自然セラピーがADHDの症状を緩和させることが真実だとすると、その逆も言えるかもしれない。
つまり、ADHDは自然との接触を欠くことで悪化させられた一連の症状なのではないだろうか。
薬物療法の恩恵を受けている子供たちはたしかに少なくないかもしれないが、本当の障害は、子供たちの中にあるというよりは、むしろ人工的な環境で暮らすことを余儀なくされていることにある。(p120)
ジャーナリストのリチャード・ルーブは、ベストセラーあなたの子どもには自然が足りないの中で、このように書いて「自然欠乏障害」(自然欠損障害:Nature-Deficit Disorder)という概念を提唱しました。
ADHDのみならず、現代の子どもたちが抱えるさまざまな問題は、自然界から切り離されたことで増えているのではないか、という環境心理学の研究に基づくものです。
リチャード・ルーブは、まずこの概念について、医学的また科学的な専門用語ではないこと、そしてADHDの原因は自然不足だけでもないことをことわっています。
繰り返すが、私は自然欠損障害という言葉を科学用語あるいは臨床用語として使っているわけではない。
もちろんアカデミックな研究者たちは、今のところはまだこんな言葉を使っていないし、ADHDの原因を自然不足だけとは考えていない。(p110)
今日では、「自然」「天然」「ナチュラル」などといった言葉で、あたかも身体によいかのように錯覚させるマーケティング手法や、環境保護団体の過激な主張や活動のせいで、「自然は身体にいい」という主張にうさんくささを感じる人たちも少なくありません。
とはいえ、自然欠乏がADHD症状に関与しているという観点は、複数の分野の研究に支持されているので、はなから退けられるものでもありません。
しかし、これまでに蓄積された科学的な証拠からも、私は自然欠損障害という概念―あるいは仮説―が、多くの子供の注意力不足を高じさせている原因のひとつを表す素人用語として、適切かつ有効であると思うのだ。(p110)
「自然欠乏障害」は、入り組んだ複数の要因を大雑把にひとくくりにしている大枠な概念ですが、コンセプトとしては間違っていないように感じます。
現代人の多くは生まれたときから都市で生活しているせいで自然を過小評価しがちですが、そもそもヒトという動物が都会に生息しはじめたのは最近であることを考えれば、自然環境が失われたことで何かしら影響が現れるという主張は、生物学的にみて説得力があります。
海外の注意回復理論に基づく研究や、国内の疲労研究、さらに、近年めざましく進展している微生物学の研究などは、自然界からの切り離しによって、現代人特有のさまざまな問題が引き起こされていることをはっきり示唆しています。
この記事では、自然との触れ合いの不足が、わたしたちにどのような影響を及ぼしているか、3つの観点から考えてみたいと思います。
これはどんな本?
この記事では、おもに以下の三冊を参考にしました。
あなたの子どもには自然が足りないは、ジャーナリストのリチャード・ルーブによる本で、原題はLast Child in the Woods: Saving Our Children from Nature-Deficit Disorder (森の中の最後の子ども:子どもたちを自然欠乏障害から救う)です。
英語圏ではベストセラーとしてよく知られた本らしく(米Amazonでは1579件ものレビューがつけられている)、最近読んでいた複数の本で、立て続けに紹介されていたので、一度は読んでみるべきだと感じ、手にとってみました。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方はジャーナリストのフローレンス・ウィリアムズが、ルーブの本の影響を受けてまとめた、自然がもたらす脳や身体への影響を調べた研究成果についての本です。
この二冊では、自然欠乏がADHD症状を悪化させうること、逆に自然豊かな環境はADHD症状を和らげることを示す研究が多数載せられています。
最後に、あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめたは、進化生物学者アランナ・コリンによる微生物学(マイクロバイオーム研究)についての本で、近年急増する発達障害や自己免疫疾患、アレルギーなどが、微生物の生態系の破壊によって引き起こされたことを論証しています。
はじめに : ADHDは「自然欠乏障害」なのだろうか?
ADHDとはいったい何なのか。これまでさまざまな原因が提唱されてきました。
日本では、製薬会社のマーケティングのため、ADHDは遺伝的な障害であり、薬物療法が必要だという見方が広まっていますが、遺伝的要素だけが原因でないことは確かです。
確かに、過去の歴史をひもとくと、どの時代にも、発達障害傾向をもった人たちが存在していたようです。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に示されているように、これらは脈々と遺伝的に受け継がれてきた特性であり、現代になっていきなり現れたものではありません。
人間には本来、環境になにか変化が生じると、ついそちらに注意を向け、気を散らすという性質がある。そうしなければ捕食者に襲われ、生き延びていけないからだ。
…デヴィッド・ストレイヤーとモアブに集合した神経科学者の一団が立証してきたように、注意を向ける対象をすばやく切り替えられるのは、人類のもっともすぐれた能力のひとつだ。(p300)
しかし、これまで人類の何千年もの歴史において、そうした傾向は「障害」や「病気」とみなされていませんでした。
近年になるまでそのような遺伝的特性をもった人たちは、現代の発達障害の当事者ほどには生きづらさを抱えていなかったので、発達障害という概念が必要とされなかったのでしょう。
わたしたちの祖先はたいてい新奇なものを求めていたし、ある程度までなら冒険したいと臨む脳をもっていた。こうした脳は人類の発展の役に立った。
…そのため血湧き肉踊る冒険が大好きという人もいれば、これまでとは違う未知の場所に引っ越すのが楽しいという人もいる。そんなふうに刺激を求める人はたえず変化する環境で繁栄し、新たな情報にすばやく反応する。(p300)
しかし今日においては、本人の生まれ持った遺伝的特性だけでなく、何か別の環境要因が上乗せされたがために、かつてはなかった生きづらさが生み出されました。
その結果、発達障害という概念が社会に必要とされるようになっただけでなく、これほど注目を集めるようになった、と考えることができます。
落ち着きのなさはかつて、環境への「適応性にすぐれている」という特長ととらえられていたが、いまは障害と見なされるようになった。
最近のADHDの治療薬の広告には、留意が必要な「症状」のリストが挙げられている。
「高いところに登りたがる、たえず走り回る、じっと座っていられない」(p300)
では、過去何千年もの人類の歴史において単なる遺伝的特性にすぎなかったものを生きづらい「障害」にまでならせてしまった、その環境要因とは何なのか。
ADHD症状を悪化させる環境要因はいろいろ知られていますが、以前の記事で書いたように、学校教育の普及が一役買っていたのは間違いないでしょう。
ADHD傾向をもった やんちゃな子どもは昔からいましたが、義務教育のない時代には、問題になりませんでした。
しかし、好奇心旺盛な子どもたちを、教室の中で、集団で座らせたまま教育するという制度が浸透してしまったがために、その環境に不適応を起こした子どもたちが、ADHDと診断され、集中力を上げるためにリタリンなどの中枢神経刺激薬を投与されるようになりました。
学校教育の義務化と、それに適応できない子どもを持つ親や教育関係者の悩み、そして医師や製薬会社の利潤、それぞれのニーズが一致した時点ではじめて、ADHDという疾患概念がつくり出されたことを、歴史は物語っています。
学校教育という新奇な環境がADHD症状を生み出したことを物語る実例は、ベストセラー羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季の著者ジェイムズ・リーバンクスの生き生きとした経験談にも見ることができます。
リーバンクスは、イギリス湖水地方の伝統的な羊飼いの家庭で育った子どもたちが学校という環境に馴染めず、ADHDのような問題行動をとってしまうことに触れています。
かくして、ほぼやる気ゼロの教師たちと、恐ろしいほど血気盛んで退屈した子供たちとのあいだで、ゲリラ戦にも似た戦いが勃発することになる。
たとえば教室でもっとも高そうな備品を壊し、事故として押し通すというゲームをクラス全員で繰り返したこともあった。私はそういったゲームが得意だった。(p10)
…ある日のこと、呆れ顔がトレードマークの校長と口論になり、私は「この学校はまるで刑務所で、人権侵害だと思います」と訴えた。
校長は不思議そうにこちらに視線を向け、難解な疑問を放つかのように言った。「では、代わりに家で何をするというんだ?」
「農場で働きます」と私は答えた。こんな簡単なことをなぜ理解できないのか、こちらも不思議でたまらなかった。(p11)
農場で働く父親や母親たちは勤勉で聡明な人々であり、やりがいのある立派な仕事に誇りをもって取り組んでいる―そんな考えは、教師の頭のなかにはまったくないようだった。
「教育」「向上心」「冒険」「仕事での顕著な業績」を成功の尺度ととらえる女性にとって、羊飼いになることは失敗例でしかなかった。(p12)
農家の子どもたちはもともと問題児だったわけではありませんでした。農場や草原では、聡明な親たちの教えをしっかり吸収できました。
しかし狭い教室に座らされる学校の授業はまったく肌に会わず、ストレスのせいで問題行動を繰り返してしまいました。こうした子供たちは、今ならADHDと診断され、薬物療法でおとなしくさせられることでしょう。
今日、都会の学校で不適応を起こし、ADHDだと診断されるような子どもたちにも、同じことが言えます。
そのような子どもは、もともと集中力がなく、勉強が苦手なのでしょうか。おそらくそうではないはずです。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方には、ノースカロライナ州バルサムのSOARサマーキャンプの様子について書かれていました。
ADHD Summer Camps | ADHD Boarding School
SOARは、ADHDやLDの子どもが、できるだけ屋外の実地教育を通して学べるよう計画された活動です。
自然のなかの青空教室で実地教育された場合、そのような子どもは他の子以上の集中力を発揮して、かえって成績優秀になるかもしれません。
とはいえ生徒たちは、その昔は戦場だった場所に実際に立っているときのほうが歴史に関心をもつし、オルドビス紀の地層ので野営をしているときのほうが地質学の授業を熱心に聴く。(p303)
ヒンショーによれば、ADHDの子どもは従来の学校の授業では退屈し、うまく順応できないと感じる場合が多く、さらに規則が厳しい環境のせいで症状が悪化するという。(p305)
ということは、ADHDの子どもが集中できない問題は「勉強」そのものではないことになります。勉強が苦手なのではなく、自然から隔絶された教室のような人工的な環境が肌に合わないのではないでしょうか。
学校の教室の中ではなく、自然の中で勉強するというのは、特別の配慮が必要なぜいたくなやり方だと感じる教育関係者もいるかもしれませんが、それはあまりにナンセンスです。
そもそも、机と椅子に着いて教室の中で学ぶ生き物がヒト以外にいるでしょうか。本来、あらゆる動物にとっては、身体を動かして実体験から学ぶのが普通です。卓上で学んだ知識など、生きる上では何の訳にも立たないからです。
ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたかで紹介されている次の皮肉っぽい言葉は、要点を的確についています。
「わぉ、人類は混み合った部屋で小さな机に坐って、無気力な教師の話を聞いたり、つまらない課題をこなすために、一日のうち八時間も費やすように設計されてはいないみたいだ。(p283)
教室で学ぶという方式は、生物史においては、ほんの最近になってヒトがつくり出した異質で奇異な学習環境です。ヒトもまた動物の一種であることを思えば、そんな奇妙な新しい方法に馴染めない個体がいても、まったく意外ではないはずです。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、そうした異質な教育方法が一般化したがために、ADHDという概念が必要となりました。
過激なスポーツを楽しむ選手のように、さまざまな未知のものがうずまく世界で刺激を受けていると元気が出るタイプの子どもは、学校で一日中座って過ごしていると生気を失ってしまう。
ところが産業化の時代を迎えると、子どもはおしなべて教室で勉強すべきだという標準化教育を、教育界が重視するようになった。
「ADHDはいまから150年前、義務教育が始まると同時に生まれたのです」とカリフォルニア州バークレー校の心理学者スティーヴン・ヒンショーは言う。
「この意味では、ADHDは社会の変化によって生み出された概念といえるでしょう」(p305)
学校の環境がADHDを引き起こすというと、かつては、身体を動かすのが好きなタイプの子どもはじっと座らされているとイライラする、といった心理的な理由から説明されてきました。
しかし、近年、自律神経機能や注意力を測定できるようになってきたことで、もっと生物学的な理由がからんでいるのではないか、と考えられるようになってきました。
ADHDの薬リタリンは、化学的に脳の働きを変化させ、集中力を高めるように作用しますが、自然豊かな環境はそれと同様の化学的な影響を脳に与え、より穏やかな仕方で、副作用なく集中力を高めるようです。
あなたの子どもには自然が足りないによると、リチャード・ルーブが、「自然欠乏障害」という概念を思いついたのは、まさにそうした研究がきっかけでした。
一方、明るいニュースもある。自然を適切に利用すれば、注意欠陥・多動性障害(ADHD)のセラピーとして有効に働き、薬物療法や行動セラピーの代わりにすらなるかもしれないことが研究によって示されたのだ。
親や教育者に対し、ADHDの子供たちにもっと自然―特に緑―を体験させ、それによって注意力のはたらきを促進し症状をできるだけ軽減させることをすすめる研究者もいる。
この研究のことを知った私は、「自然欠損障害」という、どちらかと言えば広い意味をもった用語によって、現代の子供たちが抱える問題―彼らがADHDを患っているか否かにかかわらず―を言い表してみたいと思った。(p110)
リチャード・ルーブをはじめ、「自然欠乏障害」というコンセプトに興味をもつ専門家たちは、自然の影響を単なる心理的なものとは考えていません。ストレスを感じるとき、きれいな景色を見れば心が落ち着くといった程度のものではありません。
そうではなく、自然環境のさまざまな刺激は、人類を含め、動物にとってはなくてはならない生物学的な因子であり、それらなくしては身体の自律神経系や免疫系などが正常に機能しなくなってしまうと考えています。
「私たちの脳は、5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできているのですよ」と、家族向けセラピストであり、ベストセラーとなった『よい息子』と『少年の不思議』の著者であるマイケル・グリアンは言う。
「神経学的には、人類は今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれていません。ただし脳は強くて融通が利くため、70から80パーセントの子供はかなりうまく順応しています。
でも、残りの子供たちにはそれができません。彼らを自然の中へ連れ出すと、状況を変えることができます。
ただ、私たちはそのことを事例として知ってはいますが、証明できるまでには至っていません」。(p113)
人類の脳ははるか昔から自然と結びついて発達してきたので、一部の子供たちは現代の急激な人工的環境への変化に適応できていない、というこの説明は、もっと長い生物史全体の観点から考えたとき、より説得力を増します。
生物学者アランナ・コリンがあなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめたに書いているように、もし両腕を広げた長さを生物史全体に例えるとしたら、人類の歴史はほんの爪の先ほどにすぎません。
生物の授業で地球史の概観を教えるとき、両腕を広げて説明してくれる先生がいる。
右手の中指の先端が四六億年前の地球誕生。左手の先端が現在。地球の岩石が冷え固まって、細菌という形の生き物が誕生するのは右のひじ。
それから30億年ほどかけて、単純な動物が生まれるのは左の手首、体毛をもつ哺乳類が登場するのは左の中指の付け根。
ヒトが現れるのは中指の爪の先の先だ。やすりで中指の爪を一回こすっただけで、ヒトの歴史はあとかたなく消えてしまう。(p138)
地球上の生き物は、両腕の長さのほとんどすべての期間、雄大な自然界に囲まれた環境で生育し、発達してきました。その膨大な年月にわたって、生物は、自然のさまざまな要素を、身体の正常な機能に不可欠なものとして取り込んできたはずです。
しかし、ほんのここ数十年、つまり生物史全体でいえば、中指の爪の先の薄い層ほどの期間に、人類はかつての祖先たちとはまったく異なる環境、かつて共生してきた自然がほとんど存在しない環境に引っ越しました。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、ホモ・サピエンスはいま大移動の真っ最中にあります。
なにしろホモサピエンス全体で見れば、人類が正式に都会に生息する種になったりは、2008年のことだ。
この年、世界保健機関(WHO)が、都会に住む人の数が田舎に住む人の数を初めて上回ったと報告した。…現代は人類史上最大の集団移動のさなかにあるといえる。(p14)
このような生物史の流れに真っ向から反する大規模な環境の変化に、わたしたちヒトが、たかだか一世代や二世代ほどで適応できるはずはありません。さまざまな生物学的な不具合があちこちで起こっても不思議ではありません。
学校のような最近いきなり現れた異質な学習環境が、ある子どもたちにはADHD症状を引き起こしてしまうのも、心理的な影響ではなく、れっきとした脳や身体の生理学的な変化によるものでしょう。
リチャード・ルーブが述べているように、ようやく、さまざまな角度からの科学的な研究が始まりつつあるところです。
心理学者や神経科学者たちがこうした好みについて真剣に研究するようになったのはごく最近のことだ。
「自然界が脳に及ぼす影響に大きさに関する研究は、恥ずかしながらまだ始まったばかりでね」と2008年のベストセラー『あなたの子どもには自然が足りない』の著者、リチャード・ルーブはわたしに語った。
「30年、いや50年前から研究されていてしかるべき問題なんだが」
ではなぜいまになって研究されるようになったのだろう。おそらくそれは、いまだかつてないスピードでわたしたちが自然とのつながりを失いつつあるからだ。
人口増加とテクノロジーの進歩の相乗効果により、これまでのどんな世代より、わたしたちは自然から遠く離れた場所で暮らしている。(p14)
この記事では、「自然欠乏障害」をめぐるさまざまな研究を、3つの視点から考えたいと思います。
(1)いま自然が足りない―脳や自律神経への影響
(2)幼い頃に自然が足りない―愛着への影響
(3)数世代にわたって自然が足りない―マイクロバイオームへの影響
という三つの観点です。
(1)いま自然が足りない―脳や自律神経への影響
まず最初は、「いま」、つまりリアルタイムで自然が足りていないことによる、脳や自律神経系への影響について考えてみましょう。
現代のわたしたちのほとんどは、自然がほとんどない都市に住んでいます。それはあたかも偏った食生活のため、野菜が不足しているようなものです。
食事から野菜が不足していると健康に悪影響が及ぶように、わたしたちのライフスタイルから自然が不足していると、本当に問題が生じるのでしょうか。
運動ではなく、自然が必要
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、グラスゴー大学の疫学者リチャード・ミッチェルは、はじめのころ、自然が健康によいという研究に懐疑的でした。
ミッチェルは、自然の回復効果に関してヨーロッパで発表された初期の論文を読みあさった。
すると2000年初頭に発表された論文のなかには、身近に緑があると長寿、慢性疾患の減少、新生児の体重増加など、あらゆるものにつながるなどという内容のものがあることがわかった。
曲解もはなはだしいと、ミッチェルは考えた。身近に自然があるところで暮らしている人は、すでに健康で、すでに身体を動かす習慣があり、どちらかといえば裕福であるかもしれない。
それなのに、自然のおかげで健康であると結論づけるのはあまりにも短絡的すぎる、と。(p204)
ミッチェルの考え方には一理あります。よく指摘されるように、わたしたちは、相関関係を因果関係と勘違いしがちです。自然の多いところに住む人たちの健康が優れているとしても、それは自然のおかげだとは限りません。
ミッチェルが他の要因として見当をつけたのは「運動」でした。「自然や木立の効果より、運動の効果のほうが歴然としている」し、「運動の効果を裏づける神経科学のエビデンスは山ほどある」からです。(p204)
ADHDの子どもが、学校の教室では注意散漫になるのに、屋外では集中力が増す理由も、たびたび運動の効果と関連づけられてきました。
そうした子どもたちは椅子にじっと座っていられないタイプの子たちだと考えられたからこそ、「多動症」と名づけられたのです。
では、自然の健康促進効果とは、結局のところ、自然豊かな環境の中で運動することによるものなのでしょうか。もしそうなら、たとえ自然などなくても、教室の中の運動器具やジムで運動すればかまわない、ということになります。
たとえば、ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたかによると、「カナダのニュー・ブランズウィックとサスカチェワン地方の学校では、子どもの集中力をつけるために踏み車や他の運動器具を教室で用いている」そうです。
先ほどのミッチェルもはじめはそのように考えていました。しかし、疫学者としてエビデンスに基づく思考を心がけている彼は、やがてそれでは説明がつかない研究結果があることを知ります。
こうしたミッチェルの考え方が徐々に変わってきたのは、森林を歩いた人にはストレスの減少が見られ、都会を歩いた人には見られなかったとする日本の論文を読んだからだ。
さらに、公園や緑のある場所の近くに住んでいる人は、とくに運動をしなくても健康だという報告もあった。(p205)
確かに運動は効果があります。しかし、ミッチェルが当初、自然の中での健康促進効果の理由を自然だけに帰すのが「あまりにも短絡的すぎる」と考えたと同じように、運動だけが理由で健康が改善されると考えるのもやはり短絡的なのです。
ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたかによると、リチャード・ルーブもまた、こうした研究に基づき、単なる運動の不足ではなく、自然から切り離された環境が、自然欠乏障害としてのADHDを生み出しているのではないか、と考えました。
しかしながら、他の人々にとって、運動器具の取り付けは、木を見て森を見ないことなのである。
ジャーナリストのリチャード・ロウブは、子どもは「自然缺如障碍(nature deficit disorder)」に罹っており、その結果、行動や注意の問題が生じていると論じている。
ロウブによると、子どもが広大な野外で遊ばなくなっているのは、親が荒野を恐がり、自然に触れられる場所が知られていなかったり限られているためであり、またそれが屋内で坐ってできる遊びと競合するためである。
環境学者マイケル・ディブレッジは、イギリスの環境保護局の科学顧問の主任を務めているが、情緒的健全さと自然に触れることは関連していると述べる。(p284)
ルーブのあなたの子どもには自然が足りないによると、ADHDの子どもをもつ親もやはり、運動ではなく自然そのものに行動や注意を改善させる効果があるということを、しばしば経験から実感します。
多くの親は、たとえ確たる証拠はなくても、いつもは多動気味の子供が山歩きや何か自然を楽しむ活動をしているときには、その行動に大きな変化があることに気づく。
「息子はまだリタリンの世話になっていますが、屋外ではずっと静かになります。ですから、私たちは山に引っ越すことを真剣に考えているんです」と、ある母親が言った。
彼はただ体をもっと動かすことが必要なのだろうか。
「いいえそれはスポーツでやっています。自然の中にいると、息子を静めてくれる何かがあるような気がするんです」とその母親は言う。(p113)
この母親は、自然の多いところに行ったときに子どものADHD症状が和らぐことを経験から知っていましたが、それが運動の効果だとは思っていませんでした。単なるスポーツでは、同じ効果が再現されないからです。
このことは、イリノイ大学の人間・環境調査研究室の専門家たちによる、ADD(注意欠陥障害)の子どもを対象にした研究によっても裏づけられています。
アンドレア・フェイバー・テイラー、フランシス・クオ、そしてウィリアム・C・サリバンが行なった研究から、緑の野外スペースは子供たちの創造的な遊びを促し、大人と積極的に交流させ、注意欠陥障害の症状を和らげることがわかった。
子供の周囲に緑が多ければ多いほど、ADDの症状は緩和された。
一方、テレビ鑑賞のような屋内での遊びや、屋外でも舗装された場所のように緑のない環境での遊びは、症状を悪化させた。(p116)
この研究では、同じように屋外で身体を動かして遊ぶ場合でも、緑豊かな自然の中で遊ぶほうが、人工的に舗装された場所で遊ぶよりも、ADDの子どもの症状が改善しました。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方にもフランシス・クオらの実験がいくつか載せられていますが、やはり、同じ運動をするにも、どんな環境で運動するかが効果を変化させることがわかっています。
べつの実験では、8歳から11歳のADHDの子ども17人に、ガイドと一緒に3つの異なる場所を10分間歩いてもらった。住宅街、都会の繁華街、公園の三か所だ。
公園を歩いたあとは、数字を逆の順番で記憶するテストの成績がいちじるしくよくなった。
ADHDの子どもとそうでない子どものどちらでも同様の結果が出たし、ADHDの一般的な治療薬を服用している子どもと服用していない子どものどちらでも、やはり同様の結果が出た。(p304)
この場合、自然がある公園の中を散歩した場合に、「数字を逆の順番で記憶するテスト」の成績が著しく良くなりました。
興味深いのは、この「数字を逆の順番で記憶するテスト」は、発達障害の診断の際に参考にされる知能検査(IQテスト)にも数字の逆唱として含まれていることです。
このテストは作動記憶(ワーキングメモリ)の能力を計るために用いられ、ワーキングメモリが弱いことは、ADHDを示唆する理由のひとつになります。
しかし、そのワーキングメモリの能力が、自然の多いところを散歩するか、都会の繁華街や住宅街を散歩するかに左右されるのです。
これは、先ほど出てきた羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季の農家の子どもたちを例に考えればもっとよくわかるでしょう。
著者のリーバンクスや他の農家の子どもたちは、学校では明らかな問題児でした。ワーキングメモリのテストをすればかなり悪い結果が出たでしょう。
しかし実家にいるとき、言いつけをよく記憶し、臨機応変に動物や作物の世話ができました。リーバンクスはのちに名門オックスフォード大学を卒業することさえできました。
この場合、彼らのADHD症状の原因は、彼ら自身が遺伝的に抱える発達障害なのでしょうか。それとも、自然から切り離された都会の人工的な環境のほうでしょうか。
生まれたときから都会にいるせいでわからない
ADHD症状の原因が、本当に当人が抱え持つ何らかの欠陥にあるのか、それとも、自然から切り離された人工的な環境によるものなのかが判別しにくいのは、今日、発達障害と診断される子どもの多くが、生まれたときからずっと都会にいるからです。
たとえば、以前このブログでも取り上げた本、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかの著者ポール・ボガードは、リチャード・ルーブの自然欠乏障害の概念に触れて、次のように書いていました。
ベストセラーLast Child in the Woods:Saving our Children from Nature-Deficit Disorder(Chapel Hill,NC:Algonquin,2005)〔『あなたの子どもには自然が足りない』(春日井晶子訳 早川書房)〕に書かれたリチャード・ルーブの主張は、子供たちの夜や暗闇の経験にそのまま置き換えられる。
アメリカの子供の10人のうち9人が、もはや天の川の見られない地域に住んでいるということは、何度でも警告しておいた方がいいだろう。
「欠損」とは、何かを十分にもっていないことを示す。暗闇に関して人々が子供たちに(そして自分自身に)与えているものがまさにそれで、そのあまりにも少ない経験は、とうてい十分などと言えたものではない。(p376)
現代の子どもたち、いえ大人たちの中にも、漆黒の暗闇や、満天の星空を見たことがある人がどれほどいるでしょうか。
都会で生まれ育つと、大人になってもなお、そうした経験をしたことがない、あるいは旅行で数日くらいしか体験したことがない、ということはよくあるものです。
セトレの幼少時代について聞きながら、僕はリチャード・ルーブの『あなたの子どもには自然が足りない』という本のことを考えていた。
ルーブは、現代アメリカの子供たちが暮らす環境は「自然離れ」しており、その結果もたらされた「自然欠損障害」が、子供の健康にも社会全体にも深刻な影響をおよぼすと主張する。
これと同じことは、子供と暗闇の関係にも言えるだろう。ジョセフ・ブルチャックも「もちろん『暗闇欠損』という問題もあると思うよ」と指摘しているとおりだ。
もしも幼い頃に実際の暗闇に触れる機会がなかったら、暗さを文字どおりにも(たとえば夜の暗さ)、比喩的にも(たとえば人生で直面する暗さ)理解しないまま大人になっても、決しておかしくない。
セトレの言うように、「私たちは知らなくてもいいとは教育されていないにもかかわらず」(p226)
今日、多くの人たちは、あまりに電灯で照らされた24時間社会で生まれ育つので、満天の星空どころか、数個の星を夜空に見つけることさえ稀です。都会の夜空ではただ黒っぽいだけで、月と数個の星しか見えないのが当たり前です。
次のエピソードは極端かもしれませんが、現代のわたしたちが生きるあまりに異質な環境をよく言い表しています。
モロッコでの体験談を伝えると、バーマンはこんな話をしてくれた。
「それを聞いて、ちょっと残念なことを思い出したよ。妻の母が訪ねてきたときのことだ。彼女は光に汚染されたロングアイランドやフロリダで一生を過ごしてきた人ただった。
家で待っていると車が近づいてくる音がする。トランクが閉まる音、スーツケースをガラガラと引く音、続いて義理の母が入ってきた。
彼女が開口一番、妻のマーシーに言ったのがこれさ。『空に浮かんでいるあの白い点々は何なの?』
妻はごく当たり前に答えたよ。『母さん、あれは星というものよ』」(p46)
この例は極端だとしても、ありえない話ではありません。
ずっと都会で育ってきた人は、自分の目で星空を見たことがありません。夜空に幾千もの星があることを知っているのは、自分の目で見たからではなく、たいてい写真やプラネタリウムで見たことがあるからにすぎません。
もし、ずっと都会の星のない夜空の下で生まれ育ち、学校で星について教えられることもなく、写真や絵本やプラネタリウムなどに興味のない人であれば、『空に浮かんでいるあの白い点々は何なの?』という反応をみせても不思議ではありません。
都会において、夜空の星が見えなくなってしまったことは、ただ単に景観が悪くなった、というだけの問題なのでしょうか。都会で育つ子どもたちは、単に美しい星空を見たことがない、という心理的な影響だけしか被らないのでしょうか。
いいえ、そんなはずはありません。夜の闇がなくなり、24時間ずっと明るいせいで、20世紀にはかつてなかった睡眠障害が生まれました。「概日リズム睡眠障害」です。
産業革命以前、夜寝られず、朝起きられないような人はほとんどいませんでした。概日リズム睡眠障害という病気の概念は存在してませんでした。そもそも夜更かしできるような環境もありませんでした。
本来、人間は、自然界にずっと生きてきた動物の一種として、夜の闇なしでは、生体時計がまともに機能しないようになっていました。夜に真っ暗になるか、それともわずかでも明かりがあるか、という環境要素はわたしたちのホルモン分泌を変えます。
たとえば、植物はそこまで知っている (河出文庫)で遺伝学者ダニエル・チャモヴィッツが説明している次のようなエピソードを読めば、夜にちょっとでも光に当たることだけで、生体の反応がどれだけ変わってしまうかが理解しやすくなるでしょう。
第二次世界大戦のころには、夜中に明かりをつけたり消したりするだけで植物の開花時期を操作できることが明らかになった。
ダイズのような短日性の植物に、夜中にライトをほんの数分あてるだけで、日の短い冬期でも花を咲かせられる。
反対に、アイリスのような長日性の植物に対しても、夜中に数秒ライトを浴びせれば、通常なら花を咲かせない真冬に花を咲かせられる。
こうしたライトの点滅実験により、植物は昼の長さではなく、暗さが連続している時間の長さを測っていることが証明された。(p23)
わたしたちはもちろん植物ではありませんが、どちらも同じ地球上に生きる生物としての機能を共有しています。たとえば少なくとも植物と動物はクリプトクロムという青色光受容体を共有しています。
クリプトクロムは植物では屈光性に何の影響も与えないが、植物の体内時計を調節するなど生長に必要な役割をいくつか果たしている。
動物と同じく植物にも体内時計のしくみが備わっていて、昼と夜の周期を調整している。
ヒトの場合、体内時計は私たちの暮らし全般に作用して、いつ空腹を感じるか、いつトイレに行きたくなるか、いつ疲れを感じるか、いつ気力がわくかを決めている。
…クリプトクロムはヒトの概日リズムを光によってリセットするとき中心的な役割を果たす青色光受容体だ。
…植物のクリプトクロムは、動物のクリプトクロムと同様、外部の光信号を体内時計と調和させるのに中心的な役割を果たしている。(p30-31)
わたしたちヒトが、光に対して植物とまったく異なった反応を示すとは思えません。植物が夜中のわずかな光にも反応してしまうのであれば、わたしたちもまたそうです。
現代の都市に生きているわたしたちは、生まれたときから、不自然な光環境に育ちます。夜でも室内や街中が明るいせいで、「暗さが連続している時間の長さ」はすっかり短くなっています。
しかし、ほとんどの人はそれに違和感を覚えません。それ以外の環境を経験したことがないからです。夜になっても室内で電気をつけるのがふつうで、夜空に星が見えないのも当たり前です。そうでないライフスタイルを経験したことがありません。
数世代にわたって自然から隔絶されているため、自分が何を失ったのか気づけないというこの現象は、以前の記事で書いたように、心理学者ピーター・カーンによって「環境性・世代間健忘」と名づけられていました。
すると、本当は自然欠乏障害として、夜の暗さが足りないために睡眠リズムがおかしくなっているのに、夜寝られず朝起きられないのは、自分の生まれつきの体質だと錯覚してしまうことになります。
別の記事で紹介した、日経サイエンス2016年1月号に出てくる非24時間睡眠・覚醒症候群のジョーンズの場合はまさにそうでした。
彼女は毎日寝る時間がどんどんずれていく重い概日リズム睡眠障害に悩まされていました。何をやっても治らないかに思えました。
ところが「私たちの祖先が何百万年もしていたようなアウトドア生活を送ること、つまり毎日めいっぱい日光を浴び、夜は真っ暗闇の中で過ごす」というライフスタイルをためしてみると、彼女の概日リズム睡眠障害は消え去りました。
彼女の概日リズム睡眠障害は確かに「自然欠乏障害」でした。とりわけ、自然界の中の、「暗さが連続している時間の長さ」が失われてしまったこと、『暗闇欠損』によって、まともに生活できないほどのひどい睡眠リズム異常が引き起こされていたのです。
ADHDが「自然欠乏障害」ではないか、というルーブの意見も、これとまったく同じ視点に立っています。
ADHDと診断される子どもたち、その親たち、さらには医師たちさえも、そのほとんどは、都会で生まれ育ち、一度も自然豊かな場所で暮らしたことがなく、生物にとっては異質な都会という環境を当たり前のものとみなしています。
子どものときからずっと注意散漫で衝動的だと、当事者も親も、生まれつきの発達障害だという医師の診断を疑問なく受け入れます。
しかし本当にそれは正しいのでしょうか。生まれてからずっと当たり前だと思ってきた環境―しかしこのわずかこの100年ほどのあいだに突然現れた異質な生活環境―のせいで、四六時中ずっと適応不良を起こしているという可能性はないのでしょうか。
興味深いことに、別の記事で取り上げたように、近年、ADHDと概日リズム睡眠障害の関係の深さを指摘する専門家が増えています。
「ADHDと睡眠障害は表裏一体である」との見解が明らかに | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
確かに、同じ都市部の環境で過ごしていても、概日リズム睡眠障害やADHDと診断される人は一部だけです。すべての人が発症するわけではありません。その意味では、当人たちの側に何らかの脆弱性があるともみなせます。
しかし、労働災害のハインリッヒの法則に示されているところでは、重大な事故が1件起きた場合、それは氷山の一角にすぎず、その裏には、29件の小さな事故、300件の事故手前の事例があると言われています。
自然から切り離された現代社会において、概日リズム睡眠障害やADHDのような具体的な病名で診断される人はいわば炭鉱のカナリアであり、その裏には、診断されるほどではないものの、似たような症状を抱えている予備軍がたくさんいるはずです。
その場合、症状が出ている人を個人の脆弱性による「障害」だとみなすのはひどく奇妙なことです。個人の「障害」を薬物治療するのではなく、「環境」そのものを変えなければ、いずれもっと多くの問題が頭をもたげることになるでしょう。
カプラン夫妻の注意回復理論(ART)
ここまで、わかりやすい例として、「暗闇欠損」について考えましたが、生物が利用してきた自然界のシグナルが暗闇だけでないことは確かです。
生物ははるか昔から、自分たちが生息する地球環境のありとあらゆる要素を自分の身体の機能と結びつけてきました。
たとえば、森のフラクタルな景色や、フィトンチッドの香り、川のせせらぎの音など、身の回りの多種多様な環境要素についての研究はまだ始まったばかりですが、何かしら生体に影響を及ぼしていることはわかってきています。
あなたの子どもには自然が足りないによると、自然が多い環境によって健康が改善する理由を説明するために最初に提唱されたのは、スティーブン・カプランとレイチェル・カプラン夫妻による「注意回復理論」(ART: Attention Restoration Theory)でした。
二人はミシガン大学の環境心理学者であり、哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズから影響を受けた。
ジェームズは1890年に、人には二種類の物事への注意・集中のしかた、すなわち「指向的集中」と「感応的集中」(無意識の注意)があると提唱した人物だ。(p114)
カプラン夫妻によれば、自然の中では、心理学者ウィリアム・ジェームズが提唱した二種類の注意のうち、意識的な注意が減り、無意識の注意が増加します。これによって、注意力が一休み状態になり、疲れが回復すると考えられています。
カプラン夫妻の調査によると、「指向的集中力」を使いすぎると、人は夫妻の言う「指向的集中による疲労」なる状態に陥る。
この「指向的集中による疲労」は、衝動的行動、苛立ち、焦燥感、集中不能といった形で現れるが、いくつもの刺激をブロックすることで神経の抑制組織が疲労するために起きる。
スティーブン・カプランが《心理学モニター》誌に書いているように、「無意識のうちに集中力を発揮するような環境のもとでは、『指向的集中力』をひと休みさせることができる。
それは同時に、環境が人を無意識のうちに感応させる、魅力あるものだということでもある」のだ。
自然が持つ、人を引きつけ感応させる要素は元気回復作用をもっており、人々の「指向的集中による疲労」の緩和に役立つ。(p114)
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によれば、その後の研究から、この指向的集中(意識的な集中)を制御している脳の抑制組織は前頭前野であることがわかりました。
2004年の論文で、クオと同僚のアンドレア・フェーバー・テイラーは、注意回復理論が作用するメカニズムに関する仮説を立てた。
右前頭前野―物事を系統立てて考え、判断をくだし、作業に集中する際に必要な部位―の働きが、ADHDの子どもの場合はあまり活発ではないことがわかっている。
もし、自然に触れることで前頭前野が力を取り戻すのであれば、ADHDの子どもの注意力も上昇すると思われた。(p305)
つまり、自然の中にいると、判断や抑制をつかさどっている脳の前頭前野の機能が回復する、ということになります。
別の研究では、自然に触れると前頭前野にかかっているストレスが減り、オーバーワーク状態が解除され、正常な働きを取り戻す様子が観察されています。
ごく最近まで、脳の内部を観察するのは最新機器がそろった研究室でもむずかしかったが、いまでは複数の研究で、自然のなかにいると前頭前野の酸素化ヘモグロビン(血液中の酸素を運搬するヘモグロビン)濃度が低下し、活動が沈静化することが確認されている。
その前頭前野で減少した血流の行き先については現時点では諸説ある。MRIを利用したある研究によれば、自然の風景写真を見てきた被験者の脳では、快感、共感、のびのびとした思考などと関連する島皮質や前帯状皮質などに血液が流れることがわかっている。
いっぽう同じ被験者に都会の写真を見せると、不安や恐怖心と深く関わる扁桃体に血液が流れ込んだ。(p80)
ADHDの子どもたちの場合、前頭前野の実行機能の働きが弱く、自己抑制が苦手だと言われています。特に、現代社会の過剰な刺激のもとでは、容易にオーバーワークに陥り、処理能力を超えてしまいます。
そのようなとき、治療薬であるリタリン(あるいは同成分の徐放剤コンサータ)は、中枢神経を刺激して前頭前野の機能を強めることで、抑制能力を高めます。
一方、興味深いことに、あなたの子どもには自然が足りないによると、ADHDの当事者やその親は、自然の中にいると、リタリンを飲んでいないにもかかわらず、リタリンと同じ効果が再現されることに気づくことがあります。
森は私に抗鬱剤リタリンのような作用をもたらした。自然は私を鎮め、私に注目してくれただけでなく、私の感覚を刺激してもくれたのである。(p25)
私は、二、三分くらいしかじっとしていることのできない子供だったので、学校が苦痛でした。しかし自然からはいつも、言いようのない静けさと喜びを与えてもらいました。
わたしは座って釣りをしたり、蟹を捕まえたりすることはできました。たとえ何も釣れなくても、本当に何時間も退屈せずに座っていられたのです。(p70)
ある父親は、息子が何時間でもゴルフボールを打ったり、釣りをしていられるようになり、そうしているあいだは「とてもリラックスしていて」ADHDの症状が最小限に抑えられた、と話した。
「あなたがたの研究結果を読んで、私は顔をひっぱたかれたように感じました。そうだよ、自分でもわかっていたことじゃないか、とね」
私がインタビューをしたなかにも、同じ思いを抱いた親は何人もいた。自分の子供のADHDの症状が、自然の中にいることで軽くなったことに気づいて、そうした親たちの常識的判断がよみがえったのである。
彼らはすでに子供たちにおもてでもっと遊ぶように勧めていたのであり、私がイリノイ大学の研究結果を伝えると、自分は間違っていなかったのだ、と思ったわけだ。(p119)
自然の中にいると、リタリンなしでリタリンのような効果が得られるというこうした体験談は、注意回復理論から理由を説明できます。
人類という動物にとって新奇な環境である都会では、さまざまな指向的集中(意識的な注意)が必要とされます。
わたしたちの動物的な本能は、あちこちで自動車が走っている交通道路を往来したり、何時間も会社で座って作業したりするようにはプログラムされていません。
都会ではさまざまな人工的刺激のゆえに、意識的な注意力や判断力をフル活動させねばならず、指向的集中をつかさどっている前頭前野が過剰労働状態にあります。
もともと前頭前野の働きが弱い子は前頭前野がオーバーワークになってしまうので、抑制が利かなくなり、不注意や多動など、自制心が欠けた振る舞いをしてしまうようになり、こうしてADHDと診断されます。
医者はリタリン(コンサータ)など前頭前野の機能を高める薬を処方し、無理やり前頭前野の活動を底上げすることで、指向的集中力を底上げし、過剰な刺激を処理できるよう助けます。
しかし当然ながら、これは脳に負担をかけるので薬の長期使用には副作用が伴います。
他方、自然界の環境は、人類という動物にとっては、何千年もかけて慣れ親しんできた環境です。「自然に囲まれていれば前頭前野に負荷がかかりすぎることなどありえない」とユタ大学の認知神経科学者デヴィッド・ストレイヤーは述べました。(p160)
自然界の中を散策するとき、指向的集中(意識的な注意)はあまり必要なく、感応的集中(無意識の注意)のモードに切り替わります。
この切り替えは、前述の脳画像研究に示されていたように、脳の前頭前野の血流が低下し、代わりに島皮質や前帯状皮質の活動が活発になることによって起こります。
以前の記事で詳しく書いたように、この島皮質や前帯状皮質は、いわゆる「身体で感じる」能力をつかさどる場所であり、ヨーガなどマインドフルネスを活用したボディーワークで活発になることが知られています。
マインドフルネスは、意識して考えることをやめ、ただ「今ここ」のあるがままの状態を感じることで注意力を研ぎ澄ました状態であり、前頭前野の負担を減らし、指向的集中から感応的集中へ切り替えることを意味しています。
自然の中にいくと脳は自動的にこのマインドフルネスに近い状態に切り替わり、前頭前野のオーバーワークが解消されるので、穏やかに集中できるようになります。
リタリンによる薬物療法と、自然の中でのマインドフルネスは、どちらも前頭前野の機能を回復させるという点では同じ働きをしています。だから効果は似ています。
しかし薬物療法は前頭前野を無理やり活性化させてオーバーワークをさばけるようにしている状態なのに対し、自然はオーバーワークの負担を軽減して前頭前野が普段の機能を取り戻せるようにしているという大きな違いがあります。
言ってみれば、薬物療法は「注意力増強」であり、自然は「注意力回復」なのです。どちらがより自然で、負担の少ない方法なのかは、言うまでもありません。
ストレス低減理論(SRT)、そしてポリヴェーガル理論
一方、カプラン夫妻の教え子であるロジャー・ウルリッヒは、別の観点から自然の効果を考える必要があると考え、「ストレス低減理論」(SRT:Stress Reduction Theory)を提唱しました。
カプラン夫妻の理論が、脳の注意ネットワークの認知機能に焦点を当てているのに対し、ウルリッヒのストレス低減理論は、自律神経系の変化に焦点を当てています。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、カプラン夫妻のARTと、ウルリッヒのSRTは、視点の違いはあるものの、互いに補い合う関係にあります。
ウルリッヒは、こうした見解の相違によりカプラン夫妻とはべつの道を進むことになった。
「博士号を取得したあと、考え方と研究手法に違いが見られるようになり、互いを尊敬しつつ、異なる研究に取り組むようになったんだ。
カプラン夫妻の研究は認知機能を軸に展開している。わたしは自然が感情や生理学的なものにどう影響を及ぼし、健康にどんな効能があるかをさぐっている」
ウルリッヒは血圧測定や気分を測定する手法で日本の研究者に影響を与え、いっぽうカプラン夫妻の注意ネットワークに基づいた考え方は、アメリカの研究者に大きな影響を与えている。(p75)
カプラン夫妻の注意回復理論に対し、ウルリッヒのストレス低減理論は、日本の研究者たちに大きな影響を与えました。
たとえば、このブログでは、慢性疲労症候群を取り上げる関係で、日本の疲労研究に注目してきましたが、近年の疲労学会の報告のなかには、自然が自律神経系などの生理機能に及ぼす影響を調査したものがありました。
自然のなかに行くと、単に注意力が回復するだけでなく、リラックスしたり穏やかになったりするものです。そうした変化には、身体の自律神経系の生理的な変化が関係しているはずです。
自然が自律神経系に及ぼす影響を考えるとき大いに参考になるのは、従来の自律神経の理論を刷新する理論として期待が寄せられているイリノイ大学名誉教授スティーブン・ポージェスによる「ポリヴェーガル理論」(多重迷走神経理論)です。
従来の理解では、自律神経系は、交感神経と副交感神経が拮抗関係にあると思われていましたが、ポージェスは、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で書いているように、より複雑な三者関係を解剖学から解き明かしました。
多くの人は、自律神経には2つの要素、つまりは闘争/逃走反応に関連する交感神経系と、「健康」、「成長」および「回復」に関連し、脳神経の一つである迷走神経と関連づけられている副交感神経がある、と教えられています。
こうした自律神経系の定義づけの中で、交感神経と副交感神経の構成概念が拮抗していることが暗示されています。
一組の対立する神経系があるという自律神経系の定義は、時には役立つことがありますが、正確ではありません。(p232)
ポリヴェーガル理論の主要な貢献の一つは、自律神経系には3つの下位システムが、それぞれが階層的に組織され、困難を体験したときにしそれらが順次反応していくことを発見したことです。(p94)
従来の(1)交感神経と(2)副交感神経の二者間でとらえる自律神経系の理論に対し、ポリヴェーガル理論では、(1)交感神経、(2)腹側迷走神経(従来の副交感神経)、(3)背側迷走神経の三者の階層関係で自律神経の反応を説明します。
これは、有名なゴルディロックスの物語にそって(1)「熱すぎるおかゆ」(2)「ちょうどいいおかゆ」(3)「冷たすぎるおかゆ」に例えるとわかりやすいと言われます。
自律神経系には、「ちょうどいい」中間の温度(いわゆるゴルディロックスゾーンと呼ばれる)が存在し、その範囲内は「耐性領域」と呼ばれています。
「ちょうどいい」中間の温度では、(2)の腹側迷走神経(副交感神経)が適度に働いていて、わたしたちはリラックスできます。
しかし、ストレスにさらされると(1)の交感神経が活性化し、耐性領域を上に突き抜けて「熱すぎる」過覚醒状態に陥ります。このとき闘争/逃走反応が起こり、多動になったり衝動的になったり、落ち着きがなくなったりします。
さらに、より強いストレスや慢性的なストレスにさらされると、自律神経系が限界を迎えて第三の神経である(3)の背側迷走神経が活性化します。
すると、今度は耐性領域の下側に突き抜けて、「冷たすぎる」シャットダウン状態に陥ります。凍りつきや解離と呼ばれる反応が起こり、ぼーっとして意識が薄れ、不注意になり、身動きがとれなくなります。
このポリヴェーガル理論の三層構成の考え方は、カプラン夫妻の注意回復理論とウルリッヒのストレス低減理論を統合するものといえます。
前頭前野の抑制機能が弱いADHDの子どもは、ポリヴェーガル理論でいうと、自律神経系の「ちょうどいい」中間の温度のゴルディロックスゾーン、すなわち耐性領域の範囲が狭い子どもだと言い換えることができます。
都会や学校で多くの刺激にさらされると、過剰な刺激に圧倒され、交感神経優位になり、闘争/逃走反応が引き起こされます。この「熱すぎる」状態が多動性・衝動性優位型のADHDの特徴です。
一方、より過敏性が強い子ども(とりわけ女の子に多い)の場合、過剰な刺激に耐えきれず、「冷たすぎる」シャットダウンに反転します。こうして不注意優勢型ADHD(“H”を抜いてADDとも呼ばれる)の症状が生まれます。
リタリンなどの薬物療法は、前頭前野の機能を強化することで、子どもが耐性領域内にとどまりやすくなるよう助け、闘争/逃走反応やシャットダウン反応を起こしにくくすることでADHD症状を緩和しているとみなせます。
一方、自然豊かな環境にいるときは、生物にとって異質な刺激の総量が減り、リラックスするための腹側迷走神経が活性化します。
すると耐性領域がせまい子どもでも「ちょうどいい」温度内にとどまりやすくなり、結果として闘争/逃走やシャットダウンが起こりにくくなるので、ADHD症状が軽減されているということでしょう。
興味深いことに あなたの子どもには自然が足りないのイリノイ大学人間・環境調査研究室の研究によると、自然の好ましい影響は、多動性が強い男の子のADHDだけでなく、不注意が強い女の子のADHDにも効果があることがわかっています。
また、少年より少女(6歳から9歳)のほうが、家の近くの自然から集中力によい影響を受けることが多いこともわかった。
平均的に、少女の家から眺められる緑が多ければ多いほど、その少女の集中力は高まり、衝動的な行動が減り、覚えた喜びも長続きする。
ひいては、学業が向上し、仲間からのプレッシャーにうまく対処し、危険を避け、不健康な生活を遠ざけ、問題行動をとらなくなる。
…精神衛生学では、少女は少年より生物学的にADHDを患う傾向が少ないとする考えもあるが、もしそうなら、それは少女が示すADHDの症状がより穏やかだからであり、治療―薬であろうと、緑であろうと―に対してより強く、健全な反応をするだろう。(p117)
この研究結果の解釈では、「少女が示すADHDの症状がより穏やか」だとされていますが、ポリヴェーガル理論からすれば、これは正しくありません。
ポリヴェーガル理論では、より強いストレスを感じると、交感神経系の闘争/逃走反応から、背側迷走神経系のシャットダウン反応に移行するとされていました。
女の子に不注意優勢型ADHDが多いのは、現代社会では女の子のほうが より強い慢性的なストレスを感じ、闘争/逃走ではなくシャットダウンによって反応しやすいからでしょう。症状が表に出にくいことは、症状が軽いことを意味しません。
そのような女の子が自然に対してよりよく反応するというこの研究結果は、女の子のほうが普段からより強い環境ストレスを受けているため、環境がよくなったことの恩恵もまた強く受けやすい、という意味だと解釈できるでしょう。
このように、カプラン夫妻の注意回復理論や、ウルリッヒのストレス低減理論、さらにはポージェスのポリヴェーガル理論は、自然がなぜADHD症状を和らげ、リラックス効果をもたらすのか、仕組みを理解する助けになります。
前述のとおり、自然がわたしたちの脳機能や自律神経機能に及ぼす影響についての研究ははじまったばかりであり、まだ細部までメカニズムが解明されているとは言いがたい段階です。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、研究が難しいのは、製薬会社のもうけにならない研究は資金提供を受けられないことや、自然のただ中では変数が多すぎて、何が何に影響しているのか正確に測定できないことなどが関係しています。(p44,81)
先ほど紹介した国内の研究も、木の部屋にいるときや、自然の癒し写真を見せたときの効果を測定したものでしたが、実験室のなかで測定しようとすれば、そのくらいのことしかできません。
そのため、この種の自然の効果に関する研究には、薬物療法の研究と違って、常に疑念や批判がつきまといます。
それでも、たとえ厳密には証明されていないとしても、あなたの子どもには自然が足りないに書かれている研究者たちの意見に同意するのは、道理にかなったことではないでしょうか。
自然の中での経験が注意力障害の子供に与える影響、そしてより広い意味での子供の健康と成長に与える影響の研究は始まったばかりで反論も多い。
この研究を最も熱心に推進している研究者たちは、まずそのことを指摘する。
テイラーとクオは、現在までの研究をまとめて、こう記している。
「われわれの多くは、自然が子供たちにとって良いものであると直観的に思っている。これらの直観を超えて、なぜ人類全般(だからこそ子供も含む)が生まれつき自然との接触を必要とするかについて、理をつくして専門的な議論もなされている」
たしかにさらなる調査は必要だが、私たちがそれを待つ必要は必ずしもない。テイラーとクオが言うように、
「どれを取っても同じ一つの方向性を示し、対象となる子供の母集団が異なっても、調査の状況が異なってもその示すところが不変である、というように、統計学的に信頼できる科学的発見のパターンがそこに見えてくるなら、その時点で、たとえ調査計画に脆弱さがあったとしても、『自然が子供の健全な成長を促す』ということを事実として受け入れたほうが効率がよい、ということになるだろう」(p122)
わたしたち現代人にとって、「いま自然が足りない」のは明白であり、自然と触れ合うことに益があることは、生物学的にみて反論しようがない事実です。
普段のライフスタイルに自然に親しむ時間を組み入れることは、わたしたちヒトという動物にとっては、薬物療法やサプリメントよりもよほど「自然な」健康改善のアイデアだといえるでしょう。
(2)幼い頃に自然が足りない―愛着への影響
最初の項目では、「いま」自然が足りないことによる影響を考えました。その対策は、「いま」自然に親しむ時間をとるというシンプルなものでした。
イリノイ大学の研究者たちの実験によれば、自然の中で散歩したり遊んだりするだけで脳機能の改善が見られていました。このような効果は、今すぐ実感することができます。
しかし、現代人を取り巻く自然欠乏はもっと根深いものであり、中には容易に対処できないものもあります。ここから考える二番目の点は、「幼い頃」の自然欠乏がわたしたちに及ぼす影響です。
わたしたち人間を含め、生き物には、幼い頃の感受性期にしか十分に獲得できない能力があります。たとえば、語学の勉強はその一つです。
幼いころに学んだ言語は流暢に話せますが、大人になってからだと学ぶのに苦労し、どれだけ外国で暮らしてもネイティブほどには上達できないかもしれません。
自然との触れ合いの場合も、それと同様の感受性期のようなもの、幼いころに自然に親しまないと得られないような能力があるのでしょうか。
言語と同じように、おもに幼いころに学習される特別な能力のひとつに「愛着」があります。
精神科医ジョン・ボウルビィによって提唱された「愛着」という概念は、近年、「愛着障害」という医学用語が普及したことで、一般に知られるようになりました。
愛着障害は、しばしば愛情が不足した“毒親”に育てられたせいでトラウマを負う、といった文脈で用いられ、アダルトチルドレンのような概念とも混同されることが多いようです。
しかし、愛着と訳されてきた英語「attachment」はそもそもは「くっつくこと」を意味しており、母子の心理的のみならず身体的な結びつき、という概念を伝えています。
愛着とは、一般に思われているような母と子の心の絆ではありません。まだ意識的な記憶が発達していない生後数年の幼い時期に、身体の触れ合いなどを通して蓄積される身体的な記憶のことです。
たとえば、わたしたちは、生まれてすぐの時期に親にどのように抱かれたか、どう声をかけられ、世話されたか、といった記憶は、意識的には覚えていません。まだ顕在記憶をつかさどる海馬や左脳が発達していないからです。
しかし、そうしたときに感じた感触のような感覚運動的な記憶は、無意識のパターンとして身体に保存されています。
これは手続き記憶といって、自転車の乗り方や楽器の演奏の仕方のような、身体の動きや反応のパターンについての記憶であり、一度覚えると無意識のうちに繰り返されます。
ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」に書かれているように、幼いときに受けた世話は、こうしたごく基本的な生理的なパターンとして身体に無意識的に記憶され、その後の人生における型となります。
私が子供のときから知っている人たちがいます。その人たちがどのような発達をしてきたかについても大体わかっています。その中にはすでに鬼籍に入った人もいます。
しかし彼らの生き方には、パターンがあります。50年、あるいは60年間見ていると、彼らは子供の頃に活用していた戦略を、年をとってもいまだに使っているのです。これは、大いに注目すべきでしょう。(p184-185)
わたしたちは、ちょうど幼いころに親から学んだ母語のパターンを一生使い続けるのと同じように、幼いときに親と接した手続き記憶のパターンを、その後の人間関係で繰り返し続けます。
また幼いときに親から自律神経を調節されたと同じ仕方で、自分のストレスに対処し、感情を調節するようになります。
愛着また愛着障害とは、“毒親”に育てられたかどうか、虐待された記憶があるかどうか、養育者に悪意があったかどうか、といった点とは関係ありません。
おもに生まれて数年間のほとんど何も覚えていないような時期に、どんな世話を受け、どんなパターンが身体に刻まれているか、を意味する概念なのです。
愛着また愛着障害は人間だけに限定されたものではなく、動物モデルの研究によって支えられています。
母なる自然との愛着関係
では、「愛着とは、幼いころに経験し、身体に記憶された手続き記憶のパターンである」、というこの理解を念頭に置いた上で、リチャード・ルーブの考察を読んでみることにしましょう。
ルーブは、あなたの子どもには自然が足りないの中で、親子関係の中で育まれる愛着と同じ概念が、自然との関係にも当てはまるのではないか、と推測し、こう書いています。
心理学者のマーサ・ファレル・エリクソンらはここ25年間というもの、彼らが「愛着理論」と呼ぶ子供の生態学的な発達モデルを枠組みにして、親と子供の相互作用についての長期研究を行なっている。
…私はエリクソンに、愛着不足の結果としての反応や症状と同じものが、土地への愛着の貧しさからも起こるのではないかと指摘した。
…愛着理論によれば、親子の深い結びつきは、心理的にも、生物学的にも、心の問題としても複雑なプロセスを経て形成される。
…私は、同じようなプロセスが大人を土地に結びつけ、自分がその土地に属し、自分の人生に意味があるという感覚を抱かせることがあるのだと思う。(p173)
ルーブは、本来は、人間の親子関係から形成される「愛着」という概念は、自然との関わりにも当てはまるのではないか、と考えました。
この着想は、愛着とは“心理的な”絆である、と考えている人にとってはひどく奇妙に思えるでしょう。
しかし今考えたように、愛着とは幼少期に経験した手続き記憶のパターンである、という生物学的なとらえ方をすれば、何も意外なところはありません。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に書かれているように、生まれたばかりの赤ちゃんは、親に抱かれるといった物理的な感触を通して、自分を感じられるようになります。
ボウルビィと同時代の小児科医で精神分析医のドナルド・ウィニコットは、同調の近代的研究の父だ。母親が赤ん坊をどのように抱くかから始めて、彼は母子の詳細な観察を行なった。
そして、こうした身体的相互作用が、赤ん坊の自己感覚の土台となり、その感覚とともに、生涯にわたる自己同一性感覚の基礎も固まると主張した。
母親が子供をどのように抱くかが、「精神が宿る場所として体を感じる能力」の根底にある。
私たちの体がどのように接し合うかに関するこの内蔵感覚と運動感覚が、私たちが「現実」として経験するものの基礎を築くのだ。(p187)
わたしたちにとって、生まれて間もない時期に、親にどのように触れられたかが、その後さまざまな感覚を感じるときの基準、すなわち「スタンダード」になります。
しかしながら、幼い子どもは、母親との触れ合いだけだけを感じるわけではないでしょう。
確かに生まれたばかりの赤ちゃんにとって、母親との触れ合いは、人生最初の感覚経験の大きなウェイトを占めています。しかし疑いようもなく、赤ちゃんは親の声以外のものを聞き、親の顔以外のものも見、親に抱かれる以外の感触も感じ取ります。
それらすべての中で感じた『この内蔵感覚と運動感覚が、私たちが「現実」として経験するものの基礎を築く』、すなわち、その後の人生における感覚体験のスタンダードになります。
つまり、幼少期にどんな親に抱かれたか、だけでなく、幼少期にどんな環境で育てられ、どんな景色を見、どんな音を聞き、どんなものに触れたか、といったこともまた、愛着という人生最初の手続き記憶の形成に影響を及ぼすに違いありません。
たとえ同じ愛情深い親に優しく抱かれて育った子どもであっても、鳥のさえずりや小川のせせらぎが聞こえる環境で育てられたか、それとも交通道路や工事現場の騒音が響く環境で育てられたかによって、人生初期の感覚体験は大きく異なってしまいます。
そして、その人生初期の生後数年ごろの手続き記憶のパターンが、先ほど書かれていたように「50年、あるいは60年間見ていると、…年をとってもいまだに使っている」スタンダードになるのです。
そうであれば、ルーブが直感的に気づいたように、親との愛着だけでなく自然との愛着についても考える必要があるでしょう。
昔の人たちは、自然界を「母なる自然」と呼びましたが、それは比喩であると同時に生物学的現実だったといえます。わたしたちは幼少期に文字通りの人間の母親だけでなく、自分を取り巻く自然環境によっても育まれるからです。
それゆえ、あなたの子どもには自然が足りないによると、ルーブの着想に対して、愛着理論の研究者であるマーサ・ファレル・エリクソンは次のように答えました。
「愛着理論の観念から子供と自然の関係を考えることは興味深いアイディアです」とエリクソンは言う。彼女はさらにこう続けた。
「子供たちの自然の世界での経験は、子供の発達研究ではほとんど見過ごされてきたようです。
しかし、子供たちの幼児期の自然体験を調べ、それらが子供がその後も自然の中で満足感を得たり自然への尊敬を育むことにどのように影響を与えるのかについて追跡調査すれば、興味深い結果が得られるでしょう。
なぜなら、満足感と尊敬は、親子の愛着理論の研究の中心となる概念だからです」(p173-174)
もし自然界に対する愛着が、人間の親に対する愛着と同じほど重要なのであれば、従来の母親に対する愛着の研究によってわかっているさまざまな現象が、「母なる自然」に対する愛着にも当てはまるはずです。
従来の愛着理論の研究では、養育者による適切な世話を受けられかった子どもは、歪んた愛着のパターンを身につけてしまい、愛着障害を抱えることがわかっていました。前述のマーサ・ファレル・エリクソンはこう言います。
「ふつう親子の愛着について考える場合、愛着が形成されない例はほとんどありません。たとえ親が信頼できなかったり、子供に無関心だったり、常識的でなくても、愛着は形成されます。
むしろ、私たちは愛着の質の違いに注目します。たとえば、慢性的に感受性の鈍い親(鬱状態にある親など)の子供は、親から離れていることで、拒絶されることの痛みから自分を守ろうとします。
そして、わたしたちが不安・回避的愛着と呼ぶ感情を発達させるのです」
不適切な養育を受けたことで抱える不安定な愛着は、大きく分けて三種類に分類されます。「回避型」「不安型」、そしてその両方の特徴を併せ持つ「無秩序型」です。
もし人間の親とのあいだに抱える愛着障害の概念が、母なる自然に対しても当てはまるのであれば、自然と適切な愛着関係を結べなかった人たちにも、これら「回避型」「不安型」「無秩序」の三種類の特徴が見られるということになります。
「回避型」―クールで自然に無関心
まず、「回避型」の愛着は、親からネグレクトされたり、関心を示されなかったり、よそよそしく厳しい親に育てられたりした人に見られるパターンです。
回避型の愛着を持つ人は、常にクールで感情表現に乏しい性格です。他人との親密なつながりを求めず、さばさばしていて、あまり共感的ではありません。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、回避型の人たちの特徴は、「感じることのない対処」です。
「回避型愛着」と呼ばれるパターンでは、赤ん坊は何もたいして気にしていないように見える。母親が去っても泣かないし、戻ってきても無視する。
とはいえ、これは彼らが何の影響も受けていないということではない。
じつは、彼らは心拍数が慢性的に高く、常に過覚醒状態にあることがわかる。私と研究仲間は、このパターンを「感じることのない対処」と呼んでいる。(p191)
回避型の人たちは、身体的には常にストレスを感じて緊張しています。しかし、幼いころから誰も助けてくれない環境、あるいは弱音を吐くことを許されない環境で育ったため、ストレスを意識しなくすることで対処してきました。
その結果、常にストレスを抱えていて、偏頭痛や胃腸障害などさまざまな身体症状に悩まされるのに、心理的にはいつもさばさばとしていてストレスに無関心になります。ストレスを自覚しないので、ストレスを解消するための方法を学ぼうともしません。
では、自然から切り離された現代人はどうでしょうか。「母なる自然」との関係を考えたとき、現代のわたしたちの多くは、母なる自然が不在で、ネグレクトされた子どもだとみなせます。
文字通りネグレクトされた子どもは、ストレスを感じても母親が癒してくれないので、ストレスを麻痺させて気づかなくしてしまう「感じることのない対処」で適応します。
身体がストレスを感じているのは事実なので、常に緊張状態にありますが、親子の愛着関係によってリラックスするという選択肢を知りません。自分の問題が、過去の子ども時代の経験にあるとは考えず、セラピーを受けることもありません。
同様に、自然界から切り離されて育った人も、刺激の多い都会の生活から無意識のうちにストレスを抱え、さまざまな健康問題に悩まされがちです。
しかし、たとえ慢性的な緊張感を抱えていても、それが自然不足のせいだとは思いません。自然の中でリラックスした経験がないからです。代わりに、医療機関の薬やサプリメントという人工的な方法、動物としては不自然な方法に頼るようになります。
また、親からネグレクトされた子どもは、他の人に対して共感的でなくなり、クールでさばさばした性格になります。同情したり思いやりを示したりするのが苦手です。そんな扱いをされたことがないからです。
自然から切り離されて育った人類はどうなるでしょうか。あなたの子どもには自然が足りないに書かれているように自然に対して思いやりを示さなくなります。自然によって癒やされる体験をしたことがないので、その価値がわからないのです。
ブルックスは、何年も前にこの土地に入りこんだブルドーザーがつけた傷の痕を指差した。
開発者がいかに現状回復を唱えたとしても、一度手をつけられた土地では、生き物も土の中の構造も破壊されてしまう、と彼女は言う。
…「こういう生態系の破壊はたいがい、私利私欲と無知からなされるんです」
彼女によれば、人々は名前を知らないものには価値を認めない。
「植物の名前を知るたびに何か新しいものに出合ったような感じがする、と言った生徒がいたわ。名前をつけるということは、その存在を知ることなのよ」(p60)
親の愛着を知らない回避型の人たちは、人間関係の愛情の価値がわかりません。自然界から癒やされたことのない人たちもやはり、環境に無関心で、価値がわかりません。
NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によれば、現代人のほとんどが「自然は必需品ではなく贅沢品」だと考えています。
ところが、自然は贅沢品であり、必需品ではないと考える向きがある。
自然がどれほど人間を元気づけ、そして社会全体を向上させているかがわかっていないのだ。(p25)
愛着システムを持つ哺乳類の養育を見ればわかるように、子どもを愛してくれる親というのは、哺乳類にとっては贅沢品ではなく必需品、当たり前のものです。同様に自然との触れ合いも贅沢品ではなく必需品、当たり前のものです。
それなのに、わたしたち人間は、親からネグレクトされたり、自然から切り離されたりして育つと、それらの大切さを認めなくなってしまいます。理想的な家庭や愛情深い親、自然豊かな環境など、求めるだけ贅沢だ、と考えるのです。
一方、興味深いことに、あなたの子どもには自然が足りないによると、環境保護に携わる人たちの多くは、幼少期に自然から良い影響を受けた人たちである、という研究があるそうです。
1978年、アイオワ州立大学の環境学教授、トーマス・タナーは、人が環境保護論者となる過程で受ける影響についての研究を行ない、調査対象の人々が環境運動に目覚めるきっかけとなったものを調べた。
…「最も多く引き合いに出されたのが、子供時代に自然や田舎、その他の野生環境での経験から影響を受けたというものだった」
彼らのほとんどが子供のころに、ほとんど毎日のように自然のなかで勝手気ままな遊びをしていた。
「私が発表した結果は、その後のいくつかの研究によっても裏付けられました」とタナーは言う。
ケンタッキー州やノルウェーといった多様な場所での環境運動家の研究から、子供時代の経験が、大人になってからの環境運動にとって重要であることが示されたのだ。(p167)
環境運動に携わる人が自然を保護したいと感じるのは、単に自然が好きだからではなく、幼少期に、母なる自然と親しみ、その中で遊び、自然が自律神経系をリラックスさせてくれる効果をじかに体験したからだったのです。
その人たちは、自然との愛着という手続き記憶が身体に保存されているので、自然の価値を認め、守りたいと感じるようになります。
他方、幼少期に自然と触れ合わなかった人は、自然が脳や自律神経に与える影響を経験したことがなく、そのような手続き記憶も持っていないため、自然の効力を軽視し、自然に対して無関心になります。
現代における世界的な環境破壊は、大多数の人が自然から切り離された子ども時代を送り、自然の望ましい効果を実感する体験をしたことがないせいで抱えてしまっている回避型愛着の結果だとみなすことができます。
「不安型」―自然を美化するか、恐れるかの二極化
幼少期の不適切な養育によって形成される2つめの歪んだ愛着は「不安型」です。親から溺愛されたり、過剰に構われたり、愛情深い親が突然いなくなったりした子どもに見られます。
「不安型」の愛着の人は、常にだれかといないと安心できず、見捨てられることへの恐れや不安を感じています。ずっと親に過剰に構われる環境が普通だったからです。
人間関係において適度な距離を保つのが苦手で、極端に理想化したり、逆に敵対視したりします。他の人は常に自分に最大限の注意を払ってくれる存在でなければならないと感じます。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によると、「不安型」の愛着の特徴は、回避型とは逆の「対処せずに感じる」ことです。
「不安型愛着」あるいは「相反(アンビバレント)型愛着」と呼ばれる別のパターンでは、赤ん坊は泣いたり、叫んだり、しがみついたり、金切り声を出したりして絶えず注意を惹く。
彼らは「対処することなく感じている」。彼らは、大騒ぎでもしないかぎり、誰も注意を向けてくれないと結論したかのように見える。
彼らは、母親がどこにいるかわからないと激しく気が動転するが、母親が戻ってきてもろくに慰めを得られない。
そして、母親といても楽しそうではないにもかわらず、他の子供なら遊びたがるような状況でも、母親に対して消極的にあるいは腹を立てながら注意を集中したままでいる。(p191-192)
「不安型」の人たちは、幼少期にずっと構われていたため、母親など他の人の助けなしでは、自律神経系などの生理機能の調節がうまくできません。かまってくれる人がいなくなると、とたんに過覚醒状態になってパニックを起こします。
このずっと構われていなければ安心できず、他の人を理想化するか敵対するかの両極端の反応を見せるという特徴は、「不安型」の愛着を抱える人がなりやすい、境界性パーソナリティ障害において特に顕著です。
文字通りの自然界と触れ合って育った人は、母なる自然から溺愛されたり過剰に構われたりするといった扱いを受けることはないでしょう。自然は人間の親とは違って、そんな極端な扱いをしたりはしません。
しかし、自然から隔絶されて育った子どもたちは、あたかも「不安型」の愛着のような両極端な反応を見せる、とルーブはあなたの子どもには自然が足りないに書いています。
自然から隔絶してしまった子供たちは、自然を理想化するか、あるいは恐怖を抱くかのどちらかになるが、これは困ったことである。
もっともこれは一枚のコインの裏表である―というのは、人は知らないものに対して恐怖感を覚えるか、さもなくばロマンティシズムで飾りたてるかのどちらかであるからだ。(p151)
不安型の愛着というのは、不自然で偏った愛情を注がれ、過剰に干渉されて育てられた子ども特有のものでした。本当のバランスのとれた愛情を知りません。
現代において、子どもたちは、文字通りの自然からは切り離されて育つとはいえ、自然についての情報とまったく無縁で育つわけではありません。
本物の自然を体験したことはないのに、日夜、テレビやインターネットで自然の驚異を取材した番組や記事を見かけます。SNSでは自然界の絶景を切り取った写真が次から次に流れてきます。
そのような偏った情報に触れ続けると、自然界に対して正しいイメージを持てなくなります。
自然のすばらしい映像を見せられ続ければ、自然界を過度に理想化するようになり、ロマンチックな憧れを抱くようになるかもしれません。あるいは、食傷気味になり、自然界を美化するのはマスメディアの偽善だと切り捨てるようになるかもしれません。
たとえば、過激な保護運動に携わる人たちがそうです。
前述のように、環境保護に携わる人の多くは、子どものころの自然界の中で楽しい体験をした人たちです、そうした人たちは普通、冷静な仕方で環境を守ろうとしています。
しかし中には時おりニュースになるような過激な運動をする人もいます。そのような人たちは、かえって自然に親しむ実体験が不足している人たちだといわれています。
「(動物の権利保護活動に参加している)この子供たちを見てください。そこに見えるのはたいがい都会の、よそよそしい、いまだに特権意識の抜けない大人たちです」と、アリゾナ州ツーソンのマイク・ツー・ホーシズは言う。
…彼の組織は、伝統的に捕鯨に頼って生活してきたアメリカ北西部のマカー族のような先住民族を支援する。
「動物の権利保護を訴える若者が知っている動物といえば、ペットだけです。
そのほかに見たことがあるのは、動物園やシーワールド、ホエールウォッチング(今ではホエールタッチング)・ツアーで見かけた動物くらいでしょう。
彼らは自分たちが食べているものを提供してくれる生き物と接する機会がないのです。大豆や植物性蛋白の元の姿さえ見たことがない」
私は彼よりは動物の権利保護運動の良さを認めるが、彼の主張には一理ある。(p43)
こうした自然についての極端な考え方の根底にあるのは、いずれも、「自然をよく知らないこと」です。自然を美化しすぎるのは、自然を愛しているというより、自然と十分に接したことがないせいだからです。
ここでは動物の保護運動が例に挙げられていますが、現代のわたしたちは、自分の手を汚さずに食肉加工された動物を食べ、同時に世界中の動物の美しい写真を目にします。
それはあたかも溺愛された子どもと似ています。肉を食べることに伴う負の部分や、動物の危険な生態については知らず、自然界の恩恵の良い部分だけを過剰に受けている状態です。
その結果、動物や自然界に対する適切な距離感が取れなくなり、極端な考え方をするようになります。
保全心理学(人がいかにして環境保護主義者になるかの研究)や生態心理学(生態学と人間の心との相互関係の研究)という新しい分野の研究者たちが指摘するところでは、米国の人々がますます都会化されるにしたがって、動物に対する感覚は一見つじつまの合わない変わりかたをする。
人が都会化されるにれ、その人にとって食物の元の姿や自然の真実はますます抽象的なものとなる。
その一方で、都会化された人ほど動物を保護しようとするか、あるいは怖がる。(p151)
他方、伝統的な狩猟採集の社会で自然とともに生きてきた人たちは、そうした両極端の考え方はしないでしょう。自分たちの生活に必要な動物だけを屠殺し、感謝を捧げて食べます。
たとえばアイヌ民族のヒグマとの関わり方は、狩猟に偏るでもなく保護に偏るのでもなく、野生動物との適度な距離感を保っていた、とてもバランスのとれたものでした。
シリーズ:クマの保護管理を考える(14)アイヌの人々の見たヒグマ |WWFジャパン
また、自然に対する両極端の考え方がみられる他の例として、冒頭に挙げたような、「自然が健康によい」とうたう商業主義的なマーケティング戦略があります。
バーズレイが言うところの、この「造りものの自然」は、「よい大いなる驚異を矮小化したもの」にすぎない。
バーズレイによれば、これこそ近年盛んになりつつある「自然の商品化」であって、「自然を商品の販売促進手段や市場戦略の一環として利用するという、ビジネス上の盛んになる一方のトレンド」なのだ。(p83)
「自然派」「ナチュラル」「無添加」などの枕詞が添えられるだけで、無条件に良いものだと信じて、高いお金を支払ってしまう人たちがいます。
そうした人たちの中には、自然界の成分はすべて体に良いもので、人工的な化学物質はすべて悪いものだと決めつけている人もいます。
一方で、そのようなマーケティングをうさんくさく感じ、自然が身体にいい、という考え方そのものに嫌悪感を覚える人たちもいます。
しかし、どちらの場合も、自分で自然と密に触れ合ったことがなく、自然とともに長く生活したこともなく、本物の自然を知らない、という共通点があります。
考えてみれば、本当に自然の中で暮らしてきた人たちが、「無添加」「自然派」などのマーケティング戦略に引っかかるとは考えられません。そうした人は自分たちで作った地元の産物を食べます。
自然に親しむだけでなく、その脅威を身にしみて知っているので、自然由来のものはすべて体に良いなどという幻想を抱くこともありません。野生動物の危険も知っているので、ただ保護すればよい、といった考え方にもなりません。
そのようなわけで、現代人を取り巻く自然界に対するあまりに両極端な捉え方、すなわち動物を過度に搾取したり保護したりすること、また自然を商品化したマーケティングを鵜呑みにしたり忌避したりすることは、「一枚のコインの裏表」です。
それはマスメディアや商業体制によって、自然界の良い部分だけを過剰に与えられて育てられたことによる、母なる自然に対する「不安型愛着」の表れとみなせます。
「無秩序型」―恐怖感によるパニック、そして解離
不適切な養育による歪んだ愛着のうち、最後の3つめは「回避型」と「不安型」の混合である「無秩序型」の愛着です。
「無秩序型」の愛着は、幼少期に虐待されたり、繰り返し恐怖感を味わったり、複数の親をたらい回しにされたり、といった無秩序で混乱した家庭環境で育った人に多いものです。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法では、「無秩序型」の愛着についてこう説明されています。
彼らは誰が安全かも、自分が誰に帰属するのかもわからないので、見知らぬ人に対して強烈な親愛の情を見せたり、逆に誰も信用しなかったりしかねない。
メインはこのパターンを「無秩序型の愛着」と呼んでいる。無秩序型の愛着は、「解消のしようがない恐怖」だ。(p193)
無秩序型の人は、幼少期の恐怖体験ゆえに、人に対して過度の恐れを抱き、ちょっとしたことでパニックになったり、過敏に反応したりします。
過剰に脅かされた場合は、逆に防衛として感情のスイッチを切ってしまいます。このスイッチを切る反応は「解離」(切り離し)と呼ばれます。
ライオンズ=ルースは、赤ん坊の誕生後二年間に母親が関与も同調もしないことと、その子供が成人したときに解離の症状を見せることとの間に、「顕著で意外な」関係があるのを発見した。(p200)
では、母なる自然との愛着関係においても、この「無秩序型」の愛着のような混乱した状況が起こりうるのでしょうか。
無秩序型の愛着は、繰り返し恐怖を味わわされることによって起こりますが、あなたの子どもには自然が足りないの中で環境教育研究者のデヴィッド・ソーベルは、それと似たことが教育の場で起こっていると述べます。
ソーベルによれば、まったくの反対になるケースもあるのだ。
「学校で環境破壊の例を詰めこみすぎると、生徒の関心が離れていくきっかけを心に植えつけてしまうこともあります。
子供たちに、地球の問題に目を開かせ、責任感を抱かせようとするあまり、かえってそっぽを向かせてしまうのです」
自然とじかに触れ合った体験をもたない子供たちは、「自然」と聞いて喜びや驚きではなく、恐怖や終末的イメージを連想するようになるわけだ。
ソーベルは、なぜ子供の心が離れていくのかについて、こんなたとえを持ち出した。肉体的、性的な虐待を受けた子供は、自分自身を痛みから切り離すことを覚える。
つまり、感情のスイッチを切ってしまうのだ。…子供たちは、虐待されている自然に関わりたいとは思わないのです。(p152)
ソーベルは虐待された子どもが、苦痛を切り離すために解離するのと同じことが、環境問題の脅威を繰り返し教えられた子どもに起こっていると述べています。
教育者は良かれと思って、自然破壊の知識を子どもに教えますが、そのような子どもたちのほとんどが、実際に自然と触れ合った経験を持っていません。
「母なる自然」の恩恵を経験したことのない子どもに恐ろしい環境破壊の例ばかりを教えるのは、母親の愛情を経験したことのない子どもに親についての恐ろしい話を繰り返し聞かせることと似ています。
もともと自然に対する愛着を抱いている子どもは環境破壊について聞くと自然を守りたいと思うようになるかもしれませんが、もともと自然に愛着も何もないのであれば、そんな恐ろしいものに関わりたくはないと思わせるだけでしょう。
また、中には、自然の多い国に生まれても、戦争体験などのせいで、自然に対する恐怖感を抱くようになってしまう子どもたちもいます。
ラシード・サラフディンは高校の校長先生で、私の学区で週一回野外授業をしてくれているのだが、自然を怖れることの悪影響を目のあたりにしている。
「自然に交わるときに怖がったり、パニックに陥ったりする子供たちが多すぎます。この子たちは自然と直接に接することができないのです」と彼は言う。
…「子供たちのうち何人かは東ヨーロッパ、アフリカ、中東からきていますが、彼らは野外や森を危険な場所と見ています。彼らにとって、野外や森は戦争や身を隠す場所につながるのです」(p160)
このような子どもたちは、自然そのものによって虐待されたわけではありませんが、自然の多い環境で悲惨な目に遭ったことから、苦痛と自然とが条件付けされ、PTSDを抱えてしまいました。
自然の要素がPTSDのフラッシュバックのトリガーになってしまって紐付けられているため、自然の癒やし効果を利用できません。
わたしたちの多くは、自然のなかで戦争を経験したわけではありませんが、近年増え続けている災害のため、自然環境とトラウマ症状とが条件付けられてしまう人も増えているでしょう。
問題を増加させているのは、災害が起こったとき、その様子が繰り返しテレビで報道され、良かれと思ってSNSで拡散されることです。
心と身体をつなぐトラウマ・セラピーに書かれているように、そうした行為は、実際に災害を経験したことのない人にも代理トラウマを生じさせ、自然=危険なもの、というイメージを植え付けてしまいます。
1994年のロサンゼルス大地震の後、…孤立した人々―災害の映像を取りつかれたように見て、「もっと大きな地震が来るのはこれからだ」と主張する地質学者のインタビューを聴いていた人たち―は、コミュニティで互いを支えあった人々よりもずっとトラウマの影響を受けやすかったのです。(p72)
あなたの子どもには自然が足りないの中で、リチャード・ルーブもまた、自然の中で起きた事件や事故が過剰報道されることで、根拠のない自然への恐れが育まれていると述べています。
たしかに、自然の中にはまぎれもない危険が潜んでいる。しかし、それがメディアによって大げさに喧伝されて、皆が怖がっているだけの話だ。
…ライオンやトラや熊に襲われる危険? 実際に人が襲われた例はごくわずかしかない。
…「外は怖い」と言うが、子供たちは家の中でもっと恐ろしい目に遭うことが多い。(p148)
自然に危険がないというのは間違っていますが、自然の中のほうが都市よりも危険だ、というのはマスメディアによって作られた架空のイメージです。
「無秩序型」の愛着とは、より混乱した家庭で育ったことで生じる「回避型」と「不安型」の混合症状ですが、自然から切り離された現代に生きるわたしたちも、単なる「回避型」や「不安型」ではなく「無秩序型」に近い混合症状を抱えています。
わたしたちは、自分の実体験として自然を経験したことがないにもかかわらず、マスメディアやSNSを通して自然界を過度に美化した映像を見せられたり、恐怖をあおる情報にさらされたり、環境破壊についての教育を受けたりします。
その結果、自然界を過度に美化してしまうこともあれば、自然界から自分を切り離し(解離させ)、まったく無関心になってしまったり、自然界に対する過度の恐怖を抱いて寄り付かなくなったりします。
そのすべてに共通しているのは、自然界と適切な距離感で接することができないということ、すなわち幼少期にまともな養育を経験できなかった人が抱える対人関係の問題と同じ、無秩序な愛着の問題なのです。
「安定型」―安全基地としての自然
ここまで取り上げた3つのタイプの愛着は、いずれも不適切な養育を受けたことからくる不安定型の愛着ですが、バランスのとれた安心できる養育を受けた場合には、健全な「安定型」の愛着が育まれます。
「安定型」の愛着を持っていても、ストレスにかき乱されたり、不安になったりすることはあります。
しかし、だれか他の人とのあいだに行き違いが生じたときでも、適度な距離感を保って関係を修復できます。辛い出来事があって落ち込んでも、過去に親からなだめられた身体的な手続き記憶のおかげで、立ち直りやすくなります。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法ではこう説明されています。
ボウルビィは、愛着は「安全基地」であり、子供はそこから世界へ乗り出していくと考えた。
その後50年間の研究でしっかり裏づけられたように、安全な避難所を持っていると、自立心が育まれ、苦悩している人に対する思いやりの感覚や、助けになってあげられるという感覚が植え付けられる。
愛着の絆を結んだ人との親密なやりとりから、他者にも自分と似た感情と思考や、自分のものとは異なる感情と思考があることを子供は学ぶ。
つまり、子供たちは環境や周囲の人々と「同調」し、自己認識や共感、衝動の制御、自発性を発達させ、そのおかげで、より広範な社会的文化の有用な一員となれる。(p183)
ここで言及されている「安全基地」という概念は、安定型の愛着について考えるとき、とても大事なキーワードです。
幼いときに愛情深く世話された子どもは、親の優しい愛撫や言葉を、手続き記憶のパターンとして感覚的に記憶しています。
ストレスを感じたときには、そのイメージをすぐに呼び出せるので、たとえ親がそばにいなくても、ちょうど親が自律神経系を調節してくれたような仕方で、自己調節できるようになります。
このような手続き記憶は疲れたときに戻ってきてエネルギーを充電できる「安全基地」としての役割を果たします。
では、母なる自然に包まれた環境で幼少期を過ごした人も、このような安全基地のようなイメージを持っているのでしょうか。
あなたの子どもには自然が足りないにはこんな例が書かれています。
ADHDの子供を診ていて、自分もときどき軽い鬱の状態になると言う、ある精神医学者はこう語る。
「私はミシガンで育って、しょっちゅうフライフィッシングをしていました。子供時代の私には、それが心を静める方法でした。
だから、気分が落ち込んだと感じると、自己催眠をかけて、あのころの思い出を引き出すのです」
彼はそれを「記憶の牧場」と呼ぶ。
彼はADHDには現在処方されている薬物を適切に使うべきだと確信しているが、その一方で自然セラピーがもう一つの療法になるかもしれないと考えてもいる。(p120)
この医師が実践している「記憶の牧場」は、愛着理論の観点からいえば、安全基地にそっくりです。
異なっているのは、ふつう愛着理論における安全基地は、実の親と過ごした温かい記憶に基づいているのに対し、この記憶の牧場は、母なる自然のもとで過ごした温かい記憶に基づいていることです。
安定型愛着を築いた子どもが、幼いときに親が神経系を調節してくれた方法のパターンを身体的に記憶しているように、この医師は、幼いときに母なる自然が自分の神経系をリラックスさせてくれた方法のパターンを身体的に記憶していました。
はじめに考えたように、愛着とは親子の心理的な絆ではなく、幼少期にどのように世話されたかに関する、感覚運動的な手続き記憶です。
幼少期に赤ちゃんが触れる環境は、母親の腕や語りかけだけでなく、自然環境との触れ合いも含まれます。
であれば母親の優しい世話が身体に記憶されるのと同様、自然界から受けた優しい世話もまた、身体的に記憶され、安全基地になりうるのです。
母なる自然に対する愛着障害を修復する
このように、従来の人間の親子関係を対象にした愛着理論は、リチャード・ルーブが気づいたように、また愛着研究者のマーサ・ファレル・エリクソンが認めていたように、母なる自然との関係にも十分当てはまるように思えます。
とすると、ひとつ大きな疑問が湧いてきます。
ADHDとは、自然欠乏障害であると同時に、もしかすると一種の愛着障害なのではないでしょうか。
このブログで過去に何度か取り上げているように、発達障害としてのADHDと、幼少期の環境によって生じる愛着障害は、非常に類似した症状をみせ、専門家でも容易に区別できないと言われています。
愛着障害はトラウマの一種なので、PTSDや解離といったトラウマ症状を呈します。PTSDの過覚醒状態は多動性・衝動性優勢型ADHDと、解離の低覚醒状態は、不注意優勢型ADHDと酷似しています。
しかしながら、ADHDは一般的には遺伝的な発達障害であると言われるのに対し、愛着障害は幼少期の過酷な体験による、という大きな違いがあります。
ADHDの子どもはトラウマを経験しておらず、たいていは愛情深い親に育てられています。他方、愛着障害の子どもはトラウマを抱えており、虐待されたりネグレクトされたりする機能不全家庭で育っています。
ADHDの子どもは一見トラウマ的な背景がないように思えるため、愛着障害とは区別されてきました。しかし、これは「トラウマ」という概念のとらえ方が間違っていたせいではないでしょうか。
トラウマというと、凶悪犯罪や児童虐待によるものだと考えがちですが、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中でポリヴェーガル理論についてインタビューした心理学者ルース・プチンスキーが述べているように、もっと定義を広げる必要があります。
私たちはトラウマを狭い意味で定義してしまうことがあります。
トラウマは、戦争や車の事故、レイプや性的ないたずら、あるいは殴られたことで起こると考えてしまいます。
しかし、それよりもずっと多くのトラウマがあるようです。(p182)
トラウマとは、従来の精神医学では「心の傷」とみなされていましたが、ポリヴェーガル理論を土台とした近年のトラウマ医学はそれを否定しています。
虐待や犯罪、災害などの被害のみならず、耐性領域を超えてしまうような刺激はなんであれ、トラウマ症状を引き起こし得ます。
要するに、耐え難い強い刺激や慢性的な刺激であれば、どんなタイプのものであっても、逃走/闘争反応やシャットダウン反応を引き起こすので、同じ過覚醒や低覚醒の症状が現れることになります。
ということは、たとえ虐待やネグレクトを受けたわけではなくても、また安心できる家庭で育てられたとしても、自然が欠如し、人工的な刺激が過剰にあふれた環境で育った子どもは、一種のトラウマにさらされてきた、といえないでしょうか。
リチャード・ルーブは、あなたの子どもには自然が足りないの中で、次のように指摘していました。
今日の私たちは、いつ終わるともなく押し寄せる900キロもある自動車や1.8トンもの四輪駆動車に対して、常に警戒態勢にある状態だ。
脅威は私たちの家の中にまで追いかけてくる。テレビを通して居間や寝室に侵入してくる恐怖のイメージ、また都市と郊外の風景からは、安らぎをかもし出す要素が急速に失われつつある。
自然環境の喪失や、手の届くころにある自然からの乖離といった傾向が、人の健康や子供の成長に重大な影響を与えると考える研究者の数は増えつつある。(p62)
この記事の前半で考えたように、わたしたちは、生物史全体からみればほんのわずかな爪の先ほどの期間に、環境の激変を経験し、かつてなかった人工的な刺激に遭遇するようになりました。
自動車や騒音や大気汚染は、わたしたち個人にとっては生まれたときから存在する当たり前のものかもしれませんが、人類という種にとってはそうではありません。
生物にとって、生まれたときからそうした異質な刺激にさらされていることは慢性的なトラウマ環境に相当します。ちょうどマウスやラットを、生まれたときから騒音のする環境に閉じ込めて実験しているようなものです。
ということは、ADHDだと診断される都市部の子どもたちは、確かに愛着障害のような家庭環境由来のトラウマは負っていませんが、気づかぬうちに、それ以外のトラウマ的な刺激にさらされているといえるのではないでしょうか。
この研究分野で最先端を行くのは、比較的新しく領域横断的な「環境心理学」という分野で、人間の精神と環境のつながりを強調する。この「環境心理学」という用語は1992年に、歴史家で社会批評家でもあるセオドア・ローザックの著書『地球が語る』によって一般に広まった。
…ローザックは、『診断・統計マニュアル』の定義では、「『分離不安症』は『自宅や自分自身が愛着を感じている人から離れることへの極端な不安』である。
しかし、この不安な時代にあって、自然界からの分離ほどに一般的に分離はない。今こそ、精神の健康を環境に基礎を置いて定義づけしなければならない」と主張する。(p63-64)
ADHDの子どもたちは、確かに、愛着障害の子どもが経験するような母親からの分離やネグレクトは経験しておらず、愛情深い家庭で育てられたかもしれません。
しかしその子どもたちは、気づかぬうちに、母なる自然から分離されてきたのではないでしょうか。
そうであれば、単にADHDは愛着障害に似ている、と考えるべきではなく、ADHDは愛着障害の一種であるとみなすべきではないでしょうか。
愛着の定義を広げ、幼少期の感覚運動的体験によって獲得される生物学的な手続き記憶だとみなした場合、異質な家庭環境だけでなく、自然界からの分離もまた似たような問題を引き起こす可能性があります。
もちろん、都市で育った子どもすべてがADHD症状を示すわけではありません。しかし、今日、発達障害と診断されない人の中にも、自分も似たような特性を持っている、と感じる人たちが多いのは事実です。
以前にブログで取り上げたように、現代社会のデジタル機器のテクノロジーの普及が、ADHD傾向増加に関与していると考える研究者たちもいます。
こうした研究は、今回考えている自然欠乏障害の概念と相反するものではなく、むしろ相互補完的なものです。子どもたちにとって自然の中での実体験が減るとともに、スマホなどのデジタル機器による家の中での体験が増加するからです。
かたや自然の欠乏を研究してきた心理学者たちと、かたやデジタル機器の依存を研究してきた心理学者たちが、山を反対方向から掘り進んでいたら真ん中でトンネルがつながり、共にADHDの増加という同じ結論に至ったようなものです。
上記のテクノロジーについての記事では、デジタル機器によるADHD症状は障害ではなく環境への「適応」だと書きました。これは、ルーブの唱える自然欠乏「障害」という概念とは相反するように思えますが、愛着理論からみれば納得がいきます。
愛着理論においては、たとえ愛着「障害」と呼べるような不安定な愛着であっても、それは不安定な親の世話にして子どもが「適応」した結果だと考えられています。
ここまで考えたように、「回避型」や「不安型」「無秩序型」という不安定な愛着はみな、置かれた不安定な生育環境に、子どもが精いっぱい適応しようとした結果として身につけた防衛戦略なのです。
ということは、自然欠乏障害もまた、都会の人工的で異質な養育環境に、子どもたちが精いっぱい適応しようとした結果、脳が違った発達を遂げる、と言い換えることができるでしょう。
愛着理論では、幼少期に獲得した愛着は、大人になってから修正するのがかなり難しいことが知られています。それはあくまで、子どものころに身を守るために学習した適応的な戦略だからです。
ポージェスが述べていたように、幼いころに学習されたパターンは、それがたとえ望ましくないものであっても、「50年、あるいは60年間」経っても、「子供の頃に活用していた戦略を、年をとってもいまだに」使い続けるほど強固です。
だれにとっても母親と過ごす子ども時代が一度きりのものであるように、幼いころに母なる自然と共に過ごす時間も一度きりです。
幼いころに、普通でない養育環境に適応してしまった人にとって、大人になってからその反応パターンを変えるのが難しいのと同じように、幼いころに自然欠乏の環境に適応して成長してしまったら、母なる自然と愛着を結び直すのはそう簡単ではありません。
あなたの子どもには自然が足りないに書かれているように、文字通りの母親が子どもの神経系を形作るのと同じく、土地は人を形作ります。
何年も前からコミュニティ・カレッジの教師をしている彼女は、たくさんの学生をここに連れてきた。
彼らの多くにとって、こんなふうに自然に触れるのは初めての経験だった。彼女はそのような学生を今まで体験したことのない自然に触れさせるため、ここへ連れてきて教えたのだ。
人間が土地を形作るよりも土地が人間を形作るほうが多いが、それはそこに形作ってくれる土地がある限りの話なのよ、と。(p58)
文字通りの母親が、たった数日や数週間ではなく、もっと長い年月をかけて子どもを世話し、その神経系の反応パターンを形作っていくように、母なる自然も、ほんのひとときの触れ合いではなく、もっと長い期間を通じて、わたしたちを形作ります。
幼いころに不安定な愛着を身につけた人が安定型の愛着を獲得することは、大人になってから第二言語を学ぶことに似ていると言われます。不可能ではありませんが、ずっと現地にとどまって学び続けなければ習得できないでしょう。
同じように、幼いころに、母なる自然から自然の母語を学び損ねた人も、余暇に観光旅行に行ったり、たまのレジャーで自然に親しんだりするだけで自然欠乏障害が癒やされることは期待できません。
愛着理論を自然との関係に当てはめた場合にわかるのは、あたかも外国の地の住人になって第二言語を習得するかのように、自然豊かな土地に何年も滞在し、できるならそこの住人となってはじめて、自然との健全な愛着が形成され、わたしたちの神経系の反応パターンが組み換えられていくということなのです。
(3)数世代にわたって自然が足りない―マイクロバイオームへの影響
ここまで、一つ目の項目では「いま」リアルタイムで自然が不足していることによる脳や自律神経への影響を考え、二つ目の項目では「幼い頃に」自然が不足していることによる手続き記憶への影響を考えました。
しかし、現代社会のわたしたちを取り巻く自然欠乏の影響は、もっと根深いものです。近年の研究によると、現代のわたしたちが抱える健康問題の多くは、数世代にわたる自然欠乏の累積であることが示されているからです。
精神科医ジョン・J・レイティはGO WILD 野生の体を取り戻せ! 科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネスという本の中で、リチャード・ルーブの自然欠乏障害の概念に触れ、次のように書いています。
作家のリチャード・ルーヴはそれを、文明化がもたらす最大の苦悩と評し、「自然欠乏障害」と名づけた。
彼は10年にわたって米国で子どもを持つ親たちと面談し、バーチャルな世界のきらびやかな魅力と、アウトドアは危険だというメディアの大げさな報道が、現代の子ども、ひいては大人を自然から切り離していると結論づけた。
すべての生物は自然界に暮らし、また子どもは自然界に多くを学ぶべきであることを思うとこの状況はかなり危険だが、ルーヴらはさらに複雑な問題が絡んでいると言う。それは筆者が文明化のもたらす苦しみとして述べてきたものと、ほとんど同じだ。
たとえば自然の中で遊べば、子どもでも大人でもさまざまな微生物に触れることになる。
それが彼らの体内のマイクロバイオームを支え、また免疫系を鍛えてその調子を整える。
それらの微生物は自己免疫疾患、つまり「寄生生物の不在がもたらす病気」と闘う力もわたしたちに授けてくれる。(p194)
レイティは、ルーブの自然欠乏障害の概念を「微生物に触れる」機会がないこと、さらに「寄生生物の不在がもたらす病気」と関連づけています。
レイティ自身は微生物学の専門家ではないため、この本の説明はあまり参考にならないのですが、過去にこのブログでも取り上げたような、微生物学の専門書を読むと、この視点が決して的外れでないことがわかります。
たとえば、進化生物学者アランナ・コリンは、あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめたで、そのタイトルどおり、わたしたちの身体の大部分は、自分のものではなく、マイクロバイオータによって構成されていると書いています。
あなたの体のうち、ヒトの部分は10%しかない。あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞1個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は9個ある。
あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。あなたの体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。(p11)
これら膨大な微生物たちは、何の意味もなくわたしたちの体内に寄生しているわけではありません。
彼らはわたしたちの食べたものから栄養を得ますが、わたしたちはその見返りとして、生存のために不可欠なさまざまな機能を、この微生物たちに委託(アウトソーシング)しています。
微生物たちは私たちの食べ残しを利用しているが、私たちも微生物を利用している。
…脳の働きに不可欠なビタミンB12をつくる蛋白質のための遺伝子がなくても、クレブシエラがその仕事を代わりにやってくれる。
腸壁を形成する遺伝子がなくても、バクテロイデスがやってくれる。(p33)
わたしたちが自前で行うことができず、体内の微生物群にアウトソーシングしている仕事は非常に多岐にわたっています。その中には免疫系の敵味方識別能力の訓練のような極めて重大な機能もあります。
近年の研究によると、20世紀の終わりごろから急増している自己免疫疾患やアレルギーのような現代病は、この微生物群(マイクロバイオータ)の多様性の減少と関係していると考えられています。
この記事では、発達障害のうち、おもにADHDに注目しましたが、微生物学の分野では、自閉スペクトラム症を含む発達障害の急増もまた、マイクロバイオータの多様性との減少と結び付けられ、盛んに研究されています。
1940年代には自閉症はあまりに希少で病名さえついていなかった。記録をとりはじめた2000年でさえ現在の半分以下だった。
患者数が増えた背景に、自閉症への認識率の高まりや過剰診断があることは否定できない。だが、それを差し引いても自閉症の有病率が急増しているのは事実であれ、昔とは明らかに違うと大半の専門家は認めている。
注意欠陥障害やトゥーレット症候群、強迫性障害も増加している。うつ病と不安障害もだ。
…こうした病気はあまりに常態化していて、曾祖父母とそれ以前の世代にはほとんどなかった新しい病気だということに気づかない人が多い。医者でさえ気づかないことがある。(p54)
この記事の最初のほうで見た通り、確かにADHDや自閉症の傾向を持った人たちは昔からいましたが、現代ほど深刻な生きづらさを抱えてはいなかったようです。
そうした人たちは社会の個性的な一員として受け入れられていました。それは社会そのものが寛容だったというより、たとえADHD傾向や自閉症傾向を持っている人であっても、現代の発達障害当事者より、症状が軽く、柔軟性に富んでいたことを意味しているでしょう。
アレルギーや自己免疫疾患などかつてなかった病気が急増したのは20世紀の中盤以降であり、感染症の減少と逆相関を示しています。明らかに「障害」として認定されなければならないほどの発達障害が増えたのも、ごく最近です。
これは、わたしたちの数世代前に起こった変化が原因であることを示唆しています。
20世紀の中盤に何かが変わった。それは一回きりの変化ではなく、その後数十年と続く変化だったと思われる。
その変化は世界中に広がり、多くの国々をつぎつぎ巻き込んだ。21世紀病の原因を見つけるには、1940年代の10年間に起こった変化に注目すべきだ。
…まず21世紀病は腸で起こることが多く、免疫系と関係している。つぎに、21世紀病は子どもや10代、20代など若い世代狙い撃ちされ、[※性ホルモンの影響が現れる年齢以降は]男性より女性のほうがなりやすい。
そして、これらの病気は欧米ではじまり、新興国や途上国でも近代化にともなって増えている。(p64)
近年の微生物学の研究からわかってきたのは、「近代化にともなって」これらの現代病が増加したことでした。
わたしたち人類は、この数世代にわたって、自然環境から遠ざかり、抗生物質や衛生改革によって微生物を駆除し、人工的で清潔な都市を作り上げてきました。
それとともに、見えないところで有用な微生物たちの多くが絶滅に追い込まれ、わたしたちの体内の微生物の多様性が減少しました。それによって、わたしたちは体内の重要な機能をアウトソーシングするすべを失いました。
21世紀は、微生物との戦いがいわば休戦状態となっている。予防接種、抗生物質、水質浄化、医療現場の衛生習慣で感染症を抑えこめるようになり、私たちはもはや感染症の発生に脅かされることはなくなった。
そのかわり、それまでめったになかったような病態が、過去60年でつぎつぎと出てきた。
こうした一連の慢性的な「二一世紀病」は、あまりにあちこちで見聞きするため私たちは日常的な「ふつう」のものとして受け入れてしまっている。
だが、はたしてそれは、ほんとうに「ふつう」なのだろうか?(p48)
人類は、感染症の脅威に対抗するために抗生物質や農薬や消毒薬を発明し、細菌やウイルスを排除してきました。それは確かに大勢の人の命を救いましたが、間違っていたのはすべての細菌を敵だと決めつけたことでした。
こうした化学薬品は自然界の生態系を破壊しただけでなく、それらとつながっていたわたしたちの内部の生態系も破壊し、健康を保つために必須の役割を果たしていた有用な細菌を殺しました。
その結果、アレルギー、自己免疫疾患、肥満、過敏性腸症候群などの胃腸疾患、そして自閉症などの発達障害が急増しました。
つまり、現代のわたしたちは、数世代にもおよぶ大規模な微生物生態系の破壊のあおりを受け、年余にわたって累積されてきた自然欠乏の結果に苦しんでいるのです。
体内の生態系は修復できるか
では、この破壊された微生物生態系を修復する方法はあるのでしょうか。
近年、マスメディアによって、特定の食品やサプリメント、プロバイオティクス(ヨーグルトなどの生きた最近を含んだ製品)を食べることで、腸内細菌が整えられるといった宣伝がされていますが、これには十分な根拠がありません。
できることなら私だって、カップ一杯のヨーグルトやフリーズドライした細菌の錠剤で奇跡的な回復を果たしたというようなストーリーを紹介したい。
ラクトバチルス・イノベーションならあなたのお子さんの花粉症を治せるとか、ビフィドバクテリウム・ファンタジーなら痩せられるとか、アドバイスできるものならしたい。でも当然ながら、そんな簡単な話ではない。
あなたの腸には100兆の微生物がいる。100,000,000,000,000である。これは地球上の人口のおよそ1500倍で、それがすべてあなたのお腹の中にいる。菌種別では2000種ほどだろうか。この数字は人間社会の国の数のおよそ10倍にあたる。
この2000種の中に無数の菌株があり、それぞれ遺伝的に異なる能力をもつ。
…そんな戦場に小さなカップ入りヨーグルトの中身が入っていくところを想像してみよう。…激戦地に入り込むにはいかにも非力な集団だ。…旅行者は全員同じ遺伝子をもつ細菌なので、同じ戦術しか使えない。(p266-267)
まだ人体の内部の細菌群については未知の部分があまりに多く、しかも一人ひとりの腸内にいる細菌の種類はまったく異なっています。
細菌が人をつくる (TEDブックス)に書かれているように、どんなプロバイオティクスでも効果があるかのように宣伝されがちですが、特定の種類のプロバイオティクスが、万人に効果があるなどということはありえません。
プロバイオティクスの現状の問題のひとつは、確かな研究成果を上回って誇大な広告が流布していることです。
…最大の問題は、どんなプロバイオティクスでも効果があるだろうと多くの人々が決めてかかっていることです。他の場合には考えられないことです。
余裕人や家族にこう言ったとします。「気分が良くなくて、薬を飲んだらと言われたので。飲んだんだ。そしたら、良くなった」
すると、次にこんな質問が続くでしょう。「どんな薬を飲んだ?」(@122-123)
現状のプロバイオティクス商法は、あたかも薬局に売っているどんな薬を飲んでもいい効果があると言っているようなものです。
自分のかかっている病気で特定の菌株が減少しており、特定のプロバイオティクスが効果があるという研究がある場合はともかく、そうでない場合は健康的な食事(たいていは地域の伝統食)や、プレバイオティクス(有益な細菌の食物となる食物繊維)の摂取などに務めたほうがいいでしょう。
また、腸内細菌を整える別の方法として、糞便移植も注目されています。これは、健康的なドナーの糞便を腸に移植することで、腸内細菌の生態系を変えてしまおうとする方法です。
生理的な拒否感を示す人も少なくないでしょうが、意外にも、あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめたによると、これは動物たちも行なっている自然な方法に倣っています。
野生状態で食糞することはないのに、動物園では熱心に食糞行動するという動物もいる。それを見て、とくに子どもの動物がうれしそうに糞を食べているのを見て、飼育員はしばしば当惑する。
動物園におけるこの行動は「暇だから」と解釈されることが多い。体を揺すったり、歩き回ったり、とりつかれたように身づくろいする行動と同類だと思われがちなのだ。
だが、自閉症やトゥーレット症候群、強迫性障害の患者を診ている精神科医なら、こうした行動に自分の患者と動物園の動物の共通点を見るかもしれない。
…生理学的な解釈はもっと微生物寄りだ。反復行動を生じさせているマイクロバイオータの不具合を元に戻すには、より健康な他の個体の糞を食べるのが近道だ。
つまり、食糞は異常行動でも何でもなく、病んだ動物が自分のディスバイオシスを正すための適応行動だと考えられる。(p274)
動物園で飼育下にある動物が、自閉症や強迫性障害のような反復行動や自傷行為をみせ、自然界ではかからない自己免疫疾患を発症することはよく知られています。
このことは動物園の動物と、現代社会に生きるわたしたちが、自然界でから切り離され、抗生物質や抗菌剤を過剰使用された環境で過ごすという同じ理由によって、同じ問題を抱えていることを示しています。
このような状況に陥ると、動物たちはマイクロバイオータを修復するために他の動物の糞を食べる行動に出ます。そうするよう本能的にプログラムされているのです。
とすれば、わたしたちが同じような病気を治療するために、他人の糞便を移植するという結論に至ったとしても不自然ではありません。特定の薬物で病気を治療するより、生態系全体を移植する方法のほうがより自然なやり方です。
しかし、こうした治療法は、ごく早期に施さなければ効果が十分でないようです。
プロバイオティクスと同じく糞便移植も、自閉症や1型糖尿病のような病態への治療には影響力が小さすぎ、またタイミング的に遅すぎるように思われる。
すでに損傷が生じてしまった場合や、器官の発達を左右する重要な時期を逃してしまった場合には、マイクロバイオータをどれだけ修復したとしても損傷の拡大を防ぐ程度の効果しかないだろう。(p284)
別の記事で詳しく書いたように、わたしたちの体内のマイクロバイオータは単独で役割を果たしているのではなく、腸や脳と連携する脳-腸-マイクロバイオータ相関を築いています。
とくに幼い時期のマイクロバイオータの組成は、脳がどのように発達するかを左右します。腸にどんな細菌がいて、どんな物質を作り出すかに応じて、脳の発達が変化し、それぞれの持つマイクロバイオータに適した脳の回路が作られていきます。
マイクロバイオータの多様性が、発達障害に関係しているのはこのためです。単に腸内環境が乱れているから発達障害の症状が起こるのではなく、腸内環境の乱れに応じて脳が発達し、相互に影響を及ぼしながら成長していくことが問題なのです。
腸内のマイクロバイオータの組成が決まる時期と、前項の愛着の手続き記憶が形成される時期は同じであり、両者は互いに結びついているようです。
つまりわずか2,3歳ごろまでに育まれた愛着のパターンが一生影響を及ぼすのは、その時期に決まるマイクロバイオータに応じて、脳の配線がほぼ決定されてしまうからであるようです。
マイクロバイオータを修復するには、愛着と同様、かなり幼い時期の経験が重要であり、大人になってから大きく手を加えるのは、現在の医療では難しそうです。
とくにマイクロバイオータの多様性は、数世代にわたって減少しているため、個人の努力だけで解決できるレベルの自然欠乏ではありません。
生物生態系を修復するという試みはまだ新しい分野で、先行きは不透明だ。
プロバイオティクス、プレバイオティクス、糞便移植、微生物生態系治療のどれをとっても、「予防は治療にまさる」という古くからのことわざ以上に有効なものはない。
私たちは過去数十年で、ヒトという種を支えてきた微生物の多様性を失ってしまった。
抗生物質もファストフードもない辺地で暮らす社会がこの地球に残っていなかったら、私たちはヒトのマイクロバイオータの「本来の姿」を知ることはできなかっただろう。
地球全体での生物多様性が失われているように、私たちの内なる生態系の多様性も失われつつある。(p294)
マイクロバイオームの生態系の破壊は、この記事のはじめのほうで出てきたピーター・カーンによる「環境性・世代間健忘」という概念の最たるものです。
数世代にもわたって社会のみんながまともな状態を経験したことがないので、自分たちがいったい何を失ったのか、誰にもわからなくなってしまっています。
アランナ・コリンはこの本で何度も、自己免疫疾患、アレルギー、精神疾患、自閉症、肥満、過敏性腸症候群など21世紀病の急増は、「ふつうなんかじゃない」と書いています。(p48,49,50,52,53,54,71,75,131)
しかし、それらはあまりに周りにありふれているがため、当事者はもちろん医師たちさえも、ずっと昔からあったように錯覚しています。
微生物学において、“正常な”マイクロバイオームの研究は、アマゾンの原住民などの腸内細菌を採取することでやっと解明されてきました。
もしも、そのような『抗生物質もファストフードもない辺地で暮らす社会がこの地球に残っていなかったら、私たちはヒトのマイクロバイオータの「本来の姿」を知ることはできなかった』とコリンは書いています。
わたしたちの社会ではいま、根こそぎマイクロバイオームが絶滅し、だれも本来の微生物生態系を有していないため、あたかも自然欠乏障害が、人間にとって普通の状態であるかのように誤認されてしまっています。
しかしそれは「ふつうなんかじゃない」異常事態です。わたしたちは、あまりに遠く自然から切り離されてきたせいで、もはやふつうとは何かがわからなくなってしまっているのです。
自然界に無駄なものなどない
それでも、わたしたちにできることがあるとすれば、自然界には無駄なものは何一つない、ということを思いに留め、現代人に許された選択の自由を賢く用いることでしょう。
幸い先進国では、自分の健康のかなりの部分を自分で決めることができる。
親からもらった遺伝子や環境因子を変えることはできなくても、自分のマイクロバイオータを整え、育て、世話することはできる。
何を食べるか、どんな薬を飲むかであなたの微生物群は変化する。あなたが微生物を大切に扱えば、微生物はあなたにお返しをしてくれる。
これから子どもを産もうと思っているなら、親(とくに母親)がその子のマイクロバイオータを決めるのだという自覚を持とう。(p360)
先進国に住むわたしたちは、自分のライフスタイルを自分で選び、決めることができます。
デジタル機器に囲まれた自然のない都会に住むか、それとも多少不便であろうと自然の多いところに引っ越すか。
保存料、合成調味料、着色料などで加工されたファストフードや冷凍食品を食べるか、それとも多少手間がかかるとしても、腸内のマイクロバイオータがよりよい代謝物を生成できるように、精製されていない穀物や食物繊維を食べるか。
病気になったとき、安易に抗生物質を処方する医者にかかるか、それともマイクロバイオームの研究など、最新の知見にしっかりついていっている良心的な医師を探すか。
余暇は家にこもってテレビゲームや映画を楽しむか、それとも自然の多いところに出かけて、森林浴や園芸などを通して微生物を体内に取り込み、マインドフルなひとときを過ごし、自然との愛着を修復するか。
できる選択はたくさんあります。
選択の基準となるのは、生物学的な観点から自分を見ることです。すなわち、自分は文明社会に生きる賢い人間である、と考えるのではなく、この地球上で何千年、何万年と栄えてきた動物たちの子孫、ヒトという種の生き物だと考える必要があります。
自分を人間ではなく、動物の一種だと見る視点があれば、なにがより「自然」なのかがわかるでしょう。わたしたち現代人はいかに生まれたときから文明社会に生きていようとも、この体は、自然界の動物たちと同じ仕組みで機能しているのです。
そして、それら太古の昔から精錬されてきた、わたしたちの身体の仕組み、およびそれを取り巻く自然界の仕組みには、なにひとつ無駄なものはありません。
精巧に作られた時計をイメージしてみてください。ネジを回してフタを開けてみると、複雑で謎めいた部品がたくさん詰まっています。端っこにある小さな部品は取り去っても問題ないように思えます。ではそれを捨ててしまってもよいでしょうか。
あるいはウェブサイトやアプリを動作させるための複雑なプログラミング言語について考えてみてください。素人目からすれば、別になくても構わないような記述がたくさんあります。では、容量削減のためにそれを消してもよいでしょうか。
わたしたち人類が自然界に対してやってきたのは、まさにそのようなことです。あまりに精巧に作られているその仕組みをよく知らないがために、なくてはならない部品を捨ててもいいものだとみなしてきました。
たとえば、ダーウィンは、内臓のひとつである「虫垂」を、捨てても構わない痕跡器官だとみなしました。
チャールズ・ダーウィンは『種の起源』に続いて出版した『人間の由来』の補遺(アペンディクス)に、「痕跡器官」についての論考を載せた。
彼はその論考で、ヒトの虫垂(アペンディクス)について、他の動物のそれと比べてサイズが小さいことからヒトの食生活の変化にともなって退化した痕跡器官ではないかと述べている。(p23)
この「痕跡器官」というダーウィンらしくない浅はかな考えの結果、その後100年間、虫垂は外科手術で頻繁に切除されてきました。ないほうがいいから積極的に切除しよう、とさえ考えられることもありました。
しかし今日では、虫垂は微生物たちの棲み家であり、免疫系に必須の部位だとわかっています。
別の例として、たとえばゲノムの中の一見機能していないように思われた遺伝子群は、生物学者の大野乾によってジャンクDNA(ガラクタ遺伝子)と命名されました。
しかし今では、決してジャンクでもガラクタでもなく、重要な役割を果たしていることが確認されています。
人間はいつの時代も、自分にとっては意味がわからず、一見役に立っていないように思えるものを無駄なものだとみなしがちです。しかし、無知なのは必ず人間のほうであり、自然界には無駄なものがないことが判明します。
人間はまた、良かれと思って、「自然な」やり方を変えてしまうことがあります。たとえば微生物学の分野でよく注目されるのは帝王切開や無痛分娩です。
出産の痛みや母体への負担を思えば、できるだけ苦痛が軽いほうがいい、と思うのは当然のことです。しかし、帝王切開は、アレルギー、自閉症、自己免疫疾患、肥満などの発症率を増加させます。
すでにお気づきのとおり、これらはどれも21世紀病だ。細かく見れば、それぞれに環境要因や遺伝因子など幅広い要素が関係しているものの、帝王切開が21世紀病のリスクを高めているのは明らかだ。(p238)
微生物学の研究によれば、帝王切開がこれらのリスクを増加させるのは、赤ちゃんは通常、産道を通ることで微生物を獲得するからです。
しかし帝王切開で生まれた赤ちゃんは、母親の膣内マイクロバイオームを受け継ぐことなく、代わりに医療スタッフや親の皮膚などの細菌を、最初のマイクロバイオームとして獲得してしまいます。
何も知らない人間からすれば、もう赤ちゃんが大きくなっているのであれば産道を通って出産しようが、帝王切開して取り出そうが同じだと思えたかもしれません。しかし、自然の仕組みにはすべて理由がありました。
もちろん、やむをえず帝王切開が必要な場合もあり、その場合は母親の膣内マイクロバイオームを赤ちゃんに塗布すればよい、とたいていの微生物学者は述べています。
しかし、これも本当にそんな単純な話なのでしょうか。アランナ・コリンは、もっと踏み込んで調べ、次のような研究に触れています。
不思議なことに、出産方式によって母乳に含まれる微生物が変わる。陣痛がはじまる前に計画的な帝王切開で出産した女性の初乳に含まれる微生物は、経膣出産した女性のそれとかなり違う。
…陣痛中の何かが警報を発して、これから赤ん坊を外に出すことを免疫系に知らせ、胎盤ではなく母乳に栄養が行くよう指示しているようだ。
…計画的な帝王切開は赤ん坊にとって二重の不利益となる。産道で必要な微生物を得られないうえに、母乳による追加の微生物も得られない。(p246)
アランナ・コリンは、自分は生物学者であると同時に、母になることを考える女性であるとこの本に書いていますが、それゆえに出産の自然なプロセスの意味について、他の微生物学者たちより真剣に考えたのかもしれません。
私たちはいま、子どもたちをモルモットに壮大な実験をしている。
自然に反して、陣痛のはじまる数日前、または数週間前に外科的に赤ん坊を取り出すとどうなるのか。
微生物一式のことはさておき、分娩中に分泌されるホルモンや、産道を通るときの圧力を赤ん坊に与えないとどうなるのか。
分娩中に体内で生じるはずの化学的、物理的な変化を経験しないまま、外科医のメスで妊娠状態をとつぜん終わらせると母体はどうなるのか。
こうした疑問への答えを、私たちはいまやっと学びはじめたところだ。帝王切開は母体と赤ん坊にとってほんとうに必要なときだけの措置とし、そうでない場合は自然に任せることを、社会全体が認識すべきである。(p305)
ここでアランナ・コリンが、「分娩中に体内で生じるはずの化学的、物理的な変化を経験しないまま、外科医のメスで妊娠状態をとつぜん終わらせる」ことによって赤ちゃん側だけでなく、母親側が受ける影響を危惧しているのは注目に値します。
これと似た例が、事故後のトラウマの研究で見られます。事故に遭った被害者は、搬送中にガクガクと震えますが、医療関係者はそれを制御できない興奮状態とみなして、抑制する薬物を投与してきました。
しかし、神経生理学者のピーター・ラヴィーンは、動物行動学の研究から、この震える反応は、神経系をリセットして、平衡状態に戻るために必要なプロセスであることに気づきました。
ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、そのことを救命救急士の女性にこう説明しています。
「実は、」彼女はさらに言った。「患者を病院に搬送したとき、患者が震えるのを故意に止めているのに気づいていました。きつく拘束したり、ヴァリウム注射をしたりすることもありました。たぶん、それはあまり良くないことなのですね?」
「ええ、まったく」…「束の間の安心を与えることはできるかもしれませんが、そうすることで患者を凍りつかせ、身動きがとれないままにしてしまうのです」
…「思うのですが、」彼女はよく考えて言った。「手術の後よく見うけられるようなからだの震えを、抑制するのではなくそのままにさせておけば、回復はずっと早くなり、おそらく術後の痛みも減少されるのではないでしょうか」。
「その通りです」と私は同意を笑顔で示した。(p10)
トラウマ体験後に起こる激しい震えは、神経系をリセットする役割があります。この震えが抑制されてしまうと、神経系がリセットされないので、たとえ傷は治っても、過覚醒状態が続いたままになり、PTSDを発症してしまいます。
外科医たちは、交通事故とは、単に肉体の傷だと考えているかもしれません、麻酔で痛みを抑え、手術し、傷が言えれば治るものだと。
しかし実際には、交通事故は、巨大な衝撃によって神経系が揺さぶられることであり、震えという反応を通してトラウマ経験に終止符が打たれない限りは、自律神経のコントロールを取り戻せないのです。
これは、出産のときの陣痛の効果とよく似ているように思えます。出産とは、事故によるトラウマと同じく、母体の神経系に強い負担がかかる行為です。
母親の身体は、出産というプロセスに終止符を打ち、次なる子育てのステップに移行しなければなりません。前述のように、陣痛はそのスイッチの役割を果たし、「胎盤ではなく母乳に栄養が行くよう指示」するようです。
自然をねじふせて征服するか、それとも自然の力を借りるか
明らかに、自然の仕組みには、すべてのことに意味があります。
人類は良かれと思って感染症を撲滅しました。すると21世紀病としての慢性疾患や発達障害、アレルギーなどが増加しました。
良かれと思って、事故後の震えや、出産の際の陣痛を経験しないでよい方法が開発されました。すると、傷が回復した後もトラウマが残ったり、子どもにうまく微生物が受け渡されなくなったりしました。
良かれと思って自然の危険から子どもを遠ざけ、家の中の安全な場所で遊ばせるようにしました。すると、子どもは自然の中で育まれる安全基地を獲得できず、自然欠乏障害を抱えるようになりました。
もちろん、新しいものをつくり出し、創意工夫をめぐらせることは何も悪くありません。人間は創造的な動物です。より便利で快適な社会を目指してこその人間です。
精巧に作られた時計と違って、自然界には柔軟性があります。一部を損なっても、ある程度なら別の部分が補ってくれます。だからこそ、人間には自由に工夫する余地があります。
大切なのは節度をわきまえること、そして自然に敬意を抱くことです。人間の知恵のほうが自然の叡智より勝っている、などと考えるのではなく、自然のやり方を理解しようと努めることです。
神経科医オリヴァー・サックスがレナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)で述べているように、人類は自らが自然界に生きる動物であることを忘れ、何もかもコントロールできるかのように思い上がってきました。
こうした神秘主義で機械的な態度は…きわめて非科学的であり、自然に対して不適切な態度と言えよう。
それは人間は自然を理解しなければならないという謙虚な気持ちを持つ代わりに、あたかも人間が自然に命令し従わせることができると思うような態度である。(p453)
精神科医ノーマン・ドイジも、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、医学の世界には同様の問題点が見られることを指摘しています。
マギル大学(カナダ)の元医学部長エイブラハム・フクスが指摘するように、自然の征服という概念は、日常の医療実践で口にされる数々の軍隊的なたとえ(メタファー)を生んできた。
医学は疾病との「戦い」だとされた。医薬品は「魔法の弾丸」であり、医学は「がんと交戦」し、「治療法という武器」を手にし、「医師の命令」のもとに「エイズと戦う」のだ。
…しかしメタファーはさまざまな問題を引き起こす。そして、自然を「征服」できるという考えそのものが、世間知らずな希望にすぎない。
…それに対して神経可塑的なアプローチは、心、身体、脳のすべてを動員しながら、患者自身が積極的に治療に関わることを要請する。
このアプローチは、東洋医学のみならず西洋医学の遺産でもある。科学的な医学の父ヒポクラテスは、身体を重要なヒーラーと見なし、医師と患者が協力し合いながら、自然の力を借りて、身体が治癒能力を発揮できるよう導くことを重んじた。(p20-21)
海洋生物学者レイチェル・カーソンが沈黙の春 (新潮文庫)の冒頭で引用している作家E・B・ホワイトの言葉もまた、同意見です。
私は、人類にたいした希望を寄せていない。人間は、自分の利益ばかり考えて、ずるがしこくたちまわるばかりだ。
自然を相手にするときには、自然をねじふせて自分のいいなりにしようとする。
私たちみんなの住んでいるこの惑星にもう少し愛情をもち、疑心暗鬼や暴君の心を捨て去れば、人類も生きながらえる希望があるのに。(p3)
わたしたちは、人類は自然を征服し、そのことわりを変えられるという、このような思い上がりを捨てる必要があります。そして、創意工夫を働かせつつも、自然と調和したライフスタイルを模索するべきです。
何世代にもわたって、自然欠乏障害を抱えてきたことを自覚し、「私たちみんなの住んでいるこの惑星にもう少し愛情をもち」「自然を理解しなければならないという謙虚な気持ちを持つ」こと、「自然の力を借りて、身体が治癒能力を発揮できるよう導くこと」が大切なのです。
まとめ : 自然は贅沢品ではなく生活必需品
この記事で考えたことを最後にまとめてみましょう。
ジャーナリストのリチャード・ルーブが提唱した概念。ADHDなど現代の子どもたちに増加している問題の原因の一端が、自然から切り離された生活にあるという考え。
(1)いま自然が足りない
人類を含め、動物は自然界からの刺激を手がかりにして自分の生理状態を調節してきた。自然豊かな環境でADHD症状が和らぐという多数の研究や実体験は、注意回復理論(ART)、ストレス低減理論(SRT)、ポリヴェーガル理論などから説明できる。
このような効果は、自然の中に身を置くだけで、今すぐ体験できる。
(2)幼いころに自然が足りない
幼いころの自然と親しむかどうかは、親子の愛着と同じような影響を及ぼす。愛着とは幼いころに感覚運動的に経験した手続き記憶のことであり、その後の人生の人間関係やストレスに対する反応のパターンの基礎を作る。
自然との愛着関係が生みだす効果は、文字通りの母親との愛着が長期にわたる養育によって形成されるように、ずっと自然の中に身を置き、日々親しむことによってはじめてもたらされる。
(3)数世代にわたって自然が足りない
微生物学の研究によると、発達障害、アレルギー、自己免疫疾患、胃腸疾患、肥満などが20世紀中盤から急増したのは、抗生物質や農薬などの乱用で、わたしたちの体内の微生物の生態系が撹乱されたから。現代人は数世代にわたるマイクロバイオータの多様性の減少のあおりを受けている。
体内の微生物生態系の修復は、わたしたち個人で対処できる領域を超えた問題だが、より自然に配慮したライフスタイルを選択することである程度は改善できる。
この記事ではおもに3つの観点から考えましたが、「自然欠乏障害」の概念そのものは、もっと広い分野に当てはまるように思えます。
ルーブが述べていたように、ADHDは多因子疾患であり、「自然が足りない」ことだけが原因ではありません。
ハイパーアクティブ:ADHDの歴史はどう動いたかにもこう書かれていました。
もし多動症の歴史が何らかの洞察を与えることができるとすれば、そのような行動は、ある種の状況、概して子どもらしくではなく大人のように振る舞うことを必要とされる状況下でのみ、破壊的とみなされてきただけなのである。
子どもの行動が病的と認められたとして、その子の家庭、文化、教育環境、そしてその子の朝食で食べるものまで、数えきれない要因が症状に関連すると考えられてきたことを、多動症の歴史は示している。
遺伝のせいにして薬物を与えるといった容易な方法を用いる前に、大人は子どもに対して、歴史に注目し、これらの要因のすべてをまずは最初に考える義務があるのである。(p288-289)
たとえ自然豊かなところに住んでいても、幼少期の愛着形成の問題、慢性的な睡眠不足の生活、食品添加物の多い不健康な食生活、デジタル機器依存といったライフスタイルの影響で、ADHD様症状が現れることを示すさまざまな研究があります。
しかしながら、こうしたさまざまな環境要因の多くは、どれも「自然ではない」ことから起こっているようにも思えます。自然界の動物たちが基本的には経験しないような、人類がつくり出した異質な環境によるもの、という意味においてです。
確かにADHDの要素は遺伝的に受け継がれてきました。しかしそれは、自然界の動物たちにとって有利に働く特性だったからです。常に動きまわり、探索し、探求し、機敏に反応することは、自然界では障害ではなく有利な能力です。
ところが、人間が動物らしく生きることをやめ「大人のように振舞う」文化、つまり理性や認知に重きを置き、動きまわるよりじっと座っていることが美徳であり、身体を動かすより頭を使うことを求める社会をつくり出したとき、この特性は「障害」になりました。
しかし、どれほど垢抜けた文明人のように振る舞おうと、わたしたちが動物と同じ機能を有した生き物であることは変わりませんし、わたしたちの身体は、自然のさまざまなシグナルや微生物たちとの協力関係なくしてはうまく機能しない有機体であることには変わりないのです。
社会全体の流れは、自然界のなかで身体を動かしたり感じたりする活動を少なくする方向に動いていますが、わたしたちは、何が人間という動物にとってより自然なのか、よく考えてライフスタイルを選ぶ必要があります。
途中で考えたように、現代社会では「自然は贅沢品であり、必需品ではないと考える」むきがあります。しかし、動物にとって自然が贅沢品であるはずはありません。それは生きるために必須の要素です。
あなたの子どもには自然が足りないでルーブはこう書きます。
実は、子供たちの健康に自然が必要であることを新しい証拠をもって例証するのがますます重要になっているのは、右のような、無理もない風潮あってのことである。
つまり、私たちはこう考えてみるべきだと思うのだ ―「自然の中にいる時間は、レジャーのための時間ではない。それは子供の健康にとって絶対に必要な投資なのだ」(p136)
自然が贅沢品やレジャーのための時間である、という考え方は、ヒトもまた動物であるという生物学の観点に真っ向から反する思い上がりであり、わたしたち現代人がいかに本能から切り離され、不自然な環境で生きることを当たり前とみなすようになってしまったかを物語っているといえるでしょう。
ルーブが述べているように「それは子供の健康にとって絶対に必要な投資なのだ」という考え方、あるいはNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方でも書かれているように、「わたしたちには自然が絶対的に必要である」という考え方がどうしても必要です。
「自然にアクセスしよう」というながりを盛り上げるには、学校、教会、職場、地域社会、市町村が一体化して取り組むのがいちばんだ。
そのためには、「わたしたちには自然が絶対的に必要である」という認識をもっと広めなければならない。
本書の執筆を通じて、そうした必要性があまりにも過小評価されていることを痛感した。
その証拠として、小学校の休み時間が削られ、子どもが外で遊ぶ時間も減り、建物や都市設計でも日光や広々とした空間、新鮮な空気はさほど重視されず、多くの人が戸外に出ようとせずに室内でばかり過ごしている。
…自然を欲する本能を満たすからこそ、行動を起こす意欲が湧きあがってくるいう脳のシステムをきちんと理解しないかぎり、万人が自然の恩恵を受けられるような取り組みはなされない。(p343)
わたしたちは、「自然を欲する本能を満たすからこそ、行動を起こす意欲が湧きあがってくるいう脳のシステム」、すなわちこの記事で考えたような研究について思いにとめておく必要があります。
自然は太古の昔から生物に組み込まれた必須パーツであり、精巧な時計を動かすためのさまざまな部品のようなものです。どれかが欠けても正常に動くという保証はありません。
わたしたち人間は、この地球上に生きる多種多様な生物の一種として、自然環境や微生物たちと結びつき、共生しながら生きてきました。そこには絶妙なバランスがあり、あらゆるものが互いに密に影響しあっていました。
いまわたしたちは、その生物学的に必須の要素を、自らの手で取り去っています。生まれながらに自然と切り離された環境に生きる子どもたちは、自分が自然欠乏状態にあることに気づかないまま、進化生物学者アランナ・コリンが言うところの、急増する「21世紀病」に悩まされています。
だから今、はっきり自覚しなければなりません。
わたしたちには「自然が足りない」のです。