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なぜ耐えがたい恥は人を生ける屍にしてしまうのか―「公開羞恥刑」と解離の深いつながり

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なたが今まで「人生でいちばん恥ずかしい」という思いをしたのはいつですか?

そう問われると、思い出したくもない記憶がいくつも頭をよぎって、思わず顔をしかめたり、思考を追い払ったりしてしまう人もいるでしょう。

「恥」という感情は、ひときわ耐えがたいものの一つです。痛みに強く、怒りをコントロールでき、悲しみにも呑み込まれない屈強な人でも、恥ずかしさだけは耐えることができないかもしれません。

恥ずかしさは、わたしたちにとって身近なものですが、度を越えた恥ずかしさは、人を殺すことさえあります。ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)という本で取材された、精神分析学者ジェームズ・ギリガンはこう語ります。

あらゆる暴力は、その被害者から自尊心を奪い、代わりに恥の感情を植えつける。

それは事実上、その人を殺すのと同じだ。(424)

「恥」が人を殺すとはどういうことでしょうか。

「恥」は、これまでに数限りない人を殺してきました。恥が殺すのは、その人の心、また人格です。学校でのいじめや先生によるあげつらいが子どもを不登校に追い詰めたり、虐待や性被害が心を破壊したりするのは、耐えがたいまでの恥にさらされるからです。

特に、公の場で、たとえばクラスメイトたちの前や、大勢の人が見ている会場、そして今日ではあらゆる人がアクセスできるSNS上などで恥をかかされることは、ひときわ強いショックを与え、PTSDに苦しませ、ひどい場合は自殺へと追い込むことさえあります。

なぜならそれは、古代において死刑よりも残酷と言われ、先進国ではあえて廃止されてさえいる刑罰、犯罪者や異国民を辱めるために行われていた「公開羞恥刑」(こうかいしゅうちけい)と同じ構造をしているからです。

現代のいじめなどにも見られる「公開羞恥刑」としての辱めは、どこにも逃げ場がない、安心できる居場所をことごとく奪い去るといったことから、このブログで取り上げてきた「解離」、つまり心のシャットダウンや切り離しと、非常に深いつながりをもっています。

なぜ公の場で恥をかかされる公開羞恥刑のような体験が、死刑よりも恐ろしいとまで言われるほど残酷で、人格を殺害するのか、なぜ恥と解離は本質的に絡み合っているのか、幾つかの本から見てみましょう、

これはどんな本?

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)は、邦題が示すように、近年ネット上で増えているネットリンチ、言い換えると炎上についての事例を研究した書籍です。

ごく普通の人が、いかにちょっとした不用意な発言や一枚の写真がきっかけで、恐ろしい吊し上げに遭うか、さまざまな事例が集められています。

しかし元の原題はSo You`ve Been Publicly Shamed(だから君は公に辱められた)であり、ネット上のみならず、公衆の面前で辱めを受けることが、いかに人の心を破壊し、追い詰めるかについて、多方面から調査した本でもあります。

公衆の面前で辱めることは、古くは「公開羞恥刑」として公式に行われていて、現在でも、裁判における戦略の一つとして、恥をかかせる手法が積極的に用いられることがあります。

それだけでなく、近年SNSで見られる炎上騒ぎは、紛れもなく古代の「公開羞恥刑」の再来であり、戦時下の残虐な集団行動の研究などと密接に関係しています。

さらには、いじめや虐待が人の心を破壊し、ときには自殺まで追い詰めるのは、それが一種の「公開羞恥刑」であり、死よりも辛い仕方で心や人格を破壊するからだ、という点を明らかにして、壊された心や傷つけられた評判を回復する方法を著者は探っています。

もう一冊、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアはこのブログで以前にも紹介した、心理学者でありなおかつ神経生理学者でもあるピーター・A・ラヴィーンによるトラウマを生物学的に考察した本です。

この本でもまた、解離やトラウマにおいて「恥」は重要な役割を果たしていて、それが単なる感情や気持ちの問題ではなく、生物に普遍的に備わっている麻痺や不動状態を引き起こす凶器であることが書かれています。

今も身近な「公開羞恥刑」

「公開羞恥刑」、つまり公衆の面前で辱めることは、古くから刑罰の一種として頻繁に用いられていました。

犯罪者を公の場で、群衆たちの目の前で鞭打ったり張り付けにしたりすること、敗者を見せしめとして鎖でつないだり服を剥ぎ取ったりして行進させること、引き回すことなどは、有名なキリストの死やローマの凱旋行列など、歴史の至るところで行われてきました。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、文献をたどると、姦通を告発された女性がむち打ちの刑はともかく、人前でのむち打ちだけはしないでほしいと懇願している例もあるそうです。(p95)

公開羞恥刑が、あまりに残酷なので、アメリカ建国の父の一人ベンジャミン・ラッシュは1787年にこう書きました。

公衆の面前で屈辱を与える刑罰は、実は死刑よりも残酷であると広く認識されている。

にもかかわらず、その種の刑罰が、死刑よりも軽い罪に対して用いられているのは奇異としか思えない。

このとてつもない過ちに気づかない限り、人間の心は何事に関しても真実に到達することはまずできないであろう。(p99)

こうした事例は、肉体的苦痛よりいや増して、公の辱めのほうが人にとっては恐ろしく耐え難いものであることを如実に物語っています。

イギリスでは1837年、アメリカでは1839年、公開羞恥刑は公には廃止されました。(p22)

では、公開羞恥刑は、もはや過去の残酷な歴史にすぎないのでしょうか。そう考えるのはとんでもないことです。

著者は、さまざまな取材を通して、公開羞恥刑は今でも、たとえば裁判の場において、効果的な戦略として用いられ続けていることを明るみに出しています。

ある有能な弁護士はこう言いました。

「ああ、はい」彼はとても嬉しそうにそう答えた。「私はいつもやっていますね。

これまで、相当な数の人にそういう攻撃をしました。標的にすることが多いのは何かの専門家ですね」(p398)

この弁護士が述べるように、検察側の証人や専門家を追い詰めて、公衆の面前で恥をかかせることは、その証言が当てにならないことを知らしめる効果的な手段だとみなされています。

また、判事の中には、刑罰として、犯罪者に対して公開羞恥刑を求める人もいます。死ぬほど恥ずかしい思いをさせることが、再発の防止に大きく貢献するからだといいます。

しかしときには、法廷は、本来守られるべき被害者を公開羞恥刑に遭わせる処刑場ともなりえます。

スコットランドのある裁判では、レイプ被害者の16歳の少女が、証言と称して、事件のことを思い出させられ、屈辱的な尋問を強いられました。少女は三週間後に自殺し、有罪になった犯人は、2年後に刑務所から釈放されました。(p410)

心を破壊し、再起不能にまで追い詰める公開羞恥刑は、裁判所どころか、もっと身近なところでも生じます。最も公開羞恥刑の温床となっている場所のひとつは、間違いなく学校でしょう。

わたし個人の子ども時代を振り返るだけでも、自分やクラスメイトのだれかが公開羞恥刑に遭わされるような体験は、日常的に行われていたように思います。

古いマンガでは、先生は忘れ物をした生徒に「バケツを持って廊下で立っておれ!」と怒鳴るお約束があります。実際の学校でも、忘れ物をした生徒がクラスメイトの目の前で怒鳴られたり、ときには体罰を受けたりすることもあります。

美術や図工の先生が、“上手な”生徒の絵と、“下手な”生徒の絵を比較して晒し者にすることがあります。

運動の苦手な子どもたちは、悪い例としてやり玉に挙げられ、他の生徒の前で教師からバカにされます。

発達性協調運動障害(DCD)や限局性学習症(SLD)の子どもたちは、他の子たちより人いちばい頑張って取り組んでいるにもかかわらず、教師たちから嘲られ、公の場でひどい扱いを受けることが少なくありません。

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学校で生じる公開羞恥刑は、教師が生徒を辱めるものだけではありません。生徒のあいだで生じる極めて残酷な公開羞恥刑は「いじめ」でしょう。

クラスメイトの前でいじめられたり、クラスメイト全体から除け者にされたりして、大人になっても癒えない心の傷を抱えている人は少なくありません。

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教師による吊し上げやいじめは、時々日本の集団主義の学校だから起こるもので外国ではそんな陰湿なことはされない、と言われることもありますが、決してそんなことはなく、文化を問わず広く見られるものです。

さらには、すでに述べたように、近年、ネット上で生じているSNS上の炎上も、インターネットという公の場で起こる凄惨な公開羞恥刑です。

何気なく不用意な発言をした人や、不謹慎な画像を投稿してしまった人が目をつけられ、またたく間にネット中に拡散され、実名や住所まで特定され、その後も検索結果の上位に残ってしまうせいで、ネット上だけでなく現実世界でも居場所を奪われます。

こうしたさまざまな形の公開羞恥刑に共通するのが、被害者に強烈な「恥」を背負わせることです。恥をかかされた人は、それ以前とはまったく違った印象をもたれることになります。

羞恥は、遊園地によくある、物が歪んで映る鏡に似ている。

公衆の面前で誰かにわざと恥をかかせると、その人を本来とは違う姿に見せることができる。(p410)

ひとたび恥をかかされると、周りの人はもはや、その人を今までと同じようには見なくなります。馬鹿なことをした最低の愚か者、道化者のようにみなします。だからこそ法廷闘争や凱旋行列では、相手に恥をかかせ、勝利の美酒に酔いしれます。

けれども、より破壊的なのは、その人自身、つまり辱められた当人が、もはや自分を以前のように見れなくなることです。

辱められた人は、歪んだ鏡に映る自分を見るように、ありのままの自分を認識できなくなり、自尊心が打ち砕かれ、生きている価値さえもないと思い込みます。

なぜ人は公開羞恥刑をやめないのか

公衆の面前で恥をかかせることは、あまりに残酷で、人の心を死に至らしめるものなのに、なぜ、いつの時代もなくならないのでしょうか。

これまでよくなされてきた説明は、19世紀の心理学者、ギュスターヴ・ル・ボンが唱えた「群衆心理」、つまり人は集団になると理性を失い残酷に行動する、という理論にもとづくものだと著者は言います。

それを裏付ける証拠としてよく引き合いに出されるのは、あの有名な「スタンフォード監獄実験」です。

「スタンフォード監獄実験」は心理学をかじった人なら、だれでも知っているであろう、あまりに鮮烈で印象的な、恐ろしい実験です。

この実験は、1971年、スタンフォード大学の心理学者フィリップ・ジンバルドーによって執り行われました。

ジンバルドーは、群衆が異常な状況でどのような振る舞いをするかを調べるために、参加者を看守役と囚人役に分け、地下室に擬似的な監獄を作り上げました。

しかし実験はわずか6日で中止されます。広く知られている話によると、看守役があまりに残虐になり、手がつけられなくなったせいで、ジンバルドーの婚約者が恐怖を覚え、実験をやめさせたからでした。

それ以来、この実験は、ミルグラム実験と並んで、戦時下などでごく普通の人が残虐行為に手を染めてしまう理由を説明するモデルとして、たびたび言及されるようになりました。このブログの過去記事でも紹介したとおりです。

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スタンフォード監獄実験の本当の意味

しかし、ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)では、スタンフォード監獄実験の当時の関係者、特に看守役へのインタビューをすることに成功し、一般に知られているのとは少し違った真相が引き出されています。

フィリップ・ジンバルドーは、スタンフォード監獄実験は、群衆心理と同様、善良な人々でも、集団で邪悪な環境に置かれると残虐になることを示していると考えましたが、当時の看守役のある男性はこう述べたそうです。

「私は完全に意図的に、自分に与えられた役を演じていました」彼はそう答えた。

「自分でこういう人間を演じようと考え、その考えを実行に移したんです。無意識ではまったくありません。

あの時は自分では良いことをしているつもりでしたね」(p187)

スタンフォード監獄実験の手法を詳細に調べてみると、ジンバルドーは実験を始める前に実験の趣旨や目的を参加者に詳しく説明していました、一般的な傾向として、心理学の実験の参加者は、研究者の期待を知れば、進んでそれに応えようとする傾向があるそうです。

そのため、看守役が暴力的かつ残虐になったのは、「群衆心理」にふさわしい結果をジンバルドーが期待していて、それを態度で示していたからだ、ということになります。

では、この実験は「やらせ」だったのかというと、そうではない、と別の心理学者スティーブ・ライカーは述べたそうです。この実験の着眼すべきポイントが違っているのだ、と彼は言いました。

そのポイントとは、看守役の男性が「あの時は自分では良いことをしているつもりでした」と述べていたことです。ライカーはこう説明します。

「どれほど暴力的な群衆であっても、ただ無秩序に暴れるわけではありません。必ずパターンがあります。そのパターンには、何というか、大きな『信念体系』のようなものが反映されます。

不思議なのは、リーダーがどこにもいなくても、群衆が自らある程度、知性的に、集団の構成員の普段の思想に沿って行動できるということです。

感情が人から人へ電線して狂った行動を取っているのではありません」(p190)

彼が言うには、集団になって残酷な行為を働く人たちは、ル・ボンの集団心理や、一般に知られているスタンフォード監獄実験の理解とは裏腹に、理性を失って狂人のように残虐行為にふけるわけではありません。

スタンフォード監獄実験の看守役が振り返ったように、「意図的に」つまりある程度の知性や判断力のもとに、理由があって行動します。

善悪の区別がつかなくなって暴動を起こしているのではなく、「自分では良いことをしているつもり」で、あえてそうするのだといいます。

この本に載せられている数々の公開羞恥刑の事例において、だれかを辱める側にいた人たちの言葉は、この見解を裏づけているように思います。

たとえば、先ほど、裁判の場面において、専門家を公開羞恥刑に遭わせると述べた弁護士は、その行いを恥じるでもなく、「とても嬉しそうに」「私はいつもやっていますね」と言い切りました。

犯罪者に辱める刑罰を課す判事は、そうすることが再犯防止につながるというデータがあるので、処罰されるべき悪を裁くための正しく効果的な手法だと自信を持っていました。

ネット上の炎上のキーマンとしての役割を果たした人たち、たとえば不用意なツイートを見つけて自分の大勢のフォロワーにそれを流したような人たちは、正義感からやった当然のことだと臆面もなく語ります。

あたかも犯罪を「通報」するかのように、ふざけた行為や不謹慎な発言を摘発し、世の中に知らしめるヒーローになり、罰を受けるべき人に当然の報いを与えてやったのだ、と考えていました。

その発言や写真を拡散する無数のネットユーザーも、何の考えもなしにシェアしたり、リツイートしたりするのではありません。「こんなバカげた不謹慎な振る舞いをする奴がいることを、世の中に知らしめたい」、という義憤があります。

公開羞恥刑の温床になっていると述べた学校においてもそうです。学校の先生や他のクラスメイトは、「群衆心理」のように理性を失ったせいで、“できそこない”の子を吊し上げるわけではありません。

そうやって公衆の面前ではっきり指導することが、怠けている子どもを奮い立たせるのにふさわしい罰、つまり教育的指導だと信じ込んでいます。

また運動や勉強ができない子どもは“努力していない”子なので、“努力している”成績優秀な子と比較して良い例と悪い例をはっきり見せることが、クラス全体を教える効果的な方法だと考えています。

いじめにしても、何の理由もなく粗暴な振る舞いをしたり中傷したりするわけではありません、だれかの欠点や弱みを見つけ、明るみに出すことは、クラスでだれが主導権を握っているのかをはっきり示すための制裁なのです。

いずれにしても、共通しているのは、ほとんどの場合、ネット上であれ、現実社会であれ公開羞恥刑に関わる無数の人々、それを容認したり、煽ったりする群衆は、理性を失って発狂しているわけではないということです。

各々が自分の信念に照らして行動し、自分は正しいことをしている、社会のために良いことをしていると考えています。しかしそれが、吊し上げられている人の心をどれほど傷つけるのかは、ほとんど考えもしません。

だが、私も含め、多くの人たちの良いと思った行動が、大きな犠牲を生んでしまっている。(p197)

正義か悪かの二極に巻き込まれる

公開羞恥刑が行われるとき、それに関わる人々は、ばっさりと白か黒か、正義か悪かにわけられることになります。

公に辱められ、恥をかかされている人は、社会にとって全面的に「悪」です。恥知らずな行いをして、当然の報いに遭っている、逸脱者、人格障害者、人間以下のクズだとみなされます。

自分たちが攻撃し、傷つける相手のことを、人間性を欠いた存在と見なしがちなのは、ごく普通のことである。特に珍しくはない。

攻撃する側も、攻撃の最中も、その後も、相手は人間ではない、と思い込むのだ。(p147)

他方、その恥知らずな行いを暴いて制裁し、公衆の面前に引きずり出し、社会の悪を明るみに出した側にいる人々は、全面的に正義だとみなされます。彼ら自身、自分は社会を守っているのだ、という優越感に酔います。

ライカーは、集団で残酷な行為にふける人たちは、無秩序な振る舞いをするのではなく、「大きな『信念体系』のようなものが反映され」ると述べていました。

善悪がばっさりと二分化される公開羞恥刑の場では、普段からその話題において、明確な信念を持っていない人たち、あまりその話題を知らなかったり、どっちつかずにあやふやな態度を持っていた人たちは、どちらかの側につくように強いられます。

たとえば、記憶に新しいのは、2017年3月、大相撲の新横綱 稀勢の里と大関 照ノ富士の優勝争いの中、照ノ富士がもう後がない先輩大関に対し立ち会い変化して勝ったことで、現地の観客だけでなくSNSをも巻き込んで広く炎上したことです。

確かに、彼の振る舞いは批判を招いても致し方ないことでしたが、土俵上で人種差別的発言まで飛び交う公開羞恥刑に発展し、文部科学省が動くまでの騒ぎになったのは、この本の事例に負けず劣らず異常です。

このとき、普段は相撲というスポーツにそれほど関心がない人たちや、照ノ富士のことをあまりよく知らない人たちも、公開羞恥刑に加わりました。

その人たちは、相撲というスポーツにおいて、変化がどうみなされているか、あるいは照ノ富士がどんな力士なのか、という知識や意見を特に持っていませんでした。しかし集団に巻き込まれると、善か悪かどちらかにつくよう強いられました。

もしも「何か事情があったのでは」「騒ぎ過ぎでは」などと発言すると、正義の側についていると考えている人たちから、攻撃されることもあるでしょう。

「攻撃する側も、攻撃の最中も、その後も、相手は人間ではない、と思い込む」とありますが、翌日の新聞に載せられたあるコラムでは、まさにそのような表現で、照ノ富士は人間の心を持たない、という扱いがされていました。普段は見識ある人でさえそう書いたのです。

この騒動において、照ノ富士を一貫して擁護したのは、相撲の変化について自分なりのしっかりした意見を持っていた人たちや、普段からずっと彼のファンであった人たち、つまり、この話題について元から何かしら信念を持っていた人たちだけでした。

いじめのような公開羞恥刑でも同じことが言えます。クラス全体が特定の子を仲間外れにしたり除け者にしたりするとき、クラスにおいて正義と悪がばっさり二分されます。

いじめられている子を擁護しようとすると、悪とみなされて、一緒に攻撃されることになります。それで、普段からその子と交流がなく、あまりよく知らないクラスメイトたちは、攻撃されないように、いじめっ子側の意見に同調します。

そうした場面で、いじめられている側の子どもを擁護できるほど強い勇気を示せるのは、普段からその子の人となりを知っていて、共に攻撃されることになってもその子の味方をしたいと思うほど固い絆で結ばれてる親友だけです。

その子は確かにいじめられるような落ち度や弱みはあるかもしれない、でもそれ以上に良いところがたくさんあって、こんな公開羞恥刑に遭うべき子ではない、という固い信念があればこそ、群衆の信念、社会の信念をはねのけられるのです。

この世の中には、本当に正義か悪か、正しいか間違っているか、はっきり二分できるような物事はそうそうありません。

しかし、集団で炎上やいじめの公開羞恥刑が始まると、仮想の正義と仮想の悪が作られ、巻き込まれたあらゆる人が、どちらかに所属するよう迫られます。

深く考えていない人、信念を持っていない人は、仮想の正義という社会が作り出した信念体系に同調させられます。自分が公に裁かれないためには、一緒になって仮想の悪を裁くしかないからです。

先ほどの大相撲の騒動では、正々堂々と勝負せず恥知らずな振る舞いをした照ノ富士という悪に対して、怪我を押して出場し、優勝決定戦では真っ向からねじ伏せた稀勢の里がヒーローとして讃えられ、歴史に残る奇跡のストーリーとして連日報道されました。

炎上に参加した人たちは、自分たちは良い行いをし、悪をとっちめて当然の報いを受けさせたと考え、最後には正義が勝つ結末に酔いしれたかもしれません。

しかし後に明らかにされたように、照ノ富士が変化をしたのは、歩くのもやっとなほど膝の状態が悪くなっていたからでした。しかも彼はそれだけの理由を抱えていたのに、一言も不平を言わず、言い訳をせず、公開羞恥刑の中、最後まで戦い抜いたのです。

照ノ富士は、たしかに、批判されるようなことをしました。しかしそれは公開羞恥刑を受けるほどのものではなかったでしょう。人々が攻撃し、人格否定し、人間ではないとまで言い切っていた相手は、間違いなく仮想の悪、実際には存在しない作られた悪でした。

なぜ恥は解離を引き起こすのか

ここまで考えてきたのは、公開羞恥刑に参加する加害者たちの心理のほうです。なぜごく普通の人たちが、炎上やいじめといった公開羞恥刑に加担し、それほど知らないはずの人の心を残虐に踏みにじるのかを考えてきました。

こうした群衆が公開羞恥刑へと群がる心理は、SNSの炎上や学校のいじめだけでなく、暴動、民族浄化、集団虐殺、戦争とも関係している恐ろしいものです。

しかし公開羞恥刑が何より恐ろしいのは、ごく普通の人がそれに加害者になりうるから、というよりは、公開羞恥刑に遭わされた被害者の心が破壊され、魂が殺害されるからです。

このブログで、公開羞恥刑について取り上げるのは、冒頭で触れたように、それが「解離」と呼ばれる脳の現象と密接な関わっているからです。

公開羞恥刑の被害者は、必ず、解離という脳の働きによって、心を守ろうとします。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)に載せられているあるライターは、不確かな文章を書いたことで告発され、謝罪講演をすることになりました。

謝罪講演の会場についてみると、講演者の横の巨大スクリーンにtwitterでの反応がリアルタイムで表示されるようになっていて、彼自身も、それを確認することができました。

中世の公開羞恥刑では公衆の面前で辱められている人は、群衆から人格を否定する罵詈雑言を浴びせかけられましたが、彼の場合は、twitterのタイムラインという文面の形で罵詈雑言を浴びせられ、その内容はすべて公に中継されていました。

彼はこう言いました。

私は謝罪しようとしました。書き込みにリアルタイムで応えようと思いました……でも、そんなことが果たして可能だったかはわかりません。

私はもう感情のスイッチを切らざるを得ませんでした。心の扉を閉じている状態で話していたと思います。(p112)

「自分の感情のスイッチを切りました。切らないとだめだと思ったんです」(p428)

彼は押し寄せる恥ずかしさと屈辱に圧倒されて、心を守るとっさの緊急手段として、心の防火壁を閉じたのです。

この、心の隔壁閉鎖、感情の扉を閉じることが「解離」です。以前の記事で説明したとおり、解離は隔壁の閉鎖に例えられます。

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恐怖性麻痺

このライターのような状況に置かれたわけではないにしても、多くの人は、似たような体験をしているかもしれません。

大勢の人の前でスピーチをしなければならないときに頭が真っ白になる、みんなが見ているところで怒られて思考がフリーズする、足がすくむ、言葉が何も出ないほどパニックになる。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによれば、「解離」は、わたしたち人間をはじめ、動物に普遍的に備わる「恐怖性麻痺」と呼ばれる現象の一部です。(p59)

「蛇に睨まれた蛙」ということわざがあるように、動物は極めて恐ろしい場面に遭遇したとき、フリーズし、固まり、足がすくみ、恐怖のあまり麻痺します。人間の場合は、さらに感情のスイッチを切ります。場合によっては現実感を喪失し、体外離脱のようなものも経験します。

これは、緊急事態に遭遇したとき、人の身体に備わる自律神経、つまり自分ではコントロールできない自動的に動くシステムが、身を守るための手段を講じるからです。

よく知られているように、自律神経にはアクセルにあたる「交感神経」とブレーキにあたる「副交感神経」があります。

緊急事態に面したとき、最初はアクセルにあたる「交感神経」が身体をのっとり、人は頭がパニックになって、一心不乱に闘うか、一目散に逃げるかします。これは「闘争・逃走反応」として知られています。

しかし、どうしても逃げられない状況や、理性を保てないほどの恐怖にさらされると、人はもう一つの恐怖反応、「固まり・麻痺反応」にのっとられます。つまり、感情がシャットダウンされたり、恐怖性麻痺ですくんだり、フリーズして固まったりします。

「固まり・麻痺反応」は動物においては、どうあがいでも勝ち目がなく逃げられる見込みもないとき、感情や痛みを遮断して死の苦痛を和らげるか、あるいは死んだふりをして、万が一にも助かる可能性に賭けるために生じるのでしょう。

そのとき身体を支配するのは、自律神経のうち、ブレーキにあたる「副交感神経」です。一般に、副交感神経というと、リラックスに役立つものだと思われていて、ちまたの健康アドバイスでは、副交感神経を活性化させる方法が色々と紹介されています。

しかし、あまり知られていないのは、「副交感神経」にはさらに二種類あるということです。

一般に知られているのは「有髄の迷走神経」(腹側迷走神経)であり、親子の愛着や、人との社会的なふれあい、によって活性化される副交感神経で、リラックスするのに役立ちます。

しかしもうひとつ、より原始的であるとされ、愛着システムがない魚のような生き物にも備わっている普遍的な「無髄の迷走神経」(背側迷走神経)があり、生き物が危機に陥ったとき、あらゆるシステムにブレーキをかけ、シャットダウンさせます。(p119)

「固まり・麻痺反応」は、こちらの「無髄の迷走神経」にあたる副交感神経が働くため、本人も理解できないままに、頭が真っ白になり、フリーズし、力が抜け、麻痺し、動けなくなります。

どこにも逃げ場がない

こうした「固まり・麻痺」反応が生じやすいのは、どうあがいても勝ち目がない、逃げ場所もない状況だと述べましたが、それは「逃避不能ショック」として知られています。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、ゴードン・ギャラップと、ジャック・E・メイザーは、檻の中に閉じ込められ、どこにも逃げ場がないようにされて繰り返し恐怖にさらされた動物は、「固まり・麻痺」反応の不動状態にとらわれてしまうことを発見しました。

著者たちは極めて緻密な、非常によく統制された実験を行い、動物が脅かされかつ拘束された場合、(拘束が解かれた後の)不動状態の時間が劇的に増加することを示している。(p67)

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これと同じことが、公開羞恥刑にさらされた人に生じます。

公開羞恥刑とは、極めて恐ろしい精神的な恐怖にさらされる経験ですが、公衆の面前で行われ、しかも自分以外の群衆はすべて敵意を持っているので、どこにも逃げ場がありません。まさに洪水のように迫りくる「逃避不能ショック」です。

公衆の面前で逃げ場がないとき、人ができるのは、闘うことでも逃げることでもありません。どちらも不可能です。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、公開羞恥刑の場で感じられるのは、「どこにも出口はない。後戻りもできない。我々は決して許さない」という圧倒的な敵意だけです。(p436)

とても恥ずかしい思いをさせられたときに使われる「穴があったら入りたい」という言葉は、公開羞恥刑に遭った人たちが解離によって心を切り離さざるをえなくなる様子を適切に表現しています。

穴、つまり逃げ込める場所がどうしてもほしいのに、それがないのです。

最後にできる手段は、自分の中に隠れること、あるいは自分から抜け出して空っぽになってしまうことだけです。「その状況だと人間は自分の中から抜け出してしまいます」と書かれています。(p434)

解離性障害の専門家は、しばしば解離を引き起こすのは、「安心できる居場所の喪失」、居場所がどこにもなくなることだ、といいます。

誰も信じられない、安心できる居場所がない「基本的信頼感」を得られなかった人たち
だれも心から信じられない、傷つくのが怖い、安心できる居場所がない。そうした苦悩の根底にある「基本的信頼感」の欠如とは何か、どう対処できるのか、という点を「母という病」という本を参考

公開羞恥刑はまさしく、安心できる居場所を奪い去る究極の体験の一つです。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によれば、かつて1867年、ニューヨーク・タイムズ誌は、いつまでも公開羞恥刑をやめようとしないデラウェア州の政策を非難し、公開羞恥刑が及ぼす結果についてこう述べていたそうです。

見ている者たちから散々に罵倒、嘲りの言葉を浴びせかけられることで、駄目の烙印を押されたと感じる。

周囲の人たちから見捨てられ、自分の居場所を失ったと思い込むようになる。(p101)

公開羞恥刑は、身体的な意味でも、精神的な意味でも、安心できる居場所を完全に奪い去る仕打ちです。

「安全基地」がないときの最後の手段

それを考えると、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、恥、解離、トラウマが、それぞれ本質的な関連のあるものとして扱われているのも不思議ではありません。

被害者の年齢が若く未発達で愛着が不安定であるほど、その人がストレスや脅威、危険に対して積極的に抵抗することよりも麻痺で反応する傾向が強くなる。

主たる養育者との間にしっかりとした初期の愛着の絆が形成されておらず、それゆえ安心感の基礎を欠く人たちは、事件やトラウマ被害に遭うことでより傷つきやすく、恥、解離そして抑うつという確立した症状を発症する可能性が高くなる。

さらにトラウマと恥の精神生理学的パターンが似ていることから、恥とトラウマには本質的な関連性がある。(p75)

解離の「固まり・麻痺」反応に陥りやすいのは、特に親との愛着が十分でない子ども時代を送った人たち、つまり、副交感神経のうち、より高度で愛着やコミュニケーションによって安心感を得られるとされる「有髄の迷走神経」の働きが弱い人たちです。

もし、子ども時代に安定した愛着を得られていれば、緊急事態に陥ったときでも、副交感神経の二つのサブシステムのうち、愛着に関わる「有髄の迷走神経」が働きます。

愛着の働きには、親がいない場面でも、愛にあふれる親のイメージをしっかりと保ち、心の中の「安全基地」として思い描く、ということがあります。

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古くから公開羞恥刑に遭わされた人たちは大勢いますが、そのすべてが心を破壊されたわけではありません。公開羞恥刑の中でも、高潔な精神を保ち続けた人たちもいます。

たとえば、火あぶりにされても死ぬまで信念を保った殉教者たちがいます。そうした人たちは、いわば、神のような存在が、「安全基地」として働いていたのでしょう。

そのおかげで、死に至るまで、副交感神経のサブシステムのうち、「有髄の迷走神経」が優勢で、より原始的とされる「無髄の迷走神経」のフリーズやシャットダウンにのっとられることはありませんでした。

しかし、幼少時に親との愛着を十分に結べなかった人たちは、副交感神経の中でも、「有髄の迷走神経」の働きが十分でないため、アクセルである交感神経を抑えてリラックスするのが苦手です。

トラウマ経験に直面すると、愛着や「安全基地」のイメージによって居場所を確保することができないので、最終手段として、愛着を持たない生物にさえ備わっている本能、「無髄の迷走神経」による固まりと麻痺、つまり解離的な反応が生じます。

以前の記事で見たように、子どものころに親と安定した愛着を結べず、「無秩序型」と呼ばれるような極度に不安定な愛着に陥った子どもが、大人になってからも解離症状を示しやすいのはそのためなのでしょう。

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心を殺害された犠牲者たち

このように、学校でのいじめなど、公開羞恥刑の体験は、「逃避不能ショック」を生じさせ、解離を招きます。

しかし、最も残酷で、極めて恐ろしい公開羞恥刑は、子ども虐待でしょう。

ここまで見たとおり、公開羞恥刑のような場面において、「固まり・麻痺」がどれほど強く出るかは、同じ副交感神経のもう一つのサブシステムと関係する愛着の働きの程度にかかっていました。

本来、子ども時代に形作られるべき愛着の土台を粉々に打ち砕き、「安全基地」の片鱗さえも奪い去り、人を完全に固まり・麻痺反応でのっとってしまうもの、それが子ども虐待です。

子ども時代から毎日のように逃避不能ショックにさらされ、しかも親や家族といった存在に恥をかかされ、人間ではないかのように辱められてきた人たちはどうなってしまうのか。

あたかも、人生のあらゆる場面で公開羞恥刑にさらされてきたような人たちの事例もこの本に載せられています。

その人たちがいたのは、刑務所の、それも残虐非道で人間とは思えないような人たちを収容しているとされる独房でした。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)によると、冒頭に出てきた精神分析学者ジェームズ・ギリガンは、凶悪犯の精神分析に携わる前は、そういった人たちはサイコパスのような良心を持たない存在なのだろう、と考えていました。

しかし、実際に受刑者たちと接するうちに、彼らは生ける屍(しかばね)、ゾンビのような生気を失った状態にあることに気づきました。

皆が口を揃えて言ったのが、自分たちはもうすでに死んでいるということです 

…いずれも手がつけられないほど暴力的になってしまった者たちです。彼らは、他人を殺し始める前に、すでに自分自身を殺してしまっているということです。すでに人格が死んでいる、ということでしょうか。(p422)

自分がロボットかゾンビのように感じられると私に話した者がいた。自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない、血管や神経はなく、紐や糸が入っているだけ、そう感じる者もいるらしい。(p423)

あまりに奇妙な状態でした。自分がもはや死んでいるかのように感じられる。身体さえも生気がなく、藁人形のように感じられるというのです。

彼らは、自分たちが生きていることを感じられないがために、人を殺すことにもためらいがありませんでした。また、しばしば自分の身体を傷つけましたが、それはあまりに身体が無感覚なので、せめて痛みによって、生きていることを感じたいがためでした。

また、身体的な感覚も麻痺してしまっている。自分自身を傷つける者がいるのはそのためです。自分自身の身体を酷く傷つけて平気でいるのです。

自分を傷つけるのは、罪の意識があるからではありません。罪の意識を感じ、自らを罰して罪を償おうとしているわけではないのです。

自分に感覚があるかどうか、確かめようとして、そういうことをするのです。彼らにとっては、自分が無感覚だと知る方が、身体的な苦痛を感じるよりも辛いのだと思います。(p423)

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何も知らない人なら、彼らは冷血人間で、人間味のある温かい感情をもともと持ち合わせていないサイコパスなのだだ、と決めつけたかもしれません。

しかしジェームズ・ギリガンは違いました。その理由を考えようとしました。 ジョン・ロンソンはこう書きます。

こういう人間の魂は、ただ単に死んでいるのではない。死んでいるのは何者かに殺されたからだ。

いったい、なぜ、どのように殺されたかのか。(p423)

これら凶悪犯たちの心が死んでいるのは、だれかに殺されたからです。生ける屍もゾンビも、かつては生きていたに違いなのです。

彼らの現実感の喪失は、れっきとした医学的な症状でした。生きている心地がしないとか、自分の身体が自分でないように感じられる、といった感覚は、解離の兆候、「離人症」です。その極めて強い状態に囚人たちは陥っていました。

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そもそも人間になれなかった

ジェームズ・ギリガンは、凶悪犯たちを調べるうちに、彼らの心を殺した犯人を突き止めました。むしろ、あまりに普遍的で共通していたので驚いたといいます。

私が確認した範囲では、重大な暴力犯罪の背後には、必ず恥の感情がある。

恥をかかされた、屈辱を与えられた、軽蔑された、嘲笑われた、そういう経験が背後に必ずある。

この種の犯罪者は、子供の頃に、銃で撃たれる、刃物で切られる、殴られる、首を締められるなどして窒息させられそうになる、むちで打たれる、ドラッグを投与される、飢えさせられる、火をつけられる、窓から放り投げられる、レイプされる、親に売春を強制される、などの経験をしている。(p424)

凶悪犯たちは、まだ幼いころ、子どものころに、親や大人たちによって、心を殺されていました。

正確に言えば、あまりに頻繁に公開羞恥刑のような場に置かれたせいで、それも、親や家族のだれも味方にならず、たった一人で公開羞恥刑にさらされたせいで、心がシャットダウンされていました。

先ほどの罵詈雑言のtwitterのタイムラインの前で講演させられたライターのように、人は公開羞恥刑で辱められると、一時的に感情がシャットダウンして固まり・麻痺反応に支配されます。

しかし普通は一時的です。PTSDのような後遺症が残るにしても、感情がずっとシャットダウンされたままにはなりません。

しかし凶悪犯たちは、そうした一時の公開羞恥刑にさらされたわけではありませんでした。

普通の人間であれば、単に言葉によって恥をかかされ、拒絶され、侮辱され、軽蔑されるだけでも、自尊心を破壊され、魂が死んでしまうことがあるだろう。

だが、凶悪犯罪者たちの場合は、言葉だけではない、もっと酷く、極端で、おぞましい仕打ちを繰り返し、頻繁に受けたのだ。

大人になってから頻繁に凶暴な振る舞いをした者たちは、ほぼ例外なく、子供の頃に絶え間なく暴力的な虐待を受けていた者たちである。(p424)

凶悪犯たちの心が死んでいたのは、そして彼らの心がシャットダウンされたまま決して戻らず、あたかもゾンビや生ける屍のようになっていたのは、公開羞恥刑がほんの一時的なものではなかったからです。

彼らは子ども時代に絶え間なく辱められ、ひとときたりとも人間として扱われませんでした。親や家族に虐待され、学校では問題児としてやり玉に挙げられ、若くして刑務所に入れられ、モンスターであるかのように檻の中に閉じ込められてきました。

だから、彼らの人間味のある心は、シャットダウンされ、隔壁が閉じられたままでした。人生全体を通じて、人間として振る舞える安全な瞬間は一度もなかったので、彼らはそもそも人間になれなかったのです。

解離性障害は、かつては女性に多い疾患と思われていましたが、近年では、男性と女性とでは症状が違うのではないか、とされています。

ジェームズ・ギリガンは、男が暴力をふるうのはなぜか―そのメカニズムと予防という本も書いていますが、男性の場合は攻撃性が外向きに、つまり他者に対して現れやすいようです。

男性が暴力的になりやすいのは、劣悪な環境で育った場合に人を暴力行為へと目覚めさせるリスクとされるMAO-A遺伝子の変異体が、性染色体がXXの組み合わせからなる男性ではXYの組み合わせからなる女性より発現しやすいこと、また男性ホルモンのテストステロンの影響が強いことなどが考えられます。

つまり、子ども虐待のサバイバーで、極めて強い解離症状に陥っている男性の中には、若いころに犯罪に手を染めてしまい、病院にかかるまでもなく刑務所や断頭台へ送られた人たちが少なからずいるせいで、女性より少ないと誤認されていたのでしょう。

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「魂の殺害」

男性とは症状の現れ方が違うとはいえ、子どものときから度重なる公開羞恥刑にさらされてきた女性たちもまた、心を殺害され、生ける屍となります。

慢性的なトラウマを負わされたある女性は、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、自分のことをこう述べています。

慢性的にトラウマを抱えている人は、生きているという実感や人生に積極的に関わっているという感覚のないまま、ただ型通りに生きているかのようだ。

このような人々は、その実存の中心は空虚である。ある集団レイプの被害者が、最初のセッションで私にこう語った。

「私は散歩に出かけることができます。でも、それはもう私ではないのです……私は空っぽで冷たくて……死んだも同然です」

「私は空っぽで冷たくて……死んだも同然」という言葉は、ジェームズ・ギリガンが報告していた凶悪犯が述べた「自分の身体は空っぽ、あるいはただ藁が詰め込まれているだけ、肉もなく血もない」という言葉と恐ろしいほどよく似ています。

凶悪犯のほうは人を殺したために刑務所におり、女性のほうはゾンビのように散歩する日々の中で精神科にいました。

あまりに慢性的にトラウマにさらされたがために、極度の解離に陥った人たちは、居場所こそ違えど、みな生ける屍のようになります。

重篤で遷延的(慢性的)なトラウマのサバイバーたちは、自らの人生を「生ける屍」のようだと述べる。

マレーはこの状態について次のように鋭く記述している。「それは、まるで人間の活力の源泉が干上がってしまったかのようであり、まるで実存の中心が空虚てせあるかのようである」(p83)

解離とは、固まり・麻痺反応、また死んだふりの状態でした。それがずっと続いているとしたら、それはもはや死んだ「ふり」ではなく「生ける屍」そのものでしょう。

性的虐待や性被害の場合、先に見た自殺した少女のように、性被害そのものだけではなく、その後の裁判や日常生活で何度も精神的に辱められるセカンドレイプを経験しがちです。

家族や友人から性被害を受けた子どもたちは、もちろん、このわけのわからない無秩序な重荷にさらに耐えなくてはならない。

恥は「悪」という全般的な感覚として、彼らの人生の隅々まで浸透し深く埋め込まれていく。(p75)

性被害はひときわ「恥」を引き起こしやすく、公開羞恥刑と近い要素を持っているので、性被害が解離とつながりが深いばかりか、「魂の殺害」とまで呼ばれるのも不思議ではありません。

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なお、しばしば凶悪犯 イコール サイコパスと思われがちですが、遺伝的要素が強いと思われる純粋なサイコパスは、こうした虐待の犠牲者たちとは大きく異なっています。

サイコパスは家庭環境によらず発症し、一見とても社交的で、言葉や振る舞いで人をコントロールするのに長けています。感情を制御し、人を身体的に傷つけるより、ゲームのように感情的にもてあそぶのを好みます。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)でもサイコパスの事例は出てきますが、心を殺されて普通の生活を送れない凶悪犯たちとはまったく異なり、サイコパスはごく日常の社会生活に溶け込むことができます。(p329)

何より大きな違いは、サイコパスは公開羞恥刑を苦にしないことです。もともと恥を知らない、認識しないので、そうした場面に立たされても「無傷で立ち直れ」ます。(p335)

サイコパスはもともと良心が解離されているので、公開羞恥刑で恥じることはありません。わざと自分を炎上させて楽しんだり、お金を儲けたりすることもできます。普通の人は良心が機能しているので、公開羞恥刑に遭うと感情が解離されます。

どちらも解離という切り離しが関わっていますが、もともと生理的に解離されているのと、トラウマへの防御として解離せざるを得ないのとでまったく異なります。

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毎日が公開羞恥刑

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているとおり、大人になってから経験する一度限りの辱めは、解離が生じるとしても一時的です。公開羞恥刑が終われば、逃げることができるようになるので、シャットダウンされた感情は復活します。

そのような人たちは、生ける屍になる代わりに、交感神経の「闘争・逃走」反応が制御できなくなり、フラッシュバックや動悸など、PTSDに苦しめられます。

強いトラウマを受け、慢性的にネグレクトまたは虐待された人は不動およびシャットダウン・システムにょって支配されている。

一方、急性のトラウマを受けた(最近の一度だけの出来事によることが多く、繰り返すトラウマ、ネグレクト、虐待歴がない)人は、通常、交感神経系の闘争か逃走かというシステムに支配されている。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)で出てくるネットリンチなどの公開羞恥刑にさらされた人たちの多くもPTSDになりました。

しかし 身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの続く記述が語るとおり、子ども時代にトラウマを経験し、慢性的で繰り返すトラウマにさらされるなら、つまり子ども時代から公開羞恥刑が当たり前の中で育つと、解離や麻痺、離人症などに苦しめられるようになります。

急性トラウマを受けた人はフラッシュバックと動悸に苦しむことが多いが、慢性トラウマのある人は心拍数に変化なく、むしろ減少している場合もある。

こういった人々は、もうろう感、非現実感、離人症などの解離症状や、さまざまな身体的および健康上の問題に悩むことが多い。

身体症状には、胃腸症状、片頭痛、ある種の喘息、慢性疼痛、慢性疲労、人生生活への一般的な関心の低下などがある。(p124)

子ども時代に経験するトラウマは、虐待だけとは限りません。子どもの観点からすれば、痛みを伴う手術も、拘束された状態で身体をもてあそばれるという点で、性的虐待と変わらないほど強いトラウマをもたらすことがあります。

私はテッド・カジンスキー(科学技術の非人間性に対して報復した「ユナボマー」)の母親と、ジェフリー・ダーマー(被害者を切断した連続殺人犯)の父親と話をする機会があった。

彼らは二人とも、幼少時に病院で体験したぞっとするような出来事の後、子どもがいかに「壊れてしまったか」について恐ろしい話をしてくれた。(p79)

子ども時代に強烈なトラウマを経験すると、その後の正常な発達が妨げられます。遺伝的な発達障害よりもさらに重度の問題が連鎖的に生じ、さまざまな場面で不適応を起こします。

幼いころの強烈なトラウマ経験のために理由もわからず周りと異なるかたちに発達した子どもたちは、同年代の子どもに比べ、あまりに変わっているため、教師からやり玉に挙げられたり、クラスメイトからいじめられたり仲間はずれにされたりしやすくなります。

また愛着が不安定なせいで、恥に敏感に反応し、恥ずかしい場面で解離によって反応しやすくなります。その結果、他の子どもにとっては普通の学校生活が、トラウマ障害の子どもには毎日が公開羞恥刑の連続になりえます。

幼少期にトラウマを抱えた子どもが、そうした負の連鎖に巻き込まれて強い解離や他のさまざまな精神・身体症状を次々に併発されていく現象は「発達性トラウマ障害」として知られています。

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恥は氷、愛着は炎

公開羞恥刑における恥という心理が、これほどトラウマや解離と密接に結びついていることを思うと、ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の引用文中で、ジェームズ・ギリガンが、恥とは感情ではない、と言っているのももっともです。

「恥を感情と呼ぶのは、矛盾したことかもしれない。

恥は苦痛を呼ぶ。そして、自分を絶えず恥じていると、その人の感情は死んでしまう。

恥が感情を殺すのだ。その恥を感情と呼ぶのは奇妙だ。(p427)

恥は感情ではなく、感情を殺すものだとギリガンは述べます。

確かに、人は恥を「感じる」とき、実際には感情を「感じられなく」なります。頭が真っ白になり、フリーズし、現実が現実でないように思え、感情がシャットダウンされます。

ギリガンは、恥は寒さであり、暖かさの欠如だと述べます。

恥は「寒さ」に似ているかもしれない。寒さとはつまり「暖かさの欠如」だからだ。

とてつもなく酷い恥を経験すると、人は感情の欠如した状態になってしまう。感情の死だ。

(ダンテ『神曲』の「地獄篇」では)地獄の最下層は、炎燃え盛る地獄ではなく、氷地獄だとされている。完全に寒さに支配された地獄だ」(p427)

そうすると、恥とは、人と人とを結びつける暖かさである「愛着」の対極にあるものだ、とみなせるでしょう。

愛着とは、元をたどれば、親子のふれあいであり、生まれたばかりの我が子に言葉によらずして肌と肌のふれあいで伝えられる、「わたしはあなたを愛しており、どんなときも決して見捨てない」というメッセージです。

だからこそ、人は、たとえ公開羞恥刑のような場面にさらされても、強い愛着の炎がともっていれば、耐え抜くことができます。自分は一人ではなく、愛してくれている味方がいる、というイメージを働かせられるからです。

愛着は、副交感神経のうち、有髄の迷走神経を活性化させます。対照的に、恥は、有髄の迷走神経を弱めます。

愛着は、「あなたは決して一人ではない」という希望の暖かさであり、恥は、「あなたは一人きりで、味方などどこにもいない」という絶望の冷たさです。

この本に出てきた、公開羞恥刑をよしとする人たち、たとえば法廷で公開羞恥刑を課す判事や弁護士、またネットリンチで不注意な人に制裁を加える人たちは、自分たちは正義のために当然の刑罰を課していると考えていました。

確かに公開羞恥刑で辱められた人は、再度同じ間違いを犯すことはないのかもしれません。再犯率は下がります。しかし、心を破壊されてPTSDになり、社会から抹殺される人たちもいます。

他方、子どものころから心を破壊され、PTSDを越えて魂が殺害されてしまった生ける屍のごとき犯罪者たちの場合は、公開羞恥刑によって再犯率が下がることはありませんでした。理由はわざわざ書くまでもないでしょう。(p425)

ジェームズ・ギリガンはそのような凶悪犯罪者、つまり、もはや死刑にするか、独房に閉じ込めておくしかない、と思われていた人たちを、再犯しないよう訓練するにはどうすればいいかを探り、ひとつの結論に至りました。

「ただ、囚人たちを、敬意をもって扱っただけです」(p430)

公開羞恥刑に勝るもの

凶悪犯たちは、だれかに銃を向けるとき、相手から尊敬されているように感じて嬉しくなる、と語ることがありました。

それほどまでに、そんな束の間の偽の注目でさえ価値があると思えるほど、彼らの自尊心は冷え切っていました。(p425)

ジェームズ・ギリガンは、自尊心が極限まで冷え切って、生きているという実感さえない犯罪者たちが心を開ける環境を作り、辛抱強く、敬意をもって扱うようにしました。

その結果、幼いころからのダメージの後遺症で普通の社会に戻れるほどには回復しなくとも、「予想もしなかったほどの人間性を持つようになった」人もいました。敬意のある扱いは、恥で氷漬けになった人の人格を呼び覚ますことがあるのです。

解離性障害のうち、最も深刻な病態とされる、解離性同一性障害(多情人格)の治療において、ひときわ大切だとされているのが、どんな人格に対しても、尊厳を認めて敬意をこめて人間らしく扱うことだ、と言われているのもうなずけます。

解離性同一性障害(DID)の尊厳と人権―別人格はそれぞれ一個の人間として扱われるべきか
解離性同一性障害(DID)やイマジナリーコンパニオン(IC)の別人格は、一人の人間として尊厳をもって扱われるべきなのか、という難問について、幾つかの書籍から考えた論考です。

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)の著書は公開羞恥刑の心理の研究を通して、以前は良かれと思って参加していた炎上騒ぎから手を引きました。

他方、恥をかかされたことで人生がよりよくなったと語る人もいました。判事によって「私は飲酒運転で二人の人を殺しました」と書かれたプラカードを持って毎朝街路に立つよう命じられた男性は、それがきっかけで生きた警告の例になるという役割を見出し、「私はこの恩を生涯忘れないでしょう」と述べたそうです。(p159)

ある程度の恥は、人を反省させ、よりよい人間になるよう奮起させます。しかし度を越えた恥は人の心を氷漬けにしてしまうことがあります。

適度な悲しみが人の心を浄化するのに対し、度を越えた悲しみは人を無活動にならせます。適度な怒りは物事を正しますが、我を忘れる怒りは人を破滅させます。

小さな炎は人を温め、燃え盛る炎は町を焼きます。小さな氷は夏の暑さを和らげますが、氷だけの世界は生き物を凍えさせます。

ですから、一概に、恥という感情が間違っている、絶対悪だと言い切ることはできません。そんなことをしたら、自分は正しいことをやっていると信じて架空の絶対的な正義と悪を作りあげ、公開羞恥刑を課す人たちとあまり変わらないでしょう。

必要なのは、人と人との温かみが感じられる焚き火のような愛着と、ほてったり熱を出したりしたときに冷静さを取り戻させてくれる氷嚢(ひょうのう)のような恥なのでしょう。

このバランスが失われて、自分やだれかが冷え切って凍えそうになったり、あるいは虚栄心で熱に浮かされたりしているとき、適切な炎か氷を用意できる柔軟な観察眼こそが、わたしたちに求められているものなのかもしれません。

このルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)は、SNSの場など新たな形での公開羞恥刑が登場している今、思いがけず群集行動に巻き込まれてしまう前に、わたしたちのだれもが読んでおくといい名著だと思います。

恥についての多方面の取材ということで、時おり生々しい表現も出てきますが、時代に即した広い視野を育ててくれるのでおすすめです。

著書のジョン・ロンソンは、こちらのTED動画でもこの話題を扱っているので参考にしてください。

ジョン・ロンソン: ネット炎上が起きるとき | TED Talk | TED.com


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