ASD者が解離症状を呈する割合は定型発達者に比べて若干多いという印象はある。
もちろん自己のあり方が異なるため、ASD者の示す解離が発症要因、症候、治療などさまざまな点で通常の定型発達者の解離とは違ってくるのは当然であろう。
定型発達者の解離のみが解離ではない。ASDにはASDの解離がある。(p181-182)
このように述べるのは、解離性障害の専門家である柴山雅俊先生です。
アスペルガー症候群(DSM5では自閉スペクトラム症(ASD)に統一)の人たちは、解離の症状を伴うことが比較的多く、発達障害や解離性障害を専門に診ている医師の多くがその共通性を指摘しています。
しかし一方で、この柴山先生の言葉にあるように、ASDの解離と、定型発達者の解離(つまり一般的な解離性障害)とでは、仕組みが少し違っているようなのです。
この記事では、解離の病理―自己・世界・時代という本にもとづき、アスペルガーの解離と定型発達の解離との7つの違いをまとめてみました。
これはどんな本?
この本は、柴山雅俊先生が編集し、自身を含めた解離に詳しい8人の専門家の論考をまとめた本です。それぞれの専門家が別個の観点から解離を考察しています。
取り上げられている話題の中には、解離の新しい解釈モデルや、境界性パーソナリティ障害、統合失調症、そしてアスペルガー症候群との相違も含まれていて、たいへん興味深い一冊です。
はじめに―解離とは何か?
まず解離とはなんでしょうか。
解離とは、わたしたちの脳に備わっている自分を守る働き、つまり防衛機制のひとつです。
健全なレベルの解離は、わたしたちのだれもが日常的に経験していて、たとえば、楽しいことに没頭して時間を忘れる、自分から離れた客観的な視点で考える、ありありとした空想を思い描いて入り込む、といったことも解離の一種です。
しかし解離は強く働きすぎると解離性障害と呼ばれる病的な域に進むこともあり、記憶を思い出せなくなる解離性健忘、自分が遠く離れて感じられる離人症、そして人格が分離してしまう多重人格(解離性同一性障害)などが含まれます。
解離性障害は定型発達の人たちにも広く見られますが、順天堂大学の広沢正孝先生は、子どもの発達障害に詳しい杉山登志郎先生の意見について、こう紹介しています。
たとえば杉山は、PDDの「高機能群にしばしば認められるファンタジーへの没頭から解離までの距離」が短いこと、そして解離がPDD者にしばしば認められる現象であることを指摘している。
広汎性発達障害(PDD)、アスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症の人は、特に解離しやすい傾向があるのです。
解離は脳の防衛機制ですから、解離が強く働いてしまうというのは、とりもなおさず脳が何かの危機から自分を守ろうとしているということの表れです。
アスペルガー症候群の人は、孤独感を感じたり、五感からの情報に圧倒されたりすることが多いため、空想に没入する・記憶を切り離すなどの解離が生じやすいと言われています。
アスペルガー症候群の人が解離しやすい理由については過去の記事も参考にしてください。
アスペルガーの解離と定型発達の解離の7つの違い
このように、アスペルガー症候群の人は、解離しやすい傾向を持っているので、しばしば解離性障害と診断されます。
しかし、解離性障害の大部分を占める、定型発達者の解離とは、異なる特徴があり、治療法も幾分違いがあるようです。
これから、アスペルガーの解離と、定型発達者の一般的な解離性障害との7つの違いを見てみましょう。
わかりやすくするため、「7つの違い」として区切りましたが、実際には、それぞれが密接に関連しあっていて、一つの違いをさまざまな観点から段階的に見ていくような説明となっています。
1.共通の土台があるが正反対
そもそも、アスペルガー症候群と(一般的な)解離性障害は、どのような関係にあるのでしょうか?
以前の記事で紹介したように、解離に詳しい精神分析家の岡野憲一郎先生は、アスペルガーと解離性障害は、どちらもオキシトシン・システムの異常を共通点とした、対極に位置する状態ではないかと推察しておられました。
つまりオキシトシンの機能が弱く、「空気が読めない」共感性が低すぎる状態がアスペルガーであり、オキシトシンの機能が過剰で「空気を読み過ぎる」状態が解離性障害なのではないかとされています。
オキシトシンは女性らしさに関係するホルモンですから、オキシトシンが弱すぎるアスペルガーが男性に多く、オキシトシンが強すぎる解離性障害が女性に多いことも納得がいきます。
これと同じような説は、愛着崩壊子どもを愛せない大人たち (角川選書)という本の中で、愛着障害に詳しい岡田尊司先生も提唱されていました。
こちらは超男性脳としてのアスペルガー症候群と、超女性脳としての愛着障害という分け方でしたが、解離性障害の背景に愛着障害が見られることを考えれば、同じたぐいの意見であると考えられます。
岡田先生も、両者はオキシトシン・バソプレシンシステムの異常という点では共通しているが、性質としては両極にあると述べています。
このように、同じシステムを土台としている点では、アスペルガーと解離性障害には共通点があるといえますが、細かい性質を見ていくとまったく異なっている部分もあるという点がうかがえます。
2.原因が異なる「居場所のなさ」
アスペルガーと定型発達の解離の違いについて、そもそも始まりとなる原因からして異なる、と述べるのは柴山雅俊先生です。
一つは発症の要因となる「居場所のなさ」についてである。定型発達者の解離においては虐待や暴力に由来する「居場所のなさ」や、家庭が「緊張に満ちた場」であることからくる「居場所のなさ」が問題となっていた。
…しかしASD者にとって辛いのは、こういった定型発達者の「居場所のなさ」ではなく、そもそも自分はこの世界に落ち着くところがない、馴染むところがないという感覚である。(p182)
解離性障害の原因が、多くの場合、「居場所のなさ」を伴うことは、このブログの過去記事でも何度か取り上げてきました。
解離性障害の人たちは、子どものころから、「安心できる居場所」を家庭内にも親子関係にも学校にも得られないことで、自分の居場所を失い、心を解離させて対処するようになります。
一般的にいって、定型発達の人が「安心できる居場所」を感じられないことには、外部の環境の問題が大きく関与しています。
たとえば両親の不仲、虐待的な親、いじめなど、外部のだれかによって、「安心できる居場所」を剥奪されることで、解離によって防衛せざるをえなくなります。
それに対し、アスペルガー症候群、自閉スペクトラム症(ASD)の人たちは、もちろん外部の環境も関係していますが、それ以前に、自分自身の存在に関して、異質さを感じ取っていることがあります。
単に家庭や学校に居場所がないというよりは、この世界そのものに居場所がないと思えるほど、疎外感や孤独を感じ、それが心を解離させるきっかけになるのです。
以前の記事で取り上げたように、アスペルガー症候群の人が感じる居場所のなさは、定型発達やADHDの人が感じる居場所のなさとはレベルが違うものであり、中には自分を火星人のようだと感じる人もいます。
広沢正孝先生は、前述の杉山登志郎先生の考えを引用した続きで、この点に関してさらにこうまとめていました。
しかしその一方で彼は、同じ解離という現象であっても、PDD者と解離性障害患者とでは異なり、後者の機序は、自己の体験に統合が困難な外傷的事象が自己の分離を引き起こして形づくられるのに対し、前者ではもともと自我が対象に引き寄せられており、容易に自我の分離が引き起こされる特徴を持っているとも述べている。(p52)
つまり、定型発達の解離性障害は、危機的状況に面してやむなく解離するのに対し、ASDの解離性障害は、周りの状況にかかわらず自分から進んで解離していくといえるのです。
3.アイコンが並んでいるタッチパネル
定型発達者が危機に面してやむなく解離することと、ASDの人が環境によらず自分から解離しやすいことの違いはなぜ生じるのでしょうか。
広沢正孝先生は、あるアスペルガー症候群の人の言葉を紹介しています。
僕の頭はタッチパネルで、縦横に規則正しくアイコンが並んでいる。そのひとつひとつに重要な内容が入っていて、僕は必要なときに必要なアイコンをタッチする。
そうするとそのウィンドウが開かれて、僕はそこを生きてそこで仕事をする。(p60)
このアスペルガー症候群の人は、自分の頭の中は、アイコンが並んだタッチパネルのように なっていると述べています。これはどういう意味でしょうか。
スマートフォンを持っている人であれば、さまざまなアプリのアイコンが並んだタッチパネルは馴染み深いものだと思います。
基本的にスマホでは、あるアプリを起動すれば、画面にはそのアプリしか映りません。同時に複数のアプリを同じ画面で見ることはできません。(iOS9ではマルチタスキングが可能になりましたが)
同様に、ASDの人たちは、さまざまな役柄になりきることに慣れています。ある役割をこなしているときは、その役割になりきって一体化し、別の場所では、別の役割に一体化します。
あたかも、場面によって別々のアプリを切り替えて対処するように、さまざまな役割(人格)を使い分けて対処しているのです。
それに対し、定型発達者の自我は、ユングによると、同心円状になっていることが多いそうです。まず中心となる自分があり、その外側を記憶や経験が包み込んでいて、どんな状況にも、あくまで同じ自分として柔軟に対応します。
ところで、ASDの人に特徴的な現象として、タイムスリップ現象というものが知られています。
これは、単に目の前に過去の光景がフラッシュバックするのではなく、そのときの感触や刺激までもが再生されて、あたかも過去にタイムスリップしたかのように没入してしまう現象です。
このようなタイムスリップ現象も、断片的に保存されている過去の体験のひとつが、たまたま再生されてしまうのかもしれないと広沢先生は述べています。(p68)
さきほどのタッチパネルのたとえでいうと、さまざまなアプリの中に、過去の体験のいち部分を切り取ったアプリがあり、たまたま何かの拍子にそれをクリックして起動してしまうと、画面全体がそのアプリに占領されてしまうということです。
こうした、タッチパネルのアプリような自己と、同心円状の包み込むような自己との違いは、果たして何を意味するのでしょうか。
4.中心不在のアイデンティティ拡散
この話題をさらに煮詰めてくださっているのは、日本福祉大学の大饗広之(おおあえひろゆき)先生です。
人格の多元化と〈中心〉の不在は表裏一体の関係におかれている。
前者が前景にあらわれるのが解離性障害、そして後者が主題としてあらわれるのがアスペルガー症候群であるということができる。(p149)
さきほどのタッチパネル状のASDの人の自我と、同心円状の定型発達の人の自我の最大の違いは、中心があるかないか、という点でした。
タッチパネル状のASDの人は、中心となる自己が希薄で、場面ごとにさまざまなアプリ(人格)になりきって対処していました。
それに対し同心円状の定型発達の人は、まず中心となる自我が明白に存在し、それを核にして柔軟に対応させることで、さまざまな場面に対処していました。
アスペルガーの人が、中心となる自我の不在に苦しんでいるというのは、以前読んだ別の本、作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響や天才の秘密 アスペルガー症候群と芸術的独創性などでも触れられていました。
それらの本ではアスペルガーの人たちは、自分はいったい何者なのか、ということに悩みがちで、それによる自分探しの過程が、かえって創作の独創性を高めることがあると書かれていました。これは「アイデンティティ拡散」と呼ばれる現象です。
そうすると、ASDの人は、そもそも自分の頭の中は、さまざなアプリに分割されているので、それぞれが区切られる、つまり解離するというのは極めて自然、ということになります。
しかし定型発達の人は、自分が別個に区切られているようなことはなく、ちゃんとした中心となる自己があって、そこから自分の経験や記憶が同心円状に広がって、包み込むようにして一つのアイデンティティを形成しています。
本来ならば解離などしないはずなのですが、衝撃的な外傷体験があると、その同心円状に広がっているはずのアイデンティティが強制的に切断されてしまい、人格が解離してしまうのです。
すでに述べた、定型発達の人は外傷体験をきっかけにやむなく解離し、アスペルガーの人は、環境にかかわらず、自然と解離していく、ということには、この「中心」が存在するか、不在なのか、という点が関係しているようです。
5.拡散体験によって溶けこむ
こうした中心不在というアスペルガー症候群の独特な特徴は、解離の症状の違いとしても現れると柴山雅俊先生は述べています。その違いとは「拡散体験」です。
拡散体験とは、自分が大気に溶け込んで広がり、ときに気体や粒子のように細かくなって周囲に拡散するかのように感じる体験である。
…解離型ASD者は健忘、知覚過敏、解離性意識変容、人格交代など多彩な解離の症候を呈するが、なかでも「拡散体験」は解離型ASD者に比較的高頻度に現れるように思われる。
このような拡散体験が訴えられれば、診断に際して解離とともにASDを強く念頭に置く必要がある。(p184)
解離にはさまざまな症状が含まれますが、特に、自分がバラバラになって大気中に溶け込んでいくかのように感じる拡散体験は、ASDの人によく認められるそうです。
すでに考えたように、ASDの人は、自分のイメージが希薄です。本来、自分自身が何者かはっきりわかっていれば、そこを中心に自分のアイデンティティをまとめていられるわけですが、中心不在だと容易にバラけてしまいます。
いわば、自分のイメージとは、さまざま意識や記憶などをひきつけている強力な磁石のようなものです。それが弱いと、自分の経験や記憶が、まとまりなく散らばってしまいます。
感覚までもが散らばってしまうと、まるで空気に溶け込んだかのように感じたり、目の前の動物や自然、建物などに溶け込んで同一化したりしているように感じるのでしょう。
アスペルガーの人の中には、美しい光景を見たり、何かに没頭したりすると、それに溶け込んで同一化すると述べる人が多くいます。
6.自然な多重人格
ASDのタッチパネルのアプリが並んでいるような中心不在の自己と、定型発達の、しっかり中心があり、それを包み込むように広がっている自己との違いについて考えると、それぞれで多重人格の意味も異なることがわかります。
広沢先生はこう述べています。
PDD型自己の場合、そもそもの構造が区画化されており、「個」の感覚が希薄である。
したがって高機能PDD者においては、むしろいくつかの人物像が併存することは自然なことといえよう。
また彼らの場合、このように複数の人物像の存在を、ごく自然に認識しており、むしろうまくそれらを使い分けることが、社会適応の手段となっている。(p72)
ASDの中心不在の自己では、いろいろなアプリ(人格)を起動して、その場その場のニーズに合わせて使い分けることが普通なので、むしろ多重人格的な生き方は一種の社会適応の戦略といえます。
実際に、ASDの自伝自閉症だったわたしへ (新潮文庫)で有名なドナ・ウィリアムズは、ドナ・ウィリー・キャロルという3つの人格を場面ごとに使い分けて日常生活を送っていました。
そもそも、ASDの人が多重人格的な戦略を用いている場合、それぞれの人格があまりに普通にさまざまな役割を分担しているので、どれがメインの人格なのかわからないこともあるそうです。
中心となる自己、つまり主人格が存在せず、さまざまな人格が協力しあって、日常に対処していることがあるのです。
(もちろん、ASDの人が多重人格的な戦略を用いているとしても、記憶の分断などが生じていないなら、それは解離性同一性障害ではありません)
一方で、定型発達者の解離性障害は、もともと中心、つまりメインとなる主人格が存在します。そのメインの人格をかばうようにして、さまざまな人格が登場するので、ときには各人格が主人格を助けることもあれば脅かすこともあります。
ASDにおいては、さまざまな人格が統一されていないことがそもそも自然であるのに対して、定型発達の解離性障害の場合は、人格が統一されていないことによる苦痛を感じることもあるようです。(p72)
多重人格のメカニズムについて詳しくはこちらをご覧ください。
7.治療関係も変わる
こうして、定型発達の解離と、ASDの解離について比べてみると、両者は一見、表に現れる症状としては似ていても、根本のところでは大きな違いがあるように思えます。
それで柴山雅俊先生はこう述べています。
定型発達者の解離性障害とASDの解離性障害とでは望ましい治療関係が若干異なっているように思われる。
解離型ASDでは患者自身の精神、認知の特徴や病態の構造などを共に検討しながら、具体的な生活上の問題について対策を立てていくことが望ましい。
…それに対して治療者-患者間の二者関係に注目する精神療法では患者の混乱や負担が大きいように思われる。(p186)
結局のところ定型発達の解離性障害と、ASDの解離性障害では、成り立ちが異なるため、適した治療もまた変わってくるのです。
要するに、もしASDが根底にあって解離しているのであれば、その人のASD的な要素をしっかり顧みて、解離だけでなくおおもとのASDに対処していけるように助ける必要があるということです。
以前このブログで取り上げた概念に、衣笠先生の「重ね着症候群」というものがあります。
これは難治性のさまざまな精神疾患の根底に、未診断の発達障害が存在する場合があり、表面の精神疾患ではなく、発達障害そのものの治療をすることでよくなることがある、という概念です。
ASDの人が解離性障害を重ね着している場合も、解離性障害とその下に隠れて見えなくなっているASDの両方をケアしていく必要があるということなのでしょう。
一人ひとり異なる解離
ここまでASDの解離性障害と、定型発達の解離性障害の違いについて考えてきました。この説明だけを読めば、どうやら、それらにははっきりとした違いがあるようにも思えます。
しかし、実際には、解離性障害、統合失調症、アスペルガー症候群を明確にわけることは難しく、はっきりとした境界線を引くのは難しいのかもしれません。
この本の中で、大饗広之先生は、時代とともに精神のあり方も変化しており、昔の精神医学モデルで、今の人たちのさまざまな症状を説明することが難しくなっているのではないか、としています。(p154)
診断基準に基づいて、はっきりとしたグループ分けをするよりも、一人ひとりの症状をしっかりと見極めて、その人に適した治療を選択することが求められるようになってきているのかもしれません。
そうした意味でも、患者自身が、解離について正しい知識を得たり、専門的な医療機関を選んだりして、正しい診断と治療にたどりつく必要はますます大きくなっていると思いました。
広沢正孝先生のタッチパネル型自己の話は、わたしは未読ですが、広沢先生ご自身によるこちらの本にも詳しく書かれているそうです。