■失敗するのが怖くて挑戦できない
■プライドは高いが自信がない
■人との関わりを求めつつも傷つくのを恐れる
■何事も面倒くさくて無気力
■起立性調節障害や慢性疲労症候群で不登校になることも
本当は生き方を変えたいのに、あまりにハードルが高く感じてやる気が出ず、結局、問題と向き合うのを後回しにしてしまう。
あなたはそうした悩ましい葛藤を抱えていますか。
なかなか一歩を踏み出せないそのような人は、「回避性パーソナリティ」と呼ばれていて、近年、増加傾向にあるそうです。
不登校や引きこもりとされる人たちの中にも、本当はなんとかしたいのに、自分の無力さに打ちひしがれ、出るのはため息ばかり、その状況から抜け出せないまま年月が過ぎていくという辛い葛藤を抱えている人は少なくないでしょう。
「回避性パーソナリティ」を抱える人たちは、周囲の冷たい視線にさらされて、自分は何もできない無力で不甲斐ない人間なのだと思い込み、自尊心を失ってしまいがちです。
しかし、そのような葛藤があること自体、あなたが弱い人間ではないことを物語っています。原因は、意欲のなさや、心の弱さではなく、まったく別のところにあり、それを知ることで意外な未来が開ける可能性があるのです。
この記事では、生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)という本を参考に、回避性パーソナリティとは何か、どんな原因があり、いかにして克服していけるのかを考えます。
これはどんな本?
この本は、このブログでよく取り上げている、愛着障害などを専門とする精神科医の岡田尊司先生による回避性パーソナリティをテーマとした一冊です。
これまでのようなパーソナリティ障害、すなわち「人格障害」といった人間性の欠陥、という観点ではなく、ひとつの生き方、個性を持つ才能ある人として回避性パーソナリティを抱える人の素顔を明るみに出しています。
この本では、回避性パーソナリティを抱えつつも、自分のペースでそれを乗り越えていった過去の有名な作家たちの例を豊富に取り上げつつ、なんとご自身の経験談も包み隠さずに吐露しておられます。
まさに、回避性パーソナリティを抱えて生きてきた、回避性パーソナリティの第一人者による回避性パーソナリティの人のための本ということになります。
回避性パーソナリティとは?
まず最初に知っておきたいのは、回避性パーソナリティとはどんな人のことを指しているのか、ということです。
冒頭で幾つかの主要な特徴をリストアップしましたが、より詳しい特徴がアメリカ精神医学会のDSM-5による診断基準で説明されています。
(1)批判、非難、または拒絶に対する恐怖のために、重要な対人接触のある職業的活動を避ける。
(2)好かれていると確信できなければ、人と関係を持ちたがらない。
(3)恥をかかされる、または嘲笑されることを恐れるために、親密な関係の中でも遠慮を示す。
(4)社会的な状況では、批判される、または拒絶されることに心がとらわれている。
(5)不全感のために、新しい対人関係状況で抑制が起こる。
(6)自分は社会的に不適切である、人間として長所がない、または他の人より劣っていると思っている。
(7)恥ずかしいことになるかもしれないという理由で、個人的な危険をおかすこと、または何か新しい活動にとりかかることに、異常なほど引っ込み思案である。(p49-50)
7つも項目がありますが、言わんとしていることは至極シンプルです。
すなわち、失敗したり、恥をかいたりすることへの恐れが強すぎて、人との関わりや新しい活動を避けてしまう、という一文に集約されるでしょう。
ここに表れているのは、非常に強い葛藤、つまりジレンマです。
回避性パーソナリティの人たちは、何も好き好んで挑戦を避けたり、社会から逃げたり、引きこもったりするわけではないのです。
本当はもっと自分の能力を活かしたい、人と親密になりたい、と思っていますが、失敗したり、恥をかいたりすることへの恐れが強すぎて、足を踏み出せず、やむを得ず回避してしまう、そのジレンマこそが回避性パーソナリティの正体です。
このようなジレンマがあると、生きることのあらゆる面のハードルが、軒並み高くなってしまいます。人生というものは、人との関わりと、新しいことへの挑戦の連続だからです。
面倒くさいことは数あれど、中でも面倒くさいのは、人に会うことだと感じている人はかなり多いだろう。
対人緊張が強く、人の顔色に敏感で、人に気をつかい過ぎる人ほど、他人は心地よい面よりも、面倒くさく厄介な面が強くなる。(p18)
そうして、あらゆることのハードルが上がると、すべてのことが面倒くさくなります。
無気力や慢性的な疲労感にさいなまれ、何もかもダルくなるのです。
こうしたジレンマにとらわれる人の中には、不登校になって、起立性調節障害や慢性疲労症候群と診断されている子どもたちもいます。
これらの子どもたちは、自律神経失調や疲れやすさ、睡眠障害などさまざまな身体的な症状を抱えています。もちろん、そうした身体面の症状へのケアは大切ですが、中にはそれだけでは治らず、長引いてしまうケースもあります。
そのようなケースでは、単なる症状ではなく、原因を探らねばならないと岡田先生は述べます。
しかし、これは、単なる随伴症状であって、問題の本体ではないので、起立性調節障害をいくら治療しても、問題は改善しないことになる。(p26)
また、そのような症状はうつ病とみなされて薬物治療の対象になるかもしれませんが、子どものうつ症状には薬物治療の効果がほとんどないことも知られています。
さらに、小学校の高学年から中学生の思春期になると、それまでの児童期までとは少し違う症状が見られ、元気がない、疲れやすい、集中力がなくなるといった症状が多く、動くのが億劫になって引きこもりのような状態になることもある。
こうした児童、思春期のうつ病に薬物療法の効果がほとんどないことを英国オックスフォード大学の国際研究グループが医学誌「Lancet」(2016;388:881-890)に発表した。
彼らは、学校に行きたくないわけではありません。むしろ行きたいのに、行くと普通以上に疲れすぎるせいでどうしても行けないという葛藤を抱えています。それは回避性パーソナリティのジレンマとよく似ています。
では、何もかも面倒くさくてやる気を失ってしまうこうした人たちは、大人たちが言うように、サボり癖がついた怠け者なのでしょうか。
あるいは、モノが豊かになって甘やかされすぎた、ゆとり世代なのでしょうか。
決してそうではありません。
この本の中で、それはちょうど「アレルギー体質」のようなものだと書かれています。
回避性パーソナリティは、「対人アレルギー」なのです。
努力では克服できない「対人アレルギー」
人への恐れや、失敗したり恥をかいたりすることへの恐怖からくるジレンマが、「対人アレルギー」である、とはいったいどういうことでしょうか。
岡田先生はこう説明しています。
ところが社会はこのタイプの人の特性をあまり理解しないまま、「人と交流するのは良いことだ」という一般的な基準で、同じことを期待しがちだ。
そして期待通りでないと、「努力が足りない」と言ったり、「人並みのこともできない」と責めたりする。
だが、このタイプの人からすれば、牛乳アレルギーがあるのに、牛乳は体にいいから飲みなさいと強要されるようなもので、有り難迷惑でしかない。(p19)
ポイントははっきりしています。
回避性パーソナリティの人は、不登校になったり引きこもりになにったり、責任や重圧から逃げたりすることが多いので、周りからは、「努力が足りない」「人並みのこともできない」となじられがちです。
怠けているとか、甘やかされすぎとか、しつけがなっていないと怒られることもあるでしょう。
しかしそれは「対人アレルギー」のせいであり、アレルギー体質というものは、努力や意志でなんとかなるものではありません。
牛乳アレルギーの人は、どれだけ頑張っても、どれほど決意しても、牛乳を飲めばアレルギー症状が体に出ます。だれもそのことで、「人並みのこともできない」と責めたりはしません。
同じように、回避性パーソナリティに見られる失敗や恥をかくことへの恐れも、努力で克服できるものではなく、そうした体質なのです。
しかし、そのように説明すると、当然、異議をさしはさむ人がいるでしょう。
それはていの良い言い訳にすぎない、内気や引っ込み思案は、場馴れしていないせいなのだ。もっと積極的に人と関わり、社会に出ていけば克服できる。要するに逃げないで頑張れと。
しかし、それは、対人アレルギーを知らない人による、何の根拠もない身勝手な発言にすぎません。
文字通りの食物アレルギーの場合も、いまだに単なる食べ物の好き嫌いだと決めつけて、無理やり食べさせようとする厚顔無恥な大人がいます。
その結果、ときおりアレルギー体質の子どもがアナフィラキシーショックを起こして病院に搬送されるというニュースが報じられることもあります。
対人アレルギーもそれと同様であり、単なる好き嫌い、つまり内気や引っ込み思案のレベルの問題ではないのです。
ある意味で、対人アレルギーの子どもを、学校という閉鎖的な場に縛りつけて無理な対人関係を強要した結果として、その一部に不登校や引きこもりというアナフィラキシーショックがを引き起こされていると言えるかもしれません。
それは、子どもの慢性疲労症候群を長年診てきた三池輝久先生が、学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の中で指摘していたことでもあります。
不登校状態とは、生命の脳の疲労困憊を伴う、中枢神経の機能低下であることを述べた。これは持続時間はさまざまであるが、生命の危機を経験したことに等しい。
…肉体的な疲労は回復し、精神的にも元気を取り戻したように感じていても、いざ学校に戻ろうとすると体が反応してしまうのである。
これをPTSD(心的外傷後ストレス障害)という。(p66)
では、このような生命の危機を引き起こす食物アレルギーと同様の性質を持ち、ある種のショック反応さえ引き起こす「対人アレルギー」とはいったい何なのでしょうか。
免疫寛容としての「愛着システム」
「アレルギー」というと、わたしたちは身体的な反応のことを想像しがちです。心のアレルギーというと、つかみどころのないポエムのように聞こえます。
しかし、よくよく考えてみればわかるとおり、わたしたちの心と体は同じ素材からできています。心というのは、有機物の集まりによって構成される脳が生み出している現象なのです。
そうであれば、わたしたちの体に備わっている仕組みが、同じように構成されている心の働きにも見られるとしても、何ら不思議なことはありません。
生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)によると、この場合、心と体に共通しているメカニズムは「免疫寛容」と呼ばれるものです。
幼い頃に触れることによって免疫反応を抑える仕組みは、免疫寛容とも言われるが、人間に対する免疫寛容ができあがらないままの人が増えているとも言えるのだ。
そして、この免疫寛容に相当する仕組みこそ、愛着ではないかと思われる。愛着が十分育たないまま、社会に出ることを余儀なくされる人々は、人間アレルギーに苦しめられやすいように思える。(p182)
ここで説明されているとおり、免疫寛容とは、幼い頃にさまざまな物質に触れることによって異常な免疫反応を抑える仕組みです。
近年増加する食品アレルギーや花粉症といったアレルギー疾患は、先進国の都市部に多く見られる病気として知られています。
以前の記事で取り上げたように、これらは、都市の衛生化や、抗生物質の乱用によって清潔過ぎる環境が作られ、幼い頃にアレルゲンと接することが少なくなり、免疫寛容が学習できなくなった結果生じる疾患とされています。
脳が免疫寛容を学習できる時期は、ほぼ幼い頃に限られていて、そのころにアレルゲンに接すると、免疫系は本来は危険でないものと本当に危険なものとを見分ける賢さを身につけます。大人になってからそれにさらされても、過剰反応することはなく、アレルギーも生じません。
しかし幼い頃に免疫寛容を学習する機会がなく、大人になってから、はじめてアレルゲンにさらされると、本来は安全なものであっても、過敏に反応してしまいます。これがアレルギーの正体です。
これと同様のことが、対人関係にも生じます。
幼い時期に、周囲の物質が危険なものかどうかを学習するシステムがあるのと同様に、幼い時期に、周囲の人間が危険かどうかを学習するシステムもまた存在しているのです。
それが、先程の引用文に出てきた「愛着」と呼ばれるシステムです。
愛着システムについて、詳しくは以前の記事で取り上げたとおりですが、これはごく幼い時期の養育者との関わりによって、その後の対人関係のパターンの基礎が形作られるというものです。
この幼い時期に、愛情深い世話をされることで、基本的にいって隣人とは信頼に値するものなのだ、という認識が育まれ、その後の安定した人間関係の型が作られます。この認識は「基本的安心感」として知られています。
しかし、不幸にもそのような世話を受ける機会を逸してしまうと、愛着システムが発達せず、まわりの人間を安心して受け入れてよいのだ、というごく当たり前の「基本的安心感」が学習されません。
「基本的安心感」は、対人関係における免疫寛容ともいえるもので、その幼い時期に学習できなければ、後から身につけることは困難です。
「基本的安心感」が十分身につかないまま成長すると、ちょうど大人になってからアレルゲンに出くわした人がアレルギーを発症するように、対人アレルギーに苦しめられることになってしまいます。
文字通りのアレルギーは、大人になってから免疫寛容を身につけるのは生易しいことではありません。近年は減感作療法が開発されていますが、非常に手間がかかるものですし、体質が根本から変わるわけではありません。
対人アレルギーもそれと同様で、大人になってから基本的信頼感を育むことはとても難しいとされています。減感作療法のように慎重に長期間かけて場馴れするよう図っても、おおもとの繊細さがやすやすと変化するわけではないのです。
原因は「恐れ・回避型」の不安定型愛着
愛着システムのアレルギーには、さまざまなタイプがありますが、回避性パーソナリティは、その中でもひときわやっかいなタイプが関係しているようです。
実は、回避型に加えて、人に受け入れられるかどうか不安が強い不安型が同居したタイプで、恐れ・回避型と呼ばれるものがある。
この恐れ・回避型が、回避型パーソナリティにもっとも典型的な愛着スタイルなのである。(p100)
愛着システムのアレルギーには、人から遠ざかって人間嫌いになる「回避型」と、人に執着しすぎて見捨てられ不安にとらわれる「不安型」とがありますが、回避性パーソナリティの場合は両方が同時に存在しています。
これは「恐れ・回避型」とよばれ、人間嫌いで人が怖い傾向と、それとはまったく逆の、人に認められ愛されたいという欲求とがせめぎ合っている状態です。
単に、人を恐れて「回避」するだけでなく、人から愛されているか気にする「不安」にもとらわれるという、相反する傾向のせめぎあいこそが、すでに考えた回避性パーソナリティの人の「葛藤」また「ジレンマ」の源なのです。
それに対して、本来の回避性パーソナリティは、求めているが、恐れのためにそれができないというジレンマを抱えている。(p94)
心の免疫系ともいえる、愛着システムがうまく発達せず、人が怖い、でも求めたいという悩ましいアレルギーを抱えてしまう背景には、幾つかの原因があるようです。
まず一つは、遺伝的な性質です。心の免疫系、対人アレルギーなどというと、感情的な問題と思いがちですが、意外にも、遺伝的な影響がかなり強いことがわかっているそうです。
回避性パーソナリティ障害は、遺伝的要因も比較的大きいことが知られていて、遺伝要因が関与する割合は、六割台半ばに達する。(p130)
回避性パーソナリティの原因の60%以上が遺伝的な要因に基づいているという、このショッキングな事実からすると、これが単なる「心の弱さ」や「努力不足」ではないことは明白です。
文字通りのアレルギーや、他のさまざまな身体疾患と同じく、遺伝子という生物学的要因が大きく関わる問題なのです。
では、この遺伝要因とは具体的にいってどんな内容なのでしょうか。
続く部分では、回避性パーソナリティと関わる遺伝子として特に有名なのは、セロトニントランスポーター遺伝子の働きに関するものだと書かれています。
脳科学は人格を変えられるか?によると、この遺伝子は感受性に関する遺伝子であり、良くも悪くも環境に影響されやすく、過敏に反応する性質と関係しているとされています。
ベルスキーが主張するように、この遺伝子の発現量が低い人はたしかに逆境にいちばん弱くはあるが、そのいっぽうで、幸福につながるようなポジティブな環境に置かれれば、そこからいちばん大きな利益を受けることが多いのだ。(p182)
このような「感受性の遺伝子」はセロトニントランスポーター遺伝子のほかにも幾つか発見されているようで、そうした様々な過敏傾向を遺伝によって受け継いだ繊細な子どもが、回避性パーソナリティになるリスクを抱えるのだと考えられます。
重要なのは、このような生まれつきの感受性の強さは、精神的な弱さや脆さではなく、あくまで「感受性」の遺伝子だということです。つまり、環境によって悪い影響を被ることもあれば、人一倍良い影響を得ることもあるのです。
近年では、このような生まれつきの感受性の強さや繊細さは、アメリカの心理学者エレイン・N・アーロンの提唱したHSP(Highly Sensitive Person)、訳せば「ひといちばい敏感な人」という概念しても知られています。
「敏感すぎる自分」を好きになれる本には、生まれつきの敏感さであるHSPについて、先ほどの感受性の遺伝子に関する説明と同様の点がこう書かれていました。
生まれ持ったHSPという気質自体は同じであっても、育った環境や人間関係などの後天的な要素によって、敏感さはプラスのほうにも、マイナスのほうにも作用し、性格も変化します。(p73)
だからこそ、先程、生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)から引用した、遺伝要因が6割強関わっているという解説の続きでは、こう補足されているのです。
環境要因の関与は、およそ三分の一と一見小さく思えるが、この三分の一が発症するかしないかを左右する。
残りの1/3を占める環境要因によって、2/3を占める「感受性」の遺伝要因が、良いほうに開花するか、悪いほうに転ぶかが大きく左右される、ということです。
感受性の強さはプラスにもマイナスにもなる
では、回避性パーソナリティを発症してしまった人の場合、その1/3を占める環境要因が悪いほうに作用したために、感受性の遺伝子がマイナスの影響を被って人生が台無しになってしまった、ということなのでしょうか。
決してそうではありません。
そういえる一つの理由は、回避性パーソナリティは、どちらかというと、確かに良い環境に育ったとはいえないものの、最悪の事態は避けることのできた人に生じる症状である、ということです。
さきほど出てきた、回避性パーソナリティのジレンマの原因である、愛着システムの「恐れ・回避型」というタイプは、以前にもこのブログで具体的に扱ったことがあります。
この記事では、「恐れ・回避型」、またの名を「無秩序型」や「混乱型」と呼ばれるこのタイプの愛着がいかに悲惨で破壊的な結果をもたらすかを説明しました。
この「恐れ・回避型」の愛着タイプは、もともとは、虐待された子どもに特徴的に見られるタイプとして発見された歴史があります。
そして、そうした子どもは、解離性同一性障害、いわゆる多重人格や、拒食症のような摂食障害、境界性パーソナリティ障害のような、ひどく不安定で危険な疾患になりやすいことがわかっています。
本来、「恐れ・回避型」というのは、それだけ危険な疾患群のリスク要因なのです。
しかし回避性パーソナリティのジレンマの源となっている場合の「恐れ・回避型」は、それほどまでに混乱した状態ではありません。
その違いは、一つには、生まれ育った家庭環境の混乱の程度の強さと関係があるのでしょう。
主体性を奪われる家庭環境
「恐れ・回避型」は、虐待やネグレクトなどの扱いの元で特徴的に生じやすいとはいえ、回避性パーソナリティになる人の場合は、そこまで悲惨な環境で育ったわけではないケースが多いのではないかと思います。
生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)によると、回避性パーソナリティを生みやすい家庭環境は、主体性を奪われる環境と関係しているようです。
主体性を奪われるという状況は、少子化が進み、親がともすると過保護・過干渉に子どもにかかわりがちな今日では、非常に身近なものだと言えるだろう。
…親が働いていて、温もりのある世話やかかわりは不足気味なのに、期待や口出しだけは、人一倍多いという最悪の状況も起きがちだ。
ことに、親が期待をかけ、口出しすることが、子どもに愛情をかけることだと勘違いしている場合には、親の期待は害しか産まなくなる。(p156)
虐待やネグレクトは、存在そのものを否定され、主体性を徹底的に剥奪される経験ですが、そこまでひどくはなくても、主体性を損なう家庭で育つ人は、今の時代に大勢います。
それはたとえば、親が子どもの将来を案ずるあまり、良かれと思って自分の敷いたレールに子どもを載せようとしたり、過保護になって親の考えを押し付けすぎたりする家庭かもしれません。
普通より敏感な子が そうした家庭で育つと、幼い頃から、自分では望まない重い期待を背負わされ、自分の意志ではなく親の意思によって生きるという居心地の悪さを抱えることになるでしょう。
虐待やネグレクトとまではいかなくても、そうした主体性を奪いかねない愛情が、感受性の強い子どもに、ある程度「恐れ・回避型」のジレンマを抱えさせてしまうことがあります。
その結果、回避性パーソナリティに陥ってしまい、何をするのも怖くなり、あらゆることが面倒くさくなってしまうこともあるでしょう。
若者たちが、責任や負担を避けようとしたり、チャレンジを避けようとしたりするのは、幼い頃から、あまりにも多くの責任や負担を、しかも本人の遺志とは無関係に、背負わされてきたためではないのか。
あまりにも多くの望まないチャレンジに早くから駆り立てられたためではないのか。(p153)
親の期待に添えないと認めてもらえない経験を繰り返せば、失敗を恐れるようになるのは当たり前ですし、自分ではなく親という他人の人生を歩んでいるわけですから、面倒くさくなってすべてを放り出したくなるのも当然です。
また、先ほど三池輝久先生の学校を捨ててみよう!―子どもの脳は疲れはてている (講談社プラスアルファ新書)の記述を引用しましたが、起立性調節障害や慢性疲労症候群などで不登校になってしまう子どもの場合、家庭というよりは、主体性を奪う学校の環境に対して、強い感受性や対人アレルギーが過敏に反応していることもあるでしょう。
虐待やネグレクトのもとで、人間に対するアレルギー、つまり対人関係のトラウマが生じるように、主体性を損なわれる環境で育ったひといちばい敏感な人も、人から否定されることへのトラウマを抱えてしまい、失敗することや恥をかく状況を避け、「回避」するようになってしまうのです。
逃げ場があるからこそ「回避性」
とはいえ、このような人たちが「回避」することができる、というのは、ある意味で幸運なことです。
極めて悲惨な家庭で育った「恐れ・回避型」の人が、解離性障害など、より重篤な疾患を発症してしまうのは、「回避」できる居場所がないためだからです。
そのことは、以前の記事でも少し取り上げました。
この記事の中ほどでは、過剰同調性という、あらゆる場面で安心できる居場所がない苦悩を抱える人たちと、過剰適応のせいで不登校になってしまう人とを比較しました。
あらゆる場面で安心できる居場所のない人たちは、現実世界に逃げることのできる場所がどこにもありません。それで、意識を解離させ、空想の中に避難所を作るという究極の方法で対処します。
一方で、不登校や引きこもりになる人は、それぞれの家庭の居心地はさまざまでしょうが、せめてもの救いとして、家の中に逃れて引きこもる場所、つまり「回避」して逃げこめる場所があるといえます。
逃げ場があるからこそ「回避性」なのであって、逃げ場がなければ「解離性」になるのです。
もちろん、だからといって逃げ場がある人たちの苦しみが軽いということにはなりません。どちらの人たちもそれぞれの苦悩の中を生きています。
この本によると、「回避」できる逃げ場所があり、働かなくても生活していけるがゆえに、かえって慢性化、長期化してしまう例もあるとされています。それはそれで、当人にとっては負い目にさいなまれる辛い日々でしょう。 (p268)
それでも、一時的にせよ、逃れて回避できる場所や、養ってくれる家族に恵まれている人は、時間はかかろうとも、いずれはそこから抜け出して、一歩踏み出せるチャンスを得ているということにほかなりません。
逃げ場所の確保は、回避性パーソナリティの人が精神的に追い詰められないための大切なリソースであり、そこ得た猶予を活用して、自分の歩む道を見つけることに成功した人たちも少なくないのです。
たとえ絶望の淵に立たされても
では、逆に、「回避」できる場所がなく、回避性パーソナリティどころか、もっと厳しい病状を抱えてしまった人の場合はどうでしょうか。
生まれ持った強い感受性と、劣悪な環境とが重なり合って、壊滅的なダメージを受けてしまった人には希望はないのでしょうか。
決してそうではありません。
その根拠は、そもそもの感受性の遺伝子の正体にあります。
先ほど引用した脳科学は人格を変えられるか?の続きにはこうあります。
それが「何か」の遺伝子であるとすれば、「可塑的な」遺伝子だと考えるのが妥当だろう。
セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い人はまわりの環境に影響されたり反応したりしやすく、そのため、すばらしい環境や支援に恵まれればそこから大きな利益を引き出せる。
だが、虐待を受けたりまわりから支援を得られなかったりしたときは、深刻な負の影響を受けることになるのだ。(p182)
ここで書かれているとおり、生まれつき強い感受性を持つ人たちは、虐待などの極めて劣悪な環境に置かれた場合、深刻な負の影響を受けることになります。
しかしそれでも、その生まれつきの感受性をもたらしている遺伝子は、「可塑的な」遺伝子である、ということを忘れるべきではありません。
「可塑」(かそ)とは粘土のような柔らかく形を変える性質のことです。環境に合わせて柔軟に適応していける力のことでもあります。
以前の記事で取り上げたとおり、虐待の結果、さまざまな脳の異常が生じるのは、ダメージというより、一種の適応です。
生まれ持った感受性の強さ、すなわち可塑性の強さは、悪い環境への適応を助けて、深刻な負の影響を生じさせる方向に働いてしまうこともあります。
しかしその可塑性の強さは、すばらしい環境や支援のもとでも働き、普通以上に好ましい適応ができるよう助けてくれます。
たとえば、適応がもたらす深刻な負の影響の一つともいえる解離性障害は、同じような症状を伴う統合失調症とは異なり、適切な支援を受ければ、十分に回復する可能性を秘めているとされています。
それはおそらく、悪いほうにも良いほうにも柔軟に適応していける、生まれ持った強い可塑性がもたらす回復力なのでしょう。
強い感受性を持っているということは、悪い影響に苦しめられやすい反面、裏を返せば、良い環境に巡り合ったときに、人生をひっくり返せる可能性もまた備え持っている、ということでもあるのです。
回避性パーソナリティにしろ、より深刻な解離性障害にしろ、たとえ追い込まれても、決して人生をあきらめなくてもよいといえる最大の理由がここにあります。
それらの問題を抱えているということは、あなたが可塑性の遺伝子を持っているということの証拠、すなわち、良い状況が訪れたときには、そのチャンスを最大限に活かせる手札を持っているということの紛れのない証拠でもあるからです。
回避性パーソナリティを克服した人たち
この生きるのが面倒くさい人 回避性パーソナリティ障害 (朝日新書)では、回避性パーソナリティを抱えていたと考えられるさまざまな人たちが、足踏みし、引きこもっていた時期を乗り越えて、ふと舞い込んできたチャンスを最大限に活かして大きな飛躍を遂げた例がたくさん載せられています。
その中には、作家の井上靖(p29,272)、村上春樹(p83)、森鴎外(p160)、星新一(p218)、音楽家のベートーヴェン(p103)、ブラームス(p214)などがいます。
作家が多いのは、たまたまではなく、感受性の遺伝子を持っている人の傷つきやすさは、鋭い感性ともなり得るということを雄弁に物語っています。
繊細な感性を備えたクリエーターは、自分の世界が壊れないように、自分を守らなければならない。現実の雑事などの余分な負担を避ける必要もある。
そこには、回避性の真髄が示されているとも言える。(p83-84)
実際に、作家や詩人には回避性の傾向を持った人が少なくない。
現実の中で自分のやりたいことをやすやすと行うことができるのならば、わざわざフィクションという方法で表現する必要もない。(p162)
この本には、ほかにも回避性を抱えつつも克服していった意外な人物として、「ピーターラビット」の作者ビアトリクス・ポター(p233)や、自身をモデルとして「のび太」を創りだした藤子不二雄なども出てきます。(p80)
もっと変わり種としては、「逃げちゃダメだ」のセリフが印象深い新世紀エヴァンゲリオンのキャラクター碇シンジも、架空の人物でありながら、回避性パーソナリティ的な性格が反映されているとされています。(p81)
そして、何よりも、著者の岡田尊司先生ご自身の、これまでの人生の経験談が、この本全体を貫く糸となっています。
もしかすると、この本は、回避性パーソナリティの傾向を持つ岡田先生が、自分の人生を語りたいけれど、正面切って自伝のように語るのは恥ずかしいという葛藤を抱え、それならば表向きは回避性パーソナリティの解説本にしてしまおう、という形で一歩踏み出した一冊なのではないか、とも思えます
そんな岡田先生をはじめ、これら回避性パーソナリティを乗り越えた様々な人たちの転機となったのは、ただ一歩踏み出して、目の前にたまたま舞い降りてきた小さなチャンスをつかんだことだといいます。
回避性の人が回復し始めたときに、しばしば起こるのは、それまで抱いていた大きな理想や願望にこだわるのをやめて、その人の前に提供された小さなチャンスに思い切って乗ってみるということだ。(o255)
ものぐさな回避性パーソナリティの人は、そんな小さな端切れのようなチャンスが何になるのかと感じて、なかなかやる気が起こらないかもしれませんが、実際にはそんな小さなチャンスで十分なのです。
なにせ回避性パーソナリティの人は、可塑性の遺伝子、つまり、ちょっとした環境の変化にさえ敏感で、チャンスに恵まれたとき、それを誰よりも活かせる感受性の強さを生まれつき持ち合わせているのです。
何より大切なのは、自分でその小さなチャンスに手を伸ばし、主体性を取り戻すというアクションです。
生まれつきの感受性は、他人に押し付けられた人生を生き、他人の手のひらでコントロールされているときは、人に対する恐れや失敗への恐怖となって手足を絡め取り、がんじがらめにしてしまいます。
しかし、たとえ対人アレルギーを持っているとしても、食物アレルギーと同じで、自分で何を選び、何を避けるかという主導権を握ってしまいさえすれば、症状が出ないように環境を整えることも可能です。
ひとたび、自分の人生を歩き始め、自分のペースで周りの環境をコントロールするようになってしまえば、繊細で敏感な自分なりのやり方、自分だけの生き方の道筋が開けてくるものです。
この本は、そんな繊細で敏感な回避性パーソナリティの人が、自分の手で小さなチャンスをつかむのをそっと後押ししてくれる本だと思います。
恐れのせいで一歩踏み出せず、自分の人生を見失ってしまい、生きることさえ面倒くさくなっている人は、寝転んだままで構わないので、この本を手にとって、スナック菓子をつまむくらいの気持ちで、さきほど挙げた人たちの興味深いエピソードを、だらだらと読んでみるといいと思います。
そうすれば、そんなちょっとしたきっかけに手を伸ばしたことが、あれよあれよと、びっくりするような変化を呼び込む最初の一歩になってしまうかもしれません。
なんといっても、回避性パーソナリティのあなたは、ほんの些細な変化にさえ生まれつき敏感で、ひといちばい過敏に反応してしまう感性の持ち主なのですから。
▼恐れ・回避型とのび太型ADHD
のび太が引き合いに出されていることから思い当たった人もいるかもしれませんが、おそらくは、回避性パーソナリティと、いわゆるのび太型のADHDは、共通の遺伝要因を持つ重なり合う概念ではないかと思います。
岡田先生の別著、愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)によると、この記事で取り上げた恐れ・回避型(混乱型)の愛着スタイルとADHDとは、同じドーパミン関連の感受性に関わるの遺伝子が関係しているという研究があるそうです。
ひといちばい敏感な子を見ると、そうしたドーパミン関連の遺伝子や、この記事で取り上げたセロトニントランスポーター遺伝子などの感受性の遺伝子は、生まれつき敏感なHSPと密接に関連しているようです。(p436)
のび太型ADHDの人も、生まれつき敏感で、優れた感性を持っていて、そのせいで傷つきやすかったり、人間関係に悩んだりしやすいことは、以前の記事でも扱いました。
そのような人の場合、どちらが正しいというより、ADHDとして捉える見方と、不安定型の愛着として捉える見方の両方が、別々の角度から問題を捉えるアプローチとして役立つのではないかと思います。