昨日、精神科医の林公一先生による、イマジナリーコンパニオン(IC)についての詳しい記事がアップされていました。子どものICの話題を中心に、青年期以降も残るICについて詳しい事例が紹介されています。
子どもにだけ見える「見えない友達」 | Dr.林のこころと脳と病と健康 | 林公一 | 毎日新聞「医療プレミア」
興味深い事例を集めた記事なので、ICに興味のあるか方はぜひご覧ください。
この記事をある方に紹介したところ、近年このようなイマジナリーコンパニオンを持つ人が増えているのだろうか、と訊かれたので、わたしの考えを簡単にメモしておきたいと思います。
さまざまな年齢層に見られるIC
今回の記事では、さまざまな年齢層のICが取り上げられています。
子どものICについてについては、12歳になっても人知れず「もうひとり君」に支えられ続けていた女の子や、有名ないけちゃんとぼく (角川文庫)の「いけちゃん」が、大学生ごろまでは存在を感じ取れていた、という例が挙げられています。
「もうひとり君はまだいるんだ。その話を聞いたのは随分前だけど」と私が聞くと、「うん。ずーっといるよ。親友だもん」と話し始めました。
「『もうひとり君』は顔が丸くて、手足が長くて、水色のリボンをつけているの」と言うので、8歳の時よりずっと具体的な姿が見えているようなのです。
そして「困った時に呼び出して相談するの。相談するけれど、最終的に決めるのは自分。
何かを考えていて『あっ』とひらめく時とかは、『もうひとり君』のおかげ」というようにとても頼りにしていて、逆に困らされることは全然ないそうです。
どちらも幼児期のイマジナリーフレンドというよりは、学童期のイマジナリーフレンドに相当するものと思われます。どちらも理解者、助け手としての支持的な役割を持っていて、社会に出ていくための支えになっているようです。
青年期のイマジナリーコンパニオンについては、ずっと支えてくれてきたICを失いたくないという思いから、ICを保ち続けている女性の例が出てきます。
私は、幼い頃から私を守ってくれた彼女を非常に大切に思っています。
学生時代、テストでは何度も私を助けてくれましたし、私が苦手とする英語をそつなくこなせるのも、耳元で彼女が助言してくれるからです。
私は彼女を失いたくはありません。私にはこの方しか頼れる人はいません。
誰にも見えなくとも、彼女と彼女がいる世界をそのままにしておきたい。
ICは基本的に、自立をなしとげ、必要がなくなったときに消えるとされているので、本人が必要としているうちは大人になっても存在しつづけるのでしょう。
この記事では、青年期のICは精神医学的には、健常と病理のはざま「グレーゾーン」であるとされています。
20歳を過ぎてもなおICを伴侶としている。これは病的でしょうか。現代の精神医学の考え方では「グレーゾーン」です。
以前に紹介したように、大人になって一度消えてしまっても、再び強いストレスにさらされ、支え手を必要としたときに、再度 存在を知覚できるようになる場合もあります。
それは、ICが解離傾向の強い人特有の現象であり、解離はストレスに対処するために働く防衛機制だからだと思われます。
幼児期に解離現象が起きるのはごく普通のことで、幼児のICは何ら心配はいりません。それは健全な発育過程の一部です。
問題は、幼児期だけでなく、成長してからも強い解離傾向が残る人たちです。こうした人は、幼いころ、ストレスに対して解離して防衛する反応を身に着け、そのパターンが残っているようです。
本来は子どものころの防衛であるはずの解離を大人になっても使い続けてしまう人は、生後2~3歳ごろまでの乳幼児期に強いストレスを受け、そのころに潜在的な解離傾向を身に着けていることが多いとされています。
当然ながらそのときの経験は忘却していますが、からだには解離のパターンが刻み込まれていて、のちになって思春期以降の強いストレスにさらされると、解離症状が明確に現れます。
大人になるにつれ、ストレスをコントロールできるようになり、解離を使う必要は薄れますが、対処しきれないほどのストレスにさらされると、子どものころの防衛戦略が顔をのぞかせるのです。
解離の舞台―症状構造と治療にはこう説明されています。
カールソンほか(Carlson et al.2009)によれば、早期幼児期において無秩序型愛着が見られてもその後の生活が標準的であれば、解離傾向は高くはなるがサブクリニカルな水準にとどまり、ストレス状態において解離的行動が表面化する潜在的素質を抱えることになる。
その後の生活において重度あるいは慢性的な外傷が見られ、かつそれに対する情緒的な援助がなければ、病的解離として発症する危険性は高くなる。(p139)
もしも、乳幼児期にストレスを受けておらず、潜在的な解離傾向を身につけていない人の場合は、思春期以降に強いストレスを経験しても、解離ではなく別の症状、たとえばうつ病やパニック障害など、他の疾患となってストレスの影響が表出します。
最後に紹介されている例は、「グレーゾーン」を超えて、病的な域にまで踏み込んだ青年期のICの例です。このICは、いじめられていた当人を支持的に助けるのではなく、包丁で手首を切って死んでみるように自殺幇助しました。
幼児期のICと青年期のIC、そして病的なICや解離性同一性障害(DID)は連続した性質を持つ現象ですが、だからといってICを持つ子どもや、グレーゾーンのICを持つ青年が、いずれ病的になるという意味ではないことに注意すべきです。
最後の攻撃的なICの場合は、健常なICから発展して攻撃的になったわけではなく、おそらくはそれ以前に何かしらの強いトラウマ経験があったのでしょう。そのときの抑圧された攻撃性が、別人格として残っていたものと思います。
あくまでも解離は病気ではなく防衛機制であるという見方が重要です。
すなわち、解離はストレスに対処するために生じる受動的な反応で、あくまでも受け身です。武道において相手の仕掛け方によって適切な受け身の方法がさまざまに変化するように、解離もその時々のストレスに対応して、さまざまに現れ方を変えます。
学校生活や子ども時代からの慢性的な闘病などで、加害者不在の強いストレスにさらされた場合、解離傾向の強い人は支持的なICを生み出すかもしれません。
他方、虐待や家庭内暴力などで強い憎しみにさらされた場合、解離傾向の強い人は、その状況で生き抜くための防衛として、攻撃的な人格を内在化してしまうかもしれません。
いずれにしても、解離はストレスに対する受け身反応であり、その人の経験や環境が症状に色濃く影響するので、支持的なICが何の理由もなく攻撃的なICに変容したりすることはないよでしょう。
文化結合症候群としてのイマジナリーフレンド
前起きが長くなりましたが、それではこうしたさまざまなタイプのイマジナリーコンパニオンは、現代社会で増加しているのでしょうか。
端的に言えば、確かに増加している、とわたしは思います。
まず考えておきたいのは、イマジナリーコンパニオンそのものは、人類史において珍しい体験ではないということです。
幼児期の空想の他者は、おそらくは妖怪や妖精、天使といった各地に伝わるファンタジーの伝承の形成に強く関わっていたことでしょう。
ポケモン、妖怪ウォッチ、トトロと、「空想の友達」研究 - 下條信輔|WEBRONZA - 朝日新聞社
子どものICは“ざしきわらし”のようなものだと言われます。むろん、最初にざしきわらしがいたから子どものICがそれに喩えられたわけではなく、子どものICなどの解離現象の経験をもとに伝承が作られていったのでしょう。西洋における守護天使なども同じです。
大人になってから経験するイマジナリーコンパニオンとも言える極限状況下のサードマン現象もまた、神話や伝説の成り立ちに大いに影響したと思われます。
では、どうして日本では「妖怪」であり、西洋では「天使」なのでしょうか。
それはすでに説明したとおり、解離とは、受け身の防衛反応だからです。解離症状は、特定の生物学的メカニズムによって生じるとはいえ、表に出る症状は、文化や環境の影響を受けてさまざまに変化します。
世界各地には、文化結合症候群(文化依存症候群)として知られる、さまざまな奇妙な病気があります。その文化特有の症状であり、一般には説明のつかない呪いのようなものとみなされがちです。
解離の専門家たちは、そうした多種多様な文化結合症候群は、ストレスによってカメレオンのように形を変える解離症状と捉えています。
たとえば、こころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の中で 解離の専門家の野間俊一先生はこう述べていました。
まず、ヒステリーについて考えてみましょう。
紀元前のエジプトやギリシャですでに報告があり、その後も洋の東西を問わずよく似た病態が知られていることを考えれば、ヒステリーという病理、すなわち、なんらかの精神的ショックによって痙攣を起こしたり、身体に麻痺が生じたり、錯乱や夢幻状態に陥ったり、さらにはなんらかの憑依や人格交代が生じるという病理は、文化や時代にかかわらずみられるようです。
しかし、同じヒステリーでもどのような症状をもつのかという点については、文化によって差があります。
たとえば、アイヌの中年女性にしばしばみられる、命令自動やカタレプシーなどを示すこの地域特有の「イム」という病態があります。
ほかにも世界中に地域特有の精神病が知られていて、それらは文化結合症候群と総称されますが、一部はヒステリーと考えられています。(p15)
解離の専門家の岡野憲一郎先生も恥と「自己愛トラウマ」―あいまいな加害者が生む病理の中でこう書いています。
ついでにここで私になじみ深い解離性障害の話をしよう。いわゆる文化結合症候群についてである。文化結合症候群にはさまざまな興味深い病理現象が多く数えられており、その大半は解離性の障害と考えられる。
…ここで注意すべきなのは、文化結合症候群には一定の症状パターンがあり、人はそれを踏襲した形で症状を形成するということである。これはまさに文化のなせる技である。
…症状の起き方がいつの間にか無意識的に学習されていたというわけである。(p163)
それで、世界各地の妖精や妖怪、天使の伝承などが、「目に見えない他者」という点では共通しているものの、見た目や性質がさまざまなのは、それぞれの文化の思想や概念の影響を受けた解離症状だったからでしょう。
空想の他者が身近な文化
そうすると、現代社会では解離症状はどのような現れ方をするでしょうか。
大多数の人たちは当たり前すぎて気づいていないかもしれませんが、現代社会では「空想の他者」という概念が驚くほど身近になりました。
テレビやインターネットが普及するにつれ、子どもたちは生まれてすぐから、空想の他者が当たり前の世界で育ちます。
一昔前は、子どもにさまざまな教訓を教えてくれるのは現実のからだをもった人間の大人たちでした。しかし今では、アニメを取り入れた学習教材などを通して、実体のないキャラクターから、さまざまなことを学びます。
成長していく過程で、子どもは現実の身の周りの人間と、テレビに映るどこか遠くにいる人、さらにはアニメの登場人物に接します。
子どもにとっては現実の身の回りの人間が生きているように、テレビの中の歌のおにいさんも生きていますし、さらにはピカチュウやジバニャンも生きています。つまり、空想の実体のない他者をごく当たり前に受け入れて育つのが現代社会です。
子どもはもちろん、現実の人間と空想の人間を区別することはできます。しかし区別できることと、存在が現実的であることとは別物です。
思春期以降になっても、アニメやラノベの世界は身近ですし、SNSを通して、会ったことも見たこともないだれかと当たり前のように会話します。もしもSNSの向こうにいるのが人工知能である、というチューリングテストをしても容易には気づかないことでしょう。
もっと言えば、そもそも現代の子どもたちは、実体のない作られた存在と、現実のからだを持つ存在とをそれほど区別して扱う必要に迫られていないかもしれません。
むしろ自分の好きなキャラクターは生きている実体を持つ人間以上に人間味があり、尊い存在に思えるかもしれません。
現代の二次創作をする人たちの多くは、さまざまな空想のキャラクターを、まるで生きている人間であるかのように扱います。キャラクターが誹謗中傷されると、あたかも本物の友人がけなされたかのように腹を立てます。
なかには、空想のキャラクターを取り込んで内在化し、イマジナリーコンパニオンのように接している人たちも少なくないようです。
近頃、有名なボーカロイドの初音ミクをイマジナリーフレンドとして解釈する人たちをちらほら見かけるようになりました。
“初音ミクの「死」“にウンザリしている人向けの話をしようと思う。 #vocanote | A★nded | note
イマジナリーフレンドとしての初音ミク | psy39 | note
ボーカロイドだけでなく、ポケモンや妖怪ウォッチ、アニメやゲームの登場人物、さらには艦これのような擬人化など、わたしたちの時代には空想の他者を作り出し、それに疑問もなく接することがあまりに当たり前になっています。
さきほどのこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害にも、こんな質問がありました。
「想像上の仲間(Imaginary Companion)」をもつ若者が増えているといわれます。
ネット上のサイバー空間ゲームとの関係性が考えられないでしょうか? (p37)
この質問に対する回答は論点がずれていて今ひとつ参考にならないので省略しますが、ICを持つ若者が増加していて、それがインターネットのバーチャル世界と関係しているのではないか、と感じている人は少なくないでしょう。
インターネット上のSNSを見れば、ひと昔前よりも、イマジナリーフレンドやタルパという概念が一般的になり、広く普及しつつあるのは一目瞭然です。
そうすると、次のような現象が起こるはずです。
解離は文化依存症候群として、生まれ育った文化の影響でさまざまに形を変える。 空想の他者を当たり前のように受け入れている文化で育つと、解離傾向の強い人は自然に空想の他者を作り出すようになる。その結果、文化結合症候群としてのICが増加する。
先ほどのこころのりんしょうa・la・carte 第28巻2号〈特集〉解離性障害の中で野間俊一先生はこうも述べていました。
[解離は]周りの人のこの病態への関心のもちかたによって病態そのものも姿を変え、関心をもつほど病態が鮮明に現れるため、現在も活発に研究が進められている国とそうでない国とが明確に分かれるようです。まず、解離性障害という疾患そのものは文化や時代にかかわらず普遍的に存在すると考えてよいでしょう。
しかし、その症状の現れ方は周囲の状況によって大いに影響を受けるため、文化や時代によって表に現れる病態に違いが生じるのだと理解することができます。(p15)
解離はその概念を知ることで輪郭がはっきりするという特徴があります。これは気のせいや思い込み、という意味ではありません。
発達障害という概念がない時代は発達障害をもつ人の存在がそれほど問題にならなかったのに、概念が普及することによって、当事者たちが意識的に情報発信するようになり、社会問題として扱われるようになったのと同じです。
発達障害という概念が普及したことで、今まではなんとなく困りごとを持っていた軽度レベルの人でも、自分もこれだったかもしれないと思い始め、それまでの困りごとだけでなく気に留めていなかった症状をも意識しはじめることがあります。
同じように空想の他者という概念の普及は、それがない時代に生きていれば空想の他者を持たなかったか、あるいはそれほど意識しなかった軽度の解離傾向を持つ人たちにも影響を及ぼし、若者たちにICを増加させている可能性があります。
空想の他者を当たり前のように受け入れるという現象は、一種の文化的なミーム(文化的遺伝子)です。
インターネットが普及した今、こうしたミームは爆発的に広がりを見せているので、潜在的な解離傾向を持つ人たちは、よほど隔絶された生活をしていない限り、間違いなく影響を受けます。
その結果、ひと昔前の時代では別のかたちで現れていた解離が、現代社会では空想の他者、すなわちICとして現れるとしても不思議ではありません。
むろん、現代社会に増加するICが解離性の文化結合症候群だからといって、それが病的であると言っているわけではありません。
すでに見たとおり、解離は病気ではなく防衛機制です。さらに、以前考えたように、解離と創造性は同じコインの裏表であるように思います。
解離傾向の強い人が時代のストレスに反応して形成するのが多種多様な解離症状であり、時代のニーズにあわせて創り出すのが、多種多様な創造性であるということです。どちらも、無意識のうちに環境を反映して形を変えるという特徴があります。
解離傾向の強い人たちが、創作に親しむことが多いのは偶然ではありませんし、創作に親しむ人たちがICを持ちやすいのもまた偶然ではありません。
そのようなわけで、現代社会でICが増えているとすれば、その時代の環境や文化に敏感に反応する人たちが時代の趨勢を取り込んで反映しているからでしょう。
言い換えれば、潜在的な解離傾向を持つ創造的な人たちが、インターネットなどを通して無意識のうちに互いに影響を及ぼし合って、空想の他者という概念をかつてないほど身近なものへと作り変えていっているのではないでしょうか。
ルネサンス期に特定に芸術の分野が盛り上がったように、あるいはピカソやブラックの登場とともにキュビズムの時代が作られたように、現代社会のひとつの特色として、想像力豊かな人たちが互いに影響を及ぼし、空想の他者という大規模な文化が形成されているのかもしれません。
解離は人類史を通じて発揮されてきたヒトという生き物の特色であり、それが創造性であるか病理であるか、はっきりとした境目はなく、「グレーゾーン」を介して連続している現象なのです。