解離のある人は、頭や体の中の異常な感覚にひどく悩まされることがあります。このような感覚の異常を「体感異常(セネストパチー)」といいます。
…感覚の異常は、主に頭部や脳、皮膚、手足の指などに感じることが多いといえます。体の深部、内臓に異常を感じることもあります。
…触覚や皮膚感覚、体内の深部感覚に違和感や異常が現れることもあります。なにかが見えるわけではなく感覚だけなのですが、その気持ちわるさや不気味な状態に本人は苦しみ、もがいています。(p30)
感覚はさまざまです。むずむず動く感じや引っ張られる感じ、つまっている感じ、かきまぜられる感じなどで、不快な感覚に悩まされます。(p31)
解離の当事者は、「体感異常」(セネストパチー)と呼ばれる、奇妙で慢性的な身体の不快感や異物感に悩まされることがあります。解離は様々な慢性疾患で起こる現象ですから、解離の診断を受けていない人にも、体感異常に悩まされている人は多いでしょう。
冒頭の解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)が物語るように、体感異常はあまりに不快で、本人にとっては切実な問題です。
にもかかわらず、医者たちから、しばしば検査で異常が出ないことを理由に、「思い込み」「気のせい」「神経質」、さらには「妄想」などとみなされてきました。
わたし自身、10代のころからひどい体感異常に悩まされてきたので、前々から記事にしたいと思ってはいましたが。最近読んだ幾つかの本のおかげで、ようやく理解がまとまり形にできました。
これまで誰にも理解されない原因不明の不快感を独りで耐え忍んできた人にこそ、この記事を読んでいただければと思います。
はっきり言えるのは、間違っているのは不勉強な医療関係者のほうであり、あなたではない、ということです。どれほど奇妙に思える感覚であっても、体感異常は脳科学から説明できる現実の感覚であり、決して妄想ではありません。
周りの人たちが何と言おうと、自分は正当な苦痛を訴えてきたのだ、という自尊心を取り戻す助けになれば幸いです。
これはどんな本?
今回の記事では、以下のいくつかの本を中心に、多様な文献を参考にしています。
まず、さまざまな体感異常の症例や、基本的は概念については、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論など柴山雅俊先生の臨床的観察から引用しています。わたしの考察の出発点であり、当事者の言葉に真摯に耳を傾けて書かれた貴重な資料です。
自分の身体の中に異物があると感じたり、異常な感覚に悩まされたりするメカニズムについては、前回の記事でも大いに参考にした 私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳から考察しています。
そのほか、このブログで何度も引用している、トラウマ医学の専門家たちの本も参考にしました。
今回の記事の内容は、単独でも読めるように構成していますが、ひとつ前の記事の内容を発展させたものなので、そちらも併せて読んでいただくとわかりやすくなります。
前回の記事で取り上げた、自分の足が異物に感じる症状や、自分の内臓が腐敗しているかのように感じるコタール症候群、身体の中に藁が詰まっているだけのように感じる離人症は、いずれも今回の記事で考える解離の体感異常と同じものです。
身体的症状としての解離
解離の症状のなかに、原因不明のさまざまな身体症状が含まれることは、これまでも、さまざまな専門医たちが注目してきました。
たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際では、解離の身体症状について、こう説明されていました。
これらの解離症状は心理的、または精神表現的(psychoform)であり、同時に、感覚運動的または身体表現的(somatoform)になることで、さらに複雑化します。
精神表現性の症状は心的機能の解離であり、圧倒的感情、集中困難、健忘、記憶の混乱、信念体系の変化として表出してきます。
身体表現性の解離症状は、身体感覚、運動、および五感についても、感覚のゆがみ、生理的覚醒の不調、身体感覚的断片としてのトラウマの再体験として表出します。
Van der Hartらは、精神表現的および身体表現的症状は同じコインの裏表としてとらえるべきであると指摘しています。
「(なぜなら)それらはともに、心(psyche)と体(soma)という不可分の統合体の根底でおこっている解離過程のあらわれだからです」。
身体表現的症状および精神表現的症状の複雑な混合は、トラウマによる心身両面への影響を直接に扱う治療的アプローチを必要としています。(p5)
少し眺めの引用でしたが、要点はシンプルです。
一般に、精神科的な問題と思われがちな解離は、「身体感覚、運動、および五感についても、感覚のゆがみ、生理的覚醒の不調、身体感覚的断片として」の身体的症状も伴います。
こうした身体的症状は、心の問題が体に出ているにすぎない、いわゆる身体表現性障害のようなものではありません。
解離の研究の第一人者であるヴァン・デア・ハートが引用文中で述べているように、心と体は「不可分の統合体」であるがゆえに、解離の身体的症状は「同じコインの裏表」なのです。
最後の一文に示唆されているように、解離とは単なる心理的な問題ではないので、たとえば従来の心理カウンセリングのような心を対象にした治療法ではなく、「心身両面への影響を直接に扱う治療的アプローチ」が必要とされています。
解離の身体症状を理解するには、デカルトの心身二元論的な、心と身体は別物だとする時代遅れの精神医学のことは忘れ、心と身体は切っても切り離せない不可分の統合体であるという現代の脳科学に根ざして考えなければなりません。
さまざまな当事者の声を聞く
しかしながら、解離の当事者が訴える身体的症状の多くは、一般的な検査のほとんどで異常が出ないものだったせいで、安易に心理的な問題だとみなされてきました。
実際のところは、慢性疲労症候群や線維筋痛症がそうだったように、科学技術の限界や、検査の側の不備のために具体的な異常が見つかりにくかっただけですが、残念ながら、医師たちは、当事者の訴えより不完全な検査結果のほうを信頼してきました。
解離の身体症状についての研究が遅れていて、いまだに医者たちから詐病や演技のようにみなされてしまうのは、そもそも大多数の医者たちが、当事者の声を話半分にしか聞かなかったり、頭ごなしに否定してきたりして、取り合わなかったせいです。
わたしが解離の身体症状について初めて知るきっかけになった柴山雅俊先生の解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論では、序文に次のように書かれています。
これまで解離の症候学はその外的な眼、すなわ観察者的眼差しをもとに作られてきたように思う。
たとえば、行動にわざとらしいところがあるとみなされ、しばしば安易に疾病利得とか虚偽的などと修飾されることも多かった。
そこにある種の偏見がまとわりついていたであろうことは否定できない。そのような考え方は外部からの観察者の眼差しによって構成されたところが大きかったであろう。
私はむしろ疾病利得や虚偽性などは解離のどのような構造を背景に観察者がそれを感じるのかという点に関心があった。
これまでは、医療者の観察者的視点に対して、患者の当事者的視点すなわち主観的体験についてはあまり注目されてこなかったように思う。(p v)
柴山先生が指摘しているとおり、これまでの医学的研究のほとんどは、当事者の主観を軽視した医療者目線の解釈でした。あたかも実験動物を観察するようにして、医療者の独断的な推測で、病気の実態が品定めされていたのです。
患者が訴える奇妙な内容が、医者にとって意味不明だったり、検査によって証明できないことであれば、それは精神に異常をきたした患者の妄想だとみなされてきました。
しかし、今回取り上げる体感異常と類似性もある、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群、エクボム病)の発見者であるカール・エクボムが半世紀以上も前に気づいていたように、そうした理解しにくい奇妙な訴えにこそ真実が隠されています。
当事者たちが言えなかった症状
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によれば、体感異常(セネストパチー)という言葉が提唱されたのは、今から100年以上も昔、1907年のことでした。
1907年にデュブレDupre.E.らは一般感覚や体内の感覚の障害を主に訴える病態をセネストパチー(cénestpathie)と名づけた。
その感覚は、異様(étrange)で、得体の知れない(indéfinissable)、痛みというよりは辛い(pénible)感覚であった。(p110)
「異様」「得体の知れない」「痛みというよりは辛い」という表現は、体感異常の特徴をよくとらえています。体感異常の中には痛みを伴うものもありますが、大部分は言葉に表現しにくい、奇妙な不快感として現れます。
この奇妙な不快感を、当事者の実感がこもった具体的な表現に言い換えるとどうなるでしょうか。
柴山先生の別の著書解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)によると、解離の当事者たちへの聞き取り調査から、たとえば次のような訴えがあることがわかりました。
ふるえる…頭の中で脳がふるえる
つまる…血管の中に虫がつまる
固まり…頭の中に固まりがある
グチャグチャになる…頭の中がかきまぜられて
もれる…水や虫が体の穴からもれる
しびれる…脳がしびれたりゆるんだ感じがする
ねじれる…手がねじれているような気がする
はう…虫やアリが皮膚の下をはう
からまる…頭の中でつり糸がからまっている(p31)
たやすく表現できないような、ありとあらゆる奇怪な感覚に悩まされていることがわかります。無神経な医者たちを擁護するわけではありませんが、こうした症状がこれまでまともに取り合ってこられなかったのもうなずけます。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によると、体感異常がこれまで注目されてこなかったことには、当事者の側が、こうした症状をめったに口にせず周囲から隠してきた、という理由も関係しています。
これらの症状は多くの解離症状とともにみられるのが通常であって、体感異常のみを訴えるものではない。
またこれらの症状を自ら訴えることはほとんどなく、こちらが問診してはじめてその痛みを語ってくれることが多い。
身体の異常性について妄想的確信に至ることはなく、あくまで「そのような感じがする」といった程度にとどまる。(p112)
解離を含め、客観的な内省力を保っている体感異常の当事者たちは、気が狂っているとか、頭がおかしいと言われることを恐れて、自分の奇妙な身体経験についてほとんど話題にしようとしません。
はじめのうちは必死の思いで医師に打ち明けたとしても、否定的な反応が帰ってきたら、もしかするとこれは現実の身体の問題ではなく、自分がそう思い込んでいるだけなんだろうかと感じ、しだいに悩みを一人で抱え込むようになるでしょう。
もともと解離の当事者は、他者への強い不信感や、強い過剰同調性があるので、人から変だと思われたり批判されたりしそうなことは決して口にせず、自分の内部にしまいこんでいく傾向があります。
わたし自身、長年の信頼関係がある主治医に打ち明けたことがありましたが、言葉を選んでもあまりに奇怪な表現しか出てこなくて、主治医にうまく伝わっていない様子がすぐに見て取れたので、話すのを自分から諦めたことがありました。
体感異常が妄想と関連づけられるようになってしまったことには、もともと妄想的で他の人の顔色を気にしない人たちほど臆面なく不快感を医師に訴え、そうでない冷静な人たちほど頭がおかしいと思われるのを恐れて口に出すのをためらってきたという事情が関係しているはずです。
つまり、体感異常の当事者は、これまで医師が認知してきたよりも、はるかに多く存在しているはずです。事実、柴山先生が患者と信頼関係を築いた上で尋ねたところ、かなりの頻度で経験されている症状だとわかりました。
体感異常を解離の患者が自ら訴えてくることは稀であるが、解離の患者のうち約4割が体験している症状である。(p111)
体感異常の2つのタイプ
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によれば、柴山先生は、さまざまな当事者から症状を聞き取った結果、解離の体感異常は大きく二つにわけられる、と考えています。
それは、主に頭部や内臓に症状が出る「器官体感型」と手足に症状が出る「四肢知覚型」です。
そこで従来報告されてきた体感異常を身体部位によって器官体感型と四肢知覚型に分類することができる。(p111)
…ベリオスBerrios.G.Eは体感の異常を、内部器官が引っ張られたり、捩[ねじ]れたり、引きちぎられ、痛みを伴う「疼痛型」と、かゆみ、知覚過敏、感覚異常を呈する「感覚異常型」に分けているが、これも深部感覚の異常型と触覚の異常型ととらえることができ、われわれの分類に類似している。(p112)
この分類の妥当性を検証する前に、まずは、これら2タイプそれぞれの当事者の訴えを見てみましょう。
器官体感型ー頭や内臓の内部に感じる異物感
まず1つ目は、器官体感型です。柴山先生は、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中で、このタイプについて、こう説明しています。
器官体感型は頭部、腹部、胸部などにみられ、多くは身体の中心、中軸、中枢部分が冒される。
体内器官が大きくなったり、小さくなったり、捩[ねじ]れる、引っ張られる、緩むなど多彩な異常体感がみられ、ときにありありと視覚イメージを伴う。(p111)
器官体感型の体感異常の症状は、おもに、頭と内臓に表れます。身体の表面や皮膚ではなく、奥深く、手で触れることのできない深部に起こる症状です。
内臓が大きくなったり、小さくなったり、ねじれたり、引っ張られたり、緩んだりといった、さまざまな異物感や不快感に悩まされます。
しかし、そうした症状を訴えて内科的検査を受けても、検査結果は正常なので神経症だと判断されます。旧来の精神医学的な知識しか持っていない医者からは、気のせい、思い込み、妄想だと言われてしまうわけです。
柴山先生は、器官体感型の体感異常のうち、特に多いのは、頭に生じる違和感についての訴えだといいます。
器官体感型では頭部内に何か詰まったような感じがみられる。多くは固体であるが、液体や気体であることもある。それが大きくなったり小さくなったりする。
あるいは引っ張られたり、脳が掻き混ぜられたりするような感じがする。
…頭の中に感じる固まりは一個であることも複数個であることもある。固まりは膨らんだり、縮んだり、引っ張られたりする「薄い膜が張っている」と表現するものもいる。
また小石が転がるように固まりが動いたり、脳がグルンと回ったり、プルプルと動くなど運動感が表現されることもある。
ときに頭の中に液状のものを感じ、「頭の固まりの中から、シュワーッと炭酸水みたいなものが出てくる」と述べるものもいる。(p113)
頭の中に感じる異物感といっても、じつに様々な不快感があり、千差万別だということがわかります。
頭の中に固まりがあったり、液体を感じたり、しかもそれらが大きくなったり小さくなったり、流れたり漏れ出したり、膜で隔てられたりしているように感じます。
もちろん、こうした症状を訴えるとしても、文字通りそうなっていると確信しているわけではありません。あまりに不快で奇妙な感覚があるけれども、もし何とかして言葉で表現するとしたら、こんな表現になる、ということなのでしょう。
どれだけオブラートに包んで慎重に表現しようが、これほど常軌を逸した表現に聞こえてしまうのですから、解離の当事者が、信頼関係のない医者に体感異常を打ち明けるのをためらうのも当然です。
この頭の内部の極めて不快な異物感は、解離の他の症状とも関連性が見られるとされています。
「掻き混ぜられている」とか「グチャグチャになっている」などと訴える時には、思考促迫などの症状がみられやすい。
また脳が痺れた感じがしたり、緩んだ感じがしたりするなどの場合には、思考不全感や離人症状を伴いやすい。(p113)
まず、かき混ぜられている、グチャグチャになっている、といった比喩で表現される場合は、「思考促迫」、つまり以前にこのブログで紹介したような、ひっきりなしに考えやイメージが浮かび上がってくる思考の多動状態が多いようです。
他方、脳がしびれて麻痺している、緩んでいる、といった表現のときは、思考が働かず、脳に霧がかかったような状態(いわゆる「ブレイン・フォグ」状態)や、現実感が失われる離人症が見られやすい、とされています。
頭がグチャグチャとか脳がしびれている、といった表現だけ聞くと異様ですが、次から次に思考が湧き出るような状態に脳が掻き混ぜられているような感覚が伴い、思考が働かない状態に脳が麻痺しているような感覚が伴う、というのは、それほど健康な人の感覚からかけ離れた表現ではないはずです。
また、頭部だけでなく、内臓に出現する違和感も、同じ器官体感型の体感異常とみなせる特徴を有しています。
この本では、特に具体的な事例は挙げられていませんでしたが、内臓に違和感や不快感、異物感を感じる体感異常は、まったく珍しいものではないでしょう。
おそらく、かえってありふれすぎているがゆえに、精神科の臨床では、過敏性腸症候群や機能性ディスペプシア(いわゆる原因不明の胃腸症状につけられる病名)とみなされてしまっているだけです。
トラウマ専門医のヴァン・デア・コークが、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で書いているように、トラウマ患者が訴える多様な身体症状の中には、高い確率で胃腸をはじめとする内臓の違和感が含まれています。
明確な原因が見当たらない身体的症状は、トラウマを負った子供にも大人にも広く見られる。
腰や首筋の慢性的な痛み、線維筋痛症、偏頭痛、消化不良、痙攣性結腸/過敏性腸症候群、慢性疲労、喘息などが起こりうる。トラウマを負った子供は、そうでない子供よりも、喘息を起こす率が50倍も高い。(p164)
彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてではなく、身体的問題として認識する傾向にある。
腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。
神経性無食欲症(拒食症)の人の4分の3と神経性大食症(過食症)の過半数は、自分の情動的感情に当惑し、その説明にはなはだ手を焼く。(p165)
消化不良、痙攣性結腸、過敏性腸症候群、拒食症、過食症の人たちが、それぞれ多種多様な内臓の違和感や不快感に悩まされていることは言うまでもありません。
そうした不快感は、あくまで内科的にはこうした消化器疾患の過敏性の一部だとみなされがちですが、解離やトラウマ医学の観点からは、全身に現れる体感異常が胃腸に現れている例だとみなせます。
トラウマを負った子どもは、「喘息を起こす率が50倍も高い」という研究結果にも注目できます。喘息がすべてトラウマに由来しているわけではありませんが、原因不明の息苦しさは、胃腸症状と並んでトラウマ障害の主要な兆候のひとつです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアので説明されているとおり、解離を引き起こすようなトラウマ的状況では、内臓の反応もセットで生じるからです。
避けがたく致死的な状況では、は虫類の脳である脳幹が内臓に強い信号を送り、その結果、一部の内臓は過剰作動(胃腸系など)に陥り、他は収縮して停止(肺の細気管支や心臓の拍動など)する。
最初の例(過剰作動)では、胃けいれんや締め付けるような痛みまたはゴロゴロいう制御不能な下痢といった症状が現れる。
肺の場合は、苦しく息の詰まる感覚が現れ、慢性化すると喘息の症状になる場合がある。(p155)
「苦しく息の詰まる感覚」は、別の言い方をすれば、肺やおなかの中に異物感や固まりを感じて、息を吸っても奥まで入っていかない感覚、と表現されるかもしれません。漢方ではいわゆる「胸脇苦満」と呼ばれるものです。
また、息苦しさに伴う喉の異物感は、これまで「ヒステリー球」(ヒステリーとは解離の古い呼び名)とみなされてきましたし、漢方では「梅核気」と呼ばれてきました。のどに梅の種のような固まりを感じるつっかえ感のことです。
これら古くから医学のさまざまな分野で原因不明の訴えとされてきた異物感、不快感は、いずれも解離の研究からすれば、全身に表れうる体感異常が、局所的に表れた例であり、もっともな理由で説明できます。
四肢知覚型ー手足の表面を虫が這ったりねじれたり
ここまで見てきたのは頭や内臓の深部に不快感を感じるタイプでしたが、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によれば、臨床的にはもう一つ別のタイプが観察されると書かれていました。
それは、おもに手足にや体の表面に不快感を感じるという、四肢知覚型です。
それに対して、四肢知覚型は身体の抹消部分、つまり四肢の表面周辺に「虫が這っている」とか、「虫が動いているのがわかる」と訴えることが多く、ときにそれが全身に広がる。(p112)
こちらのタイプは、おもに手足の表面付近に、虫が這っているような不快感を伴います。
虫が這っているような不快感というと、近年よく知られるようになってきた、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群、あるいは改名後の名称ではウィリス・エクボム病)の症状とよく似ています。
むずむず脚症候群も、足だけでなく全身のさまざまなところに出る例が報告されているので、両者を症状だけで見分けるのは困難です。おそらく、原因は違えど、脳の似た部分の異常が生じている可能性があります。
しかしながら、先ほど引用した文中で柴山先生が述べていたように、解離の体感異常は「多くの解離症状とともにみられるのが通常であって、体感異常のみを訴えるものではない」ことから区別できるでしょう。
その一例とみなせるのが、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論で紹介されている16歳の少女バーベルの例です。
ドイツのツィリンガーZillinger,G.は、「慢性幻触症の問題について」と題する1961年の論文で16歳のバーベルの症例を報告しており、参考になる。
彼女の母親は夫に対して攻撃的で、両親は不仲であった。バーベルは母親との関係も悪く、幼少時から孤独な生活を送っていた。
16歳頃からバーベルは胸痛、動悸、めまい、発汗、腹痛など多彩な身体症状がみられるようになった。虫垂炎の術後には「体中のいたるところがムズムズ、チクチクする。皮膚の下に虫がいる」と言うようになった。
彼女の意識は清明であったが、大声で泣き叫び、興奮するようになった。ときには体をくねらせ、ひどい過呼吸とともに大声で叫ぶこともみられた。
…この症例は皮膚寄生虫妄想のように虫の存在を確信するといった妄想的態度は目立たず、不快な痛みや痒み、不快感などの苦悩が目立つ病態であり、「慢性幻触症」と診断することの妥当性はある。
しかし一方で、その病像と経過から、ヒステリー圏の病態とみなすこともできよう。(p117)
バーベルの場合、特徴的なさまざまな身体症状や、幼少期からの家庭背景などからして、解離の体感異常によるむずむず感だったと思われます。症状は一過性で、妄想的になったりはせず、三ヶ月で退院できたそうです。
文中にあったとおり、こうした症状は、古くは「寄生虫妄想」や「慢性幻触症」といった呼び名で、奇病として扱われてきましたが、その多くは、ヒステリー圏の、つまり解離症状による病態でしょう。
虫が這いずり回っているような感覚と訴えることが多いようですが、時代と文化によって表現には差があるので、いわゆる文化結合症候群、つまり文化の影響を反映して特徴が変化する解離症状の一種だと考えられます。
たとえば、15世紀から17世紀ごろには、自分の体がガラスのようだと感じる人たちがいたようですが、現代では同じ違和感を別の物質に例える人が多いでしょう。
前回の記事で見たとおり、オリヴァー・サックスは、自身の左足の感覚が変容したとき、大理石やチョークのようだと感じました。
何か不快極まりない感覚が生じているのは時代や文化を問わず本物ですが、その不快感をどのような表現で説明するかは、生まれ育った文化の概念や価値観が影響している、ということです。
自分の体が腐っているとか、朽ち果てている、死んでいる、などと感じるコタール症候群でも、その「妄想」の内容は、時代の文化の影響を受けている、と私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれていました。
妄想の具体的な内容は、患者本人の生育歴や文化的背景が関係しているというのが、コーエンの指摘だ。(p22)
エクセター大学のアゼム・ゼーマンも、同様の印象をグレアムに対して持っていた。グレアムの妄想は、精神は生きているが脳は死んでいるというものだ。
「コタール症候群に特徴的な妄想が、現代的にアップデートされているのです。脳だけが死んでいるという発想は……医療現場で最近出てきた脳死の概念に関係しています」(p23)
ここでは「妄想」と表現されていますが、これらの研究者たちは、自分の体が変質しているというコタール症候群の患者の訴えは、ただの思い込みだと考えているわけではありません。
脳の正中溝近辺の代謝が低下したために自己経験が変容した。おそらく自己感覚も大幅に失われたことだろう。
ただしそれだけなら、変容したなりに自分の言葉で語れるはずだが、代謝低下が前頭葉の他の領域にまで拡大したせいで、それもできなくなった。だからグレアムは脳が死んだと思い込んだのではないだろうか。(p30)
コタール症候群では脳の自己感覚に関わる領域の異変が見られるので、患者は間違いなく、奇妙で変質した現実の感覚を感じ取ってます。
コタール症候群以外の、解離や統合失調症や、他のさまざまな病気における体感異常の場合も同じです。その奇妙で不快で形容しがたい感覚自体は、思い込みでも気のせいでもなく、間違いなく本物、実態のある異常なのです。
しかし、コタール症候群や統合失調症の場合は、理性的、客観的な判断をつかさどる脳の領域まで異常が及んでいるので、身体の奇妙な感覚は、文字通り寄生虫が這い回ったり、文字通り体が死んだりしている証拠だと信じきってしまいます。
何もないところから思い込みが生まれるようなことはなく、まず奇妙で不快な感覚異常という事実があります。その上で、客観的思考力が欠けていて、その奇妙な感覚は絶対に寄生虫によるものだ、と確信している場合だけ妄想になります。
多くの医療関係者たちは、この区別がついておらず、妄想的な思い込みの部分だけを見て、そのきっかけとなっている体感異常まで心理的な妄想の産物だと早とちりしてしまうのでしょう。
しかし時代や文化によって表現の仕方が変わろうが、時には思い込みが強すぎる人がいようが、何とも形容しがたい不快感自体は本物であり、決して気のせいではありません。
変だと思われるのを恐れて、自分から感覚異常を打ち明けるのをためらう解離の当事者たちのように、感覚異常だけが生じている人たちも大勢いるはずです。
ポリヴェーガル理論から体感異常を読み解く
では、こうした得体のしれない体感異常は、どんなメカニズムで生じているのでしょうか。
まず、柴山先生が分類していた2つのタイプ「器官体感型」と「四肢知覚型」の妥当性を判断するカギとなるのは、近年のトラウマ医学の基礎をなしていると言える、スティーヴン・ポージェスが提唱した、「情動のポリヴェーガル理論」(polyvagal theory of emotion)です。
ポリヴェーガル(多重迷走神経)理論については、このブログの過去記事で何度も説明してきました。トラウマ研究の第一人者であるヴァン・デア・コークをはじめ、ピーター・ラヴィーンやパット・オグデン、日本の岡野憲一郎先生のような、解離の専門家の著書で繰り返し取り上げられている神経生理学の概念です。
以前にも引用しましたが、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によれば、ポリヴェーガル(多重迷走神経)理論は、自律神経系の複雑な相互作用が明らかにした理論です。
Porgesが「多重迷走神経理論」として述べたのは、副交感神経系と交感神経系間の複雑な相互作用でした。
それは、自律神経系に対して、それ以前の覚醒状態の議論より高度で総合的な見方をとるものです。
以前の覚醒状態の理論は、覚醒状態のすべての場合を交感神経系の関与するものとしていました。
Porgesの理論が示唆するのは、神経系は、バランスの観点より反応の階層性の観点からよりよく説明できるということです。(p38)
これまでの自律神経の理論では、よく知られているように、積極的な活動に関わる交感神経と、リラックスさせる副交感神経の二種類の「バランスの観点」しか考慮されていませんでした。
しかし、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンが説明しているように、ポリヴェーガル理論では、三種類の神経系が互いに作用しあう、「階層性の観点」から自律神経の働きを説明しています。
簡単に言うと、ポージェスの理論では、ヒトの場合、3つの基礎的神経エネルギーのサブシステムが神経系とそれに相関する行動、情動の総合的状態の素地になるとしている。(p118)
3つのサブシステムのうち、まず1つ目は「不動系」または背側迷走神経と呼ばれる、最も原始的だとされるシステムです。
この原始的システムの機能は不動化、代謝維持、シャットダウンである。活動の対象は内臓である。(p118)
このシステムは、内臓の基本的な代謝維持に関わっていて、無顎魚類、軟骨魚類、硬骨魚類、両生類、爬虫類、哺乳類といった幅広い種の生物にわたり、普遍的に存在しています。
2つ目は、よく知られた「交感神経系」です。
その機能は可動化および活動亢進(闘争か逃走など)であり、対象とするからだの部位は四肢である。(p118)
交感神経系は、活発な活動を促すシステムであり、手足の活動に関係しています。そのため、手足としての機能が存在する硬骨魚類、両生類、爬虫類、哺乳類などの種に存在します。
最後の3つ目は、これもよく知られている「副交感神経系」で腹側迷走神経とも呼ばれます。
この神経サブシステムが最も洗練されているのは霊長類であり、複雑な社会的、愛着行動を支配する。
これはいわゆる哺乳類の、または「高等な」迷走神経を調節する副交感神経系の分岐であり、神経解剖学的には、表情および発声を支配する脳神経に接続している。
最後に獲得されたこのシステムは、他者や自己に情動を一体となって伝えるのど、顔、中耳、心臓、肺の筋肉を無意識的に支配する。(p118)
副交感神経は、リラックスする以外にも、社会的コミュニケーションや親子の愛着行動に関わっており、特にコミュニケーション時に使われる顔やのど、さらには呼吸筋を調整しています。
難しく感じるかもしれませんが、要点を簡単にまとめるとこうなります。
■不動系(背側迷走神経)…内臓が対象
■交感神経系…手足が対象
■副交感神経系(腹側迷走神経)…顔やのどの筋肉、呼吸筋が対象
手足の不快感は交感神経の「凍りつき」
トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際でによると、わたしたちは、この三種類の神経系のバランスを調節することによって、さまざまな局面に対処することができます。(p124-134)
まず、日常生活のちょっとしたいざこざに対しては、「副交感神経系」が対処し、顔やのどの筋肉を自由に動かしてコミュニケーションすることで、円満に問題を解決します。呼吸もとても落ち着いてリラックスしています。
大きな危険にさらされると「交感神経系」が活性化し、手足が興奮し、戦ったり逃げたりできるように闘争・逃走反応が引き起こされます。
しかし危険から逃げられないことがわかると、最も原始的な「不動系」が活性化し始めます。不動系はいわば生体の急ブレーキであり、「凍りつき」や「擬態死」状態に持ちこむことで、万が一にも生き残れる可能性に賭けようとします。
「凍りつき」の状態では、交感神経系がまだ活性化していているところへ不動系が活性化しはじめます。アクセルとブレーキが両方かかっているようなものなので、筋肉は硬く張り詰めて、「恐ろしくて動くことができず、息をすることもできません」。(p132)
完全にブレーキがかかると、不動系が身体を支配しきってしまい、「擬態死」に陥ります。「心臓の拍動は減速して遅くなり、血圧は急激に低下し、筋肉の緊張は弱まり静止したように」なります。(p133)
この不動系が働き始めた後に起こる、「凍りつき」と「擬態死」が、解離の当事者が慢性的に陥っている状態です。
そして、ここまで見てきた、体感異常の2つのタイプは、「凍りつき」と「擬態死」のそれぞれに対応しているのではないか、と思われます。
体感異常のうち、「四肢知覚型」は、おもに手足の表面付近に不快感が現れるという特徴がありました。手足の感覚をつかさどっているのは交感神経系ですから、このタイプの体感異常は交感神経が活性化しているときに起こるはずです。
解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論では、四肢知覚型の体感異常の特徴についてこう書かれていました。
器官体感型とは異なって離人症状を伴うことは少なく、異常体感は触覚、痛覚領域に加え、虫がありありと見えるなどの錯覚・幻視がみられ、概してより知覚的である。(p112)
ここでは四肢知覚型の体感異常には、意識が鮮明でなくなる離人症のような強い解離症状が伴うことは少なく、「より知覚的」、つまり過敏性が強いとされています。これは、アクセルである交感神経系の関与を示唆しています。
また、症例として載せられている30歳の解離性同一性障害(DID)の女性はこう述べていました。
18歳頃から手足に虫のような生き物が侵入してきて、それが振り払えないので、ムズムズする部分を切り落としたくなる感じがしていた。
指の中に虫がつまっている。湧いてくる。動いている。増殖してくる。蟻が行列をつくって上がったり下がったりする。興奮している時や血が頭に昇ったときに多い。(p116)
虫が這っているような鮮烈な感覚を伴う体感異常は、「興奮している時や血が頭に昇ったときに多い」とされています。これもまた、交感神経系のアクセルの関与を示しています。
こうした観察から、四肢知覚型の体感異常は、同じ解離でも、おもに交感神経系のアクセルと不動系のブレーキが拮抗して、筋肉が硬く張り詰めて緊張しているような「凍りつき」反応寄りの症状だとみなせるでしょう。
ピーター・ラヴィーンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、解離性のむずむず感を、レストレスレッグス症候群と誤診されていた例を紹介しています。
ミリアムは、結婚生活でも職場でも不満なことだらけで怒りでいっぱいだと話しだした。
「しょっちゅう機嫌が悪く」、熟睡できないことがとても多いのだという。腹痛や脚のムズムズ感で目が覚めてしまうのだ。
「夜中に誰かが私を蹴飛ばして起こしに来るみたい」と、この侵入的な経験について彼女はブツブツ文句を言うように説明した。
かかりつけの医師は「レストレスレッグス症候群」もしくは抑うつ状態ではないかと考え、彼女に抗うつ薬の服用を勧めた。(p187)
彼女は一見、レストレスレッグス症候群のような症状を抱えていました。しかし「心拍数の上昇ならびに抑制された早くて浅い呼吸」の状態にあり「からだの内側が震えている」のも感じていました。感情がピリピリしていて、不眠状態にあることを含め、いずれも交感神経の興奮が読み取れます。(p190-191)
セラピーを通して、彼女は「否認という凍りつき」状態にあったことに気づき、少しずつ身体の感覚に気づいて自己調節を学ぶことで、体感異常が減っていきました。(p196)
頭と内臓の不快感は背側迷走神経の「擬態死」
一方で、体感異常のもう一つのタイプである「器官体感型」についてはどうでしょうか。
先ほどの説明では、この器官体感型の体感異常は、現実感を喪失する離人症や、思考が次々と湧き出る思考促迫を伴うことが多い、とされていました。
こうした意識の変容は、交感神経系と不動系が拮抗して筋肉が張り詰めている「凍りつき」ではなく、その一歩先の、不動系のブレーキが交感神経系を抑え込んでしまった「擬態死」寄りのものです。
トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際では、擬態死状態について、こう説明されていました。
一言でいえば、この反応は、交感神経がほとんど、あるいはまったく覚醒しないことと連動した、自発運動の重大な抑制によって特徴づけられます。
劇的な背側迷走神経の緊張、極度の覚醒低下、そして重大な無力状態が生じます。…凍りつきのように筋肉が緊張し固くなるのではなく、むしろ柔らかくなります。
また、これは「ぐったり動かないこと(floppy immobility)」と呼ばれ、こま虚脱状態で「凍りつき反応でおこるアドレナリンの爆発とぱちょうど反対に、筋肉は弱くなり、生気のない、とろんとした目つきになり、そして心拍数はゆっくりと下降します」。
呼吸は浅いかもしれません。クライエントは、「トランスのような」と、この状態を説明します。この反応は、人の痛みの感覚を鈍感にする内因性オピオイド(訳注:いわゆる脳内モルヒネ)のレベル増加が関係しているようです。(p133)
凍りつき状態では交感神経系のアクセルと不動系のブレーキが拮抗していますが、擬態死状態では、ブレーキが完全にアクセルを押さえ込み、「交感神経がほとんど、あるいはまったく覚醒しない」状態にまで抑制されます。
その結果、「ぐったり動かない」「生気のない、とろんとした目つき」「トランスのような」と言われる状態になります。言い換えれば、半分眠って夢の中にいるかのような状態になる、ということです。
器官体感型の体感異常に多い現実感が失われる離人症は、脳が半分眠っている状態だとみなせますし、次々に思考が取り留めなく出てくる思考促迫は、半分起きながら夢を見ているような状態だと解釈できます。
別の記事で考えたように、勝手に湧き出てくる思考は内受容性の感覚刺激から作られます。解離によって外受容性の感覚刺激が遮断されると、相対的にシーソーのように内受容性の感覚が優位になり、離人症や思考促迫が起こっているようです。
器官体感型の体感異常で、おもに頭と内臓という内部に違和感が生じるのも、擬態死状態の特徴と一致しています。このとき身体を支配しているのは、内臓をコントロールし、意識の切り離しとも関係している不動系の背側迷走神経だからです。
興味深いことに、柴山先生の解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論によると、この器官体感型の頭や内臓の違和感はどうやら症状の出方に性差があるようです。
とりわけ頭部体感異常は離人症状や思考不全感を伴うことが多い。グラッフェルらのEJAVSや渡辺らの青年期セネストパチーが代表的病態である。
頭部セネストパチー(cénesthopathie céohalique)は概して若い男性に多いとされている。(p111)
頭の中に異物感を感じる体感異常は、若い男性に多い解離症状だとされています。
わたしの個人的の知り合いでも、二人ほど、頭の中の異物感に悩まされている男性がいました。
一人は強いアスペルガー傾向があり、子どもの頃から複雑性PTSDを抱えてきた若い人で、脳がぐにゅぐにゅするとか、かき回されているといった体感異常をしきりに訴えていました。
もう一人はわたしよりかなり年上の壮年の男性ですが、10代のころに思考不全感を発症して、頭が固まって動かないというイメージを伴っていますが、身体は元気で働けるといいます。
これはおそらく、解離症状の性差によるものだと思われます。以前の記事で詳しく考察したように、男性は生物学的な身体のつくりや、社会文化的なストレスの違いから、女性とは異なる解離症状を発症することが多いようです。
女性の場合、全身を巻き込む重篤な解離に至りやすいのに対し、男性の場合は、思考や感情(つまり頭部の感覚)だけが解離して、思考は働かないのに身体は動く状態になりやすく、たとえば解離性遁走(いつの間にか知らないところにいた)のような症状が多いとされていました。
おそらくこれは、現代社会において、男性は感情を殺して社会の歯車となることを求めるストレスにさらされやすく、一方の女性は、性被害など全身を脅かされるストレスにさらされやすいことが、解離症状の性差に反映されているのではないかと思われます。
器官体感型の体感異常のうち頭部の体感異常が男性に多い一方で、内臓など身体の内部に違和感を感じるタイプは、かえって女性の解離に多いのかもしれません。
前述の胃腸の違和感や、それに伴う慢性疲労や慢性疼痛のような全身の違和感は、男性より女性のほうがはるかに発症しやすいことが知られています。そうした症状の中には解離による体感異常が含まれているかもしれません。
このように、ポリヴェーガル理論における交感神経系と不動系の役割から考えれば、同じ解離といっても、「凍りつき」と「擬態死」の二種類のレベルがあり、体感異常もそれぞれ異なることがわかります。
交感神経系の活性化が強く「凍りつき」寄りのときは、手足などの表面に不快感が生じる四肢知覚型の体感異常が起こり、不動系が交感神経系を抑え込んで「擬態死」に近いときは頭や内臓内部に違和感が生じる器官体感型の体感異常が起こる、とみなせます。
男性の場合は主に頭部に症状を訴える部分的な解離症状が起こりやすいのに対し、女性の場合は内臓を含め、全身を巻き込む広範囲の解離症状が起こりやすい、という違いもみられます。
内受容感覚とは何か
ここまでのところで、体感異常が起こる部位の違いについて説明することができました。
しかし、まだ一番大きな疑問点が解けていません。なぜ、手足、あるいは内臓や頭に生じる感覚が、本人にとってあまりに不快で奇妙なものに感じられるのか、という点です。
それについては、実は前回書いたとおりなので、一つ前の記事を読んでくだされば事足りるかと思います。とはいえ、せっかくこの記事では体感異常という観点から考察しているので、前回の記事とは違うアプローチでもう少し考えてみましょう。
まず、柴山先生は、解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論の中でほとんど体感異常の原因については述べていませんが、次のような鋭い指摘を含めていました。
体感という言葉は歴史的に共通感覚や一般感覚と密接な関係を持っており、ほぼ体性感覚(触覚、皮膚感覚、深部感覚に内臓感覚を加えたもの)を指しているとみなしてよい。
そのような観点からすれば、体感異常という症候名に身体内部、深部の異常感覚に加えて、触覚、皮膚感覚の異常を含めることは自然であろう。(p111)
ここでは、体感異常の源として、「体性感覚」に注目されています。これは、前回の記事で説明した、人間の五感に加えるべき六番目の感覚とも言うべき、内受容感覚のことです。
改めて、センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際の説明を見てみましょう。
ある種の感覚的な感受性は、〈第六感〉として1800年代の初期のCharls Bellが最初に描写して、のちにWilliam Jamesによって1889年に発表されました。
今日では、第六感は「内受容器」(interoceptors)によるものであると理解されています。
身体内部からくる刺激を受けとめ伝達する、感覚神経受容体によるものだということです。(p19)
内受容感覚とは、「身体内部からくる刺激を受けとめ伝達する、感覚神経受容体によるもの」です。
言い換えれば、五感のほとんどは身体の外側からの感覚を受け取っているのに対し、六番目の感覚とも言える内受容感覚は、身体の内側からの感覚を受け取るものだ、ということです。
身体の外部から受け取る感覚に五感と分類されるような多様な感覚が含まれているように、身体の内部から受け取る内受容感覚も、たくさんの種類に分類することができます。
少し長めの引用になりますが、続く説明をみてましょう。
内受容器には多くの異なる種類があります。
身体全体の動きにかかわる筋肉的感覚は、「自己受容器」(proprioceptors)に対応しています。それは関節、筋肉、腱につながっている感覚神経です。
自己受容器は空間における身体の位置の感覚を、身体位置に関する視覚的感覚に依存しないで、与えてくれるのです。
…自己受容器の下部組織である前庭システムは内耳機能の一部であり、身体と重力の関係および身体のバランス感覚について情報を与えてくれます。
…内臓感覚は「内受容(enterception)」とよばれ、私たちの内部臓器でおこる動き、すなわち心臓のドキドキ、腹部のそわそわ感、吐き気、空腹感、または虫のしらせ、直感などを伝達します。
また、私たちはさまざまな「侵害受容器(nociceptors)」をもっています。それらの大多数は皮膚内にあり、また、腱、関節、諸器官にもかなりの数の侵害受容器があり、いろいろな身体的痛みを伝達しています。
「温感受容器(thermoceptors)」は温度に反応します。
私たちは通常、内受容器からの情報には気が付かないのですが、意図的にこれらの情報に注意を向けて身体感覚を探索することができます。たとえば、多くの人は数分注意すれば、心拍や内臓感覚に気づけるようになります。(p20)
色々と出てきましたが、簡単にまとめると、わたしたちの身体の内部の関節、筋肉、腱、内臓、皮膚などは、常に、身体の内部の大量の情報を、わたしたちに伝えているということです。
けれども、それほど大量の情報が送られてきているのに、「私たちは通常、内受容器からの情報には気が付かない」のはなぜでしょうか。
そもそも、五感に比べて、内受容感覚が最近に至るまでほとんど知られていなかったり、「第六感」のような怪しげな言葉で呼ばれたりしていたのも、わたしたちがほとんどそれに気づかないからです。
感情や自己意識は何から生まれるか
では、内受容感覚は無意識のうちに気づかれないところで処理されているだけなのか。
いいえ、そうではありません。わたしたちは、内受容感覚をほとんどいつも意識しています。ただ、それが身体の内受容感覚だとは気づいていないだけなのです。
ヴァン・デア・コークは、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法のなかで、アントニオ・ダマシオの有名な実験に触れています。
ダマシオとその共同研究者たちは2000年に、世界でも一流の科学専門誌「サイエンス」に論文を発表し、強い否定的情動を追体験すると、筋肉や消化管、皮膚から神経信号を受け取る脳領域、すなわち、基本的な身体的機能を調節するのに不可欠な領域に、重大な変化が起こることを報告した。
過去の情動的な出来事を想起すると、その出来事のときに感じた内臓の感覚を現に再体験することを、ダマシオのチームの脳スキャン画像は示していた。(p158)
アントニオ・ダマシオの実験が示したのは、わたしたちの感情は、「筋肉や消化管、皮膚から」の内受容感覚と連動しているということです。
古くからどんな国のことわざにもあるように、強烈な感情とは、心ではなく身体で感じるものです。
従来、情動は大脳辺縁系に割り振られてきたが、私たちは強い情動を体と結びつける、ありふれた言い回しを使うたびに、これらの脳領域が関与していることを認めている。
「あなたはむかつく」「そのせいで背筋がぞっとした」「私はすっかり胸が詰まった」「がっかりした(英語では「My heart sank」で直訳すると「私の心臓が沈んだ」)」「彼のせいで髪の毛が逆立つ」という具合だ。(p158-159)
日本語にもある「断腸の思い」という言葉がまさにそうですし、ヴァン・デア・コークが挙げている「むかつく」「背筋がぞっとする」「胸が詰まる」などもそうです。こうした身体と感情を結びつける言葉には、文化を超えて共通する表現が多くあります。
なぜ様々な感情と内臓などが発する内受容感覚とには密接なつながりがあるのか。それはそもそも、この二つが別物などではなく、同じものだからです。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中でピーター・ラヴィーンが述べるように、わたしたちの身体の中には、内臓から脳に向けて巨大な直通経路が通っており、脳は届けられた内受容感覚をさまざまな感情や思考に解釈しています。
第6章では、脳幹と大半の内臓を結ぶ迷走神経について述べた。この巨大な神経よりニューロン総数が多いのは脊髄のみである。
またこの神経繊維の90%以上が求心性である。つまり迷走神経の主機能は、内臓からの情報を脳に向かって届けることである。
したがって、「本能的直感(はらわたの本能)」「勘(はらわたの直感)」、ひいては「はらわたの知恵」という表現には、確固たる解剖学的、生理学的根拠がある。(p166)
温泉にゆっくり浸かると、とても心地よくなってリラックスするのはなぜでしょうか。冷たい屋外を凍えそうになりながら歩いていると心細く孤独に感じるのはどうしてでしょうか。
リズムよく身体を動かすと気分が爽快になるのはなぜでしょうか。ずっと閉じこもって運動不足だと気分が沈むのはどうしてでしょうか。
答えは簡単です。そもそも、わたしたちが感情だとみなしているものは、身体の内受容感覚なのです。身体全体の筋肉や腱や内臓からひっきりなしに送られてくる内受容感覚を脳が解釈したものが、感情なのです。
ヒトは血管からも、環境に関するその他あらゆる情報を受け取っている。
血管がクラゲのようにゆったりと拍動し、温かさと良好さの感覚がからだ中に行き渡ると、ヒトはリラックスし開放的な気分になる。
血管と内臓が収縮していると、寒く不安に感じる。(p166)
そして、前回の記事で詳しく書いたように、内受容感覚は、感情どころか、わたしたちの自己意識そのもの、アイデンティティを形作る源でもあります。
言い換えれば、もし内受容感覚が失われれば、わたしたちは感情を感じられなくなるだけでなく、自分が誰かわからなくなってしまい、自己意識そのものが失われてしまう、ということです。
現代の脳科学からいえば、デカルトの心身二元論的な、身体を別にした心などというものは存在しえません。肉体を離れた魂や思念のようなものが単独で存在することもできません。(詳しくは前回の記事の補足を参照)
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳にはこう書かれていました。
離人症性障害になると、自分のことが知らない他人に思えてくるし、情動を感じる能力も低下する。
このことは、「私は誰?」という謎にどんな手がかりを与えてくれるのか。
それは自己をつくりあげるうえで「いちばん重要なのは物理的な感覚と内部感覚」だということ。メドフォードはそう話す。
「感情は体性感覚情報で構築されるというダマシオ的観念ですよ」
「感情は体性感覚情報で構築される」、つまり、内受容感覚がなければ、感情や自己意識は失われてしまうのです。
解離の当事者の中には、感情が感じられない失感情症や、現実感が感じられない離人症の人が大勢いますが、それは、それらの感覚のもととなっている内受容感覚が減少しているからだ、ということになります。
「非自己」に分類された内受容感覚
では、解離の当事者の場合、内受容感覚が文字通り消えているのでしょうか。
そんなはずはありません。内受容感覚が何もない、ということは、内臓や筋肉が完全に活動停止していることを意味します。それは死んでいる、ということです。
しかし、解離の当事者は、どれほど自分で生ける死体のようだと感じていようとも、間違いなくまだ生きていて、食べ、飲み、日常の活動を行ない、身体を動かしています。
つまり、明らかに身体は内受容感覚を生み出し続けているはずです。それなのに、なぜ、内受容感覚が、感情や自己意識に変換されず、失感情症や離人症に陥るのか。
その理由は、前回の記事で詳しく説明した、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳に書かれているこのメカニズムによります。
あくまで推測だと前置きしたうえで、セスはこうしたエラーが、解離を引き起こすのではないかと言う。
自分の身体と情動に現実感が失われ、身体が分離したり、自分自身が他人みたいな感覚に襲われるのだ。
エラーに見舞われている脳が、それでもがんばって予測を行なった結果、内受容信号の発信源は自己ではなく非自己だと仮定するのだろうか。(p193)
解離の当事者にも、内受容信号は存在するのです。ところが、「内受容信号の発信源は自己ではなく非自己だと仮定」してしまうので、それを自分の感情や自己意識に変換できないのです。
解離の当事者は、さまざまな内受容感覚、つまり内臓の信号や、筋肉や腱から送られてくる信号などを、「自己」ではなく「非自己」に属するものとみなしています。
なぜそんなことが起こってしまうのか。
ヴァン・デア・コークは、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で次のように説明していました。
だが、トラウマを負った人々は、自分の体の内部で絶えず危険に感じている。過去が、心を苦しめる内部の不快感として生き続けているからだ。
彼らの体は、内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ、それを制御しようとするうちに、腹の底で感じるものを無視し、内部で起こっていることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう場合が多い。彼らは自己から隠れることを学ぶのだ。(p162)
先ほど見たとおり、わたしたちが感じる強い感情は、内受容感覚と密接に結びついていました。というよりも、内臓で感じる感覚が、わたしたちの感情そのものでした。
では、トラウマによって、強烈な恥や恐れ、圧倒されるような悲しみや恐怖を感じたら、人はどう反応するでしょうか。
自分では耐えきれない感情を感じたときに、それを切り離してしまい、まるで他人の感情のようにみなすことで生き延びようとするのが解離という防衛機制です。
たとえば、前回の記事に出てきた9.11の同時多発テロの生存者であるシャロンは、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアによると、当時の体験を次のような態度で振り返りました。
私が自己紹介をしようとしたときに、彼女は平然とした様子でまるで他人事のように恐ろしい出来事について話し始めた。私にはそれはとても不気味に感じられた。
彼女が発する言葉を私がよく聞いていなければ、死そのものやバラバラになった死体に遭遇した自分の体験ではなく、職場のつまらないパーティのことを彼女が話しているように思ったかもしれない。
情動が切り離された状態で語られる彼女の話を聞くうちに、私は居心地悪くなり、立ち上がって部屋を出たい気持ちになった。(p206)
シャロンは、身の毛もよだつほど恐ろしい出来事を「まるで他人事のように」語りました。これが解離の本質です。解離とは、自分が体験した耐えがたい恐怖を他人のもののように処理することです。
しかし、感情が内臓などの内受容感覚から生まれるものだとすれば、彼女は実際には、何を他人事として処理していたのでしょうか。
そうです、自分の身体の内受容感覚です。
解離の当事者が、失感情症や離人症に陥って、自分の恐ろしい体験を他人事のように処理しているとき、実際には、身体が内部から送っている内受容感覚そのものに「非自己」のタグを貼って処理しているのです。
解離の当事者たちの場合、身体の内受容感覚は決してなくなったわけではありません。むしろ、圧倒されるような経験をしたがために、内臓はひどい恐怖や苦痛を味わっており、健康な人たちよりも大量の内受容感覚を発しています。
しかしヴァン・デア・コークが言っていたとおり、「内臓の危険信号をひっきりなしに浴びせかけられ」るからこそ、「内部で起こっていることの自覚を麻痺させるのが得意になってしまう」すなわち内部の感覚を「非自己」とみなすようになるのです。
ヴァン・デア・コークが、失感情症や離人症の患者について書いていた次の説明を思いだしてください。
彼らは情動を、注意を払ってしかるべき信号としてではなく、身体的問題として認識する傾向にある。
腹立たしさや悲しさを感じる代わりに、原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状を経験する。(p165)
解離の当事者が失感情症や離人症になるのは、自分の身体の内受容感覚が非自己に分類されていて、感情や自己意識に変換できないからです。
さまざまな感情を感じる代わりに、彼らは変質した内受容感覚そのもの、つまり「原因不明の筋肉の痛みや、腸の不調、その他の症状」を経験しているのです。
それでは、その「非自己」だと分類されてしまった内受容感覚が、本人にとって、あまりに奇妙で不快に感じられるのはどうしてなのか。
いささか回りくどく説明してきましたが、続く部分がこの記事のポイントです。
身体完全同一性障害(BIID)ー「外国の手足」
自分の身体にさまざまな奇妙な不快感を感じるという症状は、これまで医学のさまざまな分野で別々に研究されてきました。前述のとおり、過敏性腸症候群や寄生虫妄想、ヒステリー球などはその一例です。
なかでも、とりわけ注目されてきたのは、自分の手足の一部が、明らかに自分のものではなく、異質なものだと感じられ、強迫的な切断願望に悩まされる人たちです。
かつてはこれもまた精神病や妄想の一種だと思われていましたが、現在ではれっきとした身体的基盤を持つ病態だとわかっています。それは、身体完全同一性障害(BIID)と呼ばれています。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳によると、この病態は、「外国の手足」を意味する「ゼノメリア」(xenomeria)と呼ぶほうがふさわしいと感じる人もいます。(p87)
確かに、「ゼノメリア」という呼称のほうが、この症状を抱える人たちの苦痛をよく言い表しているかもしれません。BIIDの当事者たちは、自分の身体の一部が、他人の身体だと感じられるからです。
彼にとって足は異質な部分であり、まがいもの、侵入者だった。起きているあいだは、足から自由になる想像で頭がいっぱいになる。
立つときも、「良い」ほうの足にだけ体重をかけた。自宅では片足飛びで移動し、座っていてもつい手で足を押しのけようとする。この足は断じて自分の足ではない。(p85)
この、自分の足が「異質」「まがいもの」「侵入者」のように感じられる不快感は、この記事で見てきた、解離の当事者たちが感じる体感異常とほぼ同じものです。
細かく言えば、原因は異なります。BIIDの人たちの場合は、おそらく先天的に右上頭頂小葉の働きが弱く、手や足の一部から送られてくる内受容感覚が「他人」とみなされるようになってしまうようです。
他方の解離はトラウマ的経験を生き延びるための適応として、脳が自ら、身体から送られてくる内受容感覚を「他人」とみなすようになります。BIIDの症状が固定しているのに対し、解離のほうは脳の状態に応じて変化します。
しかしながら、当事者の感覚はよく似ています。BIIDの場合は、強烈な違和感のある手足を切断して取り除きたいと願います。普通の身体感覚を持つ人には想像もつかないでしょうが、気が狂わんばかりに切実な願いです。
その後もパトリックは、自分の足をどうにかしたい欲求に悩まされた。
「この足とおさらばするためにはどんな方法がある? 何を、どうすればいい? でもそのために命を落とすのはいやだ」
切断者の写真を見たり、道で切断者を見かけたりすると、衝動が高ぶってしかたがない。
「そのことで頭がいっぱいになる。数日間は、どうやって足をなくすかということしか考えられない。」
とうとうパトリックは神や悪魔頼みにまでなり、「私の足を奪って、ほかの誰かの足を救ってください」と祈りをささげた。
彼は45年間、そんな悩みを誰にも言えずにいた。それは耐えがたい孤独だった。(p93)
解離の体感異常も、ときに同じほど切実な苦痛を生じさせます。前述の16歳の少女バーベルは、全身のムズムズ感のために大声で泣き叫び、ベッドの上を転げ回りました。
彼女は本当に虫がいると確信していたわけではありませんが、それでもあまりに強烈で耐えがたい不快感のため、皮膚をメスで切ってほしいと要求することもあったそうです。
また、30歳の解離性同一性障害(DID)の当事者が述べていたことも思い出してください。彼女は「18歳頃から手足に虫のような生き物が侵入してきて、それが振り払えないので、ムズムズする部分を切り落としたくなる感じがしていた」と述べていたのではないでしょうか。
わたしも当事者として包み隠さずに言えば、身体の中に感じる異物を、できることならえぐり出したいと思うほど悩んだことは数知れません。10代のころは、あまりに不快で何も手につかず、先ほどのBIID当事者パトリックのように感じていました。
わたしの場合、えぐりだしたかったのは例えば眼球でした。ずっと以前に書いた記事ですが、今になってようやく、あの感覚が何なのか説明できるようになったのです。
ほかにも、わたしの体感異常は全身さまざまなところに発生していますし、内臓や頭に強烈な異物を感じることもあります。
解離の当事者が感じる奇怪な異物感が、BIID当事者と同じ原理で生じているというこの説明には、幻肢をはじめとする身体イメージ障害の研究で名高い神経科学者V.S.ラマチャンドランのお墨付きがあります。
脳のなかの天使の中で、ラマチャンドランは、BIIDの切断願望について論じ、その後、離人症やコタール症候群の自分の身体への強烈な違和感について考察し、これらには脳科学的な共通性があると述べています。
ここで注目してほしいのは…離人症(「私が現実のように感じられない」)という奇妙な状態に根底に、それほど極端ではないタイプのコタール症候群が存在する可能性が容易に見てとれるという点である。(p394)
このようにとらえると、コタール症候群は、腕や脚だけではなく、自己全体におよぶ [BIIDのような] 切断願望であり、自殺は成功した切断手術だと言える。(p395)
ラマチャンドランの洞察に基づけば、手足が他人のものに感じるBIIDと、全身が死体のように感じるコタール症候群は、症状が出ている場所が異なる同じ現象であり、離人症のような解離症状はその一歩手前ということになります。
BIIDの人たちは、自分の手足のいずれかに強烈な不快感を感じ、それを切断したいと願いますが、離人症やコタール症候群の人は一部というよりもっと多彩な領域に異常な不快感を感じ、それを取り除きたいと願うのです。
警戒レベルが上がりっぱなしになる
この自分の身体の一部を切断したい、切り離したい、えぐり出したい、という強迫観念は、妄想でも思い込みでもないことを、ラマチャンドランは実験で証明しました。
ラマチャンドランらは、BIID当事者たちを対象に、自分のものだと感じる身体の部分と、まったく異質で他人のものだと感じられる部分をそれぞれピンで軽く突き、その瞬間の皮膚コンスタンス反応(SCR)を記録しました。
SCRとは、皮膚の発汗の高まり(電気皮膚反応)のことで、自分の意思で変えられるようなものではありません。通常、ストレスを感じたときにSCRが高まります。
実験では、自分のものではないと感じる手足を触られたとき、BIID当事者のSCRは急激に高まりました。
ここは少し意外かもしれません。自分のものでないと感じているのに、なぜより強いストレスを感じるのか。
その理由について、私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳にはこう書かれています。
マッギーオとラマチャンドランを中心とする研究グループは、簡潔ながら的を射た実験でそのことを確かめた。
…二つの実験から、所有感のない手足のほうが感覚過敏であることがうかがえる。まるで脳が異質な部分ばかりに注意を向けているようだ。
「その部分がやたらと活発で注意を集めるため、側頭葉での扱いが優先されている印象です。なるほどと思います」ブルッガーはそう話した。(p104)
自分のものでない手足、というのは、つまるところ「異質な部分」なのです。
メッツィンガーの理論で考えれば、BIIDの患者が自分の手足を切り落としたくなる理由も推測できる。
…自分と非自分の線引きをきっちりしておかないと、いろんな機能に支障が出てきます。
モデル内の表象がゆがんで、この手足は自分のものではないと判断されると、警戒レベルが上がりっぱなしになるのです。(p103)
「自分のものではない」と判断されるというのは、すなわち「他人のものだ」と判断されるということです。
前回の記事で取り上げた、左足をとりもどすまで (サックス・コレクション)に出てくるオリヴァー・サックスや、彼の患者だった若い男性の例を思い出して見てください。
彼らは共に、事故や病気のせいでBIID当事者と同様の苦痛を一時的に感じましたが、そのとき、「解剖用の死体の足」が体にくっついているとか、「石膏でかためられた筒」が身体から突き出ていると言ったのではなかったでしょうか。
「これを見てください」嫌悪感もあらわに彼は叫んだ。「こんな、身の毛もよだつような恐ろしいものを見たことがありますか? 解剖用の死体の足。まったくぞっとする。どういうわけか私のからだにくっついているみたいだ」
彼はそれを両手でしっかりつかむと、ものすごい勢いで、自分のからだからもぎとろうとした。それができないとわかると、今度は怒り狂ったようになぐりつけた。(p86-87)
まさにこれと同じなのです。自分の身体の中に、「自己」ではなく「非自己」とタグ分けされてしまった部分があるというのは、いわば、身体に「解剖用の死体の手足」がぶら下がっているようなものです。
そんな「身の毛もよだつような恐ろしいもの」が四六時中身体から突き出てくっついているとしたら、それをなんとしても切断したい、もぎ取りたいと感じて、昼も夜も切実に苦悩し続けるのも当然ではないでしょうか。だれだってそうなります。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳で引用されているドイツの哲学者また精神科医であるカール・ヤスパースの言葉が思い出されます。
妄想を正しく把握するには、その根底に知性の貧困があるはずだという先入観から自由になることが最も重要だ。(p120)
自分の身体を切断したいとか、内臓をえぐりだしたい、眼球をくりぬきたいと思うほどの強い自己破壊的な衝動や強迫観念があっても、それは知性の貧困が引き起こすような気が狂った妄想だとは限らないのです。
自分の身体に明らかに「非自己」と分類されるものが埋め込まれていて、寝ても覚めてもそれから逃れられず、あまりに奇妙で不快でぞっとして耐えがたいなら、そう感じないほうが不自然です。
本田 慎一郎先生の豚足に憑依された腕 - 高次脳機能障害の治療 -には、本のタイトルにもなっているように、自分の腕に豚足がくっついているかのような強烈な不快感を感じるようになった人の例が出てきます。
決して妄想的な人ではなく、自分の感覚について打ち明けるのをためらっていたほどです。しかし、いくら冷静に、客観的に考えても、まるで腕に豚足がくっついているとしか思えないような不快感がある、ということでした。
この人が語るところによると、骨がむき出しになったかのような豚足に対して、もともと強い不快感を持っていたそうです。
この記事で考察してきたことからすると、おそらく事故のときの痛みを解離させた結果、腕の一部が非自己と分類され、強烈な違和感が伴うようになったのでしょう。
そのとき、強烈な不快感を感じる「非自己」である腕の感覚と、やはり強烈な不快感として記憶されていた豚足の感覚とが、脳の中で不幸にも結びついてしまった(条件付けされた)のだといえます。
すでに考えたとおり、形容しがたい解離性の不快感は、その人の価値観やその時代の文化によって、さまざまな言葉で表現されます。この人の場合はぴったり当てはまってしまったのが豚足のような不快感だったのです。
なぜあなたの身体はあなたのものなのか
自分の身体を切り離したいとまで悩むBIIDや、自分の内臓が腐っていくように感じるコタール症候群、そしてさまざまな体感異常に悩まされる解離の当事者は、身体の一部に「非自己」のレッテルが貼られるせいで寝ても覚めても不快感につきまとわれます。
しかしながら、もっと奇妙なのは、むしろそうした不快感に付きまとわれない、健康な人たちのほうです。
わたしたちは普段まったく意識していませんが、なぜわたしたちは自分の身体が異物だと感じないでいられるのでしょうか。
考えてみてください。あなたの身体は、生まれたときのままの材料でできているわけではありません。
身体の構成物質は、刻一刻と代謝され、生まれたときのあなたの細胞は、もうすでにまったく別のものに入れ替わってしまっています。
身体は当然、毎日食べているものによって形作られますが、ステーキをナイフで切るとき、自分の身体の一部のように感じて躊躇するような人はいません。
ところが、それら食べたものから形作られる自分の身体については、それが自分の身体の一部だと認識します。
もっと奇妙なことを言えば、あなたの体は9割が細菌: 微生物の生態系が崩れはじめたという本のタイトルにもなっているように、近年のマイクロバイオーム(体内の微生物の集合)の研究によれば、わたしたちの身体を構成する細胞のうち、かなりの割合は微生物です。
心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までに書かれているように、わたしたちの身体の表面、そして内部には、数えれないほどの共生細菌などがうごめいています。
人間の体に住んでいる微生物の大規模な調査は2005年にはじめて行なわれ、異なる生きものの遺伝子パターンを区別する超高速の遺伝子配列解析マシンが開発されたことが追い風となった。
…さらにコンピュータを用いて分析結果から微生物相全体の規模を計算した―私たちひとりひとりに住みついているウイルス、細菌、菌類、原生生物、その他すべての生物を合計した数を求めたのだ。
最終的な集計は100兆個を超え、人体のすべての細胞を合わせた数はそれより一桁少ない。
微生物起源の遺伝物質の総量は、人間自身がもつ遺伝物質の150倍にもなる。
簡単に言えば、自分の90パーセントは、実は自分ではない。(p134)
とすると、ある意味、自分の身体の中をそこらじゅう虫が這い回っていると感じる寄生虫妄想の人たちが正しいのではないでしょうか。大多数の人が意識していないだけで、本当は身体中を異物がうごめいているのですから。
奇妙なのはむしろ、身体のあちこちを虫が這い回っているという感じている人たちではなく、自分の身体には這い回る虫のようなものは存在しないと感じている他の大多数の人なのではないでしょうか。
大半の人が、自分の身体を自分のものと認識できるのは、わたしたちの知らないところで、自分の身体を自分のものだと認識させる機能、つまり体中の細菌や細胞に「自己」のタグを貼る驚異的なメカニズムが存在しているからです。
子どもが学校に持っていく自分の所有物すべてに名前を書くように、わたしたちの脳は、身体を構成する要素にいわば名前を書いて、単なる有機物の固まりを、自己として所有しています。
私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳にこう書かれてとおりです。
視覚情報と触覚情報、さらには関節や腱、筋肉から得られる内的感覚で身体の各部分の相対的な位置を把握した結果(神経科学ではこれを固有受容感覚と呼ぶ)、身体所有感覚ができあがる。(p97)
わたしたちの脳は、視覚や触覚、そしてさまざまな内受容感覚をもとに、自己と非自己を区別するための「身体所有感覚」を生み出してます。
そして、解離とは、小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)で説明されているように、この身体所有感覚(身体帰属感)を手放すことで、苦痛をやり過ごそうとする脳の防衛本能です。
たとえば、身体的虐待を受けた場合は前頭前皮質および島皮質に萎縮が見られた。「島皮質は身体帰属感や個人の主体性と関わりがあります」とブラムバーグ。
「この発見は、身体的虐待を受けた子どもがしばしば訴える解離症状がこの部位の萎縮に関連している可能性を示しています」。
子どもが自分の心と身体を切り離そうとするのは、それが自分の身に降りかかる恐怖から逃れるための唯一の方法だからだ。
そうした子どもは心の中で「どこにでも行く」。ひねられているのは自分の腕ではない、叩かれているのは自分の顔ではない、性的虐待を受けているのは自分の体ではないと言わんばかりに。(p155)
確かに、自分の体は自分のものではなく他人のものだ、「自己」ではなく「非自己」だ、と錯覚させることは圧倒されるようなトラウマ体験をやり過ごすには効果的な方法でしょう。
けれどもあまりにも長く逆境にさらされるなどして、トラウマが去った後も、自分の体が「非自己」のままになってしまっていたら、脳は安心することができなくなります。
「自己」の一部だと判断された部分については、脳は自分の所有物として安心して受け入れますが、自分の持ち物ではない「非自己」だと判断された部分については危険だとみなして警戒レベルを上げます。
この自己と非自己を区別するための身体所有感覚(身体帰属感)とは、以前の記事で詳しく説明した「バーチャルボディ」や「身体イメージ」と呼ばれる仮想の脳内地図のことです。
わたしたちの脳は、有機物と細菌の寄せ集めにすぎない肉体に、自分の持ち物だと名前を記すための仮想の脳内地図を重ね合わせることで、それが自分の身体であると認識させています。
たとえば切断された手足が切断後も存在するように感じる幻肢は、文字通りの肉体が無くなったのに、自分のものだという名前を記したネームプレートだけが残っている状態です。
幻肢はこの脳内地図の存在で説明できるだろう。手足を失っても、脳内地図は残っているのだ。
地図は元のままのこともあれば、断片化していたり、変更されていることもある。
この脳内地図が、失われた手足を認知させ、あまつさえ痛みまで感じさせるのだ。(p99)
逆に、肉体としての手足はちゃんと存在しているのに、ネームプレートの部分がなくなって、だれのものかわからず「非自己」だとみなされてしまっているのが、BIID当事者たちの手足です。
「逆のことが起きているんです。つまり魂のない肉体がBIIDということ」とブルッガーは言う。
身体は完全に発達しているのに、脳内表象が不完全で、脳内地図で手足のとこころだけ白くなっている。(p99)
そして、解離の当事者たちの体感異常もまた、これと同じく、肉体としての身体や内臓はそのまま存在しているのに、自分のものだというネームプレートがないせいで、身体所有感覚(身体帰属感)が失われ、異物感や不快感が生じているのです。
終わりなき冷戦
食べたステーキであろうが、寄生虫であろうが細菌であろうがウイルスであろうが、体内に取り込まれて共生関係になったものは、自己の一部として登録されます。
そのおかげで、免疫系は自分の身体を異物として攻撃しなくてすみます。「非自己」は身体から排除しなければなりませんが、「自己」は安全なので免疫系からスルーされます。
自分の身体の内部の「自分と非自分を区別する」システムは、病気に対処するのに役立ちます。わたしたちが病気になったときに気づけるのは、身体が、明らかに異常な部位を「非自己」認定して、異物だと知らせてくれるからです。
ところが、特に異常もないのに、身体の一部が「非自己」認定されると、脳はそこから送られてくる内受容感覚を、病気のシグナルと勘違いします。
そのため、解離の当事者は、自分の異様な体感異常を何らかの病気だと錯覚して、病院に検査を受けに行くかもしれません。
しかし検査結果は正常と出ます。本当に臓器に異常があって「非自己」認定されているのではなく、脳が自己防衛のために「非自己」のレッテルを貼っているだけだからです。
とはいえ、「非自己」認定された身体の一部が、いつまでも無事だとは限りません。ラマチャンドランが観察したように、身体は異物認定された場所に対して皮膚の発汗の高まり(SCR)を見せ、警戒していました。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、本来、「自己」の一部に「非自己」のタグを貼り、身の毛もよだつような恐ろしい体験を他人事のようにスルーする解離という防衛機制は、短期的に見れば、重大なトラウマによって人格が崩壊するような危機をやりすごす有効な手段です。
しかし、一時的に「非自己」のタグを貼ってやり過ごすはずだったのに、トラウマが去ってもずっと「非自己」のままになっていると、この記事で見たような問題が引き起こされます。
脅威を原因とする激しい内臓反応は通常は急性で一時的であるべきものである。
危険が去れば、(交感神経系による胃の運動の阻害であれ、原始的な迷走神経による猛烈な運動性の過剰刺激であれ) この反応は停止して、生体を今ここによどみなく流れる平衡状態に戻す必要がある。
平衡が回復しないと、急性の、ひいては慢性的な苦痛の中に取り残されることになる。(p148-149)
もしずっと内受容感覚に「非自己」のタグが貼られたままだと、内受容感覚から生じている感情が実感できない失感情症や、内受容感覚によって形作られる自己意識が希薄な離人症につながります。
内受容感覚は、本来、内臓や腱や筋肉の情報を脳に伝えるためのものなので、それが「非自己」認定されていれば、自分の内臓が異物のように思える違和感や、腱や筋肉の動きが虫の這いずり回るかに感じられる不快感が生じます。
自分の身体に異物があると感じられれば、ちょうど「解剖用の死体の足」がぶら下がっているのと同じく、相当なストレスが引き起こされ、免疫系は警戒を強め、こうして長期的には、さまざまな慢性疾患の温床へと変容してしまいます。
解離によって自己の一部が「非自己」認定されてしまった人たちは、免疫系が自分の身体の一部を異物として危険視する状態に陥ります。
幼少期に慢性的なトラウマを経験して解離状態になった人は、その後の人生で「小児期逆境後症候群」と呼ばれるほどの多種多様な自己免疫疾患その他の病気に見舞われます。
ヴァン・デア・コークも 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、トラウマのサバイバーが、関節リウマチをはじめ、身体的な自己免疫疾患になりやすいことを指摘しています。(p91,482)
アレルギーや自己免疫疾患は、マイクロバイオーム(体内の微生物群集)の乱れとの関わりが強いことが知られています。共生関係にあるはずの腸内細菌や寄生虫を安全な味方だと学習できず、警戒してしまうことから起こるようです。
トラウマとマイクロバイオームの問題は、まったく別々の分野で研究されてきましたが、従来の定義や概念にとらわれずに研究していけば、仕組みの上でオーバーラップしているのかもしれません。
身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、ピーター・ラヴィーンが書いているように、不動系の迷走神経が慢性的に作動し、内臓が凍りついたり擬態死状態になっている人たちは、自分の内部にある「非自己」という仮想的と永久に戦い続けています。
内臓が迷走神経によって持続的に過剰な刺激を受けると、より大きな苦痛を感じることもある。
内臓がねじれるような吐き気を催し、筋肉の力が抜けてエネルギーがなくなったと感じると、無力感と絶望感に襲われるー実際には破壊的な脅威がなくとも。
つまり、現在のところ何も悪いことがなくてもー少なくとも外的にはー、むかつき自体が重大な脅威と恐怖の信号を脳に送るのである。(p148)
解離の当事者が、全身いたるところに感じる得体の知れない異物感や不快感は、全身のいたるところに「非自己」と分類された身体が散らばっていて、脳が自分ではない異物を危険視して警戒し続けている、終わりなき冷戦のしるしだったのです。
自分の内部感覚と友達になる
解離のさまざまな異常が、本来「自己」のタグが貼られるべき身体の一部に「非自己」のタグが貼られ、自己所有感が失われて異物になってしまうことから来ているとすれば、その治療法はどのようなものなのでしょうか。
まず、内部の変質した感覚に悩む人たちは、前回の記事の補足で書いたように、外的刺激を与えて注意を内部から外部にそらすことで、体感異常を緩和させる自己治療的な試みを習慣にしています。
どんな外的刺激を用いているかは人それぞれですが、たとえばヴァン・デア・コークが、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法に書いているような仕方で、内部の不快感から注意をそらしている人がほとんどでしょう。
彼らは肥満になったかと思うと拒食したり、あるいは運動や仕事に過度に熱中したりすることもある。
トラウマを負った人の少なくとも半数は、自分の内面世界の耐え難さを薬物やアルコールで紛らわせようとする。
麻痺させることと表裏一体になっているのは、刺激を追い求めることだ。
自分の体を切ることによって麻痺した感覚を追いやろうとする人も多いし、バンジージャンプをしてみたり、売春やギャンブルのような危険な行動を試したりする人もいる。(p438-439)
しかしながら、こうした外的刺激を与える依存症や中毒、自傷行為などによって、内部の違和感や不快感から目をそらす試みは、一時的な対処療法にしかなりません。
これらはいずれも、変質した内部の感覚から注意をそらしているだけであり、問題の解決を先送りしているともいえます。
では本当に有益な対処法とはどのようなものなのか。ヴァン・デア・コークは、 身体はトラウマを記録するーー脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で次のように書いています。
トラウマの犠牲者は、自分の体内の感覚になじみ、その感覚と仲良くなって初めて回復が可能になる。
…私の治療の場合には、患者を手助けし、彼らが体の中の感じにまず気づき、次にそれを説明できるようにするところから始める。
体の中の感じとは、怒りや不安や恐れのような情動ではなく、圧力や熱、筋肉の緊張、疼き、へたばり、空虚さといった、情動の土台となる身体的感覚のことだ。(p169)
ヴァン・デア・コークは、この本の中で、さまざまな解離の治療法を紹介していますが、この記事で考えた観点から見れば、その多くは、「非自己」になって敵対してしまった「自分の体内の感覚になじみ、その感覚と仲良くなる」ことに集約されます。
たとえばヴァン・デア・コークは、内受容感覚を取り戻し、自己所有感を培うための方法として、ヨーガなどのボディワークの効果も紹介しています。
失感情症の人は、身体的な不快感を抱きがちだが、何が問題なのかをはっきりと説明できない。その結果、曖昧な身体的苦痛をあれこれ訴えるのだが、医師は診断名をつけられない。
さらに彼らは、どのような状況に置かれても、自分が本当はどう感じているのかや、なぜ気分が良くなったり悪くなったりするのかがわからない。これは、体の通常の要求を、穏やかに、注意深く予期したり、それに応えたりできなくさせる、麻痺の結果だ。
…内部の世界との関係を(再度)築き、それとともに、自己との思いやりにあふれた、身体的感覚を伴う関係を復活させるには、ヨーガは素晴らしい方法であることがわかった。(p449-450)
ヨーガにもさまざまな形態がありますが、ここで言われているのは宗教的背景をもつヨーガではなく、ボディワーク寄りのセラピーとしてのヨーガです。
私たちは、瞑想そのものは教えないが、いろいろなポーズをしながら体のさまざまな部位で何が起こっているのかを観察するように参加者に促すことによって、マインドフルネスを育んでいる。(p446)
さまざまな姿勢による、体の微細な変化に気づくことは、非自己に分類され、自分のコントロールを外れてしまった内受容感覚に気づき、「内部の世界との関係を(再度)築」く助けになります。
従来のセラピーの大半は、内部の感覚世界における一瞬一瞬の変化を軽視、あるいは無視している。だが、こうした変化にこそ、生体の反応の本質がある。
その本質とは、体の化学的な特徴と、内臓と、顔や喉や手足の横紋筋の収縮に刻まれている、情動の状態だ。
トラウマを負った人は、自分の感覚に耐え、内部の経験と友達になり、新たな行動パターンを培う能力が自分にはあることを学ぶ必要がある。(p450)
この記事で見たとおり、「内臓と、顔や喉や手足の横紋筋の収縮に刻まれている、情動の状態」こそが、解離の体感異常の原因そのものでした。これらが発する内受容感覚が「非自己」に分類されたことで、さまざまな異物感や不快感が起こっていました。
ひとたび「非自己」に分類されたこうした感覚を、再び「自己」の分類に戻すには、体が、それらの感覚に触れても安全だということを、身を持って繰り返し体験する必要があります。
トラウマを負った人は、自らの内部の不快感や異物感に直面したとき、反射的に反応し、とっさにその感覚を退け、敵対的なものと認識してしまう傾向があります。たまらなく不快なので、それも致し方ないことです。
しかし、ボディワークのセラピーでは、徐々に海に入って水に慣れるかのように、時には回り道をしながらでも、少しずつ自分の内部の感覚に親しみ、最終的には「自分の感覚に耐え、内部の経験と友達にな」れるよう助けます。
「内部の経験と友達にな」るというのは、自分の中に「他人」として存在している内受容感覚を文字通り擬人化して友達になるようなものです。
たとえば、この本の中でヴァン・デア・コークが紹介している内的家族システム療法(IFS)は、その名のとおり、自分の内側で家族療法をするようなセラピーでした。
まず自分の内部の得体の知れない不快で異物感に覆われているような感情また感覚と向き合い、それを具体的なイメージ、ひとつの人格へと置き換えていきます。その上で、セラピストと共に、その人格とコミュニケーションし、仲良くなっていきます。
まるでままごとのような子供じみた遊びだ、と思うかもしれません。実際この本に出てくる患者のピーターは当初そんな見下した態度を取っていました。しかし、紆余曲折の末、セラピーを続けることにして頭の違和感が緩和されていきました。(p485-491)
この記事と前回の記事で考えたとおり、そもそもわたしたちの自己意識とは、身体の内受容感覚から生まれているものです、だとすれば、非自己に分類されてしまった内受容感覚を見つけて、それを一種の人格として扱うのは、しごく当たり前のことだといえます。
別の観点から言えば、解離によって人格の多重化が生じるのもしごく当然なのです。人格とは内受容感覚から生じているものなので、内受容感覚の一部が非自己になるというのは、別の人格になるも同然だからです。(別の記事で引用しましたが、柴山先生は、体感異常で生じた内臓や頭の中の異物が別人格としても感じられる例を複数挙げています)
もしIFSがままごとのように感じられるとすれば、いまだに幅を利かせているデカルトの心身二元論、つまり身体と心は別物だという概念にとらわれてしまっているせいでしょう。
この本で説明されているように、自己免疫疾患のひとつである関節リウマチの治療に9ヶ月のIFSを取れ入れたランダム化研究によると、関節痛や身体機能にさえ改善が見られ、苦痛の知覚や抑うつ症状の改善は1年後も持続していました。(p484)
内的家族システム療法が教えてくれるのは、自分の変質した内部感覚と「仲良く」なるプロセスは、文字通りの人間関係において誰かと友だちになろうとするのとほとんど変わらない、ということです。
文字通りの人間関係において、ほんの数日で誰かと友達になれるはずはありません。押しが強すぎるなら嫌われて拒絶されるだけです。相手のプライベートを尊重し、こちらの限界をわきまえて、徐々に友情を深めることが大事です。
トラウマや解離を対象にしたセラピーの場合も、これまで自分が反射的に退けてしまっていた内受容感覚に少しずつ気づき、少しずつ触れ、ときには不快な感覚だけでなく心地よい感覚にも親しむよう務め、こうして他人と認識されていた感覚を、徐々に自己の一部へと統合していきます。
今回引用した身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの著書のピーター・ラヴィーンは、そのプロセスを「振り子運動」(ペンデュレーション)と表現していました。
トラウマが凍りついた状態または固まった状態であるのに対して、ペンデュレーションは、収縮と拡張という生得的な生命体リズムである。
言い換えれば、いかに恐ろしく感じていたとしても、その感情は変化しうるし変化するであろうことをおそらく初めて知ること(内側から感じること)によって、固まりが解けていくことだ。
この知識(体験)がなければ、「固まった」状態にある人が、自らのからだに宿りたいと思うことは難しい。(p97)
水の中とプールサイドを行ったり来たりするかのように、少しずつ、少しずつ自分の内部感覚と、安全な場所とを行き来するのが、振り子運動(ペンデュレーション)です。
前述のヨーガにしても、その他のボディワークにしても、いきなり苦行のようにして不快な感覚に耐えるようなことは絶対にしません。それでは、暴露療法のようなトラウマの再体験を生み、解離を悪化させるだけです。
ピーター・ラヴィーンが『この知識(体験)がなければ、「固まった」状態にある人が、自らのからだに宿りたいと思うことは難しい』と述べていたのは、まさしく真実です。
わたし自身も体験してみた今だから言えますが、こうした「経験」を積み重ねていくタイプのセラピーは、どれだけ本を読んでも把握できません。
レシピをいくら読んでも料理の味はわかりませんし、インターネットでどれだけ写真をサーチしても旅行で実際に味わう感動のほんの1ミリも味わえないのと同じです。知識は理解や把握にしか役立ちませんが、経験はトラウマを書き換えます。
もし、この記事を読んで、さまざまな体感異常についての説明が自分の場合にも当てはまる、と感じた人がいれば、ここで書いた内容を読むだけでなく実践的な体験してほしいと思います。
今回紹介した 身体はトラウマを記録するや身体に閉じ込められたトラウマ、トラウマと身体 といった本には、治療の助けになる専門的情報がたくさん載せられています。日本ではまだ一般的でない治療法も多いですが、探してみれば資格ある専門家やセラピストがいるものです。
この記事に書いたことは、わたしがそれら様々な本を読んで、また幾つかのセラピーを体験して、ようやく今になって理解してきた内容です。
どれほど真実に迫っているかはわかりませんが、ラマチャンドランが脳のなかの天使の中で、BIIDの手足の異物感についての考察に添えているこの言葉と同じ気持ちです。
もちろん以上はすべて推論にすぎず、現時点では、[BIIDの] 四肢切断願望についての私の説明が正しいかどうかさえわかっていない。
だが私の仮説は、多数の脳障害を説明するのに必要な論理的思考のスタイルを例示するものである。
そうした障害を「精神的」もしくは「心理的」な問題として片づけ、無視するだけでは何にもならない。
そのようなレッテルを貼るだけでは、正常な脳機能をあきらかにすることもできないし、患者を助けることもできないのである。(p371)
この記事が、人知れず悩んでいる当事者の苦痛を少しでも和らげる助けとなり、共に解決策を探してくれる誠実な医師たちが一人でも増え、メカニズムや治療法の研究がさらに前進することを願ってやみません。
補足 :しびれやねじれの体感異常を手続き記憶から考える
この記事では、おもに身体の異物感について考えました。しかし、解離性障害のことがよくわかる本 影の気配におびえる病 (健康ライブラリーイラスト版)に載せられていた体感異常のリストの中には他にも多種多様な感覚が表現されていました。
例えば、しびれ感やねじれ感を伴うケースについては、文中で述べた不動系(背側迷走神経)による筋肉の「凍りつき」や「擬態死」に伴う、筋肉の過剰な緊張や弛緩から説明するほうがわかりやすいかもしれません。
「凍りつき」は、行動を起こそうとする交感神経系と、急ブレーキをかけようとする不動系が同時に働き、筋肉が両方向に引っ張られて硬直する現象です。
たとえば、身体はトラウマを記録するや身体に閉じ込められたトラウマ、トラウマと身体 では、相反する強烈な衝動を経験したまま凍りつきを起こしてしまったヴィンスという消防士の男性の例が出てきます。
ヴィンスが大破した車の乗客を救助しようとしたとき、そこには二つの同時の、しかし相反する生存のための反応があった。
一つは女性の命を救うためにはどんなことでもやるというもの。そしてもう一つは、恐怖から退くことである。
この強烈な葛藤状態で、ヴィンスの神経系と筋肉は身動きがとれなくなり、肩が凍りついた。(p234)
彼はショッキングな事故の現場に居合わせました。消防士としての使命感から自動車の中の女性を助けようとしましたが、頭部がちぎれた子供の遺体を目にして恐怖にさらされ、救助したいという衝動と逃げたいという衝動を同時に経験しました。
この相反する強烈な衝動の手続き記憶(身体の動きのパターンの記憶)が、未完了のトラウマとして身体に残ったままだったので、事故の現場を離れてからも、肩の筋肉は引き裂かれるように痛み続けました。
もう一つ、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際に載せられているラッセルという男性の例も見てみましょう。
セラピストはラッセルに、立って、セラピーのオフィスにあるものの中から父親をあらわすものを選ぶようにいいました。
ラッセルが対象物を選んだときに、セラピストは実験してみようといい、最初はその対象を避けるようにして、次にゆっくりと向きを変え対象に向き合い、身体の内で何がおきるか気づくように言いました。
ラッセルの動きはぎくしゃくしだしました。背骨はたわみ、身体の上部はねじれて、あらぬ方向を向きました。
向きを変えて、「父」に顔を合わせようとしていたのに、です。彼の動きは無力な、打ち負かされた姿勢の典型でした。(p320)
ラッセルは、子ども時代に何度も父親に殴られていました。大学生になってからのセラピーで父親がそこにいるかのようにイメージしたところ、彼の身体は無意識のうちにねじれてぎくしゃくした姿勢になりました。
子供のころ、父親に痛めつけられていたとの身体の姿勢が、強固な手続き記憶として身体に保存されていたので、父親を少しでも思い出させるような刺激にさらされたとき、彼の身体は無意識のうちにねじれる動きを再現してしまったのです。
どちらの場合も、かつてトラウマを経験したときに生じた筋肉の凍りつきやねじれる動き、麻痺などが、未完了の手続き記憶としてそのまま残っていたせいで、その後の日常生活の中で、時を超えて無意識のうちに再現されました。
本人も気づかないような場面で、トラウマの手続き記憶が再活性化し、トラウマの瞬間の身体の奇妙な緊張を再現してしまうのですから、原因不明のしひれ感やねじれ感のような体感異常とみなされる場合もあるでしょう。
本文中で書いたような、胃腸系の症状や、のどの違和感もまた、そうした手続き記憶として説明したほうがわかりやすいかもしれません。
たとえば、トラウマと身体 センサリーモーター・サイコセラピー(SP)の理論と実際によると、解離の概念を構築した先駆者であるジャネは、性的暴行の被害者が下腹部の筋肉の収縮に悩まされることがあるという観察を残しています。
もしある人が襲われ、反撃したいと感じても相手の力に圧倒されてしまうと、可能な一連の防衛行動がゆがんだ形で残ってしまうかもしれません。
たとえば、筋肉の慢性的に緊張したパターンとか、急な攻撃が引き出されたるという極端な傾向とか、特定の筋肉群における緊張や感覚の慢性的欠如などです。
Janetは「レイプや強制的な性行為の記憶による、下腹部筋肉(処女性の守護者)の収縮」の症状をもつクライエントの例を示しました。(p27)
これも、先ほど引用した2つの例と同じく、トラウマ経験のときの手続き記憶が未完了のまま身体に保存されていた例とみなせます。強制的な性行為の際に下腹部筋肉が過度に緊張して凍りついたのがそのままになってしまったのです。
性行為のみならず、さまざまなトラウマ経験から、腹部の筋肉が慢性的に過緊張状態になった場合、内臓にさまざまな体感異常が生じたとしても不思議ではないでしょう。
また 身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアには、似たような例として、性器を口に含ませられる虐待を受けつづけた結果、過敏性咽頭反射を発症し、何も飲み込めなくなって、経管栄養状態になってしまった少女の例が出ていました。(p393)
これほど悲惨な例でなくとも、たとえば子供のころに、しつけと称して嫌いな物を無理やり繰り返し食べさせられるような経験を繰り返せば、似たようなのどの筋肉の異常が引き起こされることは考えられます。
そもそも不動系の背側迷走神経は、顔やのどの筋肉、呼吸筋を凍りつかせるので、慢性的な解離に陥った人ならだれでも、無表情化や声のでにくさ、慢性的な息苦しさなどを経験しがちです。
こうした筋肉の過緊張症状は、いずれも、文中で考えたような「自己」が「非自己」とみなされることによる体感異常というより、凍りつきの手続き記憶から生じる体感異常とみなすほうが理解しやすいかもしれません。
とはいえ、この二つは、別々のものを言っているわけではなく、同じものを別の観点からみているだけかもしれません。
身体の筋肉が無意識のうちに勝手に収縮してねじれたりしびれたりするのは、トラウマの際の耐えがたい苦痛から、その部分が「非自己」として切り離されてしまい、「自己」の意思とは別に、トラウマ記憶を延々と再現し続けている状態だとみなせます。
本文中で書いたように、解離とは内受容感覚を「非自己」とみなす反応だと考えられますが、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復によると、そもそも手続き記憶は内受容感覚によって構成されています。
この視床皮質、島皮質、前帯状皮質および内側前頭前皮質の回路は、内受容性の情報、つまり不随意の体内感覚を受け取り、錐体外路運動系を介して行動を準備する。
これがまさに、手続き記憶を構成している基礎構造である。(p105)
手続き記憶=内受容感覚の集合体、であるなら、結局のところ、本文中で説明した内容と、この補足で説明した内容は、まったく同じことを別の観点から説明しているにすぎない、ということになります。
脳科学的には「視床皮質、島皮質、前帯状皮質および内側前頭前皮質の回路」が、内受容感覚を手続き記憶へと構成すると書かれていますが、前回の記事で書いたように、この経路は「自己」と「非自己」の分類をしている場所でもあり、やはり同じシステムを異なる観点から表現しているにすぎないようです。
おそらく、本文中で書いている身体の「自己」と「非自己」を区別するための脳内地図(バーチャルボディ)といういう仕組みも、手続き記憶の空間的情報によって構成されているように思われます。
自分の体を動かすと、そのときに生じる空間や位置についての感覚が、手続き記憶(体の運動パターンに関する記憶)として保存されます。その手続き記憶をもとにして、どの部分が自分の体であるかを特定するのが、「自己」と「非自己」の区別なのでしょう。
解離するということは、特定の体の部分に対応する手続き記憶を「非自己」とみなして、体の所有権を手放してしまうことだとみなせます。
「非自己」とみなされた手続き記憶は、「自己」のコントロールが及ばなくなり、勝手に延々と再生されつづけます。所有権の失われた体は、この補足で説明したように、不随意のねじれやしびれや緊張などを慢性的に繰り返してしまうのです。
解離の研究では、さまざまな専門家が、それぞれの専門分野から考察を深めていますが、まったく別々のことを言っているようで、実は用語が着眼点が違っているだけのことが多いのではないでしょうか。
トラウマの原因不明の身体症状を、手続き記憶の観点から考察した説明については、こちらをご覧ください。