この記事は、危機的状況下における凍りつきから回復するときに感じる畏怖の念について考察した以下の記事の補足です。長くなったので別記事として分割しました。
本文中で書いたように、わたしたちは生物学的な防衛反応として、危機的状況では凍りつき/擬死状態に陥って、あたかも死んだようになります。これが、野生生物にも人間にも見られるトラウマ反応です。
しかし、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、その死んだような状態から息を吹き返すときには、自発的な「身震い」が生じます。
この身震いとともに、凍りついていた神経系がリセットされ、生命力が復旧し、人はしばしば畏怖の念を覚えます。
地面に横たわっているときと救急車で搬送されているときに私が経験した、からだの震えやおののきは、神経系をリセットし、精神を全体性へと回復させてくれた生得的なプロセスの中心的部分である。
…中央アフリカのマラウィにあるムズズ環境センター所属の生物学者アンドリュー・ブァナリに、私自身のことや何千人ものクライアントがセラピーのセッション中トラウマから回復するときに自発的にブルブル震え、おののき、呼吸をするのだとかつて話したことがある。
アンドリューは興奮気味に頷き、そして急に大声で「そう……そう……そうです! まさしくその通りです。
捕獲した動物たちを野生環境に戻す前に、私たちは動物たちが今あなたがまさに言った通りのことをやり終えたかどうか確認するようにしているのです」と言った。(p19)
トラウマの凍りつき状態から復旧するときに身震いを通して「神経系をリセット」するのは、わたしたち人間を含め、動物たちに備わる生物学的なプロセスです。
脳神経科学者オリヴァー・サックスは、その著書、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で、自身の体験を通して、この死んだような凍りつき状態から息を吹き返すときに起こる現象について述懐しています。
この補足では、オリヴァー・サックスの実体験、および彼が著書で引用している古代の物語「ヨブ記」の記述などを通して、トラウマ状況下における凍りつきからの回復がいかにして起こるのかを、さらに調べてみたいと思います。
大怪我をしたサックスが体験した解離現象
左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)によると、サックスは、ノルウェーで一人で山登りしていたとき、巨大な牡牛に出くわし、無我夢中で逃げて崖から転落しました。
そのとき、彼は左足に大怪我を負いましたが、命からがら下山して、奇跡的に九死に一生を得ました。
サックスは山中で大怪我を負ったとき、本文中で紹介したヴァン・デア・コークやリビングストンの経験談と同じく、危機的状況下で自動的に生じる さまざまな解離現象を経験したようです。
たとえばサックスは、感情や痛みが麻痺して、客観的な医者のように冷静に自分の左足を調べていました。
「では先生」私はひとりごとを言っていた。「足をしらべてください」
ちょうど外科医が「症例」を検討するように、きわめて専門的にそっけなく、足をもちあげてしらべてみた。
…「ですから、みなさん」……所見をまとめて、こう結んだ。……「興味深い症例ではありませんか! 大腿四頭筋腱の完全断裂です。(p21-22)
これは、ピーター・ラヴィーンが身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアで書いていた、生物学的な凍りつき/擬死にともなって生じる解離の効果をほうふつとさせます。
最後に最も重要な、不動の四番目の生物学的機能は、無感覚という非常に深い変性状態を誘発することだ。この状態では極端な痛みや恐怖を感じにくくなる。
…この鎮痛状態では、被害者は自分のからだの外からその出来事を目撃しているかのように、(私自身が事故で経験したように)あたかも誰か他の人間に起こっていることのように思われるのである。
解離と呼ばれる、このような離れ方は、耐えがたきものを耐えられるようにしてくれるのだ。(p62-63)
またサックスはユダヤ教の家庭で生まれ育ちましたが、ユダヤ教の聖典である聖書の伝道の書の言葉が独りでに語りかけてくるのを経験しました。左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中で彼はこう振り返ります。
仲間さえいれば……そのとき、聖書の一節が心に浮かんだ。聖書など子供のころ読んだきりだし、思いだそうとしたわけでもないのに。
「ふたりはひとりにまさる。すなわち彼が倒れるときには、そのひとりがその友を助けおこす。しかしひとりであって、その倒れるとき、これを助けおこす者のない者はわざわいである」
…この瞬間に、自分は人間で動物とは違う、動物より優位にたった存在なのだという思いあがりはきえさった。ふたたび伝道の書が私に語りかける。
「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これ死ぬように、彼も死ぬのである……人は獣にまさるところがない」
…「だが」心のなかで叫ぶ。「私には強い生命力があるはずだ。生きたい。運が良ければ生きのびることができるかもしれない。まだ死ぬ時ではない」
すると伝道者は同情も反発もせずに冷静にこう答える。
「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があの、死ぬるに時があり……」
ふしぎな明晰さだ。意味深いが淡々としている。冷たくも暖かくもなく、厳しくも寛容でもない。真実を伝える明晰さ。(p26)
危機的状況下において、このような冷静な他者の感覚が現れるのは、解離現象の一種であるサードマン現象の特徴です。
さらに、サックスは、臨死体験の一種としてよく知られている、走馬灯のような解離現象も経験しました。
長いあいだ忘れていた記憶がよみがえってきた。すべて幸せな思い出ばかりだ。
…ちょうど岩から岩まですすむあいだに、おびただしい思い出が浮かんでは消えていった。どれも単純だが十分豊かで完全だ。けっしてせきたてられるようにすぐ消えてしまうことはなかった。
このような考えやイメージは、すべて無意識のうちに換気され、心にうかんでは消えていった。それらは本質的にたのしく心地よいものだった。
しかしのちに、この気分はいったい何だったのだろうと自問してはじめて、私はそれが死への準備であったことを悟った。
「最後にはすべてに感謝せよ」というオーデンの言葉どおりだったのである。(p34)
オリヴァー・サックスがこれらの現象をじかに経験し、オカルトではなく生物学的な「死への準備」として詳細に記述していることは、これらの解離現象がスピリチュアルな領域のものではなく、危機的状況下で誰にでも起こりうる生物学的機能であるを裏づけています。
左足がよみがえったときの「畏敬の念」
さて、サックスが経験したこれらの解離現象は、いずれも一時的なものでした。
本文中で取り上げたヴァン・デア・コークやリビングストンの解離の経験と同じく、あくまで「耐えがたきものを耐えられるようにしてくれる」ものであり、無事に下山して危機的状況から解放されると終わりました。
しかしサックスは、それとは別の終息しない解離に悩まされることになります。彼の左足は怪我を負ってからずっと痛みが麻痺したままでした。
のちに手術で筋肉が元通りにつなぎ合わされても、足の感覚が麻痺したまま、つまり切り離され、解離したまま、元に戻りませんでした。
サックスは、足が存在しているのに、足の存在をまったく感じられない、いわゆる「身体失認」という状態に陥っていました。このときのサックスの体験については、以下の記事で詳しく紹介しています。
本文で考えたポリヴェーガル理論に照らして考えると、このとき起こっていたのは、局所的な「凍りつき/擬死」だったと思われます。
耐えがたい痛みに長期間さらされさたせいで、あたかも神経系のブレーカーが落ちるようにして、左足の感覚がシャットダウンし、死んだように凍りついてしまったのです。
サックスは、もはや左足の感覚は二度と生き返らないのではないか、と絶望しましたが、やがてリハビリを通して、左足が息を吹き返す瞬間がやってきました。
サックスが畏怖の念を感じたのはそのときです。
サックスはその様子を詳細に記録しています。
それは足だった。というより、例の「物体」、左足の役目をしている、のっぺりしたチョークのような円柱だったのである。チョークのように白い足の模造品。
それは300メートルもあったかと思うと、つぎの瞬間、わずか2ミリになったり、太くなったり、細くなったりした。
こちらに傾いているかと思えば、向こうに傾く。大きさや形、位置や角度がたえず変わった。
一秒間に四、五回も変化した。その変わりようは想像を絶するものだった。映画のフィルム、その連続する「コマ」のあいだに千通りもの変化が可能だったのである。(p169)
まず、リハビリによって左足に体重をかけたとき、サックスの左足の感覚はめまぐるしく変化しました。
事故以来、感覚が麻痺してしまい、「チョークのように白い足の模造品」になってしまっていた死んだ左足に、感覚がよみがえり、目まぐるしく変動しました。
この左足が大きくなったり小さくなったり、たえず変化するような感覚は、解離現象の一種である、いわゆる「不思議の国のアリス症候群」と同じものでしょう。感覚が正常に統合されず、盛んに調整を繰り返している状態です。
それはひとつの世界の創生にいあわせるようなものだった。目のまえで、自分自身のなかで、真の奇跡がおこなわれつつあった。
無から、混沌から、測定の基準、度量が定められつつあった。はねあがり、激しくゆれ動く測定値が平均へと集中していく。度量のもとである。
私は恐怖とともに畏敬の念を感じた。それから浮きうきした気分になった。
私のなかで宇宙数学が働いて、個人の感情とは無縁の小宇宙が確立されたような気がしたのである。(p171)
サックスは、自分の左足に起こっている感覚の目まぐるしい変動が、「激しくゆれ動く測定値が平均へと集中していく」こと、すなわち神経系の調節過程であることに気づいていました。
これまで死んでいた感覚が息を吹き返すとき、神経系は、新しく現在の環境に合わせて調節されねばなりません。それは新しい度量衡の創生のようなものでした。
おそらく、このときサックスの左足は、目まぐるしく変動する感覚に合わせて、微細に振動し、身震いしていたことでしょう。サックスはそのとき「恐怖とともに畏敬の念を感じ」ました。
本文中でも引用した、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアのこの言葉のとおりです。
さまざまな状況下で経験され多種多様な機能をも有しているこのような「身震い」はすべて、真の変容や深い癒し、そして畏怖の念をもたらす可能性を秘めている。
…こうしたものは、私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すためのメカニズムである。(p20-21)
死んでいた感覚がよみがえるとき、「身震い」すなわち「平衡状態を取り戻すためのメカニズム」による目まぐるしい調節が生じるのです。
サックスは 左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中でさらに続けて、そのときの体験についてこう書きます。
私はすぐに、神がヨブにたずねられたことを思いだした。「私が地のもとを基えた時、どこにいたか? だれが度量を定めたか?」
私は畏敬の念をもって、この私が「ここにいて」「地のもとの基えられし時を見た」のだと思った。
さらに、ガタガタとゆれる映画の画面のような足の変化を見て、私はプランクとアインシュタインのことを考えた。量子論と相対性理論の出所がおなじだなんてことがあるのだろうか。
私は世界の誕生、「ビッグバン」の直後、10^-45秒のうちに、「プランク以前の時」を経験していたようなものだ。
宇宙科学者が論じている「想像もできないような時間」である。(p171)
「ガタガタとゆれる映画の画面のような足の変化」つまり「身震い」と同時に、サックスの心の中には、しぜんとスピリチュアルな畏怖の念が沸き起こっていました。
それはユダヤ教の家庭で育ったサックスにとって馴染み深い、聖書中のヨブ記に記された「地のもとの基えられし時を見た」かのような体験でした。また同時に『宇宙科学者が論じている「想像もできないような時間」』でもありました。
サックスは感動に打ち震えます。
私はこの驚異の出来事に酔いしれていた。
「これこそ、一生のうちでもっともすばらしい出来事だ。このすばらしい瞬間をけっしてわすれてはいけない。これを自分だけの秘密にしておくことなどできない」
ふたたびヨブ記の一節が心にうかんできた。
「どうか、私のことばが書きとめられるように。どうか、私のことばが書物にしるされるように」
私は自分の経験を語らなければならないと思った。(p172)
サックスは、左足の感覚が震えとともによみがえったとき、「この驚異の出来事に酔いしれ」「自分の経験を語らなければならない」と感じたほどでした。
臨死体験をした人は、これと同様の気持ちになるので、自分の身に起こった畏怖の念を覚える体験をスピリチュアルな感動とともに話します。サックスの場合は、左足限定の、局所的な臨死体験を経験したようなものなのです。
このサックスの生き生きとした体験記は、この記事で考えたような、危機的状況下における生物学的な凍りつき/擬死のシャットダウン、およびそこから息を吹き返すときに起こる身震い、そして畏怖の念についての、すばらしい実例といえるでしょう。
古代の物語の知恵からトラウマについて学ぶ
興味深いことに、サックスが体験記の中でたびたび引用している聖書のヨブ記もまた、トラウマによる凍りつき/擬死と、そこから回復するときに覚える畏敬の念についての古代の記録だと思われます。
ヨブ記の物語は、その宗教的背景から、神学的に解釈されがちですが、現代のトラウマ医学に通じる普遍的な概念を含んでいます。
例えばピーター・ラヴィーンは、著書の中で、ギリシャ神話のメドゥーサの物語や、古代エジプトのイシスとオシリスの伝説を、トラウマに関係する普遍的な教訓を含んだ物語として再解釈しています。
たとえば、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアではこう書きます。
トラウマを癒すため、現代のアプローチに新たな活気を吹き込むためには、ヒトは本能的な存在であるという生物学的共通性と私たちそれぞれがつながる必要がある。
…このつながりを探求する際、神話や動物の仲間たちから多くを学ぶことができる。
これは、勇壮な神話と生物学(「神話-生物学」)を融合することであり、トラウマの起源と戦慄的神秘を理解する助けとなるだろう。
…ゴルゴン・メドゥーサについてのギリシャ神話はトラウマの本質そのものを描き、変容への道筋を描写している。(p45)
またトラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復ではこう書いています。
では、トラウマを理解し処理していくうえでの、記憶の役割とは何だろうか?
これについては、長く伝えられてきた神話の叡智から解を導き出すことができる。古代エジプトのイシスとオシリスの伝説は、深遠な教えを示している。(p235)
これは、古代の人たちが書いた詩的な物語を、無理やりトラウマ医学にこじつけて考えているにすぎないのでしょうか。おそらくそうではありません。
トラウマは今でこそ、おもに医学の分野に限定されて研究されていますが、もともとは人間のあらゆる文化、それどころか人間以前の動物たちの日常生活にさえ見られる普遍的なものであることは疑いようがありません。
古代の人たちは、現代のトラウマ医学のような、医学的な語彙や概念は持ち合わせてしませんでした。しかし、例えば本文中で取り上げたシャーマン儀式に代表されるように、日々トラウマ的な出来事を経験し、そこから回復するときの畏怖の念も感じていたのは確かです。
とすると、古代の人たちは、さまざまな詩や文学、物語のテーマに、トラウマおよびそこから回復するときの畏怖の念の体験を織り込んだはずです。古代の人たちは医学的な語彙などなしにトラウマについてたくさん書き残しました。
そのような古代の物語を現代のトラウマ医学から再解釈することは、より自由奔放な筆致で書かれたトラウマ体験およびそこからの回復を、現代の概念から整理しなおしているだけであり、こじつけや比喩ではありません。
かえって、古代の人が書き残した知恵ある書物を、単に宗教的な意味に限定して解釈することのほうが、バイアスのかかった見方でしょう。古代においては、宗教、科学、芸術などという区分はなく、ひとつの物語があらゆる側面を有していたからです。
それでラヴィーンは、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーの中で、トラウマというテーマは、医学限定のものではないことを、次のように説明しています。
私は、トラウマという主題と、その自然科学、哲学、神話学、芸術との複雑な関係に尽きることなく魅了されてきた。
…トラウマは伝統的に、心理学的、医学的な心の病と考えられてきた。
現在の心理療法と医療は、身体と心の関連についてリップサービスはするものの、トラウマの癒やしにおける心身の深いつながりについてはおそろしく過小評価している。
世界のほとんどの伝統的癒しの手法を哲学的にも実践的にも支えてきた心身の完全な統合は、現代社会が理解するトラウマ治療からは悲しいほど欠落している。(P2-3)
トラウマについての記述は決して現代の医学限定のものではなく、「トラウマの癒やしにおける心身の深いつながり」についての洞察は、かえって「自然科学、哲学、神話学、芸術との複雑な関係」のなかに秘められているものです。
オリヴァー・サックスも、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)の中でトラウマ的な経験のもとでは、医学以外の支えが必要だったと述べています。
いつはてるとも知れぬ不確実、不安な日々。リンボウのなかで、私は絶望にむかって旅をし、ふたたびもどってきた。それは魂の旅だったのである。
医学的状況にはなんの変化もなく、私は「暗点」にしっかと捉えられ、身動きできない状態だった。
しかし医者たちにたいしては、本心からではないにしろ、「より深い問題」にはふみこまない、聞かないという暗黙の了解ができていた。
魂の闇夜にあっては、科学にたよることはできない。理性では解決できない現実に直面した私は、芸術と宗教に慰めをみいだした。
夜の闇をとおして呼びかけ、心を通わせることができるもの、意味をもち、理解しうるもの、耐えうるものは、芸術と宗教だけだったのである。(p134-135)
ですから、わたしたちは、現代のトラウマ医学の専門書を読むだけでは学べないような深い知恵を、古代のトラウマをテーマにした物語から学べるはずです。
ラヴィーン自身、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ヨブ記の物語は、トラウマを理解するうえで重要な教訓を秘めていると述べています。
ただただ苦しみが伴うだけのトラウマと、変容を伴うトラウマとを同等にみなすのは誤りだろう。
しかし同時に、ほとんどすべてのスピリチュアルな伝統において、苦しみは覚醒(悟り)への扉であると考えられている。
西洋ではこの関係は聖書のヨブの物語および、より強力なものでは詩編23編に見て取れる。(p414)
ですから、オリヴァー・サックスが、自分の体験した感動を伝えるためにたびたび引用し、ピーター・ラヴィーンがトラウマからの回復の原型だと描写しているヨブの物語を、宗教や神学にとらわれず調べてみるのは、トラウマを理解する上で有益です。
ヨブの物語―考えうる限り最大のトラウマ
ヨブ記はユダヤ教およびキリスト教で聖典とされている聖書(キリスト教では旧約聖書)の中の物語のひとつです。
ここからはヨブ記のあらすじを追いながら、トラウマ医学の観点から学べることを考えてみましょう。(以下、ヨブ記の引用文は新共同訳によるもの)
ヨブ記の物語は、裕福な家庭を設け、地域社会で尊敬され、幸せに暮らしていたヨブという人の紹介から始まります。
彼は信心深く神を敬っていましたが、悪魔はその動機に疑問を呈します。もし彼に災厄をもたらせば、神を呪うのではないか。そう考え、悪魔はヨブにありとあらゆる災いを降りかからせます。
ヨブは一日のうちに子どもたちをすべて亡くし、財産を喪失します。さらに健康を損ない、地域社会でのけものにされるようになります。考えうる限り最大のトラウマ経験と言ってもよいでしょう。
そのような危機的状況下で、ヨブはさまざまな肉体的苦痛を抱えます。
たとえば、「肉は蛆虫とかさぶたに覆われ/皮膚は割れ、うみが出ている」「夜、わたしの骨は刺すように痛み/わたしをさいなむ病は休むことがない」「わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち/骨は熱に焼けただれている」といった表現がみられます。(7章5、30章17,30)
これらは、現代の医学でトラウマとの関連性を指摘されることがある、自己免疫性の皮膚疾患や、線維筋痛症などの慢性疼痛に類似しています。(症状は彼一人にだけ発生したので病原体による感染症ではないでしょう)
また、見舞いにやってきた三人の友人たちから、何か悪いことをしたせいで天罰が下ったのだ、というような無情な言葉を浴びせかけられます。
トラウマの被害者がこのような配慮に欠ける言葉やずさんな扱いによって、二次的な苦痛を負わされるのは今日でもよくあることです。
その後、三人の友人は、ヨブに対して、実りのない問答を長々と続けます。ヨブは「あなたたちは皆、偽りの薬を塗る/役に立たない医者だ」「あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」と切り捨てます。(13章4、16章2)
現代においても、実りのないカウンセリングを延々と続けて回復できない人たちが大勢います。
神経科学者スティーヴン・ポージェスは、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中でこの嘆かわしい状況についてこう語っています。
トラウマ・サヴァイヴァーの多くは、治癒を望んでいたにもかかわらず、むしろセラピーの犠牲者であると感じていたのです。
かつて臨床家たちは、トラウマ・サヴァイヴァーの経験を理解することができませんでした。
さらに、従来の臨床的説明では、サヴァイヴァーたちは「癒しに向かっている」と感じることがほとんどできなかったのです。(p205)
GO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネスに書かれているように、今日主流とされている対話を中心としたカウンセリングは、実りのない「むだ話」になりかねません。
精神科医のベッセル・ヴァンダーコークは、トラウマの権威として高く評価されている。
…長年にわたって精神科医として患者を診てきたが、トラウマについて学んだことから心理療法をやめたと公言する。
彼に言わせればトークセラピーなど「むだ話」にすぎない。(p248)
三人の友人たちは、現代の無思慮な精神分析医のように、ヨブの直面している状況をあれこれと解釈・意味付けしては、もっともらしいトラウマの原因をこねくりだそうとしましたが、ヨブは彼らの的外れな説明を腹立たしげに退け続けます。
ヨブは畏怖の念を抱いて回復する
やがて、三人の友人とは別の、エリフという友人が現れ、よりパランスの取れたアドバイスをヨブに与えます。
たとえばエリフは、トラウマの原因を探ろうとするのではなく「天を仰ぎ、よく見よ。頭上高く行く雲を眺めよ」とアドバイスします。これは、「今ここ」に注意を向けるマインドフルネスの概念に相通じる考え方でしょう。(35章5)
そして、いよいよこの物語のクライマックスが到来し、神が直接口を開いて、ヨブに語りかけます。
神はいかにしてヨブのトラウマを癒すのでしょうか。ヨブが災厄に打たれたのは天罰ではなく、悪魔の仕業であるという「原因」を明らかにするのでしょうか。じっくり対話してカウンセリングを試みるのでしょうか。
意外にもそのどちらでもなく、神はヨブに自然界の驚くべき現象について考えてみるよう、次から次に質問を浴びせかけます。
オリヴァー・サックスが引用していた、「私が地のもとを基えた時、どこにいたか? だれが度量を定めたか?」という質問は、その文脈の中にあるものです。
神はさらに、ありとあらゆる壮大な大空や宇宙の現象や、さまざまな動物たちを引き合いに出して、ひたすら自然界について語り続けます。
それは NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方の中でエドマンド・バークが畏怖の念に必須のものだと述べていた「はてしない広がり」や「人間にはそう簡単に理解できないもの」ばかりでした。
心から畏怖の念を覚えるには、「はてしない広がり」が必須で、なおかつ、人間にはそう簡単に理解できないものでなければならないと、バークは考えた。(p261)
最後にヨブは、畏怖の念に打たれ、「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました」と述べ、態度を改めます。(42章3)
それから、神はヨブの病気を奇跡的な癒し、彼の財産を回復させたばかりか、かつてよりも豊かな家庭を持てるようにしました。こうしてヨブの物語はハッピーエンドで幕を下ろします。
原因を探るカウンセリングでは治らない
しかしながら、普通に読んでいると、この物語の展開は、非常に不可解で腑に落ちないものに感じられます。
なぜ最後に登場した神は、一見ヨブの境遇とは何の関係もなさそうな自然界の驚異をひたすら並べたのでしょうか。
現代の作家がこの物語を書くとしたら、クライマックスでは、ヨブのトラウマの原因を作った悪魔が処罰され、ヨブは自分の苦しみの原因を知り、名誉が回復される、といったわかりやすい結末に整えるのではないでしょうか。
しかし実際のヨブ記の物語は、突然話がすり替わり、本来の原因そっちのけでストーリーが展開し、ヨブが回復してしまうように思えます。いかにも不自然です。
とはいえ、ヨブ記が不自然に感じられるのは、あくまで文学的に見た場合です。本文で考えたような、トラウマの生物学的な観点からみれば、この展開はそれほど意外なことでないように思えます。
まず、ヴァン・デア・コークが指摘していたように、トラウマ症状は、カウンセリングのようなトークセラピーを通して、「原因」を知ったところで何も解決しません。
多くの人は、トラウマを心理的な問題だと考えています。確かに心理的な問題であれば、原因を知ってすっきりすれば解決しそうです。
しかし、身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、本物のトラウマ症状は、「原因」を理解したところで何ら変わりません。
セラピストは、話すことにはトラウマを解決する力があると考え、その力に絶対的な信頼を置いている。…残念ながら、事はそれほど単純ではない。(p379)
私たちの研究における最も重要な発見は、次の事実かもしれない。
1893年のブロイアーとフロイトの主張とは裏腹に、トラウマを、それと結びついた感情のいっさいとともに思い出しても、必ずしもトラウマは解消しないのだ。
私たちの研究は、言語が行動の代わりになりうるという考え方を支持しなかった。(p321)
近年のトラウマ医学の発見からすれば、トラウマの「原因」をあれこれと探り、何が起こったのかを理解しようとする従来のカウンセリングは「むだ話」です。
物語の中のヨブは、三人の友人がトラウマの原因をあれこれと解釈しようとしたとき、「役に立たない医者だ」と述べました。もし神が、ヨブの災厄の本当の原因を明らかにしたところで、ヨブは回復しなかったでしょう。
のちに、もっとバランスの取れたアドバイスを与えるエリフがヨブに語りかけましたが、やはり言葉のやりとりではヨブは回復しませんでした。
ここにおいて、古代の知恵の物語であるヨブ記と、現代の最新のトラウマ医学とは、意見の一致を見ています。対話によってトラウマ症状が回復することはないのです。
シャットダウンから回復させる畏怖の念
話すことでトラウマ症状が回復しないのは、トラウマが心理的な問題ではないからです。
本文で考えたようにスティーヴン・ポージェスは ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で、トラウマ症状とは、原始的な迷走神経による、凍りつき/擬死(シャットダウン)という生物学的現象であることを明らかにしています。
トラウマ・サヴァイヴァーの症状が現在の診断的・理論的な見方に合致しないことがきっかけとなり、「ポリヴェーガル理論」の概念がトラウマへの生物行動学的な反応の理解に貢献しました。
この理論の展開にあたって、私は、哺乳類が生命の危機に瀕したときに用いる、もう一つの基本的な防衛システムについて論じています。
これが、シャットダウンと不動化です。動かないことによって、哺乳類は捕食動物に発見されないで生き延びる可能性があります。
…私がこの理論について説明すると、トラウマ治療を行っている人たちが、ポリヴェーガル理論で述べられている不動化の防衛に大きな関心を寄せました。
…トラウマに関与している人々は、ポリヴェーガル理論を理解することによって、トラウマ・サヴァイヴァーたちが示している症状を理解することができたのです。(p204)
物語のなかのヨブも、このようなシャットダウン状態に陥っていたに違いありません。
左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)によると、オリヴァー・サックスは「左足が行方しれずになっていたとき…神から見捨てられたのだと」感じました。ヨブもまたそのような孤独に襲われたようです。(p232)
神から、また世界から切り離されて見捨てられているような感覚は、単に精神的なもの、心理的なものではなく、生物学的なシャットダウンによって生じるものです。
本文で説明したようにダマシオの理論によれば、わたしたちの心の感情は、肉体の情動から生み出されているからです。
特に、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」に書かれているように、トラウマを負ってシャットダウンした人は、社会交流システムをつかさどる腹側迷走神経が抑制されるので、「安全である」という感覚を抱けなくなってしまいます。
恐怖を感じて不動状態に入っているときには、太古の神経回路を使っている、ということがとても重要な点です。
…そのために、恐怖によって不動状態になっている場合、そこから抜け出し、「安全である」と感じ、のびのびと社会的交流ができる状態へ戻ることが難しくなってしまったと考えられます。
「安全である」と感じ、社会交流システムをオンにすることがてきない状態が続くと、人は、「なぜ社会交流を望まないのか」、「なぜ他人を信頼しないのか」について、複雑な理由をつけるようになります。(p103)
ヨブの三人の友人は、ヨブの現状に対して、さまざまな「複雑な理由」をつけましたが、それは心の問題ではなく、生物学的なシャットダウンによって引き起こされていたものでした。
このシャットダウン反応は恐ろしい危機に直面した人には必ず起こります。男性であるか女性であるか、現代人であるか古代の人であるか、どこの国の人であるかなどはまったく関係ありません。
これは、わたしたち人間を含む動物にあまねく備わる生物学的システムです。それゆえに、オリヴァー・サックスも、大怪我を負ったとき凍りつき/擬死状態になり、さまざまな解離や、左足の感覚麻痺を起こしました。
ヨブのような、ありとあらゆる種類のトラウマに一挙に襲われた人は、神経系が到底 耐えられないので、生物学的なブレーカーが落ちて、シャットダウン状態に陥ってしまうのが普通です。
シャットダウン状態では、社会交流システムが活動停止しているので、他の人と円滑にコミュニケーションすることはできません。そのため、トークセラピーでは安心感を感じられません。
他方、本文で詳しく考えたように、自然界の中で感じる畏怖の念についての研究では、内臓を揺さぶるような畏怖の念は、迷走神経に働きかけて、死んでいるような感覚をよみがえらせることがわかっています。
衝撃的なトラウマは、内臓を凍りつかせ、死んだような状態にならせますが、自然界の驚異に圧倒され、我を忘れるような体験をすると、腹の底から揺り動かされ、生気がよみがえります。
すでに身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアから引用したように、「からだの震えやおののきは、神経系をリセットし、精神を全体性へと回復させ」、「私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すためのメカニズム」として働いてくれるのです。(p19,21)
物語によれば、神はヨブに、「はてしない広がり」や「人間にはそう簡単に理解できないもの」を次から次に見せました。その結果、ヨブはあたかも神そのものを見たかのような畏怖の念に襲われました。
ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でヨブ記を引用して、こう書いています。
体現化の本質は、本能を拒絶することにではなく、本能を十全に味わい、それと同時に、根源的な生のエネルギーを利用して、徐々に微妙な質的体験を促進していくことにある。
「ヨブ記」には「私は、私の肉から神を見るのだから」とある。(p336)
自然界の驚異を体験したヨブは、単に頭の中で、また心の中で神をイメージするようにではなく、あたかも内臓を含めた肉体すべてで神を目撃し、そのエネルギーを実感するかのように、衝撃に圧倒されました。
これが畏怖の念の感覚であり、生物学的に言えば、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように「脊髄のてっぺんから始まり、顔面筋、心臓、肺、消化器などに触手のように伸びている」迷走神経が揺さぶられるということなのです。(p165)
このような体験には、生物学的な問題としてのトラウマから人を回復させる力があります。
冒頭で身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアから引用したように、たとえセラピールーム内で行なわれるトラウマ治療であっても、ただカウンセリングの会話をするだけでは回復はもたらされません。
実際に身体の動きや感覚を用いるボディーワーク的な手法によって、「自発的にブルブル震え、おののき、呼吸をする」ような生物学的反応が必要です。(p10) (オリヴァー・サックスの左足のリハビリはまさにそのようなたぐいのものでした)
本文で書いたように、現代のトラウマセラピーが確立されるよりもはるか昔から、人類は伝統的なシャーマン医療などの中で、こうした「身震い」を誘発してトラウマを治療してきました。
さらに古くは、おそらく大自然の神秘を全身で感じ、畏敬の念に「身震い」することによって、捕食動物に襲われたあとの死んだような凍りつき/擬死状態から復旧していたのでしょう。
トラウマはいつの時代にも存在しました。現代医学が登場する前は伝統的なシャーマン儀式が、シャーマン儀式さえないころは自然界が、トラウマを癒すためのセラピストとしての役割を果たしていたのでしょう。
たとえばNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方には、フィンランドの森の中で経験すると伝わる「メトサンペイット」という現象について書かれています。
突然、自分がどこにいるのかわからなくなり、方角の感覚も失う。見慣れたものはどこにもない。ある種の激しい陶酔状態におちいり、幻覚が見え、超常現象を体験する。
…ヴァルティオサーリ島に暮らすジャーナリストで活動家のマルコ・レッパネンは…「メトサンペイットが悪いものとはかぎらない」と、彼は説明する。
…「メトサンペイットは、美に埋没することでもある。自由という感覚、自然との一体感、歓喜を味わうという意味もあるだろうね。…」
ということは、メトサンペイットは森林浴の一種といえるのかもしれない。…窓から少しばかり外の景色を見て、自然の恩恵にあずかろうなどという考え方とは対極にあるといえる。森の力に降伏し、完全に身をゆだねるのだから。(p179)
大自然の中にいると、不意に自然の美しさや神秘に圧倒され、我を失うことがあります。人間ははるか昔から、このような体験を通して、迷走神経の凍りつきをリセットし、トラウマを乗り越えてきたのかもしれません。
そうであれば、ヨブ記の物語は、的外れで不可解どころか、現代の生物学的な理解とも相容れる、現実味のあるストーリーだとみなすことができます。
むしろ、もしヨブほど強烈なトラウマを経験した人が、友人や神との対話だけで回復した、という物語であったなら、現代のトラウマ医学からすれば明らかなフィクション(作り話)に思えてしまうでしょう。
作家たちが考えつくような安易な展開ではなく、生物学的な理解にそって考えたときに初めて整合性がとれるような物語だからこそ、この物語は、おそらく現実に起こった古代のトラウマ体験およびそこからの回復経験をもとに書かれたのであろう、と推測できます。
先に述べたようにメデューサの物語であれ、オシリスの神話であれ、古代の物語はいずれも、まだ科学的な概念すらなかった時代の人たちが、その時代の語彙や概念を用いて、自分たちの人生経験を自由に表現したものだからです。
「命に対する子どものような畏敬の念」
このように、オリヴァー・サックスが大怪我で麻痺した左足が回復したときの記録、また彼がそのとき引用したヨブ記の記録は、ともに重大なトラウマのときに生じる凍りつき/擬死からの回復過程を表現しているように思えます。
トラウマとは、心の傷や心理的な問題ではなく、限界を超えた痛みや恐怖にさらされたときに起こる生物学的なシャットダウン(仮死状態)であり、凍りついた迷走神経を揺さぶるような経験をしてはじめて、息を吹き返すことができます。
ラヴィーンが書いているように、「トラウマから回復するときに自発的にブルブル震え、おののき、呼吸をする」ことにより、「神経系をリセットし」「平衡状態を取り戻」します。
このとき主観的には、サックスが記したように「激しくゆれ動く測定値が平均へと集中し」、「ひとつの世界の創生にいあわせるような」「恐怖とともに畏敬の念を感じ」ます。
このような反応は、トークセラピーでトラウマの原因を分析するだけではもたらされませんが、身体や感覚を使うボディーワークのようなセラピーや、ヨブ記が示唆しているような自然界の「はてしない広がり」「人間にはそう簡単に理解できないもの」を経験したときに起こりえます。
サックスが述べていたように、トラウマを経験すると、「自分は人間で動物とは違う、動物より優位にたった存在なのだという思いあがりはきえさ」ってしまい、自分がいかに無力で小さな存在か、実感するかもしれません。
しかしラヴィーンが心と身体をつなぐトラウマ・セラピーで書いているように、トラウマを治療する過程では、そのような動物の生物学的仕組みに秘められた英知に感動し、畏敬の念を覚えます。
彼らは自分が動物であるという体験に共感しやすくなると同時に、自分がさらに人間らしくなったと感じます。
トラウマが変容するとき、癒しが与えてくれる贈り物のひとつは、命に対する子どものような畏敬の念です。(p246)
セラピーや大自然を通して、凍りついていた迷走神経が揺さぶられ、死んでいた身体がよみがえるとき、トラウマは変容していきます。
そのとき、わたしたちははるか昔から、動物たちや古代の人たちがトラウマを乗り越えてきたと同じ生物学的な仕組みにアクセスし、さながら神に癒やされたヨブのように、失われていた生命力が回復されていくさまを感じるのです。