした。

ダーウィンは、人間と哺乳類の感情について論じた著書の中で、迷走神経は身体の二つの重要な器官、つまり脳と心臓をつないでいる非常に重要な神経であると述べています(Darwin,1872)。

ダーウィンは迷走神経のことを、当時の古い呼び方で、肺胃神経と呼んでいました。迷走神経は、脳から起始し、心臓や他の臓器へと直接つながる脳神経です。

…迷走神経は、脳から内臓へと信号を送るだけでなく、内臓から脳へも信号を送っています。

…昨今、「脳と身体」「身体と心」の関係に関心が高まっていますが、そういう意味では、迷走神経は主要な神経系の「ポータル(入り口)」なのです。(p167-168)

この脳と内臓をつなぐ迷走神経は、大きく分けて二つの経路があります。

まず一つ目の経路は、哺乳類に備わる有髄の腹側迷走神経です。これは、わたしたちがよく知っている「副交感神経」のことであり、愛情を感じたり、身体をリラックスさせりする穏やかな機能をもっています。

他方、爬虫類にも備わる無髄の背側迷走神経という別の経路があり、こちらが、この記事で考えてきた凍りつき/擬死という防衛反応を引き起こす神経です。

この後者の古い迷走神経が、もともと爬虫類に特有だという点は、ポージェスが説明しているように、ペットショップに行けばすぐにわかります。

ペットショップに行って、爬虫類を観察してみてください。そうすれば、この防衛機制を理解することができます。

爬虫類を見ていると、じっとしてあまり動きません。爬虫類にとっては、この「不動状態」が基本的な防衛システムなのです。

…闘争/逃走反応という防衛機制では、「可動化」が主要な要素です。しかし、太古の脊椎動物の防衛機制は、それとは反対のものです。

「不動状態」、「擬死」あるいは「死んだふり」は爬虫類やその他の脊椎動物にとっては適応的な行動でした。

しかし、哺乳類は酸素を大量に必要とするため、こうした反応は潜在的に死に至る危険があります。(p40-41)

爬虫類はストレスを感じたら、哺乳類のような闘争/逃走ではなく、凍りつき、固まることによって対処するのが普通です。

(※哺乳類は酸素を多く必要とするため、爬虫類的な凍りつき/擬死をとると危険が生じるという解説は興味深い点です。なぜなら、体外離脱のような解離現象が起こるのは、酸素不足が原因だとする説があるからです。人間は不動状態になると酸素不足で解離しますが、爬虫類の場合はそうはならないのでしょう)

人間が凍りつき/擬死を起こすときは、この爬虫類に備わる古い背側迷走神経が活性化し、リラックスするための腹側迷走神経(副交感神経)は抑制されている状態にあります。

長期的な凍りつき/擬死によって起こる線維筋痛症や胃腸障害などの健康問題も、やはりこの古い迷走神経の影響で引き起こされているようです。

今までの迷走神経の理解に欠けているのは、主に横隔膜下の器官に向かっている、進化的に古い無髄の迷走神経が防衛に使われることがあるという点です。

失神や解離などを伴う不動化が生き残りのために使われるということはすでに理解していますね。

しかし、この防衛システムを採用したことが健康に対してどのような影響を与えるかについては、まだ考えていないかもしれません。

シャットダウンし、不動化する防衛反応が生じると、横隔膜下の迷走神経の影響により、恒常性が撹乱され、急上昇または停止のいずれかに陥る怖れがあります。

これによって横隔膜下の器官に健康問題が次々に起きてきます。

古い横隔膜下の迷走神経の神経制御は、トラウマと併発して起こることが多い過敏性腸症候群、線維筋痛症、肥満、およびその他の胃腸の障害などの問題の一端になっている可能性があります。(p156)

この爬虫類的な古い迷走神経が、終息しない凍りつき/擬死反応による、解離やさまざまな身体症状を引き起こしているのであれば、それを終息させる効果をもつ「畏怖の念」は、もう一つの新しい迷走神経を活性化させているはずです。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、この記事の冒頭で紹介した、大自然の中で感じる畏怖の念を研究しているカリフォルニア大学のダッチャー・ケルトナーは、まさにそのように考えています。

ダーウィンは、人類の最強の本能は共感や思いやりだと言った。こうした本能があるからこそ、人類は生き延びられたのだと考えていた。

互いのことを気にかけ、世話をしあうことで、長い子ども時代も、病気になったときも、食糧難に見舞われたときも、なんとか生き抜けたのだ。

カリフォルニア大学バークレー校のケルトナーは、わたしたちには共感が生じる場所があると述べている。それは迷走神経だ。

迷走神経は脊髄のてっぺんから始まり、顔面筋、心臓、肺、消化器などに触手のように伸びている。

副交感神経の主たるスイッチのような役割をはたし、恐怖を感じたあとに速くなった心拍を落ち着かせて、攻撃するのではなく和解しようと努力する。

迷走神経はまたオキシトシン受容体にも作用する。…迷走神経は愛に反応し、畏怖の念にも反応するとケルトナーは考えている。(p165)

ここにおいて、トラウマの凍りつき/擬態死を研究している専門家たちと、大自然の中における畏怖の念を研究している専門家たちの意見が邂逅します。

ここまでトラウマと畏怖の念は正反対のものだという点を考えてきましたが、それは迷走神経の機能からして明らかなのです。

わたしたちは危機的状況に直面すると、より原始的な古い迷走神経によって身体を仮死状態にならせますが、「身震い」あるいは「畏怖の念」は、より新しい迷走神経を活性化させ、仮死状態から息を吹き返すよう、スイッチを切り替えるのです。

トラウマ経験と畏怖の念の体験は、どちらも広義においては、脳と内臓をつなぐ同じ迷走神経に働きかけます。

トラウマ経験が心身を打ち砕かれるような衝撃的体験であるのと同じように、ポール・ピフの言葉によれば、「畏怖の念とは、戦場では基本的に、頭を吹き飛ばされたような衝撃を受けることを指」していました。

つまり、どちらも、全身が揺り動かされ、はらわたがひっくり返るような衝撃的体験だという共通点があります。両者がともに、内臓と脳をつなぐ迷走神経を揺さぶる体験であることを思えば当然です。

しかし、トラウマには身の凍る恐怖が伴うのに対し、畏怖の念には人智を超えた何かに包まれるような安心感が伴います。同じ「怖れ」であっても、恐怖と畏怖は正反対です。

この違いは、かたや爬虫類的な不動状態をつかさどる古い迷走神経に働きかけ、かたや哺乳類特有の愛情と関係する新しい迷走神経に働きかけているということから説明できます。

わたしたちはトラウマ体験によって脳と内臓をつなぐ迷走神経が凍りつきますが、畏怖の念や愛を通して、迷走神経の機能が回復されるので、再び息を吹き返すことができるのです。

トラウマと畏怖の念は正反対の作用をもつ

トラウマが引き起こす迷走神経の凍りつきと、畏怖の念がもたらす迷走神経のリセットは、それぞれ正反対の作用をもっています。

たとえば、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、トラウマを負った人たちは、免疫系が常に警戒している状態にあります。

過去に近親姦を経験した患者たちは、いつでも襲いかかる準備のできたRA細胞の割合が標準より大きかった。

そのせいで免疫系が脅威に対して過敏になり、必要でないときや、自分の体の細胞を攻撃することになってしまうときにさえも、防衛を開始しがちだ。(p210)

そのことは、トラウマをヨーガで克服するにも書かれています。

こうしたことは、免疫学的研究の中でも見ることができた。近親相姦の犠牲者の免疫系は過剰に活性化されており、まるで環境汚染物質にさらされてでもいるかのような、切迫した危険の中にいる状態を呈していた。

危険に対するこうした過度の警戒感が、彼女たちの自己免疫病を進行させる素因となりうることを、われわれの研究は示唆していた。(p30-31)

トラウマはわたしたちの防衛本能を起動させ、身体を警戒状態にします。免疫システムの過剰な活性化はその表れであり、トラウマを負った人は、自己免疫疾患にかかりやすくなります。

一方、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、畏怖の念には、免疫に関わるサイトカインの値を下げ、炎症を抑える効果があるとされています。

ケルトナーらの研究チームが実施したもっとも興味深い実験では、恐怖、怒り、よろこび、驚きなど、20種類のネガティブな感情とポジティブな感情を、この一ヶ月で何度感じたかを尋ねた。

さらに被験者の唾液を採取し、炎症の指標となるサイトカインIL-6の値を測定した。免疫系の一部で、細胞に情報を伝えるシグナル分子であるIL-6は、傷を治し、病と闘う際に威力を発揮する。

健康な人の場合、IL-6値は低いほうが良好とされ、慢性的に値が高いとうつ病やストレスの原因になって、筋肉の回復力も弱まる。

数あるポジティブな感情のなかで、畏怖の念は唯一、IL-6の値を大幅に下げる感情と考えられている。(p164)

畏怖の念は、幸福感や愛といった他のポジティブな感情にも勝って、免疫系の過剰な活性化を抑制する効果があるようです。まさに「逆PTSD」効果です。

また、トラウマによって凍りつき/擬死状態になり、解離を起こした人は、時間感覚が変化します。感覚遮断のおかげで、危機的状況の最中、時間が飛ぶように過ぎ、苦痛から保護されます。

しかし、危機的状況が去っても、ずっと解離状態のまま元に戻らないと、トラウマをヨーガで克服するに書かれているように、人生の時間まで失うことになりかねません。

解離もまた、その人の“時間を無駄にさせてしまう”が、それは本人には自覚がないままに時が過ぎ去る現象である。

ヴァン・デア・コークは、「時間の〈外〉に住み、繰り返しトラウマの再現の中にはまり込んで、決して終わることがないように感じられる」地点にまで至るトラウマ・サバイバーに、しばしば言及している。(P90)

解離は、自分を「今ここ」から切り離すことで痛みから身を守る保護機能ですが、ずっと「今ここ」から切り離されたままだとしたら、「本人には自覚がないままに時が過ぎ去る」だけです。

子ども時代に重大なトラウマを受けて解離状態になった人は、その後ずっと時の流れから閉め出されてしまい、自分の人生を生きることができないまま、何十年も時間が過ぎ去ってしまうかもしれません。

それに対して、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、畏怖の念は、時間感覚を拡張し、「今ここ」の感覚を強めるようです。

ヒューストン大学で消費者心理を研究しているメラニー・ラッドは、畏怖の念を覚えればいまこの瞬間に集中できるようになり、時間の感覚が拡張する可能性があると考えている。

…そこでラッドは自身の研究室で、被験者に畏怖の念か幸福感のどちらかを抱かせるという実験をした。

すると畏怖の念を覚えた人だけが時間のプレッシャーをあまり感じなくなって、苛立つことも少なくなり、時間に余裕ができて人助けをするようになったと報告した。(p268)

トラウマによる解離は、人を「今ここ」から遠ざけ、切り離しますが、畏怖の念は逆に人を「今ここ」へと引き戻します。

これは、すでに考えたように、動物は身震いによって、凍りつき/擬死の仮死状態から息を吹き返すという考察と一致しています。解離は時間を止めて仮死状態にならせるのら対し、畏怖の念は、身震いによって時間を再び流れさせるのです。

ほかにも実験によれば、畏怖の念には、人を寛大にならせ、利他的にさせる効果があることが観察されています。(p263)

このこともまた、スティーヴン・ポージェスがポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で述べている迷走神経の役割と一一致しています。

凍りつき/擬死を起こす爬虫類の迷走神経は周囲とのつながりを遮断するのに対し、哺乳類の迷走神経は社会交流システムをつかさどっていて、周囲とのつながりを促進し、「安全である」という感覚を増し加えるのです。

もっとも、こうした畏怖の念に関する研究の数々は、「自身の研究室で、被験者に畏怖の念か幸福感のどちらかを抱かせ」たといった説明が示すように、あくまで、実験室の環境で畏怖の念を再現しようと試みたものにすぎません。

このような実験はいずれも、被験者に壮大な写真を見せたり、ユーカリの木を見上げさせたりして、狙って畏怖の念を抱かせようとしたものばかりです。しかし、先ほど書いたとおり、狙って意図しても腹の底からの畏怖の念は感じられません。

腹の底からの畏怖の念は、不意に訪れるものであり、狙って引き起こせるものでないがゆえに、再現することが難しく、客観的に研究することがとても困難です。

野外で実際に自然に畏怖を感じたとき、それが行動にどんな影響を及ぼすのかという研究はまだほとんど行なわれていない。(p268)

そのようなわけで、これらの実験結果が、畏怖の念の本来の機能を正確に示唆しているかどうかは疑問が残ります

それでも、実験室で狙って引き起こしたような“作り物の”畏怖の念でさえ、炎症を抑え、免疫系を調節し、時間感覚を拡張し、人を寛大にならせるのであれば、大自然の中で不意に感じる“本物の”畏怖の念は、それらをはるかに上回る効果を人体に及ぼすとのではないでしょうか。

畏怖の念は死んでいた人を生き返らせる

迷走神経が脳と内臓をつないでいる、ということからわかるとおり、危機的状況における恐怖は、頭だけで認知するものでもなければ、心の中だけで感じるものでもなく、内臓を含む腹の底から揺り動かされるような体験です。

たとえば、迷走神経の凍りつき/擬死によって起こる離人症は、情動が遮断されることによって、世界に色がなくなり、何にも感動しなくなり、感情が停止することです。

そりような、何も感じないほどうつろになった人にさえ、生気を取り戻させるような強烈な衝撃を与える体験が、畏怖の念です。

本物の畏怖の念は、トラウマの恐怖と同じように、頭だけで認知するものでも、心の中だけで感じるものでもなく、やはり臓腑の内側からひっくり返されるような体験なのです。

たとえば、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、ある学生は、大自然のただ中で行われたフィールドワークに参加して、次のような感想を述べました。

ある日、朝の三時にトレイルを歩きはじめると、アメリカワシミミズクに遭遇した。トレイル沿いの岩礁にとまったまま、彫像のように身じろぎもしない。

金髪で、いかにも派手な女子学生のグループに交じっていそうなアメリアが、「生まれて初めて見た!」と歓声をあげた。

その前に、アメリアは同じテントに寝泊まりしている仲間に、携帯電話が欲しいと愚痴をこぼしていた。気になっている男の子からメールがくるかもしれないからだ。でもいまは、目の前の光景に夢中になっている。

「なんだか生まれ変わった気分! あたし、いままで半分死んでたのかも」(p255)

この学生はとりたててトラウマなどによって凍りついていたわけではありませんが、自然から切り離された現代社会で生まれ育ったので、畏怖の念を経験することなどめったにありませんでした。

しかし、大自然のただ中に飛び込んだことで、畏怖の念に打たれ、自分が「いままで半分死んでいたのかも」しれない、と感じました。

このような「半分死んで」いる人は、自然界から切り離され、慢性的ストレスがありふれている現代社会においては、決して珍しくないでしょう。

先に書いたとおり、現代社会に蔓延する慢性的な疲れや痛みは、ストレスによって半分凍りついたまま、神経系がリセットされないことから来ているかもしれません。

そのような人たちの場合、大自然のただ中で畏怖の念を味わうことは、神経系をリセットして「生まれ変わった気分」にしてくれるかもしれません。これは単なる気の持ちようで起こることではなく、生物学的なプロセスなのです。

もちろん、畏怖の念は、より重い凍りつき/擬死状態にある人たちに対して、より劇的な効果があります。

あなたの子どもには自然が足りないには、そのようなエピソードのひとつが載せられていました。

「最初にカウンセリングの仕事をしたのは他の団体でのことでしたが、私は、それまで町なかから外へ出たことのなかったエイズの子供たちを山へ連れて行きました。

ある夜、九歳の女の子が私を起こし、トイレに行きたいと言いました。

テントから出ると、彼女は空を見上げました。そして息を呑み、私の足にしがみついてきました。その子はこれまで、こんな星空は一度も見たことがなかったんです。

その夜、私は子供の心を動かす自然の力を知りました。

彼女は変わりました。その夜からというもの、彼女にはすべてが見えるようになりました。

皆が気づかないくらい背景に溶けこんだトカゲでさえ、見えるのです。彼女は自分の感覚を使うようになりました。感覚が目覚めたのです」(p171)

すでに考えたように、子どものころから慢性的な逆境にさらされていると、凍りつき/擬死が起こったまま終息しなくなります。この9歳のエイズの女の子もそうだったのかもしれません。凍りついて、感覚が麻痺して「死んで」いました。

しかし、ある晩、いままで見たことがなかったような満天の星空を見上げ、思わず息を呑み、しがみつきました。畏怖の念に打たれておののいたのです。

彼女はその体験によって「自分の感覚を使うようになり…感覚が目覚め」ました。畏怖の念を起こさせるほどの衝撃を受けたことで、凍りついて死んだようになっていた感覚が息を吹き返し、よみがえったことがわかります。

もちろん、そうした体験によって、この女の子の辛い境遇が変わったわけではないでしょう。それでも、死んだようになって無力感を抱いているのと、自分の足でしっかり立って病気に立ち向かうのとではまったく違います。

難病や試練を乗り越える人の共通点は「統御感」ー「コップに水が半分もある」ではなく「蛇口はどこですか」
難病など極めて困難な試練から奇跡の生還を遂げる人たちは、共通の特徴「内的統制」を持っていることが明らかになってきました。「がんが自然に治る生き方」「奇跡の生還を科学する」などの本か

この本によれば、自然の持つ力は、「最高レベルの日常的ストレスを受けている最も傷つきやすい子供たち」にとても効果があるとされていました。

コーネル大学のニューヨーク州立人間生態学カレッジでデザインおよび環境分析学助教授を務めるナンシー・ウェルズはこう指摘する。

「調査の結果、自然が少ない環境で暮らす子供に比べ、豊かな自然環境で暮らす子供たちにとって、日常受けるストレスは心理的にそれほどの苦しみとはならないことが明らかになった。

そして、最高レベルの日常的ストレスを受けている最も傷つきやすい子供たちに関して、身近な自然が与える保護効果は最も顕著である」(p69)

先ほどのエイズの少女や、子ども時代からの慢性的な逆境ゆえに凍りついてしまった人たちにとって、「身近な自然が与える保護効果は最も顕著」なのです。

それゆえ、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれていたように、トラウマ的な経験をした退役軍人たちは、昔から本能の導くままに「逆PTSD効果」を求めて森林や荒野へと移住してきました。

今日でもやはり、トラウマを抱えた人に対する大自然セラピーが行なわれています。

デヴィッド・シャイフェルドは、11年前から〈アウトワード・バウンド〉で退役軍人のための野外合宿を開催している。

彼自身は「冒険セラピー」という造語を使っているが、その言葉を参加者に対して使うとはかぎらない。

六日間、自然のなかですごすことで多くの退役軍人が変わっていくのを実感したシャイフェルドは、テキサス大学オースティン校で心理学の博士号取得をめざして研究を始めた。

認知行動療法や薬物療法などのごく標準的な治療法では効果がでない場合でも、自然によって心身ともに癒やされる理由を突きとめたかったのだ。(p191)

自然から切り離された現代のわたしたち

残念ながら、「自然のなかで二重盲検法(だれが処置群でだれが対照群かを被験者だけでなく、研究者も知らされていない対照試験)を実施するのはむずかしい」ため、「数々の逸話が明確な証拠になっているにもかかわらず、退役軍人省も大半の心理学者も、自然の癒やし効果を認めていない」そうです。(p291.293)

そもそも、「畏怖の念」のような感情を測定する方法や狙って起こさせる方法は今のところありません。

科学的な研究の多くは、実験室のなかで再現することが求められますが、実験室にはどうにも収まりきらないのが大自然です。

問題はほかにもあります。

まず、都市部で生まれ育った人たちは、自然界にほとんど触れたことがないために、自然に対する怖れを抱えていることがあります。ちょうど海で泳いだことがない人が、海に入るのを躊躇したり、都会で育った人が虫を怖がるのと同じです。

あなたの子どもには自然が足りないに載せられているサンディエゴの四年生の言葉は、現代っ子たちが抱く、自然に対する見方を象徴しています。

家の中で遊ぶほうがいいよ。だっと電気のコンセントがあるもの (p5)

さらに、マスメディアは、自然の驚異を美化する一方で、自然の脅威を恐ろしいものとして報道します。

たとえばサメやクマが人を襲う確率はごくわずかですが、そうした事件が起こると、大々的に報道されます。実際には、野生動物による被害より、都市部で連日起こっている犯罪のほうがよほど危険なのにもかかわらず、です。

マスメディアがこぞって報道するがゆえに、実際よりも危険であるという誤った印象が作られるのは、心理学で「利用可能性ヒューリスティック」と名付けられている現象です。これは、テロや飛行機事故の報道でもよく見られます。

なぜ人はテロに強い不安と恐怖を感じるのか―「利用可能性カスケード」という錯覚
最近、テロのニュースが頻繁に報道されています。ノーベル経済学賞のダニエル・カーネマンの本「ファスト&スロー」によると、こうした報道は利用可能性という落とし穴につながるかもしれません

こうしたマスメディアの報道のせいで、現代のわたしたちは自然に対する怖れを抱くようになり、自然の癒やし効果を利用しにくくなり、畏怖の念を感じるチャンスも減ってしまっています。

たとえば、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかに書かれているように、女性が自然の中を散策するのは危険だ、というイメージが強くすりこまれるせいで、多くの人たちが自然の癒やし効果の恩恵を受けられなくなっています。

『都会の屋外にあらわれる性差』という論文で、著者のジェニファー・K・ウェズリーとエミリー・ガーダーは、「公共の空間、とりわけ手つかずの自然が残る場所や、都市近郊エリアにおける性差の構造が、どのように女性の弱さや、そうした場所への恐怖もしくは『恐怖の分布図』を特徴づけるのか」を調査した。

そこで判明したのは、「私的な空間で女性が受ける暴力の数は、公的な場での数をはるかに上回っている」こと、そして「レイプや暴力など性的虐待の圧倒的多数は密室で行われている」ということだった。

「茂みの陰や奥まった場所ならどこでもレイプに格好な環境になりえるという恐怖から、数えきれないほど多くの女性が、大自然のもつ癒しの効用を利用できないでいるようだ。(p112)

わたしたちは誰でも、自分が経験したことのない、馴染みのないものに対しては、必要以上の怖れを抱くものです。自然界から切り離されて久しい現代人も、大自然は不便で野蛮で危険だと感じるようになりました。

もちろん、自然の中で生じうる危険を過小評価するのはよくありませんが、現代人は過度にそれを警戒しすぎ、逆に過度に都市環境を安全とみなしすぎています。

私たちの世代は若者に対し、自然を直接体験するのは避けなさいと教えている。

そのような指導は学校や家庭で、さらには野外活動を推奨する団体によって行なわれているし、地域社会の多くでは法律で定められ、規制された形へと体系化されている。

私たちの機関、都会と田園のデザイン、文化的な発想は、自然を無意識のうちに死に結びつける一方で、野外を喜びや孤独と切り離す。

公立学校のシステムや、メディア、両親は良かれと思えばこそ効果的に子供たちを脅して、直接森や野原に出ていかないようにさせている。(p15)

大人たちが文明社会の利点ばかり語り、自然界のすばらしさを語るよりも自然界のリスクばかりを教え込むのは、それらの人たちの世代もまた、幼いころからすでに自然から切り離されていたことによるのでしょう。

以前に紹介した心理学者ピーター・カーンによる「環境性・世代間健忘」という概念が示しているように、自然から切り離された世界で何世代も育つと、そもそも自然の恩恵を直接味わった人が身の回りにいなくなるため、自分たちが何を失ったのかさえ気づかなくなっていくのです。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

しかし、この記事で考えたように、わたしたちはいまだ、自然界の中で生きていた頃と同じ遺伝子をもつヒト科の動物です。

そうであれば、大人たちが良かれと信じて子どもたちを自然から遠ざけることは、都会では得がたい大切な何かを奪ってしまっていることになるでしょう。

感じる力(センス・オブ・ワンダー)を育む

確かに、現代社会に生きるわたしたちは、過去の世代の人たちよりも、はるかに自然界の驚異や、珍しい動植物について「知る」機会があります。

水族館や動物園に行けば、世界各地の珍しい生き物を見ることができます。インターネット検索やSNSの写真などを通して、昔の人たちよりはるかに多くの珍しい生き物について学べます。

しかしそのような「造りものの自然」から、本物の畏怖の念が沸き起こることはありません。畏怖の念に必要なのは、Google検索では決してヒットしないようなもの、すなわち自宅にいながらでは決して味わえないような何かなのです。(p82)

フランクリン・アンド・マーシャル・カレッジの心理学助教授だった故エドワード・リードは、情報時代の神話に関する最も歯切れのいい批評家だった。

著書『経験の必要』の中で彼は、「世の中を良くするためにはほとんど役に立たない情報の滓を誰もがどこででも手に入れられるよう加工処理するために、金を使い何時間も努力するような社会は、何かが間違っている」と言う。

現代の主流派文化人もポップカルチャーの担い手も、リードが言った「最も根源的な経験」―自分で見る、感じる、味わう、聞く、嗅ぐということ―に何の注意も払わない。

リードによれば、私たちは「自分たちの世界を直接経験する力を失いはじめている。経験という言葉の意味には内容が伴わなくなってしまった。同様に、日常の生活の中での体験も貧しくなってしまった」(p86)

情報化社会においては、あらゆる情報が簡単に手に入るように思えますが、その本質であるはずの経験は縁遠いものとなってしまいました。わたしたちは何かを「知る」ことは得意ですが、「感じる」力は退化してしまっています。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中でポージェスが述べるように、わたしたちの文化や教育全体は、「感じる」よりも「知る」または「考える」ことに重きを置いてしまっています。

西洋では、「感じること」よりも、「考えること」により大きな価値を置こうとする。

教育や子育てでは、認知のプロセスを拡大し、改善・向上させることに目的が置かれ、身体の感覚や「動きたい」という衝動はなるべく抑制するように求められている。(p9-10)

私たちは、もっと身体反応に注意を払うことが必要です。身体が教えてくれていることを、一様に拒否する方法ばかり習得しても意味がありません。

…身体反応を拒否する戦略は、私たちの文化と大いに関係があります。

…身体感覚は動物的なものとされる一方で、認知は霊性に密接に関与していると考えられてきました。(p248-249)

わたしたちの文化や教育は、頭を使って考えたり、知識を記憶したりすることに偏重しています。子どもたちは、身体が不快感を感じても、感覚を押し殺して我慢するよう教えられます。

ここ日本でも、西洋的な価値観にそって、感覚よりも認知を育てることが優先されてきました。学校教育では、「考える」ことは重視されても、何かをからだ全体で「感じる」訓練は行なわれません。

けれども、自然界の中で畏怖の念を感じるには、まさにそのような感覚、すなわち感性が必要なのです。

考えてみてください。「畏怖の念」とは、死んだような凍りつき状態から、息を吹き返したときに感じる震えでした。半分死んでいる状態から生き返るときに感じる「生まれ変わった気分」でした。

では、わたしたちは、自分が「生きている」ということをどのようにして知るのでしょうか。ピーター・ラヴィーンは身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアでこう書きます。

「自分が生きているってどうやってわかる?」と尋ねられると、ほとんどの人は、「ええと、それは……」と考えはじめる。だが、それでは答えることはできない。

自分が生きていることを知るには、私たちの深いところにある身体感覚に埋め込まれた生き生きとした身体的な現実を、直接的な経験を通して感じる能力を使わなければならない。(p340)

現代社会のわたしたちは、「考える」ことを重視する文化にいます。「自分が生きているってどうやってわかる?」と尋ねられると、心電図を計測すればわかるとか、「我思う故に我あり」と述べた哲学者デカルトのような説明をこねくり出すかもしれません。

しかしそのような答えに何の価値もないことは、トラウマを負って凍りつき、解離した人たちはよく知っています。離人症の人たちの心臓はもちろん脈打っていますし、考えたり思ったりすることもできます。しかし、「生きている」実感はどこにもないのです。

凍りつき/擬死の仮死状態から、生きている者の世界へと帰ってくるためには、知識や思考や認知は何の役にも立ちません。必要なのは、全身で感じる力、今この瞬間に生きてることを実感し、畏怖の念を抱く感性です。

高名な海洋生物学者レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダーの中で次のように書いているように、そのような「感じる」力が衰えてしまっていては、たとえ大自然の中に行こうと、自然界からの恩恵は十分に受けられないでしょう。

わたしは、子どもにとっても、どのように子どもを教育すべきか頭を悩ませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。(p24)

かつてある人がわたしに、モリツグミの声を一度もきいたことがないといったことがあります。

けれども、その人の庭では、春がくるといつも、モリツグミが鈴をふるような声で歌っているのをわたしは知っています。(p38)

感じる力が鈍くなっているなら、自然界の驚異に気づくことはできず、畏怖の念が湧き上がることもありません。それゆえ、レイチェル・カーソンは次のように書いて、感じる力を培うよう励ましています。

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいとたのむでしょう。(p23)

わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。

…鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。

自然がくりかえすリフレイン―夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ―のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。(p50-51)

大自然がわたしたちに恩恵をもたらしてくれるのは確かですが、その恩恵を受けるためには、「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」が必要です。

島皮質と前帯状皮質(aMCC)を活性化させる

このような「感じる」力とは、単なる心理的なものではありません。具体的な神経活動をともなう生物学的な能力です。

トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復 によると、大自然の息吹を感じる力、また自分の活力を感じ、生きていることを実感する力は、脳の島皮質前帯状皮質(aMCC)に由来することがわかっています。

島は前部と後部に分かれている。後部は身体の内側および外部から発生したありのままの感覚を客観的に認知すると考えられている。

対照的にaMCCに関連している前島は、もっと繊細でニュアンスに満ち、主観的な感情に基づいた感覚と情緒を処理していると見られている。

クレイグやクリッチリー、その他の研究者は、前島はわれわれが自分の身体と自分自身についてどのように感じるかを広くつかさどっていると主張している。(p107-108)

わたしたちが、大自然の中で「繊細でニュアンスに満ち、主観的な感情に基づいた感覚」を感じるとき、この前島やaMCCといった脳領域が活性化しています。

興味深いことに、これらの脳領域は、凍りつき/擬死状態に陥った人(離人症や慢性疲労症候群)では活動が低下していることがわかっています。

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言い換えれば、これらの領域は、「感じる」力が低下した、半分死んでいるような状態の人たちでは活動低下していますが、畏怖の念を感じ、生きる力を取り戻した人においては活性化するのです。

この領域は何かを「感じる」ときに活性化し、「怖れの反応を軽減できる唯一の部位」でもあるとされています。

aMCCについての最新の研究により、この脳の部位は、肯定的であれ否定的であれ、強く影響を与える刺激があるときに活性化されるということがわかっている。

また、この部位は、島、扁桃体、視床下部、脳幹および視床と、神経的なつながりを持つ。島皮質とともに、aMCCは、体内の感覚受容体から原初的な感情を受け取っている。

加えて、皮質の中で、扁桃が引き起こす怖れの反応を軽減できる唯一の部位である。(p104-105)

さらに、この部位を刺激されると、人はやる気に満ち、困難を克服できると感じるようになります。

生理学的な観点から見ると、aMCCには、ドーパミンを媒介した「やる気」を起こさせるシステムと、ノルアドレナリン作動性の行動システムの機能が収束されている。(p103)

このような数々の研究からわかるように、「感じる」力とは、生理学的には、脳の島皮質やaMCC(前帯状皮質)の機能のことを指しています。

これらの領域は、すでに見た内臓と脳をつなぐ迷走神経からの情報を受け取って処理している部位でもあります。

つまり、迷走神経が揺さぶられ、腹の底から揺り動かされるような畏怖の念を感じるときには、もれなく島皮質やaMCC(前帯状皮質)も活性化するのです。

トラウマにより「感じる」力を完全に失ってしまった凍りつき/擬死状態にある人たちやはこの領域が活動低下していますし、「感じる」力をないがしろにする現代文化の教育を受けた人たちも、この部位がうまく活性化していないと考えられます。

そのせいで、自分が生きているという実感を得られなかったり、自然界を感じることから得られる恩恵が受けられなかったりします。大自然に驚嘆する畏怖の念のような感情を、生涯で一度たりとも経験したことがない人さえいます。

トラウマを負った人はもちろん、現代社会のわたしたちはみな、大自然とのつながりを取り戻すためには、この「感じる」力をトレーニングする必要があるでしょう。

以前に書いたように、ヨーガなど身体感覚を使ったセラピーでは、こうした脳の領域が活性化することがすでに研究によって確かめられています。

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あるいは、レイチェル・カーソンがセンス・オブ・ワンダーで書いているように、自然の中を散策しながら、そのような「感じる」力をトレーニングすることもできます。

子どもといっしょに自然を探検するということは、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性にみがきをかけるということです。それは、しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらくこと、つまり、あなたの目、耳、鼻、指先のつかいかたをもう一度学び直すことなのです。

わたしたちの多くは、まわりの世界のほとんどを視覚を通して認識しています。しかし、目にはしてはいながら、ほんとうには見ていないことも多いのです。

見すごしていた美しさに目をひらくひとつの方法は、自分自身に問いかけてみることです。

「もしこれが、いままでに一度も見たことがなかったものだとしたら? もしこれを二度とふたたび見ることができないとしたら?」と(p28)

フェルデンクライス・メソッドのセラピストによる動きが脳を変える──活力と変化を生みだすニューロ・ムーブメントでも、同様のことがアドバイスされています。

選んだテーマに取り組むとき、学びのスイッチをオンにしようと意図してください。正否や善悪の判断をせず、ただ好奇心と関心を向けてください。

入ってくる情報を使って何かしようとする意思も手放します。一日に数分間、この練習をすればするほど、変化を経験できるようになるはずです。

野外を歩くときにもとりいれてみてください。野の花に注目すると、色鮮やかに目に映ることでしょう。外気が肌に心地よく感じられるかもしれません。

香りも強く感じられ、初めて見る形状に気づき、花の存在そのものを奇跡と感じるかもしれません。(p68)

五感を研ぎ澄ませて自然界を感じる力を育もうとするときには、自分の外部から入ってくる感覚だけではなく、そのとき自分の身体の内部から湧き上がる情動に注意を向けることは大切です。

先ほど引用した文章にあったとおり、島皮質は前部と後部に分かれており、後部は「ありのままの感覚を客観的に認知」するのに対し、前部は「もっと繊細でニュアンスに満ち、主観的な感情に基づいた感覚と情緒を処理」していました。

言うまでもなく、畏怖の念のような生きている実感は、後者のような主観的な感覚が関係しています。

客観的に自然界を感じるだけでなく、もっと主観的に繊細に、あたかも自然界と一体になるかのようにして「今ここ」のありさまを感じるときに、畏怖の念が湧き起こってくるのです。

このような「感じる」力を育む方法は、個人で実践できるもの以外にも、ここで触れたヨーガやフェルデンクライス・メソッド、さらにはアレクサンダー・テクニークやソマティック・エクスペリエンスなど、さまざまな種類のボディーワークが役立ちます。

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「感じる」力は、現代文化に生きるわたしたちにとってはあまり一般的でないがために、これらの手法はいずれもあまり聞いたことがないかもしれませんが、ひとたび取り組みはじめると、忘れられていた感受性にアクセスできるようになっていくでしょう。

もちろん、「感じる」力は一朝一夕で育まれるものではありません。先ほど挙げた例のような、より脳の可塑性が強い子どもならともかく、大人の場合は、習慣化した脳の使い方、身体の使い方をすぐに変化させるのは困難です。じっくり時間をかけて、ずっと使っていなかった能力を育てる必要があります。

冒頭でNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方から引用した、アイダホで川下りセラピーに参加した戦争トラウマを負った女性たちの場合もそうでした。

一週間の大自然セラピーは有益でしたが、それだけで人生が変わることはありませんでした。

数ヶ月後、HG-714-RA部隊の隊員の大半は、アイダホでの川下りを振り返り、PTSDを克服する長い道のりでその旅が役に立ったと答えた。

でも、脳が爆発するようすを目の当たりにした看護師カタリーナ・ロペスは役に立たなかったと回答した。

…あんな短期間じゃ足りない、と不満を言ったのだ。

あれっぽっちじゃ、悪夢の息の根をとめられない。睡眠薬を飲んだあと車に乗り、夜中に刈り入れが終わったトウモロコシ畑を突っ走るのをやめられない。

あれっぽっちじゃ、また人を信じるようにはなれない。急流を泳ぎきる自信もつかない、と。

たしかに、問題を抱えたティーンエージャーを対象にした自然のなかでのセラピーは、たいていは数週間、ときには数ヶ月にわたって実施されている。(p294-295)

明らかに変化はすぐに起こるわけではありません。一週間のオーロラツアーで畏怖の念を経験でき、人生ががらりと変わる、といった都合のよい話ではありません。

まれにはそうした劇的な変化を経験する人もいるかもしれませんが、多くの場合は、もっとゆっくり変化していきます。

いくつもの発見や感動を通して、徐々に迷走神経の感受性が回復し、島皮質や前帯状皮質が刺激され、永久凍土のような凍りつきが少しずつ溶けていくのです。

トラウマからの回復―畏怖の念を覚える体験

終わりに、この記事で考えたことを簡単にまとめてみたいと思います。

■畏怖の念はスピリチュアル現象ではない
畏怖の念は宗教的体験と結びつけられがちだが、動物たちにも見られる生物学的現象だと考えられる。

■人間は生物学的な情動を後付け解釈してしまう
生物学者チャールズ・ダーウィン、心理学者ウィリアム・ジェイムズ、神経学者アントニオ・ダマシオは、あらゆる種類の感情は、肉体の反応である「情動」から生まれているとした。

動物たちも畏怖の念の「情動」を感じているが、人間だけがそれに気づけるので、後から特別な意味を後付けし、「畏怖の念」と名付けたにすぎない。

■ダーウィンが観察した「畏怖」
ダーウィンは動物たちが危機的状況に面したとき、「積極的な怖れ(恐怖)」と「消極的な怖れ(畏怖)」を経験することを観察した。

人間も含む哺乳類は、脅かされたとき、闘うか逃げるかする方法(闘争/逃走反応)を試みるが、どちらも不可能で逃げられない状況では、最後の手段として死んだような状態になる(凍りつき/擬死反応)ことで生き延びようとする。

■解離の「逆PTSD」効果
人間が凍りつき/擬死反応を起こすと、意識がもうろうとなったり、気絶したり、身体が硬直したり、痛みが麻痺したり、体外離脱したりする。これらの反応は「解離」とも呼ばれてきた。

解離は、衝撃的な体験のもとで痛みをやわらげ、無事に切り抜けさせるための適応的な能力であり、トラウマと正反対の「逆PTSD」効果がある。

■凍りつき/擬死が終息しないと慢性的な病気になる
凍りつき/擬死反応は動物にとっては命を守るためのものだが、現代社会特有の慢性的で長期にわたるストレスにさらされると終息しなくなる。

その結果、ずっと感覚が麻痺したままの解離性障害や離人症、またずっと身体が凍りついたままの線維筋痛症や慢性疲労症候群、胃腸障害などが引き起こされる。

■凍りつき/擬死は「身震い」をもって終息する
脅かされて凍りつき/擬死状態になった動物は、「身震い」することで息を吹き返す。シャーマン医療やトラウマセラピーでも、トラウマから回復するときに「身震い」することが観察される。

この凍りつき/擬死から復旧する「身震い」のときには、あたかも死んでいたものが生き返ったような感覚を伴うので、「畏怖の念」に満たされると考えられる。

■畏怖の念は迷走神経に働きかける
ポリヴェーガル理論によると、わたしたちの脳と内臓をつなぐ迷走神経には二種類の経路があり、哺乳類的な腹側迷走神経と、爬虫類的な背側迷走神経にわけられる。

トラウマは背側迷走神経による凍りつきを引き起こすが、畏怖の念は腹側迷走神経を刺激し凍りつきを溶かす効果があると思われる。

■トラウマと畏怖の念は正反対のもの
トラウマは、免疫系を過剰に警戒させ、時間感覚を切り離し、社会交流システムを停止させる、死んだような状態に閉じ込める。

対照的に畏怖の念は、炎症の指標であるサイトカインの値を大幅に下げ、意識を「今ここ」へと引き戻し、人をより寛大に利他的にならせる、生きている実感を湧き上がらせる。

■現代人は自然界を「感じる」力が鈍っている
現代文化と教育は、「考える」能力を重視し、「感じる」ことを軽視している。自然界は不必要に危険なものとされ、子どもたちは作り物の自然にしか触れる機会がない。

それで、自然界から恩恵を受けるには、まずは「センス・オブ・ワンダー」(自然の不思議を感じる力)から育まなければならない。

■感じる力は島皮質や前帯状皮質に基づく
「感じる」力は脳の島皮質や前帯状皮質(aMCC)による。トラウマを負って感覚が麻痺した人はこれらの領域が活動低下しているが、感じる力が回復すると、これらの領域も活性化する。

感じる力を育むには、自然界をじっくり味わって感受性を磨いたり、ボディーワークを通して自分の内面を感じ取る力を育てたりする必要がある。

この記事では、さまざまな専門家の研究を通して、畏怖の念という感覚が、生物学的な基盤をもつ現象であり、トラウマとは正反対のものであることを見てきました。

トラウマは人を死んだような状態にならせますが、畏怖の念は人に生きている実感を与えます。トラウマから回復するときには、必ず畏怖の念に満たされる経験が伴う、と言い換えてもよいでしょう。

この記事で紹介したトラウマの専門家たちがいずれも、トラウマからの回復過程において、セラピストと患者双方が畏怖の念を感じると述べているのも不思議ではありません。

たとえば、トラウマ専門医のベッセル・ヴァン・デア・コークは身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法でこう書きます。

私は徐々に気づくようになった。トラウマを癒やす仕事を可能にしているものは一つしかない。それは畏敬の念だ。

患者が虐待に耐え、それから回復への道のりにはつきものの魂の闇夜にも耐えることを可能にした、生存へのひたむきな努力に対する畏敬の念なのだ。(p225)

ピーター・ラヴィーンは心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで次のように述べます。

正直に言うと、私がこれまでに立ち会った癒しの奇跡の数々は、否定しがたいより高次の叡智と秩序の表れそのものなのです。

宇宙に秩序をもたらす本質的な自然の叡智が存在するといったほうがいいかもしれません。

それはどんな個人の歴史よりもはるかに強力なものです。有機体はこうした法則に従い、想像可能な最もおぞましい体験の中さえも通り抜けていきます。

…彼らは自分が動物であるという体験に共感しやすくなると同時に、自分がさらに人間らしくなったと感じます。

トラウマが変容するとき、癒しが与えてくれる贈り物のひとつは、命に対する子どものような畏敬の念です。(p246)

そしてポリヴェーガル理論の生みの親であるスティーヴン・ポージェスはポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」でこう書きます。

多くのサヴァイヴァーたちは、トラウマの結果生じた感情や、生理学的状態を理解することができず、自分たちは狂ってしまったのだと感じていました。

臨床家と過酷なトラウマ体験からの生還者の双方から学んだことをもとに、私は、講演やワークショップの中で、ポリヴェーガル理論の要素を紹介することにしました。

命を脅かすような極めて危険な状況で、身体は、状況を見極め、事態と交渉し、成功裏に生き延びたのであり、そのすばらしい成果を称えることが大切だと伝えました。

神経系は、なんとか生き残ることができるように、不随意に必要な生理学的状態を引き起こしたのだという点を、トラウマ・サヴァイヴァーたちのナラティブに盛り込み、神経系の反応に畏敬の念を持ってほしいと思ったのです。(p205)

トラウマからの回復と畏怖の念は、切っても切り離せない関係にあります。おそらくは、この記事で考えたように、トラウマからの回復プロセスそれ自体が、畏怖の念という感情を引き起こすからでしょう。

トラウマとは凍りつき/擬死反応によって、あたかも死んだような状態になることですが、トラウマからの回復とは「身震い」を通して生命力が回復されることでした。

その身震いという情動は、動物たちも経験する普遍的なものですが、唯一それを認識する能力をもった人間にとっては、あたかも神の奇跡のように思えるので、「畏怖の念」を感じずにはいられないのです。

トラウマとは、生きたまま墓場に埋葬されるような恐ろしい体験ですが、そのような生ける地獄から魂を引き戻し、息を吹き返すプロセスが、わたしたち生物に備わっているというのは、確かにひとつの奇跡です。

わたしたちは太古の昔から、自分たちを取り巻く大自然に驚嘆し、畏敬の念に満たされてきしたが、わたしたちの内部に秘められた生命力もまた、奇跡的で畏怖の念に値するものです。

そこにはまさに、哲学者エドマンド・バークが畏怖の念を引き起こすと書いた「はてしない広がり」や「人間にはそう簡単に理解できないもの」が認められます。

このような人智を超えたものに圧倒されるとき、わたしたちは自分が「今ここ」に存在するひとつの命であることを味わい知り、今まさに「生きている」という畏怖の念に満たされるのです。

▼補足記事
脳神経科学者オリヴァー・サックスが左足の擬死状態からの回復をつづった体験記を通して、この記事の内容をより具体的に補足してみました。

オリヴァー・サックスが左足を取り戻したときの「畏怖の念」およびヨブ記から学べる教訓
オリヴァー・サックスの「左足をとりもどすまで」、およびサックスがその中で引用している聖書のヨブ記の記述から、トラウマのシャットダウンとそこから回復するときの体験について考察していま

▼マイクロバイオームの問題
わたしたちが数世代にわたり自然から切り離されてきたことは、マイクロバイオームの多様性の減少など、そう簡単には解決できない生物学的問題も生み出しています。

環境や生活習慣を変えたところで、マイクロバイオームの多様性そのものを回復させることは困難です。それでも、以前の記事で考えたように、マイクロバイオームの代謝物に影響を与え、いくらか体調を改善させることには役立つはずです。

もはやトラウマは心の病ではなく内臓の微生物群集(マイクロバイオーム)を取り巻く生態系の問題だというパラダイムシフト
エムラン・メイヤーの研究から、トラウマ医学におけるマイクロバイオーム(体内の微生物群集)の重要な役割について考察しました。

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