この記事は「自己意識」について脳科学的に考えた前回の記事の補足です。本文と合わせて読んでいただくほうがわかりやすいと思いますが、単独でも読めるように書いています。
本文では、「自己意識」は、どのように作り出されるのか、神経科学者アントニオ・ダマシオやバド・クレイグの理論をもとに考えました。
たとえば感受性の強いHSPの人たちがしばしば「意識しすぎ」だと言われるのは、この自己意識を作り出す脳の領域が活発すぎる、ということで説明がつきます。
自己意識の機能が強いことは、ちょっとした刺激に敏感になったり、他の人の評価を気にしすぎてしまったり、感情移入しすぎたり、鮮明な夢を見たりと、実にさまざまなところに関係していました。
この記事ではその補足として、さらにもうひとつ、自己意識の機能は、「ベストを尽くす」という能力にも関係しているのではないか、という点について考えます。
「ベストを尽くせ」と言われても、自分にとってのベストとは何なのか、どの程度までやればいいのかがわからず、ついやりすぎてしまう人がいます。わたしもそうでした。
子ども時代にトラウマを負った人、発達障害の人、さらには慢性疲労症候群や線維筋痛症といった病気になる人たちは、しばしば「頑張りすぎる」と言われます。自分で限度がわからず、果ては身体を壊してしまいます。
限度を超えてやりすぎてしまうのはなぜでしょうか。どのようにして、限界をわきまえることができるでしょうか。
やりすぎる性格―本当に心理的な問題?
自分の限度を認識できず、ついやりすぎてしまうのは、従来なら、完璧主義や強迫的な性格として解釈されてきました。心理的な問題だとみなされてきたわけです。
しかし本当にそうでしょうか?
ダマシオの理論によれば、「心」は「身体」から作られます。わたしたちの身体は有機物から作られているわけですから、あらゆる「心理的な」問題には「身体的な」基盤があります。
脳は奇跡を起こすで精神科医ノーマン・ドイジが述べるように、もはやデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という有名な思想にもとづく心身二元論は正しくないことが明らかになっています。
こうした実験結果は喜ばしいだけではない。フランスの哲学者、ルネ・デカルトが提唱した心身二元論は、精神と脳はまったく別ものであり、べつの法則によって支配されているとした。
この理論から生じた混乱は数世紀続いてきたが、それがくつがえされることになったのである。
…デカルトの説では、実体のない精神が実体のある脳にどのような影響を及ぼすのか、納得のいく説明ができなかった。それなのに、彼の心身二元論は400年ものあいだ科学の世界を支配してきた。(p252)
心は身体とは別の精神体ではありません。ましてや身体に宿る魂のようなものでもありません。神経科学のさまざまな症例がはっきり示しているように、有機体である身体が、心を生み出しているからです。
前回の記事で考えたように、「自己意識」もまた、有機体である身体から生み出されています。
本文で詳しく書いたように、ダマシオの意識と自己 (講談社学術文庫)によれば、「自己」や「意識」とは、つきつめていえば身体の恒常性を保つための機能、つまりホメオスタシスを維持するための装置であると考えられています。
わたしたちは、「意識」があるおかげで、自分の身体を意識的に自覚することができます。そして、身体の恒常性を乱すような危険が生じたとき、適切に対処することができるようになります。
一貫した変わらない自己意識があるおかげで、一貫した変わらない内部環境というホメオスタシスを維持できるのです。
動物は「最善を尽くす」ための機能を備えている
意識とは身体のホメオスタシスを維持するための能力である、ということに留意したうえで、脳神経科学者オリヴァー・サックスが、レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)の中で書いている次の説明を読むと、とても考えさせられます。
ホメオスタシスとは、一定の条件下で可能な(あるいは両立し得る)最適条件を手に入れることであり、手短に言えば「最善を尽くす」ことだ。
人間生活のあらゆる場面、つまり分子や細胞のレベルから社会的・文化的活動の段階まで、ホメオスタシスは広く機能しているのである。
…こうした働きは、ストレスを与えられたすべての生物に見られ、私たちがほとんど知らないような深さや複雑さを持っている。(p458)
サックスは、ホメオスタシスとは、「最善を尽くす」能力だと述べています。
これはいったいどういう意味なのか。
生物は、生きていく上で、さまざまなストレスに日々さらされます。たとえばそのひとつに気温の変化があります。
気温が氷点下や猛暑日になると、生体にとっては強いストレスがかかります。でも生物は、ホメオスタシスによって「最善をつく」し、できる限り体温を平熱に保ちつづけます。
しかし「最善をつくす」とは、限界を超えてやりすぎることではありません。限界を迎えるとホメオスタシスは機能しなくなり、痛みや疲労、発熱などのアラームによって危機を知らせます。
そうした危険を知らせるアラームを感じとると、動物は速やかにその場を離れ、できるだけ安全な場所に移動します。
ひたすら我慢して、氷点下の屋外にとどまり続けたりせず、暖かい場所に移動することによって。あるいは、ひたすら辛抱して、炎天下の屋外にとどまりつづけたりせず、涼しい木陰に移動することによって。
このおかげで動物は、ベストを尽くすと同時にやりすぎないように守られます。
野生動物はやりすぎることがありません。置かれた状況で「最善を尽くす」ことはします。でも「最善」の限度を超えてやりすぎることはありません。
あらゆる動物は、ホメオスタシスが組み込まれているおかげで、最善を尽くすとはどういうことか本能的に知っている、ということができます。
しかし人間の場合、この「最善を尽くす」機能が狂ってしまうことがあります。その結果が、自分の限界がわからず、やりすぎてしまうことなのではないでしょうか。
なぜやりすぎてしまうのか
トラウマを抱えている人や発達障害の人の中には、「最善を尽くす」のがとても苦手な人たちがいます。
「ベストを尽くせ」と言われても、自分の限界がわからず、ついやりすぎてしまう人が少なくありません。
このブログでも、かつてそうした傾向について記事にまとめたことがあります。
要約すると、限界を超えて「頑張りすぎる」傾向は、一般に思われているような、完璧主義的な性格によるものではなく、幼少期の愛着体験の不安定さからくる基本的な安心感の欠如によって生じている、というものでした。
やりすぎてしまい限度がわからないのは、結局は愛着障害が根底にあるのでは?という解釈でした。
しかし、その記事を書いたあとの数年間で、わたしは「愛着」とは心理学的な体験ではなく、生物学的な現象であることを学びました。
愛着とは、乳幼児期の感覚的な体験が、言葉によらず、無自覚のパターンとして、身体に記憶される現象です。
わたしたちは、ごく幼い頃に世話された方法のパターンを、身体的な記憶として覚えます。その身体的な経験が、成長してから自己コントロール能力を身につけるときの土台になります。
乳幼児期に親から適切な世話を受けられないと、そうした自己コントロール能力が学習されません。大人になっても、自己調節が苦手で、自律神経の不安定さを抱えてしまいます。「愛着障害」の人たちの行動や感情が不安定になるのはそのためです。
こうしたことを学んだ結果、わたしは、頑張りすぎる傾向を幼少期の“心理的な”体験から説明していた過去の記事は、もはや十分ではないと考えるようになりました。
「ベストを尽くす」とはどういうことか、適切なバランスがわからず、自分の限界を超えてやりすぎてしまう傾向が、乳幼児期の愛着の形成と関係している、という考えは変わっていません。
しかしそれは“心理的な”影響によるものではなく、自分の身体をしっかり認識して、限度をわきまえることを学習できなかった、という愛着の“身体的な”側面によるものだと今は考えています。
このブログで過去に何度も引用している説明ですが、トラウマ専門医ベッセル・ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、愛着の生物学的側面について、次のように書いています。
ボウルビィと同時代の小児科医で精神分析医のドナルド・ウィニコットは、同調の近代的研究の父だ。
母親が赤ん坊をどのように抱くかから始めて、彼は母子の詳細な観察を行なった。
そして、こうした身体的相互作用が、赤ん坊の自己感覚の土台となり、その感覚とともに、生涯にわたる自己同一性感覚の基礎も固まると主張した。
母親が子供をどのように抱くかが、「精神が宿る場所として体を感じる能力」の根底にある。
私たちの体がどのように接し合うかに関するこの内蔵感覚と運動感覚が、私たちが「現実」として経験するものの基礎を築くのだ。(p187)
赤ちゃんにとって、母親に抱かれる、という体験は、人生ではじめて、自分の身体を感覚的に認識する体験になります。
日々、母親から抱かれるその感触をもって、自分の身体がそこにある、ということを認識できるようになっていきます。そうして初めて、「体を感じる能力」が養われていきます。
そして、「体を感じる能力」は、やがて「赤ん坊の自己感覚の土台となり、その感覚とともに、生涯にわたる自己同一性感覚の基礎も固まる」と書かれています。
わたしたちの自己、すなわちホメオスタシスを維持するための自己意識は、もとをたどれば、母親に抱かれるという愛着体験から成長していくのです。
わたしたちは、生まれてすぐのころは、母親に抱かれ、優しくあやされることで、自律神経をはじめとするホメオスタシスを調節してもらいます。過覚醒になって泣き出したときには優しく身体をさすってなだめられるかもしれません。
その中で、赤ちゃんは、「体を感じる能力」を養っていきます。親に世話される身体的な経験を繰り返すうちに、やがて自分の身体を認識できるようになり、自己意識が発達していきます。
その結果、いずれは自分で自分のホメオスタシスをコントロールできるようになっていきます。
わたしたちは誰でも、「体を感じる能力」が未熟な赤ちゃんのころは、「ベストを尽くす」というバランスがわかりません。だから親の助けが必要です。
しかし親の愛情深い世話によって、「体を感じる能力」が育っていくうちに、自分の体の限界が直感的にわかるようになっていきます。親の助けを借りず、ひとりで「ベストを尽くす」ことができるようになるわけです。
自然界のあらゆる動物は、成長すれば、親の助けなしで、ベストを尽くして生きられるようになります。やりすぎることもなければ、怠惰になることもありません。自分はどのくらいまでやれるかが、直感的にわかるからです。
本文のほうで書いたように、この「直感的にわかる」能力は、体と脳に保存されている、幼少期の身体的な経験の膨大なデータにもとづいています。
赤ちゃんのころから身体で経験した体験の膨大なデータのおかげで、頭で考えることなく、体の感覚によって直感的にわかります。
わざわざ誰かに教えてくれなくても、あるいは検査機器で計ったりしなくても、体の感覚で、「あっ、これ以上やるとやりすぎになるな」と直感的にわかるはずなのです。
このとき脳では、自分の体の感覚(体性感覚)を感知する領域である島皮質や帯状回が活発に働いているはずです。
2種類の不安定な愛着
ところが、この「体を感じる能力」は、幼少期の体験の膨大なデータに依存しているので、もし不幸にも、親から満足のいく世話を受けられないような子ども時代を送った場合は、うまく直感が働かなくなります。
やりすぎているにもかかわらず、「このへんでやめておいたほうがいいな」と自分の体の限界を直感的に感じることができません。自分の体を認識する方法を、赤ちゃんのころに十分に教えてもらえなかったからです。
以前の記事で説明しましたが、愛着の学習は、言語の学習ととてもよく似ているようです。
赤ちゃんのころにしっかり学ばなかった言語は、大人になってからうまく話せないのと同じように、赤ちゃんのころにしっかり自己調節を身体的に教え込まれていなければ、大人になってから一人で自己調節するのが苦手になります。
愛着理論では、赤ちゃんのころに偏った養育を受けたせいで、うまく自己調節の能力を身に着けられなかった人は、おおまかにいって、2種類の両極端なパターンに分類されます。
興味深いことに、「やりすぎる」傾向を持つ病気である、慢性疲労症候群や線維筋痛症の専門医である村上正人先生は、患者たちにはやはり2種類のパターンがあると以前に述べていました。
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「自律神経を乱しやすい人のストレスの受け止め方は、大きく2タイプに分かれます。
ストレスを大きく膨らませる神経症タイプと、ストレスを無視して頑張りすぎる過剰適応タイプ。
2タイプを併せ持つ人もいます」と話すのは、山王病院心療内科部長の村上正人さん。
この説明は、愛着理論とぴったり合致しています。
愛着理論においては、前者の「ストレスを大きく膨らませる神経症タイプ」は「不安型」と呼ばれる愛着スタイルに相当します。
後者の「ストレスを無視して頑張りすぎる過剰適応タイプ」は「回避型」という愛着スタイルに相当します。
(両者の合併は「無秩序型」ですが、今回の記事では省きます)
まず、「不安型」の愛着スタイルは、子どもの気持ちを無視して自分本位に接する過干渉な親の家庭やなど、一貫性がない養育パターンの親の子どもにみられやすいとされています。
突然親と死別してしまう場合など、やむなき理由とはいえ一貫性のない養育になってしまう場合も、やはり子どもが不安型の愛着を抱えてしまうかもしれません。
トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際で説明されているように、「不安型」(「アンビバレント型」とも呼ばれる)のタイプの愛着を抱える人たちは、自律神経が交感神経優位の過覚醒になりやすく、しかも自分で自己調節するのが苦手です。
不安定-アンビバレント型愛着パターンをもった子どもたちは、覚醒の閾値が低いことと同時に、覚醒を耐性領域の枠内に留めておく困難があり、交感神経系が優勢な神経システムをもつ傾向があります。
…この子どもたちは、調節が不十分な高い覚醒状態へと傾きがちであり…自動調整が苦手なので、成人後に1人でいることをストレスフルだと感じる傾向があります。(p77)
「不安型」の人たちは、自分ひとりで自己調節するのが苦手なので、周囲の人との人間関係に依存しやすく、他の人から見捨てられる不安に敏感です。
村上正人先生が述べていたように、このタイプの人たちはちょっとしたことにも普通以上にストレスを強く感じやすく、「ストレスを大きく膨らませる神経症タイプ」だといえます。
周囲の人の顔色に敏感なので、周りの期待に答えようとして、体の限界を超えてでも頑張り続けようとするかもしれません。その結果、過労に陥ったり、慢性疲労状態になったりすることもあるでしょう。
「不安型」の人たちは感覚が過剰反応してしまうため、この本の別の箇所で引用されているように、「適切な行動をとるように警告する自らの身体感覚を信頼することができなくなります」。(p45)
この感覚的なゆがみや過剰反応にふりまわされ、自分の身体の「ベストを尽くす」範囲がどこからどこまでなのかが、読み取れなくなってしまいます。
それに対して、幼少期の経験のせいで、自己調節が苦手になってしまう人には、まったく正反対のもう一つのタイプの人たちもおり、そちらは「回避型」と呼ばれています。
村上正人先生の説明では「ストレスを無視して頑張りすぎる過剰適応タイプ」と書かれていましたから、今回の記事のテーマによりふさわしいのは、こちらのタイプのほうだといえるかもしれません。
「ベストを尽くせ」と言われても、自分の身体の限度がどのあたりなのか、うまく把握できない人たちなのです。
「回避型」の愛着スタイルは、赤ちゃんのころに、親の養育がよそよそしかったり、スキンシップに欠けていたり、ひどい場合にはネグレクトされたりする家庭の子どもに多いタイプです。
感情表現が乏しく、クールで共感力が弱く、ものごとにあまり動じません。物事を主観的にいきいきと感じるのが苦手で、客観的に考えることのほうが得意です。
赤ちゃんのころに愛情を込めて抱いてもらえなかったり、十分に関心を示されなかったりする、ということは、自己調節の方法を学ぶための経験が、圧倒的に不足しているということです。
すでに引用したヴァン・デア・コークの説明に当てはめれば、親とのスキンシップが欠けているために、「自分の体を感じる能力」をうまく発達させられず、大人になっても自分の体を直感的、また感覚的に認識するのが苦手なままです。
先ほども引用したトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際には、この「回避型」の人たちの特徴について、次のように説明されていました。
不安定-回避型の生育歴をもつ子どもたちは、…見るからに居心地が悪そうなのに、「どうですか?」とか「身体はどんな風に感じていますか?」という質問に対して笑みを作り、「大丈夫です」と答えるかもしれません。
このクライエントの身体的あるいは情緒的な不快さと、本人が報告した心理的状態との間にある分離は、内的な心理的状態と身体的状態との間の不一致や一貫性のなさを示していますが、このことに本人はしばしばまったく気づいていません。(p67)
「回避型」の人たちは、自分の体の居心地の悪さや不快感について気づくのがとても苦手です。
本当は体が疲れていたり、痛かったり、悲鳴をあげていたりしても、なかなかそれに気づくことができません。
周囲から見れば明らかにやりすぎていたり、強いストレス下に置かれていたりするときでも、平然と「大丈夫です」と述べます。
村上正人先生は、この人たちは「ストレスを無視して頑張りすぎる過剰適応タイプ」だと書いていましたが、より正確には、ストレスに気づくことができないために、自分でもわからないままに頑張りすぎてしまう人たちだといえます。
このように、愛着スタイルの「不安型」と「回避型」はそれぞれ異なる特徴を持ってはいますが、自分の身体感覚を信頼できなくなったり、身体感覚に気づかなくなったりして、どちらも「ベストを尽くす」という最適範囲にとどまるのが難しくなる、という共通点をもっています。
以下、わたし自身の感覚体験に基づいて書くこの記事では、「回避型」寄りの視点で話を進めますが、一概にどちらのタイプだけが問題だ、といえるわけではないと思います。
わたしは「回避型」寄りですが、わたしの友人の「やりすぎる」人の中には「不安型」寄りの方もいます。
問題は「回避型」か「不安型」か、という違いにではなく、自分の身体感覚を正しく参照できなくこと、言い換えればバランスの良い最適な領域(トラウマ医学で言うところの「耐性領域」)にとどまれなくなり、不安定になってしまうことにあるのではないか、と思います。
その意味では、「安定型」の愛着スタイルではない、三つの「不安定型」の愛着スタイル、つまり「回避型」「不安型」「無秩序型」のいずれにおいても、「ベストを尽くす」のが苦手になるという不安定さが現れるのでしょう。
プッシュ・クラッシュサイクルに陥る理由
慢性疲労症候群(CFS)の当事者の中には、このような背景を抱えている人たちがある程度いるのではないか、と思います。
確かに慢性疲労症候群の原因はさまざまであり、たとえ同じ診断名をつけられていても、同じメカニズムだとは限りません。
しかし上の記事で引用している奥田ちえ先生の説明のように、「幼少期から慢性的なネグレクトと思われる環境で育ったけれど、自分はそう思わずにがんばってやってきた人などは、1つの典型的なタイプ」です。
慢性疲労症候群を発症する人たちは、しばしばプッシュ・クラッシュサイクル(Push-Crash Cycle)に陥りやすいと言われています。やりすぎては寝込むのを繰り返す傾向のことです。
身体が悲鳴をあげるほど頑張っているにもかかわらず、自分の身体の限度がまったくわからないがために、限界を超えてやりすぎてしまい、ついには病的状態にまでなってしまいます。
しかも、病的状態に陥ってなお、ちょっとよくなると無理をしすぎて寝込むサイクルを繰り返してしまいます。
自分がなぜ病気になったのか認識できていないため、病気を発症するようなストレスは思い当たらなかった、「原因不明」だと述べることもあります。
巨大なストレスがあるのに、本人からは認識されなくなってしまう現象は、精神医学においては「解離」と呼ばれます。疲労医学でも同じことが指摘されていて、疲労感が「マスクされている」状態だと説明されます。
ストレスが「解離される」ことと、「マスクされる」ことはどちらもまったく同じ現象のことを言っており、脳科学的には、前回の記事で説明したとおり、身体の状態を感じる島皮質や帯状回の機能低下によるものでしょう。
国内の研究(慢性疲労症候群に陥るメカニズム)によると、慢性疲労症候群の患者では、体性感覚を処理し、自己意識を作り出すのに重要な役割を担っている、帯状回の活性が低下していることが確かめられています。
慢性疲労症候群では、自分の身体を主観的に感じる能力が低下しており、そのせいで自分の身体にかかっている負荷に気づくことができず、やりすぎては寝込むような、プッシュ・クラッシュサイクルを繰り返してしまうのではないでしょうか。
それは性格のせいではない
わたしがかつてこのブログで、頑張りすぎる原因は単なる完璧主義ではない、という前述のような記事を書いたのは、この慢性疲労症候群(CFS)にまつわる誤解を解きたいと思ったからでした。
医師たちの中には、慢性疲労症候群や線維筋痛症などを発症する人たちは、あたかも本人たちの望ましくない性格のせいでそうした病気になったのだ、というような説明をする人たちがいました。わたしはそれに納得がいきませんでした。
たとえば、最近発行された疲労と回復の科学 (おもしろサイエンス)にも、次のような記述がありました。
大阪市立大学疲労クリニカルセンターの調査では、CFS患者は物事に対する固着性が強く、完璧主義の傾向が健常者と比較して有意に高いことが明らかになっています。
このような性格や気質の違いには、種々の神経伝達物質の輸送体や受容体の遺伝子多型が関連している可能性が考えられています。(p36)
ここでは、慢性疲労症候群になってしまう人には、完璧主義や固着性の強さが見られると書かれています。その理由として、遺伝子多型が関係する、生まれ持った性格や気質が挙げられています。
確かに、セロトニントランスポーター遺伝子の特定の型を持つ人が慢性疲労症候群や回避性パーソナリティ障害(いわゆる引き込もり)、さらには不安障害などになりやすいという研究はあります。
では、もともと完璧主義になりやすい遺伝子を持った人が、限度を超えてやりすぎてしまい、不幸にも慢性疲労症候群になってしまうか。
そうだとしたら、病気を治すためには、性格を、さらには遺伝子を治さなければならない、ということになるでしょう。
けれども、物事はそう単純ではないはずです。
本当に、その人は病気になる前からそんな性格だったのでしょうか。持って生まれた遺伝子のせいで、どのような環境で育っても、完璧主義的な性格に成長してしまう運命にあったのでしょうか。
いいえ、脳科学は人格を変えられるか?に書かれているように、近年の研究によると、そうした遺伝子多型は、環境に対する「感受性の強さ」の遺伝子であり、置かれた環境によって有利に働くこともあれば、不利に働くこともある、ということがわかっています。
わたしはまもなくこれらの実験結果が、ロンドン大学バークベック校の心理学者、ジェイ・ベルスキーによる最新の理論に合致することを知った。
ベルスキーは遺伝子と環境との相互作用に関する過去の研究を細かく検証し、これまでだれも目をとめていなかった事実に気づいた。
それは、神経伝達物質に作用するいくつかの遺伝子の発現量が低い人は、良い環境と悪い環境のどちらにも敏感に反応しやすいということだ。
カスピやモフィットによる有名な研究をはじめ、遺伝子と環境の相互作用を調べた実験のおおかたは、被験者に起きたネガティブな出来事やそれがもたらす悪影響ばかりに焦点をあてていた。
そして、セロトニン運搬遺伝子のSS型など特定の遺伝子型をもつ人が非常にストレスに弱いことがわかると、その遺伝子型には「脆弱」「感じやすい」などのレッテルが貼られてきた。
だが、ベルスキーが指摘するようにわたしたちは、人が良い出来事にどう反応するかも調べる必要がある。
ベルスキーは多数の実験結果をあらめて検証し、データの中からある事実を見いだした。
それは、悪いことが起きたときに非常に不利に働く遺伝子型が、良いことが起きたときには非常に大きな利益をもたらすらしいことだ。(p181)
「やりすぎる」傾向に関わっている遺伝子型が、脆弱性の遺伝子や完璧主義の遺伝子ではなく、感受性の強さの遺伝子である、という見方に立てば、慢性疲労症候群の発症についても、まったく異なるシナリオを描けます。
本文のほうで書いたように、もともと強い感受性を持っている子どもは、不幸にも慢性的な逆境に直面したとき、その強い感受性を麻痺させて、自分の身体を「感じなくする」ことで対処します。
感覚を解離させる、あるいはマスクしてしまうのです。
ネグレクト的な家庭環境の結果、そのように感覚をシャットダウンしてしまう人もいますし、病気や事故や災害、さらには学校や職場での慢性的なストレスなど、さまざまな不幸な逆境体験のせいで、感覚をシャットダウンしてしまう人もいます。
もともと人一倍感じやすいからこそ、自分の身体を感じることが苦痛になり、感覚や感情のスイッチを切ってしまいます。島皮質や帯状回の活動が低下して、自分の身体の現状をうまく認識できなくなります。
では、自分の身体の状態を感じることができなくなると、どんな影響が現れるか。
「ベストを尽くす」限度がわからなくなります。いま自分がどの程度がんばっているかが認識できなくなります。
本来、自然界の動物ならば、直感的に自分の身体の限界がわかり、本能に導かれて「ベストを尽くす」ことができるはずです。
しかしわたしたちの社会では、自然界の動物が経験しないような慢性的な逆境を我慢しなければならないような状況が生じえます。
そうした逆境を我慢しつづけ、自分の身体の感覚を感じないように麻痺させて辛抱するうちに、「ベストを尽くす」とはどういうことなのか、感覚的にわからなくなってしまうのです。
直感的に自分の身体の状態を認識できないと、疲れていたり、痛みがあったりして、身体がアラームを発していても、それがマスクされてしまうため、気づくことができません。
その結果、本当は身体が悲鳴をあげているのに、「大丈夫です」と言い切って頑張りつづけ、やがて慢性疲労症候群や線維筋痛症のような病的状態にまで追い込まれてしまいます。
しかも病気になってなお、自分の身体の状態を主観的に感じることが苦手なので、ちょっと動けるようになったらやりすぎてしまい、プッシュ・クラッシュサイクルを繰り返します。
その様子が、はたから見ていると、また表面だけを見ていると、「完璧主義」や「頑張りすぎ」に見えるのです。
でもこれは、持って生まれた性格でも気質でもなく、脳の島皮質や帯状回などの、身体の状態を直感的に感じ取るための部分がうまく機能していないことによる、自己コントロール能力の不具合です。
神経科学者スティーヴン・ポージェスが、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で書いているように、わたしたちの社会には、本当は生理学的また生物学的に起こっている問題を、個人の性格やこころの問題だとみなす傾向があります。
私たちは、どんな行動にも動機があると考え、その行動について良いか悪いかを評価する世界に住んでいるようです。
行動が良いか悪いか評価し、生理学的および行動学的状態を調整している適応機能については理解しようとしない、この社会の傾向性を、私は「エセ道徳のベニヤ板」と呼んでいます。(p241-242)
わたしたちの社会では、子どもが不登校になると、「心の問題」だと言われます。会社に行けなくなると、「精神的な弱さ」だと指摘されます。スポーツ選手が不調だと「メンタルが弱い」せいだと解説されます。
現代社会のわたしたちは、特定の性格のせいで病気になる、というわかりやすい説明を受け入れがちです。心を身体より上位に置いて物事を考えているからです。
先に心(性格や動機)の偏りがあり、そのせいで身体に不調が現れるのだと。
しかし、神経科学が進歩した今、「心」は有機体である「身体」から作られているものだとわかっているので、これらの説明は正しくありません。
まずストレスに対して、有機体である身体が先に反応し、次いで心の状態に変化が現れます。
子どもが不登校になるのは、学校という緊張をともなう環境、生物にとって異質な環境が、とりわけ敏感な子どもの生理的機能をかき乱し、自律神経に負荷を与えるからです。
その結果、心の機能にも影響が及び、性格が変わったようになってしまうこともあります。
わたしは、完璧主義や固着性、がんばりすぎる、まじめすぎる、やりすぎるといった性格特性は、生まれ持った遺伝的なものでも元々の性格でもなく、まず先に身体の機能が不安定になった結果として現れる、後天的なものではないか、と考えます。
先に身体の不調が起こり、脳に備わるサーモスタットのような「ベストを尽くす」機能が故障してしてしまった結果、一見すると完璧主義や固着性の強さのような性格傾向が目立つようになってしまうのでしょう。
自分の身体の声を聞く―学校では教えてくれないスキル
もし、完璧主義や頑張りすぎる傾向が、自分の身体の限界を感じ取り、自己調節する機能の不調によるものだとしたら、どのようにして克服することができるでしょうか。
上のほうでトラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際から引用した説明の続きに注目してみましょう。
たとえば、ソファに座っているクライエントに、見るからに居心地が悪そうなのに、「どうですか?」とか「身体はどんな風に感じていますか?」という質問に対して笑みを作り、「大丈夫です」と答えるかもしれません。
…こういうクライエントの治療には、内的な状態に気づくようになり、これらの状態に呼応する身体的動きを練習することがふくまれます。(p67)
もし自分の身体の状態を認識できず、そのせいで頑張りすぎたりやりすぎてしまったりする傾向があるとしたら、「内的な状態に気づく」能力を訓練しなければなりません。
自分の身体の状態に気づき、直感的に限度がわかるようになってはじめて、プッシュ・クラッシュサイクルから抜け出すことができます。
やりすぎてしまう人たちは、しばしば、いま自分がどれくらい疲れているか、計測装置によって可視化できれば、自己管理できるようになる、と考えます。
日本の疲労研究でも、疲労感がマスクされてしまって気づけなくなってしまっている人が、自分の過労状態に気づけるように、疲労を数値として計測できる疲労度計が開発されていました。
こうした疲労を見える化しようとする研究は、確かに自分の身体の感覚がマスクされてしまって、限度を超えている状態に気づけなくなってしまっている人たちがクラッシュしてしまうのを予防するには、とても有益だと思います。
また、本人がどれほど追い詰められているかを周囲の家族や上司などに見える化できるので、休息を必要としている人が周囲の理解を得る助けになるでしょう。
しかし、自然界の動物は、本来なら、そんな機器などなしに、自分の限度をわきまえ知り、やりすぎることも怠惰になることもなく、常に「最善を尽くす」ことができているはずです。
自然界のあらゆる動物と同じように、わたしたちヒトにも、本来なら自分の身体の限界を直感的にわきまえ、やりすぎないようセーブするためのセルフモニタリング機能が埋め込まれているのです。
そうであれば、やりすぎてしまう人に本当に必要なのは、外部の機器に身体のモニタリングを任せることではなく、自分の身体の内的感覚を感じ取るための、本能的な能力を活性化させることではないでしょうか。
体調を計測できるウェアラブルデバイスは確かに短期的には役立ちます。しかし、長期的な観点で見れば、外部の機器に頼りっぱなしになってしまったら、生まれつき備わっているはずの、本能的なセルフモニタリング能力をより衰えさせてしまう結果になりかねません。
本文の最後のほうでも引用しましたが、ポージェスがポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で述べているように、わたしたちの社会では、自分の身体の内的感覚を感じ取る能力は、ひどく軽視されてきました。
現代社会では、身体感覚についての重要性は無視され、軽視されてきました。
自分の行動を管理する戦略として、私たちは身体が伝えてくるフィードバックを無視するように教えられてきました。
高度に構造化され、社会化された環境内で成長する場合、私たちは自分の肉体的欲求に反応しないように、つねに自分自身に言い聞かせています、
本当は立ち上がって動きたくても、長時間じっと座ったままでいるよう自分に言い聞かせます。
トイレに行きたいという衝動を感じても、我慢します。お腹がすいても、食べるのを我慢します。(p136)
わたしたちの社会では、おもに幼少期の学校教育を通して、自分の身体を感じる能力を抑制するように訓練されます。
子どもは自分の身体の不調に敏感で、身体を直感的に感じる能力に秀でているものです。しかし、集団のなかで自己抑制を強いる学校教育を通して、そうした身体の感覚を無視し、我慢し、抑制するように訓練されます。
わたしたちは身体からの正常なアラームを無視し、もし身体が「もう限界だ」と訴えても、努力と根性で頑張り続けたり、薬を飲んで身体のアラームを無理やり抑えて頑張り続けたりするように教えられます。
もしひどい胃の痛みがあったら、高次の認知的作業をうまくこなすことができますか? 胃の痛みがあると、内蔵からのフィードバックによって複雑な問題を考察し解決する能力が制限されます。
しかしわたしたちの文化には、こういう現象に対処する方法がありません。「痛みを感じたら、薬を飲めばよい」という考え方で問題に対処しようとします。
しかし、もしこの痛みが、あなたを助けるために何かを知らせる身体からのメッセージだったら、どうでしょうか?(p136-137)
わたしたちの社会では、身体の感覚は邪魔で厄介なものだとみなされています。痛みも、疲労も、発熱も、できるだけ抑制するに越したことはないとみなされ、薬が処方されます。
でも、本来はこれらは身体の限界を伝えるアラームであり、無視してよいものでもなければ、薬で散らしてよいものでもありません。やりすぎないよう、わたしたちを守ってくれる「身体の声」なのです。
それなのに、子どものころから、「身体の声」を無視して、しんどいときでも頑張るのが美徳とされ、じっと座って授業や仕事に集中するよう求められ、不調が生じたら薬で解決するのが当たり前だとみなす社会で育つので、やがて、自分の身体を認識する本能的な能力は低下していきます。
「身体の声」がうまく聞き取れなくなり、適切に解釈することもできなくなり、限界を超えてやりすぎたり、ストレスに気づかなくなったりするようになっていきます。
限界を超えて頑張りつづけていると、ある日とつぜん、システム全体がシャットダウンし、正常に機能しなくなります。
こうして、原因不明の病的状態に陥ってしまいます。身体はあらかじめ警告していたはずですが、「身体の声」に気づかないまま無理を続けてきたため、自分がなぜそんな病気になったのかわからず、原因不明の病だと考えてしまいます。
このような意味では、慢性疲労症候群や線維筋痛症のような病気は、個人の気質や遺伝子の問題どころか、わたしたちの社会や教育の問題であり、想像以上に根が深い現代病だということができます。
もし、学校が、テスト勉強や知識の詰め込みを重視するのではなく、自分の身体の声にしっかり耳を傾ける方法を教えてくれるところであったらどうでしょうか。
また、わたしたちの社会が、自分の身体の声にしたがって、限界だと感じるときには快く休息するよう言ってくれる環境だったらどうでしょうか。
きっと、こうした現代特有の病気ははるかに少なくなるでしょう。
胃腸病学者エムラン・メイヤーが腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかの中で書いているように、そのようなセルフモニタリングの技術こそ、子どもたちが家庭や学校で最初に教わるべき能力であるはずなのに、誰からも教えてもらえません。
内臓感覚に基づく判断の重要性を考えると、この並外れた能力を鍛錬するための正式な方法がないのは不思議に思われる。
学校では教えてくれないし、内臓感覚に耳を傾けるよう子どもに諭す親もほとんどいない。
それよりも、論理的思考の重要性を強調するだろう(衝動的な青少年には、論理的思考が貴重なスキルであることは否定すべくもないが)。(p199)
生き物にとって、最優先の課題は、ホメオスタシスを維持し、自己の内部環境を一定に保つことでした。そうでなければ、健康に活動しつづけることは不可能だからです。
だからこそ、生物には意識というセルフモニタリング機能が備わっています。限界を超えたらすぐに気づいて無理をしないように守るためです。
ところが、あらゆる動物の中で人間だけが、その本能的な能力を軽視し、家庭や学校でセルフモニタリング技術を身に着けさせないまま、子どもたちを社会に放り出してしまいます。
身体の声をどのようにして聞いたらよいかわからず、自分の身体の限界を直感的に把握できない現代人たちは、つい限界を超えてやりすぎてしまうので、そうならないためには薬物療法に頼ったり、ウェアラブルデバイスで自分の体調を記録したりするしかない、と思い込んでしまうのです。
フェルトセンスに耳を傾ける
しかし、エムラン・メイヤーが述べているように、やりすぎてしまう人に最も必要なのは、身体の声に耳を傾けるスキルです。
彼はこの「並外れた能力を鍛錬するための正式な方法がないのは不思議に思われる」と述べていました。
確かに学校で教えてくれるような正式な方法はありませんが、そうした能力の大切さに気づき、セルフモニタリング能力を向上させるプログラムを構築してきた人は大勢います。
昨今はやりのマインドフルネスは、もともとは気づきを高める瞑想をヒントにした技法ですし、ヨーガや太極拳などの伝統的な技法もまたそうです。
こうした手法が慢性疲労症候群や線維筋痛症、トラウマ障害などに効果があるという研究をしばしば見聞きしますが、それはおそらく、自分の身体への注意を育み、身体の声を聞く脳の領域を活性化させるからなのでしょう。
では、わたしたちが耳を傾けるべき「身体の声」とはいったい何なのでしょうか。
心と身体をつなぐトラウマ・セラピーによると、わたしたちの身体から発せられている、微細な「身体の声」はフェルトセンスと呼ばれています。
「フェルトセンス」という用語を初めて作ったユージン・ジェンドリンは、彼の著書『フォーカシング』の中でこう述べています。
フェルトセンスは、頭の上での経験ではなく、からだの経験です。身体的なものなのです。つまり、ある状況とか、人、あるいは出来事について、身体で気づくことに他なりません。
それはあるときある事柄についてみなさんが感じている、知っているすべてを含むような一種の内的な雰囲気的とでもいえるような体験です。
それはすべてを含んでいて、しかも、一つひとつではなく一瞬のうちにそのすべてをみなさんに伝える、といったものでもあります。(p80)
抽象的な説明でわかりにくいかもしれませんが、フェルトセンス、身体の声とは元来そういうものです、言葉にしようがない主観的な感覚だからです。
神経科学者オリヴァー・サックスは、意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源の中で、このようなフェルトセンスの例として「何かが変だ」という言葉にならない感覚を挙げていました。
このことについて、著書『無意識の脳、自己意識の脳』「田中三彦訳、講談社」をはじめ、多くの本や論文で述べているアントニオ・ダマシオほど、雄弁に語った人はいない。
彼の言う「中核意識」は自分がどういう状態かの基本的感覚であり、それは最終的にあいまいな意識の感覚になる。
とくに、体内の状況がおかしくなっているときーホメオスタシスが維持されていないとき、自律神経系のバランスがどちらかにひどく傾き始めるときーに、この中核意識、自分がどういう状態かの感覚が出しゃばってきて不快なものになり、そうなると人は言う。
「具合が悪いー何かが変だ」(p155)
この「具合が悪い―何かが変だ」という「あいまいな意識の感覚」こそがフェルトセンスです。
神経科学者アントニオ・ダマシオが研究の研究が明らかにしたように、ヒトを含め、動物は、自分の体に不調が起こったとき、つまりはホメオスタシスが乱されたとき、「何かが変だ」という言葉にならない主観的な感覚を覚えます。
この言葉にならない、なんとなく変な感じ、という身体の声をキャッチして、体調を維持するための適切な行動をとれるようにしてくれるのが意識の役割なのです。
「最善を尽くす」限度を自分でわきまえられる動物はみな、この言葉にならないフェルトセンスを感じることによって、「この辺でやめとこう」と思いとどまり、節度を守ることができます。
しかし、人間はときに、その本能が麻痺してしまい、「何かが変だ」という身体の声を感じられなくなってしまいます。そのために、限界を超えてなお やりすぎたり、病気になるまで突き進んだりしてしまいます。
もちろん、フェルトセンスは「何かが変だ」という感覚だけではありません。言葉にはできないけれど、なんだか心地よい、といった感覚や、やはり言葉にはできないけれど、何か引っかかる、といった感覚も含まれます。
共通点は、いずれも言葉にはできない身体的な繊細な感覚、ダマシオの表現を借りれば、「背景にある感じ」だということです。
このような言葉にならない身体の声を敏感に感じ取るためには、フェルトセンスを意識的気づけるようトレーニングしなければなりません。
感受性豊かな子どもや、文明社会が発達する以前の人々には、そんな訓練は必要ないでしょうが、思考に重きを置く教育を受けて育ったわたしたちは、おいそれと身体の声を聞くことができません。
たとえば、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーに書かれている次のようなエクササイズに倣って、意識的に、時間をとって身体の声に耳を傾ける習慣をもつことが大切です。
以下に紹介するのは、フェルトセンスの基本を体験的に理解していただくためのエクササイズです。
あなたがこれをどこで読んでいても、できるだけ楽にくつろいだ姿勢を取りましょう。
あなたの体が、あなたを支えているものの表面にどのように触れているかを感じてください。皮膚を感じ、服の感触に気づいてください。皮膚の奥を感じてください―どんな感覚があるでしょうか?
さて、これらの感覚を忘れないようにしつつ、次の質問に答えてください。
自分が心地よいのはどうして分かるのでしょう? どんな身体感覚がこの、全体的な心地よさの原因になってるいのでしょうか?
こうした感覚を意識的に感じることで、あなたは前よりもっと心地よくなるでしょうか、それとも逆でしょうか? 時間と共にその感覚は変わるでしょうか?
しばらくじっとして、心地よさのフェルトセンスを楽しんでください。
よくできました! (p83)
こうした手法に倣って、フェルトセンスを観察し、自分の身体の反応をよく知るなら、自分の身体が何を不快に感じ、何を心地よく感じているかが次第にわかってきます。そして自分の身体のために、何をすればよいかも見えてきます。
時間をとって、自分の内面に注意を向けてみると、はじめて自分の手の冷たさや、自分の身体の疲れ、さらには気づかなかった心地よい感じ、などに気づくことでしょう。
解離されていた感覚がつながり、マスクされていた感覚を感じられるようになった、ということです。それらは意識的に気づくようにしなければ、見過ごされていた身体のアラームかもしれません。
意識的に身体に注意を向けて、言葉にならない声に気づき、適切な対処ができるようになれば、やりすぎては倒れるような、プッシュ・クラッシュサイクルを繰り返すことはなくなっていくでしょう。
自分の身体が壊れる(クラッシュする)前に、「何かが変だ、ここでやめておこう」という感じに気づけますし、逆に「何か心地よい、今日はもう少しやれる」という感じにも気づけるはずです。
そうすると、やりすぎることもなければ、やらなさすぎることもなくなります。つまりは「最善を尽くす」ことができるようになります。ベストを尽くすとはどういうことか、思考によらず、外部機器の見える化にもよらず、ただ身体の感覚で判断できるようになります。
それこそが、身体の声を聞いてホメオスタシスを維持するということであり、野生動物たちが、自動的に、本能のもとにやってのけていることなのです。
「ベストを尽くす」ために動物的本能を思い出す
この記事では、「意識しすぎる」脳について考えた記事の補足として、「最善を尽くす」ことが苦手で、やりすぎてしまう人たちの原因はどこにあるのか、といったテーマについて考えました。
以下に内容を簡単にまとめてみます。
動物にはみな本能的に最善を尽くす能力が備わっている。自分の限界が感覚でわかるので、やりすぎることもなければ、怠惰になることもなく、本能的にベストを尽くすことができる。
■身体を感じる能力は幼少期に学習される
わたしたちは幼少期の養育を通して、自分の身体を感じ、適切に自己調整するスキルを学ぶ。幼少期の養育が不安定だと、自分の身体を感じることができず、限度がわからなくなってしまう。
■プッシュ・クラッシュサイクルに陥る
慢性疲労症候群の人たちは完璧主義でやりすぎる傾向があると言われる。しかしその原因は、生まれついた気質・性格ではなく、自己抑制的な養育環境や慢性的な逆境体験のために、自分の身体の限度を認知するための脳の機能が、スイッチオフになってしまっていることにあるのではないか。
■フェルトセンスを意識することで身体の声を聞く
やりすぎてしまうことの解決策は、計測機器に頼って体調をモニタリングすることではなく、動物に普遍的に備わる本能的な能力を活性化させることにある。自分の身体の声を聞く習慣をもてば、限界がどのあたりか、感覚でわかるようになる。
この記事では、おもにトラウマや慢性疲労症候群の当事者が抱える「やりすぎる」傾向について考えましたが、自分の限度がわからず、節度をわきまえることが苦手な傾向は、現代社会全体を取り巻く問題です。
本文のほうでも書きましたが、わたしたちの社会は、自分の主観的な感覚をできる限り抑制し、客観的な知識を重視する教育のもとにデザインされているからです。
産業革命前、まだ人間と自然の境界があいまいだったころ、人類は主観的な感性をとても大切にしていました。
しかし ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」に書かれているように、科学が進歩するにつれ、またキリスト教的価値観が浸透するにつれ、理性は感覚より上位に置かれ、身体感覚に従うのは野蛮で、理性に従うほうが優れているという、不自然な価値観が生み出されました。
身体反応を拒否する戦略は、私たちの文化と大いに関係があります。
私が導入部でお話ししたデカルトに関する言葉を思い出してください。デカルトは身体感覚を認知機能に服従させることを強調しました。
私たちの宗教観〔キリスト教〕と、このデカルト哲学が相まって、身体感覚の重要性を片隅に追いやってしまったのです。
身体感覚は動物的なものとされる一方で、認知は霊性に密接に関連していると考えられてきました。(p249)
わたしたちは、そのような価値観によって形作られた世界に生き、理性によって感覚を征服することを求める教育を受けてきました。
医学もまたそうであり、個人の主観的な感覚は顧みられず、科学的な薬物療法や、理性を重視する認知行動療法が主流になりました。
でも、そのような、あまりに理性や知識に偏りすぎ、感じる脳を抑制している社会背景こそが、現代に増えているさまざまな原因不明の疾患の原因かもしれないのです。
しかしデカルト哲学をもとに作られた文化では、良い人間であるためには、「良い脳」、さらに言えば「賢い脳」が潜在的な能力を十分に発揮できるように、内臓感覚は抑圧されるか、拒絶されなければなりません。
もしかすると現代の肉体的および精神的な疾患は、デカルトの格言に忠実でありすぎた結果かもしれません。
身体の反応に注意を払わず、内臓感覚を無視することで、長年にわたり、脳と身体の双方向の神経のフィードバックループを抑制してしまったために、心身の疾患が発生したいるのではないでしょうか。(p224)
だからこそ、心と身体をつなぐトラウマ・セラピーに書かれているように、自然界の動物たちが悠々とやってのけているはずの本能的な能力を取り戻すことが大切です。そうして初めて、わたしたちは本当の意味で人間らしくなれます。
今日、私たちの生存は、身体的に反応できる能力よりも思考する能力にますます依存するようになっています。
その結果、私たちのほとんどは自然で本能的な自己―特に、見下すのではなく誇りを持って「動物」と呼ぶべき部分―から切り離されてきました。
自分たちをどう見なそうと、最も基本的な意味では、私たちは文字通りヒト科の動物なのです。
自己の自然な部分とより深くつながっている人々が、トラウマに関してはうまく切り抜けることが多いのは偶然ではありません。
…私たちのほとんどは自分を動物だと見なしたり体験したりすることはありません。しかし、本能と自然な反応を体験しなければ、私たちは完全な人間ではないとも言えます。(p53)
必要なのは、よりロジカルに、より理性的に、より科学的に、認知の力を鍛えたり、最新技術に頼ったりすることではなく、人類が忘れてしまったような動物的本能や自然界とのつながりを取り戻すことである、という視点はとても重要だと思います。
どちらがより大切、というようなものではなく、
自分の身体を、そして自然界の息吹を、ただ「感じる」という、生き物としての当たり前の、しかし現代社会から失われつつある能力。
そのような能力こそ、動物的な活力の源であり、芸術的感性の土台であり、今の時代に特に必要とされているクリエイティブな感性に欠かせないものです。
自分の身体を感じる能力があってはじめて、わたしたちは一個の人間として、「ベストを尽くす」ことができるようになるのです。