フェリッティとアンダは、各個人のACE項目の数と成人後の病気や身体の不調に相関関係があるかどうかを調べた。その結果、両者は密接に関わっていることが判明し、アンダは「驚いた」だけでなく胸が締めつけられた。
「思わず泣いた」とアンダは語る。「どれだけ多くの人が苦しんできたかということを知って、涙が出た」。(p36)
医師ヴィンセント・J・フェリッティと疫学研究者ロバート・アンダは、自分たちが実施したACE研究(Adverse Childhood Experiences : 逆境的小児期体験)の結果を目にしたとき言い知れぬ衝撃に打たれました。
17421人もの人を対象に行われた、このかつてない大規模で画期的な研究は、それまで見逃されていた一つの事実を、疑問の余地なく明らかにしていました。
心疾患、肺疾患、肥満、がん、脳卒中、さらには原因不明とされる自己免疫疾患や、線維筋痛症のような慢性疼痛、慢性疲労症候群(筋痛性脳脊髄炎)に至るまで、ありとあらゆる慢性病は、子ども時代に逆境を体験した人ほど発症率が跳ね上がるという相関関係を示していたのです。
フェリッティもひどく衝撃を受けた。「想像をはるかに超えた発見だった。
子ども時代の困難な出来事と成人期の発病の相関関係によって、人間の健康と病気に対して、これまでとはまったく異なる視点が生まれた」
フェリッティが言うように、これは「これまで誰も口にできなかった、多くの苦しみの原因が特定された瞬間だった」。(p36)
その後の研究を通してわかってきたのは、子ども時代の逆境的体験は、あたかも時限爆弾のタイマーを身体にセットするようなものだということです。
ここでいう子ども時代の逆境的体験とは、虐待や機能不全家庭だけでなく、医療トラウマや事故、病気、学校生活の苦痛などあらゆる逆境を含みます。
子ども時代の逆境は、老化のマーカーであるテロメアを短くし、身体の免疫システムによるストレス反応のパターンを書き換えます。さらに、脳に慢性的な炎症を引き起こすことさえわかってきました。
今回紹介する小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)は、子ども時代の逆境的体験が、思春期の突然の崩壊や、30代40代という中年に発症する様々な身体疾患を引き起こすメカニズムを説明しています。
このブログでまとめてきた、HSP(敏感な人)や、解離、発達性トラウマ障害、脳の炎症と慢性疲労症候群など、ほとんどすべての話題を網羅している、わたしが待ち望んでいた本ともいえるこの一冊を紹介したいと思います。
これはどんな本?
小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)はつい先月、2018年2月18日に発売されました。原著Childhood Disrupted: How Your Biography Becomes Your Biology, and How You Can Healは2015年に書かれています。
わたしはもともと、ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法を読んで、ACE(Adverse Childhood Experiences : 逆境的小児期体験)研究の重要さを知っていました。
ヴァン・デア・コークはこの研究を手がかりに、子ども時代のトラウマが人生を通じてさまざまな病気を引き起こす「発達性トラウマ障害」(DTD)という概念を作りました。
トラウマというと、心の問題だとみなされがちですが、発達性トラウマの概念は、トラウマが身体的また生物学的なものであり、多種多様な原因不明の身体疾患を引き起こす理由を説明しています。
この小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)は、事実上、発達性トラウマの実態についての本ですが、トラウマの身体的な側面を、よりわかりやすく説明し、自己免疫疾患や慢性疲労症候群、線維筋痛症などとの関係を解き明かしています。
著者はヴァン・デア・コークの「発達性トラウマ」という概念に敬意を払いつつも、より理解しやすくするために、こう提案しています。
「発達性トラウマ障害」という名前では、小児期の予測不能な慢性有害ストレスが脳の構造を変え、慢性疾患を引き起こす難解で目に見えない、微妙なプロセスを言い表すことはできない。
そこで、この一連の症状を「小児期逆境後症候群」(Post Childhood Adversity Syndrome)と呼んではどうか。(p208)
心の問題と誤解されやすいトラウマではなく、「小児期逆境後症候群」すなわち子ども時代の逆境の後遺症、という概念から読み解いていくのは、専門知識がない人たちにとっても、非常にわかりやすいアプローチだと思いました。
本に届いてから気づいたのですが、わたしはこの本の著者、科学ジャーナリストのドナ・ジャクソン・ナカザワの免疫の反逆という本を以前に読んだことがありました。慢性疲労症候群の専門医である三浦一樹先生がおすすめしていたことがきっかけでした。
Donna Jackson Nakazawa | Explorations in the Science of Illness and Extraordinary Healing
ドナ・ジャクソン・ナカザワは、若い頃からギラン・バレー症候群をはじめ死に至るような自己免疫疾患に悩まされ、自身の苦痛の謎を解くべく、サイエンス・ライターとして調査を続けてきました。
以前の著者では化学物質の影響を調べていましたが、2012年、飽くなき探究の果てにたどりついたのがACE研究だったといいます。
奇妙な身体疾患の正体を探るうちに予期せずトラウマ研究にたどりついてしまったというのは、わたしの辿ってきた道筋とそっくりです。
多くの人がそうであるように、最初ACEについて知り、大人になってからの経験は子ども時代の経験と密接な関係にあると聞いたときには、私は驚き、にわかには信じられなかった。
まさか自分が逆境的小児期体験をしているとは思わなかった。(p11)
彼女は以前の本に書いていた、化学物質などの要因が健康にもたらす影響についての調査を否定しているわけではなく、若くして発症する難病には多くの要因が絡み合っていると見ています。
ACEは成人期の発病の確率を大幅にアップさせるが、それだけが原因ではない。どんな病気にも、遺伝的特徴、有害物質との接触、感染など複数の要因がある。
だが、ACEや有害ストレスの経験を持つ人にとっては、病気を引き起こす他の要因が通常よりも危険度を増す。
免疫システムを樽だとしよう。大人になってから、化学物質や添加物まみれの加工食品による大量の環境毒素、ウイルス、感染、慢性あるいは急性のストレス要因に接すると、樽は少しずついっぱいになる。
やがて、そうしたものの一つが引き金となり、その最後の一滴で樽があふれて発病する。
ACEによって長期間予測不能なストレスを受けることは、樽が半分満たされた状態で人生を始めるようなものだ。(p13)
この本は、もしわたしが本を書くならこう書くだろう、と思うほどこのブログと話題が重なっています。
慢性疲労症候群に始まり、発達性トラウマ、HSP、愛着、解離(凍りつき)、潜在記憶、学校過労死、さらにはマイクロバイオーム(腸内細菌)や発達障害との関係に至るまで。
わたしはこれまで、さまざまな本を寄せ集めて自分なりの考察をブログに書いてきました。わたしが言いたいことを、すっきり一冊で説明してくれている本は残念ながら知りうる範囲では存在しませんでした。
しかし、ついにそのような本とめぐり合えて感無量です。地球の裏側で、わたしと全く同じ結論にたどりついた人がいたことで、わたしの素人推理の方向性は決して間違っていなかったのだ、というお墨付きがもらえたようにも感じています。
この本の欠点は、後半部分の治療法の解説が大味なところと、巻末に参考文献リストがないことです。当事者目線のサイエンスライターによる一般読者向けの本なので、やむをえないかもしれません。
著者が提案しているように、あまり専門知識のない当事者が最初に読む本、あるいは当事者が家族や友だちに読んでもらうための本として活用すると良さそうです。(p253)
もっと深く知りたい場合は、この記事の末尾に、わたしがこれまで読んでよかった専門家による本を挙げておくので参考にしてください。あるいはとりあえず専門のセラピストを探して受診し、治療の中で学んでいくのも良い方法だと思います。
ACE研究ー生物学の革命そして転換点
冒頭で触れたように、事の始まりは、ACE研究(Adverse Childhood Experiences : 逆境的小児期体験)にさかのぼります。この研究が画期的だったのはなぜか、という話から始めましょう。
1985年、サンディエゴの保険会社カイザーパマネンテの予防医学部門の医師ヴィンセント・J・フリエッティは、奇妙なパターンに気づきました。
彼が担当していた肥満解消プログラムの参加者のほとんどが、ダイエットに一度成功しても、再度同じ問題に陥りました。
原因を調べていくうちに、かなりの患者が、子ども時代に逆境を経験し、食べることによって不安や絶望を和らげていることがわかりました。病的肥満は参加者が抱えていた問題の氷山の一角でしかなかったのです。
1990年、フリエッティは、286人を対象に実施した、子ども時代の逆境と肥満のつながりについての調査結果を北米肥満研究協会で発表しましたが、仲間の医師たちは猛反発し、その研究を嘲笑しました。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、ヴァン・デア・コークはこう書いています。
彼は一部の専門家の辛辣な反応に唖然となった。どうしてそんな患者を信じるのか、人生をしくじった人は、どんな説明もでっち上げるだろうことがわからないのか、などと言われたのだ。(p240)
中には立ち上がって「患者の失敗した人生に言い訳を与えているだけだ」と言い捨てる人もいたそうです。
しかし、喜ばしいことに、その研究の意義を見抜いた専門家もいました。米国疾病管理センター(CDC)の疫学者が、一般人を対象にしたはるかに大規模な調査を実施してみるようフリエッティに提案します。
フリエッティは、CDCで心疾患とうつ病の関係を研究していた医学疫学者ロバート・アンダと協力し、健康診断に来た17421人もの人たちを対象に、子ども時代の体験についてアンケートをとり、詳細な医療記録と比較してみました。
これがACE(逆境的小児期体験)研究、かつてない規模で行われた、子ども時代の体験と、成人期の身体疾患との関わりを調べる最初の調査でした。
その結果が出たとき、冒頭で引用したように、あまりに衝撃的な内容に、研究責任者のロバート・アンダが思わず涙したと言われています。ヴァン・デア・コークもこう書いています。
ロバート・アンダがACE研究の結果を発表するのを初めて私が聞いたとき、彼は涙を抑えられない様子だった。
アンダは、疾病管理予防センターに勤務している間に、それまでも喫煙研究や循環器系疾患など、人命にかかわるいくつかの主要な分野で仕事をしてきた。
だが、ACE研究のデータが自分のコンピューター画面に現れ始めると、その研究者たちがアメリカで最も費用のかかる公衆保健問題に行き当たったことに気づいた。(p247)
ACE研究の結果は、想像をはるかに超えていました。あらかじめ病的肥満と小児期の虐待の関係に気づいて、猛反発のなか学会で発表していたフリエッティでさえ、言葉を失うほどの結果でした。
ACEは、小児期の逆境の程度を10段階のスコアで評価していました。 小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)が述べるように、ACEスコアと原因不明の疾患の程度ははっきり相関していました。
ACEスコアが高ければ高いほど、その後の診療回数は多く、説明のつかない身体の症状も増えた。
ACEスコアが「4」の人は「0」の人にくらべてがんと診断される確率は2倍。スコアが1点増えるごとに、成人後に自己免疫疾患で入院するケースは20パーセント上昇する。
「4」の人がうつ病となる可能性は「0」の人の4.6倍だった。
ACEスコアが「6」以上の人は寿命がおよそ20年短かった。
…ACEスコアが「7」以上の人は、飲酒も喫煙もせず、肥満や糖尿病でもなく、コレステロール値が低くても、心臓病のリスクが「0」の人の3.6倍という結果が出た。(p36)
これは、ACE研究ではじき出された、小児期の逆境と、成人後の心身疾患の関連性の、ほんの一部です。あまりに多くの多様で衝撃的な相関関係が明らかになったので、この記事で書ききることは不可能です。
ACE研究が明るみに出したのは、これまで人々の目から隠されてきた不都合な真実でした。
フェリッティが言うように、これは「これまで誰も口にできなかった、多くの苦しみの原因が特定された瞬間だった」。(p36)
小児期の逆境体験がこれほど多種多様な深刻な病気をもたらすことが長らく見過ごされていたのはなぜでしょうか。
いえ、いまだにほとんどの医者たちが、こうした調査結果を無視し、身体疾患は純粋に体の問題、精神疾患は脳の問題だとみなし、そろいもそろって、小児期の逆境体験の影響を軽視、あるいは無視しているのはなぜでしょうか。
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法によれば、ACE研究グループはこう説明しています。
人が目にするもの、目に見える主症状は、本当の問題の目印にすぎないことが多い。
本当の問題は、時間の中に埋もれ、患者の羞恥心や秘密主義、そしてときには記憶喪失ーさらには、頻繁に臨床家の不快感ーによって、隠されている。(p246-247)
子ども時代の辛い体験について語ることは、わたしたちの世の中ではタブーとされています。
医師たちはトラウマを扱う代わりに覆い隠します。フリエッティが最初に研究発表したとき、猛反発した医師たちがいたことはそれをはっきり物語っています。
古くはフロイトが社会の有力者たちの機嫌を取るために、ヒステリー(現在の解離性障害)の原因が性的虐待にあるとする意見を翻したのは有名な話です。
逆境的環境で育った子どもたちは、子ども時代を言いわけにしないよう圧力を受け、弱音をはかないよう叱咤されます。だれにも決して理解されることなく育ち、やがて孤独と苦悩を心の中にしまいこむようになります。
小児期逆境体験はなぜ原因不明の疾患を招くのか
ACE研究は、子ども時代の逆境的体験と、様々な原因不明の疾患との劇的な関連性を明らかにしましたが、なぜそうしたつながりがあるのか、という点は謎めいたままでした。
しかし、フリエッティとアンダは、その後、ACE研究に関して74もの論文を発表し、ACE研究は、世界各地の1500以上の研究で引用されてきました。その結果、今では、小児期の逆境がいかに人生を破壊するか、多くの謎が解き明かされています。
神経科学、心理学、医学における新たな発見によって、小児期の逆境が人間を生物学的に変えるプロセスが解明された。
…逆境的小児期体験は人間の脳の構造や免疫システムのバランスを変え、身体と脳の両方に炎症を起こし、成人後もずっと身体の健康全般や寿命に影響を与える。(p30)
この本では、広範な研究結果が、一般読者にもわかりやすく説明されています。
ほとんどは、このブログで取り上げてきた内容なので、ここでは比較的簡潔に紹介します。詳しく知りたい人はぜひ自分でこの本を読んでいただければ幸いです。
老化のマーカーであるテロメアが短くなる
小児期の逆境が及ぼす生物学的な影響のうち、最も衝撃的なものの一つは、老化に関わるテロメアが短くなることでしょう。
デューク大学、カリフォルニア大学サンフランシスコ校、ブラウン大学における研究では、小児期の逆境は人間を細胞レベルで傷つけ、細胞を老化させて寿命を縮めることが明らかになった。
子どものころにストレスに直面した大人は「テロメア」と呼ばれる部分(DNAストランドの末端にあり、染色体を保護する役目を持つ)がより短くなる。
すると病気にかかりやすくなり、老化のスピードが速まる。テロメアが老化して尽きると細胞の寿命が尽き、その結果、私たちの寿命も尽きるのだ。(p38)
このブログでも過去に扱ったとおり小児期の逆境体験は、テロメアを通して、寿命に直接影響を及ぼしています。
子ども時代に逆境を経験した人は、さまざまな病気になりやすくなり、苦痛を和らげるために依存症や中毒に陥りやすくなります。それらが寿命を縮めるのは説明するまでもありません。
しかし、前述のとおり、たとえ喫煙や飲酒の習慣がなく食生活が正常であったとしても、逆境的体験は健康に多大なリスクをもたらし、老化を早めてしまいます。
ある女性は、「20代になったばかりだというのに、耐え難い苦痛で衰弱した老人のような体」でした。(p167)
免疫システムのストレス反応が停止しなくなる
わたしたちの身体は、視床下部-下垂体-副腎系(HPA軸)によって、ストレスに対処しています。
ストレスが生じると、アドレナリンやコルチゾールといったホルモンが分泌され、自律神経系の交感神経が優位になって逃げたり闘ったりできるようになり、免疫系からは炎症物質のサイトカインが生産され、戦闘態勢が整います。
しかし、子ども時代に慢性的な逆境にさらされると、このストレス反応が常にオンになったままオフに切り替えられなくなります。
たとえて言うなら、通常の場合はストレスが高くなるとストレスホルモンや物質が点滴され、危機が過ぎ去ると点滴は終了する。
ところが、幼少時の逆境のせいで脳にエピジェネティック変異が起きた子どもは、毎日、炎症を起こす闘争・逃走ホルモンの点滴液を大量に投与されているようなものだ。しかも、停止するスイッチはない。
…そうして何十年ものあいだ無意識に炎症を起こす物質に浸されているうちに、いずれ症状が爆発するためのお膳立てがなされるー過敏性腸症候群、自己免疫疾患、線維筋痛症、慢性疲労、類線維腫、潰瘍、心臓病、片頭痛、喘息、がんといった形で。(p66)
慢性的な逆境にさらされ続けると、身体は何がストレスで、何がストレスでないかを見分けられなくなり、バランスの取れた反応ができなくなります。
いつも警戒したままの子どもは、交感神経が過緊張して過覚醒になるか、限界を超えた反動でぼーっとした低覚醒に陥るかを揺れ動き、しばしば多動あるいは不注意なADHDと誤診されます。
最大限に警戒しつづけるか、シャットダウンして強制終了するかしかできないので、身体を休めるというごく普通のことができません。あたかもストレス反応の大きさを調整するボリューム機能が存在していないかのようです。
昼も夜も休みなくストレスと闘い続け、大量にコルチゾールやサイトカインにされされている身体が、慢性疾患へと蝕まれていくことは想像にかたくありません。
脳の慢性炎症が起こる
かつて、脳は免疫特権を持っていて、炎症から保護されていると考えられてきましたが、脳画像研究の進歩により、そうでないことが明らかになりました。
うつ病や慢性疲労症候群、統合失調症、アルツハイマー病など、さまざまな病気で、脳の免疫細胞であるミクログリアによる脳の慢性炎症が確認されているのはこのブログでも取り上げたとおりです。
脳の炎症にはいくつかの原因が絡んでいるようですが、子ども時代の逆境がリスクの一つだと確認されました。
「小児期のストレスが発達段階の脳に及ぼす影響は、ごく最近まで、私たちがありえないと考えていたものでした」とマッカーシーは語る。
「長期にわたる予測不能なストレスは、脳内に軽い炎症を起こすことがわかったのです」(p82)
うつ病だけでなく、他の脳関連の健康障害についてもメカニズムが明らかになりつつある。
たとえば、慢性疲労症候群(CFS)ー別名、筋痛性脳脊髄炎(ME)ーの患者の脳画像を分析すると、海馬や扁桃体を含む特定の部位が重い炎症を起こしていることがわかる。
CFSの自覚症状が強いほど、炎症ははっきりと目に見える。小児期に逆境を経験した人が慢性疲労に陥る確率が6倍であることも、これで説明がつくだろう。(p90)
ミクログリアは、正常に機能していれば、不要なニューロンだけを破壊し、清掃する役割を果たします。
しかし慢性ストレスに長期間さらされると、健康なニューロンを侵食するようになり、脳を内部から破壊してしまいます。
脳の構造が変化する
子ども時代のトラウマが、脳を内側から破壊し、脳の構造をさえ変えてしまうことは、さまざまな研究によって確かめられています。
磁気共鳴映像(MRI)検査を行うと、小児期のトラウマのスコアが高いほど、意思決定や事故調整に関わる前頭前皮質、不安を処理する扁桃体、感情や気分の処理、調整に影響を及ぼす感覚連合野や小脳といった脳の重要な処理領域で灰白質、すなわち脳の容積が明らかに小さい。(p81)
この分野の研究は、国内では、福井大学の友田明美先生が専門としています。
以前その研究を詳しく紹介しましたが、友田先生が述べていたとおり、こうした脳の変化は、障害というより適応だと思われます。
適応力に富む柔軟な子ども時代の脳は慢性的な逆境にさらされると、その異常な環境こそが日常だとみなし、その環境の中で生き抜いていけるよう、脳を最適化させ、異質なかたちで適応させてしまうのです。
その結果、子ども時代に逆境を経験した人は、かろうじて過酷な子ども時代を生き延びることができますが、思春期以降、そして大人になってから、その悲劇的な代償を支払わされることになります。
異常な逆境に特化して脳が最適化されるということは、他の大多数の大人とはまったく異なる脳へと成長してしまい、ごく当たり前の日常、一般的な社会に適応することが極めて難しくなるということだからです。
なお、友田先生の研究では、子ども虐待や不適切な養育(マルトリートメント)による影響がクローズアップされていますが、後述するように、家庭環境以外の原因で生じる逆境的体験においても同様のことが起こります。
デフォルトモードネットワークが凍りつく
とりわけ乳幼児期など、人生のごく早期に逆境にさらされると、脳は解離と呼ばれる特殊な対処を身に着けます。
わたしたちは、通常、ストレスに直面すると、「逃げる」か「闘う」かの二通りの反応で対処します。これはウォルター・キャノンによって命名された、有名な「闘争・逃走反応」です。
しかし例えば乳幼児期のように、闘ったり逃げたりできない状況で慢性的なトラウマにさらされると、「“凍りつき”と呼ばれる3番目の神経状態になります」。(p175)
この凍りつきとは、生物学的に言えば、脳の機能をシャットダウンし、麻痺させ、仮死状態になって生き延びようとする原始的な生存反応です。脳の機能は切り離され、停止してしまい、解離が起こります。
前述のとおり、小児期の逆境にさらされた人たちは、ストレスに対して闘うか、完全にシャットダウンするかしかできなくなります。このシャットダウンが凍りつき反応です。
わたしたちの脳は、通常、何もしていないときには、DMN(デフォルトモード・ネットワーク)と呼ばれるアイドリング状態になり、メンテナンスが行われています。しかし、日常的に凍りつき(解離)が起こると、その機能が正常に働きません。
度重なるトラウマで無力感が強まると、デフォルトモード・ネットワークが損傷を受ける。
子どもは家やいじめっ子から免れることができず、逃げることも闘うこともできない。だから自分のいる場所で「凍りつき」状態になる。感情が止まってしまうのだ。
…「脳の2つの回路が正反対の目的を持って動いている。子どもは両方を同時には実行できない。この2つの回路が一緒に機能して結合しようとするが、不可能なので、子どもの頭が寸断されるのです」(p194)
脳が凍りつき状態になると、感情が停止して認識できなくなる失感情症(アレキシサイミア)や、身体の感覚を意識できなくなる失体感症(アレキシソミア)が起こります。
さらに重度になると、現実感さえ感じられなくなる離人症が起こります。デフォルトモード・ネットワークが機能しないと、思考がまとまらなくなり、頭に霧がかかったかのような「ブレイン・フォグ」状態に陥ります。
日常的に解離状態にある子どもは、頻繁にぼーっとして「自意識に欠け」、不注意や健忘、さらにはアイデンティティの混乱に陥ります。(p194)
臨戦態勢をとるかシャットダウンするかどちらかしかできず、脳のメンテナンスを担うデフォルトモード・ネットワークが働かないことは、脳機能の破綻を招きます。
時限爆弾ー「わが初めこそわが終わり」
幼少期の逆境体験は心身に様々な影響をもたらしますが、ひとつ確かなこことがあります。
それは、たとえ目に見える影響が現れていない場合でも、体に時限爆弾がくくりつけられているかのように、刻一刻とタイマーが進んでいて、いずれ必ず爆発する時が来るということです。
この本のさまざまな経験が示しているように、たとえ子ども時代を後にして何十年経ったとしても、時限爆弾のタイマーは止まってくれません。
ローラやジョン、ジョージアの場合と同じく、カットの話は、過去が何十年ものあいだ静かな時限爆弾のごとく私たちの中で時を刻んでいたことを物語っている。
そして設定された時間になると、体は過去を忘れていないことを知らせる細胞単位のメッセージを発するのだ。(p45)
子ども時代の逆境的体験の影響は、中年以降になって突然表れることもあります。しかし、たとえ突然病気になったように思えたとしても、水面下ではずっとタイマーが時を刻んでいて、来るべき時が来たというだけです。
フェアウェザーはこう付け加える。「炎症や自己抗体が器官を傷つけるには、ストレスのきっかけとなる出来事から何週間、何ヶ月、場合によっては何年もかかります。
12歳で慢性ストレスを受けていたとしても、それによって引き起こされた免疫の損傷が診断のつく疾患となるまでに30年以上かかるケースも少なくありません」。
したがって本人はもちろん、医師がストレスを受けていた子ども時代と成人後の病気の関係を見抜けなくても無理はない。(p148)
医者はしばしば、発症する直前の出来事が病気の引き金だとみなしますが、そうではありません。決壊するダムのように、ずっと蓄積していたダメージが最後のひと押しで限界を超えただけなのです。
子ども時代の逆境的体験の時限爆弾のタイマーは、必ずしも中年になるまで待ってくれるとは限りません。
たとえば、同じ慢性疲労症候群にしても、中学・高校ごろの十代に発症するケースと、中年以降に発症するケースがあります。他の自己免疫疾患や脳疾患もまたしかりです。
「発達性トラウマ障害」の研究が示しているとおり、ACEスコアの高い人たちは、成人するまでもなく、10代のうちに原因不明の体調不良を多数発症し、難治化する傾向があります。
この本によれば、より深刻な子ども時代の逆境にさらされてきた人たちが、成人するのを待たずして、10代早期に崩壊してしまうことには、はっきりとした生物学的理由があります。
ちょうどその時期に、脳内のニューロン同士をつなぐシナプスの刈り込みが加速するのです。本来それは、思春期を迎えた脳を最適化するために起こりますが、逆境的体験を抱えた子どもたちにとっては時限爆弾のタイマーとなります。
だが、小児期のストレスのせいで、すでに多くのニューロンやシナプスが除去されている場合、思春期になって自然の刈りこみが始まり、野球や歌、詩といった特定のスキルを磨くことに集中できるように脳が不要なニューロンを取り除かれる際に、必要以上の刈りこみが行われる恐れがある。(p85)
1、2年前まではまったく元気であっても、高校や大学になってはじめてうつ病や双極性障害の兆候が表れる若者が多いのは、おそらくこのためだと考えられる。(p87)
もともと逆境的環境で育ってきた人が、中学や高校で、突然心身のバランスが崩壊し、人生が破綻してしまうのは、単に思春期特有のストレスや、学校や家庭で直面する問題のせいではない、ということになります。
確かに、そうした子どもたちが思春期を迎えて経験する極度のストレスは、ダムが決壊する最後のひと押しになりますが、それ以前に脳内ではニューロンの侵食が進んでいて、限界すれすれの状態にあるのです。
言い換えれば、問題の根は幼少期の逆境的体験によってセットされた時限爆弾にあるので、たとえもし思春期にストレスの少ない生活を送っていたとしても遠からず発症は免れなかっただろう、ということです。
思春期にシナプスの刈り込みが加速することは生物学的なタイマーで定まっているので、思春期特有のストレスが引き金にならなくとも、遅かれ早かれ、水面下で進んでいたニューロンの減少が崩壊を招いたことでしょう。
この本に出てくるスティーブンという男性は、子ども時代の逆境体験を抱えていましたが思春期ごろまでは成績優秀で将来を期待されていました。
しかし、突然、物忘れが激しくなり、やるべきスケジュールをこなせなくなっていきました。テストの成績だけは優秀でしたが、そのほかの日常生活がまともにまわらなくなりました。
彼は後に学生のカウンセラーになりましたが、自分の経験を振り返って、こう述べています。
それまでずっと抑えてきた子が、この年齢になって、もうこれ以上は無理だというのがわかるんです。
物ごとが崩壊しはじめる。でも、本人には何が起きているのかわからない。ぼく自身がそういう子どもでしたから。(p90)
彼は注意欠陥障害(日本では不注意優勢型ADHD)と診断されたそうですが、おそらく、かつての記事で取り上げた、トラウマの海馬に対する遅延性の影響が出ていたのだと思います。ADHDではなく、思春期のシナプス刈りこみによって脳の機能の欠落が進行していたのです。
スティーブンが、そのとき「物ごとが崩壊」し、「何が起きているのかわからない」と感じたのも不思議ではありません。単に心理的な思い込みでそうなっているのではなく、脳の中の必要なニューロンの結び付きそのものがごっそり消えてしまっているのですから。
ローラもスティーブンも、しばらくのあいだは何の問題もないように見えるだろう。家庭での出来事を誰にも話さず、学校では笑顔で過ごし、勉強もがんばる。
ところが思春期を迎えると、脳の中で通常の発達期の刈りこみが行われ、不要なニューロンが取り除かれる。
すると、正常に機能する脳回路をつくるのに必要なつながりが欠けた状態で、気分の調整、危険の察知、生存といった働きをこなそうとする。
その結果、日常生活のさまざまな出来事に対処することがきわめて困難になる。(p157)
それまで順調であるかに見えた10代の若者の頭の中で、まさか文字通り日常生活に必要なニューロンの結び付きがなくなっているとは本人も周囲の大人も気づくはずがありません。そのような体験は、想像できる範囲を超えています。
慢性的な逆境で育ってきた人は、傾いた土台の上に塔を建てているようなものです。一番下にある小児期の体験という土台の傾きが大きいほど、いつか訪れる崩壊は早くなります。
ギリギリのバランスでブロックを積み上げていくゲームのように、一見バランスが保たれているようでも、ひずみは蓄積され続け、刻一刻と崩壊かる可能性が高まっていきます。
テロメアの研究が示していたように、わたしたちの人生の時計は、幼少期の体験に影響されています。人生の崩壊を告げる時限爆弾のタイマーは、人生のはじまりの逆境的経験によってセットされるのです。
フェリッティが述べているように、「幼年期や小児期は終わることなく、乾いていないセメントに残る子どもの足跡のように一生消えない」。
あるいはT・S・エリオットが『四つの四重奏』で書いているように「わが初めこそわが終わり」なのだ。(p52)
「予測不能な慢性有害ストレス」(CUTS)
こうした子ども時代の逆境的体験がもたらす脳や身体への破壊的な影響は、最初のうち、子ども虐待とのつながりで研究されてきました。
というのも、ACE研究の質問表は、おもに機能不全家庭や虐待の有無を質問するものだったからです。
しかし時経つうちにACE研究の不備が明らかになり、他のさまざまな子ども時代の逆境体験でも同様の影響が及ぶことがわかってきました。
たとえばこの本では、医療逆境体験(メディカルトラウマ)のために長期にわたる深刻な影響にさられた例が載せられています。
子どものころ、スティーブンス・ジョンソン症候群の拷問のような激痛のため、意識が解離して「自分が体から分離するような感覚」になり「私と体は完全に分かれた」と述べるミシェルは、若くしてありとあらゆる難病に冒されました。
ミシェルが子ども時代に経験した逆境は、家庭とは無関係だった。それでもストレスは計り知れず、そのストレスが発達段階の免疫システムや細胞に与えた影響も深刻なものだった。(p62)
医療トラウマによる心身の複雑な後遺症は、ヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンなど、他のトラウマ専門医の著書でも詳しく取り上げられていました。
また、競争社会の学校生活における極端なストレスやいじめが、極端な「逆境的学校体験」となって、人生を破壊することもあります。
公立・私立の進学校の多くが「ストレス工場」と揶揄されるのも無理はないだろう。
こんにちの若者の多くが抱える学校ストレスは、「逆境的学校体験」と考えるべきかもしれない。(p188)
学校の過剰なストレスによって心身に壊滅的な害が及ぶ現象は、このブログの初期のテーマであった小児慢性疲労症候群、別名「学校過労死」の研究によって裏づけられています。
学校生活によって引き起こされる慢性疲労症候群が、今回考えている小児期逆境後症候群に当てはまることは、以前考察しました。
虐待、機能不全家庭、事故、病気、学校生活など、人によって子ども時代のトラウマはさまざまです。ひとつとして同じ逆境的体験はありません。
それでも、異なる逆境的が似た症状を引き起こすのは、ストレスに対処するための体の機能はみな同じだからです。たとえば、虐待によって凍りついた人も、病気の激痛で意識を切り離した人も、同じストレス反応を用いて逆境に対処しています。
こうして、トラウマの詳細は違っていても「発達性トラウマ障害」ないしは「小児期逆境後症候群」と総称される似通った心身の破壊的な問題が引き起こされます。
子ども時代の逆境はそれぞれ異なるとはいっても、後の人生に深刻な後遺症を残すような逆境的体験には、大まかに言って2つの共通点があります。
一つ目の共通点は、極めて慢性的で長期にわたる、ということです。もし逆境がほんの一時的なものであれば、これほど多彩な心身に及ぶ害は引き起こされません。
この本の中でハーバード大学教授で児童発達研究所のジャック・ションコフ所長は、こう説明していました。
だが、有害なストレスが発生するのは、周囲に心を落ち着かせて支えてくれる人間がいないために子どものストレス反応システムが活性化し、その状態が長期間続いて、「基本的にそれが子どもにとって普通の生活になった場合だ。
悪い出来事が起きたときのストレスではなく、発達段階の脳回路を破壊して体を蝕むシステムが慢性的に活性化することによるストレスである」。(p103)
前述のとおり、子ども時代の逆境による脳の変化は一種の適応です。逆境が一時的ではなく慢性的で、あまりに日常的なものになってしまい、そこに適応するしか生きていくすべがないとき、子どもの脳と身体は異質な発達を遂げます。
大人になってから一過性のトラウマを経験した人と、子ども時代に慢性的なトラウマを経験した人では、症状も治療成績も大幅に異なる、という点は前回の記事でも詳しく書きました。
二つ目の共通点は、予測できないストレスである、という点です。この本では、「予測不能な慢性有害ストレス」(CUTS)と呼ばれています。(p104)
以前の記事で考えたように、予測できる痛みは、予測できない痛みよりもストレスが強いことがわかっています、あたかも肉食動物と同じ檻に入れられるかのような、いつ傷つけられ、いつ襲われるかわからない生活を送ると、常に警戒していなければならないからです。
「先行き不透明」は「確実な痛み」よりストレスが高い、英研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
「痛いかも」の方が「痛い」よりストレスが大きい|WIRED.jp
幼少期に身につける不安定な愛着のうち、最も複雑な「無秩序型」と呼ばれるタイプや、その延長線上にしばしば発症する解離性同一性障害(DID)、いわゆる多重人格が、予測できない親のもとで育った子どもに多いのは不思議ではありません。
あるときは愛情深く振る舞うのに、別の時は平気で子どもを虐待するような支離滅裂な親は、「予測不能な慢性有害ストレス」(CUTS)の最たるものだといえます。
この本にも、「父親の行動はまったく予測がつかなかった」と述べる女性の経験が含まれています。彼女は18歳になるころには深刻なうつ病にかかり、その後30年かけて進行していきました。(p77)
子ども時代の逆境的体験には、他にもさまざまな要素が複雑にからみあっています。親子関係から慢性的なストレスが生じる場合でも、必ずしも両親の育て方に責任があるケースばかりではありません。
たとえば、子どもが遺伝的な感受性の強さを持っていると、通常よりも逆境に対して過敏に反応し、深刻な害を被りやすくなります。
ジョージアのエピソードは「不安遺伝子説」と「脆弱性遺伝子説」を裏づけている。なかには、人よりも何かがよく見えたり、より多くを察したり、理解したり、感じたりする子どももいる。
まさにこうした子どもたちが幼少期の逆境によって心に深い傷を負い、大人になってから切迫した心身の症状に見舞われるのだ。(p120)
以前詳しく書いたとおり、こうした敏感な子どもが持つ感受性の遺伝子は、良い経験にも悪い経験にも敏感にならせます。逆境的な環境で育てられるとトラウマを抱えやすく、望ましい環境で育てられれば、より健康に育つことがわかっています。
子どもの感覚過敏は、特定の遺伝子によってのみ生じるとは限りません。妊娠中の母親が慢性的なストレスにさらされると、赤ちゃんが大量のコルチゾールにさらされ、神経系が生まれつき過敏になるという研究もあります。(p176)
生まれつき自閉スペクトラム症の傾向を持っている人は、感覚過敏と認知特性のゆえに、ごく普通とみなされている環境でもトラウマを被りやすくなります。
また親世代のトラウマが、DNAのエピジェネティクス的な変化によって受け継がれる世代間トラウマも確認されています。生まれつき、親の経験した逆境を受け継いでしまうのです。
さらに、たとえ虐待的な親であっても、その親自身が、かつて何かのトラウマにさらされた被害者である、という世代間連鎖がみられることも少なくありません。
ちまたで言われる「毒親」という言葉で片付けられるほど、小児期の逆境体験は単純ではないのです。
加えて、この本でまる一章を割いて扱われている逆境的小児期体験の別のリスクは、ただ「女性であること」です。
女性のほうがPTSDを抱えやすく、自己免疫疾患や慢性疲労症候群、線維筋痛症など原因不明の疾患になりやすいことはよく知られていますが、その傾向はACE研究でも裏づけられています。
予想外の厳しい結果に、フェアウェザーはACEスコアが「2」以上の女性と自己免疫疾患の発症確率の関係は報告しないことにしたと打ち明ける。
「ACEスコアが高い人にとって、相関関係はきわめて大きな意味を持ちます。だから、誰にも信じてもらえないと考えたんですーこれほど極端な数字は論文に掲載されませんから」(p143)
この本では、男性よりも女性のほうが、はるかに子ども時代の逆境的体験の後遺症を抱えやすい理由について、生物学的な身体のつくり(セックス)と、社会的なストレスにさらされやすい文化的要因(ジェンダー)の両面から詳しく考察されています。
このブログでは、過去の記事で考察したので、詳しい説明はそちらに譲ります。
実際には、男性も女性も、人によってかなりの生物的な個体差があり、いわゆる男性ホルモンが多い女性もいれば、女性が受けやすいようなストレスに慢性的にさらされて育つ男性もいます。
ですから、男女差はあくまで傾向にすぎないことを覚えておく必要があります。中には女性がなりやすい病気にばかり頻繁にかかる男性もいれば、男性に多い攻撃性や衝動性に悩まされる女性もいる、ということです。
子ども時代の逆境的体験の性質を考えるにあたり、ACE研究が明らかにできることにはどうしても限界がある、ということを覚えておかねばなりません。
ACE研究は、過去の逆境的体験をACE質問表によってスコア化するという、いわゆる後ろ向き研究の手法をとっています。そのせいで、ACEスコアは過去の記憶の正確さに左右されてしまいます。
わたし自身もそうですが、10代以前の記憶がほとんど欠落している人の場合、実際のところ何があったかを知るのが難しいため、ACE研究の質問用紙ではスコアが低く出てしまうはずです。
おそらく、過去のトラウマの多くを記憶している人(とらわれ型愛着やPTSDの傾向が強い人)はスコアが高めに出て、過去のトラウマを忘却している人(回避型愛着や解離の傾向が強い人)はスコアが低めに出るというバイアスがかかっています。
あやふやで改変されやすい過去の記憶の想起に影響されずに、小児期の逆境が健康にもたらす本当の影響を調べるには、現在進行系で逆境に直面している子どもたちを追跡研究するしかありませんが、倫理的な意味で限界があるのは言うまでもありません。
ですから、ACE研究の意義は、細かい部分の正確さではなく、17000人以上の大規模なデータから、子ども時代の逆境的体験と成人後の難病に明らかな相関関係があるという事実を明るみに出したことにあるといえます。
「すべての人間や動物が無力になったわけではなかった」
では、ひとたび子ども時代に慢性的な逆境を経験した人たちは、もう二度と取り返しがつかないのでしょうか。ひとたび脳が誤って配線されてしまったら、いつか来る崩壊をただ甘んじて待つしかないのでしょうか。
この本の前半部分の過酷な研究結果の数々を読んでいると、そんな気分になってしまいますが、後半の治療法の研究についての記述は、それでも希望があることを物語っています。
ヴァン・デア・コークの身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法に載せられている様々なエピソードのように、重いトラウマ症状から回復した人たちが現にいることは、脳の萎縮やニューロンの欠落が、回復可能な障害であることの証拠です。
深刻な脳のダメージを受けていても、なお回復が可能なのは、わたしたちの脳に一生涯備わっている可塑性(柔軟に変化する性質)によります。
脳の可塑性が最も高いのは子ども時代から思春期です。10代のころに逆境に適応して脳が変化してしまうのは、この時期の可塑性の高さが裏目に出た結果だともいえます。
しかし大人になって以降も、脳の可塑性を引き出すことは可能であり、大半の心理療法はこの可塑性を引き出すことで脳を回復させています。
別の記事で考えたように、難治性の脳疾患の代表ともいえる統合失調症は、シナプスの刈り込みが強くなりやすい遺伝子などの影響で、思春期特有の脳の可塑性のブレーキが失われた結果、思考に必要な脳機能まで刈り込まれてしまうことで発症するようです。
小児期逆境を経験した人たちも、すでに見たとおり、思春期のシナプスの刈り込みによって、必要な脳機能まで失われます。小児期逆境によって発症する症状(主に解離性障害)が、しばしば統合失調症と誤診されてしまうのは、おそらくこのためでしょう。
しかし、両者は部分的に似ていますが、解離新時代―脳科学,愛着,精神分析との融合によると、とりわけ予後が異なっています。
端的に言えば、精神病の代表ともいえる統合失調症は、一般的に時と共に人格の崩壊に向かい、予後も決してよくない。
他方、解離性障害は社会適応の余地を十分に残し、また年を重ねるにつれて症状が軽減する傾向にある。
両者は全く別物であるというのは、この予後の観点から特に言えることなのだ。(p123)
シナプスの刈り込みという観点からすれば、統合失調症は脳の可塑性のブレーキそのものが失われているので、思春期以降も有無を言わさず必要な脳機能が失われていきます。薬物療法で進行を遅らせることはできても、トラウマ治療の心理療法では治療できません。
他方、小児期逆境の後遺症の場合は、もともとトラウマによるダメージがあるとはいえ、シナプスの刈り込みそのものは正常で、思春期を過ぎれば変化が落ち着きます。神経可塑性を引き出す適切な治療を受ければ脳機能を回復していける、ということになります。
以前の記事で書いたように、脳の神経可塑性を応用した治療の先駆者ともいえるポール・バキリタは、自分の父ペドロや他の当事者の回復事例を調べ、「2パーセントの神経組織が残存するだけでも機能を回復できるか?」と題する論文を書きました。
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線にはこう書かれていました。
父ペドロは、大脳皮質から脳幹を経て背骨に至る神経の97パーセントを失った。
また、シェリルは、医師の診断によれば前庭器官の97.5パーセントにダメージを受けていた。
さらに他の症例は、神経組織の2パーセントが残存していただけでも、失われた機能の回復が可能であることを示していた。(p370)
この本の著者のノーマン・ドイジは、脳の可塑性を利用して失われた機能を回復させる方法として様々な治療法を挙げています。その中には、たとえばマインドフルネスやボディワーク、ニューロフィードバック、EMDRなどがあります。
これらの治療法は、今回読んだ 小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)の後半でも小児期逆境後症候群の治療法として挙げられていました。
つまり、トラウマ治療のために研究されてきた治療法の多くは、実際には単なる心の傷を癒やすものではなく、神経可塑性を引き出すことで、脳の配線を組み変え、小児期の逆境体験の後遺症として生じた脳の変化を治療しているのです。
興味深いことに、この本によると、社会理論家のマルコム・グラッドウェルは、ビジネス、科学、政治で活躍した人たちの経歴を調べ、10分の1の割合で小児期のトラウマがプラスに転じたケースがあることに気づいたといいます。(p97)
この10分の1という数字にどのていど信憑性があるのかは疑問ですが、この記述で思い出したのは「学習性無力感」についての研究です。
過去の記事で何度か扱ったように、心理学者のマーティン・セリグマンとスティーヴン・マイヤーは、動物を使った実験で、有名な学習性無力感という現象を発見しました。
彼らの研究によれば、身動きの取れない環境に入れられ、繰り返し電気ショックなどの痛みを経験させられた動物(この体験は「逃避不能ショック」と呼ばれる)は、次第に無力感を学習し、逃げる自由が与えられても逃げようとしなくなります。
トラウマ専門医のヴァン・デア・コークやピーター・ラヴィーンは、こうした動物たちが陥った学習性無力感は、人間が小児期の慢性的なトラウマによって陥る凍りついた無力な状態と本質的に同じものだと論じています。
逃げることも闘うこともできない環境で繰り返し慢性的なトラウマを経験する、というのは、この記事でみた逆境的小児期体験(ACE)そのものです。
注目したいのは、この闘うことも逃げることもできない環境で繰り返しトラウマにさらされる体験をした動物、そして人間たちが、みながみな一様に学習性無力感に陥るわけではない、ということです。
マーティン・セリグマンはポジティブ心理学の挑戦 “幸福"から“持続的幸福"への中でこう書いていました。
人間に対して逃避不可能な騒音を与えたとき、あるいは動物に対して逃避不可能なショックを与えたとき、すべての人間や動物が無力になったわけではなかった。
規則性をもって、およそ3分の1の人(3分の1のラットと3分の1の犬も)が決して無力にならなかった。(p341)
逃げ場のない慢性的なトラウマにさらされると、人間も犬もネズミも、さらにはゴキブリさえも、学習性無力感に陥ります。これは心理的な現象ではなく、この記事で見てきたような生物学的な仕組みによるものです。
しかし、人間を含め、どんな動物でも3分の1の割合で決してあきらめない個体が存在しました。
これはあくまで実験室の観察なので、人間の子どもが経験する、何年も続く幼少期の逆境的体験の場合は、もっと比率が落ちるのかもしれません。もしかすると、先ほどマルコム・グラッドウェルが述べていたような10分の1に近づくのでしょうか。
学習性無力感の研究が示しているもう一つの事実は、ひとたび学習性無力感に陥った動物でも、身体的な経験を通して逃げる方法を教えられれば、回復することが可能だということです。
ヴァン・デア・コークは、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、この研究がトラウマの治療法を構築する助けになったことを述べていました。(p57-59)
学習性無力感の研究は、小児期逆境体験(ACE)にさらされても、決してあきらめない人、回復を遂げる人が存在する、ということを生物学的に裏づけています。
過去の逆境を経験した人が、トラウマの後遺症と格闘しながらも人間的に成長していく現象は「心的外傷後成長」(PTG)と呼ばれています。
そのような例として、セリグマンは前述の ポジティブ心理学の挑戦 “幸福"から“持続的幸福"への中で、生い立ちゆえの破壊的な衝動にあらがい続けたアメリカ合衆国大統領のアブラハム・リンカーンの生涯に注目しています。
アブラハム・リンカーンとウィンストン・チャーチルという、重度のうつ病患者の二人について考えてみよう。
彼らはともに自らの憂うつ症や自殺願望とつき合いながら大変よく機能した人間である(リンカーンは1841年1月に自殺寸前のところまでいった)。
ひどく落ち込んでいるときでも、彼らはともに極めてよく機能することを学んだのだった。(p100)
ドナ・ジャクソン・ナカザワも、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)の中で、小児期の逆境を経験しても偉大な業績を挙げた例としてアブラハム・リンカーンを挙げていました。
子ども時代に破壊的な逆境を経験し、その後の人生で心身の多種多様な問題に苦しめられたにもかかわらず、決してあきらめることなく創造的な人生を送った人たちがいることは、以前の記事で考察しました。
創造的な仕事を成し遂げる人のほとんどは、幼少期から例外的なほど恵まれた環境で育ち、周囲の手厚い支援によって才能を開花させています。
しかし、たとえばスティーブ・ジョブズのように、少数ながら悲劇的な生い立ちを乗り越えて才能を開花させた人たちがいます。それらの人たちは幼少期の逆境的経験による後遺症を免れたわけではありませんが、決してあきらめませんでした。
学習性無力感に陥る大多数の動物と、決して陥らない少数の動物を分けるのは何なのか、小児期逆境に屈してしまう大多数の人と、決して屈することのない少数の人を分けるのは何なのか。その答えはわかりません。
でも、だれがあきらめていない人かを見分けるのは可能です。
少なくとも今この記事を読んでくださっている人は、あきらめていないからこそ、情報を調べているのだと思います。そのこと自体が、学習性無力感に屈していないことの証拠です
小児期逆境によって人生を破壊された人のほとんどは、解決策を探すことさえあきらめてしまいます。一方で、少数ながら、なんとかして活路を見出そうとあがき続ける人がいます。決してあきらめなかった「二匹目のカエル」の寓話のように。
あきらめず解決策を探し続けるのは、先ほど出てきたジョージアと同じ確信を持っているからでしょう。彼女は機能不全家庭で育ち、若くして変性円板疾患、うつ病、線維筋痛症を発症しましたが決してあきらめませんでした。
ジョージアは両親が示したものとはまったく異なる愛し方や生き方があるにちがいないという「直感めいた確信」を持つようになった。
「そのことに気づかなかったら、人生に生きがいを見出していなかったかもしれません」(p119)
ジョージアは感受性が鋭く、その性質のせいでつらい幼少期を送ったが、創造的な感受性のおかげで、人生はもっと違うものだという「直感めいた確信」を持つことができた。(p120-121)
ジョージアは、自分が若いころから経験してきた逆境、そして多種多様な病気が、決してあたりまえのものではなく、抜け出す方法があるに違いない、と気づくことができました。
本当の人生を味わいたいと決意した彼女は、週一回のペースで一年以上ソマティック・エクスペリエンスのセラピストのもとに通い続け、持ち前の感受性によって自分が知らなかった生き方を見つけることに成功しました。(p260)
この本の著者のドナ・ジャクソン・ナカザワも、若い頃から多種多様な自己免疫疾患を発症しましたが、原因不明や遺伝といった つかみどころのない説明には納得せず、当事者またサイエンスライターとして原因を探り続けました。
その集大成として書かれたこの 小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)は、同じようにあきらめず原因を探り続けてきた人にとって、きっと役立つ一冊です。
正直な感想を言えば、この小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)は、前半部分の疾患のメカニズムの解説は見事ですが、後半部分の治療法の解説はやや中途半端でまとまりを欠いている印象を受けました。
筆者のドナ・ジャクソン・ナカザワが医療資格は持たない当事者側の人間であり、まだ回復には至っていないことからすると仕方ないのかもしれません。今後の著書に期待したいところです。
最後に、この本に挙げられている治療法について、もっと詳しく知りたいときに役立つ参考書籍を挙げておきます。
■ソマティック・エクスペリエンスについて
トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復
■EMDRについて
過去をきちんと過去にする:EMDRのテクニックでトラウマから自由になる方法
■マイクロバイオーム(腸内細菌)について
失われてゆく、我々の内なる細菌
■ニューロフィードバック、マインドフルネス、太極拳やヨガなどのボディワーク、および他のさまざまな治療法について
脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法
■ACE研究の詳細について
ACE研究についてより詳しく知りたい方は、小児科医ナディン・パーク・ハリスによるTED動画もどうぞ。
ナディン・バーク・ハリス: いかに子供時代のトラウマが生涯に渡る健康に影響を与えるのか | TED Talk
「子ども時代のトラウマが寿命を20年縮める」小児科医が驚きの実態を指摘 - ログミー
わたしはこの本を読み終わったとき、自分の通ってきた人生の道筋をもう一度たどりなおす壮大な旅をしたかのような気分になりました。
このブログをこれまで読んできてくださった方には、ぜひ読んでほしい本、わたしが待ち望んだ一冊です。自分の身に起きたことを知り、人生を取り戻すための多くのヒントが得られるでしょう。