「物事はポジティブに考えたほうがよい」。
読者の中にはそう思っている人が多いのではないだろうか。心理学の分野でも、「ポジティブ思考が美徳である」というのがこれまでの支配的な考え方であった。(p29)
近年、悲観主義者のなかにも、物事をネガティブに考えることで成功している適応的な悲観主義者(これを防衛的悲観主義者という)がいることがわかっている。
防衛的悲観主義とは、前にうまくいっているにもかかわらず、これから迎える状況に対して、最悪の事態を予想する認知的方略のことである。(p30)
近年、何事もポジティブに考えればうまくいく、というアドバイスがよくみられます。いえ、近年というより、これは古くからさまざまな文化に根付いてきたおまじないのようなものかもしれません。
確かに、いつも前向き、積極的で、期待に満ちている人は生き生きとして見えます。時流に乗った有名人や起業家がポジティブな発言を繰り返しているのを見ると、ああやっぱり前向きな人が成功するのだ、と思えてしまうかもしれません。
しかし彼らは本当にポジティブだから成功してるのでしょうか。それとも、じつは因果関係が逆で、運良く成功しているからポジティブになっているだけなのでしょうか。
盲目的とさえ言える現代のポジティブ信仰に楔を打ち込むのは、冒頭に引用したような、「防衛的悲観主義」と呼ばれる人たちについての研究です。
心理学の研究によると、成功してるのは何もポジティブな人たちばかりではありません。その対極に位置しているように思われる、徹底して悲観的に予測する人たちもまた、楽観主義者と変わらないほどの成功を収めているといいます。
防衛的悲観主義とは、どんな考え方なのでしょうか。その人たちが成功する秘訣はどこにあるのでしょうか。
これはどんな本?
冒頭で引用したのは、「前向きな子」を特集した児童心理 2017年 01 月号 [雑誌]です。
数々の前向きな考察に混じって、筑波大学准教授の外山美樹先生による「ネガティブ思考がよい結果を生むとき」と題する後ろ向きな考察が収録されていて、防衛的悲観主義が扱われていました。
防衛的悲観主義は、ポジティブ心理学関連の書籍で時おり話題が出てくるので、過去記事でも何度か言及したことがあります。
わたし自身、興味を惹かれる概念だったので、この機会に防衛的悲観主義とは何か、じっくり調べてみることにしました。
防衛的悲観主義とは何か
防衛的悲観主義(DP:Defensive Pessimism)、という概念が提唱されたのは、およそ30年前の1986年のこと、ジュリー・ノレム(Julie K Norem)とナンシー・カンター(Nancy Cantor)という学者たちによってでした。
彼女たちは、長らく成功の秘訣とされていた楽観主義には当てはまらず、とても悲観的でありながら、徹底的に対策を練ることで成功を収めている一群の人たちがいることに注目しました。
児童心理 2017年 01 月号 [雑誌]によれば、このタイプの人たちは、次のような思考パターンを持っています。
防衛的悲観主義の人は、「前にもうまくいったから今度もうまくいくよ」とは決して方づけない。
最悪の事態をあらゆる角度から悲観的に想像しては、失敗を確信する。(p30)
このタイプの人たちは、事前にあれこれと悲惨な予測をめぐらします。言ってみれば、究極のネガティブシンキングであり、そばにいる人たちはどんよりと重い空気を感じてしまうかもしれません。
ところが、この人たちは、ただ単に悲観的な予測をめぐらすだけでなく、その予測に基づいて行動を起こします。ああなるかもしれない、こうなるかもしれない、と考えるだけでなく、ではあらかじめどうすればいいだろうか、と解決策を組み立て、できる限り準備します。
後ろ向きに考えてばかりいると、「ネガティブな結果を引き寄せちゃうよ」、とたしなめられがちですが、防衛的悲観主義者の場合は違います。この人たちは徹底的にネガティブに考えることで、なんと成功をたぐり寄せてしまいます。
防衛的悲観主義者のネガティブ思考はただのネガティブ思考ではない。
悪いほう、悪いほうへ予測し、予想される最悪の事態を思い浮かべることによって対策を練ることができるのである。
…防衛的悲観主義者は、“前にもうまくいったし、今度もうまくいく”とは決して片づけない。
悪い事態を予想することで不安になるが、そうした不安を逆に利用し、モチベーションを高め、悪い事態を避ける最大限の努力をすることで、目標達成につなげているのである。(p31)
防衛的悲観主義の人たちが用いる戦略は、イソップ童話のアリとキリギリスの物語をほうふつとさせます。
キリギリスのように楽観的にかまえているだけでは、いざ問題が起こったときに窮してしまいます。対照的に、あらかじめ冬が来ることを想定し、食糧難に備えるなら、いざ最悪の事態が本当に起こっても用意ができています。
ポジティブに考えると失敗する
おもしろいのは、防衛的悲観主義の人たちは、ポジティブに考えるよう指導されると、逆に成績が悪くなる、ということです。
別の実験で、「あなたの実力なら、これから行う課題の成績は良いはずです」と前もって実験者から勇気づけられ、これから実施する課題の結果をポジティブに期待させられた防衛的悲観主義者は、そのように勇気づけられなかった防衛的悲観主義者よりも、課題の成績が悪かったことが示された。
同様に、中学生を対象にした研究においても、防衛的悲観主義の傾向が強い中学生がこれから迎える定期試験に対し、“試験は良い成績をとるだろう”とポジティブに考えると、定期試験の成績が悪く、ポジティブに考えないと(ネガティブに考えると)定期試験の成績が良かったことが示された。(p33)
ポジティブになろう! というアドバイスは、あたかも万能薬のようにもてはやされがちですが、防衛的悲観主義の人たちにはかえって害になってしまうのです。
同様のことが、 ポジティブ心理学が1冊でわかる本にも書かれています。
予想に反するかもしれませんが、このタイプの人は楽観的になろうとしたほうが、悪い結果を出してしまいます。
時間が経つにつれて、防衛的悲観主義者は、同程度の不安を感じていながらも防衛的悲観主義を利用しない人に比べ、自己評価が高くなり、幸せを感じ、学業でよい成績を出し、個人の目標に近づくことができます。(ノーレム&チャン 2002年)(p62)
なんと、防衛的悲観主義の人たちは、ネガティブに考えたほうがうまくいくばかりか、そうでない人たちよりも、よい成績を残し、幸福感さえ高まると説明されています。
徹底的にネガティブに考える人たちが時経つうちに「自己評価が高くなり、幸せを感じ、学業でよい成績を出し、個人の目標に近づく」という研究結果は、ポジティブ思考の神話を真っ向から打ち崩すものではないでしょうか。
こうした防衛的悲観主義の意外な研究に基づき、児童心理 2017年 01 月号 [雑誌]の中で外山美樹先生はこう断言しています。
これらの一連の研究結果からわかることは、防衛的悲観主義の人はポジティブになるとできが悪くなり、ネガティブなままでいるときはできが良いということである。
…ポジティブ思考がいつも万能だという考え方は、明らかに間違っている。
人はそれぞれ違うし、ある人に効くものも、ある人には向かないかもしれない。(p33)
ポジティブ思考が万能であり、どんなときも前向きに考えたほうがいい、という安易な考え方は間違っています。
あらゆる人に一律にポジティブな考え方を強制するというのは、人間が持つ多様性を無視して、体格のまったく違う人たちに同じサイズの服を着るよう強要するようなものです。
世の中には、背の低い人もいれば高い人もいます。日本料理が好きな人もいればフランス料理が好きな人もいます。同じように、考え方にも多様性があってしかるべきです。
あらゆる人にポジティブシンキングを強要してしまうと、どんな望ましくない結果が生じるか、ということは、 児童心理 2017年 01 月号 [雑誌]の中で東北大学大学院の若島孔文准教授が述べているパラドックスによく表れています。
ポジティブ思考の社会的推奨は、この不合理的信念を個人個人に引き起こす。
それは一種のパラドックスである。ポジティブ思考であらねばならぬ、という思考法こそ他ならぬマイナス思考を導くからである。
世の中がポジティブな思考こそが良いもので、ネガティブ思考は論外だと考えだしたとき、個人個人はこのパラドックスに陥ることになり、ポジティブ思考の人間は存在しなくなるであろう。(p62-63)
ポジティブであらねばならない、という強迫的観念が社会によって強制されると、ポジティブになりきれない人は自分を卑下するようになるでしょう。
ポジティブ思考こそが成功のもとだという礼賛は、それとは違う考え方をして生きてきた人たちに劣等感を抱かせ、結果としてパフォーマンスを低下させてしまう排他的な考え方ともいえます。
不確実性に敏感なHSPに適した考え方?
では、ポジティブに考えるより、ネガティブに考えたほうがうまくいくのは、具体的に言ってどのようなタイプの人たちなのでしょうか。
児童心理 2017年 01 月号 [雑誌]によれば、防衛的悲観主義が向いているのは、不安傾向の強い人たちだとされています。
防衛的悲観主義は、とりわけ、不安傾向が強い人に有効とされる認知的方略である。(p30)
この「不安傾向が強い人たち」とは、言い換えれば、不確実性に敏感な人たちのことでしょう。
以前の記事で取り上げたように、近年の心理学では、「あいまい性耐性」という概念が研究されています。たとえば、物事に境界線を引くのが苦手で、あいまいな状況を受け入れるのが苦手な子どもたちは、ストレスを感じやすく不登校になりやすいようです。
あいまい性耐性が弱い人たちは、はっきりとわからない物事に対してあれこれと思い煩いがちです。人との距離感を気にして過剰に配慮しすぎたり、あやふやな将来について気をもみすぎたりします。
最近の研究によると、どうなるかはっきりわからない不確実性の強い状況のほうが、悪い結果が待ち受けているとはっきりわかる状況よりストレスが大きい、という結果が報告されています。
「痛いかも」の方が「痛い」よりストレスが大きい|WIRED.jp
論文の筆頭著者であるアーチー・ド・バーカーは、「ショックが与えられるのかわからない場合のほうが、ショックが与えられると確実にわかっている場合よりもはるかにストレスが大きいことがわかる」としている。
論文の共著者ロブ・ラトリッジは、「不確実性は人を不安にする。診断結果や列車の遅れに関する情報など、数多くの似た状況でも同じことが当てはまる可能性が高い」と語る。
この研究では、電気ショックを与えられるかもしれないという不確実性の強い状況のほうが、必ず電気ショックを与えられるとはっきりわかっている状況よりもストレスが大きいことがわかりました。
防衛的悲観主義を身につける人たちは、おそらく、この種のストレスに大多数の人たちよりもはるかに敏感なのでしょう。
防衛的悲観主義とは、不安傾向の強い人たちが、不確実な未来に対して、 あれこれと悲惨な予測を立てることで、不安を軽減し、よいパフォーマンスを発揮できるようにするスキルです。
言い換えれば、先ほどの実験にあった「ショックが与えられるのかわからない場合」に置かれて大きな不安を感じている人たちが、あれこれと悲惨な予測を立てることで、「ショックが与えられると確実にわかっている場合」へと思考を持っていき、ストレスを軽減しているようなものです。
あいまいで不確実な未来に対する不安傾向の強い人たちにとっては、不確定な将来に対して「なんとかなるさ」と楽観的に構えているだけでは、不安を増幅させるだけです。
かえって、将来こうなってしまうかもしれない、ああなってしまうかもしれない、とあれこれ考えて、最悪のシチュエーションを想定するほうが、不安が軽減され、落ち着いて対処できるようになります。
不確実な将来に対して不安が強く、かえって悪い事態を想定してしまったほうがストレスが減るという人たちは、おそらく、このブログでずっと取り上げているHSP(人一倍感受性強い人)とも関連しているのではないかと思います。
むろんHSPにも、さまざまな人たちがいるので、HSPの人すべてに防衛的悲観主義が向いている、などと言うつもりはありません。それではすべての人にポジティブを強要するポジティブ思考礼賛と変わりません。
また、防衛的悲観主義を身につける人がみなHSPだと言うつもりもありません。さまざまな認知特性を持つ人たちが、異なる多種多様な理由によって防衛的悲観主義を身につける可能性があります。
しかし、HSPの主要な遺伝的要素とされているのは、セロトニントランスポーター遺伝子の変異でした。この変異を持つ人は、環境の変化に良くも悪くも敏感だとされています。
よい環境に恵まれた場合は、才能を最大限に発揮できる感受性の強さになりますが、悪い環境に見舞われた場合は、うつ病や不安障害、慢性疲労症候群などのリスク因子になります。
つまり、HSPの遺伝的素因を持つ人たちは、育った環境によっては、普通の人以上に強い不安を感じやすい、ということになります。
HSPの子どもについて、エレイン・アーロンは、ひといちばい敏感な子の中でこう書いていました。
私たちの研究から、HSPは不幸を感じやすく心配しやすい傾向があると分かりました。
…さまざまな調査で、不幸な子ども時代を送ったHSPは、同じく不幸な子ども時代を送った非HSPに比べ、落ち込み、不安、内向的になりやすい傾向がありました。
でも、じゅうぶんによい子ども時代を送ったHSCは、非HSCと同様、いやそれ以上に幸せに生活しているのです。HSCはそうでない子よりも、よい子育てや指導から多くのものを得ることができるということです。(p433)
エレイン・アーロンはまた、HSPの人たちは、慎重で用心深い性格であり、脳内の行動抑制システム(用心システム)の働きが強いとも述べています。(p52)
将来への不安が強く、しかも用心深い性格の人たちにとって、石橋を叩いて渡るかのような防衛的悲観主義の考え方は比較的相性がよい、ということになります。
HSPの人たちが、不確実なことに不安を感じやすいのは、単に感受性が強いから、というよりは、深く考える傾向のせいでもあるでしょう。まわりの非HSPの人たちから「考えすぎだよ」とたびたび呆れられるHSPの人は少なくないのではないでしょうか。
防衛的悲観主義者における認知的方略の認識の検討によると、防衛的悲観主義者たちは「自分が楽観的に物事を考えることを警戒し」「楽観主義は有効だと思うけれど、自分にとってはうまくいかない考え方だと自覚している」のではないかとされています(p104)。
ふだんから物事を表面的に考える人たちは、あいまいな将来や他の人との距離感についても、あまり深く考えることがありません。
不確実性にかき乱されることがないので、「まあいいや」「なんとかなるさ」で心の整理がつくかもしれません。非HSPにとっては、防衛的悲観主義などは「考えすぎ」でしかありません。
しかし物事を深く考える人にとっては、「なんとかなるさ」では納得できません。HSPから見れば、それで納得できるような人たちは「考えなさすぎ」です。
ふだんから深く考えるのが当たり前で、表面だけのポジティブシンキングの粗や矛盾点がたくさん見えてしまう人にとっては、じっくり考え抜くことが必要なのです。
防衛的悲観主義はまた、HSPの人が陥りやすい、対人関係における空気の読みすぎ、いわゆる過剰同調性とも関連しているようです。
対人的文脈における防衛的悲観主義の役割によると、防衛的悲観主義(DP)の人たちは、次のような対人関係の傾向を示します。
DP傾向が高いほど状態不安が高いこと, そして不安が高いほど積極的に相手にかかわろうとするような行動意図が弱まるのに対して, DP傾向が高いほど相手の反応に合わせる, 相手の意見を尊重するといった行動意図が強まることが示された。
これは, 本研究の予測を支持する結果である。
DP傾向の高い人は, 複数の初対面の相手と会話する際には高い不安を感じるものの, 同時に対人関係上の高いパフォーマンス( 会話の相手から肯定的に評価される, あるいは否定的に評価されない) へとつながるような行動意図を強めると考えられる。
防衛的悲観主義(DP)の傾向が強い人たちは、「積極的に相手にかかわろうとするような行動意図が弱まる」、つまり内気な傾向を示します。HSPの人たちも、約7割が内向的だとされています。
「複数の初対面の相手と会話する際には高い不安を感じる」という点も、HSPの提唱者であるエレイン・アーロンが、ひといちばい敏感な子などの本で、HSPの特徴の一つとしてしばしば言及しています。(p60,68)
しかし、内向的だからといって、コミュニケーション能力が低いかというと、まったくそうではなく、むしろ「DP傾向が高いほど相手の反応に合わせる, 相手の意見を尊重するといった行動意図が強まる」とされています。
言い換えれば、人からどう思われるだろうか、うまくコミュニケーションできないのではないか、嫌われるのではないか、という心配が強いせいで、相手に過剰に同調し、空気を読んで接する能力が高くなるということです。
その結果、「対人関係上の高いパフォーマンス( 会話の相手から肯定的に評価される, あるいは否定的に評価されない) へとつながるような行動意図を強める」とされています。
空気を適切に読んで振る舞う能力が高いため、高い対人パフォーマンスを示し、人当たりのいい振る舞い方をすることができます。
これが行き過ぎてコントロールできなくなると、過剰同調性に陥りますが、コントロールできる範囲であれば、空気を読むのが得意なコミュニケーション能力の高い人、として重宝されることでしょう。
こうしたもろもろの特徴を考えると、防衛的悲観主義とHSPの研究は、かなりオーバーラップしている部分があるように思います。
生まれつきHSPの傾向を持つ人は不安に敏感で内向的になりやすい傾向があります。しかし、自分の生まれ持った性質にうまく適応し、防衛的悲観主義のような自分に合った戦略を身につければ、現実によりよく対処し、大きな成功を収めることができるでしょう。
防衛的悲観主義者は、楽観的になるよう言われるとパフォーマンスが落ちる、という研究がありましたが、HSPの観点からみれば、次のように言い換えられるかもしれません。
すなわち、生まれつき深く考えるHSPの人たちは、非HSPからの「考えすぎだよ」というアドバイスにまどわされて、非HSPの人たちと同じように考えようとすると うまくいかなくなる、ということです。
HSPの人たちが輝くためには、社会で多数派を占める非HSPのようになろうとするのではなく、大多数の人と異なる自分なりの強みを認識し、周りと違う自分に合った生き方を貫くことが必要なのです。
そのような、他と異なる強みのひとつが、防衛的悲観主義として研究されてきたユニークな不安解消法なのかもしれません。
防衛的悲観主義はネガティブなのか
それにしても、HSPと防衛的悲観主義の概念はオーバーラップしているのではないか、と言うと、まるでHSPには根暗でネガティブな人たちが多いかのように聞こえてしまいます。
これは、防衛的悲観主義がネガティブシンキングの一種である、という前提から来ていますが、わたしはそこに大きな疑問を持っています。
防衛的悲観主義は、発見者のノレムらによって、「悲観主義」と名付けられましたが、それは本当にネガティブで悲観的な考え方なのでしょうか。
防衛的悲観主義を用いる人たちが、ネガティブでじめじめした性格だとは限らない、ということは、 児童心理 2017年 01 月号 [雑誌]の次の説明から明らかです。
人間関係の面ではいたって楽観的に考える人が、テストや発表といった達成場面では徹底的に悲観的になる―つまり防衛的悲観主義の認知的方略を使用する―ということはおおいにありうる。
…とりわけ、防衛的悲観主義のネガティブ思考は、不安を強く感じるような特定の場面でのみ顔を出す。
それ以外の場面では、防衛的悲観主義者もあまり悩むことなく、日々を快適に過ごしている。(p31)
防衛的悲観主義者の特徴に関する一考察にも、同様の点がこう書かれています。
すなわち、防衛的悲観主義者は、生活のどんな場面においても(例えば、大切な面接から店でお菓子を買うことにいたるまで)防衛的悲観主義で臨んでいるのではなく、自分にとってどれだけ重要な出来事かという重要度によって、防衛的悲観主義を用いる場面を選択していると考えられるのだ。(p62)
防衛的悲観主義というのは、その人の生き方全体を貫くものではなく、ある場面限定、とりわけその人が不安を強く感じるシチュエーションに限定して用いられるスキルにすぎないのです。
英語では、サニーブレイン(楽観脳)とレイニーブレイン(悲観脳)という言葉があります。この表現からすると、悲観主義の人は、脳そのもののつくりが悲観的であるかのように思えますが、防衛的悲観主義の人はそうではありません。
ある人はテスト前など不安の強い状況では徹底的にネガティブな予測を立てますが、対人関係においてはそうではありません。その逆もしかりで、対人関係の場では防衛的悲観主義になっても、それ以外の場面はおおらかに構えている人もいます。
これはつまり、防衛的悲観主義とは、ここまで考えてきたように、強い不安傾向に対処するコーピングスキルのひとつにすぎないということを意味しています。
悲観「主義」という表現からは、その人の人生全体を貫く態度であるかのような印象を与えますが、どちらかというと、防衛的悲観主義は、マインドフルネスや認知行動療法のような、特定の状況で使うために身に着けるスキルに似ています。
さらに、防衛的悲観主義の人たちは、ネガティブだとは到底みなせないほどの積極性を持ち合わせてもいます。
防衛的悲観主義者はなぜ成功するのかでは、防衛的悲観主義(DP)が、方略的楽観主義(SO:Strategic Optimism)と同じほど高いパフォーマンスを示す理由について、次のように推測されています
本研究の結果より, DP 者 が SO 者に勝るとも劣らない高いパフォーマンスを示すのは,悪いほう,悪いほうへと予想し考えられる結果を鮮明に思い浮かべることによって その対策を繰り.おそらくは積極的な対処行動につながることで高いパフォーマンスを示すというメカニズムによって説明できる可能性が浮上した。
防衛的悲観主義の人たちが、楽観主義者と同じほど成功できるのは、「考えられる結果を鮮明に思い浮かべることによって その対策を繰り.おそらくは積極的な対処行動につながる」からだと思われます。
これまで考えてきたとおり、防衛的悲観主義の人は、単に将来について悪い予測をするわけではありません。最悪の結果をあれこれ予測し、その結果を避けるために、さまざまな計画を練ってあらかじめ準備するのです。
先ほど、防衛的悲観主義の人たちをイソップ童話のアリに例えました。冬に備えてせっせと準備したアリを悲観主義に例えたことに違和感を感じた人もいるかもしれませんが、わたしも同感です。
童話に出てくるアリは、冬場には食料がなくなることを予測しました。きっと最悪の事態も予測して、多めに食料を蓄えることも考えたでしょう。
では、あれこれと最悪の冬が訪れる予測を立てたからといって、アリは悲観主義者だったのでしょうか。それとも慎重で注意深かったのでしょうか。わたしには後者に思えます。
わたしが防衛的悲観主義に対して抱く違和感もこれと同じです。実際には、防衛的悲観主義の人たちは、ネガティブなのではなく、慎重すぎるだけなのではないでしょうか。
もしも、防衛的悲観主義が、「悲観主義」なのではなく、石橋を叩いて渡る用心深さや慎重さの表れなのだとしたら、まさにHSPの人たちの性格特性とぴったり一致することになります。
確かにHSPの人たちは、自尊心が低いことが多いので、自分の能力を低く見積もりがちで、悪い将来を想像しがちです。その一面だけ見れば、ネガティブなのは確かです。
しかし、自分の能力を低く見積もり、将来を暗めに予測したとしても、未来を変えるために、考えうるあらゆる努力を積み重ねるわけですから、決して消極的(ネガティブ)ではなく、むしろ積極的(ポジティブ)です。
防衛的悲観主義者における認知的方略の認識の検討の中でも、防衛的悲観主義の人たちについて、次のように描写されています。
防衛的悲観主義者とは、自らの認知的方略について葛藤的な思いを持っているが、他の2群よりも、問題が起きた時には自分がどんな認知的方略をしているかを強く意識し、問題を解決しようとする自分の努力が成果を発揮することを信じている人だということが考察される。(p104)
「問題を解決しようとする自分の努力が成果を発揮することを信じている」という言葉はかなりポジティブな表現です。
こうした複雑な行動パターンを示す人たちを単に悲観主義と呼び捨ててしまうのは、どうにも腑に落ちません。
そもそも楽観的か悲観的か、ポジティブかネガティブか、というポイントが間違っているのではないでしょうか。
楽観主義か悲観主義かは問題ではない?
ポジティブだから成功し、ネガティブだから失敗する。楽観的な人はうまくいき、悲観的な人は挫折する。
この旧来の見方に異議を唱えたのは、他ならぬ防衛的悲観主義の発見者、ノレムとカンターでした。
彼女たちは、防衛的悲観主義を発見したとき、一般に、ポジティブかネガティブか、楽観的か悲観的か、という二者択一でざっくりわけられがちな楽観主義と悲観主義を4つのパターンに分類しました。
■楽観主義の2つのタイプ
(1)方略的楽観主義(SO:Strategic Optimism)…行動につながる楽観主義
(2)非現実的楽観主義(UO:Unjustifed Optimism)…行動につながらない楽観主義
■悲観主義の2つのタイプ
(3)防衛的悲観主義(DP:Defensive Pessimism)…行動につながる悲観主義
(4)一般的悲観主義(RP:Realistic
Pessimism)…行動につながらない悲観主義
詳しい定義はここでは省きますが、この4つの分類は、楽観主義にも悲観主義にも、行動するタイプと行動しないタイプがあることをはっきり示しています。
同じ楽観主義でも、前向きに考えて、計画を練って行動する人たち(方略的楽観主義)は成功につながります。
しかしアリとキリギリスのキリギリスのように、何も努力せず、用意もせずにただ「なんとかなるさ」と思っている人たち(非現実的楽観主義)はひどい目に遭います。
正しい楽観主義、能天気な楽観主義 | ハイディ・グラント・ハルバーソン/HBRブログ|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー
同じ悲観主義でも、あれこれ最悪の事態を予測しつつ、それに備えて行動する人たち(防衛的悲観主義)は成功を引き寄せます。
しかし、ただ悪いことばかり考えて絶望している人たち(一般的悲観主義)は、何も問題が解決しないまま困窮します。
方略的楽観主義と防衛的悲観主義はどちらも成功につながりますが、非現実的楽観主義と一般的悲観主義はどちらもただ手をこまねいて身の破滅を待っているだけです。
前者の違いと後者の違いは何か。
それは、このブログで過去に何度も取り上げてきた、「統御感」と「無力感」だと思われます。
方略的楽観主義者と、防衛的悲観主義者は、それぞれ将来を楽観視するか悲観視するかという違いはあります。しかし、どちらも、具体的な行動を起こし、今できることに取り組み、将来にあらかじめ備えるという点で共通しています。
この二つのタイプの人たちが、具体的な行動を取れるのは、どちらも、自分の人生は自分でコントロールできるという、統御感、自己統制感をしっかり持っているからです。
方略的楽観主義の人は、明るい将来を思い描き、自分の努力次第でそれを実現できる、というポジティブな見方をします。
防衛的悲観主義の人は、暗い将来を思い描きますが、やはり自分の行動次第で、その結末を変えられる、というポジティブな見方をします。
いずれの場合も、将来は運命によって定められている不変のものではなく、自分の行動次第で変えていくことができる、と考えている部分で一致しています。
この人たちは、どちらも、将来を変えるために今行動する人たち、コップに水が半分しか残っていないのに気づいたら、最後の一秒まであきらめず「蛇口はどこですか」と走り回る人たちなのです。
他方、非現実的楽観主義者と一般的悲観主義者は、それぞれ明るい将来を思い描くか、暗い将来を思い描くかという違いはあります。しかし、どちらも、将来のために何の行動もしない点で共通しています。
非現実的楽観主義の人たちは、明るい未来を思い描き、その空想に浸っているだけで行動しない、いわゆる「ポリアンナ症候群」の状態にあります。問題が起こっても「きっとなんとかなるさ」と言ってほったらかしにしているうちに、なんともならなくなります。
一般的悲観主義の人たちは、絶望の未来を思い描き、あれこれ不平不満を言って、悲しみに浸ります。そして、自分はどうあがいても、その運命から逃れられないと決めつけて、すべてをあきらめてしまいます。
いずれの場合も、将来はもうすでに運命づけられていて、自分が今さら何かしたとしても無駄だという「無力感」に支配されています。
この人たちは、どちらも将来を変えるために行動しない人たち、水が半分あるコップを見て、「まだ半分もある」「もう半分しかない」と言うだけで、ただじっと座っている人たちです。
一言で言えば、考え方が楽観的か悲観的かは将来の成功にあまり関係していないのです。そうではなく、自分で将来を変えようとするか、それともただあきらめて何もしないかが、将来の成功を左右するというわけです。
まわりくどく考えてきましたが、当たり前すぎて苦笑いしてしまうような結論ですね。
悲観主義を克服する必要はない
楽観主義と悲観主義の違いよりも、人生をコントロールしようとするかどうかのほうが大切、というのは、この記事でも参照してきた学問 ポジティブ心理学の研究に基づく意見でもあります。
ポジティブ心理学は、その名前から誤解されがちですが、 ポジティブ心理学が1冊でわかる本の前書きに書かれているように、ポジティブシンキング商法とは何の関係もありません。
「ポジティブ心理学? あぁ、あの何でもポジティブに考えようっていうあれでしょう」
そうおっしゃる方が、まだまだ多いようです。ポジティブ心理学は、一般的に広まっているポジティブ・シンキングと混同されることがよくあります。
確かにポジティブ心理学は、ポジティブ・シンキングのプラス面を肯定しますが、その2つはまったくの別物です。
ポジティブ心理学とは、一言で言うと、従来の心理学がウツなどの病理を研究対象にしているのに対して、「人生を真に充実したものにするのは何か」という問いのもとに、幸福や強みなどのポジティブな要素を研究し、私たちの暮らしに実際に役立つものを提供してくれる心理学です。(p1)
ポジティブ心理学では、ネガティブな感情だとされる怒りや悲しみを否定するようなことはありません。むしろ、ポジティブ心理学は、心理的健康を扱う学問として、時には怒りや悲しみが健康の維持に機能することを明らかにしています。
興味深いのは、ポジティブ心理学の生みの親であるマーティン・セリグマン自身が、ポジティブシンキングとはかけ離れた性格の人だということです。
彼は著書ポジティブ心理学の挑戦 “幸福"から“持続的幸福"への中で、自分についてこう書いています。
これは言うなれば、生まれながらの悲観論者である私が、自分の自動的な破壊的考え方に反論するために、この本に載っている治療効果のあるあらゆる手段を知っていて、実際に使っていながらも、自分には頻繁に「私は負け犬だ」「人生には生きる価値などない」といった声が聞こえてくる、ということだ。
私はたいてい、自分の考え方に反駁することで、そのような声の音量を下げられるのだが、声はいつでも背後に潜んでいて、何かにつまずこうものならすぐにでも私に襲いかかってくるのだ。(p98)
意外なことに、ポジティブ心理学の生みの親は、徹底的な悲観論者なのです。
言ってみれば、ポジティブ心理学とは、極めて強い悲観主義の傾向を持つマーティン・セリグマンが、自分の真っ暗な将来を想像し、その絶望の未来を変えるためにはどうすればいいか、具体的に研究し、役立つアイデアをまとめた学問だということです。
悲観的な将来を想像しつつも、対策をあれこれ考えて未来を変えていこうとして学問の分野まで立ち上げてしまった様は、防衛的悲観主義の真髄ここにあり、と言える例かもしれません。
マーティン・セリグマンは、悲観的に考えてしまう人たちに対して、無理にでもポジティブな考えに変えるようにとは勧めていません。そもそも自身がそうしていません。
その代わり、次のように勧めています。
ネガティブな感情やネガティブなパーソナリティ特性には、非常に強い生物学的な縛りがある。
そのため、臨床医が一時しのぎのアプローチをもって最善を尽くすとすれば、患者に固有の抑うつや不安、怒りの範囲内での最高の生き方ができるよう促すことだ。(p99)
彼がポジティブ心理学を通して意図しているのは、遺伝的素因や生まれ育ちに基づく、悲観主義を入れ変えることではないのです。それは「非常に強い生物学的な縛り」であり、悲観主義者を無理やり楽観主義者に変えようとすることは劣等感を増し加えるだけです。
その代わりセリグマンが意図しているのは、そうした悲観主義の範囲内で「最高の生き方ができるように促すこと」、すなわち対処するためのスキルを身につけさせることでした。
セリグマンは具体例として、歴史上の偉人二人を挙げています。
アブラハム・リンカーンとウィンストン・チャーチルという、重度のうつ病患者の二人について考えてみよう。
彼らはともに自らの憂うつ症や自殺願望とつき合いながら大変よく機能した人間である(リンカーンは1841年1月に自殺寸前のところまでいった)。
ひどく落ち込んでいるときでも、彼らはともに極めてよく機能することを学んだのだった。(p100)
セリグマンが例に挙げたアブラハム・リンカーンとウィンストン・チャーチルは、どちらも、悲観主義を克服したわけではありませんでした。楽観主義に変身したわけでもありませんでした。
そうではなく「ひどく落ち込んでいるときでも、彼らはともに極めてよく機能することを学んだ」、つまり悲観的な考えに悩まされるときも、しっかり自分をコントロールして、状況を変えていくスキルに熟達した、ということだったのです。
彼らを成功に導いたのは、ポジティブシンキングを極めることではなく、自分の人生を自分でコントロールできるようになることでした。
ちなみに、HSPの提唱者のエレイン・アーロンは、よくアブラハム・リンカーンを典型的なHSP男性の一例として挙げています。
無力感を自己効力感へと変えていく
楽観的であるか、悲観的であるかにかかわらず、カギを握っているのは、「統御感」と「無力感」だとすでに考えましたが、この概念を発見したのもまたマーティン・セリグマンその人です。
このブログで過去に紹介したとおり、彼は「学習性無力感」という有名な概念を発見しました。
私は、1960年代半ばに「学習性無力感」を発見した研究者3人組の1人であった(スティーブ・マイヤーとブルース・オーバーマイヤーが私の研究仲間であった)。
私たちは、動物(犬、ラット、マウス、そしてゴキブリさえも)が、最初に自らの力ではどうすることもできない不快な出来事を経験するやいなや受動的になり、困難に直面すると諦めてしまうことを発見した。
…人間という動物も、人間以外の動物と全く同じことをする。…学習性無力感は、自分が何をしても出来事を変えられることはないという事実によって定義される。(p334)
学習性無力感は、人間だけでなく、さまざまな動物や虫にすら生じる生物学的反応です。
身動きが取れない、逃れられないといった状況で繰り返し不快な目に遭わされる(「逃避不能ショック」と呼ばれる)と、生き物は体が動かなくなり、その状況を打開しようとする気力さえ失ってしまいます。
これと同様のことが人間の子どもに生じるのが、虐待児にみられる極端な自尊心の低下と、心身の解離反応である、ということは過去に扱ったとおりです。
またおそらくは不登校の子どもでも、同様の学習性無力感が生じているために引きこもり状態になると思われます。
先ほど取り上げた、行動がともなわない楽観主義と悲観主義、すなわち非現実的楽観主義と、一般的悲観主義に共通する、自分が何をやっても、未来は変えられないし無駄だ、というあきらめは、この学習性無力感によるものです。
非現実的な空想世界に現実逃避してしまう傾向は、辛い幼少期を解離傾向で乗り切ってきた人によく見られます。非現実的楽観主義、つまり偽りのポジティブ・シンキングは解離の症状のひとつです。
他方、同じように辛い幼少期を送ったものの、解離傾向が弱い人たちは、慰めとなる空想世界に逃避できないがために、悲嘆と絶望に絶え間なく襲われるPTSDを発症します。こちらは、一般的悲観主義の要因のひとつでしょう。
もっとも、セリグマンらの研究によると、逃避不能ショックを経験すれば必ず学習性無力感が引き起こされるわけではありません。
動物でも人でも、逃避不能ショックを受けても1/3が学習性無力感にならず、1/10はもともと学習性無力感に陥っていたという統計が見られました。
ここまでの学習性無力感に関する私の説明に、一つ重要な事実をつけくわえなければならない。
人間に対して逃避不可能な騒音を与えたとき、あるいは動物に対して逃避不可能なショックを与えたとき、すべての人間や動物が無力になったわけではなかった。
規則性をもって、およそ3分の1の人(3分の1のラットと3分の1の犬も)が決して無力にならなかった。
規則性をもって、およそ10分の1の人(10分の1のラットと10分の1の犬も)が最初から無力であったため、受動性を誘導するのに実験室を必要としなかった。(p341)
人間の場合、虐待の過酷な環境で育ったにもかかわらず精神的弾力性(レジリエンス)を備えているために乗り越えられる子どもたちがいますし、逆にそれほど悪い環境で育ったわけではないにもかかわらず、無力感を抱いてしまう子どももいます。
セリグマンはまた、学習性無力感とは対極にある現象、「統御感」や「学習性楽観」と呼ばれる現象も発見しました。
これは、人生経験を通して、自分の人生は自分でコントロールしていける、という自信を深めていく人たちを指す概念です。
自分ではどうにもならない辛い経験を繰り返すと「無力感」を学習しますが、そんな子どもでも、自分の努力で状況は変えられる、という経験を繰り返せば、「統御感」を学習していけるのです。
それを物語る例が、自己コントロールについての研究で知られるウォルター・ミシェルのマシュマロ・テスト:成功する子・しない子に載せられています。彼は、「統御感」を「自己効力感」(コントロールしているという認識)という言葉で表現しています。
「自己効力感」とは、自分の行動を決定するにあたり、能動的な行為者となれるという信念や、自分は変わったり、成長したり、学んだり、新たな難題を克服したりできるという信念だ。(p126)
スタンフォード大学のキャロル・ドゥエッグの研究によれば、「自己効力感」とは成功体験を繰り返すことで学習していける能力だ、ということが示されました。
この結果からは、成功の見通しを物事全般で持ちづらい子どもたちは、課題にすでに失敗したかのように取り組み始めることもわかった。
だが、そういう子どもも、現に首尾よく課題を成し遂げたときには、ポジティブな反応を見せ、この新たな成功体験のおかげで、将来の成功への期待がおおいに高まった。
…これが意味するところは明白で、一般に楽観主義者は悲観主義者よりもうまくやっているが、悲観主義者でさえ、成功できるとわかったときには期待を高めるのだ。(p136)
この説明は、この記事で取り上げてきた防衛的悲観主義の持ち主が、なぜ長い目で見れば成功していけるのかをはっきり物語っています。
HSPなどの敏感さや、幼少期の傷つき体験のせいで自尊心が弱い子どもたちは、「成功の見通しを物事全般で持ちづらい」ため、人並み以上に強い不安を感じます。
「課題にすでに失敗したかのように取り組み始め」ますが、少なくとも行動には移すあたりは、防衛的悲観主義の片鱗が垣間見えます。
そうした子どもたちは、自分の能力に何も期待しておらず、悲観的な予測を立てていますが、しっかり努力した結果、予想外の成功を経験すると、転機が訪れます。
「この新たな成功体験のおかげで、将来の成功への期待がおおいに高ま」る、言い換えれば、自分の人生は、自分で変えていけるかもしれない、という自己効力感を徐々に学習するのです。
そうした成功体験を繰り返すうちに「悲観主義者でさえ、成功できるとわかったときには期待を高める」ようになっていきます。悲観主義者であることは変わらなくても、悲観的な将来を変えていくための行動を積極的に起こす防衛的悲観主義者になっていきます。
そのようなわけで、先に引用したように、「時間が経つにつれて、防衛的悲観主義者は、同程度の不安を感じていながらも防衛的悲観主義を利用しない人に比べ、自己評価が高くなり、幸せを感じ、学業でよい成績を出し、個人の目標に近づく」のです。
「確信犯的な悲観者」
この記事では、世間でもてはやされるポジティブシンキングに異議を唱えるところから始まり、防衛的悲観主義とは何か、HSPの認知特性とどう関わっているか、という考察を進めてきました。
そして、悲観主義者が楽観主義者になろうとする必要はないこと、そもそも無力感に支配されて何も行動しないならば、楽観主義であろうが、悲観主義であろうが、どちらも悪い結果に至ることを考えました。
カギを握っていたのは、楽観的であるか悲観的であるか、という点ではありませんでした。いかにして学習された無力感を克服し、自分の人生は自分で変えていけるという自己効力感を新たに学習していくかどうか、という点にありました。
たぶん防衛的悲観主義は、楽観主義か悲観主義かといった狭い枠組みで語られるべきものではないのでしょう。
前のほうで防衛的悲観主義とは、マインドフルネスや認知行動療法と同じような一種のコーピングスキルではないか、と述べました。
おそらく防衛的悲観主義とは、何らかの自尊心の傷つきを抱えた子どもが、自分は何をしてもうまくいかないという無力感を段階的に克服し、自分の行動次第で将来を変えていけるかもしれないという自己効力感を学習していくときに身につける処世術なのでしょう。
この記事を書いているわたしはというと、少なくとも、学生時代までは、まったく楽観主義ではありませんでした。「もうダメだ」が口グセで、いつも最悪の結果を想像する防衛的悲観主義の典型だったと思います。
最悪の状況を想定するせいで、追い立てられるように必死に準備して、一縷の望みにすがるといった毎日だったので、それが心身に負担をかけたのは言うまでもないことです。
けれども、それから幾らか人生経験を積むうちに、それほど悲観主義らしくはなくなってきたように思います。ベースとしては確かに悲観主義でしょうが、今までどうにかやってこれた以上、今回もどうにかできるだろうという楽観性を持っています。
このたび、防衛的悲観主義について詳しく調べてみて、そうした複雑な心理状態もまた、防衛的悲観主義の特徴の一つだということを知りました。
防衛的悲観主義者における認知的方略の認識の検討に書かれている次の考察が、わたしの心境をよく言い表しています。
本研究で明らかにされたように、防衛的悲観主義者は、自分にとってその認知的方略が有効であると認識しており、意識的に行っている。
いわば確信犯的な悲観者だと言えるだろう。
そのためには、「自分は悲観的に考えた方が物事をうまく乗り越えることができている」と、客観的に自分を観察できることがまず必要となる。(p105)
学生のころは無我夢中だったので、こんなに冷静で客観的ではありませんでしたが、今では確かに「自分は悲観的に考えた方が物事をうまく乗り越えることができている」という妙な自信を持った、「確信犯的な悲観者」のような気がします。
悲観的に予測して、ときには予測どおりの最悪の事態を身に招いてしまうこともあるのですが、すぐに忘れてしまう(解離される?)ので長く落ち込んだりはせず、懲りずに次の一手を講じて、それを繰り返すうちに うまくいくのがわたしのスタイルです。
何でもかんでもポジティブに、という非現実的楽観主義を無条件に鵜呑みにできず、疑問を感じてしまう人、かといって方略的楽観主義と呼べるほど楽観的ではなく、悩ましい葛藤を抱えながら現実に対処してきたという人は、防衛的悲観主義の研究について調べてみると面白い発見があるかもしれません。
この記事でいろいろ引用したように、外山美樹先生ら日本の研究者による防衛的悲観主義についての論文は、ネット上でもいくつか閲覧することができます。
また防衛的悲観主義を提唱したジュリー・ノレムによる邦訳本ネガティブだからうまくいくも刊行されているので、興味のある方は読んでみるといいかもしれません。